試論:「世の罪を取り除く」を140文字以内で

【問】「世の罪を取り除く神の小羊」主イエスはどうやって罪を取り除くの?
【答】悪魔の罪と死による支配から全人類を自由にするために、神のままで人間の肉体と魂を担われ、多くの人の身代金として御自分の命を献げるられたばかりでなく、《人々に御言葉を直にお話しになる神》として教えられました。

【追記】

黙示録7章16節はイザヤ49章10節を踏襲することで洗礼者が言及した(ヨハネ1章)

「〔神の〕小羊」

とイザヤ書の

「主の僕(しもべ)」

が同一人物であると再確認させ、

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために来た」
(マタイ20章28節、マルコ10章45節)

という事柄をも再確認させる。

ヨハネ1章29節「世の罪を取り除く神の小羊」の「取り除く」に当たるギリシア語は、一ヨハネ3章5節にも登場し、その前後では隣人愛の実践を奨励するが、同じ表現をエフェソ4章31節も用い、主に応えて信者が取り除くべき事柄を「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりを全ての悪意と共に」とする。

エフェソ4章の後半では「神にかたどって造られた新しい人」として生きるためとして「怒ることはあっても罪を犯してはならない」「日が暮れるまで怒ったままではいけない」「悪い言葉を一切口にしない」「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどの全てを、一切の悪意とともに捨てる」等を勧めている。

ヨハネ1章14節は「神の御言葉(=主イエス)は肉(=人)となられ、わたしたちの間に宿られた(=住まわれた)」と記す。マタイ20章28節では主御自身が「仕えられるためではなく仕えるため」「多くの人の身代金(=あがない)として自分の命を献(ささ)げるために来た」と仰せになられている。

主はヨハネ12章27節で「今わたしは心騒ぐ」と仰せになり御自分の内面は穏やかでないと告白された。多くの侮辱を伴う凄惨なリンチの末に、十字架を背負わされ、「御自分の民」から罵声を浴びながら体力を消耗し尽くし、ぼろ布のような状態で大きな苦しみの内に息絶える日がそこまで来たからである。

主はヨハネ12章23節で「人の子が栄光を受ける時が来た」と仰せになった。御受難(十字架上の死)によって多くの人々に永遠の命をもたらし(24節〜25節)「死を永久に滅ぼす」(31節、イザヤ25章8節、一コリント15章54節、ヘブライ2章14節以下、コロサイ1章20節等)ためである。

ヨハネ8章34節「罪を犯す者は、罪の奴隷」12章31節「今、この世の支配者が追放される」ヘブライ2章14節〜15節「御自分に委ねられた者たちが人間である以上イエスも同じく人間としての全てを担われたが、死を司る悪魔を御自分の死によって滅ぼし悪魔の罪と死の支配から人々を解放された」。

主はヨハネ12章24節で「一粒の麦もし死なずば」の一節の前に、ギリシア語本文では二度「アーメン」と口にされた。通常この箇所は「まことにまことに」「よくよく」「はっきり」等と訳されるが、主はこうなさることで、そこが御教えの核心部分だと示された(31節及びコロサイ1章20節等参照)。

主はヨハネ8章32節で「真理はあなたたちを自由にする(解放する)」と仰せになった。パウロはヨハネと同じギリシア語を用いて何からの解放か、その答えをローマ6章と同8章で説明した。「罪から解放」(6章18節、22節)、8章2節「罪と死の法則から解放」同21節「滅びへの隷属から解放」。

ルカ2章11節は「あなたたちのために救い主がお生まれになった」マタイ1章21節は「この子は自分の民を罪から救う」と記す。イザヤ35節4節以下は「敵(サタン)を撃ち悪を罰する神が来られ、あなたたちを救われる」と預言し、目や耳や足や言葉の不自由な人々の回復が神の到来の徴になると続く。

マタイ1章でヨセフの夢に現れた主の天使は「マリアが産む子は民を罪から救う」と教えた。同じ事柄をペトロは使徒言行録3章26節で、「神は御自分の僕(しもべ、同13節参照)を立てられ遣わしてくださった。それは一人一人を悪から離れさせ、祝福(マタイ25章34節)に与らせるため」と説いた。

マタイ1章21節は「自分の民を罪から救う」ルカ1章77節は「罪の赦しによる救い」と記し、主御自身もマタイ6章13節で「悪い者から救って下さい」と《主の祈り》を教えられ、ガラテヤ1章4節は「この悪の世からわたしたちを救い出そうとして御自身をわたしたちの罪のために献げられた」と記す。