試論:「王」と「永遠の命」を140文字以内で

多くの人が黙示録20章の記述を誤解し、キリストと共に世を支配する「千年王国」を夢見たが、他方ヨハネ18章36節で主は御自分の王国(バシレイア)は世に属さないと確言された。「王」(マタイ25章34節)であるキリストと共に支配するとは、悪魔の罪と死による支配から自由になることである。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「真理は罪と悪と死から自由にする」も参照のこと。
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【追記】

黙示録20章やローマ5章は「悪に悪を返さない」ことを徹底して罪や悪と決別した人々を「バシレウオ(〔キリストとともに〕王となる)」という動詞で表すが、これはあくまで《義化の完成》を象徴する表現であり政治体制的な意味を含まず、彼らは「第二の死」を免れ「永遠の命」を得ると記されている。

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはヨハネ18章36節で、「わたしのバシレイアは、この世には属していない」と仰せになった。原文のギリシア語バシレイアは、聖書では「王権」「〔神の〕王国」を意味し、「王国の一人一人」まで包含する。黙示録1章6節でヨハネは、自分たちは既にその一部を構成していると書き記している。

(注)別エントリー「試論:バシレイア(=神の王国)を140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ23章40節以下で主の隣の十字架につけられた盗賊は最後に神への畏れを知り、自分の今の惨めな境遇は全て自業自得だが神には罪はなく神の御心に適う願いなら聞き入れられると確信し、自分の隣にいるのは神そのものであると信じて直接それを伝えた。彼の信仰告白に主は最大の幸福を御約束された。

(注)別エントリー「神に対する確信を140文字以内で」も参照のこと。
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「善い盗賊」はルカ23章で、「悪い盗賊」の罵りから主イエスを擁護し(40節)、自分のこれまでの悪事を素直に認める一方(41節)、主には悪いものは一つもないと宣言し(同節)、最後に、自分は主によって救われたいと真摯に希望した(42節)。主は「善い盗賊」に、永遠の幸福を御約束された。

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
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放蕩息子のたとえでは父親はしもべたちに、帰って来た息子の手に指輪をはめるよう指示するが、エステル記3章10節以下に王権の委任を象徴する印章として指輪が登場する。放蕩息子のたとえでは相続人の権利回復の象徴で、人が本当に悔い改めるならば、神は全面的にその人に対する信頼を取り戻される。

マタイ25章34節「御父に祝福された人々よ、天地創造の時からあなたたちのために準備されていた王国を受け継ぎなさい」黙示録21章7節「勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ」ヘブライ6章12節「怠け者とならず信仰と忍耐によって、約束されたものを受け継ぐ人々に倣う者となってほしい」。

(注)別エントリー「試論:『王国を受け継ぐ者たち』を140文字以内で」も参照のこと。
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