試論:「旧約聖書とカトリック」を140文字以内で

【問】カトリックが近代まで一般信者に旧約聖書を読ませることに消極的だったのはなぜですか?
【答】主イエスが世に来られる前と後とでは信仰の規範となる事柄が違っているのに、十分それを理解せぬまま「旧約聖書に書かれていることなら全て正しい」と真似を始めるうっかり者が出るのを防ぐためです。

【追記】

【問】では、旧約聖書に書かれていることで現代のキリスト信者が真似しなくてもいいこととは何ですか?
【答】例えば一夫多妻制、豚肉食禁止、割礼、エルサレム神殿の建設、十分の一の献(ささ)げ物やいけにえ、預言者への従順、〔日曜日の方ではなく〕土曜日(旧約の安息日)を尊重すること、等です。

(注)別エントリー「試論:『安息日と主日との違い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12017

(注)別エントリー「試論:『土曜と日曜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12677

【問】旧約の「十分の一の献げ物」の替わりが現代の「十分の一献金」ですか?
【答】いいえ。ヘブライ10章5節以下は、旧約時代の全てのいけにえや献げ物の類に替わるものとして主イエス・キリストが御自分の体を十字架上で献げられたと教えます。「十分の一献金」は蛇の絵に足を描くような行為です。

(注)別エントリー「試論:『十分の一献金』の問題点を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12207

旧約時代には申命記18章15節以下の律法の通り、神が立てられた預言者には聞き従わなければならなかった。しかし使徒言行録21章でパウロは、アガボやフィリポの四人の娘など「預言」を行う人々の制止を振り切り、エルサレムへと出発した。新約時代には旧約時代と同じ立場の預言者など存在しない。

旧約の律法では王や大祭司も預言者に従う定めがあったがダニエル9章24節は「預言を封印するメシア」を預言し、ルカ21章22節の主の御言葉と紀元七〇年のエルサレム滅亡で、その預言は成就した。その後も当然「私的啓示」は続くが、決してそれらを旧約時代の「預言」と同じ扱いにしてはならない。

(注)別エントリー「試論:旧約時代の終わりはいつ?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21657

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

ルカ21章22節には「書かれていること」という言い回しが用いられているが、これはヨシュア記1章8節と同様に、「預言された事柄」「神から啓示された内容」などを意味する表現である。古代においては「書く(書いて記録に残しておく)」という行為それ自体が、非常に重要な意味を持つものだった。