「善きサマリア人」と「世の光」

一人の律法学者は自分を「義化」(ルカ10章29節)しようとして(「義人」(マタイ1章19節)とするために)、隣人愛(ルカ10章27節)に関して、主に、踏み込んだ質問を行なった。主は、憐れみの心(33節)と「神の義」と隣人愛と永遠の命(25節)は事実上重なっているとお教えになった。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

主イエスはヨハネ6章40節で「御父の御心は、御子(=主イエス御自身)を見て信じる者が皆、永遠の命を得ること」だと説かれた。ルカ10章25節で一人の律法学者が「永遠の命を受け継ぐにはどうすれば〜」と質問したことから、主イエスは「善きサマリア人」の話で憐れみの心の重要性を教えられた。

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4544

【問】「神に従う人の光は喜ばしく輝き」(箴言13章9節)の意味とは?
【答】「神に従う人」は古代ギリシア語訳ではディカイオス(義人)で、「神に従う人の光」とは「神の義」つまり善意・温情・気配り・憐れみの心を指し、それらは相手に喜びを与え、表情と心とを明るくし、また心を温かくします。

養父ヨセフはマタイ1章19節でディカイオス(正しい人、義人)と呼ばれる。古代ギリシア語訳箴言4章18節はディカイオスに「光」が伴うと説き、善きサマリア人の喩えは自分を義化したい律法学者に神の義と隣人愛は同一と教える。イザヤ58章は心配りに「光」は伴うと説く。神の義に「光」は伴う。

【問】イザヤ58章6節以下では、困窮している人々に対する心配り・善意・温情・憐れみの心が「光」に喩えられていますが、なぜ?
【答】それらが相手の表情と心とを明るくさせ、また、それらが相手の心を、光が熱を与えるように温かくさせるからです。マタイ5章16節「あなたの光を輝かせなさい」。

【問】主イエスは「わたしは世の光」「あなたたちは世の光」などと仰せになりました。なぜ?
【答】「光」はイザヤ58章6節以下にある通り善意・温情・心配り・憐れみの業等の喩えで、人の心と表情を明るくさせ人々の心を温めます。「光」がなくなれば、人々の心と表情は暗くなり、心は冷え込みます。

【問】福音書には主イエスが「笑った」という記述がない、という議論があるそうです。
【答】イザヤ58章10節は隣人への温情を「光」に喩えます。理由は相手の心や顔を明るくするからです。主はヨハネ8章で「わたしは世の光」と宣言されましたが、これはいつも仏頂面の人が語る言葉ではありません。

【問】主イエスはなぜマタイ5章15節で、ともし火を見えない場所に置く者はいない、と仰せになられましたか?
【答】箴言6章23節は主からの御教えをともし火に喩えます。つまり主の御教えを受けたら直ちに実行しなさいの意味です。御言葉を聞いても実行しないのは砂の上に家を建てるのと同じです。

【問】主の御言葉を聞いても実行しないことを見えない場所にともし火を置くことに喩えたのですか?
【答】主は御言葉を聞いても実行しないことを、砂の上に家を建てること、見えない場所にともし火を置くこと、主人から預かったタラントンやムナを隠してしまうことなどに喩えられ、強く戒められました。