【問】主の御降誕(日中)で詩編98編が歌われる理由は?
【答】1節は「神の右手」や「神の腕」を「救いの力」と呼びますが、人々を罪から救うために主イエスは人となられ(マタイ1章21節)、一コリント1章24節はキリストを「神の力」と呼びます。従ってキリストは《神の右手》《神の腕》です。
(注)別エントリー「《御父》と《御子》との関係性」も参照のこと。
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【追記】
一コリントはキリストに関連する文脈で「神の力」という表現を三度用い(1章18節、24節、2章5節)、詩編118編15節と16節は「主の右の手は御力を示す」と歌う。また主御自身がマタイ11章19節で「知恵」を自称された上で「知恵の正しさは、その業によって証明される」と仰せになった。
(注)別エントリー「試論:『知恵』としての主イエスを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『知恵』を自称された理由を140文字以内で」も参照のこと。
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俗世間ですら例えば「父親の事業を長男が右腕となって助ける」とはしばしば用いられる表現で、まして《御父である神、主》を《御子である神、主イエス・キリスト》が「腕」となり「右手」となって助け御計画を実現されるというのはなおさらである。御父と御子の間には矛盾・対立・齟齬の類は一切ない。
ニケア・コンスタンチノープル信条「父と一体」はヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」と38節に拠り、御父と御子の間には矛盾・対立・齟齬の類は一切ないことを表す。ギリシア神話では最高神ゼウスと父クロノス、クロノスと父ウーラノスの父子相剋が存在するが、キリスト教には全く存在しない。
主はヨハネ10章30節で「わたしと父とは一つ」と仰せになった後、17章では弟子たちのために天を仰いで祈られたが、それは御父と御自分が「一つ」であるように、弟子たちもまた「一つ」となるためであった(11節、21節〜23節)。使徒言行録4章32節「信じた人々の群れは心も思いも一つ」。
主はマタイ11章27節で、全てのことは御父から御自分に任せられていると仰せになった。これは、既にダニエル7章13節以下で啓示された事柄であり、マタイ28章18節やルカ10章22節やヨハネ3章35節や同13章3節等、福音書では事ある毎に強調される「真理(ヨハネ14章6節)」である。
(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書のアレテイアを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
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《御父である神、主》と《御子である神、主イエス》とは、詩編110編1節では御父は「主」、御子は「わが主」でありマルコ12章36節で御父は「主」、御子はダビデの言う「わたしの主」である。ヨハネ1章1節では御父は「神」、御子は「言(ことば)」であり、「言は神であった」と記されている。
(注)別エントリー「試論:「わたしの主」は誰?を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
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