ヨハネ12章25節は「この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命を得る」と主の仰せを記す。古代のヘブライ人は「〜を二の次にする」と言いたい時にも、「〜を憎む」という表現を用いた。主の養父ヨセフはヘロデが幼子の命を狙った時も、自分の命を二の次にして幼子と幼子の母を守り続けた。
(注)別エントリー「試論:最後の審判とディカイオスを140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
主はルカ14章26節でも「もしだれかがわたしのもとに来るとしても、父母、妻、子供、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であっても、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」と仰せになったが、マタイ10章37節との比較から明らかな通り、この「憎む」も「二の次にする」の意味合いである。
主はマタイ6章33節で、まず神の国と神の義(ディカイオシュネー)を求めるよう教えられた。1章19節はヨセフを義人(ディカイオス)と呼ぶが、この語は神の義を体現する人を指す。相手が幼子や女性だからといって馬鹿にした態度を取る男性もいるが、その点、ヨセフに関しては心配する必要がない。
(注)別エントリー「聖家族はどのような雰囲気の中で暮らしていたのか」も参照のこと。
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(注)別エントリー「聖ヨセフ:ディカイオスを旧約聖書で考察」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『ディカイオス』聖ヨセフを140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ福音書は後世への教訓に、最初の二つの章で主の養父ヨセフを模範として掲載した。ヨセフは忍耐強く、情け深く、自慢せず、高ぶらず、礼を失わず、自分の利益を求めず、恨みを抱かず、苛立たず、不義を喜ばず、真理を喜んだ。イエスとマリアのために、全てのことを忍び、確信し、待望し、耐えた。
(注)別エントリー「試論:マリアとヨセフに倣う事柄を140文字以内で」も参照のこと。
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