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黙示録12章の「女」は救い主の母その人

(このエントリーでは、聖書の日本語はフランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』(サンパウロ)によりました。以下のギリシア語のうち、イザヤ書は七十人訳聖書によります。ギリシア語はラテン文字転写して表記します)

◯創世記3章15節
「わたしはお前と女の間に、またお前の子孫と女の子孫との間に敵意をおく。彼はお前の頭を踏みつけ、お前は彼のかかとに咬みつく」

◯イザヤ書7章14節
「見よ、おとめが身籠って男の子を産み(texetai)、その名をインマヌエルと呼ぶ」

◯マタイによる福音書1章16節
「キリストと呼ばれるイエスは、このマリアからお生まれになった」

◯マタイによる福音書1章21節
「彼女は男の子を産む(texetai)。その子をイエスと名づけなさい。その子は自分の民を罪から救うからである」

◯マタイによる福音書1章23節
「見よ、おとめが身籠って男の子を産む(texetai)」

◯マタイによる福音書1章25節
「マリアが男の子を産む(eteken)まで、ヨセフは彼女を知ることはなかった。そして、その子をイエスと名づけた」

◯マタイによる福音書2章2節
「お生まれになった(techtheis)ユダヤ人の王はどこにおられますか。わたしたちはその方の星が昇るのを見たので、拝みに来ました」

◯ルカによる福音書1章30節〜33節
「恐れることはない、マリア。あなたは神の恵みを受けている。あなたは身籠って男の子を産む(texē)。その子をイエスと名づけなさい。その子は偉大な者となり、いと高き方の子と呼ばれる。神である主は、彼にその父ダビデの王座をお与えになる。彼はヤコブの家をとこしえに治め、その治世は限りなく続く」

◯ルカによる福音書2章6節〜7節
「ところが、二人がそこにいる間に、出産(tekein)の日が満ちて、マリアは男の初子を産んだ(eteken)」

◯ヨハネによる福音書16章21節
「女は、子を産む(tiktē)とき、苦しい思いをする。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれた喜びのために、もはや産みの苦しみを忘れてしまう」

◯ヨハネの黙示録12章1節〜2節
「また、天に大きな徴が現れた。それは、太陽をまとった女で、月がその足の下にあり、頭上には十二の星の冠を戴いていた。女は身籠っており、子を産む(tekein)苦しみと痛みのために泣き叫んでいた」

◯ヨハネの黙示録12章4節〜5節、9節
「そして竜は、子を産もう(tekein)としている女の前に立っていた。産んだら(tekē)すぐ、その子を食い尽くすためであった。女は男の子を産んだ(eteken)。この子は鉄の杖をもってすべての国民を治めることになっていた。この子は、神のもとに、その玉座に引き上げられた」
「こうして、巨大な竜は投げ落とされた。あの太古の蛇、サタンとも悪魔とも呼ばれたもの、全世界を惑わすものは地上に投げ落とされた。その使いたちも、もろともに投げ落とされた」

◯ヨハネの黙示録12章13節、17節
「竜は、自分が地上に投げ落とされたのを知って、男の子を産んだ(eteken)女を追いかけた」
「竜は女に対して激しく怒り、女の子孫のうち残りの者たち、すなわち神の掟を守り、イエスの行われた証しを保持している人々に戦いを挑むために出ていった」

〔注〕マタイとルカの両福音書において、「産む」を意味するギリシア語の動詞“tiktō”が用いられる場合、産まれる子が主イエス・キリストである文脈では、当然ながら主語は聖母マリアということになる。ならば、黙示録12章において、同じ動詞“tiktō”が五か所に用いられ、そして産まれる「男の子」(5節)が主イエス・キリストであるとするなら、主語となる「女」もまた、聖母マリアを指していると解釈するのが、最も自然である。上に列挙した例からも容易に理解できる通り、このギリシア語の動詞は第一義的にはなにより生物学的な母子関係を意味している。

【考察】

ヨハネの黙示録12章17節には、「竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者たち、すなわち神の掟を守り、イエスの行われた証しを保持している人々に戦いを挑むために出ていった」と記されている。
この部分と、創世記3章15節の「わたしはお前と女の間に、またお前の子孫と女の子孫との間に敵意をおく」を読み比べれば、

“女”=“主イエス・キリストの母マリア”

“女の子孫”=“主イエス・キリスト”+“神の掟を守り、イエスの行われた証しを保持している人々”

であると、おのずと明らかになる。

ところでヨハネの黙示録12章の「女」に関して、これは教会のことだとする解釈が、カトリック教会においても存在する。
確かに、教会はサタンと決定的に対立すべきであるし、また、主イエス・キリストに対する教会の信仰にあずかることによって、わたしたちは神の子となることができる(ヨハネによる福音書1章12節、ガラテヤの人々への手紙4章5節、エフェソの人々への手紙1章5節など)。

しかし主イエス・キリストは、教会から生まれたわけではない。それは絶対にありえない。
たとえ比喩的表現であれ、その考えは成立しない。
主イエス・キリストを「産んだ」のは、第一義的には当然ながら母マリアであって(マタイによる福音書1章16節、同1章21節、ルカによる福音書1章31節〜33節、同2章6節〜7節)、教会ではありえない。

「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(ルカによる福音書1章38節)というマリアの神に対する承諾の意思表示それから絶対的な従順がなければ、主イエス・キリストひいては教会そのものも、この世にはもたらされなかったのである。
よって、厳密に言えば、ヨハネの黙示録12章の「女」とは、「鉄の杖ですべての国民を治める」主イエス・キリストを「産んだ」その母マリア、聖母以外にはありえない。

そもそも、エフェソの人々への手紙1章22節には「そして、すべてのものをその足元に従わせ、すべての上に立つ頭(かしら)として、キリストを教会にお与えになりました」と書かれており、また続く23節には「教会はキリストの体です」と書かれているから、教会が主イエス・キリストを生むという考え方はやはりどこか不自然で、本末転倒と言わざるをえない。

またコロサイの人々への手紙1章18節にも、「御子(おんこ)は教会という体の頭(かしら)」「御子は初めであり」「彼はすべてにおいて第一の者となられた」と書かれている。

聖母マリアは聖霊の花嫁であり、主イエス・キリストの花嫁が教会である。また、ここまでの議論でも示された通り、聖母マリアは教会の母でもある。
その意味では、黙示録12章の「女」とは教会というよりは救い主の母その人を指すと考えるべきである。

ヨハネの黙示録12章の「女」が聖母であるならば、同じように創世記3章15節の「女」に関しても、やはり主イエス・キリストの母マリア、聖母以外にはありえないということになる。
なぜなら、前述した通り、ヨハネの黙示録12章とは創世記3章15節をより詳しく説明している内容のものだからである。

(注)別エントリー「教義『無原罪の御宿り』の聖書的根拠」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/52

さて、カトリック以外の人々から、「カトリックが創世記3章15節の『女』をイエスの母マリアにあてはめて論じようとするのはおかしい」と批判されることが、キリスト教の歴史上、たびたび起こった。
けれども創世記の原罪の物語を、3章までだけでなく4章までを一連のものとして読み進めていけば、3章15節の主なる神の御言葉の中の「女」がエバには決してあてはまらないことは、おのずと明らかとなる。
「初子」カインという大罪人の存在それ自体が、「女」がエバではないということを証明しているのである。
ヨハネの第一の手紙の3章10節と12節そして知恵の書10章3節は、カインが最終的に“神に属する者”ではなく“悪に属する者”となってしまったことを、明らかにしている。

◯知恵の書10章3節
「しかし、ある不正な者が怒って知恵を離れ去り、憤(いきどお)って兄弟を殺したことで滅(ほろ)び失(う)せた」

◯ヨハネの第一の手紙3章8節〜10節、12節、15節
「罪を犯す人は、悪魔に属しています。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子は、悪魔の業を滅ぼすために現れたのです。神から生まれた人はみな、罪を犯しません。神の種がその人のうちに止まっているからです。その人は、神から生まれたので、罪を犯すことができません。このことによって、神の子と悪魔の子との区別は明らかです。義を行わない人はみな、神に属していないものです。また、兄弟を愛さない者も同様です」
「カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属し、兄弟を殺しました」
「兄弟を憎む人はみな、人殺しです。あなた方も知っているように、すべて人殺しのうちには、永遠の命は留まりません」

(注)別エントリー「創世記3章15節:蛇の頭を踏み砕く者は誰か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1488

結局のところ、カトリック信者の聖母崇敬の聖書的根拠は、創世記3章15節そして黙示録12章に登場する「女」──その存在の始まりの時から「悪」そして「罪」などとは徹底して無縁であり続ける女性こそ、救い主の母となられた方その人であったということによるのである。

「サタン」「悪魔」「竜」「太古の蛇」「全世界を惑わすもの」などと呼ばれるものとは決定的に対立する「女」の存在が、創世記3章15節と黙示録12章には記述されているが、人類の歴史上に存在した全ての女性の中からそれに相応しい一人を探すとすれば、それは「救い主の母」その人以外にはあり得ないことが瞬時に理解できるはずである。

逆にいえば、「救い主の母」以外の女性が創世記3章15節や黙示録12章における「女」に該当するなどということは、可能性としてはゼロとしか考えられないし、かといって創世記3章15節や黙示録12章における「女」を教会のことであるとする考え方も、しかし黙示録12章において用いられているギリシア語動詞が第一義的に生物学的な母子関係を意味するという事実や、さらにエフェソ1章22節やコロサイ1章18節における教会とキリストとの関係性を踏まえるならば、やはり相当な違和感を否めない。

(注)別エントリー「予備的考察:聖母崇敬そして聖ヨセフ崇敬の起源とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1750