試論:「親しき仲にも礼儀あり」を140文字以内で

ダビデは神からの霊感を受け詩編15編で、《神の家》で《神の同居家族》となる人々について、「親しき仲にも礼儀あり」という観点で言葉と行いの両面において、(無垢という意味で)完全な神の御目にかなった人々であると表現した。マリアとヨセフはそれに該当しなかったなどと、誰が言えるだろうか?

(注)別エントリー「試論:マリアとヨセフに倣う事柄を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

マタイ5章48節の「あなたたちの天の父が完全であられるように、あなたたちも完全な者となりなさい」の「完全な」に当たる原文のギリシア語は、古代のギリシア語訳創世記6章9節でも用いられている。この語に同節で対応する原文のヘブライ語は新共同訳では「無垢な」という日本語で表現されている。

マタイ5章48節では「天の父が完全であるように、完全な者となりなさい」と説く。この場合の「完全な者」とは、レビ記19章2節では「聖なる者」、ルカ6章36節では「憐れみ深い者」であり、「完全」という表現でも人間に実行不可能な無理難題ではない(一ヨハネ5章3節、マタイ11章30節)。

(注)別エントリー「試論:『わたしの荷は軽い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6870

マタイ5章48節で主は、天の御父が完全であられるように各自も完全な者となるよう勧められたが、憐れみ深さという点で「完全」を目指すべきことがルカ6章36節では説明されている。さらに同40節の後半で、福音の教えに従って自分自身を矯正し続ける者は「完全」まで到達できると主は確約された。

主はマタイ福音書で「わたしが求めるのはあわれみであって犠牲(いけにえ)ではない」(ホセア6章6節)と繰り返されが、同節は「神を知ることであって焼き尽くす献(ささ)げ物ではない」と続く。「神を知る」を一ヨハネ2章3節は「神の掟(愛の掟。ヨハネ15章12節等)を守る」ことと説明する。

今、あなたの神、主があなたに求めておられることとは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてその全ての導きに従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸せになることではないか。(申命記10章12節〜13節)

ミカ6章8節「何が善であって、主が何をあなたたちに求めておられるかは、あなたたちには既に告げられている。それは神の義を行い、憐れみの業を愛し、へりくだり神と共に歩むこと」ホセア6章6節「わたしが求めるものは『いけにえ』ではなく憐れみであり、焼き尽くす献げ物ではなく神を知ること」。

(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6748

ヨハネ17章3節で主は「永遠の命とは、唯一の真の神であるあなた(=天の御父)とあなたのお遣わしになったイエス・キリストとを知ること」と天を仰いで話されたが、関連して一ヨハネ2章3節では「知る」とは《神の掟を守るという経験を通して自分は神を知っているのだと自覚する》ことと説明する。