試論:ルカ2章35節を140文字以内で

古代のイスラエル人は《鋭く人間に迫り心に刺さる言葉〔の力〕》を「剣」にたとえた(詩編55編22(21)節等)。この比喩を踏まえ、主イエスも「剣をもたらすために来た」(マタイ10章34節)と仰せになり、ルカ2章35節でも母マリアにシメオンが、この比喩を用いて御受難について預言した。

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

ヨハネ19章は、ゴルゴタの主の十字架の傍らに聖母がおられたと記すが、聖母の内面がどのようであったかについては全く記述がない。しかしルカ2章35節はシメオンの預言として、「多くの人の心にある思い(34節の「逆らい」)があらわになるため、あなた自身も剣で心を刺しつらぬかれる」と記す。

(注)別エントリー「試論:『神の母であること』を140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ2章に登場するシメオンは、幼子イエスを抱きながら、マリアとヨセフの前で「万民のために整えてくださった救い」「異邦人を照らす啓示の光」と 神を称えてイエスによってイザヤ9章1節の預言が成就することを語り、母マリアの苦しみ(ルカ2章35節)に関しても、シメオンは聖霊によって語った。

黙示録19章の白馬の騎手は「真実」(11節。ヨハネ3章33節参照)と呼ばれ、剣で戦われるが、この剣は口から放たれる(黙示録19章15節、同1章16節)。相手に鋭く迫り心に刺さる言葉をヘブライ人は剣に喩えた(詩編55編、ルカ2章35節)。マタイ10章34節「わたしは剣をもたらす」。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ3章の『真実』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ3章33節は主イエスを「真実(=真理である方)」と呼び、黙示録3章14節は主イエスを「アーメンである方」「誠実」「真実」等と呼ぶ。黙示録では19章11節の「白馬の騎手」が「誠実」「真実」と呼ばれ、同章13節は「神の御言葉」16節は「王の王、主の主」と、「白馬の騎手」を呼ぶ。

(注)別エントリー「試論:『アーメン』と『まこと』を140文字以内で」も参照のこと。
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イザヤ49章2節はイエス・キリストを彷彿とさせる「主の僕(しもべ)」の姿に関し、「わたしの口を鋭い剣として」と預言し、50章4節ではさらに、「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え言葉を呼び覚ましてくださる」と続け、この「主の僕」が語る言葉を「鋭い剣」にたとえて預言をしている。

(注)別エントリー「試論:イザヤの預言と主の御受難を140文字以内で」も参照のこと。
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黙示録1章16節に「口から出る鋭い剣」という記述がある。一世紀後半のユダヤ人キリスト教徒は即座にイザヤ49章2節の類似の記述を連想し、「剣」が「言葉」(イザヤ50章4節)の比喩であると思い至ったはずである。安息日ごとに会堂で、必ずいずれかの預言書が朗読されることが定められていた。

主はマタイ10章34節で自分は剣をもたらすために来たと仰せになったが、剣は詩編55編22(21)節では「鋭く人間に迫り心に突き刺さる言葉」の比喩である。57編5(4)節や59編8(7)節も同様の比喩を用い、エフェソ6章17節では神の御言葉それ自体を「〔聖〕霊の剣」にたとえている。

(注)別エントリー「試論:『御言葉は剣(つるぎ)』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ10章34節で、自分は「剣(つるぎ)」を投ずるために来たと仰せになった。剣とは分断(ルカ12章51節)を行う象徴で、この「分断」の究極の意味はマタイ25章32節以下で説明されている。剣を用いた争い事を主が奨励されたわけではないことは同26章52節の御言葉から当然である。

古代のヘブライ人は《鋭く人間に迫り心に突き刺さる言葉》を「剣」にたとえた(ルカ2章35節等)。ならば当然、黙示録1章7節「彼を突き刺した者ども」は、実際には、「彼に激越な言葉を浴びせ情け容赦ない悪口で攻撃した者ども」を意味する。同節「地」はエゼキエル7章2節「地」とは同様である。

主は「火」「剣」を人々にもたらすと仰せになったが、両者とも御言葉の比喩である。御言葉は心を燃やし(ルカ24章32節)心に刺さる(詩編55編22(21)節等参照。エフェソ6章17節)。黙示録も1章16節等で御言葉を剣に喩え11章5節では御言葉を火に喩えた(エレミヤ5章14節参照)。

(注)別エントリー「試論:『わたしは地上に火を〜』を140文字以内で」も参照のこと。
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旧約聖書では心に刺さる言葉の比喩として「剣」の他に、「矢」も登場する。この両者の違いは、「剣」は心に刺さるというニュアンス以外に分断をも意味し、一方の「矢」は同じ言葉でも「毒を含む言葉」(詩編64編4(3)節)を表現し、箴言26章18節「死の矢」のように実際の殺傷性の高さも表す。