使徒言行録9章15節では、ダマスコに住む弟子アナニアに対し、幻の中で、主イエスがサウロ(後のパウロ)のことを「わたしが選んだ器」と呼ばれている。聖書で「土の器」(二コリント4章7節、黙示録2章27節、哀歌4章2節、イザヤ45章9節)とは、人間〔の特に脆さと弱さ〕を表す表現である。
(注)別エントリー「『土の器』(つちのうつは)」も参照のこと。
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【追記】
エレミヤ18章の有名な「陶工と粘土」の話にある通り、「土の器」(二コリント4章7節、黙示録2章27節、哀歌4章2節、イザヤ45章9節)とは、人間〔の特に脆さと弱さ〕を表す表現である。古代のヘブライ人の世界観(創世記3章19節参照)では人間の肉体は土から取られて土に返る定めにある。
パウロはローマ9章で、神がその御怒りを示されて滅びる定めになっていた者たちを「怒りの器」(22節)、神が御自分の豊かな栄光をお与えになろうと準備されていた者たちを「憐れみの器」(23節)と表現し、人間を「器」と表現する古代のヘブライの世界観に基づいて、異邦人の召し出しを説明する。
詩編31編でダビデは、さまざまな意味で衰えてきた自分の肉体を「壊れた器」(13節)と表現した。また二コリント4章7節でパウロは、人間の「外側」つまり「肉」の部分を、「土の器」と表現した。古代のヘブライ人の世界観では人間の肉体は土から取られて土に返る(創世記3章19節)定めである。
ルカ11章41節「器の中にある物を施せ」の「器」とは「土の器」「陶器」の比喩と同様、人間を指す。「器の中にある物」は人間に吹き込まれた「命の息」(創世記2章7節)つまり「霊魂」を意味する。イザヤ58章10節のヘブライ語表現「霊魂を注ぐ」は、「心を配る」(新共同訳)ことを意味する。
(注)別エントリー「試論:『器の中にある物を施せ』を140文字以内で」も参照のこと。
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古代のヘブライ人は「〔困っている人に〕心を配る」(イザヤ58章10節)ことを表現する際には「霊魂を注ぐ」という言い回しを用いた。従ってルカ11章41節「器(=人間)の中にある物(=霊魂)を施せ」の意味は「〔揚げ足取りをいい加減に止めて〕隣人に心を配ることだけ心掛けなさい」である。
箴言15章4節「赦しを与える言葉は命の木」にある通り旧約の民は、他者に幸福や安堵を与える事柄を「命」と表現し、主なる神から命の息を吹き込まれた人間は他者に幸福や安堵を与えることができる、という信念を持っていた。故に主はルカ11章41節で他者に幸福や安堵だけを与えるよう命じられた。
(注)別エントリー「試論:『主にとって赦しも癒し』を140文字以内で」も参照のこと。
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