主イエスの弟子として信仰生活を送っている人は、過去から現在に至る自分の問題点と主の仰せとを照らし合わせた時「自分は何と愚かなことをしたのだろう」と良心の痛みに苛まれることがあるが、この痛みは主の御旨に接近している証拠でもある。真の信仰がない人は、この痛みに苛まれることが全くない。
(注)別エントリー「試論:『ダビデ王の十字架』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11707
【追記】
主イエスはルカ14章27節で「自分の十字架を背負って従う者でなければ誰であれわたしの弟子ではありえない」と仰せになり、信仰生活を送る上で自分の問題点となる事柄を「自分の十字架」と表現された。「塔を建てる」「敵を迎え撃つ」とは今現在の自分の問題点を直視し把握することのたとえである。
(注)別エントリー「『自分を捨て、自分の十字架を背負って』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18140
(注)別エントリー「試論:『腰を据える』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12480
(注)別エントリー「試論:腰を据える(=専念する)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18738