試論:心の清い人は神を見る??を140文字以内で

【問】「心の清い人は神を見る」の、「見る」の意味は?
【答】聖書の「見る」や「聞く」には「認識する」「理解する」等の意味合いが含まれています。ヨハネ14章7節「あなたたちがわたしを知っているならば、わたしの御父をも知っていることになる。いや、あなたたちはもう、既に御父を見ている」。

【追記】

出エジプト記24章にモーセ一行が「神を見た」とあるが、実際に御姿を見たわけでなく、足台を見たことによって上におられる神を「見た」のである。「心の清い人は幸いである。その人は神を見る」の「見る」も認識するという意味を含むが御降誕の夜、羊飼いたちはマリアやヨセフと実際に、御姿を見た。

出エジプト記24章にモーセの一行が「神を見た」とあるが、神の御姿を実際に見たわけではなくその「足台」(「サファイアの敷石のようなもの」)を見たことによって、その上に必ずおられるはずの神を「見た」わけである。また同様に、雲や火や煙、雷鳴や稲妻、角笛の音なども神の現存を象徴していた。

(注)別エントリー「イエス・キリストと天の雲」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/684

(注)別エントリー「試論:福音書と『西遊記』の違いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5760

ヨハネ14章8節のフィリポの言葉「主よ、わたしたちに御父をお示しください」に対しコロサイ1章15節では「御子は、見えない神の姿」と表現した。「見えない神」とは御父であり「姿」とは《生き写し》というニュアンスをも含んでいる。ヘブライ1章3節は「神の本性の完全な具現」などと表現した。