イザヤ50章5節「主なる神が、わたしの耳を開かれて、〜」詩編40編7(6)節〜9(8)節「わたしの神、主よ。いけにえも供え物もあなたは求めずに、ただ、わたしの耳を開かれた。御覧ください、わたしは巻物に記された通り来ました。わたしの神よ、わたしは御旨が行われることを望んでいます」。
【追記】
イザヤ50章5節「主なる神が、わたしの耳を開かれ、わたしは逆らわずに従い、逃げなかった」マルコ14章36節「父よ、あなたは何でもおできになります。この杯(さかずき)をできることならわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。
ヨハネ10章30節「わたしと御父とは一つ」38節「御父はわたしの内におられ、わたしは御父の内にある」14章31節「わたしは御父を愛しており、御父がお命じになったことを、実行している」15章10節「わたしが御父の掟と愛にとどまっているように、あなたがたもわたしの掟を守るなら、〜」。
ニケア・コンスタンチノープル信条「父と一体」はヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」と38節に拠り、御父と御子の間には矛盾・対立・齟齬の類は一切ないことを表す。ギリシア神話では最高神ゼウスと父クロノス、クロノスと父ウーラノスの父子相剋が存在するが、キリスト教には全く存在しない。
(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662
主はヨハネ10章30節で「わたしと父とは一つ」と仰せになった後、17章では弟子たちのために天を仰いで祈られたが、それは御父と御自分が「一つ」であるように、弟子たちもまた「一つ」となるためであった(11節、21節〜23節)。使徒言行録4章32節「信じた人々の群れは心も思いも一つ」。
古代のギリシア語イザヤ50章6節は「わたしは鞭打つ者に背中を、平手打ちする者に頬を向け、なお嘲りと唾からも顔をそむけることがなかった」と記し、この節をマタイ5章39章の主の仰せそして御受難の際(マルコ14章〜15章)の主の御苦しみと御振舞いに、最も近いニュアンスで、解釈している。
(注)別エントリー「試論:御受難の際の主の模範を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6315
主はヨハネ12章27節で「今わたしは心騒ぐ」と仰せになり御自分の内面は穏やかでないと告白された。多くの侮辱を伴う凄惨なリンチの末に、十字架を背負わされ、「御自分の民」から罵声を浴びながら体力を消耗し尽くし、ぼろ布のような状態で大きな苦しみの内に息絶える日がそこまで来たからである。