試論:「パンの奇跡」の意味を140文字以内で

【問】主イエスはなぜパンを増やす奇跡を行われたのですか?
【答】ヨハネ1章は《御子である神、主イエス》を「言」つまり《人々に御言葉を話される神》と呼びますが、3節では「万物は言によって成った」つまり主イエスこそ万物の創造主と説きます。パンの奇跡とは天地創造の部分的再現また継続です。

(注)別エントリー「試論:『初めに言があった』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

旧約の民は天地創造の七日目に主が休まれたことを記念し、週の七日目の土曜日を安息日とした。キリスト教では、主イエスの《復活の体》の創造つまり主の御復活が安息日の翌朝の出来事であることを記念し、土曜日の翌日の日曜日を《主の日》として信者が集うべき日と定め、パンの奇跡の再現の日とする。

(注)別エントリー「試論:『土曜と日曜』を140文字以内で」も参照のこと。
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主は山上の説教で「神の義に飢え渇く人は幸い。その人は満たされる」と仰せになった。その理由はヨハネ6章35節で説明される。「わたしは命のパンである。わたしの許に来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」同7章37節「渇く人は、わたしの許で飲みなさい」。

主イエスはマタイ6章で「主の祈り」を教えられた。11節「わたしたちの日ごとの糧」の「糧」とヨハネ6章35節の「わたしは命のパン」の「パン」とは原文のギリシア語では同じで、古代のギリシア語訳イザヤ55章10節「糧」も同じだが同節で「糧」は「主の御言葉」(ヨハネ1章1節参照)を指す。

エレミヤ5章14節は主の御言葉を「火」に喩え、これを踏まえられ主イエスはルカ12章49節で「わたしは地上に火を投ずる」と仰せになった。他方イザヤ55章10節は主の御言葉を「糧」に喩えるが、ならばマタイ6章11節「わたしたちの日ごとの糧」の「糧」も、やはり主の御言葉を暗示している。

(注)別エントリー「試論:『イエスの御言葉こそ糧』140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ6章27節「人の子は、あなたたちに永遠の命へと至る食べ物を与える」35節「わたしがその命のパンである」イザヤ55章2節〜3節「わたしに聞き従うならば、あなたたちは良いものを豊富に享受するだろう。あなたたちはわたしの許に来て、それに耳を傾けて聞き従い、魂に命を得させなさい」。

ヨハネ6章51節「わたしが与えるパンとは世を生かすための、わたしの肉のことである」同33節「神のパンは天から降(くだ)って来て世に命を与える」マルコ14章22節「これはわたしの体である」申命記8章3節「人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出る、全ての御言葉によって生きる」。

主はヨハネ6章27節で御自分の仰せになる《神の御言葉》を「永遠の命に至る食べ物」にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「永遠の命にあずかる」と「天の国を受け継ぐ」は同義だが、御言葉を日々味わうことによって人は天の国を受け継ぐにふさわしい存在へと少しずつ霊的に成長するからである。

ヨハネ6章27節「あなたたちは、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」32節「わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる」33節「神からのパンは、天から下って来て人間世界に命を与える」35節「わたしこそが、その命のパンである。わたしの許に来る者は、飢えることが決してない」。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』到来の目的を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10216