ベツレヘムに向かう聖母の内面に存在したものとは

(以下の聖書からの引用は、基本的にはフランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』(サンパウロ)によりますが、その他の聖書から引用する場合は、その都度、適宜その旨を付け加えます)

マタイ福音書1章では、聖霊によるマリアの妊娠について、次のように記述している。

◯マタイによる福音書1章18節~21節
「イエス・キリスト誕生の次第は次のとおりである。イエスの母マリアはヨセフと婚約していたが、同居する前に、聖霊によって身籠(みごも)っていることが分かった。マリアの夫ヨセフは正しい人で、マリアのことを表ざたにすることを望まず、ひそかに離縁しようと決心した。ヨセフがこのように考えていると、主の使いが夢に現れて言った、『ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアを妻として迎え入れなさい。彼女の胎内に宿されているものは、聖霊によるのである。彼女は男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい。その子は自分の民を罪から救うからである』」

また、ルカ福音書1章の「受胎告知」の場面にはマリアと天使との次のようなやり取りがある。

◯ルカによる福音書1章34節~35節
「マリアはみ使いに言った、『どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに』。み使いは答えた、『聖霊があなたに臨み、いと高き方の力があなたを覆う。それ故、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる』」

そしてマリアがエリサベトを訪問した場面では、エリサベトの次のような発言が記されている。

◯ルカによる福音書1章41節~43節
「エリサベトがマリアの挨拶を聞くと、胎内(たいない)の子が躍り、エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに叫んで言った、『あなたは女の中で祝福された方。あなたの胎内の子も祝福されています。わたしの主の御母(おんはは)が、わたしのもとへおいでくださるとは、いったい、どうしたことでしょう』」

この場面において、エリサベトは既にマリアのことを「わたしの主のお母さま」と呼んでいるが、「わたしの主」とは当然この場合、「神」と同義語である。
まさにカトリック教会がマリアを「神の母」と呼ぶ聖書的根拠が、これである。
エリサベトが自分勝手にこの言葉を口にしたのではなく、「聖霊に満たされて…言った」(ルカ1章41節~42節)ものであり、むしろ神がエリサベトに語らせたと見なしても差し支えない表現であって、この「神の母」という称号は、まさに神からのお墨付きを得た(神への信仰に合致している)適切な言い回しであると判断できる。

ところで、ガラテヤ書5章においては、「肉の業(わざ)」と「霊の結ぶ実」とが対比されて説明されている。
ラゲ訳『聖書』(中央出版社)では、この章の5節で、「〔聖〕霊」という表現が用いられているが、この表現からも分かる通り、この章における「霊」とはすなわち「聖霊」を意味しているものと考えられる。

◯ガラテヤの人々への手紙5章22節~23節
「しかし、霊の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟(おきて)はありません」

受胎告知の際のみ使いの言葉「聖霊があなたに臨み、いと高き方の力があなたを覆う」(ルカ1章35節)がその通りであるとしたら、当然マリアは胎内に「聖なる者、神の子」(同節)を宿しているのと同時に、マリアの内面には、「霊(聖霊)の結ぶ実」すなわち「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」が宿っていたことになる。

この箇所について、ラゲ訳では、「霊の効果」として、「(愛)」「喜び」「平安」「堪忍(かんにん)」「慈恵(じけい)」「(忍耐)」「温良(おんりょう)」「真実」「謹慎(きんしん)」「節制」「貞操(ていそう)」と列挙している。

また、日本聖書協会新共同訳『聖書』では、フランシスコ会訳と同様の表現が列挙されている。

バルバロ訳『聖書』(講談社)においては、「愛」「喜び」「平和」「寛容」「仁慈(じんじ)」「善良」「誠実」「柔和」「節制」などという表現である。

以上のような検討により、ベツレヘムに向かうマリアの内面に存在した心情について、ガラテヤ書5章の記述から推察することが可能であると考えられる。

(注)別エントリー「マリアがベツレヘムの宿屋で拒まれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/56