ヨハネ1章1節の「言(ことば)」いわゆる《神の御言葉》とは《御自分で御言葉をお話しになる神》つまり御子である神、主イエス・キリストを意味する。「言(ことば)は神とともにあった」とは、天地創造以前の「初め」から、御子である神は御父である神とともに存在しておられた、ということである。
(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844
(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250
(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846
【追記】
イザヤ9章5(6)節は救い主が「みどりご」「男の子」として世に来られると預言するが、同節は救い主を「永遠の父」と呼ぶ。同63章16節は主を「わたしたちの父」と呼ぶが、ヨハネ1章1節「初めに言があった」とは、《救い主である御子は天地創造以前から御父とともに存在されていた》、である。
(注)別エントリー「『完全な神』が『完全な人間』を担われた」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21196
【問】主イエスは《完全な神》が《完全な人間》を担われたということですが、主イエスとは信者から見てどんな存在ですか?
【答】主は「わたしたちの父」(イザヤ63章16節)なので神としての主は「父」、人間イエスは「兄弟」(マタイ28章10節)つまり、「長兄」(ローマ8章29節参照)です。
【問】《神の御言葉》主イエスが人間になったとは、《神が人間を担われ(引き受けられ)た》と解釈すべきということですが、それでは、主イエスから見た人類とは、何になりますか?
【答】神の立場では「子」(マタイ9章2節)、人間の立場では(特に相手が信者なら)「兄弟」(同28章10節)です。