主イエスはマタイ25章で「十人の乙女」のたとえを話されたが、7章にある通り「賢い」は主の御言葉を聞いて行うことを指し、「愚かな」は御言葉を聞くだけで行わないことを指す。詩編45編8(7)節は「神に従うことを愛して、逆らうことを憎むあなたは、油を注がれた。神の喜びの油を」と歌った。
【追記】
「ともし火」は信仰の賜物、「油」は日頃の行い、「店」は「油」が増すように補う主の御言葉、「愚かな乙女」は御言葉を聞き流して行わなかった人(マタイ7章26節)、「花婿」は主イエスを指す。信仰は本人が絶やさぬよう努力すべきで本人が何もせずとも不足分を隣人から分与される類の話ではない。
(注)別エントリー「試論:聞くだけの人を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5294
(注)別エントリー「試論:砂の上の家を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5563
(注)別エントリー「試論:『主よ、主よ』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:神から受けた掟を140文字以内で」も参照のこと。
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