神と罪人

ヨハネ9章31節には「神は罪人の言うことなどお聞きにならないとわたしたちは承知している」という言葉が記されてはいる。罪人が良からぬ企みを実行する前に成功を神に願い求めても、神が聞き入れるわけがないが、罪人が罪人であることを止めて回心したいと神に願う時は、神は喜んで聞き入れられる。

(注)別エントリー「試論:『聞き入れられる願い事』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18477

【問】神は人間の不幸を望んでおられますか?
【答】いいえ、断じて望んでおられません。間違った終末思想に陥り始めると「望んでおられる」などと錯覚するのでしょうが、神なる主はエゼキエル18章で「あなたたちは〔わたしに〕立ち帰って、生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」と仰せになっています。

【問】主イエスはルカ15章「放蕩息子」の喩えで、弟子たちに何を教えようとされたのですか?
【答】イザヤ55章7節「神に従わない者はその道(=流儀)を捨てよ。悪を行う者はその悪巧みを捨てよ。わたしたちの神なる主に立ち帰るならば、主はどこまでも憐れんで下さり、どこまでも赦して下さる」。

(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3277

キリスト教の歴史上「救われる者と救われない者とは神に予め定められている」という主張が存在したが、ならば神はなぜエゼキエル18章32節で「お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」と仰せになったのだろうか。二コリント5章14節「キリストは全ての人のために亡くなられた」。

(注)別エントリー「試論:救われる者は少ないか??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18576

マタイ9章13節「わたしが来た目的は、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」ホセア6章1節〜2節「さあ、わたしたちは主の御許に帰ろう。主はわたしたちの傷を覆ってくださり、いやしてくださる。主はわたしたちを立ち上がらせ命を与えてくださる。わたしたちは主の御前で生きる」。

主がマタイ9章13節で「わたしが求めるのは憐れみであり『いけにえ』ではない」とホセア6章6節に言及されてファリサイ派の人々に学ばせたかった「意味」という事柄の答えは、ホセア6章3節「主は曙の光のように必ず現われて、春に降り注ぎ大地を潤す雨のようにわたしたちを訪れて下さる」である。

今、あなたの神、主があなたに求めておられることとは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてその全ての導きに従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸せになることではないか。(申命記10章12節〜13節)

ミカ6章8節「何が善であって、主が何をあなたたちに求めておられるかは、あなたたちには既に告げられている。それは神の義を行い、憐れみの業を愛し、へりくだり神と共に歩むこと」ホセア6章6節「わたしが求めるものは『いけにえ』ではなく憐れみであり、焼き尽くす献げ物ではなく神を知ること」。

(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6748

エゼキエル18章「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は仰せになる。彼が悪から立ち帰って生きることを喜ばないだろうか。お前たちが犯した全ての背きを投げ捨てて新しい心と霊を造り出せ。どうしてお前たちは死んでよいだろうか。お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」。

【問】「心の貧しい人は幸いである」の「心の貧しい人」って、具体的にどんな人?
【答】ルカ15章「放蕩息子」の喩えで、無一物になって我に返り「今の自分の惨めな有様は全て自分の自業自得だが、父親の許に帰ればなんとかなるかもしれない」という一点に希望を賭けて、故郷に出発した人のことです。

ルカ23章40節以下で主の隣の十字架につけられた盗賊は最後に神への畏れを知り、自分の今の惨めな境遇は全て自業自得だが神には罪はなく神の御心に適う願いなら聞き入れられると確信し、自分の隣にいるのは神そのものであると信じて直接それを伝えた。彼の信仰告白に主は最大の幸福を御約束された。

(注)別エントリー「神に対する確信を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5613

(注)別エントリー「『王』と『永遠の命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/20213

マタイ11章28節「重荷を負う者は、わたしの許へ来なさい」詩編38編5(4)節「わたしの罪悪は耐え難い重荷」マタイ9章13節「正しい人を招くためではなく罪人を招くために、わたしは来た」ホセア6章1節〜2節「わたしたちは主の許に帰ろう。主はわたしたちをいやされ、傷を包んで下さる」。

(注)別エントリー「試論:『いけにえ』と憐れみを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8356