ファリサイ派の人と徴税人

(以下、聖書の日本語訳は、基本的にはフランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』〔サンパウロ〕によりますが、必要に応じて他の日本語訳も適宜、引用します)

◯ルカによる福音書18章9節~14節
「また、自分を正しい人間であると思い込み、ほかの人をさげすむ人々に、イエスは喩(たと)えを語られた。二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人であった。ファリサイ派の人は胸を張って立ち、心の中でこう祈った、『神よ、わたしがほかの人たちのように、略奪する者でも不正な者でも、姦淫を(かんいん)を犯す者でもなく、また、この徴税人のような者でもないことを、あなたに感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を納めています』。ところが、徴税人は遠くに立って、目を上げようともせず、胸を打ちながら言った、『神よ、罪人(つみびと)であるわたしを憐(あわ)れんでください』。あなた方に言っておく。義とされて家に帰ったのは徴税人であって、ファリサイ派の人ではない。誰(だれ)でも高ぶる者は下げられ、自らへりくだる者は上げられる」

◯箴言29章23節
「人の高慢はその人を低くするが、へりくだる人は誉れを得る」

日本聖書協会新共同訳では「心の低い人は誉れを受けるようになる」とあり、「へりくだる人」を「心の低い人」と訳している。確かに「心の低い人」とは直訳調の表現ではあるが、しかしマタイ5章3節の「心の貧しい人」という表現を連想させるものでもある。

◯箴言8章12節~13節
「わたしは、知恵であり、分別とともに住み、わたしには知識と思慮とがある。──主を畏(おそ)れることは、悪を憎むことである──わたしは、高ぶりと、驕(おご)りと、悪の道と、ひねくれた口とを憎む」

◯マタイによる福音書23章11節~12節
「あなた方の中でいちばん偉い者は、みなに仕える者になりなさい。自ら高ぶる者は下げられ、自らへりくだる者は上げられる」

◯箴言11章2節
「高慢の来る所に恥も来る。しかし、知恵はへりくだる者とともにある」

◯箴言15章33節
「主を畏れることは知恵の基(もとい)。謙遜(けんそん)は誉れに先立つ』

◯ルカによる福音書14章11節
「誰でも自ら高ぶる者は下げられ、自らへりくだる者は上げられる」

◯箴言6章16節~19節
「主の憎むものが六つある。いや、その忌み嫌うものが七つある。高慢な目、偽(いつわ)る舌、罪のない者の血を流す手、邪な計画を企む心、悪に走る速い足、偽りを吐く偽証人、兄弟の間に口喧嘩(くちげんか)の種を蒔(ま)く者が、これである」

◯ルカによる福音書16章13節~15節
「『どんな僕(しもべ)でも、二人の主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、または、一方に尽くし他方を軽んじるかである。あなた方は神と富に兼ね仕えることはできない』。さて、金銭を愛するファリサイ派の人々は、これらのすべてを聞いて、イエスをあざ笑った。そこで、イエスは彼らに仰せになった、『あなた方は、人々の前で自らを正しいとしているが、神はあなた方の心を知っておられる。人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものである』」

◯箴言21章24節
「高慢で横柄な者──その名は『あざける者』。彼はいばって、横柄な振る舞いをする」

◯箴言16章5節
「主は心高ぶる者をすべて忌み嫌われる。この者が罰を免れないのは確かである」

◯シラ書10章7節
「高慢は、主にも人にも嫌われる。不正は、そのいずれにも好まれない」

◯シラ書16章8節
「主はロトの住んでいた町でさえも見逃されなかった。その住民の高慢を忌み嫌われたのだから」

◯ペトロの第一の手紙5章6節~8節
「ですから、神の力強い手のもとに、へりくだりなさい。時が来れば、神があなたを高めてくださるでしょう。すべての思い煩いを神に委ねなさい。神があなた方を、顧(かえり)みてくださるからです。身を慎み、目を覚ましていなさい。あなた方の反対者、悪魔が、誰かを食い尽くそうと探し回っています」

◯箴言16章18節
「うぬぼれは破滅に先立ち、高慢心は没落に先立つ」

◯箴言17章19節
「争いを好む者は傷を好む。高ぶって語る者は滅びを求める」

◯シラ書10章12節〜13節、18節
「高慢の初めは主から離れることであり人の心がその造り主から遠ざかることである」
「高慢の初めは罪であり、高慢にしがみつく人は、忌まわしいことを、雨のように降らす。それ故、主は信じ難い災いを下し、彼らを完全に滅ぼされた」
「高慢は人間のために造られたのではなく、激しい憤(いきどお)りは女から生まれた者のために造られたのではない」

◯知恵の書5章8節
「われわれの高慢は何の役に立ったのか。富と驕りはわれわれに何をもたらしたのか」

◯詩編138(137)編6節
「主は高くいますが、低い者を顧みられ、高ぶる者には近づかれない」

◯ルカによる福音書22章24節~30節
「また、使徒たちの間では。自分たちの中で、誰がいちばん偉いかという議論が起こった。そこで、イエスは仰せになった、『異邦人の王たちは国民を支配し、国民の上に権力をふるう者は恩恵者と呼ばれている。しかし、あなた方はそうであってはならない。むしろ、あなた方のうちでいちばん偉い者は、年下の者のようになりなさい。また上に立つ者は、給仕する者のようになりなさい。食卓に着く者と給仕する者とでは、どちらが偉いか。食卓に着く者ではないか。しかし、わたしはあなた方の中で、給仕する者のようになっている。あなた方は、わたしの数々の試練の時に、ともに踏み留(とど)まってくれた。そこで、わたしの父がわたしに王権を委ねてくださったように、わたしもあなた方に王権を委ねる。あなた方はわたしの国で、わたしの食卓に着いてともに食べたり飲んだりし、王座について、イスラエルの十二部族を裁くであろう」

ルカ22章29節の「わたしの父がわたしに王権を委ねてくださったように、わたしもあなた方に王権を委ねる」という箇所は当然、黙示録3章21節「勝利を得る人を、わたしとともにわたしの王座につかせよう。それは、わたしが勝利を得て、父とともに父の玉座についたのと同じである」と同じ事柄を表わしており、神と人との間の仲介者としての主イエス・キリスト(テモテへの第一の手紙2章5節)の役割を端的に表現している。

◯ルカによる福音書1章47節~53節
「わたしの魂は主を崇(あが)め、わたしの霊は、救い主である神に、喜び躍ります。主が、身分の低いはしために、目を留めてくださったからです。そうです、今から後、いつの時代の人々も、わたしを幸いな者と呼ぶでしょう。力ある方が、わたしに偉大な業を行われたからです。その名は尊く、その憐みは代々(よよ)限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕をもって力ある業を行われ、心の思いの高ぶった者を、追い散らされました。権力をふるう者をその座から引き下ろし、身分の低い者を引き上げられました。飢えた者を善いもので満たし、富める者をむなしく追い返されました」

◯詩編34(33)編19節
「主は、心の打ち砕かれた者の近くにあり、霊の打ち砕かれた者を救われる」

◯詩編51(50)編19節
「悔いる霊こそ、この上ない犠牲(いけにえ)。神よ、あなたはへりくだった悔いる心を、さげすまれません」

◯詩編147(146)編6節
「主はへりくだる者を支え、悪い者を地に倒される」

◯イザヤ書57章15節
「まことに、高く上げられ、とこしえに住まわれ、その名が聖なる方は、こう仰せになる、『わたしは高く、聖なる場所に住まうが、打ち砕かれ、霊においてへりくだった者とともにいる。霊においてへりくだった者たちに新しい命を与え、心の打ち砕かれた者たちに新しい命を与えるために』」

◯ヤコブの手紙4章4節~8節
「神を捨てた人々よ、この世への愛着は、神の敵であることを知らないのですか。この世の友になりたいと思う者はみな、自分を神の敵とするのです。それとも、神はわたしたちに宿らせた霊を、嫉妬(しっと)するほど慕っておられる、と聖書に言われているのは、むなしいことだと思うのですか。また、さらに豊かな恵みをお与えになります。そこで、『神は高ぶる者に逆らい、へりくだる者に恵みをお与えになる』と言われています。ですから、神に従い、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなた方から逃げ去ります。神に近づきなさい。そうすれば、神もあなた方に近づいてくださいます。罪人たちよ、手を清めなさい。二心のある人々よ、心を清めなさい」

フランシスコ会聖書研究所訳の欄外の注によれば、6節の「神は高ぶる者に逆らい、へりくだる者に恵みをお与えになる」は、ギリシア語訳箴言3章34節の引用。

◯ヤコブの手紙4章9節~10節
「悲しみなさい、嘆きなさい、泣きなさい。笑いを嘆きに変え、喜びを悲しみに変えなさい。主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主はあなた方を高めてくださいます」

◯マタイによる福音書5章3節~10節
「自分の貧しさを知る人は幸いである。天の国はその人たちのものである。悲しむ人は幸いである。その人たちは慰められる。柔和な人は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人は幸いである。その人たちは満たされる。憐(あわ)れみ深い人は幸いである。その人たちは憐れみを受ける。心の清い人は幸いである。その人たちは神を見る。平和をもたらす人は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害されている人は幸いである。天の国はその人たちのものである」

フランシスコ会訳の欄外の注には、「『自分の貧しさを知る人』は、一般には『心の貧しい人』と訳されているが、直訳では『霊において貧しい人』。」と書かれている。
ヤコブ4章においては「この世の友」と「神の敵」が同一視されていることを踏まえれば、「霊において貧しい人」とは「この世への愛着」を捨てて神に従う人のことであると考えられる。