主はマタイ18章10節で、人間と神との連絡を行う天使の存在に言及され、たとえ幼子が言語や思考や体力や行動の面でおぼつかない存在であっても、幼子の非力を侮り良からぬ行動に出る者については全てを天使が逐一、神の御前で報告し、神は全てを御存知であると仰せになった(マタイ6章6節参照)。
主イエスはマタイ6章で、施し・祈り・断食は人目に付かないようにと命じられ、天の御父である神は全て御存知だと仰せになった。箴言15章3節「どこでも主の御目は注がれ善人も悪人も見ておられる」詩編90編8節「〔主よ、〕あなたはわたしたちの罪を御前に、隠れた罪を御顔の光の中に置かれる」。
主はマタイ10章26節で、「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」と仰せになった。神の御前で隠し事はできないという同じ事柄をローマ2章16節も説くが、後者は「人々の隠れた事柄を神がキリスト・イエスを通して裁かれる日」と関連付けている。
箴言18章20節は、それが他の賢い人の口真似であれ自分の感情の赴くまま思わず口走った言葉であれ、いったん口にした自分の言葉は、今度は自分自身の内面へ影響を与えると説く。フィリピ3章19節も自分自身の内面を「腹」と表現し、神の御教えよりも自分自身の思い込みを優先する人について記す。
日本語でも「腹(肚)」と表現して「腹の中が読めない」「腹黒い」など「独特な考え」「内面に秘めた思い」を指す。箴言18章20節や同20章27節や同30節も同様で、パウロも「自分の腹に仕える」(ローマ16章18節)と表現し、自分勝手な思い込みに固執する人(フィリピ3章19節)を指す。
主イエスは、マタイ5章14節で「あなたたちは世の光」16節で「光を輝かせなさい」と仰せになった。「光」はイザヤ58章8節と10節の通り神の御言葉に従う憐れみの業を象徴している。ただし主イエスはマタイ6章で、その業を行う際にはこれ見よがしな態度で見せびらかさないよう厳に戒められた。
主イエスはマタイ5章16節で「あなたたちの光を人々の前で輝かせなさい」と確かに教えられたし、「光」とは「神の御言葉」(ヨハネ1章)の比喩であり、神に忠実な人に伴うものであるが、神がお喜びになる流儀は憐れみの業を行う際にも人目に着かないことであると、マタイ6章では念を押されている。
主イエスがファリサイ派の人に対し使われた表現「偽善者」の、原文におけるギリシア語の本来の意味は、「演技をする人」「見せかけの人」等だった。「皇帝のコイン」に関する罠を隠した質問の時のように、ファリサイ派の人は主イエスに対し芝居がかった追従を大げさに口にしながら陥れようとしていた。
マタイ22章15節以下で、主はファリサイ派の人々とヘロデ派の人々から罠を隠した質問を受けた。早い時期から両派の一部は、主に対して殺意を含んだ敵意を抱き続けていた(マルコ3章6節)。主は「パン種」と表現して彼らの悪意を弟子たちに示唆されたが、誰も理解しなかった(同8章15節以下)。
マタイ6章で主は、祈る際の「これ見よがし」的な態度を避けるように人々を戒められ、「隠れたことを見ておられる天の父が報いてくださる」と仰せになった。サムエル上1章13節「ハンナは心のうちで祈っていて、唇は動いていたが声は聞こえなかった」その結果19節「主は彼女を御心に留められた」。