試論:ヨハネ19章25節の聖母を140文字以内で

ヨハネ19章25節には、主イエスの十字架の傍らには聖母マリアの姿があったと記されている。しかし実のところ、主イエスの贖(あがな)いの御業(みわざ)に対する聖母の協力は、生まれる男子が生贄の小羊として屠殺される定めと完全に理解した上で母となることを承諾した日から、既に始まっていた。

(注)別エントリー「『贖(あがな)い』と『救い主の母』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19677

【追記】

詩編49編8(7)節は神に対し人間が贖(あがな)いの業を行うことはできないと説く。それができるのは「人〔となられた神〕の子」だけであり、そのために主イエスは来られた(マタイ20章28節)。神は劣化できないため、神のままで人間の全てを担う必要があり、そのためにマリアが不可欠だった。

(注)別エントリー「試論:『神には劣化がない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8697

【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。

詩編49(48)編8(7)節は、神に対して人間が贖いの業を行うことはできないと記す。とはいえ神の御独り子が自ら人間となられて自分の「からだ」を「身代金」として贖いの業を行われた時の「からだ」は、マリアから受けたものだった。マリアは極めて特別な形でイエスの贖いの業に「参加」をした。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7795

(注)別エントリー「試論:『履物を脱ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8620

カトリックでは聖母マリアを「無原罪」つまりサタンの悪影響とは全く無縁の女性と教え、少女期の聖母が神殿で十年以上奉献生活を送り教育を受けたと教える。聖母は長年、救い主やあがないについて思い巡らしていた。受胎告知の際の言葉「わたしは主のはしため」は一朝一夕に出て来る類のものではない。

(注)別エントリー「神のお告げ:受胎告知と無原罪の御宿り」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4835

(注)別エントリー「試論:ヤコブ原福音書を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5239

(注)別エントリー「聖書の時代に神殿の処女は存在したのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1539