聖家族

主イエスは神であり続けながら人間の肉体と魂を担い(ヨハネ1章14節)、割礼から神殿税まで人間の義務も全て担われた。両親に従う義務も当然担われた(ルカ2章51節、マタイ20章28節)。人へ模範を示されるため主は人となられたのだから、主が母親を軽視されたと考えることは道理に合わない。

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『イエスは全人類の模範』を140文字以内で」も参照のこと。
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イザヤ9章5(6)節は、神の御独り子である方が「みどりご」としてお生まれになることを預言する。ルカ11章28節の通り古代の人々は「救い主の母」となる女性の幸いをよく知っていた。しかしその重責と、「救い主の養父」となる男性の重責については、そこまで思い至る人は皆無にほぼ等しかった。

(注)別エントリー「試論:『女』と『竜』の対立を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「創世記3章15節:蛇の頭を踏み砕く者は誰か」も参照のこと。
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主イエス・キリストが「聖」であることはキリスト教の信者ならば無条件に肯定できる。母マリアが主を胎内に宿すに相応しい女性であったことも想像に難くない。イエスとマリアに相応しい人物であり続けるために、ヨセフが生涯を通じてたゆまぬ努力を怠らなかったことこそ、「聖家族」の真の意味である。

人類の歴史上マリアとヨセフの二人以外の全ての人間はただ神に自分の身を守っていただくばかりだったが、マリアとヨセフの二人だけはむしろ自分たち自身こそが、具体的な日々の行動をもって神そのものであられる「自分たちの子」主イエスをお守りすることに、何年も何十年も日々、身も心も砕き続けた。

(注)別エントリー「試論:聖母マリアってどんな方?を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「予備的考察:聖母崇敬そして聖ヨセフ崇敬の起源とは」も参照のこと。
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ガラテヤ5章では「聖霊の結ぶ実」として神の御独り子の母の内面に関連する《愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制》を説く。他方、コロサイ3章では「礼服」(マタイ22章)という比喩を踏まえ、「義人」ヨセフの「義」に関連する《憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛》を説く。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:マタイ22章『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「聖家族はどのような雰囲気の中で暮らしていたのか」も参照のこと。
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【問】カトリックでは、マリアとヨセフは一度も「ともに寝る」ことなく終生童貞であったと説きますが、二人はなぜそうしたのですか?【答】古代のイスラエルで最も重要な掟である申命記6章5節に鑑み、幼子だった主イエス・キリストの御養育を二人が最優先としたためです(ガラテヤ5章24節参照)。

(注)別エントリー「試論:『聖ヨセフの唯一の願い』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:聖母と聖ヨセフの終生童貞を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「聖母と聖ヨセフが終生童貞である理由」も参照のこと。
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(注)別エントリー「イエスの『兄弟』『姉妹』:同胞か親戚か」も参照のこと。
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カトリックではナザレの聖家族は三人と教える。主の養父ヨセフは終生、息子と妻の望むことだけを行い、三人家族の三番目であるかのように振舞い後世の人々からもそう思われた。世の男性たちが子供たちや女性たちを平然と虐待する、毒々しい時代が来る時、ヨセフの存在は強力な解毒剤として働くだろう。

(注)別エントリー「試論:『永遠の命を得るには?』を140文字以内で」も参照のこと。
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「神の家」で主に奉仕する女性が男性と「ともに寝る」ことは、主に対して罪を犯す悪事であった(サムエル記上2章22節〜25節)。それゆえに当然、真の意味での「神の家」である主イエスのお住まいの「主のはしため」(ルカ1章38節、48節)マリアは、夫ヨセフと「ともに寝る」ことがなかった。

(注)別エントリー「試論:『聖別』と聖母の終生童貞を140文字以内で」も参照のこと。
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旧約の民にとって神なる主は「わたしたちの父」(イザヤ63章16節)だが、救い主(8節)がお生まれになり(9章5(6)節)、民の「永遠の父」である方は「みどりご」として来られた。養父とはいえ人間が「父」となるなどヨセフにとって太陽が西から昇るどころではなかったが彼は責務を全うした。

(注)別エントリー「試論:『神の養父』を140文字以内で」も参照のこと。
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現代において、建前上は幼子や女性の尊重が謳われる。しかし同時に、欲望の追求も無制限に肯定される風潮のため実際には幼子や女性が犠牲になる事件も後を絶たない。神は「義人」ヨセフの姿を通して、「神の義」とは幼子や女性を優先して自分を後回しにすることであると、全ての時代の人々に示された。

(注)別エントリー「試論:聖ヨセフの模範を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ12章25節は「この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命を得る」と主の仰せを記す。古代のヘブライ人は「〜を二の次にする」と言いたい時にも、「〜を憎む」という表現を用いた。主の養父ヨセフはヘロデが幼子の命を狙った時も、自分の命を二の次にして幼子と幼子の母を守り続けた。

(注)別エントリー「試論:最後の審判とディカイオスを140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ6章33節で、まず神の国と神の義(ディカイオシュネー)を求めるよう教えられた。1章19節はヨセフを義人(ディカイオス)と呼ぶが、この語は神の義を体現する人を指す。相手が幼子や女性だからといって馬鹿にした態度を取る男性もいるが、その点、ヨセフに関しては心配する必要がない。

(注)別エントリー「聖ヨセフ:ディカイオスを旧約聖書で考察」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『ディカイオス』聖ヨセフを140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ福音書は後世への教訓に、最初の二つの章で主の養父ヨセフを模範として掲載した。ヨセフは忍耐強く、情け深く、自慢せず、高ぶらず、礼を失わず、自分の利益を求めず、恨みを抱かず、苛立たず、不義を喜ばず、真理を喜んだ。イエスとマリアのために、全てのことを忍び、確信し、待望し、耐えた。

マタイ1章19節は主の養父ヨセフを義人と呼び、エゼキエル18章6節では義人の条件の一つに生理中の女性に近づかないと挙げる。女性特有の心身の辛さに配慮し、女性に余分な負担を加えぬよう自分を律することができる男性こそ義人である。女性を蔑まずリスペクトの対象にできる男性こそ義人である。

マタイ1章19節は主の養父ヨセフを「正しい人(ディカイオス)」と表現する。25章の「最後の審判」におけるディカイオスは、隣人が何らかの助けを必要としている時に、必要とされている助けを提供して困り事を解決する人を指し、ヨセフはイエスとマリアが本当に必要としていることだけを実行した。

(注)別エントリー「試論:マリアとヨセフに倣う事柄を140文字以内で」も参照のこと。
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マリアの妊娠にヨセフが微塵でも不満を抱き続けていたなら、彼はエジプトに逃げる途中の荒れ野で、「預言者エリヤも任務を捨てて逃げたがそれでも天使はエリヤを励ました。あなたの産んだ子が神の子なら、天使があなたたちを助けてくれるはずだ」と母子を置き去りにしただろうが、彼はそうしなかった。

(注)別エントリー「試論:『義人は意地悪をしない』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:預言者エリヤと義人ヨセフを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:エリヤとヨセフを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『養父ヨセフこそ理想像』を140文字以内で」も参照のこと。
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