(以下の聖書からの引用は、基本的にはフランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』(サンパウロ)によりますが、その他の聖書から引用する場合は、その都度、適宜その旨を付け加えます)
◯詩編15(14)編1節~3節
「主よ、どのような人があなたの幕屋に留まれるのですか。どのような人があなたの聖なる山に住めるのですか。それは、咎(とが)なく歩み、義を行い、心からまことを語る人。舌に任せて人を傷つけず、友に悪を行わず、隣り人を辱(はずかし)めない者」
「隣り人を辱めない者」の箇所は、日本聖書協会新共同訳では「親しい人を嘲(あざけ)らない人」、講談社バルバロ訳では「ののしらぬ人」。
古代のイスラエルにおいては、「会見の幕屋」──すなわち神殿──の入り口にいて神に奉仕する女性たちが存在した。
このことは、出エジプト記38章8節またサムエル記上2章22節の記述によって明らかである。
またこの場合、「幕屋」とは、移動可能な組立式の神殿を意味している。
そしてサムエル記上2章によれば、神殿の入り口にいるそれらの女性が男性と「ともに寝る」ことは、人間による主なる神に対する罪悪に該当する(サムエル記上2章23節「悪いこと」同25節「罪を犯す」)行為であると見なされていたことが、現代の読者にも理解できる。
「会見の幕屋」は、新共同訳では「臨在の幕屋」。
ところで、「神殿」とは、神がお住まいになっていると見なされている建物や、それに類するものを指す言葉に、他ならない。
イエス・キリストを「真(まこと)の神」と見なし信仰や礼拝の対象とする立場で考えるならば、主イエス・キリストがいらっしゃる場所のお住まいは、ベツレヘムであろうと、エジプトであろうとナザレであろうとどこであろうとも、洞穴であれ家畜小屋であれ粗末な家であれ、言葉の本来の意味で、そここそが「神の家」すなわち「神殿」そのものである。
そしてマリアがイエスとともに同じ住まいで暮らしている限り、実際上マリアは言葉の本当の意味で「神殿にいて神に奉仕する女性」に他ならない、ということになる。
マリアにとっては、「いと高き方の子」(ルカ1章32節)の母となることをみ使いガブリエルに承諾した(ルカ1章38節「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」)ということは、同時に自分自身を「神殿にいて神に奉仕する女性」に位置付けることを意味した。マリアは、近い将来に生まれるであろう「わが子」に対しても、当然のようにためらうことなく、自分自身を「主のはしため」として位置付けていたのである。
夫ヨセフの存命中は、マリアはイエスそしてヨセフとナザレのお住まいで暮らしていたはずであるが、ナザレの聖家族で家庭の主婦であったマリアは、事実上の「神殿にいて神に奉仕する女性」として、かつての婚約期間と同様、夫ヨセフとは全く互いを「知る」(マタイ1章25節、ルカ1章34節、創世記4章1節)ことなく、家族としての日々を過ごしたと考えられる。
まさに、「神殿にいて神に奉仕する女性」が男性と「ともに寝る」ことは、主なる神に対して罪悪(サムエル記上2章23節「悪いこと」同25節「罪を犯す」)を行うことに他ならないと、古代のイスラエルでは見なされていたからである。
その意味では、主イエス・キリストに対する信仰(あるいは主イエス・キリストの神性)を前提とするならば、聖母マリアの終生童貞(及び聖ヨセフの終生童貞)は、むしろ主イエス・キリストの同居家族であるがゆえの必然によるものと言える。
◯ルカによる福音書2章13節~16節
「すると突然、み使いに天の大軍が加わり、神を賛美した、『いと高き天には、神に栄光、地には、み心にかなう人々に平和』。み使いたちが離れて天に去ると、羊飼いたちは語り合った、『さあ、ベツレヘムへ行って、主が知らせてくださった、その出来事を見て来よう』。そして、彼らは急いで行き、マリアとヨセフ、そして飼い葉桶に寝ている乳飲み子を捜しあてた」
箴言6章には、マリアとヨセフの二人とは根本的に無縁であったであろう事柄について、書かれている。
◯箴言6章16節~19節
「主の憎むものが六つある。いや、その忌み嫌うものが七つある。高慢な目、偽(いつわ)る舌、罪のない者の血を流す手、邪な計画を企む心、悪に走る速い足、偽りを吐く偽証人、兄弟の間に口喧嘩(くちげんか)の種を蒔(ま)く者が、これである」
ルカ福音書2章51節では、少年時代の主イエス・キリストがマリアとヨセフの二人に対してどのような態度を取っていたかを、端的に表現している。
◯ルカによる福音書2章51節
「それから、イエスは両親とともにナザレに下って行き、二人に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをことごとく心に留めていた」
この箇所で、日本語の“仕える”に相当する原文のギリシア語の動詞は、“ὑποτάσσω – hupotassō”である。
新共同訳でもこの箇所の日本語訳は「仕えて」であるが、バルバロ訳では「従って」であり、中央出版社E・ラゲ訳も「従いい給いしが」としている。
つまりフランシスコ会訳と新共同訳は「仕える」と日本語訳し、バルバロ訳とラゲ訳は「従う」と日本語訳しているわけである。
もしも聖母マリアや聖ヨセフに「仕える」あるいは「従う」こと──つまり聖母マリアや聖ヨセフよりも自分自身を下位に置いて敬意を表す(崇敬する)ことが、「偶像崇拝」または「神を無視」して結果的に「神への冒涜」につながる行為であるとするならば、ルカ福音書2章51節において主イエス・キリスト御自身が偶像崇拝や神への冒涜行為も行なっていたことにもなってしまうが、神なる主イエス・キリストは悪を行なうことなどお出来にならないし、神なる主イエス・キリストが罪を犯されることなどもありえない。
◯ローマの人々への手紙9章14節
「それでは、どうでしょうか。神には不義があるのでしょうか。決してそうではありません」
◯ヨブ記34章10節、12節
「そこで、分別のある人々、わたしの言うことを聞いてください。神が悪を行われることはありません。全能者が不義を行われることは絶対にありません」
「神は決して悪を行われず、全能者が正義を曲げられることはありません」
従って、カトリック信者が聖母マリア崇敬や聖ヨセフ崇敬を行なうことが「偶像崇拝」や「神への冒涜」行為に該当することなど全くありえないばかりか、むしろ聖母マリア崇敬や聖ヨセフ崇敬は、主イエス・キリストの正しい模範に倣うものとして、安心してカトリック信者に積極的に推奨できる行ないであると考えられる。
(注)別エントリー「予備的考察:聖母崇敬そして聖ヨセフ崇敬の起源とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1750