使徒言行録7章57節はステファノの言葉に敵たちが自分の耳をふさいだと記す。詩編58編では「耳をふさぐ」(5(4)節)は、神に逆らう者(4(3)節)の象徴的仕草で、敵たちは、自分の良心がステファノこそ神の証人だと「見た(悟った)」(黙示録11章12節)にもかかわらずこれを拒絶した。
マタイ13章で主はたとえで話す理由を御説明されたが、「目で見る」「耳で聞く」という表現も「御教え(御言葉)を悟る」「心で理解する」ことの比喩で、それは「悔い改め」に導く。忠実な弟子に主は特別な「耳」(理解力)を与えるとイザヤ50章4節は預言し、理解力と悔い改めとは表裏一体である。
(注)別エントリー「試論:聞くだけの人を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:聞いても実行しない人を140文字以内で」も参照のこと。
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旧約であれ新約であれ聖書で「見る」という表現が用いられる場合、単に「目で見る」ばかりではなく、「心で悟る」「理解する」等も含む。マタイ24章30節「地上の全ての民は人の子が天の雲に乗って来るのを見るであろう」は、黙示録6章17節「神と小羊の怒りの大いなる日が来た」に対応している。
(注)別エントリー「イエス・キリストと天の雲」も参照のこと。
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(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
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マタイ5章44節「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」ルカ23章34節「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分たちが何をしているのか、分かっていないのです」使徒言行録7章60節「ステファノはひざまずいて、『主よ、この罪を、彼らに負わせないでください』と大声で叫んだ」。
ルカ23章34節の主イエスの御言葉「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは自分が何をしているのか分かっていないのです」と類似の事柄を数年後、使徒言行録7章60節でステファノが殉教の際に口にした。さらにその二十数年後エルサレム監督である「主の兄弟」ヤコブが殉教の際、類似の事柄を口にした。
二コリント12章7節でパウロは、自分が高慢にならぬように神はサタンからの使いが付きまとうことを認められたと記す。サタンがパウロを苦しめた方法は想像に難くなく、「お前は忠実な弟子を気取ってるが、元はステファノの殺害に賛成していた男だし、ダマスコ行きの目的も迫害のためだっただろ?」。
ペトロは第一の手紙の冒頭で「離散して仮住まい」の人々に挨拶する。新約聖書で離散を意味するギリシア語は、ステファノ殉教後に信者たちがユダヤを追われて各地に追い散らされたことを意味する。主イエスのエルサレム滅亡の予告に従い信者の多くはユダヤへ戻らず各地で「からし種」の役割を果たした。
一ペトロ1章1節は、「離散」つまりステファノ殉教後の大迫害で散って行った(使徒言行録8章1節)エルサレム教会の信者の避難先としてアジア州を 挙げる。主の御降誕の約四十年前カエサルは、ユダヤ人が固有の慣習を保持しながら不利なく市民生活を送れる権利を、エフェソ等の諸都市で保障していた。
キリストの教えを敵視する者たちは使徒言行録6章13節で「この男は、この聖なる場所と律法をけなす」と人々にステファノを告発させた。主イエスはマタイ5章18節で天地が消え失せる時にモーセの律法の時代も終わると示唆された。「天地」とはエルサレム神殿の聖所(詩編78編69節参照)を指す。
古代のヘブライ人は詩編78編69節の通り、エルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。これを踏まえれば主イエスのマルコ13章31節の仰せ「やがて天地は滅びるであろうが、わたしの言葉は決して滅びない」の意味は、「エルサレムと神殿の滅亡後も、わたしの教えと信仰は生き続ける」である。
(注)別エントリー「試論:『主の日』エルサレム滅亡を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ5章18節で、全てのことが実現して天地が消え失せるまではモーセの律法も消え失せないと仰せになり、ルカ21章22節ではエルサレム滅亡で預言が全て実現すると予告され、紀元七〇年にそれは成就した。詩編78編69節の通りヘブライ人はエルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。
(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
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ルカ21章22節には「書かれていること」という言い回しが用いられているが、これはヨシュア記1章8節と同様に、「預言された事柄」「神から啓示された内容」などを意味する表現である。古代においては「書く(書いて記録に残しておく)」という行為それ自体が、非常に重要な意味を持つものだった。
主はマタイ5章18節で、全てのことが実現し天地が消え失せるまで律法の時代が続くことを仰せになった。ルカ21章22節では、エルサレム滅亡(20節)の日を「書かれていることが完全に実現する報復の日」と仰せになり、エルサレムと神殿の滅亡(紀元七〇年)で律法の時代が終わると宣言なさった。
「天地が消え去る」の「天」とは、神がお住まいになる場所と見なされたエルサレム神殿とりわけその聖所を指し、二ペトロ3章はその滅亡が近いことを説く。「地」はエゼキエル7章2節同様、イスラエルの地を指す。紀元七〇年にエルサレムと神殿は滅亡しユダヤ(イスラエル人の国家)も同じく消滅した。
二ペトロ3章10節は「主の日」において「天は激しい音を立てながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に熔解し尽くす」と予告した。数年後の紀元七〇年、神が住まわれると見なされて、「天」と同一視されていたエルサレムの神殿は、都の滅亡の際ローマ帝国軍によって火を放たれ、大音響と共に焼け滅びた。
主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。
ルカ21章22節において、主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると明言されており、それは紀元七〇年に現実のこととなった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代や近未来の世界情勢に関して旧約聖書の預言から考える行為は、不毛である。
(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
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ダニエル書9章では神殿とエルサレムの復興を強く願うダニエルの祈りに応えて、都と神殿の再建さらには救い主の到来までも約束されたが、救い主が不当に殺された後、モーセの律法を蹂躙する集団が神殿の聖所を占拠し、そして次に来る指導者の民が、都と神殿を無法集団もろとも、滅ぼし尽くして終わる。
(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
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ルカ17章34節から35節で主は「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」と繰り返されたが、では一体どこに「連れて行かれ」るのかを、ルカ21章24節では「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と御説明された。これは大昔モーセがレビ記26章33節以下で預言していた話と同じである。
紀元七〇年のエルサレム滅亡時にローマ軍へ投降したユダヤ人のうち、使徒言行録22章のパウロのようにローマの市民権を持つ者はローマ法の保護下にあるため留め置かれたが、そうでない者は妻子と共に奴隷とされて売り飛ばされた。こうして「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」は現実となった。
(注)別エントリー「試論:『滅びを避けるには』を140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ21章32節で主は「全てのことが起こるまではこの時代は決して滅びない」と仰せになったが、「時代」に当たる原文の単語ゲネアは古代のギリシア語詩編94(95)編10節の「世代」にも用いられ、詩編のこの節ではゲネアを四十年とする。実際この主の仰せからおおよそ四十年後に都は滅亡した。
(注)別エントリー「試論:『今の時代』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『人心荒廃は滅亡の前兆』を140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ19章で、主はエルサレムのために泣かれた。確かに主の予告の通り、約四十年後に都は滅亡した。だが同じ都は数日後に主御自身を殺す都でもあった。それでも主は、ヨナ書で神がニネベを惜しまれた以上に、エルサレムのために泣かれた。エルサレムが決して自分の非を認めようとはしないためである。
(注)別エントリー「試論:『滅びを避けるには』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:エゼキエル18章を140文字以内で」も参照のこと。
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