主イエスはマルコ10章29節以下で、御自分や福音のために諸々のものを「捨てる」者の報いを教えられた。ギリシア語原文の動詞はマタイ4章の四人の漁師の召命の記述と同じであり(20節「〔網を〕捨てて」22節「〔舟と父親とを〕残して」)、主や福音のために「二の次にする」の意味合いである。
(注)別エントリー「試論:『自分の命を憎む人』??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9419
(注)別エントリー「試論:金持ちが救われる方法を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14683
【追記】
ヨハネ12章25節は「この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命を得る」と主の仰せを記す。古代のヘブライ人は「〜を二の次にする」と言いたい時にも、「〜を憎む」という表現を用いた。主の養父ヨセフはヘロデが幼子の命を狙った時も、自分の命を二の次にして幼子と幼子の母を守り続けた。
(注)別エントリー「試論:最後の審判とディカイオスを140文字以内で」も参照のこと。
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主はルカ14章26節でも「もしだれかがわたしのもとに来るとしても、父母、妻、子供、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であっても、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」と仰せになったが、マタイ10章37節との比較から明らかな通り、この「憎む」も「二の次にする」の意味合いである。