主の御降誕:聖母は御自身で主を取り上げられた

(以下、聖書の日本語訳は、特に注記がない場合には、フランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』(サンパウロ)によります)

【1】古代の聖書世界でも、出産においては一般的に助産婦が介在していた

さて、古代においても、出産に際して、現代において「助産婦」──かつては広く「産婆」、現代の日本の国家資格の名称としては「助産師」──と呼ばれている仕事に携わる女性たちが介在したことが、既に、古くは創世記や出エジプト記1章でも、記されている。

◯創世記35章17節(フランシスコ会訳)
「ラケルがひどい陣痛で苦しんでいるとき、助産婦は彼女に言った、『心配してはいけません。今度も男の子です』。」

◯創世記38章27節〜30節(フランシスコ会訳)
「タマルの出産の時になってみると、胎内の子は双子であった。出産の時、一人の子が手を出したので、助産婦は、『これが先に出てきたのだ』と言って、真っ赤な糸を取ってその手に結びつけた。しかしその子が手を引っ込めると、もう一人のほうが出てきた。助産婦は言った、『何でお前は割り込むの』。そこで彼はペレツと名付づけられた。その後で手に真っ赤な糸をつけた子が出てきたので、彼はゼラと名づけられた。」

◯出エジプト記1章15節〜21節(フランシスコ会訳)
「エジプトの王はヘブライ人の助産婦に言った。一人はシフラ、もう一人はプアという名であった。王は言った、『お前たちがヘブライの女の出産を助けるとき、産み台の上を見て、もし男の子であれば殺し、女の子であれば生かしておけ』。しかし助産婦たちは神を畏(おそ)れ、エジプトの王が命じたようにはせず、生まれた男の子も生かしておいた。そこでエジプトの王は助産婦たちを呼んで問いただした、『お前たちはなぜこのようなことをしたのか。どうして生まれた男の子を生かしておいたのか』。助産婦たちはファラオに答えた、ヘブライの女たちはエジプトの女と違って体が丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまいます』。そこで神はその助産婦たちに恵みをお与えになった。イスラエルの民は増え、非常に強くなった。助産婦たちは神を畏れたので、神は彼女たちの家に繁栄をもたらされた。」

そして、古代のイスラエル人が、母親から生まれてきたばかりの赤ん坊にどのような処置を施していたのか、旧約聖書の意外な箇所に当時の事情を反映した記述を見出すことができる。

【2】古代のイスラエルで、出産の際に一般的に新生児が施されていた処置とは

◯エゼキエル書16章4節(フランシスコ会訳)
「誕生、つまりお前が生まれた日、へその緒を切り、水で洗い清めて塩をなすりつけ、産着にくるんでくれる者は誰(だれ)一人いなかった。」

つまり、古代のイスラエル人が出産に際して赤ん坊に施していた処置は、

・へその緒を切る
・水で洗い清める
・塩をなすりつける
・産着にくるむ

といったものであった。

日本聖書協会の新共同訳聖書で同じ箇所を調べると、「お前の生まれた日に、お前のへその緒を切ってくれる者も、水で洗い、油を塗ってくれる者も、塩でこすり、布でくるんでくれる者もいなかった。」などとなっており、

・へその緒を切る
・水で洗う
・油を塗る
・塩でこする
・布でくるむ

などの処置を、生まれてきた赤ん坊に施していたことになる。

バルバロ訳聖書(講談社)でも、「へその緒を切るものもなく、水で洗って清めもせず、塩でこすりもせず、布で包みもしなかった。」とあり、

・へその緒を切る
・水で洗い清める
・塩でこする
・布で包む

などについて、同様に記されている。

もちろん言うまでもなく、これまで登場した「水」というのは、実際には沐浴に適当な温かいお湯のことである。

現代においても、沐浴後の新生児の低体温が問題になることは時々起こるが、ともかくエゼキエル書16章4節は、古代のイスラエルで出産の際に一般的に新生児が施されていたと考えられる処置について、以上のように説明している。

【3】主イエス・キリストの御降誕には、助産婦が介在してはいなかった

しかしながら、主イエス・キリストの御降誕の事情については、次のように記されている。

◯ルカによる福音書2章4節〜7節(フランシスコ会訳)
「ダビデ家とその血筋に属していたヨセフも、すでに身籠(みごも)っていたいいなずけのマリアを伴って、登録のために、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。ところが、二人がそこにいる間に、出産の日が満ちて、マリアは男の初子(ういご)を産んだ。そして、その子を産着にくるみ、飼い葉桶(おけ)に寝かせた。宿屋には、彼らのための部屋がなかったからである。」

この記述を読む限り、その場に助産婦は存在せず、生みの母であるマリア自身が生まれた男の子を産着にくるみ──つまり、マリア自身が男の子を取り上げた、ということになる。

新共同訳でも、「初めての子を産み、布でくるんで飼い葉桶に寝かせた。」と書かれており、同様に、やはり母マリアが自身で男の子を取り上げた、と解釈できる。

バルバロ訳でも、「初子を生んだので、布で包んでまぐさおけに子を横たえた。」となっている。

ただし、「へその緒を切る」「水で洗い清める」「塩をなすりつける」など、本来ならば助産婦が行なったであろう処置については、全く記載がない。

出産の際、生まれた直後のわが子を母親が自分で産着にくるむというのは、通常ではありえない。
たいていは、まず助産婦がへその緒を切る処置を行い、赤ん坊の体を拭き清め、助産婦が赤ん坊を産着にくるみ、母親は助産婦から赤ん坊を見せられる、という流れが普通である。

通常の出産では、生まれたばかりの赤ん坊を産着にくるんで寝かせるのは、本来は助産婦の仕事であって、母親のすることではない。

可能性としては、マリアが助産婦の手を借りずに、「へその緒を切る」「水で洗い清める」「塩をなすりつける」などの処置を、全部自分一人で行なった、と仮定することもできなくはない。

しかし、主の御降誕は、宿屋ではなく飼い葉桶が置かれている洞穴でなされた、というのが聖書の記述そしてカトリック教会の聖伝であり、そんな場所には本来、へその緒を切るために都合の良い道具などが存在するわけもないし、赤ん坊を洗い清めるために都合の良い「水」(実際には適度に温かいお湯)や塩や油なども、存在していたとは到底、考えにくい状況だったであろう。

……以上の考察から、当然のように、一つの仮説が推論される。

すなわち、その受胎の際にも、通常の流儀ではなく超自然的な流儀──つまり聖霊が介在したように、主の御降誕の際にも、それは超自然的な流儀で行われ、それゆえに聖母は「へその緒を切る」必要もなく、まして「水で洗い清める」必要も「塩でこする」必要もなく、おのずと助産婦も必要ではなくなり、聖母は御自分で生まれた子を取り上げられ、出産に当たって聖母がなすべき処置は「産着にくるみ、飼い葉桶(おけ)に寝かせ」ただそれだけだった、ということである。

別の言い方をすると、

「主イエス・キリストは、へその緒を切る必要も水で洗い清める必要もない状態で、母マリアから超自然的な流儀でお生まれになった」

ということである。

もしも仮に、主イエス・キリストの御降誕の場に助産婦が介在していたとするならば、キリスト教の歴史上この助産婦は極めて重要な役割を果たしたことになり、そのエピソードの重要性たるや、羊飼いたちの訪問のエピソード(ルカ2章8節〜20節)や東方の博士たちの来訪のエピソード(マタイ2章1節〜13節)などよりも、明らかに優先して記録に残すべき人物であることは疑いようのない話である。

◯ルカによる福音書2章8節〜10節(フランシスコ会訳)
「さて、その地方では、羊飼いたちが野宿をして、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の使いが羊飼いたちのそばに立ち、主の栄光が彼らの周りを照らし出したので、彼らはひどく恐れた。み使いは言った、『恐れることはない。わたしは、民全体に及ぶ、大きな喜びの訪れを、あなた方に告げる。』」

ルカ2章8節以下の「羊飼いたちの訪問」のエピソードによれば、夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちが、主の栄光に周りを照らし出され、み使いに天の大軍が加わって神を賛美する光景を目の当たりにし、主のみ使いに促されるままに、ベツレヘムへ急ぐことになる。

◯ルカによる福音書2章11節〜14節(フランシスコ会訳)
「今日(きょう)、ダビデの町に、あなた方のために、救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである。あなた方は、産着にくるまれて、飼い葉桶(おけ)に寝ている乳飲み子を見出すであろう。これが徴(しるし)である。すると突然、み使いに天の大軍が加わり、神を賛美した。『いと高き天には、神に栄光、地には、み心にかなう人々に平和』。」

11節の「今日」とは、日没を一日の区切りとする当時の考え方を考慮するなら、現代人にとっては「今夜」と同じ意味である。

つまり、主の御降誕は夜間(日没後)のことであり、同じ晩のうちに羊飼いたちは「飼い葉桶に寝ている乳飲み子を捜しあて」、この羊飼いたちこそが「最初の訪問者」たちであると考えられるが、しかし、羊飼いたちが目撃した人物たちの中には、助産婦は存在せず、「マリア」「ヨセフ」「飼い葉桶に寝ている乳飲み子」の三人だけが、そこにはいた。

◯ルカによる福音書2章15節〜16節(フランシスコ会訳)
「み使いたちが離れて天に去ると、羊飼いたちは語り合った、『さあ、ベツレヘムへ行って、主が知らせてくださった、その出来事を見て来よう』。そして、彼らは急いで行き、マリアとヨセフ、そして飼い葉桶に寝ている乳飲み子を捜しあてた。」

そして、助産婦はその場に存在しなかったにも関わらず、ルカ福音書の記述からは、その出産が「難産」であったというニュアンスは全く伝わって来ない。
むしろ、この前後の箇所からは、完全に超自然的な保護下にあるとしか考えられない「平和」そのもの、出産それ自体も当然「安産」であったに違いないという雰囲気しか、感じられない。

聖母マリアと主イエス・キリストを結んでいたへその緒を、実際に切って処置した助産婦がもしも存在していたとしたら、福音史家ルカあるいはマタイのどちらかが、キリスト教史上に唯一無二の重要人物として、間違いなく、その助産婦に関する情報を書き記して後世に伝えたはずである。

にもかかわらず、福音史家である聖ルカも聖マタイも、もしも実在していたら必ずや書き残しているであろう重要人物である助産婦について、全く記録していない。

信憑性に乏しい情報がいくつも混在している二世紀以降に書かれた外典書は別として、聖書正典とされる福音書のいずれもが、主の御降誕の場に助産婦が存在したという記録を、決して残しなどはしなかった。

(注)別エントリー「聖書の時代に神殿の処女は存在したのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1539

そのような一人の助産婦がもしも仮に存在していたとするならば、その一人の助産婦の存在が「羊飼いたち」よりも「東方の博士たち」よりも大きなものであることは、誰の目にも明らかである。
なぜ福音史家たちは、主の御降誕の場に助産婦がいたという記録を残さなかったのか──やはり、そのような助産婦など最初から存在しなかったと結論するのが、妥当である。

重ねて強調するが、主の御降誕は、受胎の時と同様にまた御復活の時と同様に、その出産もまた、常人のそれとは全く異なる超自然的な状況下で行われた、と考える方がむしろ自然であろう。

すなわち、その処女性が少しも傷付けられることのない超自然的な状況の下で、聖母は主イエス・キリストを懐胎されたのと同様に、少しも傷つけられることのない極めて超自然的な状況の下で、聖母は主を御出産された、と考えるべきである。

ルカ1章35節のみ使いガブリエルの受胎告知の際の言葉「聖霊があなたに臨み、いと高き方の力があなたを覆う。」のうち、「聖霊があなたに臨み」が受胎と関係しているのは明らかであるが(マタイ1章18節「イエスの母マリアはヨセフと婚約していたが、同居する前に、聖霊によって身籠(みごも)っているのが分かった。」)、「いと高き方の力があなたを覆う。」という後半の方は、むしろ御降誕の際の超自然的な状況をも説明していると理解すべきであろう。

非常に重要なことであるので繰り返して強調するが、ルカ2章7節は産みの母であるマリア自身が生まれた男の子を産着にくるみ──つまりマリア自身が男の子を取り上げた、と書き記すことによって、主の御降誕の際の出産が超自然的な状況下でなされたという事実を、婉曲に表現しているわけである。

(注)別エントリー「マリアがベツレヘムの宿屋で拒まれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/56

【4】ヤコブの名を冠した外典書の記述が信用できない理由

カトリック教会には、聖母マリアが三歳でエルサレムの神殿に奉献され聖ヨセフと婚約するまでの少女時代をそこで過ごしたという、聖伝がある。
新約聖書には、この聖伝(聖母マリアの神殿奉献)に関する直接の記述は見当たらない。

聖母マリアの神殿奉献という聖伝に関しては、その伝承のルーツは紀元二世紀半ば頃に成立したと考えられる『ヤコブの原福音(Protoeuangelium Iacobi, Protoevangelium of James)』という外典書(以下、単に「外典書」あるいは「外典福音書」などと省略して表現する)に由来していると、しばしば誤解されてきた。

なぜ外典書に由来するという考え方が誤りであるかというと、四世紀末までに既に聖ヒエロニムスが指摘しているように、その外典書には「マリアと婚約する以前にも、ヨセフには結婚歴があり、前妻との間に子供たちをもうけていた」といった類の、カトリック教会の聖伝とは相反する記述が存在するからである。

聖ヒエロニムスは、聖母マリアの終生童貞について論じた著作(De perpetua uirginitate beatae Mariae adversus Heluidium)の中で、主イエス・キリストの父親と呼ばれ、そして母マリアの夫と呼ばれるべき人物について、妻マリアが童貞であったように夫ヨセフもまた必然的に童貞であったに違いないと結論している。
なぜなら、唯一無二の存在であるおとめマリアの終生童貞の保護者を務める男性が未婚者ではなく既婚者であり、しかも複数の子持ちであるというのは道理に合わず、神があえてそのような再婚者となる男などを聖母の配偶者に選ばれることは考えられないというのが、聖ヒエロニムスの論理である。

童貞マリアの保護者として選ばれた人物は、とりわけまず第一にその処女性(終生童貞)の保護者であるべきであって、そのためには、聖母の保護者として選ばれたその男もまた終生童貞であったに違いないと考えるのが、必然的帰結となる。

よって、聖ヒエロニムスは、聖ヨセフが聖母との結婚以前に前妻との間に子供たちをもうけていたといった類の話を荒唐無稽な空想として退け、また聖ヒエロニムスは、その類の記述を含む外典書それ自体についても、全く信用していなかったのである。

いわゆる東方教会のギリシア教父たちの少なくとも何人かが「ヨセフの前妻」説を採用した一方、ローマの教会では聖ヒエロニムスが断固として聖ヨセフの終生童貞を主張し、外典書をも否定していたため、歴代教皇のうちではまず聖ダマスス一世が聖ヒエロニムスの主張を容れて外典書を排斥したとされ、また五世紀の聖インノケンティウス一世も、同じくこの外典書を排斥した。
そして五世紀末の教皇である聖ゲラシウス一世の名前がしばしば冠せられる『教令集』でも同様に、この外典書は肯定的な意義あるものとしての地位を決して与えられることがなかった。

以上のように五世紀までには、ローマ・カトリック教会における「聖ヨセフの終生童貞」の概念が基礎付けられた。

このような聖ヒエロニムスとギリシア教父たちとの間の見解の相違は、「ヨセフという存在をどう捉えるか」という点では、ローマ教会と東方教会との見解の差異として現在に至るも残っている。

ローマ教会では聖母の終生童貞のみならず聖ヨセフの終生童貞という概念も存在するため、聖画像においても、「聖母子」の構図の他に「聖家族」──つまり聖母子と聖ヨセフの三人──を一つの構図の中に収めるという概念も、当然ながら存在している。一方、「ヨセフはマリアとの婚約以前にも結婚歴があり、前妻との間に複数の子供をもうけていた」という「ヨセフの前妻」説が影響力を持っていた東方教会においては、それに伴いヨセフの地位も、自然とローマ教会においてよりも低く抑えられ、聖画像の領域でも「聖母子」の構図は好まれるが、「聖母子」とヨセフとの間には一線を画すべきであるという考え方が存在し、ローマ教会のような「聖家族」の構図はむしろ忌避される傾向が東方教会においては見られた。

もしも外典書の記述を受け容れて、「ヨセフにはマリアとの婚約以前に結婚歴があり、前妻との間に複数の子供をもうけていた」という話を了承するのならば、「聖家族」の構図に抵抗を覚えるのも無理からぬことではある。

逆に言えば、ローマ教会が「ヨセフの前妻」説を収録した外典書に対してかなり厳しい目を向けていた一方で、東方教会の側では「ヨセフの前妻」説の部分に関しては特段問題視されなかった。

以上のように、「ヨセフという存在をどう捉えるか」という事柄を軸にして考えると、ローマ教会と東方教会との間の隔たりは、実は決して小さいとは言えないのである。

それにもかかわらず、幼子である聖母マリアの神殿奉献という伝承に関しては、六世紀半ば(紀元543年)にはエルサレムの教会でその祝日(11月21日)が制定されるなど、諸教会において信頼に値する聖伝として受け入れられ広まっていった。

従って、以上の歴史的経緯から聖母の神殿奉献に関しては、それがヤコブの名を冠した外典書とはまた別系統の聖伝に基づくものであると、考えるべきなのである。

四世紀の教会史家エウセビウスが新約聖書の正典に含まれるべき諸書について論じた際には、このヤコブの外典福音書に関しては全く取り上げることがなかった。

問題外の代物として扱われていたわけである。

外典書の記述中には現在のカトリック教会の主張と一致している部分と相反する部分とが混在しているという事実から、この外典書とはまた別系統の伝承によって幼子である聖母マリアの神殿奉献という事柄への信仰が受け継がれてきたと考えることが可能である。

聖ヨセフは、マタイ福音書1章19節で「正しい人(δίκαιος – dikaios)」と呼ばれているが、このギリシア語が聖書の中で表現している「正しい人」という概念は、「神の御計画の中で求められているその役割を果たすのにふさわしいと判断され選ばれた者」という意味合いを含んだ「正しい人」なのであり、ただ単に「いい人」といった程度の軽い意味合いとは大きく異なる。

(注)別エントリー「聖ヨセフ:ディカイオスを旧約聖書で考察」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1613

つまり、神は聖母子の守護者として他ならぬ聖ヨセフその人を「御計画の中で求められているその役割を果たすのにふさわしいと判断され選ばれた者」として望まれていたのだと、結論することができる。

重ねて言うがそれゆえに聖ヒエロニムスは、聖ヨセフは聖母との結婚以前に前妻との間に子供たちをもうけていたといった類の話を荒唐無稽な空想として退けて、そのような記述を含む外典書それ自体についても、全く信用していなかったのである。

興味深いことだが、外典書の記述が福音書の記述と決定的に矛盾している箇所が、他ならぬ主の御降誕の場面に存在する。
外典書ではマリアの出産の場面で助産婦(助産師)が登場するが、ルカ福音書2章7節には、聖母がお生まれになった男の子を御自身で「産着に包み、飼い葉桶(おけ)に寝かせた。」と書かれている。つまり御出産──主の御降誕に当たっては、お生まれになった主イエスを取り上げたのは、他ならぬ聖母御自身であって、そこに助産婦は介在などしていなかった──助産婦は主の御降誕の場には最初から存在しなかったのである。

外典書は、ルカ福音書とは異なる事柄を記載していることになる。

むろん、助産婦が介在していない分娩(出産)というのは、尋常のものではない。

つまりルカ福音書2章7節は、聖母がお生まれになった男の子を御自身で「産着に包み、飼い葉桶(おけ)に寝かせた。」と書くことによって、受胎(妊娠)の時と同様、出産の際にも、助産婦ではないなんらかの超自然的な介在、神的な力の介入があったことを、示唆しているわけである。

重ねて強調するが、主の御降誕は、その受胎の際にそうであったように、通常の人間の母子の間に起こる事柄とは全く別次元の極めて超自然的な状況においてなされた、ということである。

ルカ1章35節のみ使いガブリエルの受胎告知の際の言葉「聖霊があなたに臨み、いと高き方の力があなたを覆う。」のうち、「聖霊があなたに臨み」が受胎と関係しているのは明らかであるが(マタイ1章18節「イエスの母マリアはヨセフと婚約していたが、同居する前に、聖霊によって身籠(みごも)っているのが分かった。」)、「いと高き方の力があなたを覆う。」という後半の方は、むしろ御降誕の際の超自然的な状況をも説明していると理解すべきであろう。

そして外典書では、妊娠に気づいたヨセフがマリアを詰問して憤りをぶつける場面も存在するが、マタイ1章20節でヨセフの心の動きを表現するのに用いられているギリシア語動詞(ἐνθυμέομαι – enthumeomai )からは、ヨセフの憤慨はもし仮に生じたとしてもそれはあくまでもヨセフの心の中でのものであり、ヨセフがマリアに対して面と向かって憤りをぶつけることはなかったであろう蓋然性が、暗示されている。
もちろんマタイ福音書にもルカ福音書にも、婚約者の妊娠に気づいたヨセフがマリアを詰問したり憤りをぶつけたりした場面など存在しない。

福音書に登場する聖ヨセフは、余計なことを口にせず思慮深い半面、いざとなると大変な行動力のある頼もしい人物だが、外典書に登場する「高齢者ヨセフ」は違い、率直というよりも直情径行的なところがあって思慮深いとはとても言えず、感情の起伏が激しく、そのような気性ゆえに思ったことはむしろすぐ口に出してしまいがちで、時にはマリアにとって明らかにありがたくはない行動に出ることもあるような、良く言えば極めて人間臭く、また悪く言えば軽佻浮薄な部分がある老人として描かれている。
さらに、外典書ではヨセフとマリアとの間に極端な年齢差が与えられ、ヨセフを多弁で押しが強い高齢者として描き出すことで、副産物としてマリアにもどことなく幼く頼りないイメージを二次的に与えてしまっており、結果的に外典書においてはヨセフだけではなくマリアのイメージもまた、大きく損なわれていることになる。

実際のところ、ルカ福音書に登場する聖母マリアは、自分自身が初めての妊娠を経験する若い女性であるのにもかかわらず、自分よりもはるかに年長で自分よりも六か月前にやはり初めて妊娠した親族のエリサベトに付き添うためガリラヤからユダヤに旅することもいとわないなど、むしろ年齢の割にかなりの「しっかり者」であったことが記事からは推察され、決して外典書が示唆するような幼く頼りないイメージの少女ではありえなかった。

以上のように、細部にわたって検証すればするほど、カトリック教会が認めている正典福音書及び聖伝とカトリック教会が否定的に取り扱っている外典書との間には、やはり、大きな隔たりが存在するとしか考えられないのである。

(注)別エントリー「婚約者の妊娠を知った時のヨセフの心情」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3092

とはいえ、もちろん外典書に含まれている情報の全てが誤りというわけではない。
マリアの両親がヨアキムとアンナである、という記述はもちろんカトリック教会の聖伝と一致しており、また、マリアが三歳の時に神殿に奉献され、少女期をそこで過ごした後、ヨセフと結婚後も処女のままで十六歳の時にイエスを出産した、という話も、概ね受け入れられている伝承である。

以上のように、外典書の中にはカトリック教会の聖伝と一致している話と相違している話とが混在しており、しかも、聖伝そして正典福音書の記述とも大きく矛盾している話がかなり含まれているため、その取り扱いについては非常に注意深く慎重でなければならない。

(注)別エントリー「ヨセフは主の御降誕の時には何歳であったのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/2923

少女期の聖母の神殿奉献に関しては、ヤコブの名を冠した外典福音書以外の別系統の伝承として、一世紀の聖人である聖エヴォディウスの証言に遡ることができる。
聖エヴォディウスは、聖ペトロの後を受けてシリアのアンティオキアの司教になった人物で、また一説にはルカ福音書10章で主イエス・キリストが選ばれた七十二人の中の一人であったとされるが、この聖人が聖母の神殿奉献に関する情報を最初に残したとされている。

一世紀のこの聖人の証言に関する記録は、一四世紀前半のギリシア正教会の歴史家ニケフォロス・カリストスによって書き残されている。
聖母の神殿奉献に関する証言は、外典書よりもさらに古い時代に、既になされていたのである。

この聖エヴォディウスの証言によれば、聖母マリアは三歳の時に主の神殿に奉献され、そして結婚適齢期となって聖ヨセフとの婚約が決まって彼に委託される時まで、エルサレムの神殿で十一年の間、生活していたということである。そして、神の母が世界に救い主をもたらしたのは十五歳の時であったと、この聖人は書き記したが、しかし既にその著作は失われてしまっている。

聖エヴォディウスは紀元七〇年のエルサレム神殿の滅亡より少し前に帰天したと考えられている。

外典書の記述がカトリック教会の聖伝と相違する事項として、ヨセフに結婚歴があり複数の子供がいたなどの話があるが、少女時代のマリアと婚約した際にヨセフがかなりの高齢者であったという話に関しても、外典書が言及するところの結婚歴とか複数の子供の存在との辻褄を合わせるためのものと考えられ、基本的に信頼には値しない情報であると思われる。

実のところ聖ヨセフの年齢に関しては新約聖書に全く記述がなく、聖母との年齢差については何ら特記すべき事柄がなかった(あえて特筆すべき必要性がなかった)ことを暗示している。

(注)別エントリー「主の御降誕と古代イスラエルにおける洞穴」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4351