もしもあなたが隣人を圧迫することをやめるなら、もしもあなたが隣人を馬鹿にすることをやめるなら、もしもあなたが隣人を言葉で傷つけることをやめるなら、その時にこそ、あなたが主を呼ぶ時には必ず主は御答えになり、あなたが主に向かって叫ぶ時には必ず主は「わたしはここにいる」と御返事される。
(注)別エントリー「試論:マタイ6章『隠れた祈り』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
出エジプト記34章で主の栄光がモーセに現わされた際、御自分が優しさと厳しさを兼ね備えた神であると主はモーセに明らかにされた。ダビデは詩編18編21(20)節以下で、主は優しい人には優しく厳しい人には厳しいと歌った。その人が隣人に敬意を示さない限り、主はその人の信仰を認められない。
マタイ22章14節の「選ばれる人」とは、神からの招きに忠実に応じて「神の掟を守り通す人」(黙示録12章17節)である。隣人に対して憐れみ深い人は自分も神の憐れみを受ける(マタイ5章7節)。一人一人が隣人に対して取るのと同じ態度を、神も一人一人に対して返される(ルカ6章38節等)。
マタイ6章14節の主の御言葉「あなたが他人を容赦するなら、天の父もあなたの過ちを容赦される」を聞いた当時のヘブライ人はすぐ詩編18編21(20)節以下を連想し、また「神は高慢な者を敵とし、へりくだる人に恵みをお与えになる」(箴言3章34節、一ペトロ5章5節)も連想したはずである。
ヨハネ15章16節で「あなたがたがわたしを選んだのではなくわたしがあなたがたを選んだ」と主は強調された。弟子が「自分は特別に選ばれたのだから人一倍主に忠実であるべき」という初心を忘れて「自分は主に特別に選ばれたのだから主は自分の過失を大目に見て下さるはず」と勘違いをしないために。
(注)別エントリー「試論:サウル王の背信を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5689
マタイ22章14節「神から招かれる者は多いが、神に選ばれる者は少ない」ヨハネ14章23節「本当にわたしを愛している人なら、わたしの言葉を守るはずだ。御父とわたしはその人のところに行って、一緒に住む」24節「本当はわたしを愛していない者は、決してわたしの言葉を守ろうなどとしない」。
主はマタイ22章14節で「招かれる者は多いが選ばれる者は少ない」と仰せになったが、「選ばれる者」が「選ばれる」瞬間の主の御言葉を、25章34節は「さあ、わたしの御父に祝福された人たち、あなたたちは、天地創造の時からあなたたちのために準備されていた神の王国を受け継ぎなさい」と記す。
(注)別エントリー「試論:『主の祈り』と最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7047
(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427
主はマタイ7章26節で「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は、砂の上に家を建てる人に似ている」と教えられた。22章14節「招かれる者は多いが選ばれる者は少ない」とは、《わたしの教えを耳にしたことのある者は多いが、それを真摯に受け止めて日々実践している者は少ない》という意味である。
マタイ7章21節の主の御言葉「わたしに向かい『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」の「主よ」という呼び掛けは、当然、25章44節「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、〜」という箇所とは内容的に直結しており、信仰義認の適不適を判断する良い基準である。
最後の晩餐の際に主は、御自分の《愛の掟》においては隣人愛の実践をもって御自分への愛の実践とみなすと宣言された(ヨハネ14章21節等)。最後の審判では各自の行いに応じて裁かれる(黙示録20章13節、マタイ25章45節)ため、神からの赦しを得るには隣人を赦す以外ない(同6章12節)。