(以下、聖書の日本語訳は、基本的にはフランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』〔サンパウロ〕によりますが、必要に応じて他の日本語訳も適宜、引用します)
【1】隣人愛(レビ記19章18節)の対極にあるものとは
◯レビ記19章18節
「復讐(ふくしゅう)してはならない。お前の民の子らに恨みを抱いてはならない。お前の隣人をお前自身のように愛さなければならない。わたしは主である」
主イエス・キリストがマタイ22章で言及された隣人愛の掟(39節)は、このレビ記19章18節を引用されたものであるが、レビ記の同じ章には「中傷」「偽証」「心のうちで憎む」「復讐」「恨み」など、隣人愛の反対に該当する事柄が色々と列挙されている。
◯レビ記19章16節
「お前の身内を歩き回って、人を中傷してはならない。お前の隣人の命に関わるような偽証をしてはならない。わたしは主である」
◯箴言12章18節
「軽々しく話す人は傷を与える剣(つるぎ)のようなもの。しかし、知恵ある者の舌は人を癒(い)やす」
◯箴言18章21節
「死と生は舌の力によって左右される。これを愛する者は、その実を食す」
フランシスコ会聖書研究所訳の欄外の注には、「本節では話すことに対する注意を喚起する。言葉によって人間は大きな幸福である長寿と繁栄を得ることも、最大の不幸である短命をもたらすこともある」と記されている。
◯出エジプト記23章1節
「根も葉もないうわさを口にしてはならない。悪人に手を貸して暴虐(ぼうぎゃく)を助長(じょちょう)する証人となってはいけない」
◯箴言19章5節
「偽りの証人は罰を免れない。偽りを言いふらす者も、逃げられない」
◯箴言19章9節
「偽りの証人は罰を免れず、偽りを吐く人は滅びる」
◯箴言14章5節
「真実な証人は偽りを言わないが、偽証人は偽りを言いふらす」
◯ヤコブの手紙4章11節~12節
「兄弟たちよ、互いに悪口を言い合ってはなりません。兄弟の悪口を言ったり、裁いたりする者は、律法の悪口を言ったり、律法を裁いたりすることになります。もしあなたが律法を裁くなら、あなたは律法の実践者ではなくて、律法の裁き手です。律法を定め、かつ裁く方は、ただおひとりであり、その方は救うことも、滅ぼすこともおできになるのです。隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか」
◯ローマの人々への手紙1章28節~32節
「彼らは、神を深く知ることに価値を認めなかったので、神は彼らを価値のない考えのままに任せられました。そこで彼らはしてはならないことをしています。彼らはあらゆる邪なことと悪と貪欲(どんよく)と悪意に満ち、妬みと殺意と争いと欺きと敵意に溢(あふ)れ、陰口を言い、謗(そし)り、神を憎み、人を侮り、高ぶり、自慢し、悪事を編み出し、親不孝で、弁(わきま)えがなく、約束を守らず、薄情で、無慈悲です。こういう者たちは死に値するという神の定めを、彼らはよく知りながら、自ら行うばかりでなく、そのようなことを行う人たちに賛同しています」
【2】シナト・ヒナム:理由のない敵意(憎しみ、悪意)
◯レビ記19章17節
「心のうちでお前の兄弟を憎んではならない。必要なら同胞を戒(いまし)めなければならない。そうすれば、彼のことで罪を負うことはないであろう」
この節の「心のうちで憎む」ことは、「理由もなく憎む」ことと同じと考えられ、ヘブライ語では「シナト・ヒナム(sinat chinam – שנאת חנם:理由のない憎しみ〔敵意、悪意〕)」と呼ばれた。この「シナト・ヒナム」は当然、ヨハネ福音書15章25節の「人々は理由なしにわたしを憎んだ」という箇所とも無関係であるはずがない。ユダヤの伝承文学では、紀元七〇年にエルサレムの第二神殿が滅亡するに至った理由について、当時の人々の間に「シナト・ヒナム」が蔓延していたためであると、説明している。
◯ヨハネによる福音書15章23節~25節
「わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいるのである。ほかの誰も行わなかったような業を、わたしが彼らの間で行わなかったら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今、彼らはその業を憎んでいる。しかし、これは、『人々は理由なしにわたしを憎んだ』と、彼らの律法に書かれている言葉が成就するためである」
ヨハネ福音書では時として「律法」という表現で旧約聖書全体を指している場合があるが、25節の「人々は理由なしにわたしを憎んだ」と関連しているのは、詩編の35(34)編19節そして69(68)編5節である。
◯詩編35(34)編19節
「だまし打ちを仕掛ける敵を喜ばせず、故なくわたしを憎む者が、目くばせし合うことのないようにしてください」
「目くばせ」に関して、フランシスコ会聖書研究所訳の箴言6章の欄外の注には、「この悪者の身振りは他の人を罪に陥れるためのもの。」とある。
◯詩編69(68)編5節
「故なくわたしを憎む者は髪の毛よりも多く、わたしを欺く敵は頭の毛よりもおびただしい」
日本聖書協会新共同訳では「理由もなくわたしを憎む者は この頭の髪よりも数多く いわれなくわたしに敵意を抱く者 滅ぼそうとする者は力を増して行きます」となっている。
◯詩編109(108)編2節~3節
「彼らはわたしに対して悪い口、欺(あざむ)きの口を開き、偽りの舌でわたしに語りました。憎しみの言葉でわたしを囲み、故なくわたしを攻め立てました」
◯レビ記19章11節
「お前たちは盗んではならない。欺いてはならない。互いに偽ってはならない」
◯レビ記19章13節
「お前の友を虐(しいた)げてはならない。奪ってはならない。雇い人の賃金を翌朝(よくあさ)まで留(とど)めおいてはならない」
◯レビ記19章14節
「耳の聞こえない人を呪ってはならない。目の見えない人の前につまずきとなる物を置いてはならない。お前の神を畏れなければならない。わたしは主である」
◯申命記27章18節
「『目の見えない人を道に迷わせる者は呪われる』。民はみな『アーメン』と言いなさい」
◯レビ記25章17節
「お前たちは互いに隣人に害をもたらしてはならない。お前の神を畏(おそ)れなければならない。わたしはお前たちの神、主だからである」
新共同訳では「相手に損害を与えてはならない」と表現されている。
【3】人をつまずかせる者は不幸である
◯マタイによる福音書18章7節
「人をつまずかせるこの世は不幸である。つまずきは避けられない。しかし、人をつまずかせる者は不幸である」
◯ルカによる福音書17章1節~2節
「また、イエスは弟子たちに仰せになった、『つまずきが生じるのを避けることはできない。しかし、それをもたらす人は不幸である。その人にとって、この小さな者の一人をつまずかせるよりは、むしろ首に碾(ひ)き臼(うす)をくくられ、海に投げ込まれるほうがましである』」
◯ローマの人々への手紙14章13節
「したがって、もはや互いに裁き合わないようにしましょう。むしろ、妨げになるものや、つまずきになるものを、兄弟に対して置かないよう決心しなさい」
◯ペトロの第一の手紙2章1節~2節
「それ故、あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、妬み、一切の悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、み言葉である清い乳を切に求めなさい。それによって、あなた方が成長し、救いに至るためです」
◯箴言24章28節
「理由もなく、お前の隣人に反対して証言するな。お前の唇で欺いてはならない」
◯ゼカリヤ書7章9節~10節
「万軍の主はこう仰せになる、『正しい裁きを行い、互いに慈しみをもって思いやり、やもめと孤児、在留する他国の者と貧しい者を虐(しいた)げてはならない。互いに心の中で悪を企(たくら)んではならない』」
◯ゼカリヤ書8章16節~17節
「お前たちがなすべきことはこれである。互いに真実を語り、城門では真実と平和をもたらす正しい裁きを行え。互いに心の中で悪を謀(はか)るな。偽りの誓いを愛してはならない。これらのすべてをわたしは憎むからだ──主の言葉」
◯箴言6章16節~19節
「主の憎むものが六つある。いや、その忌み嫌うものが七つある。高慢な目、偽(いつわ)る舌、罪のない者の血を流す手、邪な計画を企む心、悪に走る速い足、偽りを吐く偽証人、兄弟の間に口喧嘩(くちげんか)の種を蒔(ま)く者が、これである」
◯箴言10章18節
「憎しみを隠す者は偽りの言葉を吐く。悪口を言いふらす者は愚か者」
◯ルカによる福音書6章45節
「善い人は、心にある善い倉から善い物を出し、悪い人は、心にある悪い倉から悪い物を出す。口は心に溢れることを語るものである」
◯マタイによる福音書12章33節~35節
「木が善ければその実も善く、木が悪ければその実も悪いと思いなさい。木はその実によって分かる。蝮(まむし)の子らよ、悪人でありながら、どうしてお前たちが善いことを語ることができるのか。口は心に溢れることを語るものである。善い人は、善い物を入れた倉から善い物を取り出し、悪い人は悪い物を入れた倉から悪い物を取り出す」
◯箴言10章6節
「祝福は正しい者の頭(こうべ)に宿るが、悪者の口には暴虐が潜んでいる」
◯箴言10章11節
「正しい者の口は命の泉。しかし、悪者の口には暴虐が潜んでいる」
◯箴言11章9節
「不敬な者は、その口によって隣人を滅ぼすが、正しい人は、その知識によって彼らを救う」
◯箴言15章26節
「悪い企(くわだ)ては主の忌み嫌うもの。心地よい言葉は清い」
「悪い企て」は新共同訳では「悪意」。
◯箴言3章29節、32節
「信頼してお前と一緒に住んでいる隣人に、悪を企んではならない」
「主は邪(よこしま)な人を忌み嫌われる。しかし、まっすぐな人に親しくされる」
◯マルコによる福音書7章14節~15節、20節~23節
「それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて仰せになった、『みな、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の中に入るもので、人を汚すことのできるものは何一つない。人の中から出てくるものが人を汚すのである』」
「さらにまた仰せになった、『人から出てくるもの、それが人を汚すのである。内部、すなわち人の心の中から邪念が出る。姦淫、盗み、殺人、姦通、貪欲、悪行、詐欺(さぎ)、卑猥(ひわい)、妬み、謗り、高慢、愚かさなど、これらの悪はすべて内部から出て、人を汚すのである」
フランシスコ会聖書研究所訳では21節で「邪念」と表現されている原文のギリシア語は、新共同訳では「悪い思い」、バルバロ訳(講談社)「悪い考え」、ラゲ訳(中央出版社)「悪念」などとそれぞれ表現されている。ここでも同じく、主は神への愛と隣人愛の反対に該当する事柄について全般的にお話しになられている。
【4】あなたが悪に手を染めないならば、悪はあなたを捕まえられない
◯シラ書7章1節~3節
「悪事を働くな。そうすれば、悪がお前に襲いかかることはない。不義から遠ざかれ。そうすれば、不義はお前からそれて去る。不義の畝間(うねま)に種を蒔(ま)くな。そうすれば、七倍の収穫を刈り取ることはあるまい」
3節の「七倍の収穫」の「七倍」とは、「不義」や「悪事」を働いたことに対する「報い」や「罰」の大きさに関する旧約聖書の慣用的な表現であり、早くも創世記4章15節には「主はカインに仰せになった、『ならば、カインを殺す者には誰でも、七倍の復讐(ふくしゅう)を受けるであろう』」、また24節には「カインのための復讐が七倍なら、レメクのためには七十七倍」といった記述がある。
◯箴言22章8節
「不正を播(ま)く者は災いを刈り取る。その怒りの鞭(むち)は彼自身を滅ぼす」
◯箴言26章27節
「穴を掘る者は自分がその穴に落ち、石を転がす者は、自分の上に、それが転がってくる」
◯箴言28章10節
「正直な人を悪い道に迷わす者は自分の掘った穴に陥(おちい)る。しかし、心の清い人は幸せを継ぐ」
◯マタイによる福音書5章8節
「心の清い人は幸いである。その人たちは神を見る」
◯コヘレト10章8節
「穴を掘る者はそれに落ち込み、石垣を崩す者は蛇に咬(か)まれる」
◯詩編57(56)編7節
「彼らはわたしの歩む所に網を張り、首を絞める縄(なわ)を備えました。彼らはわたしの前に穴を掘ったが、自らそこに落ち込みました」
◯ヨブ記4章8節~9節
「わたしの見たかぎり、不義を耕す者、害毒をまく者は、それを刈り取る。彼らは神の息吹によって滅び、その怒りの一吹きによって消(き)え失(う)せる」
◯箴言13章21節
「悪は罪人を追いかけ、善は正しい人に伴う」
◯箴言11章19節
「真に正しい人は命に至り、悪を追い求める者は死に至る」
◯箴言10章24節
「悪者の恐れていることは、その身に降りかかり、正しい者の望んでいることはかなえられる」
◯シラ書21章1節~3節
「子よ、罪を犯したのか。二度とこれを繰り返すな。過去の罪のために赦(ゆる)しを乞い願え。蛇を避けるように罪を避けよ。近づくと罪はお前に咬(か)みつく。その歯は獅子(しし)の歯のようで人の命を奪う。あらゆる不法は両刃(もろは)の剣(つるぎ)のようなもの。その負わした傷は癒(い)やすすべがない」
◯マタイによる福音書15章11節、17節~20節
「口に入るものが人を汚(けが)すのではない。口から出るものが人を汚すのである」
「口に入るものはみな腹に入り、厠(かわや)に落ちることが分からないのか。しかし、口から出てくるものは、心から出てくるもので、これが人を汚す。悪い考えや、殺人、不品行、盗み、偽証、冒瀆(ぼうとく)は、心から出てくる。これこそが人を汚す。手を洗わずに食べることは人を汚さない」
主イエス・キリストの御言葉をレビ記19章と関連付けて比較すると、この箇所で主は神への愛と隣人愛の反対に該当する事柄について全般的にお話しになられていると、理解できる。
【5】悪人や詐欺師は、だましだまされしながら悪から悪へと落ちていく
◯トビト記4章15節
「お前自身が嫌うことを他人にしてはならない」
新共同訳では「自分が嫌(いや)なことは、ほかのだれにもしてはならない」。講談社バルバロ訳(『トビアの書』)では「おまえのしてもらいたくないことは、他人にもするな」。
◯箴言12章13節
「悪人はその唇によって罠に陥る。しかし、正しい人は、その窮地から逃れる」
◯箴言13章5節
「正しい人は偽りを憎むが、悪者は恥と辱めをまき散らす」
◯箴言15章28節
「正しい者の心はどう答えるかを思い巡らすが、悪者の口は悪態をつく」
◯箴言21章26節
「悪者は一日じゅう、物を欲しがる。しかし、正しい人は惜しみなく与える」
◯箴言29章6節
「悪人の道には罠がある。しかし、正しい人はそれを逃れて喜ぶ」
◯箴言6章12節~15節
「ならず者や無法の者は、ひねくれた言葉を言って歩き回り、目配せをし、足で合図し、指でさす。そのひねくれた心は絶えず悪を企(たくら)み、不和をまき散らす。それ故、滅びが突然、彼を襲い、たちまち打ち砕かれて、彼は救われることがない」
この箇所に関して、フランシスコ会聖書研究所訳の欄外の注には、「この悪者の身振りは他の人を罪に陥れるためのもの。」とある。
◯箴言16章32節
「怒りを遅くする者は勇者に勝り、自分の心を治める者は町を征服する者に勝る」
◯箴言25章28節
「自分の心を抑えきれない者は、城壁のない廃墟(はいきょ)の町のようなもの」
◯テモテへの第二の手紙3章13節
「しかし、悪人や詐欺師は、だましたり、だまされたりして、悪から悪へと落ちていきます」
◯テモテへの第二の手紙3章1節~5節
「終わりの日には、困難な時が来ます。このことを悟りなさい。その時、人々は自分だけを愛し、金銭を貪(むさぼ)り、大言壮語し、高ぶり、ののしり、親に逆らい、恩を忘れ、神を汚(けが)すものとなるでしょう。また、非人情で、人と和解せず、中傷し、節度がなく、狂暴で善を好まないものとなり、人を裏切り、無謀で、驕(おご)り高ぶり、神よりも快楽を愛し、上辺(うわべ)は信心に熱心に見えるが、実際は信心の力を否定するものとなるでしょう。このような人々を避けなさい」
◯マタイによる福音書12章33節~35節
「木が善ければその実も善く、木が悪ければその実も悪いと思いなさい。木はその実によって分かる。蝮(まむし)の子らよ、悪人でありながら、どうしてお前たちが善いことを語ることができるのか。口は心に溢れることを語るものである。善い人は、善い物を入れた倉から善い物を取り出し、悪い人は悪い物を入れた倉から悪い物を取り出す」
◯ヤコブの手紙1章19節~21節
「わたしの愛する兄弟たちよ、心に留めておきなさい。人はみな、聞くに早く、語るに遅く、怒るにも遅くなければなりません。人の怒りは、神の義を実現するものではありません。ですから、あらゆる汚れや溢れ出る悪を捨てて、あなた方の心に植えつけられたみ言葉を素直に受け入れなさい。み言葉には、あなた方の魂を救う力があります」
◯詩編15(14)編1節~3節
「主よ、どのような人があなたの幕屋に留まれるのですか。どのような人があなたの聖なる山に住めるのですか。それは、咎(とが)なく歩み、義を行い、心からまことを語る人。舌に任せて人を傷つけず、友に悪を行わず、隣り人を辱(はずかし)めない者」
「隣り人を辱めない者」は、新共同訳では「親しい人を嘲(あざけ)らない人」、バルバロ訳では「ののしらぬ人」。
【6】人々を罪から救うために「救い主」は来られた
ルカ福音書2章11節には、「救い主(すくいぬし)」の誕生について語られている。
◯ルカによる福音書2章11節
「今日(きょう)、ダビデの町に、あなた方のために、救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである」
フランシスコ会訳の「メシア」という表現に該当する原文のギリシア語表現は、「クリストス(Χριστός – christos)」すなわちキリストである。
この箇所については、日本聖書協会新共同訳もフランシスコ会訳と同様に「メシア」という表現であり、一方で講談社バルバロ訳や中央出版社ラゲ訳では「キリスト」となっている。
さて、マタイ福音書1章では、聖霊によるマリアの妊娠に関連して、マリアの産む男の子は「自分の民を罪から救う」ということを、次のように記述している。
◯マタイによる福音書1章18節~21節
「イエス・キリスト誕生の次第は次のとおりである。イエスの母マリアはヨセフと婚約していたが、同居する前に、聖霊によって身籠(みごも)っていることが分かった。マリアの夫ヨセフは正しい人で、マリアのことを表ざたにすることを望まず、ひそかに離縁しようと決心した。ヨセフがこのように考えていると、主の使いが夢に現れて言った、『ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアを妻として迎え入れなさい。彼女の胎内に宿されているものは、聖霊によるのである。彼女は男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい。その子は自分の民を罪から救うからである』」
「救い主」である主イエス・キリストは、「罪」から人々を救われるということになる。
ルカ福音書1章77節には、「罪の赦(ゆる)しによる救い」という表現がある。
洗礼者ヨハネは主イエス・キリストを次のような表現で呼んでいた。
◯ヨハネによる福音書1章29節
「その翌日、ヨハネはイエスが自分の方に来られるのを見て、こう言った、『見るがよい。世の罪を取り除く神の小羊だ』」
「神の小羊」の前に、「世の罪を取り除く」とある。
次の箇所では、主イエス・キリストが成し遂げた事柄として、「罪の清め」を挙げている。
◯ヘブライ人への手紙1章3節
「御子は神の栄光の輝き、神の本性の完全な具現であり、その力ある言葉をもって万物を支え、罪の清めを成し遂げた後、いと高き所において、威光ある方の右の座におつきになりました」
この節では、「御子」である主イエス・キリストについて、「神の本性の完全な具現」という表現を用い、その神性を明確に宣言している。
さらにマタイ福音書6章には、「山上の説教」における、主イエス・キリストの次のような御言葉を記録している。
◯マタイによる福音書6章9節~15節
「だから、あなた方はこう祈りなさい、『天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。み旨が天に行われるとおり、地にも行われますように。今日の糧(かて)を今日お与えください。わたしたちの負い目をお赦しください。同じようにわたしたちに負い目のある人をわたしたちも赦します。わたしたちを誘惑に陥(おちい)らないよう導き、悪からお救いください』。人の過ちを赦すなら、あなた方の天の父もあなた方を赦してくださる。しかし、あなた方が人を赦さないなら、あなた方の父も、あなた方の過ちを赦してくださらない」
「悪」から救ってくださるよう御父である神に祈ることを、御子である主イエス・キリストは人々に説教されたのである。
そしてヨハネ福音書12章において主イエス・キリストは、御自分が到来された意義について、次のように語られている。
◯ヨハネによる福音書12章44節~50節
「イエスは叫んで仰せになった、『わたしを信じる人は、わたしを信じるのではなく、わたしをお遣わしになった方を信じるのである。また、わたしを見る人は、わたしをお遣わしになった方を見るのである。わたしは光として世に来た。わたしを信じる人がみな、闇(やみ)の中に留(とど)まることのないためである。わたしの言葉を聞いて、それを守らない人がいても、わたしはその人を裁かない。わたしが来たのは、世を裁くためではなく、世を救うためである。わたしを拒み、わたしを受け入れない人には、その人を裁くものがある。わたしの語った言葉、それが、終わりの日にその人を裁く。なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではない。わたしをお遣わしになった父ご自身が、わたしの言うべきこと、また語るべきことを、お命じになったからである。わたしは、父の命令が永遠の命であることを知っている。それで、わたしが語ることは、父がわたしに仰せになったことを、そのまま語っているのである」
この箇所においては、「救い主」が到来された意義とは人々を「永遠の命」に導くことであると、明言されているが、次の箇所でも同様の事柄が説明されている。
◯ヨハネによる福音書17章1節~3節
「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで仰せになった、『父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すことができるように、あなたの子に栄光をお与えください。あなたはすべての人を治める権能を、子にお与えになりました。子があなたに与えられたすべての人に、永遠の命を与えるためです。永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたを知り、またあなたがお遣わしになった、イエス・キリストを知ることです』」
ヨハネ福音書6章でも、主イエス・キリストが同じように語られている。
◯ヨハネによる福音書6章38節~40節
「わたしが天から降(くだ)ってきたのは、自分の意志を果たすためではなく、わたしをお遣わしになった方のみ旨を行うためである。わたしをお遣わしになった方のみ旨とは、わたしに与えてくださったすべてのものを、わたしが一人も失うことなく、終わりの日に、復活させることである。実に、わたしの父のみ旨とは、子を見て信じる者がみな、永遠の命を持ち、わたしが、その人を終わりの日に復活させることである」」
同じことがガラテヤの人々への手紙1章でも語られている。
◯ガラテヤの人々への手紙1章4節~5節
「イエス・キリストは、わたしたちの神であり父である方のみ旨に従い、悪のこの代からわたしたちを救い出そうとして、わたしたちの罪のために、ご自身をささげられたのです。わたしたちの父である神に代々限りなく栄光がありますように。アーメン」
コロサイの人々への手紙1章には次のように書かれている。
◯コロサイの人々への手紙1章13節~14節
「御父(おんちち)はわたしたちを闇の支配下から救い出し、その愛する御子(おんこ)が統治する国へ移し入れてくださいました。この御子に結ばれることによってわたしたちは贖(あがな)われ、罪の赦しを得ているのです」
【7】憎しみにとらわれている人に永遠の命は留まらない
ヨハネの第一の手紙3章には、憎しみにとらわれている人には「永遠の命は留まりません」ということが記されている。
◯ヨハネの第一の手紙3章8節~10節、12節、15節
「罪を犯す人は、悪魔に属しています。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子は、悪魔の業を滅ぼすために現れたのです。神から生まれた人はみな、罪を犯しません。神の種がその人のうちに止まっているからです。その人は、神から生まれたので、罪を犯すことができません。このことによって、神の子と悪魔の子との区別は明らかです。義を行わない人はみな、神に属していないものです。また、兄弟を愛さない者も同様です」
「カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属し、兄弟を殺しました」
「兄弟を憎む人はみな、人殺しです。あなた方も知っているように、すべて人殺しのうちには、永遠の命は留まりません」
ローマの人々への手紙6章でも、「永遠の命」について言及されている。
◯ローマの人々への手紙6章20節~23節
「あなた方は、罪の奴隷であったとき、救いの義に対しては自由の身でした。今あなたが恥じているような振る舞いから、その時、どんな実を得ましたか。そのような振る舞いの行き着く先は死なのです。しかし、今や、罪から解放され、神の奴隷となっているあなた方は、聖なるものとなるための実りを得ています。その行き着く先は永遠の命です。罪が支払う報酬は死であり、神の恵みの賜物は、わたしたちの主イエス・キリストとの一致による永遠の命なのです」
ヨハネ福音書3章では、御子である主イエス・キリストが「神の独り子」であるとして表現されている。
◯ヨハネによる福音書3章16節~18節
「実に、神は独り子をお与えになるほど、この世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を得るためである。神が御子(おんこ)をこの世にお遣わしになったのは、この世を裁くためではなく、御子によって、この世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神の独り子の名を信じなかったからである」
次の箇所は主イエス・キリストの御言葉を記録しているが、ここでは「聖書」は、旧約聖書を意味している(次の発言がなされた時点ではまだ「新約聖書」は全く記されてはいない)。
◯ヨハネによる福音書5章39節~40節
「あなた方は聖書を調べている。その中に永遠の命があると、思い込んでいるからである。だが、その聖書は、わたしについて証しするものである。それなのに、あなた方は、命を得るために、わたしの所に来ようとはしない」
ヨハネの第一の手紙1章には、「神の子イエスの血が、わたしたちをあらゆる罪から清めてくださいます」と書かれている。
◯ヨハネの第一の手紙1章5節~7節
「わたしたちが、イエスから聞いたことで、あなた方に告げ知らせるのは、神は光で、神の中に闇(やみ)はまったくないということです。もしわたしたちが、神と交わりをもっていると言いながら、闇の中を歩むなら、わたしたちは嘘(うそ)をついているのであり、真理を行ってはいません。しかし、もし神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、わたしたちは互いに交わりをもち、神の子イエスの血が、わたしたちをあらゆる罪から清めてくださいます」
「永遠の命」という表現は、ヨハネ福音書の他の箇所でも言及されている。
◯ヨハネによる福音書10章28節~30節
「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らはいつまでも滅びることがなく、誰(だれ)もわたしの手から、彼らを奪い去りはしない。わたしの父がわたしにくださったものは、他の何ものにも勝るものであり、誰もわたしの父の手から、奪い去ることはできない。わたしと父とは一つである」
◯ヨハネによる福音書10章37節~38節
「わたしが父の業を行っていないなら、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているなら、たとえわたしを信じなくとも、業を信じなさい。そうすれば、父がわたしのうちにおられ、わたしが父のうちにいることを、あなた方は知り、悟るであろう」
ヨハネ福音書10章38節(そして30節)において主イエス・キリストは、「父である神」と「子である神」との間には本質的な差異が全く存在しないことを、明言しておられる。
次に示すヘブライ人への手紙1章3節では、ヨハネ福音書10章28節から30節と同じ事柄を別の表現で説明している。
◯ヘブライ人への手紙1章3節【再掲】
「御子は神の栄光の輝き、神の本性の完全な具現であり、その力ある言葉をもって万物を支え、罪の清めを成し遂げた後、いと高き所において、威光ある方の右の座におつきになりました」
この節では、「御子」である主イエス・キリストについて、「神の本性の完全な具現」という表現を用い、その神性を明確に宣言している。
◯ヨハネによる福音書14章6節~11節
「イエスは仰せになった、『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことはできない。あなた方がわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。いや、もう今から父を知っており、また、すでに父を見たのである』。フィリポがイエスに言った、『主よ、わたしたちに御父(おんちち)をお見せください。それで十分です』。イエスは仰せになった、『フィリポ、こんなに長い間、あなた方とともにいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。なぜ、『わたしたちに御父をお見せください』と言うのか。わたしが父のうちにおり、父がわたしのうちにおられることを、あなたは信じないのか。わたしがあなた方に言う言葉は、自分勝手に語っているのではない。わたしのうちにおられる父が、ご自分の業を行っておられるのである。わたしが父のうちにおり、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。それができないなら、業そのものによって信じなさい」
◯ヨハネの第一の手紙4章19節~21節、5章3節
「わたしたちが愛するのは、神がまず、わたしたちを愛してくださったからです。『神を愛している』と言いながら、自分の兄弟を憎むなら、その人は嘘(うそ)つきです。目に見える自分の兄弟を愛さない人は、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、自分の兄弟をも愛さなければなりません。これが、わたしたちが神から受けた掟です」
「神への愛とは、神の掟を守ることです。そして、その掟は難しいものではありません」
◯ヨハネの第一の手紙2章3節~6節
「もしわたしたちが神の掟を守るなら、そのことにおいて、わたしたちは神を知っていることが分かります。神を知っていると言いながら、その掟を守らない人は、偽り者であり、その人の中に真理はありません。しかし、神の言葉を守る人は、その人のうちにほんとうに神の愛が全(まっと)うされています。そのことにおいて、わたしたちは神のうちにいることが分かります。神のうちに留まっていると言う人は、イエスが歩まれたように、その人も歩まなければなりません」
◯ルカによる福音書23章39節~43節
「十字架にかけられた犯罪人の一人が、イエスを侮辱して言った、『お前はメシアではないか。自分とおれたちを救ってみろ』。すると、もう一人の犯罪人が彼をたしなめて言った、『お前は同じ刑罰を受けていながら、まだ神を畏(おそ)れないのか。われわれは、自分のやったことの報いを受けているのだからあたりまえだが、この方は何も悪いことをなさっていない』。そして言った、『イエスよ、あなたがみ国に入られるとき、わたしを思い出してください』。すると、イエスは仰せになった、『あなたによく言っておく。今日(きょう)、あなたはわたしとともに楽園にいる』」