主イエスがルカ16章で言及された不正な管理人は、自分の将来を案じてではあれ、周囲の人々に恩恵を施すことを思い立つ。罪人でも自分を愛する人を愛する(ルカ6章32節)し、悪人が悪事に利用しようと立場の弱い人を懐柔し使い捨てることもあリ得るが、しかし不正な管理人の動機に悪意はなかった。
(注)別エントリー「試論:『人の行いに応じた報い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5743
(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
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【追記】
主イエスはルカ16章の「不正な管理人」のたとえで、私欲のためでなく隣人のために富を費やすならば救いが訪れると仰せになり、後に徴税人ザアカイがその実例となった。19章8節「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。誰かから何かをだまし取っていたならそれを四倍にして返します」。
(注)別エントリー「試論:『憐れみ深い人々は幸い』を140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ19章8節でザアカイは主に「わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また何かを誰かからだまし取っていたなら四倍にして返します」と約束した。マタイ5章7節の「憐れみ深い人は幸いである。その人は憐れみを受ける」という御言葉の通り、主は「今日この家に救いが訪れた」と宣言なさった。
(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
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マタイ7章12節「他人からしてもらいたいことを、あなたから他人にしなさい。これこそ律法と預言者」同5章22節「腹を立ててはならない」同7節「憐れみ深い人は幸い。その人は天の御父の憐れみを受ける」同6章14節「あなたが他人の過ちを赦すならば、天の御父もあなたの過ちをお赦しになる」。
(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
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