主イエスが仰せになった「自分の十字架」に関連して、パウロは「自分の重荷」とガラテヤ6章5節で表現した。ダビデは家来の妻に横恋慕して家来を激戦地に送って死なせ、妻を手に入れたが、詩編38編で自分の罪悪を「重荷」と表現し、以前の自分の過失の記憶が神の御前で良心を苦しめ続けると歌った。
(注)別エントリー「試論:『十字架を背負って従う』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『ヨセフと先祖の王たち』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
「十字架」に関しルカ9章23節は「日々」と記して日常との事連を示唆し「自分を捨て」と記して自分の諸欠点との関連を示唆する。二コリント11章28節「日々の厄介事や心配事」。「捨てるべき古い自分」は自分の諸欠点、「自分の十字架」は自分の諸欠点に伴う日常の労苦(厄介事、心配事)である。
(注)別エントリー「試論:『自分を捨てる』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『捨てる』べきものは何?を140文字以内で」も参照のこと。
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詩編38編5(4)節ではダビデは「重荷」という表現で、以前に犯した過失の記憶が良心の呵責となっていると歌う。パウロはガラテヤ6章5節で「自分の重荷を負いなさい」と表現して各自が自分の良心の問題に向き合うよう勧め、同2節では「互いの重荷を担う」という表現で互いに赦し合うよう勧める。
(注)別エントリー「試論:『憐れみと赦し』を140文字以内で」も参照のこと。
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ダビデは詩編38編5(4)節で自分の過去の罪悪を「重荷」と呼び、以前の過失の記憶が神の御前で良心を責めると歌った。主イエスはマタイ11章28節で「重荷を負い疲れた人はわたしの許へ来なさい。休ませよう」と仰せられ、「自分は悪くない」と開き直る人以外は救いの対象である旨を宣言された。
(注)別エントリー「試論:『休ませてあげよう』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『わたしの許へ来なさい』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『疲れ』を140文字以内で」も参照のこと。
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