試論:「まず他人を責める人々」を140文字以内で

主イエスはルカ18章の「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえで、神の御前に出た時に、人間は「まず他人を責める人」「まず自分を責める人」の二種類に分かれ、神は「まず自分を責める人」を「義」とされるが、「まず他人を責める人」については、そのようにはされることなどない、とお教えになった。

(注)別エントリー「ファリサイ派の人と徴税人」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5182

【追記】

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちは、自分が他の人からしてほしいことを、自分から他の人にしなさい」と《愛の掟》を教えられた。従って「愛の反対」は「他の人からしてほしくないことをあえて他の人に行うこと」そして「他の人からしてほしいことをあえて他の人には行わないこと」からなる。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

レビ19章18節は有名な隣人愛の掟を教えるが、その対極の行為として17節は兄弟を心の中で憎むことを禁じる。ゼカリヤ7章10節は互いに災いを心の中で企むこと、8章17節は互いに心の中で悪を企むことを禁じ、相手の困った顔・悲しむ顔・苦しむ顔を見たいという悪意を抱いてはならぬと戒める。

ローマ13章10節でパウロは「愛とは隣人に対して悪事を行わないことです」と断言している。これを踏まえるなら、隣人に対して悪事を行おうと企むことこそが愛の反対に該当する行為ということになる。同9節は「姦淫するな、殺すな、盗むな、貪るな(他人の物の横取りを企むな)」等を列挙している。