主イエスはルカ6章27節で「敵を愛(尊重)し、あなたたちを憎む者に親切にしなさい」と仰せになった。サムエル上26章ではダビデを殺そうと布陣したサウル王に対し、夜間ダビデはサウルの幕営に潜入し横になって眠り込んでいたサウルを殺そうと思えば殺せたが、ただ槍と水差しだけを奪って去った。
【追記】
主イエスは敵を愛するよう命じられたが、それはモーセの律法にも存在した。出エジプト23章4節〜5節「あなたの敵の牛やろばがさまよっているのを見たなら、その家畜を敵のところへ帰してやりなさい。あなたを憎む者のろばが重荷の下敷きになっているのを見たなら、その者と共にろばを助けなさい」。
主はマタイ5章44節で「敵を愛する」ように教えられたが、のちに具体例としてルカ10章30節以下で「善きサマリア人のたとえ」をお話しになった。このたとえは、当時ユダヤ人とサマリア人とが実際には、交流すら避けるほど不仲の間柄であった(ヨハネ4章9節等参照)という状況を前提にしている。
(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4544
一人の律法学者は自分を「義化」(ルカ10章29節)しようとして(「義人」(マタイ1章19節)とするために)、隣人愛(ルカ10章27節)に関して、主に、踏み込んだ質問を行なった。主は、憐れみの心(33節)と「神の義」と隣人愛と永遠の命(25節)は事実上重なっているとお教えになった。
(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008
マタイ5章43節で主は、「『隣人を愛し、敵を憎め』と教えられている。しかし、〜」と仰せになった。隣人愛の掟はレビ19章18節に由来する。「敵を憎め」の方の由来は「主よ、あなたを憎む者をわたしも敵とみなし憎む。敵に屈しはせず、とことんわたしも憎む」(詩編139編21節以下)である。
ダビデは詩編139編21節〜22節で「敵」を憎むことを神なる主に誓ったが、この場合「敵」とは「あなたを憎む者」すなわちサタン(悪魔)である。一方、主イエス・キリストが「敵」を愛することをお勧めになる時、その場合「敵」とは「悪人」(マタイ5章39節、45節)すなわち同じ人間を指す。
主はマタイ5章39節で、悪人に「対抗」(ルカ21章15節)してはならないと仰せになった。原文のギリシア語は「全面的に対抗する」「徹底的に応戦する」というニュアンスであり、それも含めてマタイ5章で主は早期の和解を勧められ、同じギリシア語で悪魔への「対抗」をヤコブ4章7節では勧める。
マタイ5章39節の原文の表現を調べると、主が禁じたのは悪人と同じ次元(行為や目的)の報復や応戦であり、逃れる手段があれば用いてもよく(ヨハネ8章59節)言説による反論もよい(同18章23節)。もちろん女性が暴行から逃れる目的で男性に抵抗するのもよい(同じ目的の応戦に該当しない)。
主はマタイ5章39節で悪人に手向かってはならないと仰せになったが、主がここで禁じられたのは<悪人と同じ次元の争い事>つまり、悪人と同じ手段で報復を行い自分も悪事に手を染めることだった。38節で「目には目、歯には歯」に言及されたのはそのためで、報復の連鎖に陥らぬよう主は戒められた。
ヨハネ18章で主が逮捕されて大祭司のもとで尋問を受けた際、「返事の仕方」のことで大祭司の「下役」に難癖をつけられ、主は平手打ちを受けた。もちろん主は不当な暴力に対して暴力で返すことなどなさらなかった(マタイ5章39節参照)が、不当な言い掛かりに対して主張すべき事柄は主張なさった。
モーセの律法には「目には目」という表現が登場するが、これはあくまで公的な裁判における刑罰の基準を示すものであって、その目的はイスラエルの民に悪事が蔓延するのを防ぐ(申命記19章19節以下)ためであり、私的な復讐の基準ではなく元来、復讐は律法で許されていない(レビ記19章18節)。
主はマタイ5章39節で「悪人に対抗してはならない」と仰せになり、悪人と真っ正面からまともにぶつかって、やり合ってはならないと教えられた。これは箴言22章3節「思慮深い人は悪事を察知すれば避けようとするが、あさはかな人はそのまま突っ込んで行き災難に遭う」を再確認する御教えでもある。