月別アーカイブ: 2024年9月

主の御降誕の時ヨセフは何歳だったのか【再投稿】

(以下、聖書の日本語訳は、特に注記がない場合には、フランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』(サンパウロ)によります)

【1】「会見の幕屋」に由来している「聖母マリアの終生童貞」そして「聖ヨセフの終生童貞」

古代のイスラエルにおいては、「会見の幕屋」──すなわち神殿──の入り口にいて神に奉仕する女性たちが存在した。
このことは、出エジプト記38章8節またサムエル記上2章22節の記述によって明らかである。
またこの場合、「幕屋」とは、移動可能な組立式の神殿を意味している。
そしてサムエル記上2章によれば、神殿の入り口にいるそれらの女性が男性と「ともに寝る」ことは、人間による主なる神に対する罪悪に該当する(サムエル記上2章23節「悪いこと」同25節「罪を犯す」)行為であると見なされていたことが、現代の読者にも理解できる。

(注)「会見の幕屋」は、日本聖書協会『聖書』新共同訳では「臨在の幕屋」。

ところで、「神殿」とは、神がお住まいになっていると見なされている建物や、それに類するものを指す言葉に、他ならない。
イエス・キリストを「真(まこと)の神」と見なし信仰や礼拝の対象とする立場で考えるならば、主イエス・キリストがいらっしゃる場所のお住まいは、ベツレヘムであろうと、エジプトであろうとナザレであろうとどこであろうとも、洞穴であれ家畜小屋であれ粗末な家であれ、言葉の本来の意味で、そここそが「神の家」すなわち「神殿」そのものである。
そしてマリアがイエスとともに同じ住まいで暮らしている限り、実際上マリアは言葉の本当の意味で「神殿にいて神に奉仕する女性」に他ならない、ということになる。

マリアにとっては、「いと高き方の子」(ルカ1章32節)の母となることをみ使いガブリエルに承諾した(ルカ1章38節「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」)ということは、同時に自分自身を「神殿にいて神に奉仕する女性」に位置付けることを意味した。マリアは、近い将来に生まれるであろう「わが子」に対しても、当然のようにためらうことなく、自分自身を「主のはしため」として位置付けていたのである。

夫ヨセフの存命中は、マリアはイエスそしてヨセフとナザレのお住まいで暮らしていたはずであるが、ナザレの聖家族で家庭の主婦であったマリアは、事実上の「神殿にいて神に奉仕する女性」として、かつての婚約期間と同様、夫ヨセフとは全く互いを「知る」(マタイ1章25節、ルカ1章34節、創世記4章1節)ことなく、家族としての日々を過ごしたと考えられる。
まさに、「神殿にいて神に奉仕する女性」が男性と「ともに寝る」ことは、主なる神に対して罪悪(サムエル記上2章23節「悪いこと」同25節「罪を犯す」)を行うことに他ならないと、古代のイスラエルでは見なされていたからである。
その意味では、主イエス・キリストに対する信仰(あるいは主イエス・キリストの神性)を前提とするならば、聖母マリアの終生童貞(及び聖ヨセフの終生童貞)は、むしろ主イエス・キリストの同居家族であるがゆえの必然によるものと言える。

古代のイスラエルでは、「神の家」において、「神に奉仕する女性」が男性と「ともに寝る」ことなどは、あってはならないこと、つまり不祥事だったのである。

(注)別エントリー「聖書の時代に神殿の処女は存在したのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1539

少女期の聖母の神殿奉献に関しては、外典書の記述をどのくらい信頼してよいのかという問題とも関係するため、【3】で議論する。

【2】「会見の幕屋」で働く務めのある男性には対象となる年齢層があった

旧約聖書の民数記4章には、「会見の幕屋」で働く務めの該当者は「三十歳以上」そして「五十歳以下」の者であると、いくつもの箇所で繰り返し述べられている。

◯民数記4章3節
「すなわち、三十歳以上五十歳以下の者で会見の幕屋で働く務めのあるすべての者のことである。」

◯民数記4章23節
「三十歳以上五十歳以下の者で、会見の幕屋に関わる仕事をする務めのあるすべての者を登録せよ。」

◯民数記4章30節
「三十歳以上五十歳以下の者で、会見の幕屋に関わる仕事をする務めのあるすべての者を数えよ。」

◯民数記4章35節
「すなわち彼らは、三十歳以上五十歳以下の者で会見の幕屋で働く務めのある者たちである。」

◯民数記4章39節
「すなわち、会見の幕屋で仕事をする務めのある三十歳以上五十歳以下のすべての者」

◯民数記4章43節
「すなわち、会見の幕屋で仕事をする務めのある三十歳以上五十歳以下のすべての者」

◯民数記4章47節
「会見の幕屋で仕事をする任務と運搬の務めのある三十歳以上五十歳以下のすべての者」

そして、民数記8章では、「五十歳以降」は現役を引退しなければならないことが書かれている。

◯民数記8章25節
「しかし、五十歳以降はその仕事の務めから退き、もう仕事はしない。」

続く26節には、「任務を果たすのを助けることはできるが、自分では仕事をしてはならない。」と書かれており、「五十歳」が一区切りとなる年齢(引退年齢)であることが、定められている。

この「三十歳以上五十歳以下」という年齢層が定められた理由は、当然「人生経験」「思慮深さ」「賢明さ」そして「体力」などの点で、幕屋に関わる仕事をするために最も成熟して相応しい年齢であると見なされたからであろう。

ところで、ルカ福音書3章には、「三十歳」という表現が登場する。

◯ルカによる福音書3章23節
「ところで、イエスが宣教を始められたのは、三十歳ころのことであった。イエスはヨセフの子と思われていた。」

また、ヨハネ福音書8章には、「五十歳」という表現が登場する。

◯ヨハネによる福音書8章57節
「すると、ユダヤ人たちはイエスに向かって、『あなたはまだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか』と言った。」

以上のように、福音書においても、「三十歳」そして「五十歳」は、特別な意味を持つ「区切り」の年齢として、登場するのである。

【3】二世紀の外典書『ヤコブの原福音』の問題点そして誤り

カトリック教会には、聖母マリアが三歳でエルサレムの神殿に奉献され聖ヨセフと婚約するまでの少女時代をそこで過ごしたという、聖伝がある。
新約聖書には、この聖伝(聖母マリアの神殿奉献)に関する直接の記述は見当たらない。

聖母マリアの神殿奉献という聖伝に関しては、その伝承のルーツは紀元二世紀半ば頃に成立したと考えられる『ヤコブの原福音(Protoeuangelium Iacobi, Protoevangelium of James)』という外典書に由来すると、しばしば誤解されてきた。

なぜ外典書『ヤコブの原福音』に由来するという考え方が誤りであるかというと、四世紀末までに既に聖ヒエロニムスが指摘しているように、その外典書には「マリアと婚約する以前にも、ヨセフには結婚歴があり、前妻との間に子供たちをもうけていた」といった類の、カトリック教会の聖伝とは相反する記述が存在するからである。

聖ヒエロニムスは、聖母マリアの終生童貞について論じた著作(De perpetua uirginitate beatae Mariae aduersus Heluidium)の中で、主イエス・キリストの父親と呼ばれ、そして母マリアの夫と呼ばれるべき人物について、妻マリアが童貞であったように夫ヨセフもまた必然的に童貞であったに違いないと結論している。
なぜなら、唯一無二の存在であるおとめマリアの終生童貞の保護者を務める男性が未婚者ではなく既婚者であり、しかも複数の子持ちであるというのは道理に合わず、神があえてそのような再婚者となる男などを聖母の配偶者に選ばれることは考えられないというのが、聖ヒエロニムスの論理である。

童貞マリアの保護者として選ばれた人物は、とりわけまず第一にその処女性(終生童貞)の保護者であるべきであって、そのためには、聖母の保護者として選ばれたその男もまた終生童貞であったに違いないと考えるのが、必然的帰結となる。

よって、聖ヒエロニムスは、聖ヨセフが聖母との結婚以前に前妻との間に子供たちをもうけていたといった類の話を荒唐無稽な空想として退け、また聖ヒエロニムスは、その類の記述を含む外典書それ自体についても、全く信用していなかったのである。

いわゆる東方教会のギリシア教父たちの少なくとも何人かが「ヨセフの前妻」説を採用した一方、ローマの教会では聖ヒエロニムスが断固として聖ヨセフの終生童貞を主張し、外典書をも否定したため、歴代教皇のうちではまず聖ダマスス一世が聖ヒエロニムスの主張を容れて外典書『ヤコブの原福音』を排斥したとされ、また五世紀の聖インノケンティウス一世も、同じくこの外典書を排斥した。
そして五世紀末の教皇である聖ゲラシウス一世の名前がしばしば冠せられる『教令集』でも同様に、この外典書は肯定的な意義あるものとしての地位を決して与えられることがなかった。

以上のように五世紀までには、ローマ・カトリック教会における「聖ヨセフの終生童貞」の概念が基礎付けられた。

このような聖ヒエロニムスとギリシア教父たちとの間の見解の相違は、「ヨセフという存在をどう捉えるか」という点では、ローマ教会と東方教会との見解の差異として現在に至るも残っている。

ローマ教会では聖母の終生童貞のみならず聖ヨセフの終生童貞という概念も存在するため、聖画像においても、「聖母子」の構図の他に「聖家族」──つまり聖母子と聖ヨセフの三人──を一つの構図の中に収めるという概念も、当然ながら存在している。一方、「ヨセフはマリアとの婚約以前にも結婚歴があり、前妻との間に複数の子供をもうけていた」という「ヨセフの前妻」説が影響力を持っていた東方教会においては、それに伴いヨセフの地位も、自然とローマ教会におけるよりは低く抑えられ、聖画像の領域でも「聖母子」の構図は好まれるが、「聖母子」とヨセフとの間には一線を画すべきであるという考え方が存在し、ローマ教会のような「聖家族」の構図はむしろ忌避される傾向が東方教会においては見られた。

もしも外典書の記述を受け容れて、「ヨセフにはマリアとの婚約以前に結婚歴があり、前妻との間に複数の子供をもうけていた」という話を了承するのならば、「聖家族」の構図に抵抗を覚えるのも無理からぬことではある。

逆に言えば、ローマ教会が「ヨセフの前妻」説を収録した外典書『ヤコブの原福音』に対して相当厳しい目を向けていた一方で、東方教会の側では「ヨセフの前妻」説の部分に関しては特段問題視されなかった。

以上のように、「ヨセフという存在をどう捉えるか」という事柄を軸にして考えると、ローマ教会と東方教会との間の隔たりは、実は決して小さいとは言えないのである。

それにもかかわらず、幼子である聖母マリアの神殿奉献という伝承に関しては、六世紀半ば(紀元543年)にはエルサレムの教会でその祝日(11月21日)が制定されるなど、諸教会において信頼に値する聖伝として受け入れられ広まっていった。

従って、以上の歴史的経緯から聖母の神殿奉献に関しては、それが外典書『ヤコブの原福音』とはまた別系統の聖伝に基づくものであると、考えるべきなのである。

四世紀の教会史家エウセビウスが新約聖書の正典に含まれるべき諸書について論じた際には、この外典書『ヤコブの原福音』に関しては全く取り上げることがなかった。

問題外の代物として扱われていたわけである。

外典書『ヤコブの原福音』の記述中に現在のカトリック教会の主張と一致している部分と相反する部分とが混在しているという事実から、この外典書とはまた別系統の伝承によって幼子である聖母マリアの神殿奉献という事柄への信仰が受け継がれてきたと考えることが可能である。

聖ヨセフは、マタイ福音書1章19節で「正しい人(δίκαιος – dikaios)」と呼ばれているが、このギリシア語が聖書の中で表現している「正しい人」という概念は、「神の御計画の中で求められているその役割を果たすのにふさわしいと判断され選ばれた者」という意味合いを含んだ「正しい人」なのであり、ただ単に「いい人」といった程度の軽い意味合いとは大きく異なる。

(注)別エントリー「聖ヨセフ:ディカイオスを旧約聖書で考察」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1613

つまり、神は聖母子の守護者として他ならぬ聖ヨセフその人を「御計画の中で求められているその役割を果たすのにふさわしいと判断され選ばれた者」として望まれていたのだと、結論することができる。

重ねて言うがそれゆえに聖ヒエロニムスは、聖ヨセフは聖母との結婚以前に前妻との間に子供たちをもうけていたといった類の話を荒唐無稽な空想として退けて、そのような記述を含む外典書それ自体についても、全く信用していなかったのである。

興味深いことだが、外典書の記述が福音書の記述と決定的に矛盾している箇所が、他ならぬ主の御降誕の場面に存在する。
外典書ではマリアの出産の場面で助産婦(助産師)が登場するが、ルカ福音書2章7節には、聖母がお生まれになった男の子を御自身で「産着に包み、飼い葉桶(おけ)に寝かせた。」と書かれている。つまり御出産──主の御降誕に当たっては、お生まれになった主イエスを取り上げたのは、他ならぬ聖母御自身であって、そこに助産婦は介在などしていなかった──主の御降誕の場には、助産婦は最初から存在しなかったのである。

外典書『ヤコブの原福音』は、ルカ福音書とは異なる事柄を記載していることになる。

むろん、助産婦が介在していない分娩(出産)というのは、尋常のものではない。

つまりルカ福音書2章7節は、聖母がお生まれになった男の子を御自身で「産着に包み、飼い葉桶(おけ)に寝かせた。」と書くことによって、受胎(妊娠)の時と同様、出産の際にも、助産婦ではないなんらかの超自然的な介在、神的な力の介入があったことを、示唆しているわけである。

(ちなみに聖書の中に助産婦が登場する例としては、創世記35章17節、同38章28節以下、出エジプト記1章などが挙げられます)

重ねて強調するが、主の御降誕は、その受胎の際にそうであったように、通常の人間の母子の間に起こる事柄とは全く別次元の極めて超自然的な状況においてなされた、ということである。

ルカ1章35節のみ使いガブリエルの受胎告知の際の言葉「聖霊があなたに臨み、いと高き方の力があなたを覆う。」のうち、「聖霊があなたに臨み」が受胎と関係しているのは明らかであるが(マタイ1章18節「イエスの母マリアはヨセフと婚約していたが、同居する前に、聖霊によって身籠(みごも)っているのが分かった。」)、「いと高き方の力があなたを覆う。」という後半の方は、むしろ御降誕の際の超自然的な状況をも説明していると理解すべきであろう。

(注)別エントリー「主の御降誕に助産婦が介在しなかった意味とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/2544

そして外典書では、妊娠に気づいたヨセフがマリアを詰問して憤りをぶつける場面も存在するが、マタイ1章20節でヨセフの心の動きを表現するのに用いられているギリシア語動詞(ἐνθυμέομαι – enthumeomai )からは、ヨセフの憤慨はもし仮に生じたとしてもそれはあくまでもヨセフの心の中でのものであり、ヨセフがマリアに対して面と向かって憤りをぶつけることはなかったであろう蓋然性が、暗示されている。
もちろんマタイ福音書にもルカ福音書にも、婚約者の妊娠に気づいたヨセフがマリアを詰問したり憤りをぶつけたりした場面など存在しない。

福音書に登場する聖ヨセフは、余計なことを口にせず思慮深い半面、いざとなると大変な行動力のある頼もしい人物であるが、外典書に登場する「高齢者ヨセフ」は、率直というよりも直情径行的なところがあって思慮深いとはとても言えず、感情の起伏が激しく、そのような気性ゆえに思ったことはむしろすぐ口に出してしまいがちで、時にはマリアにとって明らかにありがたくはない行動に出ることもあるような、極めて人間臭い老人として描かれている。
さらに、外典書ではヨセフとマリアとの間に極端な年齢差が与えられ、ヨセフを多弁で押しが強い高齢者として描き出すことで、副産物としてマリアにもどことなく幼く頼りないイメージを二次的に与えてしまっており、結果的に外典書においてはヨセフだけではなくマリアのイメージもまた、大きく損なわれていることになる。

(注)別エントリー「婚約者の妊娠を知った時のヨセフの心情」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3092

とはいえ、もちろん外典書に含まれている情報の全てが誤りというわけではない。
マリアの両親がヨアキムとアンナである、という記述はもちろんカトリック教会の聖伝と一致しており、また、マリアが三歳の時に神殿に奉献され、少女期をそこで過ごした後、ヨセフと結婚後も処女のままで十六歳の時にイエスを出産した、という話も、概ね受け入れられている伝承である。

以上のように、外典書の中にはカトリック教会の聖伝と一致している話と相違している話とが混在しており、その取り扱いについては非常に慎重でなければならない。

【4】外典書以外の神殿奉献の伝承とは

少女期の聖母の神殿奉献に関しては、外典書『ヤコブの原福音』以外では別の系統の伝承として、一世紀の聖人である聖エヴォディウスの証言に遡ることができる。
聖エヴォディウスは、聖ペトロの後を受けてシリアのアンティオキアの司教になった人物で、また一説にはルカ福音書10章で主イエス・キリストが選ばれた七十二人の中の一人であったとされるが、この聖人が聖母の神殿奉献に関する情報を最初に残したとされている。

一世紀のこの聖人の証言に関する記録は、一四世紀前半のギリシア正教会の歴史家ニケフォロス・カリストスによって書き残されている。
つまり聖母の神殿奉献に関する証言は、外典書『ヤコブの原福音』よりもさらに古い時代に、既になされていたのである。

この聖エヴォディウスの証言によれば、聖母マリアは三歳の時に主の神殿に奉献され、そして結婚適齢期となって聖ヨセフとの婚約が決まって彼に委託される時まで、エルサレムの神殿で十一年の間、生活していたということである。そして、神の母が世界に救い主をもたらしたのは十五歳の時であったと、この聖人は書き記したが、しかし既にその著作は失われてしまっている。

聖エヴォディウスは紀元七〇年のエルサレム神殿の滅亡より少し前に帰天したと考えられている。

外典書の記述がカトリック教会の聖伝と相違する事項として、ヨセフに結婚歴があり複数の子供がいたなどの話があるが、少女時代のマリアと婚約した際にヨセフがかなりの高齢者であったという話に関しても、外典書が言及するところの結婚歴とか複数の子供の存在との辻褄を合わせるためのものと考えられ、基本的に信頼には値しない情報であると思われる。

実のところ聖ヨセフの年齢に関しては新約聖書に全く記述がなく、聖母との年齢差については何ら特記すべき事柄がなかった(あえて特筆すべき必要性がなかった)ことを暗示している。

【5】「高齢者ヨセフ」説は、福音書の記述とは合致しない

実際問題として、幼子イエスとその母マリアをヘロデ王の追跡の手から保護しながら、数百キロも離れたエジプトまで逃避する(マタイ福音書2章)、という極めて重い任務を担った聖ヨセフが、外典書の記述する如き相当の高齢者であったと考えることは、荒唐無稽な空想であると言わざるを得ない。
当時の聖ヨセフは気力・知力・胆力・体力・行動力・判断力などの全てがまさにその人生における充実期・最盛期にあったと考えるべきで、そうでなければ、ヨセフが幼子イエスとその母マリアの最も危険な時期の保護者たり得ることなど、全くかなわなかったはずである。
もしも聖ヨセフが外典書に書かれているような相当な高齢者であったとするなら、とうてい果たせない任務であろう。

逆に、もしもヨセフの年齢が、マリアと同年代の十代後半もしくは少し年上の二十代前半であったとすれば、当時のイスラエル人の間で「若造」「完成されていない」「完全には成熟していない」などと行く先々で見なされ、年齢的な部分で軽視されたであろう。

福音書には、エジプトへの逃避に際して聖家族を助けた人々の存在についての記載が全くない。
もちろん天からの目に見えぬ助力はあったものとは思われるが、基本的に聖ヨセフが事実上たった一人で、聖母子をお守りしながらヘロデ王の勢力圏を脱出して、エジプトへと至ったのである。
ガリラヤのナザレからユダヤのベツレヘムまでの距離よりも、エジプトへの旅はさらに数倍の距離であり、しかも自分たちで旅の日程を決められるのとは全く異なる、まさに命がけの逃避行だったのである。

マタイ福音書1章から2章の時期の聖ヨセフの年齢についても、福音書には記載が全くない。
しかし、エジプトへの逃避という不測の事態にも冷静かつ沈着に対応して行動に移すことが可能で、ましてや神の御ひとり子とその母の保護者という、その両肩に担った責任の重大性を考慮するならば、聖ヨセフは疑いなくその人生における充実期・最盛期にあったと考えるのが当然であり、主イエス・キリストも同様に公生活の時期に重大な任務を担われたことを想起するならば、恐らくこの時期の聖ヨセフも主の公生活の時期と年齢的にはほとんど同じ年代であったであろうと考えるのが自然である。

すなわちルカ福音書3章23節を参考にすると、聖母との結婚から主の御降誕そしてエジプトへの逃避など一連の出来事の時期の聖ヨセフも同様に、主の公生活時の年齢である三十代前半であったと推論するのが、妥当であると考える。

繰り返すが、聖ヨセフはマタイ福音書1章19節では「正しい人(δίκαιος – dikaios)」と呼ばれているが、このギリシア語が聖書において表現している「正しい人」という概念は、「神の御計画の中で、その役割を果たすのに最適と判断され選ばれた者」という意味合いをも含んだ「正しい人」なのである。
それゆえに、やはり当時のヨセフは、その年齢も含めて「マリアの夫」「イエスの父」として少しも不自然さを感じさせない、神の御目に適った人物であったに相違ないと考えるべきである。

もしも聖ヨセフと聖母との間に(外典書において書かれているような)特筆すべき年齢の差が存在したとするなら、その点に触れた記述が福音書にあるはずだが、マタイ福音書にもルカ福音書にも、そのような話は示唆すらされていない。

ルカ福音書2章では、「アシェル族のファヌエルの娘」(26節)である女預言者アンナの存在について語られているが、彼女の年齢についてルカ福音書2章は「すでに八十四歳になっていた」(27節)と言及している。

主イエス・キリストの御誕生前後の時期の聖ヨセフが、もしも『ヤコブの原福音』その他の外典書に書かれているように、実際にかなりの高齢者であったとするなら、女預言者アンナに対して記述したように、ルカ福音書は聖ヨセフの年齢を必ず明記したはずである。
にもかかわらず、ルカ福音書は聖ヨセフの年齢について少しも記述していない。

なぜルカ福音書は、聖ヨセフの高齢については全く言及しなかったのか──その理由は、実際には聖ヨセフが高齢者などでは全くなく、同時代の人々から見ても聖母との年齢差は必ずしも違和感を生じさせるものではない程度だったからであろう。

(注)別エントリー「マリアがベツレヘムの宿屋で拒まれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/56

【6】マリアは幼いイエスを育てながら高齢のヨセフを介護したのか──それはありえない

ルカ福音書2章の43節以降には、過越祭のために都エルサレムに上った聖家族のうち、帰る途中で主イエスを見失ったと気付いた聖母と聖ヨセフとがエルサレムへと引き返し、三日の後に、主を神殿に見出すというエピソードがあるが、ここでの聖ヨセフは聖母とともに行動し、高齢のためにかえって聖母の足手まといになるような話はなく、高齢をイメージさせる要素は全くない。

主イエスが十二歳になられた折の話なので、もし仮に外典書の記述通り主の御降誕の折に聖ヨセフが既にかなりの高齢者であったとするならば、その十年以上後には聖ヨセフはもはやナザレとエルサレムとの間の徒歩での往復はおぼつかず、必死に息子を捜し求める若い妻マリア──まだ三十歳以前、二十代後半であったと考えられる──が矢も盾も堪らず急いで駆け出して行くのと同じ速さで移動することなど当然不可能になっているはずだが、それではルカ福音書2章44節以降の記述とは全く矛盾したものとなってしまう。

聖母マリアにとってイエスの存在とは、ただ単なる「わが子」であるのにとどまらず、天の御父である主なる神からお預かりしている、まさにかけがえのない存在なのであって、受胎告知の際に「わが子」に対しても聖母は、自分自身を「主のはしため」(ルカ1章38節)であるべきだと、その時点で早くも既に位置付けていたのである。
たとえごく普通の母親の心理であったとしても、息子を見失ってしまったことが確実だと分かった次の瞬間には、今まで通って来た道を急いで逆戻りしようと、一目散に駆け出すのは当然である。

まだ若い母親といえる二十代後半の聖母マリアが必死にエルサレムの方向に駆け出していくその後を、夫として保護者として冷静沈着にまさしくフォローするためには、聖ヨセフ自身が高齢者であってはとうてい役目を果たせないということになってしまう。

この議論からも、外典書における「高齢者ヨセフ」という設定など、そもそも成立し得ないことが確認できる。

もしも外典書の記述する通り、聖ヨセフが聖母と結婚した時には既に高齢者であったとするなら、十代半ばから二十代後半の聖母は、乳幼児期そして少年期であられた御子イエスの育児に専念するどころか、既に相当な高齢に達していた夫の介護をも、聖母は日々こなしていかなければならなくなってしまう。

それでは聖母は、「『神の子』の母の保護者」としての役割が期待されていた夫ヨセフと結婚した意味が全くなくなるどころか、結果的に聖母はさらに過重な負担を強いられるだけということにもなり、このような本末転倒を天の御父である神がお望みのはずがない。

やはりどう考えても、「高齢者ヨセフ」という設定自体が荒唐無稽な与太話であるとしか言いようがない。

【7】「三十歳」と「五十歳」を区切りの年齢と考える場合に、導き出される仮説

既に【2】で提示した通り民数記4章によれば、「会見の幕屋」すなわち神殿で奉仕作業する男性の年齢は「三十歳以上」という定めがある。

ところで、「神殿」とは、神がお住まいになっていると見なされている建物や、それに類するものを指す言葉に、他ならない。

イエス・キリストを「真(まこと)の神」と見なし信仰や礼拝の対象とする立場で考えるならば、主イエス・キリストがいらっしゃる場所のお住まいであるならば、そこがベツレヘムであれナザレであれエジプトであれどこであれ、そして洞穴であれ家畜小屋であれ粗末な家であれ、言葉の本来の意味で、そここそが「神の家」すなわち「神殿」そのものなのである。
そしてヨセフがイエスとともに同じ住まいで暮らしている限り、事実上ヨセフは言葉の本当の意味で「神殿で奉仕作業する男性」に他ならない、ということになる。

以上を考慮すれば、聖霊によって受胎した婚約者マリアを自分の家に迎え入れた時点で、ヨセフが「三十歳以上」に該当していた、というのは蓋然性が高い仮説である。

ルカ福音書3章23節にある通り、主イエス・キリストが公生活を始められた年齢も、やはり同様に「三十歳ころ」であった。
そして、ルカ1章(26節、36節、57節)によれば、洗礼者ヨハネの受胎と出産は、主イエスのそれに「六か月」先んじていたと考えられるが、マタイ3章やルカ3章の記述からは、時期的にはやはり洗礼者も「三十歳ころ」に活動を開始したものと推論される。

すなわちルカ福音書3章23節を参考にすると、聖母との結婚から主の御降誕そしてエジプトへの逃避など一連の出来事の時期の聖ヨセフも同様に、主の公生活時の年齢(そして洗礼者聖ヨハネの年齢)である三十代前半であったと推論するのが、妥当であろう。

そしてルカ2章43節以降に語られる過越祭の時までは、福音書に書かれるべきエピソードに登場する以上、少なくともヨセフは神の御前では「現役」の「奉仕作業する男性」であったのは間違いなく、つまり主イエス・キリストが「十二歳」の時点では、ヨセフはまだ「五十歳以下」であったと考えられる。

当時のイスラエルに「成人式」に相当するような儀礼が存在したとすれば、その年齢にイエスが達した時、まだヨセフは「五十歳以下」であったと推測される。
そしてイエスが成人した後、ヨセフは「五十歳」に達し、その時ヨセフは安心して「引退」できたであろう。

最後に重ねて強調するが、実際問題として、幼子イエスとその母マリアをヘロデ王の追跡の手から保護しながら、数百キロも離れたエジプトまで逃避する(マタイ福音書2章)、という極めて重い任務を担った聖ヨセフが、外典書の記述する如き相当の高齢者であったと考えることは、荒唐無稽な空想であると言わざるを得ない。
当時の聖ヨセフは気力・知力・胆力・体力・行動力・判断力などの全てがまさにその人生における充実期・最盛期にあったと考えるべきで、そうでなければ、ヨセフが幼子イエスとその母マリアの最も危険な時期の保護者たり得ることなど、全くかなわなかったはずである。
もしも聖ヨセフが外典書に書かれているような相当な高齢者であったとするなら、とうてい果たせない任務であろう。

問題の多い外典書『ヤコブの原福音』は、「エジプトへの逃避」のエピソードを語る前に、叙述を終えてしまっている。
「エジプトへの逃避」のエピソードと「高齢者ヨセフ」説とは、やはり相容れないからであろう。

福音書には、エジプトへの逃避に際して聖家族を助けた人々の存在についての記載が全くない。
もちろん天からの目に見えぬ助力はあったものとは思われるが、基本的に聖ヨセフが事実上たった一人で、聖母子をお守りしながらヘロデ王の勢力圏を脱出して、エジプトへと至ったのである。
ガリラヤのナザレからユダヤのベツレヘムまでの距離よりも、エジプトへの旅はさらに数倍の距離であり、しかも自分たちで旅の日程を決められるのとは全く異なる、まさに命がけの逃避行だったのである。

マタイ福音書1章から2章の時期の聖ヨセフの年齢についても、福音書には記載が全くない。
しかし、エジプトへの逃避という不測の事態にも冷静かつ沈着に対応して行動に移すことが可能で、ましてや神の御ひとり子とその母の保護者という、その両肩に担った責任の重大さを考慮するならば、聖ヨセフは疑いなくその人生における充実期・最盛期にあったと考えるのが当然であり、主イエス・キリストも同様に公生活の時期に重大な任務を担われたことを想起するならば、恐らくこの時期の聖ヨセフも主の公生活の時期と年齢的にはほとんど同じ年代であったであろうと考えるのが自然である。

これまでの議論を要約すると、主の御降誕の時の聖ヨセフの年齢は、三十歳を少し過ぎた辺りであったと考えるのが、最も妥当であろうと結論できる。
つまり、主の御降誕の時点では、聖ヨセフの年齢は聖母マリアの年齢のおおよそ二倍であった、と考えられる。

マタイ福音書とルカ福音書とを先入観なしに読む限り、福音書の中のヨセフを高齢者と考える理由は見当たらない。

(注)別エントリー「イエスの『兄弟』『姉妹』:同胞か親戚か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1451