【問】キリスト教の始まりと同時に、モーセの律法も終わりましたか?
【答】律法の時代は「天地(=神殿の聖所。詩編78編69節)が消え失せるまで」(マタイ5章18節)、つまりエルサレム神殿が滅亡する紀元七〇年まで続きました。その間の約四十年間は、旧約から新約への過渡期、移行期間でした。
【追記】
ルカ2章39節は「親子は、主の律法の定めを全て終えた」と記す。マリアとヨセフが「この子は神の御独り子で、イスラエルの民が長らく待ち望んでいた、救い主なのだから」と特別扱いを要求することなど全くなかったと、これで分かる。しかるべき時期が来るまで、救い主は普通の人間として過ごされた。
使徒言行録21章はエルサレムのユダヤ人キリスト教徒が、神殿に関連して「誓願」「清めの式」「頭をそる」「清めの期間」「供え物」等を実行していたと記すが、これは民数記6章のナジル人の誓願で、主の御受難から三十年近く経ってもユダヤ人キリスト教徒にとって、モーセの律法は、まだ生きていた。
ユダヤ人キリスト教徒がモーセの律法と訣別することになるのは、紀元六六年にユダヤ人がローマに大反乱を起こし、来襲したローマ軍にエルサレムが第一回目の包囲を受けた後である。ルカ21章20節「エルサレムが軍隊に包囲されたら滅亡が近いと悟れ」に従いユダヤ人キリスト教徒たちは都を退去した。
主イエスはマタイ24章15節以下で「憎むべき破壊者が聖なる場所に立つのを見たら、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい」と仰せになり、三十数年後、大祭司が惨殺された後に独裁者となったギスカラのヨハネは神殿の聖所に侵入し、配下の者たちは都で虐殺や略奪や婦女暴行など、暴虐の限りを尽くした。
主はマタイ5章18節で、全てのことが実現し天地が消え失せるまで律法の時代が続くことを仰せになった。ルカ21章22節では、エルサレム滅亡(20節)の日を「書かれていることが完全に実現する報復の日」と仰せになり、エルサレムと神殿の滅亡(紀元七〇年)で律法の時代が終わると宣言なさった。
「天地が消え去る」の「天」とは、神がお住まいになる場所と見なされたエルサレム神殿とりわけその聖所を指し、二ペトロ3章はその滅亡が近いことを説く。「地」はエゼキエル7章2節同様、イスラエルの地を指す。紀元七〇年にエルサレムと神殿は滅亡しユダヤ(イスラエル人の国家)も同じく消滅した。
二ペトロ3章10節は「主の日」において「天は激しい音を立てながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に熔解し尽くす」と予告した。数年後の紀元七〇年、神が住まわれると見なされて、「天」と同一視されていたエルサレムの神殿は、都の滅亡の際ローマ帝国軍によって火を放たれ、大音響と共に焼け滅びた。
主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。
ルカ21章22節には「書かれていること」という言い回しが用いられているが、これはヨシュア記1章8節と同様に、「預言された事柄」「神から啓示された内容」などを意味する表現である。古代においては「書く(書いて記録に残しておく)」という行為それ自体が、非常に重要な意味を持つものだった。