試論:「不法」って、何??を140文字以内で

【問】マタイ7章23節は「あなたたちのことは全く知らない。不法を働く者よ、わたしから離れ去れ」と記しますが、「不法」って、何?
【答】「法」とはマタイ7章12節の《キリストの律法》「他の人からしてもらいたいことならば全部あなたから他の人にしなさい」で、「不法」はそれに背くことです。

【追記】

【問】マタイ7章13節の「狭い門」って、何?
【答】「門」とは天の国に入るための「義の門」(詩編118編19節)のことで、入るためには《キリストの律法》を日々実践しなければなりませんが、なぜか信者を自称する人々ですら、この「門」に関心を持つ者は多くなく、ゆえに「狭い」と呼ばれます。

【問】「義」とは、何か近寄り難い気がします。
【答】全く違います。サウル王はダビデに「お前はわたしよりも義の人だ。わたしはお前に悪意を示したのにお前はわたしに善意を示してくれた」(サムエル上24章18節)と言いました。古代のヘブライ人の「義」とは、善意あるいは善行を意味しています。

【問】主イエスは神の国と神の義を求めよと説かれました。創世記15章はアブラムが義とされたと記します。なぜ?
【答】同14章で諸国の王が私利私欲のために戦った時、彼だけは人助けのために行動しました。神なる主は同15章の約束で、彼が目先の私利私欲で動く人ではないと、最終確認されました。

【問】天の星の数を彼に数えさせることが、なぜ、彼の義を確認することになるのですか?
【答】もし彼の中に私利私欲のかけらが少しでもあったならば、「わたしは遠い未来の自分の子孫の数のことなんかよりも、自分自身の幸福について具体的に今、目に見えるものが欲しい」などと主張していたはずです。

【問】神なる主が語りかけられたのでアブラムは旅立った(創世記12章)のですか?
【答】創世記はバベルの塔建設の終わりを記しますが人々が悔い改めたとは記さず、力こそが正義という風潮はバビロンやアッシリアに残りました。彼は以前から、故郷に蔓延する風潮に強い違和感を抱いていたのでしょう。

古代ユダヤの歴史家ヨセフスは、バベルの塔建設にアスファルトが用いられた理由について、ノアの時代のような大洪水が来ても押し流されないよう強化するためだったと記し、ニムロド(創世記10章8節)及び彼の王国の国民が、神に対する挑戦的な意図をもってバベルの塔を建設していたことを説明する。

【問】マタイ6章33節「神の国と神の義」や同5章20節「あなたたちの義が律法学者たちやファリサイ派の義に勝らなければ」の「義」って、何?
【答】それらの「義」という訳語はギリシア語原文ではディカイオシュネーで、この語は同6章1節「人前で善行を見せびらかさないように」の「善行」です。

【問】山上の説教の「義に飢え渇く人は幸い」の「義」とは何?
【答】サムエル上24章18節「お前はわたしよりも義の人だ。わたしはお前に悪意を示したのにお前はわたしに善意を示してくれた」からも分かる通り、古代のヘブライ人の「〔神の〕義」とは現代の日本語でいえば《善意》を意味しています。

【問】「ヨセフは義人だったので婚約者のことを大っぴらにはせずひそかに離縁しようとした」の意味は?
【答】古代のヘブライ人の「義」は《善意》を指し、彼は「善意の人」であり「お前は俺のメンツを潰したのだから、お前もお前の子も地獄に堕ちろ」などと喚いて大騒ぎしたりは決してしませんでした。

(注)別エントリー「婚約者の妊娠を知った時のヨセフの心情」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3092

マタイ福音書のギリシア語本文はヨセフをディカイオス(1章19節)と呼ぶが、ディカイオスは最後の審判で天国の福楽を確約されている人(25章37節)を意味し、ヨセフがもともと天の国にいてもおかしくないほどに無垢な(創世記6章9節)底抜けの大善人で天使のような人であったことを示唆する。

(注)別エントリー「試論:聖ヨセフの模範を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7243

(注)別エントリー「聖母と聖ヨセフが終生童貞である理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4464

【問】聖書の中の「愛」も聖書の中の「義」も、ともに「善意」や「善行」という点では一致しているということですか?
【答】少なくともマタイ福音書におけるディカイオス/ディカイオシュネーの用法を調べる限り、聖書の中で、「愛」と「義」の間に、矛盾や対立や齟齬の類いは存在していないようです。

【問】世間では、既婚者や恋人のいる異性を奪い取る行為を「略奪愛」と呼んだりします。これはキリスト教の愛に含まれますか?
【答】いいえ。全く含まれません。キリスト教の愛の定義は「他の人からしてもらいたいことなら全てあなたから他の人にしなさい」で、これと「略奪愛」は絶対に相容れません。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

試論:詩編132編「憩いの地」を140文字以内で

【問】主イエスはマタイ11章で「休ませてあげよう」(28節)「あなたたちは安らぎを得る」(29節)と仰せになりましたが究極的な意味は?
【答】「憩いの地」(詩編132編8節)のことで、イザヤ65章17節以下では「新しい天・地・エルサレム」と預言され、主の御復活の際に創造されました。

(注)別エントリー「主の御復活とともに創造された事柄とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15917

試論:「くすぶる灯心」を140文字以内で

「ありとあらゆる病気や患い」(マタイ9章35節)に苦しみ弱り果てても助けが得られない人々のことを、イザヤ42章3節(マタイ12章20節)は「傷ついた葦」「くすぶる灯心」等と表現し、彼らを力づける「主の僕(しもべ)」をイザヤは預言したが、マタイ12章17節ではイエスがそれだと記す。

注)別エントリー「試論:『主の僕(しもべ)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8849

(注)別エントリー「試論:『主の僕の忍耐』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6462

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』=『主の僕』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8876

試論:「詩編145編の謎」を140文字以内で

【問】詩編145編はアルファベット詩編と呼ばれヘブライ語の子音文字数22に対応する22節であるべきですが、実際は21節しかありません。
【答】ヘブライ語聖書では13節と14節の間のあるべき一節が失われましたが、キリスト教側のギリシア語訳やラテン語訳には13節の続きとして現存します。

試論:悪霊の頭(かしら)の力?を140文字以内で

【問】主イエスがマタイ9章で言葉の不自由な人を癒された際、ファリサイ派の人々は「悪霊の頭の力によって彼は悪霊を追い出した」と言いました。
【答】パウロは一コリント1章24節でキリストを「神の力」と呼び主御自身もマルコ12章24節で「神の力」を自称され、御自身の神性を暗示されました。

【追記】

【問】「悪霊の頭の力によって悪霊を追い出した」は無理筋で倒錯した考え方ですが、ファリサイ派の人々は結局、何が言いたいの?
【答】「彼(=主イエス)は悪霊に取りつかれている」です。ヨハネ8章48節以下の通り、このレッテルを貼ることによって彼らは主イエスを社会的に抹殺しようとしました。

【問】主イエスはどんな難癖でもお赦しになるの?
【答】それは違います。主イエスは、御自分の人間的側面への難癖(ガリラヤ人、大工、「大食漢で大酒飲み、徴税人や罪人の仲間」)には看過されますが、聖霊によって悪霊を追い出したことを「ベルゼブルによって」呼ばわりすることには容赦されません。

試論:血は命である??を140文字以内で

【問】福音書で「ヤイロの娘のよみがえり」と「慢性出血の女性の治癒」が同じ時に起こった象徴的な意味って何?
【答】旧約聖書には「血は命である」(申命記12章23節)という観念があり、この場合「命」は《生きていく上で不可欠なもの》の意味で「ピアニストにとってピアノは命」と同じことです。

【追記】

主はマルコ5章で少女を生き返らせたが、マタイ9章23節以下では既に笛吹き等の葬儀の準備に集まった人々がいて「少女は眠っているだけ」という主の仰せを嘲笑った。主はルカ20章38節「神は生きている者の神。全ての人は神によって生きている」の通り少女を生き返らせ、御自分の神性を示された。

(注)別エントリー「試論:『信じて救いに入るため』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14107

(注)別エントリー「試論:『あなたがたのため』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9470

主はマルコ5章でヤイロの娘を生き返らせた後、食べ物を彼女に与えるように仰せになった。これは、後に御自身が御復活されて弟子たちの前に御出現になった際(ルカ24章)に、一切れの魚を持って来させ食べられたことと同じで、亡霊を見ているわけではないことを人々に理解させるための仰せであった。

主イエスは荒れ野で悪魔(サタン)から誘惑された際「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの御言葉で生きる」と答えられた。「神の御言葉」とはヨハネ1章1節の通り主イエス御自身の称号であり、人間を生かす者は「神の御言葉」及び「命」(同14章6節)を自称される方である。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『わたしは命である』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11586

(注)別エントリー「試論:『永遠の命の言葉を持つ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11244

(注)別エントリー「試論:『命の木』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11236

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章4節『命の光』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7297

試論:最後まで走り抜く競走??を140文字以内で

【問】マルコ12章30節(申命記6章5節)「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし」って何のこと?
【答】ヘブライ12章1節は各人の信仰生活を「最後まで走り抜くことを定められた競走」に喩えます。パウロは二テモテ4章6節以下で走り終える時つまり世を去る時が近いと記します。

【追記】

【問】人生最後の瞬間までは気を抜いてはいけないということですか?
【答】マタイ18章21節以下の「仲間を容赦しない家来」の喩えの通り、「自分は既に赦されている」という思い込みが人間を良い方に導くとは限らず、逆に周囲の人々に威張り散らし目も当てられぬ醜態を演じる人すら現れかねません。

【問】主の養父ヨセフは、マタイ1章19節で義人と呼ばれますが、信仰によって義とされた人という意味ですか。
【答】確かに彼は信仰によって義とされましたが、最終的に彼が義とされたのは彼が生涯を閉じるその時ではないでしょうか。主イエスが養父ヨセフに直接それを伝えられたかどうかは不明です。

【問】キリストの信者は洗礼を受けた際に、全ての罪を赦されたのではないでしょうか?
【答】確かにそうですが、洗礼後にキリストの信者としてふさわしくない振舞いを行ったことまでも洗礼が正当化してくれることなどありえません。そのような横着でなまくらな発想は主イエスの御教えとは相容れません。

試論:わたしの軛、わたしの荷?を140文字以内で

【問】マタイ11章30節「わたしの軛」「わたしの荷」の両者は、同じ事柄ですか? 違う事柄ですか?
【答】同じ事柄です。「軛」も「荷」も《法(律法)》や《掟》の比喩で、古代のヘブライ人は、共通するニュアンスを持つ別々の表現を並記することで意味を強調する、独特のレトリックを好みました。

【追記】

【問】「荷」が《法(律法)》や《掟》の比喩であるなどと、どうして分かりますか?
【答】主イエスが「わたしの荷は軽い」と仰せになったのと同じ内容を、ヨハネは「神の掟は荷が重くありません」(一ヨハネ5章3節)と主張しましたが、新共同訳は「神の掟は難しいものではありません」と表現します。

【問】では、「わたしの軛」「わたしの荷」とは。具体的に何のことですか?
【答】パウロが「キリストの律法」(一コリント9章21節、ガラテヤ6章2節)と呼ぶ、マタイ7章12節の「他の人からしてもらいたいことならばなんでも、あなたの方からしなさい」という主イエスの御教えを、指しています。

【問】「共通するニュアンスを持つ別々の表現を並記することで意味を強調する、レトリック」の具体的な実例は?
【答】申命記30章15節「わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く」。「命」も「幸い」も、あらゆる幸福の総称であり、同様に「死」も「災い」も、あらゆる不幸の総称です。

【問】新約聖書にも実例はありますか?
【答】ローマ8章6節「肉の思いは死、霊の思いは命と平和」。「肉」は人間由来の事柄、「霊」は神に由来する事柄を表し、「平和」も「命」と同様に、あらゆる幸福の総称です。《人間由来の願望はその人の死で終わるが、神に由来する願望は人を永遠の命に導く》。

試論:箴言29章17節を140文字以内で

もしも親が息子や娘の子供時代に、彼らにしっかり「しつけ」をしていくことに時間を惜しまないならば、将来的に息子や娘は周囲と揉め事を起こすことなく親に安らぎだけを与える存在となる。しかし、親が「しつけ」を怠るならば、息子や娘は大人になっても周囲に迷惑をかけ続け、親の気苦労は絶えない。

(注)別エントリー「試論:『休ませてあげよう』??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/26681

試論:「休ませてあげよう」??を140文字以内で

【問】マタイ11章28節「休ませてあげよう」の意味とは?
【答】マタイ7章12節の《キリストの律法》「他の人にしてもらいたいことなら全てあなたから他の人にしなさい」を皆が忠実に実行し続けるなら、キリストの信者はやがて周囲との人間関係のトラブルからは完全に解放される、という意味です。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

試論:「柔和で謙遜な者」???を140文字以内で

【問】主イエスは「柔和で謙遜な者」と称されましたが、普通の人間は自分で自分をそんな風には言わないのでは?
【答】それはまさに主イエスが普通の人間ではないからで、「柔和」とは「わたしは優しい人には優しい」、「謙遜」とは「わたしは神であり人間で、人間の弱い部分も知っている」の意味です。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

(注)別エントリー「試論:神であり人であるキリストを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6725

(注)別エントリー「試論:『受肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7842

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

試論:ローマ8章9節を140文字以内で

【問】「肉ではなく霊の支配下にある」って、どういうこと?
【答】パウロもヨハネ同様に古代のヘブライの世界観に従い、人間由来の事柄を「肉」、神に由来する事柄を「霊」と表現します。この節は《キリストの洗礼を受けた者は、人間の価値観ではなく神の御旨の支配下にある》ことを、主張しています。

(注)別エントリー「試論:『肉と霊』の対比を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7740

(注)別エントリー「試論:ガラテヤ5章の『肉と霊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7657

(注)別エントリー「試論:『言は肉となって』???を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13411

主イエスが「柔和」を強調された理由

主イエスはルカ7章で、やもめの息子を生き返らせられたが、これは預言者エリシャの奇跡(列王下4章)を彷彿とさせた。ただエリシャには彼の禿頭をからかった子供たち四十二人が熊に襲われ負傷したという話(列王下2章)もあった。自分を揶揄した人々でも報復を受けることはないと、主は表明された。

【問】主イエスがマタイ11章29節で「柔和で謙遜」を自称された理由は?
【答】モーセは民数記12章で姉ミリアムや兄アロンから難癖を付けられましたが恨みを抱かず、神なる主がミリアムを罰するとモーセは姉のために赦しを願いました。主イエスは、自分もモーセのような心持ちだと宣言されました。

【問】なぜエリシャは厳格なのに、主イエスは「柔和」と称されたのですか?
【答】それは詩編18編26節前後にある通り、主は優しい人に対して優しい神だからです。多くの人が、預言者が厳格ならば、神なる主はそれに輪をかけてさらに厳格に違いないと、勝手に思い込んでいますが、実際はその逆です。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

【問】主イエスはどんな難癖でもお赦しになるの?
【答】それは違います。主イエスは、御自分の人間的側面への難癖(ガリラヤ人、大工、「大食漢で大酒飲み、徴税人や罪人の仲間」)には看過されますが、聖霊によって悪霊を追い出したことを「ベルゼブルによって」呼ばわりすることには容赦されません。

古代のギリシア語訳民数記の12章3節ではモーセを「柔和な人」の代表例とする。自分に難癖をつけてきて神に罰せられた(レビ19章17節参照)姉ミリアムに対して、モーセは全く姉の不幸を喜ぶことなく(箴言17章5節参照)、逆に姉のために神なる主に執り成し、赦しを請い願った人だからである。

(注)別エントリー「民数記12章3節:モーセの人となり」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5051

主イエスはルカ7章で、ナインという町のやもめの息子を生き返らせられた。その八百年以上前にエリシャはシュネムという町の婦人の子供を生き返らせる奇跡を行っていた。シュネムとナインは距離的に極めて近かったと想定され、町の人々がイエスを大預言者と呼んだのも、エリシャの故事を踏まえている。

(注)別エントリー「試論:『時代のしるし』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14378

主イエスはパンを増やし五千人の群衆に食べ物を与えるという奇跡を行われた。類似の奇跡は列王下4章42節以下で「神の人」預言者エリシャも行っていた。主イエスの神の御独り子たる本領は「生まれつき目が見えなかった人の視力を回復させた」(ヨハネ9章32節、イザヤ35章5節)時に発揮された。

(注)別エントリー「試論:『救い主の識別』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13316

試論:マタイ9章14節「断食」を140文字以内で

【問】ヨハネの弟子たちが主に「あなたの弟子たちはなぜ断食しないのか」と質問した理由は?
【答】これは洗礼者による質問ではなく、あくまで彼の弟子による質問でした。主は既にマタイ6章16節で断食は偽善に陥る契機となり得ることを警告されましたが、ヨハネの弟子たちはそれを知りませんでした。

試論:マタイ9章15節「婚礼」を140文字以内で

【問】「花婿」は主イエスを指し「婚礼の客」は使徒たちだと思いますが、「婚礼」って何?
【答】主イエスが使徒たちを介して世に蒔かれた福音の種が実を結んだ結果、忠実な弟子となった人々を、キリストが御自分の御許に迎え入れられることの比喩です。「花婿」にとっては、最大の喜びの時だからです。

(注)別エントリー「試論:マタイ9章15節『断食』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/26611

【追記】

【問】主イエスが「花婿」だとすると、「花嫁」に該当するのは誰ですか?
【答】ある特定の一個人ではなくて「神の民」(イエス・キリストの福音を受け入れて忠実な信者となった人々)の全体です。既にイザヤ(62章5節)は、神と「神の民」との関係を、「花婿」と「花嫁」との関係に喩えていました。

【問】主イエスの結婚歴の記述は福音書にないけれど、結婚しなかった理由は?
【答】イザヤ62章5節は神と神の民の関係を花婿と花嫁の関係に喩えます。主は、御自分が神である事実を花婿という表現で暗示され、洗礼者も主を花婿と呼びます。主は神の民全体の花婿で、特定の一女性の夫ではありません。

イザヤ62章5節は「神と神の民」の関係を「花婿と花嫁」の関係にたとえたが、ヨハネ3章29節で洗礼者が「花婿の介添人」を自称する場合、「花婿」が主イエス・キリストであるのは、いうまでもない。洗礼者は、「花婿」と「花嫁」を引き合わせるまでが自分の役割と心得て、30節の言葉を口にした。

古代のヘブライ人は神と神の民との関係を「花婿と花嫁」に喩えた。信仰を夫婦間の愛情に喩えたわけである。夫婦間に「わたしはあなたに60%の愛情を捧げるけれど、別の人にも40%の愛情を捧げる」はあり得ない。従って聖書の中の《信仰》とは、「100%の愛情」つまり疑う余地のない確信である。

(注)別エントリー「試論:『主イエスこそ真の花婿』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7379

(注)別エントリー「神に対する確信を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5613

(注)別エントリー「試論:『わたしたちの確信』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7711

(注)別エントリー「『からし種一粒ほどの信仰』???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19278

試論:マタイ9章15節「断食」を140文字以内で

【問】主イエスの御昇天後、弟子たちが断食した話はありません。
【答】申命記8章3節は「人は主の口から出る全ての言葉で生きる」と記しヨハネ1章1節は御子イエスを「言(神の御言葉)」と呼び、イエスは同6章48節で「パン」を称されましたが御受難後、弟子たちは「パン」の喪失に苦悩しました。

【追記】

【問】マタイ9章15節は主イエスを花婿、弟子たちを婚礼の客と呼びますが、「婚礼」って何?
【答】世に蒔かれた福音の種が実を結んでキリストの忠実な弟子となった人々を、来世であれこの世であれキリストが御自分の御許に迎え入れられることの比喩です。花婿にとっては、最大の喜びの時だからです。

イザヤ62章5節は「神と神の民」の関係を「花婿と花嫁」の関係にたとえたが、ヨハネ3章29節で洗礼者が「花婿の介添人」を自称する場合、「花婿」が主イエス・キリストであるのは、いうまでもない。洗礼者は、「花婿」と「花嫁」を引き合わせるまでが自分の役割と心得て、30節の言葉を口にした。

古代のイスラエルでは、婚礼の時に上質の酒を提供するのは花婿の責任と考えられていた(ヨハネ2章9節以下)。一方、当時は「神」と「神の民」の関係を《花婿》と《花嫁》の関係にたとえていた(イザヤ62章5節)。カナでのぶどう酒の奇跡で、主は御自分こそが真の《花婿》であるとほのめかされた。

ヨハネ3章29節の通りヘブライ人は神を花婿に、神の民を花嫁に喩えた。従ってマタイ22章8節以下の通り、婚宴とは神が神の民の中の相応しい人々を神の国に迎え入れ喜びを共にすることである。主イエスは御受難と御復活の間に新しい天・地・エルサレムを創造され、旧約の義人たちを迎え入れられた。

(注)別エントリー「試論:『聖書が実現するため』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17226

古代のヘブライ人は神と神の民との関係を「花婿と花嫁」に喩えた。信仰を夫婦間の愛情に喩えたわけである。夫婦間に「わたしはあなたに60%の愛情を捧げるけれど、別の人にも40%の愛情を捧げる」はあり得ない。従って聖書の中の《信仰》とは、「100%の愛情」つまり疑う余地のない確信である。

(注)別エントリー「試論:『主イエスこそ真の花婿』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7379

(注)別エントリー「神に対する確信を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5613

(注)別エントリー「試論:『わたしたちの確信』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7711

(注)別エントリー「『からし種一粒ほどの信仰』???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19278

マタイ22章は神の御前に立つためには「礼服」が不可欠と教える。詩編132編は9節で「正義を衣としてまとう」16節で「救いを衣としてまとう」と表現して「救い」すなわち神と共にある条件を、「正義」すなわち「神の義」(マタイ6章33節)とし、その具体例をコロサイ3章12節以下が教える。

(注)別エントリー「試論:マタイ22章『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6740

(注)別エントリー「試論:『人の行いに応じた報い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5743

(注)別エントリー「試論:『神の義とディカイオス』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8685

マタイ22章「礼服」に関連して、パウロはコロサイ3章で、キリストに結ばれていたいと望む人々が「着る」つまり身に着けるべき事柄に関してとりわけ10節以下で論じ、5節から9節では脱ぎ捨てるべきものも説く。身に着けるべきは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、そして愛だとパウロは説いた。

主はマタイ6章33節で「神の国と神の義を求めよ」と仰せになり、また同22章では神の国で神の御前に立つために不可欠な「神の義」を、「礼服」にたとえられた。この「礼服」すなわち「神の義」とは何であるかについて、パウロはコロサイ3章で、キリストの弟子が身に着けるべきものとして説明した。

試論:古代のヘブライの「信仰」を140文字以内で

【問】ヨハネ20章のトマスのエピソードは「不信のトマス」などと呼ばれますがトマスだけ不在の時に御出現があったのだから無理もないのでは?
【答】古代のヘブライ人の「信仰(信じる)」とは《揺るぎない確信》を意味しました。主イエスも他の弟子たちも、トマスを見る視線は優しかったと思います。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書の『信じる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16417

【追記】

【問】「わたしは決して信じない」とは「一ミリたりとも信じない」「絶対に信じない」「わたしの信仰はゼロ」などの意味ですか。
【答】もしそうならトマスは他の弟子たちに別れを告げていたはずです。「決して信じない」とは「わたしは他の弟子たちのような納得には、どうしたって到達できない」です。

(注)別エントリー「ヨハネ20章25節『決して信じない』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/26578

古代のヘブライ人は神と神の民との関係を「花婿と花嫁」に喩えた。信仰を夫婦間の愛情に喩えたわけである。夫婦間に「わたしはあなたに60%の愛情を捧げるけれど、別の人にも40%の愛情を捧げる」はあり得ない。従って聖書の中の《信仰》とは、「100%の愛情」つまり疑う余地のない確信である。

(注)別エントリー「試論:『主イエスこそ真の花婿』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7379

(注)別エントリー「神に対する確信を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5613

(注)別エントリー「試論:『わたしたちの確信』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7711

(注)別エントリー「『からし種一粒ほどの信仰』???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19278

試論:「トマスと南インド」を140文字以内で

エルサレム神殿は聖別の油の原料シナモン(肉桂。出エジプト30章23節)が必需品で南インドかセイロンでしか入手できず、南インドにはユダヤ商人たちが駐在していた。彼らにトマスは宣教していたが、紀元七〇年の滅亡で貿易は成立しなくなり主イエスの神殿滅亡の予告を説いていた彼は逆恨みされた。

(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1699

【追記】

黙示録18章はエルサレム神殿滅亡を知った商人たちの嘆きを記すが商品の中には「肉桂」も登場する。伝承ではトマスの殉教はエルサレム神殿滅亡からしばらく後のことだった。神殿滅亡で商売が成り立たなくなった南インド駐在のユダヤ商人や取引相手の現地人は、尋常でない損失を抱えていたはずである。

(注)別エントリー「試論:『大淫婦』の正体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15895

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

古代のイスラエルでは「神」と「神の民」との関係がしばしば「花婿」と「花嫁」と表現された。しばしば「女王」にもたとえられる都が「花婿」キリストを歓呼と共に迎え入れながら、数日後に裏切り、夜中に急襲して捕らえ一日のうちに死に至らしめたその行状から、「大淫婦」と呼ばれるのは当然である。

黙示録18章7節「わたしはやもめではなく女王であり、決して悲しい目に遭わない」ルカ19章41節以下「イエスは都のために泣いて仰せになった、『もし今、お前が平和への道をわきまえていたならば。しかし今のお前は、それを理解していない。時が来て、敵がお前を包囲して四方から攻め寄せ〜』」。

ヨハネ20章25節「決して信じない」

【問】「わたしは決して信じない」とは「一ミリたりとも信じない」「絶対に信じない」「わたしの信仰はゼロ」などの意味ですか。
【答】もしそうならトマスは他の弟子たちに別れを告げていたはずです。「決して信じない」とは「わたしは他の弟子たちのような納得には、どうしたって到達できない」です。

ヨハネ20章25節は、指や手を釘跡や脇腹に入れてみなければ自分は決して信じないとトマスが言ったと記す。この場合「信じる」は《確信を持つ》の意味合いである。ヘブライ人にとって信仰とは《確信》であり、どっちつかずの心理状態や言行不一致の状態は「信じる」「信仰」のうちには入らなかった。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書の『信じる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16417

ヨハネ福音書は「永遠の命」「信じる」を多用する。ただし「何をすれば永遠の命を得られるか」の具体例はマタイ25章「最後の審判」とルカ10章「善きサマリア人の話」の箇所にあり、ルカ10章27節で主イエスは、「信じる」こととは「心・精神・力・思いを尽くし愛する」ことだとお教えになった。

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4544

(注)別エントリー「試論:永遠の命を得るためには?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16373

古代のヘブライ人は神と神の民との関係を「花婿と花嫁」に喩えた。信仰を夫婦間の愛情に喩えたわけである。夫婦間に「わたしはあなたに60%の愛情を捧げるけれど、別の人にも40%の愛情を捧げる」はあり得ない。従って聖書の中の《信仰》とは、「100%の愛情」つまり疑う余地のない確信である。

(注)別エントリー「試論:『主イエスこそ真の花婿』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7379

(注)別エントリー「神に対する確信を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5613

(注)別エントリー「試論:『わたしたちの確信』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7711

(注)別エントリー「『からし種一粒ほどの信仰』???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19278

詩編12(11)編においてダビデは、隣人に嘘をついたり隣人を早口で欺いたり言行不一致状態だったりする人々ばかりの風潮を、「信仰のある人は消え去りました」(12編2節、新共同訳)と表す。ここで「信仰」と訳されるヘブライ語を、古代のギリシア語訳聖書はアレテイア(真理、まこと)と訳す。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

ヨハネ福音書は「信仰」を表現する際、他の福音書が用いるピスティスという語を用いず代わりにアレテイア(真理、まこと)という語を多用する。ヨハネにとって信仰とは、人の真心に対し真心で応じられる神なる主に向かって嘘偽りや裏表のない態度で接することに他ならず、これは当時の共通認識だった。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書のアレテイアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15430

主イエスはヨハネ14章6節で「真理」を自称されたが、プロテスタントの「改訳 新約聖書』(1917年)は「まこと」と平仮名を振り、旧約聖書で「まこと」と訳される語との関連を示唆する。嘘偽りや裏表がないこと、上っ面だけでなく内実を伴うこと、真心には真心で返されること等を意味している。

(注)別エントリー「試論:まこと(真、実、信、誠)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16274

プロテスタントの『改訳 新約聖書』(1917年)はヨハネ14章6節の「真理」に「まこと」と平仮名を振った。旧約聖書で「まこと」と日本語訳されるヘブライ語に対応するからだが、このヘブライ語は「真」「実」「信」「誠」のニュアンスを全て含むため通例、平仮名で「まこと」と日本語訳される。

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

【問】主イエスはマタイ9章(マルコ2章、ルカ5章)で手足が麻痺した人を治癒させられましたが、その目的は何?
【答】第一義的には、御自分が、イザヤ35章3節で預言された「手足が麻痺した人のいやし」を「しるし」とする救い主であることを、当時のユダヤ世界の人々に広く知らしめるためでした。

(注)別エントリー「試論:マタイ9章3節の『冒瀆』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/26521

【問】「イエスはその人たちの信仰を見て」の「信仰」って何?
【答】イエスこそ手足の麻痺した人をいやして下さるに違いないという「ただ信じて少しも疑おうとしないこと」「強い信頼」「固い確信」です。詩編12編の通り古代のヘブライの「信仰」とは嘘偽りや言行不一致や面従腹背と全く無縁でした。

試論:マタイ9章2節の「信仰」を140文字以内で

【問】「イエスはその人たちの信仰を見て」の「信仰」って何?
【答】イエスこそ手足の麻痺した人をいやして下さるに違いないという「ただ信じて少しも疑おうとしないこと」「強い信頼」「固い確信」です。詩編12編の通り古代のヘブライの「信仰」とは嘘偽りや言行不一致や面従腹背と全く無縁でした。

(注)別エントリー「試論:手足が麻痺した人のいやしを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/26527

(注)別エントリー「試論:マタイ9章3節の『冒瀆』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/26521

試論:マタイ9章4節を140文字以内で

【問】マタイ9章4節は「イエスは彼の考えを見抜いて言われた」と記します。どうやって?
【答】マルコ2章8節は「イエスは御自分の霊の力ですぐ知って言われた」と記します。ヨハネやパウロは人間由来の事柄を「肉」、神に由来する事柄を「霊」と呼び対比しました。「霊の力」とは神としての力です。

(注)別エントリー「試論:手足が麻痺した人のいやしを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/26527

試論:手足が麻痺した人のいやしを140文字以内で

【問】主イエスはマタイ9章(マルコ2章、ルカ5章)で手足が麻痺した人を治癒させられましたが、その目的は何?
【答】第一義的には、御自分が、イザヤ35章3節で預言された「手足が麻痺した人のいやし」を「しるし」とする救い主であることを、当時のユダヤ世界の人々に広く知らしめるためでした。

(注)別エントリー「試論:マタイ9章3節の『冒瀆』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/26521

試論:マタイ9章3節の「冒瀆」を140文字以内で

古代のイスラエルでは、イザヤ6章10節にもある通り、神なる主の罪の赦しと癒しとはしばしば同一視された。もしイエスが「あなたの罪は赦された」(マタイ9章2節)と口にしながら癒しを伴っていなければ、確かにその言葉は冒瀆に終わる。しかしイエスの言葉には結果(7節)が歴として伴っていた。

【追記】

ルカ8章48節で主は御自分の服に触れ癒しを得た女性に「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と仰せになった。7章50節でも主は罪の女性に赦しを与えた際に、同じ言葉をかけられた。イザヤ6章10節(マタイ13章15節、ヨハネ12章40節)でも主の赦しは癒しと同一視される。

(注)別エントリー「試論:他人を赦すことを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5300

主イエスはマタイ9章等で奇跡的な治癒(イザヤ35章3節参照)を行われる際、相手に「子よ」と呼び掛けられた。イザヤ書は35章で救い主の到来を預言し目や耳や言葉や手足の不自由な人々の回復がしるしになると記す。また63章16節では、救い主である神は民にとって「父」であると再確認させる。

ルカ2章11節は「あなたたちのために救い主がお生まれになった」マタイ1章21節は「この子は自分の民を罪から救う」と記す。イザヤ35節4節以下は「敵(サタン)を撃ち悪を罰する神が来られ、あなたたちを救われる」と預言し、目や耳や足や言葉の不自由な人々の回復が神の到来の徴になると続く。

四福音書は主イエス・キリストによる病人の奇跡的な癒しをさまざまに記すが、理由はイザヤ35章4節以下で救い主の到来が預言されている通り、見分ける徴は目や耳や手足や言葉の不自由な人の奇跡的な治癒(6節。またヨハネ9章32節参照)であることが、既に数百年前から預言されていたからである。

マルコ8章11節でファリサイ派の人々は主イエスを試そうと「天からのしるし」を求めたのに対し、主は「なぜ『時代のしるし』を悟ることができないのか」とマタイ16章3節で答えられた。「時代のしるし」とは、預言されていた救い主による癒し(イザヤ35章5節以下)と、主によるその実践である。

ヨハネ1章は主イエス・キリストを「言(ことば)」「命」「人間を照らす光」等と象徴的に表現したが、その光は人々が心に秘めた悪意(レビ19章17節)を、容赦なく明るみに出す(マタイ9章4節、同12章25節)。神は罰するべき者は罰せられた(出エジプト記34章7節、民数記12章10節)。

試論:「結婚前のルツとボアズ」を140文字以内で

【問】結婚前のボアズは雇う側でルツは雇われる側でした。土地から収穫される穀物の十分の一を献げる義務(レビ27章30節)があるのは誰?
【答】もちろんボアズであってルツではありません。レビ記が要請するのはあくまでも土地からの収穫量の十分の一であり個々の収入額の十分の一ではありません。

(注)別エントリー「試論:聖書に根拠がない『十分の一献金』の問題点」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/26513

聖書に根拠がない「十分の一献金」の問題点

主イエスは、マルコ12章とルカ21章の有名な「貧しいやもめの献金」の箇所で、「他のどんな裕福な人々よりも、彼女はたくさん献金した」と仰せになり、献金の多い少ないを信仰心の尺度と見なすという価値観をここで明確に否定された。献金で信仰心を評価する行為はキリスト教的ではない発想である。

新約聖書に「十分の一」という献金は存在しない。大方の思い込みに反し旧約聖書にも存在せず、旧約聖書で「十分の一」はあくまで現物(物納)であり「献金」(貨幣)ではない。「聖書のみ」を標榜する教派が、聖書に根拠が皆無の献金を聖書に根拠があるかのように喧伝するのは、いかがなものだろうか?

マタイ17章は「魚と銀貨」の話で、主イエスの時代の「神殿税」が一人当たり銀半シェケル(出エジプト記30章15節)であり銀貨一枚で二人分だったことを記す。「十分の一」は「献げ物」(マタイ23章23節)であって、それは「土地から取れる収穫」(レビ記27章30節)などの「物納」による。

旧新約聖書には、貨幣で納める「神殿税」そして「神殿への献金」という制度はもちろん存在するし、またそれとは別に、現物(貨幣以外)で納める「十分の一の献げ物」という制度も存在する。ただし、貨幣で「十分の一」を「献金」させる制度は聖書には存在しない。「十分の一」は、聖書では物納である。

ヘブライ10章5節以下は、キリストは律法に従って献げられる物を望みも好まれもせず替わりに御受難の際、御自分の体を唯一のいけにえ・献げ物として献げられたと記す。従って「十分の一の献げ物に替わるのが十分の一献金」という発想自体が御受難の意義ひいてはキリスト教自体の意義の否定に当たる。

(注)別エントリー「試論:献げ物と御受難を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12423

(注)別エントリー「試論:『贖(あがな)いの小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9650

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

(注)別エントリー「試論:『身代金(贖いの代価)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7872

【問】旧約の「十分の一の献げ物」の替わりが現代の「十分の一献金」ですか?
【答】いいえ。ヘブライ10章5節以下は、旧約時代の全てのいけにえや献げ物の類に替わるものとして主イエス・キリストが御自分の体を十字架上で献げられたと教えます。「十分の一献金」は蛇の絵に足を描くような行為です。

(注)別エントリー「試論:『旧約聖書とカトリック』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/22022

【問】では、旧約聖書に書かれていることで現代のキリスト信者が真似しなくてもいいこととは何ですか?
【答】例えば一夫多妻制、豚肉食禁止、割礼、エルサレム神殿の建設、十分の一の献(ささ)げ物やいけにえ、預言者への従順、〔日曜日の方ではなく〕土曜日(旧約の安息日)を尊重すること、等です。

(注)別エントリー「試論:『安息日と主日との違い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12017

(注)別エントリー「試論:『土曜と日曜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12677

申命記4章2節は「わたしが命じる言葉に何かを付け加えたり除いたりしてはならない。わたしが命じる通りに神なる主の戒めを守りなさい」と教え、神の掟の内容を人間の都合で変更する行為を認めない。従って「十分の一の献げ物」(現物、物納)」を「十分の一献金」(貨幣)へ変更することはできない。

一ヨハネ4章2節とヨハネ1章14節を照合すると「惑わす霊」の特徴は、主イエスが公生活中に仰せになった「主の御言葉」の内容(掟や戒め)に頑として触れようとしない点で、キリスト不在のキリスト教と呼ぶべきものへと信仰を換骨奪胎し、信者を福音書の主の御言葉から遠ざけることこそ目的である。

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)である神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8969

主はルカ6章46節で「あなたたちはわたしのことを『主よ、主よ』と呼んでおきながらどうしてわたしの言うことを行わないのか」と仰せになった。さらに次節以下では「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞きながら聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている」とお教えになった。

「聖書のみ」を標榜する人々は「マリアは聖書では神の母と呼ばれたことがない」としばしば強弁するが、ルカ1章43節でエリサベトは「わたしの主のお母さま」と呼ぶ。他方「十分の一献金」は新約聖書にも旧約聖書にも登場しない。旧約で「十分の一」はあくまで現物(物納)であり献金(貨幣)でない。

(注)別エントリー「試論:『わたしの主のお母さま』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10221

(注)別エントリー「試論:『わたしの主』と母マリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8575

(注)別エントリー「マリアを『神の母』と呼ぶ聖書的根拠」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4492

【問】「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」。これと同じ主張は福音書にありますか?
【答】マタイ9章13節「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」。神なる主がお喜びになる行いは、割礼や各種の献げ物:いけにえの類いではなくて、隣人愛の実践です。

【問】「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく」の「律法の行い」って、何?
【答】ローマ3章30節以下では割礼が話題にされますが、ヘブライ10章5節以下は「罪を贖うためのいけにえ」、「焼き尽くす献げ物」に言及し、続いて、神はこれらを望みもせず、好まれもしなかったことを説明します。

【問】では、「人が義とされるのは信仰による」の「信仰による」は、聖書のどの箇所で説明されますか?
【答】ガラテヤ5章6節「キリスト・イエスに結ばれているなら、愛の実践を伴う信仰こそ大切」ヤコブ2章17節「行いを伴わないのなら、信仰はそれだけでは死んだものです」。

二ペトロ2章は「偽教師」への警戒を呼びかける。彼らは「滅びをもたらす異端を持ち込み、主を拒む」(1節)、「欲が深く虚言で人々を食い物にする」(3節)、「厚かましく、わがまま」(10節)「昼間から歓楽にふけるのを愉しみとする」(13節)「無意味な大言壮語」(18節)等の特徴を持つ。

(注)別エントリー「試論:主イエスと旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7462

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4783

(注)別エントリー「試論:神の国の到来と『主の日』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5578

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の意義を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9840

(注)別エントリー「試論:携挙がない理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4703

(注)別エントリー「試論:『携挙』の否定を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6277

(注)別エントリー「試論:有人気球と『空中』の拡大を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10279

試論:「ガダラ人の豚」を140文字以内で

ガダラ人の地方は主イエスの弟子の漁師たちから見れば湖の「向こう岸」ではあったが歴史の流れの中で、豚を飼う習慣のある異邦人の地となっていた。主イエスは弟子たちに、いずれは豚を飼う異邦人たちにも宣教しなければならないが、今はまだその時ではない(マタイ8章29節)ことをほのめかされた。

試論:マタイ8章24節を140文字以内で

主イエスはマタイ8章で弟子たちが大荒れの湖の船内で右往左往する中、ただ一人のんびり眠っておられた。これはヨナ1章の預言者の姿を連想させ、実際に主御自身がマタイ12章40節前後で御自身とヨナを重ね合わせられ、御自分もまたヨナのように人々を救うための犠牲となる定めだとほのめかされた。

(注)別エントリー「試論:『突風を静める』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10468

【追記】

主イエスは、御自身の死と復活が、既に〔旧約〕聖書に預言されている、と仰せになる際に、

「ヨナのしるし」

という表現を用いられた。

ヨナ2章1節(1章17節)「ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた」。

ここで注意すべきは、

「海」(1章15節)

が死の世界の象徴として言及されているという点である。

(注)別エントリー「試論:『地上では海が荒れ狂う』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12775

ルカ24章のエマオでの御出現において主は、旧約聖書とは御自分について証しするものであり、実際その詳細について「全体」の説明を始めると、何時間あっても語り尽くせないことをお示しになった(27節)。主はユダヤの人々に対して以前にも同じ事柄をお話しになられていた(ヨハネ5章39節等)。

主イエスはヨハネ5章39節で「あなた方は〔旧約〕聖書中に永遠の命が存在すると考え〔旧約〕聖書を研究するが、〔旧約〕聖書はわたしに関してあかししている」と仰せになり、御自分とは無関係の目的で〔旧約〕聖書を研究しても、本当に重要な真理には全く到達することができないと、お教えになった。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

天は激しい音を立てながら消え失せ???

二ペトロ3章10節は「主の日」において「天は激しい音を立てながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に熔解し尽くす」と予告した。数年後の紀元七〇年、神が住まわれると見なされて、「天」と同一視されていたエルサレムの神殿は、都の滅亡の際ローマ帝国軍によって火を放たれ、大音響と共に焼け滅びた。

主イエスはマタイ5章18節で、全てが実現し天地が消え失せるまで律法の時代が続くことを仰せになった。ルカ21章22節では、エルサレム滅亡(20節)の日を「書かれていることが完全に実現する報復の日」と仰せになり、エルサレムと神殿の滅亡(紀元七〇年)で律法の時代が終わると宣言なさった。

「天地が消え去る」の「天」とは、神がお住まいになる場所と見なされたエルサレム神殿とりわけその聖所を指し、二ペトロ3章はその滅亡が近いことを説く。「地」はエゼキエル7章2節同様、イスラエルの地を指す。紀元七〇年にエルサレムと神殿は滅亡しユダヤ(イスラエル人の国家)も同じく消滅した。

紀元七〇年のエルサレム滅亡時にローマ軍へ投降したユダヤ人のうち、使徒言行録22章のパウロのようにローマの市民権を持つ者はローマ法の保護下にあるため留め置かれたが、そうでない者は妻子と共に奴隷とされ売り飛ばされた。こうして「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」の予告は実現した。

(注)別エントリー「試論:『滅びを避けるには』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5749

ルカ17章34節から35節で主は「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」と繰り返されたが、では一体どこに「連れて行かれ」るのかを、ルカ21章24節では「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と御説明された。これは大昔モーセがレビ記26章33節以下で預言していた話と同じである。

古代のヘブライ人は詩編78編69節の通り、エルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。これを踏まえれば、主イエスのルカ21章33節の仰せ「やがて天地は滅びるであろうが、わたしの言葉は決して滅びない」の意味は、「エルサレムと神殿の滅亡後も、わたしの教えと信仰は生き続ける」である。

(注)別エントリー「試論:黙示録の『第八の者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12097

主はマタイ5章18節で、全てのことが実現して天地が消え失せるまではモーセの律法も消え失せないと仰せになり、ルカ21章22節ではエルサレム滅亡で預言が全て実現すると予告され、紀元七〇年にそれは成就した。詩編78編69節の通りヘブライ人はエルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。

(注)別エントリー「試論:ルカ19章41節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5814

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

ルカ21章22節には「書かれていること」という言い回しが用いられているが、これはヨシュア記1章8節と同様に、「預言された事柄」「神から啓示された内容」などを意味する表現である。古代においては「書く(書いて記録に残しておく)」という行為それ自体が、非常に重要な意味を持つものだった。

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

ルカ21章22節において、主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると明言されており、それは紀元七〇年に現実のこととなった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代や近未来の世界情勢に関して旧約聖書の預言から考える行為は、不毛である。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

ダニエル書9章では神殿とエルサレムの復興を強く願うダニエルの祈りに応えて、都と神殿の再建さらには救い主の到来までも約束されたが、救い主が不当に殺された後、モーセの律法を蹂躙する集団が神殿の聖所を占拠し、そして次に来る指導者の民が、都と神殿を無法集団もろとも、滅ぼし尽くして終わる。

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

ルカ21章32節で主は「全てのことが起こるまではこの時代は決して滅びない」と仰せになったが、「時代」に当たる原文の単語ゲネアは古代のギリシア語詩編94(95)編10節の「世代」にも用いられ、詩編のこの節ではゲネアを四十年とする。実際この主の仰せからおおよそ四十年後に都は滅亡した。

(注)別エントリー「試論:『今の時代』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5596

(注)別エントリー「試論:『人心荒廃は滅亡の前兆』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6291

申命記28章49節でモーセは、将来イスラエルの民を滅ぼす国民の象徴となる動物を預言した。ルカ17章37節のギリシア語本文も、古代のギリシア語訳申命記と同じ単語を用いている。それはローマの国章と同じ動物で、ヨハネ11章48節で「ローマ人」という表現が登場する、根拠の一つでもあった。

ダニエル9章24節はメシアに関して預言の時代を封印する存在だと預言し、主イエスはルカ21章22節で旧約聖書の全預言が(紀元七〇年の)エルサ レム滅亡で成就すると仰せになった。故に現代や近未来の国際情勢と旧約聖書の預言は無関係で、関係ありとする強弁は、キリスト教の範疇を逸脱している。

主はルカ17章30節で「人の子が現れる日」に言及された。これは黙示録6章17節「神と小羊の怒りの大いなる日」と同じで「神」は御父である神、「人の子」「小羊」は主イエス・キリストである。「はげ鷹」ローマ帝国は繁栄の都エルサレムと神殿を、神の介在を疑い得ないほどに跡形もなく滅ぼした。

主はルカ21章20節以下で(紀元七〇年の)エルサレム滅亡及びその前後にユダヤを襲う「大いなる艱難」(23節)を予告された。また「異邦人の庭」(黙示録11章2節)を持つエルサレム神殿がまだ存在する時期に黙示録の内容を啓示され、エルサレム滅亡後も教会は存続すると希望をお与えになった。

主はルカ17章20節で「神の国は見える形では来ない」22節で「人の子の日を弟子たちが見ることはない」と仰せになったが、アモス5章18節では「主の日を待ち望む者は災いだ。主の日は闇であって光ではない」と預言しており、「神の国の到来」と「主の日」とを混同すべきではないと、理解できる。

(注)別エントリー「試論:『主の日』二つの意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12894

プロテスタントの文語訳聖書『改訳 新約聖書』(1917年)はルカ21章23節を「地(ち)には大(おほひ)なる艱難(なやみ)ありて、御怒(みいかり)この民(たみ)に臨(のぞ)み」と訳し、ある人々がいわゆる「大艱難時代」と呼ぶ時期とは実は紀元七〇年の滅亡の前後に他ならないと示唆する。

主はルカ21章23節でエルサレム滅亡とその前後のユダヤの苦難を予告されたが、『改訳 新約聖書』(1917年)では「大なる艱難」と日本語訳する。一世紀後半のユダヤの歴史家ヨセフスの記述通り、紀元六六年の大反乱の勃発から七三年のマサダ陥落までの七年間に、ユダヤは惨劇の連続を経験した。

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の意義を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9840

ダニエル9章24節はメシアに関して預言の時代を封印する存在だと預言し、主イエスはルカ21章22節で旧約聖書の全預言が(紀元七〇年の)エルサレム滅亡で成就すると仰せになった。故に現代や近未来の国際情勢と旧約聖書の預言とは無関係で、関係ありとする解釈は主の仰せとは明確に相反している。

試論:わたしの羊を飼いなさい?を140文字以内で

【問】ヨハネ21章「わたしを愛しているか」「わたしの羊を飼いなさい」の対話の時、ペトロはなぜ悲しくなりましたか?
【答】「鶏が鳴く前にあなたは三度わたしを知らないと言う」を思い出して心の中で号泣したからです。「わたしの羊を飼いなさい」は《もう自分を責めるのはやめなさい》と裏表です。

現代、近未来、そして旧約聖書の預言

【問】現代あるいは近未来に、旧約聖書に預言されている事柄が成就することは、はたしてありえますか?
【答】全くありえません。主イエスはルカ21章22節で、旧約聖書の全ての預言はエルサレムの滅亡をもって完全に成就すると仰せになっており、それは既に、紀元七〇年に現実のこととなっています。

【問】「聖書で、現代の世界や中東の情勢を読み解く」と主張する人々がいるようですが、そんなことできますか?
【答】古事記や日本書紀や万葉集や源氏物語で、現代の日本を読み解くことができるでしょうか? それと同じです。もちろん、読み解いたつもりになって一人悦に入るのは、その人の勝手です。

ルカ21章22節において、主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると明言されており、それは紀元七〇年に現実のこととなった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代や近未来の世界情勢に関して旧約聖書の預言から考える行為は無意味である。

旧約聖書の預言は第一義的に主イエス・キリストの到来及びその前後までの歴史的出来事をあかしするためのものであり、キリスト到来から約二千年後に生きる現代人が国際情勢を読み解くためのものではなく、国際情勢分析など本来の意義とは無関係の完全な逸脱行為であり、真理には絶対にたどり着けない。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

エゼキエル書38章で預言されている戦争において「ゴグ」の侵略目的は、「金銀」や「財産」や「家畜」の「略奪」ではないかと周辺から「非難」を受ける性質のものであり、現代人がイメージする近未来の戦争とは程遠く、まして家畜の略奪が話題にされるような戦争が「世界最終戦争」であるわけがない。

(注)別エントリー「予備的考察:いわゆる『エゼキエル戦争』【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15520

【問】聖書から「終末預言」を連想する人々がいるようです。
【答】聖書のギリシア語には最後や最終を意味する語がありますが、例えば前後の見境なく浪費を続ける人や交通ルールを無視した運転を続ける人に「続けてたら最後は悲惨な目に遭うよ」と忠告しても、それは忠告であり終末預言にはなりません。

(注)別エントリー「試論:『終わりの時』の人々の姿を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10858

(注)別エントリー「一ペトロ4章7節『万物の終わり』???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/25575

旧約聖書の預言は第一義的に主イエス・キリストの到来及びその前後までの歴史的出来事をあかしするためのものであり、キリスト到来から約二千年後に生きる現代人が国際情勢を読み解くためのものではなく、その点では、旧約聖書の「預言」とノストラダムスの「予言」とでは意義も目的も全く違っている。

(注)別エントリー「試論:非キリスト教的な預言解釈を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21066

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

ルカ24章のエマオでの御出現において主は、旧約聖書とは御自分についてあかしするものであり実際その詳細について《全体》の説明を始めると、何時間あっても語り尽くせないことをお示しになった(27節)。主は以前にもユダヤの人々に対して同じ事柄をお話しになられていた(ヨハネ5章39節等)。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ5章46節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7208

【問】ルカ15章「放蕩息子」の話で最も重要な瞬間はどこ?
【答】17節「我に返る」瞬間です。放蕩の限りを尽くし財産を無駄使いし何もかも失って初めて彼は、自分にとって本当に大切なものが何であるかに気付きましたが、その瞬間です。本当に大切なもののところへ向かって、彼は、戻り始めました。

ヨナ書で「大いなる都」と呼ばれたニネベでは、預言者ヨナによる滅亡の警告を受けて都の人々がこぞって神を信じ、直ちに回心して神の御前にへりくだり、粗布をまとって断食し、ひたすら神に祈願して各々が非を認め、悪の道から離れて不法を捨てた。主はそれを御覧になり、ニネベの滅亡を思い直された。

(注)別エントリー「試論:エゼキエル18章を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5726

(注)別エントリー「試論:『主が御怒りになる理由』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10995

ルカ19章で、主はエルサレムのために泣かれた。確かに主の予告の通り、約四十年後に都は滅亡した。だが同じ都は数日後に主御自身を殺す都でもあった。それでも主は、ヨナ書で神がニネベを惜しまれた以上に、エルサレムのために泣かれた。エルサレムが決して自分の非を認めようとはしないためである。

イザヤ59章2節「あなたたちの悪こそが、神とあなたたちの間を隔て、あなたたちの罪こそが、神の御顔を隠させ、神があなたたちに耳を傾けられるのを妨げている」ヨハネ14章24節「本当はわたしのことなど愛してはいない者は、決して御父とわたしの言葉や掟を受け入れはせず守ろうなどとしない」。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

主はマタイ13章45節以下で、「天の国」を全財産と引き換えにしてでも手に入れるべき真珠にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「天の国」は「永遠の命」と同義だが、「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

試論:「エレミヤだ」を140文字以内で

【問】マタイ16章14節は当時の人々の中に主イエスを預言者エレミヤと呼ぶ向きがあったことを記しますが、なぜ?
【答】主イエスは「わたしは火を投ずるために来た」(ルカ12章49節)と仰せになりましたが、神の御言葉を「火」に喩える言い回しはエレミヤ書で何度も登場します(5章14節等)。

【追記】

【問】主イエスと預言者エレミヤの共通点は他にもありますか?
【答】両者は共にエルサレム神殿を「盗賊の巣」呼ばわりして(エレミヤ7章等)その滅亡を啓示しました。そのために両者は、人々からひどく憎まれました。日本語でいえば、それは「何を縁起でもないことを言っているんだ」という話でした。

試論:「人の子」誰?を140文字以内で

【問】主イエスが「人の子」に言及される際に、それが主イエス御自身のことを指している自称であると、なぜ分かるのですか?
【答】マタイ16章13節「『人々は人の子のことを何者だと言っているのか』とイエスはお尋ねになった」同15節「それでは、あなたたちはわたしのことを何者だと言うのか」。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888

(注)別エントリー「試論:『人の子』と孫悟空の違いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12517

ヨナの子? ヨハネの子?

マタイ16章17節「バルヨナ」の「ヨナ」は、福音書時代のヘブライ語では「鳩」を意味した。シモン・ペトロを「鳩(=神の霊。マタイ3章16節)の子」と呼ぶことで、主イエスは「あなたの今の言葉は神の霊があなたに言わせたことである」という事柄をシモン本人そしてその場にいた皆に示唆された。

ヨハネ21章15節はシモン・ペトロを「ヨハネの子」と呼ぶ。マタイ16章17節「バルヨナ」は通常「ヨナの子」と訳されるが福音書時代のヘブライ語でヨナは鳩を意味した。ただしシモン・ペトロの元々の性格が、ヨナ書最終章の預言者の姿(不満や怒りを隠せない)と同様だった可能性も否定できない。

彼は家庭を持つ漁師で湖の対岸の異邦人とも交流がないほどだったが、大工の男に説得され、その弟子となり、師とともに湖上を歩き、師から一番弟子に指名された。一度は師を見捨てた彼を師は変わらず信頼し、師が去った後も教えを広めるために彼は世界を巡り、世界の都で一粒のからし種として殉教した。

(注)別エントリー「試論:『自分の十字架』とペトロを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12304

福音書には主の職業はテクトーンとあるが、ホメロスの叙事詩ではテクトーンは船大工をも意味し、もしも主が腕の確かな職人として既に漁師の間で知られていたとすれば、故郷で生涯を終えることが多く同業者だけで集まりがちな漁師の中からすぐ四人の信頼を得て弟子とすることができたのも、道理である。

(注)別エントリー「試論:天の国と『人間をとる漁』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8963

主はマルコ4章で弟子たちの前で突風を静められて創造主としての権威の片鱗を示されたが、後にペトロだけは最後に沈みかけたものの湖の上を歩く体験をして主の権威に対する確信を強め、このペトロの確信がマタイ16章16節「あなたは生ける神の子キリスト(メシア)です」の信仰宣言へとつながった。

主イエスが湖の上をお歩きになった際、弟子たちの中でペトロが最初に自分も歩くと申し出たが、怖くなって沈みかけ、主に助けを求めた。主はペトロをお叱りになったが、すぐに手を伸ばし助けられた。失敗も多かったが、御言葉に真っ先に反応して忠実を示し続けるペトロに、主は御自分の羊を委ねられた。

主がペトロに「あなたは鶏が鳴くまでに三度わたしを知らないと言うであろう」と予告されたことはあまりにも有名である。しかしその前に、主はさらに先のことを見通すかのように、「あなたが(自分の痛手から)立ち直ったならば今度はあなたが仲間たちを力づけなさい」ともペトロに仰せになられていた。

ヨハネ1章42節はシモン・ペトロをヨハネの子とするが、マタイ16章17節はバルヨナ(ヨナの子)と呼ぶ。ヨナは鳩すなわち神の霊を意味し、主イエスはペトロを鳩の子と呼ぶことで《今のあなたの言葉は神の霊があなたに言わせたことである》という事柄をシモン本人及びその場にいた皆に示唆された。

パウロの「自分の十字架」

二コリント12章7節でパウロは、自分が高慢にならぬように神はサタンからの使いが付きまとうことを認められたと記す。サタンがパウロを苦しめた方法は想像に難くなく、「お前は忠実な弟子を気取ってるが、元はステファノの殺害に賛成していた男だし、ダマスコ行きの目的も迫害のためだっただろ?」。

「神は高慢な者を敵とされ、へりくだる者に恵みをお与えになる」(ヤコブ4章6節、一ペトロ5章5節)。二コリント12章7節で「思い上がることがないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられた。それは、思い上がらないように、痛めつけるために、サタンから送られた使いです」とパウロは記す。

(注)別エントリー「試論:詩編1編1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10619

一コリント15章55節は「死よ、お前のとげはどこにあるのか」と、古代のギリシア語訳ホセア13章14節を引用する。この箇所は「死よ、お前は何をもって人間を刺し貫き死に至らしめるのか(ヨハネ19章37節またゼカリヤ12章10節参照)」を意味し、人間に致命傷を与えるもののたとえである。

(注)別エントリー「試論:一コリント15章『復活』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14355

(注)別エントリー「一コリント15章:死者の復活」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14517

ガラテヤ5章24節や同6章14節は、「神の国と神の義」(マタイ6章33節)に相応しくない現世的な「肉の業」(ガラテヤ5章19節以下)と絶縁する決意や日々のそのための努力を、負うべき十字架にたとえた。マタイ6章12節の「負い目」とは、「肉の業」つまり人間の「過ち」(14節)を指す。

主はマタイ10章38節で、御自分に従いつつも当人が抱える良心の問題と向き合わない者を批判された。それだと「御言葉を聞くと喜んで受け入れるが当人に根がないので、御言葉のために艱難や迫害が起こるとすぐつまずく者」(13章20節〜21節)だからである。信仰は一時の熱意や高揚感ではない。

「十字架」に関しルカ9章23節は「日々」と記して日常との関連を示唆し「自分を捨て」と記して自分の諸欠点との関連を示唆する。二コリント11章28節「日々の厄介事や心配事」。「捨てるべき古い自分」は自分の諸欠点、「自分の十字架」は自分の諸欠点に伴う日常の労苦(厄介事、心配事)である。

(注)別エントリー「試論:『自分を捨てる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7635

(注)別エントリー「試論:『捨てる』べきものは何?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9194

主はマタイ6章12節で「われらが負債ある人を赦す如く、われらの負債を赦したまえ」と仰せになったが、同18章21節の「仲間を容赦しない家来のたとえ」で意味を詳しく御説明され、また35節は「あなたがた一人一人が心から兄弟を赦さないなら、天の御父もあなたがたに同じようになさる」と記す。

マタイ18章の「仲間を容赦しない家臣」のたとえで主は、「わたしがお前を憐れんだようにお前も仲間を憐れんでやるべきではなかったか」の言葉通り他人を容赦することこそ憐れみそのものであると説明され、一人一人が心から兄弟を容赦しないのならば天の御父も一人一人に同じくなさると警告なさった。

(注)別エントリー「試論:自分が裁かれないためにはを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5501

(注)別エントリー「試論:赦しの重要性を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5390

(注)別エントリー「試論:主の祈りと赦しを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5305

(注)別エントリー「試論:他人を赦すことを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5300

ヨハネ1章12節以下は「言(ことば)」つまり主イエス・キリストによって「神の子」とされた人々は本来、「肉の欲」と無縁であるべきとする。ガラテヤ5章24節は「肉の欲」と絶縁するという決意と日々の努力を十字架という比喩で表現し、19節以下は信者が避けるべき「肉の業」に関して列挙する。

新約聖書において十字架は比喩的に、当然「困難」「苦難」「試練」等の事柄を意味するが、同時にパウロがガラテヤ5章24節や6章14節で表現するように、「神の国と神の義」(マタイ6章33節)に相応しくない現世的な「肉の業」(ガラテヤ5章19節以下)と絶縁する決意や日々の努力を象徴する。

ペトロの「自分の十字架」

主はマタイ10章38節で、御自分に従いつつも当人が抱える良心の問題と向き合わない者を批判された。それだと「御言葉を聞くと喜んで受け入れるが当人に根がないので、御言葉のために艱難や迫害が起こるとすぐつまずく者」(13章20節〜21節)だからである。信仰は一時の熱意や高揚感ではない。

主イエスはルカ14章27節で、弟子となる者は自分の十字架を背負い、従って来るべきだと仰せになった。初代教会時代、新しく信者になろうとする人々がペトロに「あなたにとっての『自分の十字架』は何ですか?」と質問したなら、恐らく「鶏が鳴く前に三度主を知らないと言ったこと」と答えただろう。

(注)別エントリー「試論:ペトロの生涯を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10550

彼は家庭を持つ漁師で湖の対岸の異邦人とも交流がないほどだったが、大工の男に説得され、その弟子となり、師とともに湖上を歩き、師から一番弟子に指名された。一度は師を見捨てた彼を師は変わらず信頼し、師が去った後も教えを広めるために彼は世界を巡り、世界の都で一粒のからし種として殉教した。

ガラテヤ5章24節や同6章14節は、「神の国と神の義」(マタイ6章33節)に相応しくない現世的な「肉の業」(ガラテヤ5章19節以下)と絶縁する決意や日々のそのための努力を、負うべき十字架にたとえた。マタイ6章12節の「負い目」とは、「肉の業」つまり人間の「過ち」(14節)を指す。

「十字架」に関しルカ9章23節は「日々」と記して日常との関連を示唆し「自分を捨て」と記して自分の諸欠点との関連を示唆する。二コリント11章28節「日々の厄介事や心配事」。「捨てるべき古い自分」は自分の諸欠点、「自分の十字架」は自分の諸欠点に伴う日常の労苦(厄介事、心配事)である。

(注)別エントリー「試論:『自分を捨てる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7635

(注)別エントリー「試論:『捨てる』べきものは何?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9194

ガラテヤ5章24節や同6章14節は、「神の国と神の義」(マタイ6章33節)に相応しくない現世的な「肉の業」(ガラテヤ5章19節以下)と絶縁する決意や日々のそのための努力を、負うべき十字架にたとえた。マタイ6章12節の「負い目」とは、「肉の業」つまり人間の「過ち」(14節)を指す。

主はマタイ6章12節で「われらが負債ある人を赦す如く、われらの負債を赦したまえ」と仰せになったが、同18章21節の「仲間を容赦しない家来のたとえ」で意味を詳しく御説明され、また35節は「あなたがた一人一人が心から兄弟を赦さないなら、天の御父もあなたがたに同じようになさる」と記す。

マタイ18章の「仲間を容赦しない家臣」のたとえで主は、「わたしがお前を憐れんだようにお前も仲間を憐れんでやるべきではなかったか」の言葉通り他人を容赦することこそ憐れみそのものであると説明され、一人一人が心から兄弟を容赦しないのならば天の御父も一人一人に同じくなさると警告なさった。

(注)別エントリー「試論:自分が裁かれないためにはを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5501

(注)別エントリー「試論:赦しの重要性を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5390

(注)別エントリー「試論:主の祈りと赦しを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5305

(注)別エントリー「試論:他人を赦すことを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5300

ヨハネ1章12節以下は「言(ことば)」つまり主イエス・キリストによって「神の子」とされた人々は本来、「肉の欲」と無縁であるべきとする。ガラテヤ5章24節は「肉の欲」と絶縁するという決意と日々の努力を十字架という比喩で表現し、19節以下は信者が避けるべき「肉の業」に関して列挙する。

新約聖書において十字架は比喩的に、当然「困難」「苦難」「試練」等の事柄を意味するが、同時にパウロがガラテヤ5章24節や6章14節で表現するように、「神の国と神の義」(マタイ6章33節)に相応しくない現世的な「肉の業」(ガラテヤ5章19節以下)と絶縁する決意や日々の努力を象徴する。

試論:箴言3章34節の「嘲り」を140文字以内で

【問】箴言3章34節の前半は新共同訳では「主は不遜な者を嘲り」ですが、福音書の主イエスは誰かを指差して馬鹿にしたりはされませんでした。
【答】誰かを指差して馬鹿にしたりするのは主の流儀ではありません。主の「嘲り」とは実際には「背を向けられる」(詩編18編27節。新共同訳)ことです。

マタイ10章39節

【問】「自分の命を得ようとする者はそれを失い、わたしのために命を失う者はそれを得る」? 何のこと?
【答】主イエスが人々に最終的にもたらされるのは「新しい命」(ローマ6章4節)つまり「永遠の命」すなわち天国の福楽ですが、それを得ようとする人々に対して主は利己心の放棄を要請されます。

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11494

(注)別エントリー「試論:バシレイア(=神の王国)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12654

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちは、自分が他の人からしてほしいことを、自分から他の人にしなさい」と《愛の掟》を教えられた。従って「愛の反対」は「他の人からしてほしくないことをあえて他の人に行うこと」そして「他の人からしてほしいことをあえて他の人には行わないこと」からなる。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

レビ19章18節は有名な隣人愛の掟を教えるが、その対極の行為として17節は兄弟を心の中で憎むことを禁じる。ゼカリヤ7章10節は互いに災いを心の中で企むこと、8章17節は互いに心の中で悪を企むことを禁じ、相手の困った顔・悲しむ顔・苦しむ顔を見たいという悪意を抱いてはならぬと戒める。

ローマ13章10節でパウロは「愛とは隣人に対して悪事を行わないことです」と断言している。これを踏まえるなら、隣人に対して悪事を行おうと企むことこそが愛の反対に該当する行為ということになる。同9節は「姦淫するな、殺すな、盗むな、貪るな(他人の物の横取りを企むな)」等を列挙している。

箴言12章28節「憐れみの道にこそ命がある。この道を行く人に死はない」ルカ6章35節以下「敵に親切にし、善を行い、何も当てにせず貸しなさい。そうすれば、あなたたちはいと高き方であられる天の御父の子となり、大きな報いを受ける。あなたたちも天の御父のように憐れみ深い者になりなさい」。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『永遠の命の言葉を持つ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11244

ルカ10章25節以下では、主イエスと一人の律法学者との対話を記し、「永遠の命」を受け継ぐために実行すべき事柄として「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい」とあり、主は「正しい答え」と仰せになった。

(注)別エントリー「試論:『善きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

主イエスはヨハネ18章36節で、「わたしのバシレイアは、この世には属していない」と仰せになった。原文のギリシア語バシレイアは、聖書では「王権」「〔神の〕王国」を意味し、「王国の一人一人」まで包含する。黙示録1章6節でヨハネは、自分たちは既にその一部を構成していると書き記している。

申命記30章15節には「わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く」とある。この章で「命」は、「祝福」(1節)「幸い」(5節)「恵み」「実り」「繁栄」「喜び」(9節)等の総称で、20節は「あなたの神、主を愛し、御声を聞き、付き従いなさい。それこそあなたの命である」と説く。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『命の木』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11236

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章4節『命の光』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7297

(注)別エントリー「試論:『永遠の命の言葉を持つ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11244

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『御言葉によって生きる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11157

(注)別エントリー「試論:ローマ8章6節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11523

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

試論:ヨセフの「自分の十字架」を140文字以内で

ガラテヤ5章24節は「キリスト・イエスのものとなった人たちは肉を欲情や欲望もろとも十字架につけた」と記す。真っ先にイエスのものとなったのは母マリアと養父ヨセフだが、幼子の御養育だけにマリアが専念できるように、ヨセフが自分の肉欲を永久に「十字架につけた」としても、何の不思議もない。

【追記】

古代のイスラエルにおける第一の掟は、「あなたは心・精神・思い・力を尽くして、あなたの神である主を愛さなければならない」(マルコ12章30節、申命記6章5節)。この掟に鑑みて養父ヨセフは、自分自身と妻マリアから幼子イエスを愛する機会を片時でも奪う可能性のある行為を、永久に断念した。

(注)別エントリー「聖母と聖ヨセフが終生童貞である理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4464

カトリックでは、主の御降誕後のマリアとヨセフの終生童貞を教える。トビト8章7節には「情欲に駆られてではなく、主の御旨に従う」という観念が記され、また創世記39章のヨセフとルツ3章のボアズは共に、主の御降誕よりさらに一千年以上も昔でも、女性に対し分別を失わぬ義人たちの存在を物語る。

(注)別エントリー「試論:ヨセフの終生童貞を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21107

カトリックで聖母を指す表現「天の門」は、聖書では創世記28章17節にのみ登場し、同節は主がおられた場所を「なんと畏れ多い場所」「天の門」と呼ぶ。主を宿した「胎」(ルカ11章27節)であるマリアを、同様に《なんと畏れ多い女性》と感じるのは、古代のイスラエル人の感覚として当然である。

(注)別エントリー「試論:ルカ11章28節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5786

マタイ福音書のギリシア語本文はヨセフをディカイオス(1章19節)と呼ぶが、ディカイオスは最後の審判で天国の福楽を確約されている人(25章37節)を意味し、ヨセフがもともと天の国にいてもおかしくないほどに無垢な(創世記6章9節)底抜けの大善人で天使のような人であったことを示唆する。

(注)別エントリー「試論:聖ヨセフと天使を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19238

父や母や息子や娘よりも?

マルコ12章にある通り古代イスラエルの正しい律法理解ではまず重要な掟は神への愛、次に重要な掟は隣人愛であった。従って「家族よりもわたしの方を愛するように」とマタイ10章37節の通りに要求する資格があるのは、神なる主お一方だけである。イエスはここで御自分が神であるとほのめかされた。

主はルカ14章26節でも「もしだれかがわたしのもとに来るとしても、父母、妻、子供、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であっても、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」と仰せになったが、マタイ10章37節との比較から明らかな通り、この「憎む」は「二の次にする」の意味合いである。

ヨハネ12章25節は「この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命を得る」と主の仰せを記す。古代のヘブライ人は「〜を二の次にする」と言いたい時にも、「〜を憎む」という表現を用いた。主の養父ヨセフはヘロデが幼子の命を狙った時も、自分の命を二の次にして幼子と幼子の母を守り続けた。

主はマタイ10章37節で、自分より両親や息子や娘を愛する者は自分にふさわしくないと、仰せになった。ここで主は、別に両親や子供たちを粗末に扱うことを勧められたわけではない。ただ主は直前に、剣をもたらすために自分は来た(34節)と仰せになった。剣は分断(25章32節)を象徴している。

主はマタイ10章34節で自分は「剣(つるぎ)」を投ずるために来たと仰せになった。剣は分断(ルカ12章51節)を行う象徴で、この分断の究極の意味はマタイ25章32節以下で説明されるが、主の御言葉をエフェソ6章17節と黙示録1章16節では「剣」にたとえ、前者は「聖霊の剣」と表現する。

(注)別エントリー「試論:『わたしは地上に剣を〜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6064

(注)別エントリー「試論:『火も剣も御言葉の比喩』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7812

もちろん誰一人として、最後の審判で家族が分断されることなど望んでいるはずもない。既に旧約聖書の申命記において、家族で主の御言葉を学ぶことが強く推奨されている(6章6節〜9節)。それは主のおぼしめしに合致することであるのと同時に、家族全員を最終的な幸福(永遠の命)へ導くからである。

申命記6章では子供から「主が人間に教えを授けられた理由はなんですか」と質問された時、親は「人間の生活をいつも幸せなものにするため」と答えるべきだと記す。殺されたり、盗まれたり、だまされたり、理由もないのに憎まれたり、配偶者を横取りされたりすることは、誰一人として、望みなどしない。

神が人間に望んでおられる生き方とは何かを、親は子供にも教えなければならないと、申命記6章7節では説く。子供に教える行為は親自身の学びの機会にも当然なる。神が人間に望んでおられる生き方が何かを教えぬまま礼拝に参加させると、信仰とは単なる形式に過ぎないという誤解を子供に与えてしまう。

試論:指示を忠実に実行する義人を140文字以内で

【問】マタイ8章で百人隊長は、指示の忠実な実行こそ信仰の本質である旨の発言をして主イエスを感心させました。でも実際にそんな人いますか?
【答】同じマタイの1章から2章には夢に現れる「主の天使」の指示に従ってそれらの指示を忠実に実行していく、ヨセフの姿が描かれているではありませんか?

試論:教訓「ダビデとソロモン」を140文字以内で

【問】旧約聖書のダビデやソロモンの記事は、どんな教訓を与えますか?
【答】二人は神なる主から非常に愛され、知恵や様々な賜物の恵みを受け「人たらし」そのものの人間的魅力にも富んでいましたが、女性に対しては「女たらし」そのもので、それまでの功績を台無しにするほどのわざわいを招きました。

【追記】

ダビデは多くの妻がありながら臣下ウリヤの妻に横恋慕してつまずき、数多くの異邦出身の妻たちのためにソロモンはイスラエルに異教礼拝を持ち込むのを容認した。処女懐胎後の婚約者の妊娠に苦悩したが道を間違えなかったヨセフの姿は、女性に惑わされて道を誤ったダビデやソロモンとは雲泥の差がある。

ソロモン王は傑出した知恵によって名声は世界に及び、神殿を完成させ国を繁栄させる等の功績を打ち立てたが、多くの外国人の女性たちを愛し、彼女らが異教礼拝を持ち込むのを容認した結果、イスラエルに異教が蔓延し、バビロン捕囚の遠因となった。シラ49章4節はソロモンを堕落した王たちに含める。

カトリックでは、主の御降誕後のマリアとヨセフの終生童貞を教える。トビト8章7節には「情欲に駆られてではなく、主の御旨に従う」という観念が記され、また創世記39章のヨセフとルツ3章のボアズは共に、主の御降誕よりさらに一千年以上も昔でも、女性に対し分別を失わぬ義人たちの存在を物語る。

(注)別エントリー「試論:ヨセフの終生童貞を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21107

信仰の本質

マタイ8章で異邦人の百人隊長は、命じられたことを忠実に実行することこそ信仰の本質であるという趣旨の発言をし、主イエスを感心させた。母マリアは人々に御子イエスの言葉通りにするよう勧めたが(ヨハネ2章)、神の言葉通りにしなくとも不幸が訪れることはないと蛇はエバを欺いた(創世記3章)。

(注)別エントリー「試論:『異邦人の百人隊長』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17652

(注)別エントリー「試論:『信仰によってアベルは』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17492

(注)別エントリー「試論:『女』と『竜』の対立を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12925

主イエスはヨハネ14章6節で「真理」を自称されたが、プロテスタントの『改訳 新約聖書』(1917年)はそこに「まこと」と平仮名を振る。ヘブライ語の「まこと」に対応しているためであり、主なる神が裏表や嘘偽りのない心を重視される方だからである。従って信仰とは疑う余地のない確信を指す。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

主イエスはヨハネ14章6節で「真理」を自称されたが、プロテスタントの『改訳 新約聖書』(1917年)は、そこに「まこと」と平仮名を振り旧約聖書で「まこと」と訳される語との関連を示す。真理というと哲学的で近寄り難い印象を受けるが、主に帰せられる実際の諸徳は「真、実、信、誠」である。

主イエスはヨハネ14章6節で「真理」を自称されたが、プロテスタントの『改訳 新約聖書』(1917年)は「まこと」と平仮名を振り、旧約聖書で「まこと」と訳される語との関連を示唆する。嘘偽りや裏表がないこと、上っ面だけでなく内実を伴うこと、真心には真心で返されること等を意味している。

主イエスは使徒たちに重要な事柄を伝達なさる際、アーメンを二度、口にされた。日本語訳では「まことにまことに」「よくよく」等と表現されるが、ヘブライ語ではアーメンも「まこと」も「信じる」の派生語で、ヘブライ人にとって「信じる」とは裏表(嘘偽り)のない態度で向き合うことを意味していた。

(注)別エントリー「試論:『アーメン』と『まこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16228

古代のヘブライ人は神と神の民との関係を「花婿と花嫁」に喩えた。信仰を夫婦間の愛情に喩えたわけである。夫婦間に「わたしはあなたに60%の愛情を捧げるけれど、別の人にも40%の愛情を捧げる」はあり得ない。従って聖書の中の《信仰》とは、「100%の愛情」つまり疑う余地のない確信である。

(注)別エントリー「試論:『主イエスこそ真の花婿』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7379

(注)別エントリー「神に対する確信を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5613

(注)別エントリー「試論:『わたしたちの確信』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7711

(注)別エントリー「『からし種一粒ほどの信仰』???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19278

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは真理である」と宣言された一方、3章21節では「真理を行う者は光の方に来る」と仰せになった。後者の「真理」は、《真理を自称される神の御独り子から、実際に教えられ、信じている事柄(内容)》を指す。ヘブライ語で「真理」は、「信じる」の派生語である。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書のアレテイアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15430

ヨハネ8章51節「わたしの言葉を守るならば、決して死ぬことがない」エゼキエル18章21節「悪人が全ての過ちから離れわたしの掟を全て守り正義と恵みの業を行うなら必ず生きて死ぬことはない」同31節以下「あなたたちは死んでもよいのか、わたしに立ち帰り生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」。

(注)別エントリー「試論:『決して死ぬことがない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15657

【問】ヨハネ8章51節「わたしの言葉を守れば決して死ぬことがない」の意味は?
【答】マタイ7章12節のキリストの律法(あなたが他の人にしてもらいたいことを、あなたから他の人にしなさい)を忠実に実行するならマタイ25章の最後の審判で永遠の命にあずかり天国の福楽に達するという意味です。

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11494

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

試論:「重い皮膚病」治癒の奇跡を140文字以内で

【問】福音書には主イエスによる「重い皮膚病」の治癒の奇跡が記されます。旧約聖書にも「重い皮膚病」の治癒の奇跡はありますか?
【答】列王記下5章で預言者エリシャが、アラムの将軍ナアマンをヨルダン川に行かせ、七度身を洗わせて治癒させました。ただし主イエスは、直接、相手に触れられました。

試論:「誰にも話さないように」を140文字以内で

主イエスはマタイ8章3節で「重い皮膚病」を患っている人を癒やされたが、モーセの律法では彼は隔離対象だった(レビ13章46節)。主イエスが彼をすぐ立ち去らせようとしたり黙っているように命じられた理由は、誰かが「彼に触れたならイエスも汚れの状態だ」と言い出さないようにするためだった。

試論:「神としての山上の説教」を140文字以内で

【問】ヨハネ福音書は神が人間になられたことを他の福音書以上に強調します。なぜ?
【答】当時の異邦人の世界では使徒言行録でバルナバとパウロがゼウスやヘルメスと呼ばれたように、人間の神格化は比較的容易に行われていましたが、主イエスとはそれとは逆に神が人間になられた方だと念を押しました。

【追記】

マタイ7章28節以下は「イエスが語り終えられると群衆は非常に驚いた。彼が権威ある者として教えられたからである」と記す。同5章21節以下は「昔の人々は△△と教えられていたがわたしは、あなたたちに◯◯であると教える」と主が説かれたと記し、主は御自身をモーセや他の預言者より上とされた。

ヨハネ1章14節は神の御独り子が「肉」となられたと記す。「肉」は創世記6章で人間を指す語だが道徳的な脆さのニュアンスも含む表現であり、それゆえ悪魔が誘惑を試みた。誘惑の後、天使たちがイエスに仕えたが天使は本来単なる人間には仕えない。主イエスは神のままで人間としての全てを担われた。

(注)別エントリー「試論:『神には劣化がない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8697

「神が人となられた」と聞くと現代人は単純に「神が人間に変化(変質)された」と捉えがちだが古代の旧約の民は、絶対にそうは理解しなかった。なぜなら「わたしはある」(出エジプト記3章14節)という神の御名に含まれるヘブライ語の動詞「ある」には、変化(変質)のニュアンスはないからである。

試論:「不法」の「法」って何?を140文字以内で

【問】マタイ7章21節「わたしを『主よ主よ』と呼ぶ全員が天の国に入れるわけではない」23節「不法を働く者はわたしから離れよ」。「法」って何?
【答】12節で主イエス御自身が「これこそ律法」と呼ばれた「他の人からしてもらいたいことを全部あなたから他の人にしなさい」がそれに当たります。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

【追記】

【問】キリストはパンを増やし湖の上を歩き病人をいやしたということですが、ではそのキリストは、御自分の弟子となった人々にも奇跡を行うことを要求されましたか?
【答】いいえ。キリストは預言や悪霊を追い出すことや奇跡ではなく、天の父の御心を行うことを要請されます(マタイ7章21節以下)。

【問】では「天の父の御心」とは何ですか?
【答】「他の人からしてもらいたいことは全て、あなたから他の人にしなさい」(マタイ7章12節。一ヨハネ3章4節参照)のことで、一ヨハネ4章16節は「神は愛」「愛にとどまる人は神の内にとどまり、神も、その人の内にとどまってくださる」と説きます。

【問】一ヨハネ3章4節「罪とは、法に背くこと」の「法」って何?
【答】「法に背くこと」のギリシア語本文はアノミアで、この語は「ノモス(法)に反すること」の意味ですが、ノモスはマタイ7章12節では「律法」と訳され、「他の人にしてもらいたいことは全て、他の人にしなさい」を指しています。

(注)別エントリー「試論:一ヨハネ3章4節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21874

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

ローマ13章10節は「愛は隣人に悪を行わない」と記す。これに従えば「愛の反対」とは「隣人に悪を行うこと」である。マタイ7章21節以下「わたしを『主よ、主よ』と呼ぶ者が皆、天の国に入るわけではない」「不法を働く者どもよ、わたしから離れ去れ。わたしはお前たちのことなど全く知らない」。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

(注)別エントリー「試論:ローマ13章『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16049

【問】「狭い門」(マタイ7章13節)って、何?
【答】前節の《キリストの律法》(一コリント9章21節、ガラテヤ6章2節)と呼ばれる「他人からしてもらいたいことを全部あなたから他人にしなさい。これが律法であり預言者〔の教え〕」という御教えです。その重要性を多くの人が見過ごしています。

【問】「命に通じる門」の「命」って何?
【答】古代のヘブライ人にとって「命」とは申命記30章15節の通り、あらゆる幸福の総称ですが、ここでは「永遠の命」(マタイ25章46節)つまり天国の福楽を意味し、そこに至るためには、《キリストの律法》(同7章12節)に忠実である必要があります。

【問】主イエス御自身の御教えを通らなければ、というのが大前提ですか?
【答】ヨハネ福音書において主イエスは「命」(14章6節)「門」(10章9節)「道」(14章6節)等と自称されました。キリスト教である以上は、キリストが実際にお話しになった内容を含む四福音書が聖書の中で最優先です。

(注)別エントリー「試論:『門・道・真理・命』誰?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12045

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

【問】創世記から黙示録まで聖書全体を何回も読みました。でもキリスト教がよくわかりません。
【答】一コリント3章11節はイエス・キリスト以外には「土台」はないと記しますが、主イエス御自身はマタイ7章24節以下で、「わたしのこれらの言葉」すなわち山上の説教こそ「土台」であると仰せです。

【問】読み方を変える必要がありますか?
【答】キリストの御教えをよく理解するためには当然、主イエスが世におられた際に実際にお話しになった御言葉から最初に学ばなければなりません。福音書の中の主イエスの御言葉こそ基本で、それを飛ばして聖書の他の部分を読んでも、得るものはないと思います。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

試論:洗礼者ヨハネの両親の人柄を140文字以内で

【問】ルカ1章66節は「この子には主の力が及んでいた」と記して、洗礼者が神によって特別に選ばれたことを示唆しますが、なぜ?
【答】ルカ1章6節はマタイ1章19節と同じディカイオスという聖書ギリシア語で、ザカリアとエリサべトの二人が、主の養父ヨセフと同様の善人だったことを説明します。

【追記】

【問】主イエスの養父ヨセフはマタイ1章19節で「正しい人」と呼ばれます。古代のイスラエル人にとって「正しい」とは何ですか?
【答】サムエル上24章18節「お前(=ダビデ)はわたし(=サウル王)よりも正しい。わたしはお前に悪意で向き合っているのに、お前はわたしに善意を示してくれた」。

荒れ野

【問】ルカ4章は主イエスが荒れ野で誘惑されたと記しますが、同1章80節は洗礼者も荒れ野にいたことを記し、主イエスより長期間いたようです。
【答】他宗教におけるような「修行」目的に主イエスは荒れ野に行かれたわけではなく、あくまでも悪魔からの誘惑を受けられるために荒れ野に行かれました。

【問】確かに四十日間で目的を達成する修行など聞いたことがないですが、ではあえて主が誘惑を受けられた目的とは?
【答】神に修行は不要です。悪魔はこの四十日間と御受難前の一定期間、「神であるあなたがどうしてたかが人間なんかのために苛酷な目に遭われるのですか?」とイエスに囁き続けました。

【問】「悪魔による荒れ野の誘惑」とは、主イエスに贖(あがな)いの業を思いとどまらせる悪魔の計略だった、ということですか?
【答】「たかが人間なんかのために、神はなぜそこまでするのか?」という嫉妬が、神の御計画を悪魔が邪魔する動機で、同じ動機により悪魔は楽園でエバに近づき陥れました。

【問】悪魔が人間に嫉妬しているなどと、聖書のどこに書いてありますか?
【答】知恵の書2章24節(新共同訳)「悪魔のねたみによって死がこの世に入り、悪魔の仲間に属する者が死を味わう」。この前半部分は創世記3章の「失楽園」を、後半部分は同4章のカインが永遠の死に至ったことを示唆します。

【問】カインが永遠の死に至ったなどと、聖書のどこに書いてありますか?
【答】知恵の書10章3節(新共同訳)「かの悪人は怒りのうちに知恵から遠ざかり、憤って兄弟を殺し、滅び去った」。悪魔は主イエスに贖いの業を思いとどまらせようと企みました。全人類をカインと同じく死に至らせるためです。

(注)別エントリー「試論:履物をお脱がせする???を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/26336

ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。

ヨハネ1章14節は「神の御言葉(=主イエス)は肉(=人)となられ、わたしたちの間に宿られた(=住まわれた)」と記す。マルコ10章45節では主御自身が「仕えられるためではなく仕えるため」「多くの人の身代金(=あがない)として自分の命を献(ささ)げるために来た」と仰せになられている。

ルツ4章7節によれば、古代イスラエルでは親族たちの責務の代行や委譲に際して、自分の履物を脱ぐ慣習があった。主イエスは多くの人の贖(あがな)い、つまり身代金(代価)となるためこの世に来られた(マタイ20章28節)。洗礼者はこのことを、「履物」「神の小羊」「花婿」等の表現で示唆した。

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7479

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7514

(注)別エントリー「試論:世の罪を取り除く神の小羊を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6140

(注)別エントリー「試論:『花婿』って誰?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7265

(注)別エントリー「試論:『主イエスこそ真の花婿』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7379

「ヨハネの時まで」???

【問】主イエスはマタイ11章13節で〔旧約〕聖書の預言はヨハネの時までと仰せですが、ルカ24章とヨハネ5章39節では〔旧約〕聖書は御自分について証ししていると仰せです。
【答】「ヨハネの時」には洗礼者自身が預言した内容、つまり救い主の到来と差し迫った神の怒りまでが、含まれています。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ5章39節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9100

(注)別エントリー「試論:預言解釈の基本を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5092

(注)別エントリー「試論:『滅びを避けるには』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5749

【問】洗礼者が預言した「差し迫った神の怒り」(マタイ3章8節)とは何ですか?
【答】主イエスも数年後にルカ21章20節で予告されたエルサレム及びユダヤの滅亡のことで、この予告は洗礼者の預言の四十数年後、紀元七〇年に成就しました。この滅亡は、ダニエル9章の預言でも啓示されていました。

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると教えられた(ルカ21章22節)。旧約聖書は現代のどこの国の軍事行動も正当化しない。

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4783

(注)別エントリー「旧約聖書と『偽教師』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17476

主はマタイ5章18節で、全てのことが実現して天地が消え失せるまではモーセの律法も消え失せないと仰せになり、ルカ21章22節ではエルサレム滅亡で預言が全て実現すると予告され、紀元七〇年にそれは成就した。詩編78編69節の通りヘブライ人はエルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。

(注)別エントリー「試論:ルカ19章41節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5814

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

主はマタイ5章18節で、全てのことが実現し天地が消え失せるまで律法の時代が続くことを仰せになった。ルカ21章22節では、エルサレム滅亡(20節)の日を「書かれていることが完全に実現する報復の日」と仰せになり、エルサレムと神殿の滅亡(紀元七〇年)で律法の時代が終わると宣言なさった。

ルカ21章22節には「書かれていること」という言い回しが用いられているが、これはヨシュア記1章8節と同様に、「預言された事柄」「神から啓示された内容」などを意味する表現である。古代においては「書く(書いて記録に残しておく)」という行為それ自体が、非常に重要な意味を持つものだった。

古代のヘブライ人は詩編78編69節の通り、エルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。これを踏まえれば、主イエスのルカ21章33節の仰せ「やがて天地は滅びるであろうが、わたしの言葉は決して滅びない」の意味は、「エルサレムと神殿の滅亡後も、わたしの教えと信仰は生き続ける」である。

(注)別エントリー「試論:黙示録の『第八の者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12097

「天地が消え去る」の「天」とは、神がお住まいになる場所と見なされたエルサレム神殿とりわけその聖所を指し、二ペトロ3章はその滅亡が近いことを説く。「地」はエゼキエル7章2節同様、イスラエルの地を指す。紀元七〇年にエルサレムと神殿は滅亡しユダヤ(イスラエル人の国家)も同じく消滅した。

二ペトロ3章10節は「主の日」において「天は激しい音を立てながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に熔解し尽くす」と予告した。数年後の紀元七〇年、神が住まわれると見なされて、「天」と同一視されていたエルサレムの神殿は、都の滅亡の際ローマ帝国軍によって火を放たれ、大音響と共に焼け滅びた。

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

ルカ21章22節において、主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると明言されており、それは紀元七〇年に現実のこととなった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代や近未来の世界情勢に関して旧約聖書の預言から考える行為は、不毛である。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

ダニエル書9章では神殿とエルサレムの復興を強く願うダニエルの祈りに応えて、都と神殿の再建さらには救い主の到来までも約束されたが、救い主が不当に殺された後、モーセの律法を蹂躙する集団が神殿の聖所を占拠し、そして次に来る指導者の民が、都と神殿を無法集団もろとも、滅ぼし尽くして終わる。

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

ルカ17章34節から35節で主は「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」と繰り返されたが、では一体どこに「連れて行かれ」るのかを、ルカ21章24節では「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と御説明された。これは大昔モーセがレビ記26章33節以下で預言していた話と同じである。

紀元七〇年のエルサレム滅亡時にローマ軍へ投降したユダヤ人のうち、使徒言行録22章のパウロのようにローマの市民権を持つ者はローマ法の保護下にあるため留め置かれたが、そうでない者は妻子とともに奴隷とされて売り飛ばされた。こうして、「一人は連れて行かれ、一人は残される」は現実となった。

(注)別エントリー「試論:『滅びを避けるには』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5749

ルカ21章32節で主は「全てのことが起こるまではこの時代は決して滅びない」と仰せになったが、「時代」に当たる原文の単語ゲネアは古代のギリシア語詩編94(95)編10節の「世代」にも用いられ、詩編のこの節ではゲネアを四十年とする。実際この主の仰せからおおよそ四十年後に都は滅亡した。

(注)別エントリー「試論:『今の時代』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5596

(注)別エントリー「試論:『人心荒廃は滅亡の前兆』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6291

試論:洗礼者と悔い改めを140文字以内で

主イエスや洗礼者は「悔い改め」を説いた。悔い改めと聞くと現代人は、何か仰々しいイメージを抱きがちだが、ルカ3章で実際に洗礼者が皆に指示した事柄は簡潔かつ具体的なものであった。目の前にいる相手を悲しむ顔・困った顔・苦しむ顔にさせるような行為と悪意とを捨て去るように、それらは勧めた。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

試論:履物をお脱がせする???を140文字以内で

【問】洗礼者の言う「履物を脱ぐ」とは?
【答】ルツ4章7節は、古代イスラエルでは親族の責務の代行に際して履物を脱ぐ慣習があったと記し、主イエスは人々の贖(あがな)い、つまり身代金(代価)となるために、世に来られました(マタイ20章28節)。洗礼者はこのことを「履物」で示唆しました。

(注)別エントリー「『贖(あがな)い』と『救い主の母』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19677

【追記】

詩編49編8(7)節は神に対し人間が贖(あがな)いの業を行うことはできないと説く。それができるのは「人〔となられた神〕の子」だけであり、そのために主イエスは来られた(マルコ10章45節)。神は劣化できないため、神のままで人間の全てを担う必要があり、そのためにマリアが不可欠だった。

(注)別エントリー「試論:『神には劣化がない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8697

ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。

ヨハネ1章14節は「神の御言葉(=主イエス)は肉(=人)となられ、わたしたちの間に宿られた(=住まわれた)」と記す。マタイ20章28節では主御自身が「仕えられるためではなく仕えるため」「多くの人の身代金(=あがない)として自分の命を献(ささ)げるために来た」と仰せになられている。

古代のヘブライ人は「肉」という言葉で、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけでなく、魂も含めた人間としての全体)」を表した。ヨハネ1章14節をこの観点で理解すれば、ニケア・コンスタンチノープル信条「おとめマリアよりからだを受け」の「からだ」は、人間としての全てを意味している。

ヨハネ19章は、ゴルゴタの主の十字架の傍らに聖母がおられたと記すが、聖母の内面がどのようであったかについては全く記述がない。しかしルカ2章35節はシメオンの預言として、「多くの人の心にある思い(34節の「逆らい」)があらわになるため、あなた自身も剣で心を刺しつらぬかれる」と記す。

(注)別エントリー「試論:『剣』と『言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7807

詩編49(48)編8(7)節は、神に対して人間が贖いの業を行うことはできないと記す。とはいえ神の御独り子が自ら人間となられて自分の「からだ」を「身代金」として贖いの業を行われた時の「からだ」は、マリアから受けたものだった。マリアは極めて特別な形でイエスの贖いの業に「参加」をした。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7795

【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。

主イエスの御言葉は「鋭い剣」

イザヤ49章2節はイエス・キリストを彷彿とさせる「主の僕(しもべ)」の姿に関し、「わたしの口を鋭い剣として」と預言し、50章4節ではさらに、「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え言葉を呼び覚ましてくださる」と続け、この「主の僕」が語る言葉を「鋭い剣」にたとえて預言をしている。

(注)別エントリー「試論:イザヤの預言と主の御受難を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6322

黙示録1章16節に「口から出る鋭い剣」という記述がある。一世紀後半のユダヤ人キリスト教徒は即座にイザヤ49章2節の類似の記述を連想し、「剣」が「言葉」(イザヤ50章4節)の比喩であると思い至ったはずである。安息日ごとに会堂で、必ずいずれかの預言書が朗読されることが定められていた。

古代のイスラエル人は《鋭く人間に迫り心に刺さる言葉〔の力〕》を「剣」にたとえた(詩編55編22(21)節等)。この比喩を踏まえ、主イエスも「剣をもたらすために来た」(マタイ10章34節)と仰せになり、ルカ2章35節でも母マリアにシメオンが、この比喩を用いて御受難について預言した。

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

黙示録19章の白馬の騎手は「真実」(11節。ヨハネ3章33節参照)と呼ばれ、剣で戦われるが、この剣は口から放たれる(黙示録19章15節、同1章16節)。相手に鋭く迫り心に刺さる言葉をヘブライ人は剣に喩えた(詩編55編、ルカ2章35節)。マタイ10章34節「わたしは剣をもたらす」。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ3章の『真実』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16193

ヨハネ3章33節は主イエスを「真実(=真理である方)」と呼び、黙示録3章14節は主イエスを「アーメンである方」「誠実」「真実」等と呼ぶ。黙示録では19章11節の「白馬の騎手」が「誠実」「真実」と呼ばれ、同章13節は「神の御言葉」16節は「王の王、主の主」と、「白馬の騎手」を呼ぶ。

(注)別エントリー「試論:『アーメン』と『まこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16228

主はマタイ10章34節で自分は剣をもたらすために来たと仰せになったが、剣は詩編55編22(21)節では「鋭く人間に迫り心に突き刺さる言葉」の比喩である。57編5(4)節や59編8(7)節も同様の比喩を用い、エフェソ6章17節では神の御言葉それ自体を「〔聖〕霊の剣」にたとえている。

(注)別エントリー「試論:『御言葉は剣(つるぎ)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6245

主はマタイ10章34節で、自分は「剣(つるぎ)」を投ずるために来たと仰せになった。剣とは分断(ルカ12章51節)を行う象徴で、この「分断」の究極の意味はマタイ25章32節以下で説明されている。剣を用いた争い事を主が奨励されたわけではないことは同26章52節の御言葉から当然である。

古代のヘブライ人は《鋭く人間に迫り心に突き刺さる言葉》を「剣」にたとえた(ルカ2章35節等)。ならば当然、黙示録1章7節「彼を突き刺した者ども」は、実際には、「彼に激越な言葉を浴びせ情け容赦ない悪口で攻撃した者ども」を意味する。同節「地」はエゼキエル7章2節「地」とは同様である。

主は「火」「剣」を人々にもたらすと仰せになったが、両者とも御言葉の比喩である。御言葉は心を燃やし(ルカ24章32節)心に刺さる(詩編55編22(21)節等参照。エフェソ6章17節)。黙示録も1章16節等で御言葉を剣に喩え11章5節では御言葉を火に喩えた(エレミヤ5章14節参照)。

(注)別エントリー「試論:『わたしは地上に火を〜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6048

試論:マタイ7章14節を140文字以内で

【問】「命に通じる門」の「命」って何?
【答】古代のヘブライ人にとって「命」とは申命記30章15節の通り、あらゆる幸福の総称ですが、ここでは「永遠の命」(マタイ25章46節)つまり天国の福楽を意味し、そこに至るためには、《キリストの律法》(同7章12節)に忠実である必要があります。

【追記】

【問】主イエス御自身の御教えを通らなければ、というのが大前提ですか?
【答】ヨハネ福音書において主イエスは「命」(14章6節)「門」(10章9節)「道」(14章6節)等と自称されました。キリスト教である以上は、キリストが実際にお話しになった内容を含む四福音書が聖書の中で最優先です。

(注)別エントリー「試論:『門・道・真理・命』誰?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12045

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

試論:「狭い門」と旧約聖書を140文字以内で

【問】「狭い門」(マタイ7章13節)は旧約聖書でも言及されていますか?
【答】詩編118編19節とイザヤ26章2節の「神に忠実な人々が通る義の門」が該当しますが注意すべきは、古代のヘブライの「義」とは善意・善行等を指しているということです(サムエル上24章18節、マタイ6章1節)。

試論:「人を裁くな」聖書の実例を140文字以内で

【問】「人を裁くな」を実践した、聖書の実例は誰?
【答】自分を文字通り陥れた兄たちに対して復讐をせずひたすら寛大な態度で臨み続けた、創世記のヨセフと、姉ミリアムと兄アロンから難癖を付けられても全く相手にせず、神なる主に姉が罰せられると姉のために祈り願った、民数記12章のモーセです。

【追記】

【問】新約聖書では誰?
【答】考えようによっては聖母が該当します。御子イエスの逮捕時に逃げた使徒たちに関しては、「腰抜け、意気地なし、臆病者、卑怯者」等、母親ならば当然言いたいことが山ほどあったはずで愚痴っても当然の状況でしたが、その種の聖母の発言は少なくとも福音書にはありません。

試論:聖母を女神扱いしている?を140文字以内で

【問】「カトリックはマリアを女神扱いする」という難癖があります。
【答】逆です。人となられた神の御独り子の母でありながら「主のはしため」を自称し続けた、《へりくだり》の模範として崇敬しています。マリアは、神のようになる(創世記3勝5節)ことを望み欺かれたエバの轍を踏みませんでした。

試論:「狭い門」キリストの律法を140文字以内で

【問】「狭い門」(マタイ7章13節)って、何?
【答】前節の《キリストの律法》(一コリント9章21節、ガラテヤ6章2節)と呼ばれる「他人からしてもらいたいことを全部あなたから他人にしなさい。これが律法であり預言者〔の教え〕」という御教えです。その重要性を多くの人が見過ごしています。

試論:憐れみは裁きに打ち勝つ?を140文字以内で

【問】ヤコブ2章13節「他人に対する憐れみの心がない者には憐れみのない裁きが下される」の後の「憐れみは裁きに打ち勝つ」の意味とは?
【答】マルコ11章25節「誰かに対して何か恨みに思うことがあるなら赦してあげなさい。そうすればあなたたちの天の父も、あなたたちの過ちを赦して下さる」。

【追記】

主はマタイ18章21節以下で、隣人に向かって情け容赦ない態度を取る人に対しては、神もまた情け容赦ない裁きを行うと仰せになった。ヤコブ2章13節はまさに同じ事柄を記すが、既に山上の説教でも取り上げられている。マタイ5章7節「憐れみ深い人は幸いである。その人は憐れみを神から受ける」。

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346

【問】「人を裁くな。自分自身が裁かれないようにするためである」。なぜ?
【答】神なる主は出エジプト34章7節でモーセに、御自分が優しさと厳しさを兼備する神であることをお伝えになりました。ダビデも詩編18編26(25)節以下で、主は優しい人には優しく厳しい人には厳しい、と歌いました。

主はマタイ18章22節では「七回どころか、七の七十倍までも赦しなさい」、マルコ11章25節では「誰かに対して、何か恨みに思うことがあるなら、赦してあげなさい。そうすれば、あなたたちの天の父も、あなたたちの過ちを赦して下さる」と仰せになり、信仰における「赦し」の重要性を強調された。

(注)別エントリー「試論:赦しは救いの鍵を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5382

試論:マタイ7章「人を裁くな」を140文字以内で

主イエスはマタイ18章21節以下の「仲間を赦さない家来のたとえ」で、一人一人が他人を裁くその同じ基準(了見)で、神もまた一人一人をそれぞれ裁かれることをお教えになった。これは、基本的には7章で既に仰せになった事柄であり、「あなた自身が裁かれないようにするためにも、他人を裁くな」。

(注)別エントリー「試論:自分が裁かれないためにはを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5501

(注)別エントリー「試論:『慈悲は裁きの上にある』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7694

【追記】

主イエスはマルコ4章25節で「〔他の人を赦す心を〕持っていない人は、一度は持っていたもの(=神からの赦し)までも、取り上げられる」と仰せになり、マタイ18章の「仲間を容赦しない家来」のたとえで御説明された。「各自が心から兄弟を赦さないなら、天の御父も、各自に同じくされるだろう」。

(注)別エントリー「試論:『持つ人は更に与えられ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11656

(注)別エントリー「試論:赦しの重要性を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5390

(注)別エントリー「試論:主の祈りと赦しを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5305

(注)別エントリー「試論:他人を赦すことを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5300

(注)別エントリー「試論:憐れみは『上から目線』かを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5471

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346

試論:「目」と「心」を140文字以内で

サムエル記下12章で主が預言者ナタンをダビデに遣わされた際、ナタンは喩え話でダビデを非難したが、家来の妻に横恋慕して日頃の良心が曇っていたダビデは自分が指差されていることに全く気付かなかった。人間は他人の目(=心)の中のおが屑には気付いても、自分の目(=心)の丸太には気付かない。

【追記】

【問】主はなぜ心のともし火は目(マタイ6章22節)だと仰せになったの?
【答】人間の心の中は、無意識のうちに本人の目つき・まなざしによって、周囲の人々に伝わってしまうものです。日本にも、「目は口ほどに物を言う」という言い回しがあります。主は、自分の内面を清く保つよう教えられました。

試論:キリスト教の現代的な意義を140文字以内で

【問】「イエス・キリストの教えは現代には流行らない」と考える人が、少なくはないようです。
【答】見ず知らずの相手に暴力を振るわれて殺され財産を奪われる、などということが当たり前になってはなりません。「他の人からしてもらいたいことをあなたから他の人にしなさい」は、永遠の《真理》です。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:真理(まこと)の反対は?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12668

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

【追記】

古代のイスラエルでは悪巧みを思い付いて実行する者を戒める際、「他人を落とすための穴を掘る者は、自分がそこに落ちる」という言い回しを好んで用いた。箴言26章27節とコヘレト10章8節の他、ダビデも詩編9編で用い、7編でも悪人の典型的な仕草に挙げている。自分の悪巧みは必ず自分へ戻る。

「因果応報」という言葉があるように他宗教にも類似の考え方が存在するが決定的な違いは、聖書には「輪廻」「前世の因縁」などの概念は全く存在しないため、発端となった悪巧みを思い付いて実行する者とそれが回り回って自分のところに災いとなって戻って来て被害を蒙る者とは、全くの同一人物になる。

主イエスはマタイ7章12節で「あなたが他の人からしてもらいと思うことは何であっても他の人にあなたの方から行いなさい。これこそ律法と預言者〔の教え〕である」と仰せになり、御自分の御教えの核心とされた。パウロはこれを「キリストの律法」(一コリント9章21節、ガラテヤ6章2節)と呼ぶ。

旧約聖書では「良からぬ意図の下に穴を掘る」行為は、結局は自分自身の破滅を準備する象徴的な仕草と見なされた(詩編57編7(6)節)。詩編94編12節は「主よ、あなたに諭されあなたの律法を教えていただく人は幸い」と記し、13節では神に逆らう者の滅びの象徴として「穴」が言及されている。

詩編55編24(23)節の「滅びの穴」という表現の通り、旧約聖書では「穴」という存在自体が「滅び」の象徴とみなされた。エゼキエル19章4節と8節で「穴」というヘブライ語は「罠」を意味し、詩編7編16(15)節や9編16(15)節では、「穴」は自分自身を陥れる可能性も秘めると歌う。

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちは、自分が他の人からしてほしいことを、自分から他の人にしなさい」と《愛の掟》を教えられた。従って「愛の反対」は「他の人からしてほしくないことをあえて他の人に行うこと」そして「他の人からしてほしいことをあえて他の人には行わないこと」からなる。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

レビ19章18節は有名な隣人愛の掟を教えるが、その対極の行為として17節は兄弟を心の中で憎むことを禁じる。ゼカリヤ7章10節は互いに災いを心の中で企むこと、8章17節は互いに心の中で悪を企むことを禁じ、相手の困った顔・悲しむ顔・苦しむ顔を見たいという悪意を抱いてはならぬと戒める。

ローマ13章10節でパウロは「愛とは隣人に対して悪事を行わないことです」と断言している。これを踏まえるなら、隣人に対して悪事を行おうと企むことこそが愛の反対に該当する行為ということになる。同9節は「姦淫するな、殺すな、盗むな、貪るな(他人の物の横取りを企むな)」等を列挙している。

試論:ローマ5章15節「恵み」を140文字以内で

受胎告知の際マリアは「恵まれた方」と呼ばれたが、テトス2章11節以下では「全ての人に救いをもたらす神の恵みは、不信心と現世的欲望を捨て思慮深く正しく信心深く生きるよう教え、また偉大な神であり救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むよう教えます」と神の恵みに関し説明する。

【追記】

ヨハネ1章17節は「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」と記すが、二ペトロ1章は神からの恵み(2節)の内容を5節以下で、信仰に始まり徳・知識・自制・忍耐・信心・兄弟愛・愛に至るとして、恵みが加わるほど「情欲に染まったこの世の退廃」(4節)や怠惰(8節)から遠くなると記す。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:真理(まこと)の反対は?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12668

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

聖母は受胎告知の後も「主のはしため」(ルカ1章38節、48節)と自称するほど、へりくだりが第一の特徴であり、聖霊によって神の御独り子を宿される以上、《聖霊の結ぶ実》(ガラテヤ5章22節〜23節)である愛から節制に至る諸徳は、「おめでとう、恵まれた方」と呼ばれるまでに、備えていた。

「救い主」が世を救われる方法に関しイザヤは、「小羊」(53章7節)つまり代価として御自分をささげ、「しもべ」(42章、49章以下等)として人々に仕えると預言し、主もマルコ10章45節でそれを宣言された。救い主の母となることを承諾した女性が「主のはしため」を称するのは象徴的である。

受胎告知の際、マリアは「恵まれた方」(新共同訳)と呼ばれたが、「恵まれた」とは《〔神からの〕とめどもない好意を得た》の意味で、古代ギリシア語訳箴言を参照すると、この比類のない《好意》は、彼女の「へりくだり」(箴言3章34節)と「善のみの追求」(同11章27節)に対する恵みである。

【問】マリアとヨセフに関する記述は乏しくないですか?
【答】マリアは「恵まれた方」(ルカ1章28節)「祝福された方」(同章42節)と呼ばれ、ヨセフは「正しい人(義人)」(マタイ1章19節)と呼ばれます。「恵み」「祝福」「〔神の〕義」の理解を深めれば二人に関する理解もより深まります。

主イエスの養父ヨセフはマタイ1章19節で「正しい人」と呼ばれるが、25章の「最後の審判」において「正しい人」は永遠の命が確約された人である。母マリアはルカ1章42節で「女の中で祝福された方」と呼ばれるが、マタイ25章34節では「祝福された人」は同じく永遠の命が確約された人である。

(注)別エントリー「試論:『神の母』聖書的根拠を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13155

(注)別エントリー「試論:『親しき仲にも礼儀あり』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13120

ガラテヤ5章では「聖霊の結ぶ実」として神の御独り子の母の内面に関連する《愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制》を説く。他方、コロサイ3章では「礼服」(マタイ22章)という比喩を踏まえ、「義人」ヨセフの「義」に関連する《憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛》を説く。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

(注)別エントリー「試論:マタイ22章『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6740

(注)別エントリー「予備的考察:聖母崇敬そして聖ヨセフ崇敬の起源とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1750

(注)別エントリー「聖家族はどのような雰囲気の中で暮らしていたのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5246

試論:ディカイオシュネーとは?を140文字以内で

【問】主はマタイ6章33節で神の国と神の「義」(ディカイオシュネー)を求めよと仰せになりました。この具体的な意味は?
【答】詩編112編9節を引用した二コリント9章9節でも同じ語が用いられますが、新共同訳の日本語は「慈しみ」です。なお、元の詩編の日本語は新共同訳では「善い業」です。

【追記】

【問】マタイ6章33節「神の国と神の義」や同5章20節「あなたたちの義が律法学者たちやファリサイ派の義に勝らなければ」の「義」って、何?
【答】それらの「義」という訳語はギリシア語原文ではディカイオシュネーで、この語は同6章1節「人前で善行を見せびらかせないように」の「善行」です。

【問】山上の説教の「義に飢え渇く人は幸い」の「義」とは何?
【答】サムエル上24章18節「お前はわたしよりも義の人だ。わたしはお前に悪意を示したのにお前はわたしに善意を示してくれた」からも分かる通り、古代のヘブライ人の「〔神の〕義」とは現代の日本語でいえば《善意》を意味しています。

【問】「ヨセフは義人だったので婚約者のことを大っぴらにはせずひそかに離縁しようとした」の意味は?
【答】古代のヘブライ人の「義」は《善意》を指し、彼は「善意の人」であり「お前は俺のメンツを潰したのだから、お前もお前の子も地獄に堕ちろ」などと喚いて大騒ぎしたりは決してしませんでした。

(注)別エントリー「婚約者の妊娠を知った時のヨセフの心情」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3092

マタイ福音書のギリシア語本文はヨセフをディカイオス(1章19節)と呼ぶが、ディカイオスは最後の審判で天国の福楽を確約されている人(25章37節)を意味し、ヨセフがもともと天の国にいてもおかしくないほどに無垢な(創世記6章9節)底抜けの大善人で天使のような人であったことを示唆する。

(注)別エントリー「試論:聖ヨセフの模範を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7243

(注)別エントリー「聖母と聖ヨセフが終生童貞である理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4464

【問】聖書の中の「愛」も聖書の中の「義」も、ともに「善意」や「善行」という点では一致しているということですか?
【答】少なくともマタイ福音書におけるディカイオス/ディカイオシュネーの用法を調べる限り、聖書の中で、「愛」と「義」の間に、矛盾や対立や齟齬の類いは存在していないようです。

試論:人々を恐れてはならない?を140文字以内で

【問】主がマタイ10章で「人々ではなく魂も体も地獄で滅ぼすことができる方を恐れなさい」と仰せになった意味は?
【答】同12章36節は「人は自分の言葉について裁きの日に責任が問われる」と記します。ここで主は使徒たちに、人々の顔色に応じて神の御言葉を軽々にねじ曲げるなと戒められました。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

【追記】

ルカ21章20節以下で主は、「敵が都を包囲しようとする時は籠城すべきでなく都を離れよ」と警告された。約四十年後、ローマ軍が迫る都では「預言者」たちが、「神が都を救われるから都で待て」と説いたが、神の介入はなく都は滅亡した。この「預言者」たちの虚言を歴史家ヨセフスが書き残している。

(注)別エントリー「試論:黙示録18章を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5394

(注)別エントリー「試論:黙示録16章を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5086

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1699

試論:「神の義」とアブラムを140文字以内で

【問】主イエスは神の国と神の義を求めよと説かれました。創世記15章はアブラムが義とされたと記します。なぜ?
【答】同14章で諸国の王が私利私欲のために戦った時、彼だけは人助けのために行動しました。神なる主は同15章の約束で、彼が目先の私利私欲で動く人ではないと、最終確認されました。

【追記】

【問】天の星の数を彼に数えさせることが、なぜ、彼の義を確認することになるのですか?
【答】もし彼の中に私利私欲のかけらが少しでもあったならば、「わたしは遠い未来の自分の子孫の数のことなんかよりも、自分自身の幸福について具体的に今、目に見えるものが欲しい」などと主張していたはずです。

【問】神なる主が語りかけられたのでアブラムは旅立った(創世記12章)のですか?
【答】創世記はバベルの塔建設の終わりを記しますが人々が悔い改めたとは記さず、力こそが正義という風潮はバビロンやアッシリアに残りました。彼は以前から、故郷に蔓延する風潮に強い違和感を抱いていたのでしょう。

古代ユダヤの歴史家ヨセフスは、バベルの塔建設にアスファルトが用いられた理由について、ノアの時代のような大洪水が来ても押し流されないよう強化するためだったと記し、ニムロド(創世記10章8節)及び彼の王国の国民が、神に対する挑戦的な意図をもってバベルの塔を建設していたことを説明する。

【問】マタイ6章33節「神の国と神の義」や同5章20節「あなたたちの義が律法学者たちやファリサイ派の義に勝らなければ」の「義」って、何?
【答】それらの「義」という訳語はギリシア語原文ではディカイオシュネーで、この語は同6章1節「人前で善行を見せびらかさないように」の「善行」です。

【問】山上の説教の「義に飢え渇く人は幸い」の「義」とは何?
【答】サムエル上24章18節「お前はわたしよりも義の人だ。わたしはお前に悪意を示したのにお前はわたしに善意を示してくれた」からも分かる通り、古代のヘブライ人の「〔神の〕義」とは現代の日本語でいえば《善意》を意味しています。

【問】「ヨセフは義人だったので婚約者のことを大っぴらにはせずひそかに離縁しようとした」の意味は?
【答】古代のヘブライ人の「義」は《善意》を指し、彼は「善意の人」であり「お前は俺のメンツを潰したのだから、お前もお前の子も地獄に堕ちろ」などと喚いて大騒ぎしたりは決してしませんでした。

(注)別エントリー「婚約者の妊娠を知った時のヨセフの心情」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3092

マタイ福音書のギリシア語本文はヨセフをディカイオス(1章19節)と呼ぶが、ディカイオスは最後の審判で天国の福楽を確約されている人(25章37節)を意味し、ヨセフがもともと天の国にいてもおかしくないほどに無垢な(創世記6章9節)底抜けの大善人で天使のような人であったことを示唆する。

(注)別エントリー「試論:聖ヨセフの模範を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7243

(注)別エントリー「聖母と聖ヨセフが終生童貞である理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4464

【問】聖書の中の「愛」も聖書の中の「義」も、ともに「善意」や「善行」という点では一致しているということですか?
【答】少なくともマタイ福音書におけるディカイオス/ディカイオシュネーの用法を調べる限り、聖書の中で、「愛」と「義」の間に、矛盾や対立や齟齬の類いは存在していないようです。

【問】世間では、既婚者や恋人のいる異性を奪い取る行為を「略奪愛」と呼んだりします。これはキリスト教の愛に含まれますか?
【答】いいえ。全く含まれません。キリスト教の愛の定義は「他の人からしてもらいたいことなら全てあなたから他の人にしなさい」で、これと「略奪愛」は絶対に相容れません。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

試論:「思い悩むな」何を?を140文字以内で

【問】主イエスはマタイ6章で着る物・食べ物・飲み物について思い悩むなと仰せになりました。なぜ?
【答】滅多にない休日に買い物や外食に行きそれらについて多少時間を費やして考える程度は許容範囲でしょうが、普段からそれらの事柄で頭が一杯になり神の御言葉を忘れるならば如何なものでしょうか。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

【追記】

主イエスはルカ12章15節で、どのような種類の貪欲に対しても十分に目を光らせ、心を奪われてはならないと警告された。同16章13節「あなたたちは、神と富のどちらか一方にしか仕えることができない」マタイ13章22節「茨の間に落ちた種とは、御言葉を聞いても世の思い煩いや富の誘惑が〜」。

(注)別エントリー「試論:『あらゆる貪欲に対して』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18049

主はマタイ13章45節以下で、「天の国」を全財産と引き換えにしてでも手に入れるべき真珠にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「天の国」は「永遠の命」と同義だが、「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

ルカ16章13節「神と富の両方に仕えることはできない」黙示録18章7節「わたしは女王の座に着いており、やもめではなく、決して悲しい目には遭わない」同3節「彼女の豪勢な贅沢により地上の商人たちは、富を築いた」哀歌1章1節「やもめとなってしまったのか、多くの民の女王であるこの都が」。

(注)別エントリー「試論:『大淫婦』の正体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15895

御子イエスを捜す聖母の内面

【問】ルカ2章48節は十二歳の御子イエスを神殿で発見した両親の内面を、聖母が「心配して」(新共同訳)と表現しています。
【答】原文の動詞オデュナオーの名詞形オデュネーは、ローマ9章2節及び一テモテ6章10節に登場し、新共同訳では前者を「痛み」、後者を「苦しみ」と日本語訳しています。

【問】十二歳の御子イエスを見失った両親の心情はどんなものでしたか?
【答】ルカ2章48節は「心配して」(新共同訳)と記しますが、原文のギリシア語は古代のギリシア語訳イザヤ53章4節にも用いられ、同節の「痛み」「苦しんでいる」(新共同訳)など精神的な苦痛というニュアンスを意味します。

【問】御子を捜す両親は激しい精神的苦痛に苛まれていた?
【答】それこそが「なぜこんなことをしたのですか?」とマリアが御子イエスに質問せずにはいられなかった理由です。同じ語は古代ギリシア語訳ゼカリヤ12章10節「初子の死を悲しむように悲しむ」(新共同訳)の「悲しむ」に対応しています。

【問】イザヤ53章4節もゼカリヤ12章10節も救い主の死を啓示する箇所ではないの?
【答】たとえ普通の一人の母親だったとしても、一人息子を失うことは尋常ではない衝撃ですが、いかに受胎告知の時から多くの苦難に遭遇する覚悟ができていたとはいえ実際それが起こった時の動揺はまた話が別です。

十二歳のイエスを見失って必死に捜すマリアとヨセフの心情は、ギリシア語本文では動詞「オデュナオー」で表現され、新共同訳はルカ2章48節で「心配して」と訳す。同じ語は使徒言行録20章38節で「非常に悲しんだ」ルカ16章25節で「もだえ苦しむ」と訳され、大きな苦痛を伴う悲しみを表わす。

(注)別エントリー「試論:『イエスの両親』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives10267

【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。

(注)別エントリー「試論:聖母崇敬の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18956

聖母マリアは「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)となられた方でありながら「わたしは主のはしため」(38節)と自称されるほど謙遜そのものの生涯であり、ただの一度も主イエスの前で出しゃばることがなかったゆえに「へりくだる者は高められる」(ルカ14章11節)の通りに崇敬を集めた。

(注)別エントリー「試論:『救い主の母であること』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7510

【問】主イエスが十二歳の時、主を見失った後、エルサレム神殿の境内で主を発見した時、聖母は主をとがめたのではないですか?
【答】いいえ。聖母は御子をとがめたわけでも責めたわけでも非難されたわけでもなく、ただ最愛の御子が自分に一言もなく姿を消した理由を知りたかった、ただそれだけでした。

【問】マリアとヨセフがイエスを神の子として心・精神・思い・力を尽くし愛していたなら、なぜ二人は十二歳のイエスを見失いましたか?
【答】普段のイエスは人として両親に従順(ルカ2章51節)で手のかからない子でしたが、この時の神殿での行動は人間には予想外の、神としての行動だったからです。

(注)別エントリー「試論:神であり人であるキリストを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6725

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

試論:マタイ6章20節を140文字以内で

【問】「富は、天に積みなさい」。何のこと?
【答】一テモテ6章17節〜19節「高慢にならず、いつか失うこともある富を頼みとせず、全ての幸福の源である神を頼みとし、物惜しみせず善業を行い、やがて永遠の命すなわち天国の福楽へと至るための信仰の土台を築くように、裕福な人々に伝えなさい」。

試論:マタイ6章23節を140文字以内で

【問】主イエスは「あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどか」と説かれましたが、「光」って何のこと?
【答】マタイ5章14節「あなたたちは世の光」の「光」と同じく善意・温情・心配り・憐れみの業などの喩え(イザヤ58章6節以下参照)で、人の心と表情を明るくさせ、心を温めます。

【追記】

【問】主イエスは「わたしは世の光」「あなたたちは世の光」などと仰せになりました。なぜ?
【答】「光」はイザヤ58章6節以下にある通り善意・温情・心配り・憐れみの業等の喩えで、人の心と表情を明るくさせ人々の心を温めます。「光」がなくなれば、人々の心と表情は暗くなり、心は冷え込みます。

【問】福音書には主イエスが「笑った」という記述がない、という議論があるそうです。
【答】イザヤ58章10節は隣人への温情を「光」に喩えます。理由は相手の心や顔を明るくするからです。主はヨハネ8章で「わたしは世の光」と宣言されましたが、これはいつも仏頂面の人が語る言葉ではありません。

【問】イザヤ58章6節以下では、困窮している人々に対する心配り・善意・温情・憐れみの心が「光」に喩えられていますが、なぜ?
【答】それらが相手の表情と心とを明るくさせ、また、それらが相手の心を、光が熱を与えるように温かくさせるからです。マタイ5章16節「あなたの光を輝かせなさい」。

試論:「目は口ほどに物を言う」を140文字以内で

【問】主はなぜ心のともし火は目(マタイ6章22節)だと仰せになったの?
【答】人間の心の中は、無意識のうちに本人の目つき・まなざしによって、周囲の人々に伝わってしまうものです。日本にも、「目は口ほどに物を言う」という言い回しがあります。主は、自分の内面を清く保つよう教えられました。

【追記】

サムエル記下12章で主が預言者ナタンをダビデに遣わされた際、ナタンは喩え話でダビデを非難したが、家来の妻に横恋慕して日頃の知恵が曇っていたダビデは自分が指差されていることに全く気付かなかった。人間は他人の目(=心)の中のおが屑には気付いても、自分の目(=心)の丸太には気付かない。

試論:終末預言???を140文字以内で

【問】聖書から「終末預言」を連想する人々がいるようです。
【答】聖書のギリシア語には最後や最終を意味する語がありますが、例えば前後の見境なく浪費を続ける人や交通ルールを無視した運転を続ける人に「続けてたら最後は悲惨な目に遭うよ」と忠告しても、それは忠告であり終末預言にはなりません。

(注)別エントリー「試論:『終わりの時』の人々の姿を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10858

(注)別エントリー「一ペトロ4章7節『万物の終わり』???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/25575

【追記】

旧約聖書の預言は第一義的に主イエス・キリストの到来及びその前後までの歴史的出来事をあかしするためのものであり、キリスト到来から約二千年後に生きる現代人が国際情勢を読み解くためのものではなく、その点では、旧約聖書の「預言」とノストラダムスの「予言」とでは意義も目的も全く違っている。

(注)別エントリー「試論:非キリスト教的な預言解釈を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21066

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

ルカ24章のエマオでの御出現において主は、旧約聖書とは御自分についてあかしするものであり実際その詳細について《全体》の説明を始めると、何時間あっても語り尽くせないことをお示しになった(27節)。主は以前にもユダヤの人々に対して同じ事柄をお話しになられていた(ヨハネ5章39節等)。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ5章46節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7208

【問】ルカ15章「放蕩息子」の話で最も重要な瞬間はどこ?
【答】17節「我に返る」瞬間です。放蕩の限りを尽くし財産を無駄使いし何もかも失って初めて彼は、自分にとって本当に大切なものが何であるかに気付きましたが、その瞬間です。本当に大切なもののところへ向かって、彼は、戻り始めました。

ヨナ書で「大いなる都」と呼ばれたニネベでは、預言者ヨナによる滅亡の警告を受けて都の人々がこぞって神を信じ、直ちに回心して神の御前にへりくだり、粗布をまとって断食し、ひたすら神に祈願して各々が非を認め、悪の道から離れて不法を捨てた。主はそれを御覧になり、ニネベの滅亡を思い直された。

(注)別エントリー「試論:エゼキエル18章を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5726

(注)別エントリー「試論:『主が御怒りになる理由』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10995

ルカ19章で、主はエルサレムのために泣かれた。確かに主の予告の通り、約四十年後に都は滅亡した。だが同じ都は数日後に主御自身を殺す都でもあった。それでも主は、ヨナ書で神がニネベを惜しまれた以上に、エルサレムのために泣かれた。エルサレムが決して自分の非を認めようとはしないためである。

イザヤ59章2節「あなたたちの悪こそが、神とあなたたちの間を隔て、あなたたちの罪こそが、神の御顔を隠させ、神があなたたちに耳を傾けられるのを妨げている」ヨハネ14章24節「本当はわたしのことなど愛してはいない者は、決して御父とわたしの言葉や掟を受け入れはせず守ろうなどとしない」。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

主はマタイ13章45節以下で、「天の国」を全財産と引き換えにしてでも手に入れるべき真珠にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「天の国」は「永遠の命」と同義だが、「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

試論:聖書で現代を読み解く??を140文字以内で

【問】「聖書で、現代の世界や中東の情勢を読み解く」と主張する人々がいるようですが、そんなことできますか?
【答】古事記や日本書紀や万葉集や源氏物語で、現代の日本を読み解くことができるでしょうか? それと同じです。もちろん、読み解いたつもりになって一人悦に入るのは、その人の勝手です。

【追記】

ルカ21章22節において、主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると明言されており、それは紀元七〇年に現実のこととなった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代や近未来の世界情勢に関して旧約聖書の預言から考える行為は無意味である。

旧約聖書の預言は第一義的に主イエス・キリストの到来及びその前後までの歴史的出来事をあかしするためのものであり、キリスト到来から約二千年後に生きる現代人が国際情勢を読み解くためのものではなく、国際情勢分析など本来の意義とは無関係の完全な逸脱行為であり、真理には絶対にたどり着けない。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

エゼキエル書38章で預言されている戦争において「ゴグ」の侵略目的は、「金銀」や「財産」や「家畜」の「略奪」ではないかと周辺から「非難」を受ける性質のものであり、現代人がイメージする近未来の戦争とは程遠く、まして家畜の略奪が話題にされるような戦争が「世界最終戦争」であるわけがない。

(注)別エントリー「予備的考察:いわゆる『エゼキエル戦争』【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15520

予備的考察:聖書の「義」とは?

【問】マタイ6章33節「神の国と神の義」や同5章20節「あなたたちの義が律法学者たちやファリサイ派の義に勝らなければ」の「義」って何?
【答】それらの「義」という訳語はギリシア語原文ではディカイオシュネーです。この語は同6章1節「人前で善行を見せびらかせないように」の「善行」です。

【問】山上の説教の「義に飢え渇く人は幸い」の「義」とは何?
【答】サムエル上24章18節「お前はわたしよりも義の人だ。わたしはお前に悪意を示したのにお前はわたしに善意を示してくれた」からも分かる通り、古代のヘブライ人の「〔神の〕義」とは現代の日本語でいえば《善意》を意味しています。

【問】「ヨセフは義人だったので婚約者のことを大っぴらにはせずひそかに離縁しようとした」の意味は?
【答】古代のヘブライ人の「義」は《善意》を指し、彼は「善意の人」であり「お前は俺のメンツを潰したのだから、お前もお前の子も地獄に堕ちろ」などと喚いて大騒ぎしたりは決してしませんでした。

(注)別エントリー「婚約者の妊娠を知った時のヨセフの心情」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3092

マタイ福音書のギリシア語本文はヨセフをディカイオス(1章19節)と呼ぶが、ディカイオスは最後の審判で天国の福楽を確約されている人(25章37節)を意味し、ヨセフがもともと天の国にいてもおかしくないほどに無垢な(創世記6章9節)底抜けの大善人で天使のような人であったことを示唆する。

(注)別エントリー「試論:聖ヨセフの模範を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7243

(注)別エントリー「聖母と聖ヨセフが終生童貞である理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4464

【問】聖書の中の「愛」も聖書の中の「義」も、ともに「善意」や「善行」という点では一致しているということですか?
【答】少なくともマタイ福音書におけるディカイオス/ディカイオシュネーの用法を調べる限り、聖書の中で、「愛」と「義」の間に、矛盾や対立や齟齬の類いは存在していないようです。

【問】世間では、既婚者や恋人のいる異性を奪い取る行為を「略奪愛」と呼んだりします。これはキリスト教の愛に含まれますか?
【答】いいえ、全く含まれません。キリスト教の愛の定義は「他の人からしてもらいたいことなら全てあなたから他の人にしなさい」で、これと「略奪愛」は絶対に相容れません。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

ローマ13章10節は「愛は隣人に悪を行わない」と記す。これに従えば「愛の反対」とは「隣人に悪を行うこと」である。マタイ7章21節以下「わたしを『主よ、主よ』と呼ぶ者が皆、天の国に入るわけではない」「不法を働く者どもよ、わたしから離れ去れ。わたしはお前たちのことなど全く知らない」。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

(注)別エントリー「試論:ローマ13章『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16049

主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちは、自分が他の人からしてほしいことを、自分から他の人にしなさい」と《愛の掟》を教えられた。従って「愛の反対」は「他の人からしてほしくないことをあえて他の人に行うこと」そして「他の人からしてほしいことをあえて他の人には行わないこと」からなる。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1982

試論:マタイ6章13節を140文字以内で

【問】「わたしたちを誘惑に陥らせず悪からお救い下さい」の意味は?
【答】主イエスはマタイ4章で悪魔による荒れ野の誘惑をあえて受けられましたが《人となられた神の子》ならではの試練であって、無力な人間である個々の信者が安易に真似すべき事柄ではなく自分から軽々に悪へ近付いてはなりません。

(注)別エントリー「試論:『人となられても神は神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6877

【追記】

主はマタイ5章39節で「悪人に対抗してはならない」と仰せになり、悪人と真っ正面からまともにぶつかって、やり合ってはならないと教えられた。これは箴言22章3節「思慮深い人は悪事を察知すれば避けようとするが、あさはかな人はそのまま突っ込んで行き災難に遭う」を再確認する御教えでもある。

(注)別エントリー「マタイ5章39節」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/26052

試論:「神の御旨」と「神の国」を140文字以内で

主イエスはルカ17章20節で「神の国は見える形では来ない」同11章20節で「わたしが『神の指(=聖霊)』で悪霊を追い出しているのだとしたら、神の国は既に来ている」と教えられた。マタイ6章10節の通り、神の御旨が天に行われている通り人間の世でも行われている状態が神の国の到来である。

(注)別エントリー「試論:『神の指』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15224

(注)別エントリー「試論:『人の子の日』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19890

【追記】

主イエスは「ベルゼブル論争」の際、マタイ12章28節では神の霊すなわち聖霊によって悪霊を追い出したと仰せになったが、ルカ11章20節では「神の指によって」と表現されている。「神の指」とは神の御力や御業を表す(出エジプト8章15節、同31章18節、申命記9章10節、詩編8編4節)。

(注)別エントリー「『神の指』?」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19346

愛は罪を覆う

一ペトロ4章8節は、箴言10章12節を踏まえて「愛は罪を覆う」と説く。この意味について、主イエスはルカ16章「不正な管理人のたとえ」で、ある人が常日頃から周囲に対して情け深く接するならば、神は必ずその人の以前の過ちに対しても情け深く接して下さる(マタイ6章14節)と御説明された。

(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346

最後の晩餐の際に主は、御自分の《愛の掟》においては隣人愛の実践をもって御自分への愛の実践とみなすと宣言された(ヨハネ14章21節等)。最後の審判では各自の行いに応じて裁かれる(黙示録20章13節、マタイ25章45節)ため、神からの赦しを得るには隣人を赦す以外ない(同6章12節)。

【問】ローマ5章9節は「わたしたちはキリストの血によって義とされた」と記しています。洗礼を受けて信者になれば、後で何をしても救われるの?
【答】ヘブライ10章26節以下では「わたしたちが真理の知識を受けた後でも、故意に罪を犯し続けるとすれば、〜」等と厳しい表現で強く警告しています。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

黙示録20章12節以下には、マタイ25章31節以下と同様に、「最後の審判」に関する記述が登場するが、そこでは全ての死者たちが各自の行いに応じて裁かれることが書かれており、「行いを伴わないならば、信仰はそれだけでは死んだものです」というヤコブ2章17節の記述とは完全に一致している。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:行いを欠く信仰を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5360

出エジプト記34章で主の栄光がモーセに現わされた際、御自分が優しさと厳しさを兼ね備えた神であると主はモーセに明らかにされた。ダビデは詩編18編21(20)節以下で、主は優しい人には優しく厳しい人には厳しいと歌った。その人が隣人に敬意を示さない限り、主はその人の信仰を認められない。

(注)別エントリー「試論:『選ばれた人は選んだ人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8034

【問】山上の説教の「義に飢え渇く人は幸い」の「義」とは何?
【答】サムエル上24章18節「お前はわたしよりも義の人だ。わたしはお前に悪意を示したのにお前はわたしに善意を示してくれた」からも分かる通り、古代のヘブライ人の「〔神の〕義」とは現代の日本語でいえば《善意》を意味しています。

主イエスは敵を愛するよう命じられたが既にそれはモーセの律法に存在した。出エジプト23章4節〜5節「あなたの敵の牛やろばがさまよっているのを見たなら、その家畜を敵のところへ帰してやりなさい。あなたを憎む者のろばが重荷の下敷きになっているのを見たなら、その者と共にろばを助けなさい」。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

【問】マタイ7章12節「他の人からしてもらいたいことを全てあなたから他の人にしなさい」。なぜ、この教えが《キリストの律法》と呼ばれますか?
【答】この教えにイエス・キリストの御旨と新旧約聖書の全ての教えの本質が凝縮されているからで、この教えへの忠実こそが人間を永遠の命へと導きます。

(注)別エントリー「《キリストの律法》(マタイ7章12節)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18013

【問】「キリストの律法」とは何ですか?
【答】マタイ7章12節「あなたが他の人からしてもらいたいことならなんでも、あなたから他の人にしなさい。これこそ律法〔であり預言者の教え〕」のことで御教えの基礎となる事柄であり、これが欠乏すると、人々は互いに隣人を侮り始め、世情は殺伐とします。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

試論:マタイ2章18節のラケルを140文字以内で

【問】マタイ2章18節はエレミヤ書を引用し、ヘロデに殺された乳児たちの母親の悲しみを彼女たちをラケルと呼び表現しました。なぜ?
【答】ラケルは創世記に登場する女性でヤコブの妻の一人でしたが、難産の末ベニヤミンを生んで亡くなりました。旧約の民の間ではラケルは苦しむ母親の代名詞でした。

神は人間の「本心」を見ておられる

主はマタイ18章10節で、人間と神との連絡を行う天使の存在に言及され、たとえ幼子が言語や思考や体力や行動の面でおぼつかない存在であっても、幼子の非力を侮り良からぬ行動に出る者については全てを天使が逐一、神の御前で報告し、神は全てを御存知であると仰せになった(マタイ6章6節参照)。

主イエスはマタイ6章で、施し・祈り・断食は人目に付かないようにと命じられ、天の御父である神は全て御存知だと仰せになった。箴言15章3節「どこでも主の御目は注がれ善人も悪人も見ておられる」詩編90編8節「〔主よ、〕あなたはわたしたちの罪を御前に、隠れた罪を御顔の光の中に置かれる」。

主はマタイ10章26節で、「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」と仰せになった。神の御前で隠し事はできないという同じ事柄をローマ2章16節も説くが、後者は「人々の隠れた事柄を神がキリスト・イエスを通して裁かれる日」と関連付けている。

箴言18章20節は、それが他の賢い人の口真似であれ自分の感情の赴くまま思わず口走った言葉であれ、いったん口にした自分の言葉は、今度は自分自身の内面へ影響を与えると説く。フィリピ3章19節も自分自身の内面を「腹」と表現し、神の御教えよりも自分自身の思い込みを優先する人について記す。

日本語でも「腹(肚)」と表現して「腹の中が読めない」「腹黒い」など「独特な考え」「内面に秘めた思い」を指す。箴言18章20節や同20章27節や同30節も同様で、パウロも「自分の腹に仕える」(ローマ16章18節)と表現し、自分勝手な思い込みに固執する人(フィリピ3章19節)を指す。

主イエスは、マタイ5章14節で「あなたたちは世の光」16節で「光を輝かせなさい」と仰せになった。「光」はイザヤ58章8節と10節の通り神の御言葉に従う憐れみの業を象徴している。ただし主イエスはマタイ6章で、その業を行う際にはこれ見よがしな態度で見せびらかさないよう厳に戒められた。

主イエスはマタイ5章16節で「あなたたちの光を人々の前で輝かせなさい」と確かに教えられたし、「光」とは「神の御言葉」(ヨハネ1章)の比喩であり、神に忠実な人に伴うものであるが、神がお喜びになる流儀は憐れみの業を行う際にも人目に着かないことであると、マタイ6章では念を押されている。

主イエスがファリサイ派の人に対し使われた表現「偽善者」の、原文におけるギリシア語の本来の意味は、「演技をする人」「見せかけの人」等だった。「皇帝のコイン」に関する罠を隠した質問の時のように、ファリサイ派の人は主イエスに対し芝居がかった追従を大げさに口にしながら陥れようとしていた。

マタイ22章15節以下で、主はファリサイ派の人々とヘロデ派の人々から罠を隠した質問を受けた。早い時期から両派の一部は、主に対して殺意を含んだ敵意を抱き続けていた(マルコ3章6節)。主は「パン種」と表現して彼らの悪意を弟子たちに示唆されたが、誰も理解しなかった(同8章15節以下)。

マタイ6章で主は、祈る際の「これ見よがし」的な態度を避けるように人々を戒められ、「隠れたことを見ておられる天の父が報いてくださる」と仰せになった。サムエル上1章13節「ハンナは心のうちで祈っていて、唇は動いていたが声は聞こえなかった」その結果19節「主は彼女を御心に留められた」。

「預言」と「私的啓示」の違い

旧約の律法では王や大祭司も預言者に従う定めがあったがダニエル9章24節は「預言を封印するメシア」を預言し、ルカ21章22節の主の御言葉と紀元七〇年のエルサレム滅亡で、その預言は成就した。その後も当然「私的啓示」は続くが、決してそれらを旧約時代の「預言」と同じ扱いにしてはならない。

(注)別エントリー「試論:『偽預言者』と『もみ殻』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7600

(注)別エントリー「試論:偽預言者の悪質性を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7549

(注)別エントリー「試論:『人を惑わす霊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5682

(注)別エントリー「試論:偽預言者と反キリストの霊を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6839

(注)別エントリー「試論:偽預言者と貪欲を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7125

(注)別エントリー「試論:偽預言者と滅亡を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5401

(注)別エントリー「試論:偽預言者の識別を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6118

ダニエル9章24節はメシアについて預言の時代を封印する存在だと預言し、主はルカ21章22節で、(紀元七〇年の)エルサレム滅亡で旧約聖書の全預言が成就し預言の時代が終わると仰せになった。故に紀元七〇年以降の国際情勢と旧約聖書の預言は無関係で、関係ありとする強弁は主の御言葉に反する。

(注)別エントリー「試論:主イエスと旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7462

旧約時代には申命記18章15節以下の律法の通り、神が立てられた預言者には聞き従わなければならなかった。しかし使徒言行録21章でパウロは、アガボやフィリポの四人の娘など「預言」を行う人々の制止を振り切り、エルサレムへと出発した。新約時代には旧約時代と同じ立場の預言者など存在しない。

主はマタイ5章18節で、全てのことが実現して天地が消え失せるまではモーセの律法も消え失せないと仰せになり、ルカ21章22節ではエルサレム滅亡で預言が全て実現すると予告され、紀元七〇年にそれは成就した。詩編78編69節の通りヘブライ人はエルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。

(注)別エントリー「試論:ルカ19章41節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5814

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

ルカ21章22節には「書かれていること」という言い回しが用いられているが、これはヨシュア記1章8節と同様に、「預言された事柄」「神から啓示された内容」などを意味する表現である。古代においては「書く(書いて記録に残しておく)」という行為それ自体が、非常に重要な意味を持つものだった。

主はマタイ5章18節で、全てのことが実現し天地が消え失せるまで律法の時代が続くことを仰せになった。ルカ21章22節では、エルサレム滅亡(20節)の日を「書かれていることが完全に実現する報復の日」と仰せになり、エルサレムと神殿の滅亡(紀元七〇年)で律法の時代が終わると宣言なさった。

「天地が消え去る」の「天」とは、神がお住まいになる場所と見なされたエルサレム神殿とりわけその聖所を指し、二ペトロ3章はその滅亡が近いことを説く。「地」はエゼキエル7章2節同様、イスラエルの地を指す。紀元七〇年にエルサレムと神殿は滅亡しユダヤ(イスラエル人の国家)も同じく消滅した。

二ペトロ3章10節は「主の日」において「天は激しい音を立てながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に熔解し尽くす」と予告した。数年後の紀元七〇年、神が住まわれると見なされて、「天」と同一視されていたエルサレムの神殿は、都の滅亡の際ローマ帝国軍によって火を放たれ、大音響と共に焼け滅びた。

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

ルカ21章22節において、主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると明言されており、それは紀元七〇年に現実のこととなった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代や近未来の世界情勢に関して旧約聖書の預言から考える行為は、不毛である。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

ダニエル書9章では神殿とエルサレムの復興を強く願うダニエルの祈りに応えて、都と神殿の再建さらには救い主の到来までも約束されたが、救い主が不当に殺された後、モーセの律法を蹂躙する集団が神殿の聖所を占拠し、そして次に来る指導者の民が、都と神殿を無法集団もろとも、滅ぼし尽くして終わる。

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

主はルカ21章23節でエルサレム滅亡とその前後のユダヤの苦難を予告されたが、『改訳 新約聖書』(1917年)では「大なる艱難」と日本語訳する。一世紀後半のユダヤの歴史家ヨセフスの記述通り、紀元六六年の大反乱の勃発から七三年のマサダ陥落までの七年間に、ユダヤは惨劇の連続を経験した。

ルカ17章34節から35節で主は「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」と繰り返されたが、では一体どこに「連れて行かれ」るのかを、ルカ21章24節では「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と御説明された。これは大昔モーセがレビ記26章33節以下で預言していた話と同じである。

紀元七〇年のエルサレム滅亡時にローマ軍へ投降したユダヤ人のうち、使徒言行録22章のパウロのようにローマの市民権を持つ者はローマ法の保護下にあるため留め置かれたが、そうでない者は妻子と共に奴隷とされて売り飛ばされた。こうして「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」は現実となった。

(注)別エントリー「試論:『滅びを避けるには』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5749

主イエスはヨハネ6章40節で「わたしの御父の御心は、御子(=主イエス御自身)を見て信じる者が皆『永遠の命』(マタイ25章46節)を得ることである」と仰せになった。「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

主イエスはルカ13章3節で「あなたたちも悔い改めなければ皆、滅びる」と説かれた。ルカ3章で洗礼者は、悔い改めに必要な事柄を簡潔ながら具体的な指示として与えた。主イエスの御指示は「あなたが他の人からしてもらいたいことは全てあなたから他の人にしなさい」で、これの実行が悔い改めである。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

主イエスや洗礼者は「悔い改め」を説いた。悔い改めと聞くと現代人は、何か仰々しいイメージを抱きがちだが、ルカ3章で実際に洗礼者が皆に指示した事柄は簡潔かつ具体的なものであった。目の前にいる相手を悲しむ顔・困った顔・苦しむ顔にさせるような行為と悪意とを捨て去るように、それらは勧めた。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

ダビデとモアブ人

【問】ダビデはサウル王から命を狙われていた不遇時代に、両親をモアブの王に託しました(サムエル上22章3節)。なぜ?
【答】普通、古代のイスラエルの内部抗争に際し、特定の一方だけに異邦モアブの王が肩入れすることは異例でした。しかしダビデの父エッサイの父方の祖母は、モアブ人ルツでした。

主イエスが放蕩息子のたとえを教えられた際、当時の人々の一部はルツの姑ナオミを思い浮かべたはずである。ナオミは家族と共にモアブに移住したが、夫も息子たちもモアブで亡くした。飢饉を避けるためとはいえ士師の時代にイスラエルを捨ててモアブに移住するのは、尋常ならざる行動と周囲には映った。

(注)別エントリー「試論:『放蕩息子とナオミ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18107

飢饉を避けるためとはいえ故郷イスラエルを捨てて異邦モアブの地に移住したナオミと彼女の家族の行動は、好ましからざるものとして当時のイスラエル人は受け止めたはずである。全てに希望を失い故郷に帰ったナオミへ、モアブ人の嫁ルツの信仰が大きな幸福をもたらしたところに、皆が天の配剤を感じた。

マタイ1章5節は、ヨシュア記に登場するエリコの遊女ラハブがルツ記に登場するボアズの母親であったと記す。ルツ記を読めば一目瞭然だが母親ラハブが息子に何を言い聞かせて育てたか、それは「相手が自分よりも弱い立場で自分の方が優位にあるように思えても、決して相手の弱みに付け込むな」である。

跡取りを産む前に夫に先立たれたルツは、申命記25章の規定に従って亡き夫マフロンの「兄弟」ボアズと再婚したが、このボアズはマフロンとは父も母も異なっていた。古代イスラエルにおける「兄弟」という概念が、父や母を同じくする同胞のみならず、広く親族全般を含んでいたことは、歴然としている。

(注)別エントリー「イエスの『兄弟』『姉妹』:同胞か親戚か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1451

ルツ記の主人公であるルツは、最初の夫マフロンとの間に跡取りを産む前に夫に先立たれ、のちに申命記25章の規定に従ってマフロンの「兄弟」ボアズと再婚したが、このボアズは亡夫マフロンとは父も母も異なっていた。マフロンの父はエリメレク、母はナオミで、ボアズの父はサルマ、母はラハブである。

(注)別エントリー「試論:『履物を脱ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8620

【問】主イエスはマタイ5章44節で、敵を「愛する」つまり尊重して敬意を表すことを要請されました。そうした人の実例は聖書にありますか?
【答】サムエル上24章でサウル王はダビデに嫉妬して命を狙いましたが、ダビデはサウルのことを尊重し、サウルもダビデの「義」を認め一度は兵を退きました。

(注)別エントリー「『敵を愛する』???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17505

【問】山上の説教の「義に飢え渇く人は幸い」の「義」とは何?
【答】サムエル上24章18(17)節「お前は、わたしよりも義の人だ。わたしはお前に悪意を示したのにお前はわたしに善意を示した」から分かる通り、古代のヘブライ人の「〔神の〕義」は現代の日本語でいえば《善意》を意味しています。

主イエスは敵を愛するよう命じられたが既にそれはモーセの律法に存在した。出エジプト23章4節〜5節「あなたの敵の牛やろばがさまよっているのを見たなら、その家畜を敵のところへ帰してやりなさい。あなたを憎む者のろばが重荷の下敷きになっているのを見たなら、その者と共にろばを助けなさい」。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

試論:「敵を愛する」聖書の実例を140文字以内で

【問】主イエスはマタイ5章44節で、敵を「愛する」つまり尊重して敬意を表すことを要請されました。そうした人の実例は聖書にありますか?
【答】サムエル上24章でサウル王はダビデに嫉妬して命を狙いましたが、ダビデはサウルのことを尊重し、サウルもダビデの「義」を認め一度は兵を退きました。

(注)別エントリー「『敵を愛する』???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17505

【追記】

【問】山上の説教の「義に飢え渇く人は幸い」の「義」とは何?
【答】サムエル上24章18節「お前はわたしよりも義の人だ。わたしはお前に悪意を示したのにお前はわたしに善意を示してくれた」からも分かる通り、古代のヘブライ人の「〔神の〕義」とは現代の日本語でいえば《善意》を意味しています。

主イエスは敵を愛するよう命じられたが既にそれはモーセの律法に存在した。出エジプト23章4節〜5節「あなたの敵の牛やろばがさまよっているのを見たなら、その家畜を敵のところへ帰してやりなさい。あなたを憎む者のろばが重荷の下敷きになっているのを見たなら、その者と共にろばを助けなさい」。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

主はマタイ5章44節で「敵を愛する」ように教えられたが、のちに具体例としてルカ10章30節以下で「善きサマリア人のたとえ」をお話しになった。このたとえは、当時ユダヤ人とサマリア人とが実際には、交流すら避けるほど不仲の間柄であった(ヨハネ4章9節等参照)という状況を前提にしている。

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4544

マタイ5章48節「完全」

マタイ5章48節の「あなたたちの天の父が完全であられるように、あなたたちも完全な者となりなさい」の「完全な」に当たる原文のギリシア語は、古代のギリシア語訳創世記6章9節でも用いられている。この語に同節で対応する原文のヘブライ語は新共同訳では「無垢な」という日本語で表現されている。

マタイ7章21節「わたしの天の父の御心を行う者だけが、天の国に入る」11節「求める相手に良いものを与えることこそ、天の父の御心」12節「あなたが他の人からしてもらいたいことならなんでも、あなたから他の人にしなさい」5章48節「天の父が完全であられるように、完全な者となりなさい」。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』の意義を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17078

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346

主イエスはマタイ5章48節で「あなたたちの天の御父が完全な方であられるように、あなたたちも完全な人になりなさい」と仰せになったが、「完全」の意味をヤコブ3章2節は「言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人」と呼び、「舌を制御する」(8節)ことの重要性を説く。

マタイ5章48節では「天の父が完全であるように、完全な者となりなさい」と説く。この場合の「完全な者」とは、レビ記19章2節では「聖なる者」、ルカ6章36節では「憐れみ深い者」であり、「完全」という表現でも人間に実行不可能な無理難題ではない(一ヨハネ5章3節、マタイ11章30節)。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

(注)別エントリー「試論:『いけにえ』と憐れみを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8356

マタイ5章48節で主は、天の御父が完全であられるように各自も完全な者となるよう勧められたが、憐れみ深さという点で「完全」を目指すべきことがルカ6章36節では説明されている。さらに同40節の後半で、福音の教えに従って自分自身を矯正し続ける者は「完全」まで到達できると主は確約された。

(注)別エントリー「試論:『わたしの荷は軽い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6870

主イエスはルカ6章40節でどうすれば弟子は師のようになれるか教えられた。ギリシア語本文の動詞はマルコ1章19節「〔網の〕手入れをする」と同じで「破れがないか全体を確認し、あれば修繕し、付着物を念入りに除去し、十分に洗い、現場で使い物になる完全な状態まで仕上げる」という意味である。

主はルカ6章40節で「弟子は先生より優れた者でないにせよ、普段から十分に心の準備を整えていれば、その先生のようになれる」と仰せになった。この箇所は内容的には36節の「あなたたちの天の御父が憐れみ深い方であられるように、あなたたちもまた、憐れみ深い者になりなさい」に結び付いている。

(注)別エントリー「試論:『憐れみ深い人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10347

(注)別エントリー「試論:『憐れみ深い人、ヨセフ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6057

主はマタイ18章3節で、心を入れ替えて幼子のようになるように強く弟子たちへお命じになり、他方5章48節では、天の御父と同様に、皆も「完全」となるように主はお勧めになった。古代のギリシア語創世記では「完全」というこのギリシア語が、6章9節においてヘブライ語の「無垢」に対応している。

(注)別エントリー「試論:マタイ5章8節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7254

マタイ11章28節「重荷を負う者は、わたしの許へ来なさい」詩編38編5(4)節「わたしの罪悪は耐え難い重荷」マタイ9章13節「正しい人を招くためではなく罪人を招くために、わたしは来た」ホセア6章1節〜2節「わたしたちは主の許に帰ろう。主はわたしたちをいやされ、傷を包んで下さる」。

マタイ9章13節「わたしが来た目的は、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」ホセア6章1節〜2節「さあ、わたしたちは主の御許に帰ろう。主はわたしたちの傷を覆ってくださり、いやしてくださる。主はわたしたちを立ち上がらせ命を与えてくださる。わたしたちは主の御前で生きる」。

主がマタイ9章13節で「わたしが求めるのは憐れみであり『いけにえ』ではない」とホセア6章6節に言及されてファリサイ派の人々に学ばせたかった「意味」という事柄の答えは、ホセア6章3節「主は曙の光のように必ず現われて、春に降り注ぎ大地を潤す雨のようにわたしたちを訪れて下さる」である。

ホセア6章6節は「わたしが求めるのは、憐れみであって『いけにえ』ではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」と記すが、これと関連して一ヨハネ2章3節は「知る」という表現の意味を《神の掟を守るという実体験を通して自分は神を知っているのだと自覚する》ことであると説明する。

(注)別エントリー「試論:『神を知ること』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5580

主はマタイ福音書で「わたしが求めるのはあわれみであって犠牲(いけにえ)ではない」(ホセア6章6節)と繰り返されが、同節は「神を知ることであって焼き尽くす献(ささ)げ物ではない」と続く。「神を知る」を一ヨハネ2章3節は「神の掟(愛の掟。ヨハネ15章12節等)を守る」ことと説明する。

箴言16章7節は、ある人が主に喜ばれる行いに努め続けるならその人はかつての敵とも主の仲介で和解に至るであろうと説く。ホセア6章6節は、主が喜ばれることとは隣人に憐れみの業を行うことであって「いけにえ」ではなく、そして神を知るように努めることであって焼き尽くす献げ物ではないと説く。

(注)別エントリー「試論:『神を知る』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10024

今、あなたの神、主があなたに求めておられることとは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてその全ての導きに従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸せになることではないか。(申命記10章12節〜13節)

ミカ6章8節「何が善であって、主が何をあなたたちに求めておられるかは、あなたたちには既に告げられている。それは神の義を行い、憐れみの業を愛し、へりくだり神と共に歩むこと」ホセア6章6節「わたしが求めるものは『いけにえ』ではなく憐れみであり、焼き尽くす献げ物ではなく神を知ること」。

(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6748

試論:「悪人に対抗するな」を140文字以内で

主はマタイ5章39節で、悪人に「対抗」(ルカ21章15節)してはならないと仰せになった。原文のギリシア語は「全面的に対抗する」「徹底的に応戦する」というニュアンスであり、それも含めてマタイ5章で主は早期の和解を勧められ、同じギリシア語で悪魔への「対抗」をヤコブ4章7節では勧める。

【追記】

マタイ5章39節の原文の表現を調べると、主が禁じたのは悪人と同じ次元(行為や目的)の報復や応戦であり、逃れる手段があれば用いてもよく(ヨハネ8章59節)言説による反論もよい(同18章23節)。もちろん女性が暴行から逃れる目的で男性に抵抗するのもよい(同じ目的の応戦に該当しない)。

主はマタイ5章39節で悪人に手向かってはならないと仰せになったが、主がここで禁じられたのは<悪人と同じ次元の争い事>つまり、悪人と同じ手段で報復を行い自分も悪事に手を染めることだった。38節で「目には目、歯には歯」に言及されたのはそのためで、報復の連鎖に陥らぬよう主は戒められた。

ヨハネ18章で主が逮捕されて大祭司のもとで尋問を受けた際、「返事の仕方」のことで大祭司の「下役」に難癖をつけられ、主は平手打ちを受けた。もちろん主は不当な暴力に対して暴力で返すことなどなさらなかった(マタイ5章39節参照)が、不当な言い掛かりに対して主張すべき事柄は主張なさった。

主はマタイ5章39節で「悪人に対抗してはならない」と仰せになり、悪人と真っ正面からまともにぶつかって、やり合ってはならないと教えられた。これは箴言22章3節「思慮深い人は悪事を察知すれば避けようとするが、あさはかな人はそのまま突っ込んで行き災難に遭う」を再確認する御教えでもある。

「掟を守る」とは掟を実際に行うこと

【問】ヨハネ14章15節「あなたたちは、わたしを本当に愛しているのなら、わたしの掟を守るはずだ」の「掟を守る」とは?
【答】申命記7章11節「あなたたちは、今日わたしが『行いなさい』と命じた戒めと掟とを守らなければならない」の通り、「掟を守る」とは、掟を実際に行う以外にありません。

【問】「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」。これと同じ主張は福音書にありますか?
【答】マタイ9章13節「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」。神なる主がお喜びになる行いは、割礼や各種の献げ物やいけにえの類いではなくて、隣人愛の実践です。

【問】「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく」の「律法の行い」って、何?
【答】ローマ3章30節以下では割礼が話題にされますが、ヘブライ10章5節以下は「罪を贖うためのいけにえ」や「焼き尽くす献げ物」に言及し、続いて、神はこれらを望みもせず、好まれもしなかったことを説明します。

【問】では、「人が義とされるのは信仰による」の「信仰による」は、聖書の中のどの箇所で説明されていますか?
【答】ガラテヤ5章6節「キリスト・イエスに結ばれているのなら割礼の有無ではなく愛の実践を伴う信仰こそ大切」ヤコブ2章17節「行いを伴わないのなら信仰はそれだけでは死んだもの」。

【問】使徒言行録5章にはアナニアとサフィラの話がありますが教訓は何ですか?
【答】主イエスはヨハネ14章6節で「真理(アレテイア)」を自称され、御自分が真心には真心でお返しになる神であると仰せになりました。詩編12編は、ヘブライの信仰は嘘偽りや面従腹背とは相容れないと教えています。

【問】ローマ5章9節は「わたしたちはキリストの血によって義とされた」と記しています。洗礼を受けて信者になれば、後で何をしても救われるの?
【答】ヘブライ10章26節以下では「わたしたちが真理の知識を受けた後でも、故意に罪を犯し続けるとすれば、〜」等と厳しい表現で強く警告しています。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

【問】アナニアとサフィラの受けた罰は重過ぎるようにも感じます。
【答】プロテスタントの『改訳 新約聖書』(1917年)は、ヨハネ14章6節の「真理」に「まこと」と仮名を振りました。当時の日本人は「まこと」という表現から「真」「実」「信」「誠」を連想でき、実際にそれらの全てが正解です。

【問】アナニアとサフィラには「まこと」が欠けていたということですか?
【答】「自分は神を信じているから自分がいくら罪を犯していても、最終的には神は自分を救ってくれる」といった、「信仰義認」をどこまでも野放図に拡大解釈する虫のいい発想など神には通用しないというのが、この話の教訓です。

【問】では、人間はどうすれば神に救われるのですか?
【答】ヤコブ2章17節「行いを伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだもの」ガラテヤ5章6節「キリスト・イエスに結ばれているなら愛の実践を伴う信仰こそ大切」マタイ7章12節「他人からしてもらいたいことなら全てあなたからしなさい」。

マタイ5章39節

主はマタイ5章39節で、悪人に「対抗」(ルカ21章15節)してはならないと仰せになった。原文のギリシア語は「全面的に対抗する」「徹底的に応戦する」というニュアンスであり、それも含めてマタイ5章で主は早期の和解を勧められ、同じギリシア語で悪魔への「対抗」をヤコブ4章7節では勧める。

マタイ5章39節の原文の表現を調べると、主が禁じたのは悪人と同じ次元(行為や目的)の報復や応戦であり、逃れる手段があれば用いてもよく(ヨハネ8章59節)言説による反論もよい(同18章23節)。もちろん女性が暴行から逃れる目的で男性に抵抗するのもよい(同じ目的の応戦に該当しない)。

主はマタイ5章39節で悪人に手向かってはならないと仰せになったが、主がここで禁じられたのは<悪人と同じ次元の争い事>つまり、悪人と同じ手段で報復を行い自分も悪事に手を染めることだった。38節で「目には目、歯には歯」に言及されたのはそのためで、報復の連鎖に陥らぬよう主は戒められた。

ヨハネ18章で主が逮捕されて大祭司のもとで尋問を受けた際、「返事の仕方」のことで大祭司の「下役」に難癖をつけられ、主は平手打ちを受けた。もちろん主は不当な暴力に対して暴力で返すことなどなさらなかった(マタイ5章39節参照)が、不当な言い掛かりに対して主張すべき事柄は主張なさった。

モーセの律法には「目には目」という表現が登場するが、これはあくまで公的な裁判における刑罰の基準を示すものであって、その目的はイスラエルの民に悪事が蔓延するのを防ぐ(申命記19章19節以下)ためであり、私的な復讐の基準ではなく元来、復讐は律法で許されていない(レビ記19章18節)。

【問】主はマルコ16章18節で、忠実な者に伴う「しるし」として「手で蛇をつかむ」と仰せになりました。なぜ?
【答】シラ21章2節は罪人や悪人を蛇に喩えます。主は幼子の無垢な心を持つことと悪人に対抗する行為の禁止(マタイ5章39節)を教えられました。罪人も無垢な人には手懐けられます。

一ペトロ2章は御受難の際のキリストの模範(21節)として「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず」(23節)と記している。このように主はマタイ5章39節の御言葉をみずから実践された。一テサロニケ5章15節でパウロが記した事柄は、御受難の際の主の模範に由来している。

古代のギリシア語訳イザヤ50章6節では、「主の僕(しもべ)の忍耐」に関する預言を、「平手打ちする者に頬をまかせた」と記した。これと関連して主イエス・キリストはマタイ5章39節で説教され、そして主御自身その通り(マルコ14章65節、ヨハネ18章22節、同19章3節)に実践なさった。

ローマ帝国の闘技場では人間対猛獣や人間同士の格闘で多くの命が失われたが、人々は闘いに熱狂した。「力こそ正義、強者が世界を支配する」という理念の象徴がそれだったが、何かが間違っていると感じる人が徐々に増え、最終的に「頬を打たれたら反対の頬も向けよ」と語った人の教えを帝国は受容した。

二千年近く前、「力こそ正義」を地で行く最強の帝国に、属国の一つが反乱を起こした。反乱の約四十年前、その属国には長年待望されていた「メシア」が現われたが指導者たちは彼を認めず、彼は処刑されていた。反乱は鎮圧され国も都も神殿も滅亡したが約三百年後、帝国が処刑された男の教えを受容した。

試論:「故意に罪を犯し続ける」を140文字以内で

【問】ローマ5章9節は「わたしたちはキリストの血によって義とされた」と記しています。洗礼を受けて信者になれば、後で何をしても救われるの?
【答】ヘブライ10章26節以下では「わたしたちが真理の知識を受けた後でも、故意に罪を犯し続けるとすれば、〜」等と厳しい表現で強く警告しています。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

試論:「神は両親に仕えられた」を140文字以内で

【問】なぜカトリックでは、母マリアや養父ヨセフに特別な敬意を払うのですか?
【答】主イエスは、御自分は仕えられるためではなく仕えるために来た(マルコ10章45節)と仰せになり、実際に両親に仕えて(ルカ2章51節)お暮らしになりました。信者は弟子として、主イエスの模範に従うだけです。

【追記】

【問】主イエスは、自分を真似て湖上を歩こうとし結局沈みかけたペトロを「信仰の薄い者」と、お叱りになりました。信仰が厚ければ湖上を歩けるの?
【答】主が弟子に真似を望まれるのは、へりくだって隣人に仕える姿勢で、キリストの行動なら何でもかんでも真似るのが弟子という発想は、少し軽薄です。

一ペトロ5章3節は神の民を司牧する者の心得として、人々に権威を振り回すのではなく、人々の模範となることを勧める。ヨハネ13章15節「わたしがあなたたちにした通りに、あなたたちもするようにと、模範を示した」マタイ20章28節「人の子は、仕えられるためではなく、仕えるために、来た」。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888

(注)別エントリー「試論:『イエスは全人類の模範』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5948

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9949

ヨハネ1章14節は神の御独り子が恵みと真理に満ちて人間となられたことを記すが、ヤコブ4章6節と一ペトロ5章5節はともに「神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みをお与えになる」と強調し、ルカ1章は「わたしは主のはしため」とへりくだった女性こそが御独り子の母となったことを特筆する。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

(注)別エントリー「試論:へりくだりと恵みを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5777

【問】聖書はキリストを模範(ヨハネ13章15節等)と示すけど、全て真似する必要があるの?
【答】いいえ。倣うべきは「仕えられるのではなく、仕える」姿勢で、真似する必要のない事柄は例えば湖の上を歩く、唾で泥を作り目の見えない人を治す、聖霊を与えると称して息を吹きかけるなどの行為です。

【問】主イエスはヨハネ2章4節と同19章26節で母マリアのことを、「婦人」あるいは「女」呼ばわりしています。実母に対してあんまりでは?
【答】創世記3章15節で神なる主は、「蛇」に対峙する「女」について予告されました。黙示録12章は、救い主を産む「女」こそがその女性だと啓示します。

【問】どうして「女(婦人)」と「蛇」(あるいは「竜」、悪魔、サタン)とは相容れない関係なのですか?
【答】箴言3章34節は、「神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みをお与えになる」と説きます。サタンは高慢な者の象徴であり母マリアはへりくだる者(ルカ1章38節、48節)の象徴です。

黙示録12章は「女」聖母マリアと「竜」サタンとの決定的対立を象徴的に描く。それはマリアの賛歌や箴言3章34節「神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みをお与えになる」の通りで、後に主イエスも、「自ら高ぶる者は低くされ、へりくだり自ら低くなる者は高くされる」と福音書で繰り返された。

(注)別エントリー「試論:『謙遜の極み故の被昇天』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11125

聖母は「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)となられた方ながら、「わたしは主のはしため」(38節)と自称されたが、ペトロとヤコブは「神はへりくだる人に恵みをお与えになる」と書いた。「神の御独り子の母」となられた女性のへりくだりと恵み(ルカ1章28節)とは、いかばかりだろうか?

黙示録12章9節は「竜」を「悪魔とかサタンとか呼ばれる年を経た蛇、全人類を惑わす者」などと呼び、創世記3章の「蛇」と同定する。その手口は「〔神から言い渡された掟に従わなくとも〕あなたは死ぬことがない」であり、主イエスもマタイ13章39節で「毒麦を蒔いたのは悪魔」と警告されている。

(注)別エントリー「試論:『全人類を惑わす者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16790

【問】カトリックでは創世記3章15節および黙示録12章の「女」をマリアと解釈し、サタンと決定的に相容れない存在だと教えますが、その対立点はどこ?
【答】マリアは人々へ神の言葉には全て従うよう勧めますが(ヨハネ2章5節)、サタンはエバへ神に従わぬ(創世記3章4節)よう、言葉巧みに唆しました。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

(注)別エントリー「試論:『女』とサタンの対立を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10314

(注)別エントリー「『鉄の杖』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16717

(注)別エントリー「試論:『女』と『竜』の対立を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12925

(注)別エントリー「神のお告げ:受胎告知と無原罪の御宿り」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4835

(注)別エントリー「創世記3章15節:蛇の頭を踏み砕く者は誰か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1488

主イエスはヨハネ14章6節で真理を自称され、1章1節は御子を「言(ことば)」つまり《人々の前に御姿を現され御自ら御教えをお話になる神》と記す。18章37節で主は「真理に属する者は皆、わたしの声を聞く」と仰せになった。福音書に収録された実際の主の仰せを軽視する人は主に属していない。

【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。

(注)別エントリー「試論:聖母崇敬の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18956

ただで受けたのだから、ただで与えなさい

主イエスは、汚(けが)れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやす権能を十二使徒にお授けになったが、それを十二使徒は「ただで」、つまり代価なしで、主イエスから受けた。同様に使徒たちも、その権能でいやしを行い成功した場合の代価を、人々から受け取ってはならない、という主の戒めである。

【問】「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」の文言は、現代の信者の心得に応用できますか?
【答】ヨハネ12章6節はユダが「金(かね)入れを預かっていた」と記し、主イエスも献金とか寄付の類を完全に謝絶されていたわけではないようです。この文言は現代の教会事情とは一線を画すべきです。

【問】なぜイスカリオテのユダは主イエスを裏切りましたか?
【答】ヨハネ12章6節は彼が献金泥棒的な行為をしていたと記しています。「茨の中に落ちた種とは、富の誘惑その他の欲望が心に入り込み御言葉を覆い塞いで実らないこと」。財布のごまかしに象徴される面従腹背が、彼を破滅へと導きました。

主イエスはマタイ10章で十二人をお選びになり、「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いを癒す権能」を授けられた。マルコ3章14節は「十二人」選抜の目的を御自分の傍に置くためと記す。その一人は泥棒(ヨハネ12章6節)となり、銀貨三十枚(マタイ26章15節)で、自分の師を売り渡した。

(注)別エントリー「試論:『預言や奇跡よりも』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16157

主イエスはマタイ7章22節以下で、預言や悪霊を追い出すことや奇跡よりも、悪を行わないことこそが重要で御自分の弟子である証明だと教えられた。イスカリオテのユダは汚れた霊を追い出す権能と病気を癒す力を使徒として与えられたが(マタイ10章)、献金を盗んでいたためサタンが彼の中に入った。

(注)別エントリー「試論:『献金泥棒』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11983

使徒言行録3章でペトロは足の不自由な男性に、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう」と言って男性を癒した。主イエスはマタイ10章1節で十二使徒にあらゆる病気や患いを癒す権能を与えられ、その上で「わたしから無償で授けられたのだから、無償で与えなさい」とお命じになった。

主イエスはマタイ10章で十二人を派遣される際、汚れた霊に対する権能に関し「ただで受けたのだからただで与えなさい」と仰せになり、取引の材料にしてはいけないと念を押された。使徒言行録8章で、魔術師シモンがこの権能を金(かね)で買おうとした際、ペトロは主の仰せを踏まえてシモンを叱った。

試論:御子を捜す両親の心情を140文字以内で

【問】十二歳の御子イエスを見失った両親の心情はどんなものでしたか?
【答】ルカ2章48節は「心配して」(新共同訳)と記しますが、原文のギリシア語は古代のギリシア語訳イザヤ53章4節にも用いられ、同節の「痛み」「苦しんでいる」(新共同訳)など精神的な苦痛というニュアンスを意味します。

【追記】

【問】御子を捜す両親は激しい精神的苦痛に苛まれていた?
【答】それこそが「なぜこんなことをしたのですか?」とマリアが御子イエスに質問せずにはいられなかった理由です。同じ語は古代ギリシア語訳ゼカリヤ12章10節「初子の死を悲しむように悲しむ」(新共同訳)の「悲しむ」に対応しています。

【問】イザヤ53章4節もゼカリヤ12章10節も救い主の死を啓示する箇所ではないの?
【答】たとえ普通の一人の母親だったとしても、一人息子を失うことは尋常ではない衝撃ですが、いかに受胎告知の時から多くの苦難に遭遇する覚悟ができていたとはいえ実際それが起こった時の動揺はまた話が別です。

十二歳のイエスを見失って必死に捜すマリアとヨセフの心情は、ギリシア語本文では動詞「オデュナオー」で表現され、新共同訳はルカ2章48節で「心配して」と訳す。同じ語は使徒言行録20章38節で「非常に悲しんだ」ルカ16章25節で「もだえ苦しむ」と訳され、大きな苦痛を伴う悲しみを表わす。

(注)別エントリー「試論:『イエスの両親』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives10267

【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。

(注)別エントリー「試論:聖母崇敬の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18956

聖母マリアは「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)となられた方でありながら「わたしは主のはしため」(38節)と自称されるほど謙遜そのものの生涯であり、ただの一度も主イエスの前で出しゃばることがなかったゆえに「へりくだる者は高められる」(ルカ14章11節)の通りに崇敬を集めた。

(注)別エントリー「試論:『救い主の母であること』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7510

【問】主イエスが十二歳の時、主を見失った後、エルサレム神殿の境内で主を発見した時、聖母は主をとがめたのではないですか?
【答】いいえ。聖母は御子をとがめたわけでも責めたわけでも非難されたわけでもなく、ただ最愛の御子が自分に一言もなく姿を消した理由を知りたかった、ただそれだけでした。

【問】マリアとヨセフがイエスを神の子として心・精神・思い・力を尽くし愛していたなら、なぜ二人は十二歳のイエスを見失いましたか?
【答】普段のイエスは人として両親に従順(ルカ2章51節)で手のかからない子でしたが、この時の神殿での行動は人間には予想外の、神としての行動だったからです。

(注)別エントリー「試論:神であり人であるキリストを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6725

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

試論:「永遠」どれほどの価値かを140文字以内で

主はマタイ13章45節以下で、「天の国」を全財産と引き換えにしてでも手に入れるべき真珠にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「天の国」は「永遠の命」と同義だが、「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

【追記】

主イエスはルカ12章15節で、どのような種類の貪欲に対しても十分に目を光らせ、心を奪われてはならないと警告された。同16章13節「あなたたちは、神と富のどちらか一方にしか仕えることができない」マタイ13章22節「茨の間に落ちた種とは、御言葉を聞いても世の思い煩いや富の誘惑が〜」。

(注)別エントリー「試論:『あらゆる貪欲に対して』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18049

御子イエスを両親が見失った理由

【問】マリアとヨセフがイエスを神の子として心・精神・思い・力を尽くし愛していたなら、なぜ二人は十二歳のイエスを見失いましたか?
【答】普段のイエスは人として両親に従順(ルカ2章51節)で手のかからない子でしたが、この時の神殿での行動は人間には予想外の、神としての行動だったからです。

(注)別エントリー「試論:神であり人であるキリストを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6725

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

十二歳のイエスを見失って必死に捜すマリアとヨセフの心情は、ギリシア語本文では動詞「オデュナオー」で表現され、新共同訳はルカ2章48節で「心配して」と訳す。同じ語は使徒言行録20章38節で「非常に悲しんだ」ルカ16章25節で「もだえ苦しむ」と訳され、大きな苦痛を伴う悲しみを表わす。

(注)別エントリー「試論:『イエスの両親』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives10267

【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。

(注)別エントリー「試論:聖母崇敬の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18956

主イエスが十二歳の年の過越祭の折、帰路イエスを見失ったと気づいたマリアとヨセフは、三日間捜し回った後とうとう神殿で学者たちと討論されている少年イエスを見つけた。成人後のイエスの公生活の際に自分はいない方がよいとヨセフは予感していたが自分の人生に間違いはなかったと、この時、悟った。

(注)別エントリー「試論:『三人家族の三番目』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14869

(注)別エントリー「予備的考察:聖母崇敬そして聖ヨセフ崇敬の起源とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1750

(注)別エントリー「聖家族はどのような雰囲気の中で暮らしていたのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5246

聖母マリアは「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)となられた方でありながら「わたしは主のはしため」(38節)と自称されるほど謙遜そのものの生涯であり、ただの一度も主イエスの前で出しゃばることがなかったゆえに「へりくだる者は高められる」(ルカ14章11節)の通りに崇敬を集めた。

(注)別エントリー「試論:『救い主の母であること』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7510

【問】主イエスが十二歳の時、主を見失った後、エルサレム神殿の境内で主を発見した時、聖母は主をとがめたのではないですか?
【答】いいえ。聖母は御子をとがめたわけでも責めたわけでも非難されたわけでもなく、ただ最愛の御子が自分に一言もなく姿を消した理由を知りたかった、ただそれだけでした。

【問】なぜ受胎告知の際にマリアは、承諾の返答よりも先に「わたしは主のはしため」と再確認しましたか?
【答】マリアはそう前置きすることで、「わたしは神の御独り子の母となることを承諾しますが、決して『神のようになること』(創世記3章5節)を望むからではありません」と意思表示をしました。

「救い主」が世を救われる方法に関しイザヤは、「小羊」(53章7節)つまり代価として御自分をささげ、「しもべ」(42章、49章以下等)として人々に仕えると預言し、主もマタイ20章28節でそれを宣言された。救い主の母となることを承諾した女性が「主のはしため」を称するのは象徴的である。

(注)別エントリー「試論:『しもべ』と『はしため』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9785

【問】マリアは「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)と呼ばれる女性なのに、なぜ「主のはしため」と謙遜したのですか?
【答】もしも彼女が「自分は救い主の母だから息子と同じ扱いを受けたい」と思い上がったなら、神のようになりたいと思ってサタンにだまされた、エバの二の舞になるからです。

試論:錯覚「ピラミッドと砂漠」を140文字以内で

【問】なぜ古代エジプトでは砂漠の真ん中にピラミッドを建てたのでしょうか?
【答】ピラミッドが建設された時代の古代エジプトは、20世紀以降急速な砂漠化が進行した現代の姿とは異なり、むしろ旧約聖書が記す通り水と緑が豊富な湿地帯で、世界中の食糧を賄える程の豊穣ぶりで名高い穀倉地帯でした。

【追記】

創世記13章10節は水の豊富な土地の例に「主の園」とエジプトを挙げ、創世記と出エジプト記も古代のエジプトが水と緑に恵まれた肥沃な土地だと随所で示唆する。モーセの一行がファラオの追撃を逃れて辿り着いた「荒れ野」はエジプト人が領有する価値なしと判断するほど水や緑がないも同然であった。

創世記13章10節は水の豊富な土地の例として「主の園」とエジプトを挙げ、同41章では七年の大豊作がエジプトで続いた後に世界規模の飢饉が到来した際、各国から人々がエジプトに食糧を求めに来た。出エジプト記2章では葦の茂みが言及され、同8章1節では河川・水路・池などの水資源が登場する。

民数記11章は「エジプトでは魚がただ」と民の不満の声を記す。古代エジプトは砂漠化が進んだ現代の姿と異なり、「主の園」と比較されるほど、「よく潤っていた」(創世記13章10節)。出エジプト8章も「河川、水路、池の上」と記しヘロドトスの記述同様、古代エジプトが肥沃な地だったと物語る。

主イエスが選ばれた十二使徒の中には、漁師が四人もいたが、エレミヤ16章16節には福音書に対応する預言があるものの聖書全体では漁師に関する記述が驚くほど乏しい。民数記11章5節は「エジプトでは魚がただ」と民の嘆きを記し、一般人でも河川や水路や池から獲り放題だったことを意味している。

試論:「主イエスの御心と子供」を140文字以内で

【問】マタイ7章12節の「他の人からしてもらいたいことならなんでも、あなたから他の人にしなさい」は、子供に対して教える類の話では?
【答】これを主イエスは《律法》と呼ばれ、同18章3節では「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」と教えられました。

【追記】

【問】マタイ7章12節の教えに、神なる主が旧約聖書全体で人々にお伝えになりなかった事柄が要約されるということですか?
【答】それこそが、主イエスがマタイ5章17節で仰せになった「完成」です。その教えは、幼児でも暗記できるほど簡潔なので、巻物や石板も不要です(エレミヤ31章33節)。

一ヨハネ5章3節は「神の掟は荷が重くない」と記し、主イエスはマタイ11章30節で「わたしの荷は軽い」と仰せになった。「わたしの荷」すなわち《キリストの律法》(マタイ7章12節:他人からしてもらいたいと思うことを全て他人にしなさい)は、モーセの律法に比べると驚くほど単純だが奥深い。

(注)別エントリー「試論:『愛の掟は荷が重くない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13558

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

【問】なぜ、「キリストの律法」(マタイ7章12節)を世に広く伝える必要がありますか?
【答】人間は自分自身の尊厳が傷付けられたと思い込んだ時、ならば今度は自分が相手の尊厳を傷付けても問題ないはずだという恐ろしい考えが心に生じて来ます。それを予防するためにキリストの律法は不可欠です。

(注)別エントリー「《キリストの律法》(マタイ7章12節)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18013

試論:「憩いをお与えになる主」を140文字以内で

主はマタイ11章28節で「わたしの許へ来なさい。休ませてあげよう」と仰せになったが、ここで主は、御自分が詩編23編2節等で言及される「憩いをお与えになる主」に他ならないとほのめかされた。様々な事柄への執心で自縄自縛に陥っている人々の心に、主の清い御言葉は気分一新を促すからである。

【追記】

ダビデは詩編38編5(4)節で、自分の過去の罪悪を「重荷」と呼び、以前の過失の記憶が神の御前で良心を責めると歌う。主イエスはマタイ11章28節で「重荷を負い疲れた人はわたしの許へ来なさい。休ませよう」と仰せられ、「自分は悪くない」と開き直る人以外は救いの対象である旨を宣言された。

主はマタイ11章28節で「疲れた者はわたしの許へ来なさい」と仰せになったが、9章36節の「群衆が飼い主のない羊のように弱り果て打ちひしがれている」を踏まえれば、この「疲れ」は、神に救いを求める人(詩編69編2節)が「叫び続けて疲れ」(4節)の疲れをまず指しているということになる。

試論:「休ませてあげよう」??を140文字以内で

イザヤ28章16節には「シオンの隅の親石」の預言があるが、12節前後では、神の御言葉は人々に安息をもたらすものなのに、本来の意義を忘れて御言葉を伝える者たちが命令や規則として扱っていると告げる。マタイ11章28節で主イエスは、御自分の御言葉は人々に安息をもたらすと、仰せになった。

【追記】

マタイ11章28節で主は、「疲れた者はだれでもわたしのもとに来なさい」と仰せになったが、「人となられた神」(ヨハネ1章14節)が世に来られた目的とは、人間としての舌および、その仰せになる御言葉(ヨハネ1章1節)をもって、疲れた者を直接間接に、励ます(イザヤ50章4節)ためである。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

一ヨハネ5章3節は「神の掟は荷が重くない」と記し、主イエスはマタイ11章30節で「わたしの荷は軽い」と仰せになった。「わたしの荷」すなわち《キリストの律法》(マタイ7章12節:他人からしてもらいたいと思うことを全て他人にしなさい)は、モーセの律法に比べると驚くほど単純だが奥深い。

(注)別エントリー「試論:『愛の掟は荷が重くない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13558

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

【問】なぜ、「キリストの律法」(マタイ7章12節)を世に広く伝える必要がありますか?
【答】人間は自分自身の尊厳が傷付けられたと思い込んだ時、ならば今度は自分が相手の尊厳を傷付けても問題ないはずだという恐ろしい考えが心に生じて来ます。それを予防するためにキリストの律法は不可欠です。

(注)別エントリー「《キリストの律法》(マタイ7章12節)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18013

キリスト抜きのキリスト教

一コリント3章11節は「既に据えられているイエス・キリストという土台を無視して他の土台を据えることは、誰にもできない」と記す。二テモテ4章3節以下は、やがて人々が「健全な教え」から離れ、自分に都合のいい話だけ聞いて真理(=主イエス)の言葉を無視し、作り話に引かれて行くと警告した。

(注)別エントリー「『健全な教え』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/25427

一ヨハネ4章は信用してはならない人の特徴として、キリスト教を語っているようでいて実は世間に通じる話題ばかりで、主イエスが実際に仰せになった福音書の御言葉を巧妙にまた頑に、事実上無視していることを挙げる。「神の御言葉」として来られた方の実際の仰せに触れない人の言い草など意味がない。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

ヨハネの手紙一は、キリストの弟子を自称する一方で公生活中にキリストが実際に何を語ってどう実行したかについて全く触れようとしない人々を警戒するよう呼び掛け、彼らがキリストの教会を乗っ取りキリストの御教えの代わりに世間のことだけ語り教会からキリストの存在を奪おうとしていると警告した。

ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは「御自分でお話しになる神」の意味で《天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神》主イエスを表す称号であり、直接お話しになった記録が福音書である。福音書を読まないことは主イエス・キリストを理解しようとしないことに等しい。

ヨハネ1章1節の「言(ことば)」、いわゆる「神の御言葉」とは、「御自分で御言葉をお話しになる神」すなわち御子である神、主イエス・キリストを意味する。「言(ことば)は神とともにあった」とは、天地創造以前の初めから、御子である神は御父である神とともに存在しておられたということである。

ヨハネ1章1節は主イエス・キリストを「言(ことば)」と呼び紹介する。これは「天使や預言者を介することなく、御自分で直接人々に御言葉をお話しになる神」を意味し、「イエス・キリストなんか本当は実在しなかった」と言い立てる人々に対しては、主が残された御言葉それ自体がその存在証明となる。

(注)別エントリー「試論:『人間を照らす光』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7227

ヨハネ1章9節「まことの光」という箇所の「まことの」に当たるギリシア語本文の単語は、真理すなわちアレテイアの形容詞アレティノスである。「真理(アレテイア)」という語が特別な意味合いを持つヨハネ福音書においては、「まことの光」という表現は、言い換えれば「真理の光」ということになる。

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

主はマタイ福音書で「わたしが求めるのはあわれみであって犠牲(いけにえ)ではない」(ホセア6章6節)と繰り返されたが同節は「神を知ることであって焼き尽くす献(ささ)げ物ではない」と続く。「神を知る」を一ヨハネ2章3節は「神の掟(愛の掟。ヨハネ15章12節等)を守る」ことと説明する。

(注)別エントリー「試論:『神の御前で安心できる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7564

二テモテ4章でパウロは、人々が「御言葉」(2節)つまり《主が人々の前に御姿をお見せになり直接人々にお話しになった御教え》には耳を傾けなくなり、「自分に都合の良い」(3節)「作り話」(4節)つまり真の御言葉ではない紛い物の方に引かれていくと警告したが、対策は福音書を読む以外にない。

(注)別エントリー「試論:『主イエスを見失うこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5954

全権の委任

主はマタイ11章27節で、全てのことは御父から御自分に任せられていると仰せになった。これは、既にダニエル7章13節以下で啓示された事柄であり、マタイ28章18節やルカ10章22節やヨハネ3章35節や同13章3節等、福音書では事ある毎に強調される「真理(ヨハネ14章6節)」である。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

一ヨハネ2章23節は「御子〔主イエス〕を否定する者は、誰であろうと、御父である神にも結ばれてはいません」と記す。主イエスがヨハネ10章30節で「わたしと御父とは一つ」、同14章6節で「誰であれ、わたしを通らなければ、御父の許にはたどり着けない」と仰せになる以上は、当然の話である。

主はヨハネ13章34節で「互いに愛し合いなさい」と「愛の掟」をお授けになったが、「わたしがあなたがたを愛したように」と付け加えられることによって、御自身を模範(全人類のあるべき姿)としてお示しになった。「言(ことば)」である主が「肉」つまり人間となられた意義の一つがここにあった。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは「御自分でお話しになる神」の意味で《天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神》主イエスを表す称号であり、直接お話しになった記録が福音書である。福音書を読まないことは主イエス・キリストを理解しようとしないことに等しい。

主イエスをヨハネ1章1節は「言(ことば)」つまり《人々の前に御姿を現され御自ら御教えをお話しになる神》と呼ぶ。主イエスに従う人々にとって「神の御言葉」とは、まず何より主イエス御自身の仰せである。聖書やキリスト教について話題にしても肝心の主イエスの御教えを避ける人々は眉唾物である。

一ヨハネ4章は、信者を自称しながら世間の事柄ばかり話題にして主イエスの福音の中身に関して頑に触れようとせず沈黙する人々を、「偽預言者」「反キリストの霊」などと呼ぶ。2章19節は「彼らはわたしたちから去って行った」「元々仲間ではなかった」「仲間ならとどまっていた」とその末路を記す。

主はヨハネ14章23節で、「わたしのことを愛している者なら、わたしの言葉を守るであろう。わたしの父はその人を愛され、父とわたしはその人のところへ行って一緒に住む」と教えられた。福音書の中の主の御言葉を気にも留めようとしないなら、本当は主を愛してなどいないと見なされても仕方がない。

(注)別エントリー「試論:『主の御言葉の権威』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9025

主イエスはヨハネ10章30節「わたしと御父とは一つ」38節「わたしは御父の内にあり御父はわたしの内におられる」と教えられ14章でも繰り返され(10節、11節、21節)16章15節「御父の持っているものは全てわたしの持っているもの」で、御父と御自分との間に差異はないと仰せになった。

ヨハネ14章8節のフィリポの言葉「主よ、わたしたちに御父をお示しください」に対しコロサイ1章15節では「御子は、見えない神の姿」と表現した。「見えない神」とは御父であり「姿」とは《生き写し》というニュアンスをも含んでいる。ヘブライ1章3節は「神の本性の完全な具現」などと表現した。

主はヨハネ10章30節で「わたしと父とは一つ」と仰せになった後、17章では弟子たちのために天を仰いで祈られたが、それは御父と御自分が「一つ」であるように、弟子たちもまた「一つ」となるためであった(11節、21節〜23節)。使徒言行録4章32節「信じた人々の群れは心も思いも一つ」。

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

ニケア・コンスタンチノープル信条「父と一体」はヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」と38節に拠り、御父と御子の間には矛盾・対立・齟齬の類は一切ないことを表す。ギリシア神話では最高神ゼウスと父クロノス、クロノスと父ウーラノスの父子相剋が存在するが、キリスト教には全く存在しない。

《御父である神、主》と《御子である神、主イエス》とは、詩編110編1節では御父は「主」、御子は「わが主」でありマルコ12章36節で御父は「主」、御子はダビデの言う「わたしの主」である。ヨハネ1章1節では御父は「神」、御子は「言(ことば)」であり、「言は神であった」と記されている。

《御父である神、主》と《御子である神、主イエス》とは、詩編110編1節では御父は「主」、御子は「わが主」でありマタイ22章44節も御父は「主」、御子はダビデの言う「わたしの主」である。ルカ1章43節でエリサベトは詩編110編1節を踏まえ、マリアを「わたしの主のお母さま」と呼んだ。

(注)別エントリー「マリアを『神の母』と呼ぶ聖書的根拠」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4492

(注)別エントリー「試論:『神の母であること』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6079

(注)別エントリー「試論:『救い主の母であること』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7510

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは道」と仰せになり、「わたしを通らなければ、誰であれ御父には到達できない」と続けられた。パウロはエフェソ2章14節でユダヤ人と異邦人をこの点において隔てる壁はないと記し、ローマ10章12節でも「ユダヤ人とギリシア人の区別はない」と明言している。

主イエスの御前でユダヤ人と異邦人の「区別」が存在しないことはエフェソ2章14節以下、使徒言行録15章9節「わたしたちと彼らの間に何の差別もなさいません」、ローマ3章29節「神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもあります」、一コリント12章13節、ガラテヤ3章28節以下等。

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは道」と仰せになり、「わたしを通らなければ、誰であれ御父には到達できない」と続けられ、また御昇天前にマタイ28章19節で「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じられた。パウロもローマ10章12節で「ユダヤ人とギリシア人の区別はない」と説く。

主が「わたしは道」(ヨハネ14章6節)と仰せになる場合、自身が御父へ通じる唯一無二の存在であると示唆するだけではなく、日本語の「人としての道から外れる」と同様に、誰もがそこを通って進んで行くべき人間としての道筋つまり御父である神の御前における模範(同13章15節)の意味をも含む。

試論:マタイ11章30節の意味を140文字以内で

一ヨハネ5章3節は「神の掟は荷が重くない」と記し、主イエスはマタイ11章30節で「わたしの荷は軽い」と仰せになった。「わたしの荷」すなわち《キリストの律法》(マタイ7章12節:他人からしてもらいたいと思うことを全て他人にしなさい)は、モーセの律法に比べると驚くほど単純だが奥深い。

(注)別エントリー「試論:『愛の掟は荷が重くない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13558

【追記】

【問】キリスト教の言う「隣人愛」って、何ですか?
【答】聖書の多くの箇所が隣人愛を語りますが、実践する場合の基礎となるのはマタイ7章12節「あなたが他の人からしてもらいたいことならなんでも、あなたの方から他の人にしなさい」で、《キリストの律法》(ガラテヤ6章2節)と呼ばれています。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

重荷を負う者は、わたしの許へ来なさい

マタイ11章28節「重荷を負う者は、わたしの許へ来なさい」詩編38編5(4)節「わたしの罪悪は耐え難い重荷」マタイ9章13節「正しい人を招くためではなく罪人を招くために、わたしは来た」ホセア6章1節〜2節「わたしたちは主の許に帰ろう。主はわたしたちをいやされ、傷を包んで下さる」。

(注)別エントリー「試論:『いけにえ』と憐れみを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8356

【問】神は人間の不幸を望んでおられますか?
【答】いいえ、断じて望んでおられません。間違った終末思想に陥り始めると「望んでおられる」などと錯覚するのでしょうが、神なる主はエゼキエル18章で「あなたたちは〔わたしに〕立ち帰って、生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」と仰せになっています。

キリスト教の歴史上「救われる者と救われない者とは神に予め定められている」という主張が存在したが、ならば神はなぜエゼキエル18章32節で「お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」と仰せになったのだろうか。二コリント5章14節「キリストは全ての人のために亡くなられた」。

(注)別エントリー「試論:救われる者は少ないか??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18576

ヨハネ9章31節には「神は罪人の言うことなどお聞きにならないとわたしたちは承知している」という言葉が記されてはいる。罪人が良からぬ企みを実行する前に成功を神に願い求めても、神が聞き入れるわけがないが、罪人が罪人であることを止めて回心したいと神に願う時は、神は喜んで聞き入れられる。

(注)別エントリー「試論:『聞き入れられる願い事』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18477

マタイ9章13節「わたしが来た目的は、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」ホセア6章1節〜2節「さあ、わたしたちは主の御許に帰ろう。主はわたしたちの傷を覆ってくださり、いやしてくださる。主はわたしたちを立ち上がらせ命を与えてくださる。わたしたちは主の御前で生きる」。

主がマタイ9章13節で「わたしが求めるのは憐れみであり『いけにえ』ではない」とホセア6章6節に言及されてファリサイ派の人々に学ばせたかった「意味」という事柄の答えは、ホセア6章3節「主は曙の光のように必ず現われて、春に降り注ぎ大地を潤す雨のようにわたしたちを訪れて下さる」である。

今、あなたの神、主があなたに求めておられることとは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてその全ての導きに従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸せになることではないか。(申命記10章12節〜13節)

ミカ6章8節「何が善であって、主が何をあなたたちに求めておられるかは、あなたたちには既に告げられている。それは神の義を行い、憐れみの業を愛し、へりくだり神と共に歩むこと」ホセア6章6節「わたしが求めるものは『いけにえ』ではなく憐れみであり、焼き尽くす献げ物ではなく神を知ること」。

(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6748

試論:「柔和で謙遜」を140文字以内で

【問】主イエスがマタイ11章29節で「柔和で謙遜」を自称された理由は?
【答】モーセは民数記12章で姉ミリアムや兄アロンから難癖を付けられましたが恨みを抱かず、神なる主がミリアムを罰するとモーセは姉のために赦しを願いました。主イエスは、自分もモーセのような心持ちだと宣言されました。

【追記】

【問】主イエスはどんな難癖でもお赦しになるの?
【答】それは違います。主イエスは、御自分の人間的側面への難癖(ガリラヤ人、大工、「大食漢で大酒飲み、徴税人や罪人の仲間」)には看過されますが、聖霊によって悪霊を追い出したことを「ベルゼブルによって」呼ばわりすることには容赦されません。

古代のギリシア語訳民数記の12章3節ではモーセを「柔和な人」の代表例とする。自分に難癖をつけてきて神に罰せられた(レビ19章17節参照)姉ミリアムに対して、モーセは全く姉の不幸を喜ぶことなく(箴言17章5節参照)、逆に姉のために神なる主に執り成し、赦しを請い願った人だからである。

(注)別エントリー「民数記12章3節:モーセの人となり」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5051

試論:マタイ10章7節を140文字以内で

【問】「天の国は近づいた」? どういうこと?
【答】マルコ1章15節は「神の国は近づいた」と表現し、ルカ11章20節は「わたしが神の指で悪霊を追い出しているとすれば、神の国は既に、あなたたちのところに来ている」と記します。「天の国(神の国)」とは主の御旨が行われる場所(状態)です。

(注)別エントリー「試論:『神の指』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15224

【追記】

主イエスは「ベルゼブル論争」の際、マタイ12章28節では神の霊すなわち聖霊によって悪霊を追い出したと仰せになったが、ルカ11章20節では「神の指によって」と表現されている。「神の指」とは神の御力や御業を表す(出エジプト8章15節、同31章18節、申命記9章10節、詩編8編4節)。

主イエスはルカ17章20節で「神の国は見える形では来ない」同11章20節で「わたしが『神の指(=聖霊)』で悪霊を追い出しているのだとしたら、神の国は既に来ている」と教えられた。マタイ6章10節の通り、神の御旨が天に行われている通り人間の世でも行われている状態が神の国の到来である。

【問】『主の祈り』では御父の御旨が行われるようにと唱え、御子イエスの御旨ではありません。
【答】主イエスはヨハネ17章22節で御父と御自分が「一つ」であると宣言され、何が「一つ」かを使徒言行録4章32節は「心も思いも」と記します。御父の御旨と御子イエスの御旨は完全に一致しています。

マタイ5章6節「義に飢え渇く」の「義」とは

【問】山上の説教の「義に飢え渇く人は幸い」の「義」とは何?
【答】サムエル上24章18節「お前はわたしよりも義の人だ。わたしはお前に悪意を示したのにお前はわたしに善意を示してくれた」からも分かる通り、古代のヘブライ人の「〔神の〕義」とは現代の日本語でいえば《善意》を意味しています。

【問】「ヨセフは義人だったので婚約者のことを大っぴらにはせずひそかに離縁しようとした」の意味は?
【答】古代のヘブライ人の「義」は《善意》を指し、彼は「善意の人」であり「お前は俺のメンツを潰したのだから、お前もお前の子も地獄に堕ちろ」などと喚いて大騒ぎしたりは決してしませんでした。

(注)別エントリー「婚約者の妊娠を知った時のヨセフの心情」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3092

マタイ1章20節の本文は、婚約者の妊娠を知ったヨセフの心情をエントゥメオマイと表現する。通常この語は熟考・熟慮を表し内面の怒りや憤慨を表す可能性も含むが、ヘロデの激昂を表す2章の語トゥモオーと違い、あくまでも本人の内面に留まるもので婚約者に感情を直接ぶつけた可能性は否定的である。

(注)別エントリー「福音書の聖ヨセフと外典書の高齢者ヨセフ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4759

マタイ1章19節は、婚約者の妊娠がヨセフにとって一目瞭然で疑いようのない事実だった一方、ヨセフにとって婚約者の貞潔もまた一目瞭然で疑いようのない事実であり、ヨセフは大混乱の中にあったがそれでも「婚約者が裏切った証拠は全くなく、彼女を告発するわけにはいかない」と決意したことを記す。

レビ5章1節は、ある人が罪を犯したことは確実という証拠を持っていながら、その人のことを表ざたにしないなら、表ざたにしない者も罰を受けると記す。もしも婚約者が自分を裏切ったという確証を持っていながら、それでもヨセフが婚約者のことを表ざたにしなかったなら、ヨセフは義人ではあり得ない。

イエスの養父ヨセフはマタイ1章19節では「正しい人」を意味するディカイオスというギリシア語で表現されるが、25章46節にも同じギリシア語が登場し「正しい人は永遠の命にあずかる」と書かれており、25章35節から36節には「正しい人」の行動の具体的な例がいくつか実際に紹介されている。

詩編15編3節は、神なる主と同じ住まいで暮らす人の条件として、周囲に対して中傷をせず、害を及ぼさず、小馬鹿にした態度を取らないことを挙げ、また2節では完全(=無垢)で、義を行うことを挙げる。主イエスの同居家族として、ヨセフが幼子や幼子の母を困らせる行動に出た可能性は皆無と言える。

【問】カトリックではマリアとヨセフの清い関係を説きますが、そんなことありえますか?
【答】『寅さんとイエス』という本がありますが、マドンナとの距離感という点で寅さんとヨセフを比較します。両者はマドンナのために無類のお人好しともいえる奔走をしますが、彼女との関係は節度あるものでした。

マタイ福音書のギリシア語本文はヨセフをディカイオス(1章19節)と呼ぶが、ディカイオスは最後の審判で天国の福楽を確約されている人(25章37節)を意味し、ヨセフがもともと天の国にいてもおかしくないほどに無垢な(創世記6章9節)底抜けの大善人で天使のような人であったことを示唆する。

(注)別エントリー「試論:聖ヨセフの模範を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7243

(注)別エントリー「聖母と聖ヨセフが終生童貞である理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4464

試論:マタイ5章20節を140文字以内で

【問】「あなたたちの義が、律法学者やファリサイ派の義に勝らなければ」の「義」って何?
【答】サムエル上24章18節「お前はわたしよりも義の人だ。わたしはお前に悪意を示したのにお前はわたしに善意を示してくれた」からも分かる通り、古代のヘブライ人の「〔神の〕義」とは《善意》のことです。

試論:マタイ5章17節を140文字以内で

【問】「律法や預言者を廃止するためではなく完成するためにわたしは来た」。主は「律法や預言者」つまり旧約聖書全体を、どのように完成させたの?
【答】マタイ7章12節「他の人からしてもらいたいことなら何でも、あなたの方から他の人にしなさい。これこそが律法であり預言者〔の教えである〕」。

【追記】

【問】マタイ7章12節の教えに、神なる主が旧約聖書全体で人々にお伝えになりなかった事柄が要約されるということですか?
【答】それこそが、主イエスがマタイ5章17節で仰せになった「完成」です。その教えは、幼児でも暗記できるほど簡潔なので、巻物や石板も不要です(エレミヤ31章33節)。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「《キリストの律法》(マタイ7章12節)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18013

「たとえ天地が滅びても」???

主はマタイ5章18節で、全てのことが実現して天地が消え失せるまではモーセの律法も消え失せないと仰せになり、ルカ21章22節ではエルサレム滅亡で預言が全て実現すると予告され、紀元七〇年にそれは成就した。詩編78編69節の通りヘブライ人はエルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。

(注)別エントリー「試論:ルカ19章41節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5814

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

主はマタイ5章18節で、全てのことが実現し天地が消え失せるまで律法の時代が続くことを仰せになった。ルカ21章22節では、エルサレム滅亡(20節)の日を「書かれていることが完全に実現する報復の日」と仰せになり、エルサレムと神殿の滅亡(紀元七〇年)で律法の時代が終わると宣言なさった。

ルカ21章22節には「書かれていること」という言い回しが用いられているが、これはヨシュア記1章8節と同様に、「預言された事柄」「神から啓示された内容」などを意味する表現である。古代においては「書く(書いて記録に残しておく)」という行為それ自体が、非常に重要な意味を持つものだった。

古代のヘブライ人は詩編78編69節の通り、エルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。これを踏まえれば、主イエスのルカ21章33節の仰せ「やがて天地は滅びるであろうが、わたしの言葉は決して滅びない」の意味は、「エルサレムと神殿の滅亡後も、わたしの教えと信仰は生き続ける」である。

(注)別エントリー「試論:黙示録の『第八の者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12097

「天地が消え去る」の「天」とは、神がお住まいになる場所と見なされたエルサレム神殿とりわけその聖所を指し、二ペトロ3章はその滅亡が近いことを説く。「地」はエゼキエル7章2節同様、イスラエルの地を指す。紀元七〇年にエルサレムと神殿は滅亡しユダヤ(イスラエル人の国家)も同じく消滅した。

二ペトロ3章10節は「主の日」において「天は激しい音を立てながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に熔解し尽くす」と予告した。数年後の紀元七〇年、神が住まわれると見なされて、「天」と同一視されていたエルサレムの神殿は、都の滅亡の際ローマ帝国軍によって火を放たれ、大音響と共に焼け滅びた。

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

ルカ21章22節において、主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると明言されており、それは紀元七〇年に現実のこととなった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代や近未来の世界情勢に関して旧約聖書の預言から考える行為は、不毛である。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

ダニエル書9章では神殿とエルサレムの復興を強く願うダニエルの祈りに応えて、都と神殿の再建さらには救い主の到来までも約束されたが、救い主が不当に殺された後、モーセの律法を蹂躙する集団が神殿の聖所を占拠し、そして次に来る指導者の民が、都と神殿を無法集団もろとも、滅ぼし尽くして終わる。

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

ルカ17章34節から35節で主は「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」と繰り返されたが、では一体どこに「連れて行かれ」るのかを、ルカ21章24節では「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と御説明された。これは大昔モーセがレビ記26章33節以下で預言していた話と同じである。

紀元七〇年のエルサレム滅亡時にローマ軍へ投降したユダヤ人のうち、使徒言行録22章のパウロのようにローマの市民権を持つ者はローマ法の保護下にあるため留め置かれたが、そうでない者は妻子とともに奴隷とされて売り飛ばされた。こうして、「一人は連れて行かれ、一人は残される」は現実となった。

(注)別エントリー「試論:『滅びを避けるには』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5749

ルカ21章32節で主は「全てのことが起こるまではこの時代は決して滅びない」と仰せになったが、「時代」に当たる原文の単語ゲネアは古代のギリシア語詩編94(95)編10節の「世代」にも用いられ、詩編のこの節ではゲネアを四十年とする。実際この主の仰せからおおよそ四十年後に都は滅亡した。

(注)別エントリー「試論:『今の時代』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5596

(注)別エントリー「試論:『人心荒廃は滅亡の前兆』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6291

「塩に塩気がなくなれば」

主はマタイ5章13節で「塩に塩気がなくなれば」と仰せになり、信者を「塩」、信仰を「塩気」にたとえられたが、ヨハネ15章では同じ事柄を「ぶどうの木」にたとえられて、「わたしにつながっていなさい」(4節)「わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっている」(10節)とお教えになった。

(注)別エントリー「試論:ぶどうの木と『実』の特徴を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9958

マタイ5章13節で主は信者たちを「地の塩」とお呼びになり信仰を「塩気」にたとえられたが、理由は当然マタイ28章19節以下にある通りに全世界が信者たちによって「塩気」で味付けされねばならぬからである。マルコ9章50節では「塩」と「平和」を関連付け、ヨハネ13章35節を既に予告する。

(注)別エントリー「試論:『世の光』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5388

レビ2章13節は「穀物の献げ物には全て塩をかけよ。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな」と命じる。モーセの律法の民にとって「塩で味付けをする行為」は神への信仰心を象徴するものであった。主イエスもまた、「塩」を信仰あるいは信仰心の比喩として、御教えを仰せになる際に用いられた。

主はマルコ9章49節で「すべての人は火で塩味を付けられねばならない」と仰せになったが、「火」はマタイ3章11節と同じく「火が金銀を精錬する如く人間を清くする主の仰せ」を指し、「塩味」は信仰を指す。主の仰せが人間を清くすることに関しては、ヨハネ15章3節で主御自身が御説明なさった。

エレミヤ5章14節「わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける。それは火となり、この民を薪として焼き尽くす」同20章9節「主の名を口にすまいと思っても、主の御言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて火のように燃え上がります」同23章29節「わたしの言葉は、火に似ていないか」。

ルカ12章49節「わたしは地上に火を投ずるために来た。既にその火が燃えていることをどんなに願っているか」同24章32節「主が道でお話しされた時や聖書を説明されていた時、われわれの心は燃えていたではないか」エレミヤ23章29節「わたしの言葉は火のようではないか、と主は仰せになる」。

(注)別エントリー「試論:『火も剣も御言葉の比喩』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7812

マタイ3章11節で洗礼者ヨハネは、来るべき方が「聖霊と火」で洗礼をお授けになると教えたが、11節の「火」は12節の「消えることのない火(=『永遠の罰』の象徴)」とは別概念で、詩編105編19節や119編140節にあるように、火が金銀を精錬する如く人間を清くする主の清い仰せを指す。

マタイ3章には来るべき方が「聖霊と火」で洗礼をお授けになるとあるが「火」とは「火が金属を精錬する如く人間を清くする主の清い仰せ」を指し詩編12編7節〜8節、66編10節、105編19節、119編140節、エレミヤ6章29節、ゼカリヤ13章9節、マラキ3章2節〜3節などが関連する。

ルカ12章49節「地上に火を投ずるためにわたしは来た」同3章16節「聖霊と火による洗礼」黙示録11章5節「口から火が出る預言者」エレミヤ5章14節「あなたの口に、わたしの言葉を授ける。それは火となり、この民を薪として焼き尽くす」同23章29節「わたしの言葉は、火に似ていないか」。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19474

主なる神が燃える柴の火の中から御言葉をモーセに語り掛けられたという出来事は、ヘブライ人にとって忘れ難い歴史上の一大事で、洗礼者の「聖霊と火による」に対し、当時のユダヤ人は「火」が何の比喩かを直ちに理解した。しかし異邦人には全く意味不明でマルコ1章8節はこの理由から「火」を省いた。

(注)別エントリー「試論:二種類の『火』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13038

黙示録11章5節「二人に害を加えようとするものがあれば、彼らの口から火が出て、敵を滅ぼすであろう」は、エレミヤ5章14節「わたしは、あなたの口にわたしの言葉を授ける。それは火となり、この民を薪として焼き尽くす」を踏まえており、エレミヤ5章はエルサレムの背信を咎める内容の章である。

(注)別エントリー「試論:黙示録の年代を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5494

試論:殺伐とした現代社会の背景を140文字以内で

【問】なぜ人間社会は色々な意味で進歩を遂げているのに、殺伐とした事件は後を絶たないの?
【答】現代世界の技術の進歩は、かつてないほどの膨大な情報を人間にもたらしましたが、人々は自分自身にとって都合の良い事象だけに取り組むことに専念し、分別を身に付ける心構えと必要性を忘れたからです。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

【追記】

【問】なぜ、「キリストの律法」(マタイ7章12節)を世に広く伝える必要がありますか?
【答】人間は自分自身の尊厳が傷付けられたと思い込んだ時、ならば今度は自分が相手の尊厳を傷付けても問題ないはずだという恐ろしい考えが心に生じて来ます。それを予防するためにキリストの律法は不可欠です。

(注)別エントリー「《キリストの律法》(マタイ7章12節)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18013

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちは、自分が他の人からしてほしいことを、自分から他の人にしなさい」と《愛の掟》を教えられた。従って「愛の反対」は「他の人からしてほしくないことをあえて他の人に行うこと」そして「他の人からしてほしいことをあえて他の人には行わないこと」からなる。

「世の光」

マタイ5章で主は、「あなたがたは世の光」(14節)、「あなたがたの光を、人々の前に輝かせなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(16節)と仰せになり、行いを伴わぬ信仰など役に立たない(ヤコブ2章14節)ことをお話しになった。

【問】主イエスは「わたしは世の光」「あなたたちは世の光」などと仰せになりました。なぜ?
【答】「光」はイザヤ58章6節以下にある通り善意・温情・心配り・憐れみの業等の喩えで、人の心と表情を明るくさせ人々の心を温めます。「光」がなくなれば、人々の心と表情は暗くなり、心は冷え込みます。

【問】ヨハネ1章が「言」である神、主イエスを、「光」「まことの光」と呼ぶ理由は?
【答】イザヤ58章9節以下の通り「他人を苦しめたり小馬鹿にしたり罵倒したりすることを止め飢えている人や苦しむ人に配慮する」者を、「あなたの光は闇の中に輝き出て、闇も真昼になる」と喜ばれる神だからです。

【問】福音書には主イエスが「笑った」という記述がない、という議論があるそうです。
【答】イザヤ58章10節は隣人への温情を「光」に喩えます。理由は相手の心や顔を明るくするからです。主はヨハネ8章で「わたしは世の光」と宣言されましたが、これはいつも仏頂面の人が語る言葉ではありません。

【問】イザヤ58章6節以下では、困窮している人々に対する心配り・善意・温情・憐れみの心が「光」に喩えられていますが、なぜ?
【答】それらが相手の表情と心とを明るくさせ、また、それらが相手の心を、光が熱を与えるように温かくさせるからです。マタイ5章16節「あなたの光を輝かせなさい」。

【問】詩編4編7(6)節の「御顔の光」って、何の比喩?
【答】「わたしたちに御顔の光を向けて下さい」と、次節の「喜びをわたしの心にお与え下さい」とは、同じ事柄です。つまり、「主の御顔の光」とは、「主の輝くような笑顔」「主の喜び(主によって与えられる喜び)」「主の好意」等の比喩です。

主はマタイ5章14節で「あなたがたは世の光」ヨハネ8章12節で「わたしは世の光」「わたしに従う者は暗闇の中を歩まず命の光を持つ」と仰せになった。同1章4節は「御言葉のうちに命があり、命は人間を照らす光」と記す。イザヤ58章6節以下では隣人に心を配り助けを惜しまない人に、光が伴う。

(注)別エントリー「試論:イザヤ58章『真の断食』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14709

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『わたしは命である』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11586

(注)別エントリー「試論:『霊魂を注ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13590

福音書は、神からの賜物である御言葉を光にたとえ(ヨハネ1章4節)、またタラントンにたとえ(マタイ25章)、主イエスは御言葉を受けた人々を世の光と呼ばれた。穴を掘り一タラントンを埋めるしもべが主人の怒りを買った理由は、それにより御言葉が世に対して光り輝く機会を完全に奪うからである。

ヨハネ1章4節は「言(ことば)の内に命があり、命は人間を照らす光」と記す。これはヨブ33章27節以下「わたしは罪を犯し正義を曲げたが、すべきでなかった。神はわたしの魂を滅びから救われ、命を得てわたしは光を仰ぐ」を踏まえており、主が御言葉で人間の魂を滅びから救われることを宣言する。

詩編119編105節に「〔主よ〕あなたのことばはわたしの道の光」とあるが、「ことば」は神の御教えを指すのと同時に、ヨハネ1章1節では人々に御姿をお見せになり御教えを直にお話しになる主イエスの称号でもあり、主は御自分を同14章6節で「道」、同8章12節で「世の光」だと表現なさった。

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

(注)別エントリー「試論:ヨハネ14章6節の『道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9342

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

ヨハネ1章は主イエス・キリストを「言(ことば)」「命」「人間を照らす光」等と象徴的に表現したが、その光は人々が心に秘めた悪意(レビ19章17節)を、容赦なく明るみに出す(マタイ9章4節、同12章25節)。神は罰するべき者は罰せられた(出エジプト記34章7節、民数記12章10節)。

(注)別エントリー「民数記12章3節:モーセの人となり」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5051

(注)別エントリー「レビ記19章17節:理由のない悪意」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4826

ヤコブ2章17節「行いを伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」はマタイ7章26節の主イエス・キリストの御言葉「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」とは内容的には同じであり、いわゆる「信仰義認」の適不適を考える上では良い基準となる。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

【問】主イエスはなぜマタイ5章15節で、ともし火を見えない場所に置く者はいない、と仰せになられましたか?
【答】箴言6章23節は主からの御教えをともし火に喩えます。つまり主の御教えを受けたら直ちに実行しなさいの意味です。御言葉を聞いても実行しないのは砂の上に家を建てるのと同じです。

【問】主の御言葉を聞いても実行しないことを見えない場所にともし火を置くことに喩えたのですか?
【答】主は御言葉を聞いても実行しないことを、砂の上に家を建てること、見えない場所にともし火を置くこと、主人から預かったタラントンやムナを隠してしまうことなどに喩えられ、強く戒められました。

一人の律法学者は自分を「義化」(ルカ10章29節)しようとして(「義人」(マタイ1章19節)とするために)、隣人愛(ルカ10章27節)に関して、主に、踏み込んだ質問を行なった。主は、憐れみの心(33節)と「神の義」と隣人愛と永遠の命(25節)は事実上重なっているとお教えになった。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

主イエスはヨハネ6章40節で「御父の御心は、御子(=主イエス御自身)を見て信じる者が皆、永遠の命を得ること」だと説かれた。ルカ10章25節で一人の律法学者が「永遠の命を受け継ぐにはどうすれば〜」と質問したことから、主イエスは「善きサマリア人」の話で憐れみの心の重要性を教えられた。

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4544

イザヤ58章10節は「心を配る」と日本語で表現されるが、ヘブライ語本文は「霊魂を注ぐ」と表現する。ルカ11章41節「器の中にあるものを施せ」はこれに基づく。「器」は人間の比喩、「器の中にあるもの」は霊魂で、主の真意は「揚げ足取りをやめて、隣人に配慮することを学びなさい」であった。

(注)別エントリー「試論:『土の器』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6902

(注)別エントリー「『土の器』(つちのうつは)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14324

マタイ5章7節「憐れみ」

【問】マタイ5章7節「憐れみ深い人は幸い。その人は、神からの憐れみを受ける」。なぜ?
【答】箴言19章17節「困窮する人々に救いの手を差し延べ憐れみの業を行う人は、主に対して貸しを作っていることと同じであり必ず報われる」ルカ6章38節「あなたたちは、自分の量る秤で量り与えられる」。

ルカ19章8節でザアカイは主に「わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また何かを誰かからだまし取っていたなら四倍にして返します」と約束した。マタイ5章7節の「憐れみ深い人は幸いである。その人は憐れみを受ける」という御言葉の通り、主は「今日この家に救いが訪れた」と宣言なさった。

マタイ5章7節「憐れみ深い人は幸いである。その人は神からの憐れみを受ける」は、箴言11章17節の前半「憐れみ深い人は、その善行によって、自分自身の霊魂にも良いものをもたらす」の答えである。ちなみに、箴言の同じ節の後半は「憐れみのない人は、その行いが回り回って、自分自身が苦しむ」。

マタイ22章14節の「選ばれる人」とは、神からの招きに忠実に応じて「神の掟を守り通す人」(黙示録12章17節)である。隣人に対して憐れみ深い人は自分も神の憐れみを受ける(マタイ5章7節)。一人一人が隣人に対して取るのと同じ態度を、神も一人一人に対して返される(ルカ6章38節等)。

マタイ5章7節「憐れみ深い人は幸いである。その人は憐れみを受ける」はヨハネ13章「わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい」同14章「わたしを愛する人はわたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、御父とわたしはその人のところに行って一緒に住む」等と同じ道理である。

【問】なぜ主はマタイ6章12節で「わたしたちの罪をお赦し下さい。わたしたちも〔他の〕人を赦します」とお教えになりましたか?
【答】「憐れみ深い人は、その人自身が神の憐れみを受けるから幸い」(マタイ5章7節)だからであり、詩編18編26(25)節は主は優しい人に優しいと教えています。

箴言17章5節の後半は「他人の不幸を喜ぶ人は罰を免れない」等と訳される。古代のギリシア語訳はさらに「同情する人は憐れみを受ける」と続け、これはマタイ5章7節と同じ趣旨であり聖書の「憐れみ」とは他人の不幸を喜んだり笑ったり嘲ったり蔑んだりせず、ただ同情を寄せることであると説明する。

試論:「憐れみ」「〔神の〕義」を140文字以内で

【問】福音書を読むと「憐れみ」「〔神の〕義」「〔隣人〕愛」「真理」「永遠の命」など高尚な事柄を求められているように感じます。
【答】それらは一言で「善意」とまとめられますが、実際に主イエスが求めておられることは「他の人からしてもらいたいことなら全てあなたから他の人にしなさい」です。

【追記】

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

試論:「悲しむ人は幸い」なぜ?を140文字以内で

【問】山上の説教の「悲しむ人は幸い。その人は慰めを受ける」は一体、何のことを言っておられるの?
【答】ルカ16章「金持ちとラザロ」の話が、それを説明しています。25節のアブラハムの言葉「ラザロは生きている間は悪いものをもらっていたが、今はここ(アブラハムの直近)で慰められている」。

(注)別エントリー「試論:『アブラハムのふところ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19147

【追記】

【問】「アブラハムのふところ」という場所は現代に生きるわたしたちも死後に行く場所ですか?
【答】いいえ。アダムの時代から主イエスの御復活の時までの義人たちが行く場所です。この義人たちは、主の御復活つまり「復活の体」の創造の際に自分たちも「復活の体」を与えられて、天の国に入りました。

(注)別エントリー「試論:人間の完成形(最終形態)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15868

(注)別エントリー「主の御復活とともに創造された事柄とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15917

主イエスは、ルカ9章の「主の変容」で三人の使徒に、「天上の体」(一コリント15章40節)すなわち死者の復活後の人間の姿(同章35節以下)をお示しになったが、当時三人の使徒は全く理解できなかった。「人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は愛する者たちに準備された」(同2章9節)。

(注)別エントリー「試論:ルカ9章『主の変容』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14938

イザヤ65章17節以下では、「主によって『新しい天・地・エルサレム』が創造される」という驚くべき預言が啓示され、一コリント2章9節でパウロは「見聞きしても理解できず人間の心には思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」とイザヤ64章3節を引用し説明した。

主イエスは福音書で自身の御受難と御復活を随所で暗示されたが、御受難と御復活の間に御自分がどんな働きをなさるかについても、ヨハネ14章2節から3節で予告された。それはイザヤ65章17節以下の「新しい天・地・エルサレムの創造」預言の成就であり、御自身の復活の体の創造で完成の時を見た。

試論:予防薬《キリストの律法》を140文字以内で

【問】なぜ、「キリストの律法」(マタイ7章12節)を世に広く伝える必要がありますか?
【答】人間は自分自身の尊厳が傷付けられたと思い込んだ時、ならば今度は自分が相手の尊厳を傷付けても問題ないはずだという恐ろしい考えが心に生じて来ます。それを予防するためにキリストの律法は不可欠です。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「《キリストの律法》(マタイ7章12節)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18013

試論:旧約聖書から学ぶべき事柄を140文字以内で

【問】主イエスの御教えを学ぶ際に旧約聖書はどんな意味を持ちますか?
【答】御教えを直接お話しになった相手になった人々は旧約聖書を熟知していたので当然主イエスも旧約聖書からさまざまな引用をされました。旧約聖書自体を学ぶために時間を費やすのではなくあくまでも福音書中心で考えるべきです。

【追記】

【問】主イエスが旧約聖書から引用された例は枚挙に暇がないですが、重要な例は何ですか?
【答】ルカ12章49節「わたしが来たのは、地上に火を投ずるため」の「火」は、エレミヤ5章14節を知らなければ理解困難です。同様にマタイ22章「礼服」は、詩編132編9節を知っている必要があります。

【問】詩編132編9節は、旧約時代の祭司について言及しているだけではないの?
【答】一ペトロ2章9節は「あなたたちは王の系統を引く祭司」と記し、キリストを「王」、弟子たちを「祭司」と呼びます。《いけにえではなく憐れみ》の原則に従ってキリストの弟子たちは神に憐れみの業を日々献げます。

【問】山上の説教の「柔和な人は幸い。その人は地を受け継ぐ」は主イエスの「オリジナル」ですか?
【答】マタイ5章のギリシア語本文と内容が同じ表現が古代ギリシア語訳詩編36(37)編11節に存在します。古代のユダヤ人は「柔和な人は地を受け継ぐ」がダビデの詩編の引用だと気付くはずでした。

「柔和な人」と同じ単語を古代のギリシア語訳民数記12章3節は用い、モーセを他の誰よりも「柔和」だったとした。モーセが姉ミリアムと兄アロンに難癖をつけられた際、ミリアムは厳しく主に罰せられたが、モーセは姉のために救いを求めて主に叫び、この時のモーセの態度が「柔和」の代表例とされた。

(注)別エントリー「民数記12章3節:モーセの人となり」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5051

試論:「山上の説教こそが土台」を140文字以内で

【問】創世記から黙示録まで聖書全体を何回も読みました。でもキリスト教がよくわかりません。
【答】一コリント3章11節はイエス・キリスト以外には「土台」はないと記しますが、主イエス御自身はマタイ7章24節以下で、「わたしのこれらの言葉」すなわち山上の説教こそ「土台」であると仰せです。

【追記】

【問】読み方を変える必要がありますか?
【答】キリストの御教えをよく理解するためには当然、主イエスが世におられた際に実際にお話しになった御言葉から最初に学ばなければなりません。福音書の中の主イエスの御言葉こそ基本で、それを飛ばして聖書の他の部分を読んでも、得るものはないと思います。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

試論:マタイ5章3節「貧しい」を140文字以内で

【問】ダビデは自身の詩編で自分自身を「貧しい」と呼びますが、彼は古代イスラエルでも指折りの裕福な王ではありませんか?
【答】古代のヘブライ人は、主の救いを切実に求める人の心の状態を、その人の貧富とは関係なく「貧しい」と表現しました。マタイ5章3節「心の貧しい人」も同じ意味合いです。

【追記】

ダビデの詩編では神からの救いを切望する人の内面を「貧しい」と表現するが、特に詩編34編では7(6)節のように「救い」と「(内面の)貧しさ」が表裏一体として述べられている。たとえイスラエルの王であろうとも全能の神なる主の御前では無一物に等しいという自覚が、この表現の背景に存在する。

ダビデは自分の詩編で、神の救いを切望する自分の内面を「貧しい」と表現したが、《イスラエルの王だとしても、神の御前では自分は無一物に等しい》という自覚の故だった。「神の箱」の帰還に喜び踊りミカルから「からっぽ」呼ばわりされても、ダビデは自分が「からっぽ」であることを否定しなかった。

(注)別エントリー「ルカ福音書の聖母とサムエル記下の神の櫃」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1544

生涯の大半、ダビデ王は貧困とは無縁に見えたが、詩編で神の救いを切望(40編14節、70編2節)する際、自身の内面を「貧しい」と表現した(40編18節、70編6節)。ダビデの詩編を踏まえればマタイ5章3節に登場する「心の貧しい人」とは実際には、神の救いを切望している人のことである。

マタイ5章3節の日本語は概ね、「心の貧しい人」と訳されるが、「心の」と訳されたギリシア語本文の表現はマルコ2章6節では「心の中で」となる。マタイ5章3節を「心の中で貧しい人」と捉えるならそれは、詩編の中で自分の内面を「貧しい」と呼び神の救いを切望するのと同じ心情の人のことである。

主イエスが一番お望みになっていること

【問】主イエスが人々に一番お望みになっている事柄は何ですか?
【答】マタイ7章12節「他の人からしてもらいたいことならばなんでも、あなたから他の人にしなさい」。人間は自分が他者から尊重されていないと感じた時、思いもよらぬ攻撃性を発揮しますが、主イエスのお望みは別のところにあります。

【問】マタイ7章12節「他の人からしてもらいたいことを全てあなたから他の人にしなさい」。なぜ、この教えが《キリストの律法》と呼ばれますか?
【答】この教えにイエス・キリストの御旨と新旧約聖書の全ての教えの本質が凝縮されているからで、この教えへの忠実こそが人間を永遠の命へと導きます。

(注)別エントリー「《キリストの律法》(マタイ7章12節)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18013

【問】「キリストの律法」とは何ですか?
【答】マタイ7章12節「あなたが他の人からしてもらいたいことならなんでも、あなたから他の人にしなさい。これこそ律法〔であり預言者の教え〕」のことで御教えの基礎となる事柄であり、これが欠乏すると、人々は互いに隣人を侮り始め、世情は殺伐とします。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

古代のヘブライ人にとって「平和」はあらゆる幸福の総称であり、「あなたに平和」はヘブライ人の挨拶の決まり文句だった。ルカ10章5節「この家に平和があるように」は、より長い形の挨拶(サムエル上25章6節)である。ヘブライ人は「平和に属する者」を言い表したい時に「平和の子」と表現した。

(注)別エントリー「神の子らは人の娘たちを【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8636

主イエスはルカ10章で、御自分の教えを受け容れることになる人々を「平和の子」とお呼びになった。イザヤ9章5(6)節ではメシアの称号の一つを「平和の君」と啓示し、またパウロはフィリピ4章9節で自分たちの神を「平和の神」と呼ぶが、ヘブライ人にとって「平和」は全ての幸福の総称でもある。

パウロは主イエスを何度も「平和の神」と呼んだ(一コリント14章33節、フィリピ4章9節、一テサロニケ5章23節等)。これはイザヤ9章5(6)節が、人間の「みどりご」として世に来られた神の御独り子を「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼んで預言したことを踏まえている。

ルカ10章6節「平和の子がそこにいるなら、あなたたちの願う平和は、その人にとどまる」と、マタイ10章13節「家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる」を比べると、「平和の子」とは、「平和〔の神の御教え〕を受け入れるにふさわしい人」だと分かる。

ガラテヤ5章22節は聖霊の賜物の一つに「平和」を挙げる。これは古代のヘブライ人にとっては戦争のない(終わった)状態を表す以外にも、人間関係の協調・一致・発展、個々の健康・幸福・繁栄、心の(霊的な)安定、暴動・反乱のない社会や国家の安寧など、物事が好転している状況の総称でもあった。

(注)別エントリー「試論:『地には平和』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8769

(注)別エントリー「試論:『平和を実現する人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6272

聖パウロのガラテヤ書5章によれば、聖霊が働いている徴は愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・節制(22節〜23節)であり、聖霊が不在である徴は姦淫・わいせつ・好色・偶像礼拝・魔術・敵意・争い・そねみ・怒り・利己心・不和・仲間争い・ねたみ・泥酔・酒宴(19節〜21節)などである。

主イエスはヨハネ16章33節で、お話しになった理由を「あなたたちがわたしによって、平和を得るため」と説明された。平和という表現で福音書の時代の人々は個々の健康や幸福・協調・一致や発展、社会や国家の安寧、暴動や反乱のない状態、心の(霊的な)安定など物事が好転している状況を総称した。

一コリント12章以下でパウロは霊的な賜物に関し論じた。14章33節は「神は混乱(無秩序)の神ではなく協調(平和)の神」と説き、集会中の発言は順番(27節、40節)になされるべきで複数人が別々の事柄を同時並行で語ることを禁じ(30節)、それは「主の命令」(38節)であると厳命した。

試論:自分のことを棚に上げる人を140文字以内で

主はルカ18章9節以下で「他人を裁くな」をたとえで教えられた。他人を引き合いに出して自分の正しさを並べ立てた人の「祈り」は単なる自画自賛の連続に過ぎず、そこにへりくだりはなく、全く「祈り」として体を成さなかった。神の御前で何の言い訳も一切せずにひたすらへりくだった人が義とされた。

(注)別エントリー「『盗賊さえ楽園に達した』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8383

(注)別エントリー「ファリサイ派の人と徴税人」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5182

【追記】

ルカ23章40節以下で主の隣の十字架につけられた盗賊は最後に神への畏れを知り、自分の今の惨めな境遇は全て自業自得だが神には罪はなく神の御心に適う願いなら聞き入れられると確信し、自分の隣にいるのは神そのものであると信じて直接それを伝えた。彼の信仰告白に主は最大の幸福を御約束された。

ルカ18章9節以下で、主イエス・キリストは、自分は正しい人間だとうぬぼれて他人を見下している人々に対し「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえで戒められ、聖パウロもローマ12章で「自分を過大に評価してはなりません」(3節)、「自分を賢い者とうぬぼれてはなりません」(16節)と戒めた。

(注)別エントリー「試論:行いを欠く信仰を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5360

「まこと(真理)のパン」

ヨハネ6章51節「わたしが与えるパンとは世を生かすための、わたしの肉のことである」同33節「神のパンは天から降(くだ)って来て世に命を与える」マルコ14章22節「これはわたしの体である」申命記8章3節「人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出る、全ての御言葉によって生きる」。

ヨハネ6章27節「あなたたちは、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」32節「わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる」33節「神からのパンは、天から下って来て人間世界に命を与える」35節「わたしこそが、その命のパンである。わたしの許に来る者は、飢えることが決してない」。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』到来の目的を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10216

プロテスタントの文語訳聖書『改訳 新約聖書』(1917年)では、ヨハネ14章6節で「真理(まこと)」と平仮名を振る。詩編145編18節「主は、まことをもって呼び求める人々すべての近くにおられる」に対応するためだが、詩編のこの節の「まこと」とは、《真心(まごころ)》を意味している。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

ヨハネ6章27節「人の子は、あなたたちに永遠の命へと至る食べ物を与える」35節「わたしがその命のパンである」イザヤ55章2節〜3節「わたしに聞き従うならば、あなたたちは良いものを豊富に享受するだろう。あなたたちはわたしの許に来て、それに耳を傾けて聞き従い、魂に命を得させなさい」。

主はヨハネ6章27節で御自分の仰せになる《神の御言葉》を「永遠の命に至る食べ物」にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「永遠の命にあずかる」と「天の国を受け継ぐ」は同義だが、御言葉を日々味わうことによって人は天の国を受け継ぐにふさわしい存在へと少しずつ霊的に成長するからである。

(注)別エントリー「試論:『主の祈り』と最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7047

「真理(ギリシア語本文でアレテイア)とは何か」(ヨハネ18章38節)の答えをマルコ12章32節は「神は唯一で他に神はない」ことがアレテイアとし、主はこれを「適切な答え」とされた(34節)。ヨハネ14章6節「わたしこそが道、真理、命」10章30節「わたしと父とは唯一のものである」。

(注)別エントリー「試論:『御父と御子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7544

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

(注)別エントリー「試論:ヨハネ14章6節の『道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9342

エレミヤ10章10節は「主は真理の神」と記すがこの章では、自分では言葉を話せない偶像の神々と違い、イスラエルの神である主は御自ら、御言葉を発せられて真正な御教えを御自分の民にお話しになられる(申命記5章22節以下)という事柄を要約する表現として、「真理〔の神〕」が用いられている。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

エレミヤ10章10節は「主は真理の神、命の神、永遠を支配する王」と呼ぶ。ヨハネ福音書で主イエスが御自身に関連して「真理」「命」「永遠の命」等の表現を頻用されること自体、御自身の神性の表明である。イエスに敵意を抱く人々からすると神に対する冒瀆であり、石打ちの刑に相当する事柄だった。

イスラエルの神である主は御自分の民に対して御自ら御言葉を発せられて御教えをお話しになり(申命記5章22節以下)、それこそが自分で言葉を話せない偶像の神と最も異なるとして、主をエレミヤ10章10節は「真理の神」と呼ぶ。主イエスはピラトに御自分が何者か「真理」の表現で端的に示された。

主なる神がシナイ山でモーセに多くの戒めや掟をお授けになっている間、民は金の子牛の像を造りこれを自分たちの新しい神とし、勝手なふるまいをしたが、モーセは怒って掟の板を投げつけた。人々は神からの恩恵だけ望んで戒めや掟には目もくれないが、実は主からの戒めや掟こそが恩恵だとは気付かない。

一ヨハネ5章は20節で「神の御子が来られ、私たちに真理である方を知る力を与えられました。私たちは真理である方の内に、またその御子イエス・キリストの内にいるのです」と記し、「この方こそ真理である神、永遠の命」と続け、御父と御子と聖霊(6節)の御三方を「真理」と呼び、唯一の神とする。

(注)別エントリー「試論:『御子に全て委ねられた』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7629

主イエスは、御自分が「王」(マタイ25章34節)である理由を、ヨハネ17章2節で「あなた(=御父である神)は『子』(=主イエス御自身)に、全ての人々を支配する権能をお与えになりました。それゆえ『子』はあなたから委ねられた人々全てに永遠の命を与えることができます」とお話しになった。

(注)別エントリー「試論:『わたしは門である』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6515

(注)別エントリー「試論:『命に通じる狭い門』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7118

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7818

(注)別エントリー「試論:『隅の親石』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6544

(注)別エントリー「試論:神であり人であるキリストを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6725

詩編43編3節は「あなたの光とまこと(真理)を遣わしてください」と歌う。ヨハネ1章4節は「神の御言葉(=主イエス)の中に命があり、命は人間を照らす光」と記す。同14章6節で主は「わたしは道・真理・命」と仰せになり、まさに御自分こそが詩編の「光とまこと」に他ならないと、宣言された。

(注)別エントリー「試論:『わたしは世の光である』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9699

(注)別エントリー「試論:あなたがたは世の光って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6337

主イエスはヨハネ14章6節で「真理(アレテイア)」と自称されたが、ギリシア語訳のエレミヤ9章4節は「人は隣人を惑わし、『まこと(アレテイア)』を語らない」であり、エレミヤ9章で「まこと」に対置されているのは姦淫する者・裏切る者・偽り・悪・中傷・惑わし・悪事・欺き・殺し等々である。

主イエスは「わたしは真理」と自称されたが、ギリシア語本文で「真理」に当たる語はアレテイアである。古代のギリシア語訳旧約聖書でもアレテイアは数多く登場するが、日本語訳旧約聖書ではそれに当たる表現は、「まこと」である場合が多い。詩編40編12(11)節「慈しみとまことによって」等々。

古代よりヨハネ福音書には「信仰」を意味するギリシア語が登場しないことが知られていた。その替わりヨハネ福音書は「真理」を意味するギリシア語アレテイアを多用する。主イエスはピラトの問いに対し御自分のことを王だとも神だともお答えにならず、ただ「真理」すなわち信頼すべき者だと宣言された。

エレミヤ10章10節は「主は真理の神」と記すがこの章では、自分では言葉を話せない偶像の神々と違い、イスラエルの神である主は御自ら、御言葉を発せられて真正な御教えを御自分の民にお話しになられる(申命記5章22節以下)という事柄を要約する表現として、「真理〔の神〕」が用いられている。

主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちが他人からしてもらいたいと思うことは全て、あなたたちから他人にしなさい」と《愛の掟》を教えられて、「これこそ律法と預言者」と宣言された。これをパウロも「キリストの律法」(一コリント9章21節、ガラテヤ6章2節)と呼びモーセの律法と対比した。

試論:ヨハネ6章の「パン」を140文字以内で

【問】主イエスはヨハネ6章で御自分が人々に与える「パン」を説明されます。御自分が話される御言葉と解釈できるし実際の「肉」とも解釈できます。
【答】その「どちらか一方」ではなく「どちらも両方」です。ですからカトリックのミサでは必ず先にまず福音書が朗読され、後で御聖体拝領が行われます。

(注)別エントリー「試論:『パンと御言葉は不可分』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10226

【追記】

主は山上の説教で「神の義に飢え渇く人は幸い。その人は満たされる」と仰せになった。その理由はヨハネ6章35節で説明される。「わたしは命のパンである。わたしの許に来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」同7章37節「渇く人は、わたしの許で飲みなさい」。

(注)別エントリー「試論:『わたしが与える水』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10708

(注)別エントリー「試論:『根』と『水』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10855

試論:律法学者に気をつける??を140文字以内で

【問】主イエスはマルコ12章38節で、律法学者に気をつけるよう弟子たちに仰せになりましたが、その意図は?
【答】マタイ23章11節〜12節「あなたたちの中でも最も偉い人は、〔皆に〕仕える人でありなさい。誰であれ自分自身を高い者にしようとする人は低くされ、へりくだる人は高くされる」。

試論:寅さんとヨセフを140文字以内で

【問】カトリックではマリアとヨセフの清い関係を説きますが、そんなことありえますか?
【答】『寅さんとイエス』という本がありますが、マドンナとの距離感という点で寅さんとヨセフを比較します。両者はマドンナのために無類のお人好しともいえる奔走をしますが、彼女との関係は節度あるものでした。

試論:「湖で沈みかけたペトロ」を140文字以内で

【問】なぜ主イエスはペトロに、少しだけ湖の上を歩いた後に沈みそうになるという経験をさせたのですか?
【答】キリストの弟子たちの多くが一度は、イエスの真似をして得意がるという経験をしがちですが、真似をすべきなのはそれではないと実体験で戒めるためで、「皆に仕える者こそ最も偉い者」です。

【追記】

【問】主イエスは、自分を真似て湖上を歩こうとし結局沈みかけたペトロを「信仰の薄い者」と、お叱りになりました。信仰が厚ければ湖上を歩けるの?
【答】主が弟子に真似を望まれるのは、へりくだって隣人に仕える姿勢で、キリストの行動なら何でもかんでも真似るのが弟子という発想は、少し浅薄です。

一ペトロ5章3節は神の民を司牧する者の心得として、人々に権威を振り回すのではなく、人々の模範となることを勧める。ヨハネ13章15節「わたしがあなたたちにした通りに、あなたたちもするようにと、模範を示した」マルコ10章45節「人の子は、仕えられるためではなく、仕えるために、来た」。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888

(注)別エントリー「試論:『イエスは全人類の模範』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5948

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9949

ヨハネ1章14節は神の御独り子が恵みと真理に満ちて人間となられたことを記すが、ヤコブ4章6節と一ペトロ5章5節はともに「神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みをお与えになる」と強調し、ルカ1章は「わたしは主のはしため」とへりくだった女性こそが御独り子の母となったことを特筆する。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

(注)別エントリー「試論:へりくだりと恵みを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5777

「なぜダビデの子なのか」

主イエスはマルコ12章37節で「ダビデが〔詩編の中で〕メシアを主と呼んだのにメシアはなぜダビデの子(子孫)なのか」と問われた。大昔、ダビデの子孫から王権が離れることはないと預言された(サムエル下7章16節)ため、古代のユダヤ人は当然メシアもダビデの子孫の中から出るものと想定した。

(注)別エントリー「試論:『エリコのバルティマイ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12148

(注)別エントリー「聖書にはクリスマスの日付が載っていますか???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13267

当然イエスの敵たちも「ダビデがメシアを主と呼んだのにメシアはなぜダビデの子なのか」という問いの答えは知っていた。しかしここであえて口を挟むと、「では実際にメシアとは誰のことだと思うのか」が次の問いになった時、群衆を恐れていた彼らが答えに窮するのは明白だった。そこで彼らは沈黙した。

【問】マルコ11章32節で、主イエスの敵たちが群衆を恐れた理由は?
【答】ルカ20章6節の通り、軽々しくイエスを攻撃することで逆に民衆から冒涜者扱いされて石で殺される事態を誘発しかねないからです。ヨハネ11章17節以下「ラザロの復活に立ち会っていた群衆は、その証しをしていた。〜」。

【問】群衆を恐れていたイエスの敵たちは、目的を達成するためにどうしましたか?
【答】ローマ総督ピラトを巻き込みピラトとローマ人がイエスを裁くという形に持ち込みました。そして群衆が寝静まっている夜更けを狙いイエスを急襲して逮捕し、朝が来るとすぐイエスの身柄を、ピラトに引き渡しました。

《御父である神、主》と《御子である神、主イエス》とは、詩編110編1節では御父は「主」、御子は「わが主」でありマタイ22章44節も御父は「主」、御子はダビデの言う「わたしの主」である。ルカ1章43節でエリサベトは詩編110編1節を踏まえ、マリアを「わたしの主のお母さま」と呼んだ。

(注)別エントリー「試論:『神の母であること』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6079

聖母は「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)となられた方ながら、「わたしは主のはしため」(38節)と自称されたが、ペトロとヤコブは「神はへりくだる人に恵みをお与えになる」と書いた。「神の御独り子の母」となられた女性のへりくだりと恵み(ルカ1章28節)とは、いかばかりだろうか?

(注)別エントリー「試論:初代教会と箴言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5756

聖母マリアは「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)となられた方でありながら、「わたしは主のはしため」(38節)と自称されるほど高慢心のかけらもない謙遜そのものの方であった。従って、高慢心との訣別こそが「聖母マリアへの真の信心」へと踏み出す最初の一歩であるのは、至極当然である。

(注)別エントリー「試論:『救い主の母であること』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7510

二テモテ2章12節

【問】「キリストと共に耐え忍ぶのならば、キリストと共に王となる」の意味とは?
【答】黙示録20章4節以下「彼らは生き返るとキリストと共に『千年』の間、王となった。これが『第一の復活』で、この者たちは、『第二の死』すなわち『永遠の罰』とは完全に無縁な、幸いな者、聖なる者たちである」。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

多くの人が黙示録20章の記述を誤解し、キリストと共に世を支配する「千年王国」を夢見たが、他方ヨハネ18章36節で主は御自分の王国(バシレイア)は世に属さないと確言された。「王」(マタイ25章34節)であるキリストと共に支配するとは、悪魔の罪と死による支配から自由になることである。

(注)別エントリー「真理は罪と悪と死から自由にする」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9524

黙示録20章やローマ5章は「悪に悪を返さない」ことを徹底して罪や悪と決別した人々を「バシレウオ(〔キリストとともに〕王となる)」という動詞で表すが、これはあくまで《義化の完成》を象徴する表現であり政治体制的な意味を含まず、彼らは「第二の死」を免れ「永遠の命」を得ると記されている。

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

主イエスはヨハネ18章36節で、「わたしのバシレイアは、この世には属していない」と仰せになった。原文のギリシア語バシレイアは、聖書では「王権」「〔神の〕王国」を意味し、「王国の一人一人」まで包含する。黙示録1章6節でヨハネは、自分たちは既にその一部を構成していると書き記している。

(注)別エントリー「試論:バシレイア(=神の王国)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12654

ルカ23章40節以下で主の隣の十字架につけられた盗賊は最後に神への畏れを知り、自分の今の惨めな境遇は全て自業自得だが神には罪はなく神の御心に適う願いなら聞き入れられると確信し、自分の隣にいるのは神そのものであると信じて直接それを伝えた。彼の信仰告白に主は最大の幸福を御約束された。

(注)別エントリー「神に対する確信を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5613

「善い盗賊」はルカ23章で、「悪い盗賊」の罵りから主イエスを擁護し(40節)、自分のこれまでの悪事を素直に認める一方(41節)、主には悪いものは一つもないと宣言し(同節)、最後に、自分は主によって救われたいと真摯に希望した(42節)。主は「善い盗賊」に、永遠の幸福を御約束された。

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11494

放蕩息子のたとえでは父親はしもべたちに、帰って来た息子の手に指輪をはめるよう指示するが、エステル記3章10節以下に王権の委任を象徴する印章として指輪が登場する。放蕩息子のたとえでは相続人の権利回復の象徴で、人が本当に悔い改めるならば、神は全面的にその人に対する信頼を取り戻される。

マタイ25章34節「御父に祝福された人々よ、天地創造の時からあなたたちのために準備されていた王国を受け継ぎなさい」黙示録21章7節「勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ」ヘブライ6章12節「怠け者とならず信仰と忍耐によって、約束されたものを受け継ぐ人々に倣う者となってほしい」。

(注)別エントリー「試論:『王国を受け継ぐ者たち』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13826

マタイ23章11節「あなたたちの中で最も偉い者は、仕える者であり続けなさい」ルカ1章38節「わたしは主のはしためです」ローマ5章17節「神の恵みと義の賜物を豊かに受けている人は唯一の主であるイエス・キリストを通して永遠の命を得て、サタンの罪と死による支配から自由になり王となる」。

(注)別エントリー「試論:『しもべ』と『はしため』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9785

【問】カトリックは聖母を「女王」扱いしますが福音書のマリアは控え目な女性ではないでしょうか?
【答】黙示録5章10節は、小羊に忠実な人々が王になると啓示します。「皆に仕える者こそ最も偉い者」の御教えに忠実でサタンの罪と死による支配に打ち勝った者だからで聖母は全信者の先駆的存在です。

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7514

(注)別エントリー「試論:世の罪を取り除く神の小羊を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6140

創世記3章15節で神は、サタンと決定的に対立する一人の女性が将来現れることを予告された。黙示録12章では、それは救い主の母となった女性のことだと啓示された。救い主は人々を罪や悪から救うために生まれるので、その母が存在の最初の瞬間から罪や悪とは完全に無縁であるべきなのは当然である。

(注)別エントリー「神のお告げ:受胎告知と無原罪の御宿り」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4835

(注)別エントリー「創世記3章15節:蛇の頭を踏み砕く者は誰か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1488

「救い主」が世を救われる方法に関しイザヤは、「小羊」(53章7節)つまり代価として御自分をささげ、「しもべ」(42章、49章以下等)として人々に仕えると預言し、主もマタイ20章28節でそれを宣言された。救い主の母となることを承諾した女性が「主のはしため」を称するのは象徴的である。

黙示録5章10節は、「小羊」主イエスに忠実な弟子たちが王となり地上を統治すると啓示する。その理由の一つは彼らが「最も偉い者は皆に仕える者」(マタイ23章11節)という主の仰せに忠実だからであり、一つはローマ5章12節以下の通り、サタンの罪と死による支配に打ち勝った者だからである。

一コリント4章8節でパウロはコリントの人々に、《あなた方は教会を意のままに差配して誇っているが、どうかキリスト教の本分「罪と死の支配からの自由」を心がけ永遠の命に至る努力を日々怠らぬように。それならわれわれも福音宣教が実を結んだと主に認められて永遠の命に至るのに》等と書き送った。

主はヨハネ8章32節で「真理はあなたたちを自由にする(解放する)」と仰せになった。パウロはヨハネと同じギリシア語を用いて何からの解放か、その答えをローマ6章と同8章で説明した。「罪から解放」(6章18節、22節)、8章2節「罪と死の法則から解放」同21節「滅びへの隷属から解放」。

ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。

【問】カトリックでは創世記3章15節および黙示録12章の「女」をマリアと解釈し、サタンと決定的に対立する存在だと教えますが、その対立点はどこですか?
【答】マリアは人々へ神の言葉には全て従うよう勧めますが(ヨハネ2章5節)、サタンはエバへ神に従わぬ(創世記3章4節)よう唆しました。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

(注)別エントリー「試論:『女』とサタンの対立を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10314

(注)別エントリー「『鉄の杖』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16717

(注)別エントリー「試論:『女』と『竜』の対立を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12925

試論:二テモテ2章13節の意味を140文字以内で

【問】ヨハネ14章6節「わたしは真理」とは?
【答】二テモテ2章13節「わたしたち信者がキリストに対して忠実ではない時でも、キリストはいつでも、真心をもってわたしたちに向き合っておられます。キリストは「真理」(真心に対して真心を返される神)でありそれをやめられることはないからです」

(注)別エントリー「《真理》(神は唯一で他に神はない)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/25697

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

【追記】

【問】主イエスは荒れ野の誘惑の際、最後に「主を試してはならない」と仰せになりました。これの意味は?
【答】「主を試す」とは例えば「神は最終的にはあなたたち全員を救って下さるのだから、あなたたちはどんどん罪を犯しなさい」と煽動する類いのもので、蛇がエバを楽園で欺いた時と同じ論法です。

《真理》(神は唯一で他に神はない)

「真理(ギリシア語本文でアレテイア)とは何か」(ヨハネ18章38節)の答えをマルコ12章32節は「神は唯一で他に神はない」ことがアレテイアとし、主はこれを「適切な答え」とされた(34節)。ヨハネ14章6節「わたしこそが道、真理、命」10章30節「わたしと父とは唯一のものである」。

(注)別エントリー「試論:『御父と御子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7544

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

(注)別エントリー「試論:ヨハネ14章6節の『道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9342

プロテスタントの文語訳聖書『改訳 新約聖書』(1917年)では、ヨハネ14章6節で「真理(まこと)」と平仮名を振る。詩編145編18節「主は、まことをもって呼び求める人々すべての近くにおられる」に対応するためだが、詩編のこの節の「まこと」とは、《真心(まごころ)》を意味している。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

エレミヤ10章10節は「主は真理の神」と記すがこの章では、自分では言葉を話せない偶像の神々と違い、イスラエルの神である主は御自ら、御言葉を発せられて真正な御教えを御自分の民にお話しになられる(申命記5章22節以下)という事柄を要約する表現として、「真理〔の神〕」が用いられている。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

エレミヤ10章10節は「主は真理の神、命の神、永遠を支配する王」と呼ぶ。ヨハネ福音書で主イエスが御自身に関連して「真理」「命」「永遠の命」等の表現を頻用されること自体、御自身の神性の表明である。イエスに敵意を抱く人々からすると神に対する冒瀆であり、石打ちの刑に相当する事柄だった。

イスラエルの神である主は御自分の民に対して御自ら御言葉を発せられて御教えをお話しになり(申命記5章22節以下)、それこそが自分で言葉を話せない偶像の神と最も異なるとして、主をエレミヤ10章10節は「真理の神」と呼ぶ。主イエスはピラトに御自分が何者か「真理」の表現で端的に示された。

主なる神がシナイ山でモーセに多くの戒めや掟をお授けになっている間、民は金の子牛の像を造りこれを自分たちの新しい神とし、勝手なふるまいをしたが、モーセは怒って掟の板を投げつけた。人々は神からの恩恵だけ望んで戒めや掟には目もくれないが、実は主からの戒めや掟こそが恩恵だとは気付かない。

一ヨハネ5章は20節で「神の御子が来られ、私たちに真理である方を知る力を与えられました。私たちは真理である方の内に、またその御子イエス・キリストの内にいるのです」と記し、「この方こそ真理である神、永遠の命」と続け、御父と御子と聖霊(6節)の御三方を「真理」と呼び、唯一の神とする。

(注)別エントリー「試論:『御子に全て委ねられた』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7629

主イエスは、御自分が「王」(マタイ25章34節)である理由を、ヨハネ17章2節で「あなた(=御父である神)は『子』(=主イエス御自身)に、全ての人々を支配する権能をお与えになりました。それゆえ『子』はあなたから委ねられた人々全てに永遠の命を与えることができます」とお話しになった。

(注)別エントリー「試論:『わたしは門である』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6515

(注)別エントリー「試論:『命に通じる狭い門』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7118

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7818

(注)別エントリー「試論:『隅の親石』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6544

(注)別エントリー「試論:神であり人であるキリストを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6725

詩編43編3節は「あなたの光とまこと(真理)を遣わしてください」と歌う。ヨハネ1章4節は「神の御言葉(=主イエス)の中に命があり、命は人間を照らす光」と記す。同14章6節で主は「わたしは道・真理・命」と仰せになり、まさに御自分こそが詩編の「光とまこと」に他ならないと、宣言された。

(注)別エントリー「試論:『わたしは世の光である』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9699

(注)別エントリー「試論:あなたがたは世の光って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6337

主イエスはヨハネ14章6節で「真理(アレテイア)」と自称されたが、ギリシア語訳のエレミヤ9章4節は「人は隣人を惑わし、『まこと(アレテイア)』を語らない」であり、エレミヤ9章で「まこと」に対置されているのは姦淫する者・裏切る者・偽り・悪・中傷・惑わし・悪事・欺き・殺し等々である。

主イエスは「わたしは真理」と自称されたが、ギリシア語本文で「真理」に当たる語はアレテイアである。古代のギリシア語訳旧約聖書でもアレテイアは数多く登場するが、日本語訳旧約聖書ではそれに当たる表現は、「まこと」である場合が多い。詩編40編12(11)節「慈しみとまことによって」等々。

古代よりヨハネ福音書には「信仰」を意味するギリシア語が登場しないことが知られていた。その替わりヨハネ福音書は「真理」を意味するギリシア語アレテイアを多用する。主イエスはピラトの問いに対し御自分のことを王だとも神だともお答えにならず、ただ「真理」すなわち信頼すべき者だと宣言された。

エレミヤ10章10節は「主は真理の神」と記すがこの章では、自分では言葉を話せない偶像の神々と違い、イスラエルの神である主は御自ら、御言葉を発せられて真正な御教えを御自分の民にお話しになられる(申命記5章22節以下)という事柄を要約する表現として、「真理〔の神〕」が用いられている。

主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちが他人からしてもらいたいと思うことは全て、あなたたちから他人にしなさい」と《愛の掟》を教えられて、「これこそ律法と預言者」と宣言された。これをパウロも「キリストの律法」(一コリント9章21節、ガラテヤ6章2節)と呼びモーセの律法と対比した。

試論:「引き渡す」と「裏切る」を140文字以内で

【問】「ユダはイエスを裏切ったといわれるが福音書のギリシア語本文は『引き渡した』であり、『裏切った』ではない」という議論があるようです。
【答】古代ギリシア語訳のサムエル上30章15節では同じギリシア語が、「主人に引き渡すことでわたしを裏切る」という文脈において、用いられています。

【追記】

【問】上記の他にも、「信頼していた人によって自分を破滅に導く者に引き渡される」の例はありますか?
【答】同じサムエル上の23章11節にはダビデが、自分のいる町の有力者たちが自分をサウルに「引き渡す」のではないかと、危機を察知する場面があります。古代ギリシア語訳ではやはり同じ語です。

【問】「味方と思っていた人が自分を敵に引き渡す」イコール「裏切る」ということ?
【答】もちろん全ての場合において「引き渡す」が「裏切る」を意味するわけではありませんが、信頼していた人によって敵に引き渡され、結果、破滅が訪れるのが明白な場合、「引き渡す」は「裏切る」ことを意味します。

【問】上の二か所ともサムエル上のダビデ関連の話ですが、他の箇所にも同じような例がありますか?
【答】歴代誌上12章18節の「もしわたしを欺いて、敵に引き渡すつもりなら」は、「信頼していた人によって敵に引き渡され、結果、破滅が訪れる」にまさしく該当する状況であるということができます。

試論:「死んだ者の神ではなく」を140文字以内で

【問】マルコ12章27節「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」の意味は?
【答】エレミヤ21章8節の通り、旧約の民にとって神なる主の御意向に従うことは「命の道」、主の御意向に逆らうことは「死の道」で、《神は御自分に逆らう者の神ではなく、御自分に忠実な者の神》という意味です。

【追記】

エゼキエル18章「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は仰せになる。彼が悪から立ち帰って生きることを喜ばないだろうか。お前たちが犯した全ての背きを投げ捨てて新しい心と霊を造り出せ。どうしてお前たちは死んでよいだろうか。お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」。

(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3277

ルカ19章9節以下「今日、救いがこの家を訪れた。人の子は、失われたものを捜して救うために来た」二ペトロ3章15節「わたしたちの主の忍耐深さを救いと考えなさい」同9節「主は救いの約束を遅らせているのではなく、一人も滅びずに皆が悔い改めるように、あなたたちのために忍耐されています」。

(注)別エントリー「『罪人を招く』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19089

【問】ヨハネ8章51節「わたしの言葉を守れば決して死ぬことがない」の意味は?
【答】マタイ7章12節のキリストの律法(あなたが他の人にしてもらいたいことを、あなたから他の人にしなさい)を忠実に実行するならマタイ25章の最後の審判で永遠の命にあずかり天国の福楽に達するという意味です。

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11494

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

主イエスのファリサイ派批判で最も多いのはマタイ23章3節の通り「建前は立派でも中身は〜」だが、神殿の有力者たちの仲間であるサドカイ派は、復活を否定するなど、主イエスとは建前からして違った。来世について考えることをしない彼らはおのずと現世志向であり、既得権益の維持に汲々としていた。

主はヨハネ3章3節で「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることができない」と仰せになられた。エフェソ4章31節以下では無慈悲・憤り・怒り・わめき・そしりなどの全てを一切の悪意と共に捨てるよう勧め、互いに親切にし合い、憐れみの心で接し合い、またキリストに倣い、赦し合うよう勧める。

神の国に入るためには「神の義」が不可欠であることを主は「礼服」という比喩で御説明された。コロサイ3章では「着る」べきものは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛と挙げる。マタイ11章で主は「わたしは柔和で謙遜な者だから」(29節)「わたしの荷は軽い」(30節)などと仰せになった。

「復活」とサドカイ派

主イエスのファリサイ派批判で最も多いのはマタイ23章3節の通り「建前は立派でも中身は〜」だが、神殿の有力者たちの仲間であるサドカイ派は、復活を否定するなど、主イエスとは建前からして違った。来世について考えることをしない彼らはおのずと現世志向であり、既得権益の維持に汲々としていた。

【問】ヨハネ11章24節はマルタが「終わりの日の復活」を信じていたと記し、使徒言行録23章8節はファリサイ派が復活を信じていたと記します。
【答】イザヤ25章8節やその前後と同26章19節を、古代のユダヤ人の多くが「復活」の預言と捉えましたが、サドカイ派はそうではありませんでした。

(注)別エントリー「試論:『終わりの日』の解釈を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/24739

【問】マルタやファリサイ派が信じた「復活」とは?
【答】《アダムの時代から自分たちの時代に至るまで、この世で善く生きた義人たちの霊魂は死後「アブラハムのふところ」(ルカ16章)で休息した後に、イザヤ65章17節以下で預言された場所へ主によって迎えられ、永遠に生きる》というものです。

【問】「アブラハムのふところ」という場所は現代に生きるわたしたちも死後に行く場所ですか?
【答】いいえ。アダムの時代から主イエスの御復活の時までの義人たちが行く場所です。この義人たちは、主の御復活つまり「復活の体」の創造の際に自分たちも「復活の体」を与えられて、天の国に入りました。

【問】使徒言行録23章8節は復活をサドカイ派は認めずファリサイ派は認めると記します。後者の認識は何に由来しますか?
【答】イザヤ25章8節は神なる主の御力は死にも打ち勝ち、同26章19節では主が準備されている復活の体を同章18節の人間の出産による体と比ベてはるかに勝ると預言します。

主イエスの敵としてサドカイ派とファリサイ派の名が福音書に登場するが、使徒言行録23章8節の通り、前者は復活を認めず、後者は復活を認めていた。ヨハネ11章のラザロの復活の場面を目の当たりにしたファリサイ派の人々の一部は、もうイエスを否定できないと判断した(マルコ12章28節以下)。

主イエスはヨハネ12章23節以下で御自分の十字架の死により悪魔の罪と死の支配を終わらせる(ヘブライ2章14節以下参照)と宣言された。それはイザヤ25章8節の預言の成就だがイザヤのその節の前後は、成就の地エルサレムを「この山」と呼ぶ。ダニエル書9章16節「聖なる山」とも同じである。

(注)別エントリー「試論:御受難と『永遠の命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9460

ヨハネ20章9節では、〔旧約〕聖書がイエスの復活を語っていると記す。

イザヤ25章は、

「この方こそ、わたしたちを救ってくださる、わたしたちが待ち望んでいた神」(9節)

と呼ばれる方が、

「この山」(7節)

と呼ばれる場所において、

「死を永久に滅ぼしてくださる」(8節)

ことを預言している。

【問】福音書で「洗礼者の死」の箇所等を読むと、洗礼者が生き返った存在がイエスだとヘロデは思ったようで民衆の一部も同意見でした。どういうこと?
【答】「死者の復活」について、当時のユダヤ人の間に様々の〔間違った〕認識が存在したことを示唆しています。コヘレト12章7節が正しい答えです。

(注)別エントリー「試論:人間の完成形(最終形態)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15868

ヘブライ5章9節は「キリストが〔御受難を経験された後に〕完全な者になられた」と記す。神でもあり人間でもあるキリストは、神としては天地創造以前から既に当然だが完全な者である。人間としては御受難を経験された後「復活の体(=天上の体、霊の体)」すなわち人間としての完成形へと到達された。

(注)別エントリー「試論:神であり人であるキリストを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6725

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

救い主は「復活と命」(ヨハネ11章25節)つまり御自分の「復活の体」の創造と共に「新しい天・地・エルサレム」を創造し、全人類を罪から救って、永遠の命(天国の福楽)へ導かれる方である。しかしサドカイ派は復活を否定していた(マタイ22章23節)。洗礼者が「蝮の子ら」と呼ぶ理由である。

(注)別エントリー「試論:新都エルサレムの『用意』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16763

(注)別エントリー「主の御復活とともに創造された事柄とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15917

主はヨハネ11章25節で御自身を復活と命だと称され、6章63節では命を与えるのは「〔神の〕霊」だと仰せになった。コヘレト12章7節は人間の死でその肉体は塵(土)に還るが、命を与えられたその霊は「与え主」である神の許へと還るとし、一コリント15章44節は「霊の体が復活する」と記す。

試論:マルコ12章「真実な方」を140文字以内で

主イエスはヨハネ14章6節で心を騒がせている使徒たちに「わたしは真理」と宣言された。その少し前、有名な「皇帝の肖像の銀貨」の話でイエスの敵たちは、イエスを「真理に基づいて神の道を教えておられる」「真実な方(=真理である方)」と呼び追従しながら、揚げ足を取ろうと罠を含む質問をした。

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

【追記】

【問】エレミヤ10章10節は「主は真理の神、命の神」と記し、「わたしは道、真理、命」だと主イエスは宣言されましたが、それと関係しますか?
【答】関係します。ヘブライ人にとって真理や命は第一義的に神に帰属しますが、イエスの敵たちは真理という言葉をあえて使い、味方であるふりをしました。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『まことの神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16491

(注)別エントリー「試論:まこと(真、実、信、誠)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16274

試論:「愛こそ真理」なぜ???を140文字以内で

【問】一ヨハネ4章は「神は愛」(8節、16節)と記し、主イエスは「真理」(ヨハネ14章6節)を称されます。真理とは愛だとして、その理由は?
【答】「愛」そのものである方が教えられた《キリストの律法》(マタイ7章12節)こそが人間社会の諸問題に対処する際の「鍵」の役割を担うからです。

【追記】

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

試論:「山上の説教」その重要性を140文字以内で

一コリント3章11節「誰であろうと、イエス・キリストという既存の土台を無視して他の土台を据えることは、できない」マタイ7章26節「わたしのこれらの言葉(=山上の説教)を聞くだけで行わない者は、誰であろうと、〔土台を据えることを怠った状態で〕砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」。

【追記】

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

試論:マルコ12章「ぶどう園」を140文字以内で

「ぶどう園」:古代のイスラエル(イザヤ5章)

「園の主人」:御父である神

「農夫たち」:祭司長、律法学者、長老たち

「収穫」:神に忠実な人々を天の国へ迎え入れること(ヨハネ4章35節、マタイ25章34節)

「僕(しもべ)」:旧約時代の預言者

「園の主人の跡取り息子」:御子である神、主イエス

【追記】

【問】マルコ4章29節には「実」とか「収穫の時」とか書いてあるけど、何のこと?
【答】「実」はヨハネ4章36節「永遠の命に至る実」、「収穫の時」は同章35節「刈り入れ」にそれぞれ対応し、「刈り入れ」とは、マタイ25章34節の神の王国へ、それに相応しく実った人々を迎え入れることです。

主イエスはイザヤ28章16節や詩編118編22(21)節を踏まえて御自分を「隅の親石」と呼ばれた。ヨハネ2章17節の通り「家」は神の家つまり神殿を指す。「あなたたち民の指導者は神殿の拡張工事には熱心(同章20節「四十六年」)でも救い主を邪魔者扱いするが、わたしから救いは始まる」。

(注)別エントリー「聖書にはクリスマスの日付が載っていますか???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13267

「家の主人」は御父である神、「ぶどう園」は古代のイスラエル(イザヤ5章7節、詩編80編9(8)節)、「主人の息子」は御子イエス御自身、「農夫」は古代イスラエルの宗教指導者、「僕(しもべ)」は旧約時代の預言者を指す。祭司長たちやファリサイ派の人々の殺意を、主イエスはここで暴かれた。

試論:「完全になりなさい」??を140文字以内で

【問】二コリント13章11節は完全な者になれと説きます。自分は出来ることが限られる取るに足らぬ人間なのに、どうして完全になれますか?
【答】ギリシア語本文では漁師たちの召命の際の「網の手入れ」と同じ語を用いています。いざという時に最善を尽くせるよう心の準備をしなさいという意味です。

(注)別エントリー「『完全』とは??」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17715

【追記】

マタイ5章48節で主は、天の御父が完全であられるように各自も完全な者となるよう勧められたが、憐れみ深さという点で「完全」を目指すべきことがルカ6章36節では説明されている。さらに同40節の後半で、福音の教えに従って自分自身を矯正し続ける者は「完全」まで到達できると主は確約された。

(注)別エントリー「試論:『わたしの荷は軽い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6870

主イエスはルカ6章40節でどうすれば弟子は師のようになれるか教えられた。ギリシア語本文の動詞はマルコ1章19節「〔網の〕手入れをする」と同じで「破れがないか全体を確認し、あれば修繕し、付着物を念入りに除去し、十分に洗い、現場で使い物になる完全な状態まで仕上げる」という意味である。

主はルカ6章40節で「弟子は先生より優れた者でないにせよ、普段から十分に心の準備を整えていれば、その先生のようになれる」と仰せになった。この箇所は内容的には36節の「あなたたちの天の御父が憐れみ深い方であられるように、あなたたちもまた、憐れみ深い者になりなさい」に結び付いている。

(注)別エントリー「試論:『憐れみ深い人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10347

(注)別エントリー「試論:『憐れみ深い人、ヨセフ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6057

主はマタイ18章3節で、心を入れ替えて幼子のようになるように強く弟子たちへお命じになり、他方5章48節では、天の御父と同様に、皆も「完全」となるように主はお勧めになった。古代のギリシア語創世記では「完全」というこのギリシア語が、6章9節においてヘブライ語の「無垢」に対応している。

(注)別エントリー「試論:マタイ5章8節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7254

試論:聖書の「まこと」を140文字以内で

【問】プロテスタントの文語訳聖書『改訳 新約聖書』(1917年)では、ヨハネ14章6節の「真理」に「まこと」と仮名を振ります。理由は?
【答】キリスト教の三位一体の神を、ヨハネはしばしば「真理」と呼びますが、この主なる神に対する信仰は、二心・言行不一致・面従腹背等とは相容れません。

【追記】

プロテスタントの文語訳聖書『改訳 新約聖書』(1917年)では、ヨハネ14章6節で「真理(まこと)」と平仮名を振る。詩編145編18節「主は、まことをもって呼び求める人々すべての近くにおられる」に対応するためだが、詩編のこの節の「まこと」とは、《真心(まごころ)》を意味している。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

詩編145(144)編19節には「主は御自分を畏れる人々の望みをかなえられ、彼らの救いを求める叫びを聞けば願いを聞き入れてくださる」とある。主イエスは水の上から沈みかけたペトロにすぐ手を延ばしてつかまえられ、悪霊に苦しめられ続ける娘を持つカナンの女性の叫びに願いを聞き入れられた。

ルカ18章で主は「やもめと裁判官」のたとえを話されたが、それは「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるため」(1節)で、「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる」また「これがわたしたちの神に対する確信」と一ヨハネ5章14節は教える。

(注)別エントリー「試論:ルカ18章7節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12491

ヨハネ2章のカナでの婚礼の際、3節の母の言葉に対し、主は4節でその真意を測りかねる答えをされた。しかし母は5節で、願いが聞き入れられたことを確信して召し使いたちに言葉をかけた。その理由は一ヨハネ5章14節以下に、「これが神に対するわたしたちの確信」という表現とともに記されている。

詩編145編19節は「主を畏れる人々の願いはかなえられる」とし、箴言10章24節は「神に従う人の願いはかなえられる」と説く。マタイ7章7節は「求めなさい。そうすれば与えられる」と主の御言葉を教え、ヨハネ14章13節は「わたしの名によって願うことは何でもかなえてあげよう」とも記す。

マタイ6章で主は、祈る際の「これ見よがし」的な態度を避けるように人々を戒められ、「隠れたことを見ておられる天の父が報いてくださる」と仰せになった。サムエル上1章13節「ハンナは心のうちで祈っていて、唇は動いていたが声は聞こえなかった」その結果19節「主は彼女を御心に留められた」。

詩編145編19節は「主を畏れる人々の願いはかなえられる」箴言10章24節は「神に従う人の願いはかなえられる」と説く。箴言8章13節は「主を畏れることは悪を憎むこと」とし、主を畏れる人と無縁な事柄を「傲慢、驕り、悪の道、暴言を吐く口」とする。これらを行う人の願いはかなえられない。

コヘレト12章13節は「全てに耳を傾けて得た結論」として「神を畏れ神の戒めを守れ」「それこそが人間の全て」と締め括る。8章12節では「神を畏れる人は畏れるからこそ幸福になる」と記し、箴言8章13節は「主を畏れることは悪を憎むこと」として、傲慢・驕り・悪の道・暴言を吐く口を戒める。

(注)別エントリー「試論:聖霊とは縁遠い人を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8993

救い主を預言する際ダビデとエリサベトは「わたしの主」と呼ぶ。救い主には人間として母親しか存在せず、マリアは救い主を「わたしの肉の肉」(創世記2章23節)と呼んで誇ることもできたが、しかし母から人々への伝言は、「万事この人の言う通りにしてください」(ヨハネ2章5節)まずこれである。

(注)別エントリー「試論:『わたしの主』と母マリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8575

ヨハネ福音書は「信仰」を表現する際、他の福音書が用いるピスティスという語を用いず代わりにアレテイア(真理、まこと)という語を多用する。ヨハネにとって信仰とは、人の真心に対し真心で応じられる神なる主に向かって嘘偽りや裏表のない態度で接することに他ならず、これは当時の共通認識だった。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書のアレテイアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15430

詩編12(11)編においてダビデは、隣人に嘘をついたり隣人を早口で欺いたり言行不一致状態だったりする人々ばかりの風潮を、「信仰のある人は消え去りました」(12編2節、新共同訳)と表す。ここで「信仰」と訳されるヘブライ語を、古代のギリシア語訳聖書はアレテイア(真理、まこと)と訳す。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

古代よりヨハネ福音書には「信仰」を意味するギリシア語が登場しないことが知られていた。その替わりヨハネ福音書は「真理」を意味する語アレテイア(まこと=真、実、信、誠)を多用する。ヨハネ7章28節「わたしを遣わされた方は『真理である方(=御父)』だが、あなたたちはその方を知らない」。

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

ヨハネ18章38節「真理(アレテイア)とは何か」の答えをマルコ12章32節は「神は唯一で他に神はない」と記す。一ヨハネ5章6節と20節は、「真理」の名に該当するのは御父と御子と聖霊であると説く。ヨハネ10章30節「一つ」の意味を使徒言行録4章32節は「心」「思い」等々と説明する。

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

一ヨハネ5章は20節で「神の御子が来られ、私たちに真理である方を知る力を与えられました。私たちは真理である方の内に、またその御子イエス・キリストの内にいるのです」と記し、「この方こそ真理である神、永遠の命」と続け、御父と御子と聖霊(6節)の御三方を「真理」と呼び、唯一の神とする。

(注)別エントリー「試論:『御子に全て委ねられた』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7629

神は優しくて厳しい

出エジプト記34章で主の栄光がモーセに現わされた際、御自分が優しさと厳しさを兼ね備えた神であると主はモーセに明らかにされた。ダビデは詩編18編21(20)節以下で、主は優しい人には優しく厳しい人には厳しいと歌った。その人が隣人に敬意を示さない限り、主はその人の信仰を認められない。

(注)別エントリー「試論:『選ばれた人は選んだ人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8034

主イエスがルカ11章で教えられた祈りの文言の中に「わたしたちの罪をお赦しください。わたしたちも、自分に負い目のある人々を赦します」(4節)とあるが、その理由を主は、マタイ18章の「仲間を赦さない家来のたとえ」で御説明された。同章35節「あなたが心から兄弟を赦さないなら御父も〜」。

(注)別エントリー「試論:『仲間を容赦しない家来』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5511

主イエスのたとえには様々な人物が登場するが、他人を引き合いに出して自己正当化したり自分のことを棚に上げて他人を攻撃したりする「他人に厳しく自分に甘い人」に対しては、神からの視線は非常に厳しい。しかし他人に責任転嫁せず正直に自分で自分の非を認める人に対しては、神からの視線は優しい。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

ヤコブ5章9節に「自分が裁きを受けないようにするには互いに不平を言い合わないことです」とあるが、これはマタイ7章1節〜2節「他人を裁くな。自分が裁かれないようにするためである。あなたがたは自分が他人を裁く流儀で裁かれる」とは同じ事柄であり、マタイ6章14節〜15節とも同じである。

(注)別エントリー「試論:赦しの重要性を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5390

(注)別エントリー「試論:主の祈りと赦しを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5305

主イエスはマタイ18章21節以下の「仲間を赦さない家来のたとえ」で、一人一人が他人を裁くその同じ基準(了見)で、神もまた一人一人をそれぞれ裁かれることをお教えになった。これは、基本的には7章で既に仰せになった事柄であり、「あなた自身が裁かれないようにするためにも、他人を裁くな」。

(注)別エントリー「試論:自分が裁かれないためにはを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5501

(注)別エントリー「試論:『慈悲は裁きの上にある』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7694

たとえ過失を犯した人が将来を案じ利己的な動機に基づいて他人の負い目を容赦したとしても、人が他人の負い目を容赦する行為それ自体には神は賛同される(ルカ16章1節以下)が、人が他人の負い目に厳しく臨むならば、神も一度与えた容赦を撤回してその人に厳しくされる(マタイ18章21節以下)。

(注)別エントリー「試論:『主にとって赦しも癒し』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6013

エレミヤ31章33節では救い主が「御自分の律法」をモーセの律法に替えて人々に授けると預言し、続く34節では救い主は人々に赦しを与える存在と預言する。主イエス・キリストは、ルカ7章48節に見られるように人々に赦しをお与えになり、また御自分の律法(マタイ7章12節)をお授けになった。

(注)別エントリー「試論:『主によって教えられる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16434

(注)別エントリー「試論:キリスト教の基礎を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19005

(注)別エントリー「試論:『救い主と赦し』預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19009

試論:ヨハネ3章18節を140文字以内で

【問】「御子(主イエス)を信じない者は既に裁かれている」の意味は?
【答】この場合の「裁く」とは、「裁断」つまり善悪や道理に照らして切り分けることで、御子は永遠の命(=天国の福楽)を与えるために来られたのに、その御子を信じない者は自分自身を天国の福楽から切り離している、の意味です。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書の『信じる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16417

【追記】

ヨハネ福音書は「永遠の命」「信じる」を多用する。ただし「何をすれば永遠の命を得られるか」の具体例はマタイ25章「最後の審判」とルカ10章「善きサマリア人の話」の箇所にあり、ルカ10章27節で主イエスは、「信じる」こととは「心・精神・力・思いを尽くし愛する」ことだとお教えになった。

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4544

(注)別エントリー「試論:永遠の命を得るためには?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16373

ヨハネ2章22節は、主が復活された際、過去の主の仰せを思い出した弟子たちは〔旧約〕聖書と主の仰せとを信じたと記す。この「信じた」は、「納得した」「了解した」「腑に落ちた」「合点がいった」等の意味合いである。「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる者は、幸い」も同じことである。

古代よりヨハネ福音書には「信仰」を意味するギリシア語が登場しないことが知られていた。その替わりヨハネ福音書は「真理」を意味するギリシア語アレテイアを多用する。主イエスはピラトの問いに対し御自分のことを王だとも神だともお答えにならず、ただ「真理」すなわち信頼すべき者だと宣言された。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書の『信じる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16417

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

詩編12(11)編においてダビデは、隣人に嘘をついたり隣人を早口で欺いたり言行不一致状態だったりする人々ばかりの風潮を、「信仰のある人は消え去りました」(12編2節、新共同訳)と表す。ここで「信仰」と訳されるヘブライ語を、古代のギリシア語訳聖書はアレテイア(真理、まこと)と訳す。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

ヨハネ福音書は「信仰」を表現する際、他の福音書が用いるピスティスという語を用いず代わりにアレテイア(真理、まこと)という語を多用する。ヨハネにとって信仰とは、人の真心に対し真心で応じられる神なる主に向かって嘘偽りや裏表のない態度で接することに他ならず、これは当時の共通認識だった。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書のアレテイアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15430

試論:三位一体の「一体」とは?を140文字以内で

【問】三位一体の「一体」とは、何を意味しますか?
【答】「思いも心も一つ」(使徒言行録4章32節。ヨハネ17章22節)のことで、御父と御子イエスの間には矛盾・対立・齟齬の類は一切ないことを意味します。聖霊の啓示も、イエスが実際に仰せになった福音書の御言葉と矛盾することはありません。

(注)別エントリー「試論:三位一体の『一体』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16233

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

(注)別エントリー「試論:聖霊降臨とは無関係の出来事を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/25401

【追記】

一ヨハネ5章20節は神の御子が来られて真理である方(御父である神)を知る力を与えられたとして信者は御父と御子の内にいると記し、御父と御子イエスを真理である神また永遠の命と説く。同6節は聖霊をも真理と記し5章全体として御父と御子と聖霊の御三方を真理と呼んでおり、ただ一つの神とする。

「真理(ギリシア語本文でアレテイア)とは何か」(ヨハネ18章38節)の答えをマルコ12章32節は「神は唯一で他に神はない」ことがアレテイアとし、主はこれを「適切な答え」とされた(34節)。ヨハネ14章6節「わたしこそが道、真理、命」10章30節「わたしと父とは唯一のものである」。

【問】主イエスはヨハネ16章で「真理の霊」聖霊に関して、「その方はわたしに栄光を与える」(14節)と説明されます。この意味は?
【答】一ヨハネ4章では、主イエスの福音書の仰せに頑なに触れようとしない人々を「反キリストの霊」「人を惑わす霊」と呼び、「真理の霊」とは無関係としています。

【問】主イエスが聖霊に関して教えられた事柄で最重要なものは何?
【答】御自分がお教えになった内容を思い起こさせるために聖霊は来られるのであって、御自分と無関係にではない、ということで、もし「聖霊が我々に直接教える以上、福音書は必要ない」と誰かが言うなら、それは「人を惑わす霊」です。

【問】どう考えても聖霊とは無関係の徴候だと確実に言えるものは、何ですか?
【答】イザヤ11章2節は聖霊の賜物の筆頭に知恵を挙げますが、箴言8章12節は知恵の特徴として熟慮と慎重さを挙げます。落ち着きがなく思いつきで突っ走る人や、無反省な人、善悪の区別に無頓着な人は聖霊と無関係です。

ヨハネもパウロも伝統的なヘブライの世界観に従い人間に属する事柄を「肉」、神に属する事柄を「霊」と呼んだ。一コリント14章37節でパウロは、「自分には神の霊(聖霊)が働いている」と周囲に軽々しく吹聴する人々を、「自分を『霊の人』と思っている者」と呼んで、彼らへ厳しい自省を要請した。

(注)別エントリー「試論:『肉と霊』の対比を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7740

(注)別エントリー「試論:ガラテヤ5章の『肉と霊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7657

(注)別エントリー「試論:聖書と『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7649

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを識別する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14194

主イエスはヨハネ10章30節「わたしと御父とは一つ」38節「わたしは御父の内にあり御父はわたしの内におられる」と教えられ14章でも繰り返され(10節、11節、21節)16章15節「御父の持っているものは全てわたしの持っているもの」で、御父と御自分との間に差異はないと仰せになった。

ヨハネ14章8節のフィリポの言葉「主よ、わたしたちに御父をお示しください」に対しコロサイ1章15節では「御子は、見えない神の姿」と表現した。「見えない神」とは御父であり「姿」とは《生き写し》というニュアンスをも含んでいる。ヘブライ1章3節は「神の本性の完全な具現」などと表現した。

主はヨハネ10章30節で「わたしと父とは一つ」と仰せになった後、17章では弟子たちのために天を仰いで祈られたが、それは御父と御自分が「一つ」であるように、弟子たちもまた「一つ」となるためであった(11節、21節〜23節)。使徒言行録4章32節「信じた人々の群れは心も思いも一つ」。

主はマタイ11章27節で、全てのことは御父から御自分に任せられていると仰せになった。これは、既にダニエル7章13節以下で啓示された事柄であり、マタイ28章18節やルカ10章22節やヨハネ3章35節や同13章3節等、福音書では事ある毎に強調される「真理(ヨハネ14章6節)」である。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

《御父である神、主》と《御子である神、主イエス》とは、詩編110編1節では御父は「主」、御子は「わが主」でありマタイ22章44節で御父は「主」、御子はダビデの言う「わたしの主」である。ヨハネ1章1節では御父は「神」、御子は「言(ことば)」であり、「言は神であった」と記されている。

(注)別エントリー「試論:「わたしの主」は誰?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7536

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

試論:「彼らは群衆が怖かった」を140文字以内で

【問】マルコ11章32節で、主イエスの敵たちが群衆を恐れた理由は?
【答】ルカ20章6節の通り、軽々しくイエスを攻撃することで逆に民衆から冒涜者扱いされて石で殺される事態を誘発しかねないからです。ヨハネ11章17節以下「ラザロの復活に立ち会っていた群衆は、その証しをしていた。〜」。

一ペトロ4章7節「万物の終わり」???

【問】一ペトロ4章7節は「万物の終わりが迫っています」(新共同訳)と説きます。これの意味とは?
【答】「万物の終わり」は、むしろ《全ての成就》という意味合いで、主イエスがルカ21章22節でエルサレム滅亡を「書かれていることがことごとく実現する報復の日」と予告されたことへの言及です。

ルカ21章22節には「書かれていること」という言い回しが用いられているが、これはヨシュア記1章8節と同様に、「預言された事柄」「神から啓示された内容」などを意味する表現である。古代においては「書く(書いて記録に残しておく)」という行為それ自体が、非常に重要な意味を持つものだった。

紀元七〇年のエルサレム滅亡時にローマ軍へ投降したユダヤ人のうち、使徒言行録22章のパウロのようにローマの市民権を持つ者はローマ法の保護下にあるため留め置かれたが、そうでない者は妻子と共に奴隷とされ売り飛ばされた。こうして「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」の予告は実現した。

(注)別エントリー「試論:『滅びを避けるには』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5749

ルカ17章34節から35節で主は「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」と繰り返されたが、では一体どこに「連れて行かれ」るのかを、ルカ21章24節では「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と御説明された。これは大昔モーセがレビ記26章33節以下で預言していた話と同じである。

古代のヘブライ人は詩編78編69節の通り、エルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。これを踏まえれば、主イエスのルカ21章33節の仰せ「やがて天地は滅びるであろうが、わたしの言葉は決して滅びない」の意味は、「エルサレムと神殿の滅亡後も、わたしの教えと信仰は生き続ける」である。

(注)別エントリー「試論:黙示録の『第八の者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12097

主はマタイ5章18節で、全てのことが実現して天地が消え失せるまではモーセの律法も消え失せないと仰せになり、ルカ21章22節ではエルサレム滅亡で預言が全て実現すると予告され、紀元七〇年にそれは成就した。詩編78編69節の通りヘブライ人はエルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。

(注)別エントリー「試論:ルカ19章41節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5814

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

主はマタイ5章18節で、全てのことが実現し天地が消え失せるまで律法の時代が続くことを仰せになった。ルカ21章22節では、エルサレム滅亡(20節)の日を「書かれていることが完全に実現する報復の日」と仰せになり、エルサレムと神殿の滅亡(紀元七〇年)で律法の時代が終わると宣言なさった。

「天地が消え去る」の「天」とは、神がお住まいになる場所と見なされたエルサレム神殿とりわけその聖所を指し、二ペトロ3章はその滅亡が近いことを説く。「地」はエゼキエル7章2節同様、イスラエルの地を指す。紀元七〇年にエルサレムと神殿は滅亡しユダヤ(イスラエル人の国家)も同じく消滅した。

二ペトロ3章10節は「主の日」において「天は激しい音を立てながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に熔解し尽くす」と予告した。数年後の紀元七〇年、神が住まわれると見なされて、「天」と同一視されていたエルサレムの神殿は、都の滅亡の際ローマ帝国軍によって火を放たれ、大音響と共に焼け滅びた。

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

ルカ21章22節において、主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると明言されており、それは紀元七〇年に現実のこととなった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代や近未来の世界情勢に関して旧約聖書の預言から考える行為は、不毛である。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

ダニエル書9章では神殿とエルサレムの復興を強く願うダニエルの祈りに応えて、都と神殿の再建さらには救い主の到来までも約束されたが、救い主が不当に殺された後、モーセの律法を蹂躙する集団が神殿の聖所を占拠し、そして次に来る指導者の民が、都と神殿を無法集団もろとも、滅ぼし尽くして終わる。

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

ルカ21章32節で主は「全てのことが起こるまではこの時代は決して滅びない」と仰せになったが、「時代」に当たる原文の単語ゲネアは古代のギリシア語詩編94(95)編10節の「世代」にも用いられ、詩編のこの節ではゲネアを四十年とする。実際この主の仰せからおおよそ四十年後に都は滅亡した。

(注)別エントリー「試論:『今の時代』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5596

(注)別エントリー「試論:『人心荒廃は滅亡の前兆』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6291

申命記28章49節でモーセは、将来イスラエルの民を滅ぼす国民の象徴となる動物を預言した。ルカ17章37節のギリシア語本文も、古代のギリシア語訳申命記と同じ単語を用いている。それはローマの国章と同じ動物で、ヨハネ11章48節で「ローマ人」という表現が登場する、根拠の一つでもあった。

ダニエル9章24節はメシアに関して預言の時代を封印する存在だと預言し、主イエスはルカ21章22節で旧約聖書の全預言が(紀元七〇年の)エルサ レム滅亡で成就すると仰せになった。故に現代や近未来の国際情勢と旧約聖書の預言は無関係で、関係ありとする強弁は、キリスト教の範疇を逸脱している。

主はルカ17章30節で「人の子が現れる日」に言及された。これは黙示録6章17節「神と小羊の怒りの大いなる日」と同じで「神」は御父である神、「人の子」「小羊」は主イエス・キリストである。「はげ鷹」ローマ帝国は繁栄の都エルサレムと神殿を、神の介在を疑い得ないほどに跡形もなく滅ぼした。

主はルカ21章20節以下で(紀元七〇年の)エルサレム滅亡及びその前後にユダヤを襲う「大いなる艱難」(23節)を予告された。また「異邦人の庭」(黙示録11章2節)を持つエルサレム神殿がまだ存在する時期に黙示録の内容を啓示され、エルサレム滅亡後も教会は存続すると希望をお与えになった。

主はルカ17章20節で「神の国は見える形では来ない」22節で「人の子の日を弟子たちが見ることはない」と仰せになったが、アモス5章18節では「主の日を待ち望む者は災いだ。主の日は闇であって光ではない」と預言しており、「神の国の到来」と「主の日」とを混同すべきではないと、理解できる。

(注)別エントリー「試論:『主の日』二つの意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12894

プロテスタントの文語訳聖書『改訳 新約聖書』(1917年)はルカ21章23節を「地(ち)には大(おほひ)なる艱難(なやみ)ありて、御怒(みいかり)この民(たみ)に臨(のぞ)み」と訳し、ある人々がいわゆる「大艱難時代」と呼ぶ時期とは実は紀元七〇年の滅亡の前後に他ならないと示唆する。

主はルカ21章23節でエルサレム滅亡とその前後のユダヤの苦難を予告されたが、『改訳 新約聖書』(1917年)では「大なる艱難」と日本語訳する。一世紀後半のユダヤの歴史家ヨセフスの記述通り、紀元六六年の大反乱の勃発から七三年のマサダ陥落までの七年間に、ユダヤは惨劇の連続を経験した。

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の意義を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9840

ダニエル9章24節はメシアに関して預言の時代を封印する存在だと預言し、主イエスはルカ21章22節で旧約聖書の全預言が(紀元七〇年の)エルサレム滅亡で成就すると仰せになった。故に現代や近未来の国際情勢と旧約聖書の預言とは無関係で、関係ありとする解釈は主の仰せとは明確に相反している。

試論:「優しい人に神は優しい」を140文字以内で

【問】自分は神に救ってはもらえないのではないかと、不安になることがあります。
【答】周囲に対して厳しい態度を取ることが多い人は自分がそうなので、神も同じく周囲に対して厳しいのではないかと、不安になります。詩編18編26節前後は、神は優しい人に優しく厳しい人に厳しい、と歌っています。

【追記】

主イエスはイザヤ28章16節や詩編118編22(21)節を踏まえて御自分を「隅の親石」と呼ばれた。古代ギリシア語訳イザヤ28章17節では、神なる主が個々の人間を評価される基準を「〔わたしは〕憐れみの業を分銅とする」と記す。ルカ6章38節「あなたたちは自分の量る秤で量り返される」。

(注)別エントリー「試論:マタイ21章42節『家』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15057

(注)別エントリー「聖書にはクリスマスの日付が載っていますか???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13267

(注)別エントリー「試論:憐れみ深い人が幸いの理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14898

【問】「マリア様は優しくて好きだけどイエス様は厳しくて嫌い」と口にする人がいるようです。
【答】迷信です。主はマタイ23章37節で御自分の愛を母鳥のそれに喩えられ、母性的な愛をも兼備していると明言されました。詩編18編26節前後は主は優しい人に優しく厳しい人に厳しいと歌っています。

マタイ7章12節「他人からしてもらいたいことを、あなたから他人にしなさい。これこそ律法と預言者」同5章22節「腹を立ててはならない」同7節「憐れみ深い人は幸い。その人は天の御父の憐れみを受ける」同6章14節「あなたが他人の過ちを赦すならば、天の御父もあなたの過ちをお赦しになる」。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346

ルカ6章38節で主は、「あなたがたは自分の量る秤(はかり)で量り返される」と仰せになり、他人に厳しく自分に甘い人に対して神が厳しい態度で臨まれることを宣言された。それゆえ、主は「人を裁くな」「人を罪人と決めるな」「赦しなさい」「与えなさい」「敵を愛しなさい」等々とお教えになった。

(注)別エントリー「試論:赦しの重要性を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5390

試論:エルサレム神殿滅亡の予告を140文字以内で

主イエスはマルコ11章17節で「あなたたちは神殿を強盗の巣にした」と仰せになった。これは大昔に預言者がエレミヤ7章11節で啓示したことを踏まえているが預言者は続く12節以下で、かつてのシロの聖所のように、エルサレムの神殿も滅亡すると啓示した。つまり主イエスもそれをほのめかされた。

(注)別エントリー「聖母と聖ヨセフが終生童貞である理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4464

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

【追記】

ヨハネ11章47節以下は最高法院がイエスの死を決めた経緯を記す。「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びずに済む方が皆には好都合」(50節)と大祭司カイアファは預言した。こうして、救い主は贖(あがな)いの業を行うこととなったが、カイアファの悪意が正当化されるわけでは、ない。

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

マルコ11章23節「この山」

主はマルコ11章23節で「誰でもこの山に向かって『立ち上がって海に飛び込め』と言い、〜」と仰せになったが、御受難の結果である永遠の命を預言したイザヤ25章7節以下では、御受難の地を「この山」と呼ぶ。既にイザヤ2章及びダニエル9章16節では、神殿の所在地でもある都を「山」と呼んだ。

ヨハネ20章9節では、〔旧約〕聖書がイエスの復活を語っていると記す。

イザヤ25章は、

「この方こそ、わたしたちを救ってくださる、わたしたちが待ち望んでいた神」(9節)

と呼ばれる方が、

「この山」(7節)

と呼ばれる場所において、

「死を永久に滅ぼしてくださる」(8節)

ことを預言している。

鉄道の「上り下り」の表現の通り、地方から都に近づくことを「上る」都から地方へ遠ざかることを「下る」と表す。まして古代のイスエラルで「都」は、天の御父のお住まいとみなされた神殿の所在地であり、神殿や都は、上って行くべき場所の象徴としても「山」と表現された(イザヤ2章2節以下参照)。

主イエスはヨハネ12章23節以下で御自分の十字架の死により悪魔の罪と死の支配を終わらせる(ヘブライ2章14節以下参照)と宣言された。それはイザヤ25章8節の預言の成就だがイザヤのその節の前後は、成就の地エルサレムを「この山」と呼ぶ。ダニエル書9章16節「聖なる山」とも同じである。

(注)別エントリー「試論:動かし難い物の比喩『山』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9551

(注)別エントリー「試論:御受難と『永遠の命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9460

ゼカリヤ4章7節の「大いなる山よ、お前は何者か。ゼルバベルの前では平らにされる」の預言にある通り古代のヘブライ人は頑強な抵抗や反対を「山」にたとえた。主のマタイ17章での悪霊を追い出せなかった弟子たちへの仰せ「からし種一粒の信仰があれば、この山に向かって」の「山」も、同じである。

主はマタイ17章20節で、御自分でなければ追い出すことができなかったほど頑強な悪霊の抵抗を、「この山」という比喩で表現された。悪霊を追い出す話は「高い山」(17章1節)から主と三人の弟子が他の弟子たちの所へ戻った後の話(マルコ9章14節)で、「この山」と「高い山」は直接関係ない。

イザヤ2章12節は、万軍の主の日においては全ての「誇る者」「傲慢な者」「高ぶる者」はことごとく低くされると預言して、14節は彼らを「高い山」「そびえ立つ峰」と表現する。主イエスも「自分を高くする者は神によって低くされ、自分を低くする者は神によって高くされる」と繰り返し教えられた。

(注)別エントリー「試論:『高慢と謙遜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9051

(注)別エントリー「試論:『恵みとへりくだり』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8781

ルカ3章5節はイザヤ40章4節を引用して、「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる」と記す。預言者イザヤが到来を預言した救い主イエスも「自分を高くする者は神によって低くされ自分を低くする者は神によって高くされる」と繰り返されて、イザヤ40章4節の意味するところを御説明された。

(注)別エントリー「試論:『高慢は破滅を準備する』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7485

試論:迷信「イエス様は厳しい」を140文字以内で

【問】「マリア様は優しくて好きだけどイエス様は厳しくて嫌い」と口にする人がいるようです。
【答】迷信です。主はマタイ23章37節で御自分の愛を母鳥のそれに喩えられ、母性的な愛をも兼備していると明言されました。詩編18編26節前後は主は優しい人に優しく厳しい人に厳しいと歌っています。

試論:「主を試してはならない」を140文字以内で

【問】主イエスは荒れ野の誘惑の際、最後に「主を試してはならない」と仰せになりました。これの意味は?
【答】「主を試す」とは例えば「神は最終的にはあなたたち全員を救って下さるのだから、あなたたちはどんどん罪を犯しなさい」と煽動する類いのもので、蛇がエバを楽園で欺いた時と同じ論法です。

試論:「目が開ける」の比喩を140文字以内で

【問】聖書で「目が開く、開ける」の象徴的意味は?
【答】理解力が格段に向上したり、理解力が別次元のものになることの比喩です。聖書では、この「目が開く、開ける」という表現は禁断の実を食べてしまった後のアダムとエバ、また御復活の主に出会ったエマオの二人の弟子たちの話において登場します。

試論:「放蕩息子」の「その時」を140文字以内で

【問】ルカ15章「放蕩息子」の話で最も重要な瞬間はどこ?
【答】17節「我に返る」瞬間です。放蕩の限りを尽くし財産を無駄使いし何もかも失って初めて彼は、自分にとって本当に大切なものが何であるかに気付きましたが、その瞬間です。本当に大切なもののところへ向かって、彼は、戻り始めました。

試論:「聞くだけで行わない者」を140文字以内で

主はマタイ7章26節で「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は、砂の上に家を建てる人に似ている」と教えられた。22章14節「招かれる者は多いが選ばれる者は少ない」とは、《わたしの教えを耳にしたことのある者は多いが、それを真摯に受け止めて日々実践している者は少ない》という意味である。

【追記】

主イエス・キリストは「山上の説教」で「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」(マタイ7章26節)と仰せになり、また「聞いて行う者は岩の上に家を建てた賢い人に似ている」(24節)とも仰せになられ、行うことがない信仰生活のもろさを強調なさった。

試論:ローマ3章28節を140文字以内で

【問】「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」。これと同じ主張は福音書にありますか?
【答】マタイ9章13節「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」。神なる主がお喜びになる行いは、割礼や各種の献げ物やいけにえの類いではなくて、隣人愛の実践です。

【追記】

【問】「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく」の「律法の行い」って、何?
【答】ローマ3章30節以下では割礼が話題にされますが、ヘブライ10章5節以下は「罪を贖うためのいけにえ」や「焼き尽くす献げ物」に言及し、続いて、神はこれらを望みもせず、好まれもしなかったことを説明します。

【問】では、「人が義とされるのは信仰による」の「信仰による」は、聖書の中のどの箇所で説明されていますか?
【答】ガラテヤ5章6節「キリスト・イエスに結ばれているのなら割礼の有無ではなく愛の実践を伴う信仰こそ大切」ヤコブ2章17節「行いを伴わないのなら信仰はそれだけでは死んだもの」。

「あなたたちは王の系統を引く祭司」?

【問】一ペトロ2章9節「あなたたちは王の系統を引く祭司」の意味とは?
【答】モーセの律法の祭司はいけにえや献げ物を神に献げますが、王であるキリストの弟子は一人一人がいけにえでなく憐れみの業(ホセア6章6節、ミカ6章8節)を神に献げる義務がある、という意味でキリストにおける祭司です。

(注)別エントリー「試論:憐れみ深い人が幸いの理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14898

(注)別エントリー「試論:ホセア6章の『神を知る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15271

主イエスはマタイ福音書で二度(9章13節、12章7節)、ホセア6章6節「わたしが喜ぶのは憐れみであっていけにえではない」を引用され、隣人への敬意を欠いた者による尊敬など神に受け入れられぬと教えられた。22章で律法の最も重要な掟の第一を神への愛、第二を隣人愛とされたことと符合する。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

ホセア6章6節は「わたしが求めるのは、憐れみであって『いけにえ』ではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」と記すが、これと関連して一ヨハネ2章3節は「知る」という表現の意味を《神の掟を守るという実体験を通して自分は神を知っているのだと自覚する》ことであると説明する。

(注)別エントリー「試論:『神を知ること』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5580

主イエスはマタイ7章21節で「わたしの天の父の御心を行う者だけが天の国に入る」と宣言され11節で「求める相手に良いものを与えることこそ天の父の御心」と仰せになった。天の父の御心とは、「あなたが他の人からしてもらいたいことならなんでも、あなたから他の人にしなさい」を行うことである。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』の意義を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17078

【問】主イエスは「自分が他人からしてもらいたいことはなんでも、あなたから他人にしなさい」を御自分の《律法》とされましたが、なぜですか?
【答】主は「最後の晩餐」の折に《隣人愛》の掟を授けられましたが、弟子たちが「今更ですが、愛とは一体、何ですか」などと言い出さぬようにするためです。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

背を向けてはならない

マタイ1章19節はヨセフをディカイオス(正しい人)と呼ぶ。古代ギリシア語訳箴言21章26節「ディカイオスは惜しまずに与える」マタイ5章42節「何かを求める人には、与えなさい。何かを借りようとする人に、背を向けてはならない」ルカ6章38節「あなたたちは自分の量る秤で量り返される」。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「聖ヨセフ:ディカイオスを旧約聖書で考察」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1613

マタイ1章19節は主の養父ヨセフを「正しい人(ディカイオス)」と表現する。25章の「最後の審判」におけるディカイオスは、隣人が何らかの助けを必要としている時に、必要とされている助けを提供して困り事を解決する人を指し、ヨセフはイエスとマリアが本当に必要としていることだけを実行した。

ヨハネ12章25節は「この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命を得る」と主の仰せを記す。古代のヘブライ人は「〜を二の次にする」と言いたい時にも、「〜を憎む」という表現を用いた。主の養父ヨセフはヘロデが幼子の命を狙った時も、自分の命を二の次にして幼子と幼子の母を守り続けた。

主はマタイ6章33節で、まず神の国と神の義(ディカイオシュネー)を求めるよう教えられた。1章19節はヨセフを義人(ディカイオス)と呼ぶが、この語は神の義を体現する人を指す。相手が幼子や女性だからといって馬鹿にした態度を取る男性もいるが、その点、ヨセフに関しては心配する必要がない。

(注)別エントリー「聖家族はどのような雰囲気の中で暮らしていたのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5246

マタイ1章19節のギリシア語本文は聖ヨセフを「ディカイオス」(新共同訳では「正しい人」)と表現するが、古代ギリシア語詩編111(112)編6節は、「ディカイオス(新共同訳では「主に従う人」)はとこしえに揺らぐことがなく彼はとこしえに記憶される」として最大級の賛辞で、表現している。

マタイ福音書は後世への教訓に、最初の二つの章で主の養父ヨセフを模範として掲載した。ヨセフは忍耐強く、情け深く、自慢せず、高ぶらず、礼を失わず、自分の利益を求めず、恨みを抱かず、苛立たず、不義を喜ばず、真理を喜んだ。イエスとマリアのために、全てのことを忍び、確信し、待望し、耐えた。

マタイ1章19節は主の養父ヨセフを義人と呼び、エゼキエル18章6節では義人の条件の一つに生理中の女性に近づかないと挙げる。女性特有の心身の辛さに配慮し、女性に余分な負担を加えぬよう自分を律することができる男性こそ義人である。女性を蔑まずリスペクトの対象にできる男性こそ義人である。

ダビデは神からの霊感を受け詩編15編で、《神の家》で《神の同居家族》となる人々について、「親しき仲にも礼儀あり」という観点で言葉と行いの両面において、(無垢という意味で)完全な神の御目にかなった人々であると表現した。マリアとヨセフはそれに該当しなかったなどと、誰が言えるだろうか?

(注)別エントリー「試論:マリアとヨセフに倣う事柄を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7012

「神の家」で主に奉仕する女性が男性と「ともに寝る」ことは、主に対して罪を犯す悪事であった(サムエル記上2章22節〜25節)。それゆえに当然、真の意味での「神の家」である主イエスのお住まいの「主のはしため」(ルカ1章38節、48節)マリアは、夫ヨセフと「ともに寝る」ことがなかった。

(注)別エントリー「試論:『聖別』と聖母の終生童貞を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7939

(注)別エントリー「聖母と聖ヨセフが終生童貞である理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4464

旧約の民にとって神なる主は「わたしたちの父」(イザヤ63章16節)だが、救い主(8節)がお生まれになり(9章5(6)節)、民の「永遠の父」である方は「みどりご」として来られた。養父とはいえ人間が「父」となるなどヨセフにとって太陽が西から昇るどころではなかったが彼は責務を全うした。

(注)別エントリー「試論:『神の養父』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13347

今、あなたの神、主があなたに求めておられることとは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてその全ての導きに従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸せになることではないか。(申命記10章12節〜13節)

マタイ1章19節は主の養父ヨセフをディカイオス(正しい人)と呼んだ。古代ギリシア語訳詩編36(37)編21節「悪人は借りたものさえも返そうとはしないが、ディカイオスは惜しまずに与える」マタイ5章42節「何かを求める人には与えなさい。何かを借りようとする人に背を向けてはならない」。

主イエスの養父ヨセフはマタイ福音書の1章と2章では大活躍を見せるものの、その姿は3章以降では見られなくなる。しかし25章の「最後の審判」の箇所において、ヨセフは「正しい人たち」の中に確実に含まれている。なぜなら1章19節においてヨセフは「正しい人」として紹介されているからである。

試論:「模範としての子供」を140文字以内で

【問】主イエスはマタイ18章で子供を模範として示されましたが、なぜですか?
【答】自分を低くして(4節)心を入れ替える(3節)ことが神の御旨ですが、人間は往々にして年齢を重ねるうちに間違った自尊心を肥大させて聞く耳を持たなくなり、他人の助言や忠告に耳を貸さなくなってしまうからです。

試論:マルコ10章50節の上着を140文字以内で

詩編30編12(11)節は、主を呼び求める叫びが聞き入れられた者の心情について「あなたは嘆きの心を喜び躍るものへと変えられ、わたしの長年の苦しみを脱がせ喜びを着せてくださった」と歌う。マルコ10章50節でエリコのバルティマイは詩編を踏まえ、奇跡が行われる前に喜びを動作で表現した。

(注)別エントリー「試論:黙示録17章『十本の角』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9155

試論:「狭い門、命に通じる門」を140文字以内で

【問】マタイ7章の「狭い門」(13節)「命に通じる門」(14節)って、何?
【答】「神の義」(同6章33節)の象徴「義の門」(イザヤ26章2節、詩編118編19節)のことで、具体的にはマタイ7章12節「他人からしてもらいたいことなら全て、あなたから他人にしなさい」の主の御教えです。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

【追記】

【問】なぜマタイ7章14節は「なんと狭く道も細く、見出す者が少ない」と説くの?
【答】マタイ25章「最後の審判」やルカ10章「善きサマリア人の話」は、マタイ7章12節の《キリストの律法》の実行こそ永遠の命への道と明示するのに、その重要性に信者を自認する人々ですら関心が薄いからです。

(注)別エントリー「《キリストの律法》(マタイ7章12節)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18013

贖(あがな)いにおける聖母の役割

マルコ福音書は主の御降誕には触れないものの、6章3節で主イエスには母親がいたことを記し、10章45節では主の到来の目的の一つが「多くの人の身代金として自分の命を献(ささ)げる」つまり贖(あがな)いのためと記す。パウロもガラテヤ4章で母親の存在(4節)と贖い(5節)とに触れている。

(注)別エントリー「『《マリアの子》なら私生児』説は誤り」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1478

詩編49編8(7)節は神に対し人間が贖(あがな)いの業を行うことはできないと説く。それができるのは「人〔となられた神〕の子」だけであり、そのために主イエスは来られた(マタイ20章28節)。神は劣化できないため、神のままで人間の全てを担う必要があり、そのためにマリアが不可欠だった。

(注)別エントリー「試論:『神には劣化がない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8697

【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。

詩編49(48)編8(7)節は、神に対して人間が贖いの業を行うことはできないと記す。とはいえ神の御独り子が自ら人間となられて自分の「からだ」を「身代金」として贖いの業を行われた時の「からだ」は、マリアから受けたものだった。マリアは極めて特別な形でイエスの贖いの業に「参加」をした。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7795

(注)別エントリー「試論:『履物を脱ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8620

古代のヘブライ人は「肉」という言葉で、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけでなく、魂も含めた人間としての全体)」を表した。ヨハネ1章14節をこの観点で理解すれば、ニケア・コンスタンチノープル信条「おとめマリアよりからだを受け」の「からだ」は、人間としての全てを意味している。

ヨハネ19章は、ゴルゴタの主の十字架の傍らに聖母がおられたと記すが、聖母の内面がどのようであったかについては全く記述がない。しかしルカ2章35節はシメオンの預言として、「多くの人の心にある思い(34節の「逆らい」)があらわになるため、あなた自身も剣で心を刺しつらぬかれる」と記す。

(注)別エントリー「試論:『剣』と『言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7807

ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。

主の御受難を預言したイザヤ53章7節では、出エジプトの代価となった「小羊」(出エジプト記12章3節等)を想起させる一方で、「屠(ほふ)り場に引かれる」と表現してイサクの犠牲の身代わりとなった羊(創世記22章13節)をも想起させ、主の御受難が人々の身代わりであることを再認識させる。

ヨハネ1章で洗礼者は主イエスを「神の小羊」(29節、36節)と呼んで周囲に注意喚起したが、ペトロは第一の手紙1章19節で「きずや汚(けが)れのない小羊のようなキリスト」と呼び2章22節ではさらに「罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」とイザヤ53章9節を引用し説明する。

エレミヤ11章19節「わたしは、飼い馴らされた小羊が屠(ほふ)り場に引かれて行くように、何も知らなかった。彼らはわたしに対して、悪巧みをしていた」ヨハネ5章39節「聖書はわたしについて、あかしをするものだ」ルカ24章44節「わたしについて預言者の書にある事柄は必ず全て実現する」。

(注)別エントリー「試論:主イエスと旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7462

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4783

出エジプト記12章では、イスラエルの人々がファラオの支配から解放される代価となった小羊の存在に言及する。ヨハネ1章29節では、十字架において世の人々が罪の支配から解放される代価となるはずの主イエス・キリストの存在について、洗礼者ヨハネが「神の小羊」と呼んで、注意を喚起したと記す。

(注)別エントリー「試論:世の罪を取り除く神の小羊を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6140

詩編49編8(7)節は神に対し人間は贖いの業を行うことができないと記す。マタイ20章28節で主イエスは、「人の子(人となった神の独り子)」が世に来た目的とは、御自身が担っている「人間としての全て」を「身代金(詩編49編8節と同表現)」として贖いの業を行うためであると、宣言された。

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7479

黙示録7章16節はイザヤ49章10節を踏襲することで洗礼者が言及した(ヨハネ1章)

「〔神の〕小羊」

とイザヤ書の

「主の僕(しもべ)」

が同一人物であると再確認させ、

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために来た」
(マタイ20章28節、マルコ10章45節)

という事柄をも再確認させる。

ヨハネ1章29節「世の罪を取り除く神の小羊」の「取り除く」に当たるギリシア語は、一ヨハネ3章5節にも登場し、その前後では隣人愛の実践を奨励するが、同じ表現をエフェソ4章31節も用い、主に応えて信者が取り除くべき事柄を「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりを全ての悪意と共に」とする。

(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3277

エフェソ4章の後半では「神にかたどって造られた新しい人」として生きるためとして「怒ることはあっても罪を犯してはならない」「日が暮れるまで怒ったままではいけない」「悪い言葉を一切口にしない」「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどの全てを、一切の悪意とともに捨てる」等を勧めている。

ヨハネ1章14節は「神の御言葉(=主イエス)は肉(=人)となられ、わたしたちの間に宿られた(=住まわれた)」と記す。マタイ20章28節では主御自身が「仕えられるためではなく仕えるため」「多くの人の身代金(=あがない)として自分の命を献(ささ)げるために来た」と仰せになられている。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

主はヨハネ12章27節で「今わたしは心騒ぐ」と仰せになり御自分の内面は穏やかでないと告白された。多くの侮辱を伴う凄惨なリンチの末に、十字架を背負わされ、「御自分の民」から罵声を浴びながら体力を消耗し尽くし、ぼろ布のような状態で大きな苦しみの内に息絶える日がそこまで来たからである。

主はヨハネ12章23節で「人の子が栄光を受ける時が来た」と仰せになった。御受難(十字架上の死)によって多くの人々に永遠の命をもたらし(24節〜25節)「死を永久に滅ぼす」(31節、イザヤ25章8節、一コリント15章54節、ヘブライ2章14節以下、コロサイ1章20節等)ためである。

ヨハネ8章34節「罪を犯す者は、罪の奴隷」12章31節「今、この世の支配者が追放される」ヘブライ2章14節〜15節「御自分に委ねられた者たちが人間である以上イエスも同じく人間としての全てを担われたが、死を司る悪魔を御自分の死によって滅ぼし悪魔の罪と死の支配から人々を解放された」。

主はヨハネ12章24節で「一粒の麦もし死なずば」の一節の前に、ギリシア語本文では二度「アーメン」と口にされた。通常この箇所は「まことにまことに」「よくよく」「はっきり」等と訳されるが、主はこうなさることで、そこが御教えの核心部分だと示された(31節及びコロサイ1章20節等参照)。

主はヨハネ8章32節で「真理はあなたたちを自由にする(解放する)」と仰せになった。パウロはヨハネと同じギリシア語を用いて何からの解放か、その答えをローマ6章と同8章で説明した。「罪から解放」(6章18節、22節)、8章2節「罪と死の法則から解放」同21節「滅びへの隷属から解放」。

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

ルカ2章21節でマリアの産んだ幼子はイエスと名付けられたが、その理由をマタイ1章21節では「その子は自分の民を罪から救うから」とヨセフの夢に現れた天使が語る。エレミヤ14章8節は救い主キリストの寄留者や旅人のような日々を預言し、ルカ9章58節は「人の子には枕する所もない」と記す。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888

ルカ2章11節は「あなたたちのために救い主がお生まれになった」マタイ1章21節は「この子は自分の民を罪から救う」と記す。イザヤ35節4節以下は「敵(サタン)を撃ち悪を罰する神が来られ、あなたたちを救われる」と預言し、目や耳や足や言葉の不自由な人々の回復が神の到来の徴になると続く。

マタイ1章でヨセフの夢に現れた主の天使は「マリアが産む子は民を罪から救う」と教えた。同じ事柄をペトロは使徒言行録3章26節で、「神は御自分の僕(しもべ、同13節参照)を立てられ遣わしてくださった。それは一人一人を悪から離れさせ、祝福(マタイ25章34節)に与らせるため」と説いた。

(注)別エントリー「試論:祝福された人と最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13187

マタイ1章21節は「自分の民を罪から救う」ルカ1章77節は「罪の赦しによる救い」と記し、主御自身もマタイ6章13節で「悪い者から救って下さい」と《主の祈り》を教えられ、ガラテヤ1章4節は「この悪の世からわたしたちを救い出そうとして御自身をわたしたちの罪のために献げられた」と記す。

(注)別エントリー「主の御降誕:救い主は何から人々を救うのだろうか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4445

主イエスは黙示録22章13節で「わたしはアルファでありオメガ」「最初の者であり最後の者」「初めであり終わり」と自称された。これはイザヤ44章6節に対応し、同節は「わたしをおいて神はない」と続く。ヘブライ2章10節以下は「万物の源であり目標」「救いの創始者」「一つの源」と主を呼ぶ。

主はヨハネ14章27節で「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と仰せになった。ではどうやって主は御自分の平和をお与えになったのか、パウロがコロサイ1章20節で「その十字架の血によって」と答えを記した。

試論:イエスの教えは時代遅れ?を140文字以内で

【問】イエスの教えは時代遅れですか?
【答】人間は自分が尊重されていないと思い込んだ時、予想外の行動に走ります。カインはそれで弟アベルを殺しました。「他の人からしてもらいことなら全て、あなたから他の人にしなさい」(マタイ7章12節)は、人類の普遍の「真理」(ヨハネ14章6節)です。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「《キリストの律法》(マタイ7章12節)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18013

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:創世記4章8節のタルグムを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17862

【追記】

1783年フランスで有人気球の飛行実験が成功した。神の領域である大空への侵犯として慎重論を唱えた聖職者に対して、神の罰も何の恐ろしいことも起きなかったと人々は主張し、教会は時代遅れの迷信と見なされるようになったが、約一〇年後、ギロチンは連日「革命の敵」とされた人々を斬首し続けた。

(注)別エントリー「18世紀フランスの『さよなら人類』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19937

百倍の報い???

【問】マルコ10章30節前後は「わたしと福音のため全てを捨て迫害を受けた者は百倍の報いを受ける」と読めますが、歴史上そんな人はいましたか?
【答】「わたしと福音のため全てを捨て迫害まで受けた者は、この世で現世的な百倍の報いを受けなかったとしても、永遠の命を受ける」と考えるべきです。

【問】この問題の部分と類似する表現は、新約聖書の他の箇所にはありますか?
【答】マタイ12章32節「聖霊を冒涜する者はこの世でも来世でも赦されない」。同じくマルコ10章30節も「この世でも来世でも現世的な百倍の報いを受けなかったとしても、〔それ以上の恵みである〕永遠の命を受ける」。

【問】なぜ主イエスは、この箇所で「報い」について、唐突に「百倍」などと大袈裟な表現を用いられたのですか?
【答】ヨブ記の最終章には試練を受けたヨブが最後に友人たちのために祈った後、主はヨブの財産を二倍にして返された、という有名なエピソードがあり、それを踏まえてのものと考えられます。

箴言12章28節「憐れみの道にこそ命がある。この道を行く人に死はない」ルカ6章35節以下「敵に親切にし、善を行い、何も当てにせず貸しなさい。そうすれば、あなたたちはいと高き方であられる天の御父の子となり、大きな報いを受ける。あなたたちも天の御父のように憐れみ深い者になりなさい」。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『永遠の命の言葉を持つ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11244

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

マタイ5章9節「平和を実現する人は幸い。その人は神の子と呼ばれる」ルカ6章35節「敵であっても尊重し、善を行い、何も当てにせずに貸しなさい。そうすればいと高き方である天の御父から大きな報いがあり、あなたはその方の子となる。いと高き方は恩知らずや悪人にとっても善い方だからである」。

多くの人が黙示録20章の記述を誤解し、キリストと共に世を支配する「千年王国」を夢見たが、他方ヨハネ18章36節で主は御自分の王国(バシレイア)は世に属さないと確言された。「王」(マタイ25章34節)であるキリストと共に支配するとは、悪魔の罪と死による支配から自由になることである。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

(注)別エントリー「真理は罪と悪と死から自由にする」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9524

黙示録20章やローマ5章は「悪に悪を返さない」ことを徹底して罪や悪と決別した人々を「バシレウオ(〔キリストとともに〕王となる)」という動詞で表すが、これはあくまで《義化の完成》を象徴する表現であり政治体制的な意味を含まず、彼らは「第二の死」を免れ「永遠の命」を得ると記されている。

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

主イエスはヨハネ18章36節で、「わたしのバシレイアは、この世には属していない」と仰せになった。原文のギリシア語バシレイアは、聖書では「王権」「〔神の〕王国」を意味し、「王国の一人一人」まで包含する。黙示録1章6節でヨハネは、自分たちは既にその一部を構成していると書き記している。

(注)別エントリー「試論:バシレイア(=神の王国)を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ12章32節で、御自分のことを単に人間的な事柄で嘲る人の悪口(同11章19節「大食漢で大酒呑み、徴税人や罪人の仲間」)は許容範囲内だが、神の霊つまり聖霊によって悪霊を追い出した事実を「ベルゼブルによって悪霊を追い出した」と咎めることは絶対に許容されないと、仰せになった。

マタイ9章32節以下のいやしのエピソード以降、ファリサイ派の人々は「彼は悪霊のかしらの力で悪霊を追い出している」と主イエスを中傷し続けた。主はマタイ12章32節で、聖霊によって悪霊を追い出した事実を「ベルゼブルによって追い出した」と咎めることは絶対に許容されない、と仰せになった。

主イエスは「ベルゼブル論争」の際、マタイ12章28節では神の霊すなわち聖霊によって悪霊を追い出したと仰せになったが、ルカ11章20節では「神の指によって」と表現されている。「神の指」とは神の御力や御業を表す(出エジプト8章15節、同31章18節、申命記9章10節、詩編8編4節)。

主はマルコ3章28節以下で、御自身の人間(人の子)的側面(ガリラヤ人、大工等)を云々する人々には酌量の余地がまだ残されるが、御自身の神としての権威(聖霊によって悪霊を追い出した事実)を目の当りにしながらそれになお難癖をつける人については、最早決して酌量の余地はないと警告なさった。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888

マルコ12章の律法学者との対話において、主はレビ記19章18節の隣人愛の掟を、「最も重要な掟」の第二とされた。最後の晩餐の際(ヨハネ13章以下)、主イエスは隣人愛の掟を「新しい掟」「わたしの掟」としてあらためて授けられ、愛の掟を守ることこそが御自分の弟子である証しだと教えられた。

主イエス・キリストはマルコ12章における「最も重要な掟」の第一と第二とを統合され、ヨハネ13章34節で「新しい掟」そして「わたしの掟」(同14章15節)とされた。この掟は隣人愛の実践をもって、神への愛の実践とする(同節)。隣人愛の実行こそがキリストへの信仰をあかしするものとなる。

主はヨハネ3章3節で「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることができない」と仰せになられた。エフェソ4章31節以下では無慈悲・憤り・怒り・わめき・そしりなどの全てを一切の悪意と共に捨てるよう勧め、互いに親切にし合い、憐れみの心で接し合い、またキリストにならい赦し合うよう勧める。

神の国に入るためには「神の義」が不可欠であることを主は「礼服」という比喩で御説明された。コロサイ3章では「着る」べきものは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛と挙げる。マタイ11章で主は「わたしは柔和で謙遜な者だから」(29節)「わたしの荷は軽い」(30節)などと仰せになった。

主はマタイ11章30節で、「わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽い」と仰せになった。主が人々に求められるものとは、「神の義(正義)」と言えばどこか厳格な響きがするが、実際に「神の義」を構成するのは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛などの事柄である(コロサイ3章)。

(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6748

主イエス・キリストはマルコ12章における「最も重要な掟」の第一と第二とを統合され、ヨハネ13章34節で「新しい掟」そして「わたしの掟」(同14章15節)とされた。この掟は隣人愛の実践をもって、神への愛の実践とする(同節)。隣人愛の実行こそがキリストへの信仰をあかしするものとなる。

(注)別エントリー「試論:『神への愛』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5413

(注)別エントリー「試論:『新しい契約』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5517

(注)別エントリー「試論:『わたしの掟』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6874

(注)別エントリー「試論:『すべてが要約された掟』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6861

「霊的読書」の「霊」って、何???

神に由来する事柄を「霊的」と表現する流儀はヨハネやパウロも用いる「霊と肉の区別」に基づくが、現代でも「霊的読書」と表現する場合、娯楽のための世俗的な書物ではなくキリスト教関連の〔神について考えさせる〕書物を読むことを指し、別に心霊現象や超能力開発等を目的とする読書のことではない。

ガラテヤ5章16節以下では「肉と霊」が対比されるが、ここで「肉」はヨハネ1章14節同様「人間」を指し、「霊」は「聖霊」「神の霊」を意味する。つまりこの章における「肉」と「霊」との対立とは、「人間に由来する諸悪」(マルコ7章20節以下参照)と「神に由来する諸徳」との対立を意味する。

古代のヘブライ人の世界観に従い、ガラテヤ5章は「人間(人間それ自体)」を「肉」、「神〔に由来するもの〕」を「霊」と呼ぶ。ヨハネ3章6節も同じ対比を用い、「霊から生まれた者は霊」とは同1章12節の「神の御言葉である主イエスは、御自分を受け入れる人に神の子となる資格を与えた」を指す。

古代のイスラエル人にとって「肉」という表現は「人間」を指す場合があった(ヨハネ1章14節等)。マルコ7章20節以下で主イエスが「人から出て来るものこそ人を汚す」と注意を促された諸悪と、ガラテヤ5章19節以下でパウロが「肉の業」と呼んで避けるように促した諸悪が同様なのは当然である。

古代のヘブライ人は「肉」を、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけではなく魂も含めた人間の全体。)」を表す言葉として用いていた。創世記6章12節「すべて肉なる者は堕落の道を歩んでいた」(新共同訳)。日本語訳の「肉なる者」に対応する語は、ヘブライ語本文ではただ単に「肉」である。

ローマ8章6節の直訳は「肉の思いは死、霊の思いは命と平和」。ヘブライ人は人間由来の事柄を「肉」、神に由来する事柄を「霊」と呼び、あらゆる幸福を「命」あるいは「平和」と総称した。この節は「人間由来の願望は死で終わるが、神に由来する願望は人間をあらゆる幸福へと導く」という意味である。

ガラテヤ5章は「肉」と「霊」の対立を記すが、ヨハネ1章同様、パウロは古代のヘブライの世界観に基づき、人間そのものを「肉」と表現して「霊」つ まり「神の霊」と対比する。近代人は「肉と霊」という表現から「〔人間の〕肉体と〔人間の〕霊魂の対立」をイメージしがちだが、パウロの意図は異なる。

コヘレト12章7節では人間の肉体を「塵」と表現し死によって大地(創世記2章7節、3章19節)へ帰ると記すが、洗礼により「神の子とする霊」 (ローマ8章15節)を受けた者の「霊」は対照的に、罪に脆い肉体の重荷から解放され「霊」をくださった「与え主」神の許へ帰るべきだと定められている。

(注)別エントリー「試論:『土の家』(+復活の体)を140文字以内で」も参照のこと。
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一コリント15章でパウロは「地上の体」「天上の体」という表現を用いて、《人間が地上で生活していた際の、死によって朽ちていく肉体》と《その人 の霊が神の許に帰還した後で、神によって天上で新しく与えられる、朽ちることのない体》について説明し、後者を「霊の体」(44節)等と表現している。

主イエスはヨハネ8章15節で「あなたたちは肉に従って裁く」と仰せになった。ヨハネ福音書は人間的な事柄を「肉」、神に由来する事柄を「霊」と呼び対比する。ヘロデ王家は自分たちに同調する祭司へ大祭司の権力と富を与え籠絡していた。福音書における神殿の有力者たちの堕落はそれが原因であった。

ヨハネ1章14節には「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(新共同訳)とある。「言(ことば)」とは《御自ら人々の前に現れて御言葉を人々に直接お伝えになる神、御子である神なる主イエス・キリスト》、「肉」は人間を指すヘブライ人特有の表現である(創世記6章12節参照)。

(注)別エントリー「試論:『神が人となられた方法』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13297

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「聖書にはクリスマスの日付が載っていますか???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13267

主イエス・キリストは、人間たちに模範(ヨハネ13章34節)を示されるために、神であり続けながら(ヘブライ13章8節)人間の肉体と魂を担われた(ヨハネ1章14節)以上は、神として教えられた掟(申命記5章16節)を人間として自ら忠実に実践された(ルカ2章51節、マタイ20章28節)。

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9949

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

フィリピ1章24節でパウロは現世で生き続けることを「肉にとどまる」と表現する。

一コリント15章の通り、主なる神から「永遠の命(天国の福楽)」を確約された者は天国で

「天上の体」「霊の体」

と呼ばれる朽ちない体を受け生き続けるが、それは現世の

「地上の体」「肉の体」

と別の新しい体である。

「主の変容」とは、一コリント15章でパウロが言及する

「天上の体」(40節)

を主イエスが実際に三人の使徒へお示しになった意義深い出来事で、パウロは「天上の体」を

「朽ちないもの」(42節)

「輝かしいもの」「力強いもの」(43節)

「霊の体」(44節)

「天に属する者」(47節)

等と呼ぶ。

(注)別エントリー「試論:『イエスは復活と命』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ6章63節は、人間に由来する事柄を「肉」、神に由来する事柄を「霊」と呼ぶ。ガラテヤ5章16節以下は、同じく「肉」「霊」という表現を用いて両者を対比し、詳細かつ具体的に説明を加え、19節〜21節は避けるべき事柄を「肉の業」と呼び、22節〜23節は「霊の結ぶ実」について勧める。

ガラテヤ5章に見られる通り古代のヘブライ人は神に関連する事柄を「霊」、人間に関連する事柄を「肉」と表現して対比した。ヨハネ1章14節「神の御独り子は肉となられ」の「肉」も、人間を意味する。神の御独り子が神のままで「肉」としての全てを担われた(引き受けられた)ことを「受肉」と呼ぶ。

ヨハネ1章12節以下は「言(ことば)」つまり主イエス・キリストによって「神の子」とされた人々は本来「肉の欲」(13節)と無縁だとする。ガラテヤ5章24節は「肉の欲」と絶縁するという決意と日々の努力を十字架という比喩で表現し、19節以下は信者が避けるべき「肉の業」に関して列挙する。

(注)別エントリー「試論:『十字架が象徴するもの』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7585

(注)別エントリー「試論:『日々、十字架を背負う』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7581

ガラテヤ5章16節以下は、人間に由来する事柄を「肉」(創世記6章12節、ヨハネ1章14節)、神に由来する事柄を「霊」と表現し、各々に関係する諸悪と諸徳を説く。一コリント3章は、主に忠実に従う人を「霊の人」、信者を自認してはいても御旨からは程遠い人を「肉の人」「ただの人」等と呼ぶ。

一コリント15章は、

《地上で生きる体》と《永遠の命を得て復活し天の国で生きる体》

とを、

「地上の体」と「天上の体」

「地上の命の体」と「霊の体」

等と表現する。

ガラテヤ5章は人間的な事柄を「肉」、神的な事柄を「霊」と表現し、

コロサイ1章22節「肉の体」とは「人間としての体」の意である。

創世記3章19節は2章7節を踏まえて、人は塵(土)に過ぎないと記す。6章3節では人は肉に過ぎないと記し12節も人を「肉」と呼ぶ。創世記は人を「塵(土)」「肉」と表現しヨハネ1章14節も「御言葉は肉となられ」と記すが、「肉」は道徳的な脆さ(ガラテヤ5章19節以下)とも関連している。

(注)別エントリー「試論:『土の器』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6902

(注)別エントリー「『土の器』(つちのうつは)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14324

「健全な教え」

二テモテ4章3節以下では、やがて人々が健全な教え、すなわち神の御独り子イエスが人間の世に来られた時に実際に仰せになった御教えからそれて行き、替わりに人々はただ自分に都合のいい話を聞くために真理(=主イエス。ヨハネ14章6節)の言葉から耳をそむけて、作り話に引かれて行くと警告した。

(注)別エントリー「試論:『イエスは全人類の模範』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5948

(注)別エントリー「試論:預言解釈の基本を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5092

ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは「天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神」主イエスを表す称号であり主が直接人々にお話しになった御言葉を記したものが福音書である。福音書を顧みず他のものばかりに目を奪われ続けるならばイエス・キリストがわからなくなる。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

一コリント3章11節は「既に据えられているイエス・キリストという土台を無視して他の土台を据えることは、誰にもできない」と記す。二テモテ4章3節以下は、やがて人々が「健全な教え」から離れ、自分に都合のいい話だけ聞いて真理(=主イエス)の言葉を無視し、作り話に引かれて行くと警告した。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:キリスト抜きのキリスト教を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6639

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
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一ヨハネ4章は信用してはならない人の特徴を、キリスト教を語っているようで実は世間に通じる話題だけで、主イエスが実際に教えられた福音書の御言葉を回避していることとした。キリストを棚上げしながら福音書以外の聖書の箇所を引用する目的は、キリストの代わりに自分自身が主役になるためである。

(注)別エントリー「試論:『招かれる』『選ばれる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8012

(注)別エントリー「試論:『神は誰を選ばれるのか』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8051

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

箴言28章9節は、主が教えられた御言葉に耳を傾けないなら、いくら主に祈っても、主のおぼしめしには沿わないと教える。それだと、神を一方的に利用しようとしているだけで、全く信仰の名に値しない。主イエス・キリストが《神の御言葉》である以上、御教えを拒むことは神そのものを拒むのに等しい。

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『主イエスを見失うこと』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『主に聞き従うこと』を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ22章14節「招かれる者は多く選ばれる者は少ない」の<選ばれない理由>をイザヤ65章12節は「呼んでも答えず、語りかけても聞かず、わたしの目に悪とされることを行い、わたしの喜ばないことを選んだからである」と記した。「笛を吹いたのに踊ってくれなかった」(マタイ11章17節)。

(注)別エントリー「試論:『神は誰を選ばれるのか』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

二テモテ3章でパウロは「終わりの時」の人々の姿を記した。自分本位で金銭を愛し、嘘をつき、神を畏れず嘲り、両親に従わず、恩知らずで、他人を侮り、情け容赦なく、強情で、中傷し、節度がなく、残酷で、善を行わず、裏切り、軽率かつ高慢、信仰を装いつつ実際は快楽を愛し、事実上は棄教している。

(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:二ペトロ2章の『偽教師』140文字以内で」も参照のこと。
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主はヨハネ5章39節で、聖書とは御自分についてあかしするものであり、御自分を目的としない聖書研究には意味がない旨を仰せになった。これに関連し一ヨハネ4章も、主イエスに関する事柄についてなるべく触れようとしない自称信者を「偽預言者」「反キリストの霊」「人を惑わす霊」などと表現する。

(注)別エントリー「試論:『預言を封印するメシア』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:聖書を研究する意味とは?を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ5章39節〜40節「あなたたちは〔旧約〕聖書の中に永遠の命があると考えて、〔旧約〕聖書を研究する。しかし、〔旧約〕聖書とは、わたし(=主イエス・キリスト御自身)についての証しをするものである。それなのにあなたたちは〔永遠の〕命を得るためにわたしのところに来ることをしない」。

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の意義を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:旧約聖書を調べる意味を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:預言者も見たかったもの?を140文字以内で」も参照のこと。
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「目」

主は「体のともし火は目」と仰せになり、「目」つまり目つきやまなざしにはその人の内面が露呈されるものだと注意を促され、だからこそ「目の中にある、おが屑や丸太」という比喩で《あなたは相手の内面の小さな問題にはすぐ気付くくせに、自分の内面の大きな問題を直せないのか?》と注意を促される。

主イエスはマタイ6章22節で「体のともし火は目」と教えられた。これは詩編19(18)編の9(8)節「主の定めは正しく心に喜びを与え、主の戒めは清く目に光を与える」箴言6章23節「戒めは灯、御教えは光」ヨハネ1章4節「神の御言葉の内に命があり、命は人間を照らす光」等と関連している。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章4節『命の光』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7297

主は「体のともし火は目」と教えられた(マタイ6章22節、ルカ11章34節)。箴言6章17節は「主が憎まれ心からいとわれる」ものに「驕り高ぶる目」をまず挙げる。いくら笑顔を作っていても、相手を小馬鹿にしたような目つきをしているなら、誰がその人を神と関係のある者だなどと思うだろうか?

主は「体のともし火は目」(ルカ11章34節以下、マタイ6章22節以下)と仰せになったが、当然、「あなたの内面は、まなざし・目つきで明らかにされる」という意味でも上記の表現を用いられ、箴言21章4節は《高慢なまなざしは神に逆らう者の傲慢な心を明らかにするが、傲慢は罪である》と説く。

イザヤ10章12節の「主はアッシリア王の驕った心の結ぶ実と高ぶる目の輝きを罰せられる」が示す通りヘブライ人は、「人間の心の状態は眼差し・目付きなどに反映されるため目を見ればその人の内面とりわけ高慢心が明らかになる」と考えており、マタイ6章「体のともし火は目」はこれを踏まえている。

ルカ1章「マリアの賛歌」で、聖母は御自分を「身分の低い(タペイノス)」「はしため」と表現されたが、このギリシア語「タペイノス」は古代のギリシア語訳ヨブ記22章29節にも見られ、ヨブ記のヘブライ語本文では「目を伏せる」となるが、この所作はヘブライ人にとってへりくだりを象徴していた。

聖母は「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)となられた方ながら、「わたしは主のはしため」(38節)と自称されたが、ペトロとヤコブは「神はへりくだる人に恵みをお与えになる」と書いた。「神の御独り子の母」となられた女性のへりくだりと恵み(ルカ1章28節)とは、いかばかりだろうか?

(注)別エントリー「試論:初代教会と箴言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5756

聖母マリアは「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)となられた方でありながら、「わたしは主のはしため」(38節)と自称されるほど高慢心のかけらもない謙遜そのものの方であった。従って、高慢心との訣別こそが「聖母マリアへの真の信心」へと踏み出す最初の一歩であるのは、至極当然である。

(注)別エントリー「試論:『救い主の母であること』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7510

受胎告知の際マリアは「恵まれた方」(新共同訳)と呼ばれたが、「恵まれた」とは、

《〔神からの〕とめどもない好意を得た》

の意味で、古代ギリシア語訳箴言を参照すると比類のないこの《好意》は、彼女の「へりくだり」(箴言3章34節)と「善のみの追求」(同11章27節)に対する、恵みである。

(注)別エントリー「試論:『聖寵充ち満てるマリア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8642

(注)別エントリー「試論:無原罪の御宿りを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4629

(注)別エントリー「試論:聖母崇敬の理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5253

主イエスはヨハネ8章12節で、「わたしは世の光」と仰せになり、山上の説教を聞きに集まった人々に対し「あなたたちは世の光」(マタイ5章14節)と呼ばれた。主イエスにとって御自分の御言葉を行おうと積極的に反応する「聞く耳のある者」(マルコ4章23節)は「ともし火」(同21節)である。

(注)別エントリー「試論:『光を輝かせなさい』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節『言』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『何を聞いているかに〜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14017

試論:マルコ10章31節の意味を140文字以内で

【問】「先にいる者が後になり、後にいる者が先になる」の意味は?
【答】申命記28章13節は、旧約の民が神の戒めに忠実である限り「主はあなたを頭とし、尾とされない。あなたは上に立ち、下にならない」と記します。主イエスは、残念ながら今や民の多くは忠実ではないということを暗示されました。

【追記】

マタイ20章「ぶどう園の労働者」のたとえで、主人が「後輩」に気前が良いのを見て不平を口にした「先輩」の姿は、父親が「放蕩息子」に気前が良いのを見て怒った「放蕩息子の兄」と瓜二つである。自分以外の者が神から良い賜物を頂いたからといって神を逆恨みして心が離れるのは本末転倒と言える。 

(注)別エントリー「試論:放蕩息子と父親を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6258

(注)別エントリー「試論:放蕩息子と指輪を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5340

聖霊降臨と聖母(教会の母聖マリア)

主の昇天後の五旬祭の日、弟子たちは聖霊降臨を経験したが、聖母だけは三十年以上前、受胎告知前後に聖霊の《降臨》を経験されていた(ルカ1章35節)。ルカ1章35節と使徒言行録1章8節のギリシア語動詞は同一で、これぞ聖霊降臨を前にして聖母が精神的支柱として別格扱いされていた理由である。

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを確実に識別できる基準」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4564

(注)別エントリー「試論:聖霊の働きの徴を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4984

主は御受難の前に、御自分が弟子たちの前から去ったとしても代わりに聖霊を弟子たちに遣わし、この聖霊が弟子たちとともにあって弟子たちを支えると御約束された。かつて聖母が聖霊によって主を宿し、主をこの世にもたらした。弟子たちが聖霊を待つに当たり、聖母とともに待ち続けたのは、当然である。

創世記3章でエバが蛇の誘惑に迷わされた後、主なる神は、エバに代わって蛇(サタン)と徹底的に対立する一人の女性が将来現れることを予告されたが、黙示録12章では、それは救い主の母となった女性のことで救い主に従おうとする全ての人々にとっても彼女は母の役割を果たすであろうと、啓示された。

(注)別エントリー「神のお告げ:受胎告知と無原罪の御宿り」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4835

(注)別エントリー「創世記3章15節:蛇の頭を踏み砕く者は誰か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1488

【問】なぜ受胎告知の際にマリアは、承諾の返答よりも先に「わたしは主のはしため」と再確認しましたか?
【答】マリアはそう前置きすることで、「わたしは神の御独り子の母となることを承諾しますが、決して『神のようになること』(創世記3章5節)を望むからではありません」と意思表示をしました。

(注)別エントリー「試論:「わたしの主のお母さま」を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10221

使徒言行録1章14節には、「熱心に祈っていた」人々の中で「婦人たち」とは別に「イエスの母マリア」の存在が特記され、聖母がいわゆる「聖婦人」と呼ばれた敬虔な女性たちとは別個の存在とみなされていたことが記されており、初代教会で聖母がおのずと別格扱いとされた当時の状況が示唆されている。

(注)別エントリー「試論:『第二のエバ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4880

主の御受難の際、十字架を囲んで主の死を見届けたのは聖母マリア、クロパの妻マリア、ヨハネの母サロメ、マグダラのマリア、そしてヨハネだった。女性たちは「使徒などといっても肝心な時には逃げる意気地なしだから、私たちが代わります」とは言わずに、裏方に徹し続け、ヨハネも同様に裏方に回った。

(注)別エントリー「試論:『長老のヨハネ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21459

創世記3章15節で神は、サタンと決定的に対立する一人の女性が将来現れることを予告されたが、黙示録12章で、それは救い主の母となった女性のことだと啓示された。救い主は人々を罪や悪から救うために生まれるので、その母が存在の最初の瞬間から罪や悪とは完全に無縁であるべきなのは当然である。

(注)別エントリー「『無原罪の御宿り』の意味するところとは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4382

【問】マラキ3章19節は高慢な者と悪を行う者を同列に論じますが、なぜですか?
【答】詩編1編1節の通り旧約の民は神に従わぬ者と罪人と高慢な者を同列に扱いました。エバは創世記3章で神のようになることを望みましたが、マリアはルカ1章38節で自分は主のはしために過ぎないと謙遜しました。

詩編1編1節は神と共にいるための必要三条件を記す。一つ目は神に逆らう人に同調しないこと、二つ目は罪や悪に走らないこと、三つ目は高慢心を捨てることである。高慢で周囲の人々を粗略に扱う人は、いつか必ず神をも粗略に扱う。神の御独り子の母となった女性が高慢心とは無縁であるのは当然である。

(注)別エントリー「試論:『しもべ』と『はしため』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9785

(注)別エントリー「試論:『わたしの主』と母マリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8575

(注)別エントリー「試論:『恵みとへりくだり』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8781

主イエスは福音書で「自ら高ぶる者は低くされ、へりくだり自ら低くなる者は高くされる」と繰り返された。神の御独り子の母に選ばれたにもかかわらず「わたしは主のはしため」と繰り返し実際「人となられた神」に生涯仕え続けた女性が、「神と共に歩んだ」点においてエノクに引けを取るなどありえない。

(注)別エントリー「試論:『謙遜の極み故の被昇天』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11125

箴言3章34節は「神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みをお与えになる」と説く。「自分は誰かの召使になった覚えはないし、他の人のためにあれこれするなど、やってられない」と放言する人は「キリストの律法」を絶対に実行できないし、神がお与えになる恵みもまた、永遠にその人には届かない。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』と世情を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18499

【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。

試論:「信仰の重大事」を140文字以内で

【問】聖書の「神の義」「狭い門」「キリストの律法」とはよほどの重大事だと思います。教えてもらえればすぐ実行したいです。それは何?
【答】「他の人からしてもらいことを全てあなたから他の人にしなさい」(マタイ7章12節)。主はこれを「律法と預言者」つまり旧約聖書の要旨と定義されました。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

試論:聖霊降臨と無関係の出来事を140文字以内で

【問】聖霊降臨の日に起こらなかった出来事はどんなことですか。
【答】信者たちが歌ったり踊ったり、互いに対して聞いたことのない言語で語りかけたりはせず、必ず誰かが解釈(翻訳)可能な言語が話されました。感動の涙を流したり、抱き合ったり、ラッパや太鼓を持ち出したりなどもありませんでした。

(注)別エントリー「試論:聖霊の働きの徴を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4984

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを識別する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14194

「息」

復活された主イエスはヨハネ20章22節で「聖霊を受けなさい」と仰せになり、弟子たち(使徒たち)へ息を吹きかけられた。この仕草は新約聖書では唯一ここだけで見られ、聖霊降臨の予告として行われた。聖書には祝福や権威の行使の象徴として一般的な、手を置く仕草があるが、それとは意味が異なる。

(注)別エントリー「試論:聖霊の働きの徴を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4984

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを識別する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14194

使徒言行録13章2節以下「彼らが断食し主を礼拝していると聖霊が彼らに告げた。『バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。前もって決めておいた任務に当たらせるために』。そこで彼らは二人の上に手を置いて出発させた」。以後、選び出された証しとしてサウロからパウロへ呼称が変わった。

主イエスはヨハネ20章22節で「聖霊を受けなさい」と仰せになって、弟子たちに息を吹きかけられた(創世記2章7節参照)。《人は神の口から出る全ての事柄で生きる》を示されるために、主はあえて息を吹きかける仕草を行われた。新約聖書には、弟子が同じ仕草を行う場面は一度たりとも登場しない。

(注)別エントリー「試論:『命の息』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14285

ルカ11章41節「器の中にある物を施せ」の「器」とは「土の器」「陶器」の比喩と同様、人間を指す。「器の中にある物」は人間に吹き込まれた「命の息」(創世記2章7節)つまり「霊魂」を意味する。イザヤ58章10節のヘブライ語表現「霊魂を注ぐ」は、「心を配る」(新共同訳)ことを意味する。

(注)別エントリー「試論:『器の中にある物を施せ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11264

主イエスはマルコ7章と8章及びヨハネ9章で御自分の唾を用いた癒しを行われた。本来、侮辱を与える行為と強く関連する唾だが、《人は神の口から出る全ての事柄で生きる》を示されるため、主はあえて唾で癒しを行われた。従って預言者たちも使徒たちも主イエス以外の誰も唾を使う癒しを絶対行わない。

(注)別エントリー「試論:神であり人であるキリストを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6725

(注)別エントリー「試論:『神が人となるためには』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7830

(注)別エントリー「試論:『人となられても神は神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6877

【問】聖書はキリストを模範(ヨハネ13章15節等)と示すけど、全て真似する必要があるの?
【答】いいえ。倣うべきは「仕えられるのではなく、仕える」姿勢で、真似する必要のない事柄は例えば湖の上を歩く、唾で泥を作り目の見えない人を治す、聖霊を与えると称して息を吹きかけるなどの行為です。

主イエスは荒れ野で悪魔(サタン)から誘惑された際「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの御言葉で生きる」と答えられた。「神の御言葉」とはヨハネ1章1節の通り主イエス御自身の称号であり、人間を生かす者は「神の御言葉」及び「命」(同14章6節)を自称される方である。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

試論:「聖霊降臨が残したもの」を140文字以内で

【問】聖霊降臨は人々に何を残しましたか?
【答】使徒言行録2章43節「全ての人に、恐れ(畏れ)が生じた」。熱狂でも興奮でも感動でも自己満足でもなく、主に対する「畏れ」です。イザヤ11章2節は聖霊の賜物の筆頭を「知恵」と預言し、箴言1章7節は「主を畏れることは知恵の初め」と説きます。

「人の子が来る」日と最後の使徒

主イエスはマタイ16章28節で「ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは決して死なない者がいる」と仰せになり、ヨハネ21章22節以下ではそれが愛弟子ヨハネであると教えられた。紀元七〇年の時点でペトロも二人のヤコブも殉教していたが、ヨハネのみ存命だった。

主イエスはヨハネ21章で「わたしの来る時まで彼(ヨハネ)が生きていることをわたしが望んだとしても、あなた(ペトロ)に何の関係があるか」と仰せになった。「主の日」つまり主の来臨としての都の滅亡が紀元七〇年が実現した際、ペトロも二人のヤコブも既に殉教していたがヨハネは生き残っていた。

(注)別エントリー「エルサレムの婦人たちへの伝言」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15741

主はマタイ10章23節で「人の子は来る」と仰せになり、「人の子の日」(ルカ17章22節)に言及されたが、黙示録6章17節は「神と小羊の怒りの大いなる日」と表現し、これらの啓示は紀元七〇年のエルサレム滅亡で実現した。支配者たちはイザヤ2章と黙示録6章の通り、洞穴からの逃亡を企てた。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888

(注)別エントリー「主の御降誕と古代イスラエルにおける洞穴」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4351

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7514

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』=『主の僕』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8876

主はルカ17章30節で「人の子が現れる日」に言及された。これは黙示録6章17節「神と小羊の怒りの大いなる日」と同じで「神」は御父である神、「人の子」「小羊」は主イエス・キリストである。「はげ鷹」ローマ帝国は繁栄の都エルサレムと神殿を、神の介在を疑い得ないほどに跡形もなく滅ぼした。

主はマタイ10章7節で「天の国が近づいた」と告げるよう仰せになったが、これと別に23節で「人の子」が来る日をほのめかされた。これはルカ17章22節「人の子の日」や黙示録6章17節「神と小羊の怒りの大いなる日」を指し、マタイ24章33節の通り、人々は悲惨な諸事件から主の来臨を悟る。

出エジプト記24章にモーセの一行が「神を見た」とあるが、神の御姿を実際に見たわけではなくその「足台」(「サファイアの敷石のようなもの」)を見たことによって、その上に必ずおられるはずの神を「見た」わけである。また同様に、雲や火や煙、雷鳴や稲妻、角笛の音なども神の現存を象徴していた。

主はルカ21章20節以下で(紀元七〇年の)エルサレム滅亡及びその前後にユダヤを襲う「大いなる艱難」(23節)を予告された。また「異邦人の庭」(黙示録11章2節)を持つエルサレム神殿がまだ存在する時期に黙示録の内容を啓示され、エルサレム滅亡後も教会は存続すると希望をお与えになった。

主はルカ17章20節で「神の国は見える形では来ない」22節で「人の子の日を弟子たちが見ることはない」と仰せになったが、アモス5章18節では「主の日を待ち望む者は災いだ。主の日は闇であって光ではない」と預言しており、「神の国の到来」と「主の日」とを混同すべきではないと、理解できる。

(注)別エントリー「試論:『主の日』二つの意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12894

主はルカ17章34節で「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」21章24節で「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と仰せになった。紀元七〇年のエルサレム滅亡の際、ユダヤ人はローマ市民権の有無によって運命が大きく分かれ、奴隷にされた者たちはローマ帝国の各地へと売られて行った。

ルカ17章34節から35節で主は「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」と繰り返されたが、では一体どこに「連れて行かれ」るのかを、ルカ21章24節では「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と御説明された。これは大昔モーセがレビ記26章33節以下で預言していた話と同じである。

紀元七〇年のエルサレム滅亡時にローマ軍へ投降したユダヤ人のうち、使徒言行録22章のパウロのようにローマの市民権を持つ者はローマ法の保護下にあるため留め置かれたが、そうでない者は妻子と共に奴隷とされて売り飛ばされた。こうして「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」は現実となった。

プロテスタントの文語訳聖書『改訳 新約聖書』(1917年)はルカ21章23節を「地(ち)には大(おほひ)なる艱難(なやみ)ありて、御怒(みいかり)この民(たみ)に臨(のぞ)み」と訳し、ある人々がいわゆる「大艱難時代」と呼ぶ時期とは実は紀元七〇年の滅亡の前後に他ならないと示唆する。

主はルカ21章23節でエルサレム滅亡とその前後のユダヤの苦難を予告されたが、『改訳 新約聖書』(1917年)では「大なる艱難」と日本語訳する。一世紀後半のユダヤの歴史家ヨセフスの記述通り、紀元六六年の大反乱の勃発から七三年のマサダ陥落までの七年間に、ユダヤは惨劇の連続を経験した。

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の意義を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9840

ダニエル9章24節はメシアに関して預言の時代を封印する存在だと預言し、主イエスはルカ21章22節で旧約聖書の全預言が(紀元七〇年の)エルサレム滅亡で成就すると仰せになった。故に現代や近未来の国際情勢と旧約聖書の預言とは無関係で、関係ありとする解釈は主の仰せとは明確に相反している。

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

(注)別エントリー「イエス・キリストと天の雲」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/684

(注)別エントリー「試論:福音書と『西遊記』の違いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5760

申命記28章49節でモーセは、将来イスラエルの民を滅ぼす国民の象徴となる動物を預言した。ルカ17章37節のギリシア語本文も、古代のギリシア語訳申命記と同じ単語を用いている。それはローマの国章と同じ動物で、ヨハネ11章48節で「ローマ人」という表現が登場する、根拠の一つでもあった。

ダニエル9章24節はメシアに関して預言の時代を封印する存在だと預言し、主イエスはルカ21章22節で旧約聖書の全預言が(紀元七〇年の)エルサレム滅亡で成就すると仰せになった。故に現代や近未来の国際情勢と旧約聖書の預言は無関係で、関係ありとする強弁は、キリスト教の範疇を逸脱している。

主はマタイ5章18節で、全てのことが実現し天地が消え失せるまで律法の時代が続くことを仰せになった。ルカ21章22節では、エルサレム滅亡(20節)の日を「書かれていることが完全に実現する報復の日」と仰せになり、エルサレムと神殿の滅亡(紀元七〇年)で律法の時代が終わると宣言なさった。

黙示録21章1節は「最初の天と最初の地は過ぎ去った」と記す。詩編78編69節はエルサレム神殿の聖所を天地に喩えた。主イエスはマタイ5章18節で全てのことが実現し天地が消え失せるまで律法の時代は続くと仰せになり、ルカ21章22節でエルサレム滅亡で全てのことが実現するとも予告された。

「天地が消え去る」の「天」とは、神がお住まいになる場所と見なされたエルサレム神殿とりわけその聖所を指し、二ペトロ3章はその滅亡が近いことを説く。「地」はエゼキエル7章2節同様、イスラエルの地を指す。紀元七〇年にエルサレムと神殿は滅亡しユダヤ(イスラエル人の国家)も同じく消滅した。

二ペトロ3章10節は「主の日」において「天は激しい音を立てながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に熔解し尽くす」と予告した。数年後の紀元七〇年、神が住まわれると見なされて、「天」と同一視されていたエルサレムの神殿は、都の滅亡の際ローマ帝国軍によって火を放たれ、大音響と共に焼け滅びた。

ルカ21章20節以下で主は、「敵が都を包囲しようとする時は籠城すべきでなく都を離れよ」と警告された。約四十年後、ローマ軍が迫る都では「預言者」たちが、「神が都を救われるから都で待て」と説いたが、神の介入はなく都は滅亡した。この「預言者」たちの虚言を歴史家ヨセフスが書き残している。

(注)別エントリー「試論:黙示録18章を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5394

(注)別エントリー「試論:黙示録16章を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5086

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1699

十二使徒も次々に帰天して恐らく最後にヨハネ一人だけとなった時までに、彼は「使徒」の自称を控え自身への権威集中を避けたと推測され、後進が育って「監督(司教)」と「長老(司祭)」の時代に完全移行するよう促進するためか、彼は「監督」にさえならずに、単なる一人の「長老」として、帰天した。

ペトロとパウロの死後に世界のキリスト信者から「最後に生き残っている使徒で主の愛弟子ヨハネこそ全世界のキリスト信者の代表にふさわしい」と声が上がったに違いない、と現代人は考える。世間的にはそれが正解だが、個人の絶対的カリスマに頼る組織は、カリスマが亡くなれば、そこで終わってしまう。

後半生のヨハネは伝承ではエフェソを拠点にしていたとされるが、エフェソの初代の監督(司教)はテモテ、二代目はオネシモだった。ペトロの後継者のローマの監督(司教)はリノス(二テモテ4章21節)だった。晩年のヨハネは裏方に徹したが、自分の死後に信者が四分五裂しないようにするためだった。

主の御受難の際、十字架を囲んで主の死を見届けたのは聖母マリア、クロパの妻マリア、ヨハネの母サロメ、マグダラのマリア、そしてヨハネだった。女性たちは「使徒などといっても肝心な時には逃げる意気地なしだから、私たちが代わります」とは言わずに、裏方に徹し続け、ヨハネも同様に裏方に回った。

(注)別エントリー「試論:『長老のヨハネ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21459

旧約聖書の預言が現代人に教えること

【問】ルカ21章22節の主の仰せ通り、紀元七〇年の滅亡で旧約聖書の全預言が既に成就したのなら、現代人が旧約聖書の預言書を読む意義は何ですか?
【答】主イエス・キリスト及びその仰せの理解にはそれが不可欠だからで、エレミヤ5章14節を知らないとルカ12章49節の「火」は理解困難です。

(注)別エントリー「主イエスが地上にもたらされた『火』とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19511

(注)別エントリー「試論:主イエスの『火』と『剣』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19516

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4783

一ヨハネ4章の通り偽預言者や偽教師は、主イエスが実際に仰せになった福音書の御言葉には絶対に触れようとせず、代わりに「世」すなわち俗世間や国際情勢の話で置き換える。主イエス御自身が、預言とは御自分についてあかしするものだと仰せにもかかわらず、国際情勢や「終末預言」に話をすり替える。

主イエスはヨハネ5章39節で「あなた方は〔旧約〕聖書中に永遠の命が存在すると考え〔旧約〕聖書を研究するが〔旧約〕聖書はわたしに関してあかししている」と仰せになり、御自分と無関係の目的で〔旧約〕聖書を研究したとしても本当に重要な真理には全く到達することができないと、お教えになった。

(注)別エントリー「聖書にはクリスマスの日付が載っていますか???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13267

二ペトロ2章は「偽教師」への警戒を呼びかけ、「彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にする」(3節)「昼間から享楽に耽るのを楽しみにする」(13節)「強欲」(14節)等と表現した。一般の信者が真面目に働く時間帯に美食を貪り、旅行・観光・娯楽施設と遊興三昧なのが偽教師である。

ヨハネ5章39節で主が仰せの通り、旧約聖書全体を等しく重視するよりも主イエスとその福音に関連の強い事柄を優先して学ばねばならない。例えば「正義(=「神の義」)を衣としてまとう」(詩編132編9節)という旧約聖書の慣用句を知らなければ、マタイ22章の「礼服」のたとえは理解が難しい。

(注)別エントリー「試論:『神の義』と詩編を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6798

ルカ24章のエマオでの御出現において主は、旧約聖書とは御自分について証しするものであり、実際その詳細について《全体》の説明を始めると、何時間あっても語り尽くせないことをお示しになった(27節)。主は以前にもユダヤの人々に対して同じ事柄をお話しになられていた(ヨハネ5章39節等)。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ5章46節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7208

旧約聖書の預言は第一義的に主イエス・キリストの到来及びその前後までの歴史的出来事をあかしするためのものであり、キリスト到来から約二千年後に生きる現代人が国際情勢を読み解くためのものではなく、国際情勢分析など本来の意義とは無関係の完全な逸脱行為であり、真理には絶対にたどり着けない。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

マルコ12章における律法学者との対話において主は、旧約聖書の中の多くの掟について、重要性における順序があることを再確認された。またヨハネ5章39節で、旧約聖書とは御自分について証しするものだと主は御説明され、旧約聖書を調べる目的は御自分へと到達するためであるべきだと仰せになった。

(注)別エントリー「試論:キリスト教と旧約聖書を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6527

主はヨハネ5章39節で、聖書とは御自分についてあかしするものであり、御自分を目的としない聖書研究には意味がない旨を仰せになった。これに関連し一ヨハネ4章も、主イエスに関する事柄についてなるべく触れようとしない自称信者を「偽預言者」「反キリストの霊」「人を惑わす霊」などと表現する。

(注)別エントリー「試論:『預言を封印するメシア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8347

(注)別エントリー「試論:『真の預言者すらいない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8425

(注)別エントリー「試論:『預言と私的啓示の違い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8360

二ペトロ2章は「偽教師」への警戒を呼びかけ、「彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にする」(3節)「昼間から享楽に耽るのを楽しみにする」(13節)「強欲」(14節)等と表現する。一般の信者が真面目に働いている時間帯に、連日のように臆面もなく美食を貪る者こそが偽教師である。

(注)別エントリー「試論:偽預言者と貪欲を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7125

(注)別エントリー「試論:『終末預言?ありません』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13853

(注)別エントリー「試論:有人気球と『空中』の拡大を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10270

二ペトロ2章は「偽教師」への警戒を呼びかける。彼らは「滅びをもたらす異端を持ち込み、主を拒む」(1節)、「欲が深く虚言で人々を食い物にする」(3節)、「厚かましく、わがまま」(10節)「昼間から歓楽にふけるのを愉しみとする」(13節)「無意味な大言壮語」(18節)等の特徴を持つ。

謙遜と高慢の対立

【問】創世記3章15節や黙示録12章をカトリックでは、聖母とサタン(悪魔、竜、蛇)の対立と捉えますが、これは何を象徴していますか?
【答】謙遜と高慢の対立、信仰と不信仰の対立、従順と不従順の対立です。高慢で不信仰の人々は聖母には何かと難癖をつけますが、なぜか悪魔に対しては違います。

【問】マラキ3章19節は高慢な者と悪を行う者を同列に論じますが、なぜですか?
【答】詩編1編1節の通り旧約の民は神に従わぬ者と罪人と高慢な者を同列に扱いました。エバは創世記3章で神のようになることを望みましたが、マリアはルカ1章38節で自分は主のはしために過ぎないと謙遜しました。

詩編1編1節は神と共にいるための必要三条件を記す。一つ目は神に逆らう人に同調しないこと、二つ目は罪や悪に走らないこと、三つ目は高慢心を捨てることである。高慢で周囲の人々を粗略に扱う人は、いつか必ず神をも粗略に扱う。神の御独り子の母となった女性が高慢心とは無縁であるのは当然である。

(注)別エントリー「試論:『しもべ』と『はしため』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9785

(注)別エントリー「試論:『わたしの主』と母マリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8575

(注)別エントリー「試論:『恵みとへりくだり』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8781

主イエスは福音書で「自ら高ぶる者は低くされ、へりくだり自ら低くなる者は高くされる」と繰り返された。神の御独り子の母に選ばれたにもかかわらず「わたしは主のはしため」と繰り返し実際「人となられた神」に生涯仕え続けた女性が、「神と共に歩んだ」点においてエノクに引けを取るなどありえない。

(注)別エントリー「試論:『謙遜の極み故の被昇天』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11125

箴言3章34節は「神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みをお与えになる」と説く。「自分は誰かの召使になった覚えはないし、他の人のためにあれこれするなど、やってられない」と放言する人は「キリストの律法」を絶対に実行できないし、神がお与えになる恵みもまた、永遠にその人には届かない。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』と世情を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18499

【問】なぜ受胎告知の際にマリアは、承諾の返答よりも先に「わたしは主のはしため」と再確認しましたか?【答】マリアはそう前置きすることで、「わたしは神の御独り子の母となることを承諾しますが、決して『神のようになること』(創世記3章5節)を望むからではありません」と意思表示をしました。

(注)別エントリー「試論:「わたしの主のお母さま」を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10221

カトリックでは聖母マリアを「無原罪」つまりサタンの悪影響とは全く無縁の女性と教え、少女期の聖母が神殿で十年以上奉献生活を送り教育を受けたと教える。聖母は長年、救い主やあがないについて思い巡らしていた。受胎告知の際の言葉「わたしは主のはしため」は一朝一夕に出て来る類のものではない。

(注)別エントリー「神のお告げ:受胎告知と無原罪の御宿り」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4835

(注)別エントリー「試論:ヤコブ原福音書を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5239

(注)別エントリー「聖書の時代に神殿の処女は存在したのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1539

(注)別エントリー「『贖(あがな)い』と『救い主の母』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19677

(注)別エントリー「福音書の聖ヨセフと外典書の高齢者ヨセフ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4759

主は「いつでも戸を開けられるように目を覚ましていなさい」と仰せになり、普段から心の準備をすることが弟子としての心構えであると教えられた。主の母親となるべき女性がその少女期、当時最もしかるべき教育の場であった神殿の聖所で奉仕の日々を送ったという概念は、極めて蓋然性の高い話と言える。

(注)別エントリー「試論:『準備しなさい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12580

【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。

試論:「聖霊」を吹聴する人を140文字以内で

ヨハネもパウロも伝統的なヘブライの世界観に従い人間に属する事柄を「肉」、神に属する事柄を「霊」と呼んだ。一コリント14章37節でパウロは、「自分には神の霊(聖霊)が働いている」と周囲に軽々しく吹聴する人々を、「自分を『霊の人』と思っている者」と呼んで、彼らへ厳しい自省を要請した。

(注)別エントリー「試論:『肉と霊』の対比を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7740

(注)別エントリー「試論:ガラテヤ5章の『肉と霊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7657

(注)別エントリー「試論:聖書と『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7649

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを識別する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14194

【追記】

【問】どう考えても聖霊とは無関係の徴候だと確実に言えるものは、何ですか?
【答】イザヤ11章2節は聖霊の賜物の筆頭に知恵を挙げますが、箴言8章12節は知恵の特徴として熟慮と慎重さを挙げます。落ち着きがなく思いつきで突っ走る人や、無反省な人、善悪の区別に無頓着な人は聖霊と無関係です。

【問】主イエスが聖霊に関して教えられた事柄で最重要なものは何?
【答】御自分がお教えになった内容を思い起こさせるために聖霊は来られるのであって、御自分と無関係にではない、ということで、もし「聖霊が我々に直接教える以上、福音書は必要ない」と誰かが言うなら、それは「人を惑わす霊」です。

【問】主イエスはヨハネ16章で「真理の霊」聖霊に関して、「その方はわたしに栄光を与える」(14節)と説明されます。この意味は?
【答】一ヨハネ4章では、主イエスの福音書の仰せに頑なに触れようとしない人々を「反キリストの霊」「人を惑わす霊」と呼び、「真理の霊」とは無関係としています。

ファリサイ派が信じていた復活

【問】ヨハネ11章24節はマルタが「終わりの日の復活」を信じていたと記し、使徒言行録23章8節はファリサイ派が復活を信じていたと記します。
【答】イザヤ25章8節やその前後と同26章19節を、古代のユダヤ人の多くが「復活」の預言と捉えましたが、サドカイ派はそうではありませんでした。

(注)別エントリー「試論:『終わりの日』の解釈を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/24739

【問】マルタやファリサイ派が信じた「復活」とは?
【答】《アダムの時代から自分たちの時代に至るまで、この世で善く生きた義人たちの霊魂は死後「アブラハムのふところ」(ルカ16章)で休息した後に、イザヤ65章17節以下で預言された場所へ主によって迎えられ、永遠に生きる》というものです。

【問】「アブラハムのふところ」という場所は現代に生きるわたしたちも死後に行く場所ですか?
【答】いいえ。アダムの時代から主イエスの御復活の時までの義人たちが行く場所です。この義人たちは、主の御復活つまり「復活の体」の創造の際に自分たちも「復活の体」を与えられて、天の国に入りました。

【問】使徒言行録23章8節は復活をサドカイ派は認めずファリサイ派は認めると記します。後者の認識は何に由来しますか?
【答】イザヤ25章8節は神なる主の御力は死にも打ち勝ち、同26章19節では主が準備されている復活の体を同章18節の人間の出産による体と比ベてはるかに勝ると預言します。

主イエスの敵としてサドカイ派とファリサイ派の名が福音書に登場するが、使徒言行録23章8節の通り、前者は復活を認めず、後者は復活を認めていた。ヨハネ11章のラザロの復活の場面を目の当たりにしたファリサイ派の人々の一部は、もうイエスを否定できないと判断した(マルコ12章28節以下)。

主イエスはヨハネ12章23節以下で御自分の十字架の死により悪魔の罪と死の支配を終わらせる(ヘブライ2章14節以下参照)と宣言された。それはイザヤ25章8節の預言の成就だがイザヤのその節の前後は、成就の地エルサレムを「この山」と呼ぶ。ダニエル書9章16節「聖なる山」とも同じである。

(注)別エントリー「試論:御受難と『永遠の命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9460

ヨハネ20章9節では、〔旧約〕聖書がイエスの復活を語っていると記す。

イザヤ25章は、

「この方こそ、わたしたちを救ってくださる、わたしたちが待ち望んでいた神」(9節)

と呼ばれる方が、

「この山」(7節)

と呼ばれる場所において、

「死を永久に滅ぼしてくださる」(8節)

ことを預言している。

主はヨハネ11章25節で御自身を復活と命だと称され、6章63節では命を与えるのは「〔神の〕霊」だと仰せになった。コヘレト12章7節は人間の死でその肉体は塵(土)に還るが、命を与えられたその霊は「与え主」である神の許へと還るとし、一コリント15章44節は「霊の体が復活する」と記す。

【問】福音書で「洗礼者の死」の箇所等を読むと、洗礼者が生き返った存在がイエスだとヘロデは思ったようで民衆の一部も同意見でした。どういうこと?
【答】「死者の復活」について、当時のユダヤ人の間に様々の〔間違った〕認識が存在したことを示唆しています。コヘレト12章7節が正しい答えです。

(注)別エントリー「試論:人間の完成形(最終形態)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15868

ヘブライ5章9節は「キリストが〔御受難を経験された後に〕完全な者になられた」と記す。神でもあり人間でもあるキリストは、神としては天地創造以前から既に当然だが完全な者である。人間としては御受難を経験された後「復活の体(=天上の体、霊の体)」すなわち人間としての完成形へと到達された。

(注)別エントリー「試論:神であり人であるキリストを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6725

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

「わたしの羊を飼いなさい」

主の逮捕時に使徒たちが主を見捨てて逃げたことはエルサレムやユダヤの人々には知られていた。使徒以外の弟子たちの中には「ペトロ筆頭に使徒たちは一体どの面(つら)下げて我々の前に出て来れるのか」と快く思っていなかった者もいたはずだが、御復活の主御自身がペトロと使徒たちをお選びになった。

ヨハネ21章の「大漁の奇跡」はルカ5章で漁師たちが弟子となった場面の再現だった。シモン・ペトロとゼベダイの子たちは自分たちが主に呼ばれた日をいやでも思い出したはずである。土壇場で自分を見捨てて逃げた者たちを再び選ぶことは、「人間の論理」では絶対にあり得ないが、神はそれを行われた。

主の御受難の際、十字架を囲んで主の死を見届けたのは聖母マリア、クロパの妻マリア、ヨハネの母サロメ、マグダラのマリア、そしてヨハネだった。女性たちは「使徒などといっても肝心な時には逃げる意気地なしだから、私たちが代わります」とは言わずに、裏方に徹し続け、ヨハネも同様に裏方に回った。

マタイ14章でペトロは自分も湖上を歩くと申し出たが途中で怖くなり沈みかけ、使徒言行録10章で啓示によりモーセの律法の食事規定にとらわれなくてよいと宣言したが、のちに曖昧な態度を取りパウロに厳重注意された(ガラテヤ2章)。主はペトロの揺らぎやすさを承知で彼に御自分の羊を委ねられた。

(注)別エントリー「試論:『口火を切る人、ペトロ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14220

(注)別エントリー「試論:『イエスの舟』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14247

彼は家庭を持つ漁師で湖の対岸の異邦人とも交流がないほどだったが、大工の男に説得され、その弟子となり、師とともに湖上を歩き、師から一番弟子に指名された。一度は師を見捨てた彼を師は変わらず信頼し、師が去った後も教えを広めるために彼は世界を巡り、世界の都で一粒のからし種として殉教した。

(注)別エントリー「試論:『自分の十字架』とペトロを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12304

福音書には主の職業はテクトーンとあるが、ホメロスの叙事詩ではテクトーンは船大工をも意味し、もしも主が腕の確かな職人として既に漁師の間で知られていたとすれば、故郷で生涯を終えることが多く同業者だけで集まりがちな漁師の中からすぐ四人の信頼を得て弟子とすることができたのも、道理である。

(注)別エントリー「試論:天の国と『人間をとる漁』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8963

主はマルコ4章で弟子たちの前で突風を静められて創造主としての権威の片鱗を示されたが、後にペトロだけは最後に沈みかけたものの湖の上を歩く体験をして主の権威に対する確信を強め、このペトロの確信がマタイ16章16節「あなたは生ける神の子キリスト(メシア)です」の信仰宣言へとつながった。

主イエスが湖の上をお歩きになった際、弟子たちの中でペトロが最初に自分も歩くと申し出たが、怖くなって沈みかけ、主に助けを求めた。主はペトロをお叱りになったが、すぐに手を伸ばし助けられた。失敗も多かったが、御言葉に真っ先に反応して忠実を示し続けるペトロに、主は御自分の羊を委ねられた。

主がペトロに「あなたは鶏が鳴くまでに三度わたしを知らないと言うであろう」と予告されたことはあまりにも有名である。しかしその前に、主はさらに先のことを見通すかのように、「あなたが(自分の痛手から)立ち直ったならば今度はあなたが仲間たちを力づけなさい」ともペトロに仰せになられていた。

ヨハネ1章42節はシモン・ペトロをヨハネの子とするが、マタイ16章17節はバルヨナ(ヨナの子)と呼ぶ。ヨナは鳩すなわち神の霊を意味し、主イエスはペトロを鳩の子と呼ぶことで《今のあなたの言葉は神の霊があなたに言わせたことである》という事柄をシモン本人及びその場にいた皆に示唆された。

ヨハネ21章15節はシモン・ペトロを「ヨハネの子」と呼ぶ。マタイ16章17節「バルヨナ」は通常「ヨナの子」と訳されるが福音書時代のヘブライ語でヨナは鳩を意味した。ただしシモン・ペトロの元々の性格が、ヨナ書最終章の預言者の姿(不満や怒りを隠せない)と同じだった可能性も否定できない。

マタイ16章17節「バルヨナ」の「ヨナ」は、福音書時代のヘブライ語では「鳩」を意味した。シモン・ペトロを「鳩(=神の霊。マタイ3章16節)の子」と呼ぶことで、主イエスは「あなたの今の言葉は神の霊があなたに言わせたことである」という事柄をシモン本人そしてその場にいた皆に示唆された。

反キリストの霊、人を惑わす霊

主はヨハネ5章39節で、聖書とは御自分についてあかしするものであり、御自分を目的としない聖書研究には意味がない旨を仰せになった。これに関連し一ヨハネ4章も、主イエスに関する事柄についてなるべく触れようとしない自称信者を「偽預言者」「反キリストの霊」「人を惑わす霊」などと表現する。

(注)別エントリー「試論:『預言を封印するメシア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8347

(注)別エントリー「試論:聖書を研究する意味とは?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19381

一コリント3章11節は「既に据えられているイエス・キリストという土台を無視して他の土台を据えることは、誰にもできない」と記す。二テモテ4章3節以下は、やがて人々が「健全な教え」から離れ、自分に都合のいい話だけ聞いて真理(=主イエス)の言葉を無視し、作り話に引かれて行くと警告した。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:キリスト抜きのキリスト教を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6639

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

一ヨハネ4章は信用してはならない人の特徴を、キリスト教を語っているようで実は世間に通じる話題だけで、主イエスが実際に教えられた福音書の御言葉を回避していることとした。キリストを棚上げしながら福音書以外の聖書の箇所を引用する目的は、キリストの代わりに自分自身が主役になるためである。

(注)別エントリー「試論:『招かれる』『選ばれる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8012

(注)別エントリー「試論:『神は誰を選ばれるのか』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8051

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは「天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神」主イエスを表す称号であり主が直接人々にお話しになった御言葉を記したものが福音書である。福音書を顧みず他のものばかりに目を奪われ続けるならばイエス・キリストがわからなくなる。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

箴言28章9節は、主が教えられた御言葉に耳を傾けないなら、いくら主に祈っても、主のおぼしめしには沿わないと教える。それだと、神を一方的に利用しようとしているだけで、全く信仰の名に値しない。主イエス・キリストが《神の御言葉》である以上、御教えを拒むことは神そのものを拒むのに等しい。

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

(注)別エントリー「試論:『主イエスを見失うこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5954

(注)別エントリー「試論:『主に聞き従うこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5685

マタイ22章14節「招かれる者は多く選ばれる者は少ない」の<選ばれない理由>をイザヤ65章12節は「呼んでも答えず、語りかけても聞かず、わたしの目に悪とされることを行い、わたしの喜ばないことを選んだからである」と記した。「笛を吹いたのに踊ってくれなかった」(マタイ11章17節)。

(注)別エントリー「試論:『神は誰を選ばれるのか』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8051

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

二テモテ3章でパウロは「終わりの時」の人々の姿を記した。自分本位で金銭を愛し、嘘をつき、神を畏れず嘲り、両親に従わず、恩知らずで、他人を侮り、情け容赦なく、強情で、中傷し、節度がなく、残酷で、善を行わず、裏切り、軽率かつ高慢、信仰を装いつつ実際は快楽を愛し、事実上は棄教している。

(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8105

(注)別エントリー「試論:二ペトロ2章の『偽教師』140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10808

ヨハネ5章39節〜40節「あなたたちは〔旧約〕聖書の中に永遠の命があると考えて、〔旧約〕聖書を研究する。しかし、〔旧約〕聖書とは、わたし(=主イエス・キリスト御自身)についての証しをするものである。それなのにあなたたちは〔永遠の〕命を得るためにわたしのところに来ることをしない」。

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の意義を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9840

(注)別エントリー「試論:旧約聖書を調べる意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6950

(注)別エントリー「試論:預言者も見たかったもの?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19262

互いを尊重し敬意を払うなら

ヨハネ17章21節「父よ、あなたがわたしの内におられわたしがあなたの内にいるように、全ての人を一つにしてわたしたちの〔愛の〕内にいるようにして下さるなら、世は、あなたがわたしを遣われたと信じます」同13章35節「互いを尊重し敬意を払うなら人々はあなたたちをわたしの弟子と認める」。

ヨハネ17章11節「聖なる父よ、わたしに与えて下さった御名によって、彼らをお守り下さい。わたしたちのように、彼らもまた一つになるためです」同10章30節「わたしと父とは、一つ」使徒言行録4章32節「信じた人々の群れは心も思いも一つ」同章24節「これを聞いた人々は心を一つにして」。

ヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」の意味を使徒言行録4章32節は「心も思いも一つ」「持ち物を自分だけのものと主張せず共有している」と説明する。従って、御父の持ち物は御子の持ち物でもあり逆もまた然りである。ヨハネ10章38節「わたしは父の内にあり、父はわたしの内におられる」。

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

主はヨハネ10章30節で「わたしと父とは一つ」と仰せになった後、17章では弟子たちのために天を仰いで祈られたが、それは御父と御自分が「一つ」であるように、弟子たちもまた「一つ」となるためであった(11節、21節〜23節)。使徒言行録4章32節「信じた人々の群れは心も思いも一つ」。

ニケア・コンスタンチノープル信条「父と一体」はヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」と38節に拠り、御父と御子の間には矛盾・対立・齟齬の類は一切ないことを表す。ギリシア神話では最高神ゼウスと父クロノス、クロノスと父ウーラノスの父子相剋が存在するが、キリスト教には全く存在しない。

主はマタイ11章27節で、全てのことは御父から御自分に任せられていると仰せになった。これは、既にダニエル7章13節以下で啓示された事柄であり、マタイ28章18節やルカ10章22節やヨハネ3章35節や同13章3節等、福音書では事ある毎に強調される「真理(ヨハネ14章6節)」である。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

《御父である神、主》と《御子である神、主イエス》とは、詩編110編1節では御父は「主」、御子は「わが主」でありマタイ22章44節で御父は「主」、御子はダビデの言う「わたしの主」である。ヨハネ1章1節では御父は「神」、御子は「言(ことば)」であり、「言は神であった」と記されている。

(注)別エントリー「試論:「わたしの主」は誰?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7536

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは道」と仰せになり、「わたしを通らなければ、誰であれ御父には到達できない」と続けられた。パウロはエフェソ2章14節でユダヤ人と異邦人をこの点において隔てる壁はないと記し、ローマ10章12節でも「ユダヤ人とギリシア人の区別はない」と明言している。

主イエスの御前でユダヤ人と異邦人の「区別」が存在しないことはエフェソ2章14節以下、使徒言行録15章9節「わたしたちと彼らの間に何の差別もなさいません」、ローマ3章29節「神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもあります」、一コリント12章13節、ガラテヤ3章28節以下等。

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは道」と仰せになり、「わたしを通らなければ、誰であれ御父には到達できない」と続けられ、また御昇天前にマタイ28章19節で「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じられた。パウロもローマ10章12節で「ユダヤ人とギリシア人の区別はない」と説く。

(注)別エントリー「試論:『イエスは全人類の模範』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5948

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7818

主が「わたしは道」(ヨハネ14章6節)と仰せになる場合、自身が御父へ通じる唯一無二の存在であると示唆するだけではなく、日本語の「人としての道から外れる」と同様に、誰もがそこを通って進んで行くべき人間としての道筋つまり御父である神の御前における模範(同13章15節)の意味をも含む。

「光」とは、探し求めるものですか??

マタイ5章で主は、「あなたがたは世の光」(14節)、「あなたがたの光を、人々の前に輝かせなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(16節)と仰せになり、行いを伴わぬ信仰など役に立たない(ヤコブ2章14節)ことをお話しになった。

【問】主イエスは「わたしは世の光」「あなたたちは世の光」などと仰せになりました。なぜ?
【答】「光」はイザヤ58章6節以下にある通り善意・温情・心配り・憐れみの業等の喩えで、人の心と表情を明るくさせ人々の心を温めます。「光」がなくなれば、人々の心と表情は暗くなり、心は冷え込みます。

【問】ヨハネ1章が「言」である神、主イエスを、「光」「まことの光」と呼ぶ理由は?
【答】イザヤ58章9節以下の通り「他人を苦しめたり小馬鹿にしたり罵倒したりすることを止め飢えている人や苦しむ人に配慮する」者を、「あなたの光は闇の中に輝き出て、闇も真昼になる」と喜ばれる神だからです。

【問】福音書には主イエスが「笑った」という記述がない、という議論があるそうです。
【答】イザヤ58章10節は隣人への温情を「光」に喩えます。理由は相手の心や顔を明るくするからです。主はヨハネ8章で「わたしは世の光」と宣言されましたが、これはいつも仏頂面の人が語る言葉ではありません。

【問】イザヤ58章6節以下では、困窮している人々に対する心配り・善意・温情・憐れみの心が「光」に喩えられていますが、なぜ?
【答】それらが相手の表情と心とを明るくさせ、また、それらが相手の心を、光が熱を与えるように温かくさせるからです。マタイ5章16節「あなたの光を輝かせなさい」。

【問】詩編4編7(6)節の「御顔の光」って、何の比喩?
【答】「わたしたちに御顔の光を向けて下さい」と、次節の「喜びをわたしの心にお与え下さい」とは、同じ事柄です。つまり、「主の御顔の光」とは、「主の輝くような笑顔」「主の喜び(主によって与えられる喜び)」「主の好意」等の比喩です。

主はマタイ5章14節で「あなたがたは世の光」ヨハネ8章12節で「わたしは世の光」「わたしに従う者は暗闇の中を歩まず命の光を持つ」と仰せになった。同1章4節は「御言葉のうちに命があり、命は人間を照らす光」と記す。イザヤ58章6節以下では隣人に心を配り助けを惜しまない人に、光が伴う。

(注)別エントリー「試論:イザヤ58章『真の断食』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14709

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『わたしは命である』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11586

(注)別エントリー「試論:『霊魂を注ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13590

福音書は、神からの賜物である御言葉を光にたとえ(ヨハネ1章4節)、またタラントンにたとえ(マタイ25章)、主イエスは御言葉を受けた人々を世の光と呼ばれた。穴を掘り一タラントンを埋めるしもべが主人の怒りを買った理由は、それにより御言葉が世に対して光り輝く機会を完全に奪うからである。

ヨハネ1章4節は「言(ことば)の内に命があり、命は人間を照らす光」と記す。これはヨブ33章27節以下「わたしは罪を犯し正義を曲げたが、すべきでなかった。神はわたしの魂を滅びから救われ、命を得てわたしは光を仰ぐ」を踏まえており、主が御言葉で人間の魂を滅びから救われることを宣言する。

詩編119編105節に「〔主よ〕あなたのことばはわたしの道の光」とあるが、「ことば」は神の御教えを指すのと同時に、ヨハネ1章1節では人々に御姿をお見せになり御教えを直にお話しになる主イエスの称号でもあり、主は御自分を同14章6節で「道」、同8章12節で「世の光」だと表現なさった。

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

(注)別エントリー「試論:ヨハネ14章6節の『道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9342

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

ヨハネ1章は主イエス・キリストを「言(ことば)」「命」「人間を照らす光」等と象徴的に表現したが、その光は人々が心に秘めた悪意(レビ19章17節)を、容赦なく明るみに出す(マタイ9章4節、同12章25節)。神は罰するべき者は罰せられた(出エジプト記34章7節、民数記12章10節)。

(注)別エントリー「民数記12章3節:モーセの人となり」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5051

(注)別エントリー「レビ記19章17節:理由のない悪意」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4826

ヤコブ2章17節「行いを伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」はマタイ7章26節の主イエス・キリストの御言葉「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」とは内容的には同じであり、いわゆる「信仰義認」の適不適を考える上では良い基準となる。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

【問】主イエスはなぜマタイ5章15節で、ともし火を見えない場所に置く者はいない、と仰せになられましたか?
【答】箴言6章23節は主からの御教えをともし火に喩えます。つまり主の御教えを受けたら直ちに実行しなさいの意味です。御言葉を聞いても実行しないのは砂の上に家を建てるのと同じです。

【問】主の御言葉を聞いても実行しないことを見えない場所にともし火を置くことに喩えたのですか?
【答】主は御言葉を聞いても実行しないことを、砂の上に家を建てること、見えない場所にともし火を置くこと、主人から預かったタラントンやムナを隠してしまうことなどに喩えられ、強く戒められました。

一人の律法学者は自分を「義化」(ルカ10章29節)しようとして(「義人」(マタイ1章19節)とするために)、隣人愛(ルカ10章27節)に関して、主に、踏み込んだ質問を行なった。主は、憐れみの心(33節)と「神の義」と隣人愛と永遠の命(25節)は事実上重なっているとお教えになった。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

主イエスはヨハネ6章40節で「御父の御心は、御子(=主イエス御自身)を見て信じる者が皆、永遠の命を得ること」だと説かれた。ルカ10章25節で一人の律法学者が「永遠の命を受け継ぐにはどうすれば〜」と質問したことから、主イエスは「善きサマリア人」の話で憐れみの心の重要性を教えられた。

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4544

イザヤ58章10節は「心を配る」と日本語で表現されるが、ヘブライ語本文は「霊魂を注ぐ」と表現する。ルカ11章41節「器の中にあるものを施せ」はこれに基づく。「器」は人間の比喩、「器の中にあるもの」は霊魂で、主の真意は「揚げ足取りをやめて、隣人に配慮することを学びなさい」であった。

(注)別エントリー「試論:『土の器』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6902

(注)別エントリー「『土の器』(つちのうつは)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14324

試論:「世は彼らを憎みました」を140文字以内で

【問】ヨハネ17章14節「わたしは彼らに御言葉を伝えましたが世は彼らを憎みました」の意味とは?
【答】自分は今一緒にいる使徒たちに御教えを伝えたが、世間は使徒たちの言うことを重要視しなかったということです。古代の聖書世界では、「二の次にする」と言いたい時にも「憎む」と表現しました。

【追記】

主はルカ14章26節で「もしもだれかがわたしのもとに来るとしても、父母、妻、子供、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であっても、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」と仰せになったが、マタイ10章37節との比較から明らかな通り、この「憎む」は「二の次にする」の意味合いである。

(注)別エントリー「試論:『自分の命を憎む人』??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9419

ヨハネ12章25節は「この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命を得る」と主の仰せを記す。古代のヘブライ人は「〜を二の次にする」と言いたい時にも、「〜を憎む」という表現を用いた。主の養父ヨセフはヘロデが幼子の命を狙った時も、自分の命を二の次にして幼子と幼子の母を守り続けた。

(注)別エントリー「試論:最後の審判とディカイオスを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6704

主イエスはマルコ10章29節以下で、御自分や福音のために諸々のものを「捨てる」者の報いを教えられた。ギリシア語原文の動詞はマタイ4章の四人の漁師の召命の記述と同じであり(20節「〔網を〕捨てて」22節「〔舟と父親とを〕残して」)、主や福音のために「二の次にする」の意味合いである。

(注)別エントリー「試論:金持ちが救われる方法を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14683

試論:愛が冷える時代とキリストを140文字以内で

【問】世間では初対面の人々を殺傷する事件が後を絶ちません。これに対してキリストの教えは、何一つ打つ手がないの?
【答】主イエスは「他人からしてもらいたいことを全て、他人にしなさい」を世に広めるよう命じられました。都合のいい話だけ聖書からつまみ食いしろと教えられたわけではありません。

【追記】

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちは、自分が他の人からしてほしいことを、自分から他の人にしなさい」と《愛の掟》を教えられた。従って「愛の反対」は「他の人からしてほしくないことをあえて他の人に行うこと」そして「他の人からしてほしいことをあえて他の人には行わないこと」からなる。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

愛が冷える

【問】なぜ世の人心は荒廃し「愛が冷える」(マタイ24章12節)のですか?
【答】主イエスが「あなたが他の人からしてもらいたいこと全てをあなたから他の人にしなさい」(マタイ7章12節)と仰せになり、御自分の「律法」とまで呼ばれたのに、弟子を自認する人々でさえそれを等閑にするからです。

【問】主イエスはマタイ7章12節で《キリストの律法》を授けられましたが、なぜですか?
【答】「自分が他の人からしてもらいたいことならなんでもあなたから他の人にしなさい」という考え方が土台になければ、いくら言葉で「愛」とか「悔い改め」とか口にしたところで全て絵空事に過ぎないからです。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

(注)別エントリー「試論:『世に光を輝かせなさい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17193

一ペトロ2章の冒頭では、霊的な成長とは悪意・偽り・偽善・ねたみ・悪口を全て捨て去ることとし、使徒言行録8章では、魔術師シモンが聖霊のしるしを金で買おうとしてペトロに非難された。主イエスもマタイ7章22節以下で預言や奇跡や悪霊を追い出すことより悪を行わないことが重要と仰せになった。

(注)別エントリー「試論:『幼子のように』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11080

(注)別エントリー「試論:『主よ、主よ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5380

聖パウロのガラテヤ書5章によれば、聖霊が働いている徴は愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・節制(22節〜23節)であり、聖霊が不在である徴は姦淫・わいせつ・好色・偶像礼拝・魔術・敵意・争い・そねみ・怒り・利己心・不和・仲間争い・ねたみ・泥酔・酒宴(19節〜21節)などである。

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを確実に識別できる基準」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4564

聖霊の七つの賜物という特別の恵みは、古代のギリシア語訳またラテン語訳のイザヤ書11章2節〜3節の記述に基づいており、

【1】知恵(上智)
【2】分別(識別)
【3】思慮(賢慮)
【4】剛毅(勇気)
【5】〔主に関する〕知識
【6】〔主に対する〕孝愛(信心)
【7】〔主に対する〕畏敬

などである。

(注)別エントリー「試論:聖霊降臨と聖母を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4990

一ヨハネ4章の通り偽預言者や偽教師は、主イエスが実際に仰せになった福音書の御言葉には絶対に触れようとせず、代わりに「世」すなわち俗世間や国際情勢の話で置き換える。主イエス御自身が、預言とは御自分についてあかしするものだと仰せにもかかわらず、国際情勢や「終末預言」に話をすり替える。

二ペトロ2章は「偽教師」への警戒を呼びかけ、「彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にする」(3節)「昼間から享楽に耽るのを楽しみにする」(13節)「強欲」(14節)等と表現した。一般の信者が真面目に働く時間帯に美食を貪り、旅行・観光・娯楽施設と遊興三昧なのが偽教師である。

(注)別エントリー「試論:偽預言者と貪欲を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7125

(注)別エントリー「試論:『終末預言?ありません』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13853

(注)別エントリー「試論:有人気球と『空中』の拡大を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10270

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちは、自分が他の人からしてほしいことを、自分から他の人にしなさい」と《愛の掟》を教えられた。従って「愛の反対」は「他の人からしてほしくないことをあえて他の人に行うこと」そして「他の人からしてほしいことをあえて他の人には行わないこと」からなる。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

試論:【超重要】キリストの律法を140文字以内で

【問】マタイ7章12節「他の人からしてもらいたいことを全てあなたから他の人にしなさい」。なぜ、この教えが《キリストの律法》と呼ばれますか?
【答】この教えにイエス・キリストの御旨と新旧約聖書の全ての教えの本質が凝縮されているからで、この教えへの忠実こそが人間を永遠の命へと導きます。

(注)別エントリー「《キリストの律法》(マタイ7章12節)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18013

【追記】

【問】「キリストの律法」とは何ですか?
【答】マタイ7章12節「あなたが他の人からしてもらいたいことならなんでも、あなたから他の人にしなさい。これこそ律法〔であり預言者の教え〕」のことで御教えの基礎となる事柄であり、これが欠乏すると、人々は互いに隣人を侮り始め、世情は殺伐とします。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1982

試論:「全く取るに足らない者」を140文字以内で

使徒言行録20章19節はパウロが全く取るに足らない者と謙遜していたと記し、また同13章2節以下はサウロが派遣されたことを記す。以後サウロはパウロと呼ばれるようになるが「パウロ」というこの名前の由来は、一コリント15章9節で自称する通り、〔使徒たちの中でもいちばん〕小さな者である。

試論:聖書が実現するため???を140文字以内で

【問】ヨハネ17章12節は「聖書が実現するため」と記しますが、一体何が実現したのですか?
【答】エゼキエル37章27節「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」イザヤ66章8節「誰がこのようなことを見聞きしただろうか。一つの国が一日で生まれ、一つの民が一度に生まれようか」。

【追記】

ルカ12章36節以下「婚宴帰りの主人が戸を叩く時、目を覚ましていて、すぐ開けようと待つ人は幸い。主人は帯を締め、この僕(しもべ)たちを食事の席に着かせ給仕してくれる」ヨハネ21章9節以下「陸に上がると、炭火が起こしてあって上に魚があり、パンもあった。『さあ来て食事をしなさい』」。

(注)別エントリー「試論:『一緒に食事をする』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16061

ヨハネ3章29節の通りヘブライ人は神を花婿に、神の民を花嫁に喩えた。従ってマタイ22章8節以下の通り、婚宴とは神が神の民の中の相応しい人々を神の国に迎え入れ喜びを共にすることである。主イエスは御受難と御復活の間に新しい天・地・エルサレムを創造され、旧約の義人たちを迎え入れられた。

(注)別エントリー「試論:『聖書が実現するため』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17226

主イエスは福音書で自身の御受難と御復活を随所で暗示されたが、御受難と御復活の間に御自分がどんな働きをなさるかについても、ヨハネ14章2節から3節で予告された。それはイザヤ65章17節以下の「新しい天・地・エルサレムの創造」預言の成就であり、御自身の復活の体の創造で完成の時を見た。

(注)別エントリー「主の御復活とともに創造された事柄とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15917

古代のイスラエルは「神」と「神の民」の関係を「花婿」「花嫁」に喩えた。主イエスは御自身の御復活つまり「復活の体」(一コリント15章)創造に際し、イザヤ65章で預言された「新しい天・地・エルサレム」を創造されて、新しい「神の民」を迎える準備を完了された(ヨハネ14章2節以下参照)。

一コリント15章6節は復活後の主の御出現が五百人以上へ同時になされたと記すが、使徒言行録1章15節は主の御昇天と聖霊降臨の間に一団となっていた人数を百二十人ほどと記す。「五百人以上」とは同じ場所にいた総数ではなく「別々の場所の各人へ同日のほぼ同時刻に」という可能性も否定できない。

(注)別エントリー「試論:聖霊降臨と聖母を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4990

(注)別エントリー「試論:聖母と聖霊降臨を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6762

箴言15章3節は「ありとあらゆる場所に主の御目は注がれ、善人をも悪人をも全てをごらんになっている」と記す。復活された主イエスは、それぞれ遠く離れたさまざまな場所にいた、五百人以上の前に、同じ日の同一時間帯、別々に御出現されることによって、御自分の神としての遍在性をお示しになった。

パウロは一コリント15章で「キリストの復活」こそ福音の核心であり、キリストの御復活つまり《天上の体(復活の体、霊の体)の創造》こそが信仰における全ての希望の源であると強調した。「天上の体」こそが、キリスト御自身のみならず、キリストを信じる全ての人々にとっての、目的地だからである。

(注)別エントリー「試論:『霊の帰還』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8381

(注)別エントリー「試論:『天国の福楽を相続する』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13891

黙示録21章16節以下では新しいエルサレムの巨大性が啓示される。これは当然、ヨハネ14章2節以下「わたしの父の家には住む場所がたくさんある。もしなかったなら、あなたたちのための場所を準備しに行くとは言わない。あなたたちの場所を準備したらあなたたちの許に戻って来る」を反映している。

主イエスは御受難と御復活の間に「新しい天・地・エルサレムの創造」を準備され誕生させたが、イザヤ66章8節は「誰がこのようなことを見聞きしたであろうか。一つの国が一日で生まれ一つの民が一日で生まれることがあり得るだろうか」と預言する。「天の国は近づいた」の「天の国」とはこれだった。

古代のイスラエルでは「神」と「神の民」との関係がしばしば「花婿」と「花嫁」と表現された。しばしば「女王」にもたとえられる都が「花婿」キリストを歓呼と共に迎え入れながら、数日後に裏切り、夜中に急襲して捕らえ一日のうちに死に至らしめたその行状から、「大淫婦」と呼ばれるのは当然である。

(注)別エントリー「試論:『大淫婦』の正体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15895

黙示録18章7節「わたしはやもめではなく女王であり、決して悲しい目に遭わない」ルカ19章41節以下「イエスは都のために泣いて仰せになった、『もし今、お前が平和への道をわきまえていたならば。しかし今のお前は、それを理解していない。時が来て、敵がお前を包囲して四方から攻め寄せ〜』」。

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1699

試論:「《子》は《王》である」を140文字以内で

主イエスは、御自分が「王」(マタイ25章34節)である理由を、ヨハネ17章2節で「あなた(=御父である神)は『子』(=主イエス御自身)に、全ての人々を支配する権能をお与えになりました。それゆえ『子』はあなたから委ねられた人々全てに永遠の命を与えることができます」とお話しになった。

(注)別エントリー「試論:『わたしは門である』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6515

(注)別エントリー「試論:『命に通じる狭い門』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7118

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『隅の親石』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6544

【追記】

黙示録5章11節は主イエスを「屠られた小羊」と呼ぶが、9節から10節は「小羊」が屠られた結果、人々が贖(あがな)われ、「小羊」に忠実な者たちを「王」「祭司」としたと記す。彼らは悪魔の罪と死の支配から自由にされて打ち勝った意味で「王」であり、憐れみの業を献げる意味で「祭司」である。

(注)別エントリー「試論:『贖(あがな)いの小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9650

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7479

【問】一ペトロ2章9節「あなたたちは王の系統を引く祭司」の意味とは?【答】モーセの律法の祭司はいけにえや献げ物を神に献げますが、王であるキリストの弟子は一人一人がいけにえでなく憐れみの業(ホセア6章6節、ミカ6章8節)を神に献げる義務がある、という意味でキリストにおける祭司です。

(注)別エントリー「試論:『いけにえ』と憐れみを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8356

(注)別エントリー「試論:憐れみ深い人が幸いの理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14898

(注)別エントリー「試論:ホセア6章の『神を知る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15271

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346

主イエスはヨハネ18章36節で、「わたしのバシレイアは、この世には属していない」と仰せになった。原文のギリシア語バシレイアは、聖書では「王権」「〔神の〕王国」を意味し、「王国の一人一人」まで包含する。黙示録1章6節でヨハネは、自分たちは既にその一部を構成していると書き記している。

黙示録20章やローマ5章は「悪に悪を返さない」ことを徹底して罪や悪と決別した人々を「バシレウオ(〔キリストとともに〕王となる)」という動詞で表すが、これはあくまで《義化の完成》を象徴する表現であり政治体制的な意味を含まず、彼らは「第二の死」を免れ「永遠の命」を得ると記されている。

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

マタイ25章34節「御父に祝福された人々よ、天地創造の時からあなたたちのために準備されていた王国を受け継ぎなさい」黙示録21章7節「勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ」ヘブライ6章12節「怠け者とならず信仰と忍耐によって、約束されたものを受け継ぐ人々に倣う者となってほしい」。

(注)別エントリー「試論:『永遠の命を受け継ぐ』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10200

(注)別エントリー「試論:『受け継ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13819

試論:確実に聖霊とは無縁の事柄を140文字以内で

【問】どう考えても聖霊とは無関係の徴候だと確実に言えるものは、何ですか?
【答】イザヤ11章2節は聖霊の賜物の筆頭に知恵を挙げますが、箴言8章12節は知恵の特徴として熟慮と慎重さを挙げます。落ち着きがなく思いつきで突っ走る人や、無反省な人、善悪の区別に無頓着な人は聖霊と無関係です。

試論:「御父と御子と永遠の命」を140文字以内で

【問】ヨハネ17章3節は永遠の命を御父と御子イエスを「知る」ことと説きます。どういうことなの?
【答】永遠の命とは天国の福楽に到達することですが、天の国に迎え入れられた人々は御父と御子イエスを「顔と顔とを合わせて」「はっきり知ることになる」(一コリント13章12節)ということです。

【追記】

【問】聖書では、「知る」とは実体験を通して理解を深めることだそうですが、関係ありますか?
【答】御父や御子イエスの佇まいを目の当たりにすることによって、三位一体の神が真理(まこと=真、実、信、誠)と呼ばれる理由について、すなわち裏表や嘘偽りがなく信頼に値する方であると理解できます。

【問】創世記には蛇がエバを欺く話がありますが、「善悪を知る」って何?
【答】古代のヘブライ人の「知る」という表現は単なる上っ面だけの知識ではなく実体験(体感、実感)によって深く理解することを意味し、アダムとエバは楽園を追われることで身にしみて善悪の区別の重要性を思い知らされました。

試論:創世記3章「善悪を知る」を140文字以内で

【問】創世記には蛇がエバを欺く話がありますが、「善悪を知る」って何?
【答】古代のヘブライ人の「知る」という表現は単なる上っ面だけの知識ではなく実体験(体感、実感)によって深く理解することを意味し、アダムとエバは楽園を追われることで身にしみて善悪の区別の重要性を思い知らされました。

(注)別エントリー「創世記3章15節の『女』は誰?」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10

(注)別エントリー「創世記3章15節:蛇の頭を踏み砕く者は誰か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1488

試論:アダムは妻エバを知った?を140文字以内で

【問】創世記4章1節はなぜ、アダムがエバと関係を持ったことを「知った」と表現するの?
【答】古代のヘブライ人は「知る」という言い回しで、「単なる上っ面だけの知識としてではなく実体験(体感、実感)して、より深く理解する」ことを表現しました。当然「知る」は男女関係の婉曲表現になります。

(注)別エントリー「『マリアの処女懐胎は誤訳に基づく話』説は本当か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1524

(注)別エントリー「『処女懐胎は誤訳に基づく話』説は本当か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1551

試論:ヨハネ17章3節「知る」を140文字以内で

ヨハネ17章3節で主は「永遠の命とは、唯一の真の神であるあなた(=天の御父)とあなたのお遣わしになったイエス・キリストとを知ること」と天を仰いで話されたが、関連して一ヨハネ2章3節では「知る」とは《神の掟を守るという経験を通して自分は神を知っているのだと自覚する》ことと説明する。

(注)別エントリー「試論:主イエスへの愛を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5453

(注)別エントリー「試論:神への愛を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5413

(注)別エントリー「試論:『神への愛と神からの愛』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5873

わたしによって、平和を得るため

主イエスはヨハネ16章33節で、お話しになった理由を「あなたたちがわたしによって、平和を得るため」と説明された。平和という表現で福音書の時代の人々は個々の健康や幸福・協調・一致や発展、社会や国家の安寧、暴動や反乱のない状態、心の(霊的な)安定など物事が好転している状況を総称した。

古代のヘブライ人にとって「平和」はあらゆる幸福の総称であり、「あなたに平和」はヘブライ人の挨拶の決まり文句だった。ルカ10章5節「この家に平和があるように」は、より長い形の挨拶(サムエル上25章6節)である。ヘブライ人は「平和に属する者」を言い表したい時に「平和の子」と表現した。

(注)別エントリー「神の子らは人の娘たちを【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8636

主イエスはルカ10章で、御自分の教えを受け容れることになる人々を「平和の子」とお呼びになった。イザヤ9章5(6)節ではメシアの称号の一つを「平和の君」と啓示し、またパウロはフィリピ4章9節で自分たちの神を「平和の神」と呼ぶが、ヘブライ人にとって「平和」は全ての幸福の総称でもある。

パウロは主イエスを何度も「平和の神」と呼んだ(一コリント14章33節、フィリピ4章9節、一テサロニケ5章23節等)。これはイザヤ9章5(6)節が、人間の「みどりご」として世に来られた神の御独り子を「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼んで預言したことを踏まえている。

ルカ10章6節「平和の子がそこにいるなら、あなたたちの願う平和は、その人にとどまる」と、マタイ10章13節「家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる」を比べると、「平和の子」とは、「平和〔の神の御教え〕を受け入れるにふさわしい人」だと分かる。

ガラテヤ5章22節は聖霊の賜物の一つに「平和」を挙げる。これは古代のヘブライ人にとっては戦争のない(終わった)状態を表す以外にも、人間関係の協調・一致・発展、個々の健康・幸福・繁栄、心の(霊的な)安定、暴動・反乱のない社会や国家の安寧など、物事が好転している状況の総称でもあった。

(注)別エントリー「試論:『地には平和』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8769

(注)別エントリー「試論:『平和を実現する人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6272

聖パウロのガラテヤ書5章によれば、聖霊が働いている徴は愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・節制(22節〜23節)であり、聖霊が不在である徴は姦淫・わいせつ・好色・偶像礼拝・魔術・敵意・争い・そねみ・怒り・利己心・不和・仲間争い・ねたみ・泥酔・酒宴(19節〜21節)などである。

一コリント12章以下でパウロは霊的な賜物に関し論じた。14章33節は「神は混乱(無秩序)の神ではなく協調(平和)の神」と説き、集会中の発言は順番(27節、40節)になされるべきで複数人が別々の事柄を同時並行で語ることを禁じ(30節)、それは「主の命令」(38節)であると厳命した。

試論:「命じることを行うなら」を140文字以内で

【問】主イエスはマタイ福音書の最後で、なぜ、御自分の命令を全て守るよう教えなさいと仰せになったのですか。
【答】「わたしの命じることをを行うならば、あなたたちはわたしの友」(ヨハネ15章14節)の仰せにもかかわらず行いを疎かにしつつも神の友を自任する困った人々が現れないようにです。

【追記】

【問】主イエスは「わたしはあなたたちを友と呼ぶ」(ヨハネ15章15節)と仰せになりましたが、「神の友」とは何?
【答】旧約聖書第二正典の知恵の書7章14節は、「知恵は人間にとって無尽蔵の宝、それを手に入れる人は神の友」と記します、主イエスはルカ7章35節で「知恵」を自称されました。

【問】ヨハネ15章15節「御父から聞いたことを全てあなたたちに知らせた」の意味は?
【答】主イエスは、弟子たちが《神の友》となるために必要な事柄は御自身が仰せになった事柄で尽きており、聖霊の役割とは自分の仰せの再確認であって自分が教えなかった事柄の伝達ではないと、念を押されました。

【問】主イエスが聖霊に関して教えられた事柄で最重要のものは何?
【答】御自分がお教えになった内容を思い起こさせるために聖霊は来られるのであって、御自分と無関係にではない、ということで、もし「聖霊が我々に直接教える以上、福音書は必要ない」と誰かが言うなら、それは「人を惑わす霊」です。

【問】主イエスはヨハネ16章で「真理の霊」聖霊に関して、「その方はわたしに栄光を与える」(14節)と説明されます。この意味は?
【答】一ヨハネ4章では、主イエスの福音書の仰せに頑なに触れようとしない人々を「反キリストの霊」「人を惑わす霊」と呼び、「真理の霊」とは無関係としています。

パウロは一コリント1章24節で「召された者に対しては、神の力であり神の知恵であるキリストを宣べ伝えている」、同30節で「このキリストはわたしたちにとって神の知恵となり」と記す。主イエスもルカ11章49節で「神の知恵もこう言っている」と「神の知恵」を自称なさり仰せを宣べられている。

シラ4章11節では「知恵は、自分に従う者を高め、自分を追い求める者を助ける」と説く。主はルカ7章35節で「知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される」と仰せになり、11章49節では御自身を「神の知恵」と称された。一コリント1章24節と30節もキリストを神の知恵と呼ぶ。

主イエスはヨハネ15章26節で聖霊を「弁護者」「真理の霊」と呼ばれ、前章の26節に続いて聖霊が弟子たちを助けてくれると教えられた。イザヤ11章2節は「主の霊」の賜物の筆頭を知恵と啓示する。箴言8章12節は「知恵は熟慮と共に住まい知識と慎重さを備える」と記し、熟慮と慎重さを勧める。

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを確実に識別できる基準」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4564

イエスをルカ2章40節は「知恵に満ち神の恵みに包まれていた」と記し、ヨハネ1章14節では「恵みとアレテイアに満ちていた」と記すがヨハネはアレテイアを「忠実(わたしが父の掟に忠実であるように皆もわたしの掟に忠実であれ)」の意味で使う。聖書の知恵とは主への忠実(箴言1章7節)である。

(注)別エントリー「試論:『主を畏れる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10751

(注)別エントリー「試論:『信仰とアレテイア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16847

試論:既に世に勝っている???を140文字以内で

主イエスはヨハネ14章30節で「世の支配者」に言及されたが、その者はルカ4章6節で主に対し、自分なら全世界の権力と繁栄の一切を与えられると豪語した。ヨハネ16章33節における主の仰せ「わたしは既に世に勝っている」は、荒れ野で「世の支配者」からの誘惑を全部はねのけたことを示唆する。

(注)別エントリー「試論:『この世の支配者』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9436

【追記】

主はヨハネ12章24節で「一粒の麦もし死なずば」の一節の前に、ギリシア語本文では二度「アーメン」と口にされた。通常この箇所は「まことにまことに」「よくよく」「はっきり」等と訳されるが、主はこうなさることで、そこが御教えの核心部分だと示された(31節及びコロサイ1章20節等参照)。

主はヨハネ8章32節で「真理はあなたたちを自由にする(解放する)」と仰せになった。パウロはヨハネと同じギリシア語を用いて何からの解放か、その答えをローマ6章と同8章で説明した。「罪から解放」(6章18節、22節)、8章2節「罪と死の法則から解放」同21節「滅びへの隷属から解放」。

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

ヨハネ1章14節は「神の御言葉(=主イエス)は肉(=人)となられ、わたしたちの間に宿られた(=住まわれた)」と記す。マタイ20章28節では主御自身が「仕えられるためではなく仕えるため」「多くの人の身代金(=あがない)として自分の命を献(ささ)げるために来た」と仰せになられている。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

主はヨハネ14章27節で「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と仰せになった。ではどうやって主は御自分の平和をお与えになったのか、パウロがコロサイ1章20節で「その十字架の血によって」と答えを記した。

マルコ福音書は主の御降誕には触れないものの、6章3節で主イエスには母親がいたことを記し、10章45節では主の到来の目的の一つが「多くの人の身代金として自分の命を献(ささ)げる」つまり贖(あがな)いのためと記す。パウロもガラテヤ4章で母親の存在(4節)と贖い(5節)とに触れている。

ヨハネ1章14節は神の御独り子が「肉」となられたと記す。「肉」は創世記6章で人間を指す語だが道徳的な脆さのニュアンスも含む表現であり、それゆえ悪魔が誘惑を試みた。誘惑の後、天使たちがイエスに仕えたが天使は本来単なる人間には仕えない。主イエスは神のままで人間としての全てを担われた。

古代のヘブライ人は「肉」という言葉で、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけでなく、魂も含めた人間としての全体)」を表した。ヨハネ1章14節をこの観点で理解すれば、ニケア・コンスタンチノープル信条「おとめマリアよりからだを受け」の「からだ」は、人間としての全てを意味している。

主はヨハネ12章23節で「人の子が栄光を受ける時が来た」と仰せになった。御受難(十字架上の死)によって多くの人々に永遠の命をもたらし(24節〜25節)「死を永久に滅ぼす」(31節、イザヤ25章8節、一コリント15章54節、ヘブライ2章14節以下、コロサイ1章20節等)ためである。

試論:「略奪愛」???を140文字以内で

【問】世間では、既婚者や恋人のいる異性を奪い取る行為を「略奪愛」と呼んだりします。これはキリスト教の愛に含まれますか?
【答】いいえ、全く含まれません。キリスト教の愛の定義は「他の人からしてもらいたいことなら全てあなたから他の人にしなさい」で、これと「略奪愛」は絶対に相容れません。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

【追記】

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

ローマ13章10節は「愛は隣人に悪を行わない」と記す。これに従えば「愛の反対」とは「隣人に悪を行うこと」である。マタイ7章21節以下「わたしを『主よ、主よ』と呼ぶ者が皆、天の国に入るわけではない」「不法を働く者どもよ、わたしから離れ去れ。わたしはお前たちのことなど全く知らない」。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

(注)別エントリー「試論:ローマ13章『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16049

主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちは、自分が他の人からしてほしいことを、自分から他の人にしなさい」と《愛の掟》を教えられた。従って「愛の反対」は「他の人からしてほしくないことをあえて他の人に行うこと」そして「他の人からしてほしいことをあえて他の人には行わないこと」からなる。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1982

試論:「最優先は四福音書」を140文字以内で

主はマタイ28章20節で十一人の弟子たちに、「わたしがあなたたちに命じておいたことを守るように、すべての民に教えなさい」と仰せになった。「命じておいたこと」の内容を知るには第一義的に四福音書を読まねばならない。次に使徒たちの手紙であって、黙示録や旧約聖書は優先順位的には後である。

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

【追記】

主はマタイ4章4節で、「人はパンだけで生きる者ではなく、主の口から出る全ての言葉によって生きる者である」と申命記8章3節の言葉で、悪魔の誘惑に返された。ヨハネ1章1節は、御父の独り子である御子イエス・キリストを「神の御言葉」と呼ぶ。福音書の主の仰せを抜きにした信仰などありえない。

(注)別エントリー「試論:『わたしは命である』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11586

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは《天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神》主イエスを表す称号であり主が直接人々にお話しになった御言葉を記したものが福音書である。福音書を顧みず他のものばかりに目を奪われ続けるならばイエス・キリストがわからなくなる。

主はヨハネ13章34節で「互いに愛し合いなさい」と「愛の掟」をお授けになったが、「わたしがあなたがたを愛したように」と付け加えられることによって、御自身を模範(全人類のあるべき姿)としてお示しになった。「言(ことば)」である主が「肉」つまり人間となられた意義の一つがここにあった。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

ヨハネの第一の手紙の4章は「反キリストの霊」の特徴を説明している。神からの霊が主イエス・キリストの福音を解説するのに対し、人を惑わす霊は信仰を自称しつつ世界情勢(国際情勢・社会情勢)を好んで語る一方でキリストの福音の中身に関しては全く意を尽くすことなく沈黙する、という特徴を持つ。

二テモテ4章でパウロは、人々が「御言葉」(2節)つまり《主が人々の前に御姿をお見せになり直接人々にお話しになった御教え》には耳を傾けなくなり、「自分に都合の良い」(3節)「作り話」(4節)つまり真の御言葉ではない紛い物の方に引かれていくと警告したが、対策は福音書を読む以外にない。

日本語でも「人としての道から外れる」などと表現するように、主イエスが「わたしは道」と仰せになる際の「道」とは、誰もがそこを通って進んで行くべき人間としての道筋、つまり御父である神の御前における、人間としてのあるべき姿(人間としてのあり方や生き方の規範・模範)という意味合いである。

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7818

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

エレミヤ23章は、偽預言者たちが「託宣」を捏造して「わが民がわたしの名を忘れるように仕向ける」と、主なる神がお嘆きであることを記した。一ヨハネ4章も、キリストの弟子を自称する人々がキリストについて沈黙する一方で世間的な事柄だけ語っていることを、「反キリストの霊」と呼んで非難した。

(注)別エントリー「試論:『偽預言者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7106

「一切の権能を授かっている」

主はマタイ11章27節で、全てのことは御父から御自分に任せられていると仰せになった。これは、既にダニエル7章13節以下で啓示された事柄であり、マタイ28章18節やルカ10章22節やヨハネ3章35節や同13章3節等、福音書では事ある毎に強調される「真理(ヨハネ14章6節)」である。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

一ヨハネ2章23節は「御子〔主イエス〕を否定する者は、誰であろうと、御父である神にも結ばれてはいません」と記す。主イエスがヨハネ10章30節で「わたしと御父とは一つ」、同14章6節で「誰であれ、わたしを通らなければ、御父の許にはたどり着けない」と仰せになる以上は、当然の話である。

主はヨハネ13章34節で「互いに愛し合いなさい」と「愛の掟」をお授けになったが、「わたしがあなたがたを愛したように」と付け加えられることによって、御自身を模範(全人類のあるべき姿)としてお示しになった。「言(ことば)」である主が「肉」つまり人間となられた意義の一つがここにあった。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは「御自分でお話しになる神」の意味で《天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神》主イエスを表す称号であり、直接お話しになった記録が福音書である。福音書を読まないことは主イエス・キリストを理解しようとしないことに等しい。

主イエスをヨハネ1章1節は「言(ことば)」つまり《人々の前に御姿を現され御自ら御教えをお話しになる神》と呼ぶ。主イエスに従う人々にとって「神の御言葉」とは、まず何より主イエス御自身の仰せである。聖書やキリスト教について話題にしても肝心の主イエスの御教えを避ける人々は眉唾物である。

一ヨハネ4章は、信者を自称しながら世間の事柄ばかり話題にして主イエスの福音の中身に関して頑に触れようとせず沈黙する人々を、「偽預言者」「反キリストの霊」などと呼ぶ。2章19節は「彼らはわたしたちから去って行った」「元々仲間ではなかった」「仲間ならとどまっていた」とその末路を記す。

主はヨハネ14章23節で、「わたしのことを愛している者なら、わたしの言葉を守るであろう。わたしの父はその人を愛され、父とわたしはその人のところへ行って一緒に住む」と教えられた。福音書の中の主の御言葉を気にも留めようとしないなら、本当は主を愛してなどいないと見なされても仕方がない。

(注)別エントリー「試論:『主の御言葉の権威』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9025

主イエスはヨハネ10章30節「わたしと御父とは一つ」38節「わたしは御父の内にあり御父はわたしの内におられる」と教えられ14章でも繰り返され(10節、11節、21節)16章15節「御父の持っているものは全てわたしの持っているもの」で、御父と御自分との間に差異はないと仰せになった。

ヨハネ14章8節のフィリポの言葉「主よ、わたしたちに御父をお示しください」に対しコロサイ1章15節では「御子は、見えない神の姿」と表現した。「見えない神」とは御父であり「姿」とは《生き写し》というニュアンスをも含んでいる。ヘブライ1章3節は「神の本性の完全な具現」などと表現した。

主はヨハネ10章30節で「わたしと父とは一つ」と仰せになった後、17章では弟子たちのために天を仰いで祈られたが、それは御父と御自分が「一つ」であるように、弟子たちもまた「一つ」となるためであった(11節、21節〜23節)。使徒言行録4章32節「信じた人々の群れは心も思いも一つ」。

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

ニケア・コンスタンチノープル信条「父と一体」はヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」と38節に拠り、御父と御子の間には矛盾・対立・齟齬の類は一切ないことを表す。ギリシア神話では最高神ゼウスと父クロノス、クロノスと父ウーラノスの父子相剋が存在するが、キリスト教には全く存在しない。

《御父である神、主》と《御子である神、主イエス》とは、詩編110編1節では御父は「主」、御子は「わが主」でありマルコ12章36節で御父は「主」、御子はダビデの言う「わたしの主」である。ヨハネ1章1節では御父は「神」、御子は「言(ことば)」であり、「言は神であった」と記されている。

《御父である神、主》と《御子である神、主イエス》とは、詩編110編1節では御父は「主」、御子は「わが主」でありマタイ22章44節も御父は「主」、御子はダビデの言う「わたしの主」である。ルカ1章43節でエリサベトは詩編110編1節を踏まえ、マリアを「わたしの主のお母さま」と呼んだ。

(注)別エントリー「マリアを『神の母』と呼ぶ聖書的根拠」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4492

(注)別エントリー「試論:『神の母であること』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6079

(注)別エントリー「試論:『救い主の母であること』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7510

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは道」と仰せになり、「わたしを通らなければ、誰であれ御父には到達できない」と続けられた。パウロはエフェソ2章14節でユダヤ人と異邦人をこの点において隔てる壁はないと記し、ローマ10章12節でも「ユダヤ人とギリシア人の区別はない」と明言している。

主イエスの御前でユダヤ人と異邦人の「区別」が存在しないことはエフェソ2章14節以下、使徒言行録15章9節「わたしたちと彼らの間に何の差別もなさいません」、ローマ3章29節「神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもあります」、一コリント12章13節、ガラテヤ3章28節以下等。

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは道」と仰せになり、「わたしを通らなければ、誰であれ御父には到達できない」と続けられ、また御昇天前にマタイ28章19節で「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じられた。パウロもローマ10章12節で「ユダヤ人とギリシア人の区別はない」と説く。

主が「わたしは道」(ヨハネ14章6節)と仰せになる場合、自身が御父へ通じる唯一無二の存在であると示唆するだけではなく、日本語の「人としての道から外れる」と同様に、誰もがそこを通って進んで行くべき人間としての道筋つまり御父である神の御前における模範(同13章15節)の意味をも含む。

試論:わたしの名によって願う?を140文字以内で

【問】主イエスは最後の晩餐の夜「わたしの名によって願う」ことを強調されました。なぜ?
【答】山上の説教等で「主の祈り」を教えされた際に典型的な通り、それまで主イエスは御父の名によって祈り願うことを教えて来られました。この時からは「わたしの名によって願う」ようにと強く勧められました。

【追記】

【問】それは御父をないがしろにすることですか?
【答】いいえ。主イエスは「わたしと御父とは一つ」(ヨハネ10章30節)「御父はわたしの内におられ、わたしは御父の内にある」(同章38節)と教えられ、人々が御自分に願うことで御父も栄光をお受けになる(同14章13節)と仰せになりました。

【問】なぜその時になって、主イエスはそのことをお教えになったのですか?
【答】主イエス御自身が極めて近い将来、御受難と御復活を経て御昇天によって世から去って行かれる定めだからで、ヨハネ14章から17章に至る長い講話は全て、御自分が世からいなくなってしまわれることが前提の、内容です。

絶えず祈る

ルカ18章1節「イエスは、気を落とさすに絶えず祈らなければならないことを御説明されるために〜」一テサロニケ5章17節「あなたがたは、絶えず祈りなさい」ヨハネ16章24節「あなたがたはわたし〔主イエス〕の名によって願い求めなさい。そうすれば、あなたがたは与えられ喜びで満たされる」。

(注)別エントリー「試論:『わたしたちの確信』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7711

主はマタイ7章で「門をたたきなさい」(7節)「狭い門から入りなさい」(13節)「命に至る門はなんと狭く、その道も細いか」(14節)と仰せになられたが、詩編118編19節以下には「正義の門よ、開け。わたしは入って主に感謝しよう。この門は主の門だ。この門から主に従う人は入る」とある。

(注)別エントリー「試論:『狭い戸口』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6217

(注)別エントリー「試論:『狭い門』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5628

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

ヨハネ2章のカナでの婚礼の際、3節での母の言葉に対し主は4節でその真意を測りかねるお答えをされたが、5節で母は願いが聞き入れられたと確信して召し使いたちに言葉をかけた。フィリピ4章6節「万事、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明け、思い悩むのはやめなさい」。

(注)別エントリー「試論:『母の確信』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7923

詩編145編19節は「主を畏れる人々の願いはかなえられる」とし、箴言10章24節は「神に従う人の願いはかなえられる」と説く。マタイ7章7節は「求めなさい。そうすれば与えられる」と主の御言葉を教え、ヨハネ14章13節は「わたしの名によって願うことは何でもかなえてあげよう」とも記す。

(注)別エントリー「試論:神に対する確信を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5613

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の要諦を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5617

カトリック以外の人は、ヨセフがマリアとの間に子を儲けることなく二人は終生童貞だったと聞くと、怪訝に思うかもしれない。しかし大昔ヨセフの先祖は、イスラエルの義人の姿をこう歌った、「唯一のことを主に請い願おう。命ある限り主の家で主の御姿を仰ぎ、日々を過ごすことを(詩編27編4節)」。

(注)別エントリー「試論:聖母と聖ヨセフの終生童貞を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6397

(注)別エントリー「試論:聖母の終生童貞とルカ1章を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6772

ルカ17章5節で使徒たちが「わたしどもの信仰を増してください」と頼んだ際には主は否定的な反応を示されたが、御受難の前ペトロのために主は信仰を失わぬよう祈られた(22章32節)。安易な意向による願い事を神は好まれないが真面目に求めている人の願いはまた別である(マタイ7章7節以下)。

(注)別エントリー「試論:信仰を増すことを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5349

(注)別エントリー「試論:ルカ22章32節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5899

(注)別エントリー「試論:マナセ王の回心を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5878

マタイ6章で主は、祈る際の「これ見よがし」的な態度を避けるように人々を戒められ、「隠れたことを見ておられる天の父が報いてくださる」と仰せになった。サムエル上1章13節「ハンナは心のうちで祈っていて、唇は動いていたが声は聞こえなかった」その結果19節「主は彼女を御心に留められた」。

試論:ヨハネ4章24節を140文字以内で

【問】「神は霊である」? どういうこと?
【答】古代のヘブライ人は人間に関係する事柄を「肉」、神に関連する事柄を「霊」と呼び対比しました。新約聖書ではヨハネとパウロが好んでこの対比を用い、パウロはガラテヤ5章16節以下で、神に従って生きるとは「霊」の実を神に献げることだと説きます。

(注)別エントリー「試論:『肉と霊』の対比を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7740

(注)別エントリー「試論:ガラテヤ5章の『肉と霊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7657

【追記】

【問】「神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」の意味は?
【答】この場合の「霊」とは、《霊の結ぶ実》とガラテヤ5章22節でパウロが呼ぶ諸徳を指し、「真理」とは、旧約聖書の「まこと」すなわち日本語(漢字)で「真」「実」「信」「誠」と表現される事柄を意味しています。

【問】ヨハネ4章24節「霊と真理をもって礼拝」の意味は?
【答】「真理」とは主イエスのことですが、主は御自分の十字架上のいけにえをもって、モーセの律法のあらゆる献げ物やいけにえに替えられ、御自分の弟子たちには《いけにえではなく憐れみ》の原則に基づき、憐れみの業の実践を要請されます。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

(注)別エントリー「試論:『いけにえ』と憐れみを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8356

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

主イエスはヨハネ14章6節で「真理(アレテイア)」と自称されたが、ギリシア語訳のエレミヤ9章4節は「人は隣人を惑わし、『まこと(アレテイア)』を語らない」であり、エレミヤ9章で「まこと」に対置されているのは姦淫する者・裏切る者・偽り・悪・中傷・惑わし・悪事・欺き・殺し等々である。

(注)別エントリー「試論:真理(まこと)の反対は?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12668

ヨハネ17章3節「永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなた(御父)とあなたが遣わされたイエス・キリストを知ること」一ヨハネ2章4節「神を知っていると言いつつ神の掟を行わぬ人は偽り者で彼にまことはない」マタイ7章12節「他の人からしてもらいことをあなたから他の人に全てしなさい」。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

古代のヘブライ人の世界観に従ってガラテヤ5章は【人間(人間それ自体)】を「肉」、【神〔に由来するもの〕】を「霊」と呼ぶ。ヨハネ3章6節も同様の対比を用い「霊から生まれた者は霊」の意味を、1章12節は「神の御言葉である主イエスは自分を受け入れる人に神の子となる資格を与えた」と記す。

(注)別エントリー「試論:聖書と『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7649

ガラテヤ5章16節以下では「肉と霊」が対比されるが、ここで「肉」はヨハネ1章14節同様「人間」を指し、「霊」は「聖霊」「神の霊」を意味する。ガラテヤ5章における「肉」と「霊」との対立とは、「人間に由来する諸悪」(マルコ7章20節以下参照)と「神に由来する諸徳」との対立を意味する。

ガラテヤ5章は「肉」と「霊」の対立を記すが、ヨハネ1章同様、パウロは古代のヘブライの世界観に基づき、人間そのものを「肉」と表現して「霊」つまり「神の霊」と対比する。近代人は「肉と霊」という表現から「〔人間の〕肉体と〔人間の〕霊魂の対立」をイメージしがちだが、パウロの意図は異なる。

試論:「神の友」を140文字以内で

【問】主イエスは「わたしはあなたたちを友と呼ぶ」(ヨハネ15章15節)と仰せになりましたが、「神の友」とは何?
【答】旧約聖書第二正典の知恵の書7章14節は、「知恵は人間にとって無尽蔵の宝、それを手に入れる人は神の友」と記します、主イエスはルカ7章35節で「知恵」を自称されました。

【追記】

【問】ヨハネ15章15節「御父から聞いたことを全てあなたたちに知らせた」の意味は?
【答】主イエスは、弟子たちが《神の友》となるために必要な事柄は御自身が仰せになった事柄で尽きており、聖霊の役割とは自分の仰せの再確認であって自分が教えなかった事柄の伝達ではないと、念を押されました。

【問】主イエスが聖霊に関して教えられた事柄で最重要のものは何?
【答】御自分がお教えになった内容を思い起こさせるために聖霊は来られるのであって、御自分と無関係にではない、ということで、もし「聖霊が我々に直接教える以上、福音書は必要ない」と誰かが言うなら、それは「人を惑わす霊」です。

【問】主イエスはヨハネ16章で「真理の霊」聖霊に関して、「その方はわたしに栄光を与える」(14節)と説明されます。この意味は?
【答】一ヨハネ4章では、主イエスの福音書の仰せに頑なに触れようとしない人々を「反キリストの霊」「人を惑わす霊」と呼び、「真理の霊」とは無関係としています。

パウロは一コリント1章24節で「召された者に対しては、神の力であり神の知恵であるキリストを宣べ伝えている」、同30節で「このキリストはわたしたちにとって神の知恵となり」と記す。主イエスもルカ11章49節で「神の知恵もこう言っている」と「神の知恵」を自称なさり仰せを宣べられている。

シラ4章11節では「知恵は、自分に従う者を高め、自分を追い求める者を助ける」と説く。主はルカ7章35節で「知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される」と仰せになり、11章49節では御自身を「神の知恵」と称された。一コリント1章24節と30節もキリストを神の知恵と呼ぶ。

主イエスはヨハネ15章26節で聖霊を「弁護者」「真理の霊」と呼ばれ、前章の26節に続いて聖霊が弟子たちを助けてくれると教えられた。イザヤ11章2節は「主の霊」の賜物の筆頭を知恵と啓示する。箴言8章12節は「知恵は熟慮と共に住まい知識と慎重さを備える」と記し、熟慮と慎重さを勧める。

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを確実に識別できる基準」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4564

イエスをルカ2章40節は「知恵に満ち神の恵みに包まれていた」と記し、ヨハネ1章14節では「恵みとアレテイアに満ちていた」と記すがヨハネはアレテイアを「忠実(わたしが父の掟に忠実であるように皆もわたしの掟に忠実であれ)」の意味で使う。聖書の知恵とは主への忠実(箴言1章7節)である。

(注)別エントリー「試論:『主を畏れる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10751

(注)別エントリー「試論:『信仰とアレテイア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16847

試論:「全て知らせた」を140文字以内で

【問】ヨハネ15章15節「御父から聞いたことを全てあなたたちに知らせた」の意味は?
【答】主イエスは、弟子たちが《神の友》となるために必要な事柄は御自身が仰せになった事柄で尽きており、聖霊の役割とは自分の仰せの再確認であって自分が教えなかった事柄の伝達ではないと、念を押されました。

【追記】

【問】主イエスが聖霊に関して教えられた事柄で最重要のものは何?
【答】御自分がお教えになった内容を思い起こさせるために聖霊は来られるのであって、御自分と無関係にではない、ということで、もし「聖霊が我々に直接教える以上、福音書は必要ない」と誰かが言うなら、それは「人を惑わす霊」です。

【問】主イエスはヨハネ16章で「真理の霊」聖霊に関して、「その方はわたしに栄光を与える」(14節)と説明されます。この意味は?
【答】一ヨハネ4章では、主イエスの福音書の仰せに頑なに触れようとしない人々を「反キリストの霊」「人を惑わす霊」と呼び、「真理の霊」とは無関係としています。

試論:迷った状態の目の見えぬ人を140文字以内で

【問】申命記27章18節「目の見えぬ人を迷ったままにする者はわざわいだ」とは?
【答】古代のヘブライ人は「見る」という表現で、視力以外にも認知能力全般や理解力や判断力をも表現しました。視力は問題なくとも高齢者や遠方から来て地理に疎い人も、「目の見えぬ人」に含まれる蓋然性があります。

【追記】

レビ19章18節は隣人愛の掟を説くが、同章では隣人愛に反する諸行為を禁じる。14節は耳の不自由な人の耳元で聞こえないのをいいことに悪口を言う行為と目の不自由な人の歩いて行く方向に物を置いて邪魔をする行為とを禁じ、申命記27章18節は迷っている人に対して知らん振りをするのを禁じる。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

マタイ1章5節は、ヨシュア記に登場するエリコの遊女ラハブがルツ記に登場するボアズの母親であったと記す。ルツ記を読めば一目瞭然だが母親ラハブが息子に何を言い聞かせて育てたか、それは「相手が自分よりも弱い立場で自分の方が優位にあるように思えても、決して相手の弱みに付け込むな」である。

(注)別エントリー「試論:『放蕩息子とナオミ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18107

旧約であれ新約であれ聖書で「見る」という表現が用いられる場合、単に「目で見る」ばかりではなく、「心で悟る」「理解する」等も含む。マタイ24章30節「地上の全ての民は人の子が天の雲に乗って来るのを見るであろう」は、黙示録6章17節「神と小羊の怒りの大いなる日が来た」に対応している。

(注)別エントリー「イエス・キリストと天の雲」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/684

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

「自分の時」

主のヨハネ16章21節の仰せ「自分の時」は、12章27節「わたしはまさに、この時のために来た」同31節「今こそこの世の支配者(=悪魔)が追放され世が裁かれる時」を指す。ヘブライ2章14節「御自分の死によって悪魔を滅ぼし、」ローマ8章2節「罪と死との法則から世の人々を自由にした」。

主はヨハネ16章21節で、御自分の十字架上の苦しみを女性の産みの苦しみと重ねられた。出産により母が子の誕生をもたらすように、十字架上の苦しみと御自分の死そして御復活の結果として悪魔の罪と死による支配を終わらせ、人類に永遠の命と「復活の体(天上の体、霊の体)」を授与するからである。

主イエスはヨハネ16章21節で御自身の受難と復活の理由を女性の出産に喩えられ、イザヤ65章17節以下で預言された《新しい天・地・エルサレム》の創造のためだと、暗示された。同66章8節「誰がこのようなことを見聞きしただろうか。一つの国が一日で生まれ、一つの民が一度に生まれようか」。

(注)別エントリー「主の御復活とともに創造された事柄とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15917

ヨハネ12章27節「わたしはまさにこの時(=御自身がゴルゴタにおいて十字架上に『上げられる<高い所に掲げられて顕示される>』御受難の時)のために来た」マタイ20章28節、マルコ10章45節「人の子は、多くの人々の身代金(=あがない)として、自分の命を献(ささ)げるために、来た」。

(注)別エントリー「試論:『上げられる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9358

ヨハネ8章34節「罪を犯す者は、罪の奴隷」12章31節「今、この世の支配者が追放される」ヘブライ2章14節〜15節「御自分に委ねられた者たちが人間である以上イエスも同じく人間としての全てを担われたが、死を司る悪魔を御自分の死によって滅ぼし悪魔の罪と死の支配から人々を解放された」。

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

(注)別エントリー「試論:真理と贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9081

(注)別エントリー「試論:『自分の命を憎む人』??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9419

主はヨハネ12章24節で「一粒の麦もし死なずば」の一節の前に、ギリシア語本文では二度「アーメン」と口にされた。通常この箇所は「まことにまことに」「よくよく」「はっきり」等と訳されるが、主はこうなさることで、そこが御教えの核心部分だと示された(31節及びコロサイ1章20節等参照)。

主はヨハネ8章32節で「真理はあなたたちを自由にする(解放する)」と仰せになった。パウロはヨハネと同じギリシア語を用いて何からの解放か、その答えをローマ6章と同8章で説明した。「罪から解放」(6章18節、22節)、8章2節「罪と死の法則から解放」同21節「滅びへの隷属から解放」。

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

ヨハネ1章14節は「神の御言葉(=主イエス)は肉(=人)となられ、わたしたちの間に宿られた(=住まわれた)」と記す。マタイ20章28節では主御自身が「仕えられるためではなく仕えるため」「多くの人の身代金(=あがない)として自分の命を献(ささ)げるために来た」と仰せになられている。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

主はヨハネ14章27節で「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と仰せになった。ではどうやって主は御自分の平和をお与えになったのか、パウロがコロサイ1章20節で「その十字架の血によって」と答えを記した。

ローマ8章6節の直訳は「肉の思いは死、霊の思いは命と平和」。ヘブライ人は人間由来の事柄を「肉」、神に由来する事柄を「霊」と呼び、あらゆる幸福を「命」あるいは「平和」と総称した。この節は「人間由来の願望は死で終わるが、神に由来する願望は人間をあらゆる幸福へと導く」という意味である。

古代のヘブライ人にとって「平和」はあらゆる幸福の総称であり、「あなたに平和」はヘブライ人の挨拶の決まり文句だった。ルカ10章5節「この家に平和があるように」は、より長い形の挨拶(サムエル上25章6節)である。ヘブライ人は「平和に属する者」を言い表したい時に「平和の子」と表現した。

(注)別エントリー「神の子らは人の娘たちを【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8636

主イエスはルカ10章で、御自分の教えを受け容れることになる人々を「平和の子」とお呼びになった。イザヤ9章5(6)節ではメシアの称号の一つを「平和の君」と啓示し、またパウロはフィリピ4章9節で自分たちの神を「平和の神」と呼ぶが、ヘブライ人にとって「平和」は全ての幸福の総称でもある。

パウロは主イエスを何度も「平和の神」と呼んだ(一コリント14章33節、フィリピ4章9節、一テサロニケ5章23節等)。これはイザヤ9章5(6)節が、人間の「みどりご」として世に来られた神の御独り子を「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼んで預言したことを踏まえている。

ルカ10章6節「平和の子がそこにいるなら、あなたたちの願う平和は、その人にとどまる」と、マタイ10章13節「家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる」を比べると、「平和の子」とは、「平和〔の神の御教え〕を受け入れるにふさわしい人」だと分かる。

マタイ5章9節「平和を実現する人」の「平和」とは、福音書の時代の人々にとっては単に戦争のない(終わった)状態を意味する以外に個々の健康や幸福・繁栄、人間関係の協調・一致や発展、社会や国家の安寧、暴動や反乱のない状態、心の(霊的な)安定など、物事が好転している状況の総称でもあった。

(注)別エントリー「試論:『柔和な人は幸いである』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5976

(注)別エントリー「試論:『心の清い人は神を見る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5937

【わたしの掟】互いに尊重し合いなさい

ヨハネ15章12節「これがわたしの掟である。わたしがあなたたちを尊重したように互いに尊重し合いなさい」コロサイ3章13節「互い〔の欠点〕を我慢し合い、もしも相手に非難すべきことがあっても赦し合いなさい。主があなたたちを既に赦して下さったように、あなたたちも同じように赦しなさい」。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

主イエスは「自分が他人にしてもらいたいことを自分から他人にしなさい」と《キリストの律法》を教えられたが、ヨハネ13章1節では《御自分の時》が来たと自覚された主が、弟子たちを尊重され、どこまでも尊重されたことが記される。《キリストの律法》とは尊重と敬意であると、主は御自ら示された。

主イエスは「自分が隣人からしてもらいたいことを自分から隣人にしなさい」を御自分の《律法》すなわち御教えの根幹とされ、弟子たちの足を洗われ隣人への敬意と尊重の重要性を教えられた。しかし御自身は次の晩が来る前に、尊重や敬意とは無縁の暴力や虐待や侮辱の裡にぼろ布のようにされて殺された。

弟子たちの足を洗うという行為を通じて、主イエスは隣人に敬意を払って尊重することこそ御自分の御教えの根幹であると教えられた。自分自身が他人から尊重され敬意を払われた経験がなければ敬意と尊重は理解できない。「互いを尊重するなら、それを見て皆はあなたたちがわたしの弟子であると認める」。

ガラテヤ5章では「聖霊の結ぶ実」として神の御独り子の母の内面に関連する《愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制》を説く。他方、コロサイ3章では「礼服」(マタイ22章)という比喩を踏まえ、「義人」ヨセフの「義」に関連する《憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛》を説く。

マタイ22章の「礼服」に関連して、ローマ13章14節で「主イエス・キリストを着る」ことをパウロは勧め、コロサイ3章10節でも「主の姿に倣う新しい人を着る」ことを勧める。「倣う=着る」べきものとして憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容そして愛を「着る」ことをコロサイ3章は勧めている。

(注)別エントリー「試論:『神の義』と詩編を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6798

主はマタイ6章33節で「まず神の国と神の義を求めよ」と仰せになった。古代のヘブライ人は神の義(正義)を実行する人となることを「正義を衣としてまとう(=身に着ける)」と比喩で表現した(詩編132編9節、ヨブ29章14節)。従ってマタイ22章の「礼服」とは正義(神の義)の比喩である。

マタイ22章は神の御前に立つためには「礼服」が不可欠と教える。詩編132編は9節で「正義を衣としてまとう」16節で「救いを衣としてまとう」と表現して「救い」すなわち神と共にある条件を、「正義」すなわち「神の義」(マタイ6章33節)とし、その具体例をコロサイ3章12節以下が教える。

(注)別エントリー「試論:マタイ22章『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6740

黙示録16章15節は「わたしは盗人のように来る」に「衣を身に着けている人は幸い」と続け、マタイ22章「礼服」の比喩を再現する。黙示録が啓示する時代でも、福音書の主の仰せが本質的に重要と分かる。身に着けるべき衣とは、詩編132編9節によれば正義(=神の義。マタイ6章33節)を指す。

(注)別エントリー「試論:『人の行いに応じた報い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5743

(注)別エントリー「試論:『神の義とディカイオス』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8685

ヨハネ1章14節は神の御独り子が恵みと真理に満ちて人間となられたことを記すが、ヤコブ4章6節と一ペトロ5章5節はともに「神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みをお与えになる」と強調し、ルカ1章は「わたしは主のはしため」とへりくだった女性こそが御独り子の母となったことを特筆する。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7795

(注)別エントリー「試論:『イエスとマリアの関係』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7725

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

試論:聖霊に関する御教えの要諦を140文字以内で

【問】主イエスが聖霊に関して教えられた事柄で最重要なものは何?
【答】御自分がお教えになった内容を思い起こさせるために聖霊は来られるのであって、御自分と無関係にではない、ということで、もし「聖霊が我々に直接教える以上、福音書は必要ない」と誰かが言うなら、それは「人を惑わす霊」です。

なぜ救い主の母が「主のはしため」??

【問】マラキ3章19節は高慢な者と悪を行う者を同列に論じますが、なぜですか?
【答】詩編1編1節の通り旧約の民は神に従わぬ者と罪人と高慢な者を同列に扱いました。エバは創世記3章で神のようになることを望みましたが、マリアはルカ1章38節で自分は主のはしために過ぎないと謙遜しました。

詩編1編1節は神と共にいるための必要三条件を記す。一つ目は神に逆らう人に同調しないこと、二つ目は罪や悪に走らないこと、三つ目は高慢心を捨てることである。高慢で周囲の人々を粗略に扱う人は、いつか必ず神をも粗略に扱う。神の御独り子の母となった女性が高慢心とは無縁であるのは当然である。

(注)別エントリー「試論:『しもべ』と『はしため』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9785

(注)別エントリー「試論:『わたしの主』と母マリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8575

(注)別エントリー「試論:『恵みとへりくだり』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8781

主イエスは福音書で「自ら高ぶる者は低くされ、へりくだり自ら低くなる者は高くされる」と繰り返された。神の御独り子の母に選ばれたにもかかわらず「わたしは主のはしため」と繰り返し実際「人となられた神」に生涯仕え続けた女性が、「神と共に歩んだ」点においてエノクに引けを取るなどありえない。

(注)別エントリー「試論:『謙遜の極み故の被昇天』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11125

箴言3章34節は「神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みをお与えになる」と説く。「自分は誰かの召使になった覚えはないし、他の人のためにあれこれするなど、やってられない」と放言する人は「キリストの律法」を絶対に実行できないし、神がお与えになる恵みもまた、永遠にその人には届かない。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』と世情を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18499

【問】なぜ受胎告知の際にマリアは、承諾の返答よりも先に「わたしは主のはしため」と再確認しましたか?【答】マリアはそう前置きすることで、「わたしは神の御独り子の母となることを承諾しますが、決して『神のようになること』(創世記3章5節)を望むからではありません」と意思表示をしました。

(注)別エントリー「試論:「わたしの主のお母さま」を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10221

カトリックでは聖母マリアを「無原罪」つまりサタンの悪影響とは全く無縁の女性と教え、少女期の聖母が神殿で十年以上奉献生活を送り教育を受けたと教える。聖母は長年、救い主やあがないについて思い巡らしていた。受胎告知の際の言葉「わたしは主のはしため」は一朝一夕に出て来る類のものではない。

(注)別エントリー「神のお告げ:受胎告知と無原罪の御宿り」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4835

(注)別エントリー「試論:ヤコブ原福音書を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5239

(注)別エントリー「聖書の時代に神殿の処女は存在したのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1539

(注)別エントリー「『贖(あがな)い』と『救い主の母』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19677

(注)別エントリー「福音書の聖ヨセフと外典書の高齢者ヨセフ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4759

主は「いつでも戸を開けられるように目を覚ましていなさい」と仰せになり、普段から心の準備をすることが弟子としての心構えであると教えられた。主の母親となるべき女性がその少女期、当時最もしかるべき教育の場であった神殿の聖所で奉仕の日々を送ったという概念は、極めて蓋然性の高い話と言える。

(注)別エントリー「試論:『準備しなさい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12580

【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。

ルカ2章51節は少年時代の主イエスが両親に従っておられたと記す。他方、4章5節から8節は悪魔が主を誘惑して自分に従わせようとしたが、主は断固として拒まれたと記す。今、キリストの弟子を自称する人々が、母マリアを拒む一方で悪の誘惑には抵抗できないとしたら、彼らの本籍はどこにあるのか?

(注)別エントリー「試論:『女』とサタンの対立を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10314

(注)別エントリー「試論:『マリアとヨセフと聖書』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16295

もし仮にそれが名もない女性だったとしても、人となられた神のために、ただただ手料理を三十年前後もの間、作り続けた女性がもしも実際に存在したとするならば、その一事のみをもって、その女性は全世界から崇敬を集めるに値する。まして彼女は、裁縫も洗濯も掃除もその他全ての神の家の家事を行った。

(注)別エントリー「試論:『地上の星』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11997

聖母は受胎告知の後も「主のはしため」(ルカ1章38節、48節)と自称するほど、へりくだりが第一の特徴であり、聖霊によって神の御独り子を宿される以上、《聖霊の結ぶ実》(ガラテヤ5章22節〜23節)である愛から節制に至る諸徳は、「おめでとう、恵まれた方」と呼ばれるまでに、備えていた。

ヨハネ19章25節には、主イエスの十字架の傍らには聖母マリアの姿があったと記されている。しかし実のところ、主イエスの贖(あがな)いの御業(みわざ)に対する聖母の協力は、生まれる男子が生贄の小羊として屠殺される定めと完全に理解した上で母となることを承諾した日から、既に始まっていた。

(注)別エントリー「『贖(あがな)い』と『救い主の母』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19677

試論:「真理の霊」の識別法を140文字以内で

【問】主イエスはヨハネ16章で「真理の霊」聖霊に関して、「その方はわたしに栄光を与える」(14節)と説明されます。この意味は?
【答】一ヨハネ4章では、主イエスの福音書の仰せに頑なに触れようとしない人々を「反キリストの霊」「人を惑わす霊」と呼び、「真理の霊」とは無関係としています。

もし「永遠」とは何かを理解したならば

主イエスはヨハネ6章40節で「わたしの御父の御心は、御子(=主イエス御自身)を見て信じる者が皆『永遠の命』(マタイ25章46節)を得ることである」と仰せになった。「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

主イエスはルカ13章3節で「あなたたちも悔い改めなければ皆、滅びる」と説かれた。ルカ3章で洗礼者は、悔い改めに必要な事柄を簡潔ながら具体的な指示として与えた。主イエスの御指示は「あなたが他の人からしてもらいたいことは全てあなたから他の人にしなさい」で、これの実行が悔い改めである。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

主イエスや洗礼者は「悔い改め」を説いた。悔い改めと聞くと現代人は、何か仰々しいイメージを抱きがちだが、ルカ3章で実際に洗礼者が皆に指示した事柄は簡潔かつ具体的なものであった。目の前にいる相手を悲しむ顔・困った顔・苦しむ顔にさせるような行為と悪意とを捨て去るように、それらは勧めた。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

ルカ13章23節は主イエスに救われる者は少ないかを尋ねた人がいたと記す。主は直接の回答をされなかったが、のちに最後の晩餐の夜、ヨハネ14章2節で「わたしの父の家には住む所がたくさんある」と仰せになった。それが答えである。合格者の定員は存在しない。従って、問題は合否の基準と言える。

(注)別エントリー「試論:『合格者数と合否の基準』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8201

(注)別エントリー「試論:『誰の死も喜ばれない神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18444

ルカ13章23節は救われる者は少ないかという主への質問を記す。主は27節で不義を行う人々は神に拒まれると答えられ、救われるか否かはあくまでも一人一人が主のおぼしめしに沿うか否かであり、救われる者の多い少ないよりそれ以前にまず神の義(マタイ6章33節)を求めて生きるよう勧められた。

(注)別エントリー「試論:『救われる者は少ないか』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8111

主はルカ13章23節で救われる者は少ないかと問われ、27節で不義を行う人々が神に拒まれると答えられた。確かに「合格者数」や「合格率」がどうしても気になってしまうのは仕方ないが、だからといって、合格と不合格を分ける判断の基準に目が行かなくては本末転倒で、基準は聖書に明記されている。

(注)別エントリー「試論:『神のものを神に返す』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18573

一ペトロ2章1節は「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口」を捨てるよう要請し、エフェソ4章31節は捨てるべき事柄を「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなど全てを一切の悪意とともに」とし、コロサイ3章8節も同様に「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉」を捨てることを要請する。

(注)別エントリー「試論:『捨てる』べきものは何?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9194

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

エゼキエル18章「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は仰せになる。彼が悪から立ち帰って生きることを喜ばないだろうか。お前たちが犯した全ての背きを投げ捨てて新しい心と霊を造り出せ。どうしてお前たちは死んでよいだろうか。お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」。

「神の恵み」と「王であること」

マタイ23章11節「あなたたちの中で最も偉い者は、仕える者であり続けなさい」ルカ1章38節「わたしは主のはしためです」ローマ5章17節「神の恵みと義の賜物を豊かに受けている人は唯一の主であるイエス・キリストを通して永遠の命を得て、サタンの罪と死による支配から自由になり王となる」。

(注)別エントリー「試論:『しもべ』と『はしため』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9785

【問】カトリックは聖母を「女王」扱いしますが福音書のマリアは控え目な女性ではないでしょうか?
【答】黙示録5章10節は小羊に忠実な人々が王になると啓示します。「最も偉い者とは皆に仕える者」の御教えに忠実でサタンの罪と死による支配に打ち勝った者だからで、聖母は全信者の先駆的存在です。

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7514

(注)別エントリー「試論:世の罪を取り除く神の小羊を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6140

創世記3章15節で神は、サタンと決定的に対立する一人の女性が将来現れることを予告された。黙示録12章では、それは救い主の母となった女性のことだと啓示された。救い主は人々を罪や悪から救うために生まれるので、その母が存在の最初の瞬間から罪や悪とは完全に無縁であるべきなのは当然である。

(注)別エントリー「神のお告げ:受胎告知と無原罪の御宿り」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4835

(注)別エントリー「創世記3章15節:蛇の頭を踏み砕く者は誰か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1488

「救い主」が世を救われる方法に関しイザヤは、「小羊」(53章7節)つまり代価として御自分をささげ、「しもべ」(42章、49章以下等)として人々に仕えると預言し、主もマタイ20章28節でそれを宣言された。救い主の母となることを承諾した女性が「主のはしため」を称するのは象徴的である。

黙示録5章10節は、「小羊」主イエスに忠実な弟子たちが王となり地上を統治すると啓示する。その理由の一つは彼らが「最も偉い者は皆に仕える者」(マタイ23章11節)という主の仰せに忠実だからであり、一つはローマ5章12節以下の通り、サタンの罪と死による支配に打ち勝った者だからである。

一コリント4章8節でパウロはコリントの人々に、《あなた方は教会を意のままに差配して誇っているが、どうかキリスト教の本分「罪と死の支配からの自由」を心がけ永遠の命に至る努力を日々怠らぬように。それならわれわれも福音宣教が実を結んだと主に認められて永遠の命に至るのに》等と書き送った。

主はヨハネ8章32節で「真理はあなたたちを自由にする(解放する)」と仰せになった。パウロはヨハネと同じギリシア語を用いて何からの解放か、その答えをローマ6章と同8章で説明した。「罪から解放」(6章18節、22節)、8章2節「罪と死の法則から解放」同21節「滅びへの隷属から解放」。

エレミヤ10章10節は「主は真理の神」と記すがこの章では、自分では言葉を話せない偶像の神々と違い、イスラエルの神である主は御自ら、御言葉を発せられて真正な御教えを御自分の民にお話しになられる(申命記5章22節以下)という事柄を要約する表現として、「真理〔の神〕」が用いられている。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

エレミヤ10章10節は「主は真理の神、命の神、永遠を支配する王」と呼ぶ。ヨハネ福音書で主イエスが御自身に関連して「真理」「命」「永遠の命」等の表現を頻用されること自体、御自身の神性の表明である。イエスに敵意を抱く人々からすると神に対する冒瀆であり、石打ちの刑に相当する事柄だった。

イスラエルの神である主は御自分の民に対して御自ら御言葉を発せられて御教えをお話しになり(申命記5章22節以下)、それこそが自分で言葉を話せない偶像の神と最も異なるとして、主をエレミヤ10章10節は「真理の神」と呼ぶ。主イエスはピラトに御自分が何者か「真理」の表現で端的に示された。

黙示録20章やローマ5章は「悪に悪を返さない」ことを徹底して罪や悪と決別した人々を「バシレウオ(〔キリストとともに〕王となる)」という動詞で表すが、これはあくまで《義化の完成》を象徴する表現であり政治体制的な意味を含まず、彼らは「第二の死」を免れ「永遠の命」を得ると記されている。

主イエスはヨハネ18章36節で、「わたしのバシレイアは、この世には属していない」と仰せになった。原文のギリシア語バシレイアは、聖書では「王権」「〔神の〕王国」を意味し、「王国の一人一人」まで包含する。黙示録1章6節でヨハネは、自分たちは既にその一部を構成していると書き記している。

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。

【問】カトリックでは創世記3章15節および黙示録12章の「女」をマリアと解釈し、サタンと決定的に対立する存在だと教えますが、その対立点はどこですか?【答】マリアは人々へ神の言葉には全て従うよう勧めますが(ヨハネ2章5節)、サタンはエバへ神に従わぬ(創世記3章4節)よう唆しました。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

(注)別エントリー「試論:『女』とサタンの対立を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10314

(注)別エントリー「『鉄の杖』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16717

(注)別エントリー「試論:『女』と『竜』の対立を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12925

「婦人」(あるいは「女」)???

【問】主イエスはヨハネ2章4節と同19章26節で母マリアのことを、「婦人」あるいは「女」呼ばわりしています。実母に対してあんまりでは?
【答】創世記3章15節で神なる主は、「蛇」に対峙する「女」について予告されました。黙示録12章は、救い主を産む「女」こそがその女性だと啓示します。

【問】どうして「女(婦人)」と「蛇」(あるいは「竜」、悪魔、サタン)とは相容れない関係なのですか?
【答】箴言3章34節は、「神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みをお与えになる」と説きます。サタンは高慢な者の象徴であり母マリアはへりくだる者(ルカ1章38節、48節)の象徴です。

黙示録12章は「女」聖母マリアと「竜」サタンとの決定的対立を象徴的に描く。それはマリアの賛歌や箴言3章34節「神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みをお与えになる」の通りで、後に主イエスも、「自ら高ぶる者は低くされ、へりくだり自ら低くなる者は高くされる」と福音書で繰り返された。

(注)別エントリー「試論:『謙遜の極み故の被昇天』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11125

聖母は「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)となられた方ながら、「わたしは主のはしため」(38節)と自称されたが、ペトロとヤコブは「神はへりくだる人に恵みをお与えになる」と書いた。「神の御独り子の母」となられた女性のへりくだりと恵み(ルカ1章28節)とは、いかばかりだろうか?

(注)別エントリー「試論:初代教会と箴言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5756

黙示録12章9節は「竜」を「悪魔とかサタンとか呼ばれる年を経た蛇、全人類を惑わす者」などと呼び、創世記3章の「蛇」と同定する。その手口は「〔神から言い渡された掟に従わなくとも〕あなたは死ぬことがない」であり、主イエスもマタイ13章39節で「毒麦を蒔いたのは悪魔」と警告されている。

(注)別エントリー「試論:『全人類を惑わす者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16790

【問】カトリックでは創世記3章15節および黙示録12章の「女」をマリアと解釈し、サタンと決定的に相容れない存在だと教えますが、その対立点はどこ?
【答】マリアは人々へ神の言葉には全て従うよう勧めますが(ヨハネ2章5節)、サタンはエバへ神に従わぬ(創世記3章4節)よう、言葉巧みに唆しました。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

(注)別エントリー「試論:『女』とサタンの対立を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10314

(注)別エントリー「『鉄の杖』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16717

(注)別エントリー「試論:『女』と『竜』の対立を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12925

(注)別エントリー「神のお告げ:受胎告知と無原罪の御宿り」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4835

(注)別エントリー「創世記3章15節:蛇の頭を踏み砕く者は誰か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1488

主イエスはヨハネ14章6節で真理を自称され、1章1節は御子を「言(ことば)」つまり《人々の前に御姿を現され御自ら御教えをお話になる神》と記す。18章37節で主は「真理に属する者は皆、わたしの声を聞く」と仰せになった。福音書に収録された実際の主の仰せを軽視する人は主に属していない。

【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。

(注)別エントリー「試論:聖母崇敬の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18956

試論:裁きについての世の誤り?を140文字以内で

【問】ヨハネ16章11節「裁きについてとは、この世の支配者が断罪されること」の意味とは?
【答】人々は「メシアはローマやヘロデ王家の支配を終わらせるために来る」と誤解しているが、救い主(イエス)は悪魔の罪と死による支配を終わらせるために来た(ヘブライ2章14節以下)ということです。

ヨハネ16章10節「義について」

【問】ヨハネ16章10節の「義について」の「義」って、何?
【答】主イエスはマタイ21章32節で「ヨハネ(=洗礼者)が『義の道』を示したのに」と仰せになり、御自身を「義の道」と表現されました。ヨハネ14章6節では、御自身を「道」と呼ばれました。「義について」の「義」も主御自身です。

【問】「義」が主イエス御自身ならば「義についての世の誤り」とは何ですか?
【答】主イエスの御昇天の後、俗世間は「イエスがいなくなれば弟子たちは目標を見失い、イエスが起こした活動は自然消滅する」と高を括るだろうが、そうはならないことを主は既に予告されていました(ヨハネ14章19節)。

【問】「しばらくすると世はもうわたしを見なくなるがあなたたちはわたしを見る」? どういうこと?
【答】ヘブライ人は「見る」を「認識する」「理解する」等の意味でも用い、「いずれ世はわたしのことを忘れてしまうが、あなたたちはいつまでもわたしのことを認識し続け、また理解し続けるだろう」。

【問】ヨハネ8章56節「アブラハムはわたしの日を見て喜んだ」の意味は?
【答】古のヘブライ人は「意味を理解してイメージを思い浮かべる」ことを「見る」と表す場合があり、出エジプト記24章10節にはモーセの一行がイスラエルの神を「見た」とありますが実際には、「足台」だけを目撃しました。

出エジプト記24章にモーセの一行が「神を見た」とあるが、神の御姿を実際に見たわけではなくその「足台」(「サファイアの敷石のようなもの」)を見たことによって、その上に必ずおられるはずの神を「見た」わけである。また同様に、雲や火や煙、雷鳴や稲妻、角笛の音なども神の現存を象徴していた。

(注)別エントリー「イエス・キリストと天の雲」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/684

出エジプト記24章にモーセの一行が「神を見た」とあるが神の御姿を実際に見たのでなく、足台(「サファイアの敷石のようなもの」)を見たことによって上におられる神を認識したのである。古代のヘブライ人の理解では、「神を見る」とは、神の御姿をじかに目の当たりにすることを意味していなかった。

旧約であれ新約であれ聖書で「見る」という表現が用いられる場合、単に「目で見る」ばかりではなく、「心で悟る」「理解する」等も含む。マルコ13章26節「地上の全ての民は人の子が天の雲に乗って来るのを見るであろう」は、黙示録6章17節「神と小羊の怒りの大いなる日が来た」に対応している。

マルコ13章26節は「人の子は天の雲に乗って」と訳されるが、日本語の「乗る」に当たる動詞はギリシア語本文にはない。全能の神なる主は移動の際に乗り物は不要で「雲」は神の現存を象徴するに過ぎないが、『西遊記』が有名な日本では孫悟空の雲と変わらぬかの如き誤解を招いている可能性が大きい。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888

(注)別エントリー「試論:『主の日』エルサレム滅亡を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12476

試論:ヨハネ16章2節を140文字以内で

【問】「人々はあなたたちを会堂から追放し、あなたたちを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」は、いつ実現したの?
【答】ステファノ殉教から大迫害が始まりました。使徒言行録8章1節「エルサレムで教会への大迫害が起こり使徒たち以外は皆、ユダヤやサマリアの各地に離散した」。

試論:「霊に蒔く者」を140文字以内で

【問】「霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取る」(ガラテヤ6章8節)。福音書にこれと同じ内容はありますか?
【答】マタイ6章20節「富は、天に積みなさい」同21節「あなたの富があるところに、あなたの心もある」。パウロは人間に属する事柄を「肉」、神に属する事柄を「霊」と表現しました。

(注)別エントリー「試論:『肉と霊』の対比を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7740

(注)別エントリー「試論:『言は肉となって』???を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13411

【追記】

ガラテヤ5章はヘブライ人特有の「肉と霊」の対比を用い、人間に由来する事柄を「肉」(創世記6章12節)、神に由来する事柄を「霊」と表現する。一ヨハネ4章16節「神は愛です」の具体的内容を、ガラテヤ5章22節以下では「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」と記した。

試論:「最も確実で安全な態度」を140文字以内で

【問】ルカ1章はなぜ「わたしは主のはしため」というマリアの言葉を二度(38節、48節)も収録しましたか?
【答】神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みをお与えになる(箴言3章34節)のだとすれば、神の庇護を求める人々にとってはへりくだりこそが最も確実で安全な態度と伝えるためです。

試論:「知恵」と「聖霊の賜物」を140文字以内で

主イエスはヨハネ15章26節で聖霊を「弁護者」「真理の霊」と呼ばれ、前章の26節に続いて聖霊が弟子たちを助けてくれると教えられた。イザヤ11章2節は「主の霊」の賜物の筆頭を知恵と啓示する。箴言8章12節は「知恵は熟慮と共に住まい知識と慎重さを備える」と記し、熟慮と慎重さを勧める。

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを確実に識別できる基準」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4564

【追記】

パウロは一コリント1章24節で「召された者に対しては、神の力であり神の知恵であるキリストを宣べ伝えている」、同30節で「このキリストはわたしたちにとって神の知恵となり」と記す。主イエスもルカ11章49節で「神の知恵もこう言っている」と「神の知恵」を自称なさり仰せを宣べられている。

シラ4章11節では「知恵は、自分に従う者を高め、自分を追い求める者を助ける」と説く。主はルカ7章35節で「知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される」と仰せになり、11章49節では御自身を「神の知恵」と称された。一コリント1章24節と30節もキリストを神の知恵と呼ぶ。

イエスをルカ2章40節は「知恵に満ち神の恵みに包まれていた」と記し、ヨハネ1章14節では「恵みとアレテイアに満ちていた」と記すがヨハネはアレテイアを「忠実(わたしが父の掟に忠実であるように皆もわたしの掟に忠実であれ)」の意味で使う。聖書の知恵とは主への忠実(箴言1章7節)である。

(注)別エントリー「試論:『主を畏れる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10751

(注)別エントリー「試論:『信仰とアレテイア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16847

試論:永遠の命を得る方法って?を140文字以内で

ヨハネ17章3節「永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなた(御父)とあなたが遣わされたイエス・キリストを知ること」一ヨハネ2章4節「神を知っていると言いつつ神の掟を行わぬ人は偽り者で彼にまことはない」マタイ7章12節「他の人からしてもらいことをあなたから他の人に全てしなさい」。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

(注)別エントリー「試論:真理(まこと)の反対は?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12668

【追記】

ホセア6章6節は「わたしが求めるのは、憐れみであって『いけにえ』ではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」と記すが、これと関連して一ヨハネ2章3節は「知る」という表現の意味を《神の掟を守るという実体験を通して自分は神を知っているのだと自覚する》ことであると説明する。

(注)別エントリー「試論:『いけにえ』と憐れみを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8356

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

主イエスはヨハネ6章40節で「わたしの御父の御心は、御子(=主イエス御自身)を見て信じる者が皆『永遠の命』(マタイ25章46節)を得ることである」と仰せになった。「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

エゼキエル18章「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は仰せになる。彼が悪から立ち帰って生きることを喜ばないだろうか。お前たちが犯した全ての背きを投げ捨てて新しい心と霊を造り出せ。どうしてお前たちは死んでよいだろうか。お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」。

試論:「真理の神」のおぼしめしを140文字以内で

【問】主イエスはヨハネ14章6節で「真理」を自称されました。弟子たちには、哲学的で難解な事柄が要求されますか?
【答】いいえ。主はマタイ18章3節で「心を入れ替えて子供のようにならなければ決して天の国に入ることはできない」と仰せになり、続く4節で自分を低くすることも要請されました。

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

(注)別エントリー「主イエスの『霊的幼児の道』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19228

愛の掟

最後の晩餐の際に主は、御自分の《愛の掟》においては隣人愛の実践をもって御自分への愛の実践とみなすと宣言された(ヨハネ14章21節等)。最後の審判では各自の行いに応じて裁かれる(黙示録20章13節、マタイ25章45節)ため、神からの赦しを得るには隣人を赦す以外ない(同6章12節)。

主イエスはヨハネ3章16節で「御父が独り子を世に与えられた理由は、独り子を信じる者が一人も滅びることなく永遠の命を得るため」と教えられ、ルカ10章25以下では永遠の命を受け継ぐために何をすべきかを質問した一人の律法学者に対して、具体的に答えられた。善きサマリア人の話がそれである。

(注)別エントリー「試論:『善きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

ルカ10章25節以下では、主イエスと一人の律法学者との対話を記し、「永遠の命」を受け継ぐために実行すべき事柄として「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい」とあり、主は「正しい答え」と仰せになった。

マタイ19章16節で主に金持ちの青年が永遠の命を得るにはどうすればと尋ねた時、それを彼は比較的容易な事柄と考えていたが、主は同13章44節以下特に46節で、それを手に入れるためにはあらゆる努力を尽くす必要があることを、「宝」「真珠」「持ち物を全て売り払う」等の表現で御説明された。

(注)別エントリー「試論:『招かれる』『選ばれる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8012

(注)別エントリー「試論:『御言葉によって生きる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11157

主はマタイ13章45節以下で、「天の国」を全財産と引き換えにしてでも手に入れるべき真珠にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「天の国」は「永遠の命」と同義だが、「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

ルカ10章25節の律法学者と18章18節の議員は同じ質問をした。ただ議員には「心・精神・力・思いを尽くして」の観点が欠けていた。主は議員に、「持ち物を全て売り払う」という表現で勧告なさったが、この表現はマタイ13章44節〜45節のたとえでは《あらゆる努力を尽くす》を象徴している。

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

マタイ1章19節は、主の養父ヨセフをディカイオス(義人、正しい人)と呼ぶが、25章「最後の審判」の箇所では、ディカイオス(37節、46節)は「永遠の命にあずかる」(46節)人を意味している。つまり、「神の義」を身に着けることこそが、「永遠の命にあずかる」ことを約束するものである。

(注)別エントリー「試論:『神の義』と詩編を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6798

マタイ7章21節で主イエス・キリストは、「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな、天の国に入るのではない。天におられるわたしの父のみ旨を行う者だけが入る」と仰せになられ、23節やルカ13章27節では入れなくなる理由とは「不法を働く」「不義を行う」ことであると明言されている。

(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8105

マタイ25章45節で主は「この小さな者の一人にしなかったことは、わたしにしなかったことである」と仰せになり、隣人愛の実行を神への愛の基準にすると宣言された。従って「私は周囲とはトラブルを起こしてばかりですが、主よ、あなたへの愛だけは誰にも負けません」という自己申告は、通用しない。

主の養父ヨセフは、マタイ1章19節で義人(正しい人)と呼ばれるが、25章の最後の審判では義人(正しい人)は永遠の命が確約されている人を指す(37節、46節)。故に聖書で永遠の命について言及する箇所を読む時、主の養父ヨセフに関連付けて読んでも誤りとは言えない(ヨハネ12章25節)。

ヨハネ12章25節は「この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命を得る」と主の仰せを記す。古代のヘブライ人は「〜を二の次にする」と言いたい時にも、「〜を憎む」という表現を用いた。主の養父ヨセフはヘロデが幼子の命を狙った時も、自分の命を二の次にして幼子と幼子の母を守り続けた。

(注)別エントリー「試論:御受難と『永遠の命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9460

マタイ1章19節は主の養父ヨセフを「正しい人(ディカイオス)」と表現する。25章の「最後の審判」におけるディカイオスは、隣人が何らかの助けを必要としている時に、必要とされている助けを提供して困り事を解決する人を指し、ヨセフはイエスとマリアが本当に必要としていることだけを実行した。

(注)別エントリー「試論:聖ヨセフの模範を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7243

(注)別エントリー「試論:聖母と聖ヨセフの終生童貞を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6397

(注)別エントリー「試論:『聖別』と聖母の終生童貞を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7939

愛しているのなら、掟を守りなさい

ヨハネ14章15節で主は「わたしを愛しているのなら、わたしの掟を守りなさい」と仰せになり御自身が教えられた掟を守ることをもって御自身への愛を判断すると宣言された。従って、「私はあなたの掟を守れてはいませんが、主よ、あなたへの愛だけは誰にも負けません」という自己申告は、通用しない。

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは真理」と仰せになりピラトの尋問の際も「真理」という語を使われたが、この語は、旧約聖書で「まこと」と日本語訳されるヘブライ語に対応し、意味も漢字の「真、実、信、誠」に対応する。従って「嘘も方便」や「面従腹背」(マタイ7章21節)は認められない。

(注)別エントリー「真理(まこと)の神」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

ルカ6章46節「あなたたちはわたしを『主よ、主よ』と呼んでおきながら、なぜわたしが言っていることを、行わないのか?」ヨハネ8章51節「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことはない」ガラテヤ5章6節「キリスト・イエスに結びついているのなら、愛の実践を伴う信仰こそ重要です」。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

(注)別エントリー「試論:『主よ主よと呼びながら』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15669

マタイ7章21節「わたしに向かって、『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るのではなく、わたしの天の父の御心を行う者だけ入る」ヨハネ13章34節「わたしがあなたがたを愛したように、愛し合いなさい」ガラテヤ5章6節「キリスト・イエスに結ばれているなら、愛の実践を伴う信仰こそ大切」。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:新都エルサレムに住む条件を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11197

マタイ25章45節で主は「この小さな者の一人にしなかったことは、わたしにしなかったことである」と仰せになり、隣人愛の実行を神への愛の基準にすると宣言された。従って「私は周囲とはトラブルを起こしてばかりですが、主よ、あなたへの愛だけは誰にも負けません」という自己申告は、通用しない。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

マタイ25章45節「この小さな者の一人にしなかったことは、わたしにしなかったことである」は、一ヨハネ4章20節で「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」と繰り返され、21節は神から受けた掟として「神を愛する人は兄弟をも愛すべきです」と断言している。

今、あなたの神、主があなたに求めておられることとは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてその全ての導きに従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸せになることではないか。(申命記10章12節〜13節)

ミカ6章8節「何が善であって、主が何をあなたたちに求めておられるかは、あなたたちには既に告げられている。それは神の義を行い、憐れみの業を愛し、へりくだり神と共に歩むこと」ホセア6章6節「わたしが求めるものは『いけにえ』ではなく憐れみであり、焼き尽くす献げ物ではなく神を知ること」。

(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6748

主はマタイ福音書で「わたしが求めるのはあわれみであって犠牲(いけにえ)ではない」(ホセア6章6節)と繰り返されたが同節は「神を知ることであって焼き尽くす献(ささ)げ物ではない」と続く。「神を知る」を一ヨハネ2章3節は「神の掟(愛の掟。ヨハネ15章12節等)を守る」ことと説明する。

(注)別エントリー「試論:『神を知る』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10024

ただ一度苦しまれた???

【問】一ペトロ3章18節「キリストも罪のためにただ一度苦しまれました」? どういうこと?
【答】主イエス・キリストは全人類の罪を贖(あがな)うために、御自身を十字架上の御受難で献(ささ)げられましたが、この犠牲は二度も三度も必要なものではなくただ一度だけで完全に成し遂げられました。

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7479

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7514

(注)別エントリー「試論:世の罪を取り除く神の小羊を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6140

【問】それと同じ事柄は聖書の他の箇所でも記されていますか?
【答】ヘブライ10章の冒頭から18節までの間に詳細に記されています。ペトロが「ただ一度」と呼んだのと同じ事柄を、ヘブライ10章では「罪のための唯一のいけにえ」(12節)「唯一の献げ物」などと表現し、18節も強調しています。

【問】主イエス御自身の福音書の御言葉の中に「ただ一度」に相当する事柄はありますか?
【答】ヨハネ19章30節「イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた」同章28節「イエスは、今や全てのことが成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた」。

詩編49(48)編8(7)節は、神に対して人間が贖いの業を行うことはできないと記す。とはいえ神の御独り子が自ら人間となられて自分の「からだ」を「身代金」として贖いの業を行われた時の「からだ」は、マリアから受けたものだった。マリアは極めて特別な形でイエスの贖いの業に「参加」をした。

(注)別エントリー「試論:『履物を脱ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8620

神は本来、神以外の存在に変質(劣化)できない以上、「神が人となる」ためには神のままで人間としての全てを担う(引き受ける)必要があった。これをヨハネ1章14節は「〔神の〕御言葉は肉となる」として記し、ニケア・コンスタンチノープル信条は「おとめマリアよりからだを受け」として表現した。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

古代のヘブライ人は「肉」という言葉で、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけでなく、魂も含めた人間としての全体)」を表した。ヨハネ1章14節をこの観点で理解すれば、ニケア・コンスタンチノープル信条「おとめマリアよりからだを受け」の「からだ」は、人間としての全てを意味している。

(注)別エントリー「試論:『イエスとマリアの関係』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7725

(注)別エントリー「試論:聖書と『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7649

古代のヘブライ人は「肉」を、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけではなく魂も含めた人間の全体。)」を表す言葉として用いていた。創世記6章12節「すべて肉なる者は堕落の道を歩んでいた」(新共同訳)。日本語訳の「肉なる者」に対応する語は、ヘブライ語本文ではただ単に「肉」である。

(注)別エントリー「試論:『肉と霊』の対比を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7740

主イエス・キリストは、人間たちに模範(ヨハネ13章34節)を示されるために、神であり続けながら(ヘブライ13章8節)人間の肉体と魂を担われた(ヨハネ1章14節)以上は、神として教えられた掟(申命記5章16節)を人間として自ら忠実に実践された(ルカ2章51節、マタイ20章28節)。

試論:聖書の中の「憎む」とは?を140文字以内で

ヨハネ12章25節は「この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命を得る」と主の仰せを記す。古代のヘブライ人は「〜を二の次にする」と言いたい時にも、「〜を憎む」という表現を用いた。同15章18節「世はあなたたちを憎む前に、わたしを憎んでいた」も、同様の意味合いをも含んでいる。

【追記】

主はルカ14章26節で「もしもだれかがわたしのもとに来るとしても、父母、妻、子供、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であっても、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」と仰せになったが、マタイ10章37節との比較から明らかな通り、この「憎む」は「二の次にする」の意味合いである。

かつて主イエスはマタイ17章12節で、洗礼者を「エリヤ」と呼ばれた上で「人々は彼を認めず好きなようにあしらったのである。人の子(=主イエス御自身)も同様に、人々から苦しめられることになる」と仰せになった。聖書の時代の古代人は、周囲の人々の無関心も「憎む」という表現に包含していた。

試論:使徒言行録16章3節を140文字以内で

異邦人が信者になる際に割礼は不要とパウロは考えていたが、母がユダヤ人であるテモテは単なる異邦人ではなく割礼さえ受ければ彼はユダヤ人の資格を満たした。パウロは評判の良い彼を同行者にしたかったが当時ユダヤ教の会堂で宣教するには彼は割礼を受けたユダヤ人である必要があり、彼はそうなった。

試論:ヨハネ15章20節の意味を140文字以内で

【問】主イエスは「僕(しもべ)は主人に勝りはしない」をなぜ強調されたの?
【答】これは主が弟子たちの足を洗われ「わたしがあなたたちにした通りにあなたたちもするよう模範を示した」と仰せになった直後の御言葉で、互いを尊重することによって、弟子たちは世から認められるのだと強調されました。

【追記】

ヨハネ13章35節「もしもあなたたちが互いのことを尊重して敬意を払い合うのなら、そのことによって皆は、本当の意味であなたたちがわたしの弟子であることを、認めるであろう」マタイ7章12節「あなたたちは、自分自身が他の人からしてもらいたいことなら何であれ、自分自身の方からしなさい」。

試論:「命じることを行うなら」を140文字以内で

ヨハネ15章14節「わたしが命じることを行うなら、あなたたちはわたしの友」ヤコブ2章17節「行いを伴わない信仰は死んだもの」ガラテヤ5章6節「キリスト・イエスに結ばれているなら愛の実践を伴う信仰こそ大切」マタイ7章12節「他人からしてもらいたいことを全てあなたの方からしなさい」。

試論:ローマ3章21節を140文字以内で

【問】ローマ3章21節「〔モーセの〕律法に存在しないが〔モーセの〕律法と預言者〔たち〕に立証されて神の義が示された」の「神の義」って何?
【答】マタイ7章12節の《キリストの律法》「他人にしてもらいたいことは全てあなたからしなさい」のことで、この文言はモーセの律法中に存在しません。

互いに尊重し合いなさい

ヨハネ15章12節「これがわたしの掟である。わたしがあなたたちを尊重したように互いに尊重し合いなさい」コロサイ3章13節「互い〔の欠点〕を我慢し合い、もしも相手に非難すべきことがあっても赦し合いなさい。主があなたたちを既に赦して下さったように、あなたたちも同じように赦しなさい」。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

主イエスは「自分が他人にしてもらいたいことを自分から他人にしなさい」と《キリストの律法》を教えられたが、ヨハネ13章1節では《御自分の時》が来たと自覚された主が、弟子たちを尊重され、どこまでも尊重されたことが記される。《キリストの律法》とは尊重と敬意であると、主は御自ら示された。

主イエスは「自分が隣人からしてもらいたいことを自分から隣人にしなさい」を御自分の《律法》すなわち御教えの根幹とされ、弟子たちの足を洗われ隣人への敬意と尊重の重要性を教えられた。しかし御自身は次の晩が来る前に、尊重や敬意とは無縁の暴力や虐待や侮辱の裡にぼろ布のようにされて殺された。

弟子たちの足を洗うという行為を通じて、主イエスは隣人に敬意を払って尊重することこそ御自分の御教えの根幹であると教えられた。自分自身が他人から尊重され敬意を払われた経験がなければ敬意と尊重は理解できない。「互いを尊重するなら、それを見て皆はあなたたちがわたしの弟子であると認める」。

ガラテヤ5章では「聖霊の結ぶ実」として神の御独り子の母の内面に関連する《愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制》を説く。他方、コロサイ3章では「礼服」(マタイ22章)という比喩を踏まえ、「義人」ヨセフの「義」に関連する《憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛》を説く。

マタイ22章の「礼服」に関連して、ローマ13章14節で「主イエス・キリストを着る」ことをパウロは勧め、コロサイ3章10節でも「主の姿に倣う新しい人を着る」ことを勧める。「倣う=着る」べきものとして憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容そして愛を「着る」ことをコロサイ3章は勧めている。

(注)別エントリー「試論:『神の義』と詩編を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6798

主はマタイ6章33節で「まず神の国と神の義を求めよ」と仰せになった。古代のヘブライ人は神の義(正義)を実行する人となることを「正義を衣としてまとう(=身に着ける)」と比喩で表現した(詩編132編9節、ヨブ29章14節)。従ってマタイ22章の「礼服」とは正義(神の義)の比喩である。

マタイ22章は神の御前に立つためには「礼服」が不可欠と教える。詩編132編は9節で「正義を衣としてまとう」16節で「救いを衣としてまとう」と表現して「救い」すなわち神と共にある条件を、「正義」すなわち「神の義」(マタイ6章33節)とし、その具体例をコロサイ3章12節以下が教える。

(注)別エントリー「試論:マタイ22章『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6740

黙示録16章15節は「わたしは盗人のように来る」に「衣を身に着けている人は幸い」と続け、マタイ22章「礼服」の比喩を再現する。黙示録が啓示する時代でも、福音書の主の仰せが本質的に重要と分かる。身に着けるべき衣とは、詩編132編9節によれば正義(=神の義。マタイ6章33節)を指す。

(注)別エントリー「試論:『人の行いに応じた報い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5743

(注)別エントリー「試論:『神の義とディカイオス』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8685

マタイ22章「礼服」に関連して、パウロはコロサイ3章で、キリストに結ばれていたいと望む人々が「着る」つまり身に着けるべき事柄に関してとりわけ10節以下で論じ、5節から9節では脱ぎ捨てるべきものも説く。身に着けるべきは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、そして愛だとパウロは説いた。

主はマタイ6章33節で「神の国と神の義を求めよ」と仰せになり、また同22章では神の国で神の御前に立つために不可欠な「神の義」を、「礼服」にたとえられた。この「礼服」すなわち「神の義」とは何であるかについて、パウロはコロサイ3章で、キリストの弟子が身に着けるべきものとして説明した。

ヨハネ1章14節は神の御独り子が恵みと真理に満ちて人間となられたことを記すが、ヤコブ4章6節と一ペトロ5章5節はともに「神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みをお与えになる」と強調し、ルカ1章は「わたしは主のはしため」とへりくだった女性こそが御独り子の母となったことを特筆する。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7795

(注)別エントリー「試論:『イエスとマリアの関係』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7725

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

試論:「ミカルと新しい夫」を140文字以内で

【問】ルツ記のタルグム(短い注釈付きのアラム語訳)は、ミカルは夫婦仲を裂かれ別の男に嫁がされたが彼は彼女と距離を保った伝承を記すそうです。
【答】マタイ5章32節「不法な結婚でもないのに離縁された女を妻にする男も、姦通の罪を犯すことになる」と同じ観念は当然古代ユダヤに存在しました。

【追記】

【問】サウルは王に選ばれたものの途中で道を誤り神なる主やサムエルに見離され転落の道を歩みました。どうすればよかったの?
【答】サウルの息子ヨナタンはダビデの親友で、サウルの娘ミカルはダビデに嫁ぎました。もしもサウルが「自分は引退し娘婿に王位を譲る」とだけ言えば全て丸く収まりました。

ダビデは自分の詩編で、神の救いを切望する自分の内面を「貧しい」と表現したが、《イスラエルの王だとしても、神の御前では自分は無一物に等しい》という自覚の故だった。「神の箱」の帰還に喜び踊りミカルから「からっぽ」呼ばわりされても、ダビデは自分が「からっぽ」であることを否定しなかった。

ダビデの詩編では神からの救いを切望する人の内面を「貧しい」と表現するが、特に詩編34編では7(6)節のように「救い」と「(内面の)貧しさ」が表裏一体として述べられている。たとえイスラエルの王であろうとも全能の神なる主の御前では無一物に等しいという自覚が、この表現の背景に存在する。

生涯の大半、ダビデ王は貧困とは無縁に見えたが、詩編で神の救いを切望(40編14節、70編2節)する際、自身の内面を「貧しい」と表現した(40編18節、70編6節)。ダビデの詩編を踏まえればマタイ5章3節に登場する「心の貧しい人」とは実際には、神の救いを切望している人のことである。

マタイ5章3節の日本語は概ね、「心の貧しい人」と訳されるが、「心の」と訳されたギリシア語本文の表現はマルコ2章6節では「心の中で」となる。マタイ5章3節を「心の中で貧しい人」と捉えるならそれはダビデの詩編の中で自分の内面を「貧しい」と表現して神の救いを切望している人のことである。

【問】主イエスの養父ヨセフはマタイ1章19節で「正しい人」と呼ばれます。古代のイスラエル人にとって「正しい」とは何ですか?
【答】サムエル上24章18節「お前(=ダビデ)はわたし(=サウル王)よりも正しい。わたしはお前に悪意で向き合っているのに、お前はわたしに善意を示してくれた」。

主イエスの愛にとどまる

ヨハネ15章10節「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたたちもまたわたしの掟を守るなら、それによって、わたしの愛にとどまっている」マタイ7章21節「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るのではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入る」。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

主イエスはルカ10章16節で「わたしを拒む者はわたしを遣わされた方を拒む」と仰せになり、その意味でコラジン・ベトサイダ・カファルナウムを「不幸」と嘆かれた。同様に主は11章ではファリサイ派の人々と律法学者たちをも「不幸」と呼ばれ、19章41節以下では都エルサレムのために泣かれた。

(注)別エントリー「試論:エゼキエル18章を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5726

マタイ5章7節「憐れみ深い人は幸いである。その人は神からの憐れみを受ける」は、箴言11章17節の前半「憐れみ深い人は、その善行によって、自分自身の霊魂にも良いものをもたらす」の答えである。ちなみに、箴言の同じ節の後半は「憐れみのない人は、その行いが回り回って、自分自身が苦しむ」。

(注)別エントリー「試論:箴言11章17節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19154

主イエスはルカ19章41節以下で心を入れ替えようとしない都の人々を嘆いて泣かれた。神は、全ての人を救われて真理(=主イエス御自身。ヨハネ14章6節)を知るようになることを望んでおられる(一テモテ2章4節)にもかかわらず、神殿を拠点とする宗教指導者たちの思いは正反対だからであった。

(注)別エントリー「試論:『都のために泣かれた主』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18313

マタイ7章12節「あなたたちが他の人からしてもらいたいと思うことはなんでも、あなたから他の人にしなさい。これこそが律法であり、預言者の教えである」ヨハネ13章35節「あなたたちが互いを尊重し敬意を払い合うならば、その姿を見て皆はあなたたちがわたしの弟子であることを認めるだろう」。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

(注)別エントリー「試論:『行った意味が分かるか』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15848

マタイ5章9節「平和を実現する人」の「平和」とは、福音書の時代の人々にとっては単に戦争のない(終わった)状態を意味する以外に個々の健康や幸福・繁栄、人間関係の協調・一致や発展、社会や国家の安寧、暴動や反乱のない状態、心の(霊的な)安定など、物事が好転している状況の総称でもあった。

(注)別エントリー「試論:『柔和な人は幸いである』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5976

(注)別エントリー「試論:『心の清い人は神を見る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5937

今、あなたの神、主があなたに求めておられることとは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてその全ての導きに従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸せになることではないか。(申命記10章12節〜13節)

ミカ6章8節「何が善であって、主が何をあなたたちに求めておられるかは、あなたたちには既に告げられている。それは神の義を行い、憐れみの業を愛し、へりくだり神と共に歩むこと」ホセア6章6節「わたしが求めるものは『いけにえ』ではなく憐れみであり、焼き尽くす献げ物ではなく神を知ること」。

(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6748

主はマタイ福音書で「わたしが求めるのはあわれみであって犠牲(いけにえ)ではない」(ホセア6章6節)と繰り返されたが同節は「神を知ることであって焼き尽くす献(ささ)げ物ではない」と続く。「神を知る」を一ヨハネ2章3節は「神の掟(愛の掟。ヨハネ15章12節等)を守る」ことと説明する。

(注)別エントリー「試論:『神を知る』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10024

「ぶどうの木」「実」って、何のこと?

主はヨハネ15章2節で「わたしにつながっていても実を結ばぬ枝は全て御父が取り除かれ、実を結ぶ枝は全て御父がさらに豊かに実るよう手入れをなさる」と仰せになった。ヤコブ3章でも17節と18節に「実」が登場し、知恵・純真・温和・優しさ・従順・憐れみ・義・平和が特徴であることを説明する。

主イエスはヨハネ15章2節で「わたしにつながっていても実を結ばぬ枝は全て御父が取り除かれるが、実を結ぶ枝は全て御父がさらに豊かに実るように手入れをなさる」と仰せになり、ガラテヤ5章22節以下でパウロは「実」の具体例を、愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・柔和・節制と列挙した。

神の霊つまり聖霊が人間に賜るものをガラテヤ5章は愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制と説く。主はマタイ6章33節で「神の義」を求めよと仰せになり、同22章でそれを「礼服」にたとえられる。コロサイ3章では、着るべきものとは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛と説く。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

御復活の主はルカ24章47節で「罪の赦しをもたらす悔い改めがあらゆる国で宣べ伝えられる」と仰せになったが、3章3節では洗礼者が罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えたと記し、のみならず同8節では悔い改めにふさわしい実を結べと命じており、10節以下は具体的な指示をも記す。

主はヨハネ3章3節で「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることができない」と仰せになられた。エフェソ4章31節以下では無慈悲・憤り・怒り・わめき・そしりなどの全てを一切の悪意と共に捨てるよう勧め、互いに親切にし合い、憐れみの心で接し合い、またキリストにならい赦し合うよう勧める。

神の国に入るためには「神の義」が不可欠であることを主は「礼服」という比喩で御説明された。コロサイ3章では「着る」べきものは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛と挙げる。マタイ11章で主は「わたしは柔和で謙遜な者だから」(29節)「わたしの荷は軽い」(30節)などと仰せになった。

主はマタイ11章30節で、「わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽い」と仰せになった。主が人々に求められるものとは、「神の義(正義)」と言えばどこか厳格な響きがするが、実際に「神の義」を構成するのは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛などの事柄である(コロサイ3章)。

(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6748

主はマタイ11章30節で「わたしの荷は軽い」と仰せになったが、補足するように一ヨハネ5章3節では「神の掟は荷が重い(=難しい)ものではありません」と説明し、その前の部分では「神を愛することとは、すなわち神の掟を守ることです」として主がお定めになった「隣人愛の掟」にやはり言及する。

(注)別エントリー「試論:『新しい掟』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7016

マルコ12章の律法学者との対話において、主はレビ記19章18節の隣人愛の掟を、「最も重要な掟」の第二とされた。最後の晩餐の際(ヨハネ13章以下)、主イエスは隣人愛の掟を「新しい掟」「わたしの掟」としてあらためて授けられ、愛の掟を守ることこそが御自分の弟子である証しだと教えられた。

主イエス・キリストはマルコ12章における「最も重要な掟」の第一と第二とを統合され、ヨハネ13章34節で「新しい掟」そして「わたしの掟」(同14章15節)とされた。この掟は隣人愛の実践をもって、神への愛の実践とする(同節)。隣人愛の実行こそがキリストへの信仰をあかしするものとなる。

主はマタイ11章28節で「わたしの許へ来なさい。休ませてあげよう」と仰せになったが、ここで主は、御自分が詩編23編2節等で言及される「憩いをお与えになる主」に他ならないとほのめかされた。様々な事柄への執心で自縄自縛に陥っている人々の心に、主の清い御言葉は気分一新を促すからである。

人間を清くする主の仰せ(御言葉)

主はマルコ9章49節で「すべての人は火で塩味を付けられねばならない」と仰せになったが、「火」はマタイ3章11節と同じく「火が金銀を精錬する如く人間を清くする主の仰せ」を指し、「塩味」は信仰を指す。主の仰せが人間を清くすることに関しては、ヨハネ15章3節で主御自身が御説明なさった。

(注)別エントリー「試論:『地の塩』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5586

マタイ3章11節で洗礼者ヨハネは、来るべき方が「聖霊と火」で洗礼をお授けになると教えたが、この節の「火」とはマラキ3章2節〜3節やゼカリヤ13章9節に預言されているもので詩編12編7節〜8節や66編10節にあるように、火が金銀を精錬するのと同じく人間を清くする主の清い仰せを指す。

マタイ3章11節で洗礼者ヨハネは、来るべき方が「聖霊と火」で洗礼をお授けになると教えたが、11節の「火」は12節の「消えることのない火(=『永遠の罰』の象徴)」とは別概念で、詩編105編19節や119編140節にあるように、火が金銀を精錬する如く人間を清くする主の清い仰せを指す。

(注)別エントリー「試論:マタイ3章の二つの『火』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5795

マタイ3章には来るべき方が「聖霊と火」で洗礼をお授けになるとあるが「火」とは「火が金属を精錬する如く人間を清くする主の清い仰せ」を指し詩編12編7節〜8節、66編10節、105編19節、119編140節、エレミヤ6章29節、ゼカリヤ13章9節、マラキ3章2節〜3節などが関連する。

ルカ12章49節「地上に火を投ずるためにわたしは来た」同3章16節「聖霊と火による洗礼」黙示録11章5節「口から火が出る預言者」エレミヤ5章14節「あなたの口に、わたしの言葉を授ける。それは火となり、この民を薪として焼き尽くす」同23章29節「わたしの言葉は、火に似ていないか」。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19474

主なる神が燃える柴の火の中から御言葉をモーセに語り掛けられたという出来事は、ヘブライ人にとって忘れ難い歴史上の一大事で、洗礼者の「聖霊と火による」に対し、当時のユダヤ人は「火」が何の比喩かを直ちに理解した。しかし異邦人には全く意味不明でマルコ1章8節はこの理由から「火」を省いた。

(注)別エントリー「試論:二種類の『火』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13038

黙示録11章5節「二人に害を加えようとするものがあれば、彼らの口から火が出て、敵を滅ぼすであろう」は、エレミヤ5章14節「わたしは、あなたの口にわたしの言葉を授ける。それは火となり、この民を薪として焼き尽くす」を踏まえており、エレミヤ5章はエルサレムの背信を咎める内容の章である。

(注)別エントリー「試論:黙示録の年代を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5494

試論:アナニアとサフィラの教訓を140文字以内で

【問】使徒言行録5章にはアナニアとサフィラの話がありますが教訓は何ですか?
【答】主イエスはヨハネ14章6節で「真理(アレテイア)」を自称され、御自分が真心には真心でお返しになる神であると仰せになりました。詩編12編は、ヘブライの信仰は嘘偽りや面従腹背とは相容れないと教えています。

【追記】

【問】アナニアとサフィラの受けた罰は重過ぎるようにも感じます。
【答】プロテスタントの『改訳 新約聖書』(1917年)は、ヨハネ14章6節の「真理」に「まこと」と仮名を振りました。当時の日本人は「まこと」という表現から「真」「実」「信」「誠」を連想でき、実際にそれらの全てが正解です。

【問】アナニアとサフィラには「まこと」が欠けていたということですか?
【答】「自分は神を信じているから自分がいくら罪を犯していても、最終的には神は自分を救ってくれる」といった、「信仰義認」をどこまでも野放図に拡大解釈する虫のいい発想など神には通用しないというのが、この話の教訓です。

【問】では、人間はどうすれば神に救われるのですか?
【答】ヤコブ2章17節「行いを伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだもの」ガラテヤ5章6節「キリスト・イエスに結ばれているなら愛の実践を伴う信仰こそ大切」マタイ7章12節「他人からしてもらいたいことなら全てあなたからしなさい」。

暗いと不平を言うよりも

【問】「暗いと不平を言うよりも、すすんであかりをつけましょう」って、どういうこと?
【答】「光」とはイザヤ58章6節以下にある通り善意・温情・心配り・憐れみの業等の喩えで、人の心と表情とを明るくさせ人々の心を温めます。もし「光」がなくなれば人々の心と表情は暗くなり心は冷え込みます。

【問】主イエスは「わたしは世の光」「あなたたちは世の光」などと仰せになりました。なぜ?
【答】「光」はイザヤ58章6節以下にある通り善意・温情・心配り・憐れみの業等の喩えで、人の心と表情を明るくさせ人々の心を温めます。「光」がなくなれば、人々の心と表情は暗くなり、心は冷え込みます。

【問】福音書には主イエスが「笑った」という記述がない、という議論があるそうです。
【答】イザヤ58章10節は隣人への温情を「光」に喩えます。理由は相手の心や顔を明るくするからです。主はヨハネ8章で「わたしは世の光」と宣言されましたが、これはいつも仏頂面の人が語る言葉ではありません。

【問】イザヤ58章6節以下では、困窮している人々に対する心配り・善意・温情・憐れみの心が「光」に喩えられていますが、なぜ?
【答】それらが相手の表情と心とを明るくさせ、また、それらが相手の心を、光が熱を与えるように温かくさせるからです。マタイ5章16節「あなたの光を輝かせなさい」。

ヨハネ1章14節「《神の御言葉》(=天使や預言者を介してではなく、御自身で御教えをお話しになる神)は『肉』(=人間。創世記6章12節参照)となられ、わたしたちと共に住まわれた。わたしたちは、彼の栄光を見たが、それは、御父の御独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちは、自分が他の人からしてほしいことを、自分から他の人にしなさい」と《愛の掟》を教えられた。従って「愛の反対」は「他の人からしてほしくないことをあえて他の人に行うこと」そして「他の人からしてほしいことをあえて他の人には行わないこと」からなる。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

レビ19章18節は有名な隣人愛の掟を教えるが、その対極の行為として17節は兄弟を心の中で憎むことを禁じる。ゼカリヤ7章10節は互いに災いを心の中で企むこと、8章17節は互いに心の中で悪を企むことを禁じ、相手の困った顔・悲しむ顔・苦しむ顔を見たいという悪意を抱いてはならぬと戒める。

「愛の反対は無関心」という言葉は、これを聞き「善きサマリア人の話」(ルカ10章)や「最後の審判」(マタイ25章)をすぐ連想できる人にとっては、キリスト教的な意味を持つ。しかし、これらの箇所に思い至らず、それどころか福音書のどんなエピソードも浮かばない人にとっては、混乱の元となる。

(注)別エントリー「試論:『善きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

ローマ13章10節でパウロは「愛とは隣人に対して悪事を行わないことです」と断言している。これを踏まえるなら、隣人に対して悪事を行おうと企むことこそが愛の反対に該当する行為ということになる。同9節は「姦淫するな、殺すな、盗むな、貪るな(他人の物の横取りを企むな)」等を列挙している。

箴言26章19節は日本語で「悪乗り」と呼ばれる行為を戒め、「親しき仲にも礼儀あり」という事柄を想起させる(詩編15編3節参照)。箴言26章18節は「死の矢」という表現を用いるが、旧約聖書の「剣」と「矢」は《心に刺さる言葉》の比喩(詩編64編4(3)節等)で、隣人への暴言を戒める。

(注)別エントリー「試論:『言葉』と『心の傷』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8216

(注)別エントリー「試論:『言葉の刃』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8308

(注)別エントリー「試論:『火も剣も御言葉の比喩』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7812

レビ19章18節は「自分自身を愛するように隣人を愛する」という隣人愛を命じ、同章ではその隣人愛の対極にある様々な行為を禁じる。17節は「心の中で兄弟を憎んではならない」と悪意を秘めたまま隣人に接することを禁じて「出来心(ふざけただけ)」という言い訳も認めない(箴言26章19節)。

(注)別エントリー「レビ記19章17節:理由のない悪意」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4826

レビ19章18節は「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」17節は「心の中で兄弟を憎んではならない」ゼカリヤ7章9節は「互いにいたわり合い憐れみ深くありなさい」10節は「互いに災いを心にたくらんではならない」と教える。「心の中で憎む」とは相手の不幸を心の中で望むことを意味する。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1982

試論:「財産を穴に埋める」を140文字以内で

主イエス・キリストがこの世に来られた意義は、「言」すなわち神の御言葉(御教え)を御自分で人々に仰せになるためであり、「御教えを聞いて自分なりに努力したけれど悪戦苦闘の結果あまりうまくいかなかった」ならまだしも、最初から聞かなかったように振舞うのは、財産を穴に埋めるのと同じである。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:マタイ22章『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6740

【追記】

一ヨハネ4章は、世間的な事柄(5節)ばかり語る一方で福音書の主の御言葉に関してはなるべく触れずに自分も実行しない者を、たとえキリスト信者を自称しようと「反キリストの霊」と断じたが、この種の欺瞞的な信者をマタイ25章では主人から預かった財産(=福音の賜物)を隠した者にたとえている。

旧約聖書では「良からぬ意図の下に穴を掘る」行為は、結局は自分自身の破滅を準備する象徴的な仕草と見なされた(詩編57編7(6)節)。詩編94編12節は「主よ、あなたに諭されあなたの律法を教えていただく人は幸い」と記し、13節では神に逆らう者の滅びの象徴として「穴」が言及されている。

(注)別エントリー「試論:『穴を掘る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8468

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:新都エルサレムに住む条件を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11197

ヨハネの第一の手紙の4章は「反キリストの霊」の特徴を説明している。神からの霊が主イエス・キリストの福音を解説するのに対し、人を惑わす霊は信仰を自称しつつ世界情勢(国際情勢・社会情勢)を好んで語る一方でキリストの福音の中身に関しては全く意を尽くすことなく沈黙する、という特徴を持つ。

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

(注)別エントリー「試論:預言解釈の基本を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5092

ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは「天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神」主イエスを表す称号であり主が直接人々にお話しになった御言葉を記したものが福音書である。福音書を顧みず他のものばかりに目を奪われ続けるならばイエス・キリストがわからなくなる。

主はヨハネ13章34節で「互いに愛し合いなさい」と「愛の掟」をお授けになったが、「わたしがあなたがたを愛したように」と付け加えられることによって、御自身を模範(全人類のあるべき姿)としてお示しになった。「言(ことば)」である主が「肉」つまり人間となられた意義の一つがここにあった。

マタイ5章で主は、「あなたがたは世の光」(14節)、「あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(16節)と仰せになり、行いを伴わない信仰など役に立たない(ヤコブ2章14節)ことをお話しになった。

(注)別エントリー「試論:行いを欠く信仰を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5360

(注)別エントリー「試論:『地の塩』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5586

キリストと「平和」

主はヨハネ14章27節で「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と仰せになった。ではどうやって主は御自分の平和をお与えになったのか、パウロがコロサイ1章20節で「その十字架の血によって」と答えを記した。

(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7479

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

主イエスは御復活の後、弟子たち(使徒たち)に初めて現われた際「あなたがたに平和があるように」と仰せになった。古代のヘブライ人にとって「平和」は全ての幸福の総称である。挨拶として長い形式ではサムエル上25章6節「あなたに平和、あなたの家に平和、あなたのもの全てに平和があるように」。

主イエスはマタイ9章で慢性出血の女性を治癒されたが「あなたの信仰があなたを救った」の後にマルコ5章34節では「安心して行きなさい」と続ける。これは《平和のうちに出発しなさい》というヘブライ人の別れの挨拶(サムエル上1章17節)で《あなたの願いは既に聞き入れられた》を示唆している。

古代のヘブライ人にとって「平和」はあらゆる幸福の総称であり、「あなたに平和」はヘブライ人の挨拶の決まり文句だった。ルカ10章5節「この家に平和があるように」は、より長い形の挨拶(サムエル上25章6節)である。ヘブライ人は「平和に属する者」を言い表したい時に「平和の子」と表現した。

(注)別エントリー「神の子らは人の娘たちを【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8636

主イエスはマルコ5章で、「十二年間も出血の止まらなかった女性」を癒された後、彼女に「安心して行きなさい」と仰せになった。これは列王記下5章19節等に登場する常套句で、ヘブライ語では全ての幸福の総称である「平和」という単語を含み「これからは幸せに暮らしなさい」を意味する表現である。

マタイ5章9節「平和を実現する人」の「平和」とは、福音書の時代の人々にとっては単に戦争のない(終わった)状態を意味する以外に個々の健康や幸福・繁栄、人間関係の協調・一致や発展、社会や国家の安寧、暴動や反乱のない状態、心の(霊的な)安定など、物事が好転している状況の総称でもあった。

マタイ10章34節「わたしが来たのは平和をもたらすためだと思ってはならない」。この言葉の真意を三十数年前シメオンから聖母は預言されていた(ルカ2章34節)。「この子はイスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするしるしとして、また反対を受けるしるしとして、定められています」。

(注)別エントリー「試論:母マリアと『剣』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7974

ルカ2章14節「地には平和」の「平和」は、福音書の時代のヘブライ人にとって単に戦争のない(終わった)状態を意味する以外にも、個々の健康や幸福・繁栄、人間関係の協調・一致や発展、社会や国家の安寧、暴動や反乱のない状態、心の(霊的な)安定など、物事が好転している状況の総称でもあった。

主イエスはルカ10章で、御自分の教えを受け容れることになる人々を「平和の子」とお呼びになった。イザヤ9章5(6)節ではメシアの称号の一つを「平和の君」と啓示し、またパウロはフィリピ4章9節で自分たちの神を「平和の神」と呼ぶが、ヘブライ人にとって「平和」は全ての幸福の総称でもある。

主イエスは「あなたが他の人からしてもらいたいことは全て、あなたの方から他の人にしなさい」(マタイ7章12節)を御自分の《律法》となさり、これをもって隣人愛の掟(ヨハネ13章34節)の基礎となさった。このことが欠乏しているがゆえに人々は報道で連日のように惨劇を目にし続けるのである。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

ガラテヤ5章22節は聖霊の賜物の一つに「平和」を挙げる。これは古代のヘブライ人にとっては戦争のない(終わった)状態を表す以外にも、人間関係の協調・一致・発展、個々の健康・幸福・繁栄、心の(霊的な)安定、暴動・反乱のない社会や国家の安寧など、物事が好転している状況の総称でもあった。

(注)別エントリー「試論:『心も思いも』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10376

主イエスはマルコ4章26節以下の「種」のたとえで信仰の成長をお教えになったが、ヨハネ3章では同様の事柄をニコデモに別の表現で御説明され、同章8節は聖霊を「風」と表現する。同章とマルコ4章を比較すると、種が芽を出して日々ゆっくり成長するように聖霊は静かに働き続けると示唆されている。

聖パウロのガラテヤ書5章によれば、聖霊が働いている徴は愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・節制(22節〜23節)であり、聖霊が不在である徴は姦淫・わいせつ・好色・偶像礼拝・魔術・敵意・争い・そねみ・怒り・利己心・不和・仲間争い・ねたみ・泥酔・酒宴(19節〜21節)などである。

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを確実に識別できる基準」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4564

ローマ8章6節の直訳は「肉の思いは死、霊の思いは命と平和」。ヘブライ人は人間由来の事柄を「肉」、神に由来する事柄を「霊」と呼び、あらゆる幸福を「命」あるいは「平和」と総称した。この節は「人間由来の願望は死で終わるが、神に由来する願望は人間をあらゆる幸福へと導く」という意味である。

(注)別エントリー「試論:『わたしは命である』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11586

(注)別エントリー「試論:『肉と霊』の対比を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7740

(注)別エントリー「試論:ガラテヤ5章の『肉と霊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7657

(注)別エントリー「試論:聖書と『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7649

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『永遠の命の言葉を持つ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11244

(注)別エントリー「『永遠の命』と『新しい掟』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4905

試論:「知るとは理解すること」を140文字以内で

【問】主イエスはなぜヨハネ17章3節で、御父と御自分とを「知る」ことが永遠の命つまり天国の福楽に到達することである、と仰せになったの?
【答】一コリント13章12節は、天の国においては人間は神について「顔と顔とを合わせて見る〔ようにはっきりと理解する〕ことになる」と説明しています。

(注)別エントリー「試論:『永遠の命』とは??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17203

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11494

(注)別エントリー「試論:バシレイア(=神の王国)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12654

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4544

試論:「神格化された使徒たち」を140文字以内で

古代のイスラエルでは「主」という神こそが唯一の神であり、他の異邦の神々は忌み嫌うべき存在で、まして人間の神格化など論外だった。他方、古代の異邦人は、使徒言行録のヘロデ王(12章22節)やバルナバとパウロ(14章11節以下)の例に見られる通り、「人間の神格化」に全く抵抗がなかった。

(注)別エントリー「試論:『アグリッパ一世の頓死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17914

「わたしの掟」って、何???

ヨハネ14章15節「わたしのことを愛しているなら、あなたたちはわたしの掟を守るであろう」同章24節「わたしのことを愛していない者は、わたしの言葉を守ろうとしない」マタイ7章21節「わたしのことを『主よ主よ』と呼ぶ者が皆、天の国に入るわけではない。天の父の御心を行う者だけが入る」。

ヤコブ2章17節「行いを伴わないならば、信仰はそれだけでは死んだものです」は、主イエスのルカ6章49節の御言葉「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は、土台なしで地面に家を建てた愚かな人に似ている」とは内容的には同じであり、いわゆる「信仰義認」の適不適を考える上では良い基準となる。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

ヨハネ5章24節では、イエスの言葉を聞いて御父である神を信じる者は永遠の命を得て裁かれることなく死から命へ移ると説明されているが、29節では悪を行う者は裁きを受けると説明され、悪を行いながらの信仰などは神はお認めにならないことがわかる。神は人間が悪から離れることを要請されている。

ローマ3章でパウロは、「信仰」「律法」という表現で実際には《イエス・キリストを信仰する人々にとっての新しい掟である愛の掟》と《イエスを認めぬ人々が律法とするモーセが与えた掟》とを比較した。人間を「義」とするのは、《律法の掟》の実行ではなく、信仰に基づく《愛の掟》の実行如何による。

(注)別エントリー「試論:『主よ、主よ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5380

主イエスは「あなたが他の人からしてもらいたいことは全て、あなたの方から他の人にしなさい」(マタイ7章12節)を御自分の《律法》となさり、これをもって隣人愛の掟(ヨハネ13章34節)の基礎となさった。このことが欠乏しているがゆえに人々は報道で連日のように惨劇を目にし続けるのである。

(注)別エントリー「《キリストの律法》(マタイ7章12節)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18013

ローマ3章でパウロは、「信仰」「律法」という表現で実際は、

《イエス・キリストを信仰する人々にとっての新しい掟=愛の掟》と、

《イエスを認めぬ人々の古い掟=律法の掟》を比較した。

人間を「義」とするのは《律法の掟》の実行ではなく、信仰に基づく《愛の掟》の実践(ガラテヤ5章6節)による。

(注)別エントリー「試論:ローマ3章『信仰と律法』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8650

主イエスはヨハネ3章16節で「御父が独り子を世に与えられた理由は、独り子を信じる者が一人も滅びることなく永遠の命を得るため」と教えられ、ルカ10章25以下では永遠の命を受け継ぐために何をすべきかを質問した一人の律法学者に対して、具体的に答えられた。善きサマリア人の話がそれである。

(注)別エントリー「試論:『善きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

ルカ10章25節以下では、主イエスと一人の律法学者との対話を記し、「永遠の命」を受け継ぐために実行すべき事柄として「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい」とあり、主は「正しい答え」と仰せになった。

マタイ19章16節で主に金持ちの青年が永遠の命を得るにはどうすればと尋ねた時、それを彼は比較的容易な事柄と考えていたが、主は同13章44節以下特に46節で、それを手に入れるためにはあらゆる努力を尽くす必要があることを、「宝」「真珠」「持ち物を全て売り払う」等の表現で御説明された。

(注)別エントリー「試論:『招かれる』『選ばれる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8012

(注)別エントリー「試論:『御言葉によって生きる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11157

主はマタイ13章45節以下で、「天の国」を全財産と引き換えにしてでも手に入れるべき真珠にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「天の国」は「永遠の命」と同義だが、「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

ルカ10章25節の律法学者と18章18節の議員は同じ質問をした。ただ議員には「心・精神・力・思いを尽くして」の観点が欠けていた。主は議員に、「持ち物を全て売り払う」という表現で勧告なさったが、この表現はマタイ13章44節〜45節のたとえでは《あらゆる努力を尽くす》を象徴している。

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

マタイ1章19節は、主の養父ヨセフをディカイオス(義人、正しい人)と呼ぶが、25章「最後の審判」の箇所では、ディカイオス(37節、46節)は「永遠の命にあずかる」(46節)人を意味している。つまり、「神の義」を身に着けることこそが、「永遠の命にあずかる」ことを約束するものである。

(注)別エントリー「試論:『神の義』と詩編を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6798

最後の晩餐の際に主は、御自分の《愛の掟》においては隣人愛の実践をもって御自分への愛の実践とみなすと宣言された(ヨハネ14章21節等)。最後の審判では各自の行いに応じて裁かれる(黙示録20章13節、マタイ25章45節)ため、神からの赦しを得るには隣人を赦す以外ない(同6章12節)。

マタイ7章21節で主イエス・キリストは、「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな、天の国に入るのではない。天におられるわたしの父のみ旨を行う者だけが入る」と仰せになられ、23節やルカ13章27節では入れなくなる理由とは「不法を働く」「不義を行う」ことであると明言されている。

(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8105

マタイ25章45節で主は「この小さな者の一人にしなかったことは、わたしにしなかったことである」と仰せになり、隣人愛の実行を神への愛の基準にすると宣言された。従って「私は周囲とはトラブルを起こしてばかりですが、主よ、あなたへの愛だけは誰にも負けません」という自己申告は、通用しない。

主の養父ヨセフは、マタイ1章19節で義人(正しい人)と呼ばれるが、25章の最後の審判では義人(正しい人)は永遠の命が確約されている人を指す(37節、46節)。故に聖書で永遠の命について言及する箇所を読む時、主の養父ヨセフに関連付けて読んでも誤りとは言えない(ヨハネ12章25節)。

ヨハネ12章25節は「この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命を得る」と主の仰せを記す。古代のヘブライ人は「〜を二の次にする」と言いたい時にも、「〜を憎む」という表現を用いた。主の養父ヨセフはヘロデが幼子の命を狙った時も、自分の命を二の次にして幼子と幼子の母を守り続けた。

(注)別エントリー「試論:御受難と『永遠の命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9460

マタイ1章19節は主の養父ヨセフを「正しい人(ディカイオス)」と表現する。25章の「最後の審判」におけるディカイオスは、隣人が何らかの助けを必要としている時に、必要とされている助けを提供して困り事を解決する人を指し、ヨセフはイエスとマリアが本当に必要としていることだけを実行した。

(注)別エントリー「試論:聖ヨセフの模範を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7243

(注)別エントリー「試論:聖母と聖ヨセフの終生童貞を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6397

(注)別エントリー「試論:『聖別』と聖母の終生童貞を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7939

「わたしの平和を残し、与える」

主はヨハネ14章27節で「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と仰せになった。ではどうやって主は御自分の平和をお与えになったのか、パウロがコロサイ1章20節で「その十字架の血によって」と答えを記した。

詩編49章8(7)節は神に対し人間が贖(あがな)いの業を行うことはできないと説く。それができるのは「人〔となられた神〕の子」だけであり、そのために主イエスは来られた(マタイ20章28節)。神は劣化できないため、神のままで人間の全てを担う必要があり、そのためにマリアが不可欠だった。

(注)別エントリー「試論:『神には劣化がない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8697

(注)別エントリー「神のお告げ:受胎告知と無原罪の御宿り」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4835

マルコ福音書は主の御降誕には触れないものの、6章3節で主イエスには母親がいたことを記し、10章45節では主の到来の目的の一つが「多くの人の身代金として自分の命を献(ささ)げる」つまり贖(あがな)いのためと記す。パウロもガラテヤ4章で母親の存在(4節)と贖い(5節)とに触れている。

(注)別エントリー「『《マリアの子》なら私生児』説は誤り」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1478

ヨハネ19章は、ゴルゴタの主の十字架の傍らに聖母がおられたと記すが、聖母の内面がどのようであったかについては全く記述がない。しかしルカ2章35節はシメオンの預言として、「多くの人の心にある思い(34節の「逆らい」)があらわになるため、あなた自身も剣で心を刺しつらぬかれる」と記す。

(注)別エントリー「試論:『剣』と『言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7807

詩編49(48)編8(7)節は、神に対して人間が贖いの業を行うことはできないと記す。とはいえ神の御独り子が自ら人間となられて自分の「からだ」を「身代金」として贖いの業を行われた時の「からだ」は、マリアから受けたものだった。マリアは極めて特別な形でイエスの贖いの業に「参加」をした。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7795

(注)別エントリー「試論:『履物を脱ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8620

古代のヘブライ人は「肉」という言葉で、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけでなく、魂も含めた人間としての全体)」を表した。ヨハネ1章14節をこの観点で理解すれば、ニケア・コンスタンチノープル信条「おとめマリアよりからだを受け」の「からだ」は、人間としての全てを意味している。

ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。

ヨハネ1章14節は「神の御言葉(=主イエス)は肉(=人)となられ、わたしたちの間に宿られた(=住まわれた)」と記す。マタイ20章28節では主御自身が「仕えられるためではなく仕えるため」「多くの人の身代金(=あがない)として自分の命を献(ささ)げるために来た」と仰せになられている。

創世記3章15節で神は、サタンと決定的に対立する一人の女性が将来現れることを予告された。黙示録12章では、それは救い主の母となった女性のことだと啓示された。救い主は人々を罪や悪から救うために生まれるので、その母が存在の最初の瞬間から罪や悪とは完全に無縁であるべきなのは当然である。

(注)別エントリー「試論:黙示録12章の『鉄の杖』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11093

(注)別エントリー「創世記3章15節:蛇の頭を踏み砕く者は誰か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1488

「救い主」が世を救われる方法に関しイザヤは、「小羊」(53章7節)つまり代価として御自分をささげ、「しもべ」(42章、49章以下等)として人々に仕えると預言し、主もマルコ10章45節でそれを宣言された。救い主の母となることを承諾した女性が「主のはしため」を称するのは象徴的である。

(注)別エントリー「試論:『しもべ』と『はしため』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9785

マタイ1章21節は「自分の民を罪から救う」ルカ1章77節は「罪の赦しによる救い」と記し、主御自身もマタイ6章13節で「悪い者から救って下さい」と《主の祈り》を教えられ、ガラテヤ1章4節は「この悪の世からわたしたちを救い出そうとして御自身をわたしたちの罪のために献げられた」と記す。

(注)別エントリー「試論:救い主は何から救うの??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10720

(注)別エントリー「主の御降誕:救い主は何から人々を救うのだろうか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4445

御子が幼子の頃やカナでの婚礼の折を除けば、人々から御子が尊敬や賞賛を受けられている場所にいて御自分も同じく栄誉に与るということを、聖母は基本的に避けられていた。しかしゴルゴタで御子が人々から嘲りや罵りの的となられた際には十字架の傍らに立たれ、御子と最も苛酷な時間を共に過ごされた。

(注)別エントリー「試論:聖母マリアってどんな方?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5920

ヨハネ1章14節は神の御独り子が「肉」となられたと記す。「肉」は創世記6章で人間を指す語だが道徳的な脆さのニュアンスも含む表現であり、それゆえ悪魔が誘惑を試みた。誘惑の後、天使たちがイエスに仕えたが天使は本来単なる人間には仕えない。主イエスは神のままで人間としての全てを担われた。

【問】なぜ受胎告知の際にマリアは、承諾の返答よりも先に「わたしは主のはしため」と再確認しましたか?【答】マリアはそう前置きすることで、「わたしは神の御独り子の母となることを承諾しますが、決して『神のようになること』(創世記3章5節)を望むからではありません」と意思表示をしました。

(注)別エントリー「試論:「わたしの主のお母さま」を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10221

試論:一ペトロ2章5節を140文字以内で

【問】聖なる祭司となり神の喜ばれる霊的ないけにえをイエス・キリストを通して献げなさい? 何のこと?
【答】主イエスがマタイ福音書で二度引用されたホセア6章6節「わたしが求めるのは、いけにえでなく憐れみ」を踏まえれば、旧約の祭司が献げるいけにえの代わりに憐れみの業を実行することです。

【追記】

【問】一ペトロ2章9節「あなたたちは王の系統を引く祭司」の意味とは?
【答】モーセの律法の祭司はいけにえや献げ物を神に献げますが、王であるキリストの弟子は一人一人がいけにえでなく憐れみの業(ホセア6章6節、ミカ6章8節)を神に献げる義務がある、という意味でキリストにおける祭司です。

(注)別エントリー「試論:憐れみ深い人が幸いの理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14898

(注)別エントリー「試論:ホセア6章の『神を知る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15271

試論:永遠の命を受け継ぐには?を140文字以内で

【問】わたしたちは何をすれば、聖書にある「永遠の命」を受け継ぐことができるでしょうか?
【答】同じ質問をルカ10章25節で、ある一人の律法学者が直接、主イエスにぶつけています。有名な善きサマリア人の話の箇所です。主のお話しの最後は、「さあ出発して、あなたもまた同じようにしなさい」。

(注)別エントリー「試論:永遠の命を得るためには?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16373

真理(アレテイア)

ヨハネ福音書は「信仰」を表現する際、他の福音書が用いるピスティスという語を用いず代わりにアレテイア(真理、まこと)という語を多用する。ヨハネにとって信仰とは、人の真心に対し真心で応じられる神なる主に向かって嘘偽りや裏表のない態度で接することに他ならず、これは当時の共通認識だった。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書のアレテイアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15430

詩編12(11)編においてダビデは、隣人に嘘をついたり隣人を早口で欺いたり言行不一致状態だったりする人々ばかりの風潮を、「信仰のある人は消え去りました」(12編2節、新共同訳)と表す。ここで「信仰」と訳されるヘブライ語を、古代のギリシア語訳聖書はアレテイア(真理、まこと)と訳す。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

古代よりヨハネ福音書には「信仰」を意味するギリシア語が登場しないことが知られていた。その替わりヨハネ福音書は「真理」を意味する語アレテイア(まこと=真、実、信、誠)を多用する。ヨハネ7章28節「わたしを遣わされた方は『真理である方(=御父)』だが、あなたたちはその方を知らない」。

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

ヨハネ18章38節「真理(アレテイア)とは何か」の答えをマルコ12章32節は「神は唯一で他に神はない」と記す。一ヨハネ5章6節と20節は、「真理」の名に該当するのは御父と御子と聖霊であると説く。ヨハネ10章30節「一つ」の意味を使徒言行録4章32節は「心」「思い」等々と説明する。

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

一ヨハネ5章は20節で「神の御子が来られ、私たちに真理である方を知る力を与えられました。私たちは真理である方の内に、またその御子イエス・キリストの内にいるのです」と記し、「この方こそ真理である神、永遠の命」と続け、御父と御子と聖霊(6節)の御三方を「真理」と呼び、唯一の神とする。

(注)別エントリー「試論:『御子に全て委ねられた』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7629

幼子イエスに関してルカ2章40節は「たくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた」と記し、ヨハネ1章14節は「その栄光は御父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた」と記す。他の福音書が「知恵」や「信仰」と表現する際もヨハネ福音書は「真理」という語を当てている。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:真理(まこと)の反対は?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12668

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

古代よりヨハネ福音書には「信仰」を意味するギリシア語が登場しないことが知られていた。その替わりヨハネ福音書は「真理」を意味するギリシア語アレテイアを多用する。主イエスはピラトの問いに対し御自分のことを王だとも神だともお答えにならず、ただ「真理」すなわち信頼すべき者だと宣言された。

古代のギリシア語訳イザヤ書59章14節は「真理(まこと、アレテイア)は街頭(広場、巷)でよろめく」15節は「真理は失われ、それは主の御目に悪と映った」と記す。この預言は「わたしは真理」(ヨハネ14章6節)と自称される主イエスの、御受難とキレネのシモンのエピソードにおいて実現した。

(注)別エントリー「試論:『真理は街頭でよろめく』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12702

主イエスはヨハネ14章6節で「真理(アレテイア)」と自称されたが、ギリシア語訳のエレミヤ9章4節は「人は隣人を惑わし、『まこと(アレテイア)』を語らない」であり、エレミヤ9章で「まこと」に対置されているのは姦淫する者・裏切る者・偽り・悪・中傷・惑わし・悪事・欺き・殺し等々である。

詩編43編3節は「あなたの光とまこと(真理)を遣わしてください」と歌う。ヨハネ1章4節は「神の御言葉(=主イエス)の中に命があり、命は人間を照らす光」と記す。同14章6節で主は「わたしは道・真理・命」と仰せになり、まさに御自分こそが詩編の「光とまこと」に他ならないと、宣言された。

(注)別エントリー「試論:『わたしは世の光である』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9699

(注)別エントリー「試論:あなたがたは世の光って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6337

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

ヨハネ2章22節は、主が復活された際、過去の主の仰せを思い出した弟子たちは〔旧約〕聖書と主の仰せとを信じたと記す。この「信じた」は、「納得した」「了解した」「腑に落ちた」「合点がいった」等の意味合いである。「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる者は、幸い」も同じことである。

ヨハネ福音書は「永遠の命」「信じる」を多用する。ただし「何をすれば永遠の命を得られるか」の具体例はマタイ25章「最後の審判」とルカ10章「善きサマリア人の話」の箇所にあり、ルカ10章27節で主イエスは、「信じる」こととは「心・精神・力・思いを尽くし愛する」ことだとお教えになった。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書の『信じる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12637

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

「御父をお示しください」

ヨハネ14章8節のフィリポの言葉「主よ、わたしたちに御父をお示しください」に対しコロサイ1章15節では「御子は、見えない神の姿」と表現した。「見えない神」とは御父であり「姿」とは《生き写し(似姿)》というニュアンスも含む。ヘブライ1章3節は「神の本性の完全な具現」などと表現した。

(注)別エントリー「『御父である神』に結ばれていない人々」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17900

主はヨハネ10章30節で「わたしと父とは一つ」と仰せになった後、17章では弟子たちのために天を仰いで祈られたが、それは御父と御自分が「一つ」であるように、弟子たちもまた「一つ」となるためであった(11節、21節〜23節)。使徒言行録4章32節「信じた人々の群れは心も思いも一つ」。

一ヨハネ5章は20節で「神の御子が来られ、私たちに真理である方を知る力を与えられました。私たちは真理である方の内に、またその御子イエス・キリストの内にいるのです」と記し、「この方こそ真理である神、永遠の命」と続け、御父と御子と聖霊(6節)の御三方を「真理」と呼び、唯一の神とする。

「真理(ギリシア語本文でアレテイア)とは何か」(ヨハネ18章38節)の答えをマルコ12章32節は「神は唯一で他に神はない」ことがアレテイアとし、主はこれを「適切な答え」とされた(34節)。ヨハネ14章6節「わたしこそが道、真理、命」10章30節「わたしと父とは唯一のものである」。

「道」とは全ての人が生きる上で辿るべき道筋(道理・規範)でイエスがその模範であること、「真理」とは人が信仰・礼拝すべき三位一体の唯一の神を指し御父・御子・聖霊の間に矛盾がないこと、「命」とは幸福・安堵・充足等の人を生かすものの全てで人間にそれを授ける源は唯一の神ということを指す。

《御父である神、主》と《御子である神、主イエス》とは、詩編110編1節では御父は「主」、御子は「わが主」でありマタイ22章44節で御父は「主」、御子はダビデの言う「わたしの主」である。ヨハネ1章1節では御父は「神」、御子は「言(ことば)」であり、「言は神であった」と記されている。

エレミヤ10章10節は「主は真理の神」と記すがこの章では、自分では言葉を話せない偶像の神々と違い、イスラエルの神である主は御自ら、御言葉を発せられて真正な御教えを御自分の民にお話しになられる(申命記5章22節以下)という事柄を要約する表現として、「真理〔の神〕」が用いられている。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

エレミヤ10章10節は「主は真理の神、命の神、永遠を支配する王」と呼ぶ。ヨハネ福音書で主イエスが御自身に関連して「真理」「命」「永遠の命」等の表現を頻用されること自体、御自身の神性の表明である。イエスに敵意を抱く人々からすると神に対する冒瀆であり、石打ちの刑に相当する事柄だった。

イスラエルの神である主は御自分の民に対して御自ら御言葉を発せられて御教えをお話しになり(申命記5章22節以下)、それこそが自分で言葉を話せない偶像の神と最も異なるとして、主をエレミヤ10章10節は「真理の神」と呼ぶ。主イエスはピラトに御自分が何者か「真理」の表現で端的に示された。

主なる神がシナイ山でモーセに多くの戒めや掟をお授けになっている間、民は金の子牛の像を造りこれを自分たちの新しい神とし、勝手なふるまいをしたが、モーセは怒って掟の板を投げつけた。人々は神からの恩恵だけ望んで戒めや掟には目もくれないが、実は主からの戒めや掟こそが恩恵だとは気付かない。

試論:「『義』は滅びない」を140文字以内で

知恵の書1章15節は、「義」は滅びないと記す。マタイ1章19節は主の養父ヨセフをディカイオス、つまり「義」を体現した人だと紹介する。同25章の「最後の審判」ではディカイオスは、「永遠の命」つまり天国の福楽が確約されている人を指す。主イエスも「義の道」を同21章32節で自称された。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

【追記】

「道」とは全ての人が生きる上で辿るべき道筋(道理・規範)でイエスがその模範であること、「真理」とは人が信仰・礼拝すべき三位一体の唯一の神を指し御父・御子・聖霊の間に矛盾がないこと、「命」とは幸福・安堵・充足等の人を生かすものの全てで人間にそれを授ける源は唯一の神ということを指す。

主が「わたしは道」(ヨハネ14章6節)と仰せになる場合、自身が御父へ通じる唯一無二の存在であると示唆するだけではなく、日本語の「人としての道から外れる」と同様に、誰もがそこを通って進んで行くべき人間としての道筋つまり御父である神の御前における模範(同13章15節)の意味をも含む。

一人の律法学者は自分を「義化」(ルカ10章29節)しようとして(「義人」(マタイ1章19節)とするために)、隣人愛(ルカ10章27節)に関して、主に、踏み込んだ質問を行なった。主は、憐れみの心(33節)と「神の義」と隣人愛と永遠の命(25節)は事実上重なっているとお教えになった。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4544

試論:「正しい人」を140文字以内で

【問】主イエスの養父ヨセフはマタイ1章19節で「正しい人」と呼ばれます。古代のイスラエル人にとって「正しい」とは何ですか?
【答】サムエル上24章18節「お前(=ダビデ)はわたし(=サウル王)よりも正しい。わたしはお前に悪意で向き合っているのに、お前はわたしに善意を示してくれた」。

試論:「一人冷静だったヨハネ」を140文字以内で

【問】主がヨハネ14章2節で「わたしの父の家に行き場所を用意する」と仰せになったのになぜトマスはすぐ「わからない」と言ったの?
【答】恐らくヨハネ一人を除く他の全ての使徒が、大なり小なり混乱していました。ヨハネ一人が当夜の主の仰せを全て忠実に記憶し、ゴルゴタの御受難まで従いました。

【追記】

【問】マルコ14章51節以下に亜麻布を脱ぎ捨てて逃げる若者の話がありますが、これはマルコ自身のことですか?
【答】当然そういう解釈がある一方で、この若者とは男性信者の中で唯一ゴルゴタの主の十字架の下に付き従ったヨハネ(十二使徒の一人)ではないか、という別の解釈もまた存在しています。

試論:ヨセフの職人としての腕前を140文字以内で

【問】主の養父ヨセフの大工(木工職人)としての腕前は?
【答】彼は息子と妻を連れエジプトに逃避し、現地のユダヤ人たちの中で暮らしたと考えられますが、全くの見ず知らずの土地で妻子を養っていくためには自分の「腕一本」で勝負するしかなく、それが可能だった彼の腕前は確かだったと思われます。

【追記】

【問】マタイ2章は聖家族が東方の博士から黄金を贈られたと記しますが、これがエジプト生活での足しになったのでは?
【答】いいえ。いつの時代にもイスラエルからエジプトに至る経路は治安が常に良くなく、乳飲み子連れの夫婦が多くの黄金を携えて旅していたなら、盗賊たちの恰好の標的となりました。

福音書の時代にエルサレムからエジプトに逃避する場合、途中かつてのペリシテの町ガザがある。エルサレムからガザへの道を使徒言行録8章26節は「寂しい道」と記す。イスラエル人にとっては実際のところガザからエジプトまでの道の方が、より長く、より寂しく、より危険で困難が多い道のりではある。

履物を脱ぐ(脱がせる)

ルツ4章7節によれば、古代イスラエルでは親族たちの責務の代行や委譲に際して、自分の履物を脱ぐ慣習があった。主イエスは多くの人の贖(あがな)い、つまり身代金(代価)となるためこの世に来られた(マタイ20章28節)。洗礼者はこのことを、「履物」「神の小羊」「花婿」等の表現で示唆した。

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7479

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7514

(注)別エントリー「試論:世の罪を取り除く神の小羊を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6140

(注)別エントリー「試論:『花婿』って誰?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7265

(注)別エントリー「試論:『主イエスこそ真の花婿』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7379

ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。

ヨハネ1章14節は「神の御言葉(=主イエス)は肉(=人)となられ、わたしたちの間に宿られた(=住まわれた)」と記す。マタイ20章28節では主御自身が「仕えられるためではなく仕えるため」「多くの人の身代金(=あがない)として自分の命を献(ささ)げるために来た」と仰せになられている。

古代のヘブライ人は「肉」という言葉で、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけでなく、魂も含めた人間としての全体)」を表した。ヨハネ1章14節をこの観点で理解すれば、ニケア・コンスタンチノープル信条「おとめマリアよりからだを受け」の「からだ」は、人間としての全てを意味している。

ヨハネ19章は、ゴルゴタの主の十字架の傍らに聖母がおられたと記すが、聖母の内面がどのようであったかについては全く記述がない。しかしルカ2章35節はシメオンの預言として、「多くの人の心にある思い(34節の「逆らい」)があらわになるため、あなた自身も剣で心を刺しつらぬかれる」と記す。

(注)別エントリー「試論:『剣』と『言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7807

主はヨハネ14章27節で「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と仰せになった。ではどうやって主は御自分の平和をお与えになったのか、パウロがコロサイ1章20節で「その十字架の血によって」と答えを記した。

詩編49(48)編8(7)節は、神に対して人間が贖いの業を行うことはできないと記す。とはいえ神の御独り子が自ら人間となられて自分の「からだ」を「身代金」として贖いの業を行われた時の「からだ」は、マリアから受けたものだった。マリアは極めて特別な形でイエスの贖いの業に「参加」をした。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7795

【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。

(注)別エントリー「試論:聖母崇敬の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18956

主の御復活とは天地創造の継続だった

【問】「復活の聖なる徹夜祭」では創世記1章が朗読されますが、なぜですか?
【答】キリストの御復活すなわち、「復活の体(天上の体、霊の体)」の創造とは、イザヤ65章17節以下に啓示されている、創世記1章の天地創造の継続を意味し、キリスト御自身の御復活によって預言が成就されたからです。

(注)別エントリー「試論:人間の完成形(最終形態)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15868

(注)別エントリー「主の御復活とともに創造された事柄とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15917

主イエスは福音書で自身の御受難と御復活を随所で暗示されたが、御受難と御復活の間に御自分がどんな働きをなさるかについても、ヨハネ14章2節から3節で予告された。それはイザヤ65章17節以下の「新しい天・地・エルサレムの創造」預言の成就であり、御自身の復活の体の創造で完成の時を見た。

主イエスは、ルカ9章の「主の変容」で三人の使徒に、「天上の体」(一コリント15章40節)すなわち死者の復活後の人間の姿(同章35節以下)をお示しになったが、当時三人の使徒は全く理解できなかった。「人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は愛する者たちに準備された」(同2章9節)。

(注)別エントリー「試論:ルカ9章『主の変容』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14938

イザヤ65章17節以下は主が新しい「天、地、エルサレム」を、新しい「神の民」のために喜びをもって創造されると預言した。ヨハネ14章2節以下「わたしの御父の家には住む場所が豊富にある」「わたしは行って場所を用意し、戻って来てあなたたちを迎える」ガラテヤ4章26節「天のエルサレム」。

(注)別エントリー「試論:『もろもろの天を通過』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13750

(注)別エントリー「試論:預言解釈の基本を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5092

二世紀初めにアンティオキアの聖イグナティウスが記したように初代の信者は、キリストの御復活すなわち「天上の体」(一コリント15章40節)の創造の記念に、週七日の中で祝うべき特別の日を土曜日(ユダヤ教の安息日)から、御復活があった「週の最初の日(安息日の翌日)」日曜日へと置き換えた。

(注)別エントリー「試論:『土曜と日曜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12677

「主の変容」の後、主イエスは「人の子が死者の中から復活するまでは今見たことを誰にも話してはならない」と命じられた。使徒たちは「天上の体」(一コリント15章40節)を目撃したのだが、まず主の御復活前後の実体験を経た上で復活の意義を理解しなければ、「天上の体」の理解もないからである。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888

主イエスの御降誕は「肉の体」つまり人間としての誕生だったが、この世に来られた究極の目的が「贖(あがな)い」である以上、「上げられ(十字架上で顕示され)た」後の死と御復活によって悪魔の罪と死の支配を終わらせ人類に永遠の命と「霊の体」を準備して目的を達成したことの方がより重要である。

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11494

(注)別エントリー「試論:真理と贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9081

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

道・真理・命

「道」とは全ての人が生きる上で辿るべき道筋(道理・規範)でイエスがその模範であること、「真理」とは人が信仰・礼拝すべき三位一体の唯一の神を指し御父・御子・聖霊の間に矛盾がないこと、「命」とは幸福・安堵・充足等の人を生かすものの全てで人間にそれを授ける源は唯一の神ということを指す。

【追記】

主が「わたしは道」(ヨハネ14章6節)と仰せになる場合、自身が御父へ通じる唯一無二の存在であると示唆するだけではなく、日本語の「人としての道から外れる」と同様に、誰もがそこを通って進んで行くべき人間としての道筋つまり御父である神の御前における模範(同13章15節)の意味をも含む。

主はヨハネ13章34節で「互いに愛し合いなさい」と「愛の掟」をお授けになったが、「わたしがあなたがたを愛したように」と付け加えられることによって、御自身を模範(全人類のあるべき姿)としてお示しになった。「言(ことば)」である主が「肉」つまり人間となられた意義の一つがここにあった。

一ヨハネ5章は20節で「神の御子が来られ、私たちに真理である方を知る力を与えられました。私たちは真理である方の内に、またその御子イエス・キリストの内にいるのです」と記し、「この方こそ真理である神、永遠の命」と続け、御父と御子と聖霊(6節)の御三方を「真理」と呼び、唯一の神とする。

「真理(ギリシア語本文でアレテイア)とは何か」(ヨハネ18章38節)の答えをマルコ12章32節は「神は唯一で他に神はない」ことがアレテイアとし、主はこれを「適切な答え」とされた(34節)。ヨハネ14章6節「わたしこそが道、真理、命」10章30節「わたしと父とは唯一のものである」。

エレミヤ10章10節は「主は真理の神」と記すがこの章では、自分では言葉を話せない偶像の神々と違い、イスラエルの神である主は御自ら、御言葉を発せられて真正な御教えを御自分の民にお話しになられる(申命記5章22節以下)という事柄を要約する表現として、「真理〔の神〕」が用いられている。

申命記30章15節には「わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く」とある。この章で「命」は、「祝福」(1節)「幸い」(5節)「恵み」「実り」「繁栄」「喜び」(9節)等の総称で、20節は「あなたの神、主を愛し、御声を聞き、付き従いなさい。それこそあなたの命である」と説く。

箴言15章4節では赦しを与える言葉を命の木と記し、相手に安堵と幸福を与える言葉を「命」と表現した。創世記50章では父の死を機に復讐されるのではないかと恐れる兄たちに対し、ヨセフは赦しを再確認する言葉で安堵させた。ヨハネ6章68節は主イエスを「永遠の命の言葉を持つ」と表現している。

有名な「命の木」という表現は創世記と黙示録に登場し、主なる神が人間のために準備された何物かを指す言葉だが、箴言3章18節では知恵に関連してこの表現を用いて、それが幸福の源であると示す。11章30節「神に従う人の結ぶ実」13章12節「叶えられた望み」15章4節「癒しを与える言葉」。

ヨハネ1章4節は「言(ことば)の内に命があり、命は人間を照らす光」と記す。これはヨブ33章27節以下「わたしは罪を犯し正義を曲げたが、すべきでなかった。神はわたしの魂を滅びから救われ、命を得てわたしは光を仰ぐ」を踏まえており、主が御言葉で人間の魂を滅びから救われることを宣言する。

試論:ヨハネ13章16節の意味を140文字以内で

【問】「僕(しもべ)は主人を超える者ではなく、遣わされた者は遣わした者を超える者でない」の意味は?
【答】「人の子(=主イエス御自身)は仕えられるためではなく仕えるために来た」(マタイ20章28節)。だから「あなたたちの中で偉くなりたい者は、皆の僕になりなさい」(同章26節)です。

【追記】

【問】主イエスはこのことを、目の前の弟子たちに対してだけ仰せになりましたか?
【答】いいえ。全ての時代の、全ての弟子たちに向けて仰せになりました。ペトロが第一の手紙の5章3節に書いた通り、牧者の仕事は自分の群れの模範になることであって、群れに対して威張り散らすことではないからです。

試論:「わたしは世の光」なぜ?を140文字以内で

【問】主イエスは「わたしは世の光」「あなたたちは世の光」などと仰せになりました。なぜ?
【答】「光」はイザヤ58章6節以下にある通り善意・温情・心配り・憐れみの業等の喩えで、人の心と表情を明るくさせ人々の心を温めます。「光」がなくなれば、人々の心と表情は暗くなり、心は冷え込みます。

【追記】

【問】福音書には主イエスが「笑った」という記述がない、という議論があるそうです。
【答】イザヤ58章10節は隣人への温情を「光」に喩えます。理由は相手の心や顔を明るくするからです。主はヨハネ8章で「わたしは世の光」と宣言されましたが、これはいつも仏頂面の人が語る言葉ではありません。

【問】イザヤ58章6節以下では、困窮している人々に対する心配り・善意・温情・憐れみの心が「光」に喩えられていますが、なぜ?
【答】それらが相手の表情と心とを明るくさせ、また、それらが相手の心を、光が熱を与えるように温かくさせるからです。マタイ5章16節「あなたの光を輝かせなさい」。

ヨハネ1章14節「《神の御言葉》(=天使や預言者を介してではなく、御自身で御教えをお話しになる神)は『肉』(=人間。創世記6章12節参照)となられ、わたしたちと共に住まわれた。わたしたちは、彼の栄光を見たが、それは、御父の御独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

試論:キリスト教の「愛」って?を140文字以内で

【問】キリスト教の「愛」って、何ですか?
【答】主イエスはマタイ7章12節で、「あなたが他の人からしてもらいたいことならなんでも、あなたから他の人にしなさい」と仰せになり、これを御教えの中の「律法」すなわち根幹となさいました。「愛といっても、色々あるし」などの言い訳は通用しません。

【追記】

【問】では、何が「愛の反対」に該当しますか?
【答】「愛」がマタイ7章12節通りの定義とするならば、「他の人からしてもらいたくないことならなんでも、あえて他の人に行う」と「他の人からしてもらいたいことならなんでも、あえて他の人には全く行わない」の両方が該当するということになります。

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

試論:「手で蛇をつかむ」しるしを140文字以内で

【問】主はマルコ16章18節で、忠実な者に伴う「しるし」として「手で蛇をつかむ」と仰せになりました。なぜ?
【答】シラ21章2節は罪人や悪人を蛇に喩えます。主は幼子の無垢な心を持つことと悪人に対抗する行為の禁止(マタイ5章39節)を教えられました。罪人も無垢な人には手懐けられます。

試論:「信仰の薄い者」??を140文字以内で

【問】主イエスは、自分を真似て湖上を歩こうとし結局沈みかけたペトロを「信仰の薄い者」と、お叱りになりました。信仰が厚ければ湖上を歩けるの?
【答】主が弟子に真似を望まれるのは、へりくだって隣人に仕える姿勢で、キリストの行動なら何でもかんでも真似るのが弟子という発想は、少し軽薄です。

【追記】

一ペトロ5章3節は神の民を司牧する者の心得として、人々に権威を振り回すのではなく、人々の模範となることを勧める。ヨハネ13章15節「わたしがあなたたちにした通りに、あなたたちもするようにと、模範を示した」マタイ20章28節「人の子は、仕えられるためではなく、仕えるために、来た」。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888

(注)別エントリー「試論:『イエスは全人類の模範』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5948

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9949

ヨハネ1章14節は神の御独り子が恵みと真理に満ちて人間となられたことを記すが、ヤコブ4章6節と一ペトロ5章5節はともに「神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みをお与えになる」と強調し、ルカ1章は「わたしは主のはしため」とへりくだった女性こそが御独り子の母となったことを特筆する。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

(注)別エントリー「試論:へりくだりと恵みを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5777

試論:「御父と御子に差はない」を140文字以内で

主イエスはヨハネ10章30節「わたしと御父とは一つ」38節「わたしは御父の内にあり御父はわたしの内におられる」と教えられ14章でも繰り返され(10節、11節、21節)16章15節「御父の持っているものは全てわたしの持っているもの」で、御父と御自分との間に差異はないと仰せになった。

【追記】

ヨハネ14章8節のフィリポの言葉「主よ、わたしたちに御父をお示しください」に対しコロサイ1章15節では「御子は、見えない神の姿」と表現した。「見えない神」とは御父であり「姿」とは《生き写し》というニュアンスをも含んでいる。ヘブライ1章3節は「神の本性の完全な具現」などと表現した。

主はヨハネ10章30節で「わたしと父とは一つ」と仰せになった後、17章では弟子たちのために天を仰いで祈られたが、それは御父と御自分が「一つ」であるように、弟子たちもまた「一つ」となるためであった(11節、21節〜23節)。使徒言行録4章32節「信じた人々の群れは心も思いも一つ」。

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

ニケア・コンスタンチノープル信条「父と一体」はヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」と38節に拠り、御父と御子の間には矛盾・対立・齟齬の類は一切ないことを表す。ギリシア神話では最高神ゼウスと父クロノス、クロノスと父ウーラノスの父子相剋が存在するが、キリスト教には全く存在しない。

主はマタイ11章27節で、全てのことは御父から御自分に任せられていると仰せになった。これは、既にダニエル7章13節以下で啓示された事柄であり、マタイ28章18節やルカ10章22節やヨハネ3章35節や同13章3節等、福音書では事ある毎に強調される「真理(ヨハネ14章6節)」である。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

(注)別エントリー「試論:『御父と御子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7544

試論:聖書の「見る」って、何?を140文字以内で

【問】「わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見る」(ヨハネ12勝45節)の意味って、何?
【答】古代のヘブライ人は、「見る」という言葉を「理解する」「悟る」の意味でも使いました。49節と50節を読むと、「わたしの話を理解した者は、御父の御心を理解している」のことだと分かります。

試論:旧約聖書を読む際の注意点を140文字以内で

【問】旧約聖書を読む際に注意すべき事柄は何ですか。
【答】『聖書』といっても、その中の登場人物の皆が皆、聖なる人ではないのは当然ですが、特に旧約聖書は偉大な王と見なされたダビデやソロモンすら女性関係の方面では見るに堪えないだらしなさで、自分たちの業績を台無しにしかねないほどでした。

【追記】

【問】カトリックが近代まで一般信者に旧約聖書を読ませることに消極的だったのはなぜですか?
【答】主イエスが世に来られる前と後とでは信仰の規範となる事柄が違っているのに、十分それを理解せぬまま「旧約聖書に書かれていることなら全て正しい」と真似を始めるうっかり者が出るのを防ぐためです。

(注)別エントリー「試論:『旧約聖書とカトリック』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/22022

【問】では、旧約聖書に書かれていることで現代のキリスト信者が真似しなくてもいいこととは何ですか?
【答】例えば一夫多妻制、豚肉食禁止、割礼、エルサレム神殿の建設、十分の一の献(ささ)げ物やいけにえ、預言者への従順、〔日曜日の方ではなく〕土曜日(旧約の安息日)を尊重すること、等です。

(注)別エントリー「試論:『安息日と主日との違い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12017

(注)別エントリー「試論:『土曜と日曜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12677

【問】旧約聖書を読んでいると戦争の話や人がたくさん死ぬ話が多過ぎて辟易します。こんなものを求めるためにキリストに従ったつもりはありません。
【答】戦場で敵を倒して勝ち誇る替わりに主イエスは十字架上で自分の命を献げられ、敵を倒して勝ち誇る時代はもう終わったことを人々に示唆されました。

(注)別エントリー「試論:『旧約聖書への抵抗』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/22872

試論:「その男はあなただ」を140文字以内で

サムエル記下12章で主が預言者ナタンをダビデに遣わされた際、ナタンは喩え話でダビデに忠告したが、家来の妻に横恋慕して日頃の知恵が曇っていたダビデは自分が指差されていることに全く気付かなかった。人間は他人の目(=心)の中のおが屑には気付いても、自分の目(=心)の丸太には気付かない。

【追記】

【問】主はなぜ心のともし火は目(マタイ6章22節)だと仰せになったの?
【答】人間の心の中は、無意識のうちに本人の目つき・まなざしによって、周囲の人々に伝わってしまうものです。日本にも、「目は口ほどに物を言う」という言い回しがあります。主は、自分の内面を清く保つよう教えられました。

福音書を避ける人は主イエスを拒む人

主イエスはヨハネ12章48節で、「わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、わたしの語った言葉が終わりの日にその者を裁く」と仰せになった。ここにおいて、四福音書の中で御自身が実際に仰せになった御言葉を受け入れない者は御自身を拒む者に等しいと、主イエスは宣言されている。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『主よ、主よ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5380

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9949

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

(注)別エントリー「試論:『世の光』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5388

日本語でも「人としての道から外れる」などと表現するように、主イエスが「わたしは道」と仰せになる際の「道」とは、誰もがそこを通って進んで行くべき人間としての道筋、つまり御父である神の御前における、人間としてのあるべき姿(人間としてのあり方や生き方の規範・模範)という意味合いである。

ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは「御自分でお話しになる神」の意味で《天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神》主イエスを表す称号であり、直接お話しになった記録が福音書である。福音書を読まないことは主イエス・キリストを理解しようとしないことに等しい。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは《天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神》主イエスを表す称号であり主が直接人々にお話しになった御言葉を記したものが福音書である。福音書を顧みず他のものばかりに目を奪われ続けるならばイエス・キリストがわからなくなる。

(注)別エントリー「試論:『イエスは全人類の模範』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5948

エレミヤ23章は、偽預言者たちが「託宣」を捏造して「わが民がわたしの名を忘れるように仕向ける」と、主なる神がお嘆きであることを記した。一ヨハネ4章も、キリストの弟子を自称する人々がキリストについて沈黙する一方で世間的な事柄だけ語っていることを、「反キリストの霊」と呼んで非難した。

(注)別エントリー「試論:『偽預言者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7106

キリスト教の信仰に関して使徒言行録は、度々これを「道」と表現し(9章2節、18章25節、同26節、19章9節、同23節、22章4節、24章14節、同22節)、ヨハネ14章6節で主イエス御自身も御自分を「道」と表現され、御自分を通らなければ天の御父のもとには行けないと仰せになった。

エレミヤ23章25節以下では、偽預言者は真の神の御言葉を忘れさせるよう仕向ける点で非常に悪質と説き、28節は偽預言者を「もみ殻」に喩えた。詩編1編4節では「もみ殻」は神に逆らう者を意味し、6節は「神に逆らう者の道は滅びに至る」と記す。マタイ3章12節とルカ3章17節も同じである。

主はマタイ4章4節で、「人はパンだけで生きる者ではなく、神の口から出る全ての言葉によって生きる」と申命記8章3節を踏まえ宣言された。イザヤ1章は主の口による宣言(20節)として「あなたの罪が緋のようだとしても雪のように白くなれる」(18節)と説き、悪との決別を厳命する(16節)。

(注)別エントリー「試論:『御言葉と不可分のパン』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11152

(注)別エントリー「試論:『厳密な意味の公的啓示』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10192

(注)別エントリー「試論:『主に聞き従うこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5685

(注)別エントリー「試論:『すべて守る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5609

二テモテ3章でパウロは「終わりの時」の人々の姿を記した。自分本位で金銭を愛し、嘘をつき、神を畏れず嘲り、両親に従わず、恩知らずで、他人を侮り、情け容赦なく、強情で、中傷し、節度がなく、残酷で、善を行わず、裏切り、軽率かつ高慢、信仰を装いつつ実際は快楽を愛し、事実上は棄教している。

(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8105

(注)別エントリー「試論:二ペトロ2章の『偽教師』140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10808

黙示録12章の「女」と「竜」の対立

創世記3章15節で神は、サタンと決定的に対立する一人の女性が将来現れることを予告された。黙示録12章では、それは救い主の母のことだと啓示された。救い主は人々を罪や悪から救うために生まれるので、その母となった女性が存在の最初の瞬間から罪や悪とは完全に無縁であるべきなのは当然である。

(注)別エントリー「神のお告げ:受胎告知と無原罪の御宿り」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4835

黙示録12章の女は5節で、諸国民を鉄の杖で治める男の子を産んだ。かつてモーセは神の杖を槌として用い岩を打ち砕いた。エレミヤ23章29節は御言葉を、岩を打ち砕く鉄槌に喩える。故に黙示録の鉄の杖も御言葉の象徴的表現で、男の子は「神の御言葉」主イエス・キリスト、女はその母マリアを指す。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

黙示録は古代のヘブライの世界観に従い人間を「土の器」(2章27節)と表現し、さらにそれを踏まえ「諸国の民の上に立つ権威」(同節)を「鉄の杖」(同節、12章5節)に喩える。12章で「鉄の杖」は神の御独り子たる主イエスの王権を象徴し、最後までイエスに忠実だった人々は主の王権にも与る。

(注)別エントリー「試論:『女』とサタンの対立を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10314

(注)別エントリー「試論:『女』と『残りの者たち』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10682

カトリックで聖母を指す表現「天の門」は、聖書では創世記28章17節にのみ登場し、同節は主がおられた場所を「なんと畏れ多い場所」「天の門」と呼ぶ。主を宿した「胎」(ルカ11章27節)であるマリアを、同様に《なんと畏れ多い女性》と感じるのは、古代のイスラエル人の感覚として当然である。

(注)別エントリー「試論:ルカ11章28節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5786

(注)別エントリー「試論:『神の都市』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6648

(注)別エントリー「試論:『偉大なこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7651

(注)別エントリー「試論:『受肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7842

エレミヤ18章の有名な「陶工と粘土」の話にある通り、「土の器」(二コリント4章7節、黙示録2章27節、哀歌4章2節、イザヤ45章9節)とは、人間〔の特に脆さと弱さ〕を表す表現である。古代のヘブライ人の世界観(創世記3章19節参照)では人間の肉体は土から取られて土に返る定めにある。

詩編31編でダビデは、さまざまな意味で衰えてきた自分の肉体を「壊れた器」(13節)と表現した。また二コリント4章7節でパウロは、人間の「外側」つまり「肉」の部分を、「土の器」と表現した。古代のヘブライ人の世界観では人間の肉体は土から取られて土に返る(創世記3章19節)定めである。

主の御言葉はエレミヤ23章29節の啓示では「岩を打ち砕く〔鉄〕槌」にたとえられた。出エジプト記では神の杖(4章20節)もまた、「槌」として岩を打ち砕く(同17章5節以下)。故に黙示録の「〔土の器を打ち砕く〕鉄の杖」(2章27節、12章5節)は、主の御言葉を象徴的に表す比喩である。

ヨブ19章2節で自分を尋ねて来た友人たちに対しヨブは、彼らの言葉が自分を打ち砕くと答え、エレミヤ23章29節で主は、「わたしの言葉は、岩を打ち砕く鉄槌のようだ」と仰せになった。黙示録2章27節の「土の器(=人間)を打ち砕く鉄の杖」とは実は「神の御言葉」の比喩の一つであると分かる。

エレミヤ23章29節「わたしの言葉は火のようではないか」を踏まえれば、ルカ12章49節「わたしは地上に火を投ずる」の「火」は「神の御言葉」を指す。エレミヤ23章29節「わたしの言葉は岩を打ち砕く鉄槌のようではないか」を踏まえれば、黙示録2章27節「鉄の杖」も「神の御言葉」を指す。

(注)別エントリー「試論:『御言葉は心を燃やす火』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11034

マタイ13章34節以下に「これら全てをイエスはたとえで群衆に語られ何事もたとえを用いずには語られなかった。それは預言者の啓示が実現するためだった。『わたしは口を開き初めの時からの秘密をたとえで語る』(詩編78編)」とある以上、「字義通りの解釈」を強調するのは不自然で眉唾物である。

(注)別エントリー「試論:『剣』と『言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7807

ヨハネ2章5節は、まさに御子イエスの「時」が近づき自分の許からいよいよ世に御子を送り出すに当たっての、この世の人々に対する、母マリアの強い願いと最後の伝言を記す。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」。これを最後に新約聖書には、母が発した言葉は記録されてはいない。

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

主イエスはマタイ20章28節で御自分が人間となられた目的を「仕えられるためではなく仕えるため」と仰せになった。その三十年以上前、ルカ1章38節で救い主の母となることを告知された女性は「わたしは主のはしため」と答え、彼女が「救い主の母」という立場を的確に理解していることが記される。

(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7479

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

試論:「アブラムの旅立ち」を140文字以内で

【問】神なる主が語りかけられたのでアブラムは旅立ったのですか?
【答】創世記はバベルの塔建設の終わりを記しますが人々が悔い改めたとは記さず、力こそが正義という思想はバビロンやアッシリアに残りました。アブラムは以前から故郷に蔓延するそんな風潮に違和感を抱いていたのではないでしょうか。

【追記】

古代ユダヤの歴史家ヨセフスは、バベルの塔建設にアスファルトが用いられた理由について、ノアの時代のような大洪水が来ても押し流されないよう強化するためだったと記し、ニムロド(創世記10章8節)及び彼の王国の国民が、神に対する挑戦的な意図をもってバベルの塔を建設していたことを説明する。

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

試論:「嫌がらせ」を140文字以内で

【問】レビ19章はなぜ14節で、耳や目の不自由な人に嫌がらせをする行為を禁じたの?
【答】同章では、18節で隣人愛を命じますが、隣人愛が隣人に嫌がらせをする行為全般(17節等)とは対極にあることを具体例で教えるためです。この章には他にも、嫌がらせの具体的な例がいくつも列挙されます。

【追記】

【問】詩編15編は、主の幕屋に共に住むことを望む人々に対して、どんなことをしてはいけないと教えていますか?
【答】「相手が困ったり怒ったりすることを、あえて口にしたり行なったりして面白がること」を禁じています。主イエスも福音書で、幼い子供の無垢を傷つけてはならないと教えられました。

(注)別エントリー「《キリストの律法》(マタイ7章12節)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18013

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

試論:「堕落の町マグダラ」を140文字以内で

【問】主はマタイ11章でコラジン・ベトサイダ・カファルナウム等のガリラヤ湖畔の町を叱られましたがマグダラの名はありません。
【答】マグダラは乱れた風紀で悪名高く、周囲から「あそこは、あなたの行くような町ではない」「行っても得るものが期待できない」と忠告されていたことが推測されます。

(注)別エントリー「ベタニアのマリア(マグダラのマリア)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/23927

【追記】

ベタニアのラザロの姉妹マリアは、主イエスによって「七つの悪霊」を追い出され主に最も忠実な女性たちの一人に変わったが、かつて彼女が歓楽に耽った風紀の乱れた町マグダラは彼女の代名詞となり、彼女もまたそれを甘んじて受け続けた。自分の間違っていた過去を忘れることなく戒めとするためである。

ヨハネ10章30節

一ヨハネ2章23節は「御子〔主イエス〕を否定する者は、誰であろうと、御父である神にも結ばれてはいません」と記す。主イエスがヨハネ10章30節で「わたしと御父とは一つ」、同14章6節で「誰であれ、わたしを通らなければ、御父の許にはたどり着けない」と仰せになる以上は、当然の話である。

主はヨハネ13章34節で「互いに愛し合いなさい」と「愛の掟」をお授けになったが、「わたしがあなたがたを愛したように」と付け加えられることによって、御自身を模範(全人類のあるべき姿)としてお示しになった。「言(ことば)」である主が「肉」つまり人間となられた意義の一つがここにあった。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは「御自分でお話しになる神」の意味で《天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神》主イエスを表す称号であり、直接お話しになった記録が福音書である。福音書を読まないことは主イエス・キリストを理解しようとしないことに等しい。

主イエスをヨハネ1章1節は「言(ことば)」つまり《人々の前に御姿を現され御自ら御教えをお話しになる神》と呼ぶ。主イエスに従う人々にとって「神の御言葉」とは、まず何より主イエス御自身の仰せである。聖書やキリスト教について話題にしても肝心の主イエスの御教えを避ける人々は眉唾物である。

一ヨハネ4章は、信者を自称しながら世間の事柄ばかり話題にして主イエスの福音の中身に関して頑に触れようとせず沈黙する人々を、「偽預言者」「反キリストの霊」などと呼ぶ。2章19節は「彼らはわたしたちから去って行った」「元々仲間ではなかった」「仲間ならとどまっていた」とその末路を記す。

主はヨハネ14章23節で、「わたしのことを愛している者なら、わたしの言葉を守るであろう。わたしの父はその人を愛され、父とわたしはその人のところへ行って一緒に住む」と教えられた。福音書の中の主の御言葉を気にも留めようとしないなら、本当は主を愛してなどいないと見なされても仕方がない。

(注)別エントリー「試論:『主の御言葉の権威』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9025

主イエスはヨハネ10章30節「わたしと御父とは一つ」38節「わたしは御父の内にあり御父はわたしの内におられる」と教えられ14章でも繰り返され(10節、11節、21節)16章15節「御父の持っているものは全てわたしの持っているもの」で、御父と御自分との間に差異はないと仰せになった。

ヨハネ14章8節のフィリポの言葉「主よ、わたしたちに御父をお示しください」に対しコロサイ1章15節では「御子は、見えない神の姿」と表現した。「見えない神」とは御父であり「姿」とは《生き写し》というニュアンスをも含んでいる。ヘブライ1章3節は「神の本性の完全な具現」などと表現した。

主はヨハネ10章30節で「わたしと父とは一つ」と仰せになった後、17章では弟子たちのために天を仰いで祈られたが、それは御父と御自分が「一つ」であるように、弟子たちもまた「一つ」となるためであった(11節、21節〜23節)。使徒言行録4章32節「信じた人々の群れは心も思いも一つ」。

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

ニケア・コンスタンチノープル信条「父と一体」はヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」と38節に拠り、御父と御子の間には矛盾・対立・齟齬の類は一切ないことを表す。ギリシア神話では最高神ゼウスと父クロノス、クロノスと父ウーラノスの父子相剋が存在するが、キリスト教には全く存在しない。

主はマタイ11章27節で、全てのことは御父から御自分に任せられていると仰せになった。これは、既にダニエル7章13節以下で啓示された事柄であり、マタイ28章18節やルカ10章22節やヨハネ3章35節や同13章3節等、福音書では事ある毎に強調される「真理(ヨハネ14章6節)」である。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

《御父である神、主》と《御子である神、主イエス》とは、詩編110編1節では御父は「主」、御子は「わが主」でありマルコ12章36節で御父は「主」、御子はダビデの言う「わたしの主」である。ヨハネ1章1節では御父は「神」、御子は「言(ことば)」であり、「言は神であった」と記されている。

《御父である神、主》と《御子である神、主イエス》とは、詩編110編1節では御父は「主」、御子は「わが主」でありマタイ22章44節も御父は「主」、御子はダビデの言う「わたしの主」である。ルカ1章43節でエリサベトは詩編110編1節を踏まえ、マリアを「わたしの主のお母さま」と呼んだ。

(注)別エントリー「マリアを『神の母』と呼ぶ聖書的根拠」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4492

(注)別エントリー「試論:『神の母であること』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6079

(注)別エントリー「試論:『救い主の母であること』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7510

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは道」と仰せになり、「わたしを通らなければ、誰であれ御父には到達できない」と続けられた。パウロはエフェソ2章14節でユダヤ人と異邦人をこの点において隔てる壁はないと記し、ローマ10章12節でも「ユダヤ人とギリシア人の区別はない」と明言している。

主イエスの御前でユダヤ人と異邦人の「区別」が存在しないことはエフェソ2章14節以下、使徒言行録15章9節「わたしたちと彼らの間に何の差別もなさいません」、ローマ3章29節「神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもあります」、一コリント12章13節、ガラテヤ3章28節以下等。

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは道」と仰せになり、「わたしを通らなければ、誰であれ御父には到達できない」と続けられ、また御昇天前にマタイ28章19節で「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じられた。パウロもローマ10章12節で「ユダヤ人とギリシア人の区別はない」と説く。

主が「わたしは道」(ヨハネ14章6節)と仰せになる場合、自身が御父へ通じる唯一無二の存在であると示唆するだけではなく、日本語の「人としての道から外れる」と同様に、誰もがそこを通って進んで行くべき人間としての道筋つまり御父である神の御前における模範(同13章15節)の意味をも含む。

試論:ヨハネ10章24節の意味を140文字以内で

【問】イエスの敵たちは「あなたがメシアなら、はっきりそう言いなさい」と主に促しましたが、返答次第では考えを改めるつもりだったの?
【答】いいえ。主から言質を取った上で(30節参照)、「自分を神に等しい者と位置付けるこの男は冒涜者だ」(5章18節参照)と、石を投げて殺すつもりでした。

ヨハネ10章22節「神殿奉献記念祭」

福音書に救い主の誕生日の記述はないが、旧約聖書のハガイ2章には「神殿の礎」すなわち《神の家の隅の親石(=主イエス・キリスト)》が備えられる日として、古いヘブライの暦で「第九の月の二十四日」という冬の日付が何度も啓示される。この日はユダヤ教のハヌカ(神殿奉献記念祭)と同時期である。

キリスト教が主の御降誕を祝う時期に、ユダヤ教もハヌカ(ヨハネ10章22節)を祝う。ハヌカは、紀元前二世紀にエルサレムの神殿が清められ新生したこと(一マカバイ4章52節)を祝う。主もヨハネ2章で御自身の体を神殿に喩えられた。キリスト教の伝統では、主の御降誕はハヌカと同時期であった。

エズラ10章9節以下では、ユダとベニヤミンの男性たちが異邦人の娘たちとの結婚を祭司エズラに咎められ、エルサレム神殿の広場に座っていたと記す。季節はヘブライの暦の「第九の月の二十日」と冬で、恐れと雨とで人々は震えていた。この時の雨量は大集会が雨天でも野外で決行可能な程度だと分かる。

主イエスはマタイ21章42節で、詩編118編22節を踏まえ御自身を「家」の《隅の親石》に喩えられた。他方ハガイ2章は《主の神殿(=神の「家」)の基》が置かれる日(18節)としてヘブライ人の暦で「第九の月の二十四日」と冬の日付を何度も強調する。これはユダヤ教のハヌカと同時期である。

ハガイ2章では「神殿の基」(18節)が備えられる日である、古いヘブライの暦で「第九の月の二十四日」という日付が何度も提示される。この日は季節としては冬であり主イエスは御自身〔の体〕を「神殿」(ヨハネ2章19節)あるいは「〔神の家の〕隅の親石」(マタイ21章42節)等と表現された。

有名な「隅の親石」という表現をテーマにしてペトロの手紙一の2章では解説を行う。まず6節で「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することがない」とイザヤ28章16節を引用し、一ペトロ2章7節ではこれを主イエスの境遇と関連付けて説明する。

主はマルコ12章10節で、「家を建てる者の捨てた石が隅の親石となった」と詩編118編22節を引用されて、イザヤ28章16節の預言「わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の貴い隅の親石。信じる者は慌てることがない」の御自身における成就を御説明された。

ハガイ2章は何度も「第九の月の二十四日」を強調する。これは紀元前六世紀にエルサレムで神殿の基が置かれた日(18節)であり、また紀元前二世紀の神殿奉献(一マカバイ4章52節)とも無関係ではあり得ない。この時期にユダヤ教ではハヌカを祝い、他方キリスト教では主の御降誕を同じ時期に祝う。

バビロン捕囚後の古代ユダヤにはエジプト以来の暦(申命記16章1節:アビブの月)とバビロンの暦(ネヘミヤ2章1節:ニサンの月)の二つがあった。これを踏まえれば、ハガイ2章「第九の月の二十四日」と一マカバイ4章52節「キスレウ(第九)の月の二十五日」とは同一の日を指す蓋然性が大きい。

ルカ24章のエマオでの御出現において主は、旧約聖書とは御自分について証しするものであり、実際その詳細について「全体」の説明を始めると、何時間あっても語り尽くせないことをお示しになった(27節)。主はユダヤの人々に対して以前にも同じ事柄をお話しになられていた(ヨハネ5章39節等)。

主イエスはヨハネ5章39節で「あなた方は〔旧約〕聖書中に永遠の命が存在すると考え〔旧約〕聖書を研究するが、〔旧約〕聖書はわたしに関してあかししている」と仰せになり、御自分とは無関係の目的で〔旧約〕聖書を研究しても、本当に重要な真理には全く到達することができないと、お教えになった。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『真理は街頭でよろめく』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12792

(注)別エントリー「試論:真理(まこと)の反対は?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12668

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

(注)別エントリー「試論:聖書研究の目的を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8447

最後に、非常に重要な問題であるため、あえて重ねて次の事柄を強調しておく。
エルサレムそして第二神殿の滅亡とそれに関連する諸々の出来事をもって旧約聖書の全ての預言がことごとく成就することを、ルカ21章22節において主イエス・キリストは宣言されている。
従って旧約聖書のいかなる預言も、二世紀以降の歴史的出来事とは基本的に関係はない。
ましてや21世紀の現代あるいは近未来の世界情勢とは関わりがあろうはずはない。

(注)別エントリー「試論:十分の一献金がNGの理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12467

(注)別エントリー「試論:携挙がない理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4703

(注)別エントリー「試論:有人気球と『空中』の拡大を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10279

(注)別エントリー「ヘブライ語聖書は『空中』とは表現しない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4223

(注)別エントリー「『携挙』:ギリシア語聖書本文で徹底検証【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7753

試論:「優しくて厳しい主」を140文字以内で

出エジプト記34章で主の栄光がモーセに現わされた際、御自分が優しさと厳しさを兼ね備えた神であると主はモーセに明らかにされた。ダビデは詩編18編21(20)節以下で、主は優しい人には優しく厳しい人には厳しいと歌った。その人が隣人に敬意を示さない限り、主はその人の信仰を認められない。

(注)別エントリー「試論:『選ばれた人は選んだ人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8034

【追記】

主はマタイ22章で律法中の最も重要な掟の第一は神への愛、第二は隣人愛と仰せになった。申命記10章でモーセへの戒めの再授与の際、12節以下では神への愛が命じられ、19節では「遠くからやって来た者(寄留者、新参者、改宗者)」という表現で隣人愛(レビ19章18節、34節)が命じられた。

(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1982

マタイ22章36節以下の「律法の中で最も重要な掟はどれか」の答えと、ルカ10章25節以下の「永遠の命を得るために何をすればよいか」の答えは一致する。またマルコ12章32節は「神は唯一であり、他に神はない」という事柄をギリシア語本文でアレテイアすなわち真理と表現してこれを強調する。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

マタイ6章14節の主の御言葉「あなたが他人を容赦するなら、天の父もあなたの過ちを容赦される」を聞いた当時のヘブライ人はすぐ詩編18編21(20)節以下を連想し、また「神は高慢な者を敵とし、へりくだる人に恵みをお与えになる」(箴言3章34節、一ペトロ5章5節)も連想したはずである。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

試論:何も持たず世を去るとは?を140文字以内で

【問】一テモテ6章7節が「世を去る時は何も持って行くことができない」と記す理由は?
【答】わたしたちは世を去る時、それまで築いた財産ばかりか地位や名誉や名声や自分のプライドさえ持って行くことはできず、死後に主イエスから問われるのは隣人に優しかったか辛く当たったかそれだけだからです。

【追記】

【問】詩編15編は、主の幕屋に共に住むことを望む人々に対して、どんなことをしてはいけないと教えていますか?
【答】「相手が困ったり怒ったりすることを、あえて口にしたり行なったりして面白がること」を禁じています。主イエスも福音書で、幼い子供の無垢を傷つけてはならないと教えられました。

(注)別エントリー「《キリストの律法》(マタイ7章12節)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18013

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

試論:『コヘレトの言葉』の結論を140文字以内で

【問』『コヘレトの言葉』は諸行無常を説くだけの書ですか?
【答】いいえ。結論は「神を畏れ、その戒めを守れ」(12章13節)です。人間の死後、その霊は神の御許に帰ると同章7節は説き、来世に思いを馳せるよう勧めています。「悪を憎むことこそが主を畏れること」(箴言8章13節)だからです。

(注)別エントリー「試論:『マルタと復活』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/24760

試論:「良い羊飼い」を140文字以内で

マルコ6章34節は、主イエスが飼い主のいない羊のような大勢の群衆の有様を深く憐れまれたと記す。他方、詩編23編やイザヤ40章11節は「主は羊飼い」と説く。ヨハネ10章11節では主イエスも「わたしは良い羊飼い」と仰せになり、理由を「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と御説明された。

(注)別エントリー「試論:『飼い主のいない羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10816

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7479

【追記】

エゼキエル18章「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は仰せになる。彼が悪から立ち帰って生きることを喜ばないだろうか。お前たちが犯した全ての背きを投げ捨てて新しい心と霊を造り出せ。どうしてお前たちは死んでよいだろうか。お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」。

(注)別エントリー「試論:エフェソ4章『新しい人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5730

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

(注)別エントリー「試論:『ただ悪を行わないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12258

試論:「ファリサイ」の由来を140文字以内で

シリア王の暴政に対し反乱を起こしたユダ・マカバイの一族には、ハシダイ(敬虔派)と呼ばれる人々が同志として合流した。マカバイの死後、彼の一族ハスモン家が権力を独占するとハシダイは袂を分かって離れ、むしろ反ハスモン家の運動に走る人々も多く、彼らは新たにファリサイ(分離派)と呼ばれた。

試論:「マルタと復活」を140文字以内で

【問】ヨハネ11章24節はマルタが「終わりの日の復活」を信じていたと記し、使徒言行録23章8節はファリサイ派が復活を信じていたと記します。
【答】イザヤ25章8節やその前後と同26章19節を、古代のユダヤ人の多くが「復活」の預言と捉えましたが、サドカイ派はそうではありませんでした。

(注)別エントリー「試論:『終わりの日』の解釈を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/24739

【追記】

【問】マルタやファリサイ派が信じた「復活」とは?
【答】《アダムの時代から自分たちの時代に至るまで、この世で善く生きた義人たちの霊魂は死後「アブラハムのふところ」(ルカ16章)で休息した後に、イザヤ65章17節以下で預言された場所へ主によって迎えられ、永遠に生きる》というものです。

【問】「アブラハムのふところ」という場所は現代に生きるわたしたちも死後に行く場所ですか?
【答】いいえ。アダムの時代から主イエスの御復活の時までの義人たちが行く場所です。この義人たちは、主の御復活つまり「復活の体」の創造の際に自分たちも「復活の体」を与えられて、天の国に入りました。

試論:ののしり返さない主イエスを140文字以内で

一ペトロ2章は御受難の際のキリストの模範(21節)として「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず」(23節)と記している。このように主はマタイ5章39節の御言葉をみずから実践された。一テサロニケ5章15節でパウロが記した事柄は、御受難の際の主の模範に由来している。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

試論:「終わりの日」の解釈を140文字以内で

【問】ヨハネ6章「命のパン」の議論で「終わりの日」という表現が登場しますが、「人類最後の日」「終末時代」の意味ですか?
【答】該当箇所のギリシア語本文と同じ表現は古代ギリシア語訳創世紀49章「後(のち)の日」を表す際も登場し、「最終的には(将来的には)〜」のニュアンスで使われます。

【追記】

【問】つまりは「終わりの日」といっても、「人類最後の日」「終末時代」等のおどろおどろしいイメージと切り離してよいのですね?
【答】キリスト信者にとって「終わりの日の復活」とは、「復活の体」を得て「永遠の命」つまり天国の福楽に与ることですから、心配を要する話は何一つとしてありません。

試論:「狭い門」が「狭い」理由を140文字以内で

【問】ヨハネ10章9節「わたしは門」を踏まえれば、マタイ7章13節の「狭い門」も主御自身と考えられます。この「門」はどうして「狭い」の?
【答】マタイ7章21節「わたしに向かって『主よ、主よ』と呼ぶ者の全員が天の国に入れるわけではなく、わたしの天の御父の御心を行う者だけが入れる」。

試論:「へりくだり」と「恵み」を140文字以内で

【問】なぜ聖母マリアは受胎告知の際に、「わたしは主のはしためです」を承諾の意思表示としたの?
【答】箴言3章34節「神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みをお与えになる」を鑑みれば天使に「恵まれた方」とまで呼びかけられたことに対する姿勢として適切なのは、「へりくだり」だからです。

【追記】

【問】マラキ3章19節は、高慢な者と悪を行う者を同列に論じますが、なぜですか?
【答】詩編1編1節の通り旧約の民は神に従わぬ者と罪人と高慢な者を同列に扱いました。エバは創世記3章で神のようになることを望みましたが、マリアはルカ1章38節で自分は主のはしために過ぎないと謙遜しました。

詩編1編1節は神と共にいるための必要三条件を記す。一つ目は神に逆らう人に同調しないこと、二つ目は罪や悪に走らないこと、三つ目は高慢心を捨てることである。高慢で周囲の人々を粗略に扱う人は、いつか必ず神をも粗略に扱う。神の御独り子の母となった女性が高慢心とは無縁であるのは当然である。

【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。

試論:「イエスの両親」を140文字以内で

【問】神の御独り子であられる主イエスは、人間となって世に来られた際、なぜマリアとヨセフを両親とされたのですか?
【答】この二人が古代のイスラエルに存在した全ての夫婦の中で、神なる主に対する忠実さという点で、完全に飛び抜けていたからではないでしょうか。それ以外の答えはないと思います。

試論:一ペトロ5章「バビロン」を140文字以内で

【問】一ペトロ5章13節「バビロン」をローマと解釈する人々がいます。
【答】この手紙は「離散」(同1章1節)つまりステファノ殉教後エルサレムから追い散らされたキリスト信者のユダヤ人たちに対して、都に残った使徒を代表してペトロが書き送ったもので、「バビロン」はエルサレムを暗示します。

【追記】

【問】では、なぜペトロはエルサレムを「バビロン」と呼んだのですか。
【答】キリストの敵たちは、かつて主イエスを死に至らしめましたが、この時は主イエス一人だけが標的でした。今や弟子たち全てが標的となり、ユダヤ人は大昔にバビロンへ連行された頃のように、真の神を見失いつつあったからです。

(注)別エントリー「試論:『大淫婦』の正体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15895

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

【問】ステファノ殉教後キリスト信者がエルサレムを追われた時、使徒たちだけは都に残りましたが、なぜマルコも、使徒たちと都に残ったのですか?
【答】マルコは、ペトロから「わたしの子」と呼ばれるほどに近しい間柄で、この時期はシルワノ共々、ペトロが手紙を書く際に翻訳を手伝っていたようです。

【問】ペトロと近しかったということは、マルコが福音書を書いた際の主要な情報源はペトロ、ということになりますか?
【答】マタイは十二使徒の一人だったので自分自身が情報源でした。主が湖上を歩かれた際に真似しようとしたペトロが溺れかけた話を、マタイは書きましたが、マルコは書いていません。

【問】マルコ14章51節以下に亜麻布を脱ぎ捨てて逃げる若者の話がありますが、これはマルコ自身のことですか?
【答】当然そういう解釈がある一方で、この若者とは男性信者の中で唯一ゴルゴタの主の十字架の下に付き従ったヨハネ(十二使徒の一人)ではないか、という別の解釈もまた存在しています。

試論:エゼキエル38章「家畜」を140文字以内で

エゼキエル書38章で預言されている戦争において「ゴグ」の侵略目的は、「金銀」や「財産」や「家畜」の「略奪」ではないかと周辺から「非難」を受ける性質のものであり、現代人がイメージする近未来の戦争とは程遠く、まして家畜の略奪が話題にされるような戦争が「世界最終戦争」であるわけがない。

(注)別エントリー「予備的考察:いわゆる『エゼキエル戦争』【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15520

【追記】

エゼキエル書38章から39章に言及される軍隊の主力は騎兵部隊で現代人がイメージする近未来の戦争とは程遠く、また軍隊全体の武装も大盾・小盾・剣・兜・弓矢・棍棒・槍の類いで前近代的と形容せざるを得ず、この戦争を「世界最終戦争」とか「終末預言」とか言い立てるのは羊頭狗肉もはなはだしい。

エゼキエル書38章12節はゴグが「地上(イスラエル)」の「中心(エルサレム)」を襲う主要目的の一つに、「財産」を挙げる。エルサレムが圧倒的に富裕な「中心」たり得るのは、神殿税や献金の集まる神殿の所在地だからであり、従ってこの戦争が勃発するのはエルサレムに神殿が存在する時代である。

約二千六百年前にエゼキエルが「マゴグのゴグ」預言の啓示を受けて以降、「メシェク」を現在のロシアの首都モスクワと関連付ける解釈は二千年以上の間、存在しないに等しかった。「メシェク=モスクワ」説は約五百年前に始まった比較的新しい解釈だが古代史や考古学の立場からは空想も同然の話である。

(注)別エントリー「試論:エゼキエル戦争を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4921

ルネサンスと宗教改革の後ヨーロッパでは「ヨーロッパ人はノアの子ヤフェトの末裔」とする説が広まり、創世記の系図上の人名と現実に存在する国々とを組み合わせる様々な説が提唱されたが、東欧を中心にロシアの膨張を警戒する諸国で「メシェク=モスクワ」説が流行したのも、ある意味では当然だった。

エゼキエル書38章では北方の諸民族を中心とした大軍団がイスラエルに侵攻して一大危機が到来すると預言されているが、39章の最後ではこの戦争の後にはイスラエルが元の繁栄の時代に戻るとも預言されていることから、この戦争は「世界最終戦争」ではありえないし、この預言は「終末預言」でもない。

ルカ21章22節において、主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると明言されており、それは紀元七〇年に現実のこととなった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代や近未来の世界情勢に関して旧約聖書の預言から考える行為は無意味である。

旧約聖書の預言は第一義的に主イエス・キリストの到来及びその前後までの歴史的出来事をあかしするためのものであり、キリスト到来から約二千年後に生きる現代人が国際情勢を読み解くためのものではなく、国際情勢分析など本来の意義とは無関係の完全な逸脱行為であり、真理には絶対にたどり着けない。

バビロン捕囚からの帰還と主イエス・キリストの御降誕との間の約五百年で、アンティオコス四世エピファネスによる迫害ほどイスラエル人にとって苛酷な惨劇はなかった。エゼキエル書38章で預言されている危機的状況をマカバイ記の時代の惨劇とは全く無関係と捉えるのは、やはり解釈として無理がある。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

エゼキエル書38章には「マゴグのゴグ」預言があり、13節「タルシシュの商人」に関して古代のギリシア語聖書は「タルシシュ」を「カルタゴ」と解釈したが、商業国カルタゴは紀元前146年には既に滅亡しており、従って「マゴグのゴグ」預言はカルタゴ滅亡以前の時期に実現していなければならない。

19世紀前半の作家エドガー・アラン・ポーは、紀元前二世紀のシリア王アンティオコス四世エピファネスを題材にした、「エピマネス(狂人)」という作品を書いたが、その冒頭には「アンティオコス・エピファネスは、一般的に預言者エゼキエルのいうところのゴグと見なされている」などと記されている。

試論:「蛇をつかみ」???を140文字以内で

マルコ16章18節「蛇をつかみ」の「蛇」は、創世記3章やシラ21章2節から「極悪な罪人」の比喩である蓋然性が高い一方、ミカ7章17節の「蛇」のように、神である主による奇跡に圧倒されて茫然自失となり、這いつくばって屈服し、ただ恐れおののく「諸国の民」(同16節)の姿の比喩でもある。

【追記】

後にはペトロと並称されるほど初代教会の発展に貢献した使徒パウロも、当初は「サウロ」としてキリストの弟子たちを迫害する側にいたが、使徒言行録9章では自分の周囲を照らす突然の天からの光に圧倒されて地面に倒れ、「なぜ、わたしを迫害するのか。起きて町に入れ」という主からの御声を耳にした。

(注)別エントリー「試論:『使徒パウロ』名前の由来を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9880

試論:「栄光の座に着く時」を140文字以内で

主イエスはマタイ19章28節で、「新しい世界になり、人の子が栄光の座に着く時」という言い回しを用いられた。主は御受難と御復活の間に「新しい天・地・エルサレム」を創造され、御自身の復活の体の創造をもって完成された。また御復活と御昇天を経て神の右の座に着かれた(マルコ16章19節)。

(注)別エントリー「試論:『新しい天と新しい地』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15361

(注)別エントリー「主の御復活とともに創造された事柄とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15917

【追記】

イザヤ書は42章以降で救い主の様々な御業を預言し、65章17節以下では、究極の目的である「天の国」つまり「新しい天・地・エルサレム」の創造を記す。ヨハネ14章2節以下で主イエスはそれを準備するために自分は出発すると予告された。この「天の国」は、「復活の体」の創造をもって完成した。

(注)別エントリー「試論:『天の国は近づいた』意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16775

試論:「万物の創造主」と「光」を140文字以内で

【問】パウロはなぜ、使徒言行録9章でイエスを「主」だと即座に認識できたの?
【答】パウロを照らした「天からの光」は彼の視力を奪うほど強力で圧倒的な光量でしたが、古代のヘブライ人パウロは即座に創世記1章3節「光あれ」を連想し、このような光を伴う方は万物の創造主以外ないと確信しました。

試論:「神の基準は憐れみの業」を140文字以内で

主イエスはイザヤ28章16節や詩編118編22(21)節を踏まえて御自分を「隅の親石」と呼ばれた。古代ギリシア語訳イザヤ28章17節では、神なる主が個々の人間を評価される基準を「〔わたしは〕憐れみの業を分銅とする」と記す。ルカ6章38節「あなたたちは自分の量る秤で量り返される」。

(注)別エントリー「試論:マタイ21章42節『家』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15057

(注)別エントリー「聖書にはクリスマスの日付が載っていますか???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13267

(注)別エントリー「試論:憐れみ深い人が幸いの理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14898

【追記】

マタイ7章12節「他人からしてもらいたいことを、あなたから他人にしなさい。これこそ律法と預言者」同5章22節「腹を立ててはならない」同7節「憐れみ深い人は幸い。その人は天の御父の憐れみを受ける」同6章14節「あなたが他人の過ちを赦すならば、天の御父もあなたの過ちをお赦しになる」。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346

ルカ6章38節で主は、「あなたがたは自分の量る秤(はかり)で量り返される」と仰せになり、他人に厳しく自分に甘い人に対して神が厳しい態度で臨まれることを宣言された。それゆえ、主は「人を裁くな」「人を罪人と決めるな」「赦しなさい」「与えなさい」「敵を愛しなさい」等々とお教えになった。

(注)別エントリー「試論:赦しの重要性を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5390

マタイ22章14節の「選ばれる人」とは、神からの招きに忠実に応じて「神の掟を守り通す人」(黙示録12章17節)である。隣人に対して憐れみ深い人は自分も神の憐れみを受ける(マタイ5章7節)。一人一人が隣人に対して取るのと同じ態度を、神も一人一人に対して返される(ルカ6章38節等)。

(注)別エントリー「試論:『選ばれた人は選んだ人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8034

憐れみの道にこそ命がある

箴言12章28節「憐れみの道にこそ命がある。この道を行く人に死はない」ルカ6章35節以下「敵に親切にし、善を行い、何も当てにせず貸しなさい。そうすれば、あなたたちはいと高き方であられる天の御父の子となり、大きな報いを受ける。あなたたちも天の御父のように憐れみ深い者になりなさい」。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『永遠の命の言葉を持つ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11244

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

マタイ7章12節「他人からしてもらいたいことを、あなたから他人にしなさい。これこそ律法と預言者」同5章22節「腹を立ててはならない」同7節「憐れみ深い人は幸い。その人は天の御父の憐れみを受ける」同6章14節「あなたが他人の過ちを赦すならば、天の御父もあなたの過ちをお赦しになる」。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346

マタイ6章14節〜15節「あなたがたが人を容赦するなら天の父もあなたがたを容赦されるが、あなたがたが人を容赦しないなら天の父もあなたがたを容赦されない」は同5章7節「憐れみ深い人は幸いである。その人は憐れみを受ける」などと、表現を変えながら福音書の随所に登場する、重要事項である。

マタイ5章7節「憐れみ深い人は幸いである。その人は憐れみを受ける」はヨハネ13章「わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい」同14章「わたしを愛する人はわたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、御父とわたしはその人のところに行って一緒に住む」等と同じ道理である。

(注)別エントリー「試論:『いけにえ』と憐れみを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8356

出エジプト記34章で主の栄光がモーセに現わされた際、御自分が優しさと厳しさを兼ね備えた神であると主はモーセに明らかにされた。ダビデは詩編18編21(20)節以下で、主は優しい人には優しく厳しい人には厳しいと歌った。その人が隣人に敬意を示さない限り、主はその人の信仰を認められない。

(注)別エントリー「試論:『選ばれた人は選んだ人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8034

主はマタイ22章で律法中の最も重要な掟の第一は神への愛、第二は隣人愛と仰せになった。申命記10章でモーセへの戒めの再授与の際、12節以下では神への愛が命じられ、19節では「遠くからやって来た者(寄留者、新参者、改宗者)」という表現で隣人愛(レビ19章18節、34節)が命じられた。

(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1982

マタイ22章36節以下の「律法の中で最も重要な掟はどれか」の答えと、ルカ10章25節以下の「永遠の命を得るために何をすればよいか」の答えは一致する。またマルコ12章32節は「神は唯一であり、他に神はない」という事柄をギリシア語本文でアレテイアすなわち真理と表現してこれを強調する。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

マタイ6章14節の主の御言葉「あなたが他人を容赦するなら、天の父もあなたの過ちを容赦される」を聞いた当時のヘブライ人はすぐ詩編18編21(20)節以下を連想し、また「神は高慢な者を敵とし、へりくだる人に恵みをお与えになる」(箴言3章34節、一ペトロ5章5節)も連想したはずである。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

試論:「人をからかう行為」を140文字以内で

【問】詩編15編は、主の幕屋に共に住むことを望む人々に対して、どんなことをしてはいけないと教えていますか?
【答】「相手が困ったり怒ったりすることを、あえて口にしたり行なったりして面白がること」を禁じています。主イエスも福音書で、幼い子供の無垢を傷つけてはならないと教えられました。

(注)別エントリー「《キリストの律法》(マタイ7章12節)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18013

【追記】

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

試論:「エチオピアとユダヤ教」を140文字以内で

使徒言行録8章で助祭フィリポによって洗礼を受けたエチオピアの高官はイザヤ書を朗読していたが、当時はユダヤ人かユダヤ教に改宗していた異邦人でなければ旧約聖書の預言書を読むことなどあり得なかった。シェバの女王がソロモン王を訪問した後、古代のイスラエルの宗教もエチオピアに伝わっていた。

【追記】

イザヤ56章3節以下では異邦人や宦官もイスラエルの神の救いに与る日が来ると預言した。申命記23章は男性器に欠陥のある者が「主の会衆」に加わることはできないと定めたがイザヤは条件の緩和を預言し、それを受け使徒言行録の時代までにエチオピア人の宦官もエルサレムでの礼拝を認められていた。

主イエスはルカ11章29節以下で、ヨナの説教に悔い改めたニネベの人々と、ソロモンの知恵を聞くためにエルサレムを訪れたシェバの女王を引き合いに出されたが、この仰せには当然「あなたたち今の時代のイスラエル人は、ニネベの人々やシェバの女王にまさるものなのか」のニュアンスも含まれている。

福音書の時代にエルサレムからエジプトに逃避する場合、途中かつてのペリシテの町ガザがある。エルサレムからガザへの道を使徒言行録8章26節は「寂しい道」と記す。イスラエル人にとっては実際のところガザからエジプトまでの道の方が、より長く、より寂しく、より危険で困難が多い道のりではある。

試論:「カインの最期」を140文字以内で

【問】弟を殺したカインはどんな死を迎えましたか?
【答】ユダヤ教のある伝承は非常に長生きしたカインが野原で、遠方にいたレメク(創世記4章)に獲物と間違えられ、誤射の結果死んだとします。「カインのための復讐は七倍、レメクのためには七十七倍」という言葉と何か関係があるのかもしれません。

【追記】

創世記4章8節のタルグム(旧約聖書本文に短い注釈を付加したアラム語訳)は、カインとアベルが野原で口論になったことを記す。神が弟の献げ物だけに目を留められたことを「えこひいき」と誤解した兄は、神の不正を主張して自分を正当化しようとしたが、弟が逐一それに反論したため、兄は弟を殺した。

(注)別エントリー「試論:『悔い改め』とは無縁な人を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17099

創世記4章の「カインとアベル」の箇所について、「神はアベルを『えこひいき』された」と誤解する人がいる。しかし申命記1章17節に見られる通り、「えこひいき」は主なる神が好まれない行為であると考えられ、同じ考え方は箴言24章23節、同28章21節、ヨブ34章19節等にも見受けられる。

(注)別エントリー「試論:『カインの高慢』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17085

箴言24章では23節でまず「えこひいき」が否定された後で、30節で「怠け者の畑」「意志の弱い者のぶどう畑」について言及され、それが神の知恵とは対極にある状態を象徴する光景であることが暗示され、また創世記4章のカインが「怠け者」「意志の弱い者」だったであろう蓋然性をも示唆している。

カインはアベルと違って献げ物となる作物を育てる際、手間暇をかけようとせず、ろくに手入れもせず、ただ自然に育ったがままの状態のものを献げた。それでいて神に目を留められなかったことで激怒し、そうなった理由を反省せず弟の意見を参考にしようとせず両親にも相談せず、神に質問すらしなかった。

試論:使徒言行録8章1節の離散を140文字以内で

ペトロは第一の手紙の冒頭で「離散して仮住まい」の人々に挨拶する。新約聖書で離散を意味するギリシア語は、ステファノ殉教後に信者たちがユダヤを追われて各地に追い散らされたことを意味する。主イエスのエルサレム滅亡の予告に従い信者の多くはユダヤへ戻らず各地で「からし種」の役割を果たした。

(注)別エントリー「試論:聖パウロの職業を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5146

(注)別エントリー「試論:テモテの割礼を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5097

【追記】

一ペトロ1章1節は、「離散」つまりステファノ殉教後の大迫害で散って行った(使徒言行録8章1節)エルサレム教会の信者の避難先としてアジア州を挙げる。主の御降誕の約四十年前カエサルは、ユダヤ人が固有の慣習を保持しながら不利なく市民生活を送れる権利を、エフェソ等の諸都市で保障していた。

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

(注)別エントリー「試論:初代教会と箴言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5756

主の御降誕の四十数年前カエサルはエジプト遠征で政敵ポンペイウスの勢力を打倒したが、かつてポンペイウスが聖所に侵入したことを恨んでいたユダヤ人の多くはカエサルに協力した。カエサルはユダヤ人に、エフェソを含む諸都市で安息日等の慣習を堅持したまま不利なく市民生活を送れる権利を確約した。

ローマの将軍ポンペイウスは神殿で大祭司しか入れぬ場所(レビ16章)に入り、ユダヤに衝撃が走った。ポンペイウスをカエサルが打倒し彼はユダヤ人に気前よく諸権利を与えたが、エジプトの女王を愛人としたことも含めて同胞から王様気取りだと疑われ、暗殺された。彼の死をユダヤ人は非常に悲しんだ。

紀元前63年ユダヤの内乱に介入して勝利したローマの将軍ポンペイウスは、エルサレムの神殿で大祭司しか入れない場所にまで入り、当時の異邦人には謎だったユダヤの神殿の実態が初めて知れ渡った。聖所に神像や神体の類は存在せず、机・純金の器・燭台・香料などがあった(出エジプト記25章以下)。

試論:「主の幕屋に共に住む人」を140文字以内で

【問】日本語の「親しき仲にも礼儀あり」に該当する教えは、聖書にもありますか?
【答】「主の幕屋に共に住む」ための条件として詩編15編がまさに、それを教えています。これは当然「天の国」つまりイザヤ65章17節以下が「新しい天、新しい地、新しいエルサレム」と呼ぶ場所にも、適用されます。

試論:ヨハネ6章の「命のパン」を140文字以内で

【問】主はヨハネ6章で神の御言葉を「命のパン」とお呼びになりますが、さらに進むと御自分の「肉」(51節)をも「命のパン」とお呼びになります。
【答】御自分の御言葉だけでなく御自分の「肉(=体)」も必要だと、主はヨハネ6章で教えられました。福音書の朗読も御聖体の拝領も両方が重要です。

試論:ヨハネ6章40節を140文字以内で

【問】「わたしの父の御心は子を見て信じる皆が永遠の命を得て、わたしが皆を復活させること」とは、何のこと?
【答】マタイ25章34節「王(=主イエス)は言う、『わたしの父に祝福された人々よ、あなたたちのために準備された国を受け継ぎなさい」。「わたしの父」に対する「子」は主御自身です。

【追記】

【問】主イエスは特にヨハネ福音書で「子」や「人の子」と自称され、「父」である神との関係を強調されますが、何に言及されているの?
【答】ダニエル7章13節〜14節「『人の子』のような者が天の雲に乗り『日の老いたる者』の前に進み権威・威光・王権を受けた」。「日の老いたる者」が御父です。

試論:「子」?「人の子」?を140文字以内で

【問】主イエスは特にヨハネ福音書で「子」や「人の子」と自称され、「父」である神との関係を強調されますが、何に言及されているの?
【答】ダニエル7章13節〜14節「『人の子』のような者が天の雲に乗り『日の老いたる者』の前に進み権威・威光・王権を受けた」。「日の老いたる者」が御父です。

(注)別エントリー「『御父である神』に結ばれていない人々」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17900

試論:「門をたたきなさい」??を140文字以内で

【問」「〔門を〕たたきなさい」(マタイ7章7節)? なぜ?
【答】箴言8章では「城門の傍ら」(3節)で「知恵」(1節)が呼ばわると教えます。主イエスは、ここで箴言8章を人々に連想させようとなさいました。主はルカ7章35節では「知恵」を、同11章49節では「神の知恵」を称されました。

試論:「主の沈黙とヘロデ」を140文字以内で

【問】主イエスは徴税人や罪人ともファリサイ派の議員ともサマリア人の女性とも話が弾みましたが、ヘロデからの尋問では、沈黙を続けました。なぜ?
【答】ヘロデは、洗礼者を囚人にした際も洗礼者の話を喜んで聞きましたが、単に自分の好奇心を満足させることだけが目的で最後は洗礼者を死なせました。

【追記】

ヘロデ・アンティパスは洗礼者の言葉に喜んで耳を傾けたが単なる好奇心からで、自分の兄弟がお人好しであることにつけ込んで、その妻と親密になり、やがて彼女を奪い取った。根はやはり悪人の彼はイエスの逮捕後、イエスにも興味を抱いたが、興味を失うと洗礼者の時と同様に、イエスを平気で見捨てた。

申命記25章には跡取りを産む前に夫に先立たれた女性に、家名を存続させる目的で亡夫の「兄弟(親族の男性全般)」との再婚を求める規定がある。しかしマタイ14章のヘロデは兄弟フィリポが存命中なのに、その妻と親密になり兄弟から妻を奪い取った。この件で洗礼者ヨハネはヘロデを厳しく叱責した。

洗礼者はヘロデの家庭事情を非難したことでヘロデの家族の恨みを買い殺害されたが、宗教指導者たちと深い対立関係にはなかった。他方、救い主は「神を御自分の父と呼び御自分を神と等しい者とされた」(ヨハネ5章18節)ゆえに、救い主を認めたくない宗教指導者たちは冒瀆者扱いして殺す道を選んだ。

試論:サウロとキリスト教の接点を140文字以内で

【問】パウロは元々はサウロという名前で、ステファノ殉教の前後はキリスト信者の敵として行動しました。なぜ?
【答】使徒言行録6章9節以下は、キリキア州(同22章3節)のユダヤ人がステファノに議論を挑み勝てなかったと記します。これはサウロの同郷人ですがサウロその人だったかもしれません。

【追記】

二コリント12章7節でパウロは、自分が高慢にならぬように神はサタンからの使いが付きまとうことを認められたと記す。サタンがパウロを苦しめた方法は想像に難くなく、「お前は忠実な弟子を気取ってるが、元はステファノの殺害に賛成していた男だし、ダマスコ行きの目的も迫害のためだっただろ?」。

試論:「キリストを世に広める」を140文字以内で

【問】「キリスト教を宣べ伝える」と聞くと、大変なことのように思われます。
【答】「他の人からしてもらいたいことならなんでもあなたから他の人にしなさい。これこそ律法であり預言者〔たちの教え〕」(マタイ7章12節)を広めなければなりません。そこにキリストの教えが集約されているからです。

(注)別エントリー「《キリストの律法》(マタイ7章12節)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18013

【追記】

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

試論:使徒言行録7章57節を140文字以内で

使徒言行録7章57節はステファノの言葉に敵たちが自分の耳をふさいだと記す。詩編58編では「耳をふさぐ」(5(4)節)は、神に逆らう者(4(3)節)の象徴的仕草で、敵たちは、自分の良心がステファノこそ神の証人だと「見た(悟った)」(黙示録11章12節)にもかかわらずこれを拒絶した。

【追記】

マタイ13章で主はたとえで話す理由を御説明されたが、「目で見る」「耳で聞く」という表現も「御教え(御言葉)を悟る」「心で理解する」ことの比喩で、それは「悔い改め」に導く。忠実な弟子に主は特別な「耳」(理解力)を与えるとイザヤ50章4節は預言し、理解力と悔い改めとは表裏一体である。

(注)別エントリー「試論:聞くだけの人を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5294

(注)別エントリー「試論:聞いても実行しない人を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7347

旧約であれ新約であれ聖書で「見る」という表現が用いられる場合、単に「目で見る」ばかりではなく、「心で悟る」「理解する」等も含む。マタイ24章30節「地上の全ての民は人の子が天の雲に乗って来るのを見るであろう」は、黙示録6章17節「神と小羊の怒りの大いなる日が来た」に対応している。

(注)別エントリー「イエス・キリストと天の雲」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/684

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

マタイ5章44節「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」ルカ23章34節「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分たちが何をしているのか、分かっていないのです」使徒言行録7章60節「ステファノはひざまずいて、『主よ、この罪を、彼らに負わせないでください』と大声で叫んだ」。

エルサレムの監督ヤコブは古代の伝承では、普段からエリヤと同じ身なりだったが、干ばつに際しエリヤのしるしを行い(列王記上18章、ヤコブ5章、黙示録11章)、逮捕後に神殿の高所から突き落とされ足を負傷したが絶命せず、ステファノと同じ遺言を口にし、立ち上がろうとして棍棒で撲り殺された。

(注)別エントリー「試論:もう一人の『エリヤ』??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10009

使徒言行録1章に十二使徒の二人のヤコブが登場するが、12章でヨハネの兄弟ヤコブが殉教した後、特別の注釈もなくヤコブという人がエルサレムで重責を担い続けることが叙述される。消去法で考えれば彼はアルファイの子の方で、エルサレム教会の指導者だった主の兄弟ヤコブと同一人物とも見なしうる。

(注)別エントリー「試論:ルツ記とイエスの兄弟たちを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8585

(注)別エントリー「イエスの『兄弟』『姉妹』:同胞か親戚か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1451

試論:「日ごとの糧と命のパン」を140文字以内で

主イエスはマタイ6章で「主の祈り」を教えられた。11節「わたしたちの日ごとの糧」の「糧」とヨハネ6章35節の「わたしは命のパン」の「パン」とは原文のギリシア語では同じで、古代のギリシア語訳イザヤ55章10節「糧」も同じだが同節で「糧」は「主の御言葉」(ヨハネ1章1節参照)を指す。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』到来の目的を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10216

【追記】

エレミヤ5章14節は主の御言葉を「火」に喩え、これを踏まえられ主イエスはルカ12章49節で「わたしは地上に火を投ずる」と仰せになった。他方イザヤ55章10節は主の御言葉を「糧」に喩えるが、ならばマタイ6章11節「わたしたちの日ごとの糧」の「糧」も、やはり主の御言葉を暗示している。

(注)別エントリー「試論:『イエスの御言葉こそ糧』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14841

主は山上の説教で「神の義に飢え渇く人は幸い。その人は満たされる」と仰せになった。その理由はヨハネ6章35節で説明される。「わたしは命のパンである。わたしの許に来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」同7章37節「渇く人は、わたしの許で飲みなさい」。

(注)別エントリー「試論:『わたしが与える水』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10708

ヨハネ6章27節「人の子は、あなたたちに永遠の命へと至る食べ物を与える」35節「わたしがその命のパンである」イザヤ55章2節〜3節「わたしに聞き従うならば、あなたたちは良いものを豊富に享受するだろう。あなたたちはわたしの許に来て、それに耳を傾けて聞き従い、魂に命を得させなさい」。

試論:神の母と神の養父の力関係を140文字以内で

【問】ヨセフもマリアも「イエスを相手に威張るわけにはいかないが、夫婦の間だけは自分の方が上の立場でありたい」とは考えませんでしたか?
【答】考えませんでした。箴言3章34節「神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みをお与えになる」を思えば、まことの神イエスの御前で考えも及びません。

試論:「テント造りと舞台芸術」を140文字以内で

【問】使徒言行録19章でパウロの糾弾者たちは、なぜ野外劇場(29節)に押し寄せたの?
【答】そここそテント業務(同18章3節)に従事したパウロの仕事場だったからで、古代の野外劇場では遮光(観客側を薄暗くして、中央の舞台だけに自然光を当てる)目的で、大規模に天幕が使用されていました。

【追記】

【問】パウロの職業「テント造り」(使徒言行録18章3節)の実際の仕事は、「野外劇場」(同19章29節)の舞台装置設営ですか?
【答】現代でも例えばサーカス団の公演の際、公演内容に見合った適当な会場が存在しない時は、屋外の広大な敷地に自前の巨大なテントで会場を設営したりもしています。

古代のローマ人はギリシア演劇を愛し、帝国の主要都市には競技場や公衆浴場とともに、ギリシア演劇を上演する野外劇場を必ず建設した。パウロの職業スケノポヨース(「テント造り」:劇場の舞台装置職人)は、都市から都市への移動を繰り返す宣教生活をパウロが続けて行く上で、極めて好都合であった。

パウロの職業は、使徒言行録18章3節では「テント造り」と訳され、原文のギリシア語「スケノポヨース」の直訳はその通りだが、このギリシア語はパウロの時代には「劇場の舞台装置職人」をも意味した。使徒言行録19章29節でパウロの糾弾を目論んだ人々が劇場に押し掛けた理由は、そのためだった。

古代ローマ時代において、「テントを造る」というギリシア語が、野外劇場の舞台装置の設営をも意味していたことは、二世紀のユリウス・ポルクスの著作『オノマスティコン』に記されている。テント(幕屋、天幕)の「幕」が、古代より「劇場」とはさまざまな形で深い関係にあることは、いうまでもない。

試論:「ユダヤ人」の始まりを140文字以内で

一世紀後半のユダヤの歴史家ヨセフスは、バビロンに連行された民はエルサレムに帰還した頃から「ユダヤ人」と呼ばれ、それはユダ族に由来すると記した。彼らがペルシアから自治を認められた地域はエルサレム及びその近辺くらいだった。モーセの時代の旧約の民は「ユダヤ人」とは一度も呼ばれていない。

【追記】

【問】国を滅ぼされバビロンに連行された旧約の民がペルシアにより解放された後、エルサレムに帰還した目的は?
【答】あくまでも神殿再建が目的(歴代誌下36章23節、エズラ1章)で、独立国家建設目的ではありませんでした。ダビデの末裔ゼルバベルは「総督」つまりペルシアの行政官の一員でした。

ペルシア王によるバビロン捕囚からの解放後、神殿再建を目的にユダヤ人たちはエルサレムに帰還したが、ダビデ王の末裔としてゼルバベルが総督に任命されたとはいえ、総督はかつての「王」に相当する立場ではなく、彼はあくまでペルシア王国の官僚の一人に過ぎず、大祭司がユダヤ民族の代表者となった。

(注)別エントリー「バビロンから帰還した目的を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/24497

モーセの律法の時代の終焉

キリストの教えを敵視する者たちは使徒言行録6章13節で「この男は、この聖なる場所と律法をけなす」と人々にステファノを告発させた。主イエスはマタイ5章18節で天地が消え失せる時にモーセの律法の時代も終わると示唆された。「天地」とはエルサレム神殿の聖所(詩編78編69節参照)を指す。

古代のヘブライ人は詩編78編69節の通り、エルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。これを踏まえれば主イエスのマルコ13章31節の仰せ「やがて天地は滅びるであろうが、わたしの言葉は決して滅びない」の意味は、「エルサレムと神殿の滅亡後も、わたしの教えと信仰は生き続ける」である。

(注)別エントリー「試論:『主の日』エルサレム滅亡を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12476

主はマタイ5章18節で、全てのことが実現して天地が消え失せるまではモーセの律法も消え失せないと仰せになり、ルカ21章22節ではエルサレム滅亡で預言が全て実現すると予告され、紀元七〇年にそれは成就した。詩編78編69節の通りヘブライ人はエルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

ルカ21章22節には「書かれていること」という言い回しが用いられているが、これはヨシュア記1章8節と同様に、「預言された事柄」「神から啓示された内容」などを意味する表現である。古代においては「書く(書いて記録に残しておく)」という行為それ自体が、非常に重要な意味を持つものだった。

主はマタイ5章18節で、全てのことが実現し天地が消え失せるまで律法の時代が続くことを仰せになった。ルカ21章22節では、エルサレム滅亡(20節)の日を「書かれていることが完全に実現する報復の日」と仰せになり、エルサレムと神殿の滅亡(紀元七〇年)で律法の時代が終わると宣言なさった。

「天地が消え去る」の「天」とは、神がお住まいになる場所と見なされたエルサレム神殿とりわけその聖所を指し、二ペトロ3章はその滅亡が近いことを説く。「地」はエゼキエル7章2節同様、イスラエルの地を指す。紀元七〇年にエルサレムと神殿は滅亡しユダヤ(イスラエル人の国家)も同じく消滅した。

二ペトロ3章10節は「主の日」において「天は激しい音を立てながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に熔解し尽くす」と予告した。数年後の紀元七〇年、神が住まわれると見なされて、「天」と同一視されていたエルサレムの神殿は、都の滅亡の際ローマ帝国軍によって火を放たれ、大音響と共に焼け滅びた。

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

ルカ21章22節において、主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると明言されており、それは紀元七〇年に現実のこととなった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代や近未来の世界情勢に関して旧約聖書の預言から考える行為は、不毛である。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

ダニエル書9章では神殿とエルサレムの復興を強く願うダニエルの祈りに応えて、都と神殿の再建さらには救い主の到来までも約束されたが、救い主が不当に殺された後、モーセの律法を蹂躙する集団が神殿の聖所を占拠し、そして次に来る指導者の民が、都と神殿を無法集団もろとも、滅ぼし尽くして終わる。

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

ルカ17章34節から35節で主は「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」と繰り返されたが、では一体どこに「連れて行かれ」るのかを、ルカ21章24節では「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と御説明された。これは大昔モーセがレビ記26章33節以下で預言していた話と同じである。

紀元七〇年のエルサレム滅亡時にローマ軍へ投降したユダヤ人のうち、使徒言行録22章のパウロのようにローマの市民権を持つ者はローマ法の保護下にあるため留め置かれたが、そうでない者は妻子とともに奴隷とされて売り飛ばされた。こうして、「一人は連れて行かれ、一人は残される」は現実となった。

(注)別エントリー「試論:『滅びを避けるには』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5749

ルカ21章32節で主は「全てのことが起こるまではこの時代は決して滅びない」と仰せになったが、「時代」に当たる原文の単語ゲネアは古代のギリシア語詩編94(95)編10節の「世代」にも用いられ、詩編のこの節ではゲネアを四十年とする。実際この主の仰せからおおよそ四十年後に都は滅亡した。

(注)別エントリー「試論:『今の時代』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5596

(注)別エントリー「試論:『人心荒廃は滅亡の前兆』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6291

ルカ19章で、主はエルサレムのために泣かれた。確かに主の予告の通り、約四十年後に都は滅亡した。だが同じ都は数日後に主御自身を殺す都でもあった。それでも主は、ヨナ書で神がニネベを惜しまれた以上に、エルサレムのために泣かれた。エルサレムが決して自分の非を認めようとはしないためである。

(注)別エントリー「試論:『滅びを避けるには』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5749

(注)別エントリー「試論:エゼキエル18章を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5726

試論:「永遠の命へ至る食べ物」を140文字以内で

ヨハネ6章27節「あなたたちは、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」32節「わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる」33節「神からのパンは、天から下って来て人間世界に命を与える」35節「わたしこそが、その命のパンである。わたしの許に来る者は、飢えることが決してない」。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』到来の目的を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10216

【追記】

ヨハネ6章27節「人の子は、あなたたちに永遠の命へと至る食べ物を与える」35節「わたしがその命のパンである」イザヤ55章2節〜3節「わたしに聞き従うならば、あなたたちは良いものを豊富に享受するだろう。あなたたちはわたしの許に来て、それに耳を傾けて聞き従い、魂に命を得させなさい」。

ヨハネ6章51節「わたしが与えるパンとは世を生かすための、わたしの肉のことである」同33節「神のパンは天から降(くだ)って来て世に命を与える」マルコ14章22節「これはわたしの体である」申命記8章3節「人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出る、全ての御言葉によって生きる」。

主はヨハネ6章27節で御自分の仰せになる《神の御言葉》を「永遠の命に至る食べ物」にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「永遠の命にあずかる」と「天の国を受け継ぐ」は同義だが、御言葉を日々味わうことによって人は天の国を受け継ぐにふさわしい存在へと少しずつ霊的に成長するからである。

(注)別エントリー「試論:『主の祈り』と最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7047

一ペトロ1章「小羊のようなキリスト」

ヨハネ1章で洗礼者は主イエスを「神の小羊」(29節、36節)と呼んで周囲に注意喚起したが、ペトロは第一の手紙1章19節で「きずや汚(けが)れのない小羊のようなキリスト」と呼び2章22節ではさらに「罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」とイザヤ53章9節を引用し説明する。

【問】「世の罪を取り除く神の小羊」って、何?
【答】主イエスが、
「多くの人の身代金として自分の命を献げるために」(マタイ20章28節)
「小羊のように、屠り場に引かれ」(イザヤ53章7節)
「民の背きのゆえに命ある者の地から断たれ」(同8節)
という定めを持つ者であることを示す称号です。

ルツ4章7節によれば、古代イスラエルでは親族たちの責務の代行や委譲に際して、自分の履物を脱ぐ慣習があった。主イエスは多くの人の贖(あがな)い、つまり身代金(代価)となるために、世に来られた(マルコ10章45節)。以上の事柄を洗礼者は「履物」「神の小羊」「花婿」等の表現で示唆した。

ヨハネ1章29節「世の罪を取り除く神の小羊」の「取り除く」に当たるギリシア語は、一ヨハネ3章5節にも登場し、その前後では隣人愛の実践を奨励するが、同じ表現をエフェソ4章31節も用い、主に応えて信者が取り除くべきものを「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりを全ての悪意と共に」とする。

エフェソ4章の後半では「神にかたどって造られた新しい人」として生きるためとして「怒ることはあっても罪を犯してはならない」「日が暮れるまで怒ったままではいけない」「悪い言葉を一切口にしない」「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどの全てを、一切の悪意とともに捨てる」等を勧めている。

ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。

一ペトロ2章の冒頭は「霊的な乳飲み子」について語っているが、ここでペトロは「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去る」ことを要請しており、当然ペトロは、あまりにも有名な「人から出て来るものこそ、人を汚す」で始まる、マルコ7章20節から23節の主の御言葉を念頭に置いて説明する。

エゼキエル18章「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は仰せになる。彼が悪から立ち帰って生きることを喜ばないだろうか。お前たちが犯した全ての背きを投げ捨てて新しい心と霊を造り出せ。どうしてお前たちは死んでよいだろうか。お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」。

エレミヤ11章19節「わたしは、飼い馴らされた小羊が屠(ほふ)り場に引かれて行くように、何も知らなかった。彼らはわたしに対して、悪巧みをしていた」ヨハネ5章39節「聖書はわたしについて、あかしをするものだ」ルカ24章44節「わたしについて預言者の書にある事柄は必ず全て実現する」。

出エジプト記12章では、イスラエルの人々がファラオの支配から解放される代価となった小羊の存在に言及する。ヨハネ1章29節では、十字架において世の人々が罪の支配から解放される代価となるはずの主イエス・キリストの存在について、洗礼者ヨハネが「神の小羊」と呼んで、注意を喚起したと記す。

福音書の中では病気を表すギリシア語を用いて、パウロは自身の手紙で自分の弱さ(衰弱)を表現した。ヘブライ人にとって「病気→衰弱」という連想は自然であり、これを踏まえて最後の審判の「病気」も解釈されるべきで、イザヤ53章3節「病を知っている」は苦難続きで衰弱するメシアの姿を預言する。

主の御受難を預言したイザヤ53章7節では、出エジプトの代価となった「小羊」(出エジプト記12章3節等)を想起させる一方で、「屠(ほふ)り場に引かれる」と表現してイサクの犠牲の身代わりとなった羊(創世記22章13節)をも想起させ、主の御受難が人々の身代わりであることを再認識させる。

イザヤ50章3節は「わたしは天に暗黒を着せて〔喪に服させ〕さらに粗布で覆う」と預言する。この箇所は、前章から続く「主の僕(しもべ)」すなわち主イエス・キリストに関する啓示であることから、ルカ23章44節以下で主が息を引き取られる前後の、暗黒に包まれた全地との関連が指摘されてきた。

試論:「エマオの御出現と対話」を140文字以内で

【問】ルカ24章のエマオの御出現の時、どうして対話を延々と続けられたの?
【堪】詩編12編は旧約の民に、いくら口が達者でも真心や誠意が感じられぬ人々の中にまことの信仰はないと教えます。御復活の主の御言葉からは、私利私欲や自画自賛の類いが少しも感じられなかったからではないでしょうか。

主イエス・キリストと旧約聖書の預言

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

ルカ21章22節において、主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると明言されており、それは紀元七〇年に現実のこととなった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代や近未来の世界情勢に関して旧約聖書の預言から考える行為は、不毛である。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

ルカ21章22節には「書かれていること」という言い回しが用いられているが、これはヨシュア記1章8節と同様に、「預言された事柄」「神から啓示された内容」などを意味する表現である。古代においては「書く(書いて記録に残しておく)」という行為それ自体が、非常に重要な意味を持つものだった。

紀元七〇年のエルサレム滅亡時にローマ軍へ投降したユダヤ人のうち、使徒言行録22章のパウロのようにローマの市民権を持つ者はローマ法の保護下にあるため留め置かれたが、そうでない者は妻子と共に奴隷とされ売り飛ばされた。こうして「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」の予告は実現した。

(注)別エントリー「試論:『滅びを避けるには』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5749

ルカ17章34節から35節で主は「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」と繰り返されたが、では一体どこに「連れて行かれ」るのかを、ルカ21章24節では「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と御説明された。これは大昔モーセがレビ記26章33節以下で預言していた話と同じである。

古代のヘブライ人は詩編78編69節の通り、エルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。これを踏まえれば、主イエスのルカ21章33節の仰せ「やがて天地は滅びるであろうが、わたしの言葉は決して滅びない」の意味は、「エルサレムと神殿の滅亡後も、わたしの教えと信仰は生き続ける」である。

(注)別エントリー「試論:黙示録の『第八の者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12097

主はマタイ5章18節で、全てのことが実現して天地が消え失せるまではモーセの律法も消え失せないと仰せになり、ルカ21章22節ではエルサレム滅亡で預言が全て実現すると予告され、紀元七〇年にそれは成就した。詩編78編69節の通りヘブライ人はエルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。

(注)別エントリー「試論:ルカ19章41節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5814

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

主はマタイ5章18節で、全てのことが実現し天地が消え失せるまで律法の時代が続くことを仰せになった。ルカ21章22節では、エルサレム滅亡(20節)の日を「書かれていることが完全に実現する報復の日」と仰せになり、エルサレムと神殿の滅亡(紀元七〇年)で律法の時代が終わると宣言なさった。

「天地が消え去る」の「天」とは、神がお住まいになる場所と見なされたエルサレム神殿とりわけその聖所を指し、二ペトロ3章はその滅亡が近いことを説く。「地」はエゼキエル7章2節同様、イスラエルの地を指す。紀元七〇年にエルサレムと神殿は滅亡しユダヤ(イスラエル人の国家)も同じく消滅した。

二ペトロ3章10節は「主の日」において「天は激しい音を立てながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に熔解し尽くす」と予告した。数年後の紀元七〇年、神が住まわれると見なされて、「天」と同一視されていたエルサレムの神殿は、都の滅亡の際ローマ帝国軍によって火を放たれ、大音響と共に焼け滅びた。

ダニエル書9章では神殿とエルサレムの復興を強く願うダニエルの祈りに応えて、都と神殿の再建さらには救い主の到来までも約束されたが、救い主が不当に殺された後、モーセの律法を蹂躙する集団が神殿の聖所を占拠し、そして次に来る指導者の民が、都と神殿を無法集団もろとも、滅ぼし尽くして終わる。

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

ルカ21章32節で主は「全てのことが起こるまではこの時代は決して滅びない」と仰せになったが、「時代」に当たる原文の単語ゲネアは古代のギリシア語詩編94(95)編10節の「世代」にも用いられ、詩編のこの節ではゲネアを四十年とする。実際この主の仰せからおおよそ四十年後に都は滅亡した。

(注)別エントリー「試論:『今の時代』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5596

(注)別エントリー「試論:『人心荒廃は滅亡の前兆』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6291

申命記28章49節でモーセは、将来イスラエルの民を滅ぼす国民の象徴となる動物を預言した。ルカ17章37節のギリシア語本文も、古代のギリシア語訳申命記と同じ単語を用いている。それはローマの国章と同じ動物で、ヨハネ11章48節で「ローマ人」という表現が登場する、根拠の一つでもあった。

ダニエル9章24節はメシアに関して預言の時代を封印する存在だと預言し、主イエスはルカ21章22節で旧約聖書の全預言が(紀元七〇年の)エルサ レム滅亡で成就すると仰せになった。故に現代や近未来の国際情勢と旧約聖書の預言は無関係で、関係ありとする強弁は、キリスト教の範疇を逸脱している。

主はルカ17章30節で「人の子が現れる日」に言及された。これは黙示録6章17節「神と小羊の怒りの大いなる日」と同じで「神」は御父である神、「人の子」「小羊」は主イエス・キリストである。「はげ鷹」ローマ帝国は繁栄の都エルサレムと神殿を、神の介在を疑い得ないほどに跡形もなく滅ぼした。

主はルカ21章20節以下で(紀元七〇年の)エルサレム滅亡及びその前後にユダヤを襲う「大いなる艱難」(23節)を予告された。また「異邦人の庭」(黙示録11章2節)を持つエルサレム神殿がまだ存在する時期に黙示録の内容を啓示され、エルサレム滅亡後も教会は存続すると希望をお与えになった。

主はルカ17章20節で「神の国は見える形では来ない」22節で「人の子の日を弟子たちが見ることはない」と仰せになったが、アモス5章18節では「主の日を待ち望む者は災いだ。主の日は闇であって光ではない」と預言しており、「神の国の到来」と「主の日」とを混同すべきではないと、理解できる。

(注)別エントリー「試論:『主の日』二つの意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12894

プロテスタントの文語訳聖書『改訳 新約聖書』(1917年)はルカ21章23節を「地(ち)には大(おほひ)なる艱難(なやみ)ありて、御怒(みいかり)この民(たみ)に臨(のぞ)み」と訳し、ある人々がいわゆる「大艱難時代」と呼ぶ時期とは実は紀元七〇年の滅亡の前後に他ならないと示唆する。

主はルカ21章23節でエルサレム滅亡とその前後のユダヤの苦難を予告されたが、『改訳 新約聖書』(1917年)では「大なる艱難」と日本語訳する。一世紀後半のユダヤの歴史家ヨセフスの記述通り、紀元六六年の大反乱の勃発から七三年のマサダ陥落までの七年間に、ユダヤは惨劇の連続を経験した。

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の意義を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9840

ダニエル9章24節はメシアに関して預言の時代を封印する存在だと預言し、主イエスはルカ21章22節で旧約聖書の全預言が(紀元七〇年の)エルサレム滅亡で成就すると仰せになった。故に現代や近未来の国際情勢と旧約聖書の預言とは無関係で、関係ありとする解釈は主の仰せとは明確に相反している。

試論:バビロンから帰還した目的を140文字以内で

【問】国を滅ぼされバビロンに連行された旧約の民がペルシアにより解放された後、エルサレムに帰還した目的は?
【答】あくまでも神殿再建が目的(歴代誌下36章23節、エズラ1章)で、独立国家建設目的ではありませんでした。ダビデの末裔ゼルバベルは「総督」つまりペルシアの行政官の一員でした。

【追記】

ペルシア王によるバビロン捕囚からの解放後、神殿再建を目的にユダヤ人たちはエルサレムに帰還したが、ダビデ王の末裔としてゼルバベルが総督に任命されたとはいえ、総督はかつての「王」に相当する立場ではなく、彼はあくまでペルシア王国の官僚の一人に過ぎず、大祭司がユダヤ民族の代表者となった。

捕囚からの帰還後ハガイとゼカリヤは総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアへの祝福を預言し、ハガイは特にゼルバベルの「選び」を最後に語るが、ゼカリヤ6章11節では「戴冠」するのはヨシュア一人となる。中世以降のユダヤ教の立場ではゼルバベルの「役割」は不明瞭だがキリスト教の立場では明白である。

サムエル下7章16節を根拠にダビデの子孫から救い主が現れると考えられていた。途中エコンヤ(マタイ1章11節。エレミヤ22章24節の「コンヤ」)の時代にエレミヤの預言で、ダビデへの預言の約束は無効にされたと思われたが、ハガイ2章の預言はゼルバベル(マタイ1章12節)を再び指名した。

ハガイ書の最後がゼルバベルの特別な「選び」を預言したにもかかわらず、かつての「王」としての立場までは復帰できぬままゼルバベル本人は歴史の表舞台から姿を消し、彼の子孫からもこれと言った著名人が出せぬままに約五百年が過ぎた。しかし長年その到来が待たれていた救い主はそこから登場された。

(注)別エントリー「聖書にはクリスマスの日付が載っていますか???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13267

試論:ヨセフの父親としての愛情を140文字以内で

【問】主の養父ヨセフにとって、もちろん主イエスは実子ではありませんが、ヨセフの父親としての息子への愛情に不足はありましたか?
【答】事情を知らない人の目で見れば、彼はただ単に息子と妻に振り回されているだけの男に過ぎませんが、逆に言えばそれほどまでに彼は息子と妻に対して献身的でした。

【追記】

カトリックではナザレの聖家族は三人と教える。主の養父ヨセフは終生、息子と妻の望むことだけを行い、三人家族の三番目であるかのように振舞い後世の人々からもそう思われた。世の男性たちが子供たちや女性たちを平然と虐待する、毒々しい時代が来る時、ヨセフの存在は強力な解毒剤として働くだろう。

(注)別エントリー「試論:『永遠の命を得るには?』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11171

(注)別エントリー「イエスの『兄弟』『姉妹』:同胞か親戚か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1451

「神の家」で主に奉仕する女性が男性と「ともに寝る」ことは、主に対して罪を犯す悪事であった(サムエル記上2章22節〜25節)。それゆえに当然、真の意味での「神の家」である主イエスのお住まいの「主のはしため」(ルカ1章38節、48節)マリアは、夫ヨセフと「ともに寝る」ことがなかった。

(注)別エントリー「試論:『聖別』と聖母の終生童貞を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7939

(注)別エントリー「聖母と聖ヨセフが終生童貞である理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4464

旧約の民にとって神なる主は「わたしたちの父」(イザヤ63章16節)だが、救い主(8節)がお生まれになり(9章5(6)節)、民の「永遠の父」である方は「みどりご」として来られた。養父とはいえ人間が「父」となるなどヨセフにとって太陽が西から昇るどころではなかったが彼は責務を全うした。

(注)別エントリー「試論:『神の養父』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13347

現代において、建前上は幼子や女性の尊重が謳われる。しかし同時に、欲望の追求も無制限に肯定される風潮のため実際には幼子や女性が犠牲になる事件も後を絶たない。神は「義人」ヨセフの姿を通して、「神の義」とは幼子や女性を優先して自分を後回しにすることであると、全ての時代の人々に示された。

(注)別エントリー「試論:聖ヨセフの模範を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7243

ヨハネ12章25節は「この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命を得る」と主の仰せを記す。古代のヘブライ人は「〜を二の次にする」と言いたい時にも、「〜を憎む」という表現を用いた。主の養父ヨセフはヘロデが幼子の命を狙った時も、自分の命を二の次にして幼子と幼子の母を守り続けた。

(注)別エントリー「試論:最後の審判とディカイオスを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6704

主はマタイ6章33節で、まず神の国と神の義(ディカイオシュネー)を求めるよう教えられた。1章19節はヨセフを義人(ディカイオス)と呼ぶが、この語は神の義を体現する人を指す。相手が幼子や女性だからといって馬鹿にした態度を取る男性もいるが、その点、ヨセフに関しては心配する必要がない。

(注)別エントリー「聖家族はどのような雰囲気の中で暮らしていたのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5246

(注)別エントリー「聖ヨセフ:ディカイオスを旧約聖書で考察」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1613

(注)別エントリー「試論:『ディカイオス』聖ヨセフを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8497

マタイ福音書は後世への教訓に、最初の二つの章で主の養父ヨセフを模範として掲載した。ヨセフは忍耐強く、情け深く、自慢せず、高ぶらず、礼を失わず、自分の利益を求めず、恨みを抱かず、苛立たず、不義を喜ばず、真理を喜んだ。イエスとマリアのために、全てのことを忍び、確信し、待望し、耐えた。

マタイ1章19節は主の養父ヨセフを義人と呼び、エゼキエル18章6節では義人の条件の一つに生理中の女性に近づかないと挙げる。女性特有の心身の辛さに配慮し、女性に余分な負担を加えぬよう自分を律することができる男性こそ義人である。女性を蔑まずリスペクトの対象にできる男性こそ義人である。

マタイ1章19節は主の養父ヨセフを「正しい人(ディカイオス)」と表現する。25章の「最後の審判」におけるディカイオスは、隣人が何らかの助けを必要としている時に、必要とされている助けを提供して困り事を解決する人を指し、ヨセフはイエスとマリアが本当に必要としていることだけを実行した。

(注)別エントリー「試論:マリアとヨセフに倣う事柄を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7012

マリアの妊娠にヨセフが微塵でも不満を抱き続けていたなら、彼はエジプトに逃げる途中の荒れ野で、「預言者エリヤも任務を捨てて逃げたがそれでも天使はエリヤを励ました。あなたの産んだ子が神の子なら、天使があなたたちを助けてくれるはずだ」と母子を置き去りにしただろうが、彼はそうしなかった。

(注)別エントリー「試論:『義人は意地悪をしない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11980

(注)別エントリー「試論:預言者エリヤと義人ヨセフを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11055

(注)別エントリー「試論:エリヤとヨセフを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6005

(注)別エントリー「試論:『養父ヨセフこそ理想像』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11873

試論:「ユダヤ人とギリシア語」を140文字以内で

【問】使徒言行録6章の「ギリシア語を話すユダヤ人」とは?
【答】当時ユダヤ本土の人々はヘブライ語を話し、ガリラヤのユダヤ人も独特の「訛り」はあったものの、ヘブライ語を話しましたが、それ以外の地方で、かつてマケドニア人が支配していた領域に移民したユダヤ人はギリシア語を話していました。

【追記】

マケドニアの大征服者アレクサンドロス大王の死後、武将たちによる領土の分割の結果、ユダヤはキレネやキプロス同様エジプトが本拠のプトレマイオス王朝に百数十年支配された。ダニエル書はこの王朝を「南の王」と呼んだ。この王朝はユダヤ人のエジプト(キレネやキプロスも含む)への移民を奨励した。

(注)別エントリー「試論:『ユダヤ人とキレネ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15734

ペルシア王によってユダヤ人は捕囚から解放され帰還したが、ユダヤ人の自治に委ねられた領土はエルサレムとその近辺のみで、かつての独立王国と比較にならない小ささで周辺異民族から容易に干渉を受けやすく、さらにユダヤ人は「産めよ増やせよ」で人口増加が著しいため、「南の王」は移民を奨励した。

ペルシアによりバビロン捕囚から解放され帰還した人々は、都と神殿の再建を許されたが、自治を許された領域は広くなく「産めよ増やせよ」に従えばすぐ手狭となった。ユダヤを支配した国々が移民を奨励した結果、ローマ時代には「帝国の主要都市でユダヤ人のいない町はない」と言われるくらいであった。

バルナバとパウロは異邦人の宣教に旅立ったが、当時ローマ帝国の主要都市のほとんどにはユダヤ人の共同体と会堂が存在し、当然、彼らとも、遭遇した。使徒を迎えるユダヤ人の態度は三通りで【1】最初から好意で迎える【2】最初から敵意で迎える【3】好意と敵意との間を揺れ動く、というものだった。

試論:「飼い慣らされた小羊」?を140文字以内で

エレミヤ11章19節「わたしは、飼い馴らされた小羊が屠(ほふ)り場に引かれて行くように、何も知らなかった。彼らはわたしに対して、悪巧みをしていた」ヨハネ5章39節「聖書はわたしについて、あかしをするものだ」ルカ24章44節「わたしについて預言者の書にある事柄は必ず全て実現する」。

(注)別エントリー「試論:『身代わりの羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9046

(注)別エントリー「試論:主イエスと旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7462

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4783

(注)別エントリー「試論:キリスト教と旧約聖書を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6527

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

【追記】

ダニエル9章24節はメシアについて預言の時代を封印する存在だと預言し、主はルカ21章22節で、(紀元七〇年の)エルサレム滅亡で旧約聖書の全預言が成就し預言の時代が終わると仰せになった。故に紀元七〇年以降の国際情勢と旧約聖書の預言は無関係で、関係ありとする強弁は主の御言葉に反する。

試論:「湖の上を歩くキリスト」を140文字以内で

【問】なぜ福音書はイエスが湖の上を歩く話を記したのですか? 人々に荒唐無稽な印象を与えて信頼性を落とすだけでは?
【答】ヨハネ1章は、万物を創造された「言」という神が人となられた方がイエスだと記します。万物の創造主である神には当然、自然法則を超えることが可能であると、示すためです。

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

【追記】

【問】「イエスはいわゆる『超能力』の持ち主だった」と伝えたかったのですか?
【答】いいえ。多くの人が「天からのしるし」つまり列王下1章で預言者エリヤが天から降らせた火を見たがりましたが、決してイエスは行わず、ただ、生贄の小羊のように屠殺されました。その意味を考えなければなりません。

(注)別エントリー「『贖(あがな)い』と『救い主の母』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19677

試論:コヘレト1章の知恵と知識を140文字以内で

【問】コヘレト1章の最後の部分は「知恵や知識をいくら追い求めても、結局はそれ自体が愚かな行為で意味のないものだ」と教えているのですか?
【答】いいえ。「人間は知恵や知識を得れば得るほど、以前の自分が愚かで意味のない事柄に熱中していたことを悟り、心の痛みと苦悩も増す」と教えています。

試論:「自分自身を欺く人」を140文字以内で

【問】「自分はキリストから特別に愛されている」とか、「自分には聖霊の力が働いている」などと、吹聴する人たちがいます。
【答】ガラテヤ6章3節「実際にはそうでもないのに自分を何か特別な存在であるかのように思い込んでいる人が、もしもいるとすれば、その人は自分自身のことを欺いています」。

【追記】

二コリント10章7節は「もしもあなたたちの中に『この自分こそキリストに属している』という自負が強過ぎる者がいるなら、その者と同様にわたしたちもまたキリストに属していることをよく思い返すように」と記し、自分一人だけがキリストから特別扱いをされているかの如く仄めかす者に再考を促した。

ヨハネもパウロも伝統的なヘブライの世界観に従い人間に属する事柄を「肉」、神に属する事柄を「霊」と呼んだ。一コリント14章37節でパウロは、「自分には神の霊(聖霊)が働いている」と周囲に軽々しく吹聴する人々を、「自分を『霊の人』と思っている者」と呼んで、彼らへ厳しい自省を要請した。

(注)別エントリー「試論:一コリント『霊の人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/24336

箴言3章34節は「神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みをお与えになる」と説く。「自分は誰かの召使になった覚えはないし、他の人のためにあれこれするなど、やってられない」と放言する人は「キリストの律法」を絶対に実行できないし、神がお与えになる恵みもまた、永遠にその人には届かない。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』と世情を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18499

「わたしの律法」

【問】エレミヤ31章33節で預言され、ヘブライ8章10節でも引用された、「わたしの律法」とは、何ですか?
【答】「キリストの律法」(一コリン十9章21節、ガラテヤ6章2節)とパウロが呼ぶ掟のことで、主イエスがマタイ7章12節で「これこそ律法であり預言者〔の教え〕」と呼ばれた掟です。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

主イエスはヨハネ6章40節で「わたしの御父の御心は、御子(=主イエス御自身)を見て信じる者が皆、永遠の命を得ること」と仰せになった。「永遠の命」(マタイ25章46節)を得るために必要な具体的な行動はマタイ25章「最後の審判」の箇所に列記され、その原則とは《キリストの律法》である。

(注)別エントリー「試論:『永遠の命を得るために』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8590

(注)別エントリー「試論:「天国の福楽を相続する」を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13891

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11494

(注)別エントリー「試論:バシレイア(=神の王国)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12654

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

ヘブライ10章16節はエレミヤ31章33節の預言を引用し、神なる主が御自分の律法を人々の内面に書き記すことを再確認する。主イエスはマタイ7章12節で「他人からしてもらいたいことを自分の方から他人にしなさい。これこそ律法と預言者」と仰せになり、パウロはこれをキリストの律法と呼んだ。

主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちが他人からしてもらいたいと思うことは全て、あなたたちから他人にしなさい」と《愛の掟》を教えられて、「これこそ律法と預言者」と宣言された。これをパウロも「キリストの律法」(一コリント9章21節、ガラテヤ6章2節)と呼びモーセの律法と対比した。

主イエスはマタイ7章12節で、「自分が他人からしてもらいたいことを、あなたたちから他人にしなさい。これこそ律法であり、預言者の教え」と御教えを要約された。エレミヤ31章33節は「わたしの律法を、彼らの心に記す」と預言する。キリストの律法は、モーセの律法に比べると、単純だが奥深い。

マタイ5章17節「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するため」同7章12節「人からしてもらいたいと思うことは何でも、あなたたちから人にしなさい。これこそが律法と預言者」ローマ13章9節「他にどんな掟があろうとも、隣人を自分のように愛することに要約されます」。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1982

主に立ち帰って生きる

エゼキエル18章「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は仰せになる。彼が悪から立ち帰って生きることを喜ばないだろうか。お前たちが犯した全ての背きを投げ捨てて新しい心と霊を造り出せ。どうしてお前たちは死んでよいだろうか。お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」。

黙示録に登場する「第二の死」は主イエス・キリストから次のような宣告を受けることに等しい。「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ」(マタイ7章23節)または「お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」(ルカ13章27節)。

黙示録20章には「この火の池が第二の死である」(14節)「その名が命の書にない者は火の池に投げ込まれた」(15節)などとあるが、マタイ25章には「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ」(41節)「永遠の罰」(46節)と書かれている。

黙示録20章12節以下には、マタイ25章31節以下と同様に、「最後の審判」に関する記述が登場するが、そこでは全ての死者たちが各自の行いに応じて裁かれることが書かれており、「行いを伴わないならば、信仰はそれだけでは死んだものです」というヤコブ2章17節の記述とは完全に一致している。

知恵の書5章8節は「われわれは当然のように自分を自慢して隣人たちを小馬鹿にし、富を誇り、物質的な価値観以外の事柄に対しては忌み嫌って、少しも意味など感じることはなかったが、そのような生き方や富は本当に自分の役に立ったのだろうか? 富と高慢は自分を最後にどこへ導いたのか?」と記す。

エフェソ4章の後半では、「神にかたどって造られた新しい人」として生きるために、「怒ることはあっても罪を犯してはならない」「日が暮れるまで怒ったままではいけない」「悪い言葉を一切口にしない」「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどの全てを、一切の悪意とともに捨てる」等を勧めている。

イザヤ58章9節「もしもあなたが隣人を圧迫することをやめるなら、もしもあなたが隣人を侮ることをやめるなら、もしもあなたが隣人を言葉で傷つけることをやめるなら、あなたが主を呼ぶ時には必ず主は御答えになり、あなたが主に向かって叫ぶ時には必ず主は『わたしはここにいる』と御返事される」。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

試論:ヨハネ6章4節を140文字以内で

【問】ヨハネ6章4節で、過越祭が迫っていた時期だったことに言及した意味は?
【答】同11章55節は、「ユダヤ人は身を清めるために過越祭の前にエルサレムに上る」習慣があったことを記します。本来は一人一人が地元に戻り「親族や知人」(ルカ2章44節)と共に旅立つべき時期が迫っていました。

【追記】

【問】当時のユダヤ人の「清め」とは何ですか?
【答】ヨハネ2章の有名な「カナの婚礼のぶどう酒の奇跡」の場面では「ユダヤ人が清めに用いる石の水がめ」(6節)が登場します。民数記19章には「清めの水」の規定がありますが、それは「振りかける」(18節、19節、21節)ものと記しています。

(注)別エントリー「試論:エゼキエル36章『清め』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/24092

(注)別エントリー「試論:出エジプト記14章と洗礼を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15912

試論:「暴動と反乱」を140文字以内で

新約聖書にはイエスに従う人々とは全く別に、暴動や反乱で社会を動かそうとする人々の姿が登場する。バラバ(マルコ15章7節)、テウダ(使徒言行録5章36節)、ガリラヤのユダ(同37節)、「あのエジプト人」(同21章38節)などがそれで、最終的にローマへの大反乱を起こしユダヤは滅んだ。

(注)別エントリー「試論:『人心荒廃は滅亡の前兆』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6291

試論:使徒言行録5章34節を140文字以内で

使徒言行録5章で使徒たちを擁護したガマリエルは大ラビと呼ばれる存在だったが、キリスト信者になったという伝承が存在する。ただし紀元七〇年の滅亡の後ガマリエルの子孫たちがユダヤ教の指導者となりユダヤ教の再興に尽力した。ユダヤ教側はガマリエルがキリストの信仰を受け入れた話を歓迎しない。

試論:キリストは誰と共に???を140文字以内で

二コリント10章7節は「もしもあなたたちの中に『この自分こそキリストに属している』という自負が強過ぎる者がいるなら、その者と同様にわたしたちもまたキリストに属していることをよく思い返すように」と記し、自分一人だけがキリストから特別扱いをされているかの如く仄めかす者に再考を促した。

【追記】

ヨハネもパウロも伝統的なヘブライの世界観に従い人間に属する事柄を「肉」、神に属する事柄を「霊」と呼んだ。一コリント14章37節でパウロは、「自分には神の霊(聖霊)が働いている」と周囲に軽々しく吹聴する人々を、「自分を『霊の人』と思っている者」と呼んで、彼らへ厳しい自省を要請した。

(注)別エントリー「試論:一コリント『霊の人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/24336

詩編1編1節は神と共にいるための必要三条件を記す。一つ目は神に逆らう人に同調しないこと、二つ目は罪や悪に走らないこと、三つ目は高慢心を捨てることである。高慢で周囲の人々を粗略に扱う人は、いつか必ず神をも粗略に扱う。神の御独り子の母となった女性が高慢心とは無縁であるのは当然である。

試論:「話が弾む神」を140文字以内で

弟子たちは確かに自分たちの師が行われる奇跡に圧倒されたが、この師は「徴税人や罪人の仲間」と呼ばれるほど、彼らと飲食を共にして話が弾み、ニコデモのようなファリサイ派の議員とも話が弾み、ユダヤ人とは本来は交流しないサマリア人の女性とも話が弾んだ。「言」だけあって、敵とでも話が弾んだ。

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

試論:「信仰とは真心」を140文字以内で

詩編12(11)編においてダビデは、隣人に嘘をついたり隣人を早口で欺いたり言行不一致状態だったりする人々ばかりの風潮を、「信仰のある人は消え去りました」(12編2節、新共同訳)と表す。ここで「信仰」と訳されるヘブライ語を、古代のギリシア語訳聖書はアレテイア(真理、まこと)と訳す。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

【試論】

ヨハネ福音書は「信仰」を表現する際、他の福音書が用いるピスティスという語を用いず代わりにアレテイア(真理、まこと)という語を多用する。ヨハネにとって信仰とは、人の真心に対し真心で応じられる神なる主に向かって嘘偽りや裏表のない態度で接することに他ならず、これは当時の共通認識だった。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書のアレテイアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15430

主イエスに関してヨハネ福音書は「真理」を事ある毎に強調しイエスに偽りはなかったと説く。裏を返せばイエスの敵たちがイエスに難癖を付けるためなら偽りの告発を平然と行って恥じなかったことをも記している。「ガリラヤからは預言者は出ない」という難癖もヨナという先例がいる以上は虚偽であった。

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

ヨハネ7章52節に「ガリラヤからは預言者は出ない」という敵たちの難癖がある。彼らの発言は誤りで、預言者ヨナの出身地は列王下14章25節にガト・へフェルと記される。ヨシュア19章13節ではガト・へフェルはゼブルン族の領土で、そこはイザヤ8章23節の通り福音書の時代のガリラヤである。

(注)別エントリー「試論:『ガリラヤからの預言者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15449

主イエスはヨハネ14章6節で「真理」を自称されたが、プロテスタントの「改訳 新約聖書』(1917年)は「まこと」と平仮名を振り、旧約聖書で「まこと」と訳される語との関連を示唆する。嘘偽りや裏表がないこと、上っ面だけでなく内実を伴うこと、真心には真心で返されること等を意味している。

(注)別エントリー「試論:まこと(真、実、信、誠)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16274

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書の『信じる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16417

試論:「愛される少年だった神」を140文字以内で

ルカ2章52節は少年時代の主イエスについて「神と人に愛された」と表現する。箴言3章4節には類似の表現「神と人の目に好意や共感を得る」があるが、そうなるための条件として、直前の3節は「慈しみとまこと」すなわち《思いやりの心と裏表(嘘偽り)のない心》を身に着けることが不可欠だと説く。

(注)別エントリー「試論:まこと(真、実、信、誠)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16274

【追記】

主イエスはヨハネ14章6節で「真理」を自称されたが、プロテスタントの「改訳 新約聖書』(1917年)は「まこと」と平仮名を振り、旧約聖書で「まこと」と訳される語との関連を示唆する。嘘偽りや裏表がないこと、上っ面だけでなく内実を伴うこと、真心には真心で返されること等を意味している。

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書の『信じる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16417

試論:「御子に全て委ねられた」を140文字以内で

主はマタイ11章27節で、全てのことは御父から御自分に任せられていると仰せになった。これは、既にダニエル7章13節以下で啓示された事柄であり、マタイ28章18節やルカ10章22節やヨハネ3章35節や同13章3節等、福音書では事ある毎に強調される「真理(ヨハネ14章6節)」である。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

(注)別エントリー「試論:『御父である神』に結ばれていない人々」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17900

優しい人に優しい神

出エジプト記34章で主の栄光がモーセに現わされた際、御自分が優しさと厳しさを兼ね備えた神であると主はモーセに明らかにされた。ダビデは詩編18編21(20)節以下で、主は優しい人には優しく厳しい人には厳しいと歌った。その人が隣人に敬意を示さない限り、主はその人の信仰を認められない。

(注)別エントリー「試論:『選ばれた人は選んだ人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8034

主はマタイ22章で律法中の最も重要な掟の第一は神への愛、第二は隣人愛と仰せになった。申命記10章でモーセへの戒めの再授与の際、12節以下では神への愛が命じられ、19節では「遠くからやって来た者(寄留者、新参者、改宗者)」という表現で隣人愛(レビ19章18節、34節)が命じられた。

(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1982

マタイ22章36節以下の「律法の中で最も重要な掟はどれか」の答えと、ルカ10章25節以下の「永遠の命を得るために何をすればよいか」の答えは一致する。またマルコ12章32節は「神は唯一であり、他に神はない」という事柄をギリシア語本文でアレテイアすなわち真理と表現してこれを強調する。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

マタイ6章14節の主の御言葉「あなたが他人を容赦するなら、天の父もあなたの過ちを容赦される」を聞いた当時のヘブライ人はすぐ詩編18編21(20)節以下を連想し、また「神は高慢な者を敵とし、へりくだる人に恵みをお与えになる」(箴言3章34節、一ペトロ5章5節)も連想したはずである。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

箴言12章28節「憐れみの道にこそ命がある。この道を行く人に死はない」ルカ6章35節以下「敵に親切にし、善を行い、何も当てにせず貸しなさい。そうすれば、あなたたちはいと高き方であられる天の御父の子となり、大きな報いを受ける。あなたたちも天の御父のように憐れみ深い者になりなさい」。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

イザヤ58章9節「もしもあなたが隣人を圧迫することをやめるなら、もしもあなたが隣人を侮ることをやめるなら、もしもあなたが隣人を言葉で傷つけることをやめるなら、あなたが主を呼ぶ時には必ず主は御答えになり、あなたが主に向かって叫ぶ時には必ず主は『わたしはここにいる』と御返事される」。

主イエスはマタイ5章16節で「あなたたちの光を、人々の前に輝かせなさい」と仰せになった。イザヤ58章6節〜10節では主からの賜物である光が輝く条件として、他人を圧迫したり小馬鹿にしたり暴言を吐いたりすることをやめて、困窮している隣人に救いの手を差し延べることであると啓示している。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

主イエス・キリストは「山上の説教」で「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」(マタイ7章26節)と仰せになり、また「聞いて行う者は岩の上に家を建てた賢い人に似ている」(24節)とも仰せになられ、行うことがない信仰生活のもろさを強調なさった。

(注)別エントリー「試論:マタイ25章の十人の乙女を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5994

主はマタイ13章12節で御教えを聞いても実行しない人のことを、持っていない人は持っているものまでも取り上げられると仰せになった。これは25章29節でも繰り返され恵みである御教えを隠したと同然の人は、最終的に一度与えられた恵みまで取り上げられると、タラントンのたとえで御説明された。

(注)別エントリー「試論:『土台なしで家を建てる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8274

一ヨハネ4章は、世間的な事柄(5節)ばかり語る一方で福音書の主の御言葉に関してはなるべく触れずに自分も実行しない者を、たとえキリスト信者を自称しようと「反キリストの霊」と断じたが、この種の欺瞞的な信者をマタイ25章では主人から預かった財産(=福音の賜物)を隠した者にたとえている。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:反キリストの霊を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5217

(注)別エントリー「試論:反キリストを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5487

二テモテ4章でパウロは、人々が「御言葉」(2節)つまり《主が人々の前に御姿をお見せになり直接人々にお話しになった御教え》には耳を傾けなくなり、「自分に都合の良い」(3節)「作り話」(4節)つまり真の御言葉ではない紛い物の方に引かれていくと警告したが、対策は福音書を読む以外にない。

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

「光」と人間社会

人間が神を知らず、「人間社会とは人間同士が隙あらば互いの足を引っ張ろうと狙い続ける世界に他ならない」と全ての人間が当然のように思い込み続けるなら、この世は「闇」であり地獄も同然である。「世の光」である主イエスは、そのような状況を打破する方法を人々に教えられ、実際に模範を示された。

(注)別エントリー「試論:御受難の際の主の模範を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6315

ヨハネ1章4節は「言(ことば)の内に命があり、命は人間を照らす光」と記す。これはヨブ33章27節以下「わたしは罪を犯し正義を曲げたが、すべきでなかった。神はわたしの魂を滅びから救われ、命を得てわたしは光を仰ぐ」を踏まえており、主が御言葉で人間の魂を滅びから救われることを宣言する。

主イエス・キリストがこの世に来られた意義は、「言」すなわち神の御言葉(御教え)を御自分で人々に仰せになるためであり、「御教えを聞いて自分なりに努力したけれど悪戦苦闘の結果あまりうまくいかなかった」ならまだしも、最初から聞かなかったように振舞うのは財産を布に包み隠すのと同じである。

一ヨハネ4章は、世間的な事柄(5節)ばかり語る一方で福音書の主の御言葉に関してはなるべく触れずに自分も実行しない者を、たとえキリスト信者を自称しようと「反キリストの霊」と断じたが、この種の欺瞞的な信者をマタイ25章では主人から預かった財産(=福音の賜物)を隠した者にたとえている。

マタイ5章で主は、「あなたがたは世の光」(14節)、「あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(16節)と仰せになり、行いを伴わない信仰など役に立たない(ヤコブ2章14節)ことをお話しになった。

(注)別エントリー「試論:行いを欠く信仰を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5360

(注)別エントリー「試論:『地の塩』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5586

福音書は、神からの賜物である御言葉を光にたとえ(ヨハネ1章4節)、また「ムナ」にたとえて(ルカ19章)、主イエスは御言葉を受けた人々を世の光と呼んだ。一ムナを布に包んでしまっておいたしもべが主人の怒りを買った理由は、それにより御言葉が世に対して光り輝く機会を完全に奪うからである。

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

(注)別エントリー「試論:『人間を照らす光』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7227

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『神よあなたのことばは』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6358

主はマタイ5章14節で「あなたがたは世の光」と弟子たちを呼ばれたが、その理由について主はヨハネ8章12節で「わたしは世の光」と宣言された上で「わたしに従う者は暗闇の中を歩まず、命の光を持つ」と仰せになった。同1章4節は「御言葉のうちに命があり、命は人間を照らす光であった」と記す。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

ルカ2章に登場するシメオンは、幼子イエスを抱きながら、マリアとヨセフの前で「万民のために整えてくださった救い」「異邦人を照らす啓示の光」と神を称えてイエスによってイザヤ9章1節の預言が成就することを語り、母マリアの苦しみ(ルカ2章35節)に関しても、シメオンは聖霊によって語った。

(注)別エントリー「試論:『神の母であること』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6079

(注)別エントリー「主イエス・キリストがインマヌエルである理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1338

主イエスは「わたしは世の光」(ヨハネ8章12節)と仰せになられ、1章4節は「御言葉(人々に語り掛ける神=御子イエス・キリスト)の内に命があり、命は人間を照らす光」と記し、5節では主を「光」と表現する。3章19節で主は「光」と自称され、11章25節では「復活」「命」とも自称された。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『福音に禅問答などない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11340

イザヤ55章6節〜7節「まだ主を見つけられる間に、主を尋ね求めなさい。まだ主を近くに感じている間に、呼び求めなさい。神に逆らう者は不従順の道から離れなさい。善からぬことを行う者は悪巧みを捨てなさい。わたしたちの神である主に立ち帰るなら主は憐れんで下さり、どこまでも赦して下さる」。

(注)別エントリー「試論:イザヤ58章『真の断食』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14709

(注)別エントリー「試論:イザヤ58章の『世の光』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14802

主はマタイ5章14節で「あなたがたは世の光」ヨハネ8章12節で「わたしは世の光」「わたしに従う者は暗闇の中を歩まず命の光を持つ」と仰せになった。同1章4節は「御言葉のうちに命があり、命は人間を照らす光」と記す。イザヤ58章6節以下では隣人に心を配り助けを惜しまない人に、光が伴う。

(注)別エントリー「試論:『わたしは命である』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11586

(注)別エントリー「試論:『霊魂を注ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13590

いつも喜んでいるようにと一テサロニケ5章16節は勧める。ローマ12章15節は喜んでいる人がいれば一緒に喜び、悲しんでいる人がいれば一緒に悲しむことを勧める。フィリピ2章18節でもパウロは喜ぶことを勧めるが、その前段階として14節では何事にも不平や理屈を言わないようにとまず勧める。

子供のようになる???

主はマタイ18章で、「心を入れ替えて子供のようにならなければ決して天の国に入ることはできない」(3節)また「自分を低くして子供のようになる人が天の国では一番偉い」(4節)と仰せになられ、「心を入れ替える」「自分を低くする」の二つが子供のようになるために必要な事柄であると説かれた。

(注)別エントリー「試論:エフェソ4章『新しい人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5730

一ペトロ2章の冒頭は「霊的な乳飲み子」について語っているが、ここでペトロは「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去る」ことを要請しており、当然ペトロは、あまりにも有名な「人から出て来るものこそ、人を汚す」で始まる、マルコ7章20節から23節の主の御言葉を念頭に置いて説明する。

主はマタイ18章で、「心を入れ替えて子供のようにならなければ決して天の国に入ることはできない」と仰せになり、「心を入れ替える」(3節)と「自分を低くする」(4節)の二つが、子供のようになるために必要であると教えられた。弟子たちは詩編131編を歌うたび以前から学んでいたはずである。

主はマタイ18章10節で、人間と神との連絡を行う天使の存在に言及され、たとえ幼子が言語や思考や体力や行動の面でおぼつかない存在であっても、幼子の非力を侮り良からぬ行動に出る者については全てを天使が逐一、神の御前で報告し、神は全てを御存知であると仰せになった(マタイ6章6節参照)。

(注)別エントリー「試論:『他人の弱みに乗じない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7371

主はマタイ18章3節で、心を入れ替えて幼子のようになるように強く弟子たちへお命じになり、他方5章48節では、天の御父と同様に、皆も「完全」となるように主はお勧めになった。古代のギリシア語創世記では「完全」というこのギリシア語が、6章9節においてヘブライ語の「無垢」に対応している。

(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3277

主はマタイ18章6節以下で、無垢な信仰を持つ子供をつまずかせる者は不幸であり厳罰は必至だと示唆された。詩編37編23節以下は主が御旨にかなう道を人間のために準備され、また人間の手をとらえ歩みを定めておられると記す。子供をつまずかせる(御旨から外れさせる)行為は絶対に容認されない。

レビ記19章には18節に有名な隣人愛の掟があるが、それに先立つ箇所には隣人愛に反する様々な行為を禁じる掟が列挙される。14節では、耳の不自由な人がいる前でその人が聴こえないのをいいことに悪口を言う行為と、目の不自由な人が歩いて行く方向に障害物を置いて邪魔をする行為とが禁じられる。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

(注)別エントリー「試論:『理由のない憎しみ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6468

(注)別エントリー「レビ記19章17節:理由のない悪意」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4826

試論:箴言21章29節を140文字以内で

この節では、善人は主の御教えに合致しているかどうか事あるごとに慎重に判断して行動するが、悪人はそんなことには無頓着に行動すると教える。イスカリオテのユダは自分が日常的に献金泥棒を行いながらも、ベタニアのマリアが主イエスのために高価な香油を惜しげもなく費やしたことには難癖を付けた。

ヨハネ3章16節「永遠の命を得る」

主イエスはヨハネ3章16節で「御父が独り子を世に与えられた理由は、独り子を信じる者が一人も滅びることなく永遠の命を得るため」と教えられ、ルカ10章25以下では永遠の命を受け継ぐために何をすべきかを質問した一人の律法学者に対して、具体的に答えられた。善きサマリア人の話がそれである。

(注)別エントリー「試論:『善きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

ルカ10章25節以下では、主イエスと一人の律法学者との対話を記し、「永遠の命」を受け継ぐために実行すべき事柄として「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい」とあり、主は「正しい答え」と仰せになった。

マタイ19章16節で主に金持ちの青年が永遠の命を得るにはどうすればと尋ねた時、それを彼は比較的容易な事柄と考えていたが、主は同13章44節以下特に46節で、それを手に入れるためにはあらゆる努力を尽くす必要があることを、「宝」「真珠」「持ち物を全て売り払う」等の表現で御説明された。

(注)別エントリー「試論:『招かれる』『選ばれる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8012

(注)別エントリー「試論:『御言葉によって生きる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11157

主はマタイ13章45節以下で、「天の国」を全財産と引き換えにしてでも手に入れるべき真珠にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「天の国」は「永遠の命」と同義だが、「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

ルカ10章25節の律法学者と18章18節の議員は同じ質問をした。ただ議員には「心・精神・力・思いを尽くして」の観点が欠けていた。主は議員に、「持ち物を全て売り払う」という表現で勧告なさったが、この表現はマタイ13章44節〜45節のたとえでは《あらゆる努力を尽くす》を象徴している。

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

マタイ1章19節は、主の養父ヨセフをディカイオス(義人、正しい人)と呼ぶが、25章「最後の審判」の箇所では、ディカイオス(37節、46節)は「永遠の命にあずかる」(46節)人を意味している。つまり、「神の義」を身に着けることこそが、「永遠の命にあずかる」ことを約束するものである。

(注)別エントリー「試論:『神の義』と詩編を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6798

最後の晩餐の際に主は、御自分の《愛の掟》においては隣人愛の実践をもって御自分への愛の実践とみなすと宣言された(ヨハネ14章21節等)。最後の審判では各自の行いに応じて裁かれる(黙示録20章13節、マタイ25章45節)ため、神からの赦しを得るには隣人を赦す以外ない(同6章12節)。

マタイ7章21節で主イエス・キリストは、「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな、天の国に入るのではない。天におられるわたしの父のみ旨を行う者だけが入る」と仰せになられ、23節やルカ13章27節では入れなくなる理由とは「不法を働く」「不義を行う」ことであると明言されている。

(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8105

マタイ25章45節で主は「この小さな者の一人にしなかったことは、わたしにしなかったことである」と仰せになり、隣人愛の実行を神への愛の基準にすると宣言された。従って「私は周囲とはトラブルを起こしてばかりですが、主よ、あなたへの愛だけは誰にも負けません」という自己申告は、通用しない。

主の養父ヨセフは、マタイ1章19節で義人(正しい人)と呼ばれるが、25章の最後の審判では義人(正しい人)は永遠の命が確約されている人を指す(37節、46節)。故に聖書で永遠の命について言及する箇所を読む時、主の養父ヨセフに関連付けて読んでも誤りとは言えない(ヨハネ12章25節)。

ヨハネ12章25節は「この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命を得る」と主の仰せを記す。古代のヘブライ人は「〜を二の次にする」と言いたい時にも、「〜を憎む」という表現を用いた。主の養父ヨセフはヘロデが幼子の命を狙った時も、自分の命を二の次にして幼子と幼子の母を守り続けた。

(注)別エントリー「試論:御受難と『永遠の命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9460

マタイ1章19節は主の養父ヨセフを「正しい人(ディカイオス)」と表現する。25章の「最後の審判」におけるディカイオスは、隣人が何らかの助けを必要としている時に、必要とされている助けを提供して困り事を解決する人を指し、ヨセフはイエスとマリアが本当に必要としていることだけを実行した。

(注)別エントリー「試論:聖ヨセフの模範を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7243

(注)別エントリー「試論:聖母と聖ヨセフの終生童貞を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6397

(注)別エントリー「試論:『聖別』と聖母の終生童貞を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7939

試論:エゼキエル書「タンムズ」を140文字以内で

エゼキエル8章14節は主の神殿の門の入口において異邦の神々の一員であるタンムズ神への礼拝が行われていることを記した。これを15節では「忌まわしいこと」と表現して10章は主の栄光が神殿を去る光景が記される。エゼキエル及びヘブライの民にとって、タンムズ神礼拝は神なる主への背信である。

(注)別エントリー「試論:『天使たちが神殿を去る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6363

【追記】

バビロニアの暦は「第四の月」を「タンムズの月」と表現した。バビロン捕囚から古代イスラエルの民を解放したペルシア人が、バビロニアの暦を自分たちの暦として継承したために、ペルシアの統治下に入った古代ユダヤの歴史に「タンムズ」は残ったが、本来タンムズはヘブライ人にとって異邦の神である。

(注)別エントリー「試論:『古代ユダヤの二つの暦』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12908

バビロン捕囚後の古代ユダヤにはエジプト以来の暦(申命記16章1節:アビブの月)とバビロンの暦(ネヘミヤ2章1節:ニサンの月)の二つが存在した。これを踏まえればハガイ2章「第九の月の二十四日」と一マカバイ4章52節「キスレウ(第九)の月の二十五日」とは同一の日を指す蓋然性が大きい。

主イエスはマタイ21章42節で、詩編118編22節を踏まえ御自身を「家」の《隅の親石》に喩えられた。他方ハガイ2章は《主の神殿(=神の「家」)の基》が置かれる日(18節)としてヘブライ人の暦で「第九の月の二十四日」という日付を何度も強調する。これはユダヤ教のハヌカと同時期である。

(注)別エントリー「試論:神殿奉献記念祭(ハヌカ)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12788

(注)別エントリー「聖書にはクリスマスの日付が載っていますか???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13267

「人の子も上げられねばならない」

主はヨハネ3章14節で、モーセが荒れ野で「青銅の蛇」(民数記21章8節以下)を上げた(=高く掲げて顕示した)ことに言及された。御自身もやがて十字架上に上げられるが、それは旧約の民が「青銅の蛇」によって命を得たように、御自分の民が永遠の命を得るためである(コロサイ1章20節参照)。

(注)別エントリー「試論:真理と贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9081

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

ヨハネ8章34節「罪を犯す者は、皆、罪の奴隷である」32節「真理はあなた方を自由にする」ヘブライ2章14節〜15節「御自分に委ねられた者たちが人間である以上イエスも同じく人間としての全てを担われたが、死を司る悪魔を御自分の死によって滅ぼし悪魔の罪と死の支配から人々を解放された」。

主はヨハネ8章32節で「真理はあなたたちを自由にする(解放する)」と仰せになった。パウロはヨハネと同じギリシア語を用いて何からの解放か、その答えをローマ6章と同8章で説明した。「罪から解放」(6章18節、22節)、8章2節「罪と死の法則から解放」同21節「滅びへの隷属から解放」。

ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7514

詩編49(48)編8(7)節は、神に対して人間が贖いの業を行うことはできないと記す。とはいえ神の御独り子が自ら人間となられて自分の「からだ」を「身代金」として贖いの業を行われた時の「からだ」は、マリアから受けたものだった。マリアは極めて特別な形でイエスの贖いの業に「参加」をした。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7795

(注)別エントリー「試論:『履物を脱ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8620

ヨハネ1章29節「世の罪を取り除く神の小羊」の「取り除く」に当たるギリシア語は、一ヨハネ3章5節にも登場し、その前後では隣人愛の実践を奨励するが、同じ表現をエフェソ4章31節も用い、主に応えて信者が取り除くべきものを「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりを全ての悪意と共に」とする。

(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3277

エフェソ4章の後半では、「神にかたどって造られた新しい人」として生きるために、「怒ることはあっても罪を犯してはならない」「日が暮れるまで怒ったままではいけない」「悪い言葉を一切口にしない」「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどの全てを、一切の悪意とともに捨てる」等を勧めている。

(注)別エントリー「試論:一ペトロ2章『乳飲み子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5721

エゼキエル18章「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は仰せになる。彼が悪から立ち帰って生きることを喜ばないだろうか。お前たちが犯し た全ての背きを投げ捨てて新しい心と霊を造り出せ。どうしてお前たちは死んでよいだろうか。お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」。

キリスト教の歴史上「救われる者と救われない者とは神に予め定められている」という主張が存在したが、ならば神はなぜエゼキエル18章32節で「お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」と仰せになったのだろうか。二コリント5章14節「キリストは全ての人のために亡くなられた」。

主イエスはルカ15章7節で「悔い改める必要のない九十九人の義人よりも、悔い改めている一人の罪人のことを天は大いに喜ぶ」と仰せになり、マタイ18章14節ではエゼキエル18章32節「わたしは誰の死も喜ばない」と同様に、天の御父は悪人の滅亡よりも悪人の回心を喜ばれることを再確認された。

(注)別エントリー「試論:『悔い改める一人の罪人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17627

ヨハネ9章31節には「神は罪人の言うことなどお聞きにならないとわたしたちは承知している」という言葉が記されてはいる。罪人が良からぬ企みを実行する前に成功を神に願い求めても、神が聞き入れるわけがないが、罪人が罪人であることを止めて回心したいと神に願う時は、神は喜んで聞き入れられる。

(注)別エントリー「試論:『聞き入れられる願い事』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18477

ルカ23章40節以下で主の隣の十字架につけられた盗賊は最後に神への畏れを知り、自分の今の惨めな境遇は全て自業自得だが神には罪はなく神の御心に適う願いなら聞き入れられると確信し、自分の隣にいるのは神そのものであると信じて直接それを伝えた。彼の信仰告白に主は最大の幸福を御約束された。

(注)別エントリー「『ぶどう園の労働者』実例を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18482

ルカ13章23節は主イエスに救われる者は少ないかを尋ねた人がいたと記す。主は直接の回答をされなかったが、のちに最後の晩餐の夜、ヨハネ14章2節で「わたしの父の家には住む所がたくさんある」と仰せになった。それが答えである。合格者の定員は存在しない。従って、問題は合否の基準と言える。

(注)別エントリー「試論:『合格者数と合否の基準』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8201

ルカ13章23節は救われる者は少ないかという主への質問を記す。主は27節で不義を行う人々は神に拒まれると答えられ、救われるか否かはあくまでも一人一人が主のおぼしめしに沿うか否かであり、救われる者の多い少ないよりそれ以前にまず神の義(マタイ6章33節)を求めて生きるよう勧められた。

主はルカ13章23節で救われる者は少ないかと問われ、27節で不義を行う人々が神に拒まれると答えられた。確かに「合格者数」や「合格率」がどうしても気になってしまうのは仕方ないが、だからといって、合格と不合格を分ける判断の基準に目が行かなくては本末転倒で、基準は聖書に明記されている。

(注)別エントリー「試論:『神のものを神に返す』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18573

試論:パウロが説く「愛の反対」を140文字以内で

【問】パウロは「愛の反対」に関して、何を教えましたか?
【答】ローマ13章10節は「愛は隣人に悪を行わない」と教えます。これを踏まえるなら「愛の反対」に該当する行為とは「隣人に悪を行うこと」そのものです。既にレビ19章は18節の隣人愛の掟の反対とは何かを17節以前で列挙しています。

【追記】

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

【問】主イエスはマタイ7章12節で《キリストの律法》を授けられましたが、なぜですか?
【答】「自分が他の人からしてもらいたいことならなんでもあなたから他の人にしなさい」という考え方が土台になければ、いくら言葉で「愛」とか「悔い改め」とか口にしたところで全て絵空事に過ぎないからです。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

(注)別エントリー「試論:『世に光を輝かせなさい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17193

【問】なぜ世の人心は荒廃し「愛が冷える」(マタイ24章12節)のですか?
【答】主イエスが「あなたが他の人からしてもらいたいこと全てをあなたから他の人にしなさい」(マタイ7章12節)と仰せになり、御自分の「律法」とまで呼ばれたのに、弟子を自称する人々でさえそれを等閑にするからです。

試論:一コリント「霊の人」を140文字以内で

ヨハネもパウロも伝統的なヘブライの世界観に従い人間に属する事柄を「肉」、神に属する事柄を「霊」と呼んだ。一コリント14章37節でパウロは、「自分には神の霊(聖霊)が働いている」と周囲に軽々しく吹聴する人々を、「自分を『霊の人』と思っている者」と呼んで、彼らへ厳しい自省を要請した。

(注)別エントリー「試論:『肉と霊』の対比を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7740

(注)別エントリー「試論:ガラテヤ5章の『肉と霊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7657

(注)別エントリー「試論:聖書と『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7649

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを識別する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14194

【追記】

詩編1編1節は神と共にいるための必要三条件を記す。一つ目は神に逆らう人に同調しないこと、二つ目は罪や悪に走らないこと、三つ目は高慢心を捨てることである。高慢で周囲の人々を粗略に扱う人は、いつか必ず神をも粗略に扱う。神の御独り子の母となった女性が高慢心とは無縁であるのは当然である。

【問】マラキ3章19節は高慢な者と悪を行う者を同列に論じますが、なぜですか?
【答】詩編1編1節の通り旧約の民は神に従わぬ者と罪人と高慢な者を同列に扱いました。エバは創世記3章で神のようになることを望みましたが、マリアはルカ1章38節で自分は主のはしために過ぎないと謙遜しました。

【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。

主は「いつでも戸を開けられるように目を覚ましていなさい」と仰せになり、普段から心の準備をすることが弟子としての心構えであると教えられた。主の母親となるべき女性がその少女期、当時最もしかるべき教育の場であった神殿の聖所で奉仕の日々を送ったという概念は、極めて蓋然性の高い話と言える。

カトリックでは聖母マリアを「無原罪」つまりサタンの悪影響とは全く無縁の女性と教え、少女期の聖母が神殿で十年以上奉献生活を送り教育を受けたと教える。聖母は長年、救い主やあがないについて思い巡らしていた。受胎告知の際の言葉「わたしは主のはしため」は一朝一夕に出て来る類のものではない。

箴言3章34節は「神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みをお与えになる」と説く。「自分は誰かの召使になった覚えはないし、他の人のためにあれこれするなど、やってられない」と放言する人は「キリストの律法」を絶対に実行できないし、神がお与えになる恵みもまた、永遠にその人には届かない。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』と世情を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18499

ルカ2章51節は少年時代の主イエスが両親に従っておられたと記す。他方、4章5節から8節は悪魔が主を誘惑して自分に従わせようとしたが、主は断固として拒まれたと記す。今、キリストの弟子を自称する人々が、母マリアを拒む一方で悪の誘惑には抵抗できないとしたら、彼らの本籍はどこにあるのか?

(注)別エントリー「試論:『女』とサタンの対立を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10314

(注)別エントリー「試論:『マリアとヨセフと聖書』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16295

試論:ヨハネ3章の「肉」「霊」を140文字以内で

古代のヘブライ人の世界観に従い、ガラテヤ5章は「人間(人間それ自体)」を「肉」、「神〔に由来するもの〕」を「霊」と呼ぶ。ヨハネ3章6節も同じ対比を用い、「霊から生まれた者は霊」とは同1章12節の「神の御言葉である主イエスは、御自分を受け入れる人に神の子となる資格を与えた」を指す。

【追記】

ガラテヤ5章16節以下では「肉と霊」が対比されるが、ここで「肉」はヨハネ1章14節同様「人間」を指し、「霊」は「聖霊」「神の霊」を意味する。つまりこの章における「肉」と「霊」との対立とは、「人間に由来する諸悪」(マルコ7章20節以下参照)と「神に由来する諸徳」との対立を意味する。

古代のイスラエル人にとって「肉」という表現は「人間」を指す場合があった(ヨハネ1章14節等)。マルコ7章20節以下で主イエスが「人から出て来るものこそ人を汚す」と注意を促された諸悪と、ガラテヤ5章19節以下でパウロが「肉の業」と呼んで避けるように促した諸悪が同様なのは当然である。

古代のヘブライ人は「肉」を、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけではなく魂も含めた人間の全体。)」を表す言葉として用いていた。創世記6章12節「すべて肉なる者は堕落の道を歩んでいた」(新共同訳)。日本語訳の「肉なる者」に対応する語は、ヘブライ語本文ではただ単に「肉」である。

ローマ8章6節の直訳は「肉の思いは死、霊の思いは命と平和」。ヘブライ人は人間由来の事柄を「肉」、神に由来する事柄を「霊」と呼び、あらゆる幸福を「命」あるいは「平和」と総称した。この節は「人間由来の願望は死で終わるが、神に由来する願望は人間をあらゆる幸福へと導く」という意味である。

ガラテヤ5章は「肉」と「霊」の対立を記すが、ヨハネ1章同様、パウロは古代のヘブライの世界観に基づき、人間そのものを「肉」と表現して「霊」つまり「神の霊」と対比する。近代人は「肉と霊」という表現から「〔人間の〕肉体と〔人間の〕霊魂の対立」をイメージしがちだが、パウロの意図は異なる。

ヨハネ1章14節には「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(新共同訳)とある。「言(ことば)」とは《御自ら人々の前に現れて御言葉を人々に直接お伝えになる神、御子である神なる主イエス・キリスト》、「肉」は人間を指すヘブライ人特有の表現である(創世記6章12節参照)。

主イエス・キリストは、人間たちに模範(ヨハネ13章34節)を示されるために、神であり続けながら(ヘブライ13章8節)人間の肉体と魂を担われた(ヨハネ1章14節)以上は、神として教えられた掟(申命記5章16節)を人間として自ら忠実に実践された(ルカ2章51節、マタイ20章28節)。

最も忘れられている「法」

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちは、自分が他の人からしてほしいことを、自分から他の人にしなさい」と《愛の掟》を教えられた。従って「愛の反対」は「他の人からしてほしくないことをあえて他の人に行うこと」そして「他の人からしてほしいことをあえて他の人には行わないこと」からなる。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

レビ19章18節は有名な隣人愛の掟を教えるが、その対極の行為として17節は兄弟を心の中で憎むことを禁じる。ゼカリヤ7章10節は互いに災いを心の中で企むこと、8章17節は互いに心の中で悪を企むことを禁じ、相手の困った顔・悲しむ顔・苦しむ顔を見たいという悪意を抱いてはならぬと戒める。

ローマ13章10節でパウロは「愛とは隣人に対して悪事を行わないことです」と断言している。これを踏まえるなら、隣人に対して悪事を行おうと企むことこそが愛の反対に該当する行為ということになる。同9節は「姦淫するな、殺すな、盗むな、貪るな(他人の物の横取りを企むな)」等を列挙している。

箴言26章19節は日本語で「悪乗り」と呼ばれる行為を戒め、「親しき仲にも礼儀あり」という事柄を想起させる(詩編15編3節参照)。箴言26章18節は「死の矢」という表現を用いるが、旧約聖書の「剣」と「矢」は《心に刺さる言葉》の比喩(詩編64編4(3)節等)で、隣人への暴言を戒める。

(注)別エントリー「試論:『言葉』と『心の傷』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8216

(注)別エントリー「試論:『言葉の刃』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8308

(注)別エントリー「試論:『火も剣も御言葉の比喩』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7812

レビ19章18節は「自分自身を愛するように隣人を愛する」という隣人愛を命じ、同章ではその隣人愛の対極にある様々な行為を禁じる。17節は「心の中で兄弟を憎んではならない」と悪意を秘めたまま隣人に接することを禁じて「出来心(ふざけただけ)」という言い訳も認めない(箴言26章19節)。

(注)別エントリー「レビ記19章17節:理由のない悪意」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4826

レビ19章18節は「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」17節は「心の中で兄弟を憎んではならない」ゼカリヤ7章9節は「互いにいたわり合い憐れみ深くありなさい」10節は「互いに災いを心にたくらんではならない」と教える。「心の中で憎む」とは相手の不幸を心の中で望むことを意味する。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1982

「愛の反対は無関心」という言葉は、これを聞き「善きサマリア人の話」(ルカ10章)や「最後の審判」(マタイ25章)をすぐ連想できる人にとっては、キリスト教的な意味を持つ。しかし、これらの箇所に思い至らず、それどころか福音書のどんなエピソードも浮かばない人にとっては、混乱の元となる。

(注)別エントリー「試論:『善きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

主イエスは隣人愛の掟を、最も重要な掟の第二と呼ばれた。レビ19章14節と申命記27章18節は、耳や目の不自由な人や道に迷って困っている人を笑い者にするなと教える。レビ19章17節は、以前に迷惑をかけられたわけでもない相手に対し、理由のない悪意を抱いた状態で接してはならぬと教える。

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9949

レビ記19章には18節に有名な隣人愛の掟があるが、それに先立つ箇所には隣人愛に反する様々な行為を禁じる掟が列挙される。14節では、耳の不自由な人がいる前でその人が聴こえないのをいいことに悪口を言う行為と、目の不自由な人が歩いて行く方向に障害物を置いて邪魔をする行為とが禁じられる。

主はマタイ18章6節以下で、無垢な信仰を持つ子供をつまずかせる者は不幸であり厳罰は必至だと示唆された。詩編37編23節以下は主が御旨にかなう道を人間のために準備され、また人間の手をとらえ歩みを定めておられると記す。子供をつまずかせる(御旨から外れさせる)行為は絶対に容認されない。

マタイ18章6節で主は「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて深い海に沈められる方がましである」と仰せになり、子供のような心で神を信じている人に悪を教え込もうとする者に対して、神がとりわけ厳しい罰をもって臨まれることを、主は宣言された。

主はヨハネ3章3節で「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることができない」と仰せになられた。エフェソ4章31節以下では無慈悲・憤り・怒り・わめき・そしりなどの全てを一切の悪意と共に捨てるよう勧め、互いに親切にし合い、憐れみの心で接し合い、またキリストにならい赦し合うよう勧める。

神の国に入るためには「神の義」が不可欠であることを主は「礼服」という比喩で御説明された。コロサイ3章では「着る」べきものは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛と挙げる。マタイ11章で主は「わたしは柔和で謙遜な者だから」(29節)「わたしの荷は軽い」(30節)などと仰せになった。

主はマタイ11章30節で、「わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽い」と仰せになった。主が人々に求められるものとは、「神の義(正義)」と言えばどこか厳格な響きがするが、実際に「神の義」を構成するのは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛などの事柄である(コロサイ3章)。

(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6748

主はマタイ11章30節で「わたしの荷は軽い」と仰せになったが、補足するように一ヨハネ5章3節では「神の掟は荷が重い(=難しい)ものではありません」と説明し、その前の部分では「神を愛することとは、すなわち神の掟を守ることです」として主がお定めになった「隣人愛の掟」にやはり言及する。

(注)別エントリー「試論:『新しい掟』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7016

マルコ12章の律法学者との対話において、主はレビ記19章18節の隣人愛の掟を、「最も重要な掟」の第二とされた。最後の晩餐の際(ヨハネ13章以下)、主イエスは隣人愛の掟を「新しい掟」「わたしの掟」としてあらためて授けられ、愛の掟を守ることこそが御自分の弟子である証しだと教えられた。

主イエス・キリストはマルコ12章における「最も重要な掟」の第一と第二とを統合され、ヨハネ13章34節で「新しい掟」そして「わたしの掟」(同14章15節)とされた。この掟は隣人愛の実践をもって、神への愛の実践とする(同節)。隣人愛の実行こそがキリストへの信仰をあかしするものとなる。

「キリスト抜きのキリスト教」

ヨハネの手紙一は、キリストの弟子を自称する一方で公生活中にキリストが実際に何を語ってどう実行したかについて全く触れようとしない人々を警戒するよう呼び掛け、彼らがキリストの教会を乗っ取りキリストの御教えの代わりに世間のことだけ語り教会からキリストの存在を奪おうとしていると警告した。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

一コリント3章11節は「既に据えられているイエス・キリストという土台を無視して他の土台を据えることは、誰にもできない」と記す。二テモテ4章3節以下は、やがて人々が「健全な教え」から離れ、自分に都合のいい話だけ聞いて真理(=主イエス)の言葉を無視し、作り話に引かれて行くと警告した。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

一ヨハネ4章は信用してはならない人の特徴を、キリスト教を語っているようで実は世間に通じる話題だけで、主イエスが実際に教えられた福音書の御言葉を回避していることとした。キリストを棚上げしながら福音書以外の聖書の箇所を引用する目的は、キリストの代わりに自分自身が主役になるためである。

(注)別エントリー「試論:『招かれる』『選ばれる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8012

(注)別エントリー「試論:『神は誰を選ばれるのか』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8051

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは「天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神」主イエスを表す称号であり主が直接人々にお話しになった御言葉を記したものが福音書である。福音書を顧みず他のものばかりに目を奪われ続けるならばイエス・キリストがわからなくなる。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

箴言28章9節は、主が教えられた御言葉に耳を傾けないなら、いくら主に祈っても、主のおぼしめしには沿わないと教える。それだと、神を一方的に利用しようとしているだけで、全く信仰の名に値しない。主イエス・キリストが《神の御言葉》である以上、御教えを拒むことは神そのものを拒むのに等しい。

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

(注)別エントリー「試論:『主イエスを見失うこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5954

(注)別エントリー「試論:『主に聞き従うこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5685

マタイ22章14節「招かれる者は多く選ばれる者は少ない」の<選ばれない理由>をイザヤ65章12節は「呼んでも答えず、語りかけても聞かず、わたしの目に悪とされることを行い、わたしの喜ばないことを選んだからである」と記した。「笛を吹いたのに踊ってくれなかった」(マタイ11章17節)。

(注)別エントリー「試論:『神は誰を選ばれるのか』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8051

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

二テモテ3章でパウロは「終わりの時」の人々の姿を記した。自分本位で金銭を愛し、嘘をつき、神を畏れず嘲り、両親に従わず、恩知らずで、他人を侮り、情け容赦なく、強情で、中傷し、節度がなく、残酷で、善を行わず、裏切り、軽率かつ高慢、信仰を装いつつ実際は快楽を愛し、事実上は棄教している。

(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8105

(注)別エントリー「試論:二ペトロ2章の『偽教師』140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10808

主はヨハネ5章39節で、聖書とは御自分についてあかしするものであり、御自分を目的としない聖書研究には意味がない旨を仰せになった。これに関連し一ヨハネ4章も、主イエスに関する事柄についてなるべく触れようとしない自称信者を「偽預言者」「反キリストの霊」「人を惑わす霊」などと表現する。

(注)別エントリー「試論:『預言を封印するメシア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8347

(注)別エントリー「試論:聖書を研究する意味とは?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19381

ヨハネ5章39節〜40節「あなたたちは〔旧約〕聖書の中に永遠の命があると考えて、〔旧約〕聖書を研究する。しかし、〔旧約〕聖書とは、わたし(=主イエス・キリスト御自身)についての証しをするものである。それなのにあなたたちは〔永遠の〕命を得るためにわたしのところに来ることをしない」。

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の意義を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9840

(注)別エントリー「試論:旧約聖書を調べる意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6950

(注)別エントリー「試論:預言者も見たかったもの?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19262

試論:真似をしなくともよい事柄を140文字以内で

【問】聖書はキリストを模範(ヨハネ13章15節等)と示すけど、全て真似する必要があるの?
【答】いいえ。倣うべきは「仕えられるのではなく、仕える」姿勢で、真似する必要のない事柄は例えば湖の上を歩く、唾で泥を作り目の見えない人を治す、聖霊を与えると称して息を吹きかけるなどの行為です。

【追記】

復活された主イエスはヨハネ20章22節で「聖霊を受けなさい」と仰せになり、弟子たち(使徒たち)へ息を吹きかけられた。この仕草は新約聖書では唯一ここだけで見られ、聖霊降臨の予告として行われた。聖書には祝福や権威の行使の象徴として一般的な、手を置く仕草があるが、それとは意義が異なる。

(注)別エントリー「試論:聖霊の働きの徴を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4984

(注)別エントリー「試論:『使徒パウロ』の誕生を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9844

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを識別する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14194

主イエスはヨハネ20章22節で「聖霊を受けなさい」と仰せになって、弟子たちに息を吹きかけられた(創世記2章7節参照)。《人は神の口から出る全ての事柄で生きる》を示されるために、主はあえて息を吹きかける仕草を行われた。新約聖書には、弟子が同じ仕草を行う場面は一度たりとも登場しない。

(注)別エントリー「試論:『命の息』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14285

【問】カトリックが近代まで一般信者に旧約聖書を読ませることに消極的だったのはなぜですか?
【答】主イエスが世に来られる前と後とでは信仰の規範となる事柄が違っているのに、十分それを理解せぬまま「旧約聖書に書かれていることなら全て正しい」と真似を始めるうっかり者が出るのを防ぐためです。

(注)別エントリー「試論:『旧約聖書とカトリック』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/22022

【問】では、旧約聖書に書かれていることで現代のキリスト信者が真似しなくてもいいこととは何ですか?
【答】例えば一夫多妻制、豚肉食禁止、割礼、エルサレム神殿の建設、十分の一の献(ささ)げ物やいけにえ、預言者への従順、〔日曜日の方ではなく〕土曜日(旧約の安息日)を尊重すること、等です。

(注)別エントリー「試論:『安息日と主日との違い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12017

(注)別エントリー「試論:『土曜と日曜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12677

【問】旧約の「十分の一の献げ物」の替わりが現代の「十分の一献金」ですか?
【答】いいえ。ヘブライ10章5節以下は、旧約時代の全てのいけにえや献げ物の類に替わるものとして主イエス・キリストが御自分の体を十字架上で献げられたと教えます。「十分の一献金」は蛇の絵に足を描くような行為です。

(注)別エントリー「試論:『十分の一献金』の問題点を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12207

旧約時代には申命記18章15節以下の律法の通り、神が立てられた預言者には聞き従わなければならなかった。しかし使徒言行録21章でパウロは、アガボやフィリポの四人の娘など「預言」を行う人々の制止を振り切り、エルサレムへと出発した。新約時代には旧約時代と同じ立場の預言者など存在しない。

旧約の律法では王や大祭司も預言者に従う定めがあったがダニエル9章24節は「預言を封印するメシア」を預言し、ルカ21章22節の主の御言葉と紀元七〇年のエルサレム滅亡で、その預言は成就した。その後も当然「私的啓示」は続くが、決してそれらを旧約時代の「預言」と同じ扱いにしてはならない。

(注)別エントリー「試論:旧約時代の終わりはいつ?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21657

試論:「礼を失わず」を140文字以内で

【問】主イエスは弟子たちに対して、馴れ馴れしい態度を取られましたか?
【答】いいえ。一ヨハネ4章は「神は愛」(8節、16節)だと説きますが、一コリント13章5節は「愛は礼儀を失わない」と説きます。主イエスは誰に対しても馴れ馴れしい態度や厚かましい態度を取られることなど、皆無でした。

試論:「聖書の預言と現代世界」を140文字以内で

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると教えられた(ルカ21章22節)。旧約聖書は現代のどこの国の軍事行動も正当化しない。

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4783

(注)別エントリー「旧約聖書と『偽教師』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17476

【追記】

【問】主イエスはマタイ11章13節で〔旧約〕聖書の預言はヨハネの時までと仰せですが、ルカ24章とヨハネ5章39節では〔旧約〕聖書は御自分について証ししていると仰せです。
【答】「ヨハネの時」には洗礼者自身が預言した内容、つまり救い主の到来と差し迫った神の怒りまでが、含まれています。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ5章39節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9100

(注)別エントリー「試論:預言解釈の基本を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5092

(注)別エントリー「試論:『滅びを避けるには』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5749

【問】洗礼者が預言した「差し迫った神の怒り」(マタイ3章8節)とは何ですか?
【答】主イエスも数年後にルカ21章20節で予告されたエルサレム及びユダヤの滅亡のことで、この予告は洗礼者の預言の四十数年後、紀元七〇年に成就しました。この滅亡は、ダニエル9章の預言でも啓示されていました。

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

試論:「キリスト物語ではない」を140文字以内で

ヨハネ20章の最後の箇所では、主イエス・キリストが行われたことや仰せになったことは非常に多いが福音書は全てを網羅しているわけではなく、あくまでも主イエスへの信仰そして永遠の命へ導くことが福音書の目的と述べて、読者が本当に重要な事柄を見逃さぬように内容を精選したことを示唆している。

【追記】

ヨハネ1章の「言(ことば)」つまり神の御言葉とは、「御自分で人々に御言葉を仰せになる神」主イエスを意味する。主が人々に直接お伝えになりたかった事柄があれば、必ず公生活中に仰せになったはずで、福音書より重要な内容が私的啓示に含まれているはずだという考えは、信仰を失う端緒となりうる。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

福音書には主イエス・キリストの御言葉が記されているが、ある私的啓示はその御言葉が話された場所の地名・時間帯・季節・気候風土、そこに居合わせた人々の名前や反応など、事細かな情報を提供する。しかし信者にとって重要な事柄は、御言葉を自分のものとすることであり、それ以外の諸情報ではない。

ヨハネの第一の手紙の4章は「反キリストの霊」の特徴を説明している。神からの霊が主イエス・キリストの福音を解説するのに対し、人を惑わす霊は信仰を自称しつつ世界情勢(国際情勢・社会情勢)を好んで語る一方でキリストの福音の中身に関しては全く意を尽くすことなく沈黙する、という特徴を持つ。

ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは「御自分でお話しになる神」の意味で《天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神》主イエスを表す称号であり、直接お話しになった記録が福音書である。福音書を読まないことは主イエス・キリストを理解しようとしないことに等しい。

二テモテ4章でパウロは、人々が「御言葉」(2節)つまり《主が人々の前に御姿をお見せになり直接人々にお話しになった御教え》には耳を傾けなくなり、「自分に都合の良い」(3節)「作り話」(4節)つまり真の御言葉ではない紛い物の方に引かれていくと警告したが、対策は福音書を読む以外にない。

ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは「天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神」主イエスを表す称号であり主が直接人々にお話しになった御言葉を記したものが福音書である。福音書を顧みず他のものばかりに目を奪われ続けるならばイエス・キリストがわからなくなる。

(注)別エントリー「試論:『イエスは全人類の模範』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5948

試論:一ペトロ1章7節「精錬」を140文字以内で

旧約聖書は、神の御言葉(御教え)をしばしば「火」にたとえた。繰り返しの火による精錬が金属から不純物を取り除いていくように、神の清い御言葉(御教え)に繰り返し接することにより人間の心も清いものとなるからである。一ペトロ1章7節では、信仰上の試練をまさに火による精錬と関連付けている。

【追記】

エレミヤ5章14節「わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける。それは火となり、この民を薪として焼き尽くす」同20章9節「主の名を口にすまいと思っても、主の御言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて火のように燃え上がります」同23章29節「わたしの言葉は、火に似ていないか」。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『聖霊と火』の『火』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5770

(注)別エントリー「試論:マタイ3章の二つの『火』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5795

ルカ12章49節「わたしは地上に火を投ずるために来た。既にその火が燃えていることをどんなに願っているか」同24章32節「主が道でお話しされた時や聖書を説明されていた時、われわれの心は燃えていたではないか」エレミヤ23章29節「わたしの言葉は火のようではないか、と主は仰せになる」。

主は「火」「剣」を人々にもたらすと仰せになったが、両者とも御言葉の比喩である。御言葉は心を燃やし(ルカ24章32節)心に刺さる(詩編55編22(21)節等参照。エフェソ6章17節)。黙示録も1章16節等で御言葉を剣に喩え11章5節では御言葉を火に喩えた(エレミヤ5章14節参照)。

試論:「信じて命を受けるため」を140文字以内で

【問】ヨハネ20章の最後は福音書執筆の目的を「あなたたちが信じて命を受けるため」としますが、「命」とは何ですか?
【答】申命記30章にある通り旧約の民にとって「命」とはあらゆる幸福の総称ですが、とりわけ新約聖書においては「永遠の命」すなわち、《天の国における福楽》を意味しています。

【追記】

申命記30章15節には「わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く」とある。この章で「命」は、「祝福」(1節)「幸い」(5節)「恵み」「実り」「繁栄」「喜び」(9節)等の総称で、20節は「あなたの神、主を愛し、御声を聞き、付き従いなさい。それこそあなたの命である」と説く。

「道」とは全ての人が生きる上で辿るべき道筋(道理・規範)でイエスがその模範であること、「真理」とは人が信仰・礼拝すべき三位一体の唯一の神を指し御父・御子・聖霊の間に矛盾がないこと、「命」とは幸福・安堵・充足等の人を生かすものの全てで人間にそれを授ける源は唯一の神ということを指す。

箴言15章4節では赦しを与える言葉を命の木と記し、相手に安堵と幸福を与える言葉を「命」と表現した。創世記50章では父の死を機に復讐されるのではないかと恐れる兄たちに対し、ヨセフは赦しを再確認する言葉で安堵させた。ヨハネ6章68節は主イエスを「永遠の命の言葉を持つ」と表現している。

試論:「聖霊と息」を140文字以内で

主イエスはヨハネ20章22節で「聖霊を受けなさい」と仰せになって、弟子たちに息を吹きかけられた(創世記2章7節参照)。《人は神の口から出る全ての事柄で生きる》を示されるために、主はあえて息を吹きかける仕草を行われた。新約聖書には、弟子が同じ仕草を行う場面は一度たりとも登場しない。

(注)別エントリー「試論:『命の息』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14285

【追記】

復活された主イエスはヨハネ20章22節で「聖霊を受けなさい」と仰せになり、弟子たち(使徒たち)へ息を吹きかけられた。この仕草は新約聖書では唯一ここだけで見られ、聖霊降臨の予告として行われた。聖書には祝福や権威の行使の象徴として一般的な、手を置く仕草があるが、それとは意味が異なる。

(注)別エントリー「試論:聖霊の働きの徴を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4984

(注)別エントリー「試論:『使徒パウロ』の誕生を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9844

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを識別する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14194

ルカ11章41節「器の中にある物を施せ」の「器」とは「土の器」「陶器」の比喩と同様、人間を指す。「器の中にある物」は人間に吹き込まれた「命の息」(創世記2章7節)つまり「霊魂」を意味する。イザヤ58章10節のヘブライ語表現「霊魂を注ぐ」は、「心を配る」(新共同訳)ことを意味する。

(注)別エントリー「試論:『器の中にある物を施せ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11264

主イエスはマルコ7章と8章及びヨハネ9章で御自分の唾を用いた癒しを行われた。本来、侮辱を与える行為と強く関連する唾だが、《人は神の口から出る全ての事柄で生きる》を示されるため、主はあえて唾で癒しを行われた。従って預言者たちも使徒たちも主イエス以外の誰も唾を使う癒しを絶対行わない。

(注)別エントリー「試論:神であり人であるキリストを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6725

(注)別エントリー「試論:『神が人となるためには』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7830

(注)別エントリー「試論:『人となられても神は神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6877

主イエスは荒れ野で悪魔(サタン)から誘惑された際「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの御言葉で生きる」と答えられた。「神の御言葉」とはヨハネ1章1節の通り主イエス御自身の称号であり、人間を生かす者は「神の御言葉」及び「命」(同14章6節)を自称される方である。

試論:「《確信》こそ信仰」を140文字以内で

ヨハネ20章25節は、指や手を釘跡や脇腹に入れてみなければ自分は決して信じないとトマスが言ったと記す。この場合「信じる」は《確信を持つ》の意味合いである。ヘブライ人にとって信仰とは《確信》であり、どっちつかずの心理状態や言行不一致の状態は「信じる」「信仰」のうちには入らなかった。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書の『信じる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16417

【追記】

詩編12(11)編においてダビデは、隣人に嘘をついたり隣人を早口で欺いたり言行不一致状態だったりする人々ばかりの風潮を、「信仰のある人は消え去りました」(12編2節、新共同訳)と表す。ここで「信仰」と訳されるヘブライ語を、古代のギリシア語訳聖書はアレテイア(真理、まこと)と訳す。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

ヨハネ福音書は「信仰」を表現する際、他の福音書が用いるピスティスという語を用いず代わりにアレテイア(真理、まこと)という語を多用する。ヨハネにとって信仰とは、人の真心に対し真心で応じられる神なる主に向かって嘘偽りや裏表のない態度で接することに他ならず、これは当時の共通認識だった。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書のアレテイアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15430

主イエスはヨハネ14章6節で「真理」を自称されたが、プロテスタントの「改訳 新約聖書』(1917年)は「まこと」と平仮名を振り、旧約聖書で「まこと」と訳される語との関連を示唆する。嘘偽りや裏表がないこと、上っ面だけでなく内実を伴うこと、真心には真心で返されること等を意味している。

(注)別エントリー「試論:まこと(真、実、信、誠)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16274

プロテスタントの『改訳 新約聖書』(1917年)はヨハネ14章6節の「真理」に「まこと」と平仮名を振った。旧約聖書で「まこと」と日本語訳されるヘブライ語に対応するからだが、このヘブライ語は「真」「実」「信」「誠」のニュアンスを全て含むため通例、平仮名で「まこと」と日本語訳される。

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

主の御降誕に助産婦が介在しなかった意味【再投稿】

(以下、聖書の日本語訳は、特に注記がない場合には、フランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』(サンパウロ)によります)

【1】古代の聖書世界でも、出産においては一般的に助産婦が介在していた

さて、古代においても、出産に際して、現代において「助産婦」──かつては広く「産婆」、現代の日本の国家資格の名称としては「助産師」──と呼ばれている仕事に携わる女性たちが介在したことが、既に、古くは創世記や出エジプト記1章でも、記されている。

◯創世記35章17節(フランシスコ会訳)
「ラケルがひどい陣痛で苦しんでいるとき、助産婦は彼女に言った、『心配してはいけません。今度も男の子です』。」

◯創世記38章27節〜30節(フランシスコ会訳)
「タマルの出産の時になってみると、胎内の子は双子であった。出産の時、一人の子が手を出したので、助産婦は、『これが先に出てきたのだ』と言って、真っ赤な糸を取ってその手に結びつけた。しかしその子が手を引っ込めると、もう一人のほうが出てきた。助産婦は言った、『何でお前は割り込むの』。そこで彼はペレツと名付づけられた。その後で手に真っ赤な糸をつけた子が出てきたので、彼はゼラと名づけられた。」

◯出エジプト記1章15節〜21節(フランシスコ会訳)
「エジプトの王はヘブライ人の助産婦に言った。一人はシフラ、もう一人はプアという名であった。王は言った、『お前たちがヘブライの女の出産を助けるとき、産み台の上を見て、もし男の子であれば殺し、女の子であれば生かしておけ』。しかし助産婦たちは神を畏(おそ)れ、エジプトの王が命じたようにはせず、生まれた男の子も生かしておいた。そこでエジプトの王は助産婦たちを呼んで問いただした、『お前たちはなぜこのようなことをしたのか。どうして生まれた男の子を生かしておいたのか』。助産婦たちはファラオに答えた、ヘブライの女たちはエジプトの女と違って体が丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまいます』。そこで神はその助産婦たちに恵みをお与えになった。イスラエルの民は増え、非常に強くなった。助産婦たちは神を畏れたので、神は彼女たちの家に繁栄をもたらされた。」

そして、古代のイスラエル人が、母親から生まれてきたばかりの赤ん坊にどのような処置を施していたのか、旧約聖書の意外な箇所に当時の事情を反映した記述を見出すことができる。

【2】古代のイスラエルで、出産の際に一般的に新生児が施されていた処置とは

◯エゼキエル書16章4節(フランシスコ会訳)
「誕生、つまりお前が生まれた日、へその緒を切り、水で洗い清めて塩をなすりつけ、産着にくるんでくれる者は誰(だれ)一人いなかった。」

つまり、古代のイスラエル人が出産に際して赤ん坊に施していた処置は、

・へその緒を切る
・水で洗い清める
・塩をなすりつける
・産着にくるむ

といったものであった。

日本聖書協会の新共同訳聖書で同じ箇所を調べると、「お前の生まれた日に、お前のへその緒を切ってくれる者も、水で洗い、油を塗ってくれる者も、塩でこすり、布でくるんでくれる者もいなかった。」などとなっており、

・へその緒を切る
・水で洗う
・油を塗る
・塩でこする
・布でくるむ

などの処置を、生まれてきた赤ん坊に施していたことになる。

バルバロ訳聖書(講談社)でも、「へその緒を切るものもなく、水で洗って清めもせず、塩でこすりもせず、布で包みもしなかった。」とあり、

・へその緒を切る
・水で洗い清める
・塩でこする
・布で包む

などについて、同様に記されている。

もちろん言うまでもなく、これまで登場した「水」というのは、実際には沐浴に適当な温かいお湯のことである。

現代においても、沐浴後の新生児の低体温が問題になることは時々起こるが、ともかくエゼキエル書16章4節は、古代のイスラエルで出産の際に一般的に新生児が施されていたと考えられる処置について、以上のように説明している。

【3】主イエス・キリストの御降誕には、助産婦が介在してはいなかった

しかしながら、主イエス・キリストの御降誕の事情については、次のように記されている。

◯ルカによる福音書2章4節〜7節(フランシスコ会訳)
「ダビデ家とその血筋に属していたヨセフも、すでに身籠(みごも)っていたいいなずけのマリアを伴って、登録のために、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。ところが、二人がそこにいる間に、出産の日が満ちて、マリアは男の初子(ういご)を産んだ。そして、その子を産着にくるみ、飼い葉桶(おけ)に寝かせた。宿屋には、彼らのための部屋がなかったからである。」

この記述を読む限り、その場に助産婦は存在せず、生みの母であるマリア自身が生まれた男の子を産着にくるみ──つまり、マリア自身が男の子を取り上げた、ということになる。

新共同訳でも、「初めての子を産み、布でくるんで飼い葉桶に寝かせた。」と書かれており、同様に、やはり母マリアが自身で男の子を取り上げた、と解釈できる。

バルバロ訳でも、「初子を生んだので、布で包んでまぐさおけに子を横たえた。」となっている。

ただし、「へその緒を切る」「水で洗い清める」「塩をなすりつける」など、本来ならば助産婦が行なったであろう処置については、全く記載がない。

出産の際、生まれた直後のわが子を母親が自分で産着にくるむというのは、通常ではありえない。
たいていは、まず助産婦がへその緒を切る処置を行い、赤ん坊の体を拭き清め、助産婦が赤ん坊を産着にくるみ、母親は助産婦から赤ん坊を見せられる、という流れが普通である。

通常の出産では、生まれたばかりの赤ん坊を産着にくるんで寝かせるのは、本来は助産婦の仕事であって、母親のすることではない。

可能性としては、マリアが助産婦の手を借りずに、「へその緒を切る」「水で洗い清める」「塩をなすりつける」などの処置を、全部自分一人で行なった、と仮定することもできなくはない。

しかし、主の御降誕は、宿屋ではなく飼い葉桶が置かれている洞穴でなされた、というのが聖書の記述そしてカトリック教会の聖伝であり、そんな場所には本来、へその緒を切るために都合の良い道具などが存在するわけもないし、赤ん坊を洗い清めるために都合の良い「水」(実際には適度に温かいお湯)や塩や油なども、存在していたとは到底、考えにくい状況だったであろう。

……以上の考察から、当然のように、一つの仮説が推論される。

すなわち、その受胎の際にも、通常の流儀ではなく超自然的な流儀──つまり聖霊が介在したように、主の御降誕の際にも、それは超自然的な流儀で行われ、それゆえに聖母は「へその緒を切る」必要もなく、まして「水で洗い清める」必要も「塩でこする」必要もなく、おのずと助産婦も必要ではなくなり、聖母は御自分で生まれた子を取り上げられ、出産に当たって聖母がなすべき処置は「産着にくるみ、飼い葉桶(おけ)に寝かせ」ただそれだけだった、ということである。

別の言い方をすると、

「主イエス・キリストは、へその緒を切る必要も水で洗い清める必要もない状態で、母マリアから超自然的な流儀でお生まれになった」

ということである。

もしも仮に、主イエス・キリストの御降誕の場に助産婦が介在していたとするならば、キリスト教の歴史上この助産婦は極めて重要な役割を果たしたことになり、そのエピソードの重要性たるや、羊飼いたちの訪問のエピソード(ルカ2章8節〜20節)や東方の博士たちの来訪のエピソード(マタイ2章1節〜13節)などよりも、明らかに優先して記録に残すべき人物であることは疑いようのない話である。

◯ルカによる福音書2章8節〜10節(フランシスコ会訳)
「さて、その地方では、羊飼いたちが野宿をして、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の使いが羊飼いたちのそばに立ち、主の栄光が彼らの周りを照らし出したので、彼らはひどく恐れた。み使いは言った、『恐れることはない。わたしは、民全体に及ぶ、大きな喜びの訪れを、あなた方に告げる。』」

ルカ2章8節以下の「羊飼いたちの訪問」のエピソードによれば、夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちが、主の栄光に周りを照らし出され、み使いに天の大軍が加わって神を賛美する光景を目の当たりにし、主のみ使いに促されるままに、ベツレヘムへ急ぐことになる。

◯ルカによる福音書2章11節〜14節(フランシスコ会訳)
「今日(きょう)、ダビデの町に、あなた方のために、救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである。あなた方は、産着にくるまれて、飼い葉桶(おけ)に寝ている乳飲み子を見出すであろう。これが徴(しるし)である。すると突然、み使いに天の大軍が加わり、神を賛美した。『いと高き天には、神に栄光、地には、み心にかなう人々に平和』。」

11節の「今日」とは、日没を一日の区切りとする当時の考え方を考慮するなら、現代人にとっては「今夜」と同じ意味である。

つまり、主の御降誕は夜間(日没後)のことであり、同じ晩のうちに羊飼いたちは「飼い葉桶に寝ている乳飲み子を捜しあて」、この羊飼いたちこそが「最初の訪問者」たちであると考えられるが、しかし、羊飼いたちが目撃した人物たちの中には、助産婦は存在せず、「マリア」「ヨセフ」「飼い葉桶に寝ている乳飲み子」の三人だけが、そこにはいた。

◯ルカによる福音書2章15節〜16節(フランシスコ会訳)
「み使いたちが離れて天に去ると、羊飼いたちは語り合った、『さあ、ベツレヘムへ行って、主が知らせてくださった、その出来事を見て来よう』。そして、彼らは急いで行き、マリアとヨセフ、そして飼い葉桶に寝ている乳飲み子を捜しあてた。」

そして助産婦はその場に存在しなかったにもかかわらず、ルカ福音書の記述からは、その出産が「難産」であったというニュアンスは全く伝わって来ない。
むしろ、この前後の箇所からは、完全に超自然的な保護下にあるとしか考えられない「平和」そのもの、出産それ自体も当然「安産」であったに違いないという雰囲気しか、感じられない。

聖母マリアと主イエス・キリストを結んでいたへその緒を、実際に切って処置した助産婦がもしも存在していたとしたら、福音史家ルカあるいはマタイのどちらかが、キリスト教史上に唯一無二の重要人物として、間違いなく、その助産婦に関する情報を書き記して後世に伝えたはずである。

にもかかわらず、福音史家である聖ルカも聖マタイも、もしも実在していたら必ずや書き残しているであろう重要人物である助産婦について、全く記録していない。

信憑性に乏しい情報がいくつも混在している二世紀以降に書かれた外典書は別として、聖書正典とされる福音書のいずれもが、主の御降誕の場に助産婦が存在したという記録を、決して残しなどはしなかった。

(注)別エントリー「聖書の時代に神殿の処女は存在したのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1539

そのような一人の助産婦がもしも仮に存在していたとするならば、その一人の助産婦の存在が「羊飼いたち」よりも「東方の博士たち」よりも大きなものであることは、誰の目にも明らかである。
なぜ福音史家たちは、主の御降誕の場に助産婦がいたという記録を残さなかったのか──やはり、そのような助産婦など最初から存在しなかったと結論するのが、妥当である。

重ねて強調するが、主の御降誕は、受胎の時と同様にまた御復活の時と同様に、その出産もまた、常人のそれとは全く異なる超自然的な状況下で行われた、と考える方がむしろ自然であろう。

すなわち、その処女性が少しも傷付けられることのない超自然的な状況の下で、聖母は主イエス・キリストを懐胎されたのと同様に、少しも傷つけられることのない極めて超自然的な状況の下で、聖母は主を御出産された、と考えるべきである。

ルカ1章35節のみ使いガブリエルの受胎告知の際の言葉「聖霊があなたに臨み、いと高き方の力があなたを覆う。」のうち、「聖霊があなたに臨み」が受胎と関係しているのは明らかであるが(マタイ1章18節「イエスの母マリアはヨセフと婚約していたが、同居する前に、聖霊によって身籠(みごも)っているのが分かった。」)、「いと高き方の力があなたを覆う。」という後半の方は、むしろ御降誕の際の超自然的な状況をも説明していると理解すべきであろう。

非常に重要なことであるので繰り返して強調するが、ルカ2章7節は産みの母であるマリア自身が生まれた男の子を産着にくるみ──つまりマリア自身が男の子を取り上げた、と書き記すことによって、主の御降誕の際の出産が超自然的な状況下でなされたという事実を、婉曲に表現しているわけである。

(注)別エントリー「マリアがベツレヘムの宿屋で拒まれた理由【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/24234

【4】超自然的な出産その他の多くの不思議な出来事を前に、ヨセフはいかに対応したか

自分の婚約者である女性が、処女性を少しも傷付けられることのない超自然的な状況の下で妊娠し、さらに自分の妻として迎え入れた(マタイ1章24節)その同じ女性が、少しも傷つけられることのない超自然的な状況の下で神の御ひとり子を出産するのを、まさにヨセフは歴史の目撃者として、最初に知る立場にあった。

しかも、自分の妻は、「聖なる者、神の子」(ルカ1章35節)の母となるという、その重大事に臨んでも、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(同38節)という、自身の分を弁えた、あくまでも高ぶることなく控え目で、落ち着いた態度であった。

そればかりではなく、ヨセフは妻の親戚で「年老いて」「不妊の女と言われていた」(同36節)エリサベトの妊娠出産など、さまざまの不思議な出来事の中で、日々を過ごしていた。
加えて、エリサベトの夫である祭司ザカリアの身に起こった不思議についても当然ながら、色々と聞かされていたであろう。

また、主の御降誕の直後には、「主の使い」の出現を受けた羊飼いたちが「天の大軍」による神の賛美を目撃し、「主が知らせてくださった」通りに自分たちを訪問したことも、同様にヨセフには強く印象に残ったはずである。

さらには、不思議な星に導かれた東方の博士たちが黄金や乳香や没薬(もつやく)を携えて来訪し、ひれ伏して幼子を礼拝する場面にも、当然ヨセフは立ち会っていた。

そして、イエスを奉献するためにエルサレムの神殿を訪れた際の、シメオンの賛歌と預言、そして女預言者アンナの不思議な言葉についても、それらをことごとく心に留めていた自分の妻マリアとその後いくたびも、どのような意味があったのか、ことあるごとに語り合って意見を交換し、また妻から教えられもしたはずである。

しかもマタイ福音書によればヨセフ自身も、夢の中でではあれ節目節目で、その都度「主の使い」による指示を受け(1章20節、2章11節、2章19節、2章22節)、イエスとマリアのために有益になるよう、適切な行動を取ったのである。

この時期のヨセフ自身、自分が超自然的な雰囲気の中で生きている──生かされていることを疑う余地なく実感していたであろう。

自分の妻が「神の子」の母となっても「主のはしため」という基本的スタンスであって、また自分たちと出会う多くの人々は生まれた幼子を「聖なる者、神の子」と賛美している。ヨセフは当然、自分自身もまた妻の「主のはしため」という位置付けにならい、自分を「主のしもべ」と位置付け自分の残りの生涯を生まれた幼子イエスのためにすべて捧げ尽くす、と固く決意したに違いない。

いかにヨセフが「神の子」の養父という立場になったからといっても、それでも一人の人間として「神のしもべ」であることには何ら変わりはないわけである。
現に自分の妻マリアでさえも、実際に生みの母親でありながら、「わたしは主のはしため」であるという基本的スタンスを崩してはいない。
そうである以上、まして「養父」に過ぎないヨセフ自身においても状況は同様ということになる。

そして、イエスのために生涯を捧げ尽くす、と決意したまさにその瞬間から、ヨセフには妻との間にイエスとは別に子供をもうけよう、などという考えは微塵も浮かばなかったはずである。

「主のしもべとして、イエスのために残りの生涯を全て捧げ尽くす」という決意と、「妻との間にイエスとは別に『自分の子』をもうける」という事柄とは、どう考えても絶対に両立し得ず、決定的に相容れない矛盾ということになる。

本当に「主のしもべとして、イエスのために残りの生涯を全て捧げ尽くす」と思っているならば、「妻との間にイエスとは別に『自分の子』をもうけて父親になる」暇などはないのである。

生まれた幼子イエスとその母のために全てを捧げ尽くす、という聖ヨセフの思いは、「エジプトへの逃避」に際しての行動からも明らかである。
そして何度も「主の使い」は夢の中に現れてヨセフを導き、目覚めて起きるとヨセフはその都度、直ちに行動を起こして、それに応えていた。

(注)別エントリー「聖ヨセフ:ディカイオスを旧約聖書で考察」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1613

マタイ福音書の1章から2章あるいはルカ福音書の1章から2章に書かれている、さまざまなエピソードを体験したマリアもヨセフも、「神の御ひとり子」が礼拝の対象となるばかりか迫害の対象ともなり得ることを身をもって痛感し、その前途の多難さに思いを馳せればまさに身の引き締まる思いの日々だったに違いない。

殊に、生まれて早々「自分の子」であるイエスが迫害の対象になったのを思い知らされた母マリアは、改めて、「主のはしためとして、イエスのために残りの生涯を全て捧げ尽くす」という決意を新たにしたはずである。
イエスの誕生以降、母マリアにとってイエスこそ唯一の関心事と言っても過言でなかったことが、新約聖書の記述からは理解できる。

福音書には、エジプトへの逃避に際して聖家族を助けた人々の存在についての記載が全くない。
もちろん天からの目に見えぬ助力はあったものとは思われるが、基本的に聖ヨセフが事実上たった一人で、聖母子をお守りしながらヘロデ王の勢力圏を脱出して、エジプトへと至ったのである。
ガリラヤのナザレからユダヤのベツレヘムまでの距離よりも、エジプトへの旅はさらに数倍の距離であり、しかも自分たちの都合で旅の日程を決められるのとは全く異なる、まさに命がけの逃避行だった。

ヘロデ王たちが狙っていたのは、ヨセフ自身の生命でも妻マリアの生命でもなく、ただ幼子イエスの生命のみであった。
幼子イエスの生命については、エジプトへの逃避の際には、まさに聖ヨセフが重大な責任を担ったのである。

それゆえ、ヨセフの、「生まれた幼子イエスと、その母のために、全てを捧げ尽くす」という思いは、まぎれもなく本物であった。
そしてヨセフは、妻マリアが「神の御ひとり子」の母でありながら自分自身のためには何ら特権を要求せず、ひたすら「主のはしため」としての立場をつらぬき通しているのを、その傍で見続けており、熟知していた。

マリアが「神の母」でありながら「主のはしため」であり続けている以上、ヨセフは自分もまた「神の養父」であっても何ら特権を要求できず単なる「主のしもべ」に過ぎない、と妻の態度から学んだであろう。

◯ローマの人々への手紙14章7節〜8節(フランシスコ会訳)
「わたしたちの中で、誰(だれ)一人として自分のために生きる者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。生きるにしろ、死ぬにしろ、わたしたちは主のものなのです。」

自分の産んだ「わが子」は「神の御ひとり子」でありながら、何か月もしないうちに、無力な幼子のままでヘロデ王たちから命を狙われている──この苦境は、母マリアの幼子イエスへの「自分は主のはしためとして、この幼子のために全てを捧げ尽くす」という母としての強い思いを、さらにいっそう燃え上がらせこそすれ、少しも冷え込ませることなどあり得なかったはずである。

そんな苦境にあって、母マリアがイエス以外にも「自分の子」の存在を望むことなど、微塵もあり得なかったであろう。
重ねて強調するが、イエスの誕生以降、母マリアにとってイエスこそ唯一の関心事と言っても過言でなかったことが、新約聖書の記述からも理解できる。

母であるマリアにとって──そして養父であるヨセフにとっても──神の御ひとり子であるイエスが自分たちの傍らに存在していること──イエスを「わが家」に迎え入れていることこそ、まさに全世界を所有しているに等しい事柄だったに違いなく、二人は、それ以外の何物を所有することも望まなかったはずである。

人類の歴史上、マリアとヨセフの二人だけを除けば、それ以外の全ての人間は、神に自分たちの身を守っていただくことをただただ考えていれば、それで良かった。
マリアとヨセフの二人だけが、神に自分たちの身を守っていただくことだけでなく、むしろ、自分たち自身こそが、積極的に日々の具体的な行動をもって、神そのものであられる「自分たちの子」イエスをお守りすることに、何年も何十年も、マリアとヨセフの二人は身も心も砕かなければならなかった。

したがって、キリストを信じる人々にとって、この二人がおのずと別格の存在であることは、当然である。
マリアとヨセフの二人は、決して「普通の夫婦」などではなく、そして一般的に「普通の夫婦」が望むことなどは、決して望みもしなかったに違いない。

(注)別エントリー「予備的考察:聖母崇敬そして聖ヨセフ崇敬の起源とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1750

この夫婦にとっては、イエスの存在こそが全てだったはずで、基本的にそれ以外の何物にも関心はなかったであろう。

妻マリアが「主のはしためとして、イエスのために残りの生涯を全て捧げ尽くす」と決意していた以上、自分だけが「妻との間にイエスとは別の『自分の子』をもうける」と望むことは妻マリアをつまずかせることに他ならず、御父である神がそのようなことを決して望まれているはずなどあり得ない──自分の周辺で起こった多くの不思議な出来事をを通じて、そうヨセフは理解したはずである。

◯マタイによる福音書18章7節(フランシスコ会訳)
「人をつまずかせるこの世は不幸である。つまずきは避けられない。しかし、人をつまずかせる者は不幸である。」

そして自分が妻マリアとの間にイエス以外の「自分の子」をもうけようと望むことは、つまり御父である神そしてその御ひとり子に背を向けることに他ならず自分が不当な権利を行使することだとも、ヨセフは妻マリア及び、周囲の神に忠実な全ての人々──幼子イエスを礼拝した全ての人々の態度からも当然、理解したであろう。

聖母マリアの終生童貞そして聖ヨセフの終生童貞とは、この二人が「神の母」「神の養父」として何らの特権もこの世では要求することなしに「主のはしため」「主のしもべ」としての立場を徹底してつらぬき通したことの裏返しであって、同じくキリストを信じる一人の人間としての立場から考えても、特段の不自然さを感じることなくして十分に理解できる事柄なのである。

神殿とは神の住まわれる場所のことである、という基本に立ち返れば、父なる神の御ひとり子たるイエスの住まわれるナザレの聖家族の家こそが、真の意味での神殿に他ならなかったことになる。

そしてサムエル記上2章22節以降によれば、古代のイスラエルでは、「会見の幕屋」つまり神殿の中にいる女性(神殿に奉仕する女性)が男性と「ともに寝る」ことは、主なる神に対する罪悪(サムエル記上2章23節「悪いこと」同25節「罪を犯す」)に該当すると考えられていたことが、その記述から理解できる。

(注)「会見の幕屋」は、日本聖書協会新共同訳では「臨在の幕屋」。

◯サムエル記上2章22節~25節(フランシスコ会訳)
「さて、エリは非常に年老いていた。彼は、息子たちがイスラエルのすべての民に対して行っていたあらゆること、また、彼らが会見の幕屋の入り口で奉仕する女たちとともに寝たことを耳にして、息子たちに言った、『なぜそんなことをするのか。わたしはお前たちがしている悪いことを、みんなから聞いている。息子たちよ、やめなさい。わたしは主の民が言いふらしていることを聞くが、そのうわさは善くない。人が人に対して罪を犯した場合、神が仲裁してくださる。しかし、人が主に罪を犯すなら、誰がその人のために執りなしをするだろうか』。しかし、彼らは父の言葉に従おうとしなかった。主が彼らを死に至らしめようとしておられたからである。」

(注)別エントリー「『聖母マリアの終生童貞』の聖書的根拠」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/2754

ベツレヘムであれナザレであれエジプトであれどこであれ、洞穴であれ家畜小屋であれ粗末な家であれどこであれ、真(まこと)の神であるイエスが住まわれる建物あるいはそれに類するものは、言葉の定義からしても、本来の意味での「神の家」すなわち「神殿」そのものなのである。

◯創世記28章16節~17節(フランシスコ会訳)
「ヤコブは眠りから覚めて言った、『まことに主がこの場所におられるのに、わたしはそれを知らなかった』。彼は恐れて、また言った、『ここは何と畏れ多い場所だろう。ここはまさしく神の家である。ここは天の門だ』。」

そして、マリアもヨセフもイエスと一つ屋根の下に住む以上、

「神殿の中にいる女性(神殿に奉仕する女性)が男性と『ともに寝る』ことは罪悪に該当する」

という立場からすれば、イエスのために残りの生涯を捧げると決意したマリアの終生童貞とヨセフの終生童貞とは、むしろ必然であると考えられる。

すなわちこれこそが、聖母マリアの終生童貞および聖ヨセフの終生童貞の、聖書的根拠と言える。

古代のイスラエルでは、「神の家」において、「神に奉仕する女性」が男性と「ともに寝る」ことなどは、あってはならないこと、つまり不祥事(宗教上の禁忌、タブー)だったのである。

(注)別エントリー「イエスの『兄弟』『姉妹』:同胞か親戚か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1451

モーセの律法で「最も重要な掟」(マタイ22章37節、マルコ12章30節、ルカ10章27節)とされた、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたたちの神、主を愛しなさい」(申命記6章5節:フランシスコ会訳)という掟を、聖母マリアと聖ヨセフは「終生童貞」というかたちで全うしたと言える。

試論:「マグダラのマリア」生涯を140文字以内で

ベタニアのラザロの姉妹マリアは、主イエスによって「七つの悪霊」を追い出され主に最も忠実な女性たちの一人に変わったが、かつて彼女が歓楽に耽った風紀の乱れた町マグダラは彼女の代名詞となり、彼女もまたそれを甘んじて受け続けた。自分の間違っていた過去を忘れることなく戒めとするためである。

(注)別エントリー「ベタニアのマリア(マグダラのマリア)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/23927

(注)別エントリー「『自分を捨て、自分の十字架を背負って』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18140

試論:「悪巧みと自業自得」を140文字以内で

主はルカ17章1節で「つまずきは避けられないがそれをもたらす者は不幸だ」と仰せになった。レビ19章17節は悪意を抱いたまま隣人に接することを禁じ、箴言26章27節は他人を落とす穴を掘る者は自分がそこに落ちると記し、民数記12章でモーセに難癖をつけたミリアムは厳しく主に罰せられた。

(注)別エントリー「試論:『理由のない憎しみ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6468

(注)別エントリー「試論:『モーセの模範』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7466

(注)別エントリー「試論:『つまずき』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7363

【追記】

主イエスはマタイ7章12節で「あなたが他の人からしてもらいと思うことは何であっても他の人にあなたの方から行いなさい。これこそ律法と預言者〔の教え〕である」と仰せになり、御自分の御教えの核心とされた。パウロはこれを「キリストの律法」(一コリント9章21節、ガラテヤ6章2節)と呼ぶ。

旧約聖書では「良からぬ意図の下に穴を掘る」行為は、結局は自分自身の破滅を準備する象徴的な仕草と見なされた(詩編57編7(6)節)。詩編94編12節は「主よ、あなたに諭されあなたの律法を教えていただく人は幸い」と記し、13節では神に逆らう者の滅びの象徴として「穴」が言及されている。

詩編55編24(23)節の「滅びの穴」という表現の通り、旧約聖書では「穴」という存在自体が「滅び」の象徴とみなされた。エゼキエル19章4節と8節で「穴」というヘブライ語は「罠」を意味し、詩編7編16(15)節や9編16(15)節では、「穴」は自分自身を陥れる可能性も秘めると歌う。

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちは、自分が他の人からしてほしいことを、自分から他の人にしなさい」と《愛の掟》を教えられた。従って「愛の反対」は「他の人からしてほしくないことをあえて他の人に行うこと」そして「他の人からしてほしいことをあえて他の人には行わないこと」からなる。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

レビ19章18節は有名な隣人愛の掟を教えるが、その対極の行為として17節は兄弟を心の中で憎むことを禁じる。ゼカリヤ7章10節は互いに災いを心の中で企むこと、8章17節は互いに心の中で悪を企むことを禁じ、相手の困った顔・悲しむ顔・苦しむ顔を見たいという悪意を抱いてはならぬと戒める。

ローマ13章10節でパウロは「愛とは隣人に対して悪事を行わないことです」と断言している。これを踏まえるなら、隣人に対して悪事を行おうと企むことこそが愛の反対に該当する行為ということになる。同9節は「姦淫するな、殺すな、盗むな、貪るな(他人の物の横取りを企むな)」等を列挙している。

試論:マグダラのマリアの信仰心を140文字以内で

【問】なぜマグダラのマリアは、そこまで主イエスに惹かれたのでしょうか?
【答】とても裕福な家庭の娘だった彼女は、以前は非常に高慢で「七つの悪霊」と呼ばれる諸悪の中に生きていましたが、それだけに悪人の本質が利己主義であることには人一倍敏感で、利己主義とは無縁の主イエスに惹かれました。

【追記】

ルカ8章2節はマグダラのマリアを、主イエスに七つの悪霊を追い出していただいた女性と記す。「七つの悪霊」として最も蓋然性が高い事柄は箴言6章17節以下に記される七つの悪徳(高慢、虚言、殺意、悪巧み、無分別、詐欺、偽証)を指すと思われる。マグダラは風紀の乱れた地として悪名が高かった。

(注)別エントリー「マグダラのマリア」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17893

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

試論:御復活の主を最初に見た人を140文字以内で

【問】なぜ御復活の主は、まずマグダラのマリアに御出現になったの?
【答】主は初めから悔い改めの必要性を強調され続け、それに応えマタイやザアカイなど徴税人は生き方を変えましたが、「悔い改めの前後で最も大きく変わった人といえば、それは彼女」と、皆が思っていたような人だったからでしょう。

(注)別エントリー「試論:『わたしに触れるな』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16000

(注)別エントリー「マグダラのマリア」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17893

マリアがベツレヘムの宿屋で拒まれた理由【再投稿】

◯ルカによる福音書2章7節(新共同訳)
「宿屋には、彼らの泊まる場所がなかったからである。」

◯ルカによる福音書2章7節(フランシスコ会聖書研究所訳)
「宿屋には、彼らのために場所がなかったからである。」

◯レビ記12章2節〜4節(フランシスコ会聖書研究所訳)
「女が身籠って、男の子を産んだ場合、七日の間汚れる。つまり、月経による汚れの日数だけ汚れる。八日目にその子は包皮の割礼を施される。産婦は血の清めのために三十三日の間籠り、清めの期間が満了するまで、聖なるものにいっさい触れてはならず、神殿に入ってもならない。」

◯レビ記15章19節(フランシスコ会聖書研究所訳)
「その女に触れる人はみな夕方まで汚れる。」

◯レビ記15章20節〜23節(フランシスコ会聖書研究所訳)
「その女が寝たものはすべて汚れる。また座ったものもすべて汚れる。その女の寝床に触れた人はその衣服を洗い清め、水で身を洗わなければならない。その人は夕方まで汚れる。その女が座ったものが何であっても、それに触れた者はみなその衣服を洗い清め、水で身を洗わなければならない。その人は夕方まで汚れる。もしその寝床の上、あるいはその女が座ったものの上にあったものに触るなら、その人は夕方まで汚れる。」

【1】ベツレヘムにヨセフの実家は存在したのか

……さて、本田哲郎神父は、『釜ヶ崎と福音』(岩波書店)で次のように書いています。

・「イエスは家柄の良い家に生まれましたか。そうではなかったわけです。しかも、家畜小屋で生まれたらしい。なぜ家畜小屋だったのか? あのルカ福音書とマタイ福音書の、イエスの誕生物語をていねいに見ればわかります。すごく厳しい、本当につらい、マリアにとっても養い親となったヨセフにとっても、耐えられないくらいの差別と排斥がそこには物語られています。きれいな星を飾った馬小屋で、羊たちに囲まれて、といったロマンチックなクリスマス・メッセージではないのですよ。だってヨセフといいなづけのマリアは、人口調査、住民登録のためにヨセフの生まれ故郷ベツレヘムに、つまり実家の村に帰ってきた。実家の村だから、とうぜん本家がそこにあるはずです。本家の家長を通じてローマ総督に、『うちの家系は、何歳以上の男子が何人、女子が何人、子どもが何人、羊が何頭』という具合に、登録するわけですから。だから本家があるだけではなく、その親族、一族の家も、その小さなダビデの村にいっぱいあったはずです。なのになぜ、マリアが出産間近であるにもかかわらず、親戚の家のどこにも入れてもらえなかったのか。それだけではなくて、宿屋でもこのカップルは断られています。」(127~128ページ)〔岩波現代文庫版『釜ヶ崎と福音』では139ページ〕

さて本田神父は上記のように、イエスの養父ヨセフの実家やその「本家」がベツレヘムにあったかのように発言していますが、実際にはルカ福音書は「自分の町」(2章3節)また「ダビデの町」(2章4節)としてだけベツレヘムを紹介しており、また「ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、」(同節)とまでは書いているものの、そこベツレヘムにヨセフの実家があったなどとは書いていません。
そもそも、単に「自分の町」というくだりだけでヨセフの実家がベツレヘムにあったと判断できるのならば、「ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、」と続く説明のくだりは全く必要ないということになります。

あえて「ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、」という説明がなされているということは、むしろ、ベツレヘムという場所は本当のところヨセフの実家の所在地ではなかったけれども先祖ダビデの出身地であるためそこで住民登録を行なうことになった、という可能性を強く示唆しています。

ベツレヘムは確かにルカ福音書では「ダビデの町」として紹介されてはいますが、実際にはダビデがベツレヘムに住んでいたのは若者時代までのことであって、その後イスラエルの王となってからはヘブロン次いでエルサレムに居を定めており(サムエル記下5章4節~5節)以後、王としてベツレヘムに住んだなどとは旧約聖書のどこにも書いてありません。
旧約聖書とりわけ列王記では、ダビデの子孫の王たちが葬られた場所として「ダビデの町」という表現がしばしば登場しますが、列王記下14章20節ではその「ダビデの町」とはエルサレムであることが明らかにされています。つまり旧約聖書では「ダビデの町」とはむしろどちらかというとエルサレムを指していることが多いのです。

ルカ福音書2章39節は聖家族に関して「自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。」と書いていますが、このことからも、「自分の町」というのが必ずしも実家の所在地を指しているわけではないというのは明白でしょう。

ところで、ダビデがエルサレムに居を定めて以降、バビロン捕囚に至るまでの間、旧約聖書にベツレヘムという地名が登場すること自体、稀少になってしまいます。
マタイ福音書2章6節に引用されたミカ書5章の有名な預言を除けば、かろうじてレハブアム王(ダビデの孫、ソロモンの子)の時代にベツレヘムを含む15の町々(「砦の町」)の守りを非常に堅固なものにしたことが、歴代誌下11章6節以下に書かれてあるくらいです。しかもこの時レハブアムはエルサレムにとどまったことがその直前に明記されています(同11章5節)。

レハブアム王については、「彼は賢明に行動し、その息子たちの何人かをユダとベニヤミンの全土に、すなわちそのすべての砦の町々に配置し」と歴代誌下11章23節に書かれてありますので、レハブアムの息子の少なくとも一人はベツレヘムに住んだものと考えられますが、ヨセフの直系の先祖であるアビヤ(マタイ福音書1章7節)に関しては「アビヤがユダの王となり、エルサレムで三年間王位にあった。」(歴代誌下13章1節~2節)と書かれてありますので、ベツレヘムには住まなかったと考えられます。

そこで次に、バビロン捕囚からユダヤに戻った後で、イエスの養父ヨセフの直系の先祖がいったいどこに居を定めたのかが最も重要になりますが、ここで問題の鍵となるのがゼルバベルという人物です。ゼルバベルはヨセフの先祖の中でマタイ福音書の系図(1章12節~13節)とルカ福音書の系図(3章27節)との両方に登場します。

ゼルバベルの住んだ場所がエルサレムであってベツレヘムではなかったことは、簡単に確かめることができます。なぜなら、「イスラエル人は皆それぞれ、自分たちの町に住んだ。」(エズラ記2章70節)と書いてある一方、ゼルバベルは「ユダの総督」(ハガイ書2章21節)であり「民の長たちはエルサレムに住んでいた。」(ネヘミヤ記11章1節)と書いてあるからです。

以上から、ゼルバベルが居を定めた場所がエルサレムであることは、明白です。

ということは、ゼルバベルがヨセフの直系の先祖であることから、ガリラヤのナザレ以前にヨセフの実家やその「本家」があったとすれば、その場所はベツレヘムではなくエルサレムであったと考える方が自然ですが、ならばなぜルカ福音書の中の住民登録の場所がエルサレムではなくベツレヘムになったかと考えると、それはやはりヨシュア記にあるイスラエルとしての最初の領地配分に基づく居住地(ヨシュア記15章59節)である先祖ダビデの出身地を尊重したためであろうと思われます。
ルカ福音書2章3節の「自分の町」という表現は、あくまでもその意味合い(ベツレヘムという場所は本当のところヨセフの実家の所在地ではなかったけれども、先祖ダビデの出身地であったためそこで住民登録を行なうことになった)で解釈すべきでしょう。

結局のところ、ダビデが若くして故郷のベツレヘムを離れて以来、ヨセフに至るまでの代々の直系の子孫でベツレヘムに住んだ人物を旧約聖書で確認できない一方で、エルサレムに住んでいた人物ならば容易に確認できるという事実は、ヨセフの実家あるいはその「本家」がベツレヘムではなくエルサレムにあったことの裏付けと考えられるでしょう。

また、エズラ記2章では「ゼルバベル」(2節)と「ベツレヘムの男子」(21節)とを別々に記述しており、また同様にネヘミヤ記7章でも「ゼルバベル」(7節)と「ベツレヘムとネトファの男子」(26節)とを別々に記述しているという事実も、ゼルバベルの直系の子孫であるヨセフの実家あるいはその「本家」が、ベツレヘムではなくエルサレムにあったことの裏付けとなりうるでしょう。

古代ギリシアの歴史家ヘロドトスはその著書『歴史』の第三巻において、ペルシア人が支配下の諸民族をどのように統治していたかを、次のように書き記しています。

・「それというのもペルシア人には王家の後裔を尊重する気風があって、ペルシアに反旗を翻したような場合でも、その子孫にはいつも主権を返還しているからである。」(ヘロドトス『歴史(上)』(岩波文庫、松平千秋訳)335ページ)

この場合の「その子孫にはいつも主権を返還」という意味はつまりその子孫に「総督として統治」(前掲書同ページ)させるということでした。

ゼルバベルは当時のペルシア人によって、ダビデの子孫たちの生き残りの中で最も統治者にふさわしいと評価されたわけです。そういうわけでゼルバベルはバビロン捕囚以前にダビデの子孫の王たちがそうしていたように、今度は「ユダの総督」としてエルサレムにあって統治を行なっていたということです。

ところでネヘミヤ記11章3節~5節によれば、「聖なる都エルサレム」(ネヘミヤ記11章1節)にはイスラエルの中でもユダ族とベニヤミン族が優先して住むことが認められ、それ以外の人々は「ユダの町々」に住むことが定められたとあります。
バビロン捕囚からユダヤに戻ってエルサレム神殿が再建された後、イスラエル人はだれもが神殿のある「聖なる都」エルサレムに住むことを希望したのですが、結局イスラエルが北王国の一〇部族と南王国の二部族(ユダとベニヤミン)に分裂していた過去の歴史を考慮してでしょうか、ユダとベニヤミンにエルサレム居住の優先権が与えられたのです。

ダビデの子孫は当然、ユダ族でした。一方、「ユダの町々」の一つであるベツレヘムには、ユダ族とベニヤミン族を除いたそれ以外のイスラエルの人々が住むことになったのです。

ネヘミヤ記11章25節~30節にはエルサレムに住まなかったユダの一族が住んだ地域について書かれていますが、その中にベツレヘムは含まれてはいません。
これらもまた、ヨセフの先祖の実家がベツレヘムではなくエルサレムにあったという、もう一つの証明でしょう。ネヘミヤ記11章の記述に基づく限り、ヨセフの実家がベツレヘムにあったと想定するのは極めて不自然なのです。

本田神父はヨセフの実家がベツレヘムにあったという前提で、『釜ヶ崎と福音』128~129ページ〔岩波現代文庫版『釜ヶ崎と福音』では140〜141ページ〕でマリアに対する冒涜説を展開していきますが、その前提が誤りである以上は、本田神父の説とは結局すべてが空理空論に過ぎないということになります。

最後に、ネヘミヤ記の時代から福音書の時代までのあいだに、ヨセフの何代か前の先祖のだれかがエルサレムからガリラヤのナザレに移住していたはずであるということになりますが、このことについては聖書の中に記述がありません。参考までに、その辺の事情についてヘブライ大学教授のS・サフライ氏の講演録をまとめた『キリスト教成立の背景としてのユダヤ教世界』(サンパウロ)179~180ページから引用します。

・「会場の皆さんはよくご存じと思いますが、イスラエルの地は北にガリラヤ、中ほどにサマリアの地、そして南にユダヤと三つに分かれています。ガリラヤとユダヤの中間にサマリアがあって、ユダヤ人の二大居住地を隔てています。イスラエルの子らが捕囚から帰ったとき、ユダヤだけに帰ってきたこともよく知られています。」

・「それから四〇〇年間近く、ユダヤ人が生活したのはエルサレムの周辺と、ユダヤ地方ぐらいなものでした。当時、ガリラヤはユダヤ州には属していませんでした。パルティア、ペルシアあるいはヘレニズム時代、ローマ時代でもそうでした。紀元前一六七年まで、ガリラヤの地に住んだユダヤ人はごくごく少数でした。ハスモン王朝の王たちがガリラヤの地を征服して後彼らの王国に加えました。ガリラヤのほとんどの町々は、紀元前二世紀の終わりになって建設されました。」

・「以上のことをひと言で申し上げますと、第二神殿時代のかなり後期になって、ガリラヤはユダヤ人の居住地になったということです。」

要するに、ヨセフの何代か前の先祖がエルサレムからガリラヤに移住したのは主イエス・キリストがベツレヘムでお生まれになる一〇〇年くらい前、と考えるのが妥当のようです。

ちなみに、S・サフライ氏の前掲書『キリスト教成立の背景としてのユダヤ教世界』には、次のように書かれています。

・「残念なことですが、ほとんどの学者は、ガリラヤにはファリサイ派の人々が少なかったとか、律法の掟があまり守られていなかったとか、ガリラヤは無知な人々の地であるなどと、ひどい言い方をしてきました。しかし、これが全くの誤りであるということを指摘したいと思います。つまり、イエスは律法を知らなかったり、掟を守らなかった学のない人々の代表ではありません。実際はその反対で、ユダヤ教が生きていたという点では、ガリラヤはユダヤ以上にユダヤ教的でした。」(14~15ページ)

・「エルサレムとその周辺のユダヤ地方との関係と、エルサレムとガリラヤ地方との関係を比較検討してみますと、次のように結論されます。ユダヤ地方よりもガリラヤ地方のほうが神殿とエルサレムの良い教えにずっと近かったのです。」(182ページ)

・「エルサレムの住民とユダヤの住民の違いを集めれば、長い個条書きの例ができます。この点についていつでもエルサレムの住民はユダヤの住民より高度に宗教的であり、家族関係も高い水準にあります。ガリラヤの住民もまた同様に、ユダヤの住民よりは高い水準にありました。エルサレムの住民の場合、婚約後新郎になる人が新婦となる人を訪れても、彼は決して性的交渉を持ちませんでした。しかしユダヤではこのことについてあいまいでした。この点でも、ガリラヤの人々はエルサレムの住民のようにふるまいました。すべての例は、倫理的、社会的にユダヤの住民よりエルサレムの住民の水準が高かったことを示しています。エルサレムはユダヤ教文化の中心地でした。そしていつでも『ガリラヤはエルサレムのようである』という言葉が加えられています。」(183~184ページ)

……よって、「エルサレムの住民の場合、婚約後新郎になる人が新婦となる人を訪れても、彼は決して性的交渉を持ちませんでした。」というサフライ氏の発言と、婚約中にヨセフはマリアとは関係を持たなかったというマタイ福音書1章25節の記述とを比較しても、ヨセフの先祖はエルサレムからガリラヤに来たという可能性の方が、はるかに有力です。

ベツレヘムに実家も本家も親戚もなかった以上、ヨセフはマリアのための場所を、自分で見つけるしかなかったのです。

(以上の聖書の日本語訳は、日本聖書協会の新共同訳『聖書』によりました)

【2】ベツレヘムの宿屋がマリアを拒む理由

ここまでの議論から、ヨセフの実家はベツレヘム云々の本田神父の主張が成立しないことは明らかですが、しかし、ルカ福音書2章7節の「宿屋には、彼らのために場所がなかったからである。」(フランシスコ会聖書研究所訳注。新共同訳では「宿屋には、彼らの泊まる場所がなかったからである。」)という記述は、厳然として残ります。

(注)別エントリー「主の御降誕と古代イスラエルにおける洞穴」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4351

もちろん、ダビデ王をはじめ、レハブアム王もアビヤ王も皆かなりの子だくさんであった(歴代誌上3章1節~9節、歴代誌下11章21節、同13章21節)ことを考えると、福音書の時代には浜の真砂のようにおびただしい人数となっていたダビデの子孫たちが、大都会エルサレムではなく小さな町ベツレヘムにいっせいに集まったとすれば、それは宿屋からあぶれてそこに泊まることができなかった人々が大勢いたとしても当然、という説明もつくことはつきます。

しかし、なにかもっと他の特別な理由がなかったかどうか、さらに調べてみます。

本田哲郎神父は『釜ヶ崎と福音』において、次のように書いています。

・「それなのに、出産をひかえるヨセフとマリアはどの親戚の家にも入れてもらえず、宿屋にも断られた。これは何かあるわけなのです。実は、『マリアの妊娠がヨセフのあずかり知らぬことだった』というのがバレバレになっていたということのようです。」(128ページ)〔岩波現代文庫版『釜ヶ崎と福音』では140ページ〕

・「つまりイエスは父親のわからない子どもだと、当時の人たちは気づいていたということです。まして伝統色の強いベツレヘムの村は、律法に違反したカップルを、いくら親戚とはいえ許し難い、ということで排斥したわけです。その結果が家畜小屋だったのです。だから、マリアもヨセフも罪人というレッテルを貼られた状態だった。」(129ページ)〔岩波現代文庫版『釜ヶ崎と福音』では141ページ〕

そこでこの本田神父の主張を検証するために、さらにルカ福音書を読み進めていくと、2章22節に「清めの日数が満ちると」という表現が登場します。
レビ記12章2節~4節に「女が身籠って、男の子を産んだ場合、七日の間汚れる。つまり、月経による汚れの日数だけ汚れる。八日目にその子は包皮の割礼を施される。産婦は血の清めのために三十三日の間籠り、清めの期間が満了するまで、聖なるものにいっさい触れてはならず、神殿に入ってもならない。」(フランシスコ会聖書研究所訳)という律法の規定があるからです。

フランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』のレビ記12章の欄外の注には、「2節で、産後の婦人が、月経や子宮出血病の場合(15・19ー30)と同様に、不浄のものとみなされている。」とあります。
つまりモーセの律法上、女性の出産は、月経や子宮出血病の場合(レビ記15章19節~30節)と同様に不浄が生じる機会と見なされていたのです。

ルカ福音書2章22節の「清めの日数」という記述は、本田神父の主張を否定する決定的な根拠となります。
モーセの律法に、本田哲郎神父が主張するような事情、つまり姦淫による「汚れ」に対する「清めの日数」の規定など、どこにも存在しません。

もしマリアとヨセフが本田神父の主張する理由によってベツレヘムの人々から排斥(忌避・拒絶)されたというのが事実であったとするなら、当然エルサレムの神殿からも同じ理由によってマリアとヨセフそして生まれた子イエスも排斥(忌避・拒絶)されていなければなりません。
当時のユダヤ世界の中で、最も律法が厳格に適用されていた場所は、ベツレヘムよりもどこよりも、それはもうエルサレムの神殿に他ならないからです。

そもそも、申命記には「主の会衆」から排除されるべき人々として、次の律法の規定があります。

混血の人は、主の会衆に加わってはならない。
(申命記23章3節:フランシスコ会聖書研究所訳)

フランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』の該当箇所の欄外の注には、この「混血の人」の説明として「不法な近親結婚、あるいは姦通による私生児を指すと思われる」とあります。
また「会衆」については、「幕屋で、後代には神殿で、礼拝のために集まる人々のこと。」であると、同じく欄外の注にあります。

バルバロ訳聖書(講談社)では、この「混血の人」の部分を「マンゼル」と表現しています。
この「マンゼル」について、バルバロ訳聖書の欄外の注には、「これは意味不明なことばの一つで、私生児、あるいはヘブライ人とペリシテ人の混血児、または偶像と何かかかわりのある者などの意味であろうと言われる。」とあります。

これらの欄外の注の説明は、ユダヤ教の多くの伝承や、アラマイ語のタルグム(本文に短い注釈を加えた翻訳)それにギリシア語七十人訳・ラテン語ヴルガタ訳・シリア語ペシッタ訳などの古代訳聖書を踏まえていますが、これらの伝承や翻訳の多くは「マンゼル」を「売春婦の子・姦婦の子・私生児」という意味で捉えています。

他の日本語訳聖書ではこの箇所がどう翻訳されているかをさらに調べると、日本聖書協会の新共同訳聖書では「混血の人」という訳ですが、同協会の口語訳聖書では「私生児」と訳されています。

多くの翻訳から分かることは、この「マンゼル(ממזר – mamzer)」というヘブライ語は単に文字通りの「混血の人」という意味の他にも、多様な意味を含んでいて、その厳密な定義付けについては細部では諸説があるものの、律法の規定という見地で「不法、非合法的、不適切」な性関係から生まれた子は「マンゼル」というこの範疇に該当する、と見なす点では一致しているわけです。

つまり、本田哲郎神父が主張するように、マリアとヨセフが「律法に違反したカップル」「罪人というレッテルを貼られた状態」であったとすれば、生まれた子イエスを献げようとしてエルサレムの神殿に入ることは許されなかったはずです。
もし本田神父の主張するような状況であったならば、生まれた子は「マンゼル」として見なされ、「主の会衆に加わってはならない」存在として扱われることになるからです。
そもそも、エルサレムの神殿は、「律法に違反した」「罪人」たちが中に入ることを厳しく禁じていましたし、姦淫による「汚れ」は無期限で、「清めの日数」などは存在しなかったからです。

(注)別エントリー「『聖母マリアの終生童貞』の聖書的根拠」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/2754

それでは話を戻し、もしもマリアがベツレヘムの宿屋に滞在できたと仮定すると、滞在中に宿屋で出産した場合に何が起こりうるか想像してみましょう。

重ねて強調しますが、フランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』のレビ記12章の欄外の注に「2節で、産後の婦人が、月経や子宮出血病の場合(15・19ー30)と同様に、不浄のものとみなされている。」とあることを踏まえてここは考えるべきです。
モーセの律法上、女性の出産は、月経や子宮出血病の場合と同様に不浄が生じる機会と見なされていたのです。

レビ記15章から、マリアと周囲の人々に適用される可能性が大きかった掟を列挙していきます(この部分はフランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』によります)。

「その女に触れる人はみな夕方まで汚れる。」(19節)

「その女が寝たものはすべて汚れる。また座ったものもすべて汚れる。その女の寝床に触れた人はその衣服を洗い清め、水で身を洗わなければならない。その人は夕方まで汚れる。その女が座ったものが何であっても、それに触れた者はみなその衣服を洗い清め、水で身を洗わなければならない。その人は夕方まで汚れる。もしその寝床の上、あるいはその女が座ったものの上にあったものに触るなら、その人は夕方まで汚れる。」(20節~23節)

本田神父も『釜ヶ崎と福音』108ページ〔岩波現代文庫版『釜ヶ崎と福音』では117ページ〕では、「女性の出産時の大量の出血、それも穢れと見なされた──いまでいえば、とんでもない差別ですけれども。」と書いています。

福音書の時代に旅人が泊まった宿屋は、現代でも山小屋や最も安い料金の船室などに見られるような形態、つまり大部屋に昼間の旅装のままで雑魚寝するような構造であったと考えられます。
もちろん二千年前の旅とは、現代人の旅のように着替えをたくさん持ち運んだり入浴やシャワーが当たり前だったりしていたわけでは、全くありませんでした。しかも季節は寒い冬だったのです。

着替えも体を洗うのもままならない状態のそんな宿屋の中でマリアが出産し、そこにレビ記15章の掟が適用された場合、出産したマリアと同じその部屋にいた人々もまた自ずと「汚れ」の状態と見なされてしまうことにもなりうるため、その宿屋が大騒ぎになってしまうことは容易に想像できます。
まさにそれゆえにこそ、一目見て明らかに出産間近の状態であったマリアはベツレヘムのどの宿屋からも宿泊を断られたのでしょう。

「もうすぐ出産しようとしている女性に対して、そんな杓子定規な対応を?」と現代人はだれしもそう思いますが、しかし当時はファリサイ派とか律法学者とか呼ばれる人々がモーセの律法を杓子定規に適用していた時代だったのです。だからこそ公生活中の主イエス・キリストはファリサイ派や律法学者たちを度々とがめられました。

つまり、マリアがベツレヘムで泊まる場所をどこにも見つけられなかった理由は、本田哲郎神父が邪推するようなものではなく、既にマリアが誰の目にも明らかに出産間近と分かるくらいまでお腹が大きくなっていた女性(妊婦)だったから、ということです。

(注)別エントリー「主の御降誕に助産婦が介在しなかった意味とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/2544

「荒廃をもたらす憎むべきもの」とは何か【再投稿】

(以下、聖書の日本語訳は、特に言及がない場合、フランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』によります)

マタイによる福音書24章15節〜16節には、「預言者ダニエルによって言われた『荒廃をもたらす憎むべきもの』が聖なる場所に立つのを見たなら、──読者は悟れ──その時、ユダヤにいる人は山に逃げなさい。」とあります。
(フランシスコ会聖書研究所訳「荒廃をもたらす憎むべきもの」は、新共同訳「憎むべき破壊者」バルバロ訳「<荒らす者のいとわしいもの>」ラゲ訳「『いと憎むべき荒廃』」日本聖書協会口語訳「荒らす憎むべき者」などの表現です)

この「荒廃をもたらす憎むべきもの」は、ダニエル書9章27節の預言に登場するものです。
また、当時のユダヤ世界において「聖なる場所」とは、エルサレムの神殿(とりわけ、その聖所)に他なりません。

ダニエル書9章は、第一神殿の滅亡とバビロン捕囚という憂き目を体験したユダヤ人たちの思いを代表するかのような、エルサレムそしてその神殿の再建を強く願うダニエルの祈り(3節〜21節)と、それに対する応答である「七十週」の預言(24節以降)によって構成されています。
ということは「七十週」の預言とは必然的に、再建後のエルサレムとその神殿──すなわち、第二神殿の時代のエルサレムに関する預言であるとしか解釈できません。

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

逆に言うなら、この9章におけるダニエルの関心事は、エルサレムそしてその神殿の再建より他にありません。そうである以上、「荒廃をもたらす憎むべきもの」「憎むべき破壊者」「<荒らす者のいとわしいもの>」「『いと憎むべき荒廃』」「荒らす憎むべき者」などと呼ばれた者は、必ず第二神殿時代のエルサレムに登場している(していた)に違いありません。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

ところが、ルカによる福音書21章20節〜21節には、「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいているのを悟りなさい。その時、ユダヤにいる人は山に逃げなさい。また、都にいる人はそこを立ち去り、地方にいる人は都に入ってはならない。」とあります。
(日本聖書協会の新共同訳『聖書』では、「都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。」と表現されています)

つまり「荒廃をもたらす憎むべきもの」が聖なる場所に立つのは、「エルサレムが軍隊に囲まれ」た時、すなわち「その滅亡が近づいている」その時ということになります。

実際のところ、紀元七〇年にエルサレムを包囲していた軍隊すなわちローマ軍が神殿の聖所を占領した際には、既にエルサレムはほとんど廃墟と化しており、ユダヤにいる人がローマ軍による聖所占拠を見てから山に逃げたとしても、それはあまりに遅きに失した話で、もはやエルサレムはその時点でそれこそ「滅亡」してしまっていたのです。

イエス・キリストの公生活の日々からおよそ四十年を経て、ローマ軍に対するユダヤ人たちの反乱は、エルサレムとその神殿との滅亡をもって凄惨な幕切れを迎えました。

ユダヤにまだ残っている人が安全のうちに山へ逃げようとするのであれば、ローマ軍がエルサレムを囲もうとしている時点、すなわちエルサレムの包囲を完成させてしまう以前の段階で、その行動に出なければなりません。
ローマ軍がエルサレムの包囲をいったん完成させてしまった後からでは、「都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。」というイエスの指示を実行することは、もはや不可能になってしまうからです。

つまり、聖なる場所に立つ「荒廃をもたらす憎むべきもの」──「憎むべき破壊者」「<荒らす者のいとわしいもの>」「『いと憎むべき荒廃』」「荒らす憎むべき者」──とはローマ軍のことではない、と必然的に考えざるをえません。

この「荒廃をもたらす憎むべきもの」は、ローマ軍がエルサレムを滅亡させる以前の、まだローマ軍がエルサレムの包囲に取り掛かろうとしている時点(包囲を完成させる以前)に、エルサレムの城壁の内側に既に登場していたということになります。

ユダヤ人の歴史家ヨセフスやローマ人の歴史家タキトゥスによれば、ローマ軍が包囲しようとしていたエルサレムの城内には、ユダヤの各地からの避難民のほか、ローマ軍に敗れた前線の兵士たちや、同じくユダヤの各地で活動していた無法者たちの集団などが、続々と流れ込んでいたのです。

当時のエルサレムは、ずっと以前からローマに対する反乱を想定していたかのように、堅固な要塞都市と化しており、その中心が神殿でした。
ですから、神殿の聖所もそれ自体が一種の要害のようになっていたのです。

その後ローマ帝国が一時的な内戦状態に陥り、それに伴っていったんローマ軍の脅威が去ったかのように見えると、敗残兵の集団と無法者の集団とは結託して一つの大きな武装勢力を形成し、神殿の聖所を占拠するとそこを根城に、エルサレムの市民たちに対して略奪・暴行をほしいままにし、逆らおうとする者たちに対して容赦なく虐殺を行ない、また先祖伝来の律法に背く行為を市民たちに強制するなど、無法の限りを尽くしていました。

ローマ軍の脅威が去ったかに見えた間、都エルサレムに存在した武装勢力は三派に分立し、一般の市民たちをも巻き込んで血で血を洗う抗争を繰り返し多くの犠牲者を出しました。この三つの集団の指導者はそれぞれギスカラのヨハネ、シモン・バル・ギオラ、エレアザルといった人々でした。

敵であるローマ軍がエルサレムを破壊する以前に、実はエルサレムの城壁の内部にいた無法集団によって、伝統的な宗教生活が既に崩壊してしまっていたのです。

また、武装勢力同士の抗争に伴う放火で、長期の籠城戦を想定して営々と備蓄されていた莫大な量の食糧が焼失してしまい、このことがエルサレムの破滅を一気に加速させてしまいました。
というのはやがてローマの内戦が終結した後、再びローマ軍がユダヤに来襲し、エルサレムを包囲して兵糧攻めの構えに入った時点で、ユダヤ全土からの膨大な避難民を収容していたエルサレムが、完全に物流が途絶えてしまうことで深刻な食糧不足に陥るのは、時間の問題だったからです。

当初は武装勢力を自分たちの守護者と考えていたエルサレムの市民たちは絶望し、こんなことなら一刻も早くローマ軍の手に落ちた方がよほどましだ、とまで考えて城外へ脱出を試みる人々も多く現われました。
エルサレムの一般の市民たちから見れば、武装勢力の行なっていることは彼ら自身の支配権を強化するためのまさしく「恐怖政治」に他ならず、市民たちの多くはローマの支配のもとでそれなりに繁栄していた時代を懐かしみ、武装勢力が支配する時代が続くよりもむしろローマとの和平を希望していましたが、武装勢力は自分たちの支配の確立後、エルサレムの住民が城外へ脱出することを決して許しませんでした。

繰り返しになりますが、ルカ福音書21章21節(新共同訳)には、「都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。」という、主イエス・キリストの御言葉が記録されています。

結局のところ、マタイによる福音書24章15節の「荒廃をもたらす憎むべきもの」とは、神殿の聖所を根城にして同胞のエルサレム市民に対して暴虐の限りを尽くしていた、これらの武装勢力──すなわち無法集団のことだったわけです。

ちなみに、紀元六九年(エルサレムの滅亡の前年)春、三派が分立した武装勢力の指導者の一人、シモン・バル・ギオラがエルサレムに入城した際、その支持者たちはオリーブの枝を手にして歓呼の声を上げながら指導者を迎え入れました。

その三十数年前の春、主イエス・キリストが都エルサレムに入城なさる際の光景を、ヨハネによる福音書12章12節〜13節は、「祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞いて、棗椰子(なつめやし)の枝を手に取り、迎えに出ていき、そして叫び始めた、『ホザンナ。ほめたたえられるように、主の名によって来られる方、イスラエルの王』」と記しています。

また同じくヨハネによる福音書5章43節には、主イエス・キリストの御言葉として、「わたしは父の名によって来たのに、あなた方はわたしを受け入れない。もし、ほかの者が自分の名によって来れば、あなた方はその人を受け入れる」と書き記しています。

ローマ帝国への大反乱が勃発した紀元六六年秋、エルサレムを制圧すべく来襲したローマ軍は占領寸前にもかかわらず、なぜかいったん撤退を始め追撃戦を挑んだユダヤの反乱軍に襲撃され惨敗を喫しました。そして当時の世界最強勢力であったローマ軍を相手に予想外の大勝利を収めたユダヤ反乱軍の指導者たちは、そのまま勢いに乗じて都の支配権を握ったのです。

しかしそれ以前に、都に残存していたローマ軍をユダヤの反乱軍が降伏させた際、こともあろうに安息日にもかかわらずローマ兵たちを虐殺し聖なる都エルサレムを血に染めた反乱軍の所業を目撃していた市民たちの中には、このようなことが起こったからには近い将来、恐ろしい惨劇が必ずや都を見舞うに違いないと悲観し、都を離れ去っていく者たちが続出しました。

不幸にして、やがて彼らの懸念は遠からず現実のものになりました。

ヨハネによる福音書11章55節に「多くの人々は身を清めるために、過越の祭りの前に、地方からエルサレムへ上った」とあるように、イエス・キリストの公生活の時代であれ、それからおよそ四十年後の大反乱の時代であれ、一世紀当時のユダヤ社会では、神殿が存在するエルサレムという都それ自体が清めの場であり大きな意味での神殿に含まれるという概念が存在し、支配的でした。しかし、ローマ帝国に対する大反乱の時代にエルサレムを支配していた武装勢力は、都を流血の巷に変えてしまい荒廃させてしまいました。

その事件からおおよそ四十年前には、ユダヤの人々はイエス・キリストに対して、安息日に病気を治したことについて、再三にわたり強く詰っていました──もしも安息日に病人を癒したことさえも批判の対象とされてしまうのならば、安息日に多くの人々を殺し、神が住まわれると見なされていた神殿の存在する聖なる都を血で汚(けが)してしまった所業は、どれほど神の御前では厳しく裁かれることでしょうか──エルサレムの心ある人々は、同じユダヤ人である反乱軍による行為に恐怖しました。

(ちなみにルカ福音書14章でイエス・キリストは、「あなた方の息子か牛が井戸に落ちたとき、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」(5節)と仰せになり、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちの問いに答えられました)

反乱軍が事実上エルサレムを支配し始めると、まず安息日の掟が上記のような経緯でないがしろにされ始め、そこからやがてはモーセの律法全体をないがしろにする無法集団の出現へと至ったわけです。

ローマの内戦が終結し、エルサレムの反乱鎮圧のためにローマ軍が再び戻って来ると、エルサレムの三つの武装勢力は急に正気に返ったかのように一致団結してローマ軍と戦いましたが、内部抗争で疲弊・消耗しきっていたエルサレムは遂にローマ軍に滅ぼされました。

本来ならばエルサレムには数年の籠城にも持ち堪えるほどの莫大な量の穀物が備蓄されているはずでしたが、武装勢力同士の内部抗争による放火で穀物の大部分が灰燼に帰してしまっており、またユダヤ各地からのあまりにも膨大な数の避難民をエルサレムが収容してしまっていたため、ローマ軍がひとたびエルサレムを包囲して兵糧攻めの構えに入ると、完全に物流が途絶えてしまった都はほどなく深刻な食糧不足に陥ってしまいました。

「都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。」という言葉の持つ意味を、あらためて深く考えさせられる、大惨事だったということです。

そして、エルサレムとその神殿とが滅亡したように、これらの三派の武装集団もまた、ローマ軍によって滅ぼし尽くされて終わりました。

ローマ帝国軍によるエルサレムそしてその神殿の滅亡を、まさに同時代の目撃者でもあったユダヤ人の歴史家ヨセフスは、ダニエル書に記された預言の成就であると見なしました。

ユダヤの歴史に関する著作においてヨセフスは、当然ながら預言者ダニエルについて言及し、またダニエル書の預言が成就したのは、歴史上、二度にわたっていることを、書き記しました。
すなわち一度目はアンティコス・エピファネス王の時代(ユダ・マカバイの時代)のことであり、そして二度目はローマ軍によるエルサレム(そして第二神殿)滅亡の時であると、ヨセフスは説明しました。

(注)別エントリー「予備的考察:いわゆる『エゼキエル戦争』【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15520

紀元七〇年のエルサレム及び神殿の滅亡をもって、第二神殿の時代が終焉し、ダニエル書9章の「七十週」預言は完全に成就したわけです。

ちなみにマルコによる福音書13章14節には、「さて、『荒廃をもたらす憎むべきもの』が立つべきではない所に立つのを見たなら、──読者は悟れ──その時、ユダヤにいる人は山に逃げなさい。」とあります。
(新共同訳では「憎むべき破壊者」、バルバロ訳では「<荒らす者のいとわしいもの>」、ラゲ訳では「『いと憎むべき荒廃』」、日本聖書協会口語訳では「荒らす憎むべきもの」の表現です)

「立つべきではない所」とは、むろん神殿の聖所のことです。

(注)別エントリー「『ヘブライ人への手紙』が書かれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/2286

そしてルカによる福音書21章22節には、「それは書き記されていることがすべて成就される、報復の時だからである。」とあり、ここにおいて主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡(紀元七〇年)をもって旧約聖書の預言が全て成就し、旧約時代──すなわち、エルサレム神殿の時代が完全に終焉を迎えることを、明らかにされています。
(新共同訳では「書かれていることがことごとく実現する報復の日」、バルバロ訳では「書き記されているすべてのことの実現する報復の日」、ラゲ訳では「これ刑罰の日にして、書きしるされたること、すべて成就すべければなり」、日本聖書協会口語訳では「聖書にしるされたすべての事が実現する刑罰の日」の表現です)

ルカ21章22節には「書かれていること」という表現が用いられていますが、これはヨシュア記1章8節と同様、「預言された事柄」「神から啓示された内容」などを意味する言い回しでした。

古代においては「書く(書いて記録に残しておく)」という行為それ自体が、非常に重要な意味を持つものだったのです。

(注)別エントリー「『携挙』:ギリシア語聖書本文で徹底検証【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7753

試論:「食事を準備して待つ神」を140文字以内で

主イエスはマタイ26章で、ペトロが「たとえ皆があなたにつまずいても決してわたしはつまずきません」と大言壮語した際「鶏が鳴く前に」と警告された。しかし御復活の後、肝心な時に逃げたことで意気消沈しているペトロに対して、主は食事を準備して待ち、近くで給仕された(ルカ12章38節参照)。

(注)別エントリー「『婚宴帰りの主人』=『御復活の主』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18271

【追記】

ルカ12章36節以下「婚宴帰りの主人が戸を叩く時、目を覚ましていて、すぐ開けようと待つ人は幸い。主人は帯を締め、この僕(しもべ)たちを食事の席に着かせ給仕してくれる」ヨハネ21章9節以下「陸に上がると、炭火が起こしてあって上に魚があり、パンもあった。『さあ来て食事をしなさい』」。

(注)別エントリー「試論:『一緒に食事をする』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16061

試論:「大漁の奇跡」二度目を140文字以内で

ヨハネ21章の「大漁の奇跡」はルカ5章で漁師たちが弟子となった場面の再現だった。シモン・ペトロとゼベダイの子たちは自分たちが主に呼ばれた日をいやでも思い出したはずである。土壇場で自分を見捨てて逃げた者たちを再び選ぶことは、「人間の論理」では絶対にあり得ないが、神はそれを行われた。

【追記】

主の逮捕時に使徒たちが主を見捨てて逃げたことはエルサレムやユダヤの人々には知られていた。使徒以外の弟子たちの中には「ペトロ筆頭に使徒たちは一体どの面(つら)下げて我々の前に出て来れるのか」と快く思っていなかった者もいたはずだが、御復活の主御自身がペトロと使徒たちをお選びになった。

試論:「神の家の隅の親石」を140文字以内で

福音書に救い主の誕生日の記述はないが、旧約聖書のハガイ2章には「神殿の礎」すなわち《神の家の隅の親石(=主イエス・キリスト)》が備えられる日として、古いヘブライの暦で「第九の月の二十四日」という冬の日付が何度も啓示される。この日はユダヤ教のハヌカ(神殿奉献記念祭)と同時期である。

(注)別エントリー「聖書にはクリスマスの日付が載っていますか???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13267

【追記】

主イエスはマタイ21章42節で、詩編118編22節を踏まえ御自身を「家」の《隅の親石》に喩えられた。他方ハガイ2章は《主の神殿(=神の「家」)の基》が置かれる日(18節)としてヘブライ人の暦で「第九の月の二十四日」と冬の日付を何度も強調する。これはユダヤ教のハヌカと同時期である。

ハガイ2章では「神殿の基」(18節)が備えられる日である、古いヘブライの暦で「第九の月の二十四日」という日付が何度も提示される。この日は季節としては冬であり主イエスは御自身〔の体〕を「神殿」(ヨハネ2章19節)あるいは「[神の家の〕隅の親石」(マタイ21章42節)等と表現された。

有名な「隅の親石」という表現をテーマにしてペトロの手紙一の2章では解説を行う。まず6節で「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することがない」とイザヤ28章16節を引用し、一ペトロ2章7節ではこれを主イエスの境遇と関連付けて説明する。

主はマルコ12章10節で、「家を建てる者の捨てた石が隅の親石となった」と詩編118編22節を引用されて、イザヤ28章16節の預言「わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の貴い隅の親石。信じる者は慌てることがない」の御自身における成就を御説明された。

試論:ルカ24章43節を140文字以内で

主はマルコ5章でヤイロの娘を生き返らせた後、食べ物を彼女に与えるように仰せになった。これは、後に御自身が御復活されて弟子たちの前に御出現になった際(ルカ24章)に、一切れの魚を持って来させ食べられたことと同じで、亡霊を見ているわけではないことを人々に理解させるための仰せであった。

試論:「モーセの預言とメシア」を140文字以内で

モーセは古代イスラエル最大の預言者と見なされた(申命記34章10節)。彼が「わたしのような預言者」(同18章15節)と呼んで預言したメシア(ダニエル9章24節。油注がれた最も聖なる者)を、ペトロはイエスのことだと使徒言行録3章で説教した。ダニエル書のメシアは預言の時代を封印する。

【追記】

ダニエル9章24節はメシアについて預言の時代を封印する存在だと預言し、主はルカ21章22節で、(紀元七〇年の)エルサレム滅亡で旧約聖書の全預言が成就し預言の時代が終わると仰せになった。故に紀元七〇年以降の国際情勢と旧約聖書の預言は無関係で、関係ありとする強弁は主の御言葉に反する。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

旧約時代においては旧約聖書の読者ばかりでなくそれぞれの書の著者たちですら、何か重大なものが自分たちには欠けており将来それを満たして下さる方が到来されるであろうと感じていた。今、キリストの信者を自認する現代人が、福音書よりも旧約聖書の方を熱心に読んでいるなら本末転倒もはなはだしい。

ゼカリヤ13章の6節までは、旧約の民から真の預言者が途絶え、残った偽預言者たちが神や人々から排斥される時代を預言した。7節からは、人々を清める教えをもたらすために来られる救い主に旧約の民の多くはついていけないが、残りの少数は救い主に最後まで従い新時代の神の民を形成すると預言した。

(注)別エントリー「試論:偽預言者の識別を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6118

(注)別エントリー「試論:ユダヤ教と預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5099

(注)別エントリー「試論:偽預言者と滅亡を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5401

ルカ21章22節において、主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると明言されており、それは紀元七〇年に現実のこととなった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代や近未来の世界情勢に関して旧約聖書の預言から考える行為は、不毛である。

(注)別エントリー「予備的考察:いわゆる『エゼキエル戦争』【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15520

ルカ21章22節には「書かれていること」という言い回しが用いられているが、これはヨシュア記1章8節と同様に、「預言された事柄」「神から啓示された内容」などを意味する表現である。古代においては「書く(書いて記録に残しておく)」という行為それ自体が、非常に重要な意味を持つものだった。

ダニエル書9章では神殿とエルサレムの復興を強く願うダニエルの祈りに応えて、都と神殿の再建さらには救い主の到来までも約束されたが、救い主が不当に殺された後、モーセの律法を蹂躙する集団が神殿の聖所を占拠し、そして次に来る指導者の民が、都と神殿を無法集団もろとも、滅ぼし尽くして終わる。

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

「婚宴帰りの主人」主イエス

ルカ12章36節以下「婚宴帰りの主人が戸を叩く時、目を覚ましていて、すぐ開けようと待つ人は幸い。主人は帯を締め、この僕(しもべ)たちを食事の席に着かせ給仕してくれる」ヨハネ21章9節以下「陸に上がると、炭火が起こしてあって上に魚があり、パンもあった。『さあ来て食事をしなさい』」。

(注)別エントリー「試論:『一緒に食事をする』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16061

ヨハネ3章29節の通りヘブライ人は神を花婿に、神の民を花嫁に喩えた。従ってマタイ22章8節以下の通り、婚宴とは神が神の民の中の相応しい人々を神の国に迎え入れ喜びを共にすることである。主イエスは御受難と御復活の間に新しい天・地・エルサレムを創造され、旧約の義人たちを迎え入れられた。

(注)別エントリー「試論:『聖書が実現するため』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17226

主イエスは福音書で自身の御受難と御復活を随所で暗示されたが、御受難と御復活の間に御自分がどんな働きをなさるかについても、ヨハネ14章2節から3節で予告された。それはイザヤ65章17節以下の「新しい天・地・エルサレムの創造」預言の成就であり、御自身の復活の体の創造で完成の時を見た。

(注)別エントリー「主の御復活とともに創造された事柄とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15917

古代のイスラエルは「神」と「神の民」の関係を「花婿」「花嫁」に喩えた。主イエスは御自身の御復活つまり「復活の体」(一コリント15章)創造に際し、イザヤ65章で預言された「新しい天・地・エルサレム」を創造されて、新しい「神の民」を迎える準備を完了された(ヨハネ14章2節以下参照)。

一コリント15章6節は復活後の主の御出現が五百人以上へ同時になされたと記すが、使徒言行録1章15節は主の御昇天と聖霊降臨の間に一団となっていた人数を百二十人ほどと記す。「五百人以上」とは同じ場所にいた総数ではなく「別々の場所の各人へ同日のほぼ同時刻に」という可能性も否定できない。

(注)別エントリー「試論:聖霊降臨と聖母を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4990

(注)別エントリー「試論:聖母と聖霊降臨を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6762

箴言15章3節は「ありとあらゆる場所に主の御目は注がれ、善人をも悪人をも全てをごらんになっている」と記す。復活された主イエスは、それぞれ遠く離れたさまざまな場所にいた、五百人以上の前に、同じ日の同一時間帯、別々に御出現されることによって、御自分の神としての遍在性をお示しになった。

【問】ヨハネ17章12節は「聖書が実現するため」と記しますが、一体何が実現したのですか?【答】エゼキエル37章27節「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの神となる」イザヤ66章8節「誰がこのようなことを見聞きしただろうか。一つの国が一日で生まれ、一つの民が一度に生まれようか」。

パウロは一コリント15章で「キリストの復活」こそ福音の核心であり、キリストの御復活つまり《天上の体(復活の体、霊の体)の創造》こそが信仰における全ての希望の源であると強調した。「天上の体」こそが、キリスト御自身のみならず、キリストを信じる全ての人々にとっての、目的地だからである。

(注)別エントリー「試論:『霊の帰還』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8381

(注)別エントリー「試論:『天国の福楽を相続する』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13891

黙示録21章16節以下では新しいエルサレムの巨大性が啓示される。これは当然、ヨハネ14章2節以下「わたしの父の家には住む場所がたくさんある。もしなかったなら、あなたたちのための場所を準備しに行くとは言わない。あなたたちの場所を準備したらあなたたちの許に戻って来る」を反映している。

主イエスは御受難と御復活の間に「新しい天・地・エルサレムの創造」を準備され誕生させたが、イザヤ66章8節は「誰がこのようなことを見聞きしたであろうか。一つの国が一日で生まれ一つの民が一日で生まれることがあり得るだろうか」と預言する。「天の国は近づいた」の「天の国」とはこれだった。

古代のイスラエルでは「神」と「神の民」との関係がしばしば「花婿」と「花嫁」と表現された。しばしば「女王」にもたとえられる都が「花婿」キリストを歓呼と共に迎え入れながら、数日後に裏切り、夜中に急襲して捕らえ一日のうちに死に至らしめたその行状から、「大淫婦」と呼ばれるのは当然である。

(注)別エントリー「試論:『大淫婦』の正体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15895

黙示録18章7節「わたしはやもめではなく女王であり、決して悲しい目に遭わない」ルカ19章41節以下「イエスは都のために泣いて仰せになった、『もし今、お前が平和への道をわきまえていたならば。しかし今のお前は、それを理解していない。時が来て、敵がお前を包囲して四方から攻め寄せ〜』」。

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1699

試論:マタイ7章11節「悪い」を140文字以内で

【問】主イエスが「あなたたちは悪い者なのに、自分の子供に良い物を与えることを知っている」と「悪い者」呼ばわりされた理由は?
【答】当時のユダヤ人は、創世記8章21節の主の仰せ「人が心に思うことは幼い頃から悪い」を会堂における朗読によって知っており、主イエスはそれを踏まえられました。

ルカ24章47節

御復活の主はルカ24章47節で「罪の赦しをもたらす悔い改めがあらゆる国で宣べ伝えられる」と仰せになったが、3章3節では洗礼者が罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えたと記し、のみならず同8節では悔い改めにふさわしい実を結べと命じており、10節以下は具体的な指示をも記す。

主イエスはヨハネ15章4節で「わたしにつながっていなさい」と仰せになり、5節で「わたしにつながっていなければ、あなたたちは、何の実を結ぶことも、できない」、6節で「わたしにつながっていない人は枯れた状態で外に投げ捨てられ、集められて火に投げ入れられ焼かれてしまう」と、続けられた。

主はヨハネ15章2節で「わたしにつながっていても実を結ばぬ枝は全て御父が取り除かれ、実を結ぶ枝は全て御父がさらに豊かに実るよう手入れをなさる」と仰せになった。ヤコブ3章でも17節と18節に「実」が登場し、知恵・純真・温和・優しさ・従順・憐れみ・義・平和が特徴であることを説明する。

(注)別エントリー「試論:『新たに生まれなければ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9816

主イエスはヨハネ15章2節で「わたしにつながっていても実を結ばぬ枝は全て御父が取り除かれるが、実を結ぶ枝は全て御父がさらに豊かに実るように手入れをなさる」と仰せになり、ガラテヤ5章22節以下でパウロは「実」の具体例を、愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・柔和・節制と列挙した。

神の霊つまり聖霊が人間に賜るものをガラテヤ5章は愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制と説く。主はマタイ6章33節で「神の義」を求めよと仰せになり、同22章でそれを「礼服」にたとえられる。コロサイ3章では、着るべきものとは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛と説く。

マタイ22章は神の御前に立つためには「礼服」が不可欠と教える。詩編132編は9節で「正義を衣としてまとう」16節で「救いを衣としてまとう」と表現して「救い」すなわち神と共にある条件を、「正義」すなわち「神の義」(マタイ6章33節)とし、その具体例をコロサイ3章12節以下が教える。

(注)別エントリー「試論:マタイ22章『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6740

(注)別エントリー「試論:『人の行いに応じた報い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5743

(注)別エントリー「試論:『神の義とディカイオス』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8685

マタイ22章「礼服」に関連して、パウロはコロサイ3章で、キリストに結ばれていたいと望む人々が「着る」つまり身に着けるべき事柄に関してとりわけ10節以下で論じ、5節から9節では脱ぎ捨てるべきものも説く。身に着けるべきは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、そして愛だとパウロは説いた。

主はマタイ6章33節で「神の国と神の義を求めよ」と仰せになり、また同22章では神の国で神の御前に立つために不可欠な「神の義」を、「礼服」にたとえられた。この「礼服」すなわち「神の義」とは何であるかについて、パウロはコロサイ3章で、キリストの弟子が身に着けるべきものとして説明した。

試論:「女性の苦労を理解する」を140文字以内で

マタイ1章19節は主の養父ヨセフを義人と呼び、エゼキエル18章6節では義人の条件の一つに生理中の女性に近づかないと挙げる。女性特有の心身の辛さに配慮し、女性に余分な負担を加えぬよう自分を律することができる男性こそ義人である。女性を蔑まずリスペクトの対象にできる男性こそ義人である。

(注)別エントリー「試論:マリアとヨセフに倣う事柄を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7012

試論:苦難の連続で衰えるメシアを140文字以内で

福音書の中では病気を表すギリシア語を用いて、パウロは自身の手紙で自分の弱さ(衰弱)を表現した。ヘブライ人にとって「病気→衰弱」という連想は自然であり、これを踏まえて最後の審判の「病気」も解釈されるべきで、イザヤ53章3節「病を知っている」は苦難続きで衰弱するメシアの姿を預言する。

試論:「堅実な信仰の地味な人」を140文字以内で

【問】主イエスは四人の漁師を弟子とされましたが、ペトロ・ヤコブ・ヨハネの三人ばかり目立ちアンデレだけ地味です。
【答】兄のシモン・ペトロは主が湖上を歩かれた際に自分も歩くと言い出すほど自分が前面に出る積極的な人でしたが、この兄を主に導いたのは弟(ヨハネ1章41節〜42節)の方です。

試論:「イスラエルの解放」??を140文字以内で

【問】ルカ24章21節「あの方(=主イエス)こそイスラエルを解放して下さる」何のこと?
【答】テトス2章14節「キリストが、わたしたちのために御自分を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法(一ヨハネ3章4節参照)から贖い出して、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるため」。

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

試論:「燃えていた心」を140文字以内で

ルカ12章49節「わたしは地上に火を投ずるために来た。既にその火が燃えていることをどんなに願っているか」同24章32節「主が道でお話しされた時や聖書を説明されていた時、われわれの心は燃えていたではないか」エレミヤ23章29節「わたしの言葉は火のようではないか、と主は仰せになる」。

(注)別エントリー「試論:『聖霊と火』の『火』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5770

(注)別エントリー「試論:『地上に火を投ずる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7803

【追記】

主は「火」「剣」を人々にもたらすと仰せになったが、両者とも御言葉の比喩である。御言葉は心を燃やし(ルカ24章32節)心に刺さる(詩編55編22(21)節等参照。エフェソ6章17節)。黙示録も1章16節等で御言葉を剣に喩え11章5節では御言葉を火に喩えた(エレミヤ5章14節参照)。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

エマオの御出現と旧約聖書の預言

ルカ24章のエマオでの御出現において主は、旧約聖書とは御自分について証しするものであり、実際その詳細について《全体》の説明を始めると、何時間あっても語り尽くせないことをお示しになった(27節)。主は以前にもユダヤの人々に対して同じ事柄をお話しになられていた(ヨハネ5章39節等)。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ5章46節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7208

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4783

【問】ルカ21章22節の主の仰せ通り、紀元七〇年の滅亡で旧約聖書の全預言が既に成就したのなら、現代人が旧約聖書の預言書を読む意義は何ですか?
【答】主イエス・キリスト及びその仰せの理解にはそれが不可欠だからで、エレミヤ5章14節を知らないとルカ12章49節の「火」は理解困難です。

(注)別エントリー「主イエスが地上にもたらされた『火』とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19511

(注)別エントリー「試論:主イエスの『火』と『剣』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19516

一ヨハネ4章の通り偽預言者や偽教師は、主イエスが実際に仰せになった福音書の御言葉には絶対に触れようとせず、代わりに「世」すなわち俗世間や国際情勢の話で置き換える。主イエス御自身が、預言とは御自分についてあかしするものだと仰せにもかかわらず、国際情勢や「終末預言」に話をすり替える。

主イエスはヨハネ5章39節で「あなた方は〔旧約〕聖書中に永遠の命が存在すると考え〔旧約〕聖書を研究するが〔旧約〕聖書はわたしに関してあかししている」と仰せになり、御自分と無関係の目的で〔旧約〕聖書を研究したとしても本当に重要な真理には全く到達することができないと、お教えになった。

(注)別エントリー「聖書にはクリスマスの日付が載っていますか???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13267

二ペトロ2章は「偽教師」への警戒を呼びかけ、「彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にする」(3節)「昼間から享楽に耽るのを楽しみにする」(13節)「強欲」(14節)等と表現した。一般の信者が真面目に働く時間帯に美食を貪り、旅行・観光・娯楽施設と遊興三昧なのが偽教師である。

ヨハネ5章39節で主が仰せの通り、旧約聖書全体を等しく重視するよりも主イエスとその福音に関連の強い事柄を優先して学ばねばならない。例えば「正義(=「神の義」)を衣としてまとう」(詩編132編9節)という旧約聖書の慣用句を知らなければ、マタイ22章の「礼服」のたとえは理解が難しい。

(注)別エントリー「試論:『神の義』と詩編を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6798

旧約聖書の預言は第一義的に主イエス・キリストの到来及びその前後までの歴史的出来事をあかしするためのものであり、キリスト到来から約二千年後に生きる現代人が国際情勢を読み解くためのものではなく、国際情勢分析など本来の意義とは無関係の完全な逸脱行為であり、真理には絶対にたどり着けない。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

マルコ12章における律法学者との対話において主は、旧約聖書の中の多くの掟について、重要性における順序があることを再確認された。またヨハネ5章39節で、旧約聖書とは御自分について証しするものだと主は御説明され、旧約聖書を調べる目的は御自分へと到達するためであるべきだと仰せになった。

(注)別エントリー「試論:キリスト教と旧約聖書を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6527

主はヨハネ5章39節で、聖書とは御自分についてあかしするものであり、御自分を目的としない聖書研究には意味がない旨を仰せになった。これに関連し一ヨハネ4章も、主イエスに関する事柄についてなるべく触れようとしない自称信者を「偽預言者」「反キリストの霊」「人を惑わす霊」などと表現する。

(注)別エントリー「試論:『預言を封印するメシア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8347

(注)別エントリー「試論:『真の預言者すらいない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8425

(注)別エントリー「試論:『預言と私的啓示の違い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8360

二ペトロ2章は「偽教師」への警戒を呼びかけ、「彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にする」(3節)「昼間から享楽に耽るのを楽しみにする」(13節)「強欲」(14節)等と表現する。一般の信者が真面目に働いている時間帯に、連日のように臆面もなく美食を貪る者こそが偽教師である。

(注)別エントリー「試論:偽預言者と貪欲を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7125

(注)別エントリー「試論:『終末預言?ありません』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13853

(注)別エントリー「試論:有人気球と『空中』の拡大を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10270

二ペトロ2章は「偽教師」への警戒を呼びかける。彼らは「滅びをもたらす異端を持ち込み、主を拒む」(1節)、「欲が深く虚言で人々を食い物にする」(3節)、「厚かましく、わがまま」(10節)「昼間から歓楽にふけるのを愉しみとする」(13節)「無意味な大言壮語」(18節)等の特徴を持つ。

試論:「マグダラのマリア」過去を140文字以内で

ルカ8章2節はマグダラのマリアを、主イエスに七つの悪霊を追い出していただいた女性と記す。「七つの悪霊」として最も蓋然性が高い事柄は箴言6章17節以下に記される七つの悪徳(高慢、虚言、殺意、悪巧み、無分別、詐欺、偽証)を指すと思われる。マグダラは風紀の乱れた地として悪名が高かった。

(注)別エントリー「試論:『わたしに触れるな』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16000

(注)別エントリー「マグダラのマリア」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17893

試論:「遅過ぎる回心などない」を140文字以内で

ルカ23章40節以下で主の隣の十字架につけられた盗賊は最後に神への畏れを知り、自分の今の惨めな境遇は全て自業自得だが神には罪はなく神の御心に適う願いなら聞き入れられると確信し、自分の隣にいるのは神そのものであると信じて直接それを伝えた。彼の信仰告白に主は最大の幸福を御約束された。

(注)別エントリー「神に対する確信を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5613

【追記】

ルカ23章42節で善き盗賊は、主イエス・キリストに属する民がいる場所を「あなたの御国」と呼んだ。そこを主御自身は続く43節で「楽園」と呼ばれた。主イエスは御受難と御復活との間に「新しい天・地・エルサレム」と呼ばれる場所を創造され、御自身と御自分の民の「復活の体」もまた創造された。

(注)別エントリー「試論:キリストの『バシレイア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15833

(注)別エントリー「試論:新しい天・地・エルサレムを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16733

(注)別エントリー「試論:『王』と呼ばれる意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19508

(注)別エントリー「試論:人間の完成形(最終形態)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15868

主イエスはルカ15章7節で「悔い改める必要のない九十九人の義人よりも、悔い改めている一人の罪人のことを天は大いに喜ぶ」と仰せになり、マタイ18章14節ではエゼキエル18章32節「わたしは誰の死も喜ばない」と同様に、天の御父は悪人の滅亡よりも悪人の回心を喜ばれることを再確認された。

(注)別エントリー「試論:『誰の死も喜ばれない神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18444

試論:「古代ユダヤの買収行為」を140文字以内で

ヘロデ大王は王妃の弟に当たる大祭司を謀殺した後、自分に忠実な祭司たちに大祭司の権力と財産を与え籠絡した。福音書の時代にユダヤの有力者の間で物事を買収で解決する風潮が蔓延した端緒だった。ユダは銀貨三十枚で買収され、御復活の主と婦人たちと天使とを目撃した番兵たちも金銭で口止めされた。

(注)別エントリー「ダニエル書7章:地上に興る第四の王国」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4631

【追記】

ヘロデ大王は本来終身制の大祭司職を、自分に忠実な祭司を指名し意のままに解任する存在とし、彼の死後は子孫の王たちやローマ総督も同じことを行った。アンナスはいったん総督により大祭司職を退かされたが、その後も娘婿カイアファの背後にあって、エルサレム神殿を牛耳り、主イエスの尋問も行った。

ヘロデ大王が自分の意向次第の大祭司職の「首のすげ替え」を始めてしまったがために、福音書や使徒言行録の時代、現職の大祭司以外に元職の大祭司経験者が〔しばしば複数〕存在し、「祭司長たち」などと訳される。主イエスの御受難の際の大祭司はカイアファだが、裏では元職のアンナスが牛耳っていた。

主イエスはヨハネ8章15節で「あなたたちは肉に従って裁く」と仰せになった。ヨハネ福音書は人間的な事柄を「肉」、神に由来する事柄を「霊」と呼び対比する。ヘロデ王家は自分たちに同調する祭司へ大祭司の権力と富を与え籠絡していた。福音書における神殿の有力者たちの堕落はそれが原因であった。

試論:なぜ「キリストの律法」?を140文字以内で

【問】主イエスのマタイ7章12節の仰せをパウロが「キリストの律法」と呼んだのは、なぜですか?
【答】なにより主イエス御自身が「律法(ノモス)」と定義され、最後の審判の際に基準とされる「法(ノモス)」(一ヨハネ3章4節)であり信仰とは何かについて迷った時に立ち戻るべき基準だからです。

【追記】

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

【問】主イエスは御受難と御復活によって「新しい天・地・エルサレム」と「天上の体」への道を開かれました。信者はそれにどう答えるべきですか?
【答】キリストの律法「他の人からしてもらいたいことならなんでも、あなたの方から他の人にしなさい」を忠実に実行することが、「永遠の命」への道です。

ヨハネ福音書は「永遠の命」「信じる」を多用する。ただし「何をすれば永遠の命を得られるか」の具体例はマタイ25章「最後の審判」とルカ10章「善きサマリア人の話」の箇所にあり、ルカ10章27節で主イエスは、「信じる」こととは「心・精神・力・思いを尽くし愛する」ことだとお教えになった。

フィリピ1章24節でパウロは現世で生き続けることを「肉にとどまる」と表現する。

一コリント15章の通り、主なる神から「永遠の命(天国の福楽)」を確約された者は天国で

「天上の体」「霊の体」

と呼ばれる朽ちない体を受け生き続けるが、それは現世の

「地上の体」「肉の体」

と別の新しい体である。

「主の変容」とは、一コリント15章でパウロが言及する

「天上の体」(40節)

を主イエスが実際に三人の使徒へお示しになった意義深い出来事で、パウロは「天上の体」を

「朽ちないもの」(42節)

「輝かしいもの」「力強いもの」(43節)

「霊の体」(44節)

「天に属する者」(47節)

等と呼ぶ。

一コリント15章は、

《地上で生きる体》と《永遠の命を得て復活し天の国で生きる体》

とを、

「地上の体」と「天上の体」

「地上の命の体」と「霊の体」

等と表現する。

ガラテヤ5章は人間的な事柄を「肉」、神的な事柄を「霊」と表現し、

コロサイ1章22節「肉の体」とは「人間としての体」の意である。

試論:信者は何をすればいいの?を140文字以内で

【問】主イエスは御受難と御復活によって「新しい天・地・エルサレム」と「天上の体」への道を開かれました。信者はそれにどう答えるべきですか?
【答】キリストの律法「他の人からしてもらいたいことならなんでも、あなたの方から他の人にしなさい」を忠実に実行することが、「永遠の命」への道です。

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11494

試論:「あなたたちは死んだ」?を140文字以内で

【問】コロサイ3章の「あなたたちは死んだ」(3節)や「あなたたちはキリストと共に復活させられた」(1節)って一体どういうこと?
【答】ローマ6章11節の洗礼の意義「あなたたちは『自分は罪に対しては死んでいてキリスト・イエスに結ばれて神に対しては生きている』と考えなさい」のことです。

【追記】

ヨハネ8章34節「罪を犯す者は、罪の奴隷」12章31節「今、この世の支配者が追放される」ヘブライ2章14節〜15節「御自分に委ねられた者たちが人間である以上イエスも同じく人間としての全てを担われたが、死を司る悪魔を御自分の死によって滅ぼし悪魔の罪と死の支配から人々を解放された」。

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

ローマ6章15節「わたしたちは律法の下ではなく恩寵の下にあるのだから、罪を犯してもよいということになるのでしょうか? 決してそういうことにはなりません」同16節「あなたたちは、罪に仕えて罪の奴隷となって死に至るか、神に従順であって神の奴隷として〔神の〕義に至るか、どちらかです」。

主はヨハネ14章6節で「わたしは命である」と仰せになり、これは生きていく上で最も重要かつ不可欠な事柄を「命」と呼ぶヘブライ人の観念(レビ17章14節「全ての生物の命は、その血」)に基づいてはいるが、同様の観念は現代の日本人の中にも当然ある(例:「ピアニストにとってピアノは命」)。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『わたしは命である』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11586

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

試論:ヨハネ20章9節を140文字以内で

ヨハネ20章9節では、〔旧約〕聖書がイエスの復活を語っていると記す。

イザヤ25章は、

「この方こそ、わたしたちを救ってくださる、わたしたちが待ち望んでいた神」(9節)

と呼ばれる方が、

「この山」(7節)

と呼ばれる場所において、

「死を永久に滅ぼしてくださる」(8節)

ことを預言している。

【追記】

鉄道の「上り下り」の表現の通り、地方から都に近づくことを「上る」都から地方へ遠ざかることを「下る」と表す。まして古代のイスエラルで「都」は、天の御父のお住まいとみなされた神殿の所在地であり、神殿や都は、上って行くべき場所の象徴としても「山」と表現された(イザヤ2章2節以下参照)。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ20章9節『聖書』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15956

試論:「わたしの兄弟たち」誰?を140文字以内で

マタイ26章56節「弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げた」75節「ペトロは仰せを思い出し外に出て大泣きした」6章34節「その日の苦労はその日だけで十分」28章10節「行ってわたしの兄弟たちにガリラヤへ行くよう告げなさい」20節「わたしは世の終わりまでいつもあなたたちと一緒にいる」。

(注)別エントリー「教義『無原罪の御宿り』の聖書的根拠」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/52

試論:ローマ6章「洗礼の意義」を140文字以内で

ローマ6章4節は洗礼の意義を「キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるため」と記しており、12節以下では「あなたたちの死ぬべき体を罪に支配させ欲望に従属してはならず、また体を不義のための道具として罪に従属してはならない」と戒める。

イザヤ54章6節の「妻」

古代のイスラエルではしばしば神と神の民との関係を「花婿」と「花嫁」との関係に喩えた。ゆえに神の民による神への背信は「淫行(姦淫)」に喩えられた。神から心が離れるたびにエルサレムは外敵による蹂躙に見舞われたが、キリストの御受難と共に創造された新しいエルサレムは、不幸とは無縁である。

(注)別エントリー「主の御復活とともに創造された事柄とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15917

主イエスは福音書で自身の御受難と御復活を随所で暗示されたが、御受難と御復活の間に御自分がどんな働きをなさるかについても、ヨハネ14章2節から3節で予告された。それはイザヤ65章17節以下の「新しい天・地・エルサレムの創造」預言の成就であり、御自身の復活の体の創造で完成の時を見た。

イザヤ65章17節以下では、「主によって『新しい天・地・エルサレム』が創造される」という驚くべき預言が啓示され、一コリント2章9節でパウロは「見聞きしても理解できず人間の心には思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」とイザヤ64章3節を引用し説明した。

古代のイスラエルでは「神」と「神の民」との関係がしばしば「花婿」と「花嫁」と表現された。しばしば「女王」にもたとえられる都が「花婿」キリストを歓呼と共に迎え入れながら、数日後に裏切り、夜中に急襲して捕らえ一日のうちに死に至らしめたその行状から、「大淫婦」と呼ばれるのは当然である。

(注)別エントリー「試論:黙示録17章『十本の角』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9155

(注)別エントリー「試論:黙示録17章『第八の者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9038

黙示録18章7節「わたしはやもめではなく女王であり、決して悲しい目に遭わない」ルカ19章41節以下「イエスは都のために泣いて仰せになった、『もし今、お前が平和への道をわきまえていたならば。しかし今のお前は、それを理解していない。時が来て、敵がお前を包囲して四方から攻め寄せ〜』」。

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1699

古代のイスラエルは、神と神の民との関係をしばしば花婿と花嫁の関係にたとえた。洗礼者ヨハネは、イエスを「花婿」と呼んで自身は「花婿の介添人」と称した。主イエスを歓呼の裡に迎え入れながら数日で死に至らしめた都を、黙示録が「大淫婦」と呼んだ理由は、イエスこそ花婿に他ならないからである。

ヨハネの黙示録17章5節には「淫婦の母、地上のあらゆる憎むべきものの母である大バビロン」と書かれているが、ゼカリヤ書2章11節では、エルサレムの住民が「バビロンの娘」という表現で呼び掛けられている。当時のエルサレムの住民は、かつてバビロンに連行されて住み着いた人々の子孫であった。

イザヤ62章5節はシオンの救いに関する文脈で神と神の民との関係を花婿と花嫁の関係にたとえエレミヤ33章11節はエルサレムの復興を「花婿と花嫁の声が聞こえるようになる」と預言したが、ならば、黙示録18章23節が「花婿と花嫁の声は聞かれない」と啓示した都も、やはり同じ都のはずである。

イザヤ62章5節は「神と神の民」の関係を「花婿と花嫁」の関係にたとえたが、ヨハネ3章29節で洗礼者が「花婿の介添人」を自称する場合、「花婿」が主イエス・キリストであるのは、いうまでもない。洗礼者は、「花婿」と「花嫁」を引き合わせるまでが自分の役割と心得て、30節の言葉を口にした。

古代のイスラエルでは、婚礼の時に上質の酒を提供するのは花婿の責任と考えられていた(ヨハネ2章9節以下)。一方、当時は「神」と「神の民」の関係を《花婿》と《花嫁》の関係にたとえていた(イザヤ62章5節)。カナでのぶどう酒の奇跡で、主は御自分こそが真の《花婿》であるとほのめかされた。

試論:エゼキエル36章「清め」を140文字以内で

「わたしが清い水を振りかける時、あなたたちは清められる。わたしはあなたたちを、すべての汚(けが)れと偶像から清める」、古代のイスラエル人にとって「水を振りかけられて清められる」とは、民数記19節で命じられる「清めの式」の流儀で、この預言をカトリックでは洗礼に関する啓示と理解する。

(注)別エントリー「試論:出エジプト記14章と洗礼を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15912

(注)別エントリー「試論:『バプテスマ』と『洗い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15165

(注)別エントリー「バプテスマは身を沈める・身をひたすことか【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/20233

【追記】

「内側を清くする」と聞いて、人々はエレミヤ4章14節「あなたの心から悪を洗い去りなさい。そうすれば、あなたは救われる。あなたはいつまで、心の中に邪悪な思いを抱え続けているのか」や、エゼキエル36章26節「あなたに新しい心を与え、あなたの中に新しい霊を置く」等を連想したはずである。

主イエスはヨハネ3章5節で「誰でも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と仰せになった。これはエゼキエル36章25節以下「わたしがあなたたちの上に清い水を振りかける時、あなたたちは清められ、わたしはあなたたちの中に新しい霊を置く」と同様、洗礼を示唆している。

(注)別エントリー「試論:『わたしが与える水』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10708

試論:創世記22章「身代わり」を140文字以内で

主の御受難を預言したイザヤ53章7節では、出エジプトの代価となった「小羊」(出エジプト記12章3節等)を想起させる一方で、「屠(ほふ)り場に引かれる」と表現してイサクの犠牲の身代わりとなった羊(創世記22章13節)をも想起させ、主の御受難が人々の身代わりであることを再認識させる。

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7479

【追記】

主はヨハネ14章27節で「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と仰せになった。ではどうやって主は御自分の平和をお与えになったのか、パウロがコロサイ1章20節で「その十字架の血によって」と答えを記した。

光のある間に歩め

イザヤ55章6節〜7節「まだ主を見つけられる間に、主を尋ね求めなさい。まだ主を近くに感じている間に、呼び求めなさい。神に逆らう者は不従順の道から離れなさい。善からぬことを行う者は悪巧みを捨てなさい。わたしたちの神である主に立ち帰るなら主は憐れんで下さり、どこまでも赦して下さる」。

(注)別エントリー「試論:イザヤ58章『真の断食』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14709

(注)別エントリー「試論:イザヤ58章の『世の光』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14802

主はマタイ5章14節で「あなたがたは世の光」ヨハネ8章12節で「わたしは世の光」「わたしに従う者は暗闇の中を歩まず命の光を持つ」と仰せになった。同1章4節は「御言葉のうちに命があり、命は人間を照らす光」と記す。イザヤ58章6節以下では隣人に心を配り助けを惜しまない人に、光が伴う。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『わたしは命である』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11586

(注)別エントリー「試論:『霊魂を注ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13590

プロテスタントの文語訳聖書『改訳 新約聖書』(1917年)では、ヨハネ14章6節で「真理(まこと)」と平仮名を振る。詩編145編18節「主は、まことをもって呼び求める人々すべての近くにおられる」に対応するためだが、詩編のこの節の「まこと」とは、《真心(まごころ)》を意味している。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:聖書の『まこと』って何?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14292

詩編145(144)編19節には「主は御自分を畏れる人々の望みをかなえられ、彼らの救いを求める叫びを聞けば願いを聞き入れてくださる」とある。主イエスは水の上から沈みかけたペトロにすぐ手を延ばしてつかまえられ、悪霊に苦しめられ続ける娘を持つカナンの女性の叫びに願いを聞き入れられた。

フィリピ4章でパウロは、「喜びなさい」(4節)「主はすぐ近くにおられる」(5節)と説く。神の義に適うことを行い続ける限り(8節〜9節、マタイ6章33節)、主イエスから「お前たちなど知らない。わたしから離れ去れ」(ルカ13章27節、マタイ7章23節)と拒まれる心配がないからである。

(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8105

(注)別エントリー「試論:『砂の上に家を建てる人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12856

いつも喜んでいるようにと一テサロニケ5章16節は勧める。ローマ12章15節は喜んでいる人がいれば一緒に喜び、悲しんでいる人がいれば一緒に悲しむことを勧める。フィリピ2章18節でもパウロは喜ぶことを勧めるが、その前段階として14節では何事にも不平や理屈を言わないようにとまず勧める。

(注)別エントリー「試論:憐れみは誰のところへ??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8901

マタイ7章は「門」という比喩で、「神の国」に入るための条件「神の義」(6章33節)を表現した。これは詩編118編19節以下「義の門よ開け。この門は主の門だ。主に従う者はここから入る」とともに、イザヤ26章2節「門よ開け。信仰を守って神の義に従う民が入れるように」とも関連している。

(注)別エントリー「試論:『神の義』と詩編を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6798

試論:「番兵の配置」を140文字以内で

マタイ27章は最後に、イエスの敵たちが「彼は生前、自分は三日目に復活すると口にしていた」ことを思い出し、墓石を封印して番兵を配置したと記す。ルカ18章31節以下は、主が都に入る前に十二使徒を集めて、自分は凄惨な暴行の後に死ぬが三日目に復活すると予告されても、反応は鈍かったと記す。

試論:「復活祭と創世記の朗読」を140文字以内で

【問】復活の聖なる徹夜祭の朗読は創世記1章をなぜ含むの?
【問】主イエスの御復活とは、一度死んだ人々の霊が神の御許に帰還した(コヘレト12章7節)後に与えられる「天上の体」(一コリント15章40節)の新たな創造を意味し、この新たな創造を創世記冒頭の天地創造の継続と理解するからです。

(注)別エントリー「試論:人間の完成形(最終形態)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15868

【追記】

コヘレト12章7節では人間の肉体を「塵」と表現し死によって大地(創世記2章7節、3章19節)へ帰ると記すが、洗礼により「神の子とする霊」(ローマ8章15節)を受けた者の「霊」は対照的に、罪に脆い肉体の重荷から解放され「霊」をくださった「与え主」神の許へ帰るべきだと定められている。

(注)別エントリー「試論:『盗賊さえ楽園に達した』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8383

主イエスは、ルカ9章の「主の変容」で三人の使徒に、「天上の体」(一コリント15章40節)すなわち死者の復活後の人間の姿(同章35節以下)をお示しになったが、当時三人の使徒は全く理解できなかった。「人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は愛する者たちに準備された」(同2章9節)。

一コリント15章でパウロは「地上の体」「天上の体」という表現を用いて、《人間が地上で生活していた際の、死によって朽ちていく肉体》と《その人の霊が神の許に帰還した後で、神によって天上で新しく与えられる、朽ちることのない体》について説明し、後者を「霊の体」(44節)等と表現している。

(注)別エントリー「試論:『イエスは復活と命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8389

「主の変容」とは、一コリント15章でパウロが言及する

「天上の体」(40節)

を主イエスが実際に三人の使徒へお示しになった意義深い出来事で、パウロは「天上の体」を

「朽ちないもの」(42節)

「輝かしいもの」「力強いもの」(43節)

「霊の体」(44節)

「天に属する者」(47節)

等と呼ぶ。

【問】一コリント15章20節「キリストは死者の中から復活され、眠りについた人たちの初穂となられ」の意味は?
【答】主イエスは御受難の後、神として「復活の体」を創造され、御自分の御復活で「復活の体」の最初の人となられ、「アブラハムのふところ」で待っていた旧約の義人にも与えられました。

(注)別エントリー「試論:「アブラハムのふところ」を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19147

コロサイ1章18節は「御子は死者の中から最初に生まれた方」と記すが、主イエスは御受難と御復活の間に「新しい天・地・エルサレム」を創造され御自身の「復活の体」の創造で完成された。その時を「アブラハムのふところ」で待ち続けていた過去の義人たちは、創造された《王国》へと受け入れられた。

(注)別エントリー「主の御復活とともに創造された事柄とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15917

【問】主によって「復活の体(天上の体)」を与えられた旧約の義人たちはどうなりましたか?
【答】やはり主イエスが御受難の後に創造されていた「新しい天、新しい地、新しいエルサレム」(イザヤ65章17節以下、黙示録21節以下)と呼ばれる場所に、主によって迎え入れられて、住人となりました。

二世紀初めにアンティオキアの聖イグナティウスが記したように初代の信者は、キリストの御復活すなわち「天上の体」(一コリント15章40節)の創造の記念に、週七日の中で祝うべき特別の日を土曜日(ユダヤ教の安息日)から、御復活があった「週の最初の日(安息日の翌日)」日曜日へと置き換えた。

(注)別エントリー「試論:『安息日と主日との違い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12017

試論:出エジプト記のバプテスマを140文字以内で

パウロは一コリント10章2節で、モーセの一行は出エジプトの際にバプテスマすなわち、洗礼を受けたと記す。出エジプト14章21節「モーセは手を海に向けて延ばし、主が夜通し激しい東風で海を押し止められたので、水が分かれ、海は乾いた地になった」。強風によりモーセの一行は水しぶきを浴びた。

(注)別エントリー「試論:『バプテスマ』と『洗い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15165

(注)別エントリー「バプテスマは身を沈める・身をひたすことか【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/20233

試論:バルク3章38節を140文字以内で

【問】復活の聖なる徹夜祭の朗読がバルク3章〜4章を含むのはなぜ?
【答】バルク3章の最後は「知恵は地上に現れ、人々の中に住んだ」ですが、主イエスはルカ7章35節で「知恵」を、同11章49節で「神の知恵」を自称され、ヨハネ1章14節は「言」が人となって人々の中に住んだと記しています。

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

(注)別エントリー「試論:『受肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7842

【追記】

ヨハネ1章14章は「言(ことば)は肉となって」と記し《人々と直にお話しになる、御子である神》主イエス・キリストが人間となられたことを記すが、10章30節では「わたしと父は一つ」と主は仰せになり、たとえ自分は人間(「人の子」)となっても同時に神は神のままであり続けることも示された。

(注)別エントリー「試論:神であり人であるキリストを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6725

不当な扱いを受けられる神

ヨハネ18章で主が逮捕されて大祭司のもとで尋問を受けた際、「返事の仕方」のことで大祭司の「下役」に難癖をつけられ、主は平手打ちを受けた。もちろん主は不当な暴力に対して暴力で返すことなどなさらなかった(マタイ5章39節参照)が、不当な言い掛かりに対して主張すべき事柄は主張なさった。

主イエスは敵を愛するよう命じられたが既にそれはモーセの律法に存在した。出エジプト23章4節〜5節「あなたの敵の牛やろばがさまよっているのを見たなら、その家畜を敵のところへ帰してやりなさい。あなたを憎む者のろばが重荷の下敷きになっているのを見たなら、その者と共にろばを助けなさい」。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

主はマタイ5章44節で「敵を愛する」ように教えられたが、のちに具体例としてルカ10章30節以下で「善きサマリア人のたとえ」をお話しになった。このたとえは、当時ユダヤ人とサマリア人とが実際には、交流すら避けるほど不仲の間柄であった(ヨハネ4章9節等参照)という状況を前提にしている。

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4544

一人の律法学者は自分を「義化」(ルカ10章29節)しようとして(「義人」(マタイ1章19節)とするために)、隣人愛(ルカ10章27節)に関して、主に、踏み込んだ質問を行なった。主は、憐れみの心(33節)と「神の義」と隣人愛と永遠の命(25節)は事実上重なっているとお教えになった。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

マタイ5章43節で主は、「『隣人を愛し、敵を憎め』と教えられている。しかし、〜」と仰せになった。隣人愛の掟はレビ19章18節に由来する。「敵を憎め」の方の由来は「主よ、あなたを憎む者をわたしも敵とみなし憎む。敵に屈しはせず、とことんわたしも憎む」(詩編139編21節以下)である。

ダビデは詩編139編21節〜22節で「敵」を憎むことを神なる主に誓ったが、この場合「敵」とは「あなたを憎む者」すなわちサタン(悪魔)である。一方、主イエス・キリストが「敵」を愛することをお勧めになる時、その場合「敵」とは「悪人」(マタイ5章39節、45節)すなわち同じ人間を指す。

主はマタイ5章39節で、悪人に「対抗」(ルカ21章15節)してはならないと仰せになった。原文のギリシア語は「全面的に対抗する」「徹底的に応戦する」というニュアンスであり、それも含めてマタイ5章で主は早期の和解を勧められ、同じギリシア語で悪魔への「対抗」をヤコブ4章7節では勧める。

マタイ5章39節の原文の表現を調べると、主が禁じたのは悪人と同じ次元(行為や目的)の報復や応戦であり、逃れる手段があれば用いてもよく(ヨハネ8章59節)言説による反論もよい(同18章23節)。もちろん女性が暴行から逃れる目的で男性に抵抗するのもよい(同じ目的の応戦に該当しない)。

主はマタイ5章39節で悪人に手向かってはならないと仰せになったが、主がここで禁じられたのは<悪人と同じ次元の争い事>つまり、悪人と同じ手段で報復を行い自分も悪事に手を染めることだった。38節で「目には目、歯には歯」に言及されたのはそのためで、報復の連鎖に陥らぬよう主は戒められた。

モーセの律法には「目には目」という表現が登場するが、これはあくまで公的な裁判における刑罰の基準を示すものであって、その目的はイスラエルの民に悪事が蔓延するのを防ぐ(申命記19章19節以下)ためであり、私的な復讐の基準ではなく元来、復讐は律法で許されていない(レビ記19章18節)。

箴言12章28節「憐れみの道にこそ命がある。この道を行く人に死はない」ルカ6章35節以下「敵に親切にし、善を行い、何も当てにせず貸しなさい。そうすれば、あなたたちはいと高き方であられる天の御父の子となり、大きな報いを受ける。あなたたちも天の御父のように憐れみ深い者になりなさい」。

主はマタイ5章22節で「怒ってはならない」と仰せになった。ヤコブ1章20節は「人の怒りは神の義を実現しない」と記し、同19節は「だれでも聞くのに早く、話すのに遅く、怒るのに遅いようにしなさい」2章13節では「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下される」と警告している。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

箴言28章14節は「いつも気を配っている者は幸いであるが、周囲に厳しい者は苦難に陥る」と記し、神に対しても隣人に対してもどんな物事に対しても注意深く慎重に接する人はそうそう困難に遭うことはないが、万事に頑固で当たりの強い者はそれだけ様々な面倒事に巻き込まれ易いものだと説いている。

「神は高慢な者を敵とする」と聖書は随所(箴言3章34節等)で教える。ただし高慢な人の破滅を準備するのは、実は高慢な人自身である。高慢な人は周囲を侮り、眼中にないかのように配慮もなく、高慢な人の態度を嫌った周囲の人々は高慢な人が窮地に陥っても援助や協力の手を差し延べようとはしない。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『永遠の命の言葉を持つ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11244

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

試論:ヨハネ19章「渇く」を140文字以内で

ヨハネ19章28節〜30節「イエスは今や全て成し遂げられたのを知り、『渇く』と仰せになり人々が差し出した海綿から酸いぶどう酒を受けられ、『成し遂げられた』と仰せになって頭を垂れ息を引き取られた」詩編69編22(21)節「人々は渇いているわたしに酸っぱいものを飲ませようとします」。

世の罪を取り除く神の小羊

【問】「世の罪を取り除く神の小羊」って、何?
【答】主イエスが、
「多くの人の身代金として自分の命を献げるために」(マタイ20章28節)
「小羊のように、屠り場に引かれ」(イザヤ53章7節)
「民の背きのゆえに命ある者の地から断たれ」(同8節)
という定めを持つ者であることを示す称号です。

ルツ4章7節によれば、古代イスラエルでは親族たちの責務の代行や委譲に際して、自分の履物を脱ぐ慣習があった。主イエスは多くの人の贖(あがな)い、つまり身代金(代価)となるために、世に来られた(マルコ10章45節)。以上の事柄を洗礼者は「履物」「神の小羊」「花婿」等の表現で示唆した。

ヨハネ1章29節「世の罪を取り除く神の小羊」の「取り除く」に当たるギリシア語は、一ヨハネ3章5節にも登場し、その前後では隣人愛の実践を奨励するが、同じ表現をエフェソ4章31節も用い、主に応えて信者が取り除くべきものを「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりを全ての悪意と共に」とする。

エフェソ4章の後半では「神にかたどって造られた新しい人」として生きるためとして「怒ることはあっても罪を犯してはならない」「日が暮れるまで怒ったままではいけない」「悪い言葉を一切口にしない」「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどの全てを、一切の悪意とともに捨てる」等を勧めている。

ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。

一ペトロ2章の冒頭は「霊的な乳飲み子」について語っているが、ここでペトロは「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去る」ことを要請しており、当然ペトロは、あまりにも有名な「人から出て来るものこそ、人を汚す」で始まる、マルコ7章20節から23節の主の御言葉を念頭に置いて説明する。

エゼキエル18章「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は仰せになる。彼が悪から立ち帰って生きることを喜ばないだろうか。お前たちが犯した全ての背きを投げ捨てて新しい心と霊を造り出せ。どうしてお前たちは死んでよいだろうか。お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」。

エレミヤ11章19節「わたしは、飼い馴らされた小羊が屠(ほふ)り場に引かれて行くように、何も知らなかった。彼らはわたしに対して、悪巧みをしていた」ヨハネ5章39節「聖書はわたしについて、あかしをするものだ」ルカ24章44節「わたしについて預言者の書にある事柄は必ず全て実現する」。

出エジプト記12章では、イスラエルの人々がファラオの支配から解放される代価となった小羊の存在に言及する。ヨハネ1章29節では、十字架において世の人々が罪の支配から解放される代価となるはずの主イエス・キリストの存在について、洗礼者ヨハネが「神の小羊」と呼んで、注意を喚起したと記す。

福音書の中では病気を表すギリシア語を用いて、パウロは自身の手紙で自分の弱さ(衰弱)を表現した。ヘブライ人にとって「病気→衰弱」という連想は自然であり、これを踏まえて最後の審判の「病気」も解釈されるべきで、イザヤ53章3節「病を知っている」は苦難続きで衰弱するメシアの姿を預言する。

イザヤ50章3節は「わたしは天に暗黒を着せて〔喪に服させ〕さらに粗布で覆う」と預言する。この箇所は、前章から続く「主の僕(しもべ)」すなわち主イエス・キリストに関する啓示であることから、ルカ23章44節以下で主が息を引き取られる前後の、暗黒に包まれた全地との関連が指摘されてきた。

主の御受難を預言したイザヤ53章7節では、出エジプトの代価となった「小羊」(出エジプト記12章3節等)を想起させる一方で、「屠(ほふ)り場に引かれる」と表現してイサクの犠牲の身代わりとなった羊(創世記22章13節)をも想起させ、主の御受難が人々の身代わりであることを再認識させる。

ヨハネ1章で洗礼者は主イエスを「神の小羊」(29節、36節)と呼んで周囲に注意喚起したが、ペトロは第一の手紙1章19節で「きずや汚(けが)れのない小羊のようなキリスト」と呼び2章22節ではさらに「罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」とイザヤ53章9節を引用し説明する。

世に属さない王国

多くの人が黙示録20章の記述を誤解し、キリストと共に世を支配する「千年王国」を夢見たが、他方ヨハネ18章36節で主は御自分の王国(バシレイア)は世に属さないと確言された。「王」(マタイ25章34節)であるキリストと共に支配するとは、悪魔の罪と死による支配から自由になることである。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

(注)別エントリー「真理は罪と悪と死から自由にする」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9524

主イエスはヨハネ18章36節で、「わたしのバシレイアは、この世には属していない」と仰せになった。原文のギリシア語バシレイアは、聖書では「王権」「〔神の〕王国」を意味し、「王国の一人一人」まで包含する。黙示録1章6節でヨハネは、自分たちは既にその一部を構成していると書き記している。

(注)別エントリー「試論:バシレイア(=神の王国)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12654

黙示録20章やローマ5章は「悪に悪を返さない」ことを徹底して罪や悪と決別した人々を「バシレウオ(〔キリストとともに〕王となる)」という動詞で表すが、これはあくまで《義化の完成》を象徴する表現であり政治体制的な意味を含まず、彼らは「第二の死」を免れ「永遠の命」を得ると記されている。

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

ルカ23章40節以下で主の隣の十字架につけられた盗賊は最後に神への畏れを知り、自分の今の惨めな境遇は全て自業自得だが神には罪はなく神の御心に適う願いなら聞き入れられると確信し、自分の隣にいるのは神そのものであると信じて直接それを伝えた。彼の信仰告白に主は最大の幸福を御約束された。

(注)別エントリー「神に対する確信を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5613

「善い盗賊」はルカ23章で、「悪い盗賊」の罵りから主イエスを擁護し(40節)、自分のこれまでの悪事を素直に認める一方(41節)、主には悪いものは一つもないと宣言し(同節)、最後に、自分は主によって救われたいと真摯に希望した(42節)。主は「善い盗賊」に、永遠の幸福を御約束された。

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11494

放蕩息子のたとえでは父親はしもべたちに、帰って来た息子の手に指輪をはめるよう指示するが、エステル記3章10節以下に王権の委任を象徴する印章として指輪が登場する。放蕩息子のたとえでは相続人の権利回復の象徴で、人が本当に悔い改めるならば、神は全面的にその人に対する信頼を取り戻される。

マタイ25章34節「御父に祝福された人々よ、天地創造の時からあなたたちのために準備されていた王国を受け継ぎなさい」黙示録21章7節「勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ」ヘブライ6章12節「怠け者とならず信仰と忍耐によって、約束されたものを受け継ぐ人々に倣う者となってほしい」。

(注)別エントリー「試論:『王国を受け継ぐ者たち』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13826

「多くの人の身代金」

ヨハネ19章は、ゴルゴタの主の十字架の傍らに聖母がおられたと記すが、聖母の内面がどのようであったかについては全く記述がない。しかしルカ2章35節はシメオンの預言として、「多くの人の心にある思い(34節の「逆らい」)があらわになるため、あなた自身も剣で心を刺しつらぬかれる」と記す。

(注)別エントリー「試論:『剣』と『言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7807

詩編49章8(7)節は神に対し人間が贖(あがな)いの業を行うことはできないと説く。それができるのは「人〔となられた神〕の子」だけであり、そのために主イエスは来られた(マタイ20章28節)。神は劣化できないため、神のままで人間の全てを担う必要があり、そのためにマリアが不可欠だった。

(注)別エントリー「試論:『神には劣化がない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8697

(注)別エントリー「神のお告げ:受胎告知と無原罪の御宿り」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4835

マルコ福音書は主の御降誕には触れないものの、6章3節で主イエスには母親がいたことを記し、10章45節では主の到来の目的の一つが「多くの人の身代金として自分の命を献(ささ)げる」つまり贖(あがな)いのためと記す。パウロもガラテヤ4章で母親の存在(4節)と贖い(5節)とに触れている。

(注)別エントリー「『《マリアの子》なら私生児』説は誤り」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1478

詩編49(48)編8(7)節は、神に対して人間が贖いの業を行うことはできないと記す。とはいえ神の御独り子が自ら人間となられて自分の「からだ」を「身代金」として贖いの業を行われた時の「からだ」は、マリアから受けたものだった。マリアは極めて特別な形でイエスの贖いの業に「参加」をした。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7795

(注)別エントリー「試論:『履物を脱ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8620

古代のヘブライ人は「肉」という言葉で、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけでなく、魂も含めた人間としての全体)」を表した。ヨハネ1章14節をこの観点で理解すれば、ニケア・コンスタンチノープル信条「おとめマリアよりからだを受け」の「からだ」は、人間としての全てを意味している。

ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。

ヨハネ1章14節は「神の御言葉(=主イエス)は肉(=人)となられ、わたしたちの間に宿られた(=住まわれた)」と記す。マタイ20章28節では主御自身が「仕えられるためではなく仕えるため」「多くの人の身代金(=あがない)として自分の命を献(ささ)げるために来た」と仰せになられている。

主はヨハネ14章27節で「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と仰せになった。ではどうやって主は御自分の平和をお与えになったのか、パウロがコロサイ1章20節で「その十字架の血によって」と答えを記した。

創世記3章15節で神は、サタンと決定的に対立する一人の女性が将来現れることを予告された。黙示録12章では、それは救い主の母となった女性のことだと啓示された。救い主は人々を罪や悪から救うために生まれるので、その母が存在の最初の瞬間から罪や悪とは完全に無縁であるべきなのは当然である。

(注)別エントリー「試論:黙示録12章の『鉄の杖』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11093

(注)別エントリー「創世記3章15節:蛇の頭を踏み砕く者は誰か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1488

「救い主」が世を救われる方法に関しイザヤは、「小羊」(53章7節)つまり代価として御自分をささげ、「しもべ」(42章、49章以下等)として人々に仕えると預言し、主もマルコ10章45節でそれを宣言された。救い主の母となることを承諾した女性が「主のはしため」を称するのは象徴的である。

(注)別エントリー「試論:『しもべ』と『はしため』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9785

マタイ1章21節は「自分の民を罪から救う」ルカ1章77節は「罪の赦しによる救い」と記し、主御自身もマタイ6章13節で「悪い者から救って下さい」と《主の祈り》を教えられ、ガラテヤ1章4節は「この悪の世からわたしたちを救い出そうとして御自身をわたしたちの罪のために献げられた」と記す。

(注)別エントリー「試論:救い主は何から救うの??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10720

(注)別エントリー「主の御降誕:救い主は何から人々を救うのだろうか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4445

御子が幼子の頃やカナでの婚礼の折を除けば、人々から御子が尊敬や賞賛を受けられている場所にいて御自分も同じく栄誉に与るということを、聖母は基本的に避けられていた。しかしゴルゴタで御子が人々から嘲りや罵りの的となられた際には十字架の傍らに立たれ、御子と最も苛酷な時間を共に過ごされた。

(注)別エントリー「試論:聖母マリアってどんな方?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5920

ヨハネ1章14節は神の御独り子が「肉」となられたと記す。「肉」は創世記6章で人間を指す語だが道徳的な脆さのニュアンスも含む表現であり、それゆえ悪魔が誘惑を試みた。誘惑の後、天使たちがイエスに仕えたが天使は本来単なる人間には仕えない。主イエスは神のままで人間としての全てを担われた。

【問】なぜ受胎告知の際にマリアは、承諾の返答よりも先に「わたしは主のはしため」と再確認しましたか?【答】マリアはそう前置きすることで、「わたしは神の御独り子の母となることを承諾しますが、決して『神のようになること』(創世記3章5節)を望むからではありません」と意思表示をしました。

(注)別エントリー「試論:「わたしの主のお母さま」を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10221

【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。

他人の困った顔を見たい人

主はルカ17章1節で「つまずきは避けられないがそれをもたらす者は不幸だ」と仰せになった。レビ19章17節は悪意を抱いたまま隣人に接することを禁じ、箴言26章27節は他人を落とす穴を掘る者は自分がそこに落ちると記し、民数記12章でモーセに難癖をつけたミリアムは厳しく主に罰せられた。

(注)別エントリー「試論:『理由のない憎しみ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6468

(注)別エントリー「試論:『モーセの模範』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7466

(注)別エントリー「試論:『つまずき』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7363

主イエスはマタイ7章12節で「あなたが他の人からしてもらいと思うことは何であっても他の人にあなたの方から行いなさい。これこそ律法と預言者〔の教え〕である」と仰せになり、御自分の御教えの核心とされた。パウロはこれを「キリストの律法」(一コリント9章21節、ガラテヤ6章2節)と呼ぶ。

旧約聖書では「良からぬ意図の下に穴を掘る」行為は、結局は自分自身の破滅を準備する象徴的な仕草と見なされた(詩編57編7(6)節)。詩編94編12節は「主よ、あなたに諭されあなたの律法を教えていただく人は幸い」と記し、13節では神に逆らう者の滅びの象徴として「穴」が言及されている。

詩編55編24(23)節の「滅びの穴」という表現の通り、旧約聖書では「穴」という存在自体が「滅び」の象徴とみなされた。エゼキエル19章4節と8節で「穴」というヘブライ語は「罠」を意味し、詩編7編16(15)節や9編16(15)節では、「穴」は自分自身を陥れる可能性も秘めると歌う。

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちは、自分が他の人からしてほしいことを、自分から他の人にしなさい」と《愛の掟》を教えられた。従って「愛の反対」は「他の人からしてほしくないことをあえて他の人に行うこと」そして「他の人からしてほしいことをあえて他の人には行わないこと」からなる。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

レビ19章18節は有名な隣人愛の掟を教えるが、その対極の行為として17節は兄弟を心の中で憎むことを禁じる。ゼカリヤ7章10節は互いに災いを心の中で企むこと、8章17節は互いに心の中で悪を企むことを禁じ、相手の困った顔・悲しむ顔・苦しむ顔を見たいという悪意を抱いてはならぬと戒める。

ローマ13章10節でパウロは「愛とは隣人に対して悪事を行わないことです」と断言している。これを踏まえるなら、隣人に対して悪事を行おうと企むことこそが愛の反対に該当する行為ということになる。同9節は「姦淫するな、殺すな、盗むな、貪るな(他人の物の横取りを企むな)」等を列挙している。

試論:ユダには信仰があったか?を140文字以内で

【問】ヨハネ12章でユダがベタニアのマリアをなじった時、彼に信仰はありましたか?
【答】詩編12編の5節までにある通り旧約の民は原則として、口先だけ達者でも言行不一致の人や面従腹背の人の中には信仰の存在を認めていませんでした。献金泥棒に手を染めてから彼の信仰は事実上、失われました。

【追記】

ヨハネ2章22節は、主が復活された際、過去の主の仰せを思い出した弟子たちは〔旧約〕聖書と主の仰せとを信じたと記す。この「信じた」は、「納得した」「了解した」「腑に落ちた」「合点がいった」等の意味合いである。「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる者は、幸い」も同じことである。

ヨハネ福音書は「永遠の命」「信じる」を多用する。ただし「何をすれば永遠の命を得られるか」の具体例はマタイ25章「最後の審判」とルカ10章「善きサマリア人の話」の箇所にあり、ルカ10章27節で主イエスは、「信じる」こととは「心・精神・力・思いを尽くし愛する」ことだとお教えになった。

古代よりヨハネ福音書には「信仰」を意味するギリシア語が登場しないことが知られていた。その替わりヨハネ福音書は「真理」を意味するギリシア語アレテイアを多用する。主イエスはピラトの問いに対し御自分のことを王だとも神だともお答えにならず、ただ「真理」すなわち信頼すべき者だと宣言された。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書の『信じる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12637

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

詩編12(11)編においてダビデは、隣人に嘘をついたり隣人を早口で欺いたり言行不一致状態だったりする人々ばかりの風潮を、「信仰のある人は消え去りました」(12編2節、新共同訳)と表す。ここで「信仰」と訳されるヘブライ語を、古代のギリシア語訳聖書はアレテイア(真理、まこと)と訳す。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

ヨハネ福音書は「信仰」を表現する際、他の福音書が用いるピスティスという語を用いず代わりにアレテイア(真理、まこと)という語を多用する。ヨハネにとって信仰とは、人の真心に対し真心で応じられる神なる主に向かって嘘偽りや裏表のない態度で接することに他ならず、これは当時の共通認識だった。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書のアレテイアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15430

イザヤ59章2節「あなたたちの悪こそが、神とあなたたちの間を隔て、あなたたちの罪こそが、神の御顔を隠させ、神があなたたちに耳を傾けられるのを妨げている」ヨハネ14章24節「本当はわたしのことなど愛してはいない者は、決して御父とわたしの言葉や掟を受け入れはせず守ろうなどとしない」。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

主はマタイ18章6節以下で、無垢な信仰を持つ子供をつまずかせる者は不幸であり厳罰は必至だと示唆された。詩編37編23節以下は主が御旨にかなう道を人間のために準備され、また人間の手をとらえ歩みを定めておられると記す。子供をつまずかせる(御旨から外れさせる)行為は絶対に容認されない。

マタイ22章14節「招かれる者は多く選ばれる者は少ない」の《選ばれない理由》をイザヤ65章12節は「呼んでも答えず、語りかけても聞かず、わたしの目に悪とされることを行い、わたしの喜ばないことを選んだからである」と記した。「笛を吹いたのに踊ってくれなかった」(マタイ11章17節)。

マタイ22章14節「神から招かれる者は多いが、そこから神によって選ばれる者は少ない」箴言3章34節(ヤコブ4章6節、一ペトロ5章5節)「神は高慢な者には敵となられる。へりくだる者には恵みをお与えになる」ルカ1章48節「身分の低い、この主のはしためにも、神はその御目を留められた」。

レビ19章18節は隣人愛の掟を記すが、15節は貧者救済の理由であろうと判断を惑わされてはならないと説く。ヨハネ12章でイスカリオテのユダが貧者救済を理由にベタニアのマリアを攻撃した際、主イエスはユダの言葉が貧者救済を口実にした単なる言い掛かりに過ぎないと見抜かれ、女性を擁護した。

(注)別エントリー「試論:『人間を照らす光』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7227

二テモテ3章でパウロは「終わりの時」の人々の姿を記した。自分本位で金銭を愛し、嘘をつき、神を畏れず嘲り、両親に従わず、恩知らずで、他人を侮り、情け容赦なく、強情で、中傷し、節度がなく、残酷で、善を行わず、裏切り、軽率かつ高慢、信仰を装いつつ実際は快楽を愛し、事実上は棄教している。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8105

エフェソ4章の後半以降(17節以下)では、洗礼を受けた人が取るべき(また避けるべき)態度を教える。悪態をつき、無慈悲で、平然と悪口を言い、思う通りにならないと大声で喚き、怒鳴り散らし、相手が幼子や女性だと小馬鹿にして勝ち誇る人がいたとして、誰が彼のことを信者だなどと思うだろうか?

(注)別エントリー「試論:『ねたみや利己心のある』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12116

マタイ18章6節で主は「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて深い海に沈められる方がましである」と仰せになり、子供のような心で神を信じている人に悪を教え込もうとする者に対して、神がとりわけ厳しい罰をもって臨まれることを、主は宣言された。

主イエスは「自分が隣人からしてもらいたいことを自分から隣人にしなさい」を御自分の《律法》すなわち御教えの根幹とされ、弟子たちの足を洗われ隣人への敬意と尊重の重要性を教えられた。しかし御自身は次の晩が来る前に、尊重や敬意とは無縁の暴力や虐待や侮辱の末にぼろ布のようにされて殺された。

(注)別エントリー「試論:御受難と主の僕(しまべ)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9556

秘められた悪意

ルカ7章36節以下は「罪深い女」が主イエスのために香油を惜しげもなく注いだと記し、ヨハネ12章は酷似した出来事があったことを記す。ユダは自分の盗みを棚に上げてベタニアのマリアを非難した。ユダは自身が信仰を失っていたにもかかわらず、他人を批判できる時には急に活気付きマリアを責めた。

モーセの姉ミリアムと兄アロンは、モーセの妻が異民族出身だという口実でモーセに正論を装った難癖をつけ、主なる神の御怒りに触れてミリアムは「重い皮膚病」となった。兄弟を陥れることが目的の濡れ衣は、兄弟愛に背くものとして主なる神が大いに忌み嫌われる行為であり、厳しい罰を伴うものである。

(注)別エントリー「民数記12章3節:モーセの人となり」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5051

主はルカ17章1節で「つまずきは避けられないがそれをもたらす者は不幸だ」と仰せになった。レビ19章17節は悪意を抱いたまま隣人に接することを禁じ、箴言26章27節は他人を落とす穴を掘る者は自分がそこに落ちると記し、民数記12章でモーセに難癖をつけたミリアムは厳しく主に罰せられた。

(注)別エントリー「試論:『穴を掘る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8468

(注)別エントリー「試論:『理由のない憎しみ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6468

(注)別エントリー「試論:『つまずき』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7363

イザヤ59章2節「あなたたちの悪こそが、神とあなたたちの間を隔て、あなたたちの罪こそが、神の御顔を隠させ、神があなたたちに耳を傾けられるのを妨げている」ヨハネ14章24節「本当はわたしのことなど愛してはいない者は、決して御父とわたしの言葉や掟を受け入れはせず守ろうなどとしない」。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

主はマタイ18章6節以下で、無垢な信仰を持つ子供をつまずかせる者は不幸であり厳罰は必至だと示唆された。詩編37編23節以下は主が御旨にかなう道を人間のために準備され、また人間の手をとらえ歩みを定めておられると記す。子供をつまずかせる(御旨から外れさせる)行為は絶対に容認されない。

マタイ22章14節「招かれる者は多く選ばれる者は少ない」の《選ばれない理由》をイザヤ65章12節は「呼んでも答えず、語りかけても聞かず、わたしの目に悪とされることを行い、わたしの喜ばないことを選んだからである」と記した。「笛を吹いたのに踊ってくれなかった」(マタイ11章17節)。

マタイ22章14節「神から招かれる者は多いが、そこから神によって選ばれる者は少ない」箴言3章34節(ヤコブ4章6節、一ペトロ5章5節)「神は高慢な者には敵となられる。へりくだる者には恵みをお与えになる」ルカ1章48節「身分の低い、この主のはしためにも、神はその御目を留められた」。

レビ19章18節は隣人愛の掟を記すが、15節は貧者救済の理由であろうと判断を惑わされてはならないと説く。ヨハネ12章でイスカリオテのユダが貧者救済を理由にベタニアのマリアを攻撃した際、主イエスはユダの言葉が貧者救済を口実にした単なる言い掛かりに過ぎないと見抜かれ、女性を擁護した。

(注)別エントリー「試論:『人間を照らす光』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7227

二テモテ3章でパウロは「終わりの時」の人々の姿を記した。自分本位で金銭を愛し、嘘をつき、神を畏れず嘲り、両親に従わず、恩知らずで、他人を侮り、情け容赦なく、強情で、中傷し、節度がなく、残酷で、善を行わず、裏切り、軽率かつ高慢、信仰を装いつつ実際は快楽を愛し、事実上は棄教している。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8105

エフェソ4章の後半以降(17節以下)では、洗礼を受けた人が取るべき(また避けるべき)態度を教える。悪態をつき、無慈悲で、平然と悪口を言い、思う通りにならないと大声で喚き、怒鳴り散らし、相手が幼子や女性だと小馬鹿にして勝ち誇る人がいたとして、誰が彼のことを信者だなどと思うだろうか?

(注)別エントリー「試論:『ねたみや利己心のある』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12116

マタイ18章6節で主は「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて深い海に沈められる方がましである」と仰せになり、子供のような心で神を信じている人に悪を教え込もうとする者に対して、神がとりわけ厳しい罰をもって臨まれることを、主は宣言された。

主イエスは「自分が隣人からしてもらいたいことを自分から隣人にしなさい」を御自分の《律法》すなわち御教えの根幹とされ、弟子たちの足を洗われ隣人への敬意と尊重の重要性を教えられた。しかし御自身は次の晩が来る前に、尊重や敬意とは無縁の暴力や虐待や侮辱の末にぼろ布のようにされて殺された。

(注)別エントリー「試論:御受難と主の僕(しまべ)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9556

試論:「足を洗われた主の模範」を140文字以内で

【問】主イエスはヨハネ13章34節で、「わたしが愛したように、あなたたちは互いに愛し合いなさい」と教えられましたが、どこで「わたしが愛したように」という模範をお示しになりましたか?
【答】同14節〜15節「わたしがあなたたちの足を洗ったようにあなたたちもするようにと模範を示した」。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

【追記】

ヨハネ13章34節「わたしがあなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合いなさい」の「わたしがあなたたちを愛したように」は、同章15節「模範を示した」を踏まえる。他人から尊重されたり敬意を払われたりした経験がない人には、他人に対する尊重と敬意がなぜ必要か理由を理解できない。

主イエスは「自分が他人にしてもらいたいことを自分から他人にしなさい」と《キリストの律法》を教えられたが、ヨハネ13章1節では《御自分の時》が来たと自覚された主が、弟子たちを尊重され、どこまでも尊重されたことが記される。《キリストの律法》とは尊重と敬意であると、主は御自ら示された。

主なる神は随所で旧約の民に、あなたたちはエジプトでは寄留者だったのだから、今あなたたちは寄留者に親切にしなさいとお教えになった(レビ19章34節等)。同じ理由で幼子(マタイ18章等)や高齢者(レビ19章32節)も同じくリスペクトされねばならない。彼らは人間の来し方と行く末だから。

(注)別エントリー「試論:『無垢をリスペクトする』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7325

主イエスは「自分が隣人からしてもらいたいことを自分から隣人にしなさい」を御自分の《律法》すなわち御教えの根幹とされ、弟子たちの足を洗われ隣人への敬意と尊重の重要性を教えられた。しかし御自身は次の晩が来る前に、尊重や敬意とは無縁の暴力や虐待や侮辱の裡にぼろ布のようにされて殺された。

弟子たちの足を洗うという行為を通じて、主イエスは隣人に敬意を払って尊重することこそ御自分の御教えの根幹であると教えられた。自分自身が他人から尊重され敬意を払われた経験がなければ敬意と尊重は理解できない。「互いを尊重するなら、それを見て皆はあなたたちがわたしの弟子であると認める」。

【問】人工知能にキリスト教の隣人愛は理解できますか?
【答】主イエスが弟子の足を洗われた夜、「あなたたちが互いを尊重し敬意を払い合うなら、皆はあなたたちがわたしの弟子だと認める」と仰せになった通り、自分自身が他人から尊重され敬意を払われた経験がなければ、尊重と敬意の理解は困難です。

主イエスの御言葉と預言書

【問】ルカ21章22節の主の仰せ通り、紀元七〇年の滅亡で旧約聖書の全預言が既に成就したのなら、現代人が旧約聖書の預言書を読む意義は何ですか?
【答】主イエス・キリスト及びその仰せの理解にはそれが不可欠だからで、エレミヤ5章14節を知らないとルカ12章49節の「火」は理解困難です。

(注)別エントリー「主イエスが地上にもたらされた『火』とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19511

(注)別エントリー「試論:主イエスの『火』と『剣』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19516

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4783

一ヨハネ4章の通り偽預言者や偽教師は、主イエスが実際に仰せになった福音書の御言葉には絶対に触れようとせず、代わりに「世」すなわち俗世間や国際情勢の話で置き換える。主イエス御自身が、預言とは御自分についてあかしするものだと仰せにもかかわらず、国際情勢や「終末預言」に話をすり替える。

主イエスはヨハネ5章39節で「あなた方は〔旧約〕聖書中に永遠の命が存在すると考え〔旧約〕聖書を研究するが〔旧約〕聖書はわたしに関してあかししている」と仰せになり、御自分と無関係の目的で〔旧約〕聖書を研究したとしても本当に重要な真理には全く到達することができないと、お教えになった。

(注)別エントリー「聖書にはクリスマスの日付が載っていますか???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13267

二ペトロ2章は「偽教師」への警戒を呼びかけ、「彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にする」(3節)「昼間から享楽に耽るのを楽しみにする」(13節)「強欲」(14節)等と表現した。一般の信者が真面目に働く時間帯に美食を貪り、旅行・観光・娯楽施設と遊興三昧なのが偽教師である。

ヨハネ5章39節で主が仰せの通り、旧約聖書全体を等しく重視するよりも主イエスとその福音に関連の強い事柄を優先して学ばねばならない。例えば「正義(=「神の義」)を衣としてまとう」(詩編132編9節)という旧約聖書の慣用句を知らなければ、マタイ22章の「礼服」のたとえは理解が難しい。

(注)別エントリー「試論:『神の義』と詩編を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6798

ルカ24章のエマオでの御出現において主は、旧約聖書とは御自分について証しするものであり、実際その詳細について《全体》の説明を始めると、何時間あっても語り尽くせないことをお示しになった(27節)。主は以前にもユダヤの人々に対して同じ事柄をお話しになられていた(ヨハネ5章39節等)。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ5章46節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7208

旧約聖書の預言は第一義的に主イエス・キリストの到来及びその前後までの歴史的出来事をあかしするためのものであり、キリスト到来から約二千年後に生きる現代人が国際情勢を読み解くためのものではなく、国際情勢分析など本来の意義とは無関係の完全な逸脱行為であり、真理には絶対にたどり着けない。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

マルコ12章における律法学者との対話において主は、旧約聖書の中の多くの掟について、重要性における順序があることを再確認された。またヨハネ5章39節で、旧約聖書とは御自分について証しするものだと主は御説明され、旧約聖書を調べる目的は御自分へと到達するためであるべきだと仰せになった。

(注)別エントリー「試論:キリスト教と旧約聖書を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6527

主はヨハネ5章39節で、聖書とは御自分についてあかしするものであり、御自分を目的としない聖書研究には意味がない旨を仰せになった。これに関連し一ヨハネ4章も、主イエスに関する事柄についてなるべく触れようとしない自称信者を「偽預言者」「反キリストの霊」「人を惑わす霊」などと表現する。

(注)別エントリー「試論:『預言を封印するメシア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8347

(注)別エントリー「試論:『真の預言者すらいない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8425

(注)別エントリー「試論:『預言と私的啓示の違い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8360

二ペトロ2章は「偽教師」への警戒を呼びかけ、「彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にする」(3節)「昼間から享楽に耽るのを楽しみにする」(13節)「強欲」(14節)等と表現する。一般の信者が真面目に働いている時間帯に、連日のように臆面もなく美食を貪る者こそが偽教師である。

(注)別エントリー「試論:偽預言者と貪欲を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7125

(注)別エントリー「試論:『終末預言?ありません』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13853

(注)別エントリー「試論:有人気球と『空中』の拡大を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10270

二ペトロ2章は「偽教師」への警戒を呼びかける。彼らは「滅びをもたらす異端を持ち込み、主を拒む」(1節)、「欲が深く虚言で人々を食い物にする」(3節)、「厚かましく、わがまま」(10節)「昼間から歓楽にふけるのを愉しみとする」(13節)「無意味な大言壮語」(18節)等の特徴を持つ。

「束縛からの解放」とは

主はルカ4章でイザヤの預言についてお話しされた。しかしルカ4章18節にある「視力の回復」は出典と考えられるイザヤ61章1節に存在しないのではないか(あるのは「束縛からの解放」)と、古くから度々問題視された。ただしイザヤ42章7節は「視力の回復」と「束縛からの解放」を同一に論じる。

エフェソ4章8節は詩編68編19(18)節を踏まえ神は捕らわれ人たちを天に導くため賜物を授けると説く。主はイザヤ61章1節を踏まえ罪悪に捕らわれた人を救う神が来るがそれは御自分だとルカ4章21節で示唆され、マルコ3章29節で聖霊の賜物を悪霊と呼ぶ冒涜は絶対に赦されないと説かれた。

ルカ4章18節「主がわたしを遣わされたのは捕らわれ人に解放を告げるため」イザヤ58章6節「悪による束縛」ヨハネ8章32節「真理はあなたたちを自由にする(解放する)」同14章6節「わたしは真理である」ローマ6章18節「あなたたちは、罪の奴隷状態から解放され義に仕えるようになった」。

(注)別エントリー「試論:『義を行う人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13485

エレミヤ10章10節は「主は真理の神」と記すがこの章では、自分では言葉を話せない偶像の神々と違い、イスラエルの神である主は御自ら、御言葉を発せられて真正な御教えを御自分の民にお話しになられる(申命記5章22節以下)という事柄を要約する表現として、「真理〔の神〕」が用いられている。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

イスラエルの神である主は御自分の民に対して御自ら御言葉を発せられて御教えをお話しになり(申命記5章22節以下)、それこそが自分で言葉を話せない偶像の神と最も異なるとして、主をエレミヤ10章10節は「真理の神」と呼ぶ。主イエスはピラトに御自分が何者か「真理」の表現で端的に示された。

主はヨハネ8章32節で「真理はあなたたちを自由にする(解放する)」と仰せになり、14章6節では真理とは御自分のことだと明言された。それが何からの解放かを、8章34節は「罪の奴隷〔状態〕」と記す。既にマタイ1章21節のヨセフの夢でも「この子は自分の民を罪から救う」と説明されている。

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

「道」とは全ての人が生きる上で辿るべき道筋(道理・規範)でイエスがその模範であること、「真理」とは人が信仰・礼拝すべき三位一体の唯一の神を指し御父・御子・聖霊の間に矛盾がないこと、「命」とは幸福・安堵・充足等の人を生かすものの全てで人間にそれを授ける源は唯一の神ということを指す。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

主なる神がシナイ山でモーセに多くの戒めや掟をお授けになっている間、民は金の子牛の像を造りこれを自分たちの新しい神とし、勝手なふるまいをしたが、モーセは怒って掟の板を投げつけた。人々は神からの恩恵だけ望んで戒めや掟には目もくれないが、実は主からの戒めや掟こそが恩恵だとは気付かない。

「真理(ギリシア語本文でアレテイア)とは何か」(ヨハネ18章38節)の答えをマルコ12章32節は「神は唯一で他に神はない」ことがアレテイアとし、主はこれを「適切な答え」とされた(34節)。ヨハネ14章6節「わたしこそが道、真理、命」10章30節「わたしと父とは唯一のものである」。

(注)別エントリー「試論:『御父と御子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7544

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

(注)別エントリー「試論:ヨハネ14章6節の『道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9342

一ヨハネ5章は20節で「神の御子が来られ、私たちに真理である方を知る力を与えられました。私たちは真理である方の内に、またその御子イエス・キリストの内にいるのです」と記し、「この方こそ真理である神、永遠の命」と続け、御父と御子と聖霊(6節)の御三方を「真理」と呼び、唯一の神とする。

(注)別エントリー「試論:『御子に全て委ねられた』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7629

試論:「キリストの律法」とは?を140文字以内で

マタイ7章12節「他の人からしてもらいたいことならなんでも、あなたから他の人にしなさい。これこそ律法であり預言者〔の教え〕」のことで、キリストの御教えの根幹及び隣人愛の定義でもあり、マタイ25章の「最後の審判」においても「永遠の命」(天国の福楽)に到達するか否かの判断基準となる。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

【追記】

【問】マタイ7章7節「探しなさい。そうすれば、見つかる」何が?
【答】天の国に入るためには「狭い門」(同13節)つまり「神の義」(同6章33節)の「門」(詩編118編19節)を通らねばならず、その通行証となるものはキリストの律法(マタイ7章12節)の実践以外にないということがです。

(注)別エントリー「試論:『探せば見つかる』何が?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/23354

試論:ユダの裏切りの意図の有無を140文字以内で

【問】福音書本文のギリシア語の意味から「ユダはイエスを『裏切った』のではなく、単に『引き渡した』のだ」という議論があります。
【答】サムエル上30章15節「わたしを主人に引き渡さぬと誓って下されば」のように、「引き渡す」は結果としてその人を不本意な状況に陥れるという意味も含みます。

【追記】

【問】イスカリオテのユダは主を敵に引き渡しましたが、彼に罪の自覚はありましたか?
【答】マタイ27章3節〜4節「ユダはイエスの死刑判決を知り『わたしは罪のない人の血を売り渡し罪を犯した』と言った」申命記27章25節「賄賂を取って人を撃ち殺し、罪のない人の血を流させる者は呪われる」。

(注)別エントリー「試論:『罪を自覚していたユダ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/23886

試論:「引き渡す好機」を140文字以内で

【問】マタイ26章16節「ユダはイエスを引き渡す好機を窺っていた」の意味は?
【答】ルカ22章2節はユダを買収した祭司長たちが「民衆を恐れていた」同章6節は買収されたユダが「群衆がいない時にイエスを引き渡そうと」と記し、夜間にイエスの逮捕を決行する計画に至った流れを説明しています。

【追記】

【問】イスカリオテのユダは主を敵に引き渡しましたが、彼に罪の自覚はありましたか?
【答】マタイ27章3節〜4節「ユダはイエスの死刑判決を知り『わたしは罪のない人の血を売り渡し罪を犯した』と言った」申命記27章25節「賄賂を取って人を撃ち殺し、罪のない人の血を流させる者は呪われる」。

(注)別エントリー「試論:『罪を自覚していたユダ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/23886

試論:「預言でも奇跡でもなく」を140文字以内で

主イエスはマタイ7章22節以下で、預言や悪霊を追い出すことや奇跡よりも、悪を行わないことこそが重要で御自分の弟子である証明だと教えられた。イスカリオテのユダは汚れた霊を追い出す権能と病気を癒す力を使徒として与えられたが(マタイ10章)、献金を盗んでいたためサタンが彼の中に入った。

(注)別エントリー「試論:『献金泥棒』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11983

【追記】

主イエスはマタイ10章で十二人をお選びになり、「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いを癒す権能」を授けられた。マルコ3章14節は「十二人」選抜の目的を御自分の傍に置くためと記す。その一人は泥棒(ヨハネ12章6節)となり、銀貨三十枚(マタイ26章15節)で、自分の師を売り渡した。

(注)別エントリー「試論:『預言や奇跡よりも』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16157

(注)別エントリー「試論:『無償で与えなさい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16019

パウロは一コリント13章で愛こそ諸徳の中で最上のものと説くが、ローマ13章10節では愛は隣人に悪を行わないと説く。これは主イエスがマタイ7章22節以下で仰せになった内容(たとえ預言や奇跡や悪霊を追い出すこと等を行おうとも、悪を行わないことを疎かにするなら無意味)と完全に合致する。

主イエスはマタイ7章22節以下で、神が人々に求めておられるのは預言でも奇跡でも悪霊を追い出すことでもなく、ただ悪を行わないことだと示唆された。ヨセフは1章19節で義人と呼ばれるが、25章の最後の審判では義人は隣人の困り事に親身に対応する無私の人そして永遠の命を確約された人を指す。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

主イエスはマタイ7章22節以下で、預言や奇跡や悪霊を追い出すことよりも、悪を行わないことが重要であり唯一それが御自分の弟子としての証明であると仰せになった。これを踏まえてパウロはローマ13章10節で「愛とは悪を行わないこと」と明確に定義し、一コリント13章では愛の重要性を説いた。

詩編12(11)編においてダビデは、隣人に嘘をついたり隣人を早口で欺いたり言行不一致状態だったりする人々ばかりの風潮を、「信仰のある人は消え去りました」(12編2節、新共同訳)と表す。ここで「信仰」と訳されるヘブライ語を、古代のギリシア語訳聖書はアレテイア(真理、まこと)と訳す。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

ヨハネ福音書は「信仰」を表現する際、他の福音書が用いるピスティスという語を用いず代わりにアレテイア(真理、まこと)という語を多用する。ヨハネにとって信仰とは、人の真心に対し真心で応じられる神なる主に向かって嘘偽りや裏表のない態度で接することに他ならず、これは当時の共通認識だった。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書のアレテイアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15430

主イエスはヨハネ14章6節で「真理」を自称されたが、プロテスタントの「改訳 新約聖書』(1917年)は「まこと」と平仮名を振り、旧約聖書で「まこと」と訳される語との関連を示唆する。嘘偽りや裏表がないこと、上っ面だけでなく内実を伴うこと、真心には真心で返されること等を意味している。

(注)別エントリー「試論:まこと(真、実、信、誠)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16274

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書の『信じる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16417

試論:「夜であった」?を140文字以内で

【問】ヨハネ13章30節はユダが出て行く時を「夜であった」と記しますが、この意味は?
【答】イザヤ58章6節〜10節で、他人を思い遣る心(隣人愛)を「光」に喩え、それが活発に働いている人について「あなたの光は真昼のようになる」と説きます。この時のユダには、「光」が失われていました。

【追記】

【問】主イエスが「世にいる間、わたしは世の光である」と称された理由は?
【答】「光」とはイザヤ58章6節以下にある通り、善意・温情・心配り・憐れみの業などの喩えで、人々の心と表情とを明るくさせ、また人々の心を温めます。「光」がなくなれば、人々の心と表情は暗くなり、心は冷え込みます。

(注)別エントリー「『まことの光』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/23274

試論:イザヤ49章の「主の僕」を140文字以内で

ルカ2章32節でシメオンは幼子を「異邦人を照らす啓示の光」と呼び、この幼子こそイザヤ49章6節で預言された「主の僕(しもべ)」だと示唆した。さらに続けて「反対を受けるしるし」(ルカ2章34節)という表現で、この幼子がイザヤ50章6節の受難を経験することをも、母親のマリアに伝えた。

幼子を腕に抱いたシメオンはルカ2章32節で幼子を「万民を照らす啓示の光」と呼んだ。イザヤ49章6節は「わたしはあなたを僕(しもべ)とし、国々の光としてわたしの救いを地の果てまでも、もたらす者とする」と預言した。フィリピ2章7節「キリストは人間と同じ者になられ、僕の身になられた」。

(注)別エントリー「試論:『主の僕(しもべ)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8849

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』=『主の僕』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8876

イザヤ49章2節はイエス・キリストを彷彿とさせる「主の僕(しもべ)」の姿に関し、「わたしの口を鋭い剣として」と預言し、50章4節ではさらに、「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え言葉を呼び覚ましてくださる」と続け、この「主の僕」が語る言葉を「鋭い剣」にたとえて預言をしている。

(注)別エントリー「試論:イザヤの預言と主の御受難を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6322

黙示録1章16節に「口から出る鋭い剣」という記述がある。一世紀後半のユダヤ人キリスト教徒は即座にイザヤ49章2節の類似の記述を連想し、「剣」が「言葉」(イザヤ50章4節)の比喩であると思い至ったはずである。安息日ごとに会堂で、必ずいずれかの預言書が朗読されることが定められていた。

主はマタイ10章34節で自分は剣をもたらすために来たと仰せになったが、剣は詩編55編22(21)節では「鋭く人間に迫り心に突き刺さる言葉」の比喩である。57編5(4)節や59編8(7)節も同様の比喩を用い、エフェソ6章17節では神の御言葉それ自体を「〔聖〕霊の剣」にたとえている。

(注)別エントリー「試論:『御言葉は剣(つるぎ)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6245

主はマタイ10章34節で、自分は「剣(つるぎ)」を投ずるために来たと仰せになった。剣とは分断(ルカ12章51節)を行う象徴で、この「分断」の究極の意味はマタイ25章32節以下で説明されている。剣を用いた争い事を主が奨励されたわけではないことは同26章52節の御言葉から当然である。

古代のヘブライ人は《鋭く人間に迫り心に突き刺さる言葉》を「剣」にたとえた(ルカ2章35節等)。ならば当然、黙示録1章7節「彼を突き刺した者ども」は、実際には、「彼に激越な言葉を浴びせ情け容赦ない悪口で攻撃した者ども」を意味する。同節「地」はエゼキエル7章2節「地」とは同様である。

主は「火」「剣」を人々にもたらすと仰せになったが、両者とも御言葉の比喩である。御言葉は心を燃やし(ルカ24章32節)心に刺さる(詩編55編22(21)節等参照。エフェソ6章17節)。黙示録も1章16節等で御言葉を剣に喩え11章5節では御言葉を火に喩えた(エレミヤ5章14節参照)。

(注)別エントリー「試論:『わたしは地上に火を〜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6048

イザヤ42章は旧約の民と異邦人を罪から救う「主の僕(しもべ)」を預言し、8節では「わたしは栄光を他の神々に渡さないし、わたしの栄誉を偶像に与えはしない」と記す。このことを48章11節では「わたし自身のため」と二度強調する(ヨハネ17章1節「あなたの子があなたの栄光を現すため」)。

黙示録7章16節はイザヤ49章10節を踏襲することで洗礼者が言及した(ヨハネ1章)

「〔神の〕小羊」

とイザヤ書の

「主の僕(しもべ)」

が同一人物であると再確認させ、

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために来た」
(マタイ20章28節、マルコ10章45節)

という事柄をも再確認させる。

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7514

(注)別エントリー「試論:世の罪を取り除く神の小羊を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6140

古代のギリシア語訳イザヤ50章6節では、「主の僕(しもべ)の忍耐」に関する預言を、「平手打ちする者に頬をまかせた」と記した。これと関連して主イエス・キリストはマタイ5章39節で説教され、そして主御自身その通り(マルコ14章65節、ヨハネ18章22節、同19章3節)に実践なさった。

(注)別エントリー「試論:イザヤの預言と主の御受難を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6322

主はマタイ5章14節で「あなたがたは世の光」ヨハネ8章12節で「わたしは世の光」「わたしに従う者は暗闇の中を歩まず命の光を持つ」と仰せになった。同1章4節は「御言葉のうちに命があり、命は人間を照らす光」と記す。イザヤ58章6節以下では隣人に心を配り助けを惜しまない人に、光が伴う。

(注)別エントリー「試論:『世の光』どういうこと?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13685

古代のギリシア語イザヤ50章6節は「わたしは鞭打つ者に背中を、平手打ちする者に頬を向け、なお嘲りと唾からも顔をそむけることがなかった」と記し、この節をマタイ5章39章の主の仰せそして御受難の際(マルコ14章〜15章)の主の御苦しみと御振舞いに、最も近いニュアンスで、解釈している。

(注)別エントリー「試論:御受難の際の主の模範を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6315

主はヨハネ12章27節で「今わたしは心騒ぐ」と仰せになり御自分の内面は穏やかでないと告白された。多くの侮辱を伴う凄惨なリンチの末に、十字架を背負わされ、「御自分の民」から罵声を浴びながら体力を消耗し尽くし、ぼろ布のような状態で大きな苦しみの内に息絶える日がそこまで来たからである。

(注)別エントリー「試論:『主の僕の忍耐』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6462

主はヨハネ12章23節で「人の子が栄光を受ける時が来た」と仰せになった。御受難(十字架上の死)によって多くの人々に永遠の命をもたらし(24節〜25節)「死を永久に滅ぼす」(31節、イザヤ25章8節、一コリント15章54節、ヘブライ2章14節以下、コロサイ1章20節等)ためである。

(注)別エントリー「試論:『自分の命を憎む人』??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9419

ヨハネ12章27節「わたしはまさにこの時(=御自身がゴルゴタにおいて十字架上に『上げられる《高い所に掲げられて顕示される》』御受難の時)のために来た」マタイ20章28節、マルコ10章45節「人の子は、多くの人々の身代金(=あがない)として、自分の命を献(ささ)げるために、来た」。

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

(注)別エントリー「試論:真理と贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9081

試論:「手向けの香油」を140文字以内で

主イエスがマタイ16章で初めて御自分の死と復活を予告された際に、そんなことがあってたまるものですかと異を唱えたペトロを主はサタンと呼ばれ、たしなめられた。ベタニアのマリアはいよいよ主が予告されていたその時が来たと悟って、「手向け」として香油を注ぎ、ゴルゴタの最後の瞬間まで従った。

【追記】

マルコは、ベタニアで主の頭に高価な香油を注ぐ女性を記す。ヨハネも、ベタニアでラザロの姉妹マリアが主の足に高価な香油を塗ったと記す。主は彼女の行動を埋葬の準備と呼んだ。マルコ16章冒頭で主の御遺体に油を塗りに行く婦人たちの中に彼女もいたはずで、マグダラのマリアである蓋然性が大きい。

(注)別エントリー「ベタニアのマリア(マグダラのマリア)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/23927

試論:「神は人々に息を」の意味を140文字以内で

創世記2章7節「主なる神は人の鼻に命の息を吹き入れられた」イザヤ42章5節「神は天を創造してこれを広げ、地とそこに生ずるものを繰り広げ、その上に住む人々に息を、そこを歩く者に霊を与えられる」ヨハネ20章22節「イエスは弟子たちに息を吹きかけて『聖霊を受けなさい』と仰せになった」。

【追記】

【問】聖書はキリストを模範(ヨハネ13章15節等)と示すけど、全て真似する必要があるの?
【答】いいえ。倣うべきは「仕えられるのではなく、仕える」姿勢で、真似する必要のない事柄は例えば湖の上を歩く、唾で泥を作り目の見えない人を治す、聖霊を与えると称して息を吹きかけるなどの行為です。

復活された主イエスはヨハネ20章22節で「聖霊を受けなさい」と仰せになり、弟子たち(使徒たち)へ息を吹きかけられた。この仕草は新約聖書では唯一ここだけで見られ、聖霊降臨の予告として行われた。聖書には祝福や権威の行使の象徴として一般的な、手を置く仕草があるが、それとは意義が異なる。

(注)別エントリー「試論:聖霊の働きの徴を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4984

(注)別エントリー「試論:『使徒パウロ』の誕生を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9844

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを識別する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14194

主イエスはヨハネ20章22節で「聖霊を受けなさい」と仰せになって、弟子たちに息を吹きかけられた(創世記2章7節参照)。《人は神の口から出る全ての事柄で生きる》を示されるために、主はあえて息を吹きかける仕草を行われた。新約聖書には、弟子が同じ仕草を行う場面は一度たりとも登場しない。

(注)別エントリー「試論:『命の息』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14285

試論:ヨハネ13章36節の意味を140文字以内で

ヨハネ13章36節「わたしがこれから行く場所に、今のあなたは一緒に行くことができないが、やがて行くことになろう」同21章18節〜19節「『あなたは年齢を重ねた後で、両手を延ばし他の者に帯を締められた状態で行きたくもない場所へ連れて行かれる』と、イエスはペトロの殉教を予告された」。

試論:「人間の自由意志とユダ」を140文字以内で

ヨハネ13章27節「イエスは『あなたは、しようとしていることを今すぐ、しなさい』と、ユダに仰せになった」シラ15章11節「あなたは、『わたしが罪を犯したのは、主のせいだ』などと言ってはならない」同章20節「主は誰に対しても、御自分に不実であるようにとお命じになったことなどない」。

【追記】

【問】イスカリオテのユダは主を敵に引き渡しましたが、彼に罪の自覚はありましたか?
【答】マタイ27章3節〜4節「ユダはイエスの死刑判決を知り『わたしは罪のない人の血を売り渡し罪を犯した』と言った」申命記27章25節「賄賂を取って人を撃ち殺し、罪のない人の血を流させる者は呪われる」。

主イエスはマタイ10章で十二人をお選びになり、「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いを癒す権能」を授けられた。マルコ3章14節は「十二人」選抜の目的を御自分の傍に置くためと記す。その一人は泥棒(ヨハネ12章6節)となり、銀貨三十枚(マタイ26章15節)で、自分の師を売り渡した。

(注)別エントリー「試論:『預言や奇跡よりも』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16157

(注)別エントリー「試論:『無償で与えなさい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16019

ベタニアのマリア(マグダラのマリア)

マルコは、ベタニアで主の頭に高価な香油を注ぐ女性を記す。ヨハネも、ベタニアでラザロの姉妹マリアが主の足に高価な香油を塗ったと記す。主は彼女の行動を埋葬の準備と呼んだ。マルコ16章冒頭で主の御遺体に油を塗りに行く婦人たちの中に彼女もいたはずで、マグダラのマリアである蓋然性が大きい。

御復活の朝、主を目の前にしてマグダラのマリアは、十人の使徒たちやトマスのように、まず手の釘の痕や脇腹の槍の痕を確認しようとしたはずである。主の「わたしに触れてはならない」は、「手や脇腹を見なくとも、あなたは少しの疑いの余地もなくわたしを認識できているでしょう?」の裏返しでもある。

主はヨハネ20章17節でマグダラのマリアに「触れてはならない」と仰せになった。この時、主が指先で、彼女の額に触れて制止された、という伝承がある。マルコ3章9節以下には、主に触れようとする群衆のあまりの勢いに小舟が用意される話があるが、彼女の勢いもまたそれに近かったのかも知れない。

マルコ16章9節はマグダラのマリアを「以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人」と呼ぶ。箴言6章16節は「主の憎まれるものが六つ、主の心からいとわれるものが七つ」として17節以下で七つの悪徳について列挙する。「七つの悪霊」とは、マリアが克服した七つの悪徳を指すと思われる。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

一世紀にはギリシア語でタリケアと呼ばれていたガリラヤ湖畔の町をユダヤ人はヘブライ語でミグダル、アラム語でマグダラと呼んだと想定され、魚を保存用に加工する燻製工場で知られた。風紀の乱れた町としても悪名高く、歓楽地としての町全体または一部の歓楽街を呼ぶ際マグダラが悪名的に用いられた。

ヨハネ1章の通り御子である主イエスは「言(ことば)」つまり御自分で御言葉をお話しになる神として、この世に来られ、「仕えられるため」ではない(マルコ10章45節)。従って主イエスに直接応対する場合に限り「仕える」を選んだマルタより「御言葉に耳を傾ける」を選んだマリアが良しとされた。

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

主イエスはマタイ12章38節以下で「しるしを見せてください」と迫った人々に対して、救い主に求めるべきものはしるしなどではなく、むしろ救い主が語る御教えであるべきだと強調された。主イエスはルカ10章でも「仕える」を選んだマルタより「御教えを聞く」を選んだマリアの姿勢を良しとされた。

(注)別エントリー「『マリアは良い方を選んだ』?」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17866

ヨハネ12章の冒頭で、ベタニアのマリアの行いを目にしたイスカリオテのユダは、相手の「落ち度」(実際は落ち度でも何でもなかったがユダは勝手にそう思い込み調子に乗った)を見つけて鬼の首でも取ったかの如く、勢いづいた。同6章64節は主イエスは最初から誰が裏切り者か知っておられたと記す。

レビ19章18節は隣人愛の掟を記すが、15節は貧者救済の理由であろうと判断を惑わされてはならないと説く。ヨハネ12章でイスカリオテのユダが貧者救済を理由にベタニアのマリアを攻撃した際、主イエスはユダの言葉が貧者救済を口実にした単なる言い掛かりに過ぎないと見抜かれ、女性を擁護した。

ベタニアのラザロの姉妹マリアは、主イエスによって「七つの悪霊」を追い出され主に最も忠実な女性たちの一人に変わったが、かつて彼女が歓楽に耽った風紀の乱れた町マグダラは彼女の代名詞となり、彼女もまたそれを甘んじて受け続けた。自分の間違っていた過去を忘れることなく戒めとするためである。

(注)別エントリー「『自分を捨て、自分の十字架を背負って』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18140

「主の僕(しもべ)」の「剣」

イザヤ49章2節はイエス・キリストを彷彿とさせる「主の僕(しもべ)」の姿に関し、「わたしの口を鋭い剣として」と預言し、50章4節ではさらに、「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え言葉を呼び覚ましてくださる」と続け、この「主の僕」が語る言葉を「鋭い剣」にたとえて預言をしている。

(注)別エントリー「試論:イザヤの預言と主の御受難を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6322

主はマタイ10章34節で自分は剣をもたらすために来たと仰せになったが、剣は詩編55編22(21)節では「鋭く人間に迫り心に突き刺さる言葉」の比喩である。57編5(4)節や59編8(7)節も同様の比喩を用い、エフェソ6章17節では神の御言葉それ自体を「〔聖〕霊の剣」にたとえている。

(注)別エントリー「試論:『御言葉は剣(つるぎ)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6245

主はマタイ10章34節で、自分は「剣(つるぎ)」を投ずるために来たと仰せになった。剣とは分断(ルカ12章51節)を行う象徴で、この「分断」の究極の意味はマタイ25章32節以下で説明されている。剣を用いた争い事を主が奨励されたわけではないことは同26章52節の御言葉から当然である。

古代のヘブライ人は《鋭く人間に迫り心に突き刺さる言葉》を「剣」にたとえた(ルカ2章35節等)。ならば当然、黙示録1章7節「彼を突き刺した者ども」は、実際には、「彼に激越な言葉を浴びせ情け容赦ない悪口で攻撃した者ども」を意味する。同節「地」はエゼキエル7章2節「地」とは同様である。

黙示録1章16節に「口から出る鋭い剣」という記述がある。一世紀後半のユダヤ人キリスト教徒は即座にイザヤ49章2節の類似の記述を連想し、「剣」が「言葉」(イザヤ50章4節)の比喩であると思い至ったはずである。安息日ごとに会堂で、必ずいずれかの預言書が朗読されることが定められていた。

主は「火」「剣」を人々にもたらすと仰せになったが、両者とも御言葉の比喩である。御言葉は心を燃やし(ルカ24章32節)心に刺さる(詩編55編22(21)節等参照。エフェソ6章17節)。黙示録も1章16節等で御言葉を剣に喩え11章5節では御言葉を火に喩えた(エレミヤ5章14節参照)。

(注)別エントリー「試論:『わたしは地上に火を〜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6048

旧約聖書では心に刺さる言葉の比喩として「剣」の他に、「矢」も登場する。この両者の違いは、「剣」は心に刺さるというニュアンス以外に分断をも意味し、一方の「矢」は同じ言葉でも「毒を含む言葉」(詩編64編4(3)節)を表現し、箴言26章18節「死の矢」のように実際の殺傷性の高さも表す。

古代のイスラエル人は《鋭く人間に迫り心に刺さる言葉〔の力〕》を「剣」にたとえた(詩編55編22(21)節等)。この比喩を踏まえ、主イエスも「剣をもたらすために来た」(マタイ10章34節)と仰せになり、ルカ2章35節でも母マリアにシメオンが、この比喩を用いて御受難について預言した。

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

ヨハネ19章は、ゴルゴタの主の十字架の傍らに聖母がおられたと記すが、聖母の内面がどのようであったかについては全く記述がない。しかしルカ2章35節はシメオンの預言として、「多くの人の心にある思い(34節の「逆らい」)があらわになるため、あなた自身も剣で心を刺しつらぬかれる」と記す。

(注)別エントリー「試論:『神の母であること』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6079

ルカ2章に登場するシメオンは、幼子イエスを抱きながら、マリアとヨセフの前で「万民のために整えてくださった救い」「異邦人を照らす啓示の光」と 神を称えてイエスによってイザヤ9章1節の預言が成就することを語り、母マリアの苦しみ(ルカ2章35節)に関しても、シメオンは聖霊によって語った。

黙示録19章の白馬の騎手は「真実」(11節。ヨハネ3章33節参照)と呼ばれ、剣で戦われるが、この剣は口から放たれる(黙示録19章15節、同1章16節)。相手に鋭く迫り心に刺さる言葉をヘブライ人は剣に喩えた(詩編55編、ルカ2章35節)。マタイ10章34節「わたしは剣をもたらす」。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ3章の『真実』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16193

ヨハネ3章33節は主イエスを「真実(=真理である方)」と呼び、黙示録3章14節は主イエスを「アーメンである方」「誠実」「真実」等と呼ぶ。黙示録では19章11節の「白馬の騎手」が「誠実」「真実」と呼ばれ、同章13節は「神の御言葉」16節は「王の王、主の主」と、「白馬の騎手」を呼ぶ。

(注)別エントリー「試論:『アーメン』と『まこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16228

「献金泥棒」の最期

ヨハネ12章6節「彼(ユダ)は泥棒で、預かった金(かね)入れの中身をごまかしていた」ルカ16章13節「あなたたちは神と富の両方に仕えることはできない」同22章3節「十二人の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中にサタンが入った」。同5節「彼らは喜びユダに金を与えることに決めた」。

主イエスはマタイ7章22節以下で、預言や悪霊を追い出すことや奇跡よりも、悪を行わないことこそが重要で御自分の弟子である証明だと教えられた。イスカリオテのユダは汚れた霊を追い出す権能と病気を癒す力を使徒として与えられたが(マタイ10章)、献金を盗んでいたためサタンが彼の中に入った。

レビ19章18節は隣人愛の掟を記すが、15節は貧者救済の理由であろうと判断を惑わされてはならないと説く。ヨハネ12章でイスカリオテのユダが貧者救済を理由にベタニアのマリアを攻撃した際、主イエスはユダの言葉が貧者救済を口実にした単なる言い掛かりに過ぎないと見抜かれ、女性を擁護した。

ヨハネ12章の冒頭で、ベタニアのマリアの行いを目にしたイスカリオテのユダは、相手の「落ち度」(実際は落ち度でも何でもなかったがユダは勝手にそう思い込み調子に乗った)を見つけて鬼の首でも取ったかの如く、勢いづいた。同6章64節は主イエスは最初から誰が裏切り者か知っておられたと記す。

パウロは一コリント13章で愛こそ諸徳の中で最上のものと説くが、ローマ13章10節では愛は隣人に悪を行わないと説く。これは主イエスがマタイ7章22節以下で仰せになった内容(たとえ預言や奇跡や悪霊を追い出すこと等を行おうとも、悪を行わないことを疎かにするなら無意味)と完全に合致する。

主イエスは、マルコ12章とルカ21章の有名な「貧しいやもめの献金」の箇所で、「他のどんな裕福な人々よりも、彼女はたくさん献金した」と仰せになり、献金の多い少ないを信仰心の尺度と見なすという価値観をここで明確に否定された。献金で信仰心を評価する行為はキリスト教的ではない発想である。

二ペトロ2章は「偽教師」への警戒を呼びかける。彼らは「滅びをもたらす異端を持ち込み、主を拒む」(1節)、「欲が深く虚言で人々を食い物にする」(3節)、「厚かましく、わがまま」(10節)「昼間から歓楽にふけるのを愉しみとする」(13節)「無意味な大言壮語」(18節)等の特徴を持つ。

【問】イスカリオテのユダは主を敵に引き渡しましたが、彼に罪の自覚はありましたか?
【答】マタイ27章3節〜4節「ユダはイエスの死刑判決を知り『わたしは罪のない人の血を売り渡し罪を犯した』と言った」申命記27章25節「賄賂を取って人を撃ち殺し、罪のない人の血を流させる者は呪われる」。

主イエスはマタイ10章で十二人をお選びになり、「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いを癒す権能」を授けられた。マルコ3章14節は「十二人」選抜の目的を御自分の傍に置くためと記す。その一人は泥棒(ヨハネ12章6節)となり、銀貨三十枚(マタイ26章15節)で、自分の師を売り渡した。

試論:「侮辱する者のために」を140文字以内で

ルカ6章28節「あなたを侮辱する者のために祈りなさい」マタイ26章67節「人々はイエスの顔に唾を吐きかけ、拳で殴り、平手で打った」同27章30節「総督の兵士たちは、イエスに唾を吐きかけ葦の棒でイエスを殴り続けた」ルカ23章34節「イエスは言われた、『父よ、彼らをお赦し下さい』」。

(注)別エントリー「試論:『主の僕の忍耐』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6462

(注)別エントリー「試論:イザヤの預言と主の御受難を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6322

【追記】

ルカ23章34節の主イエスの御言葉「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは自分が何をしているのか分かっていないのです」と類似の事柄を数年後、使徒言行録7章60節でステファノが殉教の際に口にした。さらにその二十数年後エルサレム監督である「主の兄弟」ヤコブが殉教の際、類似の事柄を口にした。

(注)別エントリー「試論:もう一人の『エリヤ』??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10009

(注)別エントリー「試論:主の兄弟ヤコブを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4911

(注)別エントリー「試論:ルツ記とイエスの兄弟たちを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8585

(注)別エントリー「イエスの『兄弟』『姉妹』:同胞か親戚か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1451

古代のギリシア語イザヤ50章6節は「わたしは鞭打つ者に背中を、平手打ちする者に頬を向け、なお嘲りと唾からも顔をそむけることがなかった」と記し、この節をマタイ5章39章の主の仰せそして御受難の際(マルコ14章〜15章)の主の御苦しみと御振舞いに、最も近いニュアンスで、解釈している。

(注)別エントリー「試論:御受難の際の主の模範を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6315

主はヨハネ12章27節で「今わたしは心騒ぐ」と仰せになり御自分の内面は穏やかでないと告白された。多くの侮辱を伴う凄惨なリンチの末に、十字架を背負わされ、「御自分の民」から罵声を浴びながら体力を消耗し尽くし、ぼろ布のような状態で大きな苦しみの内に息絶える日がそこまで来たからである。

(注)別エントリー「試論:『恵みの時』『救いの日』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14772

試論:「傷ついた葦」を140文字以内で

「ありとあらゆる病気や患い」(マタイ9章35節)に苦しみ弱り果てても助けが得られない人々のことを、イザヤ42章3節(マタイ12章20節)は「傷ついた葦」「くすぶる灯心」等と表現し、彼らを力づける「主の僕(しもべ)」をイザヤは預言したが、マタイ12章17節ではイエスがそれだと記す。

注)別エントリー「試論:『主の僕(しもべ)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8849

(注)別エントリー「試論:『主の僕の忍耐』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6462

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』=『主の僕』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8876

【追記】

「主の奉献」の際、ルカ2章32節でシメオンは幼子イエスを「異邦人を照らす〔啓示の〕光」と呼んだ。これはイザヤ42章の「主の僕(しもべ)」預言の「諸国の光」(6節)に対応するが、到来の徴は「目の見えない人の視力の回復」(7節)であることを、イザヤは35章の「救い主」同様に預言した。

(注)別エントリー「試論:『救い主の識別』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13316

(注)別エントリー「救いの創始者(ヘブライ2章10節)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13705

(注)別エントリー「試論:『剣』何の比喩?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14072

(注)別エントリー「試論:異邦人を照らす啓示の光?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14088

主はルカ4章でイザヤの預言についてお話しされた。しかしルカ4章18節にある「視力の回復」は出典と考えられるイザヤ61章1節に存在しないのではないか(あるのは「束縛からの解放」)と、古くから度々問題視された。ただしイザヤ42章7節は「視力の回復」と「束縛からの解放」を同一に論じる。

(注)別エントリー「試論:『捕らわれ人に解放を』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13931

試論:マタイ26章18節「時」を140文字以内で

マタイ26章18節「わたしの時が近づいた」ヨハネ2章4節「婦人よ、わたしの時はまだ来ていません」13章1節「イエスは御自分の時が来たと悟られた」17章1節「父よ、時が来ました」19章30節「イエスはぶどう酒を口に受けられ『成し遂げられた』と仰せになり、頭を垂れ息を引き取られた」。

(注)別エントリー「救いの創始者(ヘブライ2章10節)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13705

【追記】

ヨハネ2章3節「ぶどう酒がなくなりました」4節「婦人よ、わたしの時は、まだ来ていません」17章1節「父よ、時が来ました」19章26節「婦人よ、ごらんなさい。あなたの子です」30節「イエスは、このぶどう酒を口に受けられ、『成し遂げられた』と仰せになり、頭を垂れて息を引き取られた」。

(注)別エントリー「試論:『マリアの確信』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13783

(注)別エントリー「試論:『わたしの主』と母マリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8575

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7795

(注)別エントリー「試論:『イエスとマリアの関係』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7725

試論:「ペトロの大言壮語」を140文字以内で

主イエスはマタイ26章で、ペトロが「たとえ皆があなたにつまずいても決してわたしはつまずきません」と大言壮語した際「鶏が鳴く前に」と警告された。しかし御復活の後、肝心な時に逃げたことで意気消沈しているペトロに対して、主は食事を準備して待ち、近くで給仕された(ルカ12章38節参照)。

(注)別エントリー「『婚宴帰りの主人』=『御復活の主』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18271

【追記】

ルカ12章36節以下「婚宴帰りの主人が戸を叩く時、目を覚ましていて、すぐ開けようと待つ人は幸い。主人は帯を締め、この僕(しもべ)たちを食事の席に着かせ給仕してくれる」ヨハネ21章9節以下「陸に上がると、炭火が起こしてあって上に魚があり、パンもあった。『さあ来て食事をしなさい』」。

(注)別エントリー「試論:『一緒に食事をする』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16061

試論:「神殿を三日で建て直す」を140文字以内で

《体も家も自身にとっての住まい》(ヨブ4章19節参照)として「体」と「家」とを重ねるヘブライの世界観を踏まえ、主イエスは、《人となった神の子である自身の体》と《神の家=神殿》を重ね「三日で建て直して見せる」と宣言されたが、イエスを冒瀆者として葬り去ろうとした人々には通じなかった。

(注)別エントリー「試論:マタイ21章42節『家』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15057

【追記】

主イエスはヨハネ2章19節で、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直して見せる」の御言葉を残された。同21節は、御自分の体を主イエスは神殿と呼ばれたと説明する。しかしマタイ26章61節にある通り、この時の主の仰せは、最高法院が主に死刑を宣告するに至る際、重大な意味を持つものだった。

(注)別エントリー「試論:福音書と『西遊記』の違いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5760

(注)別エントリー「イエス・キリストと天の雲」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/684

試論:「主の御受難とユダヤ人」を140文字以内で

【問】イエスの処刑を当時のユダヤ人の全員が望んでいたのですか?
【答】いいえ。マタイ27章25節はローマ総督館の前で人々が「彼の血の責任は、我々と子孫にある」と答えたと記しますが、ルカ23章27節は女性たちの大群が十字架を背負わされたイエスの姿を見て嘆き悲しんでいたと記しています。

イザヤ50章5節

イザヤ50章5節「主なる神が、わたしの耳を開かれて、〜」詩編40編7(6)節〜9(8)節「わたしの神、主よ。いけにえも供え物もあなたは求めずに、ただ、わたしの耳を開かれた。御覧ください、わたしは巻物に記された通り来ました。わたしの神よ、わたしは御旨が行われることを望んでいます」。

イザヤ50章5節「主なる神が、わたしの耳を開かれ、わたしは逆らわずに従い、逃げなかった」マタイ26章39節「父よ、あなたは何でもおできになります。この杯(さかずき)をできることならわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。

ヨハネ10章30節「わたしと御父とは一つ」38節「御父はわたしの内におられ、わたしは御父の内にある」14章31節「わたしは御父を愛しており、御父がお命じになったことを、実行している」15章10節「わたしが御父の掟と愛にとどまっているように、あなたがたもわたしの掟を守るなら、〜」。

ニケア・コンスタンチノープル信条「父と一体」はヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」と38節に拠り、御父と御子の間には矛盾・対立・齟齬の類は一切ないことを表す。ギリシア神話では最高神ゼウスと父クロノス、クロノスと父ウーラノスの父子相剋が存在するが、キリスト教には全く存在しない。

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

主はヨハネ10章30節で「わたしと父とは一つ」と仰せになった後、17章では弟子たちのために天を仰いで祈られたが、それは御父と御自分が「一つ」であるように、弟子たちもまた「一つ」となるためであった(11節、21節〜23節)。使徒言行録4章32節「信じた人々の群れは心も思いも一つ」。

古代のギリシア語イザヤ50章6節は「わたしは鞭打つ者に背中を、平手打ちする者に頬を向け、なお嘲りと唾からも顔をそむけることがなかった」と記し、この節をマタイ5章39章の主の仰せそして御受難の際(マタイ26章〜27章)の主の御苦しみと御振舞いに、最も近いニュアンスで、解釈している。

(注)別エントリー「試論:御受難の際の主の模範を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6315

主はヨハネ12章27節で「今わたしは心騒ぐ」と仰せになり御自分の内面は穏やかでないと告白された。多くの侮辱を伴う凄惨なリンチの末に、十字架を背負わされ、「御自分の民」から罵声を浴びながら体力を消耗し尽くし、ぼろ布のような状態で大きな苦しみの内に息絶える日がそこまで来たからである。

試論:「ペトロと鶏」を140文字以内で

ペトロはヨハネ福音書最終章で主イエスから弟子たちの牧者であることを再確認され、鶏が鳴く前に三度主をを知らないと誓った時の弱く不安定な自分を捨てることが出来たが、それでも毎朝、夜明けと共にどこかで鶏が鳴くのが聞こえる度に、あの日の狂おしいばかりの自己嫌悪の記憶が蘇りそれに苛まれた。

(注)別エントリー「試論:『自分の十字架』とペトロを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12304

【追記】

主イエスはルカ9章23節で、弟子となる者は自分の十字架を背負って、従って来るべきだと仰せになった。初代教会時代、新しく信者になろうとする人々がペトロに「あなたにとっての『自分の十字架』は何ですか?」と質問したなら、恐らく「鶏が鳴く前に三度主を知らないと言ったこと」と答えただろう。

(注)別エントリー「試論:ペトロの生涯を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10550

試論:「わたしが接吻する人だ」を140文字以内で

【問】主はしばしば神殿で御教えを宣べられて都で顔が知られていたのに、なぜユダは「わたしが接吻するのがその人だ」と合図を決めていましたか?
【答】主の逮捕時は敵が松明やともし火を用意していた(ヨハネ18章3節)ほど夜も更けており少し顔を知っている程度では取り違える可能性がありました。

試論:「パウロのキリスト教」?を140文字以内で

【問】新約聖書でパウロの著作の比率が大きいことから「キリスト教はイエスのキリスト教というより、パウロのキリスト教」と語る人がいます。
【答】パウロ自身は一コリント15章3節で、「わたしが伝えたことは、わたし自身も〔教えを〕受けたこと」と述べて自分自身が由来ではないと断言しています。

試論:「罪を自覚していたユダ」を140文字以内で

【問】イスカリオテのユダは主を敵に引き渡しましたが、彼に罪の自覚はありましたか?
【答】マタイ27章3節〜4節「ユダはイエスの死刑判決を知り『わたしは罪のない人の血を売り渡し罪を犯した』と言った」申命記27章25節「賄賂を取って人を撃ち殺し、罪のない人の血を流させる者は呪われる」。

【追記】

主イエスはマタイ10章で十二人をお選びになり、「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いを癒す権能」を授けられた。マルコ3章14節は「十二人」選抜の目的を御自分の傍に置くためと記す。その一人は泥棒(ヨハネ12章6節)となり、銀貨三十枚(マタイ26章15節)で、自分の師を売り渡した。

(注)別エントリー「試論:『預言や奇跡よりも』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16157

(注)別エントリー「試論:『無償で与えなさい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16019

主イエスはマタイ7章22節以下で、預言や奇跡や悪霊を追い出すことよりも、悪を行わないことこそが重要で御自分の弟子である証明だと教えられた。イスカリオテのユダは悪霊を追い出す権能と病気を癒す力を使徒の一人として与えられたが(ルカ9章)、献金を泥棒していたためサタンが彼の中に入った。

(注)別エントリー「試論:『献金泥棒』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11983

【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。

試論:「家も体も自分の住まい」を140文字以内で

聖パウロは二コリント6章16節で、エゼキエル37章27節を引用し、それはイエス・キリストにおいて既に実現したという理解を記す。ヨハネ1章14節の「〔神の〕御言葉は肉(=人間)となられ、わたしたちの間に宿られた」も同様の理解で、ヨハネ福音書では主御自身が随所でそれを仰せになられる。

【追記】

古代のヘブライ人には「家も体も自分にとっての住まい」と考え両者を同一視する観念があった。故にエゼキエル37章27節「わたしの住まいは彼らと共にある。わたしは彼らの神となり彼らはわたしの民となる」とヨハネ1章14節「神の御言葉は人となりわたしたちの間に住まわれた」は同じ事柄である。

モーセはレビ記26章で、イスラエル人が神に忠実であり続ける場合の幸福を説き、11節と12節では主が人々の間に住まわれ、人々の間を巡られると預言した。ヨハネ1章14節は、「神の御言葉」すなわち人々に直接語り掛けられる主イエス・キリストが、「肉」すなわち人間になられたことを説明する。

ヘブライ人は時に人間それ自体を「骨」と呼んだ(箴言14章30節等)。エゼキエル37章も、神の民としてのあるべき姿から道徳的に程遠い有様に成り果てた人々を「枯れた骨」と呼んだ。「わたしの住まいは彼らと共にある」は、「神の御言葉は人となりわたしたちの内に住まわれた」と同じ意味である。

【問】ヨハネ17章12節は「聖書が実現するため」と記しますが、一体何が実現したのですか?【答】エゼキエル37章27節「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」イザヤ66章8節「誰がこのようなことを見聞きしただろうか。一つの国が一日で生まれ、一つの民が一度に生まれようか」。

試論:「カイアファの『預言』」を140文字以内で

ラザロの復活を目撃したユダヤ人の多くはイエスを信じた。大祭司カイアファはユダヤの最高法院で「もしもイエスがダニエル9章の預言のメシアだとしても彼は死ぬ(同章26節)ことになっているのだから、イエスには死んでもらう」と、宣言した。ヨハネ11章51節は、これを「預言」だと記している。

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

【追記】

ヨハネ11章47節以下は最高法院がイエスの死を決めた経緯を記す。「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びずに済む方が皆には好都合」(50節)と大祭司カイアファは預言した。こうして、救い主は贖(あがな)いの業を行うこととなったが、カイアファの悪意が正当化されるわけでは、ない。

主イエスはマタイ7章21節以下で、信仰の目的とは、預言でも「悪霊を追い出すこと」でも奇跡でもなくただ「不法(悪)を行わないこと」であり、御自分が人々を評価するのは唯一そこであると断言された。預言や悪霊を追い出すことや奇跡にばかり目を奪われ過ぎるとイエス・キリストがわからなくなる。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

(注)別エントリー「試論:『信仰』と『預言や奇跡』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/23828

主イエスはルカ19章46節で「あなたたちは神殿を強盗の巣にした」と仰せになった。これは大昔に預言者がエレミヤ7章11節で啓示したことを踏まえているが、預言者は続く12節以下で、かつてのシロの聖所のように、エルサレムの神殿も滅亡すると啓示した。つまり主イエスもそれをほのめかされた。

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

試論:「神殿再建の前段階」を140文字以内で

エズラ3章2節以下「ヨツァダクの子イエシュア及び彼の兄弟の祭司たちは、シャルティエルの子ゼルバベル及び彼の兄弟たちと共にイスラエルの神の祭壇を築き、神の人モーセの律法の記述通り彼らは第七の月の一日に焼き尽くす献げ物をささげ始めたが、主の神殿の基礎は、まだ据えられてはいなかった」。

試論:旧約の民を滅ぼす国の象徴を140文字以内で

申命記28章49節でモーセは、将来イスラエルの民を滅ぼす国民の象徴となる動物を預言した。マタイ24章28節のギリシア語本文も古代のギリシア語訳申命記と同じ単語を用いている。それはローマの国章と同じ動物で、ヨハネ11章48節で「ローマ人」という表現が登場する、根拠の一つでもあった。

(注)別エントリー「試論:『人の子が現れる日』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8454

【追記】

申命記34章10節は、モーセこそが旧約時代で最大の預言者であると記す。モーセはレビ記26章と申命記28章で、どのような場合に古代のイスラエルへ神からの幸福が訪れるのか、またどのような場合に神からの不幸が訪れるのかについて、後世の人々に対する戒めの意味でも詳しい預言を残しておいた。

(注)別エントリー「試論:モーセが預言したキリストを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6497

「終わりの時」の人々の姿

二テモテ3章でパウロは「終わりの時」の人々の姿を記した。自分本位で金銭を愛し、嘘をつき、神を畏れず嘲り、両親に従わず、恩知らずで、他人を侮り、情け容赦なく、強情で、中傷し、節度がなく、残酷で、善を行わず、裏切り、軽率かつ高慢、信仰を装いつつ実際は快楽を愛し、事実上は棄教している。

(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8105

(注)別エントリー「試論:二ペトロ2章の『偽教師』140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10808

一コリント3章11節は「既に据えられているイエス・キリストという土台を無視して他の土台を据えることは、誰にもできない」と記す。二テモテ4章3節以下は、やがて人々が「健全な教え」から離れ、自分に都合のいい話だけ聞いて真理(=主イエス)の言葉を無視し、作り話に引かれて行くと警告した。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:キリスト抜きのキリスト教を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6639

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

一ヨハネ4章は信用してはならない人の特徴を、キリスト教を語っているようで実は世間に通じる話題だけで、主イエスが実際に教えられた福音書の御言葉を回避していることとした。キリストを棚上げしながら福音書以外の聖書の箇所を引用する目的は、キリストの代わりに自分自身が主役になるためである。

(注)別エントリー「試論:『招かれる』『選ばれる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8012

(注)別エントリー「試論:『神は誰を選ばれるのか』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8051

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは「天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神」主イエスを表す称号であり主が直接人々にお話しになった御言葉を記したものが福音書である。福音書を顧みず他のものばかりに目を奪われ続けるならばイエス・キリストがわからなくなる。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

箴言28章9節は、主が教えられた御言葉に耳を傾けないなら、いくら主に祈っても、主のおぼしめしには沿わないと教える。それだと、神を一方的に利用しようとしているだけで、全く信仰の名に値しない。主イエス・キリストが《神の御言葉》である以上、御教えを拒むことは神そのものを拒むのに等しい。

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

(注)別エントリー「試論:『主イエスを見失うこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5954

(注)別エントリー「試論:『主に聞き従うこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5685

マタイ22章14節「招かれる者は多く選ばれる者は少ない」の<選ばれない理由>をイザヤ65章12節は「呼んでも答えず、語りかけても聞かず、わたしの目に悪とされることを行い、わたしの喜ばないことを選んだからである」と記した。「笛を吹いたのに踊ってくれなかった」(マタイ11章17節)。

(注)別エントリー「試論:『神は誰を選ばれるのか』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8051

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

主はヨハネ5章39節で、聖書とは御自分についてあかしするものであり、御自分を目的としない聖書研究には意味がない旨を仰せになった。これに関連し一ヨハネ4章も、主イエスに関する事柄についてなるべく触れようとしない自称信者を「偽預言者」「反キリストの霊」「人を惑わす霊」などと表現する。

(注)別エントリー「試論:『預言を封印するメシア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8347

(注)別エントリー「試論:聖書を研究する意味とは?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19381

ヨハネ5章39節〜40節「あなたたちは〔旧約〕聖書の中に永遠の命があると考えて、〔旧約〕聖書を研究する。しかし、〔旧約〕聖書とは、わたし(=主イエス・キリスト御自身)についての証しをするものである。それなのにあなたたちは〔永遠の〕命を得るためにわたしのところに来ることをしない」。

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の意義を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9840

(注)別エントリー「試論:旧約聖書を調べる意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6950

(注)別エントリー「試論:預言者も見たかったもの?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19262

試論:マタイ7章23節を140文字以内で

【問】主イエスにマタイ7章23節で「わたしから離れよ、不法の者たち。あなたたちのことなど全く知らない」と宣告されるのはどんな人?
【答】この場合「不法」とは、12節のキリストの律法「他の人からしてもらいたいことならなんでも、あなたの方から他の人にしなさい」を黙殺することを指します。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

【追記】

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちは、自分が他の人からしてほしいことを、自分から他の人にしなさい」と《愛の掟》を教えられた。従って「愛の反対」は「他の人からしてほしくないことをあえて他の人に行うこと」そして「他の人からしてほしいことをあえて他の人には行わないこと」からなる。

レビ19章18節は有名な隣人愛の掟を教えるが、その対極の行為として17節は兄弟を心の中で憎むことを禁じる。ゼカリヤ7章10節は互いに災いを心の中で企むこと、8章17節は互いに心の中で悪を企むことを禁じ、相手の困った顔・悲しむ顔・苦しむ顔を見たいという悪意を抱いてはならぬと戒める。

ローマ13章10節でパウロは「愛とは隣人に対して悪事を行わないことです」と断言している。これを踏まえるなら、隣人に対して悪事を行おうと企むことこそが愛の反対に該当する行為ということになる。同9節は「姦淫するな、殺すな、盗むな、貪るな(他人の物の横取りを企むな)」等を列挙している。

ローマ3章28節では「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」と記すが、30節では「神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とされ、割礼のない者をも信仰のゆえに義とされる」と説く。つまり《人が義とされるのは割礼〔の有無〕によるのではなく、信仰による》の意味合いである。

ローマ3章でパウロは、「信仰」「律法」という表現で実際は、

《イエス・キリストを信仰する人々にとっての新しい掟=愛の掟》と、

《イエスを認めぬ人々の古い掟=律法の掟》を比較した。

人間を「義」とするのは《律法の掟》の実行ではなく、信仰に基づく《愛の掟》の実践(ガラテヤ5章6節)による。

(注)別エントリー「試論:『新しい掟』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7016

(注)別エントリー「試論:『永遠の命を得るには?』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11171

マタイ7章23節では主なる神が「不法を働く者たちよ、おまえたちなど知らない」と仰せになると記す。全知全能の神が彼らを知らぬはずはないが、神は知らないとあえて仰せになる。この場合「知らない」は拒絶の意味だが、不法を働く者こそが御教えを「知らない(わからない)」と拒絶した結果である。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

試論:「わたしと御父とは一つ」を140文字以内で

主はヨハネ10章30節で「わたしと父とは一つ」と仰せになった後、17章では弟子たちのために天を仰いで祈られたが、それは御父と御自分が「一つ」であるように、弟子たちもまた「一つ」となるためであった(11節、21節〜23節)。使徒言行録4章32節「信じた人々の群れは心も思いも一つ」。

【追記】

ヨハネ14章8節のフィリポの言葉「主よ、わたしたちに御父をお示しください」に対しコロサイ1章15節では「御子は、見えない神の姿」と表現した。「見えない神」とは御父であり「姿」とは《生き写し(似姿)》というニュアンスも含む。ヘブライ1章3節は「神の本性の完全な具現」などと表現した。

(注)別エントリー「『御父である神』に結ばれていない人々」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17900

一ヨハネ5章は20節で「神の御子が来られ、私たちに真理である方を知る力を与えられました。私たちは真理である方の内に、またその御子イエス・キリストの内にいるのです」と記し、「この方こそ真理である神、永遠の命」と続け、御父と御子と聖霊(6節)の御三方を「真理」と呼び、唯一の神とする。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

主はマタイ11章27節で、全てのことは御父から御自分に任せられていると仰せになった。これは、既にダニエル7章13節以下で啓示された事柄であり、マタイ28章18節やルカ10章22節やヨハネ3章35節や同13章3節等、福音書では事ある毎に強調される「真理(ヨハネ14章6節)」である。

《御父である神、主》と《御子である神、主イエス》とは、詩編110編1節では御父は「主」、御子は「わが主」でありマタイ22章44節で御父は「主」、御子はダビデの言う「わたしの主」である。ヨハネ1章1節では御父は「神」、御子は「言(ことば)」であり、「言は神であった」と記されている。

(注)別エントリー「試論:「わたしの主」は誰?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7536

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

なぜ「御降誕」より「御復活」???

主イエスの御降誕は「肉の体」つまり人間としての誕生だったが、この世に来られた究極の目的が「贖(あがな)い」である以上、「上げられ(十字架上で顕示され)た」後の死と御復活によって悪魔の罪と死の支配を終わらせ人類に永遠の命と「霊の体」を準備して目的を達成したことの方がより重要である。

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11494

(注)別エントリー「試論:真理と贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9081

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

一コリント15章は、

《地上で生きる体》と《永遠の命を得て復活し天の国で生きる体》

とを、

「地上の体」と「天上の体」

「地上の命の体」と「霊の体」

等と表現する。

ガラテヤ5章は人間的な事柄を「肉」、神的な事柄を「霊」と表現し、

コロサイ1章22節「肉の体」とは「人間としての体」の意である。

(注)別エントリー「試論:『肉と霊』の対比を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7740

(注)別エントリー「試論:ガラテヤ5章の『肉と霊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7657

(注)別エントリー「試論:聖書と『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7649

一コリント15章でパウロは「地上の体」「天上の体」という表現を用いて、《人間が地上で生活していた際の、死によって朽ちていく肉体》と《その人の霊が神の許に帰還した後で、神によって天上で新しく与えられる、朽ちることのない体》について説明し、後者を「霊の体」(44節)等と表現している。

主はヨハネ11章25節で御自身を復活と命だと称され、6章63節では命を与えるのは「〔神の〕霊」だと仰せになった。コヘレト12章7節は人間の死でその肉体は塵(土)に還るが、命を与えられたその霊は「与え主」である神の許へと還るとし、一コリント15章44節は「霊の体が復活する」と記す。

主イエスは「わたしは世の光」(ヨハネ8章12節)と仰せになられ、1章4節は「御言葉(人々に語り掛ける神=御子イエス・キリスト)の内に命があり、命は人間を照らす光」と記し、5節では主を「光」と表現する。3章19節で主は「光」と自称され、10章25節では「復活」「命」とも自称された。

(注)別エントリー「試論:『世の光』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5388

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『神よあなたのことばは』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6358

創世記の2章と3章では、人間は「土(塵)」に由来し「土(塵)」に還る存在とする。創世記の記述に基づきヨブ記4章19節は「人は塵の中に基を置く土の家に住む者」と記す。ここでは人間の体を「土の家」と表現し、古代のヘブライ人が「(人間の)体」と「家」とを重ねて考えていたことを示唆する。

(注)別エントリー「試論:『土』と『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9629

上述の通り「『体』と『家』はともに自身にとっての住まい」という古代のヘブライ人の世界観を踏まえ主イエスは、「人となられた神の子である御自身の体」を「神の家=神殿」に重ねて「三日で建て直して見せる」と仰せになった。だがイエスを冒瀆者として葬り去ろうとした当時の人々には通じなかった。

「家と体はともに自身にとっての住まい」として両者を重ねる古代のヘブライ人の世界観を踏まえれば、主がヨハネ14章2節以下で仰せになった「あなたたちのために準備する住む場所」とは、「天から与えられる住みか」(二コリント5章1節)すなわち、「天上の体」(一コリント15章40節)を指す。

(注)別エントリー「試論:『霊の帰還』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8381

イザヤ65章17節以下は主が新しい「天、地、エルサレム」を、新しい「神の民」のために喜びをもって創造されると預言した。ヨハネ14章2節以下「わたしの御父の家には住む場所が豊富にある」「わたしは行って場所を用意し、戻って来てあなたたちを迎える」ガラテヤ4章26節「天のエルサレム」。

(注)別エントリー「試論:『もろもろの天を通過』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13750

ヘブライ5章9節は「キリストが〔御受難を経験された後に〕完全な者になられた」と記す。神でもあり人間でもあるキリストは、神としては天地創造以前から既に当然だが完全な者である。人間としては御受難を経験された後「復活の体(=天上の体、霊の体)」すなわち人間としての完成形へと到達された。

(注)別エントリー「試論:神であり人であるキリストを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6725

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

(注)別エントリー「試論:人間の完成形(最終形態)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15868

(注)別エントリー「試論:預言解釈の基本を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5092

二世紀初めにアンティオキアの聖イグナティウスが記したように初代の信者は、キリストの御復活すなわち「天上の体」(一コリント15章40節)の創造の記念に、週七日の中で祝うべき特別の日を土曜日(ユダヤ教の安息日)から、御復活があった「週の最初の日(安息日の翌日)」日曜日へと置き換えた。

(注)別エントリー「試論:『土曜と日曜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12677

「主の変容」の後、主イエスは「人の子が死者の中から復活するまでは今見たことを誰にも話してはならない」と命じられた。使徒たちは「天上の体」(一コリント15章40節)を目撃したのだが、まず主の御復活前後の実体験を経た上で復活の意義を理解しなければ、「天上の体」の理解もないからである。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888

試論:ヨハネ8章51節を140文字以内で

【問】ヨハネ8章51節「わたしの言葉を守れば決して死ぬことがない」の意味は?
【答】マタイ7章12節のキリストの律法(あなたが他の人にしてもらいたいことを、あなたから他の人にしなさい)を忠実に実行するならマタイ25章の最後の審判で永遠の命にあずかり天国の福楽に達するという意味です。

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11494

【追記】

【問】なぜ主イエスはマルコ3章で奇跡を行われる前に、「命を救うことか、殺すことか」と問いかけられましたか?
【答】申命記30章15節の通り、「命」とは幸福と同義語であり、「死」は災いや不幸と同義語でした。安息日に相応しい行いは隣人を幸福にすることではないかと主は問いかけられました。

(注)別エントリー「試論:神は、生きている者の神?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/22197

【問】マタイ22章32節「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」の意味は?
【答】エレミヤ21章8節の通り、旧約の民にとって神なる主の御意向に従うことは「命の道」、主の御意向に逆らうことは「死の道」で、《神は御自分に逆らう者の神ではなく、御自分に忠実な者の神》という意味です。

エゼキエル18章「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は仰せになる。彼が悪から立ち帰って生きることを喜ばないだろうか。お前たちが犯した全ての背きを投げ捨てて新しい心と霊を造り出せ。どうしてお前たちは死んでよいだろうか。お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」。

(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3277

ルカ19章9節以下「今日、救いがこの家を訪れた。人の子は、失われたものを捜して救うために来た」二ペトロ3章15節「わたしたちの主の忍耐深さを救いと考えなさい」同9節「主は救いの約束を遅らせているのではなく、一人も滅びずに皆が悔い改めるように、あなたたちのために忍耐されています」。

(注)別エントリー「『罪人を招く』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19089

試論:インマヌ・エルを140文字以内で

ヘブライ語マソラ本文のイザヤ7章14節では「インマヌ・エル」と二語で記し、またマタイ1章23節のギリシア語本文とラテン語ヴルガタ訳は「わたしたちとともにおられる神」と表現して、いずれも人名でなく神の称号の一つと解釈する。「神の御言葉」同様、主イエスの本質を象徴する神の称号である。

(注)別エントリー「主イエス・キリストがインマヌエルである理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1338

(注)別エントリー「『マリアの処女懐胎は誤訳に基づく話』説は本当か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1524

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

【追記】

イザヤ63章の通り古代のイスラエルにおいて神と神の民との関係は父と子に喩えられた(8節、16節)。しかし9章5(6)節では、「永遠の父」であるはずの神なる主が一人の「みどりご」「男の子」として到来されると預言され、7章15節では人間の幼児食──凝乳と蜂蜜を食べるとまで預言される。

(注)現代の日本では、1歳未満の乳児に蜂蜜を与えることは食中毒(乳児ボツリヌス症)の危険が高いため禁忌とされており、あくまでも蜂蜜を与えても問題がないのは1歳以上の幼児とされているので、極めて注意が必要である。

旧約の民にとって神なる主は「わたしたちの父」(イザヤ63章16節)だが、救い主(8節)がお生まれになり(9章5(6)節)、民の「永遠の父」である方は「みどりご」として来られた。養父とはいえ人間が「父」となるなどヨセフにとって太陽が西から昇るどころではなかったが彼は責務を全うした。

(注)別エントリー「試論:『神の養父』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13347

ヨハネ1章1節の「言(ことば)」、いわゆる「神の御言葉」とは、《御自分で御言葉をお話しになる神》つまり御子である神、主イエス・キリストを指し、「言(ことば)は神とともにあった」とは、天地創造以前の「初め」から既に御子である神は御父である神とともに存在しておられたということである。

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

イザヤ7章14節で預言されたインマヌエルをヘブライ語マソラ本文は、「インマヌ」と「エル」の間に空白を置き二語で表記し、一語で表記される人名とは明確に区別する。マタイ1章23節のギリシア語本文とラテン語訳も、インマヌエルを「わたしたちと共におられる神」と解釈し、その神性を強調する。

【問】マリアは「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)と呼ばれる女性なのに、なぜ「主のはしため」と謙遜したのですか?
【答】もしも彼女が「自分は救い主の母だから息子と同じ扱いを受けたい」と思い上がったなら、神のようになりたいと思ってサタンにだまされた、エバの二の舞になるからです。

(注)別エントリー「試論:聖母の謙遜の理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21213

聖母は受胎告知の後も「主のはしため」(ルカ1章38節、48節)と自称するほど、へりくだりが第一の特徴であり、聖霊によって神の御独り子を宿される以上、《聖霊の結ぶ実》(ガラテヤ5章22節〜23節)である愛から節制に至る諸徳は、「おめでとう、恵まれた方」と呼ばれるまでに、備えていた。

「神はキリストにおいて、わたしたちをあらゆる霊的な祝福で満たして下さった」とエフェソ1章3節は記す。当然これは聖霊降臨の結果だが、その三十年以上前に、聖霊によって神の御独り子を身籠った(ルカ1章35節)女性だけは、早くも「祝福」(同42節)や「恵み」(同28節)に満たされていた。

(注)別エントリー「試論:『聖寵充ち満てるマリア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8642

(注)別エントリー「試論:マリアの賛歌とへりくだりを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6381

(注)別エントリー「試論:へりくだりと恵みを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5777

ガラテヤ5章では「聖霊の結ぶ実」として神の御独り子の母の内面に関連する《愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制》を説く。他方、コロサイ3章では「礼服」(マタイ22章)という比喩を踏まえ、「義人」ヨセフの「義」に関連する《憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛》を説く。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

(注)別エントリー「試論:マタイ22章『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6740

(注)別エントリー「予備的考察:聖母崇敬そして聖ヨセフ崇敬の起源とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1750

(注)別エントリー「聖家族はどのような雰囲気の中で暮らしていたのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5246

ダビデは神からの霊感を受け詩編15編で、《神の家》で《神の同居家族》となる人々について、「親しき仲にも礼儀あり」という観点で言葉と行いの両面において、(無垢という意味で)完全な神の御目にかなった人々であると表現した。マリアとヨセフはそれに該当しなかったなどと、誰が言えるだろうか?

試論:「信仰」と「預言や奇跡」を140文字以内で

主イエスはマタイ7章21節以下で、信仰の目的とは、預言でも「悪霊を追い出すこと」でも奇跡でもなくただ「不法(悪)を行わないこと」であり、御自分が人々を評価するのは唯一そこであると断言された。預言や悪霊を追い出すことや奇跡にばかり目を奪われ過ぎるとイエス・キリストがわからなくなる。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

(注)別エントリー「試論:『地上に火を投ずる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7803

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

(注)別エントリー「試論:新都エルサレムに住む条件を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11197

試論:「光」は誰に伴うのか??を140文字以内で

主はマタイ5章14節で「あなたがたは世の光」ヨハネ8章12節で「わたしは世の光」「わたしに従う者は暗闇の中を歩まず命の光を持つ」と仰せになった。同1章4節は「御言葉のうちに命があり、命は人間を照らす光」と記す。イザヤ58章6節以下では隣人に心を配り助けを惜しまない人に、光が伴う。

(注)別エントリー「試論:『世の光と一タラントン』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11353

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『わたしは命である』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11586

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章4節『命の光』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7297

(注)別エントリー「試論:『霊魂を注ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13590

【追記】

詩編119編105節に「〔主よ〕あなたのことばはわたしの道の光」とあるが、「ことば」は神の御教えを指すのと同時に、ヨハネ1章1節では人々に御姿をお見せになり御教えを直にお話しになる主イエスの称号でもあり、主は御自分を同14章6節で「道」、同8章12節で「世の光」だと表現なさった。

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

(注)別エントリー「試論:ヨハネ14章6節の『道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9342

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『世の光』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5388

ルカ6章46節「あなたたちはわたしを『主よ、主よ』と呼んでおきながら、なぜわたしが言っていることを、行わないのか?」ヨハネ8章51節「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことはない」ガラテヤ5章6節「キリスト・イエスに結びついているのなら、愛の実践を伴う信仰こそ重要です」。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

マタイ7章21節「わたしに向かって、『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るのではなく、わたしの天の父の御心を行う者だけ入る」ヨハネ13章34節「わたしがあなたがたを愛したように、愛し合いなさい」ガラテヤ5章6節「キリスト・イエスに結ばれているなら、愛の実践を伴う信仰こそ大切」。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:新都エルサレムに住む条件を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11197

「わたしは主のはしため」

聖母は受胎告知の後も「主のはしため」(ルカ1章38節、48節)と自称するほど、へりくだりが第一の特徴であり、聖霊によって神の御独り子を宿される以上、《聖霊の結ぶ実》(ガラテヤ5章22節〜23節)である愛から節制に至る諸徳は、「おめでとう、恵まれた方」と呼ばれるまでに、備えていた。

「神はキリストにおいて、わたしたちをあらゆる霊的な祝福で満たして下さった」とエフェソ1章3節は記す。当然これは聖霊降臨の結果だが、その三十年以上前に、聖霊によって神の御独り子を身籠った(ルカ1章35節)女性だけは、早くも「祝福」(同42節)や「恵み」(同28節)に満たされていた。

(注)別エントリー「試論:『聖寵充ち満てるマリア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8642

(注)別エントリー「試論:マリアの賛歌とへりくだりを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6381

(注)別エントリー「試論:へりくだりと恵みを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5777

ガラテヤ5章では「聖霊の結ぶ実」として神の御独り子の母の内面に関連する《愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制》を説く。他方、コロサイ3章では「礼服」(マタイ22章)という比喩を踏まえ、「義人」ヨセフの「義」に関連する《憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛》を説く。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

(注)別エントリー「試論:マタイ22章『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6740

(注)別エントリー「予備的考察:聖母崇敬そして聖ヨセフ崇敬の起源とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1750

(注)別エントリー「聖家族はどのような雰囲気の中で暮らしていたのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5246

ダビデは神からの霊感を受け詩編15編で、《神の家》で《神の同居家族》となる人々について、「親しき仲にも礼儀あり」という観点で言葉と行いの両面において、(無垢という意味で)完全な神の御目にかなった人々であると表現した。マリアとヨセフはそれに該当しなかったなどと、誰が言えるだろうか?

受胎告知の際マリアは「恵まれた方」と呼ばれたが、テトス2章11節以下では「全ての人に救いをもたらす神の恵みは、不信心と現世的欲望を捨て思慮深く正しく信心深く生きるよう教え、また偉大な神であり救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むよう教えます」と神の恵みに関し説明する。

ヨハネ1章17節は「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」と記すが、二ペトロ1章は神からの恵み(2節)の内容を5節以下で、信仰に始まり徳・知識・自制・忍耐・信心・兄弟愛・愛に至るとして、恵みが加わるほど「情欲に染まったこの世の退廃」(4節)や怠惰(8節)から遠くなると記す。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:真理(まこと)の反対は?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12668

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

神の霊つまり聖霊が人間に賜るものをガラテヤ5章は愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制と説く。主はマタイ6章33節で「神の義」を求めよと仰せになり、同22章でそれを「礼服」にたとえられる。コロサイ3章では、着るべきものとは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛と説く。

受胎告知の際、マリアは「恵まれた方」(新共同訳)と呼ばれたが、「恵まれた」とは《〔神からの〕とめどもない好意を得た》の意味で、古代ギリシア語訳箴言を参照すると、この比類のない《好意》は、彼女の「へりくだり」(箴言3章34節)と「善のみの追求」(同11章27節)に対する恵みである。

もし仮にそれが名もない女性だったとしても、人となられた神のために、ただただ手料理を三十年前後もの間、作り続けた女性がもしも実際に存在したとするならば、その一事のみをもって、その女性は全世界から崇敬を集めるに値する。まして彼女は、裁縫も洗濯も掃除もその他全ての神の家の家事を行った。

(注)別エントリー「試論:『地上の星』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11997

主イエスは福音書で「自ら高ぶる者は低くされ、へりくだり自ら低くなる者は高くされる」と繰り返された。神の御独り子の母に選ばれたにもかかわらず「わたしは主のはしため」と繰り返し実際「人となられた神」に生涯仕え続けた女性が、「神と共に歩んだ」点においてエノクに引けを取るなどありえない。

(注)別エントリー「試論:『謙遜の極み故の被昇天』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11125

【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。

カトリックでは聖母マリアを「無原罪」つまりサタンの悪影響とは全く無縁の女性と教え、少女期の聖母が神殿で十年以上奉献生活を送り教育を受けたと教える。聖母は長年、救い主やあがないについて思い巡らしていた。受胎告知の際の言葉「わたしは主のはしため」は一朝一夕に出て来る類のものではない。

(注)別エントリー「神のお告げ:受胎告知と無原罪の御宿り」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4835

(注)別エントリー「試論:ヤコブ原福音書を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5239

(注)別エントリー「聖書の時代に神殿の処女は存在したのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1539

ヨハネ19章25節には、主イエスの十字架の傍らには聖母マリアの姿があったと記されている。しかし実のところ、主イエスの贖(あがな)いの御業(みわざ)に対する聖母の協力は、生まれる男子が生贄の小羊として屠殺される定めと完全に理解した上で母となることを承諾した日から、既に始まっていた。

(注)別エントリー「『贖(あがな)い』と『救い主の母』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19677

試論:「福音書を避け続ける人」を140文字以内で

主イエスをヨハネ1章1節は「言(ことば)」つまり《人々の前に御姿を現され御自ら御教えをお話しになる神》と呼ぶ。主イエスに従う人々にとって「神の御言葉」とは、まず何より主イエス御自身の仰せである。聖書やキリスト教に関して話題にしても肝心の主イエスの御教えを避ける人々は眉唾物である。

【追記】

一ヨハネ4章は、信者を自称しながら世間の事柄ばかり話題にして主イエスの福音の中身に関して頑に触れようとせず沈黙する人々を、「偽預言者」「反キリストの霊」などと呼ぶ。2章19節は「彼らはわたしたちから去って行った」「元々仲間ではなかった」「仲間ならとどまっていた」とその末路を記す。

(注)別エントリー「試論:『愛している者なら』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9220

(注)別エントリー「試論:『主の御言葉の権威』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9025

二ペトロ2章は「偽教師」への警戒を呼びかける。彼らは「滅びをもたらす異端を持ち込み、主を拒む」(1節)、「欲が深く虚言で人々を食い物にする」(3節)、「厚かましく、わがまま」(10節)「昼間から歓楽にふけるのを愉しみとする」(13節)「無意味な大言壮語」(18節)等の特徴を持つ。

(注)別エントリー「試論:主イエスと旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7462

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4783

(注)別エントリー「試論:神の国の到来と『主の日』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5578

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の意義を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9840

(注)別エントリー「試論:携挙がない理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4703

(注)別エントリー「試論:『携挙』の否定を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6277

(注)別エントリー「試論:有人気球と『空中』の拡大を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10279

一ヨハネ4章2節とヨハネ1章14節を照合すると「惑わす霊」の特徴は、主イエスが公生活中に仰せになった「主の御言葉」の内容(掟や戒め)に頑として触れようとしない点で、キリスト不在のキリスト教と呼ぶべきものへと信仰を換骨奪胎し、信者を福音書の主の御言葉から遠ざけることこそ目的である。

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)である神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8969

主はルカ6章46節で「あなたたちはわたしのことを『主よ、主よ』と呼んでおきながらどうしてわたしの言うことを行わないのか」と仰せになった。さらに次節以下では「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞きながら聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている」とお教えになった。

ダニエル9章24節はメシアに関して預言の時代を封印する存在だと預言し、ルカ21章22節で主イエスは旧約聖書の全預言が(紀元七〇年の)エルサレム滅亡で成就すると仰せになった。故に現代や近未来の国際情勢と旧約聖書の預言は無関係で、関係ありとする強弁は、キリスト教の範疇を逸脱している。

ルカ17章34節から35節で主は「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」と繰り返されたが、では一体どこに「連れて行かれ」るのかを、ルカ21章24節では「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と御説明された。これは大昔モーセがレビ記26章33節以下で預言していた話と同じである。

紀元七〇年のエルサレム滅亡時にローマ軍へ投降したユダヤ人のうち、使徒言行録22章のパウロのようにローマの市民権を持つ者はローマ法の保護下にあるため留め置かれたが、そうでない者は妻子と共に奴隷とされて売り飛ばされた。こうして「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」は現実となった。

プロテスタントの文語訳聖書『改訳 新約聖書』(1917年)はルカ21章23節を「地(ち)には大(おほひ)なる艱難(なやみ)ありて、御怒(みいかり)この民(たみ)に臨(のぞ)み」と訳し、ある人々がいわゆる「大艱難時代」と呼ぶ時期とは実は紀元七〇年の滅亡の前後に他ならないと示唆する。

主はルカ21章23節でエルサレム滅亡とその前後のユダヤの苦難を予告されたが、『改訳 新約聖書』(1917年)では「大なる艱難」と日本語訳する。一世紀後半のユダヤの歴史家ヨセフスの記述通り、紀元六六年の大反乱の勃発から七三年のマサダ陥落までの七年間に、ユダヤは惨劇の連続を経験した。

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

ダニエル9章24節はメシアに関して預言の時代を封印する存在だと預言し、主イエスはルカ21章22節で旧約聖書の全預言が(紀元七〇年の)エルサレム滅亡で成就すると仰せになった。故に現代や近未来の国際情勢と旧約聖書の預言とは無関係で、関係ありとする解釈は主の仰せとは明確に相反している。

(注)別エントリー「試論:神の国の到来と『主の日』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5578

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

「上げる」(=高く掲げて顕示する)

主はヨハネ3章14節で、モーセが荒れ野で「青銅の蛇」(民数記21章8節以下)を上げた(=高く掲げて顕示した)ことに言及された。御自身もやがて十字架上に上げられるが、それは旧約の民が「青銅の蛇」によって命を得たように、御自分の民が永遠の命を得るためである(コロサイ1章20節参照)。

(注)別エントリー「試論:真理と贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9081

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

ヨハネ8章34節「罪を犯す者は、皆、罪の奴隷である」32節「真理はあなた方を自由にする」ヘブライ2章14節〜15節「御自分に委ねられた者たちが人間である以上イエスも同じく人間としての全てを担われたが、死を司る悪魔を御自分の死によって滅ぼし悪魔の罪と死の支配から人々を解放された」。

主はヨハネ8章32節で「真理はあなたたちを自由にする(解放する)」と仰せになった。パウロはヨハネと同じギリシア語を用いて何からの解放か、その答えをローマ6章と同8章で説明した。「罪から解放」(6章18節、22節)、8章2節「罪と死の法則から解放」同21節「滅びへの隷属から解放」。

ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7514

詩編49(48)編8(7)節は、神に対して人間が贖いの業を行うことはできないと記す。とはいえ神の御独り子が自ら人間となられて自分の「からだ」を「身代金」として贖いの業を行われた時の「からだ」は、マリアから受けたものだった。マリアは極めて特別な形でイエスの贖いの業に「参加」をした。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7795

(注)別エントリー「試論:『履物を脱ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8620

【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。

ヨハネ1章29節「世の罪を取り除く神の小羊」の「取り除く」に当たるギリシア語は、一ヨハネ3章5節にも登場し、その前後では隣人愛の実践を奨励するが、同じ表現をエフェソ4章31節も用い、主に応えて信者が取り除くべきものを「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりを全ての悪意と共に」とする。

(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3277

エフェソ4章の後半では、「神にかたどって造られた新しい人」として生きるために、「怒ることはあっても罪を犯してはならない」「日が暮れるまで怒ったままではいけない」「悪い言葉を一切口にしない」「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどの全てを、一切の悪意とともに捨てる」等を勧めている。

(注)別エントリー「試論:一ペトロ2章『乳飲み子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5721

エゼキエル18章「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は仰せになる。彼が悪から立ち帰って生きることを喜ばないだろうか。お前たちが犯し た全ての背きを投げ捨てて新しい心と霊を造り出せ。どうしてお前たちは死んでよいだろうか。お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」。

キリスト教の歴史上「救われる者と救われない者とは神に予め定められている」という主張が存在したが、ならば神はなぜエゼキエル18章32節で「お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」と仰せになったのだろうか。二コリント5章14節「キリストは全ての人のために亡くなられた」。

主イエスはルカ15章7節で「悔い改める必要のない九十九人の義人よりも、悔い改めている一人の罪人のことを天は大いに喜ぶ」と仰せになり、マタイ18章14節ではエゼキエル18章32節「わたしは誰の死も喜ばない」と同様に、天の御父は悪人の滅亡よりも悪人の回心を喜ばれることを再確認された。

(注)別エントリー「試論:『悔い改める一人の罪人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17627

ヨハネ9章31節には「神は罪人の言うことなどお聞きにならないとわたしたちは承知している」という言葉が記されてはいる。罪人が良からぬ企みを実行する前に成功を神に願い求めても、神が聞き入れるわけがないが、罪人が罪人であることを止めて回心したいと神に願う時は、神は喜んで聞き入れられる。

(注)別エントリー「試論:『聞き入れられる願い事』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18477

ルカ23章40節以下で主の隣の十字架につけられた盗賊は最後に神への畏れを知り、自分の今の惨めな境遇は全て自業自得だが神には罪はなく神の御心に適う願いなら聞き入れられると確信し、自分の隣にいるのは神そのものであると信じて直接それを伝えた。彼の信仰告白に主は最大の幸福を御約束された。

(注)別エントリー「『ぶどう園の労働者』実例を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18482

ルカ13章23節は主イエスに救われる者は少ないかを尋ねた人がいたと記す。主は直接の回答をされなかったが、のちに最後の晩餐の夜、ヨハネ14章2節で「わたしの父の家には住む所がたくさんある」と仰せになった。それが答えである。合格者の定員は存在しない。従って、問題は合否の基準と言える。

(注)別エントリー「試論:『合格者数と合否の基準』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8201

ルカ13章23節は救われる者は少ないかという主への質問を記す。主は27節で不義を行う人々は神に拒まれると答えられ、救われるか否かはあくまでも一人一人が主のおぼしめしに沿うか否かであり、救われる者の多い少ないよりそれ以前にまず神の義(マタイ6章33節)を求めて生きるよう勧められた。

主はルカ13章23節で救われる者は少ないかと問われ、27節で不義を行う人々が神に拒まれると答えられた。確かに「合格者数」や「合格率」がどうしても気になってしまうのは仕方ないが、だからといって、合格と不合格を分ける判断の基準に目が行かなくては本末転倒で、基準は聖書に明記されている。

(注)別エントリー「試論:『神のものを神に返す』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18573

イエス・キリストと洗礼者

イエスは公生活の初めから救い主キリストについて宣教なさったが、少し先に洗礼者ヨハネが同じく救い主について宣教していた。ユダヤ人は喜んで二人に耳を傾けたが、二人の決定的な違いは、洗礼者が「自分はそれではない」と主張したのに対して、イエスは「わたしこそがそれだ」と表明された点である。

イザヤ62章5節は「神と神の民」の関係を「花婿と花嫁」の関係にたとえたが、ヨハネ3章29節で洗礼者が「花婿の介添人」を自称する場合、「花婿」が主イエス・キリストであるのは、いうまでもない。洗礼者は、「花婿」と「花嫁」を引き合わせるまでが自分の役割と心得て、30節の言葉を口にした。

【問】マタイ11章で洗礼者が自分の弟子たちを主イエスの許に送った意図とは?
【答】洗礼者は己の使命を「花婿」と「花嫁」を引き合わせることと心得ていましたが、彼の弟子の一部はイエスの活動をライバル視していたため、彼は弟子たちに「しるしを行う方こそ従うべきメシア」と教えようとしました。

イザヤ62章5節はシオンの救いに関する文脈で神と神の民との関係を花婿と花嫁の関係にたとえエレミヤ33章11節はエルサレムの復興を「花婿と花嫁の声が聞こえるようになる」と預言したが、ならば、黙示録18章23節が「花婿と花嫁の声は聞かれない」と啓示した都も、やはり同じ都のはずである。

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

主イエスは使徒をお選びになる際に、既存の教派に属したことのない者か、属したことがあってもその流儀や特色に固執せず頭を切り替えた者を選んだ。例えば、初めこそ洗礼者の弟子だったが、洗礼者の言葉に従って主の弟子となり主に従うことこそが洗礼者にも忠実であることと割り切ったアンデレである。

(注)別エントリー「試論:『履物のひもを解く』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13454

主イエスはマタイ11章14節で、洗礼者ヨハネが預言者マラキのいうエリヤだと教えられたが、ヨハネ1章21節で洗礼者は一度それを否定した。当時の人々は最初にしるしで判断しようとした(マタイ12章38節)が、洗礼者にはエリヤと同じしるしを行う意図はない(ヨハネ10章41節)からである。

(注)別エントリー「試論:『履物を脱ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8620

洗礼者は何のしるしも行わなかった(ヨハネ10章41節)が、主は彼がエリヤだと仰せになった(マタイ11章14節)。洗礼者自身はエリヤであることを否定した(ヨハネ1章21節)が、人々から「天からのしるし」(列王上18章38節、マタイ16章)を求める声が起こらないようにするためだった。

(注)別エントリー「試論:もう一人の『エリヤ』??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10009

マルコ8章11節でファリサイ派の人々は主イエスを試そうと「天からのしるし」を求めたのに対し、主は「なぜ『時代のしるし』を悟ることができないのか」とマタイ16章3節で答えられた。「時代のしるし」とは、預言されていた救い主による癒し(イザヤ35章5節以下)と、主によるその実践である。

主イエスはパンを増やし四千人の群衆に食べ物を与えるという奇跡を行われた。類似の奇跡は列王下4章42節以下で「神の人」預言者エリシャも行っていた。主イエスの神の御独り子たる本領は「生まれつき目が見えなかった人の視力を回復させた」(ヨハネ9章32節、イザヤ35章5節)時に発揮された。

(注)別エントリー「試論:『救い主の識別』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13316

ルカ2章11節は「あなたたちのために救い主がお生まれになった」マタイ1章21節は「この子は自分の民を罪から救う」と記す。イザヤ35節4節以下は「敵(サタン)を撃ち悪を罰する神が来られ、あなたたちを救われる」と預言し、目や耳や足や言葉の不自由な人々の回復が神の到来の徴になると続く。

四福音書は主イエス・キリストによる病人の奇跡的な癒しをさまざまに記すが、理由はイザヤ35章4節以下で救い主の到来が預言されている通り、見分ける徴は目や耳や手足や言葉の不自由な人の奇跡的な治癒(6節。またヨハネ9章32節参照)であることが、既に数百年前から預言されていたからである。

主イエスはヨハネ5章39節で「あなた方は〔旧約〕聖書中に永遠の命が存在すると考え〔旧約〕聖書を研究するが、〔旧約〕聖書はわたしに関してあかししている」と仰せになり、御自分とは無関係の目的で〔旧約〕聖書を研究しても、本当に重要な真理には全く到達することができないと、お教えになった。

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

(注)別エントリー「試論:聖書研究の目的を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8447

試論:ヨハネ8章21節を140文字以内で

主イエスはヨハネ8章21節で、「あなたたちはわたしを捜すだろうが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」と仰せになった。これは箴言1章28節以下「わたしの勧めに彼らは従わず、主を知ることを選ばなかった。彼らがわたしを呼んでも答えず、捜し求めても見つからない」への言及である。

【追記】

主イエスはヨハネ8章21節で「わたしの行く所にはあなたたちは来ることができない」と仰せになった。最後の晩餐の夜、ヨハネ13章33節以下で主はこの言葉と共に次のように教えられた。「わたしが愛したように互いに愛し合いなさい。そうすれば皆はあなたたちがわたしの弟子であることを認める」。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

試論:「これからは罪を犯すな」を140文字以内で

主イエスはヨハネ8章11節では「姦通の女」に「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい」マタイ9章13節では「わたしが来たのは罪人を招くため」と仰せになり、敵から「徴税人や罪人の仲間」と揶揄されたが、基本的な姿勢は《罪を憎んで人を憎まず》で、ただ闇雲に罪に対し寛容なわけではない。

試論:「姦通の女」を140文字以内で

主イエスはヨハネ8章11節で「姦通の女」に「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい」と仰せになり、寛大さをお示しになった。しかしその後に「これからはもう罪を犯してはならない」と続けることによって、《罪人のことを拒絶はしないが、罪に対しては断固として拒絶する》姿勢を明確にされた。

試論:「ラザロの年齢」を140文字以内で

民数記4章は「三十歳以上五十歳以下」と繰り返して、古代のイスラエルではこの年代を働き盛りと考えていたと示唆し、ヨハネ11章ではマルタ(21節)とマリア(32節)またユダヤ人たち(37節)まで口々にラザロの死を悔やみ、天寿を全うしたと言える年齢に彼が達していなかったことを暗示する。

(注)別エントリー「試論:『ラザロの死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17987

試論:ローマ8章8節を140文字以内で

【問】ローマ8章8節「肉の支配下にある者のことを、神が喜ばれるはずがない」の意味とは?
【答】ヨハネ3章と同じく、パウロは人間由来の事柄を「肉」、神に由来する事柄を「霊」と呼びます。創世記6章12節で「肉なる者」と日本語訳されるヘブライ語本文の語は「肉」で、これは人間を意味します。

【追記】

ローマ8章6節の直訳は「肉の思いは死、霊の思いは命と平和」。ヘブライ人は人間由来の事柄を「肉」、神に由来する事柄を「霊」と呼び、あらゆる幸福を「命」あるいは「平和」と総称した。この節は「人間由来の願望は死で終わるが、神に由来する願望は人間をあらゆる幸福へと導く」という意味である。

主イエスはルカ12章15節で、どのような種類の貪欲に対しても十分に目を光らせ、心を奪われてはならないと警告された。同16章13節「あなたたちは、神と富のどちらか一方にしか仕えることができない」マタイ13章22節「茨の間に落ちた種とは、御言葉を聞いても世の思い煩いや富の誘惑が〜」。

(注)別エントリー「試論:『あらゆる貪欲に対して』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18049

古代のヘブライ人の世界観に従ってガラテヤ5章は「人間(人間それ自体)」を「肉」、「神〔に由来するもの〕」を「霊」と呼ぶ。ヨハネ3章6節も同様の対比を用い、「霊から生まれた者は霊」の意味を1章12節は「神の御言葉である主イエスは自分を受け入れる人に神の子となる資格を与えた」と記す。

ガラテヤ5章は「肉」と「霊」の対立を記すが、ヨハネ3章同様、パウロは古代のヘブライの世界観に基づき、人間そのものを「肉」と表現して「霊」つまり「神の霊」と対比する。近代人は「肉と霊」という表現から「〔人間の〕肉体と〔人間の〕霊魂の対立」をイメージしがちだが、パウロの意図は異なる。

ガラテヤ5章16節以下では「肉と霊」が対比されるが、ここで「肉」はヨハネ1章14節同様「人間」を指し、「霊」は「聖霊」「神の霊」を意味する。ガラテヤ5章における「肉」と「霊」との対立とは、「人間に由来する諸悪」(マルコ7章20節以下参照)と「神に由来する諸徳」との対立を意味する。

古代のヘブライ人は「肉」を、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけではなく魂も含めた人間の全体。)」を表す言葉として用いていた。創世記6章12節「すべて肉なる者は堕落の道を歩んでいた」(新共同訳)。日本語訳の「肉なる者」に対応する語は、ヘブライ語本文ではただ単に「肉」である。

古代のイスラエル人にとって「肉」という表現は「人間」を指す場合があった(ヨハネ1章14節等)。マルコ7章20節以下で主イエスが「人から出て来るものこそ人を汚す」と注意を促された諸悪と、ガラテヤ5章19節以下でパウロが「肉の業」と呼んで避けるように促した諸悪が同様なのは当然である。

コヘレト12章7節では人間の肉体を「塵」と表現し死によって大地(創世記2章7節、3章19節)へ帰ると記すが、洗礼により「神の子とする霊」 (ローマ8章15節)を受けた者の「霊」は対照的に、罪に脆い肉体の重荷から解放され「霊」をくださった「与え主」神の許へ帰るべきだと定められている。

(注)別エントリー「試論:『土の家』(+復活の体)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9624

一コリント15章でパウロは「地上の体」「天上の体」という表現を用いて、《人間が地上で生活していた際の、死によって朽ちていく肉体》と《その人 の霊が神の許に帰還した後で、神によって天上で新しく与えられる、朽ちることのない体》について説明し、後者を「霊の体」(44節)等と表現している。

試論:ファリサイ派と復活の教えを140文字以内で

【問】使徒言行録23章8節は復活をサドカイ派は認めずファリサイ派は認めると記します。後者の認識は何に由来しますか?
【答】イザヤ25章8節は神なる主の御力は死にも打ち勝ち、同26章19節では主が準備されている復活の体を同章18節の人間の出産による体と比ベてはるかに勝ると預言します。

【追記】

主イエスの敵としてサドカイ派とファリサイ派の名が福音書に登場するが、使徒言行録23章8節の通り、前者は復活を認めず、後者は復活を認めていた。ヨハネ11章のラザロの復活の場面を目の当たりにしたファリサイ派の人々の一部は、もうイエスを否定できないと判断した(マルコ12章28節以下)。

主イエスはヨハネ12章23節以下で御自分の十字架の死により悪魔の罪と死の支配を終わらせる(ヘブライ2章14節以下参照)と宣言された。それはイザヤ25章8節の預言の成就だがイザヤのその節の前後は、成就の地エルサレムを「この山」と呼ぶ。ダニエル書9章16節「聖なる山」とも同じである。

(注)別エントリー「試論:御受難と『永遠の命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9460

ヨハネ20章9節では、〔旧約〕聖書がイエスの復活を語っていると記す。

イザヤ25章は、

「この方こそ、わたしたちを救ってくださる、わたしたちが待ち望んでいた神」(9節)

と呼ばれる方が、

「この山」(7節)

と呼ばれる場所において、

「死を永久に滅ぼしてくださる」(8節)

ことを預言している。

主はヨハネ11章25節で御自身を復活と命だと称され、6章63節では命を与えるのは「〔神の〕霊」だと仰せになった。コヘレト12章7節は人間の死でその肉体は塵(土)に還るが、命を与えられたその霊は「与え主」である神の許へと還るとし、一コリント15章44節は「霊の体が復活する」と記す。

【問】福音書で「洗礼者の死」の箇所等を読むと、洗礼者が生き返った存在がイエスだとヘロデは思ったようで民衆の一部も同意見でした。どういうこと?
【答】「死者の復活」について、当時のユダヤ人の間に様々の〔間違った〕認識が存在したことを示唆しています。コヘレト12章7節が正しい答えです。

(注)別エントリー「試論:人間の完成形(最終形態)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15868

ヘブライ5章9節は「キリストが〔御受難を経験された後に〕完全な者になられた」と記す。神でもあり人間でもあるキリストは、神としては天地創造以前から既に当然だが完全な者である。人間としては御受難を経験された後「復活の体(=天上の体、霊の体)」すなわち人間としての完成形へと到達された。

(注)別エントリー「試論:神であり人であるキリストを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6725

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

試論:「復活と命」の「命」を140文字以内で

申命記30章15節には「わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く」とある。この章で「命」は、「祝福」(1節)「幸い」(5節)「恵み」「実り」「繁栄」「喜び」(9節)等の総称で、20節は「あなたの神、主を愛し、御声を聞き、付き従いなさい。それこそあなたの命である」と説く。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『命の木』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11236

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章4節『命の光』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7297

(注)別エントリー「試論:『永遠の命の言葉を持つ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11244

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『御言葉によって生きる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11157

(注)別エントリー「試論:ローマ8章6節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11523

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

試論:「復活と命」を140文字以内で

主はヨハネ11章25節で御自身を復活と命だと称され、6章63節では命を与えるのは「〔神の〕霊」だと仰せになった。コヘレト12章7節は人間の死でその肉体は塵(土)に還るが、命を与えられたその霊は「与え主」である神の許へと還るとし、一コリント15章44節は「霊の体が復活する」と記す。

(注)別エントリー「試論:御復活と『光』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6482

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

【追記】

一コリント15章でパウロは「地上の体」「天上の体」という表現を用いて、《人間が地上で生活していた際の、死によって朽ちていく肉体》と《その人の霊が神の許に帰還した後で、神によって天上で新しく与えられる、朽ちることのない体》について説明し、後者を「霊の体」(44節)等と表現している。

(注)別エントリー「試論:『霊の帰還』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8381

「真理」に偽りはない

主イエスに関してヨハネ福音書は「真理」を事ある毎に強調しイエスに偽りはなかったと説く。裏を返せばイエスの敵たちがイエスに難癖を付けるためなら偽りの告発を平然と行って恥じなかったことをも記している。「ガリラヤからは預言者は出ない」という難癖もヨナという先例がいる以上は虚偽であった。

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

ヨハネ7章52節に「ガリラヤからは預言者は出ない」という敵たちの難癖がある。彼らの発言は誤りで、預言者ヨナの出身地は列王下14章25節にガト・へフェルと記される。ヨシュア19章13節ではガト・へフェルはゼブルン族の領土で、そこはイザヤ8章23節の通り福音書の時代のガリラヤである。

(注)別エントリー「試論:『ガリラヤからの預言者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15449

詩編12(11)編においてダビデは、隣人に嘘をついたり隣人を早口で欺いたり言行不一致状態だったりする人々ばかりの風潮を、「信仰のある人は消え去りました」(12編2節、新共同訳)と表す。ここで「信仰」と訳されるヘブライ語を、古代のギリシア語訳聖書はアレテイア(真理、まこと)と訳す。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

ヨハネ福音書は「信仰」を表現する際、他の福音書が用いるピスティスという語を用いず代わりにアレテイア(真理、まこと)という語を多用する。ヨハネにとって信仰とは、人の真心に対し真心で応じられる神なる主に向かって嘘偽りや裏表のない態度で接することに他ならず、これは当時の共通認識だった。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書のアレテイアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15430

主イエスはヨハネ14章6節で「真理」を自称されたが、プロテスタントの「改訳 新約聖書』(1917年)は「まこと」と平仮名を振り、旧約聖書で「まこと」と訳される語との関連を示唆する。嘘偽りや裏表がないこと、上っ面だけでなく内実を伴うこと、真心には真心で返されること等を意味している。

(注)別エントリー「試論:まこと(真、実、信、誠)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16274

ヨハネ福音書は「永遠の命」「信じる」を多用する。ただし「何をすれば永遠の命を得られるか」の具体例はマタイ25章「最後の審判」とルカ10章「善きサマリア人の話」の箇所にあり、ルカ10章27節で主イエスは、「信じる」こととは「心・精神・力・思いを尽くし愛する」ことだとお教えになった。

主イエスはヨハネ14章6節で「真理」を自称されたが、プロテスタントの『改訳 新約聖書』(1917年)は、そこに「まこと」と平仮名を振り旧約聖書で「まこと」と訳される語との関連を示す。真理というと哲学的で近寄り難い印象を受けるが、主に帰せられる実際の諸徳は「真、実、信、誠」である。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書の『信じる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16417

試論:たとえ聖書を引用しても?を140文字以内で

主イエスが悪魔による誘惑を受けられた際、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせ、詩編91編11節から12節を引用して、主イエスを挑発した。たとえ聖書の一節を引用して大見得を切っても、神の御旨とは全く相反する意図に基づくなら百害あって一利なく、冒涜に過ぎない。

試論:ヨハネ7章28節を140文字以内で

主イエスは「わたしをお遣わしになったのは真理である方(=御父である神)だが、あなたたちはその方を知らない」と仰せになったが、ダニエル7章13節は《御父である神》を「日の老いたる者」、《御子である神》を「『人の子』のような者」と呼び、《人となられた神の御子》は「人の子」を称された。

【追記】

ヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」の意味を使徒言行録4章32節は「心も思いも一つ」「持ち物を自分だけのものと主張せず共有している」と説明する。従って、御父の持ち物は御子の持ち物でもあり逆もまた然りである。ヨハネ10章38節「わたしは父の内にあり、父はわたしの内におられる」。

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

ヨハネ1章1節の「言(ことば)」、いわゆる「神の御言葉」とは、「御自分で御言葉をお話しになる神」すなわち御子である神、主イエス・キリストを意味する。「言(ことば)は神とともにあった」とは、天地創造以前の初めから、御子である神は御父である神とともに存在しておられたということである。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

エゼキエルやダニエルが「人の子よ」と呼びかけられる時「人の子」は「人間(人類の一員)」という一般的な意味である。《人となられた神》が自称される時だけ「人の子」は神の称号としての意味を持つ。マタイ12章では「人の子」は主の人間としての側面を指し、「聖霊《神の霊》」の比較対象である。

ダニエル7章は、天において《御父である神》が《御子である神》に全権を委任する光景(13節〜14節)を啓示する。このことを主イエスは四福音書の随所で繰り返し強調され(マタイ11章27節、同28章18節、ルカ10章22節、ヨハネ3章35節、同13章3節等)、「真理」とお呼びになった。

(注)別エントリー「試論:『御父と御子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7544

(注)別エントリー「イエス・キリストと天の雲」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/684

試論:「義人の住まい」を140文字以内で

【問】主の養父ヨセフの生涯がカトリックの教えの通りだとして、彼は幸福でしたか?
【答】マタイ1章19節は彼をディカイオスと呼びますが、古代ギリシア語箴言3章33節は主がディカイオスの住まいを祝福されると記します。ベツレヘムでもエジプトでもナザレでも妻子と共にいる限り彼は幸福でした。

試論:「義人ヨセフの信仰」を140文字以内で

主イエスはヨハネ4章で御自分を生きた水の源に喩えられ、これはエレミヤ17章12節の預言とも符合し、同章は主に信頼する人を水に根を張った木に喩える(7節以下)。ヨブ29章19節も御教えに根ざす信仰の堅固さや持続性を表し、古代ギリシア語箴言12章3節も義人の根は揺るぎないことを記す。

「主の養父」聖ヨセフの現代性

マタイ1章19節は主の養父ヨセフを義人と呼び、エゼキエル18章6節では義人の条件の一つに生理中の女性に近づかないと挙げる。女性特有の心身の辛さに配慮し、女性に余分な負担を加えぬよう自分を律することができる男性こそ義人である。女性を蔑まずリスペクトの対象にできる男性こそ義人である。

(注)別エントリー「試論:マリアとヨセフに倣う事柄を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7012

いつか遠くない近未来の世界で、人類は善悪の判断すら人工知能に依存するようになり、「自分が他の人からしてもらいたいことならなんでも、あなたから他の人にしなさい」と聞かされても全く理解不能になり、成人男性が妻や子供を平然と虐待する時代が来た時、ヨセフの存在に人々は希望を見出すだろう。

(注)別エントリー「試論:聖ヨセフの模範を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7243

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

カトリックではナザレの聖家族は三人と教える。主の養父ヨセフは終生、息子と妻の望むことだけを行い、三人家族の三番目であるかのように振舞い後世の人々からもそう思われた。世の男性たちが子供たちや女性たちを平然と虐待する、毒々しい時代が来る時、ヨセフの存在は強力な解毒剤として働くだろう。

(注)別エントリー「聖ヨセフ:ディカイオスを旧約聖書で考察」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1613

マタイ1章19節は主の養父ヨセフを「正しい人(ディカイオス)」と表現する。25章の「最後の審判」におけるディカイオスは、隣人が何らかの助けを必要としている時に、必要とされている助けを提供して困り事を解決する人を指し、ヨセフはイエスとマリアが本当に必要としていることだけを実行した。

(注)別エントリー「予備的考察:聖母崇敬そして聖ヨセフ崇敬の起源とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1750

マタイ福音書は後世への教訓に、最初の二つの章で主の養父ヨセフを模範として掲載した。ヨセフは忍耐強く、情け深く、自慢せず、高ぶらず、礼を失わず、自分の利益を求めず、恨みを抱かず、苛立たず、不義を喜ばず、真理を喜んだ。イエスとマリアのために、全てのことを忍び、確信し、待望し、耐えた。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

試論:「不条理と義人」を140文字以内で

マタイ1章19節は、婚約者の妊娠がヨセフにとって一目瞭然で疑いようのない事実だった一方、ヨセフにとって婚約者の貞潔もまた一目瞭然で疑いようのない事実であり、ヨセフは大混乱の中にあったがそれでも「婚約者が裏切った証拠は全くなく、彼女を告発するわけにはいかない」と決意したことを記す。

【追記】

レビ5章1節は、ある人が罪を犯したことは確実という証拠を持っていながら、その人のことを表ざたにしないなら、表ざたにしない者も罰を受けると記す。もしも婚約者が自分を裏切ったという確証を持っていながら、それでもヨセフが婚約者のことを表ざたにしなかったなら、ヨセフは義人ではあり得ない。

マタイ1章20節の本文は、婚約者の妊娠を知ったヨセフの心情をエントゥメオマイと表現する。通常この語は熟考・熟慮を表し内面の怒りや憤慨を表す可能性も含むが、ヘロデの激昂を表す2章の語トゥモオーと違い、あくまでも本人の内面に留まるもので婚約者に感情を直接ぶつけた可能性は否定的である。

(注)別エントリー「婚約者の妊娠を知った時のヨセフの心情」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3092

詩編15編3節は、神なる主と同じ住まいで暮らす人の条件として、周囲に対して中傷をせず、害を及ぼさず、小馬鹿にした態度を取らないことを挙げ、また2節では完全(=無垢)で、義を行うことを挙げる。主イエスの同居家族として、ヨセフが幼子や幼子の母を困らせる行動に出た可能性は皆無と言える。

試論:創世記と福音書の「義人」を140文字以内で

マタイ1章19節はヨセフをディカイオスと表現する。古代のギリシア語創世記6章9節はノアをディカイオスと記し同章はノアのディカイオスたるゆえんを説く。《主の仰せをすべて実行に移し達成するほど主に従い、無垢で非の打ち所がない》という点で同時代においてはるかに抜きん出た人のことである。

(注)別エントリー「試論:神の子と人の娘の結婚??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14394

(注)別エントリー「神の子らは人の娘たちを【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8636

試論:レビ19章14節を140文字以内で

主イエスは隣人愛の掟を、最も重要な掟の第二と呼ばれた。レビ19章14節と申命記27章18節では、耳や目の不自由な人や道に迷って困っている人を笑い者にするなと教え、意図的に相手を困らせたり苦しめたり悲しませたりしようとする悪意を放棄するよう命じ、それは隣人愛の対極にあると例示した。

(注)別エントリー「試論:『理由のない憎しみ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6468

【追記】

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

試論:再確認「キリストの律法」を140文字以内で

【問】パウロは二か所(一コリント9章21節、ガラテヤ6章2節)で「キリストの律法」と表現していますが、何のこと?
【答】マタイ7章12節「あなたが他の人からしてもらいたいことならなんでも、あなたの方から他の人にしなさい。これこそ律法〔の教え〕であり預言者〔たちの教え〕」のことです。

試論:「分別を失わぬ義人たち」を140文字以内で

カトリックでは、主の御降誕後のマリアとヨセフの終生童貞を教える。トビト8章7節には「情欲に駆られてではなく、主の御旨に従う」という観念が記され、また創世記39章のヨセフとルツ3章のボアズは共に、主の御降誕よりさらに一千年以上も昔でも、女性に対し分別を失わぬ義人たちの存在を物語る。

(注)別エントリー「試論:ヨセフの終生童貞を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21107

【追記】

古代のイスラエルにおける第一の掟は、「あなたは心・精神・思い・力を尽くして、あなたの神である主を愛さなければならない」(マルコ12章30節、申命記6章5節)。この掟に鑑みて養父ヨセフは、自分自身と妻マリアから幼子イエスを愛する機会を片時でも奪う可能性のある行為を、永久に断念した。

(注)別エントリー「聖母と聖ヨセフが終生童貞である理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4464

カトリックで聖母を指す表現「天の門」は、聖書では創世記28章17節にのみ登場し、同節は主がおられた場所を「なんと畏れ多い場所」「天の門」と呼ぶ。主を宿した「胎」(ルカ11章27節)であるマリアを、同様に《なんと畏れ多い女性》と感じるのは、古代のイスラエル人の感覚として当然である。

(注)別エントリー「試論:ルカ11章28節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5786

マタイ福音書のギリシア語本文はヨセフをディカイオス(1章19節)と呼ぶが、ディカイオスは最後の審判で天国の福楽を確約されている人(25章37節)を意味し、ヨセフがもともと天の国にいてもおかしくないほどに無垢な(創世記6章9節)底抜けの大善人で天使のような人であったことを示唆する。

(注)別エントリー「試論:聖ヨセフと天使を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19238

試論:「神の義」具体的には何?を140文字以内で

【問】主イエスはマタイ6章33節で「なによりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と仰せになったけれど、「神の義」って具体的に何?
【答】7章12節「あなたが他の人からしてもらいたいことならなんでも、あなたの方から他の人にしなさい。これこそ律法〔の教え〕であり預言者〔たちの教え〕」。

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4544

試論:ヨハネ5章24節を140文字以内で

主イエスはヨハネ5章24節で「わたしの言葉を聞いてわたしをお遣わしになった方を信じる者は死から命へと移り、裁かれることなく永遠の命に入る」と説かれた。では具体的にどうすれば永遠の命を受け継ぐことができるのか、それを質問した一人の律法学者の問いから「善きサマリア人」の話が始まった。

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4544

【追記】

ルカ19章8節でザアカイは主に「わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また何かを誰かからだまし取っていたなら四倍にして返します」と約束した。マタイ5章7節の「憐れみ深い人は幸いである。その人は憐れみを受ける」という御言葉の通り、主は「今日この家に救いが訪れた」と宣言なさった。

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346

試論:「聖霊不在の徴」を140文字以内で

イザヤ11章では聖霊の賜物として知恵・識別・思慮を挙げ、またガラテヤ5章23節では節制を挙げる。従って例えば詐欺に引っ掛かったり、貴重品を紛失したり、交通事故を起こしたり警察に違反を指摘されたり、多くの飲食物への執着を断ち切れないならば、常識的に判断して聖霊の介在は否定的である。

(注)別エントリー「一コリント14章:聖霊か、そうではないのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/23650

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを確実に識別できる基準」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4564

エフェソ1章3節「霊的な祝福」

「神はキリストにおいて、わたしたちをあらゆる霊的な祝福で満たして下さった」とエフェソ1章3節は記す。当然これは聖霊降臨の結果だが、その三十年以上前に、聖霊によって神の御独り子を身籠った(ルカ1章35節)女性だけは、早くも「祝福」(同42節)や「恵み」(同28節)に満たされていた。

(注)別エントリー「試論:『聖寵充ち満てるマリア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8642

(注)別エントリー「試論:マリアの賛歌とへりくだりを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6381

(注)別エントリー「試論:へりくだりと恵みを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5777

ガラテヤ5章では「聖霊の結ぶ実」として神の御独り子の母の内面に関連する《愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制》を説く。他方、コロサイ3章では「礼服」(マタイ22章)という比喩を踏まえ、「義人」ヨセフの「義」に関連する《憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛》を説く。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

(注)別エントリー「試論:マタイ22章『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6740

(注)別エントリー「予備的考察:聖母崇敬そして聖ヨセフ崇敬の起源とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1750

(注)別エントリー「聖家族はどのような雰囲気の中で暮らしていたのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5246

ダビデは神からの霊感を受け詩編15編で、《神の家》で《神の同居家族》となる人々について、「親しき仲にも礼儀あり」という観点で言葉と行いの両面において、(無垢という意味で)完全な神の御目にかなった人々であると表現した。マリアとヨセフはそれに該当しなかったなどと、誰が言えるだろうか?

受胎告知の際マリアは「恵まれた方」と呼ばれたが、テトス2章11節以下では「全ての人に救いをもたらす神の恵みは、不信心と現世的欲望を捨て思慮深く正しく信心深く生きるよう教え、また偉大な神であり救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むよう教えます」と神の恵みに関し説明する。

ヨハネ1章17節は「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」と記すが、二ペトロ1章は神からの恵み(2節)の内容を5節以下で、信仰に始まり徳・知識・自制・忍耐・信心・兄弟愛・愛に至るとして、恵みが加わるほど「情欲に染まったこの世の退廃」(4節)や怠惰(8節)から遠くなると記す。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:真理(まこと)の反対は?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12668

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

聖母は受胎告知の後も「主のはしため」(ルカ1章38節、48節)と自称するほど、へりくだりが第一の特徴であり、聖霊によって神の御独り子を宿される以上、《聖霊の結ぶ実》(ガラテヤ5章22節〜23節)である愛から節制に至る諸徳は、「おめでとう、恵まれた方」と呼ばれるまでに、備えていた。

神の霊つまり聖霊が人間に賜るものをガラテヤ5章は愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制と説く。主はマタイ6章33節で「神の義」を求めよと仰せになり、同22章でそれを「礼服」にたとえられる。コロサイ3章では、着るべきものとは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛と説く。

受胎告知の際、マリアは「恵まれた方」(新共同訳)と呼ばれたが、「恵まれた」とは《〔神からの〕とめどもない好意を得た》の意味で、古代ギリシア語訳箴言を参照すると、この比類のない《好意》は、彼女の「へりくだり」(箴言3章34節)と「善のみの追求」(同11章27節)に対する恵みである。

もし仮にそれが名もない女性だったとしても、人となられた神のために、ただただ手料理を三十年前後もの間、作り続けた女性がもしも実際に存在したとするならば、その一事のみをもって、その女性は全世界から崇敬を集めるに値する。まして彼女は、裁縫も洗濯も掃除もその他全ての神の家の家事を行った。

(注)別エントリー「試論:『地上の星』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11997

主イエスは福音書で「自ら高ぶる者は低くされ、へりくだり自ら低くなる者は高くされる」と繰り返された。神の御独り子の母に選ばれたにもかかわらず「わたしは主のはしため」と繰り返し実際「人となられた神」に生涯仕え続けた女性が、「神と共に歩んだ」点においてエノクに引けを取るなどありえない。

(注)別エントリー「試論:『謙遜の極み故の被昇天』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11125

【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。

カトリックでは聖母マリアを「無原罪」つまりサタンの悪影響とは全く無縁の女性と教え、少女期の聖母が神殿で十年以上奉献生活を送り教育を受けたと教える。聖母は長年、救い主やあがないについて思い巡らしていた。受胎告知の際の言葉「わたしは主のはしため」は一朝一夕に出て来る類のものではない。

(注)別エントリー「神のお告げ:受胎告知と無原罪の御宿り」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4835

(注)別エントリー「試論:ヤコブ原福音書を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5239

(注)別エントリー「聖書の時代に神殿の処女は存在したのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1539

ヨハネ19章25節には、主イエスの十字架の傍らには聖母マリアの姿があったと記されている。しかし実のところ、主イエスの贖(あがな)いの御業(みわざ)に対する聖母の協力は、生まれる男子が生贄の小羊として屠殺される定めと完全に理解した上で母となることを承諾した日から、既に始まっていた。

(注)別エントリー「『贖(あがな)い』と『救い主の母』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19677

「平和の君」

主イエスはルカ10章で、御自分の教えを受け容れることになる人々を「平和の子」とお呼びになった。イザヤ9章5(6)節ではメシアの称号の一つを「平和の君」と啓示し、またパウロはフィリピ4章9節で自分たちの神を「平和の神」と呼ぶが、ヘブライ人にとって「平和」は全ての幸福の総称でもある。

マタイ10章34節「わたしが来たのは平和をもたらすためだと思ってはならない」。この言葉の真意を三十数年前シメオンから聖母は預言されていた(ルカ2章34節)。「この子はイスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするしるしとして、また反対を受けるしるしとして、定められています」。

(注)別エントリー「試論:母マリアと『剣』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7974

主イエスは御復活の後、弟子たち(使徒たち)に初めて現われた際「あなたがたに平和があるように」と仰せになった。古代のヘブライ人にとって「平和」は全ての幸福の総称である。挨拶として長い形式ではサムエル上25章6節「あなたに平和、あなたの家に平和、あなたのもの全てに平和があるように」。

主イエスはマタイ9章で慢性出血の女性を治癒されたが「あなたの信仰があなたを救った」の後にマルコ5章34節では「安心して行きなさい」と続ける。これは《平和のうちに出発しなさい》というヘブライ人の別れの挨拶(サムエル上1章17節)で《あなたの願いは既に聞き入れられた》を示唆している。

古代のヘブライ人にとって「平和」はあらゆる幸福の総称であり、「あなたに平和」はヘブライ人の挨拶の決まり文句だった。ルカ10章5節「この家に平和があるように」は、より長い形の挨拶(サムエル上25章6節)である。ヘブライ人は「平和に属する者」を言い表したい時に「平和の子」と表現した。

(注)別エントリー「神の子らは人の娘たちを【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8636

主イエスはマルコ5章で、「十二年間も出血の止まらなかった女性」を癒された後、彼女に「安心して行きなさい」と仰せになった。これは列王記下5章19節等に登場する常套句で、ヘブライ語では全ての幸福の総称である「平和」という単語を含み「これからは幸せに暮らしなさい」を意味する表現である。

マタイ5章9節「平和を実現する人」の「平和」とは、福音書の時代の人々にとっては単に戦争のない(終わった)状態を意味する以外に個々の健康や幸福・繁栄、人間関係の協調・一致や発展、社会や国家の安寧、暴動や反乱のない状態、心の(霊的な)安定など、物事が好転している状況の総称でもあった。

ルカ2章14節「地には平和」の「平和」は、福音書の時代のヘブライ人にとって単に戦争のない(終わった)状態を意味する以外にも、個々の健康や幸福・繁栄、人間関係の協調・一致や発展、社会や国家の安寧、暴動や反乱のない状態、心の(霊的な)安定など、物事が好転している状況の総称でもあった。

主はヨハネ14章27節で「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と仰せになった。ではどうやって主は御自分の平和をお与えになったのか、パウロがコロサイ1章20節で「その十字架の血によって」と答えを記した。

(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7479

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

主イエスは「あなたが他の人からしてもらいたいことは全て、あなたの方から他の人にしなさい」(マタイ7章12節)を御自分の《律法》となさり、これをもって隣人愛の掟(ヨハネ13章34節)の基礎となさった。このことが欠乏しているがゆえに人々は報道で連日のように惨劇を目にし続けるのである。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

ガラテヤ5章22節は聖霊の賜物の一つに「平和」を挙げる。これは古代のヘブライ人にとっては戦争のない(終わった)状態を表す以外にも、人間関係の協調・一致・発展、個々の健康・幸福・繁栄、心の(霊的な)安定、暴動・反乱のない社会や国家の安寧など、物事が好転している状況の総称でもあった。

(注)別エントリー「試論:『心も思いも』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10376

主イエスはマルコ4章26節以下の「種」のたとえで信仰の成長をお教えになったが、ヨハネ3章では同様の事柄をニコデモに別の表現で御説明され、同章8節は聖霊を「風」と表現する。同章とマルコ4章を比較すると、種が芽を出して日々ゆっくり成長するように聖霊は静かに働き続けると示唆されている。

聖パウロのガラテヤ書5章によれば、聖霊が働いている徴は愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・節制(22節〜23節)であり、聖霊が不在である徴は姦淫・わいせつ・好色・偶像礼拝・魔術・敵意・争い・そねみ・怒り・利己心・不和・仲間争い・ねたみ・泥酔・酒宴(19節〜21節)などである。

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを確実に識別できる基準」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4564

ローマ8章6節の直訳は「肉の思いは死、霊の思いは命と平和」。ヘブライ人は人間由来の事柄を「肉」、神に由来する事柄を「霊」と呼び、あらゆる幸福を「命」あるいは「平和」と総称した。この節は「人間由来の願望は死で終わるが、神に由来する願望は人間をあらゆる幸福へと導く」という意味である。

(注)別エントリー「試論:『わたしは命である』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11586

(注)別エントリー「試論:『肉と霊』の対比を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7740

(注)別エントリー「試論:ガラテヤ5章の『肉と霊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7657

(注)別エントリー「試論:聖書と『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7649

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『永遠の命の言葉を持つ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11244

(注)別エントリー「『永遠の命』と『新しい掟』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4905

試論:ヨハネ19章25節の聖母を140文字以内で

ヨハネ19章25節には、主イエスの十字架の傍らには聖母マリアの姿があったと記されている。しかし実のところ、主イエスの贖(あがな)いの御業(みわざ)に対する聖母の協力は、生まれる男子が生贄の小羊として屠殺される定めと完全に理解した上で母となることを承諾した日から、既に始まっていた。

(注)別エントリー「『贖(あがな)い』と『救い主の母』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19677

【追記】

詩編49編8(7)節は神に対し人間が贖(あがな)いの業を行うことはできないと説く。それができるのは「人〔となられた神〕の子」だけであり、そのために主イエスは来られた(マタイ20章28節)。神は劣化できないため、神のままで人間の全てを担う必要があり、そのためにマリアが不可欠だった。

(注)別エントリー「試論:『神には劣化がない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8697

【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。

詩編49(48)編8(7)節は、神に対して人間が贖いの業を行うことはできないと記す。とはいえ神の御独り子が自ら人間となられて自分の「からだ」を「身代金」として贖いの業を行われた時の「からだ」は、マリアから受けたものだった。マリアは極めて特別な形でイエスの贖いの業に「参加」をした。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7795

(注)別エントリー「試論:『履物を脱ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8620

カトリックでは聖母マリアを「無原罪」つまりサタンの悪影響とは全く無縁の女性と教え、少女期の聖母が神殿で十年以上奉献生活を送り教育を受けたと教える。聖母は長年、救い主やあがないについて思い巡らしていた。受胎告知の際の言葉「わたしは主のはしため」は一朝一夕に出て来る類のものではない。

(注)別エントリー「神のお告げ:受胎告知と無原罪の御宿り」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4835

(注)別エントリー「試論:ヤコブ原福音書を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5239

(注)別エントリー「聖書の時代に神殿の処女は存在したのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1539

試論:「インマヌエル」意味を140文字以内で

【問】イザヤ7章14節「インマヌエル」って、何?
【答】「わたしたちと一緒におられる神」という意味で、「わたしのことを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人のことを愛され、父とわたしとはその人のところへ行き、一緒に住む」(ヨハネ14章23節)と仰せになった方のことです。

(注)別エントリー「主イエス・キリストがインマヌエルである理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1338

「しるし」は何のため、誰のためなのか

主イエスはヨハネ4章48節で「あなたたちはしるしや不思議な業を見なければ決して信じない」と仰せになった。ただ王の役人には悪意がなく、その息子は癒され、その家族はイエスを信じた。イエスの敵たちは、何度イエスが「しるし」を行われても、ますます敵意と悪意を募らせ、イエスに挑戦し続けた。

【問】なぜ主イエスは、「いやし」の業をマタイ4章23節のように行われたのですか?
【答】それらの「しるし」を行うことによって、御自身こそが旧約聖書の預言者たちが語っている救い主であると人々に知らせるためで、洗礼者は「しるし」を行うことが一度もありませんでした(ヨハネ10章41節)。

【問】マタイ11章で洗礼者が自分の弟子たちを主イエスの許に送った意図とは?
【答】洗礼者は己の使命を「花婿」と「花嫁」を引き合わせることと心得ていましたが、彼の弟子の一部はイエスの活動をライバル視していたため、彼は弟子たちに「しるしを行う方こそ従うべきメシア」と教えようとしました。

主イエスはマタイ11章14節で、洗礼者ヨハネが預言者マラキのいうエリヤだと教えられたが、ヨハネ1章21節で洗礼者は一度それを否定した。当時の人々は最初にしるしで判断しようとした(マタイ12章38節)が、洗礼者にはエリヤと同じしるしを行う意図はない(ヨハネ10章41節)からである。

ルカ1章66節は、洗礼者ヨハネの誕生に際し、人々が「この子はどんな人になるのだろうか」と言ったと記す。おおよそ三十年後、主イエスはマタイ11章11節で「洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」と仰せになった。しかしヨハネ10章41節は洗礼者が何のしるしも行わずに世を去ったと記す。

主イエスはマタイ9章35節の通り「町や村を残らず回って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気や患いを癒やされた」。洗礼者はアンデレとヨハネとを主イエスに導いた際(ヨハネ1章)等を除けば、基本的には「ヨルダン川の向こう側」にとどまり、しるしは行わなかった(同10章41節)。

マルコ8章11節でファリサイ派の人々は主イエスを試そうと「天からのしるし」を求めたのに対し、主は「なぜ『時代のしるし』を悟ることができないのか」とマタイ16章3節で答えられた。「時代のしるし」とは、預言されていた救い主による癒し(イザヤ35章5節以下)と、主によるその実践である。

福音書の時代、ユダヤ世界の人々の前に、まず洗礼者ヨハネが現れ、続いて主イエスが活動を開始された。当時の人々は誰しも、一度は「どちらがメシアか」と疑問を持ったはずだが、その答えはヨハネ10章41節の通りしるしを行わない方がマラキが預言した先駆者、しるしを行われる御方がメシアである。

主イエスはパンを増やし四千人の群衆に食べ物を与えるという奇跡を行われた。類似の奇跡は列王下4章42節以下で「神の人」預言者エリシャも行っていた。主イエスの神の御独り子たる本領は「生まれつき目が見えなかった人の視力を回復させた」(ヨハネ9章32節、イザヤ35章5節)時に発揮された。

主イエスはヨハネ12章30節で、御父の天からの声(28節)が聴こえたのは、イエス御自身のためではなく、人々が信じて救いに入るためだと仰せになった。主はラザロの死(11章15節)と復活(42節)の際も、人々が信じて救いに入るためにこのようなことが起きるという旨を仰せになられている。

主イエスはヨハネ12章28節で、「父よ、御名の栄光を現して下さい」と仰せになり、すると天から声が聞こえた。これは申命記5章22節以下を彷彿とさせ人々はそれを思い起こしたなら慄然としたはずである。ただ群衆の反応は「雷が鳴った」「天使がこの人に話しかけた」等で、回心には至らなかった。

一ペトロ2章の冒頭では、霊的な成長とは悪意・偽り・偽善・ねたみ・悪口を捨て去ることと示唆し、使徒言行録8章では、魔術師シモンが聖霊のしるしを金で買おうとしてペトロに非難された。主イエスもマタイ7章22節以下で預言や奇跡や悪霊を追い出すことより悪を行わないことが重要と仰せになった。

神は御自分を愛する者たちに準備された

イザヤ65章17節以下では、「主によって『新しい天・地・エルサレム』が創造される」という驚くべき預言が啓示され、一コリント2章9節でパウロは「見聞きしても理解できず人間の心には思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」とイザヤ64章3節を引用し説明した。

主イエスは福音書で自身の御受難と御復活を随所で暗示されたが、御受難と御復活の間に御自分がどんな働きをなさるかについても、ヨハネ14章2節から3節で予告された。それはイザヤ65章17節以下の「新しい天・地・エルサレムの創造」預言の成就であり、御自身の復活の体の創造で完成の時を見た。

ヘブライ5章9節は「キリストが〔御受難を経験された後に〕完全な者になられた」と記す。神でもあり人間でもあるキリストは、神としては天地創造以前から既に当然だが完全な者である。人間としては御受難を経験された後「復活の体(=天上の体、霊の体)」すなわち人間としての完成形へと到達された。

(注)別エントリー「試論:神であり人であるキリストを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6725

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

主イエスは、ルカ9章の「主の変容」で三人の使徒に、「天上の体」(一コリント15章40節)すなわち死者の復活後の人間の姿(同章35節以下)をお示しになったが、当時三人の使徒は全く理解できなかった。「人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は愛する者たちに準備された」(同2章9節)。

(注)別エントリー「試論:ルカ9章『主の変容』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14938

主イエスの御降誕は「肉の体」つまり人間としての誕生だったが、この世に来られた究極の目的が「贖(あがな)い」である以上、「上げられ(十字架上で顕示され)た」後の死と御復活によって悪魔の罪と死の支配を終わらせ人類に永遠の命と「霊の体」を準備して目的を達成したことの方がより重要である。

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11494

(注)別エントリー「試論:真理と贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9081

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

一コリント15章は、

《地上で生きる体》と《永遠の命を得て復活し天の国で生きる体》

とを、

「地上の体」と「天上の体」

「地上の命の体」と「霊の体」

等と表現する。

ガラテヤ5章は人間的な事柄を「肉」、神的な事柄を「霊」と表現し、

コロサイ1章22節「肉の体」とは「人間としての体」の意である。

(注)別エントリー「試論:『肉と霊』の対比を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7740

(注)別エントリー「試論:ガラテヤ5章の『肉と霊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7657

(注)別エントリー「試論:聖書と『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7649

一コリント15章でパウロは「地上の体」「天上の体」という表現を用いて、《人間が地上で生活していた際の、死によって朽ちていく肉体》と《その人の霊が神の許に帰還した後で、神によって天上で新しく与えられる、朽ちることのない体》について説明し、後者を「霊の体」(44節)等と表現している。

主はヨハネ11章25節で御自身を復活と命だと称され、6章63節では命を与えるのは「〔神の〕霊」だと仰せになった。コヘレト12章7節は人間の死でその肉体は塵(土)に還るが、命を与えられたその霊は「与え主」である神の許へと還るとし、一コリント15章44節は「霊の体が復活する」と記す。

主イエスは「わたしは世の光」(ヨハネ8章12節)と仰せになられ、1章4節は「御言葉(人々に語り掛ける神=御子イエス・キリスト)の内に命があり、命は人間を照らす光」と記し、5節では主を「光」と表現する。3章19節で主は「光」と自称され、10章25節では「復活」「命」とも自称された。

(注)別エントリー「試論:『世の光』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5388

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『神よあなたのことばは』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6358

創世記の2章と3章では、人間は「土(塵)」に由来し「土(塵)」に還る存在とする。創世記の記述に基づきヨブ記4章19節は「人は塵の中に基を置く土の家に住む者」と記す。ここでは人間の体を「土の家」と表現し、古代のヘブライ人が「(人間の)体」と「家」とを重ねて考えていたことを示唆する。

(注)別エントリー「試論:『土』と『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9629

上述の通り「『体』と『家』はともに自身にとっての住まい」という古代のヘブライ人の世界観を踏まえ主イエスは、「人となられた神の子である御自身の体」を「神の家=神殿」に重ねて「三日で建て直して見せる」と仰せになった。だがイエスを冒瀆者として葬り去ろうとした当時の人々には通じなかった。

「家と体はともに自身にとっての住まい」として両者を重ねる古代のヘブライ人の世界観を踏まえれば、主がヨハネ14章2節以下で仰せになった「あなたたちのために準備する住む場所」とは、「天から与えられる住みか」(二コリント5章1節)すなわち、「天上の体」(一コリント15章40節)を指す。

(注)別エントリー「試論:『霊の帰還』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8381

ヨハネ14章2節〜3節「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたたちのために場所を用意して、あなたたちを迎える」二コリント5章1節「わたしたちは、神によって建物が備えられていることを知っています。人の手によるものではない、天に備えられている永遠の住みかです」。

イザヤ65章17節以下は主が新しい「天、地、エルサレム」を、新しい「神の民」のために喜びをもって創造されると預言した。ヨハネ14章2節以下「わたしの御父の家には住む場所が豊富にある」「わたしは行って場所を用意し、戻って来てあなたたちを迎える」ガラテヤ4章26節「天のエルサレム」。

(注)別エントリー「試論:『もろもろの天を通過』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13750

(注)別エントリー「試論:預言解釈の基本を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5092

二世紀初めにアンティオキアの聖イグナティウスが記したように初代の信者は、キリストの御復活すなわち「天上の体」(一コリント15章40節)の創造の記念に、週七日の中で祝うべき特別の日を土曜日(ユダヤ教の安息日)から、御復活があった「週の最初の日(安息日の翌日)」日曜日へと置き換えた。

(注)別エントリー「試論:『土曜と日曜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12677

「主の変容」の後、主イエスは「人の子が死者の中から復活するまでは今見たことを誰にも話してはならない」と命じられた。使徒たちは「天上の体」(一コリント15章40節)を目撃したのだが、まず主の御復活前後の実体験を経た上で復活の意義を理解しなければ、「天上の体」の理解もないからである。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888

試論:主は裁くの?裁かないの?を140文字以内で

【問】ヨハネ8章15節「わたしは誰をも裁かない」同9章39節「わたしが世に来たのは、裁くため」。矛盾では?
【答】前者の意味「わたしは、あなたたちのように人間の規則で有罪宣告したりはしない」後者の意味「わたしが世に来たことによって、あなたたちは信じる者と信じない者とに二分される」。

一コリント14章:聖霊か、そうではないのか

パウロは一コリント14章33節で神は無秩序の神ではないと説き、40節では全てを秩序正しく行うよう勧め、30節で複数人が同時に口を開くことを禁じる。従って「ある人々は互いに別々の事柄を語り始め、別の人々は歌い出し、また別の人々は踊り出す」ならそれは神の霊とは全く関係ない現象である。

一コリント12章以下でパウロは霊的な賜物に関し論じた。14章33節は「神は混乱(無秩序)の神ではなく協調(平和)の神」と説き、集会中の発言は順番(27節、40節)になされるべきで複数人が別々の事柄を同時並行で語ることを禁じ(30節)、それは「主の命令」(38節)であると厳命した。

イザヤ11章2節以下とガラテヤ5章22節以下では聖霊による賜物について列挙されるが、そこにはいわゆる「異言(諸言語〔の賜物〕)」も「預言」も含まれていない。「預言」にも真の預言者と偽預言者が存在したように異国の言語らしきものを話し始めた人がいたとしても本物とは限らないからである。

いわゆる「異言」と呼ばれる《諸言語〔の賜物〕》に関して、パウロは一コリント12章から14章において、それを「解釈(通訳)する人」の存在と重要性を繰り返し強調している。14章28節では、その場に通訳(解釈)できる人が皆無なら、語る人は教会の中では沈黙しているようにと強く命じている。

一コリント14章26節以下でパウロは、いわゆる「異言」と呼ばれる《諸言語〔の賜物〕》に関し、「語る人」と「解釈(通訳)する人」がいて初めて成り立つと記す。従って、どの言語か全く分からない何事かが話されても、その場に通訳(解釈)できる人が皆無ならば、聖霊に由来するとは認められない。

パウロは一コリント14章33節で神は混乱(無秩序)の神ではないと記し、同30節で集会中に複数人が同時並行的に言葉を発することを禁じ37節で混乱は主の流儀ではないことを示唆した。ヨハネ17章11節等で主イエスが強く願われ使徒言行録4章32節で実現した、「一つ」に違反するからである。

主はヨハネ10章30節で「わたしと父とは一つ」と仰せになった後、17章では弟子たちのために天を仰いで祈られたが、それは御父と御自分が「一つ」であるように、弟子たちもまた「一つ」となるためであった(11節、21節〜23節)。使徒言行録4章32節「信じた人々の群れは心も思いも一つ」。

ニケア・コンスタンチノープル信条「父と一体」はヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」と38節に拠り、御父と御子の間には矛盾・対立・齟齬の類は一切ないことを表す。ギリシア神話では最高神ゼウスと父クロノス、クロノスと父ウーラノスの父子相剋が存在するが、キリスト教には全く存在しない。

聖パウロのガラテヤ書5章によれば、聖霊が働いている徴は愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・節制(22節〜23節)であり、聖霊が不在である徴は姦淫・わいせつ・好色・偶像礼拝・魔術・敵意・争い・そねみ・怒り・利己心・不和・仲間争い・ねたみ・泥酔・酒宴(19節〜21節)などである。

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを確実に識別できる基準」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4564

聖霊の七つの賜物という特別の恵みは、古代のギリシア語訳またラテン語訳のイザヤ書11章2節〜3節の記述に基づいており、

【1】知恵(上智)
【2】分別(識別)
【3】思慮(賢慮)
【4】剛毅(勇気)
【5】〔主に関する〕知識
【6】〔主に対する〕孝愛(信心)
【7】〔主に対する〕畏敬

などである。

(注)別エントリー「試論:聖霊降臨と聖母を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4990

ヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」の意味を使徒言行録4章32節は「心も思いも一つ」「持ち物を自分だけのものと主張せず共有している」と説明する。従って、御父の持ち物は御子の持ち物でもあり逆もまた然りである。ヨハネ10章38節「わたしは父の内にあり、父はわたしの内におられる」。

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

イザヤ11章では聖霊の賜物として知恵・識別・思慮を挙げ、またガラテヤ5章23節では節制を挙げる。従って例えば詐欺に引っ掛かったり、貴重品を紛失したり、交通事故を起こしたり警察に違反を指摘されたり、多くの飲食物への執着を断ち切れないならば、常識的に判断して聖霊の介在は否定的である。

ルカ1章35節以下では、マリアに聖霊が降臨され彼女が神の御独り子を身籠るという事柄が告知された。従って《聖霊の結ぶ実》(ガラテヤ5章22節以下)すなわち《愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制》がマリアの内面をあふれんばかりに満たしていることには、疑問の余地などない。

主イエスはさまざまな病気に対し奇跡的な治癒を行われたが、病人に医者が必要であることは否定されない(ルカ5章31節等)。シラ書38章は、病気になった際に主に治癒を祈り求めることを勧める(9節)が、それと共に医者の手を借りることも勧め(12節)治癒に医者が必要な場合もあり得ると説く。

(注)別エントリー「試論:『善きサマリア人と宿屋』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13394

主イエスはマタイ4章24節と同17章15節で、てんかん(けいれん、ひきつけ)の人々を治癒の対象とされた。急に体をブルブル(ガクンガクン)させて白目を剥いたり、呼び掛けに応じなくなったり、口から泡を吹いてひっくり返ったり等が見られれば、当然、聖霊の働きでなく救急医療の対象に当たる。

試論:ヨハネ9章5節「光」を140文字以内で

【問】主イエスが「世にいる間、わたしは世の光である」と称された理由は?
【答】「光」とはイザヤ58章6節以下にある通り、善意・温情・心配り・憐れみの業などの喩えで、人々の心と表情とを明るくさせ、また人々の心を温めます。「光」がなくなれば、人々の心と表情は暗くなり、心は冷え込みます。

(注)別エントリー「『まことの光』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/23274

【追記】

【問】福音書には主イエスが笑ったという記述がない、という議論があるそうです。
【答】イザヤ58章10節は隣人への温情を「光」に喩えます。理由は相手の心や顔を明るくするからです。主はヨハネ8章で「わたしは世の光」と宣言されましたが、これはいつも仏頂面の人が口にする言葉ではありません。

神と罪人

ヨハネ9章31節には「神は罪人の言うことなどお聞きにならないとわたしたちは承知している」という言葉が記されてはいる。罪人が良からぬ企みを実行する前に成功を神に願い求めても、神が聞き入れるわけがないが、罪人が罪人であることを止めて回心したいと神に願う時は、神は喜んで聞き入れられる。

(注)別エントリー「試論:『聞き入れられる願い事』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18477

【問】神は人間の不幸を望んでおられますか?
【答】いいえ、断じて望んでおられません。間違った終末思想に陥り始めると「望んでおられる」などと錯覚するのでしょうが、神なる主はエゼキエル18章で「あなたたちは〔わたしに〕立ち帰って、生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」と仰せになっています。

【問】主イエスはルカ15章「放蕩息子」の喩えで、弟子たちに何を教えようとされたのですか?
【答】イザヤ55章7節「神に従わない者はその道(=流儀)を捨てよ。悪を行う者はその悪巧みを捨てよ。わたしたちの神なる主に立ち帰るならば、主はどこまでも憐れんで下さり、どこまでも赦して下さる」。

(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3277

キリスト教の歴史上「救われる者と救われない者とは神に予め定められている」という主張が存在したが、ならば神はなぜエゼキエル18章32節で「お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」と仰せになったのだろうか。二コリント5章14節「キリストは全ての人のために亡くなられた」。

(注)別エントリー「試論:救われる者は少ないか??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18576

マタイ9章13節「わたしが来た目的は、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」ホセア6章1節〜2節「さあ、わたしたちは主の御許に帰ろう。主はわたしたちの傷を覆ってくださり、いやしてくださる。主はわたしたちを立ち上がらせ命を与えてくださる。わたしたちは主の御前で生きる」。

主がマタイ9章13節で「わたしが求めるのは憐れみであり『いけにえ』ではない」とホセア6章6節に言及されてファリサイ派の人々に学ばせたかった「意味」という事柄の答えは、ホセア6章3節「主は曙の光のように必ず現われて、春に降り注ぎ大地を潤す雨のようにわたしたちを訪れて下さる」である。

今、あなたの神、主があなたに求めておられることとは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてその全ての導きに従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸せになることではないか。(申命記10章12節〜13節)

ミカ6章8節「何が善であって、主が何をあなたたちに求めておられるかは、あなたたちには既に告げられている。それは神の義を行い、憐れみの業を愛し、へりくだり神と共に歩むこと」ホセア6章6節「わたしが求めるものは『いけにえ』ではなく憐れみであり、焼き尽くす献げ物ではなく神を知ること」。

(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6748

エゼキエル18章「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は仰せになる。彼が悪から立ち帰って生きることを喜ばないだろうか。お前たちが犯した全ての背きを投げ捨てて新しい心と霊を造り出せ。どうしてお前たちは死んでよいだろうか。お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」。

【問】「心の貧しい人は幸いである」の「心の貧しい人」って、具体的にどんな人?
【答】ルカ15章「放蕩息子」の喩えで、無一物になって我に返り「今の自分の惨めな有様は全て自分の自業自得だが、父親の許に帰ればなんとかなるかもしれない」という一点に希望を賭けて、故郷に出発した人のことです。

ルカ23章40節以下で主の隣の十字架につけられた盗賊は最後に神への畏れを知り、自分の今の惨めな境遇は全て自業自得だが神には罪はなく神の御心に適う願いなら聞き入れられると確信し、自分の隣にいるのは神そのものであると信じて直接それを伝えた。彼の信仰告白に主は最大の幸福を御約束された。

(注)別エントリー「神に対する確信を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5613

(注)別エントリー「『王』と『永遠の命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/20213

マタイ11章28節「重荷を負う者は、わたしの許へ来なさい」詩編38編5(4)節「わたしの罪悪は耐え難い重荷」マタイ9章13節「正しい人を招くためではなく罪人を招くために、わたしは来た」ホセア6章1節〜2節「わたしたちは主の許に帰ろう。主はわたしたちをいやされ、傷を包んで下さる」。

(注)別エントリー「試論:『いけにえ』と憐れみを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8356

試論:ヨハネ9章6節「唾」を140文字以内で

主イエスはマルコ7章と8章及びヨハネ9章で御自分の唾を用いた癒しを行われた。本来、侮辱を与える行為と強く関連する唾だが、《人は神の口から出る全ての事柄で生きる》を示されるため、主はあえて唾で癒しを行われた。従って預言者たちも使徒たちも主イエス以外の誰も唾を使う癒しを絶対行わない。

(注)別エントリー「試論:神であり人であるキリストを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6725

(注)別エントリー「試論:『神が人となるためには』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7830

(注)別エントリー「試論:『人となられても神は神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6877

【追記】

【問】聖書はキリストを模範(ヨハネ13章15節等)と示すけど、全て真似する必要があるの?
【答】いいえ。倣うべきは「仕えられるのではなく、仕える」姿勢で、真似する必要のない事柄は例えば湖の上を歩く、唾で泥を作り目の見えない人を治す、聖霊を与えると称して息を吹きかけるなどの行為です。

復活された主イエスはヨハネ20章22節で「聖霊を受けなさい」と仰せになり、弟子たち(使徒たち)へ息を吹きかけられた。この仕草は新約聖書では唯一ここだけで見られ、聖霊降臨の予告として行われた。聖書には祝福や権威の行使の象徴として一般的な、手を置く仕草があるが、それとは意義が異なる。

(注)別エントリー「試論:聖霊の働きの徴を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4984

(注)別エントリー「試論:『使徒パウロ』の誕生を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9844

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを識別する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14194

主イエスはヨハネ20章22節で「聖霊を受けなさい」と仰せになって、弟子たちに息を吹きかけられた(創世記2章7節参照)。《人は神の口から出る全ての事柄で生きる》を示されるために、主はあえて息を吹きかける仕草を行われた。新約聖書には、弟子が同じ仕草を行う場面は一度たりとも登場しない。

(注)別エントリー「試論:『命の息』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14285

ルカ11章41節「器の中にある物を施せ」の「器」とは「土の器」「陶器」の比喩と同様、人間を指す。「器の中にある物」は人間に吹き込まれた「命の息」(創世記2章7節)つまり「霊魂」を意味する。イザヤ58章10節のヘブライ語表現「霊魂を注ぐ」は、「心を配る」(新共同訳)ことを意味する。

(注)別エントリー「試論:『器の中にある物を施せ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11264

主イエスは荒れ野で悪魔(サタン)から誘惑された際「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの御言葉で生きる」と答えられた。「神の御言葉」とはヨハネ1章1節の通り主イエス御自身の称号であり、人間を生かす者は「神の御言葉」及び「命」(同14章6節)を自称される方である。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

試論:「信仰を装った自画自賛」を140文字以内で

主はルカ18章9節以下で「他人を裁くな」をたとえで教えられた。他人を引き合いに出して自分の正しさを並べ立てた人の「祈り」は単なる自画自賛の連続に過ぎず、そこにへりくだりはなく、全く「祈り」として体を成さなかった。神の御前で何の言い訳も一切せずにひたすらへりくだった人が義とされた。

(注)別エントリー「ファリサイ派の人と徴税人」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5182

【追記】

マタイ25章45節で主は「この小さな者の一人にしなかったことは、わたしにしなかったことである」と仰せになり、隣人愛の実行を神への愛の基準にすると宣言された。従って「私は周囲とはトラブルを起こしてばかりですが、主よ、あなたへの愛だけは誰にも負けません」という自己申告は、通用しない。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

ヨハネ14章15節で主は「わたしを愛しているのなら、わたしの掟を守りなさい」と仰せになり御自身が教えられた掟を守ることをもって御自身への愛を判断すると宣言された。従って、「私はあなたの掟を守れてはいませんが、主よ、あなたへの愛だけは誰にも負けません」という自己申告は、通用しない。

マタイ7章21節「わたしに向かって、『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るのではなく、わたしの天の父の御心を行う者だけ入る」ヨハネ13章34節「わたしがあなたがたを愛したように、愛し合いなさい」ガラテヤ5章6節「キリスト・イエスに結ばれているなら、愛の実践を伴う信仰こそ大切」。

(注)別エントリー「『盗賊さえ楽園に達した』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8383

マタイ25章45節「この小さな者の一人にしなかったことは、わたしにしなかったことである」は、一ヨハネ4章20節で「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」と繰り返され、21節は神から受けた掟として「神を愛する人は兄弟をも愛すべきです」と断言している。

ルカ6章38節で主は、「あなたがたは自分の量る秤(はかり)で量り返される」と仰せになり、他人に厳しく自分に甘い人に対して神が厳しい態度で臨まれることを宣言された。それゆえ、主は「人を裁くな」「人を罪人と決めるな」「赦しなさい」「与えなさい」「敵を愛しなさい」等々とお教えになった。

(注)別エントリー「試論:赦しの重要性を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5390

マタイ6章14節〜15節「あなたがたが人を容赦するなら天の父もあなたがたを容赦されるが、あなたがたが人を容赦しないなら天の父もあなたがたを容赦されない」は同5章7節「憐れみ深い人は幸いである。その人は憐れみを受ける」などと、表現を変えながら福音書の随所に登場する、重要事項である。

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346

試論:「神を愛しているならば」を140文字以内で

ヨハネ14章15節「あなたたちがわたしを愛しているなら、わたしの掟を守るはずだ」エレミヤ7章23節「あなたたちがわたしの声に聞き従うなら、わたしはあなたたちの神となって、あなたたちはわたしの民となるであろう。わたしの命じる道だけを歩み続けるなら、あなたたちは幸いを得るであろう」。

【追記】

主はルカ6章46節で「あなたたちはわたしのことを『主よ、主よ』と呼んでおきながらどうしてわたしの言うことを行わないのか」と仰せになった。さらに次節以下では「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞きながら聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている」とお教えになった。

マタイ7章21節の主の仰せ「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」の「主よ」という呼び掛けは、当然、25章44節「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、〜」という箇所とは内容的に直結しており、信仰義認の適不適を判断する良い基準である。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:マタイ25章の十人の乙女を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5994

二ペトロ2章は「偽教師」への警戒を呼びかけ、「彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にする」(3節)「昼間から享楽に耽るのを楽しみにする」(13節)「強欲」(14節)等と表現する。一般の信者が真面目に働いている時間帯に、連日のように臆面もなく美食を貪る者こそが偽教師である。

(注)別エントリー「試論:偽預言者と貪欲を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7125

(注)別エントリー「試論:『終末預言?ありません』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13853

イエス・キリストという「土台」

一コリント3章11節は「既に据えられているイエス・キリストという土台を無視して他の土台を据えることは、誰にもできない」と記す。二テモテ4章3節以下は、やがて人々が「健全な教え」から離れ、自分に都合のいい話だけ聞いて真理(=主イエス)の言葉を無視し、作り話に引かれて行くと警告した。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:キリスト抜きのキリスト教を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6639

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

一ヨハネ4章は信用してはならない人の特徴を、キリスト教を語っているようで実は世間に通じる話題だけで、主イエスが実際に教えられた福音書の御言葉を回避していることとした。キリストを棚上げしながら福音書以外の聖書の箇所を引用する目的は、キリストに替わって自分自身が主役になるためである。

(注)別エントリー「試論:二ペトロ2章の『偽教師』140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10808

(注)別エントリー「試論:『招かれる』『選ばれる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8012

(注)別エントリー「試論:『神は誰を選ばれるのか』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8051

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは「天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神」主イエスを表す称号であり主が直接人々にお話しになった御言葉を記したものが福音書である。福音書を顧みず他のものばかりに目を奪われ続けるならばイエス・キリストがわからなくなる。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

箴言28章9節は、主が教えられた御言葉に耳を傾けないなら、いくら主に祈っても、主のおぼしめしには沿わないと教える。それだと、神を一方的に利用しようとしているだけで、全く信仰の名に値しない。主イエス・キリストが《神の御言葉》である以上、御教えを拒むことは神そのものを拒むのに等しい。

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

(注)別エントリー「試論:『主イエスを見失うこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5954

(注)別エントリー「試論:『主に聞き従うこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5685

マタイ22章14節「招かれる者は多く選ばれる者は少ない」の<選ばれない理由>をイザヤ65章12節は「呼んでも答えず、語りかけても聞かず、わたしの目に悪とされることを行い、わたしの喜ばないことを選んだからである」と記した。「笛を吹いたのに踊ってくれなかった」(マタイ11章17節)。

(注)別エントリー「試論:『神は誰を選ばれるのか』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8051

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

二テモテ3章でパウロは「終わりの時」の人々の姿を記した。自分本位で金銭を愛し、嘘をつき、神を畏れず嘲り、両親に従わず、恩知らずで、他人を侮り、情け容赦なく、強情で、中傷し、節度がなく、残酷で、善を行わず、裏切り、軽率かつ高慢、信仰を装いつつ実際は快楽を愛し、事実上は棄教している。

(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8105

主はヨハネ5章39節で、聖書とは御自分についてあかしするものであり、御自分を目的としない聖書研究には意味がない旨を仰せになった。これに関連し一ヨハネ4章も、主イエスに関する事柄についてなるべく触れようとしない自称信者を「偽預言者」「反キリストの霊」「人を惑わす霊」などと表現する。

(注)別エントリー「試論:『預言を封印するメシア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8347

(注)別エントリー「試論:聖書を研究する意味とは?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19381

ヨハネ5章39節〜40節「あなたたちは〔旧約〕聖書の中に永遠の命があると考えて、〔旧約〕聖書を研究する。しかし、〔旧約〕聖書とは、わたし(=主イエス・キリスト御自身)についての証しをするものである。それなのにあなたたちは〔永遠の〕命を得るためにわたしのところに来ることをしない」。

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の意義を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9840

(注)別エントリー「試論:旧約聖書を調べる意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6950

(注)別エントリー「試論:預言者も見たかったもの?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19262

「真理とは何か」の答えとは

「真理(ギリシア語本文でアレテイア)とは何か」(ヨハネ18章38節)の答えをマルコ12章32節は「神は唯一で他に神はない」ことがアレテイアとし、主はこれを「適切な答え」とされた(34節)。ヨハネ14章6節「わたしこそが道、真理、命」10章30節「わたしと父とは唯一のものである」。

(注)別エントリー「試論:『御父と御子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7544

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

(注)別エントリー「試論:ヨハネ14章6節の『道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9342

プロテスタントの文語訳聖書『改訳 新約聖書』(1917年)では、ヨハネ14章6節で「真理(まこと)」と平仮名を振る。詩編145編18節「主は、まことをもって呼び求める人々すべての近くにおられる」に対応するためだが、詩編のこの節の「まこと」とは、《真心(まごころ)》を意味している。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

【問】「真理はあなたたちを自由にする」はどういう意味?【答】「真理(=まこと)」(ヨハネ14章6節。エレミヤ10章10節参照)とは主イエス御自身を指し、「真理(=まこと)の神である自分はあなたたちを罪の奴隷状態(ヨハネ8章34節、ローマ6章、同8章)から解放する」という意味です。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

(注)別エントリー「真理は罪と悪と死から自由にする」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9524

主はヨハネ8章32節で「真理はあなたたちを自由にする(解放する)」と仰せになった。パウロはヨハネと同じギリシア語を用いて何からの解放か、その答えをローマ6章と同8章で説明した。「罪から解放」(6章18節、22節)、8章2節「罪と死の法則から解放」同21節「滅びへの隷属から解放」。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書のアレテイアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15430

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

主イエスに関してヨハネ福音書は「真理」を事ある毎に強調しイエスに偽りはなかったと説く。裏を返せばイエスの敵たちがイエスに難癖を付けるためなら偽りの告発を平然と行って恥じなかったことをも記している。「ガリラヤからは預言者は出ない」という難癖もヨナという先例がいる以上は虚偽であった。

ヨハネ7章52節に「ガリラヤからは預言者は出ない」という敵たちの難癖がある。彼らの発言は誤りで、預言者ヨナの出身地は列王下14章25節にガト・へフェルと記される。ヨシュア19章13節ではガト・へフェルはゼブルン族の領土で、そこはイザヤ8章23節の通り福音書の時代のガリラヤである。

(注)別エントリー「試論:『ガリラヤからの預言者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15449

(注)別エントリー「主イエス・キリストがインマヌエルである理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1338

エレミヤ10章10節は「主は真理の神」と記すがこの章では、自分では言葉を話せない偶像の神々と違い、イスラエルの神である主は御自ら、御言葉を発せられて真正な御教えを御自分の民にお話しになられる(申命記5章22節以下)という事柄を要約する表現として、「真理〔の神〕」が用いられている。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

エレミヤ10章10節は「主は真理の神、命の神、永遠を支配する王」と呼ぶ。ヨハネ福音書で主イエスが御自身に関連して「真理」「命」「永遠の命」等の表現を頻用されること自体、御自身の神性の表明である。イエスに敵意を抱く人々からすると神に対する冒瀆であり、石打ちの刑に相当する事柄だった。

試論:ルカ11章20節を140文字以内で

主イエスはルカ17章20節で「神の国は見える形では来ない」同11章20節で「わたしが『神の指(=聖霊)』で悪霊を追い出しているのだとしたら、神の国は既に来ている」と教えられた。マタイ6章10節の通り、神の御旨が天に行われている通り人間の世でも行われている状態が神の国の到来である。

(注)別エントリー「試論:『神の指』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15224

【追記】

主はマタイ10章23節で「人の子は来る」と仰せになり、「人の子の日」(ルカ17章22節)に言及されたが、黙示録6章17節は「神と小羊の怒りの大いなる日」と表現し、これらの啓示は紀元七〇年のエルサレム滅亡で実現した。支配者たちはイザヤ2章と黙示録6章の通り、洞穴からの逃亡を企てた。

(注)別エントリー「『人の子が来るのを見るまで』???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18126

主はマタイ10章7節で「天の国が近づいた」と告げるよう仰せになったが、これと別に23節で「人の子」が来る日をほのめかされた。これはルカ17章22節「人の子の日」や黙示録6章17節「神と小羊の怒りの大いなる日」を指し、マタイ24章33節の通り、人々は悲惨な諸事件から主の来臨を悟る。

(注)別エントリー「試論:『主の日』二つの意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12894

主はルカ17章20節で「神の国は見える形では来ない」22節で「人の子の日を弟子たちが見ることはない」と仰せになったが、アモス5章18節は「主の日を待ち望む者は災いだ。主の日は闇であって、光ではない」と預言しており、「神の国の到来」と「主の日」とを混同すべきではないと、理解できる。

(注)別エントリー「試論:『バビロンへの連行』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5695

(注)別エントリー「試論:『一人は連れて行かれる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5599

(注)別エントリー「試論:連れて行かれるのはどこ?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6151

(注)別エントリー「試論:ヘブライ人の『神を見る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5673

(注)別エントリー「試論:福音書と『西遊記』の違いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5760

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

「言うだけで、実行しない」

主イエスはマタイ23章で律法学者とファリサイ派の人々を厳しく批判し続けられたが、その理由の筆頭に挙げられるものは「言うだけで、実行しない」(3節)であった。ここでは、手前勝手で御都合主義的な「信仰義認」を主が否定されていることが歴然としており、マタイ7章21節以下でも同様である。

(注)別エントリー「試論:ローマ3章『信仰と律法』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8650

(注)別エントリー「試論:『信仰義認』なる幻影を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10057

マタイ12章37節「あなたは自分が口にした言葉によって義とされ、自分の言葉によって罪ある者とされる」5章22節「兄弟に『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」7章21節「わたしに『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るわけではなく、天の父の御心を行う者だけが天の国に入る」。

(注)別エントリー「試論:『新たに生まれなければ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9816

詩編12編は裏表(嘘偽り)のある人々ばかりの風潮を「信仰のある人はいなくなった」と嘆く。古代のヘブライ人にとって「二心(ふたごころ)」は信仰とは相容れなかった。「あなたの信仰があなたを救った」や「からし種の一粒ほどの信仰」の「信仰」とは《疑う余地のない確信》《完全な信頼》を指す。

(注)別エントリー「『からし種一粒ほどの信仰』???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19278

主イエスはヨハネ14章6節で「真理」を自称されたが、プロテスタントの『改訳 新約聖書』(1917年)はそこに「まこと」と平仮名を振る。ヘブライ語の「まこと」に対応しているためであり、主なる神が裏表や嘘偽りのない心を重視される方だからである。従って信仰とは疑う余地のない確信を指す。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

エフェソ4章の後半以降(17節以下)では、洗礼を受けた人が取るべき(また避けるべき)態度を教える。悪態をつき、無慈悲で、平然と悪口を言い、思う通りにならないと大声で喚き、怒鳴り散らし、相手が幼子や女性だと小馬鹿にして勝ち誇る人がいたとして、誰が彼のことを信者だなどと思うだろうか?

(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6748

神なる主は申命記5章で御自らイスラエルの民に語り掛けられ、エレミヤ10章は真理の神である主と、偶像の神々との違いを、話すことができるかどうかだと示唆する。「人間にとって耳の痛いことなどいっさい口にせず、黙って人間のわがままを聞いてくれる神が欲しい」という人間の我欲が偶像を造った。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:主の御言葉と『火』の関係を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8490

主なる神がシナイ山でモーセに多くの戒めや掟をお授けになっている間、民は金の子牛の像を造りこれを自分たちの新しい神とし、勝手なふるまいをしたが、モーセは怒って掟の板を投げつけた。人々は神からの恩恵だけ望んで戒めや掟には目もくれないが、実は主からの戒めや掟こそが恩恵だとは気付かない。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

マタイ25章45節で主は「この小さな者の一人にしなかったことは、わたしにしなかったことである」と仰せになり、隣人愛の実行を神への愛の基準にすると宣言された。従って「私は周囲とはトラブルを起こしてばかりですが、主よ、あなたへの愛だけは誰にも負けません」という自己申告は、通用しない。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

マタイ7章21節の主の仰せ「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」の「主よ」という呼び掛けは、当然、25章44節「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、〜」という箇所とは内容的に直結しており、信仰義認の適不適を判断する良い基準である。

主はルカ6章46節で「あなたたちはわたしのことを『主よ、主よ』と呼んでおきながらどうしてわたしの言うことを行わないのか」と仰せになった。さらに次節以下では「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞きながら聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている」とお教えになった。

マタイ25章45節「この小さな者の一人にしなかったことは、わたしにしなかったことである」は、一ヨハネ4章20節で「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」と繰り返され、21節は神から受けた掟として「神を愛する人は兄弟をも愛すべきです」と断言している。

主イエス・キリストがこの世に来られた意義は、「言」すなわち神の御言葉(御教え)を御自分で人々に仰せになるためであり、「御教えを聞いて自分なりに努力したけれど悪戦苦闘の結果あまりうまくいかなかった」ならまだしも、最初から聞かなかったように振舞うのは、財産を穴に埋めるのと同じである。

一ヨハネ4章は、世間的な事柄(5節)ばかり語る一方で福音書の主の御言葉に関してはなるべく触れずに自分も実行しない者を、たとえキリスト信者を自称しようと「反キリストの霊」と断じたが、この種の欺瞞的な信者をマタイ25章では主人から預かった財産(=福音の賜物)を隠した者にたとえている。

マタイ5章で主は、「あなたがたは世の光」(14節)、「あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(16節)と仰せになり、行いを伴わない信仰など役に立たない(ヤコブ2章14節)ことをお話しになった。

(注)別エントリー「試論:行いを欠く信仰を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5360

一ヨハネ2章5節は「神の御言葉を守るなら確かにその人の内には神の愛が実現している。これによってわたしたちが神の内にいると分かる」と記し、3章18節以下は「言葉や口先だけではなく行いをもって誠実に愛し合うならば、それによって自分が真理に属すると分かり、神の御前で安心できる」と記す。

(注)別エントリー「試論:『その人のところへ行く』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7555

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

試論:「あなたから、しなさい」を140文字以内で

マタイ5章17節「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するため」同7章12節「人からしてもらいたいと思うことは何でも、あなたたちから人にしなさい。これこそが律法と預言者」ローマ13章9節「他にどんな掟があろうとも、隣人を自分のように愛することに要約されます」。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1982

【追記】

【問】エレミヤ31章33節「わたしの律法を彼らの胸の中に授け彼らの心にそれを記す」の意味は?
【答】マタイ7章12節「他の人からしてもらいたいことを全て、あなたから他の人にしなさい。これこそ律法であり預言者〔の教え〕」。これは十戒よりも単純で子供でも覚えられるため、石板も不要です。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

【問】主イエスはどうして、「あなたたちは世の光」「あなたたちの光を輝かせなさい」等と仰せになりましたか?
【答】「あなたが他の人からしてもらいたいことなら全て、あなたから他の人にしなさい」と同じで、《あなたたちの気配りと温情で世の人々の心と表情を明るくさせ、人々の心を温めなさい》。

【問】主イエスは「わたしは世の光」「あなたたちは世の光」などと仰せになりました。なぜ?
【答】「光」はイザヤ58章6節以下にある通り善意・温情・心配り・憐れみの業等の喩えで、人の心と表情を明るくさせ人々の心を温めます。「光」がなくなれば、人々の心と表情は暗くなり、心は冷え込みます。

試論:移行期間が必要だった理由を140文字以内で

【問】主イエスがマタイ5章18節で「天地」つまり神殿の聖所(詩編78編69節)が滅亡するまでモーセの律法は続くと仰せになった理由は?
【答】割礼や「豚肉禁」の習慣をユダヤ人は命懸けで守って(マカバイ記参照)来ましたが、一朝一夕に改めることは不可能で、約四十年の移行期間を要しました。

【追記】

【問】使徒たちの手紙は「終わり」が迫っていると強調しますが、この「終わり」って一体、何のこと?
【答】旧約時代の終わりのことで、決して、新約時代の終わりではありません。キリストの到来と同時に旧約時代が完全に終わったわけではなく、それまでに約四十年間の過渡期、移行期間が存在しました。

(注)別エントリー「試論:旧約時代の終わりはいつ?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21657

【問】キリスト教の始まりと同時に、モーセの律法も終わりましたか?
【答】律法の時代は「天地(=神殿の聖所。詩編78編69節)が消え失せるまで」(マタイ5章18節)、つまりエルサレム神殿が滅亡する紀元七〇年まで続きました。その間の約四十年間は、旧約から新約への過渡期、移行期間でした。

(注)別エントリー「試論:『豚肉食禁止の問題』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/22082

【問】カトリックが近代まで一般信者に旧約聖書を読ませることに消極的だったのはなぜですか?
【答】主イエスが世に来られる前と後とでは信仰の規範となる事柄が違っているのに、十分それを理解せぬまま「旧約聖書に書かれていることなら全て正しい」と真似を始めるうっかり者が出るのを防ぐためです。

【問】では、旧約聖書に書かれていることで現代のキリスト信者が真似しなくてもいいこととは何ですか?
【答】例えば一夫多妻制、豚肉食禁止、割礼、エルサレム神殿の建設、十分の一の献(ささ)げ物やいけにえ、預言者への従順、〔日曜日の方ではなく〕土曜日(旧約の安息日)を尊重すること、等です。

(注)別エントリー「試論:『安息日と主日との違い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12017

(注)別エントリー「試論:『土曜と日曜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12677

【問】旧約の「十分の一の献げ物」の替わりが現代の「十分の一献金」ですか?
【答】いいえ。ヘブライ10章5節以下は、旧約時代の全てのいけにえや献げ物の類に替わるものとして主イエス・キリストが御自分の体を十字架上で献げられたと教えます。「十分の一献金」は蛇の絵に足を描くような行為です。

(注)別エントリー「試論:『十分の一献金』の問題点を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12207

旧約時代には申命記18章15節以下の律法の通り、神が立てられた預言者には聞き従わなければならなかった。しかし使徒言行録21章でパウロは、アガボやフィリポの四人の娘など「預言」を行う人々の制止を振り切り、エルサレムへと出発した。新約時代には旧約時代と同じ立場の預言者など存在しない。

旧約の律法では王や大祭司も預言者に従う定めがあったがダニエル9章24節は「預言を封印するメシア」を預言し、ルカ21章22節の主の御言葉と紀元七〇年のエルサレム滅亡で、その預言は成就した。その後も当然「私的啓示」は続くが、決してそれらを旧約時代の「預言」と同じ扱いにしてはならない。

(注)別エントリー「試論:旧約時代の終わりはいつ?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21657

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

ルカ21章22節には「書かれていること」という言い回しが用いられているが、これはヨシュア記1章8節と同様に、「預言された事柄」「神から啓示された内容」などを意味する表現である。古代においては「書く(書いて記録に残しておく)」という行為それ自体が、非常に重要な意味を持つものだった。

「天地が消え失せるまで」

主はマタイ5章18節で、全てのことが実現して天地が消え失せるまではモーセの律法も消え失せないと仰せになり、ルカ21章22節ではエルサレム滅亡で預言が全て実現すると予告され、紀元七〇年にそれは成就した。詩編78編69節の通りヘブライ人はエルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。

(注)別エントリー「試論:ルカ19章41節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5814

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

ルカ21章22節には「書かれていること」という言い回しが用いられているが、これはヨシュア記1章8節と同様に、「預言された事柄」「神から啓示された内容」などを意味する表現である。古代においては「書く(書いて記録に残しておく)」という行為それ自体が、非常に重要な意味を持つものだった。

主はマタイ5章18節で、全てのことが実現し天地が消え失せるまで律法の時代が続くことを仰せになった。ルカ21章22節では、エルサレム滅亡(20節)の日を「書かれていることが完全に実現する報復の日」と仰せになり、エルサレムと神殿の滅亡(紀元七〇年)で律法の時代が終わると宣言なさった。

「天地が消え去る」の「天」とは、神がお住まいになる場所と見なされたエルサレム神殿とりわけその聖所を指し、二ペトロ3章はその滅亡が近いことを説く。「地」はエゼキエル7章2節同様、イスラエルの地を指す。紀元七〇年にエルサレムと神殿は滅亡しユダヤ(イスラエル人の国家)も同じく消滅した。

二ペトロ3章10節は「主の日」において「天は激しい音を立てながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に熔解し尽くす」と予告した。数年後の紀元七〇年、神が住まわれると見なされて、「天」と同一視されていたエルサレムの神殿は、都の滅亡の際ローマ帝国軍によって火を放たれ、大音響と共に焼け滅びた。

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

ルカ21章22節において、主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると明言されており、それは紀元七〇年に現実のこととなった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代や近未来の世界情勢に関して旧約聖書の預言から考える行為は、不毛である。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

ダニエル書9章では神殿とエルサレムの復興を強く願うダニエルの祈りに応えて、都と神殿の再建さらには救い主の到来までも約束されたが、救い主が不当に殺された後、モーセの律法を蹂躙する集団が神殿の聖所を占拠し、そして次に来る指導者の民が、都と神殿を無法集団もろとも、滅ぼし尽くして終わる。

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

ルカ17章34節から35節で主は「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」と繰り返されたが、では一体どこに「連れて行かれ」るのかを、ルカ21章24節では「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と御説明された。これは大昔モーセがレビ記26章33節以下で預言していた話と同じである。

紀元七〇年のエルサレム滅亡時にローマ軍へ投降したユダヤ人のうち、使徒言行録22章のパウロのようにローマの市民権を持つ者はローマ法の保護下にあるため留め置かれたが、そうでない者は妻子とともに奴隷とされて売り飛ばされた。こうして、「一人は連れて行かれ、一人は残される」は現実となった。

(注)別エントリー「試論:『滅びを避けるには』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5749

古代のヘブライ人は詩編78編69節の通り、エルサレム神殿の聖所を「天地」(マタイ5章18節)または「天」(同章34節参照。ヘブライ1章10節、二ペトロ3章10節)に喩えた。単に「天」に喩える際に対応する「地」は「イスラエルの地」(エゼキエル7章2節。マタイ5章35節参照)を指す。

古代のヘブライ人は詩編78編69節の通り、エルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。これを踏まえれば主イエスのマルコ13章31節の仰せ「やがて天地は滅びるであろうが、わたしの言葉は決して滅びない」の意味は、「エルサレムと神殿の滅亡後も、わたしの教えと信仰は生き続ける」である。

(注)別エントリー「試論:『主の日』エルサレム滅亡を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12476

一世紀後半のエルサレムは長期の籠城にも数年堪えうると考えられたほど穀物が備蓄されていた。だがローマに対する大反乱の際、ローマの脅威が一旦去った期間に三派が割拠した武装勢力は互いの支配地域の穀物市場を焼き払い合った。ローマ軍が戻って来て都を兵糧攻めにし、都は大飢饉に陥って滅亡した。

(注)別エントリー「『荒廃をもたらす憎むべきもの』とは何か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/84

(注)別エントリー「試論:『実現の日』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9074

(注)別エントリー「試論:『大淫婦』の正体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15895

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

救い主を避け続ける人々

主イエスをヨハネ1章1節は「言(ことば)」つまり《人々の前に御姿を現され御自ら御教えをお話しになる神》と呼ぶ。主イエスに従う人々にとって「神の御言葉」とは、まず何より主イエス御自身の仰せである。聖書やキリスト教に関して話題にしても肝心の主イエスの御教えを避ける人々は眉唾物である。

主はルカ6章46節で「あなたたちはわたしのことを『主よ、主よ』と呼んでおきながらどうしてわたしの言うことを行わないのか」と仰せになった。さらに次節以下では「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞きながら聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている」とお教えになった。

一ヨハネ4章は、信者を自称しながら世間の事柄ばかり話題にして主イエスの福音の中身に関して頑に触れようとせず沈黙する人々を、「偽預言者」「反キリストの霊」などと呼ぶ。2章19節は「彼らはわたしたちから去って行った」「元々仲間ではなかった」「仲間ならとどまっていた」とその末路を記す。

(注)別エントリー「試論:『愛している者なら』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9220

(注)別エントリー「試論:『主の御言葉の権威』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9025

二ペトロ2章は「偽教師」への警戒を呼びかける。彼らは「滅びをもたらす異端を持ち込み、主を拒む」(1節)、「欲が深く虚言で人々を食い物にする」(3節)、「厚かましく、わがまま」(10節)「昼間から歓楽にふけるのを愉しみとする」(13節)「無意味な大言壮語」(18節)等の特徴を持つ。

(注)別エントリー「試論:主イエスと旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7462

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4783

(注)別エントリー「試論:神の国の到来と『主の日』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5578

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の意義を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9840

(注)別エントリー「試論:携挙がない理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4703

(注)別エントリー「試論:『携挙』の否定を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6277

(注)別エントリー「試論:有人気球と『空中』の拡大を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10279

一ヨハネ4章2節とヨハネ1章14節を照合すると「惑わす霊」の特徴は、主イエスが公生活中に仰せになった「主の御言葉」の内容(掟や戒め)に頑として触れようとしない点で、キリスト不在のキリスト教と呼ぶべきものへと信仰を換骨奪胎し、信者を福音書の主の御言葉から遠ざけることこそ目的である。

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)である神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8969

ダニエル9章24節はメシアに関して預言の時代を封印する存在だと預言し、ルカ21章22節で主イエスは旧約聖書の全預言が(紀元七〇年の)エルサレム滅亡で成就すると仰せになった。故に現代や近未来の国際情勢と旧約聖書の預言は無関係で、関係ありとする強弁は、キリスト教の範疇を逸脱している。

ルカ17章34節から35節で主は「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」と繰り返されたが、では一体どこに「連れて行かれ」るのかを、ルカ21章24節では「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と御説明された。これは大昔モーセがレビ記26章33節以下で預言していた話と同じである。

紀元七〇年のエルサレム滅亡時にローマ軍へ投降したユダヤ人のうち、使徒言行録22章のパウロのようにローマの市民権を持つ者はローマ法の保護下にあるため留め置かれたが、そうでない者は妻子と共に奴隷とされて売り飛ばされた。こうして「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」は現実となった。

プロテスタントの文語訳聖書『改訳 新約聖書』(1917年)はルカ21章23節を「地(ち)には大(おほひ)なる艱難(なやみ)ありて、御怒(みいかり)この民(たみ)に臨(のぞ)み」と訳し、ある人々がいわゆる「大艱難時代」と呼ぶ時期とは実は紀元七〇年の滅亡の前後に他ならないと示唆する。

主はルカ21章23節でエルサレム滅亡とその前後のユダヤの苦難を予告されたが、『改訳 新約聖書』(1917年)では「大なる艱難」と日本語訳する。一世紀後半のユダヤの歴史家ヨセフスの記述通り、紀元六六年の大反乱の勃発から七三年のマサダ陥落までの七年間に、ユダヤは惨劇の連続を経験した。

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

ダニエル9章24節はメシアに関して預言の時代を封印する存在だと預言し、主イエスはルカ21章22節で旧約聖書の全預言が(紀元七〇年の)エルサレム滅亡で成就すると仰せになった。故に現代や近未来の国際情勢と旧約聖書の預言とは無関係で、関係ありとする解釈は主の仰せとは明確に相反している。

(注)別エントリー「試論:神の国の到来と『主の日』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5578

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

試論:「煉獄(期限付きの牢)」を140文字以内で

マタイ18章「仲間を赦さない家来のたとえ」には「牢役人」が登場し、5章でも人間関係がこじれて和解に至らない人が行く「牢」が登場するが、ここは「火の地獄」(22節)とは別物として扱われる。この牢は、代償を払い続けることで最終的に出ることができるが、ここをカトリックは「煉獄」と呼ぶ。

(注)別エントリー「試論:黙示録の火の池を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5376

【追記】

一ヨハネ5章16節は「死に至らない罪」と「死に至る罪」があると説く。主イエスはルカ12章58節以下で「死に至らない罪」の人が行く期限付きの「牢獄」の存在を示唆された。この牢獄は主なる神が条件を満たしたと判断なさった時、そこから解放される。カトリックでは、この牢獄を「煉獄」と呼ぶ。

マタイ12章32節は、主イエスの人間的属性だけを非難した者は赦されるが、主が聖霊によって悪霊を追い出したことを非難する者は赦されない、と記す。一ヨハネ5章16節以下も永遠の死に至る罪と死に至らない罪を分けて論じる。愛の掟に留まることを止める人(ヨハネ15章6節)が永遠の死に至る。

(注)別エントリー「試論:『ぶどうの木』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6605

(注)別エントリー「試論:『聖霊に対する冒涜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6715

(注)別エントリー「試論:二種類の罪と『永遠の命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9895

試論:眉唾物「エゼキエル戦争」を140文字以内で

エゼキエル書38章で預言されている戦争において「ゴグ」の侵略目的は、「金銀」や「財産」や「家畜」の「略奪」ではないかと周辺から「非難」を受ける性質のものであり、現代人がイメージする近未来の戦争とは程遠く、まして家畜の略奪が話題にされるような戦争が「世界最終戦争」であるわけがない。

(注)別エントリー「試論:エゼキエル戦争を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4921

(注)別エントリー「予備的考察:いわゆる『エゼキエル戦争』【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15520

【追記】

エゼキエル書38章から39章に言及される軍隊の主力は騎兵部隊で現代人がイメージする近未来の戦争とは程遠く、また軍隊全体の武装も大盾・小盾・剣・兜・弓矢・棍棒・槍の類いで前近代的と形容せざるを得ず、この戦争を「世界最終戦争」とか「終末預言」とか言い立てるのは羊頭狗肉もはなはだしい。

主イエスはルカ21章22節でエルサレム滅亡をもって旧約聖書の全預言がことごとく成就すると仰せになり、また福音書でイザヤやダニエルの名に言及されたりしたが、エゼキエルの名には言及されたことが一度もなく、新約聖書全体でも彼の名は一度も登場せず、現代人が彼に特別な関心を抱く必然はない。

ルカ24章のエマオでの御出現において主は、旧約聖書とは御自分について証しするものであり、実際その詳細について《全体》の説明を始めると、何時間あっても語り尽くせないことをお示しになった(27節)。主は以前にもユダヤの人々に対して同じ事柄をお話しになられていた(ヨハネ5章39節等)。

(注)別エントリー「試論:モーセが預言したキリストを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6497

(注)別エントリー「試論:ヨハネ5章46節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7208

(注)別エントリー「試論:旧約聖書を調べる意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6950

(注)別エントリー「試論:旧約聖書から何を学ぶの?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6865

ルカ21章22節において、主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると明言されており、それは紀元七〇年に現実のこととなった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代や近未来の世界情勢に関して旧約聖書の預言から考える行為は無意味である。

ルカ21章22節には「書かれていること」という言い回しが用いられているが、これはヨシュア記1章8節と同様に、「預言された事柄」「神から啓示された内容」などを意味する表現である。古代においては「書く(書いて記録に残しておく)」という行為それ自体が、非常に重要な意味を持つものだった。

ダニエル書9章では神殿とエルサレムの復興を強く願うダニエルの祈りに応えて、都と神殿の再建さらには救い主の到来までも約束されたが、救い主が不当に殺された後、モーセの律法を蹂躙する集団が神殿の聖所を占拠し、そして次に来る指導者の民が、都と神殿を無法集団もろとも、滅ぼし尽くして終わる。

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

エゼキエル書38章には「マゴグのゴグ」預言があり、13節「タルシシュの商人」に関して古代のギリシア語聖書は「タルシシュ」を「カルタゴ」と解釈したが、商業国カルタゴは紀元前146年には既に滅亡しており、従って「マゴグのゴグ」預言はカルタゴ滅亡以前の時期に実現していなければならない。

19世紀前半の作家エドガー・アラン・ポーは、紀元前二世紀のシリア王アンティオコス四世エピファネスを題材にした、「エピマネス(狂人)」という作品を書いたが、その冒頭には「アンティオコス・エピファネスは、一般的に預言者エゼキエルのいうところのゴグと見なされている」などと記されている。

バビロン捕囚からの帰還と主イエス・キリストの御降誕との間の約五百年で、アンティオコス四世エピファネスによる迫害ほどイスラエル人にとって苛酷な惨劇はなかった。エゼキエル書38章で預言されている危機的状況をマカバイ記の時代の惨劇とは全く無関係と捉えるのは、やはり解釈として無理がある。

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると教えられた(ルカ21章22節)。旧約聖書は現代のどこの国の軍事行動も正当化しない。

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4783

(注)別エントリー「旧約聖書と『偽教師』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17476

試論:「心から赦さないなら〜」を140文字以内で

主イエスがルカ11章で教えられた祈りの文言の中に「わたしたちの罪をお赦しください。わたしたちも、自分に負い目のある人々を赦します」(4節)とあるが、その理由を主は、マタイ18章の「仲間を赦さない家来のたとえ」で御説明された。同章35節「あなたが心から兄弟を赦さないなら御父も〜」。

(注)別エントリー「試論:『仲間を容赦しない家来』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5511

【追記】

マタイ18章の「仲間を容赦しない家来」のたとえで主は、「わたしがお前を憐れんだようにお前も仲間を憐れんでやるべきではなかったか」の言葉通り他人を容赦することこそ憐れみそのものであると説明され、一人一人が心から兄弟を容赦しないのならば天の御父も一人一人に同じくなさると警告なさった。

主イエスのたとえには様々な人物が登場するが、他人を引き合いに出して自己正当化したり自分のことを棚に上げて他人を攻撃したりする「他人に厳しく自分に甘い人」に対しては、神からの視線は非常に厳しい。しかし他人に責任転嫁せず正直に自分で自分の非を認める人に対しては、神からの視線は優しい。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

出エジプト記34章で主の栄光がモーセに現わされた際、御自分が優しさと厳しさを兼ね備えた神であると主はモーセに明らかにされた。ダビデは詩編18編21(20)節以下で、主は優しい人には優しく厳しい人には厳しいと歌った。その人が隣人に敬意を示さない限り、主はその人の信仰を認められない。

(注)別エントリー「試論:『選ばれた人は選んだ人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8034

ヤコブ5章9節に「自分が裁きを受けないようにするには互いに不平を言い合わないことです」とあるが、これはマタイ7章1節〜2節「他人を裁くな。自分が裁かれないようにするためである。あなたがたは自分が他人を裁く流儀で裁かれる」とは同じ事柄であり、マタイ6章14節〜15節とも同じである。

(注)別エントリー「試論:赦しの重要性を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5390

(注)別エントリー「試論:主の祈りと赦しを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5305

主イエスはマタイ18章21節以下の「仲間を赦さない家来のたとえ」で、一人一人が他人を裁くその同じ基準(了見)で、神もまた一人一人をそれぞれ裁かれることをお教えになった。これは、基本的には7章で既に仰せになった事柄であり、「あなた自身が裁かれないようにするためにも、他人を裁くな」。

(注)別エントリー「試論:自分が裁かれないためにはを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5501

(注)別エントリー「試論:『慈悲は裁きの上にある』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7694

たとえ過失を犯した人が将来を案じ利己的な動機に基づいて他人の負い目を容赦したとしても、人が他人の負い目を容赦する行為それ自体には神は賛同される(ルカ16章1節以下)が、人が他人の負い目に厳しく臨むならば、神も一度与えた容赦を撤回してその人に厳しくされる(マタイ18章21節以下)。

(注)別エントリー「試論:『主にとって赦しも癒し』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6013

エレミヤ31章33節では救い主が「御自分の律法」をモーセの律法に替えて人々に授けると預言し、続く34節では救い主は人々に赦しを与える存在と預言する。主イエス・キリストは、ルカ7章48節に見られるように人々に赦しをお与えになり、また御自分の律法(マタイ7章12節)をお授けになった。

(注)別エントリー「試論:『主によって教えられる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16434

(注)別エントリー「試論:キリスト教の基礎を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19005

(注)別エントリー「試論:『救い主と赦し』預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19009

試論:旧約聖書と「バプテスマ」を140文字以内で

古代ギリシア語訳列王記下5章14節は預言者エリシャの言葉に従いヨルダン川に七度身を浸したシリア(=アラム)人ナアマンの行為を、「洗礼」と訳されるバプテスマの動詞形バプティツォで表現する。10節でエリシャは七度身を洗うように指示したが、それを受けてナアマンは14節で七度身を浸した。

(注)別エントリー「バプテスマは身を沈める・身をひたすことか【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/20233

【追記】

ルカ4章22節は故郷の人々の「皆がイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いた」と記す。ガリラヤの各地で名声を高めていたイエスに対し「故郷に凱旋」と誇らしく思っていた会堂の人々は、話の雲行きが怪しくなるとやがて裏切られたと感じ、イエスを町外れの崖っぷちから突き落とそうとした。

ルカ4章で主イエスは、故郷ナザレの会堂でお話しされたが、古代ユダヤにおいて会堂は学びの場であり、会堂長は建物や聖書の巻物の管理者ではあったが、基本は信者同士が教え合うことであり七か所の聖書朗読はもちろん預言書の解説も、学識に信用が置けると会堂長が判断した人々が行う事になっていた。

ルカ4章16節は主イエスについて「いつもの通り安息日に会堂に入り聖書を朗読しようとして」と記し、主が無名時代から故郷のナザレで「学識に信用が置ける人」と評価されていたと分かる。通常、最後の朗読者は預言書と、その解説も担当し、解説の内容次第では会堂が大騒動になりかねないからである。

一世紀のユダヤ人は、ユダヤ本国でもそれ以外の国々でも安息日ごとに会堂に集まり、旧約聖書の朗読から学んだ。律法が定める祭儀はもっぱら神殿で行われ会堂は学びの場だった。律法と預言書の朗読の後、会堂長から指名された者(使徒言行録13章15節)が続いて解説(ルカ4章21節以下)を行った。

試論:「故郷では歓迎されない」を140文字以内で

ルカ4章で主イエスを迎えた故郷ナザレの人々の心の中には、所詮は自分たちと同じ村の出の者という気安さが最初にあり、好奇心や物珍しさがそれに続き、主は彼らの不信仰に驚かれた(マルコ6章6節)。他方、ローマ人の百人隊長に対しては、これほどの信仰をイスラエルでも見たことがないと驚かれた。

試論:「霊と真理において礼拝」を140文字以内で

【問】ヨハネ4章24節「霊と真理において礼拝」の意味は?
【答】「真理」とは主イエスのことですが、主は御自分の十字架上のいけにえをもって、モーセの律法のあらゆる献げ物やいけにえに替えられ、御自分の弟子たちには「いけにえではなく憐れみ」の原則に基づき、憐れみの業の実践を要請されます。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『いけにえ』と憐れみを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8356

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

【追記】

古代のヘブライ人の世界観に従ってガラテヤ5章は【人間(人間それ自体)】を「肉」、【神〔に由来するもの〕】を「霊」と呼ぶ。ヨハネ3章6節も同様の対比を用い「霊から生まれた者は霊」の意味を、1章12節は「神の御言葉である主イエスは自分を受け入れる人に神の子となる資格を与えた」と記す。

(注)別エントリー「試論:聖書と『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7649

ガラテヤ5章16節以下では「肉と霊」が対比されるが、ここで「肉」はヨハネ1章14節同様「人間」を指し、「霊」は「聖霊」「神の霊」を意味する。ガラテヤ5章における「肉」と「霊」との対立とは、「人間に由来する諸悪」(マルコ7章20節以下参照)と「神に由来する諸徳」との対立を意味する。

ガラテヤ5章は「肉」と「霊」の対立を記すが、ヨハネ1章同様、パウロは古代のヘブライの世界観に基づき、人間そのものを「肉」と表現して「霊」つまり「神の霊」と対比する。近代人は「肉と霊」という表現から「〔人間の〕肉体と〔人間の〕霊魂の対立」をイメージしがちだが、パウロの意図は異なる。

試論:「生きた水」を140文字以内で

主イエスはヨハネ4章でサマリア人の女性に飲み水を求められたが、10節で「生きた水」に言及された。サマリア人たちも「生きた水」とはレビ14章や民数記19章で清めの儀式に用いられる新鮮な流水だと知っており、主イエスは相手の女性の心に「あなたには清めるべき何かがある」と問い掛けられた。

【追記】

モーセの律法(レビ記14章など)では清めの儀式に用いる流水を「生きた水」と表現していた(新共同訳は「新鮮な水」)。勢いの良い流水は、澱んで濁った水と違い、清めの儀式に相応しい新鮮な清い水であるが、ヨハネ7章38節で主は、人間を清いものとする聖霊の賜物を「生きた水」にたとえられた。

(注)別エントリー「試論:『水と御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/23555

試論:「水と御言葉」を140文字以内で

主はヨハネ4章14節で「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」と仰せになった。箴言18章4節「人間は心の奥底にある思いをつい口に出して喋ってしまうが、知恵の源から湧き出る御言葉は命の水が溢れる大河のようだ」。

(注)別エントリー「試論:箴言18章4節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10929

【追記】

モーセの律法(レビ記14章など)では清めの儀式に用いる流水を「生きた水」と表現していた(新共同訳は「新鮮な水」)。勢いの良い流水は、澱んで濁った水と違い、清めの儀式に相応しい新鮮な清い水であるが、ヨハネ7章38節で主は、人間を清いものとする聖霊の賜物を「生きた水」にたとえられた。

聖霊の七つの賜物という特別の恵みは、古代のギリシア語訳またラテン語訳のイザヤ書11章2節〜3節の記述に基づいており、【1】知恵(上智)【2】分別(識別)【3】思慮(賢慮)【4】剛毅(勇気)【5】〔主に関する〕知識【6】〔主に対する〕孝愛(信心)【7】〔主に対する〕畏敬などである。

イザヤ11章9節は、「水」で満たすように「大地は主を知る知識で満たされる」と記す。しかし2節によれば「知恵」「識別」「主を知ること」等は全て「主の霊」すなわち聖霊の賜物である。つまり「水」は聖霊の賜物を象徴的(比喩的)に表現しており、12章3節は神なる主を「救いの泉」と表現する。

(注)別エントリー「試論:『聖霊の働きの識別』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10196

主はヨハネ4章で御自分を「生きた水」の源にたとえられ、これはエレミヤ17章12節の預言と符合し同章では主に信頼する人を水に根を張った木にたとえる(7節以下)。ヨブ29章19節も「水際に根を張る木」という比喩で主の御教えに根ざす信仰の堅固さや持続性を表し、マタイ13章にも対応する。

(注)別エントリー「試論:『根がない人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7315

民数記20章11節「モーセが杖で岩を二度撃つと、水が迸り出たので皆で飲んだ」ヨハネ19章34節「兵士が槍でイエスの脇腹を刺すと血と水が迸り出た」一コリント10章4節「モーセ一行は皆、共におられた神に由来する超自然的な岩から、神の水を飲みましたが、この岩こそキリストだったのです」。

主イエスはヨハネ3章5節で「誰でも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と仰せになった。これはエゼキエル36章25節以下「わたしがあなたたちの上に清い水を振りかける時、あなたたちは清められ、わたしはあなたたちの中に新しい霊を置く」と同様、洗礼を示唆している。

(注)別エントリー「試論:『わたしが与える水』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10708

「わたしが清い水を振りかける時、あなたたちは清められる。わたしはあなたたちを、すべての汚(けが)れと偶像から清める」。古代のイスラエル人にとって「水を振りかけられて清められる」とは、民数記19節で命じられる「清めの式」の流儀で、この預言をカトリックでは洗礼に関する啓示と理解する。

(注)別エントリー「試論:出エジプト記14章と洗礼を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15912

(注)別エントリー「試論:『バプテスマ』と『洗い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15165

(注)別エントリー「バプテスマは身を沈める・身をひたすことか【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/20233

モーセの律法(レビ記14章など)では清めの儀式に用いる流水を「生きた水」と表現し(新共同訳は「新鮮な水」)、主イエスはヨハネ7章38節では人間を清い者とする聖霊の賜物を「生きた水」にたとえられ、同4章のサマリアの女との対話で御自分を「生きた水」(10節)を与える者だと表現された。

(注)別エントリー「試論:聖霊の働きの徴を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4984

エレミヤ17章13節以下は「イスラエルの希望である主」を「生ける水の源」と呼び、「主よ、あなたが癒してくださるならわたしは癒され、あなたが救ってくださるならわたしは救われます」と続く。イザヤ6章10節(マタイ13章15節、ヨハネ12章40節)では主による赦しは癒しと同一視される。

試論:「心を引き裂け」を140文字以内で

【問】ヨエル2章13節「衣ではなく心を引き裂け」とは?
【答】神なる主の御前に自分の心を包み隠さず露わにすることの比喩で、でないと「放蕩息子」が「我に返った」時のようには今現在の自分が置かれている状況を直視できず、まず「茨」(自分を覆う世の思い煩いや富や快楽)を裂く必要があります。

指輪と履物

エステル3章10節以下では王権の委任を象徴する印章(ハガイ2章23節参照)として、指輪が登場する。放蕩息子のたとえでは相続人(ローマ8章17節参照)としての権利回復を象徴する。ルツ4章7節では親族が本人に替わり責務を代行する場合の要件として、履物が登場する。やはり権利回復を表す。

(注)別エントリー「試論:『履物を脱ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8620

エゼキエル33章11節には「わたしは悪人が死ぬことを喜ばない。悪人が立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ。悪しき道から立ち帰れ。どうしてお前たちは死んでよいだろうか」という主の仰せがあり、同18章と同様のおぼしめしが繰り返し伝えられ、人々に悪から離れて生きることを強く勧められた。

(注)別エントリー「試論:エゼキエル18章を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5726

マタイ6章34節「その日の苦労はその日だけで十分」は有名である。ただし「苦労」と日本語訳されるギリシア語には「悪」「災難」の意味合いがあり、全てを失った放蕩息子が回心し父親の許への帰郷を思い立ったのと同様に、主は第一に「神の国と神の義」(33節)への回帰(回心)をお勧めになった。

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4544

主は「神の義に飢え渇く人は幸いである。その人は満たされる」と仰せになったが、ルカ10章では自分を「義化」(29節)しようとして踏み込んだ質問をした律法学者に対して、憐れみの心(33節)と「神の義」と隣人愛(27節)と永遠の命(25節)は全て事実上重なっていることをお教えになった。

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346

(注)別エントリー「試論:隣人愛と『心の中で憎む』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10483

(注)別エントリー「試論:『わたしが与える水』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10708

箴言17章5節の後半は「他人の不幸を喜ぶ人は罰を免れない」等と訳される。古代のギリシア語訳はさらに「同情する人は憐れみを受ける」と続け、これはマタイ5章7節と同じ趣旨であり聖書の「憐れみ」とは他人の不幸を喜んだり笑ったり嘲ったり蔑んだりせず、ただ同情を寄せることであると説明する。

マタイ5章7節「憐れみ深い人は幸いである。その人は憐れみを受ける」はヨハネ13章「わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい」同14章「わたしを愛する人はわたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、御父とわたしはその人のところに行って一緒に住む」等と同じことである。

レビ19章18節「あなたは自分自身を愛するように、他の人を愛さなければならない」マタイ7章12節「あなたは、他の人からしてもらいたいと思うことならどんなことでも、あなたから他の人にしなさい」ヨハネ13章34節「わたしがあなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合いなさい」。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちは、自分が他の人からしてほしいことを、自分から他の人にしなさい」と《愛の掟》を教えられた。従って「愛の反対」は「他の人からしてほしくないことをあえて他の人に行うこと」そして「他の人からしてほしいことをあえて他の人には行わないこと」からなる。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

レビ19章18節は有名な隣人愛の掟を教えるが、その対極の行為として17節は兄弟を心の中で憎むことを禁じる。ゼカリヤ7章10節は互いに災いを心の中で企むこと、8章17節は互いに心の中で悪を企むことを禁じ、相手の困った顔・悲しむ顔・苦しむ顔を見たいという悪意を抱いてはならぬと戒める。

ローマ13章10節でパウロは「愛とは隣人に対して悪事を行わないことです」と断言している。これを踏まえるなら、隣人に対して悪事を行おうと企むことこそが愛の反対に該当する行為ということになる。同9節は「姦淫するな、殺すな、盗むな、貪るな(他人の物の横取りを企むな)」等を列挙している。

試論:「聖母被昇天」聖書的根拠を140文字以内で

創世記5章24節はエノクが神と共に歩み続けた結果、神が彼を地上から連れ去ったと記す。神の御独り子が生贄の小羊として屠殺される定めと知りながら母となることを承諾した女性が、「人となられた神」である御子イエスと共に歩み続けた親密性において、よもやエノクに引けを取るなど全くありえない。

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7514

【追記】

もし仮にそれが名もない女性だったとしても、人となられた神のために、ただただ手料理を三十年前後もの間、作り続けた女性がもしも実際に存在したとするならば、その一事のみをもって、その女性は全世界から崇敬を集めるに値する。まして彼女は、裁縫も洗濯も掃除もその他全ての神の家の家事を行った。

(注)別エントリー「試論:『地上の星』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11997

主イエスは福音書で「自ら高ぶる者は低くされ、へりくだり自ら低くなる者は高くされる」と繰り返された。神の御独り子の母に選ばれたにもかかわらず「わたしは主のはしため」と繰り返し実際「人となられた神」に生涯仕え続けた女性が、「神と共に歩んだ」点においてエノクに引けを取るなどありえない。

(注)別エントリー「試論:『謙遜の極み故の被昇天』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11125

【問】「主のはしため」とは、《神の御独り子の母》になる女性の自称としては何か物足りない気がします。
【答】イザヤは、救い主が「主の僕(しもべ)」として来られることを彼の預言書のいたるところで語りました。「主のしもべ」の母になると決意した女性の自称は、「主のはしため」が最も妥当です。

(注)別エントリー「試論:『主の僕(しもべ)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8849

(注)別エントリー「試論:『主の僕の忍耐』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6462

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』=『主の僕』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8876

「救い主」が世を救われる方法に関しイザヤは、「小羊」(53章7節)つまり代価として御自分をささげ、「しもべ」(42章、49章以下等)として人々に仕えると預言し、主もマタイ20章28節でそれを宣言された。救い主の母となることを承諾した女性が「主のはしため」を称するのは象徴的である。

(注)別エントリー「試論:『しもべ』と『はしため』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9785

試論:「心の貧しい人」の具体例を140文字以内で

【問】「心の貧しい人は幸いである」の「心の貧しい人」って、具体的にどんな人?
【答】ルカ15章「放蕩息子」の喩えで、無一物になって我に返り「今の自分の惨めな有様は全て自分の自業自得だが、父親の許に帰ればなんとかなるかもしれない」という一点に希望を賭けて、故郷に出発した人のことです。

【追記】

ルカ23章40節以下で主の隣の十字架につけられた盗賊は最後に神への畏れを知り、自分の今の惨めな境遇は全て自業自得だが神には罪はなく神の御心に適う願いなら聞き入れられると確信し、自分の隣にいるのは神そのものであると信じて直接それを伝えた。彼の信仰告白に主は最大の幸福を御約束された。

(注)別エントリー「神に対する確信を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5613

(注)別エントリー「『王』と『永遠の命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/20213

試論:「放蕩息子」教訓を140文字以内で

【問】主イエスはルカ15章「放蕩息子」の喩えで、弟子たちに何を教えようとされたのですか?
【答】イザヤ55章7節「神に従わない者はその道(=流儀)を捨てよ。悪を行う者はその悪巧みを捨てよ。わたしたちの神なる主に立ち帰るならば、主はどこまでも憐れんで下さり、どこまでも赦して下さる」。

(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3277

【追記】

エゼキエル18章「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は仰せになる。彼が悪から立ち帰って生きることを喜ばないだろうか。お前たちが犯した全ての背きを投げ捨てて新しい心と霊を造り出せ。どうしてお前たちは死んでよいだろうか。お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」。

試論:「ぶどう園と農夫」の喩えを140文字以内で

「家の主人」は御父である神、「ぶどう園」は古代のイスラエル(イザヤ5章7節、詩編80編9(8)節)、「主人の息子」は御子イエス御自身、「農夫」は古代イスラエルの宗教指導者、「僕(しもべ)」は旧約時代の預言者を指す。祭司長たちやファリサイ派の人々の殺意を、主イエスはここで暴かれた。

【追記】

【問】マルコ4章29節には「実」とか「収穫の時」とか書いてあるけど、何のこと?
【答】「実」はヨハネ4章36節「永遠の命に至る実」、「収穫の時」は同章35節「刈り入れ」にそれぞれ対応し、「刈り入れ」とは、マタイ25章34節の神の王国へ、それに相応しく実った人々を迎え入れることです。

試論:「家」そして「隅の親石」を140文字以内で

主イエスはイザヤ28章16節や詩編118編22(21)節を踏まえて御自分を「隅の親石」と呼ばれた。ヨハネ2章17節の通り「家」は神の家つまり神殿を指す。「あなたたち民の指導者は神殿の拡張工事には熱心(同章20節「四十六年」)でも救い主を邪魔者扱いするが、わたしから救いは始まる」。

(注)別エントリー「聖書にはクリスマスの日付が載っていますか???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13267

【追記】

ヨハネ2章17節は詩編69編10(9)節を引用し、

「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」

と記す。「あなたの家」は神殿を指し、「熱意が食い尽くす」もヘブライ語由来の表現で、

「あなたの家を思う熱意がわたしを突き動かす」
「わたしはあなたの家を思う熱意に駆られる」

の意味合いである。

(注)別エントリー「試論:『神殿で商人を追い出す』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10701

過越祭には過越の小羊が不可欠だった。祭のために世界中から都に集まる古代のユダヤ人は、羊を連れて旅するわけにもいかず羊を現地調達した。世界中のユダヤ人からも集められた神殿税は過越の小羊の準備にも当てられたが、それの度が過ぎて神殿の境内が家畜市場の様相を呈していた有様に主は憤られた。

(注)別エントリー「試論:『身代わりの羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9046

《体も家も自身にとっての住まい》(ヨブ4章19節参照)として「体」と「家」とを重ねるヘブライの世界観を踏まえ、主イエスは、《人となった神の子である自身の体》を《神の家=神殿》に重ねて「三日で建て直して見せる」と宣言されたが、イエスを冒瀆者として葬り去ろうとした人々に通じなかった。

創世記の2章と3章では、人間は「土(塵)」に由来し「土(塵)」に還る存在とする。創世記の記述に基づきヨブ記4章19節は「人は塵の中に基を置く土の家に住む者」と記す。ここでは人間の体を「土の家」と表現し、古代のヘブライ人が「(人間の)体」と「家」とを重ねて考えていたことを示唆する。

(注)別エントリー「試論:『土』と『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9629

「家と体はともに自身にとっての住まい」として両者を重ねる古代のヘブライ人の世界観を踏まえれば、主がヨハネ14章2節以下で仰せになった「あなたたちのために準備する住む場所」とは、「天から与えられる住みか」(二コリント5章1節)すなわち、「天上の体」(一コリント15章40節)を指す。

(注)別エントリー「試論:『霊の帰還』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8381

ヨハネ14章2節〜3節「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたたちのために場所を用意して、あなたたちを迎える」二コリント5章1節「わたしたちは、神によって建物が備えられていることを知っています。人の手によるものではない、天に備えられている永遠の住みかです」。

一コリント15章は、

《地上で生きる体》と《永遠の命を得て復活し天の国で生きる体》

とを、

「地上の体」と「天上の体」

「地上の命の体」と「霊の体」

等と表現する。

ヨハネ20章8節「先に墓に着いた、もう一人の弟子も入って来て、見て、信じた」同2章19節以下「イエスは仰せになった。『この神殿を壊しなさい。三日で再び建つだろう』。イエスが仰せになった神殿とは御自分の体であった。イエスの御復活の後、弟子たちは仰せを思い出し、聖書と仰せを信じた」。

(注)別エントリー「試論:福音書と『西遊記』の違いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5760

(注)別エントリー「イエス・キリストと天の雲」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/684

エレミヤ17章8節「根」

マタイ13章「種を蒔く人」のたとえでは「根」が堅実や持続の象徴として登場するが、エレミヤ17章7節以下には「主に信頼する人は、水のほとりに植えられて根を張った葉が青々とした木」などと記され、同13節では「イスラエルの希望である主」を「生ける水の源」と呼ぶ(ヨハネ4章14節参照)。

(注)別エントリー「試論:『わたしは命である』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11586

(注)別エントリー「試論:『永遠の命の言葉を持つ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11244

(注)別エントリー「試論:『命の木』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11236

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章4節『命の光』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7297

(注)別エントリー「試論:『自分の十字架』って何?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7179

主はヨハネ4章で御自分を「生きた水」の源にたとえられたが、これはエレミヤ17章13節とも符合しており、同章では主に信頼する人を水に根を張った木にたとえる(7節以下)。ヨブ29章19節も、同様の比喩を主の御教えに根ざした信仰の堅固さや持続性を表す際に用い、マタイ13章にも対応する。

モーセの律法(レビ記14章など)では清めの儀式に用いる流水を「生きた水」と表現していた(新共同訳は「新鮮な水」)。勢いの良い流水は、澱んで濁った水と違い、清めの儀式に相応しい新鮮な清い水であるが、ヨハネ7章38節で主は、人間を清いものとする聖霊の賜物を「生きた水」にたとえられた。

(注)別エントリー「試論:聖霊の働きの徴を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4984

ルカ11章41節「あなたたちはただ器の中にある物だけを施しなさい。そうすれば〜」ヨハネ7章38節「わたしを信じる者は、〔旧約〕聖書に書かれている通り(詩編116編13節「救いの杯」イザヤ12章3節「救いの泉から水を汲む」等)、その人の内から生きた水が川となって流れ出るであろう」。

古代のヘブライ人は良かれ悪しかれ定めを受け入れることを「杯」(ルカ11章39節)の比喩で表した(22章42節等)。主が11章41節で、「杯」の「内側」と「施し」すなわち憐れみの業を関連付けた比喩を用いられる時、古代のヘブライ人は詩編116編「救いの杯」(13節、5節)を連想した。

確かに御受難の前に主はルカ22章42節で、「杯」という比喩を苦しみの定めという意味で用いられたが、古代のヘブライ人にとって「杯」は必ずしも苦難だけを指すものではなく、幸福の定めを指していることさえあった。詩編116編13節「救いの杯」16編5節「主こそわたしが杯に受ける分け前」。

主はルカ11章で「外側」「内側」という表現を用いられたが、同じ事柄をパウロは二コリント4章16節で「外なる人」「内なる人」と表現し、ガラテヤ5章では「肉」「霊」と表現して両者の違いを詳しく記す。ガラテヤ5章22節「霊の結ぶ実」は、ルカ11章41節「器の中にある物」を説明している。

詩編31編でダビデは、さまざまな意味で衰えてきた自分の肉体を「壊れた器」(13節)と表現した。また二コリント4章7節でパウロは、人間の「外側」つまり「肉」の部分を、「土の器」と表現した。古代のヘブライ人の世界観では人間の肉体は土から取られて土に返る(創世記3章19節)定めである。

主はヨハネ4章14節で「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」と仰せになった。箴言18章4節「人間は心の奥底にある思いをつい口に出して喋ってしまうが、知恵の源から湧き出る御言葉は命の水が溢れる大河のようだ」。

イザヤ11章9節は、「水」で満たすように「大地は主を知る知識で満たされる」と記す。しかし2節によれば「知恵」「識別」「主を知ること」等は全て「主の霊」すなわち聖霊の賜物である。つまり「水」は聖霊の賜物を象徴的(比喩的)に表現しており、12章3節は神なる主を「救いの泉」と表現する。

(注)別エントリー「試論:『聖霊の働きの識別』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10196

民数記20章11節「モーセが杖で岩を二度撃つと、水が迸り出たので皆で飲んだ」ヨハネ19章34節「兵士が槍でイエスの脇腹を刺すと血と水が迸り出た」一コリント10章4節「モーセ一行は皆、共におられた神に由来する超自然的な岩から、神の水を飲みましたが、この岩こそキリストだったのです」。

主は山上の説教で「神の義に飢え渇く人は幸い。その人は満たされる」と仰せになった。その理由はヨハネ6章35節で説明される。「わたしは命のパンである。わたしの許に来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」同7章37節「渇く人は、わたしの許で飲みなさい」。

試論:「金持ちとラザロ」の背景を140文字以内で

主イエスはルカ16章で「不正な管理人」の喩えを話され、「あなたたちは神と富の両方に仕えることができない」と仰せになった。あるファリサイ派の人々が聞いていたが、彼らは富に魅かれていた。この人々に対し、主イエスは御自分を「死者の中から生き返る者」(31節)と称されて、話を続けられた。

【追記】

聖書の中で「犬」は、<良からぬもの>の比喩で用いられる(詩編22編17(16)節、マタイ7章6節、フィリピ3章2節等)。ルカ16章「金持ちとラザロ」の話に、できものをなめる犬が登場する。現代の日本人は犬の行為を慰めと捉えがちだが、古代のイスラエルでは恐らく「傷口に塩」を意味した。

主イエスはルカ16章で「神と富の両方に仕えることはできない」(13節)と教えられた。具体的に、19節以下の「金持ちとラザロ」の話で憐れみの心を持たない者の末路を仰せになり、他方「不正な管理人」の話で「愛は罪を覆う」(一ペトロ4章8節)の意味及び「憐れみの道」の重要性を教えられた。

主イエスはルカ16章の「不正な管理人」のたとえで、私欲のためでなく隣人のために富を費やすならば救いが訪れると仰せになり、後に徴税人ザアカイがその実例となった。19章8節「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。誰かから何かをだまし取っていたならそれを四倍にして返します」。

一ペトロ4章8節は、箴言10章12節を踏まえて「愛は罪を覆う」と説く。この意味について、主イエスはルカ16章「不正な管理人のたとえ」で、ある人が常日頃から周囲に対して情け深く接するならば、神は必ずその人の以前の過ちに対しても情け深く接して下さる(マタイ6章14節)と御説明された。

マタイ5章7節「憐れみ深い人は幸いである。その人は憐れみを受ける」はヨハネ13章「わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい」同14章「わたしを愛する人はわたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、御父とわたしはその人のところに行って一緒に住む」等と同じ道理である。

出エジプト記34章で主の栄光がモーセに現わされた際、御自分が優しさと厳しさを兼ね備えた神であると主はモーセに明らかにされた。ダビデは詩編18編21(20)節以下で、主は優しい人には優しく厳しい人には厳しいと歌った。その人が隣人に敬意を示さない限り、主はその人の信仰を認められない。

主はホセア6章6節「わたしが喜ぶのは憐れみであって『いけにえ』ではない」をマタイ福音書で二度(9章13節、12章7節)引用され、隣人への敬意を欠いた者による尊敬など、神には受け入れられぬと教えられた。22章で律法の最も重要な掟の第一を神への愛、第二を隣人愛とされたことと符合する。

試論:「ボアズの振る舞い」を140文字以内で

【問】ルツ記に登場するボアズの態度は、何を物語りますか?
【答】三千年以上も昔でも「男性の側が自分の方がはるかに有力な立場にあると分かっていても、相手の女性が無力であろうとも尊重すべきで、女性を粗末に扱うことは主の御旨に適っていない」という観念が歴として存在していたことを教えます。

試論:「悪魔の支配に打ち勝つ」を140文字以内で

【問】黙示録5章10節は主イエスに忠実な弟子たちを王や祭司と呼びますが、なぜですか?【答】主に忠実な弟子は、「最も偉い者は仕える者でありなさい」の御教えに忠実でサタンの罪と死によ支配に打ち勝ったという意味で「王」、いけにえの替わりに憐れみの業を主に献げるという意味で「祭司」です。

(注)別エントリー「試論:『王であること』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17293

(注)別エントリー「試論:『王の系統を引く祭司』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15281

【追記】

「救い主」が世を救われる方法に関しイザヤは、「小羊」(53章7節)つまり代価として御自分をささげ、「しもべ」(42章、49章以下等)として人々に仕えると預言し、主もマタイ20章28節でそれを宣言された。救い主の母となることを承諾した女性が「主のはしため」を称するのは象徴的である。

マタイ23章11節「あなたたちの中で最も偉い者は、仕える者であり続けなさい」ルカ1章38節「わたしは主のはしためです」ローマ5章17節「神の恵みと義の賜物を豊かに受けている人は唯一の主であるイエス・キリストを通して永遠の命を得て、サタンの罪と死による支配から自由になり王となる」。

【問】カトリックは聖母を「女王」扱いしますが福音書のマリアは控え目な女性ではないでしょうか?【答】黙示録5章10節は小羊に忠実な人々が王になると啓示します。「最も偉い者とは皆に仕える者」の御教えに忠実でサタンの罪と死による支配に打ち勝った者だからで、聖母は全信者の先駆的存在です。

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7514

(注)別エントリー「試論:世の罪を取り除く神の小羊を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6140

創世記3章15節で神は、サタンと決定的に対立する一人の女性が将来現れることを予告された。黙示録12章では、それは救い主の母となった女性のことだと啓示された。救い主は人々を罪や悪から救うために生まれるので、その母が存在の最初の瞬間から罪や悪とは完全に無縁であるべきなのは当然である。

(注)別エントリー「神のお告げ:受胎告知と無原罪の御宿り」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4835

(注)別エントリー「創世記3章15節:蛇の頭を踏み砕く者は誰か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1488

黙示録12章の女は5節で、諸国民を鉄の杖で治める男の子を産んだ。かつてモーセは神の杖を槌として用い岩を打ち砕いた。エレミヤ23章29節は御言葉を、岩を打ち砕く鉄槌に喩える。故に黙示録の鉄の杖も御言葉の象徴的表現で、男の子は「神の御言葉」主イエス・キリスト、女はその母マリアを指す。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:「わたしの主のお母さま」を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10221

黙示録は古代のヘブライの世界観に従い人間を「土の器」(2章27節)と表現し、さらにそれを踏まえ「諸国の民の上に立つ権威」(同節)を「鉄の杖」(同節、12章5節)に喩える。12章で「鉄の杖」は神の御独り子たる主イエスの王権を象徴し、最後までイエスに忠実だった人々は主の王権にも与る。

(注)別エントリー「試論:『女』とサタンの対立を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10314

(注)別エントリー「試論:『女』と『残りの者たち』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10682

黙示録20章やローマ5章は「悪に悪を返さない」ことを徹底して罪や悪と決別した人々を「バシレウオ(〔キリストとともに〕王となる)」という動詞で表すが、これはあくまで《義化の完成》を象徴する表現であり政治体制的な意味を含まず、彼らは「第二の死」を免れ「永遠の命」を得ると記されている。

黙示録5章10節は、「小羊」主イエスに忠実な弟子たちが王となり地上を統治すると啓示する。その理由の一つは彼らが「最も偉い者は皆に仕える者」(マタイ23章11節)という主の仰せに忠実だからであり、一つはローマ5章12節以下の通り、サタンの罪と死による支配に打ち勝った者だからである。

一コリント4章8節でパウロはコリントの人々に、《あなた方は教会を意のままに差配して誇っているが、どうかキリスト教の本分「罪と死の支配からの自由」を心がけ永遠の命に至る努力を日々怠らぬように。それならわれわれも福音宣教が実を結んだと主に認められて永遠の命に至るのに》等と書き送った。

【問】一ペトロ2章9節「あなたたちは王の系統を引く祭司」の意味とは?【答】モーセの律法の祭司はいけにえや献げ物を神に献げますが、王であるキリストの弟子は一人一人がいけにえでなく憐れみの業(ホセア6章6節、ミカ6章8節)を神に献げる義務がある、という意味でキリストにおける祭司です。

(注)別エントリー「試論:『いけにえ』と憐れみを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8356

(注)別エントリー「試論:憐れみ深い人が幸いの理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14898

(注)別エントリー「試論:ホセア6章の『神を知る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15271

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

(注)別エントリー「試論:『永遠の命の言葉を持つ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11244

試論:「言うだけで実行しない」を140文字以内で

【問】主イエスはなぜマタイ23章で律法学者たちやファリサイ派の人々を厳しく批判されましたか?
【答】その理由は「彼らは言うだけで実行しない」(3節)と説明されています。旧約の民は詩編12節にある通り本来、言行不一致の人々や面従腹背の人々の中には、信仰の存在を認めてはいませんでした。

【追記】

主イエス・キリストは、御自分に向かって「主よ、主よ」(マタイ7章21節)と言う者が「天の国」に入れなくなってしまう場合の理由として、「不法を働く」(23節)「不義を行う」(ルカ13章27節)を挙げられて、「狭い門」「命に通じる門」(マタイ7章13節、14節)の意味を御説明された。

(注)別エントリー「試論:『狭い門』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5628

(注)別エントリー「試論:『主よ、主よ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5380

(注)別エントリー「試論:『わたしは命である』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11586

(注)別エントリー「試論:なぜ『わたしは命』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11740

主はマタイ18章で、「心を入れ替えて子供のようにならなければ決して天の国に入ることはできない」(3節)また「自分を低くして子供のようになる人が天の国では一番偉い」(4節)と仰せになられ、「心を入れ替える」「自分を低くする」の二つが子供のようになるために必要な事柄であると説かれた。

(注)別エントリー「試論:『十字架が象徴するもの』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7585

(注)別エントリー「試論:キリスト教の日々の十字架を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7590

最も偉い人は仕える者になりなさい

黙示録5章10節は、「小羊」主イエスに忠実な弟子たちが王となり地上を統治すると啓示する。その理由の一つは彼らが「最も偉い者は皆に仕える者」(マタイ23章11節)という主の仰せに忠実だからであり、一つはローマ5章12節以下の通り、サタンの罪と死による支配に打ち勝った者だからである。

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7514

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』=『主の僕』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8876

(注)別エントリー「試論:小羊の弟子が王となる条件を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17152

一ペトロ5章3節は神の民を司牧する者の心得として、人々に権威を振り回すのではなく、人々の模範となることを勧める。ヨハネ13章15節「わたしがあなたたちにした通りに、あなたたちもするようにと、模範を示した」マタイ20章28節「人の子は、仕えられるためではなく、仕えるために、来た」。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888

(注)別エントリー「試論:『イエスは全人類の模範』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5948

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9949

ヨハネ1章14節は神の御独り子が恵みと真理に満ちて人間となられたことを記すが、ヤコブ4章6節と一ペトロ5章5節はともに「神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みをお与えになる」と強調し、ルカ1章は「わたしは主のはしため」とへりくだった女性こそが御独り子の母となったことを特筆する。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

(注)別エントリー「試論:へりくだりと恵みを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5777

黙示録20章やローマ5章は「悪に悪を返さない」ことを徹底して罪や悪と決別した人々を「バシレウオ(〔キリストとともに〕王となる)」という動詞で表すが、これはあくまで《義化の完成》を象徴する表現であり政治体制的な意味を含まず、彼らは「第二の死」を免れ「永遠の命」を得ると記されている。

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

【問】いわゆる千年王国説はなぜ誤りなのですか?
【答】キリストの王国は新約聖書本文ではバシレイアという語で表現されますが、主イエスはルカ11章20節で御自分が地上におられる時点でバシレイアが存在し始めていると示唆され、そしてダニエル7章27節はその王国が永遠に続くと預言しています。

(注)別エントリー「『神の指』?」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19346

(注)別エントリー「試論:バシレイア(=神の王国)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12654

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

主イエスはヨハネ18章36節で、「わたしのバシレイアは、この世には属していない」と仰せになった。原文のギリシア語バシレイアは、聖書では「王権」「〔神の〕王国」を意味し、「王国の一人一人」まで包含する。黙示録1章6節でヨハネは、自分たちは既にその一部を構成していると書き記している。

(注)別エントリー「試論:キリストの『バシレイア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15833

(注)別エントリー「試論:新しい天・地・エルサレムを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16733

主はマタイ4章17節で「天の国は近づいた」6章10節で「御国が来ますように」さらに12章28節で「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば神の国はあなたたちのところに来ている」と教えられ、神の御心が天に行われる通り地上でも行われる状態そのものこそ神の国の到来だと説明された。

(注)別エントリー「試論:『天の国』は今どこに??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11206

マタイ福音書では「天の国は近づいた」と三度(3章2節、4章17節、10章7節)言われるが、6章10節(「主の祈り」)では「御国が来ますように」の次は「御心が行われますように」となる。だとすれば、「天の国は近づいた」の次に続く言葉は「天の父の御心が地の上で行われる時が来た」である。

聖パウロはガラテヤ5章で、聖霊に由来する賜物と聖霊とは無縁の業(すなわち人間由来の悪)について説明したが、天の国とはもとより人間由来の悪など入り込む余地のない場所である。つまりガラテヤ5章の19節〜21節にあるものは全く存在せず、22節〜23節にあるものしか存在しない場所である。

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを確実に識別できる基準」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4564

(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3277

主イエス・キリストは、御自分に向かって「主よ、主よ」(マタイ7章21節)と言う者が「天の国」に入れなくなってしまう場合の理由として、「不法を働く」(23節)「不義を行う」(ルカ13章27節)を挙げられて、「狭い門」「命に通じる門」(マタイ7章13節、14節)の意味を御説明された。

(注)別エントリー「試論:『狭い門』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5628

(注)別エントリー「試論:『主よ、主よ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5380

(注)別エントリー「試論:『わたしは命である』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11586

(注)別エントリー「試論:なぜ『わたしは命』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11740

主はマタイ18章で、「心を入れ替えて子供のようにならなければ決して天の国に入ることはできない」(3節)また「自分を低くして子供のようになる人が天の国では一番偉い」(4節)と仰せになられ、「心を入れ替える」「自分を低くする」の二つが子供のようになるために必要な事柄であると説かれた。

(注)別エントリー「試論:『十字架が象徴するもの』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7585

(注)別エントリー「試論:キリスト教の日々の十字架を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7590

試論:「隣人愛と神への愛」を140文字以内で

マタイ22章14節の「選ばれる人」とは、神からの招きに忠実に応じて「神の掟を守り通す人」(黙示録12章17節)である。隣人に対して憐れみ深い人は自分も神の憐れみを受ける(マタイ5章7節)。一人一人が隣人に対して取るのと同じ態度を、神も一人一人に対して返される(ルカ6章38節等)。

【追記】

主イエスはルカ8章21節で「わたしの母と兄弟たちとは神の御言葉を聞いて行う人々のこと」と仰せになり、聞いて行うことの重要性を再確認された。既に主は18節で「持っている者はさらに与えられ、持っていない者は〜」と仰せになり、聞いても行わない者は御言葉自体から離れていくと御暗示された。

(注)別エントリー「試論:『持つ人は更に与えられ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11656

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「イエスの『兄弟』『姉妹』:同胞か親戚か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1451

ルカ11章28節のギリシア語本文を読むと主は前節の「ある女性」の発言を否定しておらず逆に強く同意している。主は「もちろんそうだがさらに(母に関して)言えば、神の言葉を聞いてそれを守る人は幸いだ」とは仰せになったが、母は神の言葉を聞かないとか守らないなどとは一言も口にされていない。

(注)別エントリー「試論:ヨセフが妻を畏敬する理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7888

(注)別エントリー「試論:『マリアやヨセフに祈る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18647

御自分の母を称える女性の言葉に対し主はルカ11章で神の言葉を守る人こそ幸いと答えられた。ヨハネ14章で主は「わたしを愛する人はわたしの言葉を守る」と仰せになられたが、マリアが母として主を誰よりも愛しておられたことには疑う余地がなく、マリアが神の言葉を守らないことも当然ありえない。

(注)別エントリー「試論:主イエスへの愛を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5453

主はマタイ7章26節で「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は、砂の上に家を建てる人に似ている」と教えられた。22章14節「招かれる者は多いが選ばれる者は少ない」とは、「わたしの教えを耳にしたことのある者は多いが、それを真摯に受け止めて日々実践している者は少ない」という意味である。

黙示録7章9節は、「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆」が御父と御子を称える光景を記す。イザヤ56章1節は、正義を守り恵みの業を行う人々、すなわち、主が望まれることを選んだ(4節)人々に、救いと恵みの業が訪れることを預言する。

(注)別エントリー「試論:『合格者数と合否の基準』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8201

(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6748

今、あなたの神、主があなたに求めておられることとは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてその全ての導きに従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸せになることではないか。(申命記10章12節〜13節)

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

ミカ6章8節「何が善であって、主が何をあなたたちに求めておられるかは、あなたたちには既に告げられている。それは神の義を行い、憐れみの業を愛し、へりくだり神と共に歩むこと」ホセア6章6節「わたしが求めるものは『いけにえ』ではなく憐れみであり、焼き尽くす献げ物ではなく神を知ること」。

弟子たちの足を洗うという行為を通じて、主イエスは隣人に敬意を払って尊重することこそ御自分の御教えの根幹であると教えられた。自分自身が他人から尊重され敬意を払われた経験がなければ敬意と尊重は理解できない。「互いを尊重するなら、それを見て皆はあなたたちがわたしの弟子であると認める」。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

「秤」

ルカ6章38節で主は、「あなたがたは自分の量る秤(はかり)で量り返される」と仰せになり、他人に厳しく自分に甘い人に対して神が厳しい態度で臨まれることを宣言された。それゆえ、主は「人を裁くな」「人を罪人と決めるな」「赦しなさい」「与えなさい」「敵を愛しなさい」等々とお教えになった。

(注)別エントリー「試論:赦しの重要性を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5390

マタイ6章14節〜15節「あなたがたが人を容赦するなら天の父もあなたがたを容赦されるが、あなたがたが人を容赦しないなら天の父もあなたがたを容赦されない」は同5章7節「憐れみ深い人は幸いである。その人は憐れみを受ける」などと、表現を変えながら福音書の随所に登場する、重要事項である。

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346

出エジプト記34章で主の栄光がモーセに現わされた際、御自分が優しさと厳しさを兼ね備えた神であると主はモーセに明らかにされた。ダビデは詩編18編21(20)節以下で、主は優しい人には優しく厳しい人には厳しいと歌った。その人が隣人に敬意を示さない限り、主はその人の信仰を認められない。

(注)別エントリー「試論:『選ばれた人は選んだ人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8034

ヨハネ2章23節以下「イエスは過越祭のエルサレムにおられ、その行われたしるしを見て多くの人々がイエスの名を信じたが、イエス御自身は各人の全てを御存知だったので人々を完全には信用をされなかった」マタイ7章21節「わたしに向かい『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」。

(注)別エントリー「試論:『主よ主よと呼びながら』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15669

ルカ6章46節「あなたたちはわたしを『主よ、主よ』と呼んでおきながら、なぜわたしが言っていることを、行わないのか?」ヨハネ8章51節「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことはない」ガラテヤ5章6節「キリスト・イエスに結びついているのなら、愛の実践を伴う信仰こそ重要です」。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

マタイ7章21節「わたしに向かって、『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るのではなく、わたしの天の父の御心を行う者だけ入る」ヨハネ13章34節「わたしがあなたがたを愛したように、愛し合いなさい」ガラテヤ5章6節「キリスト・イエスに結ばれているなら、愛の実践を伴う信仰こそ大切」。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:新都エルサレムに住む条件を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11197

マタイ25章45節で主は「この小さな者の一人にしなかったことは、わたしにしなかったことである」と仰せになり、隣人愛の実行を神への愛の基準にすると宣言された。従って「私は周囲とはトラブルを起こしてばかりですが、主よ、あなたへの愛だけは誰にも負けません」という自己申告は、通用しない。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

ヨハネ14章15節で主は「わたしを愛しているのなら、わたしの掟を守りなさい」と仰せになり御自身が教えられた掟を守ることをもって御自身への愛を判断すると宣言された。従って、「私はあなたの掟を守れてはいませんが、主よ、あなたへの愛だけは誰にも負けません」という自己申告は、通用しない。

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

マタイ25章45節「この小さな者の一人にしなかったことは、わたしにしなかったことである」は、一ヨハネ4章20節で「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」と繰り返され、21節は神から受けた掟として「神を愛する人は兄弟をも愛すべきです」と断言している。

「善い盗賊」はルカ23章で、「悪い盗賊」の罵りから主イエスを擁護し(40節)、自分のこれまでの悪事を素直に認める一方(41節)、主には悪いものは一つもないと宣言し(同節)、最後に自分は主によって救われたいと、真摯に希望した(42節)。主は「善い盗賊」に、永遠の幸福を御約束された。

(注)別エントリー「『善き盗賊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5640

主はルカ18章9節以下で「他人を裁くな」をたとえで教えられた。他人を引き合いに出して自分の正しさを並べ立てた人の「祈り」は単なる自画自賛の連続に過ぎず、そこにへりくだりはなく、全く「祈り」として体を成さなかった。神の御前で何の言い訳も一切せずにひたすらへりくだった人が義とされた。

(注)別エントリー「ファリサイ派の人と徴税人」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5182

主はマタイ22章で律法中の最も重要な掟の第一は神への愛、第二は隣人愛と仰せになった。申命記10章でモーセへの戒めの再授与の際、12節以下では神への愛が命じられ、19節では「遠くからやって来た者(寄留者、新参者、改宗者)」という表現で隣人愛(レビ19章18節、34節)が命じられた。

(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1982

マタイ22章36節以下の「律法の中で最も重要な掟はどれか」の答えと、ルカ10章25節以下の「永遠の命を得るために何をすればよいか」の答えは一致する。またマルコ12章32節は「神は唯一であり、他に神はない」という事柄をギリシア語本文でアレテイアすなわち真理と表現してこれを強調する。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書のアレテイアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15430

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちは、自分が他の人からしてほしいことを、自分から他の人にしなさい」と《愛の掟》を教えられた。従って「愛の反対」は「他の人からしてほしくないことをあえて他の人に行うこと」そして「他の人からしてほしいことをあえて他の人には行わないこと」からなる。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

レビ19章18節は有名な隣人愛の掟を教えるが、その対極の行為として17節は兄弟を心の中で憎むことを禁じる。ゼカリヤ7章10節は互いに災いを心の中で企むこと、8章17節は互いに心の中で悪を企むことを禁じ、相手の困った顔・悲しむ顔・苦しむ顔を見たいという悪意を抱いてはならぬと戒める。

ローマ13章10節でパウロは「愛とは隣人に対して悪事を行わないことです」と断言している。これを踏まえるなら、隣人に対して悪事を行おうと企むことこそが愛の反対に該当する行為ということになる。同9節は「姦淫するな、殺すな、盗むな、貪るな(他人の物の横取りを企むな)」等を列挙している。

箴言26章19節は日本語で「悪乗り」と呼ばれる行為を戒め、「親しき仲にも礼儀あり」という事柄を想起させる(詩編15編3節参照)。箴言26章18節は「死の矢」という表現を用いるが、旧約聖書の「剣」と「矢」は《心に刺さる言葉》の比喩(詩編64編4(3)節等)で、隣人への暴言を戒める。

(注)別エントリー「試論:『言葉』と『心の傷』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8216

(注)別エントリー「試論:『言葉の刃』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8308

(注)別エントリー「試論:『火も剣も御言葉の比喩』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7812

レビ19章18節は「自分自身を愛するように隣人を愛する」という隣人愛を命じ、同章ではその隣人愛の対極にある様々な行為を禁じる。17節は「心の中で兄弟を憎んではならない」と悪意を秘めたまま隣人に接することを禁じて「出来心(ふざけただけ)」という言い訳も認めない(箴言26章19節)。

(注)別エントリー「レビ記19章17節:理由のない悪意」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4826

レビ19章18節は「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」17節は「心の中で兄弟を憎んではならない」ゼカリヤ7章9節は「互いにいたわり合い憐れみ深くありなさい」10節は「互いに災いを心にたくらんではならない」と教える。「心の中で憎む」とは相手の不幸を心の中で望むことを意味する。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

試論:「天上の体」と黙示録1章を140文字以内で

「主の変容」の際、マタイ17章2節は「その顔は太陽のように輝き」と記すが、黙示録1章16節は天上におられるキリストを「顔は照り輝く太陽のようであった」と記し、まさに「主の変容」において三人の使徒は「天上の体」を目撃した。黙示録1章でヨハネは「主の変容」を思い出し主の足許に倒れた。

(注)別エントリー「試論:『火も剣も御言葉の比喩』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7812

【追記】

主イエスはマタイ17章の「主の変容」で三人の使徒に「天上の体」(一コリント15章40節)すなわち死者の復活後の人間の姿(同章35節以下)をお示しになったが、当時三人の使徒は全く理解できなかった。「人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は愛する者たちに準備された」(同2章9節)。

「主の変容」の後、主イエスは「人の子が死者の中から復活するまでは今見たことを誰にも話してはならない」と命じられた。使徒たちは「天上の体」(一コリント15章40節)を目撃したのだが、まず主の御復活前後の実体験を経た上で復活の意義を理解しなければ、「天上の体」の理解もないからである。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888

主は高い山の上でモーセやエリヤと語り合われたが、語り合っているのは誰かがペトロには察しがついた。モーセは「神の杖」を手に携えていて(出エジプト記4章20節、17章9節)エリヤは「毛衣を着て腰には革帯を締めている」(列王記下1章8節)という外見的特徴からペトロは判断したのであろう。

「主の変容」とは、一コリント15章でパウロが言及する

「天上の体」(40節)

を主イエスが実際に三人の使徒へお示しになった意義深い出来事で、パウロは「天上の体」を

「朽ちないもの」(42節)

「輝かしいもの」「力強いもの」(43節)

「霊の体」(44節)

「天に属する者」(47節)

等と呼ぶ。

【問】『コヘレトの言葉』は読者にニヒリズム(虚無主義)を勧めていますか?
【答】いいえ、全く違います。むしろ12章13節で「神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間の全て」と説き、同章5節「永遠の家」への希望と憧れを抱くよう強く勧めます。箴言8章13節「主を畏れるとは悪を憎むこと」。

コヘレト12章7節では人間の肉体を「塵」と表現し死によって大地(創世記2章7節、3章19節)へ帰ると記すが、洗礼により「神の子とする霊」(ローマ8章15節)を受けた者の「霊」は対照的に、罪に脆い肉体の重荷から解放され「霊」をくださった「与え主」神の許へ帰るべきだと定められている。

(注)別エントリー「試論:『盗賊さえ楽園に達した』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8383

一コリント15章でパウロは「地上の体」「天上の体」という表現を用いて、《人間が地上で生活していた際の、死によって朽ちていく肉体》と《その人の霊が神の許に帰還した後で、神によって天上で新しく与えられる、朽ちることのない体》について説明し、後者を「霊の体」(44節)等と表現している。

(注)別エントリー「試論:『イエスは復活と命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8389

古代のヘブライ人の世界観に従ってガラテヤ5章は「人間(人間それ自体)」を「肉」、「神〔に由来するもの〕」を「霊」と呼ぶ。ヨハネ3章6節も同様の対比を用い、「霊から生まれた者は霊」の意味を1章12節は「神の御言葉である主イエスは自分を受け入れる人に神の子となる資格を与えた」と記す。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:ガラテヤ5章の『肉と霊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7657

古代のイスラエル人にとって「肉」という表現は「人間」を指す場合があった(ヨハネ1章14節等)。マルコ7章20節以下で主イエスが「人から出て来るものこそ人を汚す」と注意を促された諸悪と、ガラテヤ5章19節以下でパウロが「肉の業」と呼んで避けるように促した諸悪が同様なのは当然である。

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346

ガラテヤ5章は「肉」と「霊」の対立を記すが、ヨハネ1章同様、パウロは古代のヘブライの世界観に基づき、人間そのものを「肉」と表現して「霊」つまり「神の霊」と対比する。近代人は「肉と霊」という表現から「〔人間の〕肉体と〔人間の〕霊魂の対立」をイメージしがちだが、パウロの意図は異なる。

古代のヘブライ人は「肉」を、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけではなく魂も含めた人間の全体。)」を表す言葉として用いていた。創世記6章12節「すべて肉なる者は堕落の道を歩んでいた」(新共同訳)。日本語訳の「肉なる者」に対応する語は、ヘブライ語本文ではただ単に「肉」である。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7795

二世紀初めにアンティオキアの聖イグナティウスが記したように初代の信者は、キリストの御復活すなわち「天上の体」(一コリント15章40節)の創造の記念に、週七日の中で祝うべき特別の日を土曜日(ユダヤ教の安息日)から、御復活があった「週の最初の日(安息日の翌日)」日曜日へと置き換えた。

(注)別エントリー「試論:『安息日と主日との違い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12017

試論:「完全」???を140文字以内で

マタイ5章48節の「あなたたちの天の父が完全であられるように、あなたたちも完全な者となりなさい」の「完全な」に当たる原文のギリシア語は、古代のギリシア語訳創世記6章9節でも用いられている。この語に同節で対応する原文のヘブライ語は新共同訳では「無垢な」という日本語で表現されている。

(注)別エントリー「試論:山上の説教の『完全な者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7007

【追記】

マタイ5章48節で主は、天の御父が完全であられるように各自も完全な者となるよう勧められたが、憐れみ深さという点で「完全」を目指すべきことがルカ6章36節では説明されている。さらに同40節の後半で、福音の教えに従って自分自身を矯正し続ける者は「完全」まで到達できると主は確約された。

(注)別エントリー「試論:『わたしの荷は軽い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6870

主イエスはルカ6章40節でどうすれば弟子は師のようになれるか教えられた。ギリシア語本文の動詞はマルコ1章19節「〔網の〕手入れをする」と同じで「破れがないか全体を確認し、あれば修繕し、付着物を念入りに除去し、十分に洗い、現場で使い物になる完全な状態まで仕上げる」という意味である。

主はルカ6章40節で「弟子は先生より優れた者でないにせよ、普段から十分に心の準備を整えていれば、その先生のようになれる」と仰せになった。この箇所は内容的には36節の「あなたたちの天の御父が憐れみ深い方であられるように、あなたたちもまた、憐れみ深い者になりなさい」に結び付いている。

(注)別エントリー「試論:『憐れみ深い人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10347

(注)別エントリー「試論:『憐れみ深い人、ヨセフ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6057

主はマタイ18章3節で、心を入れ替えて幼子のようになるように強く弟子たちへお命じになり、他方5章48節では、天の御父と同様に、皆も「完全」となるように主はお勧めになった。古代のギリシア語創世記では「完全」というこのギリシア語が、6章9節においてヘブライ語の「無垢」に対応している。

(注)別エントリー「試論:マタイ5章8節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7254

マタイ5章48節では「天の父が完全であるように、完全な者となりなさい」と説く。この場合の「完全な者」とは、レビ記19章2節では「聖なる者」、ルカ6章36節では「憐れみ深い者」であり、「完全」という表現でも人間に実行不可能な無理難題ではない(一ヨハネ5章3節、マタイ11章30節)。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

(注)別エントリー「試論:『いけにえ』と憐れみを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8356

主イエスはマタイ5章48節で「あなたたちの天の御父が完全な方であられるように、あなたたちも完全な人になりなさい」と仰せになったが、「完全」の意味をヤコブ3章2節は「言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人」と呼び、「舌を制御する」(8節)ことの重要性を説く。

マタイ7章21節「わたしの天の父の御心を行う者だけが、天の国に入る」11節「求める相手に良いものを与えることこそ、天の父の御心」12節「あなたが他の人からしてもらいたいことならなんでも、あなたから他の人にしなさい」5章48節「天の父が完全であられるように、完全な者となりなさい」。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』の意義を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17078

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346

試論:旧約聖書の「敵を愛する」を140文字以内で

主イエスは敵を愛するよう命じられたが、それはモーセの律法にも存在した。出エジプト23章4節〜5節「あなたの敵の牛やろばがさまよっているのを見たなら、その家畜を敵のところへ帰してやりなさい。あなたを憎む者のろばが重荷の下敷きになっているのを見たなら、その者と共にろばを助けなさい」。

【追記】

主はマタイ5章44節で「敵を愛する」ように教えられたが、のちに具体例としてルカ10章30節以下で「善きサマリア人のたとえ」をお話しになった。このたとえは、当時ユダヤ人とサマリア人とが実際には、交流すら避けるほど不仲の間柄であった(ヨハネ4章9節等参照)という状況を前提にしている。

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4544

一人の律法学者は自分を「義化」(ルカ10章29節)しようとして(「義人」(マタイ1章19節)とするために)、隣人愛(ルカ10章27節)に関して、主に、踏み込んだ質問を行なった。主は、憐れみの心(33節)と「神の義」と隣人愛と永遠の命(25節)は事実上重なっているとお教えになった。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

マタイ5章43節で主は、「『隣人を愛し、敵を憎め』と教えられている。しかし、〜」と仰せになった。隣人愛の掟はレビ19章18節に由来する。「敵を憎め」の方の由来は「主よ、あなたを憎む者をわたしも敵とみなし憎む。敵に屈しはせず、とことんわたしも憎む」(詩編139編21節以下)である。

ダビデは詩編139編21節〜22節で「敵」を憎むことを神なる主に誓ったが、この場合「敵」とは「あなたを憎む者」すなわちサタン(悪魔)である。一方、主イエス・キリストが「敵」を愛することをお勧めになる時、その場合「敵」とは「悪人」(マタイ5章39節、45節)すなわち同じ人間を指す。

主はマタイ5章39節で、悪人に「対抗」(ルカ21章15節)してはならないと仰せになった。原文のギリシア語は「全面的に対抗する」「徹底的に応戦する」というニュアンスであり、それも含めてマタイ5章で主は早期の和解を勧められ、同じギリシア語で悪魔への「対抗」をヤコブ4章7節では勧める。

マタイ5章39節の原文の表現を調べると、主が禁じたのは悪人と同じ次元(行為や目的)の報復や応戦であり、逃れる手段があれば用いてもよく(ヨハネ8章59節)言説による反論もよい(同18章23節)。もちろん女性が暴行から逃れる目的で男性に抵抗するのもよい(同じ目的の応戦に該当しない)。

主はマタイ5章39節で悪人に手向かってはならないと仰せになったが、主がここで禁じられたのは<悪人と同じ次元の争い事>つまり、悪人と同じ手段で報復を行い自分も悪事に手を染めることだった。38節で「目には目、歯には歯」に言及されたのはそのためで、報復の連鎖に陥らぬよう主は戒められた。

ヨハネ18章で主が逮捕されて大祭司のもとで尋問を受けた際、「返事の仕方」のことで大祭司の「下役」に難癖をつけられ、主は平手打ちを受けた。もちろん主は不当な暴力に対して暴力で返すことなどなさらなかった(マタイ5章39節参照)が、不当な言い掛かりに対して主張すべき事柄は主張なさった。

モーセの律法には「目には目」という表現が登場するが、これはあくまで公的な裁判における刑罰の基準を示すものであって、その目的はイスラエルの民に悪事が蔓延するのを防ぐ(申命記19章19節以下)ためであり、私的な復讐の基準ではなく元来、復讐は律法で許されていない(レビ記19章18節)。

試論:「高慢な人々の破滅」を140文字以内で

「神は高慢な者を敵とする」と聖書は随所(箴言3章34節等)で教える。ただし高慢な人の破滅を準備するのは、実は高慢な人自身である。高慢な人は周囲を侮り、眼中にないかのように配慮もなく、高慢な人の態度を嫌った周囲の人々は高慢な人が窮地に陥っても援助や協力の手を差し延べようとはしない。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

【追記】

主はルカ18章14節で、義とされたのはファリサイ派の人ではなく徴税人の方だと仰せになったが、徴税人はファリサイ派の人と違い、他人を裁くことや他人を罪人と決めつけることを一切せずただただ自分の非を認め神の憐れみを切望したからである。主は他人を引き合いに出しての弁明を好まれていない。

(注)別エントリー「ファリサイ派の人と徴税人」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5182

マルコ7章の通りファリサイ派の人々は、神が授けられたモーセの律法の多数の掟に加えて、「昔の人の言い伝え」と呼ばれる人間由来の多数の掟を皆に課した。背負い切れない重荷と化した掟の数々に、人々は自分の落ち度を指摘されるよりはとばかりに皆で互いの粗探しを始めたが、そこに隣人愛はあるか?

(注)別エントリー「試論:『背負い切れない数の掟』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19409

(注)別エントリー「試論:ファリサイ派を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19428

(注)別エントリー「試論:『厳しい言葉の理由』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19441

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

生涯の大半、ダビデ王は貧困とは無縁に見えたが、詩編で神の救いを切望(40編14節、70編2節)する際、自身の内面を「貧しい」と表現した(40編18節、70編6節)。ダビデの詩編を踏まえればマタイ5章3節に登場する「心の貧しい人」とは実際には、神の救いを切望している人のことである。

(注)別エントリー「『心の貧しい人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12193

ルカ23章40節以下で主の隣の十字架につけられた盗賊は最後に神への畏れを知り、自分の今の惨めな境遇は全て自業自得だが神には罪はなく神の御心に適う願いなら聞き入れられると確信し、自分の隣にいるのは神そのものであると信じて直接それを伝えた。彼の信仰告白に主は最大の幸福を御約束された。

(注)別エントリー「『ぶどう園の労働者』実例を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18482

ヨハネ9章31節には「神は罪人の言うことなどお聞きにならないとわたしたちは承知している」という言葉が記されてはいる。罪人が良からぬ企みを実行する前に成功を神に願い求めても、神が聞き入れるわけがないが、罪人が罪人であることを止めて回心したいと神に願う時は、神は喜んで聞き入れられる。

(注)別エントリー「試論:『聞き入れられる願い事』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18477

詩編1編1節は幸いな者として「神の逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず」と歌い、「神は高慢な者を敵とされ、へりくだる者に恵みをお与えになる」(箴言3章34節、ヤコブ4章6節、一ペトロ5章5節)と同様に、高慢心は信仰と相容れないことを説く。

(注)別エントリー「試論:『恵みとへりくだり』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8781

「救い主」が世を救われる方法に関しイザヤは、「小羊」(53章7節)つまり代価として御自分をささげ、「しもべ」(42章、49章以下等)として人々に仕えると預言し、主もマルコ10章45節でそれを宣言された。救い主の母となることを承諾した女性が「主のはしため」を称するのは象徴的である。

(注)別エントリー「試論:『しもべ』と『はしため』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9785

試論:コヘレトの言葉「空しい」を140文字以内で

【問】『コヘレトの言葉』では「空しい」と繰り返されますが、一体何と比べて「空しい」というのですか?
【答】それは12章5節「永遠の家」で主イエスはヨハネ14章2節で「わたしの父の家」マタイ25章34節で「天地創造の時からあなたたちのために準備されている国」とそこを呼んでおられます。

(注)別エントリー「試論:人間の完成形(最終形態)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15868

【追記】

【問】『コヘレトの言葉』は読者にニヒリズム(虚無主義)を勧めていますか?
【答】いいえ、全く違います。むしろ12章13節で「神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間の全て」と説き、同章5節「永遠の家」への希望と憧れを抱くよう強く勧めます。箴言8章13節「主を畏れるとは悪を憎むこと」。

ルカ23章42節で善き盗賊は、主イエス・キリストに属する民がいる場所を「あなたの御国」と呼んだ。そこを主御自身は続く43節で「楽園」と呼ばれた。主イエスは御受難と御復活との間に「新しい天・地・エルサレム」と呼ばれる場所を創造され、御自身と御自分の民の「復活の体」もまた創造された。

(注)別エントリー「試論:キリストの『バシレイア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15833

(注)別エントリー「試論:新しい天・地・エルサレムを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16733

(注)別エントリー「試論:『王』と呼ばれる意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19508

主イエスはマタイ17章の「主の変容」で、三人の使徒に、「天上の体」(一コリント15章40節)すなわち死者の復活後の人間の姿(同章35節以下)をお示しになったが、当時三人の使徒は全く理解できなかった。同2章9節「人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は愛する者たちに準備された」。

(注)別エントリー「試論:ルカ9章『主の変容』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14938

「家と体はともに自身にとっての住まい」として両者を重ねる古代のヘブライ人の世界観を踏まえれば、主がヨハネ14章2節以下で仰せになった「あなたたちのために準備する住む場所」とは、「天から与えられる住みか」(二コリント5章1節)すなわち、「天上の体」(一コリント15章40節)を指す。

(注)別エントリー「試論:『霊の帰還』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8381

ヨハネ14章2節〜3節「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたたちのために場所を用意して、あなたたちを迎える」二コリント5章1節「わたしたちは、神によって建物が備えられていることを知っています。人の手によるものではない、天に備えられている永遠の住みかです」。

試論:大声で喚き怒鳴り散らす人を140文字以内で

エフェソ4章の後半以降(17節以下)では、洗礼を受けた人が取るべき(また避けるべき)態度を教える。悪態をつき、無慈悲で、平然と悪口を言い、思う通りにならないと大声で喚き、怒鳴り散らし、相手が幼子や女性だと小馬鹿にして勝ち誇る人がいたとして、誰が彼のことを信者だなどと思うだろうか?

(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6748

【追記】

主イエスはルカ6章45節で「人の口は、心からあふれ出ることを語る」と仰せになり、どんなに隠そうと努力したとしても、人の言葉の端々にその人の本性(秘められた内面)が露呈してしまうと示唆された。主はマタイ6章22節でも同様に、目つきやまなざしにその人の本性が露呈されることを説かれた。

(注)別エントリー「試論:『目』と『ともし火』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8003

シラ27章6節は「実を見れば木が手入れされているかどうか分かるように、人間が心の中で何を考えているかはその人の話を聞けば見えて来る」と説く。主イエスもルカ6章44節で「木はその結ぶ実によって分かる」と仰せになり、45節で「人間の口は、心からあふれ出ることを語る」と続けて語られた。

主イエスはルカ6章45節で「人間の口は、心からあふれ出ることを語る」と教えられたが、さらにマタイ12章36節以下では、その続きとして「人間は自分の話した些細な言葉の全てについて『裁きの日』には責任を問われ、自分の言葉によって義とされたり、あるいは罪ある者とされる」と仰せになった。

(注)別エントリー「試論:『実によって分かる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14662

マタイ12章37節「あなたは自分が口にした言葉によって義とされ、自分の言葉によって罪ある者とされる」5章22節「兄弟に『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」7章21節「わたしに『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るわけではなく、天の父の御心を行う者だけが天の国に入る」。

(注)別エントリー「試論:『新たに生まれなければ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9816

主イエス・キリストは「人は自分が発したどんな言葉に関しても裁きの日には責任を問われ、自分が発した言葉について義とされまたは罪ある者とされる」(マタイ12章36節〜37節)と舌を制御する(ヤコブ3章)重要性を強調され、心にもないことをつい口走ってしまったという言い訳を認められない。

マタイ25章45節で主は「この小さな者の一人にしなかったことは、わたしにしなかったことである」と仰せになり、隣人愛の実行を神への愛の基準にすると宣言された。従って「私は周囲とはトラブルを起こしてばかりですが、主よ、あなたへの愛だけは誰にも負けません」という自己申告は、通用しない。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

【問】主イエスはなぜ「怒ってはならない」(マタイ5章22節)と仰せになりましたか?
【答】いくら人間が怒りに突き動かされて行動しても、それでは決して「神の義」には到達しない(ヤコブ1章20節)からです。人間には自分の怒りに任せて行動することを自己正当化する傾向があるので要注意です。

試論:「怒ってはならない」理由を140文字以内で

【問】主イエスはなぜ「怒ってはならない」(マタイ5章22節)と仰せになりましたか?
【答】いくら人間が怒りに突き動かされて行動しても、それでは決して「神の義」には到達しない(ヤコブ1章20節)からです。人間には自分の怒りに任せて行動することを自己正当化する傾向があるので要注意です。

【追記】

【問】「何よりもまず神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6章33節)の「神の義」って、何のこと?
【答】同7章12節「あなたたちが他の人からしてもらいたいことなら全て、あなたたちの方から他の人にしなさい。これこそが〔わたしの御教えの〕律法であり、預言者〔たちの啓示の要約〕である」。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

【問】マタイ7章7節「探しなさい。そうすれば、見つかる」何が?
【答】天の国に入るためには「狭い門」(同13節)つまり「神の義」(同6章33節)の「門」(詩編118編19節)を通らねばならず、その通行証となるものはキリストの律法(マタイ7章12節)の実践以外にないということがです。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

試論:真の礼拝と偶像礼拝の違いを140文字以内で

【問】出エジプト記32章「金の子牛」の箇所は、どんな教訓を与えますか?
【答】人々は、神なる主から教えられた事柄とは全く無関係な意味のない事柄を互いに語りかけ、また大声で歌って踊り、騒々しく大騒ぎしました。真の礼拝とは、心の中で静かに神に語りかけることです(サムエル上1章13節)。

【追記】

【問】信者を自称する人々の中には、自分たちの集会の中で、神の御言葉とは無関係な意味のない事柄を互いに語りかけ、大声で歌って踊り、「聖霊が降(くだ)った」と称する人がいます。
【答】一コリント14章33節は「神は無秩序の神ではなく、平和の神」と教えます。真の礼拝は騒々しさと無縁です。

パウロは一コリント14章33節で神は無秩序の神ではないと説き、40節では全てを秩序正しく行うよう勧め、30節で複数人が同時に口を開くことを禁じる。従って「ある人々は互いに別々の事柄を語り始め、別の人々は歌い出し、また別の人々は踊り出す」ならそれは神の霊とは全く関係ない現象である。

イザヤ11章2節以下とガラテヤ5章22節以下では聖霊による賜物について列挙されるが、そこにはいわゆる「異言(諸言語〔の賜物〕)」も「預言」も含まれていない。「預言」にも真の預言者と偽預言者が存在したように異国の言語らしきものを話し始めた人がいたとしても本物とは限らないからである。

いわゆる「異言」と呼ばれる《諸言語〔の賜物〕》に関して、パウロは一コリント12章から14章において、それを「解釈(通訳)する人」の存在と重要性を繰り返し強調している。14章28節では、その場に通訳(解釈)できる人が皆無なら、語る人は教会の中では沈黙しているようにと強く命じている。

一コリント14章26節以下でパウロは、いわゆる「異言」と呼ばれる《諸言語〔の賜物〕》に関し、「語る人」と「解釈(通訳)する人」がいて初めて成り立つと記す。従って、どの言語か全く分からない何事かが話されても、その場に通訳(解釈)できる人が皆無ならば、聖霊に由来するとは認められない。

パウロは一コリント14章33節で神は混乱(無秩序)の神ではないと記し、同30節で集会中に複数人が同時並行的に言葉を発することを禁じ37節で混乱は主の流儀ではないことを示唆した。ヨハネ17章11節等で主イエスが強く願われ使徒言行録4章32節で実現した、「一つ」に違反するからである。

主はヨハネ10章30節で「わたしと父とは一つ」と仰せになった後、17章では弟子たちのために天を仰いで祈られたが、それは御父と御自分が「一つ」であるように、弟子たちもまた「一つ」となるためであった(11節、21節〜23節)。使徒言行録4章32節「信じた人々の群れは心も思いも一つ」。

ニケア・コンスタンチノープル信条「父と一体」はヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」と38節に拠り、御父と御子の間には矛盾・対立・齟齬の類は一切ないことを表す。ギリシア神話では最高神ゼウスと父クロノス、クロノスと父ウーラノスの父子相剋が存在するが、キリスト教には全く存在しない。

一コリント12章以下でパウロは霊的な賜物に関し論じた。14章33節は「神は混乱(無秩序)の神ではなく協調(平和)の神」と説き、集会中の発言は順番(27節、40節)になされるべきで複数人が別々の事柄を同時並行で語ることを禁じ(30節)、それは「主の命令」(38節)であると厳命した。

聖パウロのガラテヤ書5章によれば、聖霊が働いている徴は愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・節制(22節〜23節)であり、聖霊が不在である徴は姦淫・わいせつ・好色・偶像礼拝・魔術・敵意・争い・そねみ・怒り・利己心・不和・仲間争い・ねたみ・泥酔・酒宴(19節〜21節)などである。

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを確実に識別できる基準」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4564

聖霊の七つの賜物という特別の恵みは、古代のギリシア語訳またラテン語訳のイザヤ書11章2節〜3節の記述に基づいており、

【1】知恵(上智)
【2】分別(識別)
【3】思慮(賢慮)
【4】剛毅(勇気)
【5】〔主に関する〕知識
【6】〔主に対する〕孝愛(信心)
【7】〔主に対する〕畏敬

などである。

(注)別エントリー「試論:聖霊降臨と聖母を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4990

ヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」の意味を使徒言行録4章32節は「心も思いも一つ」「持ち物を自分だけのものと主張せず共有している」と説明する。従って、御父の持ち物は御子の持ち物でもあり逆もまた然りである。ヨハネ10章38節「わたしは父の内にあり、父はわたしの内におられる」。

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

イザヤ11章では聖霊の賜物として知恵・識別・思慮を挙げ、またガラテヤ5章23節では節制を挙げる。従って例えば詐欺に引っ掛かったり、貴重品を紛失したり、交通事故を起こしたり警察に違反を指摘されたり、多くの飲食物への執着を断ち切れないならば、常識的に判断して聖霊の介在は否定的である。

ルカ1章35節以下では、マリアに聖霊が降臨され彼女が神の御独り子を身籠るという事柄が告知された。従って《聖霊の結ぶ実》(ガラテヤ5章22節以下)すなわち《愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制》がマリアの内面をあふれんばかりに満たしていることには、疑問の余地などない。

主イエスはマタイ4章24節と同17章15節で、てんかん(けいれん、ひきつけ)の人々を治癒の対象とされた。急に体をブルブル(ガクンガクン)させて白目を剥いたり、呼び掛けに応じなくなったり、口から泡を吹いてひっくり返ったり等が見られれば、当然、聖霊の働きでなく救急医療の対象に当たる。

主イエスはさまざまな病気に対し奇跡的な治癒を行われたが、病人に医者が必要であることは否定されない(ルカ5章31節等)。シラ書38章は、病気になった際に主に治癒を祈り求めることを勧める(9節)が、それと共に医者の手を借りることも勧め(12節)治癒に医者が必要な場合もあり得ると説く。

(注)別エントリー「試論:『善きサマリア人と宿屋』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13394

試論:「乳飲み子である神」を140文字以内で

【問】ルカ2章に羊飼いたちが主を訪問する話がありますが、なぜ、「神が人間の乳飲み子の姿で現れるわけがない」と誰も言わなかったの?
【答】数百年前から預言者が、「永遠の父」「力ある神」が人間のみどりご(男の子)として誕生されることを旧約の民に予告していました(イザヤ9章5(6)節)。

「わたしの天の父の御心を行う者だけが」

主はマタイ7章21節で「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入る」24節で「わたしのこれらの言葉を行う者は、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」と仰せになり、「山上の説教」こそ教えの重要箇所だと示唆された。

(注)別エントリー「試論:『主よ、主よ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5380

箴言28章9節は、主なる神の御教えを聞き入れない人が主にどれほど願い求めようと聞き入れてもらえはしないと説く。同様にゼカリヤ7章13節「わたしがあなたにいくら呼びかけてもあなたが聞き入れないならば、あなたがわたしにいくら祈り願い呼びかけようとも、わたしはその祈りを聞き入れない」。

主はマタイ7章26節で「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は、砂の上に家を建てる人に似ている」と教えられた。22章14節「招かれる者は多いが選ばれる者は少ない」とは、《わたしの教えを耳にしたことのある者は多いが、それを真摯に受け止めて日々実践している者は少ない》という意味である。

マタイ22章14節「招かれる者は多く選ばれる者は少ない」の《選ばれない理由》をイザヤ65章12節は「呼んでも答えず、語りかけても聞かず、わたしの目に悪とされることを行い、わたしの喜ばないことを選んだからである」と記した。「笛を吹いたのに踊ってくれなかった」(マタイ11章17節)。

ローマ3章でパウロは、「信仰」「律法」という表現で実際には《イエス・キリストを信仰する人々にとっての新しい掟である愛の掟》と《イエスを認めぬ人々が律法とするモーセが与えた掟》とを比較した。人間を「義」とするのは、《律法の掟》の実行ではなく、信仰に基づく《愛の掟》の実行如何による。

主イエスはマタイ7章14節では「命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか」と教えられたが、ヨハネ10章9節では「わたしは門であり、わたしを通って入る者は救われる」同14章6節では「わたしは道・真理・命であり、わたしを通らなければ誰も父の許に行くことはできない」と仰せになった。

(注)別エントリー「試論:天の国の条件を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5312

イザヤ59章2節「あなたたちの悪こそが、神とあなたたちの間を隔て、あなたたちの罪こそが、神の御顔を隠させ、神があなたたちに耳を傾けられるのを妨げている」ヨハネ14章24節「本当はわたしのことなど愛してはいない者は、決して御父とわたしの言葉や掟を受け入れはせず守ろうなどとしない」。

マタイ22章14節「招かれる者は多く選ばれる者は少ない」ルカ13章23節「救われる者は少ないのですか」27節「不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」マタイ6章33節「神の国と神の義を求めなさい」ヨハネ14章23節「わたしを愛する者はわたしの言葉を守り父とわたしはその人と住む」。

マタイ7章12節「人からしてもらいたいと思うことは何でもあなたたちから人にしなさい。これこそが律法と預言者である」ガラテヤ5章14節「律法全体は、隣人愛の掟の実行によって、全うされます」ローマ13章8節「人を愛する者は律法を全うしています」同10節「愛は律法を全うするものです」。

主イエス・キリストはマルコ12章における「最も重要な掟」の第一と第二とを統合され、ヨハネ13章34節で「新しい掟」そして「わたしの掟」(同14章15節)とされた。この掟は隣人愛の実践をもって、神への愛の実践とする(同節)。隣人愛の実行こそがキリストへの信仰をあかしするものとなる。

ヨハネ13章34節以下で主は「新しい掟」について宣言されたが、これこそエレミヤ31章31節の「新しい契約」で、同33節「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」に関して主はヨハネ14章とりわけ21節で説明され、愛の掟を守ることが神の民となるための条件である旨を宣言された。

マタイ7章で主は「狭い門から入りなさい」(13節)「命に至る門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない」(14節)と仰せになったが、詩編118編19節以下には、「正義の門よ開かれよ。わたしは入って主に感謝しよう。この門は主の門だ。主に従う者はこの門を入る」とある。

マタイ7章は「門」という比喩で、「神の国」に入るための条件「神の義」(6章33節)を表現した。これは詩編118編19節以下「義の門よ開け。この門は主の門だ。主に従う者はここから入る」とともに、イザヤ26章2節「門よ開け。信仰を守って神の義に従う民が入れるように」とも関連している。

(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8105

(注)別エントリー「試論:『神の義』と詩編を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6798

【問】主イエスはマタイ7章12節の仰せを御自分の御教えの「律法」と呼ばれました。具体的にどうすればいいの?
【答】「他の人からしてもらいたいことは全て、あなたから他の人にしなさい」を、離れて行かぬよう自分自身に結び付け、「心の中の板」(箴言3章3節)に書き記して刻み付けることです。

一コリント3章11節は「既に据えられているイエス・キリストという土台を無視して他の土台を据えることは、誰にもできない」と記す。二テモテ4章3節以下は、やがて人々が「健全な教え」から離れ、自分に都合のいい話だけ聞いて真理(=主イエス)の言葉を無視し、作り話に引かれて行くと警告した。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:キリスト抜きのキリスト教を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6639

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

一ヨハネ4章は信用してはならない人の特徴を、キリスト教を語っているようで実は世間に通じる話題だけで、主イエスが実際に教えられた福音書の御言葉を回避していることとした。キリストを棚上げしながら福音書以外の聖書の箇所を引用する目的は、キリストの替わりに自分自身が主役になるためである。

(注)別エントリー「試論:『招かれる』『選ばれる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8012

(注)別エントリー「試論:『神は誰を選ばれるのか』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8051

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは「天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神」主イエスを表す称号であり主が直接人々にお話しになった御言葉を記したものが福音書である。福音書を顧みず他のものばかりに目を奪われ続けるならばイエス・キリストがわからなくなる。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

箴言28章9節は、主が教えられた御言葉に耳を傾けないなら、いくら主に祈っても、主のおぼしめしには沿わないと教える。それだと、神を一方的に利用しようとしているだけで、全く信仰の名に値しない。主イエス・キリストが《神の御言葉》である以上、御教えを拒むことは神そのものを拒むのに等しい。

「キリストの律法」と「最後の審判」

【問】主イエスのマタイ7章12節の仰せをパウロが「キリストの律法」と呼んだのは、なぜですか?
【答】なにより主イエス御自身が「律法(ノモス)」と表現され、最後の審判の際に基準とされる「法(ノモス)」(一ヨハネ3章4節)であり信仰とは何かについて迷った時に立ち戻るべき基準だからです。

主イエスがマルコ3章35節で「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟・姉妹・母」と仰せになられたのは有名である。この仰せは疑う余地なく、マタイ7章21節「わたしに向かって『主よ、主よ』と呼ぶ者の全てが、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入る」と関係している。

マタイ7章21節「わたしの天の父の御心」とは何かを考察すると、同3章17節「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と御子イエスが呼ばれる以上、御子が最重要と位置付ける事柄こそ御父の御心である。同7章12節「他の人からしてもらいたいことなら全て、あなたから他の人にしなさい」。

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちは、自分が他の人からしてほしいことを、自分から他の人にしなさい」と《愛の掟》を教えられた。従って「愛の反対」は「他の人からしてほしくないことをあえて他の人に行うこと」そして「他の人からしてほしいことをあえて他の人には行わないこと」からなる。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

レビ19章18節は有名な隣人愛の掟を教えるが、その対極の行為として17節は兄弟を心の中で憎むことを禁じる。ゼカリヤ7章10節は互いに災いを心の中で企むこと、8章17節は互いに心の中で悪を企むことを禁じ、相手の困った顔・悲しむ顔・苦しむ顔を見たいという悪意を抱いてはならぬと戒める。

ローマ13章10節でパウロは「愛とは隣人に対して悪事を行わないことです」と断言している。これを踏まえるなら、隣人に対して悪事を行おうと企むことこそが愛の反対に該当する行為ということになる。同9節は「姦淫するな、殺すな、盗むな、貪るな(他人の物の横取りを企むな)」等を列挙している。

箴言26章19節は日本語で「悪乗り」と呼ばれる行為を戒め、「親しき仲にも礼儀あり」という事柄を想起させる(詩編15編3節参照)。箴言26章18節は「死の矢」という表現を用いるが、旧約聖書の「剣」と「矢」は《心に刺さる言葉》の比喩(詩編64編4(3)節等)で、隣人への暴言を戒める。

(注)別エントリー「試論:『言葉』と『心の傷』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8216

(注)別エントリー「試論:『言葉の刃』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8308

(注)別エントリー「試論:『火も剣も御言葉の比喩』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7812

レビ19章18節は「自分自身を愛するように隣人を愛する」という隣人愛を命じ、同章ではその隣人愛の対極にある様々な行為を禁じる。17節は「心の中で兄弟を憎んではならない」と悪意を秘めたまま隣人に接することを禁じて「出来心(ふざけただけ)」という言い訳も認めない(箴言26章19節)。

(注)別エントリー「レビ記19章17節:理由のない悪意」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4826

レビ19章18節は「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」17節は「心の中で兄弟を憎んではならない」ゼカリヤ7章9節は「互いにいたわり合い憐れみ深くありなさい」10節は「互いに災いを心にたくらんではならない」と教える。「心の中で憎む」とは相手の不幸を心の中で望むことを意味する。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1982

「愛の反対は無関心」という言葉は、これを聞き「善きサマリア人の話」(ルカ10章)や「最後の審判」(マタイ25章)をすぐ連想できる人にとっては、キリスト教的な意味を持つ。しかし、これらの箇所に思い至らず、それどころか福音書のどんなエピソードも浮かばない人にとっては、混乱の元となる。

(注)別エントリー「試論:『善きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

主イエスは隣人愛の掟を、最も重要な掟の第二と呼ばれた。レビ19章14節と申命記27章18節は、耳や目の不自由な人や道に迷って困っている人を笑い者にするなと教える。レビ19章17節は、以前に迷惑をかけられたわけでもない相手に対し、理由のない悪意を抱いた状態で接してはならぬと教える。

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9949

レビ記19章には18節に有名な隣人愛の掟があるが、それに先立つ箇所には隣人愛に反する様々な行為を禁じる掟が列挙される。14節では、耳の不自由な人がいる前でその人が聴こえないのをいいことに悪口を言う行為と、目の不自由な人が歩いて行く方向に障害物を置いて邪魔をする行為とが禁じられる。

主はマタイ18章6節以下で、無垢な信仰を持つ子供をつまずかせる者は不幸であり厳罰は必至だと示唆された。詩編37編23節以下は主が御旨にかなう道を人間のために準備され、また人間の手をとらえ歩みを定めておられると記す。子供をつまずかせる(御旨から外れさせる)行為は絶対に容認されない。

マタイ18章6節で主は「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて深い海に沈められる方がましである」と仰せになり、子供のような心で神を信じている人に悪を教え込もうとする者に対して、神がとりわけ厳しい罰をもって臨まれることを、主は宣言された。

主はヨハネ3章3節で「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることができない」と仰せになられた。エフェソ4章31節以下では無慈悲・憤り・怒り・わめき・そしりなどの全てを一切の悪意と共に捨てるよう勧め、互いに親切にし合い、憐れみの心で接し合い、またキリストにならい赦し合うよう勧める。

神の国に入るためには「神の義」が不可欠であることを主は「礼服」という比喩で御説明された。コロサイ3章では「着る」べきものは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛と挙げる。マタイ11章で主は「わたしは柔和で謙遜な者だから」(29節)「わたしの荷は軽い」(30節)などと仰せになった。

主はマタイ11章30節で、「わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽い」と仰せになった。主が人々に求められるものとは、「神の義(正義)」と言えばどこか厳格な響きがするが、実際に「神の義」を構成するのは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛などの事柄である(コロサイ3章)。

(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6748

主はマタイ11章30節で「わたしの荷は軽い」と仰せになったが、補足するように一ヨハネ5章3節では「神の掟は荷が重い(=難しい)ものではありません」と説明し、その前の部分では「神を愛することとは、すなわち神の掟を守ることです」として主がお定めになった「隣人愛の掟」にやはり言及する。

(注)別エントリー「試論:『新しい掟』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7016

マルコ12章の律法学者との対話において、主はレビ記19章18節の隣人愛の掟を、「最も重要な掟」の第二とされた。最後の晩餐の際(ヨハネ13章以下)、主イエスは隣人愛の掟を「新しい掟」「わたしの掟」としてあらためて授けられ、愛の掟を守ることこそが御自分の弟子である証しだと教えられた。

主イエス・キリストはマルコ12章における「最も重要な掟」の第一と第二とを統合され、ヨハネ13章34節で「新しい掟」そして「わたしの掟」(同14章15節)とされた。この掟は隣人愛の実践をもって、神への愛の実践とする(同節)。隣人愛の実行こそがキリストへの信仰をあかしするものとなる。

試論:「心の中の板」を140文字以内で

【問】主イエスはマタイ7章12節の仰せを御自分の御教えの「律法」と呼ばれました。具体的にどうすればいいの?
【答】「他の人からしてもらいたいことは全て、あなたから他の人にしなさい」を、離れて行かぬよう自分自身に結び付け、「心の中の板」(箴言3章3節)に書き記して刻み付けることです。

試論:「神の義」何のこと?を140文字以内で

【問】「何よりもまず神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6章33節)の「神の義」って、何のこと?
【答】同7章12節「あなたたちが他の人からしてもらいたいことなら全て、あなたたちの方から他の人にしなさい。これこそが〔わたしの御教えの〕律法であり、預言者〔たちの啓示の要約〕である」。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

【追記】

【問】マタイ7章7節「探しなさい。そうすれば、見つかる」何が?
【答】天の国に入るためには「狭い門」(同13節)つまり「神の義」(同6章33節)の「門」(詩編118編19節)を通らねばならず、その通行証となるものはキリストの律法(マタイ7章12節)の実践以外にないということがです。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

試論:「探せば見つかる」何が?を140文字以内で

【問】マタイ7章7節「探しなさい。そうすれば、見つかる」何が?
【答】天の国に入るためには「狭い門」(同13節)つまり「神の義」(同6章33節)の「門」(詩編118編19節)を通らねばならず、その通行証となるものはキリストの律法(マタイ7章12節)の実践以外にないということがです。

【追記】

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちは、自分が他の人からしてほしいことを、自分から他の人にしなさい」と《愛の掟》を教えられた。従って「愛の反対」は「他の人からしてほしくないことをあえて他の人に行うこと」そして「他の人からしてほしいことをあえて他の人には行わないこと」からなる。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

一ヨハネ4章は信用してはならない人の特徴を、キリスト教を語っているようで実は世間に通じる話題だけで、主イエスが実際に教えられた福音書の御言葉を回避していることとした。キリストを棚上げしながら福音書以外の聖書の箇所を引用する目的は、キリストの替わりに自分自身が主役になるためである。

(注)別エントリー「試論:『招かれる』『選ばれる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8012

(注)別エントリー「試論:『神は誰を選ばれるのか』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8051

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

試論:「回心した都ニネベ」を140文字以内で

【問】主イエスはルカ11章32節でヨナの説教で悔い改めたニネベの人々に言及されましたが、ニネベは何を象徴するの?
【答】ニネベは、バベルの塔を建設し神に挑戦した征服者ニムロドの築いた町で、ヨナの時代には周辺諸国に侵略の手を延ばしたアッシリアの都として、暴力や圧政の牙城的存在でした。

【追記】

古代ユダヤの歴史家ヨセフスは、バベルの塔建設にアスファルトが用いられた理由について、ノアの時代のような大洪水が来ても押し流されないよう強化するためだったと記し、ニムロド(創世記10章8節)及び彼の王国の国民が、神に対する挑戦的な意図をもってバベルの塔を建設していたことを説明する。

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

ヨナ書で「大いなる都」と呼ばれたニネベでは、預言者ヨナによる滅亡の警告を受けて都の人々がこぞって神を信じ、直ちに回心して神の御前にへりくだり、粗布をまとって断食し、ひたすら神に祈願して各々が非を認め、悪の道から離れて不法を捨てた。主はそれを御覧になり、ニネベの滅亡を思い直された。

(注)別エントリー「試論:エゼキエル18章を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5726

(注)別エントリー「試論:『主が御怒りになる理由』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10995

ルカ19章で、主はエルサレムのために泣かれた。確かに主の予告の通り、約四十年後に都は滅亡した。だが同じ都は数日後に主御自身を殺す都でもあった。それでも主は、ヨナ書で神がニネベを惜しまれた以上に、エルサレムのために泣かれた。エルサレムが決して自分の非を認めようとはしないためである。

エフェソ4章の後半では、「神にかたどって造られた新しい人」として生きるために、「怒ることはあっても罪を犯してはならない」「日が暮れるまで怒ったままではいけない」「悪い言葉を一切口にしない」「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどの全てを、一切の悪意とともに捨てる」等を勧めている。

一ペトロ2章の冒頭は「霊的な乳飲み子」について語っているが、ここでペトロは「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去る」ことを要請しており、当然ペトロは、あまりにも有名な「人から出て来るものこそ、人を汚す」で始まる、マルコ7章20節から23節の主の御言葉を念頭に置いて説明する。

(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3277

主はマタイ18章で、「心を入れ替えて子供のようにならなければ決して天の国に入ることはできない」と仰せになり、「心を入れ替える」(3節)と「自分を低くする」(4節)の二つが、子供のようになるために必要であると教えられた。弟子たちは詩編131編を歌うたび以前から学んでいたはずである。

主はマタイ18章10節で、人間と神との連絡を行う天使の存在に言及され、たとえ幼子が言語や思考や体力や行動の面でおぼつかない存在であっても、幼子の非力を侮り良からぬ行動に出る者については全てを天使が逐一、神の御前で報告し、神は全てを御存知であると仰せになった(マタイ6章6節参照)。

(注)別エントリー「試論:『他人の弱みに乗じない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7371

(注)別エントリー「試論:『無垢をリスペクトする』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7325

ゼカリヤ7章13節「わたしが呼びかけても、彼らが聞かなかったように、彼らが呼びかけても、わたしは聞かない」マタイ7章21節「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の御父の御心を行う者だけが入る」23節「わたしはあなたたちを全く知らない」。

(注)別エントリー「試論:『人の行いに応じた報い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5743

(注)別エントリー「高慢(おごり・高ぶり)が人間にもたらすものとは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5265

イザヤ59章2節「あなたたちの悪こそが、神とあなたたちの間を隔て、あなたたちの罪こそが、神の御顔を隠させ、神があなたたちに耳を傾けられるのを妨げている」ヨハネ14章24節「本当はわたしのことなど愛してはいない者は、決して御父とわたしの言葉や掟を受け入れはせず守ろうなどとしない」。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

主はマタイ13章45節以下で、「天の国」を全財産と引き換えにしてでも手に入れるべき真珠にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「天の国」は「永遠の命」と同義だが、「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「試論:『終わりの時』の人々の姿を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10858

試論:「種蒔く人と主の御言葉」を140文字以内で

【問】イザヤ55章10節には「種蒔く人」「種」11節には「わたしの言葉」つまり主の御言葉が登場し、福音書の「種を蒔く人の喩え」が思い出されます。
【答】主イエスはマルコ4章で「種を蒔く人の喩え」を教えられた際、14節で「種を蒔くこととは、神の御言葉を蒔くこと」だと仰せになりました。

試論:わたしたちも人を赦す??を140文字以内で

【問】なぜ主はマタイ6章12節で「わたしたちの罪をお赦し下さい。わたしたちも〔他の〕人を赦します」とお教えになりましたか?
【答】「憐れみ深い人は、その人自身が神の憐れみを受けるから幸い」(マタイ5章7節)だからであり、詩編18編26(25)節は主は優しい人に優しいと教えています。

試論:良き日々を送るためには?を140文字以内で

箴言3章3節〜4節「憐れみの心と嘘偽りのない心とがあなたから離れて行かないように、あなたはそれらを首に結び付け、また、心の板に刻み付けなさい。そうすれば、いつもあなたは神からも人々からも好意を抱かれ続け、そしてあなたは後悔の念に駆られることのない日々を過ごすことになるであろう」。

試論:「主の御言葉は人間の糧」を140文字以内で

エレミヤ5章14節は主の御言葉を「火」に喩え、これを踏まえられ主イエスはルカ12章49節で「わたしは地上に火を投ずる」と仰せになった。他方イザヤ55章10節は主の御言葉を「糧」に喩えるが、ならばマタイ6章11節「わたしたちの日ごとの糧」の「糧」も、やはり主の御言葉を暗示している。

(注)別エントリー「試論:『地上に火を投ずる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7803

【追記】

ヨハネ6章51節「わたしが与えるパンとは世を生かすための、わたしの肉のことである」同33節「神のパンは天から降(くだ)って来て世に命を与える」マルコ14章22節「これはわたしの体である」申命記8章3節「人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出る、全ての御言葉によって生きる」。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』到来の目的を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10216

「あなたが他人の過ちを赦すならば」

マタイ7章12節「他人からしてもらいたいことを、あなたから他人にしなさい。これこそ律法と預言者」同5章22節「腹を立ててはならない」同7節「憐れみ深い人は幸い。その人は天の御父の憐れみを受ける」同6章14節「あなたが他人の過ちを赦すならば、天の御父もあなたの過ちをお赦しになる」。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346

箴言12章28節「憐れみの道にこそ命がある。この道を行く人に死はない」ルカ6章35節以下「敵に親切にし、善を行い、何も当てにせず貸しなさい。そうすれば、あなたたちはいと高き方であられる天の御父の子となり、大きな報いを受ける。あなたたちも天の御父のように憐れみ深い者になりなさい」。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『永遠の命の言葉を持つ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11244

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

マタイ6章14節〜15節「あなたがたが人を容赦するなら天の父もあなたがたを容赦されるが、あなたがたが人を容赦しないなら天の父もあなたがたを容赦されない」は同5章7節「憐れみ深い人は幸いである。その人は憐れみを受ける」などと、表現を変えながら福音書の随所に登場する、重要事項である。

マタイ5章7節「憐れみ深い人は幸いである。その人は憐れみを受ける」はヨハネ13章「わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい」同14章「わたしを愛する人はわたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、御父とわたしはその人のところに行って一緒に住む」等と同じ道理である。

(注)別エントリー「試論:『いけにえ』と憐れみを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8356

出エジプト記34章で主の栄光がモーセに現わされた際、御自分が優しさと厳しさを兼ね備えた神であると主はモーセに明らかにされた。ダビデは詩編18編21(20)節以下で、主は優しい人には優しく厳しい人には厳しいと歌った。その人が隣人に敬意を示さない限り、主はその人の信仰を認められない。

(注)別エントリー「試論:『選ばれた人は選んだ人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8034

主はマタイ22章で律法中の最も重要な掟の第一は神への愛、第二は隣人愛と仰せになった。申命記10章でモーセへの戒めの再授与の際、12節以下では神への愛が命じられ、19節では「遠くからやって来た者(寄留者、新参者、改宗者)」という表現で隣人愛(レビ19章18節、34節)が命じられた。

(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1982

マタイ22章36節以下の「律法の中で最も重要な掟はどれか」の答えと、ルカ10章25節以下の「永遠の命を得るために何をすればよいか」の答えは一致する。またマルコ12章32節は「神は唯一であり、他に神はない」という事柄をギリシア語本文でアレテイアすなわち真理と表現してこれを強調する。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

マタイ6章14節の主の御言葉「あなたが他人を容赦するなら、天の父もあなたの過ちを容赦される」を聞いた当時のヘブライ人はすぐ詩編18編21(20)節以下を連想し、また「神は高慢な者を敵とし、へりくだる人に恵みをお与えになる」(箴言3章34節、一ペトロ5章5節)も連想したはずである。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

試論:「誰かを笑い物にするな」を140文字以内で

レビ19章18節は隣人愛の掟を説くが、同章では隣人愛に反する諸行為を禁じる。14節は耳の不自由な人の耳元で聞こえないのをいいことに悪口を言う行為と目の不自由な人の歩いて行く方向に物を置いて邪魔をする行為とを禁じ、申命記27章18節は迷っている人に対して知らん振りをするのを禁じる。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

【追記】

マタイ1章5節は、ヨシュア記に登場するエリコの遊女ラハブがルツ記に登場するボアズの母親であったと記す。ルツ記を読めば一目瞭然だが母親ラハブが息子に何を言い聞かせて育てたか、それは「相手が自分よりも弱い立場で自分の方が優位にあるように思えても、決して相手の弱みに付け込むな」である。

(注)別エントリー「試論:『放蕩息子とナオミ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18107

試論:ヨセフが行わなかった事柄を140文字以内で

レビ19章14節は隣人愛(同18節)に反する行為として、耳や目の不自由な人々に対していやがらせを行うことを禁じている。神なる主が日本語で意地悪と呼ばれる行為を忌み嫌っておられることは当然で、ヨセフが家長として、イエスやマリアに対して意地悪のたぐいを全く行わなかったのも当然だった。

【追記】

主イエスの御養育に当たり、ヨセフとマリアの二人がまず絶対に口にはしなかったであろう言葉がある。それは「あなたは神の子なのだから、わたしたちが助けなくともできるはずだ」の類いで、なぜならそれは荒れ野で誘惑したサタンや十字架の周りで嘲っていた敵たちに特有の悪意を含んでいるからである。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1982

マタイ4章で荒れ野におられる主の前に現れた悪魔は、「神の子なら、石がパンになるように命じたらどうだ」「神の子なら、飛び降りたらどうだ」「わたしを拝むなら、すべてを与えよう」などと主を誘惑したが、御受難の際に主を侮辱した多くの人々も、例外なく荒れ野の悪魔と同じような口振りであった。

(注)別エントリー「悪に巻き込まれないためにどうすべきか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4814

(注)別エントリー「レビ記19章17節:理由のない悪意」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4826

主の養父ヨセフについて、マタイ1章19節はディカイオス(正しい人、義人)というギリシア語で表現するが、古代ギリシア語訳箴言11章23節は、ディカイオスは良いことだけを求めると記す。神の御独り子が人間の「みどりご」(イザヤ9章)となられて来られた際、善だけを求める人が養父になった。

(注)別エントリー「聖ヨセフ:ディカイオスを旧約聖書で考察」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1613

マタイ1章19節のギリシア語本文は聖ヨセフを「ディカイオス」(新共同訳では「正しい人」)と表現するが、古代ギリシア語詩編111(112)編6節は、「ディカイオス(新共同訳では「主に従う人」)はとこしえに揺らぐことがなく彼はとこしえに記憶される」として最大級の賛辞で、表現している。

マタイ1章19節は主の養父ヨセフを「正しい人(ディカイオス)」と表現する。25章の「最後の審判」におけるディカイオスは、隣人が何らかの助けを必要としている時に、必要とされている助けを提供して困り事を解決する人を指し、ヨセフはイエスとマリアが本当に必要としていることだけを実行した。

マタイ福音書は後世への教訓に、最初の二つの章で主の養父ヨセフを模範として掲載した。ヨセフは忍耐強く、情け深く、自慢せず、高ぶらず、礼を失わず、自分の利益を求めず、恨みを抱かず、苛立たず、不義を喜ばず、真理を喜んだ。イエスとマリアのために、全てのことを忍び、確信し、待望し、耐えた。

(注)別エントリー「試論:マリアとヨセフに倣う事柄を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7012

【問】カトリックはマリアとヨセフを特別扱いしますが、なぜですか?【答】二人が「みどりごとして来られた神」を心と魂と力を尽くし(申命記6章5節)真心を込めて御養育することで、何十年もの間、神に対してまっすぐに向き合い、その結果として永遠の命に到達し後世の人々の模範となったからです。

(注)別エントリー「聖家族はどのような雰囲気の中で暮らしていたのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5246

主イエスの養父ヨセフはマタイ1章19節で「正しい人」と呼ばれるが、25章の「最後の審判」において「正しい人」は永遠の命が確約された人である。母マリアはルカ1章42節で「女の中で祝福された方」と呼ばれるが、マタイ25章34節では「祝福された人」は同じく永遠の命が確約された人である。

(注)別エントリー「試論:『神の母』聖書的根拠を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13155

(注)別エントリー「試論:『親しき仲にも礼儀あり』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13120

試論:なぜヨセフが信仰の模範?を140文字以内で

主イエスの養父ヨセフはマタイ1章19節で「正しい人」と呼ばれるが、25章の「最後の審判」において「正しい人」は永遠の命が確約された人である。母マリアはルカ1章42節で「女の中で祝福された方」と呼ばれるが、マタイ25章34節では「祝福された人」は同じく永遠の命が確約された人である。

(注)別エントリー「試論:『神の母』聖書的根拠を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13155

(注)別エントリー「試論:『親しき仲にも礼儀あり』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13120

【追記】

マタイ1章19節は、主の養父ヨセフをディカイオス(義人、正しい人)と呼ぶが、25章「最後の審判」の箇所では、ディカイオス(37節、46節)は「永遠の命にあずかる」(46節)人を意味している。つまり、「神の義」を身に着けることこそが、「永遠の命にあずかる」ことを約束するものである。

(注)別エントリー「試論:『神の義』と詩編を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6798

(注)別エントリー「試論:『永遠の命を得るために』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8590

(注)別エントリー「試論:『永遠の命を得ること』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19638

(注)別エントリー「試論:バシレイア(=神の王国)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12654

主イエスはヨハネ6章40節で「御父の御心は、御子(=主イエス御自身)を見て信じる者が皆、永遠の命を得ること」、マタイ25章46節で「正しい人(義人)たちは永遠の命にあずかる」、同7章12節で「あなたが他の人からしてもらいたいことは全て、あなたから他の人にしなさい」と仰せになった。

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11494

(注)別エントリー「試論:「天国の福楽を相続する」を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13891

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

試論:「神なる主の翼」を140文字以内で

【問】マタイ23章37節の主イエスの仰せ「母鳥が翼の下に雛を集めるようにお前の子らを集めようと」って、何の比喩?
【答】詩編17編8節「あなたの翼の陰に隠して(庇護して)下さい」36編8節「神よ、あなたの翼の陰に人々は身を寄せて」57編2節「神よ、あなたの翼の陰を避難所とします」。

【追記】

【問】マタイ23章38節「お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる」の「家」って何?
【答】エルサレムの神殿を指しています。ルカ2章49節「わたしが自分の父の家にいるのは当然だと気付かなかったのですか」の「家」とも同じ用法です。この主イエスの神殿滅亡の予告は紀元七〇年に、実現しました。

古代のイスラエルでは「神」と「神の民」との関係がしばしば「花婿」と「花嫁」と表現された。しばしば「女王」にもたとえられる都が「花婿」キリストを歓呼と共に迎え入れながら、数日後に裏切り、夜中に急襲して捕らえ一日のうちに死に至らしめたその行状から、「大淫婦」と呼ばれるのは当然である。

(注)別エントリー「試論:黙示録17章『十本の角』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9155

(注)別エントリー「試論:黙示録17章『第八の者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9038

黙示録18章7節「わたしはやもめではなく女王であり、決して悲しい目に遭わない」ルカ19章41節以下「イエスは都のために泣いて仰せになった、『もし今、お前が平和への道をわきまえていたならば。しかし今のお前は、それを理解していない。時が来て、敵がお前を包囲して四方から攻め寄せ〜』」。

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1699

古代のイスラエルは、神と神の民との関係をしばしば花婿と花嫁の関係にたとえた。洗礼者ヨハネは、イエスを「花婿」と呼んで自身は「花婿の介添人」と称した。主イエスを歓呼の裡に迎え入れながら数日で死に至らしめた都を、黙示録が「大淫婦」と呼んだ理由は、イエスこそ花婿に他ならないからである。

ヨハネの黙示録17章5節には「淫婦の母、地上のあらゆる憎むべきものの母である大バビロン」と書かれているが、ゼカリヤ書2章11節では、エルサレムの住民が「バビロンの娘」という表現で呼び掛けられている。当時のエルサレムの住民は、かつてバビロンに連行されて住み着いた人々の子孫であった。

イザヤ62章5節はシオンの救いに関する文脈で神と神の民との関係を花婿と花嫁の関係にたとえエレミヤ33章11節はエルサレムの復興を「花婿と花嫁の声が聞こえるようになる」と預言したが、ならば、黙示録18章23節が「花婿と花嫁の声は聞かれない」と啓示した都も、やはり同じ都のはずである。

イザヤ62章5節は「神と神の民」の関係を「花婿と花嫁」の関係にたとえたが、ヨハネ3章29節で洗礼者が「花婿の介添人」を自称する場合、「花婿」が主イエス・キリストであるのは、いうまでもない。洗礼者は、「花婿」と「花嫁」を引き合わせるまでが自分の役割と心得て、30節の言葉を口にした。

古代のイスラエルでは、婚礼の時に上質の酒を提供するのは花婿の責任と考えられていた(ヨハネ2章9節以下)。一方、当時は「神」と「神の民」の関係を《花婿》と《花嫁》の関係にたとえていた(イザヤ62章5節)。カナでのぶどう酒の奇跡で、主は御自分こそが真の《花婿》であるとほのめかされた。

試論:「謙遜こそ信仰の第一歩」を140文字以内で

【問】マラキ3章19節は高慢な者と悪を行う者を同列に論じますが、なぜですか?
【答】詩編1編1節の通り旧約の民は神に従わぬ者と罪人と高慢な者を同列に扱いました。エバは創世記3章で神のようになることを望みましたが、マリアはルカ1章38節で自分は主のはしために過ぎないと謙遜しました。

【追記】

詩編1編1節は神と共にいるための必要三条件を記す。一つ目は神に逆らう人に同調しないこと、二つ目は罪や悪に走らないこと、三つ目は高慢心を捨てることである。高慢で周囲の人々を粗略に扱う人は、いつか必ず神をも粗略に扱う。神の御独り子の母となった女性が高慢心とは無縁であるのは当然である。

(注)別エントリー「試論:『しもべ』と『はしため』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9785

(注)別エントリー「試論:『わたしの主』と母マリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8575

(注)別エントリー「試論:『恵みとへりくだり』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8781

主イエスは福音書で「自ら高ぶる者は低くされ、へりくだり自ら低くなる者は高くされる」と繰り返された。神の御独り子の母に選ばれたにもかかわらず「わたしは主のはしため」と繰り返し実際「人となられた神」に生涯仕え続けた女性が、「神と共に歩んだ」点においてエノクに引けを取るなどありえない。

(注)別エントリー「試論:『謙遜の極み故の被昇天』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11125

箴言3章34節は「神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みをお与えになる」と説く。「自分は誰かの召使になった覚えはないし、他の人のためにあれこれするなど、やってられない」と放言する人は「キリストの律法」を絶対に実行できないし、神がお与えになる恵みもまた、永遠にその人には届かない。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』と世情を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18499

【問】なぜ受胎告知の際にマリアは、承諾の返答よりも先に「わたしは主のはしため」と再確認しましたか?【答】マリアはそう前置きすることで、「わたしは神の御独り子の母となることを承諾しますが、決して『神のようになること』(創世記3章5節)を望むからではありません」と意思表示をしました。

(注)別エントリー「試論:「わたしの主のお母さま」を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10221

カトリックでは聖母マリアを「無原罪」つまりサタンの悪影響とは全く無縁の女性と教え、少女期の聖母が神殿で十年以上奉献生活を送り教育を受けたと教える。聖母は長年、救い主やあがないについて思い巡らしていた。受胎告知の際の言葉「わたしは主のはしため」は一朝一夕に出て来る類のものではない。

(注)別エントリー「神のお告げ:受胎告知と無原罪の御宿り」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4835

(注)別エントリー「試論:ヤコブ原福音書を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5239

(注)別エントリー「聖書の時代に神殿の処女は存在したのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1539

(注)別エントリー「『贖(あがな)い』と『救い主の母』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19677

(注)別エントリー「福音書の聖ヨセフと外典書の高齢者ヨセフ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4759

主は「いつでも戸を開けられるように目を覚ましていなさい」と仰せになり、普段から心の準備をすることが弟子としての心構えであると教えられた。主の母親となるべき女性がその少女期、当時最もしかるべき教育の場であった神殿の聖所で奉仕の日々を送ったという概念は、極めて蓋然性の高い話と言える。

(注)別エントリー「試論:『準備しなさい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12580

【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。

ルカ2章51節は少年時代の主イエスが両親に従っておられたと記す。他方、4章5節から8節は悪魔が主を誘惑して自分に従わせようとしたが、主は断固として拒まれたと記す。今、キリストの弟子を自称する人々が、母マリアを拒む一方で悪の誘惑には抵抗できないとしたら、彼らの本籍はどこにあるのか?

(注)別エントリー「試論:『女』とサタンの対立を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10314

(注)別エントリー「試論:『マリアとヨセフと聖書』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16295

「人類の長子」主イエス・キリスト

【問】人間イエスは、「人類の長子」ですか?
【答】新約時代においてはローマ5章12節以下の通り、主イエスは「第二のアダム」という位置付けであり、同8章29節は「御子が多くの兄弟の中で長子となられる」、コロサイ1章18節は「御子は最初の者、死者の中から最初に生まれた方」と表現します。

【問】コロサイ1章18節が御子を「死者の中から最初に生まれた者」と呼ぶ理由とは?
【答】御子は十字架の死の後、御自身の「復活の体」の創造の際に「新しい天・地・エルサレム」(イザヤ65章17節以下)も創造され、待ち続けていた旧約の義人たちにも「復活の体」を与えられ誕生させたからです。

(注)別エントリー「主の御復活とともに創造された事柄とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15917

【問】主イエスは《完全な神》が《完全な人間》を担われたということですが、主イエスとは信者から見てどんな存在ですか?
【答】主は「わたしたちの父」(イザヤ63章16節)なので神としての主は「父」、人間イエスは「兄弟」(マタイ28章10節)つまり、「長兄」(ローマ8章29節参照)です。

(注)別エントリー「『完全な神』が『完全な人間』を担われた」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21196

(注)別エントリー「試論:神であり人であるキリストを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6725

【問】《神の御言葉》主イエスが人間になったとは、《神が人間を担われ(引き受けられ)た》と解釈すべきということですが、それでは、主イエスから見た人類とは、何になりますか?
【答】神の立場では「子」(マタイ9章2節)、人間の立場では(特に相手が信者なら)「兄弟」(同28章10節)です。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:主イエスと人類の関係を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21336

ヨハネ1章1節の「言(ことば)」、いわゆる《神の御言葉》とは、《御自分で御言葉をお話しになる神》、すなわち御子である神、主イエス・キリストを意味する。「言(ことば)は神とともにあった」とは、天地創造以前の初めから御子である神は御父である神とともに存在しておられたということである。

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

ヨハネ1章1節は主イエス・キリストを「言(ことば)」と呼び紹介する。これは《天使や預言者を介することなく、御自分で直接人々に御言葉をお話しになる神》を意味し、「イエス・キリストなんか本当は実在しなかった」と言い立てる人々に対しては、主が残された御言葉それ自体がその存在証明となる。

(注)別エントリー「試論:『主が求められるものは』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7932

主イエスは黙示録22章13節で「わたしはアルファでありオメガ」「最初の者であり最後の者」「初めであり終わり」と自称された。これはイザヤ44章6節に対応し、同節は「わたしをおいて神はない」と続く。ヘブライ2章10節以下は「万物の源であり目標」「救いの創始者」「一つの源」と主を呼ぶ。

(注)別エントリー「試論:『真理』と贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9081

多くの人が黙示録20章の記述を誤解し、キリストと共に世を支配する「千年王国」を夢見たが、他方ヨハネ18章36節で主は御自分の王国(バシレイア)は世に属さないと確言された。「王」(マタイ25章34節)であるキリストと共に支配するとは、悪魔の罪と死による支配から自由になることである。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

(注)別エントリー「真理は罪と悪と死から自由にする」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9524

黙示録20章やローマ5章は「悪に悪を返さない」ことを徹底して罪や悪と決別した人々を「バシレウオ(〔キリストとともに〕王となる)」という動詞で表すが、これはあくまで《義化の完成》を象徴する表現であり政治体制的な意味を含まず、彼らは「第二の死」を免れ「永遠の命」を得ると記されている。

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

主イエスはヨハネ18章36節で、「わたしのバシレイアは、この世には属していない」と仰せになった。原文のギリシア語バシレイアは、聖書では「王権」「〔神の〕王国」を意味し、「王国の一人一人」まで包含する。黙示録1章6節でヨハネは、自分たちは既にその一部を構成していると書き記している。

(注)別エントリー「試論:バシレイア(=神の王国)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12654

試論:荒れ野で誘惑を受けた理由を140文字以内で

【問】主イエスは、いったい何のために、あえて荒れ野で悪魔からの誘惑を受けられたのですか?
【答】シラ2章1節は「子よ、もしお前が主にお仕えしようというのなら、試練に向けお前自身の備えをしなさい」と啓示しています。主イエスの場合、「試練」とはもちろん十字架上の御受難を意味しています。

(注)別エントリー「試論:ルカ9章25節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/23253

「まことの光」

【問】ヨハネ1章が「言」である神、主イエスを、「光」「まことの光」と呼ぶ理由は?
【答】イザヤ58章9節以下の通り「他人を苦しめたり小馬鹿にしたり罵倒したりすることを止め飢えている人や苦しむ人に配慮する」者を、「あなたの光は闇の中に輝き出て、闇も真昼になる」と喜ばれる神だからです。

【問】主イエスは「わたしは世の光」「あなたたちは世の光」などと仰せになりました。なぜ?
【答】「光」はイザヤ58章6節以下にある通り善意・温情・心配り・憐れみの業等の喩えで、人の心と表情を明るくさせ人々の心を温めます。「光」がなくなれば、人々の心と表情は暗くなり、心は冷え込みます。

【問】福音書には主イエスが「笑った」という記述がない、という議論があるそうです。
【答】イザヤ58章10節は隣人への温情を「光」に喩えます。理由は相手の心や顔を明るくするからです。主はヨハネ8章で「わたしは世の光」と宣言されましたが、これはいつも仏頂面の人が語る言葉ではありません。

【問】イザヤ58章6節以下では、困窮している人々に対する心配り・善意・温情・憐れみの心が「光」に喩えられていますが、なぜ?
【答】それらが相手の表情と心とを明るくさせ、また、それらが相手の心を、光が熱を与えるように温かくさせるからです。マタイ5章16節「あなたの光を輝かせなさい」。

【問】詩編4編7(6)節の「御顔の光」って、何の比喩?
【答】「わたしたちに御顔の光を向けて下さい」と、次節の「喜びをわたしの心にお与え下さい」とは、同じ事柄です。つまり、「主の御顔の光」とは、「主の輝くような笑顔」「主の喜び(主によって与えられる喜び)」「主の好意」等の比喩です。

主はマタイ5章14節で「あなたがたは世の光」ヨハネ8章12節で「わたしは世の光」「わたしに従う者は暗闇の中を歩まず命の光を持つ」と仰せになった。同1章4節は「御言葉のうちに命があり、命は人間を照らす光」と記す。イザヤ58章6節以下では隣人に心を配り助けを惜しまない人に、光が伴う。

(注)別エントリー「試論:イザヤ58章『真の断食』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14709

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『わたしは命である』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11586

(注)別エントリー「試論:『霊魂を注ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13590

福音書は、神からの賜物である御言葉を光にたとえ(ヨハネ1章4節)、またタラントンにたとえ(マタイ25章)、主イエスは御言葉を受けた人々を世の光と呼ばれた。穴を掘り一タラントンを埋めるしもべが主人の怒りを買った理由は、それにより御言葉が世に対して光り輝く機会を完全に奪うからである。

ヨハネ1章4節は「言(ことば)の内に命があり、命は人間を照らす光」と記す。これはヨブ33章27節以下「わたしは罪を犯し正義を曲げたが、すべきでなかった。神はわたしの魂を滅びから救われ、命を得てわたしは光を仰ぐ」を踏まえており、主が御言葉で人間の魂を滅びから救われることを宣言する。

詩編119編105節に「〔主よ〕あなたのことばはわたしの道の光」とあるが、「ことば」は神の御教えを指すのと同時に、ヨハネ1章1節では人々に御姿をお見せになり御教えを直にお話しになる主イエスの称号でもあり、主は御自分を同14章6節で「道」、同8章12節で「世の光」だと表現なさった。

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

(注)別エントリー「試論:ヨハネ14章6節の『道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9342

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

マタイ5章で主は、「あなたがたは世の光」(14節)、「あなたがたの光を、人々の前に輝かせなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(16節)と仰せになり、行いを伴わぬ信仰など役に立たない(ヤコブ2章14節)ことをお話しになった。

ヨハネ1章は主イエス・キリストを「言(ことば)」「命」「人間を照らす光」等と象徴的に表現したが、その光は人々が心に秘めた悪意(レビ19章17節)を、容赦なく明るみに出す(マタイ9章4節、同12章25節)。神は罰するべき者は罰せられた(出エジプト記34章7節、民数記12章10節)。

(注)別エントリー「民数記12章3節:モーセの人となり」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5051

(注)別エントリー「レビ記19章17節:理由のない悪意」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4826

ヤコブ2章17節「行いを伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」はマタイ7章26節の主イエス・キリストの御言葉「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」とは内容的には同じであり、いわゆる「信仰義認」の適不適を考える上では良い基準となる。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

【問】主イエスはなぜマタイ5章15節で、ともし火を見えない場所に置く者はいない、と仰せになられましたか?
【答】箴言6章23節は主からの御教えをともし火に喩えます。つまり主の御教えを受けたら直ちに実行しなさいの意味です。御言葉を聞いても実行しないのは砂の上に家を建てるのと同じです。

【問】主の御言葉を聞いても実行しないことを見えない場所にともし火を置くことに喩えたのですか?
【答】主は御言葉を聞いても実行しないことを、砂の上に家を建てること、見えない場所にともし火を置くこと、主人から預かったタラントンやムナを隠してしまうことなどに喩えられ、強く戒められました。

一人の律法学者は自分を「義化」(ルカ10章29節)しようとして(「義人」(マタイ1章19節)とするために)、隣人愛(ルカ10章27節)に関して、主に、踏み込んだ質問を行なった。主は、憐れみの心(33節)と「神の義」と隣人愛と永遠の命(25節)は事実上重なっているとお教えになった。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

主イエスはヨハネ6章40節で「御父の御心は、御子(=主イエス御自身)を見て信じる者が皆、永遠の命を得ること」だと説かれた。ルカ10章25節で一人の律法学者が「永遠の命を受け継ぐにはどうすれば〜」と質問したことから、主イエスは「善きサマリア人」の話で憐れみの心の重要性を教えられた。

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4544

イザヤ58章10節は「心を配る」と日本語で表現されるが、ヘブライ語本文は「霊魂を注ぐ」と表現する。ルカ11章41節「器の中にあるものを施せ」はこれに基づく。「器」は人間の比喩、「器の中にあるもの」は霊魂で、主の真意は「揚げ足取りをやめて、隣人に配慮することを学びなさい」であった。

(注)別エントリー「試論:『土の器』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6902

(注)別エントリー「『土の器』(つちのうつは)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14324

試論:義人を招くためではなく?を140文字以内で

【問】ルカ5章32節「義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるために、わたしは来た」のなら養父である義人ヨセフはどうでしたか?
【答】ヨセフは自分の与り知らぬ婚約者の妊娠に関し夢の中の天使のお告げだけで、彼女が救い主の母であると認め信じました。これ以上の信仰はありません。

試論:「花婿と断食」を140文字以内で

主イエスは御自分の弟子たちに断食をさせない理由を、マタイ9章15節「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか」、マルコ2章19節「花婿が一緒にいるのに婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいる限り断食はできない」と仰せになった。花婿とはもちろん主御自身である。

(注)別エントリー「試論:真の『花婿』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13774

(注)別エントリー「イザヤ58章『真の断食』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14709

(注)別エントリー「試論:『花婿と大淫婦』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13533

【追記】

イザヤ62章5節は神と神の民の関係を花婿と花嫁のそれに喩えた。花婿と花嫁が出会って喜びを共にすることが婚礼、婚礼の客あるいは花婿の友人とは弟子たちである。主イエスは御自分が人間の世におられる貴重な期間には弟子たちに断食などさせないが、御自分がいなくなった後はさせると仰せになった。

(注)別エントリー「試論:『花婿と花嫁』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5665

(注)別エントリー「試論:古代の王の『宴』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18516

古代のイスラエルでは「神」と「神の民」との関係がしばしば「花婿」と「花嫁」と表現された。しばしば「女王」にもたとえられる都が「花婿」キリストを歓呼と共に迎え入れながら、数日後に裏切り、夜中に急襲して捕らえ一日のうちに死に至らしめたその行状から、「大淫婦」と呼ばれるのは当然である。

(注)別エントリー「試論:黙示録17章『十本の角』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9155

(注)別エントリー「試論:黙示録17章『第八の者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9038

黙示録18章7節「わたしはやもめではなく女王であり、決して悲しい目に遭わない」ルカ19章41節以下「イエスは都のために泣いて仰せになった、『もし今、お前が平和への道をわきまえていたならば。しかし今のお前は、それを理解していない。時が来て、敵がお前を包囲して四方から攻め寄せ〜』」。

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1699

古代のイスラエルは、神と神の民との関係をしばしば花婿と花嫁の関係にたとえた。洗礼者ヨハネは、イエスを「花婿」と呼んで自身は「花婿の介添人」と称した。主イエスを歓呼の裡に迎え入れながら数日で死に至らしめた都を、黙示録が「大淫婦」と呼んだ理由は、イエスこそ花婿に他ならないからである。

ヨハネの黙示録17章5節には「淫婦の母、地上のあらゆる憎むべきものの母である大バビロン」と書かれているが、ゼカリヤ書2章11節では、エルサレムの住民が「バビロンの娘」という表現で呼び掛けられている。当時のエルサレムの住民は、かつてバビロンに連行されて住み着いた人々の子孫であった。

イザヤ62章5節はシオンの救いに関する文脈で神と神の民との関係を花婿と花嫁の関係にたとえエレミヤ33章11節はエルサレムの復興を「花婿と花嫁の声が聞こえるようになる」と預言したが、ならば、黙示録18章23節が「花婿と花嫁の声は聞かれない」と啓示した都も、やはり同じ都のはずである。

イザヤ62章5節は「神と神の民」の関係を「花婿と花嫁」の関係にたとえたが、ヨハネ3章29節で洗礼者が「花婿の介添人」を自称する場合、「花婿」が主イエス・キリストであるのは、いうまでもない。洗礼者は、「花婿」と「花嫁」を引き合わせるまでが自分の役割と心得て、30節の言葉を口にした。

古代のイスラエルでは、婚礼の時に上質の酒を提供するのは花婿の責任と考えられていた(ヨハネ2章9節以下)。一方、当時は「神」と「神の民」の関係を《花婿》と《花嫁》の関係にたとえていた(イザヤ62章5節)。カナでのぶどう酒の奇跡で、主は御自分こそが真の《花婿》であるとほのめかされた。

試論:聖母マリアの日々の十字架を140文字以内で

【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。

(注)別エントリー「試論:聖母崇敬の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18956

試論:詩編97(96)編11節を140文字以内で

【問】「主は神に従う人のために光を種蒔いて下さる」? どういうこと?
【答】「神に従う人」は古代ギリシア語訳ではディカイオス(義人)で、「神に従う人の光」とは「神の義」つまり善意・温情・気配り・憐れみの心を指し、それらは相手に喜びを与え、表情と心とを明るくし、また心を温かくします。

【追記】

養父ヨセフはマタイ1章19節でディカイオス(正しい人、義人)と呼ばれる。古代ギリシア語訳箴言4章18節はディカイオスに「光」が伴うと説き、善きサマリア人の喩えは自分を義化したい律法学者に神の義と隣人愛は同一と教える。イザヤ58章は心配りに「光」は伴うと説く。神の義に「光」は伴う。

【問】イザヤ58章6節以下では、困窮している人々に対する心配り・善意・温情・憐れみの心が「光」に喩えられていますが、なぜ?
【答】それらが相手の表情と心とを明るくさせ、また、それらが相手の心を、光が熱を与えるように温かくさせるからです。マタイ5章16節「あなたの光を輝かせなさい」。

一人の律法学者は自分を「義化」(ルカ10章29節)しようとして(「義人」(マタイ1章19節)とするために)、隣人愛(ルカ10章27節)に関して、主に、踏み込んだ質問を行なった。主は、憐れみの心(33節)と「神の義」と隣人愛と永遠の命(25節)は事実上重なっているとお教えになった。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

主イエスはヨハネ6章40節で「御父の御心は、御子(=主イエス御自身)を見て信じる者が皆、永遠の命を得ること」だと説かれた。ルカ10章25節で一人の律法学者が「永遠の命を受け継ぐにはどうすれば〜」と質問したことから、主イエスは「善きサマリア人」の話で憐れみの心の重要性を教えられた。

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4544

試論:ルカ9章25節を140文字以内で

ルカ9章25節「全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり失ったりしては、何になろうか」同4章5節以下「悪魔は全世界の国々を見せて言った、『もしわたしを拝むなら、これらの国々の全権力と栄華を与える』。イエスはお答えになった、『あなたの神である主を拝み、ただ主にのみ仕えなさい』」。

(注)別エントリー「試論:『あらゆる貪欲に対して』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18049

【追記】

主イエスはルカ12章15節で、どのような種類の貪欲に対しても十分に目を光らせ、心を奪われてはならないと警告された。同16章13節「あなたたちは、神と富のどちらか一方にしか仕えることができない」マタイ13章22節「茨の間に落ちた種とは、御言葉を聞いても世の思い煩いや富の誘惑が〜」。

(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1699

ルカ16章13節「神と富の両方に仕えることはできない」黙示録18章7節「わたしは女王の座に着いており、やもめではなく、決して悲しい目には遭わない」同3節「彼女の豪勢な贅沢により地上の商人たちは、富を築いた」哀歌1章1節「やもめとなってしまったのか、多くの民の女王であるこの都が」。

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

主はマタイ13章45節以下で、「天の国」を全財産と引き換えにしてでも手に入れるべき真珠にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「天の国」は「永遠の命」と同義だが、「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

試論:パウロの「自分の十字架」を140文字以内で

【問】ヨハネは「愛」で有名な以外に「真理」という言葉で主イエスと主に対する信仰とを表しました。パウロの手紙には「感謝」という言葉がよく登場します。なぜ?
【答】パウロはステファノの殺害に関与しており、自分は本来は主の弟子に加えてもらえる立場ではない、と常に強く自覚していたからです。

試論:マグダラのマリアの十字架を140文字以内で

ベタニアのラザロの姉妹マリアは、主イエスによって「七つの悪霊」を追い出され主に最も忠実な女性たちの一人に変わったが、かつて彼女が歓楽に耽った風紀の乱れた町マグダラは彼女の代名詞となり、彼女もまたそれを甘んじて受け続けた。自分の間違っていた過去を忘れることなく戒めとするためである。

(注)別エントリー「試論:『マグダラのマリア』素性を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9703

(注)別エントリー「『自分を捨て、自分の十字架を背負って』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18140

試論:ペトロの「自分の十字架」を140文字以内で

ペトロはヨハネ福音書最終章で主イエスから弟子たちの牧者であることを再確認され、鶏が鳴く前に三度主をを知らないと誓った時の弱く不安定な自分を捨てることが出来たが、それでも毎朝、夜明けと共にどこかで鶏が鳴くのが聞こえる度に、あの日の狂おしいばかりの自己嫌悪の記憶が蘇りそれに苛まれた。

(注)別エントリー「試論:『自分の十字架』とペトロを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12304

【追記】

主イエスはルカ9章23節で、弟子となる者は自分の十字架を背負って、従って来るべきだと仰せになった。初代教会時代、新しく信者になろうとする人々がペトロに「あなたにとっての『自分の十字架』は何ですか?」と質問したなら、恐らく「鶏が鳴く前に三度主を知らないと言ったこと」と答えただろう。

(注)別エントリー「試論:ペトロの生涯を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10550

「恵みの時」をもたらしたものは何か

パウロは二コリント6章2節でイザヤ49章8節を引用し、「今や恵みの時、今こそ救いの日」と記す。当然こう記す前提には、主イエスこそイザヤ49章以下に預言された「主の僕(しもべ)」であり、イザヤ50章6節に預言された救い主の御受難を経て救いの預言が完全に成就したという認識が存在する。

ルカ2章32節でシメオンは幼子を「異邦人を照らす啓示の光」と呼び、この幼子こそイザヤ49章6節で預言された「主の僕(しもべ)」だと示唆した。さらに続けて「反対を受けるしるし」(ルカ2章34節)という表現で、この幼子がイザヤ50章6節の受難を経験することをも、母親のマリアに伝えた。

(注)別エントリー「試論:『主の僕の忍耐』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6462

(注)別エントリー「試論:イザヤの預言と主の御受難を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6322

(注)別エントリー「試論:『剣が象徴する事柄』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8837

(注)別エントリー「試論:『言葉は剣』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7862

幼子を腕に抱いたシメオンはルカ2章32節で幼子を「万民を照らす啓示の光」と呼んだ。イザヤ49章6節は「わたしはあなたを僕(しもべ)とし、国々の光としてわたしの救いを地の果てまでも、もたらす者とする」と預言した。フィリピ2章7節「キリストは人間と同じ者になられ、僕の身になられた」。

黙示録7章16節はイザヤ49章10節を踏襲することで洗礼者が言及した(ヨハネ1章)

「〔神の〕小羊」

とイザヤ書の

「主の僕(しもべ)」

が同一人物であると再確認させ、

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために来た」
(マタイ20章28節、マルコ10章45節)

という事柄をも再確認させる。

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7514

(注)別エントリー「試論:世の罪を取り除く神の小羊を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6140

古代のギリシア語イザヤ50章6節は「わたしは鞭打つ者に背中を、平手打ちする者に頬を向け、なお嘲りと唾からも顔をそむけることがなかった」と記し、この節をマタイ5章39章の主の仰せそして御受難の際(マルコ14章〜15章)の主の御苦しみと御振舞いに、最も近いニュアンスで、解釈している。

(注)別エントリー「試論:御受難の際の主の模範を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6315

主はヨハネ12章27節で「今わたしは心騒ぐ」と仰せになり御自分の内面は穏やかでないと告白された。多くの侮辱を伴う凄惨なリンチの末に、十字架を背負わされ、「御自分の民」から罵声を浴びながら体力を消耗し尽くし、ぼろ布のような状態で大きな苦しみの内に息絶える日がそこまで来たからである。

主はヨハネ12章23節で「人の子が栄光を受ける時が来た」と仰せになった。御受難(十字架上の死)によって多くの人々に永遠の命をもたらし(24節〜25節)「死を永久に滅ぼす」(31節、イザヤ25章8節、一コリント15章54節、ヘブライ2章14節以下、コロサイ1章20節等)ためである。

(注)別エントリー「試論:『自分の命を憎む人』??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9419

ヨハネ12章27節「わたしはまさにこの時(御自身がゴルゴタにおいて十字架上に『上げられる《高い所に掲げられて顕示される》』御受難の時)のために、来た」マタイ20章28節、マルコ10章45節「人の子は、多くの人々の身代金(=あがない)として、自分の命を献(ささ)げるために、来た」。

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

(注)別エントリー「試論:真理と贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9081

主はヨハネ14章27節で「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と仰せになった。ではどうやって主は御自分の平和をお与えになったのか、パウロがコロサイ1章20節で「その十字架の血によって」と答えを記した。

(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7479

「カインのようになってはなりません」

カインはアベルと違って献げ物となる作物を育てる際、手間暇をかけようとせず、ろくに手入れもせず、ただ自然に育ったがままの状態のものを献げた。それでいて神に目を留められなかったことで激怒し、そうなった理由を反省せず弟の意見を参考にしようとせず両親にも相談せず、神に質問すらしなかった。

「神は高慢な者を敵とする」と聖書は随所(箴言3章34節等)で教える。ただし高慢な人の破滅を準備するのは、実は高慢な人自身である。高慢な人は周囲を侮り、眼中にないかのように配慮もなく、高慢な人の態度を嫌った周囲の人々は高慢な人が窮地に陥っても援助や協力の手を差し延べようとはしない。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

箴言28章14節「主を畏れ続ける人は幸いであるが、心のかたくなな人は、好ましからざる状況に陥る」同8章13節「主を畏れることとは、悪を憎むことである。高慢、驕り、悪の道、暴言を吐く口を、わたし(知恵)は憎む」同12節「わたしは知恵。熟慮と共に住まい、知識と慎重さを兼ね備える」。

【問】弟を殺したカインには違う道はなかったのですか?【答】なぜ弟の献げ物には神は目を留められたのに自分の献げ物にはそうされなかったのか、まず彼は弟と話し合うべきでした。間違った自尊心のために彼はそうせず、神から語り掛けられた際に神へ理由を直接質問することさえも彼はしませんでした。

【問】神はえこひいきされましたか?【答】兄は適当な気持ちで自分の産物の中からありきたりのものを神に献げましたが、弟は真心を込めて選りすぐりのものを献げました。詩編18編の通り、神は無垢な者には無垢に向き合われ心の曲がった者には背を向けられますが、兄は弟だけではなく神も恨みました。

神からアベルの不在について質問を受けた際、最初カインは神に対し白(しら)を切った。カインはそれだけでなく「わたしは弟の番人でしょうか」と憎まれ口を続け、神に対する高慢や敵意すら隠さなかった。もし神を殺せるならそうしていたのではないかと思える毒々しさがカインの言葉には込もっている。

旧約聖書第二正典の知恵の書の10章では、人類の始祖アダムが一度は過ちを犯したが、そこから立ち直って救われ、嫉妬のためにカインは神から遠ざかり、弟を殺した後も不信仰のまま死に滅び去り、カインの不信仰が人類に蔓延した結果として洪水に至った世界から神に導かれノアが箱舟で救われたと記す。

(注)別エントリー「試論:神の子と人の娘の結婚??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14394

(注)別エントリー「神の子らは人の娘たちを【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8636

主の養父をマタイ1章19節はディカイオスと表現するが、古代ギリシア語訳ハバクク2章4節はディカイオスを高慢な者と対置する。主が「人の子は仕えるために来た」(マタイ20章28節)と仰せになり、聖母が「主のはしため」(ルカ1章48節)を自称する以上、ヨセフのへりくだりは必然と言える。

(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7479

使徒たちは箴言3章34節を引用し「神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みを与えられる」(一ペトロ5章5節、ヤコブ4章6節)と説いた。主イエスもマタイ23章12節で「高慢な者は誰でも低くされ、へりくだる者は誰もが高くされる」と、御自分の弟子たちも含めて、全ての人々に仰せになった。

(注)別エントリー「試論:『恵みとへりくだり』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8781

イザヤ10章12節の「主はアッシリア王の驕った心の結ぶ実と高ぶる目の輝きを罰せられる」が示す通りヘブライ人は、「人間の心の状態は眼差し・目付きなどに反映されるため目を見ればその人の内面とりわけ高慢心が明らかになる」と考えており、マタイ6章「体のともし火は目」はこれを踏まえている。

主は「体のともし火は目」(ルカ11章34節以下、マタイ6章22節以下)と仰せになったが、当然、「あなたの内面は、まなざし・目つきで明らかにされる」という意味でも上記の表現を用いられ、箴言21章4節は《高慢なまなざしは神に逆らう者の傲慢な心を明らかにするが、傲慢は罪である》と説く。

詩編1編1節は幸いな者として「神の逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず」と歌い、「神は高慢な者を敵とされ、へりくだる者に恵みをお与えになる」(箴言3章34節、ヤコブ4章6節、一ペトロ5章5節)と同様に、高慢心は信仰と相容れないことを説く。

試論:信仰とは?を140文字以内で

詩編12(11)編においてダビデは、隣人に嘘をついたり隣人を早口で欺いたり言行不一致状態だったりする人々ばかりの風潮を、「信仰のある人は消え去りました」(12編2節、新共同訳)と表す。ここで「信仰」と訳されるヘブライ語を、古代のギリシア語訳聖書はアレテイア(真理、まこと)と訳す。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

【試論】

ヨハネ福音書は「信仰」を表現する際、他の福音書が用いるピスティスという語を用いず替わりにアレテイア(真理、まこと)という語を多用する。ヨハネにとって信仰とは、人の真心に対し真心で応じられる神なる主に向かって嘘偽りや裏表のない態度で接することに他ならず、これは当時の共通認識だった。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書のアレテイアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15430

主イエスに関してヨハネ福音書は「真理」を事ある毎に強調しイエスに偽りはなかったと説く。裏を返せばイエスの敵たちがイエスに難癖を付けるためなら偽りの告発を平然と行って恥じなかったことをも記している。「ガリラヤからは預言者は出ない」という難癖もヨナという先例がいる以上は虚偽であった。

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

ヨハネ7章52節に「ガリラヤからは預言者は出ない」という敵たちの難癖がある。彼らの発言は誤りで、預言者ヨナの出身地は列王下14章25節にガト・へフェルと記される。ヨシュア19章13節ではガト・へフェルはゼブルン族の領土で、そこはイザヤ8章23節の通り福音書の時代のガリラヤである。

(注)別エントリー「試論:『ガリラヤからの預言者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15449

主イエスはヨハネ14章6節で「真理」を自称されたが、プロテスタントの「改訳 新約聖書』(1917年)は「まこと」と平仮名を振り、旧約聖書で「まこと」と訳される語との関連を示唆する。嘘偽りや裏表がないこと、上っ面だけでなく内実を伴うこと、真心には真心で返されること等を意味している。

(注)別エントリー「試論:まこと(真、実、信、誠)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16274

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書の『信じる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16417

試論:信仰と信仰もどきの分岐点を140文字以内で

【問】主イエスはマルコ7章で、神がモーセを介して伝えられた「神の掟」とファリサイ派の人々の「人間の言い伝え」とを対比されました。違いは何?
【答】「神の掟」は人々の善意・温情・心配り・憐れみの心を要請しますが、「人間の言い伝え」は単に難癖と揚げ足取りの道具にしかならない紛い物です。

【追記】

【問】ただ単に信仰を自称しているだけのいわゆる「偽り者」をどうやって見分けられますか?
【答】一ヨハネ2章4節は「『神のことを知っている』と自称しながら『神の掟』を守らない者は、偽り者であって、その人の中に真理はない」と教えます。「真理」とは主イエスのことです(ヨハネ14章6節)。

ルカ18章14節で主は、義とされたのはファリサイ派の人ではなく徴税人の方だと仰せになったが、徴税人はファリサイ派の人と違い、他人を裁くことや他人を罪人と決めつけることを一切せずに自分の非を認め、ただ神の憐れみを切望したからである。主は他人を引き合いに出しての弁明を好まれていない。

(注)別エントリー「ファリサイ派の人と徴税人」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5182

主イエスはマルコ7章でファリサイ派の人々を厳しく批判された。それは、「あなたたちは他人の揚げ足取りばかりで、他人への温情や心配りはない」というものだった。ファリサイ派の人々には主のような奇跡的な癒しや悪霊を追い出すことはできず、できることといえば弟子に難癖をつけることだけである。

箴言20章19節は、軽々しく他人の秘密を漏らす人や、安易に他人の悪口を言って色々な場所で中傷して回る人や、他人に遠慮せずに軽々しく口を開く人等と交際するのは、二の足を踏んだ方が良いと勧める。同11章13節は、軽々しく他人の秘密を漏らす人と安易に他人の悪口を言う人は根は同じと説く。

【問】主イエスは「わたしは世の光」「あなたたちは世の光」などと仰せになりました。なぜ?
【答】「光」はイザヤ58章6節以下にある通り善意・温情・心配り・憐れみの業等の喩えで、人の心と表情を明るくさせ人々の心を温めます。「光」がなくなれば、人々の心と表情は暗くなり、心は冷え込みます。

【問】福音書には主イエスが「笑った」という記述がない、という議論があるそうです。
【答】イザヤ58章10節は隣人への温情を「光」に喩えます。理由は相手の心や顔を明るくするからです。主はヨハネ8章で「わたしは世の光」と宣言されましたが、これはいつも仏頂面の人が語る言葉ではありません。

【問】イザヤ58章6節以下では、困窮している人々に対する心配り・善意・温情・憐れみの心が「光」に喩えられていますが、なぜ?
【答】それらが相手の表情と心とを明るくさせ、また、それらが相手の心を、光が熱を与えるように温かくさせるからです。マタイ5章16節「あなたの光を輝かせなさい」。

イザヤ58章10節は「心を配る」と日本語で表現されるが、ヘブライ語本文は「霊魂を注ぐ」と表現する。ルカ11章41節「器の中にあるものを施せ」はこれに基づく。「器」は人間の比喩、「器の中にあるもの」は霊魂で、主の真意は「揚げ足取りをやめて、隣人に配慮することを学びなさい」であった。

(注)別エントリー「試論:『土の器』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6902

(注)別エントリー「『土の器』(つちのうつは)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14324

信仰とは神から命じられた通りに日々の一挙手一投足をもって証しし続ける事柄であり、たとえ神が人となられて人々に「兄弟」と呼び掛けられるほど親しみを示されたとしても、そのことは人間の神に対する厚かましさや馴れ馴れしさを正当化するものでは全くないと、ルカ17章7節以下で主は説明された。

(注)別エントリー「試論:行いを欠く信仰を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5360

主イエスはルカ17章7節以下で神から命じられている事柄を全て実行しているからといって人は思い上がってはいけないと仰せになった。忠実な僕(しもべ)が最後に神から報酬を受け取ることは12章35節以下で説かれるが、あくまで「天の国」のことであって、この世で他人を見下していいわけがない。

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11494

(注)別エントリー「試論:『戸をたたいている』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12070

詩編12編でダビデが歌った通り旧約の民は原則として、裏表(嘘偽り)のある人や言行不一致の人の中に信仰の存在を認めていなかった。マタイ7章21節の主イエスの仰せ「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入れるわけではない。わたしの天の御父の御心を行う人々だけが入れる」。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

試論:マタイ6章2節を140文字以内で

主イエスはマタイ6章2節で「憐れみの業を行う際に、自分の前でラッパを吹き鳴らすな」と仰せになった。聖書で「ラッパ」は、しばしば神の威厳に満ちた御声による仰せの比喩だが、主はここで、神のお告げのような仰々しい物言いで自己宣伝する行為や相手に対する恩着せがましい態度を戒めておられる。

【追記】

黙示録1章10節や4章2節は、ラッパのように響く大声という表現を用いる。1章ではヨハネが声の主(ぬし)を確かめようと振り向き「顔は強く照り輝く太陽のようであった」(16節)ことで「主の変容」を思い出し、主の「天上の体」を目撃する。ラッパは神の威厳に満ちた力強い御声のたとえである。

(注)別エントリー「試論:『主の変容』と御復活を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14552

古代のギリシア語旧約聖書は「角笛」(新共同訳)と訳されるヘブライ語に対して、新約聖書本文中で「ラッパ」(新共同訳)と訳されるギリシア語を、当てている。ヘブライ12章19節で言及される「ラッパ」はシナイ山の出来事と関連し、出エジプト19章や20章で言及される「角笛」に対応している。

主イエスはマタイ6章17節で「断食の際は頭に油を付け、顔を洗う」よう教えられた。コヘレト9章8節は「どんな時も純白の衣を着て、頭に香油を絶やすな」と日々を爽やかな心持ちで過ごすことを勧めており、主イエスが「頭に油を付け」と勧められる理由も結局は万事を自然な態度でという点に尽きる。

主イエスは、マタイ5章14節で「あなたたちは世の光」16節で「光を輝かせなさい」と仰せになった。「光」はイザヤ58章8節と10節の通り神の御言葉に従う憐れみの業を象徴している。ただし主イエスはマタイ6章で、その業を行う際にはこれ見よがしな態度で見せびらかさないよう厳に戒められた。

主はマタイ5章14節で「あなたがたは世の光」ヨハネ8章12節で「わたしは世の光」「わたしに従う者は暗闇の中を歩まず命の光を持つ」と仰せになった。同1章4節は「御言葉のうちに命があり、命は人間を照らす光」と記す。イザヤ58章6節以下では隣人に心を配り助けを惜しまない人に、光が伴う。

(注)別エントリー「試論:『世の光と一タラントン』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11353

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『わたしは命である』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11586

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章4節『命の光』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7297

主イエスの「善きサマリア人のたとえ」で、サマリア人は「傷に油とぶどう酒を注ぎ包帯をして、宿屋に連れて行って介抱した」(ルカ10章34節)。さらに、その後のことを宿屋の主人に依頼しておくのも忘れなかった。自分の手に負える範囲を超える際には他人の手を借りる方が良い場合も当然あり得る。

(注)別エントリー「試論:『善きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

古代のイスラエル人は、「困っている人に心を配る」(イザヤ58章10節)ことを表現する際には「霊魂を注ぐ」という言い回しを用いた。従ってルカ11章41節「器(=人間)の中にある物(=霊魂)を施せ」の意味は《揚げ足取りをいい加減に止めて、隣人に心を配ることだけを心掛けなさい》である。

(注)別エントリー「試論:『土の器』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6902

(注)別エントリー「『土の器』(つちのうつは)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14324

【問】主イエスはどうして、「あなたたちは世の光」「あなたたちの光を輝かせなさい」等と仰せになりましたか?
【答】「あなたが他の人からしてもらいたいことなら全て、あなたから他の人にしなさい」と同じで、《あなたたちの気配りと温情で世の人々の心と表情を明るくさせ、人々の心を温めなさい》。

【問】主イエスは「わたしは世の光」「あなたたちは世の光」などと仰せになりました。なぜ?
【答】「光」はイザヤ58章6節以下にある通り善意・温情・心配り・憐れみの業等の喩えで、人の心と表情を明るくさせ人々の心を温めます。「光」がなくなれば、人々の心と表情は暗くなり、心は冷え込みます。

【問】エレミヤ31章33節「わたしの律法を彼らの胸の中に授け彼らの心にそれを記す」の意味は?
【答】マタイ7章12節「他の人からしてもらいたいことを全て、あなたから他の人にしなさい。これこそ律法であり預言者〔の教え〕」。これは十戒よりも単純で子供でも覚えられるため、石板も不要です。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

マタイ5章17節「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するため」同7章12節「人からしてもらいたいと思うことは何でも、あなたたちから人にしなさい。これこそが律法と預言者」ローマ13章9節「他にどんな掟があろうとも、隣人を自分のように愛することに要約されます」。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1982

試論:「天の国」と「永遠の命」を140文字以内で

主イエスはヨハネ6章40節で「わたしの御父の御心は、御子(=主イエス御自身)を見て信じる者が皆『永遠の命』(マタイ25章46節)を得ることである」と仰せになった。「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

【追記】

ヨハネ17章3節「永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなた(御父)とあなたが遣わされたイエス・キリストを知ること」一ヨハネ2章4節「神を知っていると言いつつ神の掟を行わぬ人は偽り者で彼にまことはない」マタイ7章12節「他の人からしてもらいことをあなたから他の人に全てしなさい」。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

(注)別エントリー「試論:真理(まこと)の反対は?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12668

ホセア6章6節は「わたしが求めるのは、憐れみであって『いけにえ』ではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」と記すが、これと関連して一ヨハネ2章3節は「知る」という表現の意味を《神の掟を守るという実体験を通して自分は神を知っているのだと自覚する》ことであると説明する。

(注)別エントリー「試論:『いけにえ』と憐れみを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8356

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

エゼキエル18章「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は仰せになる。彼が悪から立ち帰って生きることを喜ばないだろうか。お前たちが犯した全ての背きを投げ捨てて新しい心と霊を造り出せ。どうしてお前たちは死んでよいだろうか。お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」。

試論:「自業自得」を140文字以内で

箴言26章27節は「落とし穴を掘る者は自分がそこに落ちる」と記し、自分の行いは全部いずれ自分に戻って来ると教える。主イエスはマタイ7章12節とルカ6章31節において「あなたは、自分が他の人からしてもらいたいと思うことは、どんなことでも、あなたから他の人にしなさい」と仰せになった。

(注)別エントリー「試論:『落とし穴を掘る人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13476

【追記】

ルカ23章40節以下で主の隣の十字架につけられた盗賊は最後に神への畏れを知り、自分の今の惨めな境遇は全て自業自得だが神には罪はなく神の御心に適う願いなら聞き入れられると確信し、自分の隣にいるのは神そのものであると信じて直接それを伝えた。彼の信仰告白に主は最大の幸福を御約束された。

(注)別エントリー「神に対する確信を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5613

「善い盗賊」はルカ23章で、「悪い盗賊」の罵りから主イエスを擁護し(40節)、自分のこれまでの悪事を素直に認める一方(41節)、主には悪いものは一つもないと宣言し(同節)、最後に、自分は主によって救われたいと真摯に希望した(42節)。主は「善い盗賊」に、永遠の幸福を御約束された。

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11494

ファリサイ派のパン種

主イエスはマルコ8章15節で「ファリサイ派のパン種とヘロデ派のパン種に気をつけなさい」と教えられた。同7章8節以下「あなたたちは神の掟(=モーセの律法)を後回しにして人間の言い伝えの方を固く守っている。あなたたちは自分たちの言い伝えの方を大事にして、神の掟を無い物として扱った」。

主はマルコ7章20節以下で、御自分が人々にお望みである「清さ」とは対極にあるもの、つまり「愛」そのものである御自分とは相容れないものについて「悪い思い」と総称され、具体的には、みだらな行い・盗み・殺意・姦淫・貪欲・悪意・詐欺・好色・ねたみ・悪口・傲慢・無分別などだと御説明された。

(注)別エントリー「試論:マルコ7章と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14278

マルコ7章の通りファリサイ派の人々は、神が授けられたモーセの律法の多数の掟に加えて、「昔の人の言い伝え」と呼ばれる人間由来の多数の掟を皆に課した。背負い切れない重荷と化した掟の数々に、人々は自分の落ち度を指摘されるよりはとばかりに皆で互いの粗探しを始めたが、そこに隣人愛はあるか?

(注)別エントリー「試論:『背負い切れない数の掟』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19409

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

主イエスは「ファリサイ派のパン種とヘロデ派のパン種には気を付けなさい」と教えられ(マルコ8章、マタイ16章参照)、一コリント5章は「古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いてはなりません」「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませる」「あなたがたはパン種の入っていない者」等と教えている。

(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1982

主イエスはルカ11章とマタイ23章で、律法学者たちとファリサイ派の人々に厳しい言葉を発せられたが、その理由は「あなたたちは『もし昔の預言者たちの時代に生きていたなら、彼らを弾圧する側には回らなかった』と言いながら、なぜ預言者たちがまさに預言したこのわたしを敵視するのか」であった。

(注)別エントリー「試論:マタイ23章『先生』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18558

ローマの威光を背景にヘロデは重臣の身でありながら、御家騒動を繰り返すハスモン家からユダヤの王位を奪ったが、ハスモン家から厄介者扱いされていたファリサイ派を懐柔した。結果的に各地に存在した諸会堂はファリサイ派の管轄となり、マタイ23章2節の通りファリサイ派は「モーセの座に着いた」。

ルカ11章41節「器の中にある物を施せ」の「器」とは「土の器」「陶器」の比喩と同様、人間を指す。「器の中にある物」は人間に吹き込まれた「命の息」(創世記2章7節)つまり「霊魂」を意味する。イザヤ58章10節のヘブライ語原文「霊魂を注ぐ」は、「心を配る」(新共同訳)ことを意味する。

(注)別エントリー「試論:『土の器』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6902

(注)別エントリー「『土の器』(つちのうつは)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14324

古代のイスラエル人は、「困っている人に心を配る」(イザヤ58章10節)ことを表現する際には「霊魂を注ぐ」という言い回しを用いた。従ってルカ11章41節「器(=人間)の中にある物(=霊魂)を施せ」の意味は「揚げ足取りをいい加減に止めて、隣人に心を配ることだけを心掛けなさい」である。

キリスト教では「神は愛」(一ヨハネ4章8節)であり、従って神が否定される事柄はことごとく「愛の反対」に属しているが、あえてそれらを要約するならば、主が教えられた通り「悪い思い」(マルコ7章21節)と総称されている、心の中から生じるさまざまな悪い感情つまり多様な邪念だと考えられる。

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

試論:「天からのしるし」の一例を140文字以内で

列王記下1章10節「エリヤが『わたしが神の人ならば天から火が降って来て、あなたと五十人の部下を焼き尽くすだろう』と言うと天から火が降って来て隊長と五十人の部下を焼き尽くした」。12節でも同じ光景が繰り返され、列王記上18章38節にも「主の火」が降(くだ)る、類似の場面が記される。

試論:マタイ5章22節を140文字以内で

主はマタイ5章22節で「腹を立ててはならない」と教えられた。ヤコブ1章20節は「人の怒りは神の義を実現しない」と記し、19節は「だれでも聞くのに早く、話すのに遅く、怒るのに遅いようにしなさい」2章13節では「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下される」と警告している。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

【追記】

主イエスはマタイ5章22節で「兄弟に対して腹を立てる者は皆、裁きを受ける」と教えられ、神なる主は創世記4章6節でカインに、「どうして怒るのか」と仰せになった。箴言14章29節は「短気な者は〔怒るより先に助言を求めるべき時にでも、聞く耳を持たないので〕いつまでも愚かなまま」と説く。

レビ記19章18節は隣人愛の掟を記すが、17節では心の中で憎しみを抱き続けることを禁じ、そうなるよりは早々に問題となっている事柄を公にして相手に苦言を呈することを勧める。ヤコブ1章20節は「人の怒りは神の義を実現しない」と説き、マタイ5章22節以下では早期の和解を主は勧められた。

箴言28章14節は「いつも気を配っている者は幸いであるが、周囲に厳しい者は苦難に陥る」と記し、神に対しても隣人に対してもどんな物事に対しても注意深く慎重に接する人はそうそう困難に遭うことはないが、万事に頑固で当たりの強い者はそれだけ様々な面倒事に巻き込まれ易いものだと説いている。

「神は高慢な者を敵とする」と聖書は随所(箴言3章34節等)で教える。ただし高慢な人の破滅を準備するのは、実は高慢な人自身である。高慢な人は周囲を侮り、眼中にないかのように配慮もなく、高慢な人の態度を嫌った周囲の人々は高慢な人が窮地に陥っても援助や協力の手を差し延べようとはしない。

主はマタイ5章39節で、悪人に「対抗」(ルカ21章15節)してはならないと仰せになった。原文のギリシア語は「全面的に対抗する」「徹底的に応戦する」というニュアンスであり、それも含めてマタイ5章で主は早期の和解を勧められ、同じギリシア語で悪魔への「対抗」をヤコブ4章7節では勧める。

マタイ5章39節の原文の表現を調べると、主が禁じたのは悪人と同じ次元(行為や目的)の報復や応戦であり、逃れる手段があれば用いてもよく(ヨハネ8章59節)言説による反論もよい(同18章23節)。もちろん女性が暴行から逃れる目的で男性に抵抗するのもよい(同じ目的の応戦に該当しない)。

主はマタイ5章39節で悪人に手向かってはならないと仰せになったが、主がここで禁じられたのは<悪人と同じ次元の争い事>つまり、悪人と同じ手段で報復を行い自分も悪事に手を染めることだった。38節で「目には目、歯には歯」に言及されたのはそのためで、報復の連鎖に陥らぬよう主は戒められた。

ヨハネ18章で主が逮捕されて大祭司のもとで尋問を受けた際、「返事の仕方」のことで大祭司の「下役」に難癖をつけられ、主は平手打ちを受けた。もちろん主は不当な暴力に対して暴力で返すことなどなさらなかった(マタイ5章39節参照)が、不当な言い掛かりに対して主張すべき事柄は主張なさった。

試論:「使ってはいけない暴言」を140文字以内で

主イエスはマタイ5章22節で、親しい仲であろうと相手に暴言を吐く者は厳罰を受けると仰せになった。その中の暴言の一つには箴言12章11節に含まれる「無価値の(役に立たない)もの」に由来すると想定される表現がある。古代のヘブライ人は相手の心に刺さる言葉〔の力〕を「矢」「剣」に喩えた。

【追記】

旧約聖書では心に刺さる言葉の比喩として「剣」の他に、「矢」も登場する。この両者の違いは、「剣」は心に刺さるというニュアンス以外に分断をも意味し、一方の「矢」は同じ言葉でも「毒を含む言葉」(詩編64編4(3)節)を表現し、箴言26章18節「死の矢」のように実際の殺傷性の高さも表す。

主はマタイ7章12節で「他の人からしてもらいたいことを全て、あなたから他の人にしなさい。これこそ律法であり預言者〔の教え〕」と仰せになり、あらゆる事柄をこの《律法》に照らしその是非を判断するように命じられた。パウロはこの《律法》を「キリストの律法」(ガラテヤ6章2節等)と呼んだ。

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちは、自分が他の人からしてほしいことを、自分から他の人にしなさい」と《愛の掟》を教えられた。従って「愛の反対」は「他の人からしてほしくないことをあえて他の人に行うこと」そして「他の人からしてほしいことをあえて他の人には行わないこと」からなる。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

レビ19章18節は有名な隣人愛の掟を教えるが、その対極の行為として17節は兄弟を心の中で憎むことを禁じる。ゼカリヤ7章10節は互いに災いを心の中で企むこと、8章17節は互いに心の中で悪を企むことを禁じ、相手の困った顔・悲しむ顔・苦しむ顔を見たいという悪意を抱いてはならぬと戒める。

ローマ13章10節でパウロは「愛とは隣人に対して悪事を行わないことです」と断言している。これを踏まえるなら、隣人に対して悪事を行おうと企むことこそが愛の反対に該当する行為ということになる。同9節は「姦淫するな、殺すな、盗むな、貪るな(他人の物の横取りを企むな)」等を列挙している。

箴言26章19節は日本語で「悪乗り」と呼ばれる行為を戒め、「親しき仲にも礼儀あり」という事柄を想起させる(詩編15編3節参照)。箴言26章18節は「死の矢」という表現を用いるが、旧約聖書の「剣」と「矢」は《心に刺さる言葉》の比喩(詩編64編4(3)節等)で、隣人への暴言を戒める。

(注)別エントリー「試論:『言葉』と『心の傷』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8216

(注)別エントリー「試論:『言葉の刃』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8308

(注)別エントリー「試論:『火も剣も御言葉の比喩』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7812

レビ19章18節は「自分自身を愛するように隣人を愛する」という隣人愛を命じ、同章ではその隣人愛の対極にある様々な行為を禁じる。17節は「心の中で兄弟を憎んではならない」と悪意を秘めたまま隣人に接することを禁じて「出来心(ふざけただけ)」という言い訳も認めない(箴言26章19節)。

(注)別エントリー「レビ記19章17節:理由のない悪意」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4826

レビ19章18節は「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」17節は「心の中で兄弟を憎んではならない」ゼカリヤ7章9節は「互いにいたわり合い憐れみ深くありなさい」10節は「互いに災いを心にたくらんではならない」と教える。「心の中で憎む」とは相手の不幸を心の中で望むことを意味する。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1982

「愛の反対は無関心」という言葉は、これを聞き「善きサマリア人の話」(ルカ10章)や「最後の審判」(マタイ25章)をすぐ連想できる人にとっては、キリスト教的な意味を持つ。しかし、これらの箇所に思い至らず、それどころか福音書のどんなエピソードも浮かばない人にとっては、混乱の元となる。

(注)別エントリー「試論:『善きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

主イエスは隣人愛の掟を、最も重要な掟の第二と呼ばれた。レビ19章14節と申命記27章18節は、耳や目の不自由な人や道に迷って困っている人を笑い者にするなと教える。レビ19章17節は、以前に迷惑をかけられたわけでもない相手に対し、理由のない悪意を抱いた状態で接してはならぬと教える。

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9949

いわゆる「煉獄」

マタイ18章「仲間を赦さない家来のたとえ」には「牢役人」が登場し、5章でも人間関係がこじれて和解に至らない人が行く「牢」が登場するが、ここは「火の地獄」(22節)とは別物として扱われる。この牢は代償を払い続けることにより最終的に出ることができるが、ここをカトリックでは煉獄と呼ぶ。

(注)別エントリー「試論:黙示録の火の池を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5376

一ヨハネ5章16節は「死に至らない罪」と「死に至る罪」があると説く。主イエスはルカ12章58節以下で「死に至らない罪」の人が行く期限付きの「牢獄」の存在を示唆された。この牢獄は主なる神が条件を満たしたと判断なさった時、そこから解放される。カトリックでは、この牢獄を《煉獄》と呼ぶ。

(注)別エントリー「試論:二種類の罪と『永遠の命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9895

主イエスがルカ11章で教えられた祈りの文言の中に「わたしたちの罪をお赦しください。わたしたちも、自分に負い目のある人々を赦します」(4節)とあるが、その理由を主は、マタイ18章の「仲間を赦さない家来のたとえ」で御説明された。同章35節「あなたが心から兄弟を赦さないなら御父も〜」。

(注)別エントリー「試論:『仲間を容赦しない家来』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5511

【問】「持っていない人は、持っているはずのものまで取り上げられる」の意味は?
【答】マタイ18章33節〜34節「主君は怒って、『わたしがお前を憐れんだようにお前も仲間を憐れむべきではなかったか』と言い、主君からの憐れみは帳消しにされて、取り上げられた」。「主君」とは、神のことです。

マタイ5章7節「憐れみ深い人は幸いである。その人は憐れみを受ける」はヨハネ13章「わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい」同14章「わたしを愛する人はわたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、御父とわたしはその人のところに行って一緒に住む」等と同じ道理である。

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

(注)別エントリー「試論:『いけにえ』と憐れみを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8356

主イエスはマタイ18章21節以下の「仲間を赦さない家来のたとえ」で、一人一人が他人を裁くその同じ基準(了見)で、神もまた一人一人をそれぞれ裁かれることをお教えになった。これは、基本的には7章で既に仰せになった事柄であり、「あなた自身が裁かれないようにするためにも、他人を裁くな」。

(注)別エントリー「試論:自分が裁かれないためにはを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5501

(注)別エントリー「試論:『慈悲は裁きの上にある』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7694

たとえ過失を犯した人が将来を案じ利己的な動機に基づいて他人の負い目を容赦したとしても、人が他人の負い目を容赦する行為それ自体には神は賛同される(ルカ16章1節以下)が、人が他人の負い目に厳しく臨むならば、神も一度与えた容赦を撤回してその人に厳しくされる(マタイ18章21節以下)。

(注)別エントリー「試論:『主にとって赦しも癒し』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6013

マタイ12章32節は、主イエスの人間的属性だけを非難した者は赦されるが、主が聖霊によって悪霊を追い出したことを非難する者は赦されない、と記す。一ヨハネ5章16節以下も永遠の死に至る罪と死に至らない罪を分けて論じる。愛の掟に留まることを止める人(ヨハネ15章6節)が永遠の死に至る。

(注)別エントリー「試論:『ぶどうの木』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6605

(注)別エントリー「試論:『聖霊に対する冒涜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6715

主イエスのたとえには様々な人物が登場するが、他人を引き合いに出して自己正当化したり自分のことを棚に上げて他人を攻撃したりする「他人に厳しく自分に甘い人」に対しては、神からの視線は非常に厳しい。しかし他人に責任転嫁せず正直に自分で自分の非を認める人に対しては、神からの視線は優しい。

出エジプト記34章で主の栄光がモーセに現わされた際、御自分が優しさと厳しさを兼ね備えた神であると主はモーセに明らかにされた。ダビデは詩編18編21(20)節以下で、主は優しい人には優しく厳しい人には厳しいと歌った。その人が隣人に敬意を示さない限り、主はその人の信仰を認められない。

(注)別エントリー「試論:『選ばれた人は選んだ人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8034

ヤコブ5章9節に「自分が裁きを受けないようにするには互いに不平を言い合わないことです」とあるが、これはマタイ7章1節〜2節「他人を裁くな。自分が裁かれないようにするためである。あなたがたは自分が他人を裁く流儀で裁かれる」とは同じ事柄であり、マタイ6章14節〜15節とも同じである。

(注)別エントリー「試論:赦しの重要性を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5390

(注)別エントリー「試論:主の祈りと赦しを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5305

エレミヤ31章33節では救い主が「御自分の律法」をモーセの律法に替えて人々に授けると預言し、続く34節では救い主は人々に赦しを与える存在と預言する。主イエス・キリストは、ルカ7章48節に見られるように人々に赦しをお与えになり、また御自分の律法(マタイ7章12節)をお授けになった。

(注)別エントリー「試論:『主によって教えられる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16434

(注)別エントリー「試論:キリスト教の基礎を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19005

(注)別エントリー「試論:『救い主と赦し』預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19009

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

試論:「誓ってはならない」??を140文字以内で

【問】主イエスはなぜ、誓ってはならないと仰せになりましたか?
【答】福音書の時代の聖書世界では、例えばマルコ6章で洗礼者が殺害される際の経緯や、ペトロが鶏が鳴く前に主を知らないと「誓った」場面からも分かる通り、「誓う」という行為それ自体が結果的に悪事と関連する例が多かったからです。

(注)別エントリー「試論:『誓う』の前提条件とは?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18595

(注)別エントリー「試論:『誓いと愚行』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18661

【追記】

主イエスの「あなたたちは一切、誓ってはならない」の真意は、申命記6章13節が定める誓いの条件「あなたの神、主の御名によって」という前提が当時はあまりにも軽んじられ、実際には神の本来望んでおられたものとは全く異なる有様で運用されており、誓う行為自体が悪の温床になっていたためだった。

試論:「天地」「天」「地」を140文字以内で

古代のヘブライ人は詩編78編69節の通り、エルサレム神殿の聖所を「天地」(マタイ5章18節)または「天」(同章34節参照。ヘブライ1章10節、二ペトロ3章10節)に喩えた。単に「天」に喩える際に対応する「地」は「イスラエルの地」(エゼキエル7章2節。マタイ5章35節参照)を指す。

【追記】

古代のヘブライ人は詩編78編69節の通り、エルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。これを踏まえれば主イエスのマルコ13章31節の仰せ「やがて天地は滅びるであろうが、わたしの言葉は決して滅びない」の意味は、「エルサレムと神殿の滅亡後も、わたしの教えと信仰は生き続ける」である。

(注)別エントリー「試論:『主の日』エルサレム滅亡を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12476

主はマタイ5章18節で、全てのことが実現して天地が消え失せるまではモーセの律法も消え失せないと仰せになり、ルカ21章22節ではエルサレム滅亡で預言が全て実現すると予告され、紀元七〇年にそれは成就した。詩編78編69節の通りヘブライ人はエルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

ルカ21章22節には「書かれていること」という言い回しが用いられているが、これはヨシュア記1章8節と同様に、「預言された事柄」「神から啓示された内容」などを意味する表現である。古代においては「書く(書いて記録に残しておく)」という行為それ自体が、非常に重要な意味を持つものだった。

主はマタイ5章18節で、全てのことが実現し天地が消え失せるまで律法の時代が続くことを仰せになった。ルカ21章22節では、エルサレム滅亡(20節)の日を「書かれていることが完全に実現する報復の日」と仰せになり、エルサレムと神殿の滅亡(紀元七〇年)で律法の時代が終わると宣言なさった。

「天地が消え去る」の「天」とは、神がお住まいになる場所と見なされたエルサレム神殿とりわけその聖所を指し、二ペトロ3章はその滅亡が近いことを説く。「地」はエゼキエル7章2節同様、イスラエルの地を指す。紀元七〇年にエルサレムと神殿は滅亡しユダヤ(イスラエル人の国家)も同じく消滅した。

二ペトロ3章10節は「主の日」において「天は激しい音を立てながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に熔解し尽くす」と予告した。数年後の紀元七〇年、神が住まわれると見なされて、「天」と同一視されていたエルサレムの神殿は、都の滅亡の際ローマ帝国軍によって火を放たれ、大音響と共に焼け滅びた。

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

ルカ21章22節において、主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると明言されており、それは紀元七〇年に現実のこととなった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代や近未来の世界情勢に関して旧約聖書の預言から考える行為は、不毛である。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

ダニエル書9章では神殿とエルサレムの復興を強く願うダニエルの祈りに応えて、都と神殿の再建さらには救い主の到来までも約束されたが、救い主が不当に殺された後、モーセの律法を蹂躙する集団が神殿の聖所を占拠し、そして次に来る指導者の民が、都と神殿を無法集団もろとも、滅ぼし尽くして終わる。

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

ルカ17章34節から35節で主は「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」と繰り返されたが、では一体どこに「連れて行かれ」るのかを、ルカ21章24節では「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と御説明された。これは大昔モーセがレビ記26章33節以下で預言していた話と同じである。

紀元七〇年のエルサレム滅亡時にローマ軍へ投降したユダヤ人のうち、使徒言行録22章のパウロのようにローマの市民権を持つ者はローマ法の保護下にあるため留め置かれたが、そうでない者は妻子とともに奴隷とされて売り飛ばされた。こうして、「一人は連れて行かれ、一人は残される」は現実となった。

(注)別エントリー「試論:『滅びを避けるには』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5749

ルカ21章32節で主は「全てのことが起こるまではこの時代は決して滅びない」と仰せになったが、「時代」に当たる原文の単語ゲネアは古代のギリシア語詩編94(95)編10節の「世代」にも用いられ、詩編のこの節ではゲネアを四十年とする。実際この主の仰せからおおよそ四十年後に都は滅亡した。

(注)別エントリー「試論:『今の時代』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5596

(注)別エントリー「試論:『人心荒廃は滅亡の前兆』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6291

ルカ19章で、主はエルサレムのために泣かれた。確かに主の予告の通り、約四十年後に都は滅亡した。だが同じ都は数日後に主御自身を殺す都でもあった。それでも主は、ヨナ書で神がニネベを惜しまれた以上に、エルサレムのために泣かれた。エルサレムが決して自分の非を認めようとはしないためである。

(注)別エントリー「試論:『滅びを避けるには』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5749

(注)別エントリー「試論:エゼキエル18章を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5726

試論:正しい人は一人もいない?を140文字以内で

【問】マタイ1章19節はヨセフを正しい人と呼びますが、ローマ3章10節以下では詩編を引用して、正しい人は一人もいないと記します。
【答】ローマ1章17節の「正しい人は信仰によって生きる」の通り、パウロは、モーセの律法に従うなら「いない」が、キリストへの信仰によるなら「いる」の立場です。

【追記】

【問】どの福音書にも主イエスの仰せを養父ヨセフが聞いた場面はないのに、ヨセフはキリストへの信仰をどうして持てますか?
【答】ヨセフはマリアの妊娠が自分の与り知らぬものであるにもかかわらず、夢に現れた主の天使のお告げだけで彼女を救い主の母と認めました。これ以上の信仰はありません。

試論:搾取されていたユダヤ??を140文字以内で

【問】福音書の時代、ローマ人は当時のユダヤを搾取していましたか?
【答】巨大な帝国を築いていたローマ人は、支配下の諸民族にローマのユピテル神殿への税を課しましたが、ユダヤ人はエルサレム神殿への税を納めることで、ユダヤ人から見れば「異教」の神殿への税負担を免除される特権がありました。

【追記】

【問】ローマがユダヤに配慮した理由は?
【答】一マカバイ8章の通り、ローマにとってユダヤは古くからの同盟関係の相手という歴史的な経緯がありました。しかし、大反乱を起こしたユダヤが紀元七〇年にエルサレム神殿ともども滅亡すると生き残ったユダヤ人はユピテル神殿への税負担を強いられました。

ローマ帝国によってエルサレム神殿が破壊された後ユダヤ人が集めていた「神殿税」の行き先を、滅亡したエルサレム神殿の替わりにローマのユピテル神殿とするようローマはユダヤ人に命じた。これに納得できなかった当時のユダヤ人のうち、ある人々はローマ支配の及ばないメソポタミアへの逃避を選んだ。

(注)別エントリー「試論:捕囚の人々が実際住んだ地を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16851

御受難前に主は、「理由のない憎しみ」(ヨハネ15章25節)に言及され、また人心荒廃が神殿の滅亡に先立つと予告された(マタイ24章10節、12節)。約四十年後に神殿は滅亡し、さらにその数十年後あるユダヤ教の高名なラビは、「理由のない憎しみ」の蔓延により神殿は滅亡したと、結論付けた。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

主はマタイ24章10節と12節で、人心の荒廃が神殿の滅亡に先立つことを予告された。一方で一世紀ユダヤの歴史家ヨセフスは、紀元七〇年のエルサレム滅亡以前に暗殺や強盗殺人がユダヤの各地で頻発し、加害者が相手をローマの手先呼ばわりして自分たちの悪事を正当化していた事実を著作に記述した。

(注)別エントリー「『荒廃をもたらす憎むべきもの』とは何か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/84

(注)別エントリー「試論:ガリラヤのユダを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9363

(注)別エントリー「試論:古代ユダヤの社会不安を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6268

主はルカ17章で「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」と繰り返され、21章24節では連行の状況を御説明された。ユダヤの歴史家ヨセフスは、紀元七〇年の滅亡の際にローマ市民権を持たぬユダヤ人投降者は妻子ごと奴隷とされ売り飛ばされたがローマ市民のユダヤ人は放免されたことを記述した。

(注)別エントリー「試論:連れて行かれるのはどこ?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6151

(注)別エントリー「試論:『一人は連れて行かれ〜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5819

異教礼拝の蔓延に続く第一神殿滅亡とバビロン捕囚を教訓に、帰還後のユダヤ人は第二神殿を建設し最終的に異教礼拝と訣別した。しかし第二神殿も滅亡し次の神殿は建設の目処も立たない事態に直面してユダヤのある高名なラビは、理由のない悪意の蔓延が神殿を滅ぼし、それは異教礼拝より悪いと結論した。

(注)別エントリー「試論:『心の中で憎む』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6509

(注)別エントリー「試論:『ソロモンの名声と堕落』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8441

主はヨハネ15章25節で「人々は理由もなくわたしを憎んだ」と「彼らの律法」旧約聖書を引用されたが、これは詩編109編2節から5節「神に逆らい欺く者の偽る舌がわたしに語る。憎しみの言葉がわたしを囲み、理由もなくわたしに挑み、わたしの愛と善意と祈りに悪意を返す」を要約した表現である。

レビ19章18節は「自分自身を愛するように隣人を愛する」という隣人愛を命じ、同章ではその隣人愛の対極にある様々な行為を禁じる。17節は「心の中で兄弟を憎んではならない」と悪意を秘めたまま隣人に接することを禁じて「出来心(ふざけただけ)」という言い訳も認めない(箴言26章19節)。

(注)別エントリー「試論:『理由のない憎しみ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6468

詩編109編2節〜5節「彼らはわたしに対して悪い口、欺(あざむ)きの口を開き、偽りの舌で語りました。憎しみの言葉でわたしを囲み故なく責め立てました。わたしは愛したのに彼らは訴えました。しかしわたしは祈りました。彼らは悪をもってわたしの善に、憎しみをもってわたしの愛に報いました」。

(注)別エントリー「レビ記19章17節:理由のない悪意」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4826

(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1982

(注)別エントリー「試論:『善きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

主イエスはマタイ7章12節で、「他人からしてもらいたいことを自分から他人にしなさい。これこそ律法と預言者」とレビ19章18節の隣人愛の掟を再確認された。従って、その直前の17節「心の中で憎んではならない」とは、《理由もなく悪意を抱いたまま隣人に接してはならない》という意味である。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

試論:マルコ7章33節の「唾」を140文字以内で

主イエスはマルコ7章と8章及びヨハネ9章で御自分の唾を用いた癒しを行われた。本来、侮辱を与える行為と強く関連する唾だが、《人は神の口から出る全ての事柄で生きる》を示されるため、主はあえて唾で癒しを行われた。従って預言者たちも使徒たちも主イエス以外の誰も唾を使う癒しを絶対行わない。

(注)別エントリー「試論:神であり人であるキリストを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6725

(注)別エントリー「試論:『神が人となるためには』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7830

(注)別エントリー「試論:『人となられても神は神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6877

【追記】

【問】聖書はキリストを模範(ヨハネ13章15節等)と示すけど、全て真似する必要があるの?
【答】いいえ。倣うべきは「仕えられるのではなく、仕える」姿勢で、真似する必要のない事柄は例えば湖の上を歩く、唾で泥を作り目の見えない人を治す、聖霊を与えると称して息を吹きかけるなどの行為です。

復活された主イエスはヨハネ20章22節で「聖霊を受けなさい」と仰せになり、弟子たち(使徒たち)へ息を吹きかけられた。この仕草は新約聖書では唯一ここだけで見られ、聖霊降臨の予告として行われた。聖書には祝福や権威の行使の象徴として一般的な、手を置く仕草があるが、それとは意義が異なる。

(注)別エントリー「試論:聖霊の働きの徴を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4984

(注)別エントリー「試論:『使徒パウロ』の誕生を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9844

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを識別する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14194

主イエスはヨハネ20章22節で「聖霊を受けなさい」と仰せになって、弟子たちに息を吹きかけられた(創世記2章7節参照)。《人は神の口から出る全ての事柄で生きる》を示されるために、主はあえて息を吹きかける仕草を行われた。新約聖書には、弟子が同じ仕草を行う場面は一度たりとも登場しない。

(注)別エントリー「試論:『命の息』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14285

ルカ11章41節「器の中にある物を施せ」の「器」とは「土の器」「陶器」の比喩と同様、人間を指す。「器の中にある物」は人間に吹き込まれた「命の息」(創世記2章7節)つまり「霊魂」を意味する。イザヤ58章10節のヘブライ語表現「霊魂を注ぐ」は、「心を配る」(新共同訳)ことを意味する。

(注)別エントリー「試論:『器の中にある物を施せ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11264

主イエスは荒れ野で悪魔(サタン)から誘惑された際「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの御言葉で生きる」と答えられた。「神の御言葉」とはヨハネ1章1節の通り主イエス御自身の称号であり、人間を生かす者は「神の御言葉」及び「命」(同14章6節)を自称される方である。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

試論:キリスト教は時代遅れ??を140文字以内で

【問】キリスト教は時代遅れですか?
【答】主イエスの重要な御教えの一つ「他の人からしてもらいたいことなら全て、あなたから他の人にしなさい」(マタイ7章12節)は、人類が存続する限り、永遠の真理(ヨハネ14章6節)です。この《キリストの律法》を忘れると信者は自分の信仰を失い始めます。

(注)別エントリー「18世紀フランスの『さよなら人類』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19937

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

試論:「無原罪の聖母」を140文字以内で

創世記3章15節で神は、サタンと決定的に対立する一人の女性が将来現れることを予告された。黙示録12章では、それは救い主の母となった女性のことだと啓示された。救い主は人々を罪や悪から救うために生まれるので、その母が存在の最初の瞬間から罪や悪とは完全に無縁であるべきなのは当然である。

(注)別エントリー「神のお告げ:受胎告知と無原罪の御宿り」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4835

(注)別エントリー「創世記3章15節:蛇の頭を踏み砕く者は誰か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1488

【追記】

「救い主」が世を救われる方法に関しイザヤは、「小羊」(53章7節)つまり代価として御自分をささげ、「しもべ」(42章、49章以下等)として人々に仕えると預言し、主もマタイ20章28節でそれを宣言された。救い主の母となることを承諾した女性が「主のはしため」を称するのは象徴的である。

(注)別エントリー「試論:『しもべ』と『はしため』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9785

ルカ福音書1章の「受胎告知」の際、自由意志によるマリアの承諾を得た後に、み使いガブリエルは去った。おとめマリアの承諾がなければこの世界に救いはもたらされずマリアなくしてキリスト教自体も存在しないのだから当然、「救い主の母」マリアを「救い主」を信じる人々全てが崇敬すべきなのである。

(注)別エントリー「予備的考察:聖母崇敬そして聖ヨセフ崇敬の起源とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1750

(注)別エントリー「聖家族はどのような雰囲気の中で暮らしていたのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5246

【問】なぜ受胎告知の際にマリアは、承諾の返答よりも先に「わたしは主のはしため」と再確認しましたか?
【答】マリアはそう前置きすることで、「わたしは神の御独り子の母となることを承諾しますが、決して『神のようになること』(創世記3章5節)を望むからではありません」と意思表示をしました。

【問】マリアは「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)と呼ばれる女性なのに、なぜ「主のはしため」と謙遜したのですか?
【答】もしも彼女が「自分は救い主の母だから息子と同じ扱いを受けたい」と思い上がったなら、神のようになりたいと思ってサタンにだまされた、エバの二の舞になるからです。

【問】マリアは受胎告知の時から「無原罪」になったのだと考えてはいけませんか?
【答】「無原罪」とは【存在の初めから常に悪魔の感化つまり罪や悪の影響とは全く無縁である】(創世記3章15節、黙示録12章)という意味ですので、生涯のある時点から「無原罪」になるという発想は意味がないです。

【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。

(注)別エントリー「試論:聖母崇敬の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18956

聖母マリアは「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)となられた方でありながら「わたしは主のはしため」(38節)と自称されるほど謙遜そのものの生涯であり、ただの一度も主イエスの前で出しゃばることがなかったゆえに「へりくだる者は高められる」(ルカ14章11節)の通りに崇敬を集めた。

(注)別エントリー「試論:『救い主の母であること』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7510

【問】主イエスが十二歳の時、主を見失った後、エルサレム神殿の境内で主を発見した時、聖母は主をとがめたのではないですか?
【答】いいえ。聖母は御子をとがめたわけでも責めたわけでも非難されたわけでもなく、ただ最愛の御子が自分に一言もなく姿を消した理由を知りたかった、ただそれだけでした。

カトリックではナザレの聖家族は三人と教える。主の養父ヨセフは終生、息子と妻の望むことだけを行い、三人家族の三番目であるかのように振舞い後世の人々からもそう思われた。世の男性たちが子供たちや女性たちを平然と虐待する、毒々しい時代が来る時、ヨセフの存在は強力な解毒剤として働くだろう。

(注)別エントリー「聖ヨセフ:ディカイオスを旧約聖書で考察」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1613

マタイ1章19節は主の養父ヨセフを「正しい人(ディカイオス)」と表現する。25章の「最後の審判」におけるディカイオスは、隣人が何らかの助けを必要としている時に、必要とされている助けを提供して困り事を解決する人を指し、ヨセフはイエスとマリアが本当に必要としていることだけを実行した。

(注)別エントリー「予備的考察:聖母崇敬そして聖ヨセフ崇敬の起源とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1750

試論:マルコ7章27節「小犬」を140文字以内で

主イエスはマルコ7章27節で、御自分が旧約のイスラエルの神なる主であることを再確認されるかのように、旧約の民を「子供たち」、異邦人を「小犬」と表現された。しかし「シリア・フェニキアの女」と記される女性は、「食卓の下の小犬でも〜」と卑下してでも主の憐れみを乞い願い、聞き入れられた。

【追記】

詩編145(144)編19節には「主は御自分を畏れる人々の望みをかなえられ、彼らの救いを求める叫びを聞けば願いを聞き入れてくださる」とある。主イエスは水の上から沈みかけたペトロにすぐ手を延ばしてつかまえられ、悪霊に苦しめられ続ける娘を持つカナンの女性の叫びに願いを聞き入れられた。

主イエスは御自分が地上におられる間は、まず旧約のイスラエルの民への宣教を優先され、異邦人への宣教は二の次とされた。異邦人への宣教は、御自分が昇天された後の事業として、弟子たちに託された。「ゲラサ人の豚」の話は、異邦人宣教はまだ時期尚早と弟子たちに肝に銘じさせるための経験であった。

【問】イエスの処刑を当時のユダヤ人の全員が望んでいたのですか?
【答】いいえ。マタイ27章25節はローマ総督館の前で人々が「彼の血の責任は、我々と子孫にある」と答えたと記しますが、ルカ23章27節は女性たちの大群が十字架を背負わされたイエスの姿を見て嘆き悲しんでいたと記しています。

「善きサマリア人」と「世の光」

一人の律法学者は自分を「義化」(ルカ10章29節)しようとして(「義人」(マタイ1章19節)とするために)、隣人愛(ルカ10章27節)に関して、主に、踏み込んだ質問を行なった。主は、憐れみの心(33節)と「神の義」と隣人愛と永遠の命(25節)は事実上重なっているとお教えになった。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

主イエスはヨハネ6章40節で「御父の御心は、御子(=主イエス御自身)を見て信じる者が皆、永遠の命を得ること」だと説かれた。ルカ10章25節で一人の律法学者が「永遠の命を受け継ぐにはどうすれば〜」と質問したことから、主イエスは「善きサマリア人」の話で憐れみの心の重要性を教えられた。

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4544

【問】「神に従う人の光は喜ばしく輝き」(箴言13章9節)の意味とは?
【答】「神に従う人」は古代ギリシア語訳ではディカイオス(義人)で、「神に従う人の光」とは「神の義」つまり善意・温情・気配り・憐れみの心を指し、それらは相手に喜びを与え、表情と心とを明るくし、また心を温かくします。

養父ヨセフはマタイ1章19節でディカイオス(正しい人、義人)と呼ばれる。古代ギリシア語訳箴言4章18節はディカイオスに「光」が伴うと説き、善きサマリア人の喩えは自分を義化したい律法学者に神の義と隣人愛は同一と教える。イザヤ58章は心配りに「光」は伴うと説く。神の義に「光」は伴う。

【問】イザヤ58章6節以下では、困窮している人々に対する心配り・善意・温情・憐れみの心が「光」に喩えられていますが、なぜ?
【答】それらが相手の表情と心とを明るくさせ、また、それらが相手の心を、光が熱を与えるように温かくさせるからです。マタイ5章16節「あなたの光を輝かせなさい」。

【問】主イエスは「わたしは世の光」「あなたたちは世の光」などと仰せになりました。なぜ?
【答】「光」はイザヤ58章6節以下にある通り善意・温情・心配り・憐れみの業等の喩えで、人の心と表情を明るくさせ人々の心を温めます。「光」がなくなれば、人々の心と表情は暗くなり、心は冷え込みます。

【問】福音書には主イエスが「笑った」という記述がない、という議論があるそうです。
【答】イザヤ58章10節は隣人への温情を「光」に喩えます。理由は相手の心や顔を明るくするからです。主はヨハネ8章で「わたしは世の光」と宣言されましたが、これはいつも仏頂面の人が語る言葉ではありません。

【問】主イエスはなぜマタイ5章15節で、ともし火を見えない場所に置く者はいない、と仰せになられましたか?
【答】箴言6章23節は主からの御教えをともし火に喩えます。つまり主の御教えを受けたら直ちに実行しなさいの意味です。御言葉を聞いても実行しないのは砂の上に家を建てるのと同じです。

【問】主の御言葉を聞いても実行しないことを見えない場所にともし火を置くことに喩えたのですか?
【答】主は御言葉を聞いても実行しないことを、砂の上に家を建てること、見えない場所にともし火を置くこと、主人から預かったタラントンやムナを隠してしまうことなどに喩えられ、強く戒められました。

人間を破滅に導くもの

ガラテヤ5章16節以下では「肉と霊」が対比されるが、ここで「肉」はヨハネ1章14節同様「人間」を指し、「霊」は「聖霊」「神の霊」を意味する。つまりこの章における「肉」と「霊」との対立とは、「人間に由来する諸悪」(マルコ7章20節以下参照)と「神に由来する諸徳」との対立を意味する。

古代のヘブライ人の世界観に従い、ガラテヤ5章は「人間(人間それ自体)」を「肉」、「神〔に由来するもの〕」を「霊」と呼ぶ。ヨハネ3章6節も同じ対比を用い、「霊から生まれた者は霊」とは同1章12節の「神の御言葉である主イエスは、御自分を受け入れる人に神の子となる資格を与えた」を指す。

古代のイスラエル人にとって「肉」という表現は「人間」を指す場合があった(ヨハネ1章14節等)。マルコ7章20節以下で主イエスが「人から出て来るものこそ人を汚す」と注意を促された諸悪と、ガラテヤ5章19節以下でパウロが「肉の業」と呼んで避けるように促した諸悪が同様なのは当然である。

古代のヘブライ人は「肉」を、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけではなく魂も含めた人間の全体。)」を表す言葉として用いていた。創世記6章12節「すべて肉なる者は堕落の道を歩んでいた」(新共同訳)。日本語訳の「肉なる者」に対応する語は、ヘブライ語本文ではただ単に「肉」である。

ローマ8章6節の直訳は「肉の思いは死、霊の思いは命と平和」。ヘブライ人は人間由来の事柄を「肉」、神に由来する事柄を「霊」と呼び、あらゆる幸福を「命」あるいは「平和」と総称した。この節は「人間由来の願望は死で終わるが、神に由来する願望は人間をあらゆる幸福へと導く」という意味である。

主イエスはマタイ7章12節で、「他人からしてもらいたいことを自分から他人にしなさい。これこそ律法と預言者」とレビ19章18節の隣人愛の掟を再確認された。従って、その直前の17節「心の中で憎んではならない」とは、《理由もなく悪意を抱いたまま隣人に接してはならない》という意味である。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

詩編109編2節〜5節「彼らはわたしに対して悪い口、欺(あざむ)きの口を開き、偽りの舌で語りました。憎しみの言葉でわたしを囲み故なく責め立てました。わたしは愛したのに彼らは訴えました。しかしわたしは祈りました。彼らは悪をもってわたしの善に、憎しみをもってわたしの愛に報いました」。

(注)別エントリー「レビ記19章17節:理由のない悪意」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4826

(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1982

(注)別エントリー「試論:『善きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

主はヨハネ15章25節で「人々は理由もなくわたしを憎んだ」と「彼らの律法」旧約聖書を引用されたが、これは詩編109編2節から5節「神に逆らい欺く者の偽る舌がわたしに語る。憎しみの言葉がわたしを囲み、理由もなくわたしに挑み、わたしの愛と善意と祈りに悪意を返す」を要約した表現である。

レビ19章18節は「自分自身を愛するように隣人を愛する」という隣人愛を命じ、同章ではその隣人愛の対極にある様々な行為を禁じる。17節は「心の中で兄弟を憎んではならない」と悪意を秘めたまま隣人に接することを禁じて「出来心(ふざけただけ)」という言い訳も認めない(箴言26章19節)。

(注)別エントリー「試論:『理由のない憎しみ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6468

御受難前に主は、「理由のない憎しみ」(ヨハネ15章25節)に言及され、また人心荒廃が神殿の滅亡に先立つと予告された(マタイ24章10節、12節)。約四十年後に神殿は滅亡し、さらにその数十年後あるユダヤ教の高名なラビは、「理由のない憎しみ」の蔓延により神殿は滅亡したと、結論付けた。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

主はマタイ24章10節と12節で、人心の荒廃が神殿の滅亡に先立つことを予告された。一方で一世紀ユダヤの歴史家ヨセフスは、紀元七〇年のエルサレム滅亡以前に暗殺や強盗殺人がユダヤの各地で頻発し、加害者が相手をローマの手先呼ばわりして自分たちの悪事を正当化していた事実を著作に記述した。

(注)別エントリー「『荒廃をもたらす憎むべきもの』とは何か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/84

(注)別エントリー「試論:ガリラヤのユダを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9363

(注)別エントリー「試論:古代ユダヤの社会不安を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6268

主はルカ17章で「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」と繰り返され、21章24節では連行の状況を御説明された。ユダヤの歴史家ヨセフスは、紀元七〇年の滅亡の際にローマ市民権を持たぬユダヤ人投降者は妻子ごと奴隷とされ売り飛ばされたがローマ市民のユダヤ人は放免されたことを記述した。

(注)別エントリー「試論:連れて行かれるのはどこ?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6151

(注)別エントリー「試論:『一人は連れて行かれ〜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5819

異教礼拝の蔓延に続く第一神殿滅亡とバビロン捕囚を教訓に、帰還後のユダヤ人は第二神殿を建設し最終的に異教礼拝と訣別した。しかし第二神殿も滅亡し次の神殿は建設の目処も立たない事態に直面してユダヤのある高名なラビは、理由のない悪意の蔓延が神殿を滅ぼし、それは異教礼拝より悪いと結論した。

(注)別エントリー「試論:『心の中で憎む』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6509

(注)別エントリー「試論:『ソロモンの名声と堕落』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8441

試論:箴言20章19節を140文字以内で

箴言20章19節は、軽々しく他人の秘密を漏らす人や、安易に他人の悪口を言って色々な場所で中傷して回る人や、他人に遠慮せずに軽々しく口を開く人等と交際するのは、二の足を踏んだ方が良いと勧める。同11章13節は、軽々しく他人の秘密を漏らす人と安易に他人の悪口を言う人は根は同じと説く。

試論:「偽り者」の見分け方を140文字以内で

【問】ただ単に信仰を自称しているだけのいわゆる「偽り者」をどうやって見分けられますか?
【答】一ヨハネ2章4節は「『神のことを知っている』と自称しながら『神の掟』を守らない者は、偽り者であって、その人の中に真理はない」と教えます。「真理」とは主イエスのことです(ヨハネ14章6節)。

【追記】

【問】主イエスはマルコ7章で、神がモーセを介して伝えられた「神の掟」とファリサイ派の人々の「人間の言い伝え」とを対比されました。違いは何?
【答】「神の掟」は人々の善意・温情・心配り・憐れみの心を要請しますが、「人間の言い伝え」は単に難癖と揚げ足取りの道具にしかならない紛い物です。

試論:「難癖と揚げ足取りの人」を140文字以内で

信者を自称していても実際は他人に難癖を付け揚げ足を取りたがる人は、なるべく福音書を読もうとはしない。福音書を読み始めたら最後、自分の態度が主イエスの側ではなく、その反対側にいるファリサイ派の人々と瓜二つであると嫌でも気付かざるを得ないからで、福音書は自分を確かめる試金石と言える。

(注)別エントリー「試論:福音書からそれていくことを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6074

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

【追記】

一ヨハネ4章は、信者を自称しながら世間の事柄ばかり話題にして主イエスの福音の中身に関して頑に触れようとせず沈黙する人々を、「偽預言者」「反キリストの霊」などと呼ぶ。2章19節は「彼らはわたしたちから去って行った」「元々仲間ではなかった」「仲間ならとどまっていた」とその末路を記す。

(注)別エントリー「試論:『愛している者なら』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9220

(注)別エントリー「試論:『主の御言葉の権威』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9025

(注)別エントリー「試論:『福音書から逃げ回る人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9277

試論:「ファリサイ派への批判」を140文字以内で

主イエスはマルコ7章でファリサイ派の人々を厳しく批判された。それは、「あなたたちは他人の揚げ足取りばかりで、他人への温情や心配りはない」というものだった。ファリサイ派の人々には主のような奇跡的な癒しや悪霊を追い出すことはできず、できることといえば弟子に難癖をつけることだけである。

(注)別エントリー「ファリサイ派の人と徴税人」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5182

【追記】

【問】主イエスは「わたしは世の光」「あなたたちは世の光」などと仰せになりました。なぜ?
【答】「光」はイザヤ58章6節以下にある通り善意・温情・心配り・憐れみの業等の喩えで、人の心と表情を明るくさせ人々の心を温めます。「光」がなくなれば、人々の心と表情は暗くなり、心は冷え込みます。

【問】福音書には主イエスが「笑った」という記述がない、という議論があるそうです。
【答】イザヤ58章10節は隣人への温情を「光」に喩えます。理由は相手の心や顔を明るくするからです。主はヨハネ8章で「わたしは世の光」と宣言されましたが、これはいつも仏頂面の人が語る言葉ではありません。

【問】イザヤ58章6節以下では、困窮している人々に対する心配り・善意・温情・憐れみの心が「光」に喩えられていますが、なぜ?
【答】それらが相手の表情と心とを明るくさせ、また、それらが相手の心を、光が熱を与えるように温かくさせるからです。マタイ5章16節「あなたの光を輝かせなさい」。

イザヤ58章10節は「心を配る」と日本語で表現されるが、ヘブライ語本文は「霊魂を注ぐ」と表現する。ルカ11章41節「器の中にあるものを施せ」はこれに基づく。「器」は人間の比喩、「器の中にあるもの」は霊魂で、主の真意は「揚げ足取りはやめて、隣人に配慮することを学びなさい」であった。

(注)別エントリー「試論:『土の器』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6902

(注)別エントリー「『土の器』(つちのうつは)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14324

信仰とは神から命じられた通りに日々の一挙手一投足をもって証しし続ける事柄であり、たとえ神が人となられて人々に「兄弟」と呼び掛けられるほど親しみを示されたとしても、そのことは人間の神に対する厚かましさや馴れ馴れしさを正当化するものでは全くないと、ルカ17章7節以下で主は説明された。

(注)別エントリー「試論:行いを欠く信仰を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5360

主イエスはルカ17章7節以下で神から命じられている事柄を全て実行しているからといって人は思い上がってはいけないと仰せになった。忠実な僕(しもべ)が最後に神から報酬を受け取ることは12章35節以下で説かれるが、あくまで「天の国」のことであって、この世で他人を見下していいわけがない。

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11494

(注)別エントリー「試論:『戸をたたいている』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12070

試論:「ファリサイ派の問題点」を140文字以内で

主イエス・キリストはマルコ7章の最初の部分でファリサイ派の最大の問題点を指摘された。それは彼らが「言い伝え」を過度に重視していることで、本来モーセの律法に対して副次的存在だった「言い伝え」がいつしか律法と同等以上にまで扱われ、しかも隣人を圧迫するための口実と化していた事実である。

(注)別エントリー「ファリサイ派の人と徴税人」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5182

【追記】

主イエスはルカ11章46節では「背負い切れない重荷を他人に負わせるが自分自身は指一本触れようともしない」マタイ11章30節では「わたしの荷は軽い」と仰せになった。ファリサイ派と律法学者とはモーセの律法に「人間の言い伝え」を上乗せしたが、主イエスはマタイ7章12節に全て要約された。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

神の国に入るためには「神の義」が不可欠であることを主は「礼服」という比喩で御説明された。コロサイ3章では「着る」べきものは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛と挙げる。マタイ11章で主は「わたしは柔和で謙遜な者だから」(29節)「わたしの荷は軽い」(30節)などと仰せになった。

主はマタイ11章30節で、「わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽い」と仰せになった。主が人々に求められるものとは、「神の義(正義)」と言えばどこか厳格な響きがするが、実際に「神の義」を構成するのは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛などの事柄である(コロサイ3章)。

(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6748

主イエスはルカ11章42節以下で、神から与えられた律法に人間が自分たちの掟(昔の人の言い伝え:マルコ7章3節)を付け加え続けても、最も肝心な神への愛と隣人愛から思いが遠のくだけならば何の意味もないと教えられた。聖書の「正義」つまり神の義とは隣人愛や憐れみの業と事実上、同義である。

(注)別エントリー「試論:『善きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4544

試論:「弟子の資格」を140文字以内で

【問】主イエスは癒しの奇跡や悪霊を追い出すことや預言などの御業を頻繁に行われました。主の弟子である者は、これらの業を追求すべきですか?
【答】いいえ。主はマタイ7章21節以下で、御自分が弟子たちに求めておられることは預言でも悪霊を追い出すことでも奇跡でもないと、仰せになっています。

試論:ともし火はどこに置くか?を140文字以内で

【問】主イエスはなぜマタイ5章15節で、ともし火を見えない場所に置く者はいない、と仰せになられましたか?
【答】箴言6章23節は主からの御教えをともし火に喩えます。つまり主の御教えを受けたら直ちに実行しなさいの意味です。御言葉を聞いても実行しないのは砂の上に家を建てるのと同じです。

【追記】

【問】主の御言葉を聞いても実行しないことを見えない場所にともし火を置くことに喩えたのですか?
【答】主は御言葉を聞いても実行しないことを、砂の上に家を建てること、見えない場所にともし火を置くこと、主人から預かったタラントンやムナを隠してしまうことなどに喩えられ、強く戒められました。

試論:「あなたたちの光」???を140文字以内で

【問】主イエスはどうして、「あなたたちは世の光」「あなたたちの光を輝かせなさい」等と仰せになりましたか?
【答】「あなたが他の人からしてもらいたいことなら全て、あなたから他の人にしなさい」と同じで、《あなたたちの気配りと温情で世の人々の心と表情を明るくさせ、人々の心を温めなさい》。

【追記】

【問】主イエスは「わたしは世の光」「あなたたちは世の光」などと仰せになりました。なぜ?
【答】「光」はイザヤ58章6節以下にある通り善意・温情・心配り・憐れみの業等の喩えで、人の心と表情を明るくさせ人々の心を温めます。「光」がなくなれば、人々の心と表情は暗くなり、心は冷え込みます。

【問】エレミヤ31章33節「わたしの律法を彼らの胸の中に授け彼らの心にそれを記す」の意味は?
【答】マタイ7章12節「他の人からしてもらいたいことを全て、あなたから他の人にしなさい。これこそ律法であり預言者〔の教え〕」。これは十戒よりも単純で子供でも覚えられるため、石板も不要です。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

マタイ5章17節「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するため」同7章12節「人からしてもらいたいと思うことは何でも、あなたたちから人にしなさい。これこそが律法と預言者」ローマ13章9節「他にどんな掟があろうとも、隣人を自分のように愛することに要約されます」。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1982

試論:「主の御顔の光」を140文字以内で

【問】詩編4編7(6)節の「御顔の光」って、何の比喩?
【答】「わたしたちに御顔の光を向けて下さい」と、次節の「喜びをわたしの心にお与え下さい」とは、同じ事柄です。つまり、「主の御顔の光」とは、「主の輝くような笑顔」「主の喜び(主によって与えられる喜び)」「主の好意」等の比喩です。

【追記】

【問】福音書には主イエスが「笑った」という記述がない、という議論があるそうです。
【答】イザヤ58章10節は隣人への温情を「光」に喩えます。理由は相手の心や顔を明るくするからです。主はヨハネ8章で「わたしは世の光」と宣言されましたが、これはいつも仏頂面の人が語る言葉ではありません。

【問】イザヤ58章6節以下では、困窮している人々に対する心配り・善意・温情・憐れみの心が「光」に喩えられていますが、なぜ?
【答】それらが相手の表情と心とを明るくさせ、また、それらが相手の心を、光が熱を与えるように温かくさせるからです。マタイ5章16節「あなたの光を輝かせなさい」。

試論:「世の光」??を140文字以内で

【問】主イエスは「わたしは世の光」「あなたたちは世の光」などと仰せになりました。なぜ?
【答】「光」はイザヤ58章6節以下にある通り善意・温情・心配り・憐れみの業等の喩えで、人の心と表情を明るくさせ人々の心を温めます。「光」がなくなれば、人々の心と表情は暗くなり、心は冷え込みます。

【追記】

【問】福音書には主イエスが「笑った」という記述がない、という議論があるそうです。
【答】イザヤ58章10節は隣人への温情を「光」に喩えます。理由は相手の心や顔を明るくするからです。主はヨハネ8章で「わたしは世の光」と宣言されましたが、これはいつも仏頂面の人が語る言葉ではありません。

【問】イザヤ58章6節以下では、困窮している人々に対する心配り・善意・温情・憐れみの心が「光」に喩えられていますが、なぜ?
【答】それらが相手の表情と心とを明るくさせ、また、それらが相手の心を、光が熱を与えるように温かくさせるからです。マタイ5章16節「あなたの光を輝かせなさい」。

試論:箴言13章9節「光」を140文字以内で

【問】「神に従う人の光は喜ばしく輝き」(新共同訳)? どういうこと?
【答】「神に従う人」は古代ギリシア語訳ではディカイオス(義人)で、「神に従う人の光」とは「神の義」つまり善意・温情・気配り・憐れみの心を指し、それらは相手に喜びを与え、表情と心とを明るくし、また心を温かくします。

【追記】

養父ヨセフはマタイ1章19節でディカイオス(正しい人、義人)と呼ばれる。古代ギリシア語訳箴言4章18節はディカイオスに「光」が伴うと説き、善きサマリア人の喩えは自分を義化したい律法学者に神の義と隣人愛は同一と教える。イザヤ58章は心配りに「光」は伴うと説く。神の義に「光」は伴う。

【問】イザヤ58章6節以下では、困窮している人々に対する心配り・善意・温情・憐れみの心が「光」に喩えられていますが、なぜ?
【答】それらが相手の表情と心とを明るくさせ、また、それらが相手の心を、光が熱を与えるように温かくさせるからです。マタイ5章16節「あなたの光を輝かせなさい」。

一人の律法学者は自分を「義化」(ルカ10章29節)しようとして(「義人」(マタイ1章19節)とするために)、隣人愛(ルカ10章27節)に関して、主に、踏み込んだ質問を行なった。主は、憐れみの心(33節)と「神の義」と隣人愛と永遠の命(25節)は事実上重なっているとお教えになった。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

主イエスはヨハネ6章40節で「御父の御心は、御子(=主イエス御自身)を見て信じる者が皆、永遠の命を得ること」だと説かれた。ルカ10章25節で一人の律法学者が「永遠の命を受け継ぐにはどうすれば〜」と質問したことから、主イエスは「善きサマリア人」の話で憐れみの心の重要性を教えられた。

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4544

試論:ペトロとパウロの共通点?を140文字以内で

【問】ペトロとパウロの共通点は何ですか?
【答】ペトロは主イエスの逮捕の後、鶏が鳴く前に三度イエスのことなど知らないと誓いました。パウロは初代教会の重要人物だったステファノの殺害に関与していました。ペトロもパウロもともに自分は本来今の立場にいる資格はないと日々強く自覚していました。

【追記】

【問】ヨハネは「愛」で有名な以外に「真理」という言葉で主イエスと主に対する信仰とを表現しました。パウロの手紙には「感謝」という言葉がよく登場します。なぜ?
【答】パウロはステファノの殺害に関与しており、自分は本来は主の弟子に加えてもらえる立場ではないと常に強く自覚していたからです。

試論:箴言4章18節「光」を140文字以内で

養父ヨセフはマタイ1章19節でディカイオス(正しい人、義人)と呼ばれる。古代ギリシア語訳箴言4章18節はディカイオスに「光」が伴うと説き、善きサマリア人の喩えは自分を義化したい律法学者に神の義と隣人愛は同一と教える。イザヤ58章は心配りに「光」は伴うと説く。神の義に「光」は伴う。

【追記】

【問】イザヤ58章6節以下では、困窮している人々に対する心配り・善意・温情・憐れみの心が「光」に喩えられていますが、なぜ?
【答】それらが相手の表情と心とを明るくさせ、また、それらが相手の心を、光が熱を与えるように温かくさせるからです。マタイ5章16節「あなたの光を輝かせなさい」。

一人の律法学者は自分を「義化」(ルカ10章29節)しようとして(「義人」(マタイ1章19節)とするために)、隣人愛(ルカ10章27節)に関して、主に、踏み込んだ質問を行なった。主は、憐れみの心(33節)と「神の義」と隣人愛と永遠の命(25節)は事実上重なっているとお教えになった。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

主イエスはヨハネ6章40節で「御父の御心は、御子(=主イエス御自身)を見て信じる者が皆、永遠の命を得ること」だと説かれた。ルカ10章25節で一人の律法学者が「永遠の命を受け継ぐにはどうすれば〜」と質問したことから、主イエスは「善きサマリア人」の話で憐れみの心の重要性を教えられた。

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4544

試論:ヘロデ・アンティパスを140文字以内で

ルカ福音書の「ヘロデ」は、マタイ2章に登場するヘロデ大王の息子の、ヘロデ・アンティパスである。マルコ6章によれば彼は洗礼者の教えに耳を傾けてはいたが、多分に好奇心によるもので、悔い改める気などなかった。後に御受難の日の主イエスに会っても、思う通りにならないと直ちに嘲弄し侮辱した。

【追記】

ヘロデ・アンティパスは洗礼者の言葉に喜んで耳を傾けたが単なる好奇心からで、自分の兄弟がお人好しであることにつけ込んで、その妻と親密になり、やがて彼女を奪い取った。根はやはり悪人の彼はイエスの逮捕後、イエスにも興味を抱いたが、興味を失うと洗礼者の時と同様に、イエスを平気で見捨てた。

兄弟に妻を奪われたフィリポは、ヘロデ大王の息子たちの中ではへりくだりを知る常識人だった。ただ、癖の強い猛々しい悪人が揃うヘロデ王家の中にあっては、フィリポのこの態度は物足りなくも弱々しい「お人好し」として周囲に映ったようで、そこにつけ込んだ妻と兄弟によって小馬鹿にされてしまった。

申命記25章には跡取りを産む前に夫に先立たれた女性に、家名を存続させる目的で亡夫の「兄弟(親族の男性全般)」との再婚を求める規定がある。しかしマタイ14章のヘロデは兄弟フィリポが存命中なのに、その妻と親密になり兄弟から妻を奪い取った。この件で洗礼者ヨハネはヘロデを厳しく叱責した。

(注)別エントリー「試論:『洗礼者ヨハネの死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14207

主の御降誕から第二神殿の滅亡までエルサレムに七人の「王」が君臨した。ヘロデ大王、アルケラオス、アンティパス、アグリッパ一世、アグリッパ二世がヘロデ王家の人で、ヘロデ王家のユダヤ退去後の独裁者ギスカラのヨハネが六人目に該当し、ローマ帝国に処刑されたシモン・バルギオラが七人目である。

(注)別エントリー「試論:黙示録18章を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5394

(注)別エントリー「試論:黙示録16章を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5086

(注)別エントリー「試論:黙示録の「第八の者」を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12097

試論:洗礼者が生き返った???を140文字以内で

【問】福音書で「洗礼者の死」の箇所等を読むと、洗礼者が生き返った存在がイエスだとヘロデは思ったようで民衆の一部も同意見でした。どういうこと?
【答】「死者の復活」について、当時のユダヤ人の間に様々の〔間違った〕認識が存在したことを示唆しています。コヘレト12章7節が正しい答えです。

(注)別エントリー「試論:人間の完成形(最終形態)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15868

【追記】

ヘブライ5章9節は「キリストが〔御受難を経験された後に〕完全な者になられた」と記す。神でもあり人間でもあるキリストは、神としては天地創造以前から既に当然だが完全な者である。人間としては御受難を経験された後「復活の体(=天上の体、霊の体)」すなわち人間としての完成形へと到達された。

(注)別エントリー「試論:神であり人であるキリストを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6725

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

主イエスは、ルカ9章の「主の変容」で三人の使徒に、「天上の体」(一コリント15章40節)すなわち死者の復活後の人間の姿(同章35節以下)をお示しになったが、当時三人の使徒は全く理解できなかった。「人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は愛する者たちに準備された」(同2章9節)。

(注)別エントリー「試論:ルカ9章『主の変容』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14938

主イエスは福音書で自身の御受難と御復活を随所で暗示されたが、御受難と御復活の間に御自分がどんな働きをなさるかについても、ヨハネ14章2節から3節で予告された。それはイザヤ65章17節以下の「新しい天・地・エルサレムの創造」預言の成就であり、御自身の復活の体の創造で完成の時を見た。

主イエスの御降誕は「肉の体」つまり人間としての誕生だったが、この世に来られた究極の目的が「贖(あがな)い」である以上、「上げられ(十字架上で顕示され)た」後の死と御復活によって悪魔の罪と死の支配を終わらせ人類に永遠の命と「霊の体」を準備して目的を達成したことの方がより重要である。

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11494

(注)別エントリー「試論:真理と贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9081

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

試論:主は笑顔を見せられたか?を140文字以内で

【問】福音書には主イエスが「笑った」という記述がない、という議論があるそうです。
【答】イザヤ58章10節は隣人への温情を「光」に喩えます。理由は相手の心や顔を明るくするからです。主はヨハネ8章で「わたしは世の光」と宣言されましたが、これはいつも仏頂面の人が語る言葉ではありません。

【追記】

【問】イザヤ58章6節以下では、困窮している人々に対する心配り・善意・温情・憐れみの心が「光」に喩えられていますが、なぜ?
【答】それらが相手の表情と心とを明るくさせ、また、それらが相手の心を、光が熱を与えるように温かくさせるからです。マタイ5章16節「あなたの光を輝かせなさい」。

試論:「大工の子」?「大工」?を140文字以内で

【問】マタイ13章55節「大工の子」、マルコ6章3節「大工」。どちらが本当?
【答】古代のヘブライ人は「◯◯の子ら」(複数形)で「◯◯に属する者たち」を表現し、他方、「◯◯の子」(単数形)では「まさに◯◯そのもの」をも表現し、「大工の子」は大工、「神の子」は神、「人の子」は人です。

(注)別エントリー「神の子らは人の娘たちを【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8636

【追記】

【問】古代のヘブライ人にとって、「神の子ら」(複数形)と「神の子」(単数形)とでは、意味が変わるということですか?
【答】「神の子ら」(複数形)だと「神に属する集団」の意味なので、天使たちも信仰者の集団も含まれますが、「神の子」(単数形)だと《神の御独り子》ただ御一方です。

【問】マタイ13章55節の「大工の子」を「イエスは大工」と解釈するなら、養父ヨセフは大工ではなかったの?
【答】いいえ。ヨセフが大工ではなかったという伝承は聞いたことがなく、むしろ「ヨセフが大工だったから、当然イエスも大工だった」と解釈するのが、最も穏当な答えであると考えられます。

試論:マタイ28章18節の意味を140文字以内で

【問】「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」って、何の意味?
【答】主イエスは、御自分がダニエル7章13節に預言された「人の子」であることをあらためて弟子たちに思い起こさせ、次の14節に預言された事柄こそ、これから御自分が弟子たちに託されようとしていることだと示唆されました。

試論:マルコ6章5節を140文字以内で

【問】主イエスは故郷で少ししか奇跡的癒しを行うことができなかったと書いてあるけど、全能の神なる主でもそんなことがあるの?
【答】マタイ7章23節「あなたたちのことは全く知らない」と同じで、主が何かを行われない時は意図的な拒絶、つまり主にはその行為をなさるつもりがないということです。

試論:「光を輝かせなさい」??を140文字以内で

【問】イザヤ58章6節以下では、困窮している人々に対する心配り・善意・温情・憐れみの心が「光」に喩えられていますが、なぜ?
【答】それらが相手の表情と心とを明るくさせ、また、それらが相手の心を、光が熱を与えるように温かくさせるからです。マタイ5章16節「あなたの光を輝かせなさい」。

【追記】

イザヤ58章10節は「心を配る」と日本語で表現されるが、ヘブライ語本文は「霊魂を注ぐ」と表現する。ルカ11章41節「器の中にあるものを施せ」はこれに基づく。「器」は人間の比喩、「器の中にあるもの」は霊魂で、主の真意は「揚げ足取りはやめて、隣人に配慮することを学びなさい」であった。

(注)別エントリー「試論:『土の器』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6902

(注)別エントリー「『土の器』(つちのうつは)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14324

試論:「信用できない人々」を140文字以内で

主イエスをヨハネ1章1節は「言(ことば)」つまり《人々の前に御姿を現され御自ら御教えをお話しになる神》と呼ぶ。主イエスに従う人々にとって「神の御言葉」とは、まず何より主イエス御自身の仰せであり、聖書やキリスト教に関して話題にしても肝心の主イエスの御教えを避ける人々は眉唾物である。

試論:「探しなさい」って何を?を140文字以内で

【問】「探しなさい。そうすれば見つかる」。何を?
【答】箴言8章17節「わたしを探し求める人はわたしを見つける」の「わたし」とは「知恵」のことですが、主イエスは「知恵」を福音書で自称され(マタイ11章19節、ルカ7章35節)、また「神の知恵」(ルカ11章49節)とも自称されました。

「あなたの信仰があなたを救った」

詩編12編は裏表(嘘偽り)のある人々ばかりの風潮を「信仰のある人はいなくなった」と嘆く。古代のヘブライ人にとって「二心(ふたごころ)」は信仰とは相容れなかった。「あなたの信仰があなたを救った」や「からし種の一粒ほどの信仰」の「信仰」とは《疑う余地のない確信》《完全な信頼》を指す。

(注)別エントリー「『からし種一粒ほどの信仰』???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19278

主イエスはマタイ9章で慢性出血の女性を治癒されたが「あなたの信仰があなたを救った」の後にマルコ5章34節では「安心して行きなさい」と続ける。これは《平和のうちに出発しなさい》というヘブライ人の別れの挨拶(サムエル上1章17節)で《あなたの願いは既に聞き入れられた》を示唆している。

(注)別エントリー「試論:『地には平和』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8769

古代のヘブライ人にとって「平和」はあらゆる幸福の総称であり、「あなたに平和」はヘブライ人の挨拶の決まり文句だった。ルカ10章5節「この家に平和があるように」は、より長い形の挨拶(サムエル上25章6節)である。ヘブライ人は「平和に属する者」を言い表したい時に「平和の子」と表現した。

(注)別エントリー「試論:ルカ10章の『平和』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17745

主イエスはマルコ5章で、「十二年間も出血の止まらなかった女性」を癒された後、彼女に「安心して行きなさい」と仰せになった。これは列王記下5章19節等に登場する常套句で、ヘブライ語では全ての幸福の総称である「平和」という単語を含み「これからは幸せに暮らしなさい」を意味する表現である。

(注)別エントリー「試論:『平和を実現する人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6272

ルカ2章14節「地には平和」の「平和」は、福音書の時代のヘブライ人にとって単に戦争のない(終わった)状態を意味する以外にも、個々の健康や幸福・繁栄、人間関係の協調・一致や発展、社会や国家の安寧、暴動や反乱のない状態、心の(霊的な)安定など、物事が好転している状況の総称でもあった。

ルカ1章79節は「救い主」(2章11節)が「我らの歩みを平和の道に導く」と預言を記す。「平和」は古代のヘブライ人にとって物事が好転している状況の総称である。だが19章41節で主はエルサレムがその道を知らないことを嘆いて泣かれた。数日後の御自分の死よりも、そのことを嘆いて泣かれた。

主はヨハネ14章27節で「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と仰せになった。ではどうやって主は御自分の平和をお与えになったのか、パウロがコロサイ1章20節で「その十字架の血によって」と答えを記した。

(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7479

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

ガラテヤ5章22節は聖霊の賜物の一つに「平和」を挙げる。これは古代のヘブライ人にとっては戦争のない(終わった)状態を表す以外にも、人間関係の協調・一致・発展、個々の健康・幸福・繁栄、心の(霊的な)安定、暴動・反乱のない社会や国家の安寧など、物事が好転している状況の総称でもあった。

(注)別エントリー「試論:『心も思いも』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10376

試論:殺伐とした世情と主の仰せを140文字以内で

【問】相変わらず殺伐とした事件の報道が後を絶ちません。なんとかならないの?
【答】「あなたが他の人からしてもらいたいことなら全てあなたの方から他の人にしなさい」この愛の掟《キリストの律法》(マタイ7章12節)を、地道に広めていくしかありません。子供でもこの掟の理解と記憶はできます。

試論:「ヤイロの娘」を140文字以内で

マルコ5章42節のギリシア語本文には、「驚き」を意味する語が二つ用いられている。ヤイロの娘に関して人々は寝たきりのイメージしかなく、少女が歩く姿を見た者はあまりいなかったようである。「あの寝たきりの女の子も、とうとう亡くなったか」と思われていた少女が歩く姿は、二重の衝撃であった。

【追記】

主はマルコ5章で少女を生き返らせたが、マタイ9章23節以下では既に笛吹き等の葬儀の準備に集まった人々がいて「少女は眠っているだけ」という主の仰せを嘲笑った。主はルカ20章38節「神は生きている者の神。全ての人は神によって生きている」の通り少女を生き返らせ、御自分の神性を示された。

主はヤイロの娘の死に、「子供は死んだのではなく眠っているだけ」と仰せになり、人々から嘲笑された。主は子供の両親と三人の弟子だけを伴い、重々しい物言いではなく、病気がちの子供でも理解できる親しみやすい言葉を少女に掛けられた。真の神は、あえて人々に大見得を切る必要などないからである。

主はマルコ5章でヤイロの娘を生き返らせた後、食べ物を彼女に与えるように仰せになった。これは、後に御自身が御復活されて弟子たちの前に御出現になった際(ルカ24章)に、一切れの魚を持って来させ食べられたことと同じで、亡霊を見ているわけではないことを人々に理解させるための仰せであった。

試論:先にいる者が後になる??を140文字以内で

【問】「先にいる者が後になり、後にいる者が先になる」の意味は?
【答】申命記28章13節は、旧約の民が神の戒めに忠実である限り「主はあなたを頭とし、尾とされない。あなたは上に立ち、下にならない」と記します。主イエスは、残念ながら今や民の多くは忠実ではないということを暗示されました。

試論:心を刺し貫く剣?を140文字以内で

【問】ルカ2章35節「あなた自身も剣で心を刺し貫かれる」の意味は?
【答】詩編55編22(21)節の通り、旧約の民は「人の心に刺さる言葉〔の力〕」を剣に喩えますが、御受難の際に主が多くの敵たちから聞くに堪えない悪罵を浴びせられマリアが母親として心を苛まれることが、預言されています。

【追記】

【問】主イエスは「火」(ルカ12章49節)や「剣」(マタイ10章34節)をもたらすと仰せになりました。物騒ではないでしょうか?
【答】「火」も「剣」も《神の御言葉》の比喩です。御言葉は心を燃やし(エレミヤ5章14節、ルカ24章32節)、心に刺さる(ヘブライ4章12節参照)からです。

試論:心の清い人は神を見る??を140文字以内で

【問】「心の清い人は神を見る」の、「見る」の意味は?
【答】聖書の「見る」や「聞く」には「認識する」「理解する」等の意味合いが含まれています。ヨハネ14章7節「あなたたちがわたしを知っているならば、わたしの御父をも知っていることになる。いや、あなたたちはもう、既に御父を見ている」。

【追記】

出エジプト記24章にモーセ一行が「神を見た」とあるが、実際に御姿を見たわけでなく、足台を見たことによって上におられる神を「見た」のである。「心の清い人は幸いである。その人は神を見る」の「見る」も認識するという意味を含むが御降誕の夜、羊飼いたちはマリアやヨセフと実際に、御姿を見た。

出エジプト記24章にモーセの一行が「神を見た」とあるが、神の御姿を実際に見たわけではなくその「足台」(「サファイアの敷石のようなもの」)を見たことによって、その上に必ずおられるはずの神を「見た」わけである。また同様に、雲や火や煙、雷鳴や稲妻、角笛の音なども神の現存を象徴していた。

(注)別エントリー「イエス・キリストと天の雲」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/684

(注)別エントリー「試論:福音書と『西遊記』の違いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5760

ヨハネ14章8節のフィリポの言葉「主よ、わたしたちに御父をお示しください」に対しコロサイ1章15節では「御子は、見えない神の姿」と表現した。「見えない神」とは御父であり「姿」とは《生き写し》というニュアンスをも含んでいる。ヘブライ1章3節は「神の本性の完全な具現」などと表現した。

試論:「旧約聖書への抵抗」を140文字以内で

【問】旧約聖書を読んでいると戦争の話や人がたくさん死ぬ話が多過ぎて辟易します。こんなものを求めるためにキリストに従ったつもりはありません。
【答】戦場で敵を倒して勝ち誇る替わりに主イエスは十字架上で自分の命を献げられ、敵を倒して勝ち誇る時代はもう終わったことを人々に示唆されました。

【追記】

【問】旧約聖書は豚肉食禁止や割礼を命じますが、新約聖書ではそれらの必要はないと教えます。どちらに従えばいいの?
【答】もちろん新約聖書の方です。主イエス・キリストが人となられて世に来られた以前と以後とでは、信仰の規範となる事柄が違っていることを忘れず十分に理解しなければなりません。

【問】カトリックが近代まで一般信者に旧約聖書を読ませることに消極的だったのはなぜですか?
【答】主イエスが世に来られる前と後とでは信仰の規範となる事柄が違っているのに、十分それを理解せぬまま「旧約聖書に書かれていることなら全て正しい」と真似を始めるうっかり者が出るのを防ぐためです。

(注)別エントリー「試論:『旧約聖書とカトリック』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/22022

【問】では、旧約聖書に書かれていることで現代のキリスト信者が真似しなくてもいいこととは何ですか?
【答】例えば一夫多妻制、豚肉食禁止、割礼、エルサレム神殿の建設、十分の一の献(ささ)げ物やいけにえ、預言者への従順、〔日曜日の方ではなく〕土曜日(旧約の安息日)を尊重すること、等です。

(注)別エントリー「試論:『安息日と主日との違い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12017

(注)別エントリー「試論:『土曜と日曜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12677

【問】旧約の「十分の一の献げ物」の替わりが現代の「十分の一献金」ですか?
【答】いいえ。ヘブライ10章5節以下は、旧約時代の全てのいけにえや献げ物の類に替わるものとして主イエス・キリストが御自分の体を十字架上で献げられたと教えます。「十分の一献金」は蛇の絵に足を描くような行為です。

(注)別エントリー「試論:『十分の一献金』の問題点を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12207

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

ルカ21章22節には「書かれていること」という言い回しが用いられているが、これはヨシュア記1章8節と同様に、「預言された事柄」「神から啓示された内容」などを意味する表現である。古代においては「書く(書いて記録に残しておく)」という行為それ自体が、非常に重要な意味を持つものだった。

主はヨハネ5章39節で、聖書とは御自分についてあかしするものであり、御自分を目的としない聖書研究には意味がない旨を仰せになった。これに関連し一ヨハネ4章も、主イエスに関する事柄についてなるべく触れようとしない自称信者を「偽預言者」「反キリストの霊」「人を惑わす霊」などと表現する。

(注)別エントリー「試論:『預言を封印するメシア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8347

(注)別エントリー「試論:聖書を研究する意味とは?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19381

ヨハネ5章39節〜40節「あなたたちは〔旧約〕聖書の中に永遠の命があると考えて、〔旧約〕聖書を研究する。しかし、〔旧約〕聖書とは、わたし(=主イエス・キリスト御自身)についての証しをするものである。それなのにあなたたちは〔永遠の〕命を得るためにわたしのところに来ることをしない」。

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の意義を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9840

(注)別エントリー「試論:旧約聖書を調べる意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6950

(注)別エントリー「試論:預言者も見たかったもの?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19262

試論:「柔和な人、モーセ」を140文字以内で

【問】なぜ民数記12章3節はモーセを誰よりも柔和な人と呼ぶの?
【答】姉ミリアムと兄アロンは弟モーセが権威を独占していると思い込んで嫉妬しましたが、実はモーセ自身は自分の責任の大きさに常に悩んでおり、姉や兄からの難癖にも言い返すこともせず姉を罰した神なる主に姉への容赦を乞いました。

(注)別エントリー「民数記12章3節:モーセの人となり」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5051

【追記】

主は「柔和な人は幸いである。その人は地を受け継ぐ」と仰せになったが、「柔和な人は地を受け継ぎ(安心感で満たされる)」という表現は古代のギリシア語訳詩編の36編(日本語訳では37編)11節にもみられ、8節は憤怒の放棄を勧める。「地を受け継ぐ」は9,22,29,34節にも用いられる。

「柔和な人」と同じ単語を古代のギリシア語訳民数記12章3節は用い、モーセを他の誰よりも「柔和」だったとした。モーセが姉ミリアムと兄アロンに難癖をつけられた際、ミリアムは厳しく主に罰せられたが、モーセは姉のために救いを求めて主に叫び、この時のモーセの態度が「柔和」の代表例とされた。

試論:「義に飢え渇く人は幸い」を140文字以内で

【問】主イエスはなぜ「義に飢え渇く人は満たされる」と人々に仰せになったの?
【答】「義の道」(マタイ21章32節、二ペトロ2章21節)であられる救い主は「命のパン」(ヨハネ6章35節)「生きた水の源」(ヨハネ4章14節、同7章37節、エレミヤ17章13節参照)でもあられるからです。

(注)別エントリー「黙示録7章17節『命の水の泉』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16556

【追記】

モーセの律法(レビ記14章など)では清めの儀式に用いる流水を「生きた水」と表現していた(新共同訳は「新鮮な水」)。勢いの良い流水は、澱んで濁った水と違い、清めの儀式に相応しい新鮮な清い水であるが、ヨハネ7章38節で主は、人間を清いものとする聖霊の賜物を「生きた水」にたとえられた。

(注)別エントリー「試論:聖霊の働きの徴を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4984

試論:「心の貧しい人は幸い」?を140文字以内で

【問】福音書に「心の貧しい人は幸い」とあるけれど、聖書の「貧しい」には何か特別な意味合いが含まれますか?
【答】ダビデの詩編では、神の救いを急ぎで求める切迫した心理状態にある時、しばしばダビデは自分自身を「貧しい」と呼びました。この場合の「貧しい」は本人の経済的状態とは無関係です。

【追記】

ダビデの詩編では神からの救いを切望する人の内面を「貧しい」と表現するが、特に詩編34編では7(6)節のように「救い」と「(内面の)貧しさ」が表裏一体として述べられている。たとえイスラエルの王であろうとも全能の神なる主の御前では無一物に等しいという自覚が、この表現の背景に存在する。

ダビデは自分の詩編で、神の救いを切望する自分の内面を「貧しい」と表現したが、《イスラエルの王だとしても、神の御前では自分は無一物に等しい》という自覚の故だった。「神の箱」の帰還に喜び踊りミカルから「からっぽ」呼ばわりされても、ダビデは自分が「からっぽ」であることを否定しなかった。

(注)別エントリー「ルカ福音書の聖母とサムエル記下の神の櫃」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1544

生涯の大半、ダビデ王は貧困とは無縁に見えたが、詩編で神の救いを切望(40編14節、70編2節)する際、自身の内面を「貧しい」と表現した(40編18節、70編6節)。ダビデの詩編を踏まえればマタイ5章3節に登場する「心の貧しい人」とは実際には、神の救いを切望している人のことである。

マタイ5章3節の日本語は概ね、「心の貧しい人」と訳されるが、「心の」と訳されたギリシア語本文の表現はマルコ2章6節では「心の中で」となる。マタイ5章3節を「心の中で貧しい人」と捉えるならそれはダビデの詩編の中で自分の内面を「貧しい」と表現して神の救いを切望している人のことである。

試論:「悲しむ人は幸い」???を140文字以内で

【問】「悲しむ人は幸い。その人は慰められる」どういうこと?
【答】主イエスは二つの方法で、世の悲しむ人々に慰めをお与えになります。御自分は宣教の日々に出会われた多くの病人たちに奇跡的な癒しを行われ、弟子たちには「善きサマリア人」のように憐れみの業を行うことを強くお勧めになりました。

試論:キリストが結婚しない理由を140文字以内で

【問】主イエスの結婚歴の記述は福音書にないけれど、結婚しなかった理由は?
【答】イザヤ62章5節は神と神の民の関係を花婿と花嫁の関係に喩えます。主は、御自分が神である事実を花婿という表現で暗示され、洗礼者も主を花婿と呼びます。主は神の民全体の花婿で、特定の一女性の夫ではありません。

試論:「憐れみ深い人は幸い」?を140文字以内で

【問】マタイ5章7節「憐れみ深い人は幸い。その人は、神からの憐れみを受ける」。なぜ?
【答】箴言19章17節「困窮する人々に救いの手を差し延べ憐れみの業を行う人は、主に対して貸しを作っていることと同じであり必ず報われる」ルカ6章38節「あなたたちは、自分の量る秤で量り与えられる」。

試論:まだ信じないのか?何を?を140文字以内で

【問】主イエスは湖で突風を鎮められた後、弟子たちに「まだ信じないのか」と仰せになりましたが、彼らは何をまだ信じてなかったの?
【答】「自分たちの先生イエスが創世記の冒頭に登場される天地万物の創造主であること」です。ヨハネ1章は、主イエスを「言(ことば)」と呼んで、これを強調します。

【追記】

ヨハネ1章1節は主イエス・キリストを「言(ことば)」と呼び紹介する。これは「天使や預言者を介することなく、御自分で直接人々に御言葉をお話しになる神」を意味し、「イエス・キリストなんか本当は実在しなかった」と言い立てる人々に対しては、主が残された御言葉それ自体がその存在証明となる。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

《御父である神、主》と《御子である神、主イエス》とは、詩編110編1節では御父は「主」、御子は「わが主」でありマタイ22章44節で御父は「主」、御子はダビデの言う「わたしの主」である。ヨハネ1章1節では御父は「神」、御子は「言(ことば)」であり、「言は神であった」と記されている。

(注)別エントリー「試論:「わたしの主」は誰?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7536

ヨハネ1章1節の「言(ことば)」、いわゆる「神の御言葉」とは、「御自分で御言葉をお話しになる神」すなわち御子である神、主イエス・キリストを意味する。「言(ことば)は神とともにあった」とは、天地創造以前の初めから、御子である神は御父である神とともに存在しておられたということである。

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

試論:「一体どなたなのだろう」を140文字以内で

マルコ4章41節は弟子たちが「一体この方(主イエス)はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言い合ったと記す。しかし、主イエスは同2章「断食についての問答」の際、既に御自分を「花婿」と称されていた。イザヤ62章5節は神と神の民との関係を「花婿」と「花嫁」の関係に喩える。

試論:「実」?「収穫の時」??を140文字以内で

【問】マルコ4章29節には「実」とか「収穫の時」とか書いてあるけど、何のこと?
【答】「実」はヨハネ4章36節「永遠の命に至る実」、「収穫の時」は同章35節「刈り入れ」にそれぞれ対応し、「刈り入れ」とは、マタイ25章34節の神の王国へ、それに相応しく実った人々を迎え入れることです。

試論:この世には属していない?を140文字以内で

【問】「わたしの王国は、この世には属していない」の意味とは?
【答】人間的な虚栄心や世俗的な野心・執着心とは全く無縁という意味で、エルサレム入城の際も「自分はイスラエルの王として都に入るのに、馬の一頭も準備できないで、どうする!」と怒鳴り散らされたりせずに、子ろばで入城されました。

試論:みどりごが「永遠の父」?を140文字以内で

【問】イザヤ9章5(6)節はみどりごとして生まれる救い主を「永遠の父」と呼びます。なぜ?
【答】救い主としてお生まれになった御子つまり主イエスを、ヨハネ1章1節は御父とともに天地創造以前の「初め」から存在されたと説き、また主は「わたしたちの父」(イザヤ63章16節)であるからです。

【追記】

【問】「神が人となった」とは「人でいる間は神であることをやめていた」という意味ですか?
【答】いいえ。神は神のままで人間を担われた(引き受けられた)という意味です。神の御独り子は人間の胎児としてマリアの胎に宿られましたが、その間も人類にとって「永遠の父」すなわち神であり続けました。

【問】イエスには二つの役割・立場があったということですか?
【答】例えば主イエスはある時は「〔神の〕小羊」、ある時は「羊飼い」と呼ばれます。周囲の目には幼子イエスはマリアとヨセフに養われているように見えましたが、二人はこの幼子こそが実は自分たち人類を養われる存在だと信じていました。

【問】《御父である神》だけが人類にとって「父」ですか?
【答】いいえ。主は「わたしたちの父」(イザヤ63章16節)である以上、《御子である神》主イエスも本来は「父」です。ただし御子イエスは人類を贖うために御自ら人間となられるほど人類を愛され、弟子たちを「兄弟」「友」と呼ばれました。

試論:「ともし火」何の比喩??を140文字以内で

【問】「ともし火を持って来るのは燭台の上に置くためではないか」の意味は?
【答】マタイ5章14節「あなたたちは世の光」16節「人々があなたたちの立派な行いを見て、あなたたちの天の父をあがめるようになるため」。この「光」はイザヤ58章10節の通り憐れみの業を行う人に伴って、輝きます。

試論:「土」って何?を140文字以内で

【問】マルコ4章26節「人が土に種を蒔いて」の「土」って何?
【答】創世記2章7節では、「土」は「命の息」を吹き込まれる前の人間の状態です。主イエスは「命」を自称され(ヨハネ14章6節)、「息」は神の霊つまり聖霊の比喩です。創世記3章19節も命を失った状態の人間を「土」と呼びます。

試論:マルコ4章33節を140文字以内で

「イエスは、多くのたとえで、御言葉を語られた」。

例えば、

「火」(ルカ12章49節)は、「神の御言葉」(エレミヤ5章14節)。

「剣」(マタイ10章34節)も、「神の御言葉」(ヘブライ4章12節)。

「門」(マタイ7章13節)は、「〔神の〕義」(詩編118編19節、マタイ6章33節)。

試論:マルコ4章25節を140文字以内で

【問】「持っていない人は、持っているはずのものまで取り上げられる」の意味は?
【答】マタイ18章33節〜34節「主君は怒って、『わたしがお前を憐れんだようにお前も仲間を憐れむべきではなかったか』と言い、主君からの憐れみは帳消しにされて、取り上げられた」。「主君」とは、神のことです。

【追記】

マタイ5章7節「憐れみ深い人は幸いである。その人は憐れみを受ける」はヨハネ13章「わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい」同14章「わたしを愛する人はわたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、御父とわたしはその人のところに行って一緒に住む」等と同じ道理である。

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

(注)別エントリー「試論:『いけにえ』と憐れみを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8356

マタイ18章「仲間を赦さない家来のたとえ」には「牢役人」が登場し、5章でも人間関係がこじれて和解に至らない人が行く「牢」が登場するが、ここは「火の地獄」(22節)とは別物として扱われる。この牢は代償を払い続けることにより最終的に出ることができるが、ここをカトリックでは煉獄と呼ぶ。

(注)別エントリー「試論:黙示録の火の池を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5376

一ヨハネ5章16節は「死に至らない罪」と「死に至る罪」があると説く。主イエスはルカ12章58節以下で「死に至らない罪」の人が行く期限付きの「牢獄」の存在を示唆された。この牢獄は主なる神が条件を満たしたと判断なさった時、そこから解放される。カトリックでは、この牢獄を《煉獄》と呼ぶ。

(注)別エントリー「試論:二種類の罪と『永遠の命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9895

マタイ12章32節は、主イエスの人間的属性だけを非難した者は赦されるが、主が聖霊によって悪霊を追い出したことを非難する者は赦されない、と記す。一ヨハネ5章16節以下も永遠の死に至る罪と死に至らない罪を分けて論じる。愛の掟に留まることを止める人(ヨハネ15章6節)が永遠の死に至る。

(注)別エントリー「試論:『ぶどうの木』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6605

(注)別エントリー「試論:『聖霊に対する冒涜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6715

主イエスがルカ11章で教えられた祈りの文言の中に「わたしたちの罪をお赦しください。わたしたちも、自分に負い目のある人々を赦します」(4節)とあるが、その理由を主は、マタイ18章の「仲間を赦さない家来のたとえ」で御説明された。同章35節「あなたが心から兄弟を赦さないなら御父も〜」。

(注)別エントリー「試論:『仲間を容赦しない家来』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5511

主イエスのたとえには様々な人物が登場するが、他人を引き合いに出して自己正当化したり自分のことを棚に上げて他人を攻撃したりする「他人に厳しく自分に甘い人」に対しては、神からの視線は非常に厳しい。しかし他人に責任転嫁せず正直に自分で自分の非を認める人に対しては、神からの視線は優しい。

出エジプト記34章で主の栄光がモーセに現わされた際、御自分が優しさと厳しさを兼ね備えた神であると主はモーセに明らかにされた。ダビデは詩編18編21(20)節以下で、主は優しい人には優しく厳しい人には厳しいと歌った。その人が隣人に敬意を示さない限り、主はその人の信仰を認められない。

(注)別エントリー「試論:『選ばれた人は選んだ人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8034

ヤコブ5章9節に「自分が裁きを受けないようにするには互いに不平を言い合わないことです」とあるが、これはマタイ7章1節〜2節「他人を裁くな。自分が裁かれないようにするためである。あなたがたは自分が他人を裁く流儀で裁かれる」とは同じ事柄であり、マタイ6章14節〜15節とも同じである。

(注)別エントリー「試論:赦しの重要性を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5390

(注)別エントリー「試論:主の祈りと赦しを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5305

主イエスはマタイ18章21節以下の「仲間を赦さない家来のたとえ」で、一人一人が他人を裁くその同じ基準(了見)で、神もまた一人一人をそれぞれ裁かれることをお教えになった。これは、基本的には7章で既に仰せになった事柄であり、「あなた自身が裁かれないようにするためにも、他人を裁くな」。

(注)別エントリー「試論:自分が裁かれないためにはを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5501

(注)別エントリー「試論:『慈悲は裁きの上にある』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7694

たとえ過失を犯した人が将来を案じ利己的な動機に基づいて他人の負い目を容赦したとしても、人が他人の負い目を容赦する行為それ自体には神は賛同される(ルカ16章1節以下)が、人が他人の負い目に厳しく臨むならば、神も一度与えた容赦を撤回してその人に厳しくされる(マタイ18章21節以下)。

(注)別エントリー「試論:『主にとって赦しも癒し』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6013

エレミヤ31章33節では救い主が「御自分の律法」をモーセの律法に替えて人々に授けると預言し、続く34節では救い主は人々に赦しを与える存在と預言する。主イエス・キリストは、ルカ7章48節に見られるように人々に赦しをお与えになり、また御自分の律法(マタイ7章12節)をお授けになった。

(注)別エントリー「試論:『主によって教えられる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16434

(注)別エントリー「試論:キリスト教の基礎を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19005

(注)別エントリー「試論:『救い主と赦し』預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19009

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

試論:「茨(いばら)」を140文字以内で

【問】「茨(いばら)」の聖書的な意味とは?
【答】「種を蒔く人」の箇所に限ったことではなく、また聖書に限ったものでもありませんが、人を苦しめ、悩ませ、さいなむものの象徴的存在です。神のアダムに対する宣告「お前に対して土は茨を成長させる」(創世記3章18節)、御受難の際の「茨の冠」。

試論:「携挙」の間違いを140文字以内で

【問】ある人々が主張する「携挙」の概念を、間違いだと証明できる理由とは?
【答】古代の聖書世界の人々は近代人なら「空中」と表現する領域を、「地と天の間」(歴代誌上21章16節、エゼキエル8章3節、ゼカリヤ5章9節)「大空」(創世記1章6節、エゼキエル1章22節)などと表現しました。

(注)別エントリー「試論:『携挙』はなぜ誕生したかを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14420

【追記】

一テサロニケ4章17節の原文のギリシア語アエールには大気の意味はあるが大空の意味はなく、17世紀までに成立した英訳聖書の英訳語エアーに、18世紀後半の有人気球飛行成功後に浮揚や大空の意味合いが加わり、19世紀に「携挙」が提唱されたが、元のギリシア語アエールにはこの意味合いはない。

試論:愛の掟《キリストの律法》を140文字以内で

【問】エレミヤ31章33節「わたしの律法を彼らの胸の中に授け彼らの心にそれを記す」の意味は?
【答】マタイ7章12節「他の人からしてもらいたいことを全て、あなたから他の人にしなさい。これこそ律法であり預言者〔の教え〕」。これは十戒よりも単純で子供でも覚えられるため、石板も不要です。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

【追記】

マタイ5章17節「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するため」同7章12節「人からしてもらいたいと思うことは何でも、あなたたちから人にしなさい。これこそが律法と預言者」ローマ13章9節「他にどんな掟があろうとも、隣人を自分のように愛することに要約されます」。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1982

試論:マルコ4章6節「根」を140文字以内で

主はヨハネ4章で御自分を「生きた水」の源にたとえられ、これはエレミヤ17章13節の預言と符合し同章では主に信頼する人を水に根を張った木にたとえる(7節以下)。ヨブ29章19節も「水際に根を張る木」という比喩で、主の御教えに根ざす信仰の堅固さや持続性を表し、マルコ4章にも対応する。

【追記】

モーセの律法(レビ記14章など)では清めの儀式に用いる流水を「生きた水」と表現していた(新共同訳は「新鮮な水」)。勢いの良い流水は、澱んで濁った水と違い、清めの儀式に相応しい新鮮な清い水であるが、ヨハネ7章38節で主は、人間を清いものとする聖霊の賜物を「生きた水」にたとえられた。

(注)別エントリー「試論:聖霊の働きの徴を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4984

マルコ4章「種を蒔く人」のたとえでは、「根」が堅実や持続の象徴として登場するが、エレミヤ17章7節以下には「主に信頼する人は、水のほとりに植えられて根を張った葉が青々とした木」などと記され、同13節では「イスラエルの希望である主」を「生ける水の源」と呼ぶ(ヨハネ4章14節参照)。

試論:兄弟姉妹・母?何のこと?を140文字以内で

【問】「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟・姉妹・母」の真意は?
【答】詩編15編「主よ、どのような人ならあなたの幕屋に宿り、聖なる山であなたと共に過ごすことができますか。それは無垢で憐れみの道を歩み義を行い、まこと(真、実、信、誠)の御言葉が心にあり、決して他人を中傷しない人」。

試論:マルコ3章35節を140文字以内で

主イエスがマルコ3章35節で「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟・姉妹・母」と仰せになられたのは有名である。この仰せは疑う余地なく、マタイ7章21節「わたしに向かって『主よ、主よ』と呼ぶ者の全てが、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入る」と関係している。

【追記】

マタイ7章21節「わたしの天の父の御心」とは何かを考察すると、同3章17節「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と御子イエスが呼ばれる以上、御子が最重要と位置付ける事柄こそ御父の御心である。同7章12節「他の人からしてもらいたいことなら全て、あなたから他の人にしなさい」。

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

【問】主イエスのマタイ7章12節の仰せをパウロが「キリストの律法」と呼んだのは、なぜですか?
【答】なにより主イエス御自身が「律法(ノモス)」と表現され、最後の審判の際に基準とされる「法(ノモス)」(一ヨハネ3章4節)であり信仰とは何かについて迷った時に立ち戻るべき基準だからです。

試論:わたしの兄弟・姉妹・母?を140文字以内で

主はマルコ3章35節で「神の御心を行う人こそわたしの兄弟・姉妹・母」と仰せになった。聴衆の男性は、自分に「兄弟」の資格はあるかと考えたであろう。また女性は、自分に「姉妹」の資格はあるかと考えたであろう。「母」の資格がある女性はルカ1章43節「わたしの主のお母さま」ただ一人である。

(注)別エントリー「試論:『母マリアだけ別格』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10305

(注)別エントリー「マリアを『神の母』と呼ぶ聖書的根拠」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4492

(注)別エントリー「試論:『神の母であること』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6079

【追記】

主イエスは、マルコ3章35節で「天の御父の御心を行う人こそわたしの兄弟・姉妹・母」ヨハネ14章23節で「わたしを愛する人はわたしの言葉を守る。御父はその人を愛され、御父とわたしはその人のところへ行き一緒に住む」と仰せになり、主イエス御自身の御言葉こそが信仰の核心だと御説明された。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

ルカ1章38節「わたしは主のはしためです。御言葉通り、この身になりますように」マタイ12章50節「わたしの天の父の御心を行う者は誰でも、わたしの兄弟・姉妹・母」ヘブライ10章7節「わたしは来ました。神よ、御心を行うために」ヨハネ2章5節「この人の言いつけには、万事従って下さい」。

試論:御受難はユダヤ人の総意?を140文字以内で

【問】イエスの処刑を当時のユダヤ人の全員が望んでいたのですか?
【答】いいえ。マタイ27章25節はローマ総督館の前で人々が「彼の血の責任は、我々と子孫にある」と答えたと記しますが、ルカ23章27節は女性たちの大群が十字架を背負わされたイエスの姿を見て嘆き悲しんでいたと記しています。

試論:誰にも挨拶をするな???を140文字以内で

【問】ルカ10章4節「途中で誰にも挨拶をするな」の意味は?
【答】ヘブライ人の挨拶には祝福を与える意味が含まれました。マタイ10章11節〜12節「町や村に入ったらまず誰の家が祝福を受けるのに相応しいかをよく調べてその家にずっととどまり、家に入ったらそこで初めて、祝福を与えなさい」。

【追記】

主イエスはルカ10章6節で、御自分の御教えを受け入れることになるであろう人を「平和の子」とお呼びになった。これは、イザヤ9章5(6)節が救い主イエスを「平和の君」と呼び預言していることを踏まえる。同様に、パウロは自分たちの神である主イエスを「平和の神」(フィリピ4章9節)と呼ぶ。

(注)別エントリー「試論:ルカ10章の『平和』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17745

古代のヘブライ人にとって「平和」はあらゆる幸福の総称であり、「あなたに平和」はヘブライ人の挨拶の決まり文句だった。ルカ10章5節「この家に平和があるように」は、より長い形の挨拶(サムエル上25章6節)である。ヘブライ人は「平和に属する者」を言い表したい時に「平和の子」と表現した。

(注)別エントリー「試論:『地には平和』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8769

(注)別エントリー「試論:『平和を実現する人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6272

主イエスは御復活の後、弟子たち(使徒たち)に初めて現われた際「あなたがたに平和があるように」と仰せになった。古代のヘブライ人にとって「平和」は全ての幸福の総称である。挨拶として長い形式ではサムエル上25章6節「あなたに平和、あなたの家に平和、あなたのもの全てに平和があるように」。

試論:「感謝の使徒」パウロを140文字以内で

【問】ヨハネは「愛」で有名な以外に「真理」という言葉で主イエスと主に対する信仰とを表しました。パウロの手紙には「感謝」という言葉がよく登場します。なぜ?
【答】パウロはステファノの殺害に関与しており、自分は本来は主の弟子に加えてもらえる立場ではない、と常に強く自覚していたからです。

試論:「平和」「命」「死」を140文字以内で

ローマ8章6節の直訳は「肉の思いは死、霊の思いは命と平和」。ヘブライ人は人間由来の事柄を「肉」、神に由来する事柄を「霊」と呼び、あらゆる幸福を「命」あるいは「平和」と総称した。この節は「人間由来の願望は死で終わるが、神に由来する願望は人間をあらゆる幸福へと導く」という意味である。

【追記】

主イエスはルカ10章6節で、御自分の御教えを受け入れることになるであろう人を「平和の子」とお呼びになった。これは、イザヤ9章5(6)節が救い主イエスを「平和の君」と呼び預言していることを踏まえる。同様に、パウロは自分たちの神である主イエスを「平和の神」(フィリピ4章9節)と呼ぶ。

(注)別エントリー「試論:ルカ10章の『平和』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17745

古代のヘブライ人にとって「平和」はあらゆる幸福の総称であり、「あなたに平和」はヘブライ人の挨拶の決まり文句だった。ルカ10章5節「この家に平和があるように」は、より長い形の挨拶(サムエル上25章6節)である。ヘブライ人は「平和に属する者」を言い表したい時に「平和の子」と表現した。

(注)別エントリー「試論:『地には平和』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8769

(注)別エントリー「試論:『平和を実現する人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6272

ガラテヤ5章16節以下では「肉と霊」が対比されるが、ここで「肉」はヨハネ1章14節同様「人間」を指し、「霊」は「聖霊」「神の霊」を意味する。つまりこの章における「肉」と「霊」との対立とは、「人間に由来する諸悪」(マルコ7章20節以下参照)と「神に由来する諸徳」との対立を意味する。

古代のヘブライ人の世界観に従い、ガラテヤ5章は「人間(人間それ自体)」を「肉」、「神〔に由来するもの〕」を「霊」と呼ぶ。ヨハネ3章6節も同じ対比を用い、「霊から生まれた者は霊」とは同1章12節の「神の御言葉である主イエスは、御自分を受け入れる人に神の子となる資格を与えた」を指す。

古代のイスラエル人にとって「肉」という表現は「人間」を指す場合があった(ヨハネ1章14節等)。マルコ7章20節以下で主イエスが「人から出て来るものこそ人を汚す」と注意を促された諸悪と、ガラテヤ5章19節以下でパウロが「肉の業」と呼んで避けるように促した諸悪が同様なのは当然である。

古代のヘブライ人は「肉」を、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけではなく魂も含めた人間の全体。)」を表す言葉として用いていた。創世記6章12節「すべて肉なる者は堕落の道を歩んでいた」(新共同訳)。日本語訳の「肉なる者」に対応する語は、ヘブライ語本文ではただ単に「肉」である。

ガラテヤ5章は「肉」と「霊」の対立を記すが、ヨハネ1章同様、パウロは古代のヘブライの世界観に基づき、人間そのものを「肉」と表現して「霊」つ まり「神の霊」と対比する。近代人は「肉と霊」という表現から「〔人間の〕肉体と〔人間の〕霊魂の対立」をイメージしがちだが、パウロの意図は異なる。

試論:信者にとってイエスは何?を140文字以内で

イザヤ62章5節は神と神の民の関係を「花婿」「花嫁」に喩える。同63章16節は神なる主を「わたしたちの父」と呼ぶ。主イエスはマタイ28章10節で弟子たちを「わたしの兄弟たち」と呼ばれた。ヨハネ15章14節では「わたしの命じることを行うなら、あなたたちはわたしの友」と仰せになった。

試論:「平和の子」「平和の神」を140文字以内で

主イエスはルカ10章6節で、御自分の御教えを受け入れることになるであろう人を「平和の子」とお呼びになった。これは、イザヤ9章5(6)節が救い主イエスを「平和の君」と呼び預言していることを踏まえる。同様に、パウロは自分たちの神である主イエスを「平和の神」(フィリピ4章9節)と呼ぶ。

(注)別エントリー「試論:ルカ10章の『平和』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17745

【追記】

古代のヘブライ人にとって「平和」はあらゆる幸福の総称であり、「あなたに平和」はヘブライ人の挨拶の決まり文句だった。ルカ10章5節「この家に平和があるように」は、より長い形の挨拶(サムエル上25章6節)である。ヘブライ人は「平和に属する者」を言い表したい時に「平和の子」と表現した。

(注)別エントリー「試論:『地には平和』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8769

(注)別エントリー「試論:『平和を実現する人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6272

(注)別エントリー「神の子らは人の娘たちを【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8636

試論:「頼もしい人」養父ヨセフを140文字以内で

【問】主の養父ヨセフが頼もしい人とどうして分かりますか?
【答】世の沢山の人が主イエスと聖母マリアを頼みとしますが、幼子イエスと幼子の母はヨセフを頼みとしました。彼はマタイ1章19節で正しい人と呼ばれますが、箴言28章1節「正しい人は若い獅子のように頼もしい」(フランシスコ会訳)。

【追記】

いつか遠くない近未来の世界で、人類は善悪の判断すら人工知能に依存するようになり、「自分が他の人からしてもらいたいことならなんでも、あなたから他の人にしなさい」と聞かされても全く理解不能になり、成人男性が妻や子供を平然と虐待する時代が来た時、ヨセフの存在に人々は希望を見出すだろう。

(注)別エントリー「試論:聖ヨセフの模範を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7243

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

カトリックではナザレの聖家族は三人と教える。主の養父ヨセフは終生、息子と妻の望むことだけを行い、三人家族の三番目であるかのように振舞い後世の人々からもそう思われた。世の男性たちが子供たちや女性たちを平然と虐待する、毒々しい時代が来る時、ヨセフの存在は強力な解毒剤として働くだろう。

(注)別エントリー「聖ヨセフ:ディカイオスを旧約聖書で考察」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1613

マタイ1章19節は主の養父ヨセフを「正しい人(ディカイオス)」と表現する。25章の「最後の審判」におけるディカイオスは、隣人が何らかの助けを必要としている時に、必要とされている助けを提供して困り事を解決する人を指し、ヨセフはイエスとマリアが本当に必要としていることだけを実行した。

(注)別エントリー「予備的考察:聖母崇敬そして聖ヨセフ崇敬の起源とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1750

試論:マタイ4章の漁師たちを140文字以内で

使徒言行録4章13節「議員たちや他の人々はペトロとヨハネの大胆な態度を目の当たりにして、この二人は学があるわけでもない普通の人たちのはずなのにと驚いた」ルカ21章15節「どんな反対者でも対抗も反論もできぬような言葉と知恵を、その時わたし(=主イエス)があなたたちに授けるだろう」。

【追記】

もしもイエスが起こした「活動」に少しでも政治的な意図が含まれていたのなら、イエスの十字架の周囲には必ず、使徒たちの十字架もあったはずである。そうではなかったのは、政治的な意図がイエスには微塵もなかった証拠であるし、また同じ理由で、イエスの敵たちの眼中には使徒たちの存在はなかった。

多くの人が黙示録20章の記述を誤解し、キリストと共に世を支配する「千年王国」を夢見たが、他方ヨハネ18章36節で主は御自分の王国(バシレイア)は世に属さないと確言された。「王」(マタイ25章34節)であるキリストと共に支配するとは、悪魔の罪と死による支配から自由になることである。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

(注)別エントリー「真理は罪と悪と死から自由にする」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9524

黙示録20章やローマ5章は「悪に悪を返さない」ことを徹底して罪や悪と決別した人々を「バシレウオ(〔キリストとともに〕王となる)」という動詞で表すが、これはあくまで《義化の完成》を象徴する表現であり政治体制的な意味を含まず、彼らは「第二の死」を免れ「永遠の命」を得ると記されている。

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

主イエスはヨハネ18章36節で、「わたしのバシレイアは、この世には属していない」と仰せになった。原文のギリシア語バシレイアは、聖書では「王権」「〔神の〕王国」を意味し、「王国の一人一人」まで包含する。黙示録1章6節でヨハネは、自分たちは既にその一部を構成していると書き記している。

(注)別エントリー「試論:バシレイア(=神の王国)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12654

試論:神の御言葉は「火」「剣」を140文字以内で

【問】主イエスは「火」(ルカ12章49節)や「剣」(マタイ10章34節)をもたらすと仰せになりました。物騒ではないでしょうか?
【答】「火」も「剣」も《神の御言葉》の比喩です。御言葉は心を燃やし(エレミヤ5章14節、ルカ24章32節)、心に刺さる(ヘブライ4章12節参照)からです。

試論:「キリストの律法」なぜ?を140文字以内で

【問】主イエスのマタイ7章12節の仰せをパウロが「キリストの律法」と呼んだのは、なぜですか?
【答】なにより主イエス御自身が「律法(ノモス)」と表現され、最後の審判の際に基準とされる「法(ノモス)」(一ヨハネ3章4節)であり信仰とは何かについて迷った時に立ち戻るべき基準だからです。

【追記】

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

試論:「サウル王の退き際」を140文字以内で

【問】サウルは王に選ばれたものの途中で道を誤り神なる主やサムエルに見離され転落の道を歩みました。どうすればよかったの?
【答】サウルの息子ヨナタンはダビデの親友で、サウルの娘ミカルはダビデに嫁ぎました。もしもサウルが「自分は引退し娘婿に王位を譲る」とだけ言えば全て丸く収まりました。

【追記】

【問】主イエスの養父ヨセフはマタイ1章19節で「正しい人」と呼ばれます。古代のイスラエル人にとって「正しい」とは何ですか?
【答】サムエル上24章18節「お前(=ダビデ)はわたし(=サウル王)よりも正しい。わたしはお前に悪意で向き合っているのに、お前はわたしに善意を示してくれた」。

試論:「暗闇」「死の陰の地」?を140文字以内で

【問】なぜマタイ4章16節は、ガリラヤを「暗闇」「死の影の地」と表現したのですか?
【答】聖家族がエジプトに避難している間、ガリラヤのユダ(使徒言行録5章37節)が個人的な野心からローマに反乱を起こし、数年に及ぶ戦火でガリラヤは荒廃したため暗い記憶が人々になお生々しかったからです。

【追記】

【問】なぜ救い主は暴君ヘロデの晩年に到来されたの?
【答】前王朝の重臣ヘロデが王位を奪い独裁者になって三十余年、古代ユダヤには権力志向の風潮が蔓延し、ヘロデの死後などは、彼の奴隷や無名の羊飼いの兄弟さえも王になろうと決起する有様でした。真の「ユダヤ人の王」はそんな中で生まれました。

(注)別エントリー「ダニエル書7章:地上に興る第四の王国」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4631

聖家族がヘロデの追及を逃れてエジプトに避難した後、ヘロデ没後の混乱に乗じガリラヤのユダがローマの住民登録に対して大規模な反乱を起こした。ベツレヘムで住民登録に参加した聖家族は、ただそれだけで親ローマ派と見なされる危険があり、この反乱が鎮圧されるまでは故郷に戻ることができなかった。

使徒言行録5章37節は「ガリラヤのユダ」が反乱の指導者となり滅びたと記す。ヘロデ大王死後の混乱に乗じて勢力を拡大した彼は、ローマの住民登録への反対を掲げ、登録した者を親ローマ派と見なして敵視した。彼の滅亡を確かめた上で(マタイ2章20節)、聖家族はエジプトから帰還したはずである。

試論:「つまずきを与える行為」を140文字以内で

【問】他人につまずきを与える、つまり悪影響を与える行為とは例えば何ですか?
【答】主イエスも使徒たちも、福音書や手紙の中で、他人の悪口を言い広める行為を厳しく戒めています。ところが、キリストの信者を自称しながら、信者でない人よりも他人の悪口に熱心な人がいます。如何なものでしょうか。

【追記】

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

試論:石だらけの所に落ちた種?を140文字以内で

【問】マルコ3章20節は主イエスの家を群衆が囲んだと記します。主のエルサレム入城の時も、群衆は歓呼で迎えましたが数日後に主は皆に見捨てられ屠殺されました。なぜ?
【答】「石だらけの所に落ちた種とは、御言葉を聞くと喜び直ちに受け入れるが後で迫害や艱難が起こるとつまずく根がない人々」。

【追記】

マタイ13章「種を蒔く人」のたとえでは「根」が堅実や持続の象徴として登場するが、エレミヤ17章7節以下には「主に信頼する人は、水のほとりに植えられて根を張った葉が青々とした木」などと記され、同13節では「イスラエルの希望である主」を「生ける水の源」と呼ぶ(ヨハネ4章14節参照)。

(注)別エントリー「試論:『サマリアの女』と『水』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6367

(注)別エントリー「試論:『自分の十字架』って何?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7179

主はヨハネ4章で御自分を「生きた水」の源にたとえられたが、これはエレミヤ17章13節とも符合しており、同章では主に信頼する人を水に根を張った木にたとえる(7節以下)。ヨブ29章19節も、同様の比喩を主の御教えに根ざした信仰の堅固さや持続性を表す際に用い、マタイ13章にも対応する。

試論:旧約の民の「正しい」を140文字以内で

【問】主イエスの養父ヨセフはマタイ1章19節で「正しい人」と呼ばれます。古代のイスラエル人にとって「正しい」とは何ですか?
【答】サムエル上24章18節「お前(=ダビデ)はわたし(=サウル王)よりも正しい。わたしはお前に悪意で向き合っているのに、お前はわたしに善意を示してくれた」。

試論:「ユダの裏切り」を140文字以内で

【問】なぜイスカリオテのユダは主イエスを裏切りましたか?
【答】ヨハネ12章6節は彼が献金泥棒的な行為をしていたと記しています。「茨の中に落ちた種とは、富の誘惑その他の欲望が心に入り込み御言葉を覆い塞いで実らないこと」。財布のごまかしに象徴される面従腹背が、彼を破滅へと導きました。

【追記】

主イエスはマタイ10章で十二人をお選びになり、「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いを癒す権能」を授けられた。マルコ3章14節は「十二人」選抜の目的を御自分の傍に置くためと記す。その一人は泥棒(ヨハネ12章6節)となり、銀貨三十枚(マタイ26章15節)で、自分の師を売り渡した。

(注)別エントリー「試論:『預言や奇跡よりも』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16157

(注)別エントリー「試論:『無償で与えなさい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16019

主イエスはマタイ7章22節以下で、預言や悪霊を追い出すことや奇跡よりも、悪を行わないことこそが重要で御自分の弟子である証明だと教えられた。イスカリオテのユダは汚れた霊を追い出す権能と病気を癒す力を使徒として与えられたが(マタイ10章)、献金を盗んでいたためサタンが彼の中に入った。

(注)別エントリー「試論:『献金泥棒』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11983

主イエスはマタイ7章22節以下で、神が人々に求めておられるのは預言でも奇跡でも悪霊を追い出すことでもなく、ただ悪を行わないことだと示唆された。ヨセフは1章19節で義人と呼ばれるが、25章の最後の審判では義人は隣人の困り事に親身に対応する無私の人そして永遠の命を確約された人を指す。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

詩編12(11)編においてダビデは、隣人に嘘をついたり隣人を早口で欺いたり言行不一致状態だったりする人々ばかりの風潮を、「信仰のある人は消え去りました」(12編2節、新共同訳)と表す。ここで「信仰」と訳されるヘブライ語を、古代のギリシア語訳聖書はアレテイア(真理、まこと)と訳す。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

ヨハネ福音書は「信仰」を表現する際、他の福音書が用いるピスティスという語を用いず代わりにアレテイア(真理、まこと)という語を多用する。ヨハネにとって信仰とは、人の真心に対し真心で応じられる神なる主に向かって嘘偽りや裏表のない態度で接することに他ならず、これは当時の共通認識だった。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書のアレテイアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15430

主イエスはヨハネ14章6節で「真理」を自称されたが、プロテスタントの「改訳 新約聖書』(1917年)は「まこと」と平仮名を振り、旧約聖書で「まこと」と訳される語との関連を示唆する。嘘偽りや裏表がないこと、上っ面だけでなく内実を伴うこと、真心には真心で返されること等を意味している。

(注)別エントリー「試論:まこと(真、実、信、誠)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16274

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書の『信じる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16417

試論:「天の父の御心」を140文字以内で

【問】主イエスはマタイ7章21節で、「わたしの天の父の御心を行う者だけが天の国に入る」と宣言されましたが、どこに「天の父の御心」は書いてありますか?
【答】「主の洗礼」の際、天からの声はイエスを「わたしの心に適う者」と紹介されました。「天の父の御心」はイエスの御教えに従うことです。

【追記】

ヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」の意味を使徒言行録4章32節は「心も思いも一つ」「持ち物を自分だけのものと主張せず共有している」と説明する。従って、御父の持ち物は御子の持ち物でもあり逆もまた然りである。ヨハネ10章38節「わたしは父の内にあり、父はわたしの内におられる」。

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

主はヨハネ10章30節で「わたしと父とは一つ」と仰せになった後、17章では弟子たちのために天を仰いで祈られたが、それは御父と御自分が「一つ」であるように、弟子たちもまた「一つ」となるためであった(11節、21節〜23節)。使徒言行録4章32節「信じた人々の群れは心も思いも一つ」。

試論:マルコ3章の「イドマヤ」を140文字以内で

ユダ・マカバイと彼の一族ハスモン家が指導した反乱によりユダヤが独立後、王となったハスモン家の一族はサマリヤとガリラヤそしてイドマヤ(かつてのエドム)を征服し、イドマヤ人をユダヤ教に改宗させてユダヤ社会に受け入れた。ハスモン王朝が弱体化するとイドマヤ人の権臣ヘロデが王位を簒奪した。

(注)別エントリー「ダニエル書7章:地上に興る第四の王国」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4631

【追記】

イサクとリベカの間の双子の兄弟のうち兄エサウの子孫がエドム(イドマヤ)人、弟ヤコブの子孫がイスラエル(ユダヤ)人だった。新約聖書の時代、イドマヤ人のヘロデ一族がユダヤの王であるほどイドマヤ人はユダヤ社会に溶け込み、紀元七〇年の滅亡時の最後のユダヤの王さえもイドマヤ出身者であった。

主の御降誕から第二神殿の滅亡までエルサレムに七人の「王」が君臨した。ヘロデ大王、アルケラオス、アンティパス、アグリッパ一世、アグリッパ二世がヘロデ王家の人で、ヘロデ王家のユダヤ退去後の独裁者ギスカラのヨハネが六人目に該当し、ローマ帝国に処刑されたシモン・バルギオラが七人目である。

(注)別エントリー「試論:黙示録17章『七人の王』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11401

(注)別エントリー「試論:『山に逃げなさい』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19995

【問】イサクは妻リベカとの一夫一妻制の結婚を大切にしましたが、他にも信仰の模範となる事柄はありましたか?
【答】彼は幼い頃に、生贄にされそうになった経験があり、後年そのことで神なる主を恨んだり父アブラハムを恨んだりはしませんでしたが、人身御供を行う慣習の民に嫌悪を抱き続けました。

(注)別エントリー「試論:イサクの美点を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17950

【問】リベカが長男よりも次男に肩入れした理由は、何ですか?
【答】長男は両親に相談なく地元カナンの女性たちと結婚しました。カナンの人々には人身御供の慣習があり、リベカも人身御供への嫌悪を夫と共有していましたが、長男の獲物が好物のイサクは長男には少し甘く、妻はこの点では違っていました。

試論:「主を愛しているのなら」を140文字以内で

ヨハネ14章15節で主は「わたしを愛しているのなら、わたしの掟を守りなさい」と仰せになり御自身が教えられた掟を守ることをもって御自身への愛を判断すると宣言された。「自分はあなたの掟を守ることができてはいませんが、主よ、あなたへの愛だけは誰にも負けません」と主張しても、通用しない。

【追記】

二テモテ4章でパウロは、人々が「御言葉」(2節)つまり《主が人々の前に御姿をお見せになり直接人々にお話しになった御教え》には耳を傾けなくなり、「自分に都合の良い」(3節)「作り話」(4節)つまり真の御言葉ではない紛い物の方に引かれていくと警告したが、対策は福音書を読む以外にない。

ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは「御自分でお話しになる神」の意味で《天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神》主イエスを表す称号であり、直接お話しになった記録が福音書である。福音書を読まないことは主イエス・キリストを理解しようとしないことに等しい。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

旧約聖書の預言は第一義的に主イエス・キリストの到来及びその前後までの歴史的出来事をあかしするためのものであり、キリスト到来から約二千年後に生きる現代人が国際情勢を読み解くためのものではなく、国際情勢分析など本来の意義とは無関係の完全な逸脱行為であり、真理には絶対にたどり着けない。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

(注)別エントリー「試論:エゼキエル戦争を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4921

(注)別エントリー「予備的考察:いわゆる『エゼキエル戦争』【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15520

ルカ21章22節において、主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると明言されており、それは紀元七〇年に現実のこととなった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代や近未来の世界情勢に関して旧約聖書の預言から考える行為は、不毛である。

ルカ21章22節には「書かれていること」という言い回しが用いられているが、これはヨシュア記1章8節と同様に、「預言された事柄」「神から啓示された内容」などを意味する表現である。古代においては「書く(書いて記録に残しておく)」という行為それ自体が、非常に重要な意味を持つものだった。

試論:「言いふらさないように」を140文字以内で

【問】なぜ主イエスはマルコ3章12節で「汚(けが)れた霊ども」に、「自分のことを言いふらさないように」と戒められたのですか?
【答】物事を深く考えない人々が「いろいろ知りたければイエスのところに行かなくとも、これらの霊に教えてもらえば事足りる」などと勘違いしないようにするためです。

試論:ファリサイ派の憎悪の理由を140文字以内で

【問】なぜファリサイ派の人々は主イエスを激しく憎んだのですか?
【答】マタイ23章2節の通り、当時のファリサイ派はモーセに喩えられる権威でしたが、彼らはしるしを行えず、主イエスのしるしに難癖をつけても返り討ちに遭うばかりで、「徹底的に面目を潰され虚仮にされた」と憎悪を募らせました。

試論:「ティルスやシドン辺り」を140文字以内で

マルコ3章8節は、ティルスやシドンのようなフェニキアの町々からも人々が主イエスの許に来たと記す。7章28節では一人のフェニキア出身の女性が「イスラエルの神なる主の御目にはわたしたちフェニキア人は、食卓の下でパン屑を待つ小犬のような存在でしょうが」と卑下しながらも主に奇跡を乞うた。

【追記】

ルカ6章17節以下では主イエスの評判を聞きエルサレムやユダヤ全土からだけはなく、ティルスとシドンの海岸地方からも人々が集まったと記す。この海岸地方の人々はフェニキア人だったが、使徒言行録12章20節によればユダヤから食糧を調達しており、従ってユダヤの動向から常に目を離さなかった。

試論:「ボアネルゲス」を140文字以内で

主イエスはゼベダイの子らを、その気性ゆえに雷の子らと呼ばれた。若さと熱意のあまり時にルカ9章54節「天から火を降らせて〜」といった物騒な発言の他に、マルコ10章35節以下「自分たちを主の左右の座に」で周囲に非難された。しかし弟は使徒たちの中で独り十字架の主に従い兄は殉教を遂げた。

【追記】

主にゼベダイの子らの母が息子たちを左右の座にと願った時、残りの十人の使徒は立腹した。これはしかし主が御受難を予告された直後であり、この「雷の子」である兄弟は決死の覚悟を主に伝えたい一心だった。ヨハネは御受難の折も主の傍らにあり、御受難の際に主から一時離れたヤコブも最後は殉教した。

(注)別エントリー「『ヨハネの兄弟』ヤコブの殉教」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17919

十二使徒も次々に帰天して恐らく最後にヨハネ一人だけとなった時までに、彼は「使徒」の自称を控え自身への権威集中を避けたと推測され、後進が育って「監督(司教)」と「長老(司祭)」の時代に完全移行するよう促進するためか、彼は「監督」にさえならずに、単なる一人の「長老」として、帰天した。

(注)別エントリー「試論:『長老のヨハネ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21459

試論:「救うことか殺すことか」を140文字以内で

【問】なぜ主イエスはマルコ3章で奇跡を行われる前に、「命を救うことか、殺すことか」と問いかけられましたか?
【答】申命記30章15節の通り、「命」とは幸福と同義語であり、「死」は災いや不幸と同義語でした。安息日に相応しい行いは隣人を幸福にすることではないかと主は問いかけられました。

(注)別エントリー「試論:神は、生きている者の神?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/22197

【追記】

【問】マタイ22章32節「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」の意味は?
【答】エレミヤ21章8節の通り、旧約の民にとって神なる主の御意向に従うことは「命の道」、主の御意向に逆らうことは「死の道」で、《神は御自分に逆らう者の神ではなく、御自分に忠実な者の神》という意味です。

エゼキエル18章「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は仰せになる。彼が悪から立ち帰って生きることを喜ばないだろうか。お前たちが犯した全ての背きを投げ捨てて新しい心と霊を造り出せ。どうしてお前たちは死んでよいだろうか。お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」。

(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3277

ルカ19章9節以下「今日、救いがこの家を訪れた。人の子は、失われたものを捜して救うために来た」二ペトロ3章15節「わたしたちの主の忍耐深さを救いと考えなさい」同9節「主は救いの約束を遅らせているのではなく、一人も滅びずに皆が悔い改めるように、あなたたちのために忍耐されています」。

(注)別エントリー「『罪人を招く』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19089

【問】ヨハネ8章51節「わたしの言葉を守れば決して死ぬことがない」の意味は?
【答】マタイ7章12節のキリストの律法(あなたが他の人にしてもらいたいことを、あなたから他の人にしなさい)を忠実に実行するならマタイ25章の最後の審判で永遠の命にあずかり天国の福楽に達するという意味です。

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11494

試論:「安息日の癒し」是か否かを140文字以内で

【問】「安息日の癒し」は当時の規定に合致しますか?
【答】モーセの律法は「祭壇のパンは安息日ごとに供え替えよ」と命じます。この職務に関わる誰かの手が急に不自由になった場合それを癒すことは神の御旨に合致します。神はえこひいきを良しとされない方なので、他の人を癒すことも問題ありません。

【追記】

【問】主イエスが安息日に関して引用されたサムエル上21節のダビデの故事が、他ならぬ安息日の出来事だという根拠は、どこにありますか?
【答】その故事が「パンを供え替える日」の出来事だとサムエル上21章7節は記しますが、レビ24章8節は、安息日ごとにパンを供え替えることを命じています。

【問】なぜ主イエスは、麦の穂を摘んで直に口へ運ぶほど弟子たちが空腹なのに、「パンの奇跡」のようなことを行われなかったのですか?
【答】真理(まこと)の神である主は「えこひいき」を良しとされないからです(箴言24章23節、シラ35節15節、一テモテ5章21節、ルカ20章21節参照)。

主イエスはヨハネ5章で三十八年も病気で苦しんでいた人を安息日に癒された。ルカ13章15節以下「安息日だろうと皆、牛やろばを家畜小屋から連れ出して水を飲ませに行っている。この女性はアブラハムの娘でありながら十八年間もサタンに束縛されていた。安息日でも解放してやるべきではないのか」。

ヨハネ5章の通り、敵たちは安息日の掟を持ち出して主イエスを攻撃するのが常だった。安息日の掟は確かに十戒にも含まれるものの、マルコ12章28節以下の律法学者との問答で再確認された通り古代のイスラエルで最も重要な掟の第一は神への愛の掟、第二は隣人愛の掟であり安息日の掟より優先される。

(注)別エントリー「試論:『しるし』と敵意を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15357

試論:マルコ3章「主のお怒り」を140文字以内で

【問】なぜ主イエスはマルコ3章5節で、「いやし」を行われる前にお怒りになられたのですか?
【答】その場の人々は安息日の掟を口実にした他人の粗探しや揚げ足取りや難癖等の悪巧みのことで頭が一杯で、手がうまく使えず難儀している人の辛さを考えた同情心など、どこにも見当たらなかったからです。

試論:「ダビデの故事と安息日」を140文字以内で

【問】主イエスが安息日に関して引用されたサムエル上21節のダビデの故事が、他ならぬ安息日の出来事だという根拠は、どこにありますか?
【答】その故事が「パンを供え替える日」の出来事だとサムエル上21章7節は記しますが、レビ24章8節は、安息日ごとにパンを供え替えることを命じています。

試論:「人の子は安息日の主」?を140文字以内で

【問】「人の子は安息日の主」の意味は?
【答】主イエスが仰せになりたかった事柄は「安息日の掟は十戒にも含まれるが古代のイスラエルで最も重要な掟の第一は神への愛の掟、第二は隣人愛の掟であり安息日の掟より優先される。自分は神殿よりも偉大な者(マタイ12章6節)として、これを宣言する」。

【追記】

マルコ2章で麦畑から穂を摘んで直に麦を口にするほど主の弟子たちは空腹だった。ファリサイ派の人々に対して主はサムエル上21章を引用された。パンではなく直に麦を口にするほどの空腹をしのぐことは、井戸に落ちた息子をすぐに引き上げる(ルカ14章5節)ことと同じく、安息日の掟にも優先する。

(注)別エントリー「安息日と空腹」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17859

試論:弟子たちの空腹と主イエスを140文字以内で

【問】なぜ主イエスは、麦の穂を摘んで直に口へ運ぶほど弟子たちが空腹なのに、「パンの奇跡」のようなことを行われなかったのですか?
【答】真理(まこと)の神である主は「えこひいき」を良しとされないからです(箴言24章23節、シラ35節15節、一テモテ5章21節、ルカ20章21節参照)。

(注)シラ35章15節は、バルバロ訳では同章12節に当たる。

試論:掟は何のためにあるのか?を140文字以内で

マルコ2章で麦畑から穂を摘んで直に麦を口にするほど主の弟子たちは空腹だった。ファリサイ派の人々に対して主はサムエル上21章を引用された。パンではなく直に麦を口にするほどの空腹をしのぐことは、井戸に落ちた息子をすぐに引き上げる(ルカ14章5節)ことと同じく、安息日の掟にも優先する。

(注)別エントリー「安息日と空腹」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17859

【追記】

マルコ7章の通りファリサイ派の人々は、神が授けられたモーセの律法の多数の掟に加えて、「昔の人の言い伝え」と呼ばれる人間由来の多数の掟を皆に課した。背負い切れない重荷と化した掟の数々に人々は、自分の落ち度を指摘されるよりは、とばかりに皆で互いの粗探しを始めたがそこに隣人愛はあるか?

(注)別エントリー「試論:『背負い切れない数の掟』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19409

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちは、自分が他の人からしてほしいことを、自分から他の人にしなさい」と《愛の掟》を教えられた。従って「愛の反対」は「他の人からしてほしくないことをあえて他の人に行うこと」そして「他の人からしてほしいことをあえて他の人には行わないこと」からなる。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

試論:「酒と革袋」何の比喩??を140文字以内で

【問】「新しい酒を古い革袋に入れたりはしない」って、何の比喩?
【答】マルコ1章27節は主イエスの御言葉を「権威ある新しい教え」を呼びます。「新しい酒」とは主イエスの新しい御教え、「古い革袋」とは新しい御教えに猛烈な拒絶反応を示すファリサイ派の人々や律法学者たちを、暗示しています。

試論:聖ヨセフと「義人の条件」を140文字以内で

【問】主イエスの養父ヨセフが親切な人だったと、どうして分かりますか?
【答】ヨセフはマタイ1章19節でディカイオス(正しい人、義人)と呼ばれます。知恵の書12章19節はディカイオスと呼ばれるための条件を「人に親切でなければならない」(フランシスコ会訳)であると、確かに教えています。

試論:「布切れ」何の比喩?を140文字以内で

主イエスはマルコ2章21節で「織りたての布から布切れを取って古い服に継ぎを当てたりは誰もしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる」と仰せになり、考え方や教えられている内容が大きく異なる人々を軽々しく一緒に扱ってもトラブルの元になるだけであると、お教えになった。

【追記】

主イエスは使徒をお選びになる際に、既存の教派に属したことのない者か、属したことがあってもその流儀や特色に固執せず頭を切り替えた者を選んだ。例えば、初めこそ洗礼者の弟子だったが、洗礼者の言葉に従って主の弟子となり主に従うことこそが洗礼者にも忠実であることと割り切ったアンデレである。

試論:「断食させなかった理由」を140文字以内で

主イエスは御自分の弟子たちに断食をさせない理由を、マタイ9章15節「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか」、マルコ2章19節「花婿が一緒にいるのに婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいる限り断食はできない」と仰せになった。花婿とはもちろん主御自身である。

(注)別エントリー「試論:真の『花婿』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13774

(注)別エントリー「イザヤ58章『真の断食』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14709

(注)別エントリー「試論:『花婿と大淫婦』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13533

【追記】

イザヤ62章5節は神と神の民の関係を花婿と花嫁のそれに喩えた。花婿と花嫁が出会って喜びを共にすることが婚礼、婚礼の客あるいは花婿の友人とは弟子たちである。主イエスは御自分が人間の世におられる貴重な期間には弟子たちに断食などさせないが、御自分がいなくなった後はさせると仰せになった。

(注)別エントリー「試論:『花婿と花嫁』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5665

(注)別エントリー「試論:古代の王の『宴』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18516

試論:旧約聖書と新約聖書の違いを140文字以内で

【問】旧約聖書は豚肉食禁止や割礼を命じますが、新約聖書ではそれらの必要はないと教えます。どちらに従えばいいの?
【答】もちろん新約聖書の方です。主イエス・キリストが人となられて世に来られた以前と以後とでは、信仰の規範となる事柄が違っていることを忘れず十分に理解しなければなりません。

【追記】

【問】カトリックが近代まで一般信者に旧約聖書を読ませることに消極的だったのはなぜですか?
【答】主イエスが世に来られる前と後とでは信仰の規範となる事柄が違っているのに、十分それを理解せぬまま「旧約聖書に書かれていることなら全て正しい」と真似を始めるうっかり者が出るのを防ぐためです。

(注)別エントリー「試論:『旧約聖書とカトリック』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/22022

【問】では、旧約聖書に書かれていることで現代のキリスト信者が真似しなくてもいいこととは何ですか?
【答】例えば一夫多妻制、豚肉食禁止、割礼、エルサレム神殿の建設、十分の一の献(ささ)げ物やいけにえ、預言者への従順、〔日曜日の方ではなく〕土曜日(旧約の安息日)を尊重すること、等です。

(注)別エントリー「試論:『安息日と主日との違い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12017

(注)別エントリー「試論:『土曜と日曜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12677

【問】旧約の「十分の一の献げ物」の替わりが現代の「十分の一献金」ですか?
【答】いいえ。ヘブライ10章5節以下は、旧約時代の全てのいけにえや献げ物の類に替わるものとして主イエス・キリストが御自分の体を十字架上で献げられたと教えます。「十分の一献金」は蛇の絵に足を描くような行為です。

(注)別エントリー「試論:『十分の一献金』の問題点を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12207

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

ルカ21章22節には「書かれていること」という言い回しが用いられているが、これはヨシュア記1章8節と同様に、「預言された事柄」「神から啓示された内容」などを意味する表現である。古代においては「書く(書いて記録に残しておく)」という行為それ自体が、非常に重要な意味を持つものだった。

主はヨハネ5章39節で、聖書とは御自分についてあかしするものであり、御自分を目的としない聖書研究には意味がない旨を仰せになった。これに関連し一ヨハネ4章も、主イエスに関する事柄についてなるべく触れようとしない自称信者を「偽預言者」「反キリストの霊」「人を惑わす霊」などと表現する。

(注)別エントリー「試論:『預言を封印するメシア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8347

(注)別エントリー「試論:聖書を研究する意味とは?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19381

ヨハネ5章39節〜40節「あなたたちは〔旧約〕聖書の中に永遠の命があると考えて、〔旧約〕聖書を研究する。しかし、〔旧約〕聖書とは、わたし(=主イエス・キリスト御自身)についての証しをするものである。それなのにあなたたちは〔永遠の〕命を得るためにわたしのところに来ることをしない」。

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の意義を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9840

(注)別エントリー「試論:旧約聖書を調べる意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6950

(注)別エントリー「試論:預言者も見たかったもの?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19262

試論:ヘブライ人と「剣」の比喩を140文字以内で

【問】ヘブライ人は神の御言葉を「剣」に喩え、主イエスもマタイ10章34節で同じ喩えを用いられたとのことですが、理由は?
【答】ヘブライ4章12節「神の御言葉は生きておりどんな両刃の剣よりも鋭く力を発揮し、霊・精神・関節・骨髄を切り離して刺しつらぬき、心の思いや考えを見分けられる」。

試論:「世の罪を取り除く」を140文字以内で

【問】「世の罪を取り除く神の小羊」主イエスはどうやって罪を取り除くの?
【答】悪魔の罪と死による支配から全人類を自由にするために、神のままで人間の肉体と魂を担われ、多くの人の身代金として御自分の命を献げられたばかりではなく、《人々に御言葉を直にお話しになる神》として教えられました。

【追記】

黙示録7章16節はイザヤ49章10節を踏襲することで洗礼者が言及した(ヨハネ1章)

「〔神の〕小羊」

とイザヤ書の

「主の僕(しもべ)」

が同一人物であると再確認させ、

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために来た」
(マタイ20章28節、マルコ10章45節)

という事柄をも再確認させる。

ヨハネ1章29節「世の罪を取り除く神の小羊」の「取り除く」に当たるギリシア語は、一ヨハネ3章5節にも登場し、その前後では隣人愛の実践を奨励するが、同じ表現をエフェソ4章31節も用い、主に応えて信者が取り除くべき事柄を「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりを全ての悪意と共に」とする。

エフェソ4章の後半では「神にかたどって造られた新しい人」として生きるためとして「怒ることはあっても罪を犯してはならない」「日が暮れるまで怒ったままではいけない」「悪い言葉を一切口にしない」「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどの全てを、一切の悪意とともに捨てる」等を勧めている。

ヨハネ1章14節は「神の御言葉(=主イエス)は肉(=人)となられ、わたしたちの間に宿られた(=住まわれた)」と記す。マタイ20章28節では主御自身が「仕えられるためではなく仕えるため」「多くの人の身代金(=あがない)として自分の命を献(ささ)げるために来た」と仰せになられている。

主はヨハネ12章27節で「今わたしは心騒ぐ」と仰せになり御自分の内面は穏やかでないと告白された。多くの侮辱を伴う凄惨なリンチの末に、十字架を背負わされ、「御自分の民」から罵声を浴びながら体力を消耗し尽くし、ぼろ布のような状態で大きな苦しみの内に息絶える日がそこまで来たからである。

主はヨハネ12章23節で「人の子が栄光を受ける時が来た」と仰せになった。御受難(十字架上の死)によって多くの人々に永遠の命をもたらし(24節〜25節)「死を永久に滅ぼす」(31節、イザヤ25章8節、一コリント15章54節、ヘブライ2章14節以下、コロサイ1章20節等)ためである。

ヨハネ8章34節「罪を犯す者は、罪の奴隷」12章31節「今、この世の支配者が追放される」ヘブライ2章14節〜15節「御自分に委ねられた者たちが人間である以上イエスも同じく人間としての全てを担われたが、死を司る悪魔を御自分の死によって滅ぼし悪魔の罪と死の支配から人々を解放された」。

主はヨハネ12章24節で「一粒の麦もし死なずば」の一節の前に、ギリシア語本文では二度「アーメン」と口にされた。通常この箇所は「まことにまことに」「よくよく」「はっきり」等と訳されるが、主はこうなさることで、そこが御教えの核心部分だと示された(31節及びコロサイ1章20節等参照)。

主はヨハネ8章32節で「真理はあなたたちを自由にする(解放する)」と仰せになった。パウロはヨハネと同じギリシア語を用いて何からの解放か、その答えをローマ6章と同8章で説明した。「罪から解放」(6章18節、22節)、8章2節「罪と死の法則から解放」同21節「滅びへの隷属から解放」。

ルカ2章11節は「あなたたちのために救い主がお生まれになった」マタイ1章21節は「この子は自分の民を罪から救う」と記す。イザヤ35節4節以下は「敵(サタン)を撃ち悪を罰する神が来られ、あなたたちを救われる」と預言し、目や耳や足や言葉の不自由な人々の回復が神の到来の徴になると続く。

マタイ1章でヨセフの夢に現れた主の天使は「マリアが産む子は民を罪から救う」と教えた。同じ事柄をペトロは使徒言行録3章26節で、「神は御自分の僕(しもべ、同13節参照)を立てられ遣わしてくださった。それは一人一人を悪から離れさせ、祝福(マタイ25章34節)に与らせるため」と説いた。

マタイ1章21節は「自分の民を罪から救う」ルカ1章77節は「罪の赦しによる救い」と記し、主御自身もマタイ6章13節で「悪い者から救って下さい」と《主の祈り》を教えられ、ガラテヤ1章4節は「この悪の世からわたしたちを救い出そうとして御自身をわたしたちの罪のために献げられた」と記す。

試論:「真理と知恵の関係」を140文字以内で

主イエスはヨハネ14章6節で真理(まこと=真、実、信、誠)を自称され、知恵(マタイ11章19節、ルカ7章35節)そして「神の知恵」(ルカ11章49節)を自称された。シラ15章8節「偽る者には、知恵は伴わない」マタイ11章19節「知恵の正しさは、その業によって、証明されるだろう」。

試論:イザヤ49章6節の「僕」を140文字以内で

【問】イザヤ49章6節「わたしはあなたを僕(しもべ)としてヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせるだけでなく、あなたを諸国民の光にする」の、「僕」って、誰のこと?
【答】ルカ2章32節「異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れ」つまり主イエスです。

【追記】

【問】イザヤ49章2節「わたしの口を鋭い剣(つるぎ)として」の意味とは?
【答】「口」とは【口が語る言葉】という意味で、箴言12章18節のように古代のイスラエル人は、相手の心に突き刺さる言葉をしばしば「剣」に喩え、主イエスもマタイ10章34節で、神の御言葉を「剣」に喩えられました。

試論:ヨハネ1章31節を140文字以内で

【問】ルカ1章43節で洗礼者の母エリサベトはマリアを「わたしの主のお母さま」と呼んだのになぜ、洗礼者は「わたしはこの方(イエス)について知らなかった」と言ったの?
【答】洗礼者が知らなかったのは《このイエスは実は、神の御独り子が人となられた方である》と公表してもよいタイミングです。

【追記】

【問】洗礼者も、「《霊》が鳩のように天から降(くだ)って、この方の上にとどまる」のを見るまでは完全には理解していなかったということ?
【答】洗礼者自身、《イエスは実は、神の御独り子が人となられた方》と知識として持ってはいても《霊》が鳩のように天から降るのを見て確信できたのでしょう。

試論:マタイ7章11節を140文字以内で

【問】主イエスはマタイ7章11節で、「あなたたちの天の父は、求める者に良いものをくださるにちがいない」と仰せになりましたが、「良いもの」って何?
【答】25章34節「わたしの父に祝福された人々よ、天地創造の時からあなたたちのために用意されていた王国(バシレイア)を受け継ぎなさい」。

【追記】

【問】その「良いもの」を受け継ぐためには、何が必要ですか?
【答】マタイ7章12節「あなたが他の人からしてもらいことなら全て、あなたの方から他の人にしなさい。これこそ律法であり預言者〔の教え〕」。これを《キリストの律法》(一コリント9章21節、ガラテヤ6章2節)とパウロは呼びます。

試論:養父ヨセフを研究する理由を140文字以内で

【問】主イエスの養父ヨセフを研究すべき理由とは?
【答】ヨセフはマタイ1章19節ではディカイオス(正しい人、義人)と呼ばれますが、6章33節「神の義」(ディカイオシュネー)を体現する人のことであり、25章の最後の審判では天国の福楽を確約されている人(37節、46節)を指すからです。

試論:『マルコ』対象となる読者を140文字以内で

マルコ福音書とマタイ福音書は共に徴税人が主イエスの弟子となった場面を記すが、『マルコ』は『マタイ』と異なり、ホセア6章6節の引用「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」を省く。『マルコ』は異邦人向けの福音書であって、異邦人たちにはホセア書の予備知識がないからである。

【追記】

『マタイ』と『ルカ』とは古代のヘブライ人の読者を想定しているため、主イエスがアブラハムやダビデの血筋であると、系図で示している。古代のヘブライ人は、ある人物がその職責に相応しい家系の出身者であるかどうかを記録で証明できるかに関して、エズラ2章62節にある通り、非常に敏感であった。

『マタイ』と『ルカ』は洗礼者が「救い主は聖霊と火で洗礼を授けられる」と説いたことを記す。『マルコ』は「聖霊で洗礼を」と「火」を省く。安息日ごとに会堂で預言書が朗読される旧約の民は、「火」とは「主の御言葉」の比喩(エレミヤ5章14節)だと知っているが、異邦人には全く理解不能だった。

主がマタイ9章13節で「わたしが求めるのは憐れみであり『いけにえ』ではない」とホセア6章6節に言及されてファリサイ派の人々に学ばせたかった「意味」という事柄の答えは、ホセア6章3節「主は曙の光のように必ず現われて、春に降り注ぎ大地を潤す雨のようにわたしたちを訪れて下さる」である。

【問】神は人間の不幸を望んでおられますか?
【答】いいえ、断じて望んでおられません。間違った終末思想に陥り始めると「望んでおられる」などと錯覚するのでしょうが、神なる主はエゼキエル18章で「あなたたちは〔わたしに〕立ち帰って、生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」と仰せになっています。

キリスト教の歴史上「救われる者と救われない者とは神に予め定められている」という主張が存在したが、ならば神はなぜエゼキエル18章32節で「お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」と仰せになったのだろうか。二コリント5章14節「キリストは全ての人のために亡くなられた」。

(注)別エントリー「試論:救われる者は少ないか??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18576

ヨハネ9章31節には「神は罪人の言うことなどお聞きにならないとわたしたちは承知している」という言葉が記されてはいる。罪人が良からぬ企みを実行する前に成功を神に願い求めても、神が聞き入れるわけがないが、罪人が罪人であることを止めて回心したいと神に願う時は、神は喜んで聞き入れられる。

(注)別エントリー「試論:『聞き入れられる願い事』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18477

今、あなたの神、主があなたに求めておられることとは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてその全ての導きに従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸せになることではないか。(申命記10章12節〜13節)

ミカ6章8節「何が善であって、主が何をあなたたちに求めておられるかは、あなたたちには既に告げられている。それは神の義を行い、憐れみの業を愛し、へりくだり神と共に歩むこと」ホセア6章6節「わたしが求めるものは『いけにえ』ではなく憐れみであり、焼き尽くす献げ物ではなく神を知ること」。

(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6748

マタイ11章28節「重荷を負う者は、わたしの許へ来なさい」詩編38編5(4)節「わたしの罪悪は耐え難い重荷」マタイ9章13節「正しい人を招くためではなく罪人を招くために、わたしは来た」ホセア6章1節〜2節「わたしたちは主の許に帰ろう。主はわたしたちをいやされ、傷を包んで下さる」。

(注)別エントリー「試論:『いけにえ』と憐れみを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8356

試論:マルコ2章5節の「子よ」を140文字以内で

【問】なぜ、主イエスは中風の人を癒される前に「子よ」と仰せになりましたか?
【答】古代のイスラエル人は神なる主を「わたしたちの父」(イザヤ63章16節)と考えており癒しの奇跡を通して主イエスは御自分こそがそれだと人々に伝えようとされましたが、律法学者は神への冒瀆であると捉えました。

試論:イエスの癒しと「難易度」を140文字以内で

主イエスはマルコ1章でけいれんを起こした人やシモンの高熱の姑を癒された。現代人は、「たまたま数十分で発作が落ち着くタイミングだった」とか「数日経って解熱するタイミングだった」と考えるが、同2章の「中風」つまり、長らく手足が麻痺して動けなかった人に関しては、自然治癒を期待できない。

試論:「いやし」と「罪の赦し」を140文字以内で

【問】主イエスがマルコ2章で「いやし」を行われる場面で、いきなり「罪の赦し」が話題に出て来るのは、どうしてですか?
【答】イザヤ6章10節に「悔い改めていやされる」(新共同訳)という表現が登場するように、古代のイスラエル人は、「いやし」と「罪の赦し」の両者を同一視していたからです。

【追記】

ルカ8章48節で主は御自分の服に触れ癒しを得た女性に「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と仰せになった。7章50節でも主は罪の女性に赦しを与えた際に、同じ言葉をかけられた。イザヤ6章10節(マタイ13章15節、ヨハネ12章40節)でも主の赦しは癒しと同一視される。

試論:漁師ペトロの弱点??を140文字以内で

【問】ペトロは使徒言行録10章で「豚肉食は問題ない」と啓示を受けたのに、後でその是非への態度を曖昧にし、パウロに叱咤されました。なぜですか?
【答】漁師ペトロ本人が魚食へのこだわりは非常に強くても肉食自体にそもそも関心がなく、事の重大さを今一つ実感できていなかった可能性があります。

(注)別エントリー「試論:『豚肉食禁止の問題』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/22082

【追記】

【問】本人が肉食派ではないというだけでもないと思いますが?
【答】ペトロは過去に、湖上を歩かれる主イエスの御姿を見て自分も歩きたいと申し出て、途中で気持ちが揺らいで溺れかけ主に叱責されたことがありました。何にでも積極的に手を上げるペトロですが途中で気持ちが揺れる弱点が玉に瑕でした。

試論:「シロの廃墟」を140文字以内で

主イエスはルカ19章46節で「あなたたちは神殿を強盗の巣にした」と仰せになった。これは、エレミヤ7章11節で預言者が啓示した文言を踏まえているが預言者は続く12節以下で、かつてのシロの聖所のように、エルサレムの神殿も滅亡すると啓示した。つまり主イエスも、同じ事柄をほのめかされた。

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

【追記】

モーセはレビ記26章と申命記28章で、旧約の民が神に忠実である場合の幸いと、神に不忠実である場合の災いを預言した。サムエル記上4章には当時のイスラエルを治めていた祭司エリの息子たちの罪悪のために、臨在の幕屋と神の箱の所在地シロがペリシテ人の侵攻を受け、滅亡へと至る経緯が記される。

(注)別エントリー「『聖母マリアの終生童貞』の聖書的根拠」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/2754

(注)別エントリー「聖母と聖ヨセフが終生童貞である理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4464

神の御教えと人間の祈り

箴言28章9節は、主なる神の御教えを聞き入れない人が主にどれほど願い求めようと聞き入れてもらえはしないと説く。同様にゼカリヤ7章13節「わたしがあなたにいくら呼びかけてもあなたが聞き入れないならば、あなたがわたしにいくら祈り願い呼びかけようとも、わたしはその祈りを聞き入れない」。

(注)別エントリー「試論:『主よ、主よ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5380

主はマタイ7章21節で「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入る」24節で「わたしのこれらの言葉を行う者は、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」と仰せになり、「山上の説教」こそ教えの重要箇所だと示唆された。

マタイ22章14節「招かれる者は多く選ばれる者は少ない」の《選ばれない理由》をイザヤ65章12節は「呼んでも答えず、語りかけても聞かず、わたしの目に悪とされることを行い、わたしの喜ばないことを選んだからである」と記した。「笛を吹いたのに踊ってくれなかった」(マタイ11章17節)。

ローマ3章でパウロは、「信仰」「律法」という表現で実際には《イエス・キリストを信仰する人々にとっての新しい掟である愛の掟》と《イエスを認めぬ人々が律法とするモーセが与えた掟》とを比較した。人間を「義」とするのは、《律法の掟》の実行ではなく、信仰に基づく《愛の掟》の実行如何による。

主イエスはマタイ7章14節では「命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか」と教えられたが、ヨハネ10章9節では「わたしは門であり、わたしを通って入る者は救われる」同14章6節では「わたしは道・真理・命であり、わたしを通らなければ誰も父の許に行くことはできない」と仰せになった。

(注)別エントリー「試論:天の国の条件を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5312

イザヤ59章2節「あなたたちの悪こそが、神とあなたたちの間を隔て、あなたたちの罪こそが、神の御顔を隠させ、神があなたたちに耳を傾けられるのを妨げている」ヨハネ14章24節「本当はわたしのことなど愛してはいない者は、決して御父とわたしの言葉や掟を受け入れはせず守ろうなどとしない」。

マタイ22章14節「招かれる者は多く選ばれる者は少ない」ルカ13章23節「救われる者は少ないのですか」27節「不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」マタイ6章33節「神の国と神の義を求めなさい」ヨハネ14章23節「わたしを愛する者はわたしの言葉を守り父とわたしはその人と住む」。

マタイ7章12節「人からしてもらいたいと思うことは何でもあなたたちから人にしなさい。これこそが律法と預言者である」ガラテヤ5章14節「律法全体は、隣人愛の掟の実行によって、全うされます」ローマ13章8節「人を愛する者は律法を全うしています」同10節「愛は律法を全うするものです」。

主イエス・キリストはマルコ12章における「最も重要な掟」の第一と第二とを統合され、ヨハネ13章34節で「新しい掟」そして「わたしの掟」(同14章15節)とされた。この掟は隣人愛の実践をもって、神への愛の実践とする(同節)。隣人愛の実行こそがキリストへの信仰をあかしするものとなる。

ヨハネ13章34節以下で主は「新しい掟」について宣言されたが、これこそエレミヤ31章31節の「新しい契約」で、同33節「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」に関して主はヨハネ14章とりわけ21節で説明され、愛の掟を守ることが神の民となるための条件である旨を宣言された。

主はマタイ7章26節で「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は、砂の上に家を建てる人に似ている」と教えられた。22章14節「招かれる者は多いが選ばれる者は少ない」とは、《わたしの教えを耳にしたことのある者は多いが、それを真摯に受け止めて日々実践している者は少ない》という意味である。

マタイ7章で主は「狭い門から入りなさい」(13節)「命に至る門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない」(14節)と仰せになったが、詩編118編19節以下には、「正義の門よ開かれよ。わたしは入って主に感謝しよう。この門は主の門だ。主に従う者はこの門を入る」とある。

マタイ7章は「門」という比喩で、「神の国」に入るための条件「神の義」(6章33節)を表現した。これは詩編118編19節以下「義の門よ開け。この門は主の門だ。主に従う者はここから入る」とともに、イザヤ26章2節「門よ開け。信仰を守って神の義に従う民が入れるように」とも関連している。

(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8105

(注)別エントリー「試論:『神の義』と詩編を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6798

試論:マルコ1章「重い皮膚病」を140文字以内で

主イエスはマルコ1章40節以下で「重い皮膚病」を患っている人を癒やされたが、モーセの律法では彼は隔離対象だった(レビ13章46節)。主が彼をすぐ立ち去らせようとしたり黙っているように命じられた理由は、誰かが「彼に触れたならイエスも汚れの状態だ」と言い出さないようにするためだった。

【追記】

主イエスは重い皮膚病の人をいやされた後、その人に何も話さないようにと仰せになった。しかし奇跡的な治癒は見た目に一目瞭然である以上、その人が完全に沈黙を守り続けることは至難の業であり、主イエスも「あれほど話さぬように言っておいたのに、あなたはそれにそむいた」とは非難なさらなかった。

(注)別エントリー「試論:主イエス・キリストの恵みを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8614

レビ記は、「重い皮膚病」の人と性病の人は陣営の外に住まねばならぬとする。古代ユダヤの歴史家ヨセフスは、一世紀のエルサレム市内から、淋病の人と「重い皮膚病」の人は完全に排除されていた、と記した。当時のヘブライ人にとっては、エルサレムの都こそが自分たちの時代の「陣営」そのものだった。

試論:「ヨハネとパウロは表裏」を140文字以内で

【問】ヨハネ1章1節は《「言」(御子イエス)は「初め」(天地創造以前)から「神」(御父)とともに存在され、御子は御父と寸分違わぬ神だった》と解釈すべきとのことですが、他の箇所に同じ内容が書いてありますか?
【答】コロサイ1章15節「御子は『見えない神」』(御父)の姿(生き写し)」。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

【追記】

コロサイ1章17節「御子は、全てのものより先におられ」ヨハネ1章1節「初めに言があった」コロサイ1章16節「万物は御子によって、御子のために造られた」ヨハネ1章3節「万物は言によって成った。成ったもので、言によらなかったものは、何一つなかった」同10節「世は、言によって成った」。

コロサイ1章20節「神(御父と御子の両者)は御子の十字架の血によって平和を打ち立てられ、天地万物をただ御子によって御自分と和解させられました」ヨハネ14章27節「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。わたしはこれを世が与えるように与えるわけではない」。

(注)別エントリー「試論:『一つ』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10252

ヨハネ1章1節の「言(ことば)」いわゆる《神の御言葉》とは《御自分で御言葉をお話しになる神》つまり御子である神、主イエス・キリストを意味する。「言(ことば)は神とともにあった」とは、天地創造以前の「初め」から、御子である神は御父である神とともに存在しておられた、ということである。

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

イザヤ9章5(6)節は救い主が「みどりご」「男の子」として世に来られると預言するが、同節は救い主を「永遠の父」と呼ぶ。同63章16節は主を「わたしたちの父」と呼ぶが、ヨハネ1章1節「初めに言があった」とは、《救い主である御子は天地創造以前から御父とともに存在されていた》、である。

(注)別エントリー「『完全な神』が『完全な人間』を担われた」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21196

試論:神は、生きている者の神?を140文字以内で

【問】マタイ22章32節「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」の意味は?
【答】エレミヤ21章8節の通り、旧約の民にとって神なる主の御意向に従うことは「命の道」、主の御意向に逆らうことは「死の道」で、《神は御自分に逆らう者の神ではなく、御自分に忠実な者の神》という意味です。

【追記】

エゼキエル18章「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は仰せになる。彼が悪から立ち帰って生きることを喜ばないだろうか。お前たちが犯した全ての背きを投げ捨てて新しい心と霊を造り出せ。どうしてお前たちは死んでよいだろうか。お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」。

(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3277

ルカ19章9節以下「今日、救いがこの家を訪れた。人の子は、失われたものを捜して救うために来た」二ペトロ3章15節「わたしたちの主の忍耐深さを救いと考えなさい」同9節「主は救いの約束を遅らせているのではなく、一人も滅びずに皆が悔い改めるように、あなたたちのために忍耐されています」。

(注)別エントリー「『罪人を招く』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19089

【問】ヨハネ8章51節「わたしの言葉を守れば決して死ぬことがない」の意味は?
【答】マタイ7章12節のキリストの律法(あなたが他の人にしてもらいたいことを、あなたから他の人にしなさい)を忠実に実行するならマタイ25章の最後の審判で永遠の命にあずかり天国の福楽に達するという意味です。

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11494

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

主イエスのファリサイ派批判で最も多いのはマタイ23章3節の通り「建前は立派でも中身は〜」だが、神殿の有力者たちの仲間であるサドカイ派は、復活を否定するなど、主イエスとは建前からして違った。来世について考えることをしない彼らはおのずと現世志向であり、既得権益の維持に汲々としていた。

主はヨハネ3章3節で「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることができない」と仰せになられた。エフェソ4章31節以下では無慈悲・憤り・怒り・わめき・そしりなどの全てを一切の悪意と共に捨てるよう勧め、互いに親切にし合い、憐れみの心で接し合い、またキリストに倣い、赦し合うよう勧める。

神の国に入るためには「神の義」が不可欠であることを主は「礼服」という比喩で御説明された。コロサイ3章では「着る」べきものは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛と挙げる。マタイ11章で主は「わたしは柔和で謙遜な者だから」(29節)「わたしの荷は軽い」(30節)などと仰せになった。

試論:自由をもたらす完全な律法を140文字以内で

【問】ヤコブ1章25節「自由をもたらす完全な律法」って何?
【答】マタイ7章12節の「キリストの律法」《他人からしてもらいことは全てあなたから他人にしなさい》のことです。キリストは「わたしは真理」(ヨハネ14章6節)「真理はあなたたちを自由にする」(同8章32節)と宣言されました。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

【追記】

【問】主イエスはヨハネ8章32節で「真理はあなたたちを自由にする」と仰せになりましたが、一体、何から自由になるのですか?
【答】34節「罪の奴隷」の状態からです。ローマ6章16節「あなたたちは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかです」。

試論:箴言6章「驕り高ぶる目」を140文字以内で

箴言6章16節は「主の憎まれるものが六つ、心からいとわれるものが七つ」と記し17節は筆頭に「驕り高ぶる目」を挙げるが、古代ギリシア語訳は「〔相手を〕侮辱する目」と表現する。この預言は、主がローマ総督の居城にて兵士たちに侮辱(マタイ27章29節)されリンチを受けた際に現実となった。

【追記】

【問】マリアやヨセフはどんな人でしたか?
【答】主イエスはマタイ11章19節とルカ7章35節で「知恵」を称されました。箴言8章12節以下の「知恵」の言葉「熟慮と一緒に住み知識と慎重さも備える」「高慢・驕り・悪の道・暴言を吐く口をわたしは避ける」が、主と主の両親の人柄と考えられます。

【問】箴言8章12節「知恵は熟慮と共に住む」とは?
【答】主イエスはルカ7章35節で「知恵」を称されましたが、養父ヨセフは婚約者の妊娠に際し熟慮して安易に相手を裁くことをせず、母マリアも羊飼いの訪問やシメオンの預言、御子が十二歳時の神殿での出来事等についてその意味を深く考えました。

(注)別エントリー「試論:『知恵』としての主イエスを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/20869

(注)別エントリー「試論:『知恵』を自称された理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/20999

(注)別エントリー「試論:『婚約者の妊娠』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21032

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

主はルカ21章22節でエルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると仰せになり、既にそれは紀元七〇年に現実となった。現代の世界情勢を安易に旧約聖書の預言に関連付ける発想は主イエスの仰せには合致しておらず、疑う余地なくこの発想はキリスト教的でなくキリスト教の外部に由来する。

(注)別エントリー「試論:非キリスト教的な預言解釈を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21066

試論:マルコ1章34節を140文字以内で

主イエスはマルコ1章34節で多くの悪霊を追い出されたが、悪霊にものを言うことをお許しにはならなかった。《神の御言葉》である御自分をさしおいて、好奇心に駆られた人々がむしろ悪霊の語る事柄の方に耳を傾ける行為は、創世記3章で蛇にだまされたエバ同様、間違いの元にしかならないからである。

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

【追記】

【問】キリストはパンを増やし湖の上を歩き病人をいやしたということですが、ではそのキリストは、御自分の弟子となった人々にも奇跡を行うことを要求されましたか?
【答】いいえ。キリストは預言や悪霊を追い出すことや奇跡ではなく、天の父の御心を行うことを要請されます(マタイ7章21節以下)。

【問】では「天の父の御心」とは何ですか?
【答】「他の人からしてもらいたいことは全て、あなたから他の人にしなさい」(マタイ7章12節。一ヨハネ3章4節参照)のことで、一ヨハネ4章16節は「神は愛」「愛にとどまる人は神の内にとどまり、神も、その人の内にとどまってくださる」と説きます。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

試論:「ハンナの模範」を140文字以内で

マタイ6章で主は、祈る際の「これ見よがし」的な態度を避けるように人々を戒められ、「隠れたことを見ておられる天の父が報いてくださる」と仰せになった。サムエル上1章13節「ハンナは心のうちで祈っていて、唇は動いていたが声は聞こえなかった」その結果19節「主は彼女を御心に留められた」。

【追記】

マタイ6章11節は「われらの日用の糧を今日われらに与え給え」と祈るが、詩編111編5節は「主は御自身を畏れる人に糧をお与えになる」同145編19節は「主を畏れる人の願いはかなえられる」と歌い、箴言8章13節は「主を畏れることは悪を憎むこと」とし、傲慢・悪事・暴言との絶縁を勧める。

詩編145編19節は「主を畏れる人々の願いはかなえられる」箴言10章24節は「神に従う人の願いはかなえられる」と説く。箴言8章13節は「主を畏れることは悪を憎むこと」とし、主を畏れる人と無縁な事柄を「傲慢、驕り、悪の道、暴言を吐く口」とする。これらを行う人の願いはかなえられない。

(注)別エントリー「神に対する確信を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5613

詩編145編19節は「主を畏れる人々の願いはかなえられる」とし、箴言10章24節は「神に従う人の願いはかなえられる」と説く。マタイ7章7節は「求めなさい。そうすれば与えられる」と主の御言葉を教え、ヨハネ14章13節は「わたしの名によって願うことは何でもかなえてあげよう」とも記す。

ヨハネ2章のカナでの婚礼の際、3節の母の言葉に対し、主は4節でその真意を測りかねる答えをされた。しかし母は5節で、願いが聞き入れられたことを確信して召し使いたちに言葉をかけた。その理由は一ヨハネ5章14節以下に、「これが神に対するわたしたちの確信」という表現とともに記されている。

ルカ18章で主は「やもめと裁判官」のたとえを話されたが、それは「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるため」(1節)で、「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる」また「これがわたしたちの神に対する確信」と一ヨハネ5章14節は教える。

詩編145(144)編19節には「主は御自分を畏れる人々の望みをかなえられ、彼らの救いを求める叫びを聞けば願いを聞き入れてくださる」とある。主イエスは水の上から沈みかけたペトロにすぐ手を延ばしてつかまえられ、悪霊に苦しめられ続ける娘を持つカナンの女性の叫びに願いを聞き入れられた。

コヘレト12章13節は「全てに耳を傾けて得た結論」として「神を畏れ神の戒めを守れ」「それこそが人間の全て」と締め括る。8章12節では「神を畏れる人は畏れるからこそ幸福になる」と記し、箴言8章13節は「主を畏れることは悪を憎むこと」として、傲慢・驕り・悪の道・暴言を吐く口を戒める。

(注)別エントリー「試論:聖霊とは縁遠い人を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8993

試論:ヘブライ人と「信仰」を140文字以内で

詩編12(11)編においてダビデは、隣人に嘘をついたり隣人を早口で欺いたり言行不一致状態だったりする人々ばかりの風潮を、「信仰のある人は消え去りました」(12編2節、新共同訳)と表す。ここで「信仰」と訳されるヘブライ語を、古代のギリシア語訳聖書はアレテイア(真理、まこと)と訳す。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

【試論】

ヨハネ福音書は「信仰」を表現する際、他の福音書が用いるピスティスという語を用いず代わりにアレテイア(真理、まこと)という語を多用する。ヨハネにとって信仰とは、人の真心に対し真心で応じられる神なる主に向かって嘘偽りや裏表のない態度で接することに他ならず、これは当時の共通認識だった。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書のアレテイアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15430

主イエスに関してヨハネ福音書は「真理」を事ある毎に強調しイエスに偽りはなかったと説く。裏を返せばイエスの敵たちがイエスに難癖を付けるためなら偽りの告発を平然と行って恥じなかったことをも記している。「ガリラヤからは預言者は出ない」という難癖もヨナという先例がいる以上は虚偽であった。

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

ヨハネ7章52節に「ガリラヤからは預言者は出ない」という敵たちの難癖がある。彼らの発言は誤りで、預言者ヨナの出身地は列王下14章25節にガト・へフェルと記される。ヨシュア19章13節ではガト・へフェルはゼブルン族の領土で、そこはイザヤ8章23節の通り福音書の時代のガリラヤである。

(注)別エントリー「試論:『ガリラヤからの預言者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15449

主イエスはヨハネ14章6節で「真理」を自称されたが、プロテスタントの「改訳 新約聖書』(1917年)は「まこと」と平仮名を振り、旧約聖書で「まこと」と訳される語との関連を示唆する。嘘偽りや裏表がないこと、上っ面だけでなく内実を伴うこと、真心には真心で返されること等を意味している。

(注)別エントリー「試論:まこと(真、実、信、誠)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16274

ヨハネ福音書は「永遠の命」「信じる」を多用する。ただし「何をすれば永遠の命を得られるか」の具体例はマタイ25章「最後の審判」とルカ10章「善きサマリア人の話」の箇所にあり、ルカ10章27節で主イエスは、「信じる」こととは「心・精神・力・思いを尽くし愛する」ことだとお教えになった。

主イエスはヨハネ14章6節で「真理」を自称されたが、プロテスタントの『改訳 新約聖書』(1917年)は、そこに「まこと」と平仮名を振り旧約聖書で「まこと」と訳される語との関連を示す。真理というと哲学的で近寄り難い印象を受けるが、主に帰せられる実際の諸徳は「真、実、信、誠」である。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書の『信じる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16417

試論:「モーセの両親と掟」を140文字以内で

【問】主イエス以前と以後では信仰の規範となる事柄は違うということですが、モーセの時もそうでしたか?
【答】モーセの父は、自身の「父の姉妹」(出エジプト6章20節)を妻にして、モーセが生まれました。ヘブライ人の「姉妹」は従姉妹も含みますが、この組み合わせの結婚をレビ18章は禁じます。

(注)別エントリー「イエスの『兄弟』『姉妹』:同胞か親戚か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1451

(注)別エントリー「試論:『旧約聖書とカトリック』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/22022

(注)別エントリー「試論:『豚肉食禁止の問題』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/22082

【追記】

【問】父の姉妹であれ従姉妹であれ、自分より一世代上の親族(同一氏族)の女性との結婚が禁じられたのは、なぜですか?
【答】氏族内の「長幼の序」の混乱や相続の際の混乱を避けるためと考えられますが、モーセ自身の両親の結婚を禁止する掟であり、この掟がモーセ自身の発案ではないという傍証です。

試論:「終わり」って何のこと?を140文字以内で

【問】使徒たちの手紙は「終わり」が迫っていると強調しますが、この「終わり」って一体、何のこと?
【答】旧約時代の終わりのことで、決して、新約時代の終わりではありません。キリストの到来と同時に旧約時代が完全に終わったわけではなく、それまでに約四十年間の過渡期、移行期間が存在しました。

(注)別エントリー「試論:旧約時代の終わりはいつ?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21657

【追記】

【問】キリスト教の始まりと同時に、モーセの律法も終わりましたか?
【答】律法の時代は「天地(=神殿の聖所。詩編78編69節)が消え失せるまで」(マタイ5章18節)、つまりエルサレム神殿が滅亡する紀元七〇年まで続きました。その間の約四十年間は、旧約から新約への過渡期、移行期間でした。

(注)別エントリー「試論:『旧約聖書とカトリック』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/22022

(注)別エントリー「試論:『豚肉食禁止の問題』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/22082

試論:マルコ1章22節を140文字以内で

マルコ1章22節でイエスの教えを聞いた人々は、権威ある者の「新しい教え」(同27節)だと驚いた。マタイ7章29節でも人々は同じく驚いたが、イエスが「わたしに対して『主よ、主よ』と言う者が〜」(同21節)と口にして、自身をモーセや他の預言者を超越する存在と位置付けていたからである。

【追記】

ネヘミヤ記の時代、当時の預言者たちが周辺異民族に買収されていた不祥事が発覚(同6章)後、ユダヤから預言者が姿を消し、改革を担った祭司エズラは預言者としてでなく書記官(律法学者)の立場で民を導いた。以後、福音書の時代まで、律法学者がモーセや他の預言者の言葉に基づいて民を教え導いた。

(注)別エントリー「試論:ネヘミヤ6章の『預言者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10531

(注)別エントリー「試論:『律法学者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11518

主イエスは「昔の人はこのように教えられたが、わたしは次のように言う」(マタイ5章21節〜22節)という物言いをなさったが、律法学者たちはこのような教え方をしなかった。主イエスの教えの極め付けは「他の人にしてもらいたいことはなんでも他の人にしなさい。これこそが律法と預言者」だった。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

ヨハネ7章45節以下で、イエスを取り逃したことに立腹した祭司長たちやファリサイ派の人々に対し守衛たちは「彼のように話した人は今までいませんでした」と答えた。マタイ7章28節以下「イエスの説教は終わったが、群衆は大いに驚かされた。御自分を権威ある者として、教えられたからであった」。

ある人々は「メシアが来る時どこから来るのかは誰も知らないはずだ」と主イエスに難癖を付けた(ヨハネ7章27節)。しかしこの件に関してはマタイ2章で祭司長たちや律法学者たちにヘロデ王がメシア出生の地について尋ねた際に、答えは示されている。ユダヤのベツレヘムはダビデ王家発祥の地だった。

マルコ1章22節「人々はイエスの教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者として仰せになったからである」同27節「これは一体どういうことだ。権威ある新しい教えだ」エレミヤ23章29節「わたしの言葉は火に似ていないか、岩を打ち砕く槌のようではないかと主は仰せになる」。

主イエスはルカ12章49節で神の御言葉を「火」にたとえられた(エレミヤ5章14節参照)。御言葉に繰り返し接することで人の心は火が金属を精錬する如く清くなり純度を高める(ゼカリヤ13章9節参照)が、この比喩は、申命記5章22節以下の故事からも古代のイスラエルの人々になじみ深かった。

主イエスはルカ12章49節で「わたしが来たのは地上に火を投ずるため」と仰せになられ、万軍の主の預言としてエレミヤ9章6節は「わたしは娘なるわが民を、火をもって熔かし、試す」と記すが、エレミヤ書では「主の御言葉」が随所(5章14節、20章9節、23章29節)で「火」にたとえられる。

試論:「手入れをする」を140文字以内で

主イエスはルカ6章40節でどうすれば弟子は師のようになれるか教えられた。ギリシア語本文の動詞はマルコ1章19節「〔網の〕手入れをする」と同じで「破れがないか全体を確認し、あれば修繕し、付着物を念入りに除去し、十分に洗い、現場で使い物になる完全な状態まで仕上げる」という意味である。

【追記】

主はヨハネ15章2節で「わたしにつながっていても実を結ばぬ枝は全て御父が取り除かれ、実を結ぶ枝は全て御父がさらに豊かに実るよう手入れをなさる」と仰せになった。ヤコブ3章でも17節と18節に「実」が登場し、知恵・純真・温和・優しさ・従順・憐れみ・義・平和が特徴であることを説明する。

主イエスはヨハネ15章2節で「わたしにつながっていても実を結ばぬ枝は全て御父が取り除かれるが、実を結ぶ枝は全て御父がさらに豊かに実るように手入れをなさる」と仰せになり、ガラテヤ5章22節以下でパウロは「実」の具体例を、愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・柔和・節制と列挙した。

シラ27章6節は「実を見れば木が手入れされているかどうか分かるように、人間が心の中で何を考えているかはその人の話を聞けば見えて来る」と説く。主イエスもルカ6章44節で「木はその結ぶ実によって分かる」と仰せになり、45節で「人間の口は、心からあふれ出ることを語る」と続けて語られた。

カインはアベルと違って献げ物となる作物を育てる際、手間暇をかけようとせず、ろくに手入れもせず、ただ自然に育ったがままの状態のものを献げた。それでいて神に目を留められなかったことで激怒し、そうなった理由を反省せず弟の意見を参考にしようとせず両親にも相談せず、神に質問すらしなかった。

試論:「エジプト」「バビロン」を140文字以内で

出エジプトから数百年経ても、「旧約の民」の神への背信の度合いが第一神殿滅亡前にピークに達した時、エゼキエル書はエジプトの名前を出して非難した。バビロン捕囚から数百年経ても、第二神殿滅亡前に「旧約の民」の淫行つまり背信がピークに達した時、黙示録がバビロンの名前を出すのは当然である。

【追記】

古代のイスラエルでは「神」と「神の民」との関係がしばしば「花婿」と「花嫁」と表現された。しばしば「女王」にもたとえられる都が「花婿」キリストを歓呼と共に迎え入れながら、数日後に裏切り、夜中に急襲して捕らえ一日のうちに死に至らしめたその行状から、「大淫婦」と呼ばれるのは当然である。

(注)別エントリー「試論:『大淫婦』の正体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15895

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

主はルカ21章22節でエルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると仰せになり、既にそれは紀元七〇年に現実となった。現代の世界情勢を安易に旧約聖書の預言に関連付ける発想は主イエスの仰せには合致しておらず、疑う余地なくこの発想はキリスト教的でなくキリスト教の外部に由来する。

(注)別エントリー「試論:非キリスト教的な預言解釈を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21066

試論:「聖書と現代の中東情勢」を140文字以内で

【問】聖書を知れば、現代の中東情勢を読み解けますか?
【答】いいえ。現代の中東はイスラム教を抜きには語れませんが、十二使徒のうち最も長生きしたヨハネが亡くなったのが一世紀の終わり頃で、それから五百年以上後の七世紀にイスラム教が誕生し、アラビア半島から中東全域へと勢力を拡大しました。

【追記】

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

【問】エゼキエル38章「マゴグのゴグ」預言をもって、これは「世界最終戦争」の預言だと主張する人々がいます。
【答】13節では、ゴグのイスラエル侵攻の目的として、「家畜」などの「財産」や「戦利品」の略奪が挙げられています。家畜の略奪目的の戦争が、「世界最終戦争」であるわけがないです。

(注)別エントリー「試論:エゼキエル戦争を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4921

(注)別エントリー「予備的考察:いわゆる『エゼキエル戦争』【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15520

主はルカ21章22節でエルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると仰せになり、既にそれは紀元七〇年に現実となった。現代の世界情勢を安易に旧約聖書の預言に関連付ける発想は主イエスの仰せには合致しておらず、疑う余地なくこの発想はキリスト教的でなくキリスト教の外部に由来する。

(注)別エントリー「試論:非キリスト教的な預言解釈を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21066

試論:「どんな国の人でも」を140文字以内で

使徒言行録10章35節「どんな国の人であれ、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられる」コヘレト8章12節「神を畏れる人は、畏れているからこそ幸福になる」箴言8章13節「主を畏れることとは、悪を憎むこと。高慢・驕り・悪の道・暴言を吐く口をわたし(知恵。12節)は、憎む」。

【追記】

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは道」と仰せになり、「わたしを通らなければ、誰であれ御父には到達できない」と続けられた。パウロはエフェソ2章14節でユダヤ人と異邦人をこの点において隔てる壁はないと記し、ローマ10章12節でも「ユダヤ人とギリシア人の区別はない」と明言している。

主イエスの御前でユダヤ人と異邦人の「区別」が存在しないことはエフェソ2章14節以下、使徒言行録15章9節「わたしたちと彼らの間に何の差別もなさいません」、ローマ3章29節「神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもあります」、一コリント12章13節、ガラテヤ3章28節以下等。

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは道」と仰せになり、「わたしを通らなければ、誰であれ御父には到達できない」と続けられ、また御昇天前にマタイ28章19節で「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じられた。パウロもローマ10章12節で「ユダヤ人とギリシア人の区別はない」と説く。

(注)別エントリー「『御父である神』に結ばれていない人々」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17900

試論:「豚肉食禁止の問題」を140文字以内で

モーセの律法では豚は汚(けが)れた存在で豚肉食は禁忌だったが、ペトロへの使徒言行録10章の啓示で豚肉食は問題ないとされた。後からペトロ自身が豚肉食に対する態度を曖昧にしたため、パウロが僭越ながらとペトロを叱った(ガラテヤ2章)。使徒言行録15章で豚肉食は問題ないとの結論に至った。

(注)別エントリー「試論:『旧約聖書とカトリック』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/22022

【追記】

使徒言行録13章2節以下は、かつて迫害者であったサウロが聖霊による選び出しによって重要な任務を与えられ派遣されたと記す。これ以降サウロはパウロと呼ばれるようになるが「パウロ」という、この名前の由来は、一コリント15章9節で自称する通り、〔使徒たちの中でもいちばん〕小さな者である。

使徒言行録13章2節以下「彼らが断食し主を礼拝していると聖霊が彼らに告げた。『バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。前もって決めておいた任務に当たらせるために』。そこで彼らは二人の上に手を置いて出発させた」。以後、選び出された証しとしてサウロからパウロへ呼称が変わった。

(注)別エントリー「試論:『息を吹きかけられた』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9781

試論:娼婦の方が先に入る?を140文字以内で

主イエスがマタイ21章31節で「あなたたちよりも、徴税人や娼婦の方が先に神の国に入る」と仰せになった時、娼婦に関する限り古代のヘブライ人はこれを一笑に付すわけにはいかなかった。ヘブライ11章31節の通り、古代のヘブライ人は、エリコの娼婦ラハブを信仰の模範と見なしていたからである。

(注)別エントリー「試論:『母ラハブと息子ボアズ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19498

試論:イザヤ42章の捕らわれ人を140文字以内で

ルカ4章18節「主がわたしを遣わされたのは捕らわれ人に解放を告げるため」イザヤ58章6節「悪による束縛」ヨハネ8章32節「真理はあなたたちを自由にする(解放する)」同14章6節「わたしは真理である」ローマ6章18節「あなたたちは、罪の奴隷状態から解放され義に仕えるようになった」。

(注)別エントリー「試論:『義を行う人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13485

(注)別エントリー「ルカ4章18節『捕らわれ人に解放を』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21962

試論:「主役と前座」を140文字以内で

ルカ1章17節の通り、本来、洗礼者の役割とは、救い主が来られる前に当時のイスラエルの人々に心の準備をさせ場を温めておくことだった。自分の前に来られた救い主の御姿を見た洗礼者は、救い主が活動を始められる以上、自分は表舞台から身を引くべき時が来たのだと悟った(ヨハネ3章30節参照)。

【追記】

イザヤ62章5節は「神と神の民」の関係を「花婿と花嫁」の関係にたとえたが、ヨハネ3章29節で洗礼者が「花婿の介添人」を自称する場合、「花婿」が主イエス・キリストであるのは、いうまでもない。洗礼者は、「花婿」と「花嫁」を引き合わせるまでが自分の役割と心得て、30節の言葉を口にした。

(注)別エントリー「試論:『洗礼者は花婿の介添人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/22045

試論:「洗礼者は花婿の介添人」を140文字以内で

イザヤ62章5節は「神と神の民」の関係を「花婿と花嫁」の関係にたとえたが、ヨハネ3章29節で洗礼者が「花婿の介添人」を自称する場合、「花婿」が主イエス・キリストであるのは、いうまでもない。洗礼者は、「花婿」と「花嫁」を引き合わせるまでが自分の役割と心得て、30節の言葉を口にした。

【追記】

【問】マタイ11章で洗礼者が自分の弟子たちを主イエスの許に送った意図とは?
【答】洗礼者は己の使命を「花婿」と「花嫁」を引き合わせることと心得ていましたが、彼の弟子の一部はイエスの活動をライバル視していたため、彼は弟子たちに「しるしを行う方こそ従うべきメシア」と教えようとしました。

イザヤ62章5節はシオンの救いに関する文脈で神と神の民との関係を花婿と花嫁の関係にたとえエレミヤ33章11節はエルサレムの復興を「花婿と花嫁の声が聞こえるようになる」と預言したが、ならば、黙示録18章23節が「花婿と花嫁の声は聞かれない」と啓示した都も、やはり同じ都のはずである。

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

主イエスは使徒をお選びになる際に、既存の教派に属したことのない者か、属したことがあってもその流儀や特色に固執せず頭を切り替えた者を選んだ。例えば、初めこそ洗礼者の弟子だったが、洗礼者の言葉に従って主の弟子となり主に従うことこそが洗礼者にも忠実であることと割り切ったアンデレである。

(注)別エントリー「試論:『履物のひもを解く』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13454

主イエスはマタイ11章14節で、洗礼者ヨハネが預言者マラキのいうエリヤだと教えられたが、ヨハネ1章21節で洗礼者は一度それを否定した。当時の人々は最初にしるしで判断しようとした(マタイ12章38節)が、洗礼者にはエリヤと同じしるしを行う意図はない(ヨハネ10章41節)からである。

(注)別エントリー「試論:『履物を脱ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8620

洗礼者は何のしるしも行わなかった(ヨハネ10章41節)が、主は彼がエリヤだと仰せになった(マタイ11章14節)。洗礼者自身はエリヤであることを否定した(ヨハネ1章21節)が、人々から「天からのしるし」(列王上18章38節、マタイ16章)を求める声が起こらないようにするためだった。

(注)別エントリー「試論:もう一人の『エリヤ』??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10009

マルコ8章11節でファリサイ派の人々は主イエスを試そうと「天からのしるし」を求めたのに対し、主は「なぜ『時代のしるし』を悟ることができないのか」とマタイ16章3節で答えられた。「時代のしるし」とは、預言されていた救い主による癒し(イザヤ35章5節以下)と、主によるその実践である。

主イエスはパンを増やし四千人の群衆に食べ物を与えるという奇跡を行われた。類似の奇跡は列王下4章42節以下で「神の人」預言者エリシャも行っていた。主イエスの神の御独り子たる本領は「生まれつき目が見えなかった人の視力を回復させた」(ヨハネ9章32節、イザヤ35章5節)時に発揮された。

(注)別エントリー「試論:『救い主の識別』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13316

ルカ2章11節は「あなたたちのために救い主がお生まれになった」マタイ1章21節は「この子は自分の民を罪から救う」と記す。イザヤ35節4節以下は「敵(サタン)を撃ち悪を罰する神が来られ、あなたたちを救われる」と預言し、目や耳や足や言葉の不自由な人々の回復が神の到来の徴になると続く。

四福音書は主イエス・キリストによる病人の奇跡的な癒しをさまざまに記すが、理由はイザヤ35章4節以下で救い主の到来が預言されている通り、見分ける徴は目や耳や手足や言葉の不自由な人の奇跡的な治癒(6節。またヨハネ9章32節参照)であることが、既に数百年前から預言されていたからである。

主イエスはヨハネ5章39節で「あなた方は〔旧約〕聖書中に永遠の命が存在すると考え〔旧約〕聖書を研究するが、〔旧約〕聖書はわたしに関してあかししている」と仰せになり、御自分とは無関係の目的で〔旧約〕聖書を研究しても、本当に重要な真理には全く到達することができないと、お教えになった。

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

(注)別エントリー「試論:聖書研究の目的を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8447

試論:聖書と「煉獄」を140文字以内で

一ヨハネ5章16節は「死に至らない罪」と「死に至る罪」があると説く。主イエスはルカ12章58節以下で「死に至らない罪」の人が行く期限付きの「牢獄」の存在を示唆された。この牢獄は主なる神が条件を満たしたと判断なさった時、そこから解放される。カトリックでは、この牢獄を《煉獄》と呼ぶ。

(注)別エントリー「試論:二種類の罪と『永遠の命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9895

【追記】

マタイ12章32節は、主イエスの人間的属性だけを非難した者は赦されるが、主が聖霊によって悪霊を追い出したことを非難する者は赦されない、と記す。一ヨハネ5章16節以下も永遠の死に至る罪と死に至らない罪を分けて論じる。愛の掟に留まることを止める人(ヨハネ15章6節)が永遠の死に至る。

(注)別エントリー「試論:『ぶどうの木』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6605

(注)別エントリー「試論:『聖霊に対する冒涜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6715

マタイ18章「仲間を赦さない家来のたとえ」には「牢役人」が登場し、5章でも人間関係がこじれて和解に至らない人が行く「牢」が登場するが、ここは「火の地獄」(22節)とは別物として扱われる。この牢は代償を払い続けることにより最終的に出ることができるが、ここをカトリックでは煉獄と呼ぶ。

(注)別エントリー「試論:黙示録の火の池を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5376

試論:「仕えるため」を140文字以内で

【問】主イエスはなぜ「仕えられるためではなく仕えるため」と仰せになりましたか?
【答】弟子たちの足を洗うという行為を通して主イエスは実際に模範を示され、「わたしが愛したように互いに愛し合いなさい」と仰せになり、「愛とか抽象的過ぎて意味が分からない」と言い訳できないようにされました。

試論:主イエスと「重い皮膚病」を140文字以内で

主イエスはルカ5章12節以下で「重い皮膚病」を患っている人を癒やされたが、モーセの律法では、その人は隔離対象(レビ13章46節)で、主が彼をすぐ立ち去らせようとされたり沈黙を命じたりされた理由は、誰かが「彼に触れたのならばイエスも汚れの状態だ」と言い出さないようにするためだった。

【追記】

主イエスは重い皮膚病の人をいやされた後、その人に何も話さないようにと仰せになった。しかし奇跡的な治癒は見た目に一目瞭然である以上、その人が完全に沈黙を守り続けることは至難の業であり、主イエスも「あれほど話さぬように言っておいたのに、あなたはそれにそむいた」とは非難なさらなかった。

(注)別エントリー「試論:主イエス・キリストの恵みを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8614

試論:「旧約聖書とカトリック」を140文字以内で

【問】カトリックが近代まで一般信者に旧約聖書を読ませることに消極的だったのはなぜですか?
【答】主イエスが世に来られる前と後とでは信仰の規範となる事柄が違っているのに、十分それを理解せぬまま「旧約聖書に書かれていることなら全て正しい」と真似を始めるうっかり者が出るのを防ぐためです。

【追記】

【問】では、旧約聖書に書かれていることで現代のキリスト信者が真似しなくてもいいこととは何ですか?
【答】例えば一夫多妻制、豚肉食禁止、割礼、エルサレム神殿の建設、十分の一の献(ささ)げ物やいけにえ、預言者への従順、〔日曜日の方ではなく〕土曜日(旧約の安息日)を尊重すること、等です。

(注)別エントリー「試論:『安息日と主日との違い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12017

(注)別エントリー「試論:『土曜と日曜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12677

【問】旧約の「十分の一の献げ物」の替わりが現代の「十分の一献金」ですか?
【答】いいえ。ヘブライ10章5節以下は、旧約時代の全てのいけにえや献げ物の類に替わるものとして主イエス・キリストが御自分の体を十字架上で献げられたと教えます。「十分の一献金」は蛇の絵に足を描くような行為です。

(注)別エントリー「試論:『十分の一献金』の問題点を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12207

旧約時代には申命記18章15節以下の律法の通り、神が立てられた預言者には聞き従わなければならなかった。しかし使徒言行録21章でパウロは、アガボやフィリポの四人の娘など「預言」を行う人々の制止を振り切り、エルサレムへと出発した。新約時代には旧約時代と同じ立場の預言者など存在しない。

旧約の律法では王や大祭司も預言者に従う定めがあったがダニエル9章24節は「預言を封印するメシア」を預言し、ルカ21章22節の主の御言葉と紀元七〇年のエルサレム滅亡で、その預言は成就した。その後も当然「私的啓示」は続くが、決してそれらを旧約時代の「預言」と同じ扱いにしてはならない。

(注)別エントリー「試論:旧約時代の終わりはいつ?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21657

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

ルカ21章22節には「書かれていること」という言い回しが用いられているが、これはヨシュア記1章8節と同様に、「預言された事柄」「神から啓示された内容」などを意味する表現である。古代においては「書く(書いて記録に残しておく)」という行為それ自体が、非常に重要な意味を持つものだった。

試論:イサクの信仰を140文字以内で

【問】イサクは妻リベカとの一夫一妻制の結婚を大切にしましたが、他にも信仰の模範となる事柄はありましたか?
【答】彼は幼い頃に、生贄にされそうになった経験があり、後年そのことで神なる主を恨んだり父アブラハムを恨んだりはしませんでしたが、人身御供を行う慣習の民に嫌悪を抱き続けました。

(注)別エントリー「試論:イサクの美点を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17950

【追記】

【問】リベカが長男よりも次男に肩入れした理由は、何ですか?
【答】長男は両親に相談なく地元カナンの女性たちと結婚しました。カナンの人々には人身御供の慣習があり、リベカも人身御供への嫌悪を夫と共有していましたが、長男の獲物が好物のイサクは長男には少し甘く、妻はこの点では違っていました。

試論:真理(御父と御子と聖霊)を140文字以内で

一ヨハネ5章は20節で「神の御子が来られ、私たちに真理である方を知る力を与えられました。私たちは真理である方の内に、またその御子イエス・キリストの内にいるのです」と記し、「この方こそ真理である神、永遠の命」と続け、御父と御子と聖霊(6節)の御三方を「真理」と呼び、唯一の神とする。

【追記】

「真理(ギリシア語本文でアレテイア)とは何か」(ヨハネ18章38節)の答えをマルコ12章32節は「神は唯一で他に神はない」ことがアレテイアとし、主はこれを「適切な答え」とされた(34節)。ヨハネ14章6節「わたしこそが道、真理、命」10章30節「わたしと父とは唯一のものである」。

主はマタイ11章27節で、全てのことは御父から御自分に任せられていると仰せになった。これは、既にダニエル7章13節以下で啓示された事柄であり、マタイ28章18節やルカ10章22節やヨハネ3章35節や同13章3節等、福音書では事ある毎に強調される「真理(ヨハネ14章6節)」である。

《御父である神、主》と《御子である神、主イエス》とは、詩編110編1節では御父は「主」、御子は「わが主」でありマタイ22章44節で御父は「主」、御子はダビデの言う「わたしの主」である。ヨハネ1章1節では御父は「神」、御子は「言(ことば)」であり、「言は神であった」と記されている。

(注)別エントリー「試論:「わたしの主」は誰?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7536

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

試論:「主イエスと信者の関係」を140文字以内で

【問】主イエスは《完全な神》が《完全な人間》を担われたということですが、主イエスとは信者から見てどんな存在ですか?
【答】主は「わたしたちの父」(イザヤ63章16節)なので神としての主は「父」、人間イエスは「兄弟」(マタイ28章10節)つまり、「長兄」(ローマ8章29節参照)です。

(注)別エントリー「『完全な神』が『完全な人間』を担われた」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21196

(注)別エントリー「試論:神であり人であるキリストを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6725

【追記】

【問】人間イエスは、「人類の長子」ですか?
【答】新約時代においてはローマ5章12節以下の通り、主イエスは「第二のアダム」という位置付けであり、同8章29節は「御子が多くの兄弟の中で長子となられる」、コロサイ1章18節は「御子は最初の者、死者の中から最初に生まれた方」と表現します。

【問】コロサイ1章18節が御子を「死者の中から最初に生まれた者」と呼ぶ理由とは?
【答】御子は十字架の死の後、御自身の「復活の体」の創造の際に「新しい天・地・エルサレム」(イザヤ65章17節以下)も創造され、待ち続けていた旧約の義人たちにも「復活の体」を与えられ誕生させたからです。

(注)別エントリー「主の御復活とともに創造された事柄とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15917

【問】《神の御言葉》主イエスが人間になったとは、《神が人間を担われ(引き受けられ)た》と解釈すべきということですが、それでは、主イエスから見た人類とは、何になりますか?
【答】神の立場では「子」(マタイ9章2節)、人間の立場では(特に相手が信者なら)「兄弟」(同28章10節)です。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:主イエスと人類の関係を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21336

ヨハネ1章1節の「言(ことば)」、いわゆる《神の御言葉》とは、《御自分で御言葉をお話しになる神》、すなわち御子である神、主イエス・キリストを意味する。「言(ことば)は神とともにあった」とは、天地創造以前の初めから御子である神は御父である神とともに存在しておられたということである。

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

ヨハネ1章1節は主イエス・キリストを「言(ことば)」と呼び紹介する。これは《天使や預言者を介することなく、御自分で直接人々に御言葉をお話しになる神》を意味し、「イエス・キリストなんか本当は実在しなかった」と言い立てる人々に対しては、主が残された御言葉それ自体がその存在証明となる。

(注)別エントリー「試論:『主が求められるものは』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7932

ルカ4章18節「捕らわれ人に解放を」

主はルカ4章でイザヤの預言についてお話しされた。しかしルカ4章18節にある「視力の回復」は出典と考えられるイザヤ61章1節に存在しないのではないか(あるのは「束縛からの解放」)と、古くから度々問題視された。ただしイザヤ42章7節は「視力の回復」と「束縛からの解放」を同一に論じる。

ルカ4章18節「主がわたしを遣わされたのは捕らわれ人に解放を告げるため」イザヤ58章6節「悪による束縛」ヨハネ8章32節「真理はあなたたちを自由にする(解放する)」同14章6節「わたしは真理である」ローマ6章18節「あなたたちは、罪の奴隷状態から解放され義に仕えるようになった」。

(注)別エントリー「試論:『義を行う人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13485

エフェソ4章8節は詩編68編19(18)節を踏まえ神は捕らわれ人たちを天に導くため賜物を授けると説く。主はイザヤ61章1節を踏まえ罪悪に捕らわれた人を救う神が来るがそれは御自分だとルカ4章21節で示唆され、マルコ3章29節で聖霊の賜物を悪霊と呼ぶ冒涜は絶対に赦されないと説かれた。

エレミヤ10章10節は「主は真理の神」と記すがこの章では、自分では言葉を話せない偶像の神々と違い、イスラエルの神である主は御自ら、御言葉を発せられて真正な御教えを御自分の民にお話しになられる(申命記5章22節以下)という事柄を要約する表現として、「真理〔の神〕」が用いられている。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

イスラエルの神である主は御自分の民に対して御自ら御言葉を発せられて御教えをお話しになり(申命記5章22節以下)、それこそが自分で言葉を話せない偶像の神と最も異なるとして、主をエレミヤ10章10節は「真理の神」と呼ぶ。主イエスはピラトに御自分が何者か「真理」の表現で端的に示された。

主はヨハネ8章32節で「真理はあなたたちを自由にする(解放する)」と仰せになり、14章6節では真理とは御自分のことだと明言された。それが何からの解放かを、8章34節は「罪の奴隷〔状態〕」と記す。既にマタイ1章21節のヨセフの夢でも「この子は自分の民を罪から救う」と説明されている。

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

「道」とは全ての人が生きる上で辿るべき道筋(道理・規範)でイエスがその模範であること、「真理」とは人が信仰・礼拝すべき三位一体の唯一の神を指し御父・御子・聖霊の間に矛盾がないこと、「命」とは幸福・安堵・充足等の人を生かすものの全てで人間にそれを授ける源は唯一の神ということを指す。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

主なる神がシナイ山でモーセに多くの戒めや掟をお授けになっている間、民は金の子牛の像を造りこれを自分たちの新しい神とし、勝手なふるまいをしたが、モーセは怒って掟の板を投げつけた。人々は神からの恩恵だけ望んで戒めや掟には目もくれないが、実は主からの戒めや掟こそが恩恵だとは気付かない。

「真理(ギリシア語本文でアレテイア)とは何か」(ヨハネ18章38節)の答えをマルコ12章32節は「神は唯一で他に神はない」ことがアレテイアとし、主はこれを「適切な答え」とされた(34節)。ヨハネ14章6節「わたしこそが道、真理、命」10章30節「わたしと父とは唯一のものである」。

(注)別エントリー「試論:『御父と御子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7544

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

(注)別エントリー「試論:ヨハネ14章6節の『道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9342

一ヨハネ5章は20節で「神の御子が来られ、私たちに真理である方を知る力を与えられました。私たちは真理である方の内に、またその御子イエス・キリストの内にいるのです」と記し、「この方こそ真理である神、永遠の命」と続け、御父と御子と聖霊(6節)の御三方を「真理」と呼び、唯一の神とする。

(注)別エントリー「試論:『御子に全て委ねられた』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7629

試論:キリストが求められることを140文字以内で

【問】キリストはパンを増やし湖の上を歩き病人をいやしたということですが、ではそのキリストは、御自分の弟子となった人々にも奇跡を行うことを要求されましたか?
【答】いいえ。キリストは預言や悪霊を追い出すことや奇跡ではなく、天の父の御心を行うことを要請されます(マタイ7章21節以下)。

【追記】

【問】では「天の父の御心」とは何ですか?
【答】「他の人からしてもらいたいことは全て、あなたから他の人にしなさい」(マタイ7章12節。一ヨハネ3章4節参照)のことで、一ヨハネ4章16節は「神は愛」「愛にとどまる人は神の内にとどまり、神も、その人の内にとどまってくださる」と説きます。

【問】一ヨハネ3章4節「罪とは、法に背くこと」の「法」って何?
【答】「法に背くこと」のギリシア語本文はアノミアで、この語は「ノモス(法)に反すること」の意味ですが、ノモスはマタイ7章12節では「律法」と訳され、「他の人にしてもらいたいことは全て、他の人にしなさい」を指しています。

(注)別エントリー「試論:一ヨハネ3章4節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21874

試論:一ヨハネ4章17節の意味を140文字以内で

【問】一ヨハネ4章17節に「愛がわたしたちの内に全うされるので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でイエスと似た者だからです」とありますが、実際どうすればいいの?
【答】マタイ6章12節「〔わたしたちの負い目をお赦しください。〕わたしたちも自分に負い目のある人を赦します」。

試論:湖の上を歩かれる主イエスを140文字以内で

【問】マルコ6章は主イエスに関して「パンを増やす」「湖の上を歩く」「病人をいやす」と奇跡の記述を続けますが、目的は何ですか?
【答】ヨハネ1章3節の通り、「言」主イエスは万物の創造主であるので、御自分が創造された全被造世界の自然法則を超えて行動することが可能だと、皆に示すためです。

【追記】

【問】主イエスが湖の上を歩かれる箇所ですが『マタイ』にあって『マルコ』にない記述があり、その逆もありますが、なぜですか?
【答】その場に居合わせた人々の誰が情報源かが異なるためで、『マルコ』はマルコを「わたしの子」(一ペトロ5章13節)とまで呼ぶペトロ、『マタイ』はマタイ自身です。

試論:「賛美の祈り」なぜ?を140文字以内で

【問】なぜ主イエスはマルコ6章の「パンの奇跡」の際に「賛美の祈り」(新共同訳)を唱えられましたか?
【答】「賛美の祈りを唱え」と訳されている箇所の原文の表現が古代ギリシア語訳創世記ではどこで用いられているか調べると、1章22節「神はそれらのものを祝福され〜」とあり、祝福のためです。

【追記】

【問】主イエスはなぜパンを増やす奇跡を行われたのですか?
【答】ヨハネ1章は《御子である神、主イエス》を「言」つまり《人々に御言葉を話される神》と呼びますが、3節では「万物は言によって成った」つまり主イエスこそ万物の創造主と説きます。パンの奇跡とは天地創造の部分的再現また継続です。

(注)別エントリー「試論:『初めに言があった』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21618

(注)別エントリー「試論:『パンの奇跡』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21897

《神は愛》

ヨハネは第一の手紙の4章で「神は愛」と二度(8節、16節)記し、また自分の福音書で「神は御独り子をお与えになったほど、世を愛された」と記す。御独り子である主イエスの《愛の掟》は「他人からしてもらいたいことをあなたから他人にしなさい。これが律法と預言者」(マタイ7章12節)である。

一ヨハネ4章8節、16節「神は愛です」同5章3節「神を愛することとは神の掟を守ることですが、神の掟は、荷が重いものではありません」マタイ7章12節「あなたたちは、自分が他人からしてもらいたいことならどんなことであれ、自分の方から他人にしなさい。これこそが律法であり預言者である」。

一コリント9章21節「わたしは神の律法を持たないわけではなくキリストの律法に従っている」ヨハネ13章34節「わたしがあなたたちを愛したように互いに愛し合いなさい」マタイ7章12節「人からしてもらいたいと思うことは、何であれ、あなたから人にしなさい。これこそが律法と預言者である」。

ガラテヤ6章2節「互いに重荷を担い合いなさい。それがキリストの律法を全うすることになる」ヨハネ13章34節「わたしがあなたたちを愛したように互いに愛し合いなさい」マタイ7章12節「人からしてもらいたいと思うことは何であれ、あなたから人にしなさい。これこそが、律法と預言者である」。

マタイ7章12節「人からしてもらいたいと思うことは何でもあなたたちから人にしなさい。これこそが律法と預言者である」ガラテヤ5章14節「律法全体は、隣人愛の掟の実行によって、全うされます」ローマ13章8節「人を愛する者は律法を全うしています」同10節「愛は律法を全うするものです」。

マタイ5章17節「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するため」同7章12節「人からしてもらいたいと思うことは何でも、あなたたちから人にしなさい。これこそが律法と預言者」ローマ13章9節「他にどんな掟があろうとも、隣人を自分のように愛することに要約されます」。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1982

主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちが他人からしてもらいたいと思うことは全て、あなたたちから他人にしなさい」と《愛の掟》を教えられて、「これこそ律法と預言者」と宣言された。これをパウロも「キリストの律法」(一コリント9章21節、ガラテヤ6章2節)と呼びモーセの律法と対比した。

箴言19章17節「困窮している人に親切であることは主に貸しを作っていることに等しく、主は必ず、あなたの善行に報いて下さる」ルカ6章35節「何も当てにせずに貸し、他人に親切であるならば、主からの報いはたくさんであり、いと高き方の子となる。いと高き方は恩知らずにも悪人にも情け深い」。

(注)別エントリー「試論:箴言19章17節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8522

(注)別エントリー「試論:行いを欠く信仰を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5360

最後の晩餐の際に主は、御自分の《愛の掟》においては隣人愛の実践をもって御自分への愛の実践とみなすと宣言された(ヨハネ14章21節等)。最後の審判では各自の行いに応じて裁かれる(黙示録20章13節、マタイ25章45節)ため、神からの赦しを得るには隣人を赦す以外ない(同6章12節)。

黙示録20章12節以下には、マタイ25章31節以下と同様に、「最後の審判」に関する記述が登場するが、そこでは全ての死者たちが各自の行いに応じて裁かれることが書かれており、「行いを伴わないならば、信仰はそれだけでは死んだものです」というヤコブ2章17節の記述とは完全に一致している。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

ルカ11章41節「器の中にある物を施せ」の「器」とは「土の器」「陶器」の比喩と同様、人間を指す。「器の中にある物」は人間に吹き込まれた「命の息」(創世記2章7節)つまり「霊魂」を意味する。イザヤ58章10節のヘブライ語原文「霊魂を注ぐ」は、「心を配る」(新共同訳)ことを意味する。

(注)別エントリー「試論:『土の器』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6902

(注)別エントリー「『土の器』(つちのうつは)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14324

古代のイスラエル人は、「困っている人に心を配る」(イザヤ58章10節)ことを表現する際には「霊魂を注ぐ」という言い回しを用いた。従ってルカ11章41節「器(=人間)の中にある物(=霊魂)を施せ」の意味は「揚げ足取りをいい加減に止めて、隣人に心を配ることだけを心掛けなさい」である。

箴言15章4節「赦しを与える言葉は命の木」にある通り旧約の民は、他者に幸福や安堵を与える事柄を「命」と表現し、主なる神から命の息を吹き込まれた人間は他者に幸福や安堵を与えることができる、という信念を持っていた。故に主はルカ11章41節で他者に幸福や安堵だけを与えるよう命じられた。

(注)別エントリー「試論:『主にとって赦しも癒し』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6013

(注)別エントリー「試論:詩編2編のメシアと鉄の杖を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11450

一人の律法学者は自分を「義化」(ルカ10章29節)しようとして(「義人」(マタイ1章19節)とするために)、隣人愛(ルカ10章27節)に関して、主に、踏み込んだ質問を行なった。主は、憐れみの心(33節)と「神の義」と隣人愛と永遠の命(25節)は事実上重なっているとお教えになった。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4544

主イエスの「善きサマリア人のたとえ」で、サマリア人は「傷に油とぶどう酒を注ぎ包帯をして、宿屋に連れて行って介抱した」(ルカ10章34節)。さらに、その後のことを宿屋の主人に依頼しておくのも忘れなかった。自分の手に負える範囲を超える際には他人の手を借りる方が良い場合も当然あり得る。

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちは、自分が他の人からしてほしいことを、自分から他の人にしなさい」と《愛の掟》を教えられた。従って「愛の反対」は「他の人からしてほしくないことをあえて他の人に行うこと」そして「他の人からしてほしいことをあえて他の人には行わないこと」からなる。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

試論:「パンの奇跡」の意味を140文字以内で

【問】主イエスはなぜパンを増やす奇跡を行われたのですか?
【答】ヨハネ1章は《御子である神、主イエス》を「言」つまり《人々に御言葉を話される神》と呼びますが、3節では「万物は言によって成った」つまり主イエスこそ万物の創造主と説きます。パンの奇跡とは天地創造の部分的再現また継続です。

(注)別エントリー「試論:『初めに言があった』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21618

【追記】

旧約の民は天地創造の七日目に主が休まれたことを記念し、週の七日目の土曜日を安息日とした。キリスト教では、主イエスの《復活の体》の創造つまり主の御復活が安息日の翌朝の出来事であることを記念し、土曜日の翌日の日曜日を《主の日》として信者が集うべき日と定め、パンの奇跡の再現の日とする。

(注)別エントリー「試論:『土曜と日曜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12677

主は山上の説教で「神の義に飢え渇く人は幸い。その人は満たされる」と仰せになった。その理由はヨハネ6章35節で説明される。「わたしは命のパンである。わたしの許に来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」同7章37節「渇く人は、わたしの許で飲みなさい」。

主イエスはマタイ6章で「主の祈り」を教えられた。11節「わたしたちの日ごとの糧」の「糧」とヨハネ6章35節の「わたしは命のパン」の「パン」とは原文のギリシア語では同じで、古代のギリシア語訳イザヤ55章10節「糧」も同じだが同節で「糧」は「主の御言葉」(ヨハネ1章1節参照)を指す。

エレミヤ5章14節は主の御言葉を「火」に喩え、これを踏まえられ主イエスはルカ12章49節で「わたしは地上に火を投ずる」と仰せになった。他方イザヤ55章10節は主の御言葉を「糧」に喩えるが、ならばマタイ6章11節「わたしたちの日ごとの糧」の「糧」も、やはり主の御言葉を暗示している。

(注)別エントリー「試論:『イエスの御言葉こそ糧』140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14841

ヨハネ6章27節「人の子は、あなたたちに永遠の命へと至る食べ物を与える」35節「わたしがその命のパンである」イザヤ55章2節〜3節「わたしに聞き従うならば、あなたたちは良いものを豊富に享受するだろう。あなたたちはわたしの許に来て、それに耳を傾けて聞き従い、魂に命を得させなさい」。

ヨハネ6章51節「わたしが与えるパンとは世を生かすための、わたしの肉のことである」同33節「神のパンは天から降(くだ)って来て世に命を与える」マルコ14章22節「これはわたしの体である」申命記8章3節「人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出る、全ての御言葉によって生きる」。

主はヨハネ6章27節で御自分の仰せになる《神の御言葉》を「永遠の命に至る食べ物」にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「永遠の命にあずかる」と「天の国を受け継ぐ」は同義だが、御言葉を日々味わうことによって人は天の国を受け継ぐにふさわしい存在へと少しずつ霊的に成長するからである。

ヨハネ6章27節「あなたたちは、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」32節「わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる」33節「神からのパンは、天から下って来て人間世界に命を与える」35節「わたしこそが、その命のパンである。わたしの許に来る者は、飢えることが決してない」。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』到来の目的を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10216

試論:「いやし」の意味を140文字以内で

【問】なぜ主イエスは、「いやし」の業をマタイ4章23節のように行われたのですか?
【答】それらの「しるし」を行うことによって、御自身こそが旧約聖書の預言者たちが語っている救い主であると人々に知らせるためで、洗礼者は「しるし」を行うことが一度もありませんでした(ヨハネ10章41節)。

【追記】

【問】マタイ4章24節「評判がシリア中に広まった」の「シリア」の範囲は?
【答】現在のシリアの領域のみならず現在のレバノン・イスラエル・ヨルダン・パレスチナ等をも含むエジプトとの境までの相当広い領域も、当時は広義の「シリア」に含まれユダヤをシリア総督が管轄している時期もありました。

使徒言行録5章12節「使徒たちの手によって多くのしるしと不思議な業が民衆の間で行われた」マタイ10章1節「イエスは十二人の弟子を呼び寄せられて、汚(けが)れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いを癒すための権能をお授けになった」同章8節「無償で与えられたのだから、無償で与えなさい」。

主イエスはマタイ10章で十二人を派遣される際、汚れた霊に対する権能に関し「ただで受けたのだからただで与えなさい」と仰せになり、取引の材料にしてはいけないと念を押された。使徒言行録8章で、魔術師シモンがこの権能を金(かね)で買おうとした際、ペトロは主の仰せを踏まえてシモンを叱った。

(注)別エントリー「試論:『息を吹きかけられる主』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14447

一ペトロ2章の冒頭では、霊的な成長とは悪意・偽り・偽善・ねたみ・悪口を捨て去ることと示唆し、使徒言行録8章では、魔術師シモンが聖霊のしるしを金で買おうとしてペトロに非難された。主イエスもマタイ7章22節以下で預言や奇跡や悪霊を追い出すことより悪を行わないことが重要と仰せになった。

(注)別エントリー「試論:『幼子のように』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11080

(注)別エントリー「試論:『主よ、主よ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5380

(注)別エントリー「試論:『預言よりも重要なこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11828

主イエスはマルコ4章26節以下の「種」のたとえで信仰の成長をお教えになったが、ヨハネ3章では同様の事柄をニコデモに別の表現で御説明され、同章8節は聖霊を「風」と表現する。同章とマルコ4章を比較すると、種が芽を出して日々ゆっくり成長するように聖霊は静かに働き続けると示唆されている。

聖パウロのガラテヤ書5章によれば、聖霊が働いている徴は愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・節制(22節〜23節)であり、聖霊が不在である徴は姦淫・わいせつ・好色・偶像礼拝・魔術・敵意・争い・そねみ・怒り・利己心・不和・仲間争い・ねたみ・泥酔・酒宴(19節〜21節)などである。

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを確実に識別できる基準」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4564

聖霊の七つの賜物という特別の恵みは、古代のギリシア語訳またラテン語訳のイザヤ書11章2節〜3節の記述に基づいており、

【1】知恵(上智)
【2】分別(識別)
【3】思慮(賢慮)
【4】剛毅(勇気)
【5】〔主に関する〕知識
【6】〔主に対する〕孝愛(信心)
【7】〔主に対する〕畏敬

などである。

(注)別エントリー「試論:聖霊降臨と聖母を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4990

パウロは一コリント14章33節で神は混乱(無秩序)の神ではないと記し、同30節で集会中に複数人が同時並行的に言葉を発することを禁じ37節で混乱は主の流儀ではないことを示唆した。ヨハネ17章11節等で主イエスが強く願われ使徒言行録4章32節で実現した、「一つ」に違反するからである。

(注)別エントリー「試論:『心も思いも』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10376

(注)別エントリー「試論:『混乱の神ではない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10363

主はヨハネ6章27節で御自分の仰せになる《神の御言葉》を「永遠の命に至る食べ物」にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「永遠の命にあずかる」と「天の国を受け継ぐ」は同義だが、御言葉を日々味わうことによって人は天の国を受け継ぐにふさわしい存在へと少しずつ霊的に成長するからである。

(注)別エントリー「試論:『パンと御言葉は不可分』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10226

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『主の祈り』と最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7047

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

一ペトロ2章の冒頭は「霊的な乳飲み子」について語っているが、ここでペトロは「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去る」ことを要請しており、当然ペトロは、あまりにも有名な「人から出て来るものこそ、人を汚す」で始まる、マルコ7章20節から23節の主の御言葉を念頭に置いて説明する。

試論:一ヨハネ3章4節を140文字以内で

【問】一ヨハネ3章4節「罪とは、法に背くこと」の「法」って何?
【答】「法に背くこと」のギリシア語本文はアノミアで、この語は「ノモス(法)に反すること」の意味ですが、ノモスはマタイ7章12節では「律法」と訳され、「他の人にしてもらいたいことは全て、他の人にしなさい」を指しています。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

【追記】

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちは、自分が他の人からしてほしいことを、自分から他の人にしなさい」と《愛の掟》を教えられた。従って「愛の反対」は「他の人からしてほしくないことをあえて他の人に行うこと」そして「他の人からしてほしいことをあえて他の人には行わないこと」からなる。

レビ19章18節は有名な隣人愛の掟を教えるが、その対極の行為として17節は兄弟を心の中で憎むことを禁じる。ゼカリヤ7章10節は互いに災いを心の中で企むこと、8章17節は互いに心の中で悪を企むことを禁じ、相手の困った顔・悲しむ顔・苦しむ顔を見たいという悪意を抱いてはならぬと戒める。

ローマ13章10節でパウロは「愛とは隣人に対して悪事を行わないことです」と断言している。これを踏まえるなら、隣人に対して悪事を行おうと企むことこそが愛の反対に該当する行為ということになる。同9節は「姦淫するな、殺すな、盗むな、貪るな(他人の物の横取りを企むな)」等を列挙している。

箴言26章19節は日本語で「悪乗り」と呼ばれる行為を戒め、「親しき仲にも礼儀あり」という事柄を想起させる(詩編15編3節参照)。箴言26章18節は「死の矢」という表現を用いるが、旧約聖書の「剣」と「矢」は《心に刺さる言葉》の比喩(詩編64編4(3)節等)で、隣人への暴言を戒める。

(注)別エントリー「試論:『言葉』と『心の傷』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8216

(注)別エントリー「試論:『言葉の刃』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8308

(注)別エントリー「試論:『火も剣も御言葉の比喩』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7812

レビ19章18節は「自分自身を愛するように隣人を愛する」という隣人愛を命じ、同章ではその隣人愛の対極にある様々な行為を禁じる。17節は「心の中で兄弟を憎んではならない」と悪意を秘めたまま隣人に接することを禁じて「出来心(ふざけただけ)」という言い訳も認めない(箴言26章19節)。

(注)別エントリー「レビ記19章17節:理由のない悪意」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4826

レビ19章18節は「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」17節は「心の中で兄弟を憎んではならない」ゼカリヤ7章9節は「互いにいたわり合い憐れみ深くありなさい」10節は「互いに災いを心にたくらんではならない」と教える。「心の中で憎む」とは相手の不幸を心の中で望むことを意味する。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1982

「愛の反対は無関心」という言葉は、これを聞き「善きサマリア人の話」(ルカ10章)や「最後の審判」(マタイ25章)をすぐ連想できる人にとっては、キリスト教的な意味を持つ。しかし、これらの箇所に思い至らず、それどころか福音書のどんなエピソードも浮かばない人にとっては、混乱の元となる。

(注)別エントリー「試論:『善きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

主イエスは隣人愛の掟を、最も重要な掟の第二と呼ばれた。レビ19章14節と申命記27章18節は、耳や目の不自由な人や道に迷って困っている人を笑い者にするなと教える。レビ19章17節は、以前に迷惑をかけられたわけでもない相手に対し、理由のない悪意を抱いた状態で接してはならぬと教える。

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9949

レビ記19章には18節に有名な隣人愛の掟があるが、それに先立つ箇所には隣人愛に反する様々な行為を禁じる掟が列挙される。14節では、耳の不自由な人がいる前でその人が聴こえないのをいいことに悪口を言う行為と、目の不自由な人が歩いて行く方向に障害物を置いて邪魔をする行為とが禁じられる。

主はマタイ18章6節以下で、無垢な信仰を持つ子供をつまずかせる者は不幸であり厳罰は必至だと示唆された。詩編37編23節以下は主が御旨にかなう道を人間のために準備され、また人間の手をとらえ歩みを定めておられると記す。子供をつまずかせる(御旨から外れさせる)行為は絶対に容認されない。

マタイ18章6節で主は「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて深い海に沈められる方がましである」と仰せになり、子供のような心で神を信じている人に悪を教え込もうとする者に対して、神がとりわけ厳しい罰をもって臨まれることを、主は宣言された。

主はヨハネ3章3節で「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることができない」と仰せになられた。エフェソ4章31節以下では無慈悲・憤り・怒り・わめき・そしりなどの全てを一切の悪意と共に捨てるよう勧め、互いに親切にし合い、憐れみの心で接し合い、またキリストにならい赦し合うよう勧める。

神の国に入るためには「神の義」が不可欠であることを主は「礼服」という比喩で御説明された。コロサイ3章では「着る」べきものは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛と挙げる。マタイ11章で主は「わたしは柔和で謙遜な者だから」(29節)「わたしの荷は軽い」(30節)などと仰せになった。

主はマタイ11章30節で、「わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽い」と仰せになった。主が人々に求められるものとは、「神の義(正義)」と言えばどこか厳格な響きがするが、実際に「神の義」を構成するのは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛などの事柄である(コロサイ3章)。

(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6748

主はマタイ11章30節で「わたしの荷は軽い」と仰せになったが、補足するように一ヨハネ5章3節では「神の掟は荷が重い(=難しい)ものではありません」と説明し、その前の部分では「神を愛することとは、すなわち神の掟を守ることです」として主がお定めになった「隣人愛の掟」にやはり言及する。

(注)別エントリー「試論:『新しい掟』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7016

マルコ12章の律法学者との対話において、主はレビ記19章18節の隣人愛の掟を、「最も重要な掟」の第二とされた。最後の晩餐の際(ヨハネ13章以下)、主イエスは隣人愛の掟を「新しい掟」「わたしの掟」としてあらためて授けられ、愛の掟を守ることこそが御自分の弟子である証しだと教えられた。

主イエス・キリストはマルコ12章における「最も重要な掟」の第一と第二とを統合され、ヨハネ13章34節で「新しい掟」そして「わたしの掟」(同14章15節)とされた。この掟は隣人愛の実践をもって、神への愛の実践とする(同節)。隣人愛の実行こそがキリストへの信仰をあかしするものとなる。

試論:キリスト教の主役は誰??を140文字以内で

一ヨハネ4章は信用してはならない人の特徴を、キリスト教を語っているようで実は世間に通じる話題だけで、主イエスが実際に教えられた福音書の御言葉を回避していることとした。キリストを棚上げしながら福音書以外の聖書の箇所を引用する目的は、キリストの代わりに自分自身が主役になるためである。

(注)別エントリー「試論:『招かれる』『選ばれる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8012

(注)別エントリー「試論:『神は誰を選ばれるのか』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8051

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

【追記】

一コリント3章11節は「既に据えられているイエス・キリストという土台を無視して他の土台を据えることは、誰にもできない」と記す。二テモテ4章3節以下は、やがて人々が「健全な教え」から離れ、自分に都合のいい話だけ聞いて真理(=主イエス)の言葉を無視し、作り話に引かれて行くと警告した。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:キリスト抜きのキリスト教を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6639

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは「天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神」主イエスを表す称号であり主が直接人々にお話しになった御言葉を記したものが福音書である。福音書を顧みず他のものばかりに目を奪われ続けるならばイエス・キリストがわからなくなる。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

箴言28章9節は、主が教えられた御言葉に耳を傾けないなら、いくら主に祈っても、主のおぼしめしには沿わないと教える。それだと、神を一方的に利用しようとしているだけで、全く信仰の名に値しない。主イエス・キリストが《神の御言葉》である以上、御教えを拒むことは神そのものを拒むのに等しい。

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

(注)別エントリー「試論:『主イエスを見失うこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5954

(注)別エントリー「試論:『主に聞き従うこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5685

マタイ22章14節「招かれる者は多く選ばれる者は少ない」の<選ばれない理由>をイザヤ65章12節は「呼んでも答えず、語りかけても聞かず、わたしの目に悪とされることを行い、わたしの喜ばないことを選んだからである」と記した。「笛を吹いたのに踊ってくれなかった」(マタイ11章17節)。

(注)別エントリー「試論:『神は誰を選ばれるのか』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8051

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

二テモテ3章でパウロは「終わりの時」の人々の姿を記した。自分本位で金銭を愛し、嘘をつき、神を畏れず嘲り、両親に従わず、恩知らずで、他人を侮り、情け容赦なく、強情で、中傷し、節度がなく、残酷で、善を行わず、裏切り、軽率かつ高慢、信仰を装いつつ実際は快楽を愛し、事実上は棄教している。

(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8105

(注)別エントリー「試論:二ペトロ2章の『偽教師』140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10808

主はヨハネ5章39節で、聖書とは御自分についてあかしするものであり、御自分を目的としない聖書研究には意味がない旨を仰せになった。これに関連し一ヨハネ4章も、主イエスに関する事柄についてなるべく触れようとしない自称信者を「偽預言者」「反キリストの霊」「人を惑わす霊」などと表現する。

(注)別エントリー「試論:『預言を封印するメシア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8347

(注)別エントリー「試論:聖書を研究する意味とは?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19381

ヨハネ5章39節〜40節「あなたたちは〔旧約〕聖書の中に永遠の命があると考えて、〔旧約〕聖書を研究する。しかし、〔旧約〕聖書とは、わたし(=主イエス・キリスト御自身)についての証しをするものである。それなのにあなたたちは〔永遠の〕命を得るためにわたしのところに来ることをしない」。

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の意義を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9840

(注)別エントリー「試論:旧約聖書を調べる意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6950

(注)別エントリー「試論:預言者も見たかったもの?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19262

試論:「一緒に住む」のはどこ?を140文字以内で

ヨハネ14章23節「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き〔天の国のわたしの父の家で〕一緒に住む」マタイ7章21節「わたしに向かい『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るのではない。天の父の御心を行う者だけが入る」。

【追記】

黙示録7章15節「彼らは神の玉座の御前にいて昼も夜も、その神殿で神に仕える。玉座に座っておられる方がこの者たちの上に幕屋を張られる」ヨハネ14章2節以下「わたしの父の家には住む所がたくさんある。わたしはそこに行って、あなたたちを迎える場所を準備し、そしてあなたたちとともにいる」。

(注)別エントリー「主の御復活とともに創造された事柄とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15917

試論:エフェソの教会とユダヤ人を140文字以内で

エフェソ3章6節は「異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となる」と記すが、この箇所は、パウロ自身とエフェソの教会の信徒たちの少なくとも大半が「異邦人」ではないということを前提としている。

【追記】

一ペトロ1章1節は、「離散」つまりステファノ殉教後の大迫害で散って行った(使徒言行録8章1節)エルサレム教会の信者の避難先としてアジア州を挙げる。主の御降誕の約四十年前カエサルは、ユダヤ人が固有の慣習を保持しながら不利なく市民生活を送れる権利を、エフェソ等の諸都市で保障していた。

ペトロは第一の手紙の冒頭で「離散して仮住まい」の人々に挨拶する。新約聖書で離散を意味するギリシア語は、ステファノ殉教後に信者たちがユダヤを追われて各地に追い散らされたことを意味する。主イエスのエルサレム滅亡の予告に従い信者の多くはユダヤへ戻らず各地で「からし種」の役割を果たした。

(注)別エントリー「試論:聖パウロの職業を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5146

(注)別エントリー「試論:テモテの割礼を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5097

主の御降誕の四十数年前カエサルはエジプト遠征で政敵ポンペイウスの勢力を打倒したが、かつてポンペイウスが聖所に侵入したことを恨んでいたユダヤ人の多くはカエサルに協力した。カエサルはユダヤ人に、エフェソを含む諸都市で安息日等の慣習を堅持したまま不利なく市民生活を送れる権利を確約した。

ローマの将軍ポンペイウスは神殿で大祭司しか入れぬ場所(レビ16章)に入り、ユダヤに衝撃が走った。ポンペイウスをカエサルが打倒し彼はユダヤ人に気前よく諸権利を与えたが、エジプトの女王を愛人としたことも含めて同胞から王様気取りだと疑われ、暗殺された。彼の死をユダヤ人は非常に悲しんだ。

紀元前63年ユダヤの内乱に介入して勝利したローマの将軍ポンペイウスは、エルサレムの神殿で大祭司しか入れない場所にまで入り、当時の異邦人には謎だったユダヤの神殿の実態が初めて知れ渡った。聖所に神像や神体の類は存在せず、机・純金の器・燭台・香料などがあった(出エジプト記25章以下)。

後半生のヨハネは伝承ではエフェソを拠点にしていたとされるが、エフェソの初代の監督(司教)はテモテ、二代目はオネシモだった。ペトロの後継者のローマの監督(司教)はリノス(二テモテ4章21節)だった。晩年のヨハネは裏方に徹したが、自分の死後に信者が四分五裂しないようにするためだった。

(注)別エントリー「試論:『長老のヨハネ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21459

試論:「救い主到来の時期」を140文字以内で

【問】なぜ救い主は暴君ヘロデの晩年に到来されたの?
【答】前王朝の重臣ヘロデが王位を奪い独裁者になって三十余年、古代ユダヤには権力志向の風潮が蔓延し、ヘロデの死後などは、彼の奴隷や無名の羊飼いの兄弟さえも王になろうと決起する有様でした。真の「ユダヤ人の王」はそんな中で生まれました。

(注)別エントリー「ダニエル書7章:地上に興る第四の王国」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4631

【追記】

聖家族がヘロデの追及を逃れてエジプトに避難した後、ヘロデ没後の混乱に乗じガリラヤのユダがローマの住民登録に対して大規模な反乱を起こした。ベツレヘムで住民登録に参加した聖家族は、ただそれだけで親ローマ派と見なされる危険があり、この反乱が鎮圧されるまでは故郷に戻ることができなかった。

使徒言行録5章37節は「ガリラヤのユダ」が反乱の指導者となり滅びたと記す。ヘロデ大王死後の混乱に乗じて勢力を拡大した彼は、ローマの住民登録への反対を掲げ、登録した者を親ローマ派と見なして敵視した。彼の滅亡を確かめた上で(マタイ2章20節)、聖家族はエジプトから帰還したはずである。

ヘロデ家(ユダヤ教に改宗したイドマヤ人)はハスモン家(元来は祭司族出身)から王位を奪ったが、両家ともダビデの子孫ではなく、ミカ書のメシアの条件とは違った。ヘロデ王やエルサレムの人々の不安は、東方の博士たちの言葉の意味を王位争いの新たな火種としか理解できなかったことに由来していた。

(注)別エントリー「試論:『なぜダビデの子なのか』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13127

(注)別エントリー「試論:ダビデ王家とガリラヤを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15011

試論:文字は殺し、霊は生かす?を140文字以内で

【問】二コリント3章6節「文字は殺し、霊は生かす」の意味は?
【答】「文字」とは、次の7節の「石に刻まれた文字」に象徴されるモーセの律法を指し、「霊」とは「生ける神の霊によって石の板ではなく人の心の板に記された」(3節)、「わたしの律法」(エレミヤ31章33節参照)を指しています。

【追記】

【問】では神なる主のエレミヤ31章33節の仰せ「わたしの律法」って何?
【答】主イエスのマタイ7章12節の仰せ「他の人からしてもらいたいことは全てあなたから他の人にしなさい。これこそ律法」。この仰せをパウロは一コリント9章21節とガラテヤ6章2節で「キリストの律法」と呼んでいます。

【問】「殺す」「生かす」ってどういうこと?
【答】キリストの律法の登場によってモーセの律法は意味を失い始めているのに、あえてモーセの律法に固執することは、「わたしは命」(ヨハネ14章6節)と仰せになった方に対して意識的に背を向けることに他ならず、永遠の命への道を自ら閉ざすからです。

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11494

(注)別エントリー「試論:旧約時代の終わりはいつ?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21657

試論:「救い主到来と都の反応」を140文字以内で

ヘロデ家(ユダヤ教に改宗したイドマヤ人)はハスモン家(元来は祭司族出身)から王位を奪ったが、両家ともダビデの子孫ではなく、ミカ書のメシアの条件とは違った。ヘロデ王やエルサレムの人々の不安は、東方の博士たちの言葉の意味を王位争いの新たな火種としか理解できなかったことに由来していた。

(注)別エントリー「試論:『なぜダビデの子なのか』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13127

(注)別エントリー「試論:ダビデ王家とガリラヤを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15011

【追記】

【問】羊飼いたちは救い主の誕生を聞いて喜び勇んで乳飲み子の場所を探し当てましたが、ヘロデ王やエルサレムの人々はなぜ同じ知らせを聞き不安を抱いたのですか?
【答】心の思い煩いや富の誘惑その他いろいろな欲望が心にあったからですが、マリア・ヨセフ・羊飼いたちなど心の清い人は神を見ました。

試論:聖霊とは無関係である徴候を140文字以内で

ガラテヤ5章で、聖霊の働きの徴(22節〜23節)は、

愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、節制

不在の徴(19節〜21節)は、

姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴

後者が顕著な人は確実に、聖霊とは無関係と言える。

試論:真似をする必要のない事柄を140文字以内で

【問】聖書はキリストを模範(ヨハネ13章15節等)と示すけど、全て真似する必要があるの?
【答】いいえ。倣うべきは「仕えられるのではなく、仕える」姿勢で、真似する必要のない事柄は例えば湖の上を歩く、唾で泥を作り目の見えない人を治す、聖霊を与えると称して息を吹きかけるなどの行為です。

【追記】

復活された主イエスはヨハネ20章22節で「聖霊を受けなさい」と仰せになり、弟子たち(使徒たち)へ息を吹きかけられた。この仕草は新約聖書では唯一ここだけで見られ、聖霊降臨の予告として行われた。聖書には祝福や権威の行使の象徴として一般的な、手を置く仕草があるが、それとは意義が異なる。

(注)別エントリー「試論:聖霊の働きの徴を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4984

(注)別エントリー「試論:『使徒パウロ』の誕生を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9844

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを識別する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14194

主イエスはヨハネ20章22節で「聖霊を受けなさい」と仰せになって、弟子たちに息を吹きかけられた(創世記2章7節参照)。《人は神の口から出る全ての事柄で生きる》を示されるために、主はあえて息を吹きかける仕草を行われた。新約聖書には、弟子が同じ仕草を行う場面は一度たりとも登場しない。

(注)別エントリー「試論:『命の息』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14285

ルカ11章41節「器の中にある物を施せ」の「器」とは「土の器」「陶器」の比喩と同様、人間を指す。「器の中にある物」は人間に吹き込まれた「命の息」(創世記2章7節)つまり「霊魂」を意味する。イザヤ58章10節のヘブライ語表現「霊魂を注ぐ」は、「心を配る」(新共同訳)ことを意味する。

(注)別エントリー「試論:『器の中にある物を施せ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11264

主イエスはマルコ7章と8章及びヨハネ9章で御自分の唾を用いた癒しを行われた。本来、侮辱を与える行為と強く関連する唾だが、《人は神の口から出る全ての事柄で生きる》を示されるため、主はあえて唾で癒しを行われた。従って預言者たちも使徒たちも主イエス以外の誰も唾を使う癒しを絶対行わない。

(注)別エントリー「試論:神であり人であるキリストを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6725

(注)別エントリー「試論:『神が人となるためには』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7830

(注)別エントリー「試論:『人となられても神は神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6877

主イエスは荒れ野で悪魔(サタン)から誘惑された際「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの御言葉で生きる」と答えられた。「神の御言葉」とはヨハネ1章1節の通り主イエス御自身の称号であり、人間を生かす者は「神の御言葉」及び「命」(同14章6節)を自称される方である。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

試論:ヨハネ1章29節「小羊」を140文字以内で

【問】「世の罪を取り除く神の小羊」って、何?
【答】主イエスが、
「多くの人の身代金として自分の命を献げるために」(マタイ20章28節)
「小羊のように、屠り場に引かれ」(イザヤ53章7節)
「民の背きのゆえに命ある者の地から断たれ」(同8節)
という定めを持つ者であることを示す称号です。

【追記】

ルツ4章7節によれば、古代イスラエルでは親族たちの責務の代行や委譲に際して、自分の履物を脱ぐ慣習があった。主イエスは多くの人の贖(あがな)い、つまり身代金(代価)となるために、世に来られた(マルコ10章45節)。以上の事柄を洗礼者は「履物」「神の小羊」「花婿」等の表現で示唆した。

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7514

(注)別エントリー「試論:世の罪を取り除く神の小羊を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6140

(注)別エントリー「試論:『花婿』って誰?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7265

(注)別エントリー「試論:『主イエスこそ真の花婿』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7379

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章27節『履物』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21748

試論:神を愛していない人の特徴を140文字以内で

【問】ある人が神様のことを本当に愛しているのか、それとも本当は愛していないのか、どうして判断できますか?
【答】主イエス御自身がヨハネ14章24節で「わたしを愛していない者は、わたしの言葉を守らない」と、お答えになっています。同15節「わたしを愛しているなら、わたしの言葉を守る」。

【追記】

ヨハネ14章の御言葉「わたしを愛する者はわたしの言葉を守る」(23節)「わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない」(24節)を無視し、福音書をできる限り調べようとせず主が人々の前に御姿を現されて実際に仰せになった御言葉から学ばないなら、いくら主を愛していると自称してもむなしい。

(注)別エントリー「試論:主イエスへの愛を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5453

(注)別エントリー「試論:神への愛を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5413

(注)別エントリー「試論:『神への愛と神からの愛』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5873

(注)別エントリー「試論:福音書からそれていくことを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6074

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

(注)別エントリー「試論:『主イエスを見失うこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5954

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

(注)別エントリー「試論:神を知ることを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5580

試論:「主の重荷」?を140文字以内で

エレミヤ23章33節以下は、「託宣」と「重荷」がヘブライ語で同じ「マッサ」であることから「神の御言葉と言っても自分たちにとっては、どうせ重荷でしかない」と人々の反応が冷たい時代について預言した。マタイ11章30節の主の仰せ「わたしの荷は軽い」は、エレミヤのこの預言を踏まえている。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

【追記】

【問】なぜ主イエスは「わたしの荷は軽い」と仰せになったの?
【答】ファリサイ派や律法学者たちは多数の掟から成るモーセの律法に加え、マルコ7章が「昔の人の言い伝え」と呼ぶ様々な決まりごとを人々に課しましたが、《キリストの律法》は「他人からしてもらいたいことを全て他人に行え」だけです。

【問】本当にそれだけなのですか?
【答】後に主イエスは弟子たちの足を洗われた後「今わたしが模範を示したように互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章34節)と仰せになりましたが、結局は、マタイ7章12節の《律法》が根底にあります。一ヨハネ5章3節「神の掟は荷が重いものではありません」。

【問】一ヨハネ2章4節「『神を知っている』と自称しながら神の掟を守らない者は、『偽り者』で、その人の内には『真理』がない」の、「神の掟」って何?
【答】同4章20節以下「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することなどできません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです」。

試論:「主の口」を140文字以内で

ヨハネ1章は主イエスを《人々に御言葉をお話しになる神》として言(ことば)と呼ぶ。エレミヤ23章16節も同様に救い主を「主の口」と呼び、彼と違うことを語る偽預言者たちの存在を預言した。主は敵に包囲されたら都を離れよと予告されたが、偽預言者たちは、神が介入されるので都に残れと説いた。

【追記】

ルカ21章20節以下で主は、「敵が都を包囲しようとする時は籠城すべきでなく都を離れよ」と警告された。約四十年後、ローマ軍が迫る都では「預言者」たちが、「神が都を救われるから都で待て」と説いたが、神の介入はなく都は滅亡した。この「預言者」たちの虚言を歴史家ヨセフスが書き残している。

(注)別エントリー「試論:黙示録18章を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5394

(注)別エントリー「試論:黙示録16章を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5086

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1699

ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは「御自分でお話しになる神」の意味で《天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神》主イエスを表す称号であり、直接お話しになった記録が福音書である。福音書を読まないことは主イエス・キリストを理解しようとしないことに等しい。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

(注)別エントリー「試論:反キリストの霊を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5217

(注)別エントリー「試論:聖書と私的啓示を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5319

(注)別エントリー「試論:預言解釈の基本を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5092

試論:「《神の義》と聖ヨセフ」を140文字以内で

【問】養父ヨセフは正しい人や義人と呼ばれますが、正義と聞くと厳格なようにも聞こえます。
【答】いいえ。主イエスは自分自身の《義化》(ルカ10章29節)を望む一人の律法学者に善きサマリア人の話をされましたが、ヨセフの「正義」とは善きサマリア人の行動そのもので、厳格さはそこに皆無です。

【追記】

【問】主イエスの養父ヨセフは正しい人(マタイ1章19節)と呼ばれますが、どうしてですか?
【答】箴言21章26節は「正しい人は惜しみなく与える」(フランシスコ会訳)と説きますが、特に古代ギリシア語訳では困窮している人に対する憐れみ・慈しみなどの点で「惜しみなく」、のニュアンスです。

(注)別エントリー「試論:ディカイオス(義人)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/20497

主イエスはマタイ21章32節で「義(ディカイオシュネー)の道」を自称された(二ペトロ2章21節、箴言8章20節参照)が、養父ヨセフをマタイ1章19節は義人(ディカイオス)と呼び天使が雲の上から落ちて来たような底抜けの大善人であると示唆する。その彼でさえ婚約者の妊娠は大試練だった。

(注)別エントリー「試論:『義の道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/20950

【問】婚約者の妊娠を知ったヨセフはなぜ「ひそかに縁を切ろう」としましたか?
【答】隣人の悪事の確証を握っている者は、それを告発しなければ処罰の対象でした(レビ5章1節)が、彼にとって妊娠と同様に彼女の貞潔も一目瞭然でした。十戒は偽証を禁じており大混乱の彼は身を引こうと決意しました。

(注)別エントリー「試論:『婚約者の妊娠』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21032

試論:「憐れみ深い人は幸い」?を140文字以内で

【問】なぜ「憐れみ深い人は幸い」ですか?
【答】詩編18編21(20)節以下にある通り、神なる主は優しい人に優しく厳しい人に厳しい方だからです。最後の審判の後も、他人に親切な人は自分と同じく他人に親切な人ばかりの世界に行き、意地悪な人は自分と同じく意地悪な人ばかりの世界に行きます。

試論:ヨハネ1章27節「履物」を140文字以内で

ルツ4章7節によれば、古代イスラエルでは親族たちの責務の代行や委譲に際して、自分の履物を脱ぐ慣習があった。主イエスは多くの人の贖(あがな)い、つまり身代金(代価)となるために、世に来られた(マルコ10章45節)。以上の事柄を洗礼者は「履物」「神の小羊」「花婿」等の表現で示唆した。

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7514

(注)別エントリー「試論:世の罪を取り除く神の小羊を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6140

(注)別エントリー「試論:『花婿』って誰?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7265

(注)別エントリー「試論:『主イエスこそ真の花婿』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7379

【追記】

ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。

ヨハネ1章14節は「神の御言葉(=主イエス)は肉(=人)となられ、わたしたちの間に宿られた(=住まわれた)」と記す。マタイ20章28節では主御自身が「仕えられるためではなく仕えるため」「多くの人の身代金(=あがない)として自分の命を献(ささ)げるために来た」と仰せになられている。

古代のヘブライ人は「肉」という言葉で、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけでなく、魂も含めた人間としての全体)」を表した。ヨハネ1章14節をこの観点で理解すれば、ニケア・コンスタンチノープル信条「おとめマリアよりからだを受け」の「からだ」は、人間としての全てを意味している。

ヨハネ19章は、ゴルゴタの主の十字架の傍らに聖母がおられたと記すが、聖母の内面がどのようであったかについては全く記述がない。しかしルカ2章35節はシメオンの預言として、「多くの人の心にある思い(34節の「逆らい」)があらわになるため、あなた自身も剣で心を刺しつらぬかれる」と記す。

(注)別エントリー「試論:『剣』と『言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7807

主はヨハネ14章27節で「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と仰せになった。ではどうやって主は御自分の平和をお与えになったのか、パウロがコロサイ1章20節で「その十字架の血によって」と答えを記した。

詩編49(48)編8(7)節は、神に対して人間が贖いの業を行うことはできないと記す。とはいえ神の御独り子が自ら人間となられて自分の「からだ」を「身代金」として贖いの業を行われた時の「からだ」は、マリアから受けたものだった。マリアは極めて特別な形でイエスの贖いの業に「参加」をした。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7795

試論:マリアの謙遜を140文字以内で

【問】マリアが「主のはしため」と謙遜したのはエバのような野心がないと意思表示したとのことですが、他に理由は?
【答】箴言11章2節は「知恵は謙遜に伴う」と説きイザヤ11章2節は聖霊の賜物の筆頭に知恵を挙げます。ルカ1章35節「聖霊があなたに降る」にマリアは謙遜で承諾を表明しました。

(注)別エントリー「試論:『知恵は熟慮と共に住む』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21356

(注)別エントリー「試論:『知恵』としての主イエスを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/20869

(注)別エントリー「試論:『知恵』を自称された理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/20999

【追記】

【問】なぜ受胎告知の際にマリアは、承諾の返答よりも先に「わたしは主のはしため」と再確認しましたか?
【答】マリアはそう前置きすることで、「わたしは神の御独り子の母となることを承諾しますが、決して『神のようになること』(創世記3章5節)を望むからではありません」と意思表示をしました。

【問】マリアは「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)と呼ばれる女性なのに、なぜ「主のはしため」と謙遜したのですか?
【答】もしも彼女が「自分は救い主の母だから息子と同じ扱いを受けたい」と思い上がったなら、神のようになりたいと思ってサタンにだまされた、エバの二の舞になるからです。

(注)別エントリー「試論:「わたしの主のお母さま」を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10221

試論:神の母聖マリアを140文字以内で

【問】なぜカトリックでは、「神の母聖マリア」を称えるの?
【答】救い主が生贄の小羊のように屠殺される定めと完全に理解しながらその母になることを承諾し、「主のお母さま」(ルカ1章43節)であっても「主のはしため」(同38節)と謙遜し続け贖い主と最も苦しい時間を一緒に過ごしたからです。

【追記】

彼女は国の中でも開拓の村の職人の妻で、旅先で一人息子を出産したが、客人扱いしてくれる場所はなく、家畜小屋として使われていた洞穴での出産だった。三十数年後に息子は、歓呼の裡に都へ入ったが、数日後には同じ都で生贄の小羊のように屠殺され、彼女は母親として、その傍らで息子の死を見届けた。

試論:「相続人」を140文字以内で

【問】ガラテヤ4章7節は信者たちを「相続人」と呼び、ローマ8章17節でも「相続人」が登場しますが、何を相続するの?
【答】永遠の命を受け継ぐことで、言い換えれば天国の福楽を指します。主イエスの「復活の体」と共に創造された「新しい天・地・エルサレム」で、御父や御子と共に住むことです。

(注)別エントリー「試論:『永遠の命の言葉を持つ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11244

(注)別エントリー「試論:『あなたの御国』『楽園』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/20218

(注)別エントリー「試論:新しい天・地・エルサレムを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16733

試論:「心の清い人は幸い」を140文字以内で

【問】羊飼いたちは救い主の誕生を聞いて喜び勇んで乳飲み子の場所を探し当てましたが、ヘロデ王やエルサレムの人々はなぜ同じ知らせを聞き不安を抱いたのですか?
【答】心の思い煩いや富の誘惑その他いろいろな欲望が心にあったからですが、マリア・ヨセフ・羊飼いたちなど心の清い人は神を見ました。

試論:「神の母」を140文字以内で

彼女は国の中でも開拓の村の職人の妻で、旅先で一人息子を出産したが、客人扱いしてくれる場所はなく、家畜小屋として使われていた洞穴での出産だった。三十数年後に息子は、歓呼の裡に都へ入ったが、数日後には同じ都で生贄の小羊のように屠殺され、彼女は母親として、その傍らで息子の死を見届けた。

【追記】

主の栄光に照らされ、主の天使から救い主の誕生を知らされ、天の大軍に圧倒された羊飼いたちは感激が冷めやらぬまま乳飲み子の居場所を探し当てた。彼女は事情を聞かされたが自分で主の栄光や主の天使や天の大軍の賛美を見ることはなかった。ただ彼女の産んだ子に比べれば、全ては比較にならなかった。

試論:「光」「まことの光」を140文字以内で

【問】ヨハネ1章が「言」である神、主イエスを、「光」「まことの光」と呼ぶ理由は?
【答】イザヤ58章9節以下の通り「他人を苦しめたり小馬鹿にしたり罵倒したりすることを止め飢えている人や苦しむ人に配慮する」者を、「あなたの光は闇の中に輝き出て、闇も真昼になる」と喜ばれる神だからです。

【追記】

主はマタイ5章14節で「あなたがたは世の光」ヨハネ8章12節で「わたしは世の光」「わたしに従う者は暗闇の中を歩まず命の光を持つ」と仰せになった。同1章4節は「御言葉のうちに命があり、命は人間を照らす光」と記す。イザヤ58章6節以下では隣人に心を配り助けを惜しまない人に、光が伴う。

(注)別エントリー「試論:イザヤ58章『真の断食』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14709

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『わたしは命である』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11586

(注)別エントリー「試論:『霊魂を注ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13590

福音書は、神からの賜物である御言葉を光にたとえ(ヨハネ1章4節)、またタラントンにたとえ(マタイ25章)、主イエスは御言葉を受けた人々を世の光と呼ばれた。穴を掘り一タラントンを埋めるしもべが主人の怒りを買った理由は、それにより御言葉が世に対して光り輝く機会を完全に奪うからである。

ヨハネ1章4節は「言(ことば)の内に命があり、命は人間を照らす光」と記す。これはヨブ33章27節以下「わたしは罪を犯し正義を曲げたが、すべきでなかった。神はわたしの魂を滅びから救われ、命を得てわたしは光を仰ぐ」を踏まえており、主が御言葉で人間の魂を滅びから救われることを宣言する。

詩編119編105節に「〔主よ〕あなたのことばはわたしの道の光」とあるが、「ことば」は神の御教えを指すのと同時に、ヨハネ1章1節では人々に御姿をお見せになり御教えを直にお話しになる主イエスの称号でもあり、主は御自分を同14章6節で「道」、同8章12節で「世の光」だと表現なさった。

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

(注)別エントリー「試論:ヨハネ14章6節の『道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9342

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

マタイ5章で主は、「あなたがたは世の光」(14節)、「あなたがたの光を、人々の前に輝かせなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(16節)と仰せになり、行いを伴わぬ信仰など役に立たない(ヤコブ2章14節)ことをお話しになった。

ヨハネ1章は主イエス・キリストを「言(ことば)」「命」「人間を照らす光」等と象徴的に表現したが、その光は人々が心に秘めた悪意(レビ19章17節)を、容赦なく明るみに出す(マタイ9章4節、同12章25節)。神は罰するべき者は罰せられた(出エジプト記34章7節、民数記12章10節)。

(注)別エントリー「民数記12章3節:モーセの人となり」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5051

(注)別エントリー「レビ記19章17節:理由のない悪意」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4826

ヤコブ2章17節「行いを伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」はマタイ7章26節の主イエス・キリストの御言葉「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」とは内容的には同じであり、いわゆる「信仰義認」の適不適を考える上では良い基準となる。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

試論:イザヤ9章の「永遠の父」を140文字以内で

イザヤ9章5(6)節は「みどりご」「男の子」として救い主の到来を預言し、その方を「永遠の父」と呼ぶ。旧約の民にとって神なる主は「わたしたちの父」(同63章16節)であり、その方は「初め」(ヨハネ1章1節)すなわち天地創造以前から既に、《御父》とともに存在されている方だからである。

(注)別エントリー「『完全な神』が『完全な人間』を担われた」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21196

(注)別エントリー「試論:『初めに言があった』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21618

【追記】

【問】ヨハネ1章1節の「言」(御子である神、主イエス)と「神」(御父である神)とは、旧約聖書にも登場しますか?
【答】ダニエル7章13節で御子は《「人の子」のような者》、御父は《日の老いたる者》として預言されています。この預言を踏まえられ主イエスは福音書で「人の子」を称されました。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888

(注)別エントリー「《御父》と《御子》との関係性」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21361

【問】主イエスは《完全な神》が《完全な人間》を担われた方ということですが、主イエスは信者から見てどんな存在ですか?
【答】主は「わたしたちの父」(イザヤ63章16節)なので神としての主は「父」、人間イエスは「兄弟」(マタイ28章10節)つまり、「長兄」(ローマ8章29節参照)です。

【問】《神の御言葉》主イエスが人間になったとは、《神が人間を担われ(引き受けられ)た》と解釈すべきということですが、それでは、主イエスから見た人類とは、何になりますか?
【答】神の立場では「子」(マタイ9章2節)、人間の立場では(特に相手が信者なら)「兄弟」(同28章10節)です。

試論:「まず他人を責める人々」を140文字以内で

主イエスはルカ18章の「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえで、神の御前に出た時に、人間は「まず他人を責める人」「まず自分を責める人」の二種類に分かれ、神は「まず自分を責める人」を「義」とされるが、「まず他人を責める人」については、そのようにはされることなどない、とお教えになった。

(注)別エントリー「ファリサイ派の人と徴税人」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5182

【追記】

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちは、自分が他の人からしてほしいことを、自分から他の人にしなさい」と《愛の掟》を教えられた。従って「愛の反対」は「他の人からしてほしくないことをあえて他の人に行うこと」そして「他の人からしてほしいことをあえて他の人には行わないこと」からなる。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

レビ19章18節は有名な隣人愛の掟を教えるが、その対極の行為として17節は兄弟を心の中で憎むことを禁じる。ゼカリヤ7章10節は互いに災いを心の中で企むこと、8章17節は互いに心の中で悪を企むことを禁じ、相手の困った顔・悲しむ顔・苦しむ顔を見たいという悪意を抱いてはならぬと戒める。

ローマ13章10節でパウロは「愛とは隣人に対して悪事を行わないことです」と断言している。これを踏まえるなら、隣人に対して悪事を行おうと企むことこそが愛の反対に該当する行為ということになる。同9節は「姦淫するな、殺すな、盗むな、貪るな(他人の物の横取りを企むな)」等を列挙している。

試論:旧約時代の終わりはいつ?を140文字以内で

【問】キリスト教の始まりと同時に、モーセの律法も終わりましたか?
【答】律法の時代は「天地(=神殿の聖所。詩編78編69節)が消え失せるまで」(マタイ5章18節)、つまりエルサレム神殿が滅亡する紀元七〇年まで続きました。その間の約四十年間は、旧約から新約への過渡期、移行期間でした。

【追記】

ルカ2章39節は「親子は、主の律法の定めを全て終えた」と記す。マリアとヨセフが「この子は神の御独り子で、イスラエルの民が長らく待ち望んでいた、救い主なのだから」と特別扱いを要求することなど全くなかったと、これで分かる。しかるべき時期が来るまで、救い主は普通の人間として過ごされた。

使徒言行録21章はエルサレムのユダヤ人キリスト教徒が、神殿に関連して「誓願」「清めの式」「頭をそる」「清めの期間」「供え物」等を実行していたと記すが、これは民数記6章のナジル人の誓願で、主の御受難から三十年近く経ってもユダヤ人キリスト教徒にとって、モーセの律法は、まだ生きていた。

ユダヤ人キリスト教徒がモーセの律法と訣別することになるのは、紀元六六年にユダヤ人がローマに大反乱を起こし、来襲したローマ軍にエルサレムが第一回目の包囲を受けた後である。ルカ21章20節「エルサレムが軍隊に包囲されたら滅亡が近いと悟れ」に従いユダヤ人キリスト教徒たちは都を退去した。

主イエスはマタイ24章15節以下で「憎むべき破壊者が聖なる場所に立つのを見たら、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい」と仰せになり、三十数年後、大祭司が惨殺された後に独裁者となったギスカラのヨハネは神殿の聖所に侵入し、配下の者たちは都で虐殺や略奪や婦女暴行など、暴虐の限りを尽くした。

主はマタイ5章18節で、全てのことが実現し天地が消え失せるまで律法の時代が続くことを仰せになった。ルカ21章22節では、エルサレム滅亡(20節)の日を「書かれていることが完全に実現する報復の日」と仰せになり、エルサレムと神殿の滅亡(紀元七〇年)で律法の時代が終わると宣言なさった。

「天地が消え去る」の「天」とは、神がお住まいになる場所と見なされたエルサレム神殿とりわけその聖所を指し、二ペトロ3章はその滅亡が近いことを説く。「地」はエゼキエル7章2節同様、イスラエルの地を指す。紀元七〇年にエルサレムと神殿は滅亡しユダヤ(イスラエル人の国家)も同じく消滅した。

二ペトロ3章10節は「主の日」において「天は激しい音を立てながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に熔解し尽くす」と予告した。数年後の紀元七〇年、神が住まわれると見なされて、「天」と同一視されていたエルサレムの神殿は、都の滅亡の際ローマ帝国軍によって火を放たれ、大音響と共に焼け滅びた。

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

ルカ21章22節には「書かれていること」という言い回しが用いられているが、これはヨシュア記1章8節と同様に、「預言された事柄」「神から啓示された内容」などを意味する表現である。古代においては「書く(書いて記録に残しておく)」という行為それ自体が、非常に重要な意味を持つものだった。

試論:「聖書とノストラダムス」を140文字以内で

旧約聖書の預言は第一義的に主イエス・キリストの到来及びその前後までの歴史的出来事をあかしするためのものであり、キリスト到来から約二千年後に生きる現代人が国際情勢を読み解くためのものではなく、その点では、旧約聖書の「預言」とノストラダムスの「予言」とでは意義も目的も全く違っている。

(注)別エントリー「試論:非キリスト教的な預言解釈を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21066

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

【追記】

ルカ24章のエマオでの御出現において主は、旧約聖書とは御自分について証しするものであり、実際その詳細について《全体》の説明を始めると、何時間あっても語り尽くせないことをお示しになった(27節)。主は以前にもユダヤの人々に対して同じ事柄をお話しになられていた(ヨハネ5章39節等)。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ5章46節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7208

試論:「初めに言があった」を140文字以内で

ヨハネ1章1節の「言(ことば)」いわゆる《神の御言葉》とは《御自分で御言葉をお話しになる神》つまり御子である神、主イエス・キリストを意味する。「言(ことば)は神とともにあった」とは、天地創造以前の「初め」から、御子である神は御父である神とともに存在しておられた、ということである。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

【追記】

イザヤ9章5(6)節は救い主が「みどりご」「男の子」として世に来られると預言するが、同節は救い主を「永遠の父」と呼ぶ。同63章16節は主を「わたしたちの父」と呼ぶが、ヨハネ1章1節「初めに言があった」とは、《救い主である御子は天地創造以前から御父とともに存在されていた》、である。

(注)別エントリー「『完全な神』が『完全な人間』を担われた」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21196

【問】主イエスは《完全な神》が《完全な人間》を担われた方ということですが、主イエスは信者から見てどんな存在ですか?
【答】主は「わたしたちの父」(イザヤ63章16節)なので神としての主は「父」、人間イエスは「兄弟」(マタイ28章10節)つまり、「長兄」(ローマ8章29節参照)です。

【問】《神の御言葉》主イエスが人間になったとは、《神が人間を担われ(引き受けられ)た》と解釈すべきということですが、それでは、主イエスから見た人類とは、何になりますか?
【答】神の立場では「子」(マタイ9章2節)、人間の立場では(特に相手が信者なら)「兄弟」(同28章10節)です。

試論:「世間との距離の取り方」を140文字以内で

一ヨハネ2章15節「あなたたちは世も世にあるものも愛してはならず、世を愛する人の内に御父への愛はない」ヨハネ18章36節「わたしの王国は、世に属していない」一コリント5章10節「世の人々と一切付き合ってはならぬという意味ではありません。でなければ世の中から出て行くしかないです」。

試論:「福音書こそ聖書の要諦」を140文字以内で

ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは「御自分でお話しになる神」の意味で《天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神》主イエスを表す称号であり、直接お話しになった記録が福音書である。福音書を読まないことは主イエス・キリストを理解しようとしないことに等しい。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

(注)別エントリー「試論:反キリストの霊を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5217

(注)別エントリー「試論:聖書と私的啓示を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5319

(注)別エントリー「試論:預言解釈の基本を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5092

【追記】

ヨハネ1章1節は主イエス・キリストを「言(ことば)」と呼び紹介する。これは「天使や預言者を介することなく、御自分で直接人々に御言葉をお話しになる神」を意味し、「イエス・キリストなんか本当は実在しなかった」と言い立てる人々に対しては、主が残された御言葉それ自体がその存在証明となる。

(注)別エントリー「試論:『主が求められるものは』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7932

試論:「贖(あがな)いと神性」を140文字以内で

詩編49編8(7)節は「人間は神に対し自分の兄弟についてさえ身代金を払うことはできない」すなわち贖いの業を代行はできないと歌う。従って主イエスが御自身に関して「多くの人の身代金として自分の命を献(ささ)げるために来た」と発言されることそれ自体が、御自身の神性を宣言する行為である。

試論:マリアとヨセフの人柄を140文字以内で

【問】マリアやヨセフはどんな人でしたか?
【答】主イエスはマタイ11章19節とルカ7章35節で「知恵」を称されました。箴言8章12節以下の「知恵」の言葉「熟慮と一緒に住み知識と慎重さも備える」「高慢・驕り・悪の道・暴言を吐く口をわたしは避ける」が、主と主の両親の人柄と考えられます。

(注)別エントリー「試論:『知恵は熟慮と共に住む』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21356

試論:一ヨハネ2章の「神の掟」を140文字以内で

【問】一ヨハネ2章4節「『神を知っている』と自称しながら神の掟を守らない者は、『偽り者』で、その人の内には『真理』がない」の、「神の掟」って何?
【答】同4章20節以下「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することなどできません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです」。

試論:「律法の定めを全て終え」を140文字以内で

ルカ2章39節は「親子は、主の律法の定めを全て終えた」と記す。マリアとヨセフが「この子は神の御独り子で、イスラエルの民が長らく待ち望んでいた、救い主なのだから」と特別扱いを要求することなど全くなかったと、これで分かる。しかるべき時期が来るまで、救い主は普通の人間として過ごされた。

試論:「神の右手」と「神の腕」を140文字以内で

【問】主の御降誕(日中)で詩編98編が歌われる理由は?
【答】1節は「神の右手」や「神の腕」を「救いの力」と呼びますが、人々を罪から救うために主イエスは人となられ(マタイ1章21節)、一コリント1章24節はキリストを「神の力」と呼びます。従ってキリストは《神の右手》《神の腕》です。

(注)別エントリー「《御父》と《御子》との関係性」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21361

【追記】

一コリントはキリストに関連する文脈で「神の力」という表現を三度用い(1章18節、24節、2章5節)、詩編118編15節と16節は「主の右の手は御力を示す」と歌う。また主御自身がマタイ11章19節で「知恵」を自称された上で「知恵の正しさは、その業によって証明される」と仰せになった。

(注)別エントリー「試論:『知恵』としての主イエスを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/20869

(注)別エントリー「試論:『知恵』を自称された理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/20999

俗世間ですら例えば「父親の事業を長男が右腕となって助ける」とはしばしば用いられる表現で、まして《御父である神、主》を《御子である神、主イエス・キリスト》が「腕」となり「右手」となって助け御計画を実現されるというのはなおさらである。御父と御子の間には矛盾・対立・齟齬の類は一切ない。

ニケア・コンスタンチノープル信条「父と一体」はヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」と38節に拠り、御父と御子の間には矛盾・対立・齟齬の類は一切ないことを表す。ギリシア神話では最高神ゼウスと父クロノス、クロノスと父ウーラノスの父子相剋が存在するが、キリスト教には全く存在しない。

主はヨハネ10章30節で「わたしと父とは一つ」と仰せになった後、17章では弟子たちのために天を仰いで祈られたが、それは御父と御自分が「一つ」であるように、弟子たちもまた「一つ」となるためであった(11節、21節〜23節)。使徒言行録4章32節「信じた人々の群れは心も思いも一つ」。

主はマタイ11章27節で、全てのことは御父から御自分に任せられていると仰せになった。これは、既にダニエル7章13節以下で啓示された事柄であり、マタイ28章18節やルカ10章22節やヨハネ3章35節や同13章3節等、福音書では事ある毎に強調される「真理(ヨハネ14章6節)」である。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書のアレテイアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15430

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

《御父である神、主》と《御子である神、主イエス》とは、詩編110編1節では御父は「主」、御子は「わが主」でありマルコ12章36節で御父は「主」、御子はダビデの言う「わたしの主」である。ヨハネ1章1節では御父は「神」、御子は「言(ことば)」であり、「言は神であった」と記されている。

(注)別エントリー「試論:「わたしの主」は誰?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7536

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

自分が掘った穴に落ちる人々

主はルカ17章1節で「つまずきは避けられないがそれをもたらす者は不幸だ」と仰せになった。レビ19章17節は悪意を抱いたまま隣人に接することを禁じ、箴言26章27節は他人を落とす穴を掘る者は自分がそこに落ちると記し、民数記12章でモーセに難癖をつけたミリアムは厳しく主に罰せられた。

(注)別エントリー「試論:『理由のない憎しみ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6468

(注)別エントリー「試論:『モーセの模範』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7466

(注)別エントリー「試論:『つまずき』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7363

古代のイスラエルでは悪巧みを思い付いて実行する者を戒める際、「他人を落とすための穴を掘る者は、自分がそこに落ちる」という言い回しを好んで用いた。箴言26章27節とコヘレト10章8節の他、ダビデも詩編9編で用い、7編でも悪人の典型的な仕草に挙げている。自分の悪巧みは必ず自分へ戻る。

「因果応報」という言葉があるように他宗教にも類似の考え方が存在するが決定的な違いは、聖書には「輪廻」「前世の因縁」などの概念は全く存在しないため、発端となった悪巧みを思い付いて実行する者とそれが回り回って自分のところに災いとなって戻って来て被害を蒙る者とは、全くの同一人物になる。

主イエスはマタイ7章12節で「あなたが他の人からしてもらいと思うことは何であっても他の人にあなたの方から行いなさい。これこそ律法と預言者〔の教え〕である」と仰せになり、御自分の御教えの核心とされた。パウロはこれを「キリストの律法」(一コリント9章21節、ガラテヤ6章2節)と呼ぶ。

旧約聖書では「良からぬ意図の下に穴を掘る」行為は、結局は自分自身の破滅を準備する象徴的な仕草と見なされた(詩編57編7(6)節)。詩編94編12節は「主よ、あなたに諭されあなたの律法を教えていただく人は幸い」と記し、13節では神に逆らう者の滅びの象徴として「穴」が言及されている。

詩編55編24(23)節の「滅びの穴」という表現の通り、旧約聖書では「穴」という存在自体が「滅び」の象徴とみなされた。エゼキエル19章4節と8節で「穴」というヘブライ語は「罠」を意味し、詩編7編16(15)節や9編16(15)節では、「穴」は自分自身を陥れる可能性も秘めると歌う。

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちは、自分が他の人からしてほしいことを、自分から他の人にしなさい」と《愛の掟》を教えられた。従って「愛の反対」は「他の人からしてほしくないことをあえて他の人に行うこと」そして「他の人からしてほしいことをあえて他の人には行わないこと」からなる。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

レビ19章18節は有名な隣人愛の掟を教えるが、その対極の行為として17節は兄弟を心の中で憎むことを禁じる。ゼカリヤ7章10節は互いに災いを心の中で企むこと、8章17節は互いに心の中で悪を企むことを禁じ、相手の困った顔・悲しむ顔・苦しむ顔を見たいという悪意を抱いてはならぬと戒める。

ローマ13章10節でパウロは「愛とは隣人に対して悪事を行わないことです」と断言している。これを踏まえるなら、隣人に対して悪事を行おうと企むことこそが愛の反対に該当する行為ということになる。同9節は「姦淫するな、殺すな、盗むな、貪るな(他人の物の横取りを企むな)」等を列挙している。

試論:ルカ2章35節を140文字以内で

古代のイスラエル人は《鋭く人間に迫り心に刺さる言葉〔の力〕》を「剣」にたとえた(詩編55編22(21)節等)。この比喩を踏まえ、主イエスも「剣をもたらすために来た」(マタイ10章34節)と仰せになり、ルカ2章35節でも母マリアにシメオンが、この比喩を用いて御受難について預言した。

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

【追記】

ヨハネ19章は、ゴルゴタの主の十字架の傍らに聖母がおられたと記すが、聖母の内面がどのようであったかについては全く記述がない。しかしルカ2章35節はシメオンの預言として、「多くの人の心にある思い(34節の「逆らい」)があらわになるため、あなた自身も剣で心を刺しつらぬかれる」と記す。

(注)別エントリー「試論:『神の母であること』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6079

ルカ2章に登場するシメオンは、幼子イエスを抱きながら、マリアとヨセフの前で「万民のために整えてくださった救い」「異邦人を照らす啓示の光」と 神を称えてイエスによってイザヤ9章1節の預言が成就することを語り、母マリアの苦しみ(ルカ2章35節)に関しても、シメオンは聖霊によって語った。

黙示録19章の白馬の騎手は「真実」(11節。ヨハネ3章33節参照)と呼ばれ、剣で戦われるが、この剣は口から放たれる(黙示録19章15節、同1章16節)。相手に鋭く迫り心に刺さる言葉をヘブライ人は剣に喩えた(詩編55編、ルカ2章35節)。マタイ10章34節「わたしは剣をもたらす」。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ3章の『真実』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16193

ヨハネ3章33節は主イエスを「真実(=真理である方)」と呼び、黙示録3章14節は主イエスを「アーメンである方」「誠実」「真実」等と呼ぶ。黙示録では19章11節の「白馬の騎手」が「誠実」「真実」と呼ばれ、同章13節は「神の御言葉」16節は「王の王、主の主」と、「白馬の騎手」を呼ぶ。

(注)別エントリー「試論:『アーメン』と『まこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16228

イザヤ49章2節はイエス・キリストを彷彿とさせる「主の僕(しもべ)」の姿に関し、「わたしの口を鋭い剣として」と預言し、50章4節ではさらに、「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え言葉を呼び覚ましてくださる」と続け、この「主の僕」が語る言葉を「鋭い剣」にたとえて預言をしている。

(注)別エントリー「試論:イザヤの預言と主の御受難を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6322

黙示録1章16節に「口から出る鋭い剣」という記述がある。一世紀後半のユダヤ人キリスト教徒は即座にイザヤ49章2節の類似の記述を連想し、「剣」が「言葉」(イザヤ50章4節)の比喩であると思い至ったはずである。安息日ごとに会堂で、必ずいずれかの預言書が朗読されることが定められていた。

主はマタイ10章34節で自分は剣をもたらすために来たと仰せになったが、剣は詩編55編22(21)節では「鋭く人間に迫り心に突き刺さる言葉」の比喩である。57編5(4)節や59編8(7)節も同様の比喩を用い、エフェソ6章17節では神の御言葉それ自体を「〔聖〕霊の剣」にたとえている。

(注)別エントリー「試論:『御言葉は剣(つるぎ)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6245

主はマタイ10章34節で、自分は「剣(つるぎ)」を投ずるために来たと仰せになった。剣とは分断(ルカ12章51節)を行う象徴で、この「分断」の究極の意味はマタイ25章32節以下で説明されている。剣を用いた争い事を主が奨励されたわけではないことは同26章52節の御言葉から当然である。

古代のヘブライ人は《鋭く人間に迫り心に突き刺さる言葉》を「剣」にたとえた(ルカ2章35節等)。ならば当然、黙示録1章7節「彼を突き刺した者ども」は、実際には、「彼に激越な言葉を浴びせ情け容赦ない悪口で攻撃した者ども」を意味する。同節「地」はエゼキエル7章2節「地」とは同様である。

主は「火」「剣」を人々にもたらすと仰せになったが、両者とも御言葉の比喩である。御言葉は心を燃やし(ルカ24章32節)心に刺さる(詩編55編22(21)節等参照。エフェソ6章17節)。黙示録も1章16節等で御言葉を剣に喩え11章5節では御言葉を火に喩えた(エレミヤ5章14節参照)。

(注)別エントリー「試論:『わたしは地上に火を〜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6048

旧約聖書では心に刺さる言葉の比喩として「剣」の他に、「矢」も登場する。この両者の違いは、「剣」は心に刺さるというニュアンス以外に分断をも意味し、一方の「矢」は同じ言葉でも「毒を含む言葉」(詩編64編4(3)節)を表現し、箴言26章18節「死の矢」のように実際の殺傷性の高さも表す。

試論:なぜマリアとヨセフに??を140文字以内で

レビ26章は主の掟と戒めに忠実だった場合の恵みとして「わたしはあなたたちのただ中に住まいを置く」(11節)と預言した。この節は明確にヨハネ1章14節「《神の御言葉》は人となり、わたしたちの内に住まわれた」に対応する。救い主は古代のイスラエルで神に最も忠実だった夫婦の家に来られた。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『神よあなたのことばは』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6358

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

(注)別エントリー「試論:『人間を照らす光』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7227

聖家族

主イエスは神であり続けながら人間の肉体と魂を担い(ヨハネ1章14節)、割礼から神殿税まで人間の義務も全て担われた。両親に従う義務も当然担われた(ルカ2章51節、マタイ20章28節)。人へ模範を示されるため主は人となられたのだから、主が母親を軽視されたと考えることは道理に合わない。

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9949

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『イエスは全人類の模範』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5948

イザヤ9章5(6)節は、神の御独り子である方が「みどりご」としてお生まれになることを預言する。ルカ11章28節の通り古代の人々は「救い主の母」となる女性の幸いをよく知っていた。しかしその重責と、「救い主の養父」となる男性の重責については、そこまで思い至る人は皆無にほぼ等しかった。

(注)別エントリー「試論:『女』と『竜』の対立を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12925

(注)別エントリー「創世記3章15節:蛇の頭を踏み砕く者は誰か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1488

主イエス・キリストが「聖」であることはキリスト教の信者ならば無条件に肯定できる。母マリアが主を胎内に宿すに相応しい女性であったことも想像に難くない。イエスとマリアに相応しい人物であり続けるために、ヨセフが生涯を通じてたゆまぬ努力を怠らなかったことこそ、「聖家族」の真の意味である。

人類の歴史上マリアとヨセフの二人以外の全ての人間はただ神に自分の身を守っていただくばかりだったが、マリアとヨセフの二人だけはむしろ自分たち自身こそが、具体的な日々の行動をもって神そのものであられる「自分たちの子」主イエスをお守りすることに、何年も何十年も日々、身も心も砕き続けた。

(注)別エントリー「試論:聖母マリアってどんな方?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5920

(注)別エントリー「予備的考察:聖母崇敬そして聖ヨセフ崇敬の起源とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1750

ガラテヤ5章では「聖霊の結ぶ実」として神の御独り子の母の内面に関連する《愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制》を説く。他方、コロサイ3章では「礼服」(マタイ22章)という比喩を踏まえ、「義人」ヨセフの「義」に関連する《憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛》を説く。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

(注)別エントリー「試論:マタイ22章『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6740

(注)別エントリー「聖家族はどのような雰囲気の中で暮らしていたのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5246

【問】カトリックでは、マリアとヨセフは一度も「ともに寝る」ことなく終生童貞であったと説きますが、二人はなぜそうしたのですか?【答】古代のイスラエルで最も重要な掟である申命記6章5節に鑑み、幼子だった主イエス・キリストの御養育を二人が最優先としたためです(ガラテヤ5章24節参照)。

(注)別エントリー「試論:『聖ヨセフの唯一の願い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7330

(注)別エントリー「試論:聖母と聖ヨセフの終生童貞を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6397

(注)別エントリー「聖母と聖ヨセフが終生童貞である理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4464

(注)別エントリー「イエスの『兄弟』『姉妹』:同胞か親戚か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1451

カトリックではナザレの聖家族は三人と教える。主の養父ヨセフは終生、息子と妻の望むことだけを行い、三人家族の三番目であるかのように振舞い後世の人々からもそう思われた。世の男性たちが子供たちや女性たちを平然と虐待する、毒々しい時代が来る時、ヨセフの存在は強力な解毒剤として働くだろう。

(注)別エントリー「試論:『永遠の命を得るには?』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11171

「神の家」で主に奉仕する女性が男性と「ともに寝る」ことは、主に対して罪を犯す悪事であった(サムエル記上2章22節〜25節)。それゆえに当然、真の意味での「神の家」である主イエスのお住まいの「主のはしため」(ルカ1章38節、48節)マリアは、夫ヨセフと「ともに寝る」ことがなかった。

(注)別エントリー「試論:『聖別』と聖母の終生童貞を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7939

旧約の民にとって神なる主は「わたしたちの父」(イザヤ63章16節)だが、救い主(8節)がお生まれになり(9章5(6)節)、民の「永遠の父」である方は「みどりご」として来られた。養父とはいえ人間が「父」となるなどヨセフにとって太陽が西から昇るどころではなかったが彼は責務を全うした。

(注)別エントリー「試論:『神の養父』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13347

現代において、建前上は幼子や女性の尊重が謳われる。しかし同時に、欲望の追求も無制限に肯定される風潮のため実際には幼子や女性が犠牲になる事件も後を絶たない。神は「義人」ヨセフの姿を通して、「神の義」とは幼子や女性を優先して自分を後回しにすることであると、全ての時代の人々に示された。

(注)別エントリー「試論:聖ヨセフの模範を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7243

ヨハネ12章25節は「この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命を得る」と主の仰せを記す。古代のヘブライ人は「〜を二の次にする」と言いたい時にも、「〜を憎む」という表現を用いた。主の養父ヨセフはヘロデが幼子の命を狙った時も、自分の命を二の次にして幼子と幼子の母を守り続けた。

(注)別エントリー「試論:最後の審判とディカイオスを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6704

主はマタイ6章33節で、まず神の国と神の義(ディカイオシュネー)を求めるよう教えられた。1章19節はヨセフを義人(ディカイオス)と呼ぶが、この語は神の義を体現する人を指す。相手が幼子や女性だからといって馬鹿にした態度を取る男性もいるが、その点、ヨセフに関しては心配する必要がない。

(注)別エントリー「聖ヨセフ:ディカイオスを旧約聖書で考察」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1613

(注)別エントリー「試論:『ディカイオス』聖ヨセフを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8497

マタイ福音書は後世への教訓に、最初の二つの章で主の養父ヨセフを模範として掲載した。ヨセフは忍耐強く、情け深く、自慢せず、高ぶらず、礼を失わず、自分の利益を求めず、恨みを抱かず、苛立たず、不義を喜ばず、真理を喜んだ。イエスとマリアのために、全てのことを忍び、確信し、待望し、耐えた。

マタイ1章19節は主の養父ヨセフを義人と呼び、エゼキエル18章6節では義人の条件の一つに生理中の女性に近づかないと挙げる。女性特有の心身の辛さに配慮し、女性に余分な負担を加えぬよう自分を律することができる男性こそ義人である。女性を蔑まずリスペクトの対象にできる男性こそ義人である。

マタイ1章19節は主の養父ヨセフを「正しい人(ディカイオス)」と表現する。25章の「最後の審判」におけるディカイオスは、隣人が何らかの助けを必要としている時に、必要とされている助けを提供して困り事を解決する人を指し、ヨセフはイエスとマリアが本当に必要としていることだけを実行した。

(注)別エントリー「試論:マリアとヨセフに倣う事柄を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7012

マリアの妊娠にヨセフが微塵でも不満を抱き続けていたなら、彼はエジプトに逃げる途中の荒れ野で、「預言者エリヤも任務を捨てて逃げたがそれでも天使はエリヤを励ました。あなたの産んだ子が神の子なら、天使があなたたちを助けてくれるはずだ」と母子を置き去りにしただろうが、彼はそうしなかった。

(注)別エントリー「試論:『義人は意地悪をしない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11980

(注)別エントリー「試論:預言者エリヤと義人ヨセフを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11055

(注)別エントリー「試論:エリヤとヨセフを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6005

(注)別エントリー「試論:『養父ヨセフこそ理想像』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11873

試論:マタイ2章23節を140文字以内で

マタイ2章23節の「彼はナザレの人と呼ばれる」に関して、これに対応する記述は旧約聖書にはないとよく指摘される。ただしマタイ福音書は最初にヘブライ語で書かれたと言われ、子音のみのヘブライ文字だと「ナザレの人」と「若枝」(イザヤ11章1節)と「番人」(同27章3節)は同じ表記になる。

(注)別エントリー「ナザレ人、若枝、番人」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/27

試論:「南の王」とユダヤ人を140文字以内で

ダニエル書が「南の王」と預言したエジプトのプトレマイオス王朝は、アレクサンドロス大王亡き後エジプトだけでなくユダヤをも領有した。バビロン捕囚からの帰還以降はエルサレムと周辺地域で二百年以上定住していたユダヤの人々は、人口増加が著しく、「南の王」はユダヤ人のエジプト移住を奨励した。

【追記】

エジプト移住を奨励した「南の王」は、自国内に住むユダヤ人にギリシア人と同等の権利を与えたため、ユダヤ人はモーセの時代のような苦しみを味わうことなくエジプトで平穏に生活することができた。福音書の時代には全世界でユダヤ人の人口が多い地域はユダヤ本土やガリラヤにエジプトが続く程だった。

古代ローマの将軍カエサルはエジプト遠征で政敵ポンペイウスを打倒し女王クレオパトラの愛をも勝ち得たが、かつてポンペイウスがエルサレム神殿の聖所に侵入したことを恨んでいたユダヤ人の多くはカエサルに協力した。カエサルはエフェソ等の諸都市でユダヤ人が不利なく市民生活を送る権利を保障した。

(注)別エントリー「試論:『クレオパトラとヘロデ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15063

ローマの将軍ポンペイウスは神殿で大祭司しか入れぬ場所(レビ16章)に入り、ユダヤに衝撃が走った。ポンペイウスをカエサルが打倒し彼はユダヤ人に気前よく諸権利を与えたが、エジプトの女王を愛人としたことも含めて同胞から王様気取りだと疑われ、暗殺された。彼の死をユダヤ人は非常に悲しんだ。

(注)別エントリー「試論:異邦人が見たユダヤの神殿を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5716

エジプトに滞在中の聖家族はユダヤ人の共同体の中で生活したと考えられるが、エジプトのユダヤ人はいわゆる「ギリシア語を話すユダヤ人」で、ヨセフとマリアは家庭内ではヘブライ語もしくはアラム語を使用したにせよ、他のユダヤ人たちとはギリシア語で会話しなければ、エジプト暮らしは困難であった。

イドマヤ出身の重臣の身ながら王家の内紛に乗じユダヤの王位を奪ったヘロデを、エジプトの女王はひどく忌み嫌った。ヘロデは女王がユダヤに立ち寄る際の謀殺を目論んだが成功してもローマの追及は必至と周囲に説得され断念した。女王と愛人アントニウスはローマの内戦で敗死し、ヘロデは事無きを得た。

(注)別エントリー「ダニエル書7章:地上に興る第四の王国」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4631

ヘロデ家(ユダヤ教に改宗したイドマヤ人)はハスモン家(元来は祭司族出身)から王位を奪ったが、両家ともダビデの子孫ではなく、ミカ書のメシアの条件とは違った。ヘロデ王やエルサレムの人々の不安は、東方の博士たちの言葉の意味を王位争いの新たな火種としか理解できなかったことに由来していた。

(注)別エントリー「試論:『なぜダビデの子なのか』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13127

(注)別エントリー「試論:ダビデ王家とガリラヤを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15011

古代のユダヤ人は王位に相応しいのはダビデの子孫と考えていた(サムエル下7章)。しかし紀元前二世紀に、ユダヤ独立の英雄ユダ・マカバイの一族(ハスモン家)が王位に即くようになると、ダビデの子孫の立場は微妙になりユダヤ人がガリラヤを征服した後、ある人々はガリラヤへと移住する道を選んだ。

(注)別エントリー「福音書の時代におけるガリラヤ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/2354

預言者イザヤの時代にサマリアが陥落後、アッシリアがガリラヤを占領し、住民は東方に連行され代わりに異邦人が住み着いた。六百年以上後(主の御降誕の約百年前)にユダ・マカバイの一族がガリラヤを征服した後、多数のユダヤ人がガリラヤに入植して異邦人の影響は一掃され主イエスの到来へと至った。

(注)別エントリー「主イエス・キリストがインマヌエルである理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1338

試論:「長老のヨハネ」を140文字以内で

十二使徒も次々に帰天して恐らく最後にヨハネ一人だけとなった時までに、彼は「使徒」の自称を控え自身への権威集中を避けたと推測され、後進が育って「監督(司教)」と「長老(司祭)」の時代に完全移行するよう促進するためか、彼は「監督」にさえならずに、単なる一人の「長老」として、帰天した。

【追記】

ペトロとパウロの死後に世界のキリスト信者から「最後に生き残っている使徒で主の愛弟子ヨハネこそ全世界のキリスト信者の代表にふさわしい」と声が上がったに違いない、と現代人は考える。世間的にはそれが正解だが、個人の絶対的カリスマに頼る組織は、カリスマが亡くなれば、そこで終わってしまう。

後半生のヨハネは伝承ではエフェソを拠点にしていたとされるが、エフェソの初代の監督(司教)はテモテ、二代目はオネシモだった。ペトロの後継者のローマの監督(司教)はリノス(二テモテ4章21節)だった。晩年のヨハネは裏方に徹したが、自分の死後に信者が四分五裂しないようにするためだった。

主の御受難の際、十字架を囲んで主の死を見届けたのは聖母マリア、クロパの妻マリア、ヨハネの母サロメ、マグダラのマリア、そしてヨハネだった。女性たちは「使徒などといっても肝心な時には逃げる意気地なしだから、私たちが代わります」とは言わずに、裏方に徹し続け、ヨハネも同様に裏方に回った。

福音書は主イエスの「兄弟姉妹」の存在を記すが、主は御受難の際、母を弟子ヨハネに託された。古代イスラエルでは師の死後その母の面倒を見るのは本来、弟子でなく遺族の責務である。ヨハネは自分の母を「母の姉妹」(ヨハネ19章25節)と記す。古代イスラエルで「兄弟姉妹」は親族全般を意味した。

(注)別エントリー「イエスの『兄弟』『姉妹』:同胞か親戚か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1451

主は御受難の際、ヨハネに母を託された。このことで聖母には主以外に子がないとわかるが、ルツ記のように「近くの他人より遠くの親戚」の聖書世界では愛弟子というだけで師の母親を引き取るのは不自然で、ヨハネの母が「母の姉妹」(ヨハネ19章25節)つまり聖母の親族である蓋然性は否定できない。

ヨハネは大祭司が自分の存在を認識していた(ヨハネ18章15節)と記す。大祭司がガリラヤの漁師の息子をなぜ、認識していたのか? 理由として可能性が大きいのは、ヨハネの母が聖母の母アンナやエリサベトと同様、祭司族出身の女性だったためと推定され、母方が祭司族という点で、皆が遠縁だった。

跡取りを産む前に夫に先立たれたルツは、申命記25章の規定に従って、亡夫マフロンの「兄弟」ボアズと再婚したが、このボアズはマフロンとは父も母も異なっていた。古代イスラエルにおける「兄弟」という概念が、父や母を同じくする同胞のみならず、広く親族全般を含んでいたことは、歴然としている。

ルツ記の主人公であるルツは、最初の夫マフロンとの間に跡取りを産む前に夫に先立たれ、のちに申命記25章の規定に従ってマフロンの「兄弟」ボアズと再婚したが、このボアズは亡夫マフロンとは父も母も異なっていた。マフロンの父はエリメレク、母はナオミで、ボアズの父はサルマ、母はラハブである。

(注)別エントリー「試論:『母ラハブと息子ボアズ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19498

主イエスを本当は愛してなどいない人々

主はヨハネ14章23節で、「わたしのことを愛している者なら、わたしの言葉を守るであろう。わたしの父はその人を愛され、父とわたしはその人のところへ行って一緒に住む」と教えられた。福音書の中の主の御言葉を気にも留めようとしないなら、本当は主を愛してなどいないと見なされても仕方がない。

(注)別エントリー「試論:『主の御言葉の権威』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9025

一コリント4章8節でパウロはコリントの人々に、《あなた方は教会を意のままに統治して誇っているが、どうかキリスト教の本分「罪と死の支配からの自由」を心がけ永遠の命に至るために日々怠らぬように。それならわれわれも福音宣教が実を結んだと主に認められて永遠の命に至るのに》等と書き送った。

(注)別エントリー「試論:一コリント4章の『王様』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12752

主イエスをヨハネ1章1節は「言(ことば)」つまり《人々の前に御姿を現され御自ら御教えをお話しになる神》と呼ぶ。主イエスに従う人々にとって「神の御言葉」とは、まず何より主イエス御自身の仰せである。聖書やキリスト教に関して話題にしても肝心の主イエスの御教えを避ける人々は眉唾物である。

一ヨハネ4章は、信者を自称しながら世間の事柄ばかり話題にして主イエスの福音の中身に関して頑に触れようとせず沈黙する人々を、「偽預言者」「反キリストの霊」などと呼ぶ。2章19節は「彼らはわたしたちから去って行った」「元々仲間ではなかった」「仲間ならとどまっていた」とその末路を記す。

二ペトロ2章は「偽教師」への警戒を呼びかける。彼らは「滅びをもたらす異端を持ち込み、主を拒む」(1節)、「欲が深く虚言で人々を食い物にする」(3節)、「厚かましく、わがまま」(10節)「昼間から歓楽にふけるのを愉しみとする」(13節)「無意味な大言壮語」(18節)等の特徴を持つ。

(注)別エントリー「試論:主イエスと旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7462

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4783

(注)別エントリー「試論:神の国の到来と『主の日』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5578

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の意義を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9840

(注)別エントリー「試論:携挙がない理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4703

(注)別エントリー「試論:『携挙』の否定を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6277

(注)別エントリー「試論:有人気球と『空中』の拡大を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10279

一ヨハネ4章2節とヨハネ1章14節を照合すると「惑わす霊」の特徴は、主イエスが公生活中に仰せになった「主の御言葉」の内容(掟や戒め)に頑として触れようとしない点で、キリスト不在のキリスト教と呼ぶべきものへと信仰を換骨奪胎し、信者を福音書の主の御言葉から遠ざけることこそ目的である。

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)である神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8969

主はルカ6章46節で「あなたたちはわたしのことを『主よ、主よ』と呼んでおきながらどうしてわたしの言うことを行わないのか」と仰せになった。さらに次節以下では「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞きながら聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている」とお教えになった。

ダニエル9章24節はメシアに関して預言の時代を封印する存在だと預言し、ルカ21章22節で主イエスは旧約聖書の全預言が(紀元七〇年の)エルサレム滅亡で成就すると仰せになった。故に現代や近未来の国際情勢と旧約聖書の預言は無関係で、関係ありとする強弁は、キリスト教の範疇を逸脱している。

ルカ17章34節から35節で主は「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」と繰り返されたが、では一体どこに「連れて行かれ」るのかを、ルカ21章24節では「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と御説明された。これは大昔モーセがレビ記26章33節以下で預言していた話と同じである。

紀元七〇年のエルサレム滅亡時にローマ軍へ投降したユダヤ人のうち、使徒言行録22章のパウロのようにローマの市民権を持つ者はローマ法の保護下にあるため留め置かれたが、そうでない者は妻子と共に奴隷とされて売り飛ばされた。こうして「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」は現実となった。

プロテスタントの文語訳聖書『改訳 新約聖書』(1917年)はルカ21章23節を「地(ち)には大(おほひ)なる艱難(なやみ)ありて、御怒(みいかり)この民(たみ)に臨(のぞ)み」と訳し、ある人々がいわゆる「大艱難時代」と呼ぶ時期とは実は紀元七〇年の滅亡の前後に他ならないと示唆する。

主はルカ21章23節でエルサレム滅亡とその前後のユダヤの苦難を予告されたが、『改訳 新約聖書』(1917年)では「大なる艱難」と日本語訳する。一世紀後半のユダヤの歴史家ヨセフスの記述通り、紀元六六年の大反乱の勃発から七三年のマサダ陥落までの七年間に、ユダヤは惨劇の連続を経験した。

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

ダニエル9章24節はメシアに関して預言の時代を封印する存在だと預言し、主イエスはルカ21章22節で旧約聖書の全預言が(紀元七〇年の)エルサレム滅亡で成就すると仰せになった。故に現代や近未来の国際情勢と旧約聖書の預言とは無関係で、関係ありとする解釈は主の仰せとは明確に相反している。

(注)別エントリー「試論:神の国の到来と『主の日』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5578

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

試論:ヨハネ20章8節を140文字以内で

ヨハネ20章8節「先に墓に着いた、もう一人の弟子も入って来て、見て、信じた」同2章19節以下「イエスは仰せになった。『この神殿を壊しなさい。三日で再び建つだろう』。イエスが仰せになった神殿とは御自分の体であった。イエスの御復活の後、弟子たちは仰せを思い出し、聖書と仰せを信じた」。

【追記】

主イエスはヨハネ2章19節で、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直して見せる」の御言葉を残された。同21節は、御自分の体を主イエスは神殿と呼ばれたと説明する。しかしマタイ26章61節にある通り、この時の主の仰せは、最高法院が主に死刑を宣告するに至る際、重大な意味を持つものだった。

(注)別エントリー「試論:福音書と『西遊記』の違いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5760

(注)別エントリー「イエス・キリストと天の雲」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/684

《体も家も自身にとっての住まい》(ヨブ4章19節参照)として「体」と「家」とを重ねるヘブライの世界観を踏まえ、主イエスは、《人となった神の子である自身の体》と《神の家=神殿》を重ね「三日で建て直して見せる」と宣言されたが、イエスを冒瀆者として葬り去ろうとした人々には通じなかった。

(注)別エントリー「試論:マタイ21章42節『家』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15057

主イエスはイザヤ28章16節や詩編118編22(21)節を踏まえて御自分を「隅の親石」と呼ばれた。ヨハネ2章17節の通り「家」は神の家つまり神殿を指す。「あなたたち民の指導者は神殿の拡張工事には熱心(同章20節「四十六年」)でも救い主を邪魔者扱いするが、わたしから救いは始まる」。

(注)別エントリー「聖書にはクリスマスの日付が載っていますか???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13267

ヨハネ2章17節は詩編69編10(9)節を引用し、

「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」

と記す。「あなたの家」は神殿を指し、「熱意が食い尽くす」もヘブライ語由来の表現で、

「あなたの家を思う熱意がわたしを突き動かす」
「わたしはあなたの家を思う熱意に駆られる」

の意味合いである。

(注)別エントリー「試論:『神殿で商人を追い出す』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10701

過越祭には過越の小羊が不可欠だった。祭のために世界中の遠方から都に集まる古代のユダヤ人は羊を連れて旅する代わりに羊を現地調達した。世界中のユダヤ人からも集められた神殿税は過越の小羊の準備にも当てられたが、それの度が過ぎて神殿の境内が家畜市場の様相を呈していた有様に主は憤られた。

(注)別エントリー「試論:『身代わりの羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9046

創世記の2章と3章では、人間は「土(塵)」に由来し「土(塵)」に還る存在とする。創世記の記述に基づきヨブ記4章19節は「人は塵の中に基を置く土の家に住む者」と記す。ここでは人間の体を「土の家」と表現し、古代のヘブライ人が「(人間の)体」と「家」とを重ねて考えていたことを示唆する。

(注)別エントリー「試論:『土』と『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9629

試論:「命の言」を140文字以内で

【問】一ヨハネ1章1節「命の言(いのちのことば)」って何のこと?
【答】「命」はヨハネ14章6節の通り主イエス・キリストを指し、「言」(ヨハネ1章1節)も《神の御言葉》、すなわち《天使や預言者を介してではなく直に人々に御教えをお話しになる神》で神の御独り子である主イエスを指します。

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

(注)別エントリー「《御父》と《御子》との関係性」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21361

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『福音に禅問答などない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11340

【追記】

【問】それでは、主イエスが自称された「命」とはどんな意味?
【答】申命記30章15節の通り、旧約の民は「命」という言葉で、幸福・安堵・充足等の人間を生かすものの全てを総称しましたが、ヨハネ14章6節で主イエスは、人間に「命」を授ける源は唯一の神すなわち御自分であると宣言されました。

(注)別エントリー「試論:『わたしは命である』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11586

(注)別エントリー「試論:『永遠の命の言葉を持つ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11244

(注)別エントリー「試論:『命の木』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11236

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章4節『命の光』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7297

ヨハネ1章1節は主イエスを「言(ことば)」と呼ぶが、一ヨハネ1章1節は「命の言」と呼ぶ。申命記8章3節の通り、主は御言葉で命を与えるが、ヨハネ17章3節では「知る」という表現で「永遠の命」を説明し、一ヨハネ2章3節では「知る」とは「掟(ヨハネ13章34節)を守る」ことと説明する。

(注)別エントリー「試論:主イエスと申命記8章を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6906

(注)別エントリー「『永遠の命』と『新しい掟』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4905

試論:「その時には教えられる」を140文字以内で

マタイ10章19節「引き渡された時は何をどう言おうかと心配してはならない。その時には教えられる」ヨハネ14章26節「弁護者、つまり御父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたたちに全てのことを教えられ、これまでにわたしが話して来たことを、ことごとく思い起こさせて下さる」。

ステファノの殉教と初代教会

使徒言行録7章57節はステファノの言葉に敵たちが自分の耳をふさいだと記す。詩編58編では「耳をふさぐ」(5(4)節)は、神に逆らう者(4(3)節)の象徴的仕草で、敵たちは、自分の良心がステファノこそ神の証人だと「見た(悟った)」(黙示録11章12節)にもかかわらずこれを拒絶した。

マタイ13章で主はたとえで話す理由を御説明されたが、「目で見る」「耳で聞く」という表現も「御教え(御言葉)を悟る」「心で理解する」ことの比喩で、それは「悔い改め」に導く。忠実な弟子に主は特別な「耳」(理解力)を与えるとイザヤ50章4節は預言し、理解力と悔い改めとは表裏一体である。

(注)別エントリー「試論:聞くだけの人を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5294

(注)別エントリー「試論:聞いても実行しない人を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7347

旧約であれ新約であれ聖書で「見る」という表現が用いられる場合、単に「目で見る」ばかりではなく、「心で悟る」「理解する」等も含む。マタイ24章30節「地上の全ての民は人の子が天の雲に乗って来るのを見るであろう」は、黙示録6章17節「神と小羊の怒りの大いなる日が来た」に対応している。

(注)別エントリー「イエス・キリストと天の雲」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/684

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

マタイ5章44節「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」ルカ23章34節「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分たちが何をしているのか、分かっていないのです」使徒言行録7章60節「ステファノはひざまずいて、『主よ、この罪を、彼らに負わせないでください』と大声で叫んだ」。

ルカ23章34節の主イエスの御言葉「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは自分が何をしているのか分かっていないのです」と類似の事柄を数年後、使徒言行録7章60節でステファノが殉教の際に口にした。さらにその二十数年後エルサレム監督である「主の兄弟」ヤコブが殉教の際、類似の事柄を口にした。

二コリント12章7節でパウロは、自分が高慢にならぬように神はサタンからの使いが付きまとうことを認められたと記す。サタンがパウロを苦しめた方法は想像に難くなく、「お前は忠実な弟子を気取ってるが、元はステファノの殺害に賛成していた男だし、ダマスコ行きの目的も迫害のためだっただろ?」。

ペトロは第一の手紙の冒頭で「離散して仮住まい」の人々に挨拶する。新約聖書で離散を意味するギリシア語は、ステファノ殉教後に信者たちがユダヤを追われて各地に追い散らされたことを意味する。主イエスのエルサレム滅亡の予告に従い信者の多くはユダヤへ戻らず各地で「からし種」の役割を果たした。

一ペトロ1章1節は、「離散」つまりステファノ殉教後の大迫害で散って行った(使徒言行録8章1節)エルサレム教会の信者の避難先としてアジア州を 挙げる。主の御降誕の約四十年前カエサルは、ユダヤ人が固有の慣習を保持しながら不利なく市民生活を送れる権利を、エフェソ等の諸都市で保障していた。

キリストの教えを敵視する者たちは使徒言行録6章13節で「この男は、この聖なる場所と律法をけなす」と人々にステファノを告発させた。主イエスはマタイ5章18節で天地が消え失せる時にモーセの律法の時代も終わると示唆された。「天地」とはエルサレム神殿の聖所(詩編78編69節参照)を指す。

古代のヘブライ人は詩編78編69節の通り、エルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。これを踏まえれば主イエスのマルコ13章31節の仰せ「やがて天地は滅びるであろうが、わたしの言葉は決して滅びない」の意味は、「エルサレムと神殿の滅亡後も、わたしの教えと信仰は生き続ける」である。

(注)別エントリー「試論:『主の日』エルサレム滅亡を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12476

主はマタイ5章18節で、全てのことが実現して天地が消え失せるまではモーセの律法も消え失せないと仰せになり、ルカ21章22節ではエルサレム滅亡で預言が全て実現すると予告され、紀元七〇年にそれは成就した。詩編78編69節の通りヘブライ人はエルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

ルカ21章22節には「書かれていること」という言い回しが用いられているが、これはヨシュア記1章8節と同様に、「預言された事柄」「神から啓示された内容」などを意味する表現である。古代においては「書く(書いて記録に残しておく)」という行為それ自体が、非常に重要な意味を持つものだった。

主はマタイ5章18節で、全てのことが実現し天地が消え失せるまで律法の時代が続くことを仰せになった。ルカ21章22節では、エルサレム滅亡(20節)の日を「書かれていることが完全に実現する報復の日」と仰せになり、エルサレムと神殿の滅亡(紀元七〇年)で律法の時代が終わると宣言なさった。

「天地が消え去る」の「天」とは、神がお住まいになる場所と見なされたエルサレム神殿とりわけその聖所を指し、二ペトロ3章はその滅亡が近いことを説く。「地」はエゼキエル7章2節同様、イスラエルの地を指す。紀元七〇年にエルサレムと神殿は滅亡しユダヤ(イスラエル人の国家)も同じく消滅した。

二ペトロ3章10節は「主の日」において「天は激しい音を立てながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に熔解し尽くす」と予告した。数年後の紀元七〇年、神が住まわれると見なされて、「天」と同一視されていたエルサレムの神殿は、都の滅亡の際ローマ帝国軍によって火を放たれ、大音響と共に焼け滅びた。

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

ルカ21章22節において、主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると明言されており、それは紀元七〇年に現実のこととなった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代や近未来の世界情勢に関して旧約聖書の預言から考える行為は、不毛である。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

ダニエル書9章では神殿とエルサレムの復興を強く願うダニエルの祈りに応えて、都と神殿の再建さらには救い主の到来までも約束されたが、救い主が不当に殺された後、モーセの律法を蹂躙する集団が神殿の聖所を占拠し、そして次に来る指導者の民が、都と神殿を無法集団もろとも、滅ぼし尽くして終わる。

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

ルカ17章34節から35節で主は「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」と繰り返されたが、では一体どこに「連れて行かれ」るのかを、ルカ21章24節では「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と御説明された。これは大昔モーセがレビ記26章33節以下で預言していた話と同じである。

紀元七〇年のエルサレム滅亡時にローマ軍へ投降したユダヤ人のうち、使徒言行録22章のパウロのようにローマの市民権を持つ者はローマ法の保護下にあるため留め置かれたが、そうでない者は妻子と共に奴隷とされて売り飛ばされた。こうして「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」は現実となった。

(注)別エントリー「試論:『滅びを避けるには』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5749

ルカ21章32節で主は「全てのことが起こるまではこの時代は決して滅びない」と仰せになったが、「時代」に当たる原文の単語ゲネアは古代のギリシア語詩編94(95)編10節の「世代」にも用いられ、詩編のこの節ではゲネアを四十年とする。実際この主の仰せからおおよそ四十年後に都は滅亡した。

(注)別エントリー「試論:『今の時代』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5596

(注)別エントリー「試論:『人心荒廃は滅亡の前兆』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6291

ルカ19章で、主はエルサレムのために泣かれた。確かに主の予告の通り、約四十年後に都は滅亡した。だが同じ都は数日後に主御自身を殺す都でもあった。それでも主は、ヨナ書で神がニネベを惜しまれた以上に、エルサレムのために泣かれた。エルサレムが決して自分の非を認めようとはしないためである。

(注)別エントリー「試論:『滅びを避けるには』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5749

(注)別エントリー「試論:エゼキエル18章を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5726

試論:「罪から救う」を140文字以内で

マタイ1章21節で主の天使は、「マリアが産む子は自分の民を罪から救う」とヨセフに伝えた。成長された主イエスは「まず神の国と神の義を求めなさい」と教えられた。ローマ6章17節以下は「あなたたちは罪の奴隷だったが、伝えられた御教えの規範に従って罪から解放され義の奴隷になった」と記す。

(注)別エントリー「試論:『神の義』『門』『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10465

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

【追記】

ローマ6章15節「わたしたちは律法の下ではなく恩寵の下にあるのだから、罪を犯してもよいということになるのでしょうか? 決してそういうことにはなりません」同16節「あなたたちは、罪に仕えて罪の奴隷となって死に至るか、神に従順であって神の奴隷として〔神の〕義に至るか、どちらかです」。

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『わたしは命である』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11586

(注)別エントリー「試論:なぜ『わたしは命』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11740

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

(注)別エントリー「試論:『神の義とディカイオス』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8685

《御父》と《御子》との関係性

ヨハネ14章8節のフィリポの言葉「主よ、わたしたちに御父をお示しください」に対しコロサイ1章15節では「御子は、見えない神の姿」と表現した。「見えない神」とは御父であり「姿」とは《生き写し》というニュアンスをも含んでいる。ヘブライ1章3節は「神の本性の完全な具現」などと表現した。

キリスト教の「三位一体」を論じる際に最も忘れてはならない重要な事柄がある。それは《御子は御父の生き写しであり、御子は御父に少しも劣るところなどない存在である》。ヨハネ14章9節「わたしを見た者は御父を見ていたのである」同11節「わたしは御父の内にあり御父はわたしの内におられる」。

ヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」の意味を使徒言行録4章32節は「心も思いも一つ」「持ち物を自分だけのものと主張せず共有している」と説明する。従って、御父の持ち物は御子の持ち物でもあり逆もまた然りである。ヨハネ16章15節「父が持っておられるものは全てわたしのものである」。

一ヨハネ5章は20節で「神の御子が来られ、私たちに真理である方を知る力を与えられました。私たちは真理である方の内に、またその御子イエス・キリストの内にいるのです」と記し、「この方こそ真理である神、永遠の命」と続け、御父と御子と聖霊(6節)の御三方を「真理」と呼び、唯一の神とする。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

(注)別エントリー「試論:『御子に全て委ねられた』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7629

ヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」の意味を使徒言行録4章32節は「心も思いも一つ」「持ち物を自分だけのものと主張せず共有している」と説明する。従って、御父の持ち物は御子の持ち物でもあり逆もまた然りである。ヨハネ10章38節「わたしは父の内にあり、父はわたしの内におられる」。

主はヨハネ10章30節で「わたしと父とは一つ」と仰せになった後、17章では弟子たちのために天を仰いで祈られたが、それは御父と御自分が「一つ」であるように、弟子たちもまた「一つ」となるためであった(11節、21節〜23節)。使徒言行録4章32節「信じた人々の群れは心も思いも一つ」。

ニケア・コンスタンチノープル信条「父と一体」はヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」と38節に拠り、御父と御子の間には矛盾・対立・齟齬の類は一切ないことを表す。ギリシア神話では最高神ゼウスと父クロノス、クロノスと父ウーラノスの父子相剋が存在するが、キリスト教には全く存在しない。

主はマタイ11章27節で、全てのことは御父から御自分に任せられていると仰せになった。これは、既にダニエル7章13節以下で啓示された事柄であり、マタイ28章18節やルカ10章22節やヨハネ3章35節や同13章3節等、福音書では事ある毎に強調される「真理(ヨハネ14章6節)」である。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書のアレテイアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15430

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

《御父である神、主》と《御子である神、主イエス》とは、詩編110編1節では御父は「主」、御子は「わが主」でありマルコ12章36節で御父は「主」、御子はダビデの言う「わたしの主」である。ヨハネ1章1節では御父は「神」、御子は「言(ことば)」であり、「言は神であった」と記されている。

(注)別エントリー「試論:「わたしの主」は誰?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7536

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは道」と仰せになり、「わたしを通らなければ、誰であれ御父には到達できない」と続けられた。パウロはエフェソ2章14節でユダヤ人と異邦人をこの点において隔てる壁はないと記し、ローマ10章12節でも「ユダヤ人とギリシア人の区別はない」と明言している。

「道」とは全ての人が生きる上で辿るべき道筋(道理・規範)でイエスがその模範であること、「真理」とは人が信仰・礼拝すべき三位一体の唯一の神を指し御父・御子・聖霊の間に矛盾がないこと、「命」とは幸福・安堵・充足等の人を生かすものの全てで人間にそれを授ける源は唯一の神ということを指す。

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9949

主イエスの御前でユダヤ人と異邦人の「区別」が存在しないことはエフェソ2章14節以下、使徒言行録15章9節「わたしたちと彼らの間に何の差別もなさいません」、ローマ3章29節「神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもあります」、一コリント12章13節、ガラテヤ3章28節以下等。

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは道」と仰せになり、「わたしを通らなければ、誰であれ御父には到達できない」と続けられ、また御昇天前にマタイ28章19節で「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じられた。パウロもローマ10章12節で「ユダヤ人とギリシア人の区別はない」と説く。

(注)別エントリー「試論:『イエスは全人類の模範』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5948

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7818

主が「わたしは道」(ヨハネ14章6節)と仰せになる場合、自身が御父へ通じる唯一無二の存在であると示唆するだけではなく、日本語の「人としての道から外れる」と同様に、誰もがそこを通って進んで行くべき人間としての道筋つまり御父である神の御前における模範(同13章15節)の意味をも含む。

試論:「知恵は熟慮と共に住む」を140文字以内で

【問】箴言8章12節「知恵は熟慮と共に住む」とは?
【答】主イエスはルカ7章35節で「知恵」を称されましたが、養父ヨセフは婚約者の妊娠に際し熟慮して安易に相手を裁くことをせず、母マリアも羊飼いの訪問やシメオンの預言、御子が十二歳時の神殿での出来事等についてその意味を深く考えました。

(注)別エントリー「試論:『知恵』としての主イエスを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/20869

(注)別エントリー「試論:『知恵』を自称された理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/20999

(注)別エントリー「試論:『婚約者の妊娠』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21032

【追記】

箴言15章28節「神に従う人は、神の御旨に応えようと思いを巡らす」ルカ2章17節〜19節「羊飼いたちは幼子について天使たちが話したこととベツレヘムで見た光景とを人々に知らせた。羊飼いたちの話を聞いた者は、皆、不思議に思ったが、マリアは全ての出来事を心に納めて、思い巡らしていた」。

(注)別エントリー「試論:聖書と洞穴を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13198

(注)別エントリー「試論:『主のはしため』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5643

(注)別エントリー「試論:『主のはしため』(旧約)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6611

(注)別エントリー「試論:『わたしは主のはしため』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8740

(注)別エントリー「試論:『主の超自然的な御降誕』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21342

(注)別エントリー「聖書にはクリスマスの日付が載っていますか???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13267

ルカ2章は聖母が幼子を飼い葉桶に寝かせたと記す。御降誕の洞穴には聖母を乗せて来たろば以外に牛も一頭いたと考えられる。イザヤ1章3節に「牛やろばも飼い主や飼い主の飼い葉桶を知っているのに、わが民イスラエルはわたしを知らず見分けようともしない」と、主の嘆きが預言されているからである。

(注)別エントリー「試論:聖書と『ろば』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13192

出エジプト記24章にモーセ一行が「神を見た」とあるが、実際に御姿を見たわけでなく、足台を見たことによって上におられる神を「見た」のである。「心の清い人は幸いである。その人は神を見る」の「見る」も認識するという意味を含むが御降誕の夜、羊飼いたちはマリアやヨセフと実際に、御姿を見た。

(注)別エントリー「試論:ヘブライ人の『神を見る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5673

(注)別エントリー「試論:『御父をお示しください』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5677

主イエスと一緒に「神の家」に住むための条件

ダビデは神からの霊感を受け詩編15編で、《神の家》で《神の同居家族》となる人々について、「親しき仲にも礼儀あり」という観点で言葉と行いの両面において、(無垢という意味で)完全な神の御目にかなった人々であると表現した。マリアとヨセフはそれに該当しなかったなどと、誰が言えるだろうか?

ガラテヤ5章では「聖霊の結ぶ実」として神の御独り子の母の内面に関連する《愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制》を説く。他方、コロサイ3章では「礼服」(マタイ22章)という比喩を踏まえ、「義人」ヨセフの「義」に関連する《憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛》を説く。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

(注)別エントリー「試論:マタイ22章『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6740

(注)別エントリー「予備的考察:聖母崇敬そして聖ヨセフ崇敬の起源とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1750

(注)別エントリー「聖家族はどのような雰囲気の中で暮らしていたのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5246

【問】マリアとヨセフに関する記述は乏しくないですか?【答】マリアは「恵まれた方」(ルカ1章28節)「祝福された方」(同章42節)と呼ばれ、ヨセフは「正しい人(義人)」(マタイ1章19節)と呼ばれます。「恵み」「祝福」「〔神の〕義」の理解を深めれば二人に関する理解もより深まります。

主イエスの養父ヨセフはマタイ1章19節で「正しい人」と呼ばれるが、25章の「最後の審判」において「正しい人」は永遠の命が確約された人である。母マリアはルカ1章42節で「女の中で祝福された方」と呼ばれるが、マタイ25章34節では「祝福された人」は同じく永遠の命が確約された人である。

(注)別エントリー「試論:『神の母』聖書的根拠を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13155

(注)別エントリー「試論:『親しき仲にも礼儀あり』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13120

受胎告知の際マリアは「恵まれた方」と呼ばれたが、テトス2章11節以下では「全ての人に救いをもたらす神の恵みは、不信心と現世的欲望を捨て思慮深く正しく信心深く生きるよう教え、また偉大な神であり救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むよう教えます」と神の恵みに関し説明する。

ヨハネ1章17節は「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」と記すが、二ペトロ1章は神からの恵み(2節)の内容を5節以下で、信仰に始まり徳・知識・自制・忍耐・信心・兄弟愛・愛に至るとして、恵みが加わるほど「情欲に染まったこの世の退廃」(4節)や怠惰(8節)から遠くなると記す。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:真理(まこと)の反対は?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12668

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

聖母は受胎告知の後も「主のはしため」(ルカ1章38節、48節)と自称するほど、へりくだりが第一の特徴であり、聖霊によって神の御独り子を宿される以上、《聖霊の結ぶ実》(ガラテヤ5章22節〜23節)である愛から節制に至る諸徳は、「おめでとう、恵まれた方」と呼ばれるまでに、備えていた。

神の霊つまり聖霊が人間に賜るものをガラテヤ5章は愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制と説く。主はマタイ6章33節で「神の義」を求めよと仰せになり、同22章でそれを「礼服」にたとえられる。コロサイ3章では、着るべきものとは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛と説く。

受胎告知の際、マリアは「恵まれた方」(新共同訳)と呼ばれたが、「恵まれた」とは《〔神からの〕とめどもない好意を得た》の意味で、古代ギリシア語訳箴言を参照すると、この比類のない《好意》は、彼女の「へりくだり」(箴言3章34節)と「善のみの追求」(同11章27節)に対する恵みである。

試論:「主の超自然的な御降誕」を140文字以内で

古代においても助産婦(助産師)が出産に介在していたことは創世記38章や出エジプト記1章に記され、エゼキエル16章4節は古代の新生児処置を複数列挙するが、ルカ2章7節は主の御降誕に際し、布にくるみ寝かせたことだけを記して他の処置や助産婦の存在には言及せず、超自然的な出産を示唆する。

(注)別エントリー「主の御降誕に助産婦が介在しなかった意味【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/27242

(注)別エントリー「聖書にはクリスマスの日付が載っていますか???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13267

【追記】

マリアは処女のままで(ルカ1章34節)、神の御独り子を超自然的に妊娠(処女懐胎)したが、ルカ2章7節「初めての子を産み、布にくるみ飼い葉桶に寝かせた」という記述からは、助産婦の介在なしでマリア自身が神の御独り子を取り上げた超自然的な出産であった、と捉える方がやはり蓋然性が大きい。

エレミヤ14章8節はイスラエルの救い主が「宿」を求める旅人のようになると預言した。同節の古代ギリシア語訳で用いられている客間を意味する語と、ルカ2章7節で「宿屋〔がなかった〕」を表す語は同じで、同22章11節とマルコ14章14節で「〔過越の食事をする〕部屋」を表す語も同じである。

歴代誌下28章15節には、戦争で敗れて捕虜となった者たちが帰郷を許された際、衰弱していて歩けない状態の人々は「ろば」に乗せられたとある。体が弱った人でも安心な乗り物が「ろば」であり、マリアがエリサベトを訪問する際やベツレヘムやエジプトに向かう際には「ろば」は不可欠の存在であった。

ハガイ2章では「神殿の基」(18節)が備えられる日である、古いヘブライの暦で「第九の月の二十四日」という日付が何度も提示される。この日は季節としては冬であり主イエスは御自身〔の体〕を「神殿」(ヨハネ2章19節)あるいは「[神の家の〕隅の親石」(マルコ12章10節)等と表現された。

(注)別エントリー「試論:『隅の親石の誕生日』預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12805

(注)別エントリー「試論:神殿奉献記念祭(ハヌカ)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12788

(注)別エントリー「試論:古代ユダヤの『第九の月』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12830

試論:主イエスと人類の関係を140文字以内で

【問】《神の御言葉》主イエスが人間になったとは、《神が人間を担われ(引き受けられ)た》と解釈すべきということですが、それでは、主イエスから見た人類とは、何になりますか?
【答】神の立場では「子」(マタイ9章2節)、人間の立場では(特に相手が信者なら)「兄弟」(同28章10節)です。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

【追記】

《人となられた「神の御独り子」》主イエス・キリストに関して、キリスト教では「半神半人」とは絶対に表現しない。それでは神としても人間としても中途半端(不完全)な存在だからである。むしろ「完全な(100%の)神」が「完全な(100%の)人間」を担った(引き受けた)存在と理解している。

(注)別エントリー「試論:『《半神半人》ではない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/819850

神が人となられた(ヨハネ1章14節)ことを、ニケア・コンスタンチノープル信条では「おとめマリアよりからだを受け」とする。神は単純に人間へ変化(変質)したのではなく神のまま「人間としての全て」を担った(引き受けた)。神は本来、神以外の別物へ直に変化(変質・劣化)することができない。

現代人は「神が人となる」と聞くと、神がそのまま人に変化(変質)するとイメージしがちだが、そのイメージは古代のイスラエル人にはなかった。出エジプト記3章14節「わたしはある」とは《わたしは劣化しない》(詩編102編28(27)節参照)を意味し、神から人への劣化を認めないからである。

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

詩編49編8(7)節は神に対し人間が贖(あがな)いの業を行うことはできないと説く。それができるのは「人〔となられた神〕の子」だけであり、そのために主イエスは来られた(マルコ10章45節)。神は劣化できないため、神のままで人間の全てを担う必要があり、そのためにマリアが不可欠だった。

ヨハネ1章1節の「言(ことば)」、いわゆる《神の御言葉》とは、「御自分で御言葉をお話しになる神」すなわち御子である神、主イエス・キリストを意味する。「言(ことば)は神とともにあった」とは、天地創造以前の初めから、御子である神は御父である神とともに存在しておられたということである。

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

聖書で「神が人となる」とある場合、それは「神が人に変質(劣化)し、人でいる期間は神であることをやめている」を意味せず、「神は神のまま人間としての全てを担い、神でもあり人でもある存在となる」を意味する。「わたしはある」という神には、変質も劣化もない(詩編102編28(27)節等)。

ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは「御自分でお話しになる神」の意味で《天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神》主イエスを表す称号であり、直接お話しになった記録が福音書である。福音書を読まないことは主イエス・キリストを理解しようとしないことに等しい。

【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。

旧約の民にとって神なる主は「わたしたちの父」(イザヤ63章16節)だが、救い主(8節)がお生まれになり(9章5(6)節)、民の「永遠の父」である方は「みどりご」として来られた。養父とはいえ人間が「父」となるなどヨセフにとって太陽が西から昇るどころではなかったが彼は責務を全うした。

(注)別エントリー「試論:『神の養父』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13347

詩編49(48)編8(7)節は、神に対して人間が贖いの業を行うことはできないと記す。とはいえ神の御独り子が自ら人間となられて自分の「からだ」を「身代金」として贖いの業を行われた時の「からだ」は、マリアから受けたものだった。マリアは極めて特別な形でイエスの贖いの業に「参加」をした。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7795

古代のヘブライ人は「肉」という言葉で、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけでなく、魂も含めた人間としての全体)」を表した。ヨハネ1章14節をこの観点で理解すれば、ニケア・コンスタンチノープル信条「おとめマリアよりからだを受け」の「からだ」は、人間としての全てを意味している。

エレミヤ14章8節はイスラエルの救い主が「宿」を求める旅人のようになると預言した。同節の古代ギリシア語訳で用いられている客間を意味する語と、ルカ2章7節で「宿屋〔がなかった〕」を表す語は同じで、同22章11節とマルコ14章14節で「〔過越の食事をする〕部屋」を表す語も同じである。

(注)別エントリー「主の御降誕と古代イスラエルにおける洞穴」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4351

試論:「献金箱」と「飼い葉桶」を140文字以内で

福音書中のやもめの献金の話で献金箱を表すギリシア語は、ヨハネ8章20節では「宝物殿」と訳される。【備品】と【備品のある場所】の両方を意味し得るわけである。ルカ2章で「飼い葉桶」と訳されるギリシア語は同様に、古代ギリシア語訳ハバクク3章17節では「牛舎」(新共同訳)を意味している。

(注)別エントリー「主の御降誕と古代イスラエルにおける洞穴」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4351

試論:「救い主の御教えの基本」を140文字以内で

主イエスはマタイ7章12節で「他の人からしてもらいたいことは全て、あなたから他の人にしなさい」と教えられ、これこそ《律法〔であり預言者の教え〕》と仰せになった。これを《キリストの律法》とパウロも呼んだが、この《律法》に無関心ならば、キリスト信者を自称しようとも誰も信用しはしない。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

試論:ザカリアの預言の意味を140文字以内で

【問】ルカ1章68節「主はその民を訪れて解放し」71節「我らの敵、全て我らを憎む者からの救い」の意味は?
【答】ヘブライ2章13節以下は「御父から委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のまま人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するため」と説きます。

(注)別エントリー「『完全な神』が『完全な人間』を担われた」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21196

【追記】

ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。

《人となられた「神の御独り子」》主イエス・キリストに関して、キリスト教では「半神半人」とは絶対に表現しない。それでは神としても人間としても中途半端(不完全)な存在だからである。むしろ「完全な(100%の)神」が「完全な(100%の)人間」を担った(引き受けた)存在と理解している。

(注)別エントリー「試論:『神には劣化がない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8697

神は本来、神以外の別物に変質(劣化)できない以上、「神が人となる」ためには神のままで人間としての全てを担う(引き受ける)必要があった。これをヨハネ1章14節は「〔神の〕御言葉は肉となる」として記し、ニケア・コンスタンチノープル信条は「おとめマリアよりからだを受け」として表現した。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

試論:「救い主」と「みどりご」を140文字以内で

イザヤ63章の通り古代のイスラエルにおいて神と神の民との関係は父と子に喩えられた(8節、16節)。しかし9章5(6)節では、「永遠の父」であるはずの神なる主が一人の「みどりご」「男の子」として到来されると預言され、7章15節では人間の幼児食──凝乳と蜂蜜を食べるとまで預言される。

(注)現代の日本では、1歳未満の乳児に蜂蜜を与えることは食中毒(乳児ボツリヌス症)の危険が高いため禁忌とされており、あくまでも蜂蜜を与えても問題がないのは1歳以上の幼児とされているので、極めて注意が必要である。

【追記】

旧約の民にとって神なる主は「わたしたちの父」(イザヤ63章16節)だが、救い主(8節)がお生まれになり(9章5(6)節)、民の「永遠の父」である方は「みどりご」として来られた。養父とはいえ人間が「父」となるなどヨセフにとって太陽が西から昇るどころではなかったが彼は責務を全うした。

(注)別エントリー「試論:『神の養父』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13347

ヨハネ1章1節の「言(ことば)」、いわゆる「神の御言葉」とは、《御自分で御言葉をお話しになる神》つまり御子である神、主イエス・キリストを指し、「言(ことば)は神とともにあった」とは、天地創造以前の「初め」から既に御子である神は御父である神とともに存在しておられたということである。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

イザヤ7章14節で預言されたインマヌエルをヘブライ語マソラ本文は、「インマヌ」と「エル」の間に空白を置き二語で表記し、一語で表記される人名とは明確に区別する。マタイ1章23節のギリシア語本文とラテン語訳も、インマヌエルを「わたしたちと共におられる神」と解釈し、その神性を強調する。

(注)別エントリー「主イエス・キリストがインマヌエルである理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1338

【問】マリアは「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)と呼ばれる女性なのに、なぜ「主のはしため」と謙遜したのですか?
【答】もしも彼女が「自分は救い主の母だから息子と同じ扱いを受けたい」と思い上がったなら、神のようになりたいと思ってサタンにだまされた、エバの二の舞になるからです。

(注)別エントリー「試論:聖母の謙遜の理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21213

試論:なぜ洗礼者が先に来たの?を140文字以内で

【問】なぜマラキはメシアの前に来るエリヤを預言したの?
【答】ネヘミヤ時代にユダヤの「預言者」が周辺異民族に買収される不祥事が発覚後、約五百年間ユダヤに真の預言者は現れず、人々は偽預言者を忌避しつつも真の預言者を待ち望んでおり、預言者の識別に不慣れな人々の判断の助けとするためです。

【追記】

【問】主イエスのマタイ17章11節の仰せ「エリヤ(=洗礼者ヨハネ)が来て、全てを元通りにする」の意味とは?
【答】ルカ1章16節以下「彼はイスラエルの多くの人々を、人々の神である主の許へと立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と権威と共に救い主に先立って歩み、救い主のために民を準備させる」。

捕囚から帰還後ゼカリヤはイスラエルから真の預言者が途絶えると預言した(13章)。数十年後マラキはメシア以前に先駆者が現れると預言したが、さらに数十年後(ネヘミヤ6章)イスラエルの「預言者」が敵に買収されたと発覚してから、実に四百年以上もの間、人々の前に、真の預言者は現れなかった。

バビロン捕囚から帰還したユダヤ人が、周辺異民族の妨害でエルサレム復興に苦心していた紀元前五世紀、総督ネヘミヤの調査により当時の「預言者」たちが周辺異民族に買収され偽の「預言」を発していた不祥事が判明した(ネヘミヤ6章)。以後、洗礼者の登場まで預言者が公然と活動することはなかった。

ゼカリヤ13章の6節までは、旧約の民から真の預言者が途絶え、残った偽預言者たちが神や人々から排斥される時代を預言した。7節からは、人々を清める教えをもたらすために来られる救い主に旧約の民の多くはついていけないが、残りの少数は救い主に最後まで従い新時代の神の民を形成すると預言した。

捕囚からの帰還後、預言者ゼカリヤは、イスラエルの「預言者」が偽預言者として神と民から排斥される時代を預言した(ゼカリヤ13章)。数十年後、総督ネヘミヤ時代(ネヘミヤ6章)、敵にイスラエルの「預言者」が買収され、城壁の完成を妨げるために「預言」していた不祥事が、発覚した(12節)。

福音書の時代のユダヤ人は、自分たちの間で真の預言者が四百年以上も活動していないことを強く自覚しており、またそのきっかけとなったのがネヘミヤ6章の買収事件であることも知っていた。もし真の預言者が登場するとしたら、なによりも買収とは無縁な克己心の強い人物であるべきだとよく弁えていた。

主はマタイ7章15節で偽預言者を警戒するよう仰せになったが、申命記18章22節は「預言者が主の御名によって語ってもそれが起こらず実現しなければそれは主が語られたものではない」と教え、エレミヤ28章9節でも幸福を預言する者はそれが実現しなければ主の預言者とは認められないとしている。

(注)別エントリー「試論:偽預言者と滅亡を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5401

(注)別エントリー「試論:『人を惑わす霊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5682

ダニエル9章24節はメシアについて預言の時代を封印する存在だと預言し、主はルカ21章22節で、(紀元七〇年の)エルサレム滅亡で旧約聖書の全預言が成就し預言の時代が終わると仰せになった。故に紀元七〇年以降の国際情勢と旧約聖書の預言は無関係で、関係ありとする強弁は主の御言葉に反する。

(注)別エントリー「試論:主イエスと旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7462

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4783

(注)別エントリー「試論:『大艱難時代』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4807

試論:「しるしが目的ではない」を140文字以内で

ルカ1章66節は、洗礼者ヨハネの誕生に際し、人々が「この子はどんな人になるのだろうか」と言ったと記す。おおよそ三十年後、主イエスはマタイ11章11節で「洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」と仰せになった。しかしヨハネ10章41節は洗礼者が何のしるしも行わずに世を去ったと記す。

【追記】

主イエスはマタイ9章35節の通り「町や村を残らず回って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気や患いを癒やされた」。洗礼者はアンデレとヨハネとを主イエスに導いた際(ヨハネ1章)等を除けば、基本的には「ヨルダン川の向こう側」にとどまり、しるしは行わなかった(同10章41節)。

イザヤ62章5節は「神と神の民」の関係を「花婿と花嫁」の関係にたとえたが、ヨハネ3章29節で洗礼者が「花婿の介添人」を自称する場合、「花婿」が主イエス・キリストであるのは、いうまでもない。洗礼者は、「花婿」と「花嫁」を引き合わせるまでが自分の役割と心得て、30節の言葉を口にした。

古代のイスラエルは、神と神の民との関係をしばしば花婿と花嫁の関係にたとえた。洗礼者ヨハネは、イエスを「花婿」と呼んで自身は「花婿の介添人」と称した。主イエスを歓呼の裡に迎え入れながら数日で死に至らしめた都を、黙示録が「大淫婦」と呼んだ理由は、イエスこそ花婿に他ならないからである。

(注)別エントリー「試論:『大淫婦』の正体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15895

試論:「高慢」と「悪」を140文字以内で

【問】マラキ3章19節は高慢な者と悪を行う者を同列に論じますが、なぜですか?
【答】詩編1編1節の通り旧約の民は神に従わぬ者と罪人と高慢な者を同列に扱いました。エバは創世記3章で神のようになることを望みましたが、マリアはルカ1章48節で自分は主のはしために過ぎないと謙遜しました。

(注)別エントリー「試論:神と共にいるための三条件を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18936

【追記】

詩編1編1節は神と共にいるための必要三条件を記す。一つ目は神に逆らう人に同調しないこと、二つ目は罪や悪に走らないこと、三つ目は高慢心を捨てることである。高慢で周囲の人々を粗略に扱う人は、いつか必ず神をも粗略に扱う。神の御独り子の母となった女性が高慢心とは無縁であるのは当然である。

(注)別エントリー「試論:『しもべ』と『はしため』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9785

(注)別エントリー「試論:『わたしの主』と母マリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8575

試論:「ヘロデの簒奪」を140文字以内で

古代ユダヤ独立の英雄ユダ・マカバイから百年以上を経て彼の一族ハスモン王家は御家騒動を繰り返す有様で、マカバイ時代からの同盟国である超大国ローマは、ユダヤの内戦の最中ハスモン王家の重臣ヘロデに「いっそあなたが王になれば」と唆した。ヘロデは自分が王となりローマの後楯で内戦に勝利した。

(注)別エントリー「ダニエル書7章:地上に興る第四の王国」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4631

試論:「古代ユダヤの喜びの日」を140文字以内で

福音書に救い主の誕生日の記述はないが、旧約聖書のハガイ2章には「神殿の礎」すなわち《神の家の隅の親石(=主イエス・キリスト)》が備えられる日として、古いヘブライの暦で「第九の月の二十四日」という冬の日付が何度も啓示される。この日はユダヤ教のハヌカ(神殿奉献記念祭)と同時期である。

(注)別エントリー「聖書にはクリスマスの日付が載っていますか???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13267

【追記】

有名な「隅の親石」という表現をテーマにしてペトロの手紙一の2章では解説を行う。まず6節で「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することがない」とイザヤ28章16節を引用し、一ペトロ2章7節ではこれを主イエスの境遇と関連付けて説明する。

主はマルコ12章10節で、「家を建てる者の捨てた石が隅の親石となった」と詩編118編22節を引用され、イザヤ28章16節の預言「わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の貴い隅の親石。信じる者は慌てることがない」の、御自身における成就を御説明された。

【問】ハガイ2章がキリストに関して預言していると、なぜ言えるのですか?
【答】ハガイ書はゼルバベルの特別な「選び」を預言しましたが、ゼルバベル本人はペルシア王国の官僚の一人に過ぎませんでした。ハガイはゼルバベルの子孫から真の「ユダヤ人の王」(マタイ2章2節)が現れると預言しました。

(注)別エントリー「試論:『ダビデ王家とキリスト』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21017

キリスト教が主の御降誕を祝う時期に、ユダヤ教もハヌカ(ヨハネ10章22節)を祝う。ハヌカは、紀元前二世紀にエルサレムの神殿が清められ新生したこと(一マカバイ4章52節)を祝う。主もヨハネ2章で御自身の体を神殿に喩えられた。キリスト教の伝統では、主の御降誕はハヌカと同時期であった。

(注)別エントリー「試論:『体も家も自身の住まい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9924

主イエスはヨハネ5章39節で「あなた方は〔旧約〕聖書中に永遠の命が存在すると考え〔旧約〕聖書を研究するが〔旧約〕聖書はわたしに関してあかししている」と仰せになり、御自分と無関係の目的で〔旧約〕聖書を研究したとしても本当に重要な真理には全く到達することができないと、お教えになった。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

主はルカ21章22節でエルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると仰せになり、既にそれは紀元七〇年に現実となった。現代の世界情勢を安易に旧約聖書の預言に関連付ける発想は主イエスの仰せには合致しておらず、疑う余地なくこの発想はキリスト教的でなくキリスト教の外部に由来する。

(注)別エントリー「試論:非キリスト教的な預言解釈を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21066

試論:聖母の謙遜の理由を140文字以内で

【問】マリアは「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)と呼ばれる女性なのに、なぜ「主のはしため」と謙遜したのですか?
【答】もしも彼女が「自分は救い主の母だから息子と同じ扱いを受けたい」と思い上がったなら、神のようになりたいと思ってサタンにだまされた、エバの二の舞になるからです。

(注)別エントリー「試論:「わたしの主のお母さま」を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10221

【追記】

【問】なぜ受胎告知の際にマリアは、承諾の返答よりも先に「わたしは主のはしため」と再確認しましたか?
【答】マリアはそう前置きすることで、「わたしは神の御独り子の母となることを承諾しますが、決して『神のようになること』(創世記3章5節)を望むからではありません」と意思表示をしました。

(注)別エントリー「試論:無原罪の御宿りって何??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/20779

(注)別エントリー「試論:『謙遜の極み故の被昇天』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11125

試論:「マリアの賛歌と憐れみ」を140文字以内で

【問】マリアの賛歌では憐れみという言葉が二回も登場しますが、なぜですか?
【答】それが神なる主の特徴であるからで、主イエス・キリストは「知恵」(ルカ7章35節)を自称されましたが、箴言8章20節は「知恵」が歩んで行くのは憐れみの道と「義の道」(マタイ21章32節)であると教えます。

(注)別エントリー「試論:『義の道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/20950

(注)別エントリー「試論:『知恵』としての主イエスを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/20869

(注)別エントリー「試論:『知恵』を自称された理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/20999

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

「完全な神」が「完全な人間」を担われた

ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。

《人となられた「神の御独り子」》主イエス・キリストに関して、キリスト教では「半神半人」とは絶対に表現しない。それでは神としても人間としても中途半端(不完全)な存在だからである。むしろ「完全な(100%の)神」が「完全な(100%の)人間」を担った(引き受けた)存在と理解している。

(注)別エントリー「試論:『神には劣化がない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8697

神は本来、神以外の別物に変質(劣化)できない以上、「神が人となる」ためには神のままで人間としての全てを担う(引き受ける)必要があった。これをヨハネ1章14節は「〔神の〕御言葉は肉となる」として記し、ニケア・コンスタンチノープル信条は「おとめマリアよりからだを受け」として表現した。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

ヨハネ1章1節の「言(ことば)」、いわゆる「神の御言葉」とは、「御自分で御言葉をお話しになる神」すなわち御子である神、主イエス・キリストを意味する。「言(ことば)は神とともにあった」とは、天地創造以前の初めから、御子である神は御父である神とともに存在しておられたということである。

現代人は「神が人となる」と聞くと、神がそのまま人に変化(変質)するとイメージしがちだが、そのイメージは古代のイスラエル人にはなかった。出エジプト記3章14節「わたしはある」とは《わたしは劣化しない》(詩編102編28(27)節参照)を意味し、神から人への劣化を認めないからである。

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

聖書で「神が人となる」とある場合、それは「神が人に変質(劣化)し、人でいる期間は神でいることをやめている」を意味せず、「神は神のまま人間としての全てを担い、神でもあり人でもある存在となる」を意味する。「わたしはある」という神には、変質も劣化もない(詩編102編28(27)節等)。

古代のヘブライ人は「肉」を、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけではなく魂も含めた人間の全体。)」を表す言葉として用いていた。創世記6章12節「すべて肉なる者は堕落の道を歩んでいた」(新共同訳)。日本語訳の「肉なる者」に対応する語は、ヘブライ語本文ではただ単に「肉」である。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7795

詩編49(48)編8(7)節は、神に対して人間が贖いの業を行うことはできないと記す。とはいえ神の御独り子が自ら人間となられて自分の「からだ」を「身代金」として贖いの業を行われた時の「からだ」は、マリアから受けたものだった。マリアは極めて特別な形でイエスの贖いの業に「参加」をした。

(注)別エントリー「試論:『履物を脱ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8620

詩編49章8(7)節は神に対し人間が贖(あがな)いの業を行うことはできないと説く。それができるのは「人〔となられた神〕の子」だけであり、そのために主イエスは来られた(マタイ20章28節)。神は劣化できないため、神のままで人間の全てを担う必要があり、そのためにマリアが不可欠だった。

【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。

試論:「救い主誕生の目的」を140文字以内で

ヨハネ8章34節「罪を犯す者は皆、罪の奴隷」同章31節〜32節「わたしの言葉にとどまる人は本当の弟子で真理を知り、真理はあなたたちを〔罪の奴隷状態から〕自由にする」同14章6節「わたしは真理」マタイ1章21節「マリアが産む男の子は自分の民を罪から救うので、イエスと名付けなさい」。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

試論:「客間」を140文字以内で

エレミヤ14章8節はイスラエルの救い主が「宿」を求める旅人のようになると預言した。同節の古代ギリシア語訳で用いられている客間を意味する語と、ルカ2章7節で「宿屋〔がなかった〕」を表す語は同じで、同22章11節とマルコ14章14節で「〔過越の食事をする〕部屋」を表す語も同じである。

試論:「ひそかに縁を切ろう」?を140文字以内で

【問】婚約者の妊娠を知ったヨセフはなぜ「ひそかに縁を切ろう」としましたか?
【答】隣人の悪事の確証を握っている者は、それを告発しなければ処罰の対象でした(レビ5章1節)が、ヨセフにとって妊娠と同様に彼女の貞潔も一目瞭然で、十戒は偽証を禁じており大混乱の彼は身を引こうと決意しました。

(注)別エントリー「試論:『婚約者の妊娠』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21032

(注)別エントリー「婚約者の妊娠を知った時のヨセフの心情」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3092

試論:「肉に罪を犯させる機会」を140文字以内で

【問】ガラテヤ5章13節「この自由を、肉に罪を犯させる機会とはせずに」の意味とは?
【答】「自由」とは洗礼による罪と悪の支配からの解放つまり罪の赦しを指し、「『洗礼を受けた自分は全てが赦されている』と勘違いしてはならない」という意味です。洗礼は「洗礼後に犯した罪」を正当化しません。

(注)別エントリー「真理は罪と悪と死から自由にする」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9524

【追記】

【問】ローマ13章14節「肉に心を用いてはならない」の意味は?
【答】パウロやヨハネはしばしば神に由来する事柄を「霊」、人間に由来する事柄を「肉」と呼び対比させています。主イエスはルカ8章14節で「御言葉を聞いても人生の思い煩いや富の誘惑が心を占めている」状態を警告されていました。

(注)別エントリー「試論:『肉と霊』の対比を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7740

ガラテヤ5章16節以下では「肉と霊」が対比されるが、ここで「肉」はヨハネ1章14節同様に「人間」を指し、「霊」は「聖霊」「神の霊」を意味する。つまりガラテヤ5章の「肉」と「霊」との対立とは、「人間に由来する諸悪」(マルコ7章20節以下参照)と「神に由来する諸徳」の対立を意味する。

(注)別エントリー「試論:聖書と『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7649

多くの人が黙示録20章の記述を誤解し、キリストと共に世を支配する「千年王国」を夢見たが、他方ヨハネ18章36節で主は御自分の王国(バシレイア)は世に属さないと確言された。「王」(マタイ25章34節)であるキリストと共に支配するとは、悪魔の罪と死による支配から自由になることである。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

試論:ソロモン王の虚勢を140文字以内で

列王記上11章はソロモンが数多くの異邦出身の女性に囲まれて生活し、王が女性たちに神々への崇拝を認めた結果、異教礼拝が蔓延したと記す。彼の知恵の「曇り」は10章18節以下の通り、多数の獅子像に囲まれた王座を造らせた際も見られた。主に基づく知恵は、この種の虚勢は不要と諭すはずである。

【追記】

ソロモン王は傑出した知恵によって名声は世界に及び、神殿を完成させ国を繁栄させる等の功績を打ち立てたが、多くの異邦人の女性たちを愛し、彼女らが異教礼拝を持ち込むのを容認した結果、イスラエルに異教が蔓延し、バビロン捕囚の遠因となった。シラ49章4節はソロモンを堕落した王たちに含める。

ダビデは多くの妻がありながら臣下ウリヤの妻に横恋慕してつまずき、数多くの異邦出身の妻たちのためにソロモンはイスラエルに異教礼拝を持ち込むのを容認した。処女懐胎後の婚約者の妊娠に苦悩したが道を間違えなかったヨセフの姿は、女性に惑わされて道を誤ったダビデやソロモンとは雲泥の差がある。

聖書においてアブラハム、イサク、ヤコブの三人の名前はよく並称されるが、父アブラハムや息子ヤコブに比べると、イサクには歴然とまさっている点があった。それは、多くの財産を持つ有力者であるにもかかわらず複数の女性をわがものとすることなく生涯リベカただ一人だけを愛し続けたという点だった。

イサクにとって元来リベカは親族だが自分よりも一世代下で、イサクが中年の域に入っていたにもかかわらず、彼女は主なる神の御意向に応じ遠路はるばる嫁いでくれた若い女性だった。世の男性の中には、もっともらしい理由をつけては年下の妻を小馬鹿にする人もいるが、イサクは妻リベカを尊重し続けた。

(注)別エントリー「『マリアの処女懐胎は誤訳に基づく話』説は本当か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1524

(注)別エントリー「『処女懐胎は誤訳に基づく話』説は本当か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1551

創世記で、イスラエルの十二部族の始祖となったヤコブの十二人の息子は四人の女性から産まれたため、必然的に古代のイスラエル人の共通の母はヤコブの母リベカになる。リベカは「若い娘」の時分に父の従兄弟イサクと結婚したがイサクは既に四十歳だった。この年齢差を旧約の民は不自然と感じなかった。

リベカは「古代のイスラエル人の共通の母」として旧約時代の重要人物であるにもかかわらず創世記は彼女の死について記述を残していない。息子たちの和解の後にもイサクは登場するがリベカの姿はない。一世紀後半のユダヤの歴史家ヨセフスはイサクの死を記した箇所で彼が妻に先立たれていたことを記す。

神の御独り子の母

聖母は「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)となられた方なのに、「わたしは主のはしため」(38節)と自称されたが、ペトロとヤコブは「神はへりくだる人に恵みをお与えになる」と記した。「神の御独り子の母」となられた女性のへりくだりと恵み(ルカ1章28節)とは、どれほどであろうか?

(注)別エントリー「試論:初代教会と箴言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5756

受胎告知に際し聖母マリアは「恵まれた方」と挨拶されたが、二ペトロ1章は信仰における神からの恵み(2節)の内容を5節以下で記し、信仰に始まり徳・知識・自制・忍耐・信心・兄弟愛・愛に至るとして、恵みが加わるほど、「情欲に染まったこの世の退廃」(4節)や怠惰(8節)から遠くなると記す。

受胎告知の際マリアは「恵まれた方」(新共同訳)と呼ばれたが、「恵まれた」とは、

《〔神からの〕とめどもない好意を得た》

の意味で、古代ギリシア語訳箴言を参照すると比類のないこの《好意》は、彼女の「へりくだり」(箴言3章34節)と「善のみの追求」(同11章27節)に対する、恵みである。

(注)別エントリー「試論:『聖寵充ち満てるマリア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8642

(注)別エントリー「試論:聖母崇敬の理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5253

【問】無原罪の聖母マリアの祭日にエフェソ1章が朗読される理由は?
【答】ルカ1章28節では非常に特別な恵みを表すギリシア語が用いられますが、エフェソ1章6節では信者全般に同じ語が用いられます。聖母の場合と異なり、あくまで洗礼時の一度限りですが全信者は非常に大きな恵みを受けています。

(注)別エントリー「試論:『聖寵充ち満てるマリア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8642

(注)別エントリー「試論:無原罪の御宿りを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4629

【問】マリアは受胎告知の時から「無原罪」になったのだと考えてはいけませんか?
【答】「無原罪」とは【存在の初めから常に悪魔の感化つまり罪や悪の影響とは全く無縁である】(創世記3章15節、黙示録12章)という意味ですので、生涯のある時点から「無原罪」になるという発想は意味がないです。

聖母マリアは「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)となられた方でありながら、「わたしは主のはしため」(38節)と自称されるほど高慢心のかけらもない謙遜そのものの方であった。従って、高慢心との訣別こそが「聖母マリアへの真の信心」へと踏み出す最初の一歩であるのは、至極当然である。

主イエスはマタイ20章28節で御自分が人間となられた目的を「仕えられるためではなく仕えるため」と仰せになった。その三十年以上前、ルカ1章38節で救い主の母となることを告知された女性は「わたしは主のはしため」と答え、彼女が「救い主の母」という立場を的確に認識していることが記される。

(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7479

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。

カトリックでは聖母マリアを「無原罪」つまりサタンの悪影響とは全く無縁の女性と教え、少女期の聖母が神殿で十年以上奉献生活を送り教育を受けたと教える。聖母は長年、救い主やあがないについて思い巡らしていた。受胎告知の際の言葉「わたしは主のはしため」は一朝一夕に出て来る類のものではない。

(注)別エントリー「神のお告げ:受胎告知と無原罪の御宿り」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4835

(注)別エントリー「試論:ヤコブ原福音書を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5239

(注)別エントリー「聖書の時代に神殿の処女は存在したのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1539

(注)別エントリー「『贖(あがな)い』と『救い主の母』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19677

(注)別エントリー「福音書の聖ヨセフと外典書の高齢者ヨセフ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4759

試論:「世界最終戦争」????を140文字以内で

【問】エゼキエル38章「マゴグのゴグ」預言をもって、これは「世界最終戦争」の預言だと主張する人々がいます。
【答】13節では、ゴグのイスラエル侵攻の目的として、「家畜」などの「財産」や「戦利品」の略奪が挙げられています。家畜の略奪目的の戦争が、「世界最終戦争」であるわけがないです。

(注)別エントリー「試論:エゼキエル戦争を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4921

(注)別エントリー「予備的考察:いわゆる『エゼキエル戦争』【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15520

【追記】

主はルカ21章22節でエルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると仰せになり、既にそれは紀元七〇年に現実となった。現代の世界情勢を安易に旧約聖書の預言に関連付ける発想は主イエスの仰せには合致しておらず、疑う余地なくこの発想はキリスト教的でなくキリスト教の外部に由来する。

(注)別エントリー「試論:非キリスト教的な預言解釈を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/21066

試論:ヨセフの終生童貞を140文字以内で

母親にとって育児は大仕事だが、それが《人となられた神の御独り子》ならなおさらで、マリアはとてつもない重責を担っていた。御父である神がヨセフに望まれたことはマリアとの間にイエスの弟妹をもうけることだろうか? むしろ御子のためにヨセフとマリアが終生童貞であり続けることではなかろうか?

(注)別エントリー「試論:聖ヨセフの模範を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7243

(注)別エントリー「イエスの『兄弟』『姉妹』:同胞か親戚か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1451

【追記】

古代のイスラエルにおける第一の掟は、「あなたは心・精神・思い・力を尽くして、あなたの神である主を愛さなければならない」(マルコ12章30節、申命記6章5節)。この掟に鑑みて養父ヨセフは、自分自身と妻マリアから幼子イエスを愛する機会を片時でも奪う可能性のある行為を、完全に断念した。

(注)別エントリー「聖母と聖ヨセフが終生童貞である理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4464

カトリックで聖母を指す表現「天の門」は、聖書では創世記28章17節にのみ登場し、同節は主がおられた場所を「なんと畏れ多い場所」「天の門」と呼ぶ。主を宿した「胎」(ルカ11章27節)であるマリアを、同様に《なんと畏れ多い女性》と感じるのは、古代のイスラエル人の感覚として当然である。

(注)別エントリー「試論:ルカ11章28節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5786

マタイ福音書のギリシア語本文はヨセフをディカイオス(1章19節)と呼ぶが、ディカイオスは最後の審判で天国の福楽を確約されている人(25章37節)を意味し、ヨセフがもともと天の国にいてもおかしくないほどに無垢な(創世記6章9節)底抜けの大善人で天使のような人であったことを示唆する。

(注)別エントリー「試論:聖ヨセフと天使を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19238

試論:父の心を子に向けさせ??を140文字以内で

【問】ルカ1章17節「父の心を子に向けさせ」とは?
【答】マラキ書の最終節「彼は父の心を子に向けさせ子の心を父に向けさせる」の引用で、「神に逆らう者に義人の分別を持たせ主のために民を準備」(ルカ前掲節)して神と神の民の関係を本来の姿に戻すことを指し、マタイ17章11節に対応します。

【追記】

【問】聖書を読んでいると、親が子供に言い聞かせるような話ばかりで、自分はもう「いい歳した大人」なのにと感じます。
【答】イザヤ63章は神なる主と人々との関係を父と子に喩え(8節、16節)、主イエスも自分を低くして心を入れ替え子供のようにならなければ天の国に入れないと教えられました。

【問】主イエスのマタイ17章11節の仰せ「エリヤ(=洗礼者ヨハネ)が来て、全てを元通りにする」の意味とは?
【答】ルカ1章16節以下「彼はイスラエルの多くの人々を、人々の神である主の許へと立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と権威と共に救い主に先立って歩み、救い主のために民を準備させる」。

(注)別エントリー「洗礼者の最後の日々」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/20923

出エジプト記34章で主の栄光がモーセに現わされた際、御自分が優しさと厳しさを兼ね備えた神であると主はモーセに明らかにされた。ダビデは詩編18編21(20)節以下で、主は優しい人には優しく厳しい人には厳しいと歌った。その人が隣人に敬意を示さない限り、主はその人の信仰を認められない。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

(注)別エントリー「試論:『選ばれた人は選んだ人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8034

試論:「インマヌエル」を140文字以内で

イザヤ7章14節で預言されたインマヌエルをヘブライ語マソラ本文は、「インマヌ」と「エル」の間に空白を置き二語で表記し、一語で表記される人名とは明確に区別する。マタイ1章23節のギリシア語本文とラテン語訳も、インマヌエルを「わたしたちと共におられる神」と解釈し、その神性を強調する。

(注)別エントリー「主イエス・キリストがインマヌエルである理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1338

試論:「ディカイオス」理由を140文字以内で

主の養父ヨセフをマタイ1章19節はディカイオス(義人、正しい人)と呼んだ。ルカ1章6節は洗礼者の両親ザカリアとエリサベトをもディカイオスと呼び「主の掟と定めを全て守り非の打ち所がない」と記す。古代ギリシア語訳創世記6章9節もノアをディカイオスと呼び「無垢で神と共に歩む人」と記す。

試論:非キリスト教的な預言解釈を140文字以内で

主はルカ21章22節でエルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると仰せになり、既にそれは紀元七〇年に現実となった。現代の世界情勢を安易に旧約聖書の預言に関連付ける発想は主イエスの仰せには合致しておらず、疑う余地なくこの発想はキリスト教的でなくキリスト教の外部に由来する。

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

【追記】

一ヨハネ4章は、信者を自称しながらも主イエスに関して頑として触れようとしない人々のことを「人を惑わす霊」「反キリストの霊」「偽預言者」等と表現する。これらの人々は、福音書の中の主イエスの実際の仰せには絶対に触れず、替わりに俗世間の話や根拠不明の胡散臭い「終末預言」で人々を惑わす。

(注)別エントリー「試論:偽預言者と貪欲を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7125

(注)別エントリー「試論:『偽教師を識別する』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17303

一ヨハネ4章の通り偽預言者や偽教師は、主イエスが実際に仰せになった福音書の御言葉には絶対に触れようとせず、代わりに「世」すなわち俗世間や国際情勢の話で置き換える。主イエス御自身が預言とは御自分についてあかしするものだと仰せにもかかわらず、国際情勢や「終末預言」へと話をすり替える。

主イエスはヨハネ5章39節で「あなた方は〔旧約〕聖書中に永遠の命が存在すると考え〔旧約〕聖書を研究するが〔旧約〕聖書はわたしに関してあかししている」と仰せになり、御自分と無関係の目的で〔旧約〕聖書を研究したとしても本当に重要な真理には全く到達することができないと、お教えになった。

(注)別エントリー「聖書にはクリスマスの日付が載っていますか???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13267

ヨハネ5章39節で主が仰せの通り、旧約聖書全体を等しく重視するよりも主イエスとその福音に関連の強い事柄を優先して学ばねばならない。例えば「正義(=「神の義」)を衣としてまとう」(詩編132編9節)という旧約聖書の慣用句を知らなければ、マタイ22章の「礼服」のたとえは理解が難しい。

(注)別エントリー「試論:『神の義』と詩編を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6798

ルカ24章のエマオでの御出現において主は、旧約聖書とは御自分について証しするものであり、実際その詳細について《全体》の説明を始めると、何時間あっても語り尽くせないことをお示しになった(27節)。主は以前にもユダヤの人々に対して同じ事柄をお話しになられていた(ヨハネ5章39節等)。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ5章46節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7208

旧約聖書の預言は第一義的に主イエス・キリストの到来及びその前後までの歴史的出来事をあかしするためのものであり、キリスト到来から約二千年後に生きる現代人が国際情勢を読み解くためのものではなく、国際情勢分析など本来の意義とは無関係の完全な逸脱行為であり、真理には絶対にたどり着けない。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

マルコ12章における律法学者との対話において主は、旧約聖書の中の多くの掟について、重要性における順序があることを再確認された。またヨハネ5章39節で、旧約聖書とは御自分について証しするものだと主は御説明され、旧約聖書を調べる目的は御自分へと到達するためであるべきだと仰せになった。

(注)別エントリー「試論:キリスト教と旧約聖書を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6527

主はルカ21章22節で、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就することを仰せになり、それは紀元七〇年に現実となった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代の世界情勢を安易に旧約聖書の預言に関連付ける行為は不毛で誤りの元であり、主の仰せにも合致していない。

ルカ21章22節には「書かれていること」という言い回しが用いられているが、これはヨシュア記1章8節と同様に、「預言された事柄」「神から啓示された内容」などを意味する表現である。古代においては「書く(書いて記録に残しておく)」という行為それ自体が、非常に重要な意味を持つものだった。

ダニエル9章24節はメシアに関して預言の時代を封印する存在だと預言し、主イエスはルカ21章22節で旧約聖書の全預言が(紀元七〇年の)エルサレム滅亡で成就すると仰せになった。故に現代や近未来の国際情勢と旧約聖書の預言とは無関係で、関係ありとする解釈は主の仰せとは明確に相反している。

主はヨハネ5章39節で、聖書とは御自分についてあかしするものであり、御自分を目的としない聖書研究には意味がない旨を仰せになった。これに関連し一ヨハネ4章も、主イエスに関する事柄についてなるべく触れようとしない自称信者を「偽預言者」「反キリストの霊」「人を惑わす霊」などと表現する。

ルカ17章34節から35節で主は「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」と繰り返されたが、では一体どこに「連れて行かれ」るのかを、ルカ21章24節では「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と御説明された。これは大昔モーセがレビ記26章33節以下で預言していた話と同じである。

紀元七〇年のエルサレム滅亡時にローマ軍へ投降したユダヤ人のうち、使徒言行録22章のパウロのようにローマの市民権を持つ者はローマ法の保護下にあるため留め置かれたが、そうでない者は妻子と共に奴隷とされて売り飛ばされた。こうして「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」は現実となった。

プロテスタントの文語訳聖書『改訳 新約聖書』(1917年)はルカ21章23節を「地(ち)には大(おほひ)なる艱難(なやみ)ありて、御怒(みいかり)この民(たみ)に臨(のぞ)み」と訳し、ある人々がいわゆる「大艱難時代」と呼ぶ時期とは実は紀元七〇年の滅亡の前後に他ならないと示唆する。

主はルカ21章23節でエルサレム滅亡とその前後のユダヤの苦難を予告されたが、『改訳 新約聖書』(1917年)では「大なる艱難」と日本語訳する。一世紀後半のユダヤの歴史家ヨセフスの記述通り、紀元六六年の大反乱の勃発から七三年のマサダ陥落までの七年間に、ユダヤは惨劇の連続を経験した。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ5章39節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9100

(注)別エントリー「試論:ルカ19章41節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5814

(注)別エントリー「試論:預言解釈の基本を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5092

(注)別エントリー「試論:『滅びを避けるには』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5749

(注)別エントリー「試論:エゼキエル18章を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5726

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

(注)別エントリー「試論:エゼキエル戦争を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4921

試論:「秘密を守れない人」を140文字以内で

箴言11章13節は、信仰を持っている人なら他人の秘密を守れるが、日頃から他人の悪口を言い触らす人や二枚舌だったりする人は他人の秘密を守ることができないと説く。旧約の民は詩編12編の通り原則として、裏表(嘘偽り)のある人や言行不一致の人の中に信仰の存在を決して認めてなどいなかった。

試論:「婚約者の妊娠」を140文字以内で

レビ5章1節は、ある人が罪を犯したことは確実という証拠を持っていながら、その人のことを表ざたにしないなら、表ざたにしない者も罰を受けると記す。もしも婚約者が自分を裏切ったという確証を持っていながら、それでもヨセフが婚約者のことを表ざたにしなかったなら、ヨセフは義人ではあり得ない。

【追記】

マタイ1章19節は、婚約者の妊娠がヨセフにとって一目瞭然で疑いようのない事実だった一方、ヨセフにとって婚約者の貞潔もまた一目瞭然で疑いようのない事実であり、ヨセフは大混乱の中にあったがそれでも「婚約者が裏切った証拠は全くなく、彼女を告発するわけにはいかない」と決意したことを記す。

マタイ1章20節の本文は、婚約者の妊娠を知ったヨセフの心情をエントゥメオマイと表現する。通常この語は熟考・熟慮を表し内面の怒りや憤慨を表す可能性も含むが、ヘロデの激昂を表す2章の語トゥモオーと違い、あくまでも本人の内面に留まるもので婚約者に感情を直接ぶつけた可能性は否定的である。

(注)別エントリー「婚約者の妊娠を知った時のヨセフの心情」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3092

詩編15編3節は、神なる主と同じ住まいで暮らす人の条件として、周囲に対して中傷をせず、害を及ぼさず、小馬鹿にした態度を取らないことを挙げ、また2節では完全(=無垢)で、義を行うことを挙げる。主イエスの同居家族として、ヨセフが幼子や幼子の母を困らせる行動に出た可能性は皆無と言える。

試論:「ダビデ王家とキリスト」を140文字以内で

サムエル下7章16節を根拠にダビデの子孫から救い主が現れると考えられていた。途中エコンヤ(マタイ1章11節。エレミヤ22章24節の「コンヤ」)の時代にエレミヤの預言で、ダビデへの預言の約束は無効にされたと思われたが、ハガイ2章の預言はゼルバベル(マタイ1章12節)を再び指名した。

【追記】

捕囚からの帰還後ハガイとゼカリヤは総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアへの祝福を預言し、ハガイは特にゼルバベルの「選び」を最後に語るが、ゼカリヤ6章11節では「戴冠」するのはヨシュア一人となる。中世以降のユダヤ教の立場ではゼルバベルの「役割」は不明瞭だがキリスト教の立場では明白である。

ペルシア王によるバビロン捕囚からの解放後、神殿再建を目的にユダヤ人たちはエルサレムに帰還したが、ダビデ王の末裔としてゼルバベルが総督に任命されたとはいえ、総督はかつての「王」に相当する立場ではなく、彼はあくまでペルシア王国の官僚の一人に過ぎず、大祭司がユダヤ民族の代表者となった。

ハガイ書の最後がゼルバベルの特別な「選び」を預言したにもかかわらず、かつての「王」としての立場までは復帰できぬままゼルバベル本人は歴史の表舞台から姿を消し、彼の子孫からもこれと言った著名人が出せぬままに約五百年が過ぎた。しかし長年その到来が待たれていた救い主はそこから登場された。

試論:「知恵」を自称された理由を140文字以内で

マタイ11章19節「知恵の正しさはその働きが証明する」またルカ7章35節「知恵の正しさはそれに従う全ての人々が証明する」の「知恵」とは、主イエス御自身である。主はルカ11章49節で神の知恵、52節で知識の鍵を称された。コロサイ2章3節「知恵と知識の宝は全てキリストの内に隠れる」。

【追記】

主イエスはマタイ11章で洗礼者ヨハネを回顧された後、19節で御自分を「知恵」と称された。3章16節の洗礼者によるヨルダン川での洗礼の際、神の霊が主イエスの上に降(くだ)って来たが、イザヤ11章2節の通り神の霊の賜物の筆頭は知恵だからであり、『箴言』は全体としてこのことを裏付ける。

(注)別エントリー「試論:『知恵』としての主イエスを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/20869

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを識別する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14194

試論:マタイ21章32節の意味を140文字以内で

なぜならヨハネが到来して《義の道》であるわたしを示しても、あなたたちはわたしのことを信じなかったが、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちは徴税人や娼婦たちの回心を見ても、その後に考えを改めて彼らと同じように《義の道》であるわたしのことを信じようとは絶対に、しなかったからだ。

(注)別エントリー「試論:『義の道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/20950

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

試論:「いい歳した大人なのに」を140文字以内で

【問】聖書を読んでいると、親が子供に言い聞かせるような話ばかりで、自分はもう「いい歳した大人」なのにと感じます。
【答】イザヤ63章は神なる主と人々との関係を父と子に喩え(8節、16節)、主イエスも自分を低くして心を入れ替え子供のようにならなければ天の国に入れないと教えられました。

【追記】

【問】主イエスはマタイ18章で子供を模範として示されましたが、なぜですか?
【答】自分を低くして(4節)心を入れ替える(3節)ことが神の御旨ですが、人間は往々にして年齢を重ねるうちに間違った自尊心を肥大させて聞く耳を持たなくなり、他人の助言や忠告に耳を貸さなくなってしまうからです。

試論:ぶどう園へ行って働く??を140文字以内で

【問】マタイ21章「二人の息子」の喩えの「ぶどう園へ行って働く」の意味とは?
【答】イザヤ5章は古代イスラエルを神のぶどう園に喩えますが、ここでは神の御旨を忠実に実行することを指します。洗礼者と主イエスからの要請は同じ「悔い改め」で、主はマタイ7章12節を原則として提示されました。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

【追記】

【問】悔い改めとは、粗布をまとって断食することですか?
【答】いいえ。神に立ち帰ることで、実際に行うべきは「他の人からしてもらいたいことなら全て他の人にしなさい」(マタイ7章12節)の《キリストの律法》に従い、相手の悲しむ顔・困った顔・苦しむ顔を見たいという悪意を断ち切ることです。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「試論:『滅びを避けるには』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5749

(注)別エントリー「試論:エゼキエル18章を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5726

試論:「義の道」と「義人」を140文字以内で

主イエスはマタイ21章32節で「義(ディカイオシュネー)の道」を自称された(二ペトロ2章21節、箴言8章20節参照)が、養父ヨセフをマタイ1章19節は義人(ディカイオス)と呼び天使が雲の上から落ちて来たような底抜けの大善人であると示唆する。その彼でさえ婚約者の妊娠は大試練だった。

(注)別エントリー「試論:『義の道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/20950

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「婚約者の妊娠を知った時のヨセフの心情」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3092

(注)別エントリー「試論:聖ヨセフの模範を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7243

(注)別エントリー「試論:マリアとヨセフに倣う事柄を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7012

試論:「義の道」を140文字以内で

【問】主イエスのマタイ21章32節の仰せ「義の道」って何?
【答】ヨハネ14章6節の仰せ「わたしは道」を踏まえれば、主は「義の道」という表現で御自身を暗示されました。「徴税人や娼婦たちは彼を信じた」の「信じた」とは信仰の対象としての意味で、彼らの信仰の対象は洗礼者でなく救い主です。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

【追記】

二ペトロ2章21節「『義の道」(=主イエス・キリスト)を知りながら自分たちに与えられた聖なる掟(ヨハネ13章34節、マタイ7章12節)から離れ去るより、『義の道』を知らなかった方が、彼らのためには良かった」箴言8章20節「わたし(=知恵)が歩んで行くのは、憐れみの道と、義の道」。

主イエスはマタイ11章で洗礼者ヨハネを回顧された後、19節で御自分を「知恵」と称された。3章16節の洗礼者によるヨルダン川での洗礼の際、神の霊が主イエスの上に降(くだ)って来たが、イザヤ11章2節の通り神の霊の賜物の筆頭は知恵だからであり、『箴言』は全体としてこのことを裏付ける。

(注)別エントリー「試論:『知恵』としての主イエスを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/20869

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを識別する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14194

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは道である」と仰せになったが、この場合の「道」とは、全ての人が生きて行く上で辿るべき道筋(道理・規範)を指し、御自身がその模範であることをも意味する。ホセア14章10(9)節「主の道は正しい。神に従う人はその道を歩み、神に逆らう人はつまずく」。

箴言10章29節は「主の道は義人が頼みとするところであり悪人を滅亡へと導く」と説く。この場合の「道」とは、《主が掟や御教えによってお示しになっている誰もがそこを通って進んで行くべき道筋》つまり「主の規範・指針」を意味し、悪人の「滅亡」とは「永遠の罰」(マタイ25章46節)を指す。

(注)別エントリー「試論:『命に通じる門』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10525

キリスト教の信仰に関して使徒言行録は、度々これを「道」と表現し(9章2節、18章25節、同26節、19章9節、同23節、22章4節、24章14節、同22節)、ヨハネ14章6節で主イエス御自身も御自分を「道」と表現され、御自分を通らなければ天の御父のもとには行けないと仰せになった。

日本語でも「人としての道から外れる」などと表現するように、主イエスが「わたしは道」と仰せになる際の「道」とは、誰もがそこを通って進んで行くべき人間としての道筋、つまり御父である神の御前における、人間としてのあるべき姿(人間としてのあり方や生き方の規範・模範)という意味合いである。

(注)別エントリー「試論:『キリスト教の信仰は道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6332

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7818

試論:「群衆が怖い」を140文字以内で

マタイ21章25節で、主イエスから「ヨハネの洗礼は何の権威によるのか」と問われ、祭司長や長老たちは迂闊な事は言えぬと、答えに窮した。彼らの仲間のサドカイ派の人々は「蝮の子ら」と呼ばれてもヨハネの洗礼を希望し、それを見ていた多くの群衆が今や、この都に過越祭で集まっているからである。

【追記】

救い主は「復活と命」(ヨハネ11章25節)つまり御自分の「復活の体」の創造と共に「新しい天・地・エルサレム」を創造し、全人類を罪から救って、永遠の命(天国の福楽)へ導かれる方である。しかしサドカイ派は復活を否定していた(マタイ22章23節)。洗礼者が「蝮の子ら」と呼ぶ理由である。

(注)別エントリー「試論:新都エルサレムの『用意』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16763

(注)別エントリー「主の御復活とともに創造された事柄とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15917

主イエスのファリサイ派批判で最も多いのはマタイ23章3節の通り「建前は立派でも中身は〜」だが、神殿の有力者たちの仲間であるサドカイ派は、復活を否定するなど、主イエスとは建前からして違った。来世について考えることをしない彼らはおのずと現世志向であり、既得権益の維持に汲々としていた。

洗礼者自身による「否定」

主イエスはマタイ11章14節で、洗礼者ヨハネが預言者マラキのいうエリヤだと教えられたが、ヨハネ1章21節で洗礼者は一度それを否定した。当時の人々は最初にしるしで判断しようとした(マタイ12章38節)が、洗礼者にはエリヤと同じしるしを行う意図はない(ヨハネ10章41節)からである。

洗礼者は何のしるしも行わなかった(ヨハネ10章41節)が、主は彼がエリヤだと仰せになった(マタイ11章14節)。洗礼者自身はエリヤであることを否定した(ヨハネ1章21節)が、人々から「天からのしるし」(列王上18章38節、マタイ16章)を求める声が起こらないようにするためだった。

福音書の時代、ユダヤ世界の人々の前に、まず洗礼者ヨハネが現れ、続いて主イエスが活動を開始された。当時の人々は誰しも、一度は「どちらがメシアか」と疑問を持ったはずだが、その答えはヨハネ10章41節の通りしるしを行わない方がマラキが預言した先駆者、しるしを行われる御方がメシアである。

マルコ8章11節でファリサイ派の人々は主イエスを試そうと「天からのしるし」を求めたのに対し、主は「なぜ『時代のしるし』を悟ることができないのか」とマタイ16章3節で答えられた。「時代のしるし」とは、預言されていた救い主による癒し(イザヤ35章5節以下)と、主によるその実践である。

主イエスはパンを増やし四千人の群衆に食べ物を与えるという奇跡を行われた。類似の奇跡は列王下4章42節以下で「神の人」預言者エリシャも行っていた。主イエスの神の御独り子たる本領は「生まれつき目が見えなかった人の視力を回復させた」(ヨハネ9章32節、イザヤ35章5節)時に発揮された。

ルカ2章11節は「あなたたちのために救い主がお生まれになった」マタイ1章21節は「この子は自分の民を罪から救う」と記す。イザヤ35節4節以下は「敵(サタン)を撃ち悪を罰する神が来られ、あなたたちを救われる」と預言し、目や耳や足や言葉の不自由な人々の回復が神の到来の徴になると続く。

四福音書は主イエス・キリストによる病人の奇跡的な癒しをさまざまに記すが、理由はイザヤ35章4節以下で救い主の到来が預言されている通り、見分ける徴は目や耳や手足や言葉の不自由な人の奇跡的な治癒(6節。またヨハネ9章32節参照)であることが、既に数百年前から預言されていたからである。

主イエスはヨハネ5章39節で「あなた方は〔旧約〕聖書中に永遠の命が存在すると考え〔旧約〕聖書を研究するが、〔旧約〕聖書はわたしに関してあかししている」と仰せになり、御自分とは無関係の目的で〔旧約〕聖書を研究しても、本当に重要な真理には全く到達することができないと、お教えになった。

洗礼者の最後の日々

ヨハネ1章で洗礼者は、主イエスを「神の小羊」と呼んで、自分の弟子の中からアンデレとヨハネを主イエスへ導いた。マタイ11章では死期が迫ったと覚悟した獄中の洗礼者が、残りの弟子たちにイエスへ質問させることによってイエスに導き、自分に義理立てして最後まで従って来た人々をイエスに託した。

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7514

イザヤ62章5節は「神と神の民」の関係を「花婿と花嫁」の関係にたとえたが、ヨハネ3章29節で洗礼者が「花婿の介添人」を自称する場合、「花婿」が主イエス・キリストであるのは、いうまでもない。洗礼者は、「花婿」と「花嫁」を引き合わせるまでが自分の役割と心得て、30節の言葉を口にした。

(注)別エントリー「試論:『花婿と花嫁』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5665

主イエスは使徒をお選びになる際、既存の教派に属したことのない者か属したことがあっても以前の流儀や特色に固執せず頭を切り替えた者を選ばれた。例えば初めは洗礼者の弟子だったが、洗礼者の言葉に従ってイエスの弟子となり、主に従うことこそ洗礼者にも忠実であることと割り切ったアンデレである。

(注)別エントリー「試論:『履物のひもを解く』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13454

【問】主イエスのマタイ17章11節の仰せ「エリヤ(=洗礼者ヨハネ)が来て、全てを元通りにする」の意味とは?
【答】ルカ1章16節以下「彼はイスラエルの多くの人々を、人々の神である主の許へと立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と権威と共に救い主に先立って歩み、救い主のために民を準備させる」。

主イエスはマタイ9章35節の通り「町や村を残らず回って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気や患いを癒やされた」。洗礼者はアンデレとヨハネとを主イエスに導いた際(ヨハネ1章)等を除けば、基本的には「ヨルダン川の向こう側」にとどまり、しるしは行わなかった(同10章41節)。

ルカ福音書の「ヘロデ」は、マタイ2章に登場するヘロデ大王の息子の、ヘロデ・アンティパスである。マルコ6章によれば彼は洗礼者の教えに耳を傾けてはいたが、多分に好奇心によるもので、悔い改める気などなかった。後に御受難の日の主イエスに会っても、思い通りにならないと直ちに嘲弄し侮辱した。

ヘロデ・アンティパスは洗礼者の言葉に喜んで耳を傾けたが単なる好奇心からで、自分の兄弟がお人好しであることにつけ込んで、その妻と親密になり、やがて彼女を奪い取った。根はやはり悪人の彼はイエスの逮捕後、イエスにも興味を抱いたが、興味を失うと洗礼者の時と同様に、イエスを平気で見捨てた。

申命記25章には跡取りを産む前に夫に先立たれた女性に、家名を存続させる目的で亡夫の「兄弟(親族の男性全般)」との再婚を求める規定がある。しかしマタイ14章のヘロデは兄弟フィリポが存命中なのに、その妻と親密になり兄弟から妻を奪い取った。この件で洗礼者ヨハネはヘロデを厳しく叱責した。

(注)別エントリー「試論:『洗礼者ヨハネの死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14207

兄弟に妻を奪われたフィリポは、ヘロデ大王の息子たちの中ではへりくだりを知る常識人だった。ただ、癖の強い猛々しい悪人が揃うヘロデ王家の中にあっては、フィリポのこの態度は物足りなくも弱々しい「お人好し」として周囲に映ったようで、そこにつけ込んだ妻と兄弟によって小馬鹿にされてしまった。

試論:「洗礼者の役割」を140文字以内で

イザヤ62章5節は「神と神の民」の関係を「花婿と花嫁」の関係にたとえたが、ヨハネ3章29節で洗礼者が「花婿の介添人」を自称する場合、「花婿」が主イエス・キリストであるのは、いうまでもない。洗礼者は、「花婿」と「花嫁」を引き合わせるまでが自分の役割と心得て、30節の言葉を口にした。

(注)別エントリー「試論:『花婿と花嫁』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5665

試論:「全てを元通りにする」?を140文字以内で

【問】主イエスのマタイ17章11節の仰せ「エリヤ(=洗礼者ヨハネ)が来て、全てを元通りにする」の意味とは?
【答】ルカ1章16節以下「彼はイスラエルの多くの人々を、人々の神である主の許へと立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と権威と共に救い主に先立って歩み、救い主のために民を準備させる」。

試論:インマヌエル預言とアハズを140文字以内で

インマヌエル預言が啓示された際のアハズ王は、賢君として有名なヒゼキヤ王の父親ではあるが、本人はダビデ王家歴代でも最悪級の馬鹿殿様的な存在で、ダマスコとサマリアからの脅威に対して神に立ち返ることを考えず、アッシリアを巻き込めば問題を解決できるだろうと考え、国を危うくする道を選んだ。

(注)別エントリー「試論:インマヌエルを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5890

(注)別エントリー「主イエス・キリストがインマヌエルである理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1338

【追記】

ダマスコの王による侵攻の際アハズ王は、ダマスコと同じ神々を崇拝すれば敵を退却させられると考えイスラエルの神なる主への信仰を止めた。アッシリアのダマスコ占領後でさえ、アッシリア王が戦後処理のためダマスコに駐留したことを「アッシリアすらダマスコの神々に心服している」と勘違いしていた。

主イエスはマタイ23章35節で、悲劇的な死を遂げた(歴代誌下24章)義人ゼカルヤについて語られたが、その子孫の女性の一人はダビデ王家でも最悪級の馬鹿殿様だったアハズ王に嫁ぎ男子を産んだ。この男子がダビデ王家でも屈指の賢君ヒゼキヤ王である。祭司の娘との結婚は道徳的に王家を刷新した。

歴代誌下29章1節はヒゼキヤ王の母アビヤを「ゼカルヤの娘」と表現するが、この場合の「〜の娘」はルカ13章16節「アブラハムの娘」同様、「〜の子孫の女性」を意味している。主イエスも「アブラハムの子」「ダビデの子」などと呼ぼれているが、アハズとヒゼキヤはマタイ1章9節に登場している。

「天の国は力ずくで」??

マタイ11章12節「天の国は力ずくで襲われ」の本文で用いられた動詞は古代のギリシア語創世記33章11節「しきりに勧め」と同じで、「ヨハネの活動開始以後、天の国から地上の人々への積極的な働き掛けが目覚ましく、招きに積極的に応じた大勢の人が天の国に入ろうとしている」という意味である。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

マタイ11章12節「天の国は力ずくで襲われており」のギリシア語本文で用いられた動詞は古代のギリシア語創世記33章11節「しきりに勧めた」と同じであり、ヨハネの活動開始以降「天の国」から地上の人々への働き掛けが目に見えて活発化した事実をマタイ11章12節はレトリックで表現している。

主はマタイ4章17節で「天の国は近づいた」6章10節で「御国が来ますように」さらに12章28節で「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば神の国はあなたたちのところに来ている」と教えられ、神の御心が天に行われる通り地上でも行われる状態そのものこそ神の国の到来だと説明された。

(注)別エントリー「試論:無千年王国説を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4675

主はマタイ13章45節以下で、「天の国」を全財産と引き換えにしてでも手に入れるべき真珠にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「天の国」は「永遠の命」と同義だが、「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

ルカ10章25節の律法学者と18章18節の議員は同じ質問をした。ただ議員には「心・精神・力・思いを尽くして」の観点が欠けていた。主は議員に、「持ち物を全て売り払う」という表現で勧告なさったが、この表現はマタイ13章44節〜45節のたとえでは《あらゆる努力を尽くす》を象徴している。

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

マタイ19章16節で主に金持ちの青年が永遠の命を得るにはどうすればと尋ねた時、それを彼は比較的容易な事柄と考えていたが、主は同13章44節以下特に46節で、それを手に入れるためにはあらゆる努力を尽くす必要があることを、「宝」「真珠」「持ち物を全て売り払う」等の表現で御説明された。

(注)別エントリー「試論:『招かれる』『選ばれる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8012

(注)別エントリー「試論:『御言葉によって生きる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11157

マタイ7章21節で主イエス・キリストは、「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな、天の国に入るのではない。天におられるわたしの父のみ旨を行う者だけが入る」と仰せになられ、23節やルカ13章27節では入れなくなる理由とは「不法を働く」「不義を行う」ことであると明言されている。

(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8105

主はルカ17章20節で「神の国は見える形では来ない」、22節で「人の子の日を弟子たちが見ることはない」と仰せになったが、アモス5章18節は「主の日を待ち望む者は災いだ。主の日は闇であって光ではない」と預言しており、「神の国の到来」と「主の日」とを混同すべきではないと、理解できる。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888

主はマタイ10章7節で「天の国が近づいた」と告げるよう仰せになったが、それと別に23節で「人の子」が来る日をほのめかされた。これはルカ17章22節「人の子の日」や黙示録6章17節「神と小羊の怒りの大いなる日」を指し、マタイ24章33節の通り、人々は悲惨な諸事件から主の来臨を悟る。

(注)別エントリー「試論:『人の子が現れる日』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8454

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

マタイ22章14節の「選ばれる人」とは、神からの招きに忠実に応じて「神の掟を守り通す人」(黙示録12章17節)である。隣人に対して憐れみ深い人は自分も神の憐れみを受ける(マタイ5章7節)。一人一人が隣人に対して取るのと同じ態度を、神も一人一人に対して返される(ルカ6章38節等)。

ヨハネ15章16節で「あなたがたがわたしを選んだのではなくわたしがあなたがたを選んだ」と主は強調された。弟子が「自分は特別に選ばれたのだから人一倍主に忠実であるべき」という初心を忘れて「自分は主に特別に選ばれたのだから主は自分の過失を大目に見て下さるはず」と勘違いをしないために。

(注)別エントリー「試論:サウル王の背信を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5689

マタイ福音書では「天の国は近づいた」と三度(3章2節、4章17節、10章7節)言われるが、6章10節(「主の祈り」)では「御国が来ますように」の次は「御心が行われますように」となる。だとすれば、「天の国は近づいた」の次に続く言葉は「天の父の御心が地の上で行われる時が来た」である。

試論:「知恵」としての主イエスを140文字以内で

主イエスはマタイ11章で洗礼者ヨハネを回顧された後、19節で御自分を「知恵」と称された。3章16節の洗礼者によるヨルダン川での洗礼の際、神の霊が主イエスの上に降(くだ)って来たが、イザヤ11章2節の通り神の霊の賜物の筆頭は知恵だからであり、『箴言』は全体としてこのことを裏付ける。

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを識別する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14194

【追記】

パウロは一コリント1章24節で「召された者に対しては、神の力であり神の知恵であるキリストを宣べ伝えている」、同30節で「このキリストはわたしたちにとって神の知恵となり」と記す。主イエスもルカ11章49節で「神の知恵もこう言っている」と「神の知恵」を自称なさり仰せを宣べられている。

シラ4章11節では「知恵は、自分に従う者を高め、自分を追い求める者を助ける」と説く。主はルカ7章35節で「知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される」と仰せになり、11章49節では御自身を「神の知恵」と称された。一コリント1章24節と30節もキリストを神の知恵と呼ぶ。

主イエスはヨハネ15章26節で聖霊を「弁護者」「真理の霊」と呼ばれ、前章の26節に続いて聖霊が弟子たちを助けてくれると教えられた。イザヤ11章2節は「主の霊」の賜物の筆頭を知恵と啓示する。箴言8章12節は「知恵は熟慮と共に住まい知識と慎重さを備える」と記し、熟慮と慎重さを勧める。

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを確実に識別できる基準」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4564

イエスをルカ2章40節は「知恵に満ち神の恵みに包まれていた」と記し、ヨハネ1章14節では「恵みとアレテイアに満ちていた」と記すがヨハネはアレテイアを「忠実(わたしが父の掟に忠実であるように皆もわたしの掟に忠実であれ)」の意味で使う。聖書の知恵とは主への忠実(箴言1章7節)である。

(注)別エントリー「試論:『主を畏れる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10751

(注)別エントリー「試論:『信仰とアレテイア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16847

試論:福音書時代の反ローマ感情を140文字以内で

長年ユダヤを強権支配していたヘロデ大王に対する反感は、人々の間に蔓延していたが、その反感は次第にヘロデ王家を後援し続けるローマへ向かった。「ローマ人を追い出し、その軛を断ち切らない限り、自分たちはイスラエル人として純粋な状態ではない」という思い込みが当時のユダヤ人の間に広まった。

(注)別エントリー「試論:『人心荒廃は滅亡の前兆』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6291

(注)別エントリー「ダニエル書7章:地上に興る第四の王国」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4631

【追記】

使徒言行録5章37節は「ガリラヤのユダ」が反乱の指導者となり滅びたと記す。ヘロデ大王死後の混乱に乗じて勢力を拡大した彼は、ローマの住民登録への反対を掲げ、登録した者を親ローマ派と見なして敵視した。彼の滅亡を確かめた上で(マタイ2章20節)、聖家族はエジプトから帰還したはずである。

(注)別エントリー「試論:一世紀ユダヤの反乱や暴動を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6423

マタイ2章は暴君ヘロデ大王の後継者としてアルケラオの名を記す。ヘロデを恐れて沈黙していたユダヤの人々は、その死後いっせいに不満の声を挙げアルケラオは為す術を知らなかった。ローマ帝国は彼を不適格者と判断してユダヤからガリラヤを切り離し(マタイ2章22節参照)、最終的に彼を追放した。

(注)別エントリー「試論:黙示録17章『第八の者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9038

主イエスはローマの支配に関しては良いとも悪いとも仰せにならず、ただイスラエル人として純粋な状態であるためには神なる主の御前で無垢な状態でなければならないことを教えられた。結局、救い主は処刑され、ユダヤの人々は打倒ローマ帝国という大目標──自分たちを破滅に導く大目標──へ前進した。

(注)別エントリー「試論:『無垢をリスペクトする』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7325

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

試論:「ヨハネの時まで」?を140文字以内で

【問】主イエスはマタイ11章13節で〔旧約〕聖書の預言はヨハネの時までと仰せですが、ルカ24章とヨハネ5章39節では〔旧約〕聖書は御自分について証ししていると仰せです。
【答】「ヨハネの時」には洗礼者自身が預言した内容、つまり救い主の到来と差し迫った神の怒りまでが、含まれています。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ5章39節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9100

(注)別エントリー「試論:預言解釈の基本を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5092

(注)別エントリー「試論:『滅びを避けるには』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5749

【追記】

【問】洗礼者が預言した「差し迫った神の怒り」(マタイ3章8節)とは何ですか?
【答】主イエスも数年後にルカ21章20節で予告されたエルサレム及びユダヤの滅亡のことで、この予告は洗礼者の預言の四十数年後、紀元七〇年に成就しました。この滅亡は、ダニエル9章の預言でも啓示されていました。

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

試論:わたしの荷は軽い??を140文字以内で

神の国に入るためには「神の義」が不可欠であることを主は「礼服」という比喩で御説明された。コロサイ3章では「着る」べきものは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛と挙げる。マタイ11章で主は「わたしは柔和で謙遜な者だから」(29節)「わたしの荷は軽い」(30節)などと仰せになった。

(注)別エントリー「試論:なぜ『わたしの軛は〜』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6781

【追記】

主イエスはルカ11章46節では「背負い切れない重荷を他人に負わせるが自分自身は指一本触れようともしない」マタイ11章30節では「わたしの荷は軽い」と仰せになった。ファリサイ派と律法学者とはモーセの律法に「人間の言い伝え」を上乗せしたが、主イエスはマタイ7章12節に全て要約された。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

主イエス・キリストはマルコ7章の最初の部分でファリサイ派の最大の問題点を指摘された。それは彼らが「言い伝え」を過度に重視していることで、本来モーセの律法に対して副次的存在だった「言い伝え」がいつしか律法と同等以上にまで扱われ、しかも隣人を圧迫するための口実と化していた事実である。

(注)別エントリー「ファリサイ派の人と徴税人」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5182

主はマタイ11章30節で、「わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽い」と仰せになった。主が人々に求められるものとは、「神の義(正義)」と言えばどこか厳格な響きがするが、実際に「神の義」を構成するのは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛などの事柄である(コロサイ3章)。

(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6748

主イエスはルカ11章42節以下で、神から与えられた律法に人間が自分たちの掟(昔の人の言い伝え:マルコ7章3節)を付け加え続けても、最も肝心な神への愛と隣人愛から思いが遠のくだけならば何の意味もないと教えられた。聖書の「正義」つまり神の義とは隣人愛や憐れみの業と事実上、同義である。

(注)別エントリー「試論:『善きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4544

福音書の時代、イエスを救い主と認めて信じた人々がいる一方で、「ガリラヤ人」「大工の子」「大食漢で大酒呑み」「徴税人や罪人の仲間」と嘲っていた人々もいた。相手を侮ったり色眼鏡で見たり揚げ足を取ろうとしたり冷笑してやろうと待ち構えたりする人々の目にはいつまでたっても神の姿は映らない。

(注)別エントリー「試論:『心の清い人は神を見る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5937

詩編15編3節は、神なる主と同じ住まいで暮らす人の条件として、周囲に対して中傷をせず、害を及ぼさず、小馬鹿にした態度を取らないことを挙げ、また2節では完全(=無垢)で、義を行うことを挙げる。主イエスの同居家族として、ヨセフが幼子や幼子の母を困らせる行動に出た可能性は皆無と言える。

(注)別エントリー「試論:『幼子と女性を尊重する』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8823

試論:主イエスの「柔和」の意味を140文字以内で

【問】マタイ11章29節「わたしは柔和」の意味とは?
【答】同12章32節の通り御自分に対する「ガリラヤ人」「大工」「大食漢で大酒飲み」「徴税人や罪人の仲間」等の揶揄を、主イエスは看過される〔が、聖霊によって悪霊を追い出した事実を「悪霊によって」と誹謗するのは絶対に看過されない〕。

(注)別エントリー「試論:『人となられても神は神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6877

(注)別エントリー「試論:神であり人であるキリストを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6725

【追記】

主はマルコ3章28節以下で、御自身の人間(人の子)的側面(ガリラヤ人、大工等)を云々する人々には酌量の余地がまだ残されるが、御自身の神としての権威(聖霊によって悪霊を追い出した事実)を目の当りにしながらそれになお難癖をつける人については、最早決して酌量の余地はないと警告なさった。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888

(注)別エントリー「神の子らは人の娘たちを【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8636

古代のギリシア語訳民数記12章3節は「柔和な人」と同じ単語を用い、モーセを他の誰よりも「柔和」だったとした。姉ミリアムと兄アロンにモーセが難癖をつけられた際、ミリアムを厳しく主は罰せられたが、姉のためにモーセは救いを求めて主に叫び、この時のモーセの態度が「柔和」の代表例とされた。

(注)別エントリー「試論:『誰よりも柔和な人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6569

(注)別エントリー「試論:『柔和な人』と憤怒の放棄を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6312

(注)別エントリー「民数記12章3節:モーセの人となり」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5051

ヨハネ1章は主イエス・キリストを「言(ことば)」「命」「人間を照らす光」等と象徴的に表現したが、その光は人々が心に秘めた悪意(レビ19章17節)を、容赦なく明るみに出す(マタイ9章4節、同12章25節)。神は罰するべき者は罰せられた(出エジプト記34章7節、民数記12章10節)。

(注)別エントリー「レビ記19章17節:理由のない悪意」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4826

イザヤ58章9節「もしもあなたが隣人を圧迫することをやめるなら、もしもあなたが隣人を侮ることをやめるなら、もしもあなたが隣人を言葉で傷つけることをやめるなら、あなたが主を呼ぶ時には必ず主は御答えになり、あなたが主に向かって叫ぶ時には必ず主は『わたしはここにいる』と御返事される」。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

試論:「山と丘はみな低くされ」を140文字以内で

ルカ3章5節はイザヤ40章4節を引用して、「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる」と記す。イザヤが到来を預言した救い主イエスは何度も「自分を高くする者は神によって低くされ自分を低くする者は神によって高くされる」と繰り返され、イザヤ40章4節の預言が何の比喩かを御説明された。

(注)別エントリー「試論:『高慢と謙遜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9051

【追記】

ルカ1章45節で聖霊に満たされたエリサベトは、マリアに「主の仰せは必ず実現すると信じた方はなんと幸いでしょう」と声高らかに言った。「なんと幸い」という表現は古代のイスラエルでは詩編1編と直結し、《主に逆らう者や罪人や高慢な者とは一線を画して常に主の教えを語り愛する人》と関連する。

(注)別エントリー「試論:詩編1編1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10619

試論:「迷い出た羊を見つける」を140文字以内で

主イエスはマタイ18章12節以下で「〔天の御父は〕迷わずにいた九十九人より、迷い出た一人を見つけることを喜ぶであろう」とたとえで仰せになった。同9章12節「医者を必要とするのは健康な人でなく病人」ルカ15章8節以下「無くした銀貨」同章11節以下「放蕩息子」等は皆、同じ事柄である。

(注)別エントリー「試論:『決して死ぬことがない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15657

【追記】

ヨハネ8章51節「わたしの言葉を守るならば、決して死ぬことがない」エゼキエル18章21節「悪人が全ての過ちから離れわたしの掟を全て守り正義と恵みの業を行うなら必ず生きて死ぬことはない」同31節以下「あなたたちは死んでもよいのか、わたしに立ち帰り生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」。

(注)別エントリー「試論:『わたしは喜ばない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15680

キリスト教の歴史上「救われる者と救われない者とは神に予め定められている」という主張が存在したが、ならば神はなぜエゼキエル18章32節で「お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」と仰せになったのだろうか。二コリント5章14節「キリストは全ての人のために亡くなられた」。

(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3277

主イエスはルカ15章7節で「悔い改める必要のない九十九人の義人よりも、悔い改めている一人の罪人のことを天は大いに喜ぶ」と仰せになり、マタイ18章14節ではエゼキエル18章32節「わたしは誰の死も喜ばない」と同様に、天の御父は悪人の滅亡よりも悪人の回心を喜ばれることを再確認された。

(注)別エントリー「試論:『悔い改める一人の罪人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17627

試論:「無原罪」とエフェソ1章を140文字以内で

【問】無原罪の聖母マリアの祭日にエフェソ1章が朗読される理由は?
【答】ルカ1章28節では非常に特別な恵みを表すギリシア語が用いられますが、エフェソ1章6節では信者全般に同じ語が用いられます。聖母の場合と異なり、あくまで洗礼時の一度限りですが全信者は非常に大きな恵みを受けています。

(注)別エントリー「試論:『聖寵充ち満てるマリア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8642

(注)別エントリー「試論:無原罪の御宿りを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4629

【追記】

受胎告知に際し聖母マリアは「恵まれた方」と挨拶されたが、二ペトロ1章は信仰における神からの恵み(2節)の内容を5節以下で記し、信仰に始まり徳・知識・自制・忍耐・信心・兄弟愛・愛に至るとして、恵みが加わるほど、「情欲に染まったこの世の退廃」(4節)や怠惰(8節)から遠くなると記す。

創世記3章15節で神は、サタンと決定的に対立する一人の女性が将来現れることを予告されたが、黙示録12章で、それは救い主の母となった女性のことだと啓示された。救い主は人々を罪や悪から救うために生まれるので、その母が存在の最初の瞬間から罪や悪とは完全に無縁であるべきなのは当然である。

(注)別エントリー「創世記3章15節:蛇の頭を踏み砕く者は誰か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1488

(注)別エントリー「『無原罪の御宿り』の意味するところとは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4382

【問】マリアは受胎告知の時から「無原罪」になったのだと考えてはいけませんか?
【答】「無原罪」とは【存在の初めから常に悪魔の感化つまり罪や悪の影響とは全く無縁である】(創世記3章15節、黙示録12章)という意味ですので、生涯のある時点から「無原罪」になるという発想は意味がないです。

(注)別エントリー「試論:無原罪の御宿りって何??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/20779

試論:無原罪の御宿りって何??を140文字以内で

主イエス・キリストが救い主(ルカ福音書2章11節)として到来された理由(目的)とは「自分の民を罪から救う」(マタイ福音書1章21節)ためなので、「救い主の母」となるべき女性が、《彼女の存在の最初の瞬間から常に、罪や悪とは完全に無縁である》べきという概念は、論理的に当然の話である。

(注)別エントリー「神のお告げ:受胎告知と無原罪の御宿り」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4835

(注)別エントリー「試論:『女』とサタンの対立を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10314

【追記】

【問】マリアは受胎告知の時から「無原罪」になったのだと考えてはいけませんか?
【答】「無原罪」とは【存在の初めから常に悪魔の感化つまり罪や悪の影響とは全く無縁である】(創世記3章15節、黙示録12章)という意味ですので、生涯のある時点から「無原罪」になるという発想は意味がないです。

創世記3章15節で神は、サタンと決定的に対立する一人の女性が将来現れることを予告された。黙示録12章では、救い主の母となった女性がそれだと啓示された。救い主は、人々を罪や悪から救うために生まれるので、その母が、存在の最初の瞬間から罪や悪とは完全に無縁であるべきなのは、当然である。

(注)別エントリー「創世記3章15節:蛇の頭を踏み砕く者は誰か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1488

エバもアダムも蛇つまりサタンにだまされてしまったにせよ、神に創造された時点では当然サタンの感化を受けていなかった。同様にマリアも受胎告知の際もし少しでも「神のようになること」を望む下心があれば心の隙をサタンにつけ込まれていたはずだが、「主のはしため」を自称することで、難を逃れた。

【問】なぜ受胎告知の際にマリアは、承諾の返答よりも先に「わたしは主のはしため」と再確認しましたか?【答】マリアはそう前置きすることで、「わたしは神の御独り子の母となることを承諾しますが、決して『神のようになること』(創世記3章5節)を望むからではありません」と意思表示をしました。

(注)別エントリー「試論:「わたしの主のお母さま」を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10221

カトリックでは聖母マリアを「無原罪」つまりサタンの悪影響とは全く無縁の女性と教え、少女期の聖母が神殿で十年以上奉献生活を送り教育を受けたと教える。聖母は長年、救い主やあがないに関して思い巡らしていた。受胎告知の際の言葉「わたしは主のはしため」は一朝一夕に出て来る類のものではない。

(注)別エントリー「神のお告げ:受胎告知と無原罪の御宿り」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4835

(注)別エントリー「試論:ヤコブ原福音書を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5239

(注)別エントリー「聖書の時代に神殿の処女は存在したのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1539

(注)別エントリー「『贖(あがな)い』と『救い主の母』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19677

(注)別エントリー「福音書の聖ヨセフと外典書の高齢者ヨセフ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4759

主は「いつでも戸を開けられるように目を覚ましていなさい」と仰せになり、普段から心の準備をすることが弟子としての心構えであると教えられた。主の母親となるべき女性がその少女期、当時最もしかるべき教育の場であった神殿の聖所で奉仕の日々を送ったという概念は、極めて蓋然性の高い話と言える。

(注)別エントリー「試論:『準備しなさい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12580

【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。

(注)別エントリー「試論:聖母崇敬の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18956

【問】マラキ3章19節は高慢な者と悪を行う者を同列に論じますが、なぜですか?
【答】詩編1編1節の通り旧約の民は神に従わぬ者と罪人と高慢な者を同列に扱いました。エバは創世記3章で神のようになることを望みましたが、マリアはルカ1章38節で自分は主のはしために過ぎないと謙遜しました。

詩編1編1節は神と共にいるための必要三条件を記す。一つ目は神に逆らう人に同調しないこと、二つ目は罪や悪に走らないこと、三つ目は高慢心を捨てることである。高慢で周囲の人々を粗略に扱う人は、いつか必ず神をも粗略に扱う。神の御独り子の母となった女性が高慢心とは無縁であるのは当然である。

(注)別エントリー「試論:『しもべ』と『はしため』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9785

(注)別エントリー「試論:『わたしの主』と母マリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8575

(注)別エントリー「試論:『恵みとへりくだり』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8781

ルカ福音書1章の「受胎告知」の際、自由意志によるマリアの承諾を得た後に、み使いガブリエルは去った。おとめマリアの承諾がなければこの世界に救いはもたらされずマリアなくしてキリスト教自体も存在しないのだから当然、「救い主」を信じる人々全てが「救い主の母」マリアを崇敬すべきなのである。

(注)別エントリー「予備的考察:聖母崇敬そして聖ヨセフ崇敬の起源とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1750

(注)別エントリー「聖家族はどのような雰囲気の中で暮らしていたのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5246

聖母マリアは「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)となられた方でありながら「わたしは主のはしため」(38節)と自称されるほど謙遜そのものの生涯であり、ただの一度も主イエスの前で出しゃばることがなかったゆえに「へりくだる者は高められる」(ルカ14章11節)の通りに崇敬を集めた。

主イエスはマタイ20章28節で御自分が人間となられた目的を「仕えられるためではなく仕えるため」と仰せになった。その三十年以上前、ルカ1章38節で救い主の母となることを告知された女性は「わたしは主のはしため」と答え、彼女が「救い主の母」という立場を的確に認識していることが記される。

(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7479

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

「履物」と「贖(あがな)い」

ルツ4章7節によれば、古代イスラエルでは親族たちの責務の代行や委譲に際して、自分の履物を脱ぐ慣習があった。主イエスは多くの人の贖(あがな)い、つまり身代金(代価)となるためこの世に来られた(マタイ20章28節)。洗礼者はこのことを、「履物」「神の小羊」「花婿」等の表現で示唆した。

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7479

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7514

(注)別エントリー「試論:世の罪を取り除く神の小羊を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6140

(注)別エントリー「試論:『花婿』って誰?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7265

(注)別エントリー「試論:『主イエスこそ真の花婿』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7379

洗礼者は主イエスを「自分はその方の履物のひもを解く値打ちもない」と言い続けた(使徒言行録13章25節)が、「いかに美しいか、山々を行き巡り福音を伝える者の足は。彼は平和と恵みの福音と救いを告げ、あなたの神は王となられたとシオンに宣言する」(イザヤ52章7節)元祖の方だからである。

ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。

ヨハネ1章14節は「神の御言葉(=主イエス)は肉(=人)となられ、わたしたちの間に宿られた(=住まわれた)」と記す。マタイ20章28節では主御自身が「仕えられるためではなく仕えるため」「多くの人の身代金(=あがない)として自分の命を献(ささ)げるために来た」と仰せになられている。

古代のヘブライ人は「肉」という言葉で、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけでなく、魂も含めた人間としての全体)」を表した。ヨハネ1章14節をこの観点で理解すれば、ニケア・コンスタンチノープル信条「おとめマリアよりからだを受け」の「からだ」は、人間としての全てを意味している。

ヨハネ19章は、ゴルゴタの主の十字架の傍らに聖母がおられたと記すが、聖母の内面がどのようであったかについては全く記述がない。しかしルカ2章35節はシメオンの預言として、「多くの人の心にある思い(34節の「逆らい」)があらわになるため、あなた自身も剣で心を刺しつらぬかれる」と記す。

(注)別エントリー「試論:『剣』と『言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7807

主はヨハネ14章27節で「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と仰せになった。ではどうやって主は御自分の平和をお与えになったのか、パウロがコロサイ1章20節で「その十字架の血によって」と答えを記した。

詩編49(48)編8(7)節は、神に対して人間が贖いの業を行うことはできないと記す。とはいえ神の御独り子が自ら人間となられて自分の「からだ」を「身代金」として贖いの業を行われた時の「からだ」は、マリアから受けたものだった。マリアは極めて特別な形でイエスの贖いの業に「参加」をした。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7795

ルカ福音書1章の「受胎告知」の際、自由意志によるマリアの承諾を得た後に、み使いガブリエルは去った。おとめマリアの承諾がなければこの世界に救いはもたらされずマリアなくしてキリスト教自体も存在しないのだから当然、「救い主の母」マリアを「救い主」を信じる人々全てが崇敬すべきなのである。

(注)別エントリー「予備的考察:聖母崇敬そして聖ヨセフ崇敬の起源とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1750

(注)別エントリー「聖家族はどのような雰囲気の中で暮らしていたのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5246

【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。

(注)別エントリー「試論:聖母崇敬の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18956

聖母マリアは「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)となられた方でありながら「わたしは主のはしため」(38節)と自称されるほど謙遜そのものの生涯であり、ただの一度も主イエスの前で出しゃばることがなかったゆえに「へりくだる者は高められる」(ルカ14章11節)の通りに崇敬を集めた。

(注)別エントリー「試論:『救い主の母であること』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7510

主イエスはマルコ10章45節で御自分が人間となられた目的を「仕えられるためではなく仕えるため」と仰せになった。その三十年以上前、ルカ1章38節で救い主の母となることを告知された女性は「わたしは主のはしため」と答え、彼女が「救い主の母」という立場を的確に認識していることが記される。

(注)別エントリー「試論:なぜ『主のはしため』??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17082

試論:イザヤ「天地が滅びても」を140文字以内で

主イエスはマタイ24章35節で「たとえ天地が滅びても、わたしの御言葉は決して滅びない」と仰せになった。数百年も前にイザヤ51章6節は次のような主の仰せを預言した。「天が煙のように消え、地が衣のように朽ち、地に住む者もまた、同じように死に果てても、わたしの救いと業とは永遠に続く」。

(注)別エントリー「試論:『たとえ天地が滅びても』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12142

【追記】

「天地が消え去る」の「天」とは、神がお住まいになる場所と見なされたエルサレム神殿とりわけその聖所を指し、二ペトロ3章はその滅亡が近いことを説く。「地」はエゼキエル7章2節同様、イスラエルの地を指す。紀元七〇年にエルサレムと神殿は滅亡しユダヤ(イスラエル人の国家)も同じく消滅した。

(注)別エントリー「試論:『最初の天地が過ぎ去る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16809

試論:マタイ3章12節の「殻」を140文字以内で

エレミヤ23章25節以下では、偽預言者は真の神の御言葉を忘れさせるよう仕向ける点で非常に悪質と説き、28節は偽預言者を「もみ殻」に喩えた。詩編1編4節では「もみ殻」は神に逆らう者を意味し、6節は「神に逆らう者の道は滅びに至る」と記す。マタイ3章12節とルカ3章17節も同じである。

試論:サドカイ派と「蝮の子ら」を140文字以内で

救い主は「復活と命」(ヨハネ11章25節)つまり御自分の「復活の体」の創造と共に「新しい天・地・エルサレム」を創造し、全人類を罪から救って、永遠の命(天国の福楽)へ導かれる方である。しかしサドカイ派は復活を否定していた(マタイ22章23節)。洗礼者が「蝮の子ら」と呼ぶ理由である。

(注)別エントリー「試論:新都エルサレムの『用意』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16763

(注)別エントリー「主の御復活とともに創造された事柄とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15917

【追記】

主イエスのファリサイ派批判で最も多いのはマタイ23章3節の通り「建前は立派でも中身は〜」だが、神殿の有力者たちの仲間であるサドカイ派は、復活を否定するなど、主イエスとは建前からして違った。来世について考えることをしない彼らはおのずと現世志向であり、既得権益の維持に汲々としていた。

試論:「真実を身に帯びる」??を140文字以内で

イザヤ11章は来るべき救い主について預言し彼が「エッサイ」(1節。ダビデ王の父)の末裔として生まれることを啓示した。5節は彼が「真実を身に帯びる」と説くが、古代ギリシア語訳では「真実」はアレテイアと表現される。主イエスはヨハネ14章6節で御自分は真理(アレテイア)だと宣言された。

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

【追記】

【問】マルコ16章18節の、主イエスの信者である「しるし」としての、「手で蛇をつかみ」の意味とは何ですか?
【答】イザヤ11章8節の預言「幼子が蛇を手懐ける」を踏まえており、主の仰せに完全に従って幼子のように無垢な心を持つならば毒蛇や蝮のような悪人さえも神へと導けるという意味です。

(注)別エントリー「試論:『手で蛇をつかみ』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/20534

(注)別エントリー「主イエスの『霊的幼児の道』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19228

試論:聖書と聖ヨセフを140文字以内で

【問】主の養父ヨセフについて知りたいのですが、聖書の中の情報量は乏しいのでは?
【答】マタイ1章19節はヨセフを「ディカイオス」という聖書ギリシア語で表現しますが、古代ギリシア語訳旧約聖書は「ディカイオス」に関して多くの情報を提供してくれるので、彼の人柄を詳しく知ることが可能です。

(注)別エントリー「試論:ディカイオス(義人)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/20497

【追記】

【問】主イエスの養父ヨセフは正しい人(マタイ1章19節)と呼ばれますが、どうしてですか?
【答】箴言21章26節は「正しい人は惜しみなく与える」(フランシスコ会訳)と説きますが、特に古代ギリシア語訳では困窮している人に対する憐れみ・慈しみなどの点で「惜しみなく」、のニュアンスです。

(注)別エントリー「試論:箴言13章9節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/20621

試論:「『火』とは主の御言葉」を140文字以内で

エレミヤ書では、20章9節で主の御言葉が「火」にたとえられ、5章14節や23章29節でも同様である。洗礼者ヨハネも同じ比喩で「聖霊と火による洗礼」(マタイ3章、ルカ3章)と表現し、御復活後の主イエスと数時間語り続けた二人の弟子たちは、ルカ24章32節で「心は燃えていた」と語った。

試論:洗礼者と主イエスとの違いを140文字以内で

主イエスはマタイ9章35節の通り「町や村を残らず回って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気や患いを癒やされた」。洗礼者はアンデレとヨハネとを主イエスに導いた際(ヨハネ1章)等を除けば、基本的には「ヨルダン川の向こう側」にとどまり、しるしは行わなかった(同10章41節)。

試論:洗礼者と二つの「火」を140文字以内で

マタイ3章11節で洗礼者ヨハネは、「聖霊と火」で来るべき方が洗礼をお授けになると教えた。11節の「火」は12節の「消えることのない火(=『永遠の罰』の象徴)」とは別のもので詩編105編19節や119編140節の通りに、火が金銀を精錬するかのように人間を清くする主の清い仰せを指す。

【追記】

ルカ12章49節「地上に火を投ずるためにわたしは来た」同3章16節「聖霊と火による洗礼」黙示録11章5節「口から火が出る預言者」エレミヤ5章14節「あなたの口に、わたしの言葉を授ける。それは火となり、この民を薪として焼き尽くす」同23章29節「わたしの言葉は、火に似ていないか」。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19474

マタイ3章には来るべき方が「聖霊と火」で洗礼をお授けになるとあるが「火」とは「火が金属を精錬する如く人間を清くする主の清い仰せ」を指し詩編12編7節〜8節、66編10節、105編19節、119編140節、エレミヤ6章29節、ゼカリヤ13章9節、マラキ3章2節〜3節などが関連する。

(注)別エントリー「試論:口から火が迸り出る預言者を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5525

(注)別エントリー「試論:マルコ9章49節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5837

試論:悔い改めって具体的に何?を140文字以内で

【問】悔い改めとは、粗布をまとって断食することですか?
【答】いいえ。神に立ち帰ることで、実際に行うべきは「他の人からしてもらいたいことなら全て他の人にしなさい」(マタイ7章12節)の《キリストの律法》に従い、相手の悲しむ顔・困った顔・苦しむ顔を見たいという悪意を断ち切ることです。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「試論:『滅びを避けるには』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5749

(注)別エントリー「試論:エゼキエル18章を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5726

試論:「御降誕の洞穴」を140文字以内で

【問】キリスト誕生の場が家畜小屋として使われていた洞穴という話は突飛に感じられます。
【答】確かに家畜小屋として使われていたと聞くとよほど場所に困っていたのだなと感じますが、洞穴が非常に多いイスラエルでは古代には、旅人が宿屋替わりに洞穴を使うこと自体は珍しい話ではありませんでした。

(注)別エントリー「試論:聖書と洞穴を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13198

(注)別エントリー「試論:『エルサレム滅亡と洞穴』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/20357

(注)別エントリー「主の御降誕と古代イスラエルにおける洞穴」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4351

(注)別エントリー「マリアがベツレヘムの宿屋で拒まれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/56

(注)別エントリー「聖書にはクリスマスの日付が載っていますか???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13267

試論:マタイ9章35節「会堂」を140文字以内で

福音書の時代の会堂は確かに安息日ごとに人々が集まって〔旧約〕聖書が朗読される場だが、語源からは集会所を意味し実際に公民館的な施設で、祭儀は行われなかった。会堂長はあくまでも施設管理者に過ぎず司祭(神父)や牧師に相当する職ではなく、預言書の朗読を最後に担当する一般人が解説も行った。

(注)別エントリー「試論:教会と『会堂』の違いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15157

【追記】

ルカ4章で主イエスは、故郷ナザレの会堂でお話しされたが、古代ユダヤにおいて会堂は学びの場であり、会堂長は建物や聖書の巻物の管理者ではあったが、基本は信者同士が教え合うことで、七か所の聖書朗読に続く最後の預言書の解説も、学識に信用が置けると会堂長が判断した人々が担当する役割だった。

ルカ13章10節以下で主イエスがある会堂で教えておられた際、腰を長年患っていた女性を癒されたが、安息日に病人を癒したことに会堂長が立腹し議論になった。会堂が純粋に宗教施設であるなら「祈りの場で議論など、とんでもない」と人々は抗議したはずだがむしろ人々は、この議論を喜んで見ていた。

主イエスはヨハネ18章20節で大祭司の尋問に対し「わたしは世に向かって公然と話し、ユダヤ人が皆で集まる会堂や神殿で教えた」と仰せになり、会堂とはユダヤ人なら誰にでも門戸を開いた場所であり、特定の教派には属していない公民館的な性格の施設であることを踏まえて、お答えになっておられる。

(注)別エントリー「試論:テモテの割礼を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5097

ヨハネ11章は、大祭司と最高法院がイエスには死んでもらうと決定した(49節以下)後、公然と主イエスが宣教生活を行うことはなくなったと記す(54節)。しかしその初期にはマタイ9章35節の通り「町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気や患いを癒やされた」。

試論:「臆病な者」??を140文字以内で

【問】黙示録21章8節は臆病な者の報いを火と硫黄の池、第二の死と記します。人一倍怖がりな人はどうすればいいの?
【答】「なぜ恐れるのか、信仰の薄い者よ」の通り、臆病とは不信仰のことです。神は優しい人に優しい(詩編18編17節以下参照)存在と信じて、優しい人であるように努めましょう。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

【追記】

主はルカ17章1節で「つまずきは避けられないがそれをもたらす者は不幸だ」と仰せになった。レビ19章17節は悪意を抱いたまま隣人に接することを禁じ、箴言26章27節は他人を落とす穴を掘る者は自分がそこに落ちると記し、民数記12章でモーセに難癖をつけたミリアムは厳しく主に罰せられた。

(注)別エントリー「試論:『穴を掘る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8468

(注)別エントリー「試論:『理由のない憎しみ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6468

試論:天の国は近づいた??を140文字以内で

マタイ福音書では「天の国は近づいた」と三度(3章2節、4章17節、10章7節)言われるが、6章10節(「主の祈り」)では「御国が来ますように」の次は「御心が行われますように」となる。だとすれば、「天の国は近づいた」の次に続く言葉は「天の父の御心が地の上で行われる時が来た」である。

(注)別エントリー「試論:新都エルサレムの『用意』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16763

【追記】

主はマタイ13章45節以下で、「天の国」を全財産と引き換えにしてでも手に入れるべき真珠にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「天の国」は「永遠の命」と同義だが、「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

主はマタイ4章17節で「天の国は近づいた」6章10節で「御国が来ますように」さらに12章28節で「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば神の国はあなたたちのところに来ている」と教えられ、神の御心が天に行われる通り地上でも行われる状態そのものこそ神の国の到来だと説明された。

(注)別エントリー「試論:無千年王国説を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4675

マタイ11章12節「天の国は力ずくで襲われ」の本文で用いられた動詞は古代のギリシア語創世記33章11節「しきりに勧め」と同じで、「ヨハネの活動開始以後、天の国から地上の人々への積極的な働き掛けが目覚ましく、招きに積極的に応じた大勢の人が天の国に入ろうとしている」という意味である。

(注)別エントリー「試論:『選んだのは、どっち?』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6623

(注)別エントリー「試論:『選ばれた人は選んだ人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8034

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

試論:箴言13章9節を140文字以内で

主イエスはマタイ5章14節で「あなたたちは世の光」同16節で「光を皆の前で輝かせなさい。皆があなたたちの立派な行いを見て天の御父を崇めるようになるために」と教えられた。マタイ1章19節は養父ヨセフを正しい人と呼ぶ。箴言13章9節(フランシスコ会訳)「正しい人の光は照り輝き、〜」。

(注)別エントリー「試論:『世の光』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5388

【追記】

主はマタイ5章14節で「あなたがたは世の光」ヨハネ8章12節で「わたしは世の光」「わたしに従う者は暗闇の中を歩まず命の光を持つ」と仰せになった。同1章4節は「御言葉のうちに命があり、命は人間を照らす光」と記す。イザヤ58章6節以下では隣人に心を配り助けを惜しまない人に、光が伴う。

(注)別エントリー「試論:行いを欠く信仰を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5360

【問】主イエスの養父ヨセフは正しい人(マタイ1章19節)と呼ばれますが、どうしてですか?
【答】箴言21章26節は「正しい人は惜しみなく与える」(フランシスコ会訳)と説きますが、特に古代ギリシア語訳では困窮している人に対する憐れみ・慈しみなどの点で「惜しみなく」、のニュアンスです。

(注)別エントリー「試論:ディカイオス(義人)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/20497

試論:マタイ9章「視力の回復」を140文字以内で

主イエスはヨハネ5章39節で「〔旧約〕聖書とは、わたしについて証しをするものだ」と仰せになった。旧約聖書の中でも、救い主が目の見えない人の視力を回復させる(イザヤ29章18等)という特徴的な事柄に顕著である通り、主イエスの生涯を最も詳細に「証しをする」のは、恐らくイザヤ書である。

(注)別エントリー「試論:『時代のしるし』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14378

【追記】

主イエスはパンを増やし五千人の群衆に食べ物を与えるという奇跡を行われた。類似の奇跡は列王下4章42節以下で「神の人」預言者エリシャも行っていた。主イエスの神の御独り子たる本領は「生まれつき目が見えなかった人の視力を回復させた」(ヨハネ9章32節、イザヤ35章5節)時に発揮された。

(注)別エントリー「試論:『救い主の識別』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13316

「主の奉献」の際、ルカ2章32節でシメオンは幼子イエスを「異邦人を照らす〔啓示の〕光」と呼んだ。これはイザヤ42章の「主の僕(しもべ)」預言の「諸国の光」(6節)に対応するが、到来の徴は「目の見えない人の視力の回復」(7節)であることを、イザヤは35章の「救い主」同様に預言した。

(注)別エントリー「救いの創始者(ヘブライ2章10節)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13705

主はルカ4章でイザヤの預言についてお話しされた。しかしルカ4章18節にある「視力の回復」は出典と考えられるイザヤ61章1節に存在しないのではないか(あるのは「束縛からの解放」)と、古くから度々問題視された。ただしイザヤ42章7節は「視力の回復」と「束縛からの解放」を同一に論じる。

(注)別エントリー「試論:『捕らわれ人に解放を』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13931

試論:詩編12編の意義を140文字以内で

詩編12編でダビデが歌った通り旧約の民は原則として、裏表(嘘偽り)のある人や言行不一致の人の中に信仰の存在を認めていなかった。マタイ7章21節の主イエスの仰せ「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入れるわけではない。わたしの天の御父の御心を行う人々だけが入れる」。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

【追記】

主イエスはヨハネ14章6節で「真理」を自称されたが、プロテスタントの『改訳 新約聖書』(1917年)はそこに「まこと」と平仮名を振る。ヘブライ語の「まこと」に対応しているためであり、主なる神が裏表や嘘偽りのない心を重視される方だからである。従って信仰とは疑う余地のない確信を指す。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

ローマ3章でパウロは、「信仰」「律法」という表現で実際は、

《イエス・キリストを信仰する人々にとっての新しい掟=愛の掟》と、

《イエスを認めぬ人々の古い掟=律法の掟》を比較した。

人間を「義」とするのは《律法の掟》の実行ではなく、信仰に基づく《愛の掟》の実践(ガラテヤ5章6節)による。

(注)別エントリー「試論:『新しい掟』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7016

ローマ3章28節は「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」と記すが、30節では「神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とされ、割礼のない者をも、信仰のゆえに義とされる」と説く。つまり《人が義とされるのは割礼〔の有無〕によるのではなく、信仰による》の意味合いである。

【問】パウロは「人が義とされるのは、律法の行いによってではなく信仰によると、わたしたちは考える」と記しますが、どういう意味ですか?【答】「わたしが求めるのは憐れみでありいけにえではない」に従い、形式的な行為でなく、日々の具体的な憐れみの業(隣人愛)を神に献げなさいという意味です。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

試論:イザヤ26章2節「城門」を140文字以内で

イザヤ26章は冒頭で神の民に属する人々が住む堅固な都つまり「新しいエルサレム」を預言し、2節は特に城門について説く。この城門こそ、主イエスが言及された「狭い門」である。この門はへりくだって身を屈めることを知る人は通れるが、ふんぞり返った高慢な人は通れない。その意味で狭い門である。

(注)別エントリー「試論:新都エルサレムの『用意』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16763

【追記】

詩編1編1節は幸いな者として「神の逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず」と歌い、「神は高慢な者を敵とされ、へりくだる者に恵みをお与えになる」(箴言3章34節、ヤコブ4章6節、一ペトロ5章5節)と同様に、高慢心は信仰と相容れないことを説く。

(注)別エントリー「試論:『恵みとへりくだり』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8781

試論:「愚か者と隣人愛の欠落」を140文字以内で

主イエスはマタイ7章26節で、御自分の御言葉を聞くだけで行おうとしない人々を「砂の上に家を建てた愚か者」に喩えられた。箴言26章は「愚か者」の行いの数々を列挙するが19節は周囲の人々をだまして傷つけておきながら、「ふざけただけだよ」と涼しい顔で少しも悪びれない愚か者の姿を挙げる。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「試論:『つまずき』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7363

【追記】

主はルカ17章1節で「つまずきは避けられないがそれをもたらす者は不幸だ」と仰せになった。レビ19章17節は悪意を抱いたまま隣人に接することを禁じ、箴言26章27節は他人を落とす穴を掘る者は自分がそこに落ちると記し、民数記12章でモーセに難癖をつけたミリアムは厳しく主に罰せられた。

(注)別エントリー「試論:『穴を掘る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8468

(注)別エントリー「試論:『理由のない憎しみ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6468

試論:「正しい人」聖ヨセフを140文字以内で

【問】主イエスの養父ヨセフは正しい人(マタイ1章19節)と呼ばれますが、どうしてですか?
【答】箴言21章26節は「正しい人は惜しみなく与える」(フランシスコ会訳)と説きますが、特に古代ギリシア語訳では困窮している人に対する憐れみ・慈しみなどの点で「惜しみなく」、のニュアンスです。

(注)別エントリー「試論:ディカイオス(義人)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/20497

試論:「しるしと天の父の御心」を140文字以内で

【問】主イエスはマルコ16章17節以下で御自分の信者に伴うしるしを示されました。信者は皆でしるしを追求すべきですか?
【答】いいえ。主はマタイ7章21節以下で追求すべきは預言でも悪霊を追い出すことでも奇跡でもなく、天の御父の御心すなわち隣人愛の実行(一コリント13章)だと仰せです。

(注)別エントリー「試論:主の弟子である『しるし』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/20540

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

【追記】

【問】主イエスのマルコ16章17節と18節の「しるし」に関する仰せの意味とは?
【答】一コリント12章から14章でパウロがその問いに答えており、「愛」こそ最高の道(12章21節)だと教えます。ヨハネ13章35節「互いに愛し合うならそれを見て皆はあなたたちがわたしの弟子だと認める」。

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを確実に識別できる基準」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4564

(注)別エントリー「試論:『善きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

試論:主の弟子である「しるし」を140文字以内で

【問】主イエスのマルコ16章17節と18節の「しるし」に関する仰せの意味とは?
【答】一コリント12章から14章でパウロがその問いに答えており、「愛」こそ最高の道(12章21節)だと教えます。ヨハネ13章35節「互いに愛し合うならそれを見て皆はあなたたちがわたしの弟子だと認める」。

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを確実に識別できる基準」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4564

【追記】

【問】パウロの答えがそうだとしても、でもやはり「しるし」を追求すべきではないでしょうか?
【答】使徒言行録8章で、使徒の中でも代表的な立場にあったペトロが、「しるし」ばかりを追求し続けた「魔術師シモン」を厳しく叱責しています。主イエスが実際に仰せになった御言葉を等閑にはできません。

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを識別する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14194

主イエスはマタイ7章21節以下で、信仰の目的とは、預言でも「悪霊を追い出すこと」でも奇跡でもなくただ「不法(悪)を行わないこと」であり、御自分が人々を評価するのは唯一そこであると断言された。預言や悪霊を追い出すことや奇跡にばかり目を奪われ過ぎるとイエス・キリストがわからなくなる。

(注)別エントリー「試論:『地上に火を投ずる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7803

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

ヨハネ1章は主を「言(ことば)」すなわち「神の御言葉」と表現した。これは「〔神の〕小羊」と同様に主イエスの特徴を表す称号で「御自分でお話しになる神」を意味する。神は御姿を人々にお見せにならず天使や預言者を介してお話しになると考えられていたが、主は直接人々に御言葉をお教えになった。

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

(注)別エントリー「試論:神であり人であるキリストを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6725

箴言8章13節は「主を畏れることは、悪を憎むこと」と記し「主を畏れる」を明確に定義した。同14章2節は「主を畏れる」を「主を侮る」と対置し、同章16節は「知恵ある人は主を畏れて悪を避けるが愚か者は高慢で自分を過信する」と記す。マタイ福音書で「愚かな」は聞いても実行しない人を指す。

(注)別エントリー「試論:聞くだけの人を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5294

(注)別エントリー「試論:砂の上の家を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5563

(注)別エントリー「試論:『主よ、主よ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5380

試論:「手で蛇をつかみ」の意味を140文字以内で

【問】マルコ16章18節の、主イエスの信者である「しるし」としての、「手で蛇をつかみ」の意味とは何ですか?
【答】イザヤ11章8節の預言「幼子が蛇を手懐ける」を踏まえており、主の仰せに完全に従って幼子のように無垢な心を持つならば毒蛇や蝮のような悪人さえも神へと導けるという意味です。

(注)別エントリー「主イエスの『霊的幼児の道』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19228

【追記】

マルコ16章18節「蛇をつかみ」の「蛇」は、創世記3章やシラ21章2節から「極悪な罪人」の比喩である蓋然性が高い一方、ミカ7章17節の「蛇」のように、神である主による奇跡に圧倒されて茫然自失となり、這いつくばって屈服し、ただ恐れおののく「諸国の民」(同16節)の姿の比喩でもある。

後にはペトロと並称されるほど初代教会の発展に貢献した使徒パウロも、当初は「サウロ」としてキリストの弟子たちを迫害する側にいたが、使徒言行録9章では自分の周囲を照らす突然の天からの光に圧倒されて地面に倒れ、「なぜ、わたしを迫害するのか。起きて町に入れ」という主からの御声を耳にした。

(注)別エントリー「試論:『使徒パウロ』名前の由来を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9880

試論:ルカ10章24節を140文字以内で

ルカ10章24節で主イエスは弟子たちに「今あなたたちが目にしているものを多くの預言者たちが目にしたいと思っていたが、実際に見ることは、なかった」と仰せになった。旧約の預言者たちが見たものはあくまでも、いわば「予告編」に過ぎなかったが、弟子たちが実際に見ているものは「本編」である。

【追記】

マルコ12章における律法学者との対話において主は、旧約聖書の中の多くの掟について、重要性における順序があることを再確認された。またヨハネ5章39節で、旧約聖書とは御自分について証しするものだと主は御説明され、旧約聖書を調べる目的は御自分へと到達するためであるべきだと仰せになった。

旧約時代においては旧約聖書の読者ばかりでなくそれぞれの書の著者たちですら、何か重大なものが自分たちには欠けており将来それを満たして下さる方が到来されるであろうと感じていた。今、キリストの信者を自認する現代人が、福音書よりも旧約聖書の方を熱心に読んでいるなら本末転倒もはなはだしい。

ルカ21章22節において、主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると明言されており、それは紀元七〇年に現実のこととなった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代や近未来の世界情勢に関して旧約聖書の預言から考える行為は、不毛である。

ルカ24章のエマオでの御出現において主は、旧約聖書とは御自分について証しするものであり、実際その詳細について《全体》の説明を始めると、何時間あっても語り尽くせないことをお示しになった(27節)。主は以前にもユダヤの人々に対して同じ事柄をお話しになられていた(ヨハネ5章39節等)。

モーセはレビ記26章で、イスラエル人が神に忠実であり続ける場合の幸福を説き、11節と12節では主が人々の間に住まわれ、人々の間を巡られると預言した。ヨハネ1章14節は、「神の御言葉」すなわち人々に直接語り掛けられる主イエス・キリストが、「肉」すなわち人間になられたことを説明する。

モーセの時代、臨在の幕屋を囲むようにイスラエルの民は陣営を形成した。福音書の時代には神殿が臨在の幕屋の後身である以上は、神殿を囲むエルサレムの都自体が自分たちの時代の「陣営」だと考えられた。だとすれば主イエス・キリストが都の中を歩まれるのは申命記23章15(14)節の通りである。

試論:ディカイオス(義人)を140文字以内で

マタイ1章19節は、ヨセフはディカイオス(正しい人、義人)だったので婚約者のことを表沙汰にするのを望まずひそかに縁を切ろうとしたと記す。ディカイオス(同25章37節、46節)とは、隣人に悲しい思い・はずかしい思いをさせないために、努めて忍耐強く配慮してあげようと骨を折る人である。

(注)別エントリー「聖ヨセフ:ディカイオスを旧約聖書で考察」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1613

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4544

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11494

【追記】

主はマタイ6章33節で、まず神の国と神の義(ディカイオシュネー)を求めるよう教えられた。1章19節はヨセフを義人(ディカイオス)と呼ぶが、この語は神の義を体現する人を指す。相手が幼子や女性だからといって馬鹿にした態度を取る男性もいるが、その点、ヨセフに関しては心配する必要がない。

マタイ1章19節は主の養父ヨセフを「正しい人(ディカイオス)」と表現する。25章の「最後の審判」におけるディカイオスは、隣人が何らかの助けを必要としている時に、必要とされている助けを提供して困り事を解決する人を指し、ヨセフはイエスとマリアが本当に必要としていることだけを実行した。

マタイ福音書は後世への教訓に、最初の二つの章で主の養父ヨセフを模範として掲載した。ヨセフは忍耐強く、情け深く、自慢せず、高ぶらず、礼を失わず、自分の利益を求めず、恨みを抱かず、苛立たず、不義を喜ばず、真理を喜んだ。イエスとマリアのために、全てのことを忍び、確信し、待望し、耐えた。

(注)別エントリー「試論:マリアとヨセフに倣う事柄を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7012

試論:マタイ8章10節「ない」を140文字以内で

主イエスはマタイ8章10節で百人隊長の言葉を聞かれた後「イスラエルの中でさえ、これほどの信仰を見たことがない」と仰せになった。とはいえ、夢の中のお告げに従い、みどりごの御自分と御自分の母を連れてエジプトへの逃避をためらいなく実行した男性の存在を、主がお忘れになっていたはずはない。

(注)別エントリー「試論:『百人隊長と天国の福楽』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/20487

【追記】

マタイ8章で異邦人の百人隊長は、「行け」「来い」「これをしろ」と仰せられた事柄がその通り実現されていくことが信仰の本質であるという趣旨の答えをして、主イエスを感心させた。マタイ1章から2章でヨセフは、幼子イエスとマリアに対して、まさに全てを仰せの通りに実現させたのではなかったか?

(注)別エントリー「試論:『三人家族の三番目』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14869

マタイ1章19節のギリシア語本文は聖ヨセフを「ディカイオス」(新共同訳では「正しい人」)と表現するが、古代ギリシア語詩編111(112)編6節は「ディカイオス(新共同訳では「主に従う人」)はとこしえに揺らぐことがなく、彼はとこしえに記憶される」として、最大級の賛辞で表現している。

(注)別エントリー「聖ヨセフ:ディカイオスを旧約聖書で考察」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1613

(注)別エントリー「試論:最後の審判とディカイオスを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6704

試論:「百人隊長と天国の福楽」を140文字以内で

主イエスはマタイ8章11節で異邦人の百人隊長の信仰を称賛され、アブラハムやイサクやヤコブと天国の福楽を共にする時が来ると仰せになった。アブラハムとイサクとヤコブはマタイ22章では、「生きている者」すなわち永遠の命が約束されている人々の代表として出エジプト3章同様に言及されている。

(注)別エントリー「試論:『サドカイ派』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/20114

(注)別エントリー「試論:新しい天・地・エルサレムを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16733

【追記】

バビロン捕囚からの解放後、ユダヤ人は引き続きペルシアの統治下に組み込まれたが、エステル1章にある通り、ペルシア王は自分の莫大な富と権力を誇示するため都に住む民を皆、身分の上下を問わず宴に招いた(6節)。マタイ22章の「婚宴」とは、神が民を天の国に招かれて喜びを共にすることである。

(注)別エントリー「『婚宴帰りの主人』=『御復活の主』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18271

マタイ8章で異邦人の百人隊長は「行けと言われれば行きます。来いと言われれば来ます。やれと言われればやります」と答え主は「イスラエルでもこれほどの信仰はない」と感心された。マルコ7章の通り、当時のイスラエルでは元々の指示がないがしろにされ指示とは違うことが実行されていたからである。

(注)別エントリー「試論:マルコ7章のファリサイ派を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14260

マタイ8章で異邦人の百人隊長は、「行け」「来い」「これをしろ」と仰せられた事柄がその通り実現されていくことが信仰の本質であるという趣旨の答えをして、主イエスを感心させた。マタイ1章から2章でヨセフは、幼子イエスとマリアに対して、全てをまさに仰せの通りに実現させたのではなかったか?

(注)別エントリー「試論:『三人家族の三番目』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14869

試論:マタイ24章「家の主人」を140文字以内で

《体も家も自身にとっての住みか》と考え両者を重ねる観念はヨブ4章19節に見られる旧約の民に特有の世界観で、ヘブライ人は人間それ自身を「家」に喩えた(「汚れた霊が家に戻って来る」マタイ12章及びルカ11章)。マタイ24章43節「家の主人」とは一人一人の人間それぞれの自由意志である。

(注)別エントリー「試論:『体も家も自身の住まい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9924

(注)別エントリー「試論:『土の家』(+復活の体)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9624

【追記】

主イエスはルカ11章24節以下で、いくら御自分や弟子たちが人々から悪霊を追い出したとしても、その人自身が悪霊を拒む強固な意志を抱いて主なる神への信仰によって悪霊に心の隙を与えぬよう努めなければ、やがて悪霊はその人の隙に乗じて戻って来て、その人の内面を占領してしまうと仰せになった。

(注)別エントリー「試論:『汚れた霊』と『家』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19359

試論:「御子の贖いと母の役割」を140文字以内で

【問】詩編49編8(7)節は神に対し人間は贖いの業を行えないと説きます。聖母は御子の贖いの業にどう関与しましたか?
【答】預言者たちが示した救い主の御受難の際の苛酷な定めを全て理解した上で、母となることを承諾し、三十年以上御子のお世話をし、御子及び御父と絶えず思いを一つにしました。

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7514

(注)別エントリー「試論:『主の僕(しもべ)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8849

(注)別エントリー「試論:『主の僕の忍耐』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6462

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』=『主の僕』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8876

【追記】

「救い主」が世を救われる方法に関しイザヤは、「小羊」(53章7節)つまり代価として御自分をささげ、「しもべ」(42章、49章以下等)として人々に仕えると預言し、主もマタイ20章28節でそれを宣言された。救い主の母となることを承諾した女性が「主のはしため」を称するのは象徴的である。

(注)別エントリー「試論:『しもべ』と『はしため』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9785

御子が幼子の頃やカナでの婚礼の折を除けば、人々から御子が尊敬や賞賛を受けられている場所にいて御自分も同じく栄誉に与るということを、聖母は基本的に避けられていた。しかしゴルゴタで御子が人々から嘲りや罵りの的となられた際には十字架の傍らに立たれ、御子と最も苛酷な時間を共に過ごされた。

試論:主の御降誕と「牛とろば」を140文字以内で

ルカ2章は聖母が幼子を飼い葉桶に寝かせたと記す。御降誕の洞穴には聖母を乗せて来たろば以外に牛も一頭いたと考えられる。イザヤ1章3節に「牛やろばも飼い主や飼い主の飼い葉桶を知っているのに、わが民イスラエルはわたしを知らず見分けようともしない」と、主の嘆きが預言されているからである。

(注)別エントリー「試論:聖書と『ろば』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13192

(注)別エントリー「試論:聖書と洞穴を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13198

(注)別エントリー「聖書にはクリスマスの日付が載っていますか???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13267

(注)別エントリー「試論:『超自然的な御降誕』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13255

試論:聖書中のキリストの誕生日を140文字以内で

福音書に救い主の誕生日の記述はないが、旧約聖書のハガイ2章には「神殿の礎」すなわち《神の家の隅の親石(=主イエス・キリスト)》が備えられる日として、古いヘブライの暦で「第九の月の二十四日」という冬の日付が何度も啓示される。この日はユダヤ教のハヌカ(神殿奉献記念祭)と同時期である。

(注)別エントリー「聖書にはクリスマスの日付が載っていますか???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13267

試論:「ノアの時と同じだから」を140文字以内で

主イエスはマタイ24章37節で「人の子が来るのは、ノアの時と同じだから」と仰せになった。ここで主が暗示された事柄とは、創世記6章5節の「地上に悪が増して、常に悪いことばかり心に思い計っている」の箇所である。マタイ24章10節「多くの人が罪の状態に陥り裏切りと憎しみの中で生きる」。

(注)別エントリー「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19893

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

【追記】

主イエスはルカ21章25節で都の滅亡(紀元七〇年)の前後に「地上では海が荒れ狂う」と仰せになった。古代のヘブライの世界観で「海」とは、あらゆる罪や咎の集積する空間(ミカ7章19節)である。「地上」の「地」とは「イスラエルの地」(エゼキエル7章2節)で、ユダヤの無法状態を暗示する。

(注)別エントリー「試論:『地上では海が荒れ狂う』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12775

試論:「肉に心を用いるな」??を140文字以内で

【問】ローマ13章14節「肉に心を用いてはならない」の意味は?
【答】パウロやヨハネはしばしば神に由来する事柄を「霊」、人間に由来する事柄を「肉」と呼び対比させています。主イエスはルカ8章14節で「御言葉を聞いても人生の思い煩いや富の誘惑が心を占めている」状態を警告されていました。

(注)別エントリー「試論:『肉と霊』の対比を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7740

【追記】

ガラテヤ5章16節以下では「肉と霊」が対比されるが、ここで「肉」はヨハネ1章14節同様に「人間」を指し、「霊」は「聖霊」「神の霊」を意味する。つまりガラテヤ5章の「肉」と「霊」との対立とは、「人間に由来する諸悪」(マルコ7章20節以下参照)と「神に由来する諸徳」の対立を意味する。

(注)別エントリー「試論:聖書と『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7649

試論:「人の子が来る時」???を140文字以内で

主イエスはマタイ24章37節と44節で「人の子が来る」と仰せになったが、「人の子」とは、《人〔となられた神〕の子》主イエス・キリスト御自身である。その日に関しては既にアモス5章18節が「主の日を待望する者たちは不幸だ。主の日はお前たちにとって暗闇であり光ではない」と預言している。

(注)別エントリー「試論:神の国の到来と『主の日』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5578

(注)別エントリー「試論:『人の子は来る』??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17804

【追記】

主はマタイ10章23節で「人の子は来る」と仰せになり、「人の子の日」(ルカ17章22節)に言及されたが、黙示録6章17節は「神と小羊の怒りの大いなる日」と表現し、これらの啓示は紀元七〇年のエルサレム滅亡で実現した。支配者たちはイザヤ2章と黙示録6章の通り、洞穴からの逃亡を企てた。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888

(注)別エントリー「主の御降誕と古代イスラエルにおける洞穴」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4351

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7514

試論:ダニエル書7章13節を140文字以内で

「日の老いたる者」は天地創造以前から存在しておられる《御父である神》を指す(ヨハネ1章1節参照)。また神の現存の象徴である天の雲を伴うことから、「人の子(=人間)のような者」は神性と人性の両方を有する存在と示唆され、人間の肉体と魂とを担われた(引き受けた)《御子である神》を指す。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888

(注)別エントリー「イエス・キリストと天の雲」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/684

【追記】

この節も日本語訳では「人の子が天の雲に乗って」と訳されるが、ヘブライ語本文も古代ギリシア語訳も「乗る」に相当する動詞は存在せず、あくまでも「天の雲」とは神の現存を象徴するものに過ぎず、『西遊記』の孫悟空の雲とは異なる。そもそも全能の神である主には移動のための乗り物など不要である。

ルカ21章27節は「人の子は雲に乗って」と訳されるが、ギリシア語本文には日本語の「乗る」に当たる動詞はない。全能の神なる主は移動の際に乗り物は当然不要で、「雲」は神の現存を象徴するに過ぎないが、『西遊記』が有名な日本では孫悟空の雲と変わらぬかの如き誤解を招いている可能性が大きい。

(注)別エントリー「試論:『主の日』エルサレム滅亡を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12476

(注)別エントリー「試論:聖書の『見る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11440

神は本来、神以外の別物に変質(劣化)できない以上、「神が人となる」ためには神のままで人間としての全てを担う(引き受ける)必要があった。これをヨハネ1章14節は「〔神の〕御言葉は肉となる」として記し、ニケア・コンスタンチノープル信条は「おとめマリアよりからだを受け」として表現した。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

(注)別エントリー「試論:『神は劣化できない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11202

ヨハネ1章1節の「言(ことば)」、いわゆる「神の御言葉」とは、「御自分で御言葉をお話しになる神」すなわち御子である神、主イエス・キリストを意味する。「言(ことば)は神とともにあった」とは、天地創造以前の初めから、御子である神は御父である神とともに存在しておられたということである。

現代人は「神が人となる」と聞くと、神がそのまま人に変化(変質)するとイメージしがちだが、そのイメージは古代のイスラエル人にはなかった。出エジプト記3章14節「わたしはある」とは《わたしは劣化しない》(詩編102編28(27)節参照)を意味し、神から人への劣化を認めないからである。

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

聖書で「神が人となる」とある場合、それは「神が人に変質(劣化)し、人でいる期間は神でいることをやめている」を意味せず、「神は神のまま人間としての全てを担い、神でもあり人でもある存在となる」を意味する。「わたしはある」という神には、変質も劣化もない(詩編102編28(27)節等)。

ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。

詩編49(48)編8(7)節は、神に対して人間が贖いの業を行うことはできないと記す。とはいえ神の御独り子が自ら人間となられて自分の「からだ」を「身代金」として贖いの業を行われた時の「からだ」は、マリアから受けたものだった。マリアは極めて特別な形でイエスの贖いの業に「参加」をした。

(注)別エントリー「試論:『履物を脱ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8620

詩編49編8(7)節は神に対し人間が贖(あがな)いの業を行うことはできないと説く。それができるのは「人〔となられた神〕の子」だけであり、そのために主イエスは来られた(マタイ20章28節)。神は劣化できないため、神のままで人間の全てを担う必要があり、そのためにマリアが不可欠だった。

(注)別エントリー「試論:『《贖(あがな)い》と聖母』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9672

【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。

試論:「放縦や深酒」を140文字以内で

ルカ21章34節「放縦や深酒や生活の煩いで心が鈍らぬように注意しなさい」イザヤ5章11節から13節「朝から晩まで酒浸りの者は不幸だ。彼らは享楽のためには心を砕くが、主の御旨には思いを致すことがない。挙句に身分の高い者も低い者も等しく飢えて渇き、為す術もなく捕囚の身に成り果てる」。

(注)別エントリー「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19893

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

【追記】

【問】主イエスはルカ21章でエルサレム滅亡を予告されましたが、この滅亡が現代のキリストの信者に与える教訓とは何ですか?
【答】申命記29章18(19)節は「自分自身で自分を祝福して『自分のわがままの通り生きていても自分だけは問題ない』と心の中で言う者は皆、滅びる」と教えていました。

(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1699

ルカ16章13節「神と富の両方に仕えることはできない」黙示録18章7節「わたしは女王の座に着いており、やもめではなく、決して悲しい目には遭わない」同3節「彼女の豪勢な贅沢により地上の商人たちは、富を築いた」哀歌1章1節「やもめとなってしまったのか、多くの民の女王であるこの都が」。

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

エゼキエル18章「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は仰せになる。彼が悪から立ち帰って生きることを喜ばないだろうか。お前たちが犯した全ての背きを投げ捨てて新しい心と霊を造り出せ。どうしてお前たちは死んでよいだろうか。お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」。

(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3277

ルカ19章9節以下「今日、救いがこの家を訪れた。人の子は、失われたものを捜して救うために来た」二ペトロ3章15節「わたしたちの主の忍耐深さを救いと考えなさい」同9節「主は救いの約束を遅らせているのではなく、一人も滅びずに皆が悔い改めるように、あなたたちのために忍耐されています」。

(注)別エントリー「『罪人を招く』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19089

【問】神は人間の不幸を望んでおられますか?
【答】いいえ、断じて望んでおられません。間違った終末思想に陥り始めると「望んでおられる」などと錯覚するのでしょうが、神なる主はエゼキエル18章で「あなたたちは〔わたしに〕立ち帰って、生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」と仰せになっています。

キリスト教の歴史上「救われる者と救われない者とは神に予め定められている」という主張が存在したが、ならば神はなぜエゼキエル18章32節で「お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」と仰せになったのだろうか。二コリント5章14節「キリストは全ての人のために亡くなられた」。

(注)別エントリー「試論:救われる者は少ないか??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18576

ヨハネ9章31節には「神は罪人の言うことなどお聞きにならないとわたしたちは承知している」という言葉が記されてはいる。罪人が良からぬ企みを実行する前に成功を神に願い求めても、神が聞き入れるわけがないが、罪人が罪人であることを止めて回心したいと神に願う時は、神は喜んで聞き入れられる。

(注)別エントリー「試論:『聞き入れられる願い事』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18477

試論:器の中にある物を施す??を140文字以内で

旧約の民の世界観では、人間は神によって塵から創造された「土の器」であり、そこに神が命の息つまり霊魂を吹き込まれて生きる者となった。旧約の民は箴言1章23節以下またはイザヤ58章10節の通り、「霊魂を注ぐ」という言い回しで、相手に配慮して庇護を与え憐れみの心で接することを表現した。

【追記】

ルカ11章41節「器の中にある物を施せ」の「器」とは「土の器」「陶器」の比喩と同様、人間を指す。「器の中にある物」は人間に吹き込まれた「命の息」(創世記2章7節)つまり「霊魂」を意味する。イザヤ58章10節のヘブライ語原文「霊魂を注ぐ」は、「心を配る」(新共同訳)ことを意味する。

(注)別エントリー「試論:『土の器』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6902

(注)別エントリー「『土の器』(つちのうつは)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14324

(注)別エントリー「ただ器の中にある物を施せ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19407

試論:「人の子は雲に乗って」?を140文字以内で

ルカ21章27節は「人の子は雲に乗って」と訳されるが、ギリシア語本文には日本語の「乗る」に当たる動詞はない。全能の神なる主は移動の際に乗り物は当然不要で、「雲」は神の現存を象徴するに過ぎないが、『西遊記』が有名な日本では孫悟空の雲と変わらぬかの如き誤解を招いている可能性が大きい。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888

(注)別エントリー「試論:『主の日』エルサレム滅亡を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12476

(注)別エントリー「イエス・キリストと天の雲」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/684

(注)別エントリー「試論:聖書の『見る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11440

試論:ルカ21章33節を140文字以内で

古代のヘブライ人は詩編78編69節の通り、エルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。これを踏まえれば、主イエスのルカ21章33節の仰せ「やがて天地は滅びるであろうが、わたしの言葉は決して滅びない」の意味は、「エルサレムと神殿の滅亡後も、わたしの教えと信仰は生き続ける」である。

(注)別エントリー「試論:『たとえ天地が滅びても』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12142

試論:「人心荒廃と神殿の滅亡」を140文字以内で

御受難前に主は、「理由のない憎しみ」(ヨハネ15章25節)に言及され、また人心荒廃が神殿の滅亡に先立つと予告された(マタイ24章10節、12節)。約四十年後に神殿は滅亡し、さらにその数十年後あるユダヤ教の高名なラビは、「理由のない憎しみ」の蔓延により神殿は滅亡したと、結論付けた。

(注)別エントリー「試論:『悪と人間の心』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/20277

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

【追記】

主はマタイ24章10節と12節で、人心の荒廃が神殿の滅亡に先立つことを予告された。一方で一世紀ユダヤの歴史家ヨセフスは、紀元七〇年のエルサレム滅亡以前に暗殺や強盗殺人がユダヤの各地で頻発し、加害者が相手をローマの手先呼ばわりして自分たちの悪事を正当化していた事実を著作に記述した。

(注)別エントリー「試論:『人心荒廃は滅亡の前兆』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6291

試論:「十分の一献金」是か否かを140文字以内で

【問】旧約の「十分の一の献げ物」の替わりが現代の「十分の一献金」ですか?
【答】いいえ。ヘブライ10章5節以下は、旧約時代の全てのいけにえや献げ物の類に替わるものとして主イエス・キリストが御自分の体を十字架上で献げられたと教えます。「十分の一献金」は蛇の絵に足を描くような行為です。

試論:「荒れ狂う海」?を140文字以内で

主イエスはルカ21章25節で都の滅亡(紀元七〇年)の前後に「地上では海が荒れ狂う」と仰せになった。古代のヘブライの世界観で「海」とは、あらゆる罪や咎の集積する空間(ミカ7章19節)である。「地上」の「地」とは「イスラエルの地」(エゼキエル7章2節)で、ユダヤの無法状態を暗示する。

(注)別エントリー「試論:『地上では海が荒れ狂う』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12775

試論:「エルサレム滅亡の教訓」を140文字以内で

【問】主イエスはルカ21章でエルサレム滅亡を予告されましたが、この滅亡が現代のキリストの信者に与える教訓とは何ですか?
【答】申命記29章18(19)節は「自分自身で自分を祝福して『自分のわがままの通り生きていても自分だけは問題ない』と心の中で言う者は皆、滅びる」と教えていました。

(注)別エントリー「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19893

【追記】

ルカ16章13節「神と富の両方に仕えることはできない」黙示録18章7節「わたしは女王の座に着いており、やもめではなく、決して悲しい目には遭わない」同3節「彼女の豪勢な贅沢により地上の商人たちは、富を築いた」哀歌1章1節「やもめとなってしまったのか、多くの民の女王であるこの都が」。

(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1699

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

試論:「エルサレム滅亡と洞穴」を140文字以内で

福音書のギリシア語からは、主イエスは家畜小屋として使われていた洞穴でお生まれになったと、推論される。古代のヘブライ人にとって、洞穴で寝泊まりするのは非常時の選択肢の一つだった。近年の発掘調査では、紀元七〇年のエルサレム滅亡時に避難民が地下の洞穴で生活していた痕跡が発見されている。

(注)別エントリー「試論:聖書と洞穴を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13198

(注)別エントリー「主の御降誕と古代イスラエルにおける洞穴」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4351

【追記】

ルカ21章21節において主イエス・キリストは、エルサレムが包囲されようとしている時には都を脱出すべきであると警告され、また地方にいる人々は山に逃げるべきでエルサレムがいかに堅固な都であろうと、決してそこに入って籠城すべきではないとも警告された。都の滅亡に巻き込まれないためである。

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

(注)別エントリー「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19893

試論:他人を裁く裏切り者のユダを140文字以内で

主イエスは山上の説教の時から「他人を裁くな。自分が裁かれないためである」と仰せになった。にもかかわらずヨハネ12章の冒頭でユダはベタニアのマリアに難癖をつけ勢いづいていた。ユダは何年間も表面上は主に聞き従ってはいたが実はずっと上の空だったし、そしてそれを隠す気すらなくなっていた。

(注)別エントリー「試論:『正論を装った悪意』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11241

【追記】

ヨハネ12章の冒頭で、ベタニアのマリアの行いを目にしたイスカリオテのユダは、相手の「落ち度」(実際は落ち度でも何でもなかったがユダは勝手にそう思い込み調子に乗った)を見つけて鬼の首でも取ったかの如く、勢いづいた。同6章64節は主イエスは最初から誰が裏切り者か知っておられたと記す。

(注)別エントリー「試論:『調子に乗る人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/20052

試論:イエスの弟子か否かの識別を140文字以内で

主イエスはヨハネ13章35節で「あなたたちが互いを尊重し合うならば、それを見て皆はあなたたちがわたしの弟子だと認める」と仰せになった。いくら聖書の一節を巧みに振りかざして見せても所詮それは悪魔が荒れ野で主を誘惑した手口と同じであり、ましてそれが自身の都合のためならなおさらである。

試論:「現代の預言者」いるの?を140文字以内で

旧約時代には申命記18章15節以下の律法の通り、神が立てられた預言者には聞き従わなければならなかった。しかし使徒言行録21章でパウロは、アガボやフィリポの四人の娘など「預言」を行う人々の制止を振り切り、エルサレムへと出発した。キリスト教に旧約時代と同じ立場の預言者など存在しない。

【追記】

旧約の律法では王や大祭司も預言者に従う定めがあったがダニエル9章24節は「預言を封印するメシア」を預言し、ルカ21章22節の主の御言葉と紀元七〇年のエルサレム滅亡で、その預言は成就した。その後も当然「私的啓示」は続くが、決してそれらを旧約時代の「預言」と同じ扱いにしてはならない。

エレミヤ23章は、偽預言者が「託宣」を捏造し「わが民がわたしの名を忘れるように仕向ける」と、主なる神がお嘆きであることを記した。一ヨハネ4章も、キリストの弟子を自称する人々が、キリストについて沈黙する一方で世間的な事柄ばかり口にしているとして、「反キリストの霊」と呼んで非難した。

(注)別エントリー「試論:『偽預言者』と『もみ殻』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7600

エレミヤ23章25節以下は偽預言者の悪事を告発し、偽りの預言は人々に真の御言葉(御教え)を忘れさせるように仕向けるという点で、非常に悪質だと指摘した。これは、偽預言者はイエスについてなるべく触れようとせず世間のことばかり語ろうとするという一ヨハネ4章の記述と、完全に一致している。

「人を惑わす霊」は一ヨハネ4章6節に登場し、3節の「反キリストの霊」「イエスのことを公に言い表さない霊」と同じだが、4節の「偽預言者たち」を指している。「わたしたちから去って行った」「世のことを話す」「世は彼らに耳を傾ける」「キリストの教えにとどまろうとしない」などの特徴を持つ。

(注)別エントリー「試論;偽預言者の識別を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6118

古代のギリシア語訳エレミヤ書は、エレミヤを陥れようとしていた「預言者」たちを、偽預言者と呼ぶ。また古代のギリシア語訳ゼカリヤ13章2節は、神と民の両方から信用を失って排斥される「預言者」たちを、偽預言者と呼ぶ。その特徴は目先の利得追求が第一の、「貪欲」(マタイ7章15節)にある。

(注)別エントリー「試論:『偽預言者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7106

(注)別エントリー「試論:偽預言者と滅亡を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5401

ダニエル9章24節はメシアについて預言の時代を封印する存在だと預言し、主はルカ21章22節で、(紀元七〇年の)エルサレム滅亡で旧約聖書の全預言が成就し預言の時代が終わると仰せになった。故に紀元七〇年以降の国際情勢と旧約聖書の預言は無関係で、関係ありとする強弁は主の御言葉に反する。

(注)別エントリー「試論:主イエスと旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7462

一ヨハネ4章の通り偽預言者や偽教師は、主イエスが実際に仰せになった福音書の御言葉には絶対に触れようとせず、代わりに「世」すなわち俗世間や国際情勢の話で置き換える。主イエス御自身が、預言とは御自分についてあかしするものだと仰せにもかかわらず、国際情勢や「終末預言」に話をすり替える。

二ペトロ2章は「偽教師」への警戒を呼びかけ、「彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にする」(3節)「昼間から享楽に耽るのを楽しみにする」(13節)「強欲」(14節)等と表現する。一般の信者が真面目に働いている時間帯に、連日のように臆面もなく美食を貪る者こそが偽教師である。

(注)別エントリー「試論:『終末預言?ありません』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13853

(注)別エントリー「試論:有人気球と『空中』の拡大を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10270

二ペトロ2章は「偽教師」への警戒を呼びかける。彼らは「滅びをもたらす異端を持ち込み、主を拒む」(1節)、「欲が深く虚言で人々を食い物にする」(3節)、「厚かましく、わがまま」(10節)「昼間から歓楽にふけるのを愉しみとする」(13節)「無意味な大言壮語」(18節)等の特徴を持つ。

二ペトロ2章は「偽教師」への警戒を呼びかけ、「彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にする」(3節)「昼間から享楽に耽るのを楽しみに する」(13節)「強欲」(14節)等と表現した。一般の信者が真面目に働く時間帯に美食を貪り、旅行・観光・娯楽施設と遊興三昧なのが偽教師である。

(注)別エントリー「聖書にはクリスマスの日付が載っていますか???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13267

(注)別エントリー「試論:現代人と旧約聖書の預言書を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19690

試論:「エルサレムの包囲」を140文字以内で

主イエスはルカ21章20節でエルサレムが敵に包囲されるのを見たら滅亡は近いと予告された。ユダヤがローマに対し反乱を起こした紀元六六年、エルサレムに来襲し包囲したローマ軍を反乱軍は予想外の勝利で撃退した。しかし四年後の紀元七〇年、戦線を立て直したローマ軍は都と神殿を完全に滅ぼした。

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

【追記】

続く21節で主イエスは、エルサレムが堅固な都に見えようと決して地方に住んでいる人々は都に避難し籠城しようと考えてはならぬと警告された。『改訳 新約聖書』(1917年)の同章23節は「地(ち)には大(おほひ)なる艱難(なやみ)ありて、御怒(みいかり)この民(たみ)に臨(のぞ)み」。

(注)別エントリー「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19893

試論:何の時代が終わるの???を140文字以内で

【問】主イエスは逮捕前のルカ21章(マタイ24章、マルコ13章)で、一つの時代の終わりを予告されていますが、これは現代に生きるわたしたちと強く関係しますか?
【答】主イエスの御受難・御復活・御昇天の後も、エルサレム神殿の時代は約四十年間続きましたが、その終わりを主は予告されました。

【追記】

ルカ21章は「やもめの献金」から神殿滅亡の予告へ続く。ローマの歴史家タキトゥスは二世紀の初め、滅亡したユダヤの都は神殿が所有する莫大な富によって名高かったと記した。エルサレムの神殿の豪華絢爛さには使徒たちでさえも目を奪われるほどだったが、当時の人々は何か重大なものを見失っていた。

(注)別エントリー「試論:やもめの献金と神殿の滅亡を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/20266

試論:「わたしは知恵を授ける」を140文字以内で

ルカ21章15節「わたしは、どんな反対者だろうと対抗や反対もできぬような言葉と知恵とを、あなたたちに授けよう」ヨハネ14章26節「御父がわたしの名によってお遣わしになる弁護者、つまり聖霊が、わたしが話していたことをことごとくあなたたちに思い出させ全てのことを教えて下さるだろう」。

試論:「迫害の予告」と「会堂」を140文字以内で

主イエスはルカ21章12節で来るべき迫害の時代を予告され始めた。「会堂」「王や総督」等の文言からはそれが歴史上、一世紀ユダヤの出来事であると同定できるが、それと同時に「会堂や牢に〜」の文言からは、福音書時代のユダヤ教の会堂が実は司法機関的な役割をも担っていたこともまた推定できる。

試論:「悪巧み」を140文字以内で

主はルカ17章1節で「つまずきは避けられないがそれをもたらす者は不幸だ」と仰せになった。レビ19章17節は悪意を抱いたまま隣人に接することを禁じ、箴言26章27節は他人を落とす穴を掘る者は自分がそこに落ちると記し、民数記12章でモーセに難癖をつけたミリアムは厳しく主に罰せられた。

(注)別エントリー「試論:『理由のない憎しみ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6468

(注)別エントリー「試論:『モーセの模範』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7466

(注)別エントリー「試論:『つまずき』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7363

試論:「国は国に敵対して立つ」を140文字以内で

主イエスがルカ21章10節で予告された通り主の御受難の三十数年後の紀元六六年、ローマ帝国の属国ユダヤで大反乱が勃発した。当初ユダヤの反乱軍は、エルサレムに来襲したローマ軍を撃退するなど戦況を有利に進めたが、戦線を立て直したローマ軍は、四年後の紀元七〇年、都と神殿を完全に滅ぼした。

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

【追記】

預言者ヨナの不満をよそに主なる神は、アッシリアの大いなる都ニネベについて惜しまれた。ルカ19章41節以下で主イエスは、約四十年後に到来するエルサレム滅亡の日を予告され泣かれた。同じ都は数日後に御自身を殺す都であったが、ニネベを惜しまれた以上に、都エルサレムの滅亡を嘆き惜しまれた。

(注)別エントリー「試論:『大淫婦』の正体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15895

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1699

試論:「悪と人間の心」を140文字以内で

マルコ7章20節以下「さらに主は次のように仰せになった。『人から出て来るものこそが、人を中から汚(けが)す。つまり人間の心から、悪い思い──淫らな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、高慢、無分別等々──は全て中から出て来て、人を汚(けが)すのである』」。

試論:主は何を求めておられるかを140文字以内で

今、あなたの神、主があなたに求めておられることとは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてその全ての導きに従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸せになることではないか。(申命記10章12節〜13節)

(注)別エントリー「試論:『神の御旨と人間の不幸』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19865

【追記】

ミカ6章8節「何が善であって、主が何をあなたたちに求めておられるかは、あなたたちには既に告げられている。それは神の義を行い、憐れみの業を愛し、へりくだり神と共に歩むこと」ホセア6章6節「わたしが求めるものは『いけにえ』ではなく憐れみであり、焼き尽くす献げ物ではなく神を知ること」。

(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6748

試論:やもめの献金と神殿の滅亡を140文字以内で

ルカ21章は「やもめの献金」から神殿滅亡の予告へ続く。ローマの歴史家タキトゥスは二世紀の初め、滅亡したユダヤの都は神殿が所有する莫大な富によって名高かったと記した。エルサレムの神殿の豪華絢爛さには使徒たちでさえも目を奪われるほどだったが、当時の人々は何か重大なものを見失っていた。

(注)別エントリー「試論:ルカ21章のやもめの献金を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/20226

【追記】

ルカ16章13節「神と富の両方に仕えることはできない」黙示録18章7節「わたしは女王の座に着いており、やもめではなく、決して悲しい目には遭わない」同3節「彼女の豪勢な贅沢により地上の商人たちは、富を築いた」哀歌1章1節「やもめとなってしまったのか、多くの民の女王であるこの都が」。

(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1699

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

バプテスマは身を沈める・身をひたすことか【再投稿】

「バプテスマ(Βαπτισμα – baptisma)」というギリシア語は、通常カトリックで用いられる聖書では、「洗礼」と日本語訳されています。

ところが本田哲郎神父は、この「バプテスマ」の意味に関して、その著書のいくつかにおいて、「バプテスマとは『身を沈める』『身を浸す(ひたす)』ことであり、『洗う』とか『清める』という意味はない」と主張し、まさにこの主張こそが本田神父の洗礼論──バプテスマ論の出発点となっています。

そこで、「洗礼」と日本語訳される聖書ギリシア語バプテスマについての本田哲郎神父の主張──すなわち「身を沈める、身をひたすという意味です」「洗うとか清めるという意味はありません」といった主張の妥当性について、特に「沈む/沈める」というニュアンスとの関連を焦点として、実際の聖書の用例と数多く照合しながら、これより検証していきます。

【1】「バプテスマは、単純に『身を沈める』こと」と主張する本田哲郎神父

本田哲郎神父は著書『釜ヶ崎と福音』(岩波書店)の中で、「洗礼」と題した章(90~92ページ、岩波現代文庫版では98〜100ページ)において、「沈む/沈める」というニュアンスを強調するために、

「『沈めの式』(洗礼式)」

という表現を何度も用いていますが、同書74ページ(岩波現代文庫版では80ページ)においても、この「『沈めの式』(洗礼式)」という独特の表現が登場し、本田神父は独自の洗礼論を76ページ(岩波現代文庫版では83ページ)まで展開しています。

バプテスマの第一義を「沈む(あるいは、〔身を〕沈める)」ことと主張する、この本田哲郎神父の持論は、別の箇所でも見ることができます。

『釜ヶ崎と福音』201ページ(岩波現代文庫版では215ページ)には、次のように書かれています。

・「キリスト者としての根幹、すなわちキリスト者としての生活姿勢は、入信の儀式として行なわれる『沈めの式』(バプティスマ Βαπτισμα=洗礼式)において象徴的に示されています」

この独特の表現に関して、本田神父の別の著書『聖書を発見する』(岩波書店)の45~46ページでは、次のように説明しています(以下、ギリシア語はラテン文字転写して表記します)。

・「従来、『洗礼を受ける』と訳されてきたギリシア語バプティツォマイは、バプテスマの動詞形で、身を沈める、身をひたすという意味です。洗うとか清めるという意味はありません。たとえばギリシア語では、体を洗う(入浴)ならルーオ、手足や顔を洗うならニプト、服や手ぬぐいを洗う(洗濯)ならプリュノ、けがれを清めるならハグニツォという用語があり、聖書の中にもそれぞれの意味で使われています。バプテスマは、単純に『身を沈める』ことなのです」

(ここで本田神父の言う「バプティツォマイ」(baptizomai)は、バプティツォ(baptizō)のことです。)

また、本田哲郎訳『小さくされた人々のための福音』(新世社)15ページには次のように書かれています。

・「ちなみに、ギリシア語では次のように使い分けがされています」
・「『体を洗う(入浴)』には louō、『手、足、顔などを洗う』は niptō、『洗濯する』は plynō、『けがれを清める』は hagnizō、『身を沈める、浸(ひた)す』は Baptizō です」

【2】バプテスマに「洗う」「清める」という意味は本当にないのか

……さて、本田神父はこう言い切っていますが、「バプテスマ」の動詞形のギリシア語(baptizō)には、はたして本当に「身を沈める、身をひたす」という意味しかなく「洗う」「清める」という意味はないのでしょうか。

「バプテスマ」に関する本田神父の以上のような主張は、シラ書34章30節の記述によって否定されます。
(以下、聖書の引用はフランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』から行ないます)

・「屍に触れて身を清めてから、再びこれに触れるなら、体を洗うことに何の益があろうか」

この箇所の「身を清めて(から)」という日本語の部分に該当する原文のギリシア語の表現は“baptizimenos”で、バプテスマの動詞形のバプティツォ(baptizō)が用いられています。

つまりシラ書34章30節においては、「バプテスマ」というギリシア語は「死体との接触による不浄からの清め」という意味で使用されています。
よって、本田神父による「バプテスマは、単純に『身を沈める』ことなのです」「洗うとか清めるという意味はありません」という上記に引用した『聖書を発見する』の記述は、明白な誤りということになります。

ちなみにシラ書34章30節の、「(体を)洗うこと」に用いられているギリシア語はルートロン(loutron)で、本田神父が「体を洗う(入浴)ならルーオ」と紹介した動詞ルーオ(louō)の名詞形です。
新約聖書のテトスへの手紙3章5節では、洗礼を比喩的に「洗い」と表現していますが、ここでも用いられている原文のギリシア語は、同じくルートロンです。
やはり本田神父の持論とは異なり、「バプテスマ」に洗うとか清めるという意味は含まれているのです。

さて次に、七十人訳ギリシア語旧約聖書の列王記下5章で、本田哲郎神父の上記の「バプテスマ」論が正しいか否かを検証してみます。

◯列王記下5章10節
・「エリシャは使いの者をやって言わせた、『ヨルダン川へ行って、七度身を洗いなさい(lousai)。そうすれば、あなたの体は元に戻り、あなたは清くなります』」

◯列王記下5章14節
・「そこでナアマンは下って行き、神の人が命じたようにヨルダン川に七度身を浸した(ebaptisato)。彼の体は元に戻り、幼子の体のようになり、彼は清くなった」

10節でエリシャが指示した行為は、“lousai”すなわち本田神父がいうところの「ルーオ(louō)」という動詞で表現されています。
一方、その指示に対してナアマンが実際に行なった行為は、“ebaptisato”──本田神父がいうところの「バプティツォマイ」──つまりバプティツォ(Baptizō, baptizō)という動詞で表現されているわけですから、「バプテスマ」に当たります。

この場合、両者は同じ行為を意味していますから、ナアマンの行なった「バプテスマ」には当然、「ルーオ」すなわち「(身を)洗う」という意味合いが必ず含まれていなければなりません。

エリシャはナアマンに対し、七度「ルーオ」することによって「あなたは清くなります」、と約束しました。
そしてナアマンは、「神の人(エリシャ)が命じたように」、七度「バプティツォ」したことによって、「彼は清くなった」のです。

「ルーオ」すれば実現すると神の預言者によって約束された治癒が、「バプティツォ」することによって現実のものとなったのですから、「バプティツォ」という言葉の意味合いは必ず「ルーオ」という言葉の意味合いと重なっていなければならないはずです。

ということは、この列王記下5章を踏まえて考えれば、『聖書を発見する』45ページにおける、

・「従来、『洗礼を受ける』と訳されてきたギリシア語バプティツォマイは、バプテスマの動詞形で、身を沈める、身をひたすという意味です。洗うとか清めるという意味はありません」

という本田哲郎神父の主張は、やはり歴然たる誤りということになります。

この箇所では「ルーオ」と「バプティツォ」とは同じ一つの行為を表現していますから、必ずこの両者は同じ意味合いでなければならないのです。

「あなたは清くなります」(10節)あるいはまた「彼は清くなった」(14節)という記述からも明らかなように、列王記下5章の文脈を読む限り「バプテスマ」と「洗い」「清め」とは分かち難い関係にあるとしか解釈できませんし、だとすれば本田哲郎神父が「洗うとか清めるという意味はありません」などと発言するのは全く不可解な話で、発言の根拠も不明です。

このナアマンのエピソードをルカ福音書4章で、主イエス・キリストも言及しておられます。

◯ルカによる福音書4章27節
・「また預言者エリシャの時代に、イスラエルには、重い皮膚病を患っている人が大勢いた。しかし、そのうちの誰も清められず、シリアのナアマンだけが清められた」

ナアマンのエピソードで重要なのは、「身を浸した」行為が「清められた」という結果に直結している点です。だからこそ、バプテスマの動詞形を用いてそのことを七十人訳聖書は表現しているのであって、主イエス・キリストも「清め」の著名な例としてナアマンを引用されているわけです。

重ねて強調しますが、古代のギリシア語旧約聖書である七十人訳聖書では列王記下5章のナアマンのエピソードにおいて、「バプテスマ」の動詞形である「バプティツォ」は明らかに、「(身を)洗う」という意味の動詞「ルーオ」と同じ行為について用いられており、しかも結果的に「清め」に至っていることからも、この著名な故事から考察する限り「バプテスマ」と「洗い」「清め」とは分かち難い関係にあるとしか解釈できません。

【3】「バプテスマは、単純に『身を沈める』こと」ではない

「死体との接触による不浄とその清め」に関するモーセの律法の規定は、旧約聖書の民数記19章に書かれています。
前述のシラ書34章30節の記述は、当然のことながら、民数記19章の律法を前提としています。
そこで、民数記19章の関係する部分を見てみましょう。参考のため、全文を引用します。

・「どのような人の死体であれ、それに触れた者は、七日の間汚れる。その者は、三日目と七日目に汚れを清める水で自らを清めなければならない。そうすれば清くなる。もし三日目と七日目に自らを清めないなら、清くならない。人の死体に触れて、自らを清めない者は誰でも、主の住居を汚す者である。その者はイスラエルから断たれる。汚れを清める水が振りかけられていないので、まだ汚れたままである。彼の汚れはまだ彼の上にある」(11節~13節)

・「人が天幕の中で死んだ時の規定は次のとおりである。その天幕に入った者、あるいは天幕の中にいた者はみな、七日の間汚れる。蓋が閉まっておらず、開いていた器もみな、汚れる。また野外で、剣で殺された者や自然に死んだ者、人骨や墓に触れた者はみな、七日の間汚れる」(14節~16節)

・「汚れた者のために、焼いた贖罪の献げ物の灰を取って器に入れ、これに生きた水を加える。清い身の者がヒソプを取ってそれを水に浸し、天幕、すべての器、そこにいた人々、あるいは骨、殺された者、死んだ者、墓に触れた者に振りかける。三日目に七日目に、清い身の者は身の汚れた者にそれを振りかける。このようにして七日目に身の汚れた者を清める。それから、その者は衣服を洗い、水で身を洗う。それすれば夕方には清くなる」(17節~19節)

・「汚れた者が身を清めなければ、その者は集会の中から断たれる。主の聖所を汚したからである。汚れを清める水がその者に振りかけられていないので、彼は汚れている。これは彼らが永久に守るべき掟である。汚れを清める水を振りかけた者は、自分の衣服を洗わねばならない。また汚れを清める水に触れた者は夕方まで汚れる。汚れた人が触れたものはすべて汚れる。またその者に触れた人も夕方まで汚れる」(20節~22節)

民数記19章の「清め」に関する規定を読むと、先の『聖書を発見する』45~46ページからの引用では本田神父が全く触れていない、「(汚れを清める水を)振りかける」という動詞が何度も登場することに気づきます。
またこの場合の
「清め」には、汚れを清める水を「振りかける」という動作が不可欠であることがわかります。

七十人訳ギリシア語旧約聖書では、この「(汚れを清める水を)振りかける」という動詞に対して「ライノ(rainō)」というギリシア語を当てています。
本田神父は上記の引用部分では、この「ライノ」というギリシア語には言及していません。

この「ライノ」という動詞は、七十人訳聖書のエゼキエル書36章25節にも登場します。

・「わたしはお前たちに清い水を注ぐ。そうすれば、お前たちは清くなる。すべての汚れ、すべての偶像からお前たちを清める」

の「(清い水を)注ぐ」とある箇所に、七十人訳ではライノというギリシア語の動詞が用いられています。

話を元に戻すと、シラ書34章30節の「バプテスマ」という行為は民数記19章の律法の規定に基づいたものですが、民数記19章においては本田神父が主張するような「身を沈める」や「身をひたす」という行為は全く登場せず、その代わり、本田神父が否定する意味合いである「(汚れを)清める」という行為と、本田神父がなぜか言及しない「(汚れを清める水を)振りかける」という行為とについて、詳しく説明されています。

本田神父は「従来、『洗礼を受ける』と訳されてきたギリシア語バプティツォマイは、バプテスマの動詞形で、身を沈める、身をひたすという意味です」と主張しますが、しかし、民数記19章においては、18節に「清い身の者がヒソプを取ってそれを水に浸し、」とある通り、ひたされる(浸される)のは人間ではなく、実はヒソプの方だったのです。

【4】バプテスマの動詞形の意味が「身を沈める、身をひたす」とは、はたして本当か

本田哲郎神父は「身を沈める、身をひたす」と大雑把に一括りにして語っていますが、百歩譲って仮にその本田神父の主張が正しいとして、それならば例えば、全身を水中に沈めた「潜水」の状態も、「全身浴」の状態も、「半身浴」の状態も、「足湯」の状態も、それらの全てを一括りにして同じく一つのギリシア語の単語で表現できるのか、という疑問が当然ながら生じます。

実際にどの程度まで「身」を水中に入れるのかと考えると、「身を沈める」と「身をひたす」とでは、やはり差異は生じます。

そこで、「バプテスマ」の動詞形「バプティツォ(Baptizō, baptizō)」とは別に、ギリシア語に「身を沈める」という意味を持つ動詞が他に存在するのかしないのかを調べてみます。

マタイによる福音書14章には、湖の上を歩いておられる主イエスの姿を見てペトロも同じようにしますが、途中で強い風に恐れを抱いて沈みかける話があります。
この箇所(30節)で、ペトロが「沈みかけた」という部分で用いられているギリシア語の動詞は“katapontizesthai”、すなわち「カタポンティツォ(katapontizō)」であって、バプテスマの動詞形「バプティツォ」ではありません。

この「カタポンティツォ」というギリシア語は七十人訳ギリシア語旧約聖書の詩編69(68)編の3節と15節にも登場しますが、ここでは窮地に立たされていることの比喩として「泥の深みに沈み(“katepontisen”)」「泥沼に沈まぬように(“katapontisatō”)」などの表現の箇所で、この動詞が用いられています。
つまり、マタイ福音書14章や七十人訳の詩編69(68)編では、「沈む」を意味するギリシア語は「バプティツォ」ではなく別の動詞「カタポンティツォ」なのです。

一方でルカによる福音書5章には、主イエスの言葉に従って漁をしたシモン・ペトロとその舟が、あまりに大漁になり過ぎてやはり沈みかける話があります。
この箇所(7節)において、「今にも沈みそう」という部分で用いられているギリシア語の動詞は“bythizesthai”、すなわち「ブティツォ(buthizō)」であって、やはり「バプティツォ」ではありません。

ルカ5章7節で沈むのは「舟」と解釈できますが、しかしマカバイ記二12章4節では人間が水中に沈む場合にも同じ「ブティツォ」という動詞は用いられており、この「ブティツォ」にも「身を沈める」という意味が存在します。

しかも、この動詞「ブティツォ(buthizō)」の関連語「バトス(bathos)」には比喩的に「どん底(の)」という意味合い(コリントの人々への第二の手紙8章2節では「極度の(貧しさ)」)もあり、むしろそれこそ本田神父のように貧困との兼ね合いで「身を沈める」云々するとしたら、「バプティツォ」よりもこちらの方がしっくり来るはずです。

また「ブティツォ」の語源となった「ブトス(buthos)」も、七十人訳の出エジプト記15章5節においては、「淵の底」(フランシスコ会聖書研究所訳。新共同訳では「深い底」)という意味を持つ語として用いられています。
いかにも本田神父が好みそうな「底辺」に「身を沈める」というニュアンスならば、まちがいなくこちらの「ブティツォ」の方なのです。

テモテへの第一の手紙6章9節の「それらのものは、人々を滅びと破滅に沈ませます」という箇所で、「沈ませます」に相当するギリシア語も“bythizousin”、すなわち「ブティツォ(buthizō)」であって、やはり「バプティツォ」ではありません。

既に、【2】と【3】で考察した通り、シラ書34章30節においては「バプティツォ」は「身を沈める、身をひたす」という意味では用いられておらず、「水を振りかけられて(死体との接触による)不浄を清める」を意味しています。
一方では、「身を沈める」というギリシア語には、上記のように「カタポンティツォ」あるいは「ブティツォ」といった他の動詞が存在するのです。

つまり、「身を沈める」「沈む」を意味するギリシア語として福音書には、「バプテスマ」の動詞形「バプティツォ」ではなく、別の動詞「カタポンティツォ」または「ブティツォ」が用いられている事例が存在するのです。

福音書で「身を沈める」あるいは「沈む」場合の複数の事例について、「バプテスマ」の動詞形「バプティツォ」ではない複数の動詞が用いられているという事実は、すなわち「バプテスマ」の本質、第一義が「身を沈める」や「沈む」ことなどではありえないという蓋然性を、強く示唆しています。

ここまで来ると、はたして本田神父が主張しているように「バプテスマ」が「身を沈める」ことであるのかどうかさえ、かなり疑わしくなります。
もし「バプテスマ」が「身を沈める」ことであるとするなら、マタイ14章30節やルカ5章7節でペトロが沈みそうになった場合についても「バプティツォ」と表現されていて然るべきですが、しかしギリシア語原文は決してそういう表現になっていません。

「バプティツォ」という動詞は、七十人訳ギリシア語旧約聖書においては、列王記下5章14節では「身を浸して洗う」を意味しており、その一方、シラ書34章30節では「水を振りかけられて不浄を清める」を意味することが、これまでの考察で明らかになりました。

【5】「バプト」と「バプティツォ」とは、どう違うのか

実際のところ、単純に「ひたす、浸す」という場合のギリシア語の動詞は、もともとは「バプト(baptō)」というものです。

この「バプト」こそ、まさに今ここで問題になっている「バプテスマ」あるいは「バプティツォ」の元になっているギリシア語です。
民数記19章18節で清めのための水にヒソプを「浸す」場合にも、この「バプト」という動詞が用いられています。

この「バプト」は確かに「バプティツォ」の語源となった言葉ですが、両者の意味合いは必ずしも同じであるとは言えません。

七十人訳ギリシア語旧約聖書においては、列王記下5章14節では「身を浸して洗う」を意味する動詞として、「バプティツォ」が用いられています。つまり、単純に「浸す」というだけではなくその行為に「洗う」「清める」というニュアンスが加わった際に、用いられるのは「バプト」ではなく「バプティツォ」という表現になっていた、ということです。

同じ列王記下8章15節には「彼は布を取って水に浸し(ebapsen)」という記述があります。
8章15節と5章14節を比較すると、ヘブライ語原文では両方の箇所とも「タバル(טבל – tabal)」いう同じ語が用いられています。
ところが七十人訳では、8章15節では”ebapsen”すなわち「バプト(baptō)」、5章14節では”ebaptisato”すなわち「バプティツォ(baptizō)」というように、ギリシア語の動詞が使い分けられていたのです。

5章14節の行為には「洗う」「清める」という意味合いが明らかに含まれている一方、8章15節にはその意味合いは含まれていない、という違いによって、「バプト」「バプティツォ」が使い分けられている、と考えられます。

一方、シラ書34章30節では、「水を振りかけられて(死体との接触で生じた)不浄を清める」を意味する動詞として、「バプティツォ」が用いられています。
そして、そのための前処置として、水を振りかけるためのヒソプを清めの水に「浸す」場合、その「浸す」を意味する動詞こそが、まさに「バプト」(民数記19章18節)です。
つまり、「バプト」が結果として「洗う」「清める」という行為に結び付く時、その結果的行為を表現する動詞を「バプティツォ」と表現しているものと考えられます。

重ねて強調しますとシラ書34章30節の「バプテスマ」という行為は民数記19章の律法の規定に基づいたものですが、民数記19章においては本田神父が主張するような「身を沈める」や「身をひたす」という行為は全く登場せず、その代わり、本田神父が否定する意味合いである「(汚れを)清める」という行為と、本田神父がなぜか言及しない「(汚れを清める水を)振りかける」という行為とについて、詳しく説明されています。

すなわち「バプト(baptō)」と「バプティツォ(baptizō)」とは常に互換性があるわけではないということが、列王記下の二か所(5章14節、8章15節)そしてシラ書34章30節の記述によって明らかになります。

とはいうものの、民数記19章18節と列王記下5章14節における「浸す」という動詞は、ギリシア語では確かに前者は「バプト」で後者は「バプティツォ」と異なりますが、ヘブライ語では両者とも「タバル(טבל – tabal)」という同じ語であり、「バプト」と「バプティツォ」とはやはり無関係ではありえないことがわかります。

そこで七十人訳聖書におけるギリシア語「バプト」の具体的な用例をさらに追究し続けることによって、「バプテスマ」の実相に迫りたいと思います。

【6】「体の一部をひたす」と「全身を沈める、潜らせる」とは別物

もちろん、列王記下5章14節の「バプティツォ」に対応するヘブライ語「タバル(טבל – tabal)」の意味は、「(身を)ひたす」です。
これはフランシスコ会聖書研究所訳や新共同訳など、ヘブライ語原文からの日本語訳で確認できる通りです。

しかし、ヘブライ語では、「(身を)ひたす」すなわち「タバル(טבל – tabal)」と、「(身を)沈める」すなわち「タバ(טבע – taba)」の両者とは、一見、似てはいますが、別々の単語になります。両者は似て非なる言葉なのです。

つまり「(身を)ひたす」と「(身を)沈める」とは、ヘブライ語の次元でも別々の表現だったということです。

実は【3】で取り上げた、民数記19章18節の場合、「清い身の者がヒソプを取ってそれを水に浸し、」という箇所の「浸す」という動詞がありますが、七十人訳のギリシア語では「バプト(baptō)」、ヘブライ語原文では「タバル(טבל – tabal)」になります。

つまり、「バプティツォ(baptizō)」の語源の動詞「バプト(baptō)」という言葉で表現される「浸し」は、必ずしも「人間の全身」が対象の場合ばかりではないということになります。
浸されるのが「人間の全身」ではなく、「ヒソプ」であっても、かまわないということです。

七十人訳のレビ記においては、次に示す指を血に浸すといった「浸し」に関しても、「バプト」というギリシア語で表現されています。あくまで「指」であって、「人間の全身」ではありません。

◯レビ記4章6節
・「祭司はその血に指を浸して(bapsei)、主の前、聖所の垂れ幕の前で、その血を七回振りまく」

◯レビ記4章17節
・「祭司は指をその血に浸して(bapsei)、主の前、垂れ幕の前で七回振りまく」

◯レビ記9章9節
・「彼は指をその血に浸して(ebapsen)、祭壇の角に塗り、残りを祭壇の基に注いだ」

上記に紹介したレビ記の三か所で、対応する原文のヘブライ語は「タバル(טבל – tabal)」です。

「指を血に浸してその血を振りまく」あるいは「指を血に浸してその血を何かに塗る」時に、人間は指のどの部分を血に浸すでしょうか? 指の全体を沈めるでしょうか? 普通は指先だけです。

ということは、「人間の全身」どころか、体のほんのごく一部が浸(ひた)されるこのような場合に、この「バプト」という動詞は用いられている、ということになります。
「全身を水中に沈める」「全身を水中に潜らせる」などのイメージとは、むしろ明らかに異なるのです。

またヨシュア記3章15節にも、この「バプト」というギリシア語の動詞は登場し、フランシスコ会聖書研究所訳では「浸(ひた)る」と表現されていますが、この場合も「浸(ひた)る」ことになるのは「人間の全身」ではありません。

◯ヨシュア記3章15節〜16節
・「櫃を担ぐ者たちがヨルダン川に到着し、櫃を担ぐ祭司たちの足が水際に浸(ひた)ると(ebaphēsan)、川上から流れてくる水は、遥か彼方のツァレタンに近い町アダムの辺りで止まり、一つの壁のように立った」

この箇所での「浸(ひた)る」は、「足が水際に浸(ひた)る」ですから、「人間の全身」どころか、体のほんのごく一部が水に浸かっただけの話です。しかしそのような場合でも、「バプト」というギリシア語が用いられるのです。
ちなみに、このヨシュア記3章15節においても、対応する原文のヘブライ語は「タバル(טבל – tabal)」です。

「足が水際に浸(ひた)る」場合に用いられる動詞が「バプト」だとするなら、「全身を沈める」あるいは「全身を水中に潜らせる」などのイメージとは、むしろ明らかに異なるということになります。

つまり「バプティツォ」そして「バプテスマ」の語源となった「バプト」という動詞は、実は体のほんのごく一部が浸かった場合に用いられていることが、七十人訳におけるレビ記やヨシュア記の用例から、明らかにされました。
「バプト」という動詞が用いられる場合、それが「全身を沈める」「潜らせる」という動作である必要は、全くないのです。

同様の「バプト」の例を、もう一つ示します。

◯申命記33章24節
・「アシェルについてモーセは言った、『アシェルは子らのうちで最も祝福される。兄弟に愛され、その足を油に浸す(bapsei)』」

「足を浸す」行為と「全身を沈める、潜らせる」行為とでは、イメージとしてはむしろ大きな違いがあります。

結局のところ、前述のレビ記の三か所(4章6節、4章17節、9章9節)の「バプト」についても、ヨシュア記3章15節と申命記33章24節の「バプト」についても、また列王記下5章14節の「バプティツォ」についても、対応する原文のヘブライ語はそのいずれもが「タバル(טבל – tabal)」だったのです。

ということは、「バプテスマ」を「身を沈める」こととする本田神父の主張は、むしろ「バプト」の具体的な用例には合致しないことになります。
少なくとも、「バプテスマ」の語源となった動詞「バプト」の意味を追究していけばいくほど、「全身を沈める、潜らせる」というイメージからは遠く離れていくように思われます。

そして既に【4】で考察した通り、「全身を沈める」という意味合いにおける「沈める」ならば、「カタポンティツォ(katapontizō)」または「ブティツォ(buthizō)」というギリシア語の動詞が、新約聖書には登場するのです。

ちなみに、「(身を)沈める」すなわち「タバ(טבע – taba)」というヘブライ語は、【4】で考察した詩編69(68)編の二か所で用いられており、ここで対応するギリシア語が「カタポンティツォ(katapontizō)」なのです。

いずれにしろ、ヘブライ語の次元でもギリシア語の次元でも、「ひたす」と「沈める、潜らせる」とは別々の単語で表現されている、と見なすことができる可能性が大きいのです。

重ねて強調しますが、古代のギリシア語訳旧約聖書である七十人訳聖書を用いて、「バプテスマ」の語源となったギリシア語の動詞「バプト」の具体的な用例を検討してみると、レビ記の三か所(4章6節、4章17節、9章9節)そしてヨシュア記3章15節の記述からは、「全身を水中に沈める」「全身を水中に潜らせる」といったイメージとはむしろかけ離れているのが実態であると理解できます。

【7】本田哲郎神父の訳語「ひたし洗い」が露呈する、論理の破綻

次に新約聖書に目を移すと、ルカによる福音書16章24節においても、「バプト(baptō)」は「指先を水に浸す」という文脈で用いられ、「全身を水中に沈める」「全身を水中に潜らせる」という意味合いとは明らかに異なります。

◯ルカによる福音書16章24節
・「ラザロを遣わして、その指先を水に浸し(bapsē)、わたしの舌を冷やさせてください」

結局、上述のレビ記の三か所などと同様に新約聖書のこの箇所でも、「バプト(baptō)」という動詞は体のほんのごく一部が(水に)浸かった場合に用いられているのです。

つまりバプテスマの語源となったギリシア語の動詞「バプト」については、古代に遡ることが可能なギリシア語の聖書で実際にその用例を調べてみると、必ずしも「全身を水中に沈める」「全身を水中に潜らせる」といった文脈で使われているわけではない、ということが判明するのです。

「指先を水に浸し(bapsē)」という表現があるということは、実際に浸される体の表面積にしても、その時に用いられる水の量にしても、ともにほんのごくわずかであれ、「バプト(baptō)」というギリシア語が適用されうる、ということが明らかになります。

この「バプト」は、次の有名な箇所でも用いられています。

◯ヨハネによる福音書13章26節
・「イエスはお答えになった、『わたしがパンを一切れ浸して(bapsō)与える者が、それである』。それから、パンを一切れ浸して(bapsas)手に取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった」

マタイ福音書14章30節でペトロが沈みかけた記述における「沈む」のギリシア語は「カタポンティツォ(katapontizō)」であり、ルカ福音書5章7節でやはりシモン・ペトロとその舟が今にも沈みそうになった記述における「沈む」のギリシア語は「ブティツォ(buthizō)」です。

これらのうち、「カタポンティツォ(katapontizō)」はマタイ福音書の18章にも登場します。

◯マタイによる福音書18章6節
・「しかし、わたしを信じるこの小さな者の一人をつまずかせる者は、首にろばの碾(ひ)き臼(うす)を掛けられ、海の深みに沈められる(katapontisthē)ほうがましである。」

七十人訳の出エジプト記15章にも、この「カタポンティツォ(katapontizō)」は登場します。

◯出エジプト記15章4節
・「主はファラオの戦車と軍勢を海に投げ入れ、選り抜きの士官らは紅海に沈んだ(katepontisen)」

比較する意味で、七十人訳聖書におけるギリシア語「バプト」の用例について、レビ記14章から紹介します。

◯レビ記14章15節〜16節
・「祭司は一ログの油を取り、自分の左の手のひらに注ぐ。そして右の指を左の手のひらにある油に浸し(bapsei)、その指でその油を主の前に七回振りかける」

この場合には、右の指を左の手のひらにある油に「浸す」ことはできても、「沈める」と表現するには違和感があります。
やはり、「浸す」と「沈める」では意味合いが異なります。

そして七十人訳のダニエル書5章21節にも、「バプト」が次のような箇所で登場します。

◯ダニエル書5章20節〜21節
・「お父上は人々の中から追放され、その心は野の獣のようになりました。そしてついに、いと高き神こそが人間の王国を支配し、その思いのままに支配者を立てると悟るまで、お父上は野生のろばとともに生き、牛のように草をはみ、その体は天の露にぬれる(ebapsē)がままでした」

「天の露」に「その体」を「沈める」ことは、不可能でしょう。

ここで「体」が「露にぬれる」状況について、「バプテスマ」の語源である「バプト」という動詞で表現されている事実に、注目すべきです。

コリントの人々への第一の手紙の10章の冒頭では次のように書かれており、バプテスマの動詞形「バプティツォ(Baptizō, baptizō)」が用いられています。

◯コリントの人々への第一の手紙10章1節〜2節
・「兄弟たち、次のことはせひ知っておいてもらいたいと思います。わたしたちの先祖はみな雲の覆いに守られ、みな海を通り抜け、雲の中、海の中で、みな洗礼を授けられて(ebaptisanto)モーセと一致しました」

しかし出エジプト記にある通り、「沈んだ」のはファラオの軍勢であって、モーセの一行ではありませんでした。しかも、先に引用した出エジプト記15章では、ファラオの軍勢が「沈んだ」記述で用いられているのは、4節では「カタポンティツォ(katapontizō)」という異なる別のギリシア語でした。

◯出エジプト記15章4節(再掲)
・「主はファラオの戦車と軍勢を海に投げ入れ、選り抜きの士官らは紅海に沈んだ(katepontisen)」

同じ章でも10節では、「沈む」を表現するために、「ドゥノ(δυνω – dunō)」というまた別のギリシア語が用いられています。

◯出エジプト記15章10節
・「あなたが息吹を吹きかけると、海は彼らを覆い、彼らは大いなる水の中に鉛のように沈んだ(edusan)」

出エジプト記15章において、海に沈んだのはファラオの軍勢であって、モーセの一行は実際には沈むことがありませんでした。にもかかわらず、聖パウロはモーセの一行がバプテスマを受けたと手紙の中で言っています。
よって、「バプテスマ(Βαπτισμα – baptisma)」の本質は「沈む(身を沈める)」ことなどではありえないと、判断せざるを得ません。

やはり「バプテスマは、単純に『身を沈める』ことなのです」という本田哲郎神父の主張は、古代のギリシア語聖書における実際の記述とは整合していないのです。

出エジプト記14章には、モーセの一行は「身を沈める」「身を浸す(ひたす)」どころか、海の中の乾いた土の上を歩いた(22節、29節)ことが記述されている事実があります。

◯出エジプト記14章22節、29節
・「水が割れたとき、イスラエルの子らは海の中の乾いた土の上を進んだ。水は彼らのために右も左も壁のようになった」
・「しかし、イスラエルの子らは海の中の乾いた土の上を歩き、水は彼らのために右も左も壁のようになった」

モーセの一行が水の中に沈むことがなかったにもかかわらず、パウロはモーセの一行がバプテスマを受けたとコリントの人々への第一の手紙10章で主張しているのですから、バプテスマの本質・第一義を「沈む/沈める」ことと見なすのは聖書の実際の記述に基づかない考え方である、という結論に至るのは必然です。

重ねて強調しますが、出エジプト記14章において、モーセの一行は水の中に沈むどころか乾いた土の上を通って行きました。「乾いた土の上を」という記述からは、モーセの一行が水の中に身を浸す(ひたす)ことすらなかったことが、分かります。

ちなみに、エレミヤ書51章にも、「沈む/沈める」を「バプテスマ」とは全く異なる言葉で表現している箇所があります。

◯エレミヤ書51章63節〜64節(七十人訳の28章63節〜64節)
・「この巻物を読み終わったとき、それを石に結びつけ、ユーフラテス川の中に投げ入れ、こう言いなさい、『このようにバビロンは沈み(καταδυσεται – katadusetai)、二度と浮かび上がれない。わたしが下す災いのためである』」

ここで用いられているギリシア語の動詞は、出エジプト記15章10節の「ドゥノ(δυνω – dunō)」という動詞の関連表現である、「カタドゥオ(καταδυω – kataduō)」です。

◯ヨナ書2章6節〜7節
・「大水はわたしの喉にまで達し、深淵がわたしを取り囲みました。山の麓で、海藻がわたしの頭にまつわりつきました。地の閂(かんぬき)がいつもわたしの上で閉まっている地へとわたしは沈んでいきました(katebēn)。しかし、主よ、わたしの神よ、あなたはわたしをその穴から引き上げ、わたしに再び命を与えてくださいました」

ヨナ書2章のこの箇所で「沈む」に対応している七十人訳のギリシア語の動詞は、「カタバイノ(καταβαινω – katabainō)」です。バプテスマの動詞形「バプティツォ」ではありません。

◯エゼキエル書27章27節
・「お前が沈む(ptōseōs)その日、お前の富や製品やその商品、船乗りや水夫たち、浸水の修理工、商品の交易者、船上のすべての兵士、乗り組むすべての者は、海のただ中に沈みゆく(pesountai)」

この節の「沈みゆく」に対応する七十人訳のギリシア語の動詞は、「ピプト(πιπτω – piptō)」であり、「お前が沈むその日」の「沈む」に対応する七十人訳の表現は「プトーシス(πτωσις – ptōsis)」ですが、この「プトーシス」は「ピプト」の名詞形です。

以上の考察から、「バプテスマ(Βαπτισμα – baptisma)」という表現の元になった「バプト(βαπτω – baptō)」というギリシア語の動詞を具体的な個々の用例に関して検討を加えた結果、「全身を沈める」あるいは「全身を潜らせる」といったイメージからは、むしろ大きくかけ離れているということが、確認されました。

ところで、マルコによる福音書7章4節においては、「杯」「鉢」「銅器」「寝台」などに対して行なわれる行為として、”baptismous”という「バプテスマ」の関連表現が用いられています。

本田哲郎訳『小さくされた人々のための福音』は、”baptismous”を「ひたし洗い」と訳していますが、とはいえ、この本田訳自体が、「バプテスマは、単純に『身を沈める』ことなのです」「洗うとか清めるという意味はありません」という、『聖書を発見する』45~46ページの本田神父自身の発言とは、食い違っています。
「洗うとか清めるという意味はありません」と本当に考えているならば、「ひたし洗い」などとは翻訳できないはずです。

ここで本田哲郎神父の論理は破綻しています。

そもそも木工家具である「寝台」を「ひたし洗い」するという発想自体、極めてナンセンスです。なぜなら、水害時の床上浸水の場合を少しでも考えてみればわかりますが、木工製品は、浸水によって容易に腐朽(腐食・劣化)して、使いものにならなくなってしまうからです。
古代に比べて木材の防水加工技術が発達した現代においてさえ、結局はそうなってしまうのです。

「ひたし洗い」という本田神父の訳語がいかに不自然か、このことだけでもわかります。

結果的に木工家具を容易に腐朽させることにつながってしまう「ひたし(浸し)」を、当時は習慣的に行なっていたなどという荒唐無稽な主張には、ありえないと言うほかないです。

(以上、ギリシア語やヘブライ語は適宜ラテン文字転写して表記しました)

試論:ルカ21章のやもめの献金を140文字以内で

イザヤ1章17節やゼカリヤ7章10節に預言される通り、やもめは古代イスラエル社会において庇護すべき対象と考えられており、神殿でなされる献金も、やもめ等の人々のために使われるべきだった。この箇所の直前で主イエスは律法学者を非難の対象とされ、理由の中に「やもめを食い物にする」がある。

(注)別エントリー「試論:『ラッパを吹き鳴らす』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17521

【追記】

主イエスは、マルコ12章とルカ21章の有名な「貧しいやもめの献金」の箇所で、「他のどんな裕福な人々よりも、彼女はたくさん献金した」と仰せになり、献金の多い少ないを信仰心の尺度と見なすという価値観をここで明確に否定された。献金で信仰心を評価する行為はキリスト教的ではない発想である。

(注)別エントリー「試論:『献金泥棒』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11983

試論:なぜ「子供のように〜」?を140文字以内で

【問】主イエスはマタイ18章で子供を模範として示されましたが、なぜですか?
【答】自分を低くして(4節)心を入れ替える(3節)ことが神の御旨ですが、人間は往々にして年齢を重ねるうちに間違った自尊心を肥大させて聞く耳を持たなくなり、他人の助言や忠告に耳を貸さなくなってしまうからです。

試論:「あなたの御国」「楽園」を140文字以内で

ルカ23章42節で善き盗賊は、主イエス・キリストに属する民がいる場所を「あなたの御国」と呼んだ。そこを主御自身は続く43節で「楽園」と呼ばれた。主イエスは御受難と御復活との間に「新しい天・地・エルサレム」と呼ばれる場所を創造され、御自身と御自分の民の「復活の体」もまた創造された。

(注)別エントリー「試論:キリストの『バシレイア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15833

(注)別エントリー「試論:新しい天・地・エルサレムを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16733

(注)別エントリー「試論:『王』と呼ばれる意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19508

(注)別エントリー「試論:人間の完成形(最終形態)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15868

試論:「王」と「永遠の命」を140文字以内で

多くの人が黙示録20章の記述を誤解し、キリストと共に世を支配する「千年王国」を夢見たが、他方ヨハネ18章36節で主は御自分の王国(バシレイア)は世に属さないと確言された。「王」(マタイ25章34節)であるキリストと共に支配するとは、悪魔の罪と死による支配から自由になることである。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

(注)別エントリー「真理は罪と悪と死から自由にする」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9524

【追記】

黙示録20章やローマ5章は「悪に悪を返さない」ことを徹底して罪や悪と決別した人々を「バシレウオ(〔キリストとともに〕王となる)」という動詞で表すが、これはあくまで《義化の完成》を象徴する表現であり政治体制的な意味を含まず、彼らは「第二の死」を免れ「永遠の命」を得ると記されている。

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

主イエスはヨハネ18章36節で、「わたしのバシレイアは、この世には属していない」と仰せになった。原文のギリシア語バシレイアは、聖書では「王権」「〔神の〕王国」を意味し、「王国の一人一人」まで包含する。黙示録1章6節でヨハネは、自分たちは既にその一部を構成していると書き記している。

(注)別エントリー「試論:バシレイア(=神の王国)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12654

ルカ23章40節以下で主の隣の十字架につけられた盗賊は最後に神への畏れを知り、自分の今の惨めな境遇は全て自業自得だが神には罪はなく神の御心に適う願いなら聞き入れられると確信し、自分の隣にいるのは神そのものであると信じて直接それを伝えた。彼の信仰告白に主は最大の幸福を御約束された。

(注)別エントリー「神に対する確信を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5613

「善い盗賊」はルカ23章で、「悪い盗賊」の罵りから主イエスを擁護し(40節)、自分のこれまでの悪事を素直に認める一方(41節)、主には悪いものは一つもないと宣言し(同節)、最後に、自分は主によって救われたいと真摯に希望した(42節)。主は「善い盗賊」に、永遠の幸福を御約束された。

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11494

放蕩息子のたとえでは父親はしもべたちに、帰って来た息子の手に指輪をはめるよう指示するが、エステル記3章10節以下に王権の委任を象徴する印章として指輪が登場する。放蕩息子のたとえでは相続人の権利回復の象徴で、人が本当に悔い改めるならば、神は全面的にその人に対する信頼を取り戻される。

マタイ25章34節「御父に祝福された人々よ、天地創造の時からあなたたちのために準備されていた王国を受け継ぎなさい」黙示録21章7節「勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ」ヘブライ6章12節「怠け者とならず信仰と忍耐によって、約束されたものを受け継ぐ人々に倣う者となってほしい」。

(注)別エントリー「試論:『王国を受け継ぐ者たち』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13826

試論:「サドカイ派」を140文字以内で

主イエスのファリサイ派批判で最も多いのはマタイ23章3節の通り「建前は立派でも中身は〜」だが、神殿の有力者たちの仲間であるサドカイ派は、復活を否定するなど、主イエスとは建前からして違った。来世について考えることをしない彼らはおのずと現世志向であり、既得権益の維持に汲々としていた。

【追記】

主イエス・キリストはマルコ7章の最初の部分でファリサイ派の最大の問題点を指摘された。それは彼らが「言い伝え」を過度に重視していることで、本来モーセの律法に対して副次的存在だった「言い伝え」がいつしか律法と同等以上にまで扱われ、しかも隣人を圧迫するための口実と化していた事実である。

試論:母の称号「主のはしため」を140文字以内で

【問】「主のはしため」とは、《神の御独り子の母》になる女性の自称としては何か物足りない気がします。
【答】イザヤは、救い主が「主の僕(しもべ)」として来られることを彼の預言書のいたるところで語りました。「主のしもべ」の母になると決意した女性の自称は、「主のはしため」が最も妥当です。

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7514

(注)別エントリー「試論:『主の僕(しもべ)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8849

(注)別エントリー「試論:『主の僕の忍耐』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6462

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』=『主の僕』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8876

【追記】

「救い主」が世を救われる方法に関しイザヤは、「小羊」(53章7節)つまり代価として御自分をささげ、「しもべ」(42章、49章以下等)として人々に仕えると預言し、主もマタイ20章28節でそれを宣言された。救い主の母となることを承諾した女性が「主のはしため」を称するのは象徴的である。

(注)別エントリー「試論:『しもべ』と『はしため』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9785

試論:聖母の神殿奉献の意味を140文字以内で

カトリックでは聖母マリアを「無原罪」つまりサタンの悪影響とは全く無縁の女性と教え、少女期の聖母が神殿で十年以上奉献生活を送り教育を受けたと教える。聖母は長年、救い主やあがないについて思い巡らしていた。受胎告知の際の言葉「わたしは主のはしため」は一朝一夕に出て来る類のものではない。

(注)別エントリー「神のお告げ:受胎告知と無原罪の御宿り」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4835

(注)別エントリー「試論:ヤコブ原福音書を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5239

(注)別エントリー「聖書の時代に神殿の処女は存在したのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1539

(注)別エントリー「『贖(あがな)い』と『救い主の母』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19677

(注)別エントリー「福音書の聖ヨセフと外典書の高齢者ヨセフ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4759

【追記】

主は「いつでも戸を開けられるように目を覚ましていなさい」と仰せになり、普段から心の準備をすることが弟子としての心構えであると教えられた。主の母親となるべき女性がその少女期、当時最もしかるべき教育の場であった神殿の聖所で奉仕の日々を送ったという概念は、極めて蓋然性の高い話と言える。

(注)別エントリー「試論:『準備しなさい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12580

【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。

【問】マラキ3章19節は高慢な者と悪を行う者を同列に論じますが、なぜですか?
【答】詩編1編1節の通り旧約の民は神に従わぬ者と罪人と高慢な者を同列に扱いました。エバは創世記3章で神のようになることを望みましたが、マリアはルカ1章38節で自分は主のはしために過ぎないと謙遜しました。

詩編1編1節は神と共にいるための必要三条件を記す。一つ目は神に逆らう人に同調しないこと、二つ目は罪や悪に走らないこと、三つ目は高慢心を捨てることである。高慢で周囲の人々を粗略に扱う人は、いつか必ず神をも粗略に扱う。神の御独り子の母となった女性が高慢心とは無縁であるのは当然である。

(注)別エントリー「試論:『しもべ』と『はしため』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9785

(注)別エントリー「試論:『わたしの主』と母マリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8575

(注)別エントリー「試論:『恵みとへりくだり』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8781

主イエスは福音書で「自ら高ぶる者は低くされ、へりくだり自ら低くなる者は高くされる」と繰り返された。神の御独り子の母に選ばれたにもかかわらず「わたしは主のはしため」と繰り返し実際「人となられた神」に生涯仕え続けた女性が、「神と共に歩んだ」点においてエノクに引けを取るなどありえない。

(注)別エントリー「試論:『謙遜の極み故の被昇天』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11125

箴言3章34節は「神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みをお与えになる」と説く。「自分は誰かの召使になった覚えはないし、他の人のためにあれこれするなど、やってられない」と放言する人は「キリストの律法」を絶対に実行できないし、神がお与えになる恵みもまた、永遠にその人には届かない。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』と世情を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18499

【問】なぜ受胎告知の際にマリアは、承諾の返答よりも先に「わたしは主のはしため」と再確認しましたか?【答】マリアはそう前置きすることで、「わたしは神の御独り子の母となることを承諾しますが、決して『神のようになること』(創世記3章5節)を望むからではありません」と意思表示をしました。

(注)別エントリー「試論:「わたしの主のお母さま」を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10221

ルカ2章51節は少年時代の主イエスが両親に従っておられたと記す。他方、4章5節から8節は悪魔が主を誘惑して自分に従わせようとしたが、主は断固として拒まれたと記す。今、キリストの弟子を自称する人々が、母マリアを拒む一方で悪の誘惑には抵抗できないとしたら、彼らの本籍はどこにあるのか?

(注)別エントリー「試論:『女』とサタンの対立を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10314

(注)別エントリー「試論:『マリアとヨセフと聖書』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16295

試論:「強盗の巣」「神殿滅亡」を140文字以内で

主イエスはルカ19章46節で「あなたたちは神殿を強盗の巣にした」と仰せになった。これは大昔に預言者がエレミヤ7章11節で啓示したことを踏まえているが、預言者は続く12節以下で、かつてのシロの聖所のように、エルサレムの神殿も滅亡すると啓示した。つまり主イエスもそれをほのめかされた。

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

【追記】

ヨハネ11章47節以下は最高法院がイエスの死を決めた経緯を記す。「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びずに済む方が皆には好都合」(50節)と大祭司カイアファは預言した。こうして、救い主は贖(あがな)いの業を行うこととなったが、カイアファの悪意が正当化されるわけでは、ない。

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

試論:「調子に乗る人」を140文字以内で

ヨハネ12章の冒頭で、ベタニアのマリアの行いを目にしたイスカリオテのユダは、相手の「落ち度」(実際は落ち度でも何でもなかったがユダは勝手にそう思い込み調子に乗った)を見つけて鬼の首でも取ったかの如く、勢いづいた。同6章64節は主イエスは最初から誰が裏切り者か知っておられたと記す。

(注)別エントリー「試論:『正論を装った悪意』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11241

【追記】

レビ19章18節は隣人愛の掟を記すが、15節は貧者救済の理由であろうと判断を惑わされてはならないと説く。ヨハネ12章でイスカリオテのユダが貧者救済を理由にベタニアのマリアを攻撃した際、主イエスはユダの言葉が貧者救済を口実にした単なる言い掛かりに過ぎないと見抜かれ、女性を擁護した。

(注)別エントリー「試論:『人間を照らす光』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7227

試論:「山に逃げなさい」?を140文字以内で

「預言者ダニエルが言った『憎むべき破壊者』が聖所に立つのを見たら、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい」の予告のうち、ダニエル11章31節「憎むべき破壊者」預言は、主の予告より二百年近く前、一マカバイ1章54節でいったん成就していた。同2章28節「家財一切を町に残し、山へと逃れた」。

(注)別エントリー「『荒廃をもたらす憎むべきもの』とは何か【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/24206

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

【追記】

ローマ帝国に対する大反乱が勃発した紀元六六年に親ローマのヘロデ王家の五人目の王がユダヤを捨てた後、元職大祭司の一人が民族の代表者となったが、武装勢力と軋轢を起こした。ガリラヤでローマ軍に敗れ都に逃げ込んだギスカラのヨハネは、大祭司を見捨てて独裁者となり、都で暴虐の限りを尽くした。

(注)別エントリー「試論:『アンナス二世』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15414

主の御降誕から第二神殿の滅亡までエルサレムに七人の「王」が君臨した。ヘロデ大王、アルケラオス、アンティパス、アグリッパ一世、アグリッパ二世がヘロデ王家の人で、ヘロデ王家のユダヤ退去後の独裁者ギスカラのヨハネが六人目に該当し、ローマ帝国に処刑されたシモン・バルギオラが七人目である。

(注)別エントリー「試論:黙示録17章『七人の王』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11401

申命記22章5節は男性の女装を禁じた。この掟を古代ユダヤの歴史家ヨセフスは、社会秩序崩壊を防ぐ掟とみなした。主の御受難から三十数年後、独裁者(ギスカラのヨハネ)の下でエルサレムを恐怖支配していた武装勢力の集団は、白昼堂々女装しながら、市民に対し虐殺や略奪や婦女暴行等を繰り拡げた。

(注)別エントリー「『世も末』の徴を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6940

黙示録17章10節は、都にとっての五人の王が既に倒れ、その当時の王は六人目だと記す。エルサレムに君臨していたヘロデ王家の五人目の王であるアグリッパ二世がユダヤを去った後、事実上の王としてギスカラのヨハネが都で暴虐の限りを尽くしていたのは紀元六八年から六九年にかけての時期であった。

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

主はルカ21章20節以下において、エルサレムが敵に包囲された際は都に籠城してはならず都を離れるようにと予告されていた。三十数年後ヘブライ13章13節は「宿営(陣営)」という言葉で都を示し、そこを離れるよう促した。黙示録18章4節も都を「彼女」と呼び、残っていた人々に退去を促した。

(注)別エントリー「『ヘブライ人への手紙』が書かれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/2286

使徒言行録でパウロの尋問に同席したヘロデ・アグリッパ二世は主の御降誕から第二神殿滅亡までの間にエルサレムで君臨した七人の王の一人で、ローマへの反乱に与せず神殿滅亡後ユダヤで返り咲いたが神殿が既に存在せず、その監督権を行使できぬ以上、有名無実の存在で、彼の死でヘロデ王家は断絶した。

(注)別エントリー「試論:黙示録17章『十本の角』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9155

(注)別エントリー「試論:『実現の日』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9074

試論:「都の滅亡を悲しむ」を140文字以内で

預言者ヨナの不満をよそに主なる神は、アッシリアの大いなる都ニネベについて惜しまれた。ルカ19章41節以下で主イエスは、約四十年後に到来するエルサレム滅亡の日を予告され泣かれた。同じ都は数日後に御自身を殺す都であったが、ニネベを惜しまれた以上に、都エルサレムの滅亡を嘆き惜しまれた。

(注)別エントリー「試論:『大淫婦』の正体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15895

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1699

【追記】

十字架を担わされ刑場へと歩かされる主イエスの御姿を見て、エルサレムにいた女性たちの大きな群れが主に従い嘆き悲しんだ。主イエスは女性たちに、彼女たち及び彼女らの子供たちが存命中の時代に別の大きな悲しみの時(紀元七〇年のエルサレム滅亡)が到来することを予告されて、心の準備を促された。

(注)別エントリー「試論:『女性たちの悲しみ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18927

(注)別エントリー「エルサレムの婦人たちへの伝言」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15741

試論:「ムナ」と「タラントン」を140文字以内で

主イエスはマタイ13章44節で天の国を「宝」に喩えられ、また福音書の別の箇所では天の国へと人々を導く御自分の御教えをムナやタラントンに喩えられた。「柔和で謙遜な者」(マタイ11章29節)主イエスの模範に倣って弟子たちが模範に近づくならば、世の人々はそれを見て福音の何たるかを悟る。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

【追記】

弟子たちの足を洗うという行為を通じて、主イエスは隣人に敬意を払って尊重することこそ御自分の御教えの根幹であると教えられた。自分自身が他人から尊重され敬意を払われた経験がなければ敬意と尊重は理解できない。「互いを尊重するなら、それを見て皆はあなたたちがわたしの弟子であると認める」。

(注)別エントリー「試論:『敬意と尊重』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18657

試論:「ムナ」と「世の光」を140文字以内で

福音書は、神からの賜物である御言葉を光にたとえ(ヨハネ1章4節)、また「ムナ」にたとえて(ルカ19章)、主イエスは御言葉を受けた人々を世の光と呼んだ。一ムナを布に包んでしまっておいたしもべが主人の怒りを買った理由は、それにより御言葉が世に対して光り輝く機会を完全に奪うからである。

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

(注)別エントリー「試論:『人間を照らす光』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7227

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『神よあなたのことばは』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6358

【追記】

ヨハネ1章4節は「言(ことば)の内に命があり、命は人間を照らす光」と記す。これはヨブ33章27節以下「わたしは罪を犯し正義を曲げたが、すべきでなかった。神はわたしの魂を滅びから救われ、命を得てわたしは光を仰ぐ」を踏まえており、主が御言葉で人間の魂を滅びから救われることを宣言する。

主はマタイ5章14節で「あなたがたは世の光」と弟子たちを呼ばれたが、その理由について主はヨハネ8章12節で「わたしは世の光」と宣言された上で「わたしに従う者は暗闇の中を歩まず、命の光を持つ」と仰せになった。同1章4節は「御言葉のうちに命があり、命は人間を照らす光であった」と記す。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

主イエス・キリストがこの世に来られた意義は、「言」すなわち神の御言葉(御教え)を御自分で人々に仰せになるためであり、「御教えを聞いて自分なりに努力したけれど悪戦苦闘の結果あまりうまくいかなかった」ならまだしも、最初から聞かなかったように振舞うのは財産を布に包み隠すのと同じである。

一ヨハネ4章は、世間的な事柄(5節)ばかり語る一方で福音書の主の御言葉に関してはなるべく触れずに自分も実行しない者を、たとえキリスト信者を自称しようと「反キリストの霊」と断じたが、この種の欺瞞的な信者をマタイ25章では主人から預かった財産(=福音の賜物)を隠した者にたとえている。

マタイ5章で主は、「あなたがたは世の光」(14節)、「あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(16節)と仰せになり、行いを伴わない信仰など役に立たない(ヤコブ2章14節)ことをお話しになった。

(注)別エントリー「試論:行いを欠く信仰を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5360

(注)別エントリー「試論:『地の塩』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5586

人間が神を知らず、「人間社会とは人間同士が隙あらば互いの足を引っ張ろうと狙い続ける世界に他ならない」と全ての人間が当然のように思い込み続けるなら、この世は「闇」であり地獄も同然である。「世の光」である主イエスは、そのような状況を打破する方法を人々に教えられ、実際に模範を示された。

(注)別エントリー「試論:御受難の際の主の模範を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6315

ルカ2章に登場するシメオンは、幼子イエスを抱きながら、マリアとヨセフの前で「万民のために整えてくださった救い」「異邦人を照らす啓示の光」と神を称えてイエスによってイザヤ9章1節の預言が成就することを語り、母マリアの苦しみ(ルカ2章35節)に関しても、シメオンは聖霊によって語った。

(注)別エントリー「試論:『神の母であること』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6079

(注)別エントリー「主イエス・キリストがインマヌエルである理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1338

主イエスは「わたしは世の光」(ヨハネ8章12節)と仰せになられ、1章4節は「御言葉(人々に語り掛ける神=御子イエス・キリスト)の内に命があり、命は人間を照らす光」と記し、5節では主を「光」と表現する。3章19節で主は「光」と自称され、11章25節では「復活」「命」とも自称された。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『福音に禅問答などない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11340

試論:「神を知る」を140文字以内で

ヨハネ17章3節「永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなた(御父)とあなたが遣わされたイエス・キリストを知ること」一ヨハネ2章4節「神を知っていると言いつつ神の掟を行わぬ人は偽り者で彼にまことはない」マタイ7章12節「他の人からしてもらいことをあなたから他の人に全てしなさい」。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

【追記】

主イエスはヨハネ14章6節で「真理(アレテイア)」と自称されたが、ギリシア語訳のエレミヤ9章4節は「人は隣人を惑わし、『まこと(アレテイア)』を語らない」であり、エレミヤ9章で「まこと」に対置されているのは姦淫する者・裏切る者・偽り・悪・中傷・惑わし・悪事・欺き・殺し等々である。

(注)別エントリー「試論:真理(まこと)の反対は?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12668

試論:主の忍耐と救いを140文字以内で

ルカ19章9節以下「今日、救いがこの家を訪れた。人の子は、失われたものを捜して救うために来た」二ペトロ3章15節「わたしたちの主の忍耐深さを救いと考えなさい」同9節「主は救いの約束を遅らせているのではなく、一人も滅びずに皆が悔い改めるように、あなたたちのために忍耐されています」。

(注)別エントリー「『罪人を招く』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19089

【追記】

エゼキエル18章「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は仰せになる。彼が悪から立ち帰って生きることを喜ばないだろうか。お前たちが犯した全ての背きを投げ捨てて新しい心と霊を造り出せ。どうしてお前たちは死んでよいだろうか。お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」。

(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3277

試論:罪人の家に宿を取られる神を140文字以内で

マタイ9章13節「わたしが来た目的は、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」ホセア6章1節〜2節「さあ、わたしたちは主の御許に帰ろう。主はわたしたちの傷を覆ってくださり、いやしてくださる。主はわたしたちを立ち上がらせ命を与えてくださる。わたしたちは主の御前で生きる」。

(注)別エントリー「『罪人を招く』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19089

【追記】

ルカ19章8節でザアカイは主に「わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また何かを誰かからだまし取っていたなら四倍にして返します」と約束した。マタイ5章7節の「憐れみ深い人は幸いである。その人は憐れみを受ける」という御言葉の通り、主は「今日この家に救いが訪れた」と宣言なさった。

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346

試論:「憐れみ深い人」ザアカイを140文字以内で

ルカ19章8節でザアカイは主に「わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また何かを誰かからだまし取っていたなら四倍にして返します」と約束した。マタイ5章7節の「憐れみ深い人は幸いである。その人は憐れみを受ける」という御言葉の通り、主は「今日この家に救いが訪れた」と宣言なさった。

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346

【追記】

主イエスはルカ16章の「不正な管理人」のたとえで、私欲のためでなく隣人のために富を費やすならば救いが訪れると仰せになり、後に徴税人ザアカイがその実例となった。19章8節「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。誰かから何かをだまし取っていたならそれを四倍にして返します」。

ある人が他人に憐れみの心を起こして積極果敢な行動に移した例として四福音書で唯一といえる話がある。ルカ10章の善きサマリア人の話で、主の「誰が隣人か」との問いに「憐れみの心を起こした人です」と律法の専門家は答えた。憐れみが「上から目線」とはおのずと別問題であることを示す例と言える。

(注)別エントリー「試論:『完全になる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5384

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4544

18世紀フランスの「さよなら人類」

1783年フランスで有人気球の飛行実験が成功した。神の領域である大空への侵犯として慎重論を唱えた聖職者に対して、神の罰も何の恐ろしいことも起きなかったと人々は主張し、教会は時代遅れの迷信と見なされるようになったが、約一〇年後、ギロチンは連日「革命の敵」とされた人々を斬首し続けた。

1783年フランスで有人気球の飛行実験が成功した。「昇天」とはキリストや聖母や諸聖人だけでなく誰もが体験可能であるという光景を人々は目撃し、実験に慎重論を唱えたカトリックの存在をフランス人は時代遅れの迷信と感じ始めた。こうして数年後のフランス革命における「大棄教」は準備を終えた。

(注)別エントリー「『携挙』:ギリシア語聖書本文で徹底検証【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7753

1783年フランスで有人気球の飛行が成功した。神の領域である大空の侵犯だとして実験に慎重論を唱えた聖職者に対し、神の罰も恐ろしいことも起きなかったと人々は主張し、教会を時代遅れと見なし始め、神など存在せず物事の善悪に関しても教会の教えを御破算にして一から決めるべきだと考え始めた。

1783年12月フランスの科学者シャルルは自作の水素ガス気球で高度約三千メートルまで到達後、自身の体験を聖書中の神秘体験にたとえる表現を用い、自分はそれを物理学的に擬似体験したのだと説明した。以後、逆に有人気球による「昇天体験」から聖書中の記述を考察し理解を試みる風潮が生まれた。

1783年の有人気球飛行実験以前、人類にとって高度数百メートルの上空は「大空」であった。しかし有人気球で人類がそこに到達すると気球に乗っている人間にとって、そこは大空というよりむしろ「空中」となった。こうして18世紀後半以降、科学技術の発達とともに「空中」の領域は著しく拡大した。

(注)別エントリー「試論:有人気球と『空中』の拡大を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10270

一テサロニケ4章17節の原文のギリシア語アエールは、大気を意味し下界を象徴する元素を指すが、英訳語エアーのニュアンスが18世紀後半の有人気球飛行成功の前後で変化し、大空や浮揚の意味が加わりこれを踏まえ19世紀前半に「携挙」が主張されたが、この主張は原文のギリシア語には合致しない。

一テサロニケ4章17節の原文で使われた古代のギリシア語「アエール」には「大気」の意味合いはあるが、現代人がイメージする「空中」のニュアンスはなく、現代人なら「空中」と呼ぶ領域に古代のヘブライ人が言及する際は「地と天の間」または「大空(ギリシア語訳でステレオーマ)」などと表現した。

(注)別エントリー「ヘブライ語聖書は『空中』とは表現しない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4223

ヘブライ語旧約聖書本文には「空中」という表現が存在しない。現代人ならば「空中」と表現する領域に言及する際、ヘブライ語聖書は「地と天の間」(歴代誌上21章16節、エゼキエル8章3節、ゼカリヤ5章9節)等と表現する。ヘブライ人は創世記1章6節以下の記述に基づく世界観に立つためである。

(注)別エントリー「試論:『携挙』の否定を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6277

(注)別エントリー「古代のヘブライ人の世界観は『携挙』と両立しない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17846

ヘブライ語聖書に「空中」という表現は存在せず、古代のヘブライの世界観には「空中」の概念がない。故に一テサロニケ4章17節を根拠に「〔空中〕携挙」の概念を受容するならばヘブライの世界観には立っておらず、逆にヘブライの世界観に立つならば「〔空中〕携挙」の概念を受容することはできない。

試論:ルカ18章42節を140文字以内で

詩編12編は裏表(嘘偽り)のある人々ばかりの風潮を「信仰のある人はいなくなった」と嘆く。古代のヘブライ人にとって「二心(ふたごころ)」は信仰とは相容れなかった。「あなたの信仰があなたを救った」や「からし種の一粒ほどの信仰」の「信仰」とは《疑う余地のない確信》《完全な信頼》を指す。

(注)別エントリー「『からし種一粒ほどの信仰』???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19278

【追記】

主イエスはヨハネ14章6節で「真理」を自称されたが、プロテスタントの『改訳 新約聖書』(1917年)はそこに「まこと」と平仮名を振る。ヘブライ語の「まこと」に対応しているためであり、主なる神が裏表や嘘偽りのない心を重視される方だからである。従って信仰とは疑う余地のない確信を指す。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

試論:「偽り者とならぬために」を140文字以内で

一ヨハネ4章20節〜21節「『神のことを愛している』と言いながら兄弟のことを憎む人がいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛することができない人には、目に見えない神を愛することができません。神のことを愛する人は、兄弟をも愛さなければなりません。これが神から受けた掟です」。

試論:「高慢」「神への不従順」を140文字以内で

【問】マラキ3章19節は高慢な者と悪を行う者を同列に論じますが、なぜですか?
【答】詩編1編1節の通り旧約の民は神に従わぬ者と罪人と高慢な者を同列に扱いました。エバは創世記3章で神のようになることを望みましたが、マリアはルカ1章38節で自分は主のはしために過ぎないと謙遜しました。

(注)別エントリー「試論:神と共にいるための三条件を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18936

【追記】

【問】なぜ受胎告知の際にマリアは、承諾の返答よりも先に「わたしは主のはしため」と再確認しましたか?【答】マリアはそう前置きすることで、「わたしは神の御独り子の母となることを承諾しますが、決して『神のようになること』(創世記3章5節)を望むからではありません」と意思表示をしました。

(注)別エントリー「試論:「わたしの主のお母さま」を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10221

試論:「御言葉を守る」なぜ??を140文字以内で

マタイ28章20節「命じておいたことを全てを守るように教えなさい。そうすればわたしは世の終わりまで、いつもあなたたちと共にいる」ヨハネ14章23節〜24節「わたしを愛する者は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその者を愛され、父とわたしとはその者のところに行き、共に住むであろう」。

(注)別エントリー「試論:『御言葉を守る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9483

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉を守る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11897

試論:ルカ21章8節の偽メシアを140文字以内で

使徒言行録21章でパウロが逮捕された時エルサレムは厳戒体制下にあった。理由は38節にある通り、直前にエジプト出身の偽預言者が四千人のテロリストを率いて反乱を起こし、都への突入を企てたが、失敗して荒れ野に逃亡する事件が起こったためである。既に主の御受難から三十年近くが経過していた。

(注)別エントリー「試論:『人心荒廃は滅亡の前兆』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6291

【追記】

新約聖書にはイエスに従う人々とは全く別に、暴動や反乱で社会を動かそうとする人々の姿が登場する。バラバ(マルコ15章7節)、テウダ(使徒言行録5章36節)、ガリラヤのユダ(同37節)、「あのエジプト人」(同21章38節)などがそれで、最終的にローマへの大反乱を起こしユダヤは滅んだ。

(注)別エントリー「試論:古代ユダヤの政情不安を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16235

試論:「祈る」=「主に訴える」を140文字以内で

主イエスはルカ18章の冒頭で、絶えず祈ることの大切さを教えられたが、7節の「昼も夜も叫び求める」と1節の「絶えず祈る」は同一視されている。古代ギリシア語訳ヨナ4章2節では、ヨナが主に対し本心を隠さず率直に不満を訴えた行為もまた、ルカ18章の「祈る」と同じギリシア語で表されている。

試論:「エルサレム神殿の崩壊」を140年以内で

ヨハネ2章20節は、ヘロデ大王の時代に始められたエルサレム神殿の大拡張工事が既に四十六年も続いていたと記す。この大拡張工事はさらに三十数年続けられた後、遂に竣工した。しかしそれから十年と経たぬ紀元七〇年、ローマ帝国軍によって火を放たれたエルサレム神殿は、大音響と共に焼け滅びた。

(注)別エントリー「試論:『エルサレム神殿の滅亡』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14613

【追記】

使徒言行録でパウロの尋問に同席したヘロデ・アグリッパ二世は主の御降誕から第二神殿滅亡までの間にエルサレムで君臨した七人の王の一人で、ローマへの反乱に与せず神殿滅亡後ユダヤで返り咲いたが神殿が既に存在せず、その監督権を行使できぬ以上、有名無実の存在で、彼の死でヘロデ王家は断絶した。

(注)別エントリー「試論:黙示録の『第八の者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12097

試論:「天の父は見ておられる」を140文字以内で

主イエスはルカ18章で気を落とさず絶えず祈ることの大切さを、マタイ6章4節で隠れたことを見ておられる天の父が報いてくださることを教えられた。サムエル上1章13節「ハンナは心の内で祈っていて、唇は動いていたが声は聞こえなかった」その結果として同19節「主は彼女を御心に留められた」。

一人は連れて行かれ、他の一人は残される

紀元七〇年のエルサレム滅亡時にローマ軍へ投降したユダヤ人のうち、使徒言行録22章のパウロのようにローマの市民権を持つ者はローマ法の保護下にあるため留め置かれたが、そうでない者は妻子と共に奴隷とされ売り飛ばされた。こうして「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」の予告は実現した。

(注)別エントリー「試論:『滅びを避けるには』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5749

ルカ17章34節から35節で主は「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」と繰り返されたが、では一体どこに「連れて行かれ」るのかを、ルカ21章24節では「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と御説明された。これは大昔モーセがレビ記26章33節以下で預言していた話と同じである。

古代のヘブライ人は詩編78編69節の通り、エルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。これを踏まえれば、主イエスのルカ21章33節の仰せ「やがて天地は滅びるであろうが、わたしの言葉は決して滅びない」の意味は、「エルサレムと神殿の滅亡後も、わたしの教えと信仰は生き続ける」である。

(注)別エントリー「試論:黙示録の『第八の者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12097

主はマタイ5章18節で、全てのことが実現して天地が消え失せるまではモーセの律法も消え失せないと仰せになり、ルカ21章22節ではエルサレム滅亡で預言が全て実現すると予告され、紀元七〇年にそれは成就した。詩編78編69節の通りヘブライ人はエルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。

(注)別エントリー「試論:ルカ19章41節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5814

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

ルカ21章22節には「書かれていること」という言い回しが用いられているが、これはヨシュア記1章8節と同様に、「預言された事柄」「神から啓示された内容」などを意味する表現である。古代においては「書く(書いて記録に残しておく)」という行為それ自体が、非常に重要な意味を持つものだった。

主はマタイ5章18節で、全てのことが実現し天地が消え失せるまで律法の時代が続くことを仰せになった。ルカ21章22節では、エルサレム滅亡(20節)の日を「書かれていることが完全に実現する報復の日」と仰せになり、エルサレムと神殿の滅亡(紀元七〇年)で律法の時代が終わると宣言なさった。

「天地が消え去る」の「天」とは、神がお住まいになる場所と見なされたエルサレム神殿とりわけその聖所を指し、二ペトロ3章はその滅亡が近いことを説く。「地」はエゼキエル7章2節同様、イスラエルの地を指す。紀元七〇年にエルサレムと神殿は滅亡しユダヤ(イスラエル人の国家)も同じく消滅した。

二ペトロ3章10節は「主の日」において「天は激しい音を立てながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に熔解し尽くす」と予告した。数年後の紀元七〇年、神が住まわれると見なされて、「天」と同一視されていたエルサレムの神殿は、都の滅亡の際ローマ帝国軍によって火を放たれ、大音響と共に焼け滅びた。

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

ルカ21章22節において、主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると明言されており、それは紀元七〇年に現実のこととなった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代や近未来の世界情勢に関して旧約聖書の預言から考える行為は、不毛である。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

ダニエル書9章では神殿とエルサレムの復興を強く願うダニエルの祈りに応えて、都と神殿の再建さらには救い主の到来までも約束されたが、救い主が不当に殺された後、モーセの律法を蹂躙する集団が神殿の聖所を占拠し、そして次に来る指導者の民が、都と神殿を無法集団もろとも、滅ぼし尽くして終わる。

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

ルカ21章32節で主は「全てのことが起こるまではこの時代は決して滅びない」と仰せになったが、「時代」に当たる原文の単語ゲネアは古代のギリシア語詩編94(95)編10節の「世代」にも用いられ、詩編のこの節ではゲネアを四十年とする。実際この主の仰せからおおよそ四十年後に都は滅亡した。

(注)別エントリー「試論:『今の時代』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5596

(注)別エントリー「試論:『人心荒廃は滅亡の前兆』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6291

申命記28章49節でモーセは、将来イスラエルの民を滅ぼす国民の象徴となる動物を預言した。ルカ17章37節のギリシア語本文も、古代のギリシア語訳申命記と同じ単語を用いている。それはローマの国章と同じ動物で、ヨハネ11章48節で「ローマ人」という表現が登場する、根拠の一つでもあった。

ダニエル9章24節はメシアに関して預言の時代を封印する存在だと預言し、主イエスはルカ21章22節で旧約聖書の全預言が(紀元七〇年の)エルサ レム滅亡で成就すると仰せになった。故に現代や近未来の国際情勢と旧約聖書の預言は無関係で、関係ありとする強弁は、キリスト教の範疇を逸脱している。

主はルカ17章30節で「人の子が現れる日」に言及された。これは黙示録6章17節「神と小羊の怒りの大いなる日」と同じで「神」は御父である神、「人の子」「小羊」は主イエス・キリストである。「はげ鷹」ローマ帝国は繁栄の都エルサレムと神殿を、神の介在を疑い得ないほどに跡形もなく滅ぼした。

主はルカ21章20節以下で(紀元七〇年の)エルサレム滅亡及びその前後にユダヤを襲う「大いなる艱難」(23節)を予告された。また「異邦人の庭」(黙示録11章2節)を持つエルサレム神殿がまだ存在する時期に黙示録の内容を啓示され、エルサレム滅亡後も教会は存続すると希望をお与えになった。

主はルカ17章20節で「神の国は見える形では来ない」22節で「人の子の日を弟子たちが見ることはない」と仰せになったが、アモス5章18節では「主の日を待ち望む者は災いだ。主の日は闇であって光ではない」と預言しており、「神の国の到来」と「主の日」とを混同すべきではないと、理解できる。

(注)別エントリー「試論:『主の日』二つの意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12894

プロテスタントの文語訳聖書『改訳 新約聖書』(1917年)はルカ21章23節を「地(ち)には大(おほひ)なる艱難(なやみ)ありて、御怒(みいかり)この民(たみ)に臨(のぞ)み」と訳し、ある人々がいわゆる「大艱難時代」と呼ぶ時期とは実は紀元七〇年の滅亡の前後に他ならないと示唆する。

主はルカ21章23節でエルサレム滅亡とその前後のユダヤの苦難を予告されたが、『改訳 新約聖書』(1917年)では「大なる艱難」と日本語訳する。一世紀後半のユダヤの歴史家ヨセフスの記述通り、紀元六六年の大反乱の勃発から七三年のマサダ陥落までの七年間に、ユダヤは惨劇の連続を経験した。

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の意義を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9840

ダニエル9章24節はメシアに関して預言の時代を封印する存在だと預言し、主イエスはルカ21章22節で旧約聖書の全預言が(紀元七〇年の)エルサレム滅亡で成就すると仰せになった。故に現代や近未来の国際情勢と旧約聖書の預言とは無関係で、関係ありとする解釈は主の仰せとは明確に相反している。

試論:「人の子の日」を140文字以内で

主はマタイ10章23節で「人の子は来る」と仰せになり、「人の子の日」(ルカ17章22節)に言及されたが、黙示録6章17節は「神と小羊の怒りの大いなる日」と表現し、これらの啓示は紀元七〇年のエルサレム滅亡で実現した。支配者たちはイザヤ2章と黙示録6章の通り、洞穴からの逃亡を企てた。

(注)別エントリー「『人の子が来るのを見るまで』???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18126

【追記】

主はマタイ10章7節で「天の国が近づいた」と告げるよう仰せになったが、これと別に23節で「人の子」が来る日をほのめかされた。これはルカ17章22節「人の子の日」や黙示録6章17節「神と小羊の怒りの大いなる日」を指し、マタイ24章33節の通り、人々は悲惨な諸事件から主の来臨を悟る。

(注)別エントリー「試論:『主の日』二つの意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12894

主イエスはルカ17章20節で「神の国は見える形では来ない」同11章20節で「わたしが『神の指(=聖霊)』で悪霊を追い出しているのだとしたら、神の国は既に来ている」と教えられた。マタイ6章10節の通り、神の御旨が天に行われている通り人間の世でも行われている状態が神の国の到来である。

(注)別エントリー「試論:『神の指』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15224

主はルカ17章20節で「神の国は見える形では来ない」22節で「人の子の日を弟子たちが見ることはない」と仰せになったが、アモス5章18節は「主の日を待ち望む者は災いだ。主の日は闇であって、光ではない」と預言しており、「神の国の到来」と「主の日」とを混同すべきではないと、理解できる。

(注)別エントリー「試論:『バビロンへの連行』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5695

(注)別エントリー「試論:『一人は連れて行かれる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5599

(注)別エントリー「試論:連れて行かれるのはどこ?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6151

(注)別エントリー「試論:ヘブライ人の『神を見る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5673

(注)別エントリー「試論:福音書と『西遊記』の違いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5760

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

試論:ルカ17章20節を140文字以内で

主イエスはルカ17章20節で「神の国は見える形では来ない」同11章20節で「わたしが『神の指(=聖霊)』で悪霊を追い出しているのだとしたら、神の国は既に来ている」と教えられた。マタイ6章10節の通り、神の御旨が天に行われている通り人間の世でも行われている状態が神の国の到来である。

(注)別エントリー「試論:『神の指』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15224

【追記】

主イエスは「ベルゼブル論争」の際、マタイ12章28節では神の霊すなわち聖霊によって悪霊を追い出したと仰せになったが、ルカ11章20節では「神の指によって」と表現されている。「神の指」とは神の御力や御業を表す(出エジプト8章15節、同31章18節、申命記9章10節、詩編8編4節)。

(注)別エントリー「『神の指』?」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19346

「肉」と「霊」

ガラテヤ5章16節以下では「肉と霊」が対比されるが、ここで「肉」はヨハネ1章14節同様「人間」を指し、「霊」は「聖霊」「神の霊」を意味する。つまりこの章における「肉」と「霊」との対立とは、「人間に由来する諸悪」(マルコ7章20節以下参照)と「神に由来する諸徳」との対立を意味する。

古代のヘブライ人の世界観に従い、ガラテヤ5章は「人間(人間それ自体)」を「肉」、「神〔に由来するもの〕」を「霊」と呼ぶ。ヨハネ3章6節も同じ対比を用い、「霊から生まれた者は霊」とは同1章12節の「神の御言葉である主イエスは、御自分を受け入れる人に神の子となる資格を与えた」を指す。

古代のイスラエル人にとって「肉」という表現は「人間」を指す場合があった(ヨハネ1章14節等)。マルコ7章20節以下で主イエスが「人から出て来るものこそ人を汚す」と注意を促された諸悪と、ガラテヤ5章19節以下でパウロが「肉の業」と呼んで避けるように促した諸悪が同様なのは当然である。

古代のヘブライ人は「肉」を、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけではなく魂も含めた人間の全体。)」を表す言葉として用いていた。創世記6章12節「すべて肉なる者は堕落の道を歩んでいた」(新共同訳)。日本語訳の「肉なる者」に対応する語は、ヘブライ語本文ではただ単に「肉」である。

ローマ8章6節の直訳は「肉の思いは死、霊の思いは命と平和」。ヘブライ人は人間由来の事柄を「肉」、神に由来する事柄を「霊」と呼び、あらゆる幸福を「命」あるいは「平和」と総称した。この節は「人間由来の願望は死で終わるが、神に由来する願望は人間をあらゆる幸福へと導く」という意味である。

ガラテヤ5章は「肉」と「霊」の対立を記すが、ヨハネ1章同様、パウロは古代のヘブライの世界観に基づき、人間そのものを「肉」と表現して「霊」つ まり「神の霊」と対比する。近代人は「肉と霊」という表現から「〔人間の〕肉体と〔人間の〕霊魂の対立」をイメージしがちだが、パウロの意図は異なる。

コヘレト12章7節では人間の肉体を「塵」と表現し死によって大地(創世記2章7節、3章19節)へ帰ると記すが、洗礼により「神の子とする霊」 (ローマ8章15節)を受けた者の「霊」は対照的に、罪に脆い肉体の重荷から解放され「霊」をくださった「与え主」神の許へ帰るべきだと定められている。

(注)別エントリー「試論:『土の家』(+復活の体)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9624

一コリント15章でパウロは「地上の体」「天上の体」という表現を用いて、《人間が地上で生活していた際の、死によって朽ちていく肉体》と《その人 の霊が神の許に帰還した後で、神によって天上で新しく与えられる、朽ちることのない体》について説明し、後者を「霊の体」(44節)等と表現している。

主イエスはヨハネ8章15節で「あなたたちは肉に従って裁く」と仰せになった。ヨハネ福音書は人間的な事柄を「肉」、神に由来する事柄を「霊」と呼び対比する。ヘロデ王家は自分たちに同調する祭司へ大祭司の権力と富を与え籠絡していた。福音書における神殿の有力者たちの堕落はそれが原因であった。

ヨハネ1章14節には「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(新共同訳)とある。「言(ことば)」とは《御自ら人々の前に現れて御言葉を人々に直接お伝えになる神、御子である神なる主イエス・キリスト》、「肉」は人間を指すヘブライ人特有の表現である(創世記6章12節参照)。

(注)別エントリー「試論:『神が人となられた方法』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13297

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「聖書にはクリスマスの日付が載っていますか???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13267

主イエス・キリストは、人間たちに模範(ヨハネ13章34節)を示されるために、神であり続けながら(ヘブライ13章8節)人間の肉体と魂を担われた(ヨハネ1章14節)以上は、神として教えられた掟(申命記5章16節)を人間として自ら忠実に実践された(ルカ2章51節、マタイ20章28節)。

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9949

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

フィリピ1章24節でパウロは現世で生き続けることを「肉にとどまる」と表現する。

一コリント15章の通り、主なる神から「永遠の命(天国の福楽)」を確約された者は天国で

「天上の体」「霊の体」

と呼ばれる朽ちない体を受け生き続けるが、それは現世の

「地上の体」「肉の体」

と別の新しい体である。

「主の変容」とは、一コリント15章でパウロが言及する

「天上の体」(40節)

を主イエスが実際に三人の使徒へお示しになった意義深い出来事で、パウロは「天上の体」を

「朽ちないもの」(42節)

「輝かしいもの」「力強いもの」(43節)

「霊の体」(44節)

「天に属する者」(47節)

等と呼ぶ。

(注)別エントリー「試論:『イエスは復活と命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8389

ヨハネ6章63節は、人間に由来する事柄を「肉」、神に由来する事柄を「霊」と呼ぶ。ガラテヤ5章16節以下は、同じく「肉」「霊」という表現を用いて両者を対比し、詳細かつ具体的に説明を加え、19節〜21節は避けるべき事柄を「肉の業」と呼び、22節〜23節は「霊の結ぶ実」について勧める。

ガラテヤ5章に見られる通り古代のヘブライ人は神に関連する事柄を「霊」、人間に関連する事柄を「肉」と表現して対比した。ヨハネ1章14節「神の御独り子は肉となられ」の「肉」も、人間を意味する。神の御独り子が神のままで「肉」としての全てを担われた(引き受けられた)ことを「受肉」と呼ぶ。

ヨハネ1章12節以下は「言(ことば)」つまり主イエス・キリストによって「神の子」とされた人々は本来「肉の欲」(13節)と無縁だとする。ガラテヤ5章24節は「肉の欲」と絶縁するという決意と日々の努力を十字架という比喩で表現し、19節以下は信者が避けるべき「肉の業」に関して列挙する。

(注)別エントリー「試論:『十字架が象徴するもの』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7585

(注)別エントリー「試論:『日々、十字架を背負う』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7581

ガラテヤ5章16節以下は、人間に由来する事柄を「肉」(創世記6章12節、ヨハネ1章14節)、神に由来する事柄を「霊」と表現し、各々に関係する諸悪と諸徳を説く。一コリント3章は、主に忠実に従う人を「霊の人」、信者を自認してはいても御旨からは程遠い人を「肉の人」「ただの人」等と呼ぶ。

一コリント15章は、

《地上で生きる体》と《永遠の命を得て復活し天の国で生きる体》

とを、

「地上の体」と「天上の体」

「地上の命の体」と「霊の体」

等と表現する。

ガラテヤ5章は人間的な事柄を「肉」、神的な事柄を「霊」と表現し、

コロサイ1章22節「肉の体」とは「人間としての体」の意である。

創世記3章19節は2章7節を踏まえて、人は塵(土)に過ぎないと記す。6章3節では人は肉に過ぎないと記し12節も人を「肉」と呼ぶ。創世記は人を「塵(土)」「肉」と表現しヨハネ1章14節も「御言葉は肉となられ」と記すが、「肉」は道徳的な脆さ(ガラテヤ5章19節以下)とも関連している。

(注)別エントリー「試論:『土の器』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6902

(注)別エントリー「『土の器』(つちのうつは)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14324

試論:「神の御旨と人間の不幸」を140文字以内で

【問】神は人間の不幸を望んでおられますか?
【答】いいえ、断じて望んでおられません。間違った終末思想に陥り始めると「望んでおられる」などと錯覚するのでしょうが、神なる主はエゼキエル18章で「あなたたちは〔わたしに〕立ち帰って、生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」と仰せになっています。

【追記】

キリスト教の歴史上「救われる者と救われない者とは神に予め定められている」という主張が存在したが、ならば神はなぜエゼキエル18章32節で「お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」と仰せになったのだろうか。二コリント5章14節「キリストは全ての人のために亡くなられた」。

(注)別エントリー「試論:救われる者は少ないか??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18576

ヨハネ9章31節には「神は罪人の言うことなどお聞きにならないとわたしたちは承知している」という言葉が記されてはいる。罪人が良からぬ企みを実行する前に成功を神に願い求めても、神が聞き入れるわけがないが、罪人が罪人であることを止めて回心したいと神に願う時は、神は喜んで聞き入れられる。

(注)別エントリー「試論:『聞き入れられる願い事』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18477

マタイ9章13節「わたしが来た目的は、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」ホセア6章1節〜2節「さあ、わたしたちは主の御許に帰ろう。主はわたしたちの傷を覆ってくださり、いやしてくださる。主はわたしたちを立ち上がらせ命を与えてくださる。わたしたちは主の御前で生きる」。

主がマタイ9章13節で「わたしが求めるのは憐れみであり『いけにえ』ではない」とホセア6章6節に言及されてファリサイ派の人々に学ばせたかった「意味」という事柄の答えは、ホセア6章3節「主は曙の光のように必ず現われて、春に降り注ぎ大地を潤す雨のようにわたしたちを訪れて下さる」である。

今、あなたの神、主があなたに求めておられることとは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてその全ての導きに従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸せになることではないか。(申命記10章12節〜13節)

ミカ6章8節「何が善であって、主が何をあなたたちに求めておられるかは、あなたたちには既に告げられている。それは神の義を行い、憐れみの業を愛し、へりくだり神と共に歩むこと」ホセア6章6節「わたしが求めるものは『いけにえ』ではなく憐れみであり、焼き尽くす献げ物ではなく神を知ること」。

(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6748

マタイ11章28節「重荷を負う者は、わたしの許へ来なさい」詩編38編5(4)節「わたしの罪悪は耐え難い重荷」マタイ9章13節「正しい人を招くためではなく罪人を招くために、わたしは来た」ホセア6章1節〜2節「わたしたちは主の許に帰ろう。主はわたしたちをいやされ、傷を包んで下さる」。

(注)別エントリー「試論:『いけにえ』と憐れみを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8356

試論:「全て果たしたとしても」を140文字以内で

主イエスはルカ17章7節以下で神から命じられている事柄を全て実行しているからといって人は思い上がってはいけないと仰せになった。忠実な僕(しもべ)が最後に神から報酬を受け取ることは12章35節以下で説かれるが、あくまで「天の国」のことであって、この世で他人を見下していいわけがない。

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11494

(注)別エントリー「試論:『戸をたたいている』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12070

(注)別エントリー「ファリサイ派の人と徴税人」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5182

【追記】

信仰とは神から命じられた通りに日々の一挙手一投足をもって証しし続ける事柄であり、たとえ神が人となられて人々に「兄弟」と呼び掛けられるほど親しみを示されたとしても、そのことは人間の神に対する厚かましさや馴れ馴れしさを正当化するものでは全くないと、ルカ17章7節以下で主は説明された。

(注)別エントリー「試論:行いを欠く信仰を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5360

主はルカ12章37節で「主人が帰って来た時、目を覚ましているのを見られる僕(しもべ)たちは幸い」と仰せになり、38節も同様である。43節では「主人が帰って来た時、言われた通りにしているのを見られる僕は幸い」とあるので、主の仰せを怠らず行うことが「目を覚ましている」ことだと分かる。

(注)別エントリー「試論:聞くだけの人を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5294

(注)別エントリー「試論:砂の上の家を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5563

(注)別エントリー「試論:『主よ、主よ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5380

(注)別エントリー「試論:神から受けた掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5418

主イエスは福音書で何度も「目を覚ましていなさい」と仰せになった。これに続けるようにパウロは、一コリント16章13節で「信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい」と記した。ペトロも第一の手紙5章8節で、この仰せの前に「身を慎んで」と付け加え、悪魔に対する警戒を説く。

(注)別エントリー「試論:引き締めるべきものは何?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8431

ルカ12章36節以下「もし主人が夜中に帰って来て戸をたたいても戸をすぐ開けられるよう待つしもべの如く、主人を待ちなさい。そのしもべの食事を主人は給仕するであろう」黙示録3章20節「わたしは戸口で戸をたたいている。わたしの声を聞いて戸を開ける者と、わたしは食事を共にするであろう」。

(注)別エントリー「試論:『地上の星』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11997

試論:「『半神半人』ではない」を140文字以内で

《人となられた「神の御独り子」》主イエス・キリストに関して、キリスト教では「半神半人」とは絶対に表現しない。それでは神としても人間としても中途半端(不完全)な存在だからである。むしろ「完全な(100%の)神」が「完全な(100%の)人間」を担った(引き受けた)存在と理解している。

(注)別エントリー「試論:『神には劣化がない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8697

【追記】

神は本来、神以外の別物に変質(劣化)できない以上、「神が人となる」ためには神のままで人間としての全てを担う(引き受ける)必要があった。これをヨハネ1章14節は「〔神の〕御言葉は肉となる」として記し、ニケア・コンスタンチノープル信条は「おとめマリアよりからだを受け」として表現した。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

ヨハネ1章1節の「言(ことば)」、いわゆる「神の御言葉」とは、「御自分で御言葉をお話しになる神」すなわち御子である神、主イエス・キリストを意味する。「言(ことば)は神とともにあった」とは、天地創造以前の初めから、御子である神は御父である神とともに存在しておられたということである。

現代人は「神が人となる」と聞くと、神がそのまま人に変化(変質)するとイメージしがちだが、そのイメージは古代のイスラエル人にはなかった。出エジプト記3章14節「わたしはある」とは《わたしは劣化しない》(詩編102編28(27)節参照)を意味し、神から人への劣化を認めないからである。

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

聖書で「神が人となる」とある場合、それは「神が人に変質(劣化)し、人でいる期間は神でいることをやめている」を意味せず、「神は神のまま人間としての全てを担い、神でもあり人でもある存在となる」を意味する。「わたしはある」という神には、変質も劣化もない(詩編102編28(27)節等)。

古代のヘブライ人は「肉」を、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけではなく魂も含めた人間の全体。)」を表す言葉として用いていた。創世記6章12節「すべて肉なる者は堕落の道を歩んでいた」(新共同訳)。日本語訳の「肉なる者」に対応する語は、ヘブライ語本文ではただ単に「肉」である。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7795

ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。

詩編49(48)編8(7)節は、神に対して人間が贖いの業を行うことはできないと記す。とはいえ神の御独り子が自ら人間となられて自分の「からだ」を「身代金」として贖いの業を行われた時の「からだ」は、マリアから受けたものだった。マリアは極めて特別な形でイエスの贖いの業に「参加」をした。

(注)別エントリー「試論:『履物を脱ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8620

詩編49章8(7)節は神に対し人間が贖(あがな)いの業を行うことはできないと説く。それができるのは「人〔となられた神〕の子」だけであり、そのために主イエスは来られた(マタイ20章28節)。神は劣化できないため、神のままで人間の全てを担う必要があり、そのためにマリアが不可欠だった。

【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。

試論:ルカ17章5節の「信仰」を140文字以内で

詩編12編は裏表(嘘偽り)のある人々ばかりの風潮を「信仰のある人はいなくなった」と嘆く。古代のヘブライ人にとって「二心(ふたごころ)」は信仰とは相容れなかった。「あなたの信仰があなたを救った」や「からし種の一粒ほどの信仰」の「信仰」とは《疑う余地のない確信》《完全な信頼》を指す。

(注)別エントリー「『からし種一粒ほどの信仰』???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19278

【追記】

ルカ17章5節で使徒たちが「わたしどもの信仰を増してください」と頼んだ際には主は否定的な反応を示されたが、御受難の前ペトロのために主は信仰を失わぬよう祈られた(22章32節)。安易な意向による願い事を神は好まれないが真面目に求めている人の願いはまた別である(マタイ7章7節以下)。

(注)別エントリー「試論:ルカ22章32節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5899

(注)別エントリー「試論:マナセ王の回心を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5878

「命じられたことをみな果たしたら『自分は取るに足りないしもべで、しなければならないことをしただけです』と言いなさい」(ルカ17章10節)と主が勧められた通り、信仰とは各自が日常の一挙手一投足をもって証しし続ける事柄であり、「増してください」(5節)と神頼みする性質の問題ではない。

(注)別エントリー「試論:行いを欠く信仰を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5360

試論:ヨハネ福音書と「信じる」を140文字以内で

ヨハネ2章22節は、主が復活された際、過去の主の仰せを思い出した弟子たちは〔旧約〕聖書と主の仰せとを信じたと記す。この「信じた」は、「納得した」「了解した」「腑に落ちた」「合点がいった」等の意味合いである。「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる者は、幸い」も同じことである。

【追記】

ヨハネ福音書は「永遠の命」「信じる」を多用する。ただし「何をすれば永遠の命を得られるか」の具体例はマタイ25章「最後の審判」とルカ10章「善きサマリア人の話」の箇所にあり、ルカ10章27節で主イエスは、「信じる」こととは「心・精神・力・思いを尽くし愛する」ことだとお教えになった。

古代よりヨハネ福音書には「信仰」を意味するギリシア語が登場しないことが知られていた。その替わりヨハネ福音書は「真理」を意味するギリシア語アレテイアを多用する。主イエスはピラトの問いに対し御自分のことを王だとも神だともお答えにならず、ただ「真理」すなわち信頼すべき者だと宣言された。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書の『信じる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16417

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

詩編12(11)編においてダビデは、隣人に嘘をついたり隣人を早口で欺いたり言行不一致状態だったりする人々ばかりの風潮を、「信仰のある人は消え去りました」(12編2節、新共同訳)と表す。ここで「信仰」と訳されるヘブライ語を、古代のギリシア語訳聖書はアレテイア(真理、まこと)と訳す。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

ヨハネ福音書は「信仰」を表現する際、他の福音書が用いるピスティスという語を用いず代わりにアレテイア(真理、まこと)という語を多用する。ヨハネにとって信仰とは、人の真心に対し真心で応じられる神なる主に向かって嘘偽りや裏表のない態度で接することに他ならず、これは当時の共通認識だった。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書のアレテイアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15430

試論:「憐れみ」と「いけにえ」を140文字以内で

主イエスはマタイ福音書においてホセア6章6節「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」を二度引用され強調された(マタイ9章13節、同12章7節)。新約時代のキリスト信者にとっては、モーセの律法の「いけにえ」に関する掟は無効だが、憐れみに関する掟は依然として有効である。

(注)別エントリー「試論:『いけにえ』と憐れみを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8356

(注)別エントリー「試論:『神を知ること』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5580

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

【追記】

一人の律法学者は自分を「義化」(ルカ10章29節)しようとして(「義人」(マタイ1章19節)とするために)、隣人愛(ルカ10章27節)に関して、主に、踏み込んだ質問を行なった。主は、憐れみの心(33節)と「神の義」と隣人愛と永遠の命(25節)は事実上重なっているとお教えになった。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4544

試論:「この神殿を壊してみよ」を140文字以内で

主イエスはヨハネ2章19節で、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直して見せる」の御言葉を残された。同21節は、御自分の体を主イエスは神殿と呼ばれたと説明する。しかしマタイ26章61節にある通り、この時の主の仰せは、最高法院が主に死刑を宣告するに至る際、重大な意味を持つものだった。

(注)別エントリー「試論:福音書と『西遊記』の違いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5760

(注)別エントリー「イエス・キリストと天の雲」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/684

【追記】

《体も家も自身にとっての住まい》(ヨブ4章19節参照)として「体」と「家」とを重ねるヘブライの世界観を踏まえ、主イエスは、《人となった神の子である自身の体》と《神の家=神殿》を重ね「三日で建て直して見せる」と宣言されたが、イエスを冒瀆者として葬り去ろうとした人々には通じなかった。

(注)別エントリー「試論:マタイ21章42節『家』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15057

試論:「土台としての主イエス」を140文字以内で

一コリント3章11節は「既に据えられているイエス・キリストという土台を無視して他の土台を据えることは、誰にもできない」と記す。二テモテ4章3節以下は、やがて人々が「健全な教え」から離れ、自分に都合のいい話だけ聞いて真理(=主イエス)の言葉を無視し、作り話に引かれて行くと警告した。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:キリスト抜きのキリスト教を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6639

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

【追記】

一ヨハネ4章は信用してはならない人の特徴を、キリスト教を語っているようで実は世間に通じる話題だけで、主イエスが実際に教えられた福音書の御言葉を回避していることとした。キリストを棚上げしながら福音書以外の聖書の箇所を引用する目的は、キリストの代わりに自分自身が主役になるためである。

(注)別エントリー「試論:『招かれる』『選ばれる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8012

(注)別エントリー「試論:『神は誰を選ばれるのか』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8051

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは「天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神」主イエスを表す称号であり主が直接人々にお話しになった御言葉を記したものが福音書である。福音書を顧みず他のものばかりに目を奪われ続けるならばイエス・キリストがわからなくなる。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

箴言28章9節は、主が教えられた御言葉に耳を傾けないなら、いくら主に祈っても、主のおぼしめしには沿わないと教える。それだと、神を一方的に利用しようとしているだけで、全く信仰の名に値しない。主イエス・キリストが《神の御言葉》である以上、御教えを拒むことは神そのものを拒むのに等しい。

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

(注)別エントリー「試論:『主イエスを見失うこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5954

(注)別エントリー「試論:『主に聞き従うこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5685

マタイ22章14節「招かれる者は多く選ばれる者は少ない」の<選ばれない理由>をイザヤ65章12節は「呼んでも答えず、語りかけても聞かず、わたしの目に悪とされることを行い、わたしの喜ばないことを選んだからである」と記した。「笛を吹いたのに踊ってくれなかった」(マタイ11章17節)。

(注)別エントリー「試論:『神は誰を選ばれるのか』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8051

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

二テモテ3章でパウロは「終わりの時」の人々の姿を記した。自分本位で金銭を愛し、嘘をつき、神を畏れず嘲り、両親に従わず、恩知らずで、他人を侮り、情け容赦なく、強情で、中傷し、節度がなく、残酷で、善を行わず、裏切り、軽率かつ高慢、信仰を装いつつ実際は快楽を愛し、事実上は棄教している。

(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8105

(注)別エントリー「試論:二ペトロ2章の『偽教師』140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10808

主はヨハネ5章39節で、聖書とは御自分についてあかしするものであり、御自分を目的としない聖書研究には意味がない旨を仰せになった。これに関連し一ヨハネ4章も、主イエスに関する事柄についてなるべく触れようとしない自称信者を「偽預言者」「反キリストの霊」「人を惑わす霊」などと表現する。

(注)別エントリー「試論:『預言を封印するメシア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8347

(注)別エントリー「試論:聖書を研究する意味とは?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19381

ヨハネ5章39節〜40節「あなたたちは〔旧約〕聖書の中に永遠の命があると考えて、〔旧約〕聖書を研究する。しかし、〔旧約〕聖書とは、わたし(=主イエス・キリスト御自身)についての証しをするものである。それなのにあなたたちは〔永遠の〕命を得るためにわたしのところに来ることをしない」。

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の意義を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9840

(注)別エントリー「試論:旧約聖書を調べる意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6950

(注)別エントリー「試論:預言者も見たかったもの?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19262

試論:「わたしを食い尽くす」?を140文字以内で

ヨハネ2章17節は詩編69編10(9)節の「あなたの家(=神殿)を思う熱意がわたしを食い尽くす」を引用する。月食や日食のように「食」は他のものが覆う意味もある。故に「熱意が食い尽くす」とは、《熱意が心を覆い尽くす》《熱意に呑み込まれる》《熱意に強く突き動かされる》等の意味である。

【追記】

主イエスはイザヤ28章16節や詩編118編22(21)節を踏まえて御自分を「隅の親石」と呼ばれた。ヨハネ2章17節の通り「家」は神の家つまり神殿を指す。「あなたたち民の指導者は神殿の拡張工事には熱心(同章20節「四十六年」)でも救い主を邪魔者扱いするが、わたしから救いは始まる」。

(注)別エントリー「聖書にはクリスマスの日付が載っていますか???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13267

過越祭には過越の小羊が不可欠だった。祭のために世界中から都に集まる古代のユダヤ人は、羊を連れて旅するわけにもいかず羊を現地調達した。世界中のユダヤ人からも集められた神殿税は過越の小羊の準備にも当てられたが、それの度が過ぎて神殿の境内が家畜市場の様相を呈していた有様に主は憤られた。

(注)別エントリー「試論:『身代わりの羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9046

《体も家も自身にとっての住まい》(ヨブ4章19節参照)として「体」と「家」とを重ねるヘブライの世界観を踏まえ、主イエスは、《人となった神の子である自身の体》と《神の家=神殿》を重ね「三日で建て直して見せる」と宣言されたが、イエスを冒瀆者として葬り去ろうとした人々には通じなかった。

(注)別エントリー「試論:マタイ21章42節『家』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15057

試論:聖霊が働いている徴とは?を140文字以内で

一コリント14章は神は無秩序の神ではなく平和の神(33節)と断言し、集会中に複数人が同時並行で口を開き全く別々の事柄を語ることを禁じる。心を一つにして静かに聖歌を献げる集会と、ある人は歌い別の人は踊り別の人は不可解な言葉を相手構わず喋る騒々しい集会とでは、どちらで聖霊は働くのか?

【追記】

主イエスはマタイ4章24節と同17章15節で、てんかん(けいれん、ひきつけ)の人々を治癒の対象とされた。急に体をブルブル(ガクンガクン)させて白目を剥いたり、呼び掛けに応じなくなったり、口から泡を吹いてひっくり返ったり等が見られれば、当然、聖霊の働きでなく救急医療の対象に当たる。

イザヤ11章2節以下とガラテヤ5章22節以下では聖霊による賜物について列挙されるが、そこにはいわゆる「異言(諸言語〔の賜物〕)」も「預言」も含まれていない。「預言」にも真の預言者と偽預言者が存在したように異国の言語らしきものを話し始めた人がいたとしても本物とは限らないからである。

いわゆる「異言」と呼ばれる《諸言語〔の賜物〕》に関して、パウロは一コリント12章から14章において、それを「解釈(通訳)する人」の存在と重要性を繰り返し強調している。14章28節では、その場に通訳(解釈)できる人が皆無なら、語る人は教会の中では沈黙しているようにと強く命じている。

一コリント14章26節以下でパウロは、いわゆる「異言」と呼ばれる《諸言語〔の賜物〕》に関し、「語る人」と「解釈(通訳)する人」がいて初めて成り立つと記す。従って、どの言語か全く分からない何事かが話されても、その場に通訳(解釈)できる人が皆無ならば、聖霊に由来するとは認められない。

パウロは一コリント14章33節で神は混乱(無秩序)の神ではないと記し、同30節で集会中に複数人が同時並行的に言葉を発することを禁じ37節で混乱は主の流儀ではないことを示唆した。ヨハネ17章11節等で主イエスが強く願われ使徒言行録4章32節で実現した、「一つ」に違反するからである。

主はヨハネ10章30節で「わたしと父とは一つ」と仰せになった後、17章では弟子たちのために天を仰いで祈られたが、それは御父と御自分が「一つ」であるように、弟子たちもまた「一つ」となるためであった(11節、21節〜23節)。使徒言行録4章32節「信じた人々の群れは心も思いも一つ」。

ニケア・コンスタンチノープル信条「父と一体」はヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」と38節に拠り、御父と御子の間には矛盾・対立・齟齬の類は一切ないことを表す。ギリシア神話では最高神ゼウスと父クロノス、クロノスと父ウーラノスの父子相剋が存在するが、キリスト教には全く存在しない。

一コリント12章以下でパウロは霊的な賜物に関し論じた。14章33節は「神は混乱(無秩序)の神ではなく協調(平和)の神」と説き、集会中の発言は順番(27節、40節)になされるべきで複数人が別々の事柄を同時並行で語ることを禁じ(30節)、それは「主の命令」(38節)であると厳命した。

聖パウロのガラテヤ書5章によれば、聖霊が働いている徴は愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・節制(22節〜23節)であり、聖霊が不在である徴は姦淫・わいせつ・好色・偶像礼拝・魔術・敵意・争い・そねみ・怒り・利己心・不和・仲間争い・ねたみ・泥酔・酒宴(19節〜21節)などである。

聖霊の七つの賜物という特別の恵みは、古代のギリシア語訳またラテン語訳のイザヤ書11章2節〜3節の記述に基づいており、

【1】知恵(上智)
【2】分別(識別)
【3】思慮(賢慮)
【4】剛毅(勇気)
【5】〔主に関する〕知識
【6】〔主に対する〕孝愛(信心)
【7】〔主に対する〕畏敬

などである。

(注)別エントリー「試論:聖霊降臨と聖母を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4990

ヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」の意味を使徒言行録4章32節は「心も思いも一つ」「持ち物を自分だけのものと主張せず共有している」と説明する。従って、御父の持ち物は御子の持ち物でもあり逆もまた然りである。ヨハネ10章38節「わたしは父の内にあり、父はわたしの内におられる」。

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

イザヤ11章では聖霊の賜物として知恵・識別・思慮を挙げ、またガラテヤ5章23節では節制を挙げる。従って例えば詐欺に引っ掛かったり、貴重品を紛失したり、交通事故を起こしたり警察に違反を指摘されたり、多くの飲食物への執着を断ち切れないならば、常識的に判断して聖霊の介在は否定的である。

ルカ1章35節以下では、マリアに聖霊が降臨され彼女が神の御独り子を身籠るという事柄が告知された。従って《聖霊の結ぶ実》(ガラテヤ5章22節以下)すなわち《愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制》がマリアの内面をあふれんばかりに満たしていることには、疑問の余地などない。

パウロは一コリント14章33節で神は無秩序の神ではないと説き、40節では全てを秩序正しく行うよう勧め、30節で複数人が同時に口を開くことを禁じる。従って「ある人々は互いに別々の事柄を語り始め、別の人々は歌い出し、また別の人々は踊り出す」ならそれは神の霊とは全く関係ない現象である。

主イエスはさまざまな病気に対し奇跡的な治癒を行われたが、病人に医者が必要であることは否定されない(ルカ5章31節等)。シラ書38章は、病気になった際に主に治癒を祈り求めることを勧める(9節)が、それと共に医者の手を借りることも勧め(12節)治癒に医者が必要な場合もあり得ると説く。

(注)別エントリー「試論:『善きサマリア人と宿屋』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13394

(以下の聖書からの引用は、基本的にはフランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』(サンパウロ)によりますが、その他の聖書から引用する場合は、その都度、適宜その旨を付け加えます)

ガラテヤの人々への手紙5章においては、「肉の業(わざ)」と「霊の結ぶ実」とが対比されて、説明されている。
E・ラゲ訳『聖書』(中央出版社)においては、この章の5節で、「〔聖〕霊」という表現が用いられているが、この表現からも分かる通り、この章における「霊」とは、すなわち「聖霊」を意味していると考えられる。

◯ガラテヤの人々への手紙5章22節~23節(フランシスコ会訳)
「しかし、霊の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟(おきて)はありません」

受胎告知の際のみ使いの言葉「聖霊があなたに臨み、いと高き方の力があなたを覆う」(ルカ1章35節)がその通りであるとしたら、当然マリアは胎内に「聖なる者、神の子」(同節)に宿しているのと同時に、マリアの内面には、「霊(聖霊)の結ぶ実」すなわち「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」が宿っていたことになる。

この箇所について、E・ラゲ訳では、「霊の効果」として、「(愛)」「喜び」「平安」「堪忍(かんにん)」「慈恵(じけい)」「(忍耐)」「温良(おんりょう)」「真実」「謹慎(きんしん)」「節制」「貞操(ていそう)」と列挙している。

また、日本聖書協会新共同訳『聖書』では、フランシスコ会訳と同様の表現が列挙されている。

バルバロ訳『聖書』(講談社)においては、「愛」「喜び」「平和」「寛容」「仁慈(じんじ)」「善良」「誠実」「柔和」「節制」などという表現である。

ところが、「肉の業」(19節)として列挙されている事柄を行う人に関しては、「神の国を受け継ぐことはできません」と明言されている。

◯ガラテヤの人々への手紙5章19節~21節(フランシスコ会訳)
「肉の業は明らかです。すなわち、姦淫、猥褻(わいせつ)、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間割れ、妬(ねた)み、泥酔、度外れた遊興、その他このたぐいです。前にも警告したように、改めてあなた方に警告します。このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません」

すなわち、もしも「姦淫」「猥褻」「好色」「偶像礼拝」「魔術」「敵意」「争い」「そねみ」「怒り」「利己心」「不和」「仲間割れ」「妬み」「泥酔」「度外れた遊興」等々といった事柄に心がとらわれている人がいるならば、その人に聖霊が働いていることなどありえないと分かる。

この部分は、ラゲ訳では、「私通」「不潔」「わいせつ」「邪淫」「偶像崇拝」「魔術」「恨み」「争い」「ねたみ」「腹立ち」「けんか」「擾乱(じょうらん)」「異説」「そねみ」「人殺し」「酩酊」「とう食」などとなっており、これらの事柄に心がとらわれているならば、聖霊が働いていない証拠というわけである(「とう食」は「貪食」などと同じ意味)。

新共同訳では、「姦淫」「わいせつ」「好色」「偶像礼拝」「魔術」「敵意」「争い」「そねみ」「怒り」「利己心」「不和」「仲間争い」「ねたみ」「泥酔」「酒宴」などとなっている。

バルバロ訳では、「淫行」「不潔」「猥褻」「偶像崇拝」「魔術」「憎悪」「紛争」「嫉妬」「憤怒(ふんぬ)」「徒党」「分離」「異端」「羨望」「泥酔」「遊蕩」などが挙げられている。

このガラテヤ5章19節から21節そして22節から23節の記述によって吟味することにより、そこに聖霊が本当に働いているのかどうかを確実に識別することができるわけである。

試論:「神と富とに仕える」??を140文字以内で

ルカ16章13節「神と富の両方に仕えることはできない」黙示録18章7節「わたしは女王の座に着いており、やもめではなく、決して悲しい目には遭わない」同3節「彼女の豪勢な贅沢により地上の商人たちは、富を築いた」哀歌1章1節「やもめとなってしまったのか、多くの民の女王であるこの都が」。

(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1699

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

【追記】

古代のイスラエルでは「神」と「神の民」との関係がしばしば「花婿」と「花嫁」と表現された。しばしば「女王」にもたとえられる都が「花婿」キリストを歓呼と共に迎え入れながら、数日後に裏切り、夜中に急襲して捕らえ一日のうちに死に至らしめたその行状から、「大淫婦」と呼ばれるのは当然である。

(注)別エントリー「試論:黙示録17章『十本の角』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9155

(注)別エントリー「試論:黙示録17章『第八の者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9038

黙示録18章7節「わたしはやもめではなく女王であり、決して悲しい目に遭わない」ルカ19章41節以下「イエスは都のために泣いて仰せになった、『もし今、お前が平和への道をわきまえていたならば。しかし今のお前は、それを理解していない。時が来て、敵がお前を包囲して四方から攻め寄せ〜』」。

古代のイスラエルは、神と神の民との関係をしばしば花婿と花嫁の関係にたとえた。洗礼者ヨハネは、イエスを「花婿」と呼んで自身は「花婿の介添人」と称した。主イエスを歓呼の裡に迎え入れながら数日で死に至らしめた都を、黙示録が「大淫婦」と呼んだ理由は、イエスこそ花婿に他ならないからである。

ヨハネの黙示録17章5節には「淫婦の母、地上のあらゆる憎むべきものの母である大バビロン」と書かれているが、ゼカリヤ書2章11節では、エルサレムの住民が「バビロンの娘」という表現で呼び掛けられている。当時のエルサレムの住民は、かつてバビロンに連行されて住み着いた人々の子孫であった。

イザヤ62章5節はシオンの救いに関する文脈で神と神の民との関係を花婿と花嫁の関係にたとえエレミヤ33章11節はエルサレムの復興を「花婿と花嫁の声が聞こえるようになる」と預言したが、ならば、黙示録18章23節が「花婿と花嫁の声は聞かれない」と啓示した都も、やはり同じ都のはずである。

主イエスはルカ12章15節で、どのような種類の貪欲に対しても十分に目を光らせ、心を奪われてはならないと警告された。同16章13節「あなたたちは、神と富のどちらか一方にしか仕えることができない」マタイ13章22節「茨の間に落ちた種とは、御言葉を聞いても世の思い煩いや富の誘惑が〜」。

(注)別エントリー「試論:『あらゆる貪欲に対して』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18049

主はマタイ13章45節以下で、「天の国」を全財産と引き換えにしてでも手に入れるべき真珠にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「天の国」は「永遠の命」と同義だが、「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

試論:二心と目の関係を140文字以内で

主イエスはマタイ6章22節で体のともし火は目と教えられ、人間の内面の有り様は目つき・まなざしに反映されるため、各人は目に注意するようにと教えられた。二心(ふたごころ)がない状態なら目は澄んでいるが、善意を装いつつ心に悪意を秘めるなら、顔は笑っていても目は笑ってはいない状態となる。

(注)別エントリー「試論:『目』と『ともし火』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8003

(注)別エントリー「試論:ルカ18章8節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19470

【追記】

詩編12編は裏表(嘘偽り)のある人々ばかりの風潮を「信仰のある人はいなくなった」と嘆く。古代のヘブライ人にとって「二心(ふたごころ)」は信仰とは相容れなかった。「あなたの信仰があなたを救った」や「からし種の一粒ほどの信仰」の「信仰」とは《疑う余地のない確信》《完全な信頼》を指す。

(注)別エントリー「『からし種一粒ほどの信仰』???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19278

試論:「不正な管理人」のたとえを140文字以内で

主イエスがルカ16章で言及された不正な管理人は、自分の将来を案じてではあれ、周囲の人々に恩恵を施すことを思い立つ。罪人でも自分を愛する人を愛する(ルカ6章32節)し、悪人が悪事に利用しようと立場の弱い人を懐柔し使い捨てることもあリ得るが、しかし不正な管理人の動機に悪意はなかった。

(注)別エントリー「試論:『人の行いに応じた報い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5743

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

【追記】

主イエスはルカ16章の「不正な管理人」のたとえで、私欲のためでなく隣人のために富を費やすならば救いが訪れると仰せになり、後に徴税人ザアカイがその実例となった。19章8節「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。誰かから何かをだまし取っていたならそれを四倍にして返します」。

(注)別エントリー「試論:『憐れみ深い人々は幸い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19644

ルカ19章8節でザアカイは主に「わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また何かを誰かからだまし取っていたなら四倍にして返します」と約束した。マタイ5章7節の「憐れみ深い人は幸いである。その人は憐れみを受ける」という御言葉の通り、主は「今日この家に救いが訪れた」と宣言なさった。

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346

マタイ7章12節「他人からしてもらいたいことを、あなたから他人にしなさい。これこそ律法と預言者」同5章22節「腹を立ててはならない」同7節「憐れみ深い人は幸い。その人は天の御父の憐れみを受ける」同6章14節「あなたが他人の過ちを赦すならば、天の御父もあなたの過ちをお赦しになる」。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

試論:「悔い改める人を喜ぶ天」を140文字以内で

ルカ18章7節「天は、悔い改める必要のない九十九人の義人よりも悔い改める一人の罪人のことを、大いに喜ぶ」マタイ9章13節「義人を招くためではなく罪人を招くために、わたしは〔この世に〕来た」同22章14節「〔天の国に〕招かれる人は多いが、〔神によって実際に〕選ばれる人は、少ない」。

(注)別エントリー「試論:『選ばれる瞬間』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8020

【追記】

主はマタイ7章26節で「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は、砂の上に家を建てる人に似ている」と教えられた。22章14節「招かれる者は多いが選ばれる者は少ない」とは、《わたしの教えを耳にしたことのある者は多いが、それを真摯に受け止めて日々実践している者は少ない》という意味である。

(注)別エントリー「試論:『招かれる』『選ばれる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8012

試論:「預言や奇跡と信仰」を140文字以内で

主イエスはマタイ7章21節以下で、信仰の目的とは、預言でも「悪霊を追い出すこと」でも奇跡でもなくただ「不法(悪)を行わないこと」であり、御自分が人々を評価するのは唯一そこであると断言された。預言や悪霊を追い出すことや奇跡にばかり目を奪われ過ぎるとイエス・キリストがわからなくなる。

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

(注)別エントリー「試論:『地上に火を投ずる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7803

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

試論:「自分の十字架」と問題点を140文字以内で

主イエスの弟子として信仰生活を送っている人は、過去から現在に至る自分の問題点と主の仰せとを照らし合わせた時「自分は何と愚かなことをしたのだろう」と良心の痛みに苛まれることがあるが、この痛みは主の御旨に接近している証拠でもある。真の信仰がない人は、この痛みに苛まれることが全くない。

(注)別エントリー「試論:『ダビデ王の十字架』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11707

【追記】

主イエスはルカ14章27節で「自分の十字架を背負って従う者でなければ誰であれわたしの弟子ではありえない」と仰せになり、信仰生活を送る上で自分の問題点となる事柄を「自分の十字架」と表現された。「塔を建てる」「敵を迎え撃つ」とは今現在の自分の問題点を直視し把握することのたとえである。

(注)別エントリー「『自分を捨て、自分の十字架を背負って』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18140

(注)別エントリー「試論:『腰を据える』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12480

(注)別エントリー「試論:腰を据える(=専念する)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18738

試論:ローマ13章10節「愛」を140文字以内で

ローマ13章10節は「愛は隣人に悪を行わない」と記す。これに従えば「愛の反対」とは「隣人に悪を行うこと」である。マタイ7章21節以下「わたしを『主よ、主よ』と呼ぶ者が皆、天の国に入るわけではない」「不法を働く者どもよ、わたしから離れ去れ。わたしはお前たちのことなど全く知らない」。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

(注)別エントリー「試論:ローマ13章『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16049

【追記】

ローマ13章10節でパウロは「愛とは隣人に対して悪事を行わないことです」と断言している。これを踏まえるなら、隣人に対して悪事を行おうと企むことこそが愛の反対に該当する行為ということになる。同9節は「姦淫するな、殺すな、盗むな、貪るな(他人の物の横取りを企むな)」等を列挙している。

(注)別エントリー「試論:ローマ13章『愛』の反対を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11428

試論:ルカ14章26節「憎む」を140文字以内で

主はルカ14章26節で「もしもだれかがわたしのもとに来るとしても、父母、妻、子供、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であっても、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」と仰せになったが、マタイ10章37節との比較から明らかな通り、この「憎む」は「二の次にする」の意味合いである。

(注)別エントリー「試論:『自分の命を憎む人』??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9419

【追記】

ヨハネ12章25節は「この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命を得る」と主の仰せを記す。古代のヘブライ人は「〜を二の次にする」と言いたい時にも、「〜を憎む」という表現を用いた。主の養父ヨセフはヘロデが幼子の命を狙った時も、自分の命を二の次にして幼子と幼子の母を守り続けた。

(注)別エントリー「試論:最後の審判とディカイオスを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6704

主イエスはマルコ10章29節以下で、御自分や福音のために諸々のものを「捨てる」者の報いを教えられた。ギリシア語原文の動詞はマタイ4章の四人の漁師の召命の記述と同じであり(20節「〔網を〕捨てて」22節「〔舟と父親とを〕残して」)、主や福音のために「二の次にする」の意味合いである。

(注)別エントリー「試論:金持ちが救われる方法を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14683

試論:現代人と旧約聖書の預言書を140文字以内で

【問】ルカ21章22節の主の仰せ通り、紀元七〇年の滅亡で旧約聖書の全預言が既に成就したのなら、現代人が旧約聖書の預言書を読む意義は何ですか?
【答】主イエス・キリスト及びその仰せの理解にはそれが不可欠だからで、エレミヤ5章14節を知らないとルカ12章49節の「火」は理解困難です。

(注)別エントリー「主イエスが地上にもたらされた『火』とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19511

(注)別エントリー「試論:主イエスの『火』と『剣』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19516

【追記】

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4783

一ヨハネ4章の通り偽預言者や偽教師は、主イエスが実際に仰せになった福音書の御言葉には絶対に触れようとせず、代わりに「世」すなわち俗世間や国際情勢の話で置き換える。主イエス御自身が、預言とは御自分についてあかしするものだと仰せにもかかわらず、国際情勢や「終末預言」に話をすり替える。

主イエスはヨハネ5章39節で「あなた方は〔旧約〕聖書中に永遠の命が存在すると考え〔旧約〕聖書を研究するが〔旧約〕聖書はわたしに関してあかししている」と仰せになり、御自分と無関係の目的で〔旧約〕聖書を研究したとしても本当に重要な真理には全く到達することができないと、お教えになった。

(注)別エントリー「聖書にはクリスマスの日付が載っていますか???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13267

二ペトロ2章は「偽教師」への警戒を呼びかけ、「彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にする」(3節)「昼間から享楽に耽るのを楽しみにする」(13節)「強欲」(14節)等と表現した。一般の信者が真面目に働く時間帯に美食を貪り、旅行・観光・娯楽施設と遊興三昧なのが偽教師である。

ヨハネ5章39節で主が仰せの通り、旧約聖書全体を等しく重視するよりも主イエスとその福音に関連の強い事柄を優先して学ばねばならない。例えば「正義(=「神の義」)を衣としてまとう」(詩編132編9節)という旧約聖書の慣用句を知らなければ、マタイ22章の「礼服」のたとえは理解が難しい。

(注)別エントリー「試論:『神の義』と詩編を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6798

ルカ24章のエマオでの御出現において主は、旧約聖書とは御自分について証しするものであり、実際その詳細について《全体》の説明を始めると、何時間あっても語り尽くせないことをお示しになった(27節)。主は以前にもユダヤの人々に対して同じ事柄をお話しになられていた(ヨハネ5章39節等)。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ5章46節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7208

旧約聖書の預言は第一義的に主イエス・キリストの到来及びその前後までの歴史的出来事をあかしするためのものであり、キリスト到来から約二千年後に生きる現代人が国際情勢を読み解くためのものではなく、国際情勢分析など本来の意義とは無関係の完全な逸脱行為であり、真理には絶対にたどり着けない。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

マルコ12章における律法学者との対話において主は、旧約聖書の中の多くの掟について、重要性における順序があることを再確認された。またヨハネ5章39節で、旧約聖書とは御自分について証しするものだと主は御説明され、旧約聖書を調べる目的は御自分へと到達するためであるべきだと仰せになった。

(注)別エントリー「試論:キリスト教と旧約聖書を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6527

主はヨハネ5章39節で、聖書とは御自分についてあかしするものであり、御自分を目的としない聖書研究には意味がない旨を仰せになった。これに関連し一ヨハネ4章も、主イエスに関する事柄についてなるべく触れようとしない自称信者を「偽預言者」「反キリストの霊」「人を惑わす霊」などと表現する。

(注)別エントリー「試論:『預言を封印するメシア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8347

(注)別エントリー「試論:『真の預言者すらいない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8425

(注)別エントリー「試論:『預言と私的啓示の違い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8360

二ペトロ2章は「偽教師」への警戒を呼びかけ、「彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にする」(3節)「昼間から享楽に耽るのを楽しみにする」(13節)「強欲」(14節)等と表現する。一般の信者が真面目に働いている時間帯に、連日のように臆面もなく美食を貪る者こそが偽教師である。

(注)別エントリー「試論:偽預言者と貪欲を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7125

(注)別エントリー「試論:『終末預言?ありません』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13853

(注)別エントリー「試論:有人気球と『空中』の拡大を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10270

二ペトロ2章は「偽教師」への警戒を呼びかける。彼らは「滅びをもたらす異端を持ち込み、主を拒む」(1節)、「欲が深く虚言で人々を食い物にする」(3節)、「厚かましく、わがまま」(10節)「昼間から歓楽にふけるのを愉しみとする」(13節)「無意味な大言壮語」(18節)等の特徴を持つ。

試論:「大宴会」とエステル1章を140文字以内で

古代のペルシア王は自分の莫大な富と権力を誇示するため都に住む民を皆、身分の上下を問わず宴に招いた(エステル1章)。それをルカ14章の「大宴会」の喩えは踏まえるが、御言葉を聞いても人生の思い煩いや富の誘惑に覆い塞がれる人(同13章14節)は王妃ワシュティのように相手にされなくなる。

【追記】

バビロン捕囚からの解放後、ユダヤ人は引き続きペルシアの統治下に組み込まれたが、エステル1章にある通り、ペルシア王は自分の莫大な富と権力を誇示するため都に住む民を皆、身分の上下を問わず宴に招いた(6節)。マタイ22章の「婚宴」とは、神が民を天の国に招かれて喜びを共にすることである。

(注)別エントリー「『婚宴帰りの主人』=『御復活の主』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18271

マタイ22章は神の御前に立つためには「礼服」が不可欠と教える。詩編132編は9節で「正義を衣としてまとう」16節で「救いを衣としてまとう」と表現して「救い」すなわち神と共にある条件を、「正義」すなわち「神の義」(マタイ6章33節)とし、その具体例をコロサイ3章12節以下が教える。

(注)別エントリー「試論:『神の義』と詩編を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6798

マタイ22章の「礼服」に関連して、ローマ13章14節で「主イエス・キリストを着る」ことをパウロは勧め、コロサイ3章10節でも「主の姿に倣う新しい人を着る」ことを勧める。「倣う=着る」べきものとして憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容そして愛を「着る」ことをコロサイ3章は勧めている。

(注)別エントリー「試論:マタイ22章『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6740

試論:「神に対して貸しを作る」を140文字以内で

主イエスはルカ14章13節以下で「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。その人たちはあなたにお返しができないから、替わりに神からの報いをあなたは受けることになり幸いだ」と仰せになった。箴言19章17節「弱い立場の人に配慮する人は神に貸しを作る人」。

(注)別エントリー「試論:箴言19章17節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8522

【追記】

ダビデの故事(サムエル下5章8節)によりエルサレム神殿では目や足の不自由な人々の立ち入りが制限されていた。それに対して主は、あえて神殿に目や足の不自由な人々を招き入れて奇跡的な治癒を行われ(マタイ21章14節以下)それをもって「祈りの家」(同13節)のあるべき姿をお示しになった。

(注)別エントリー「試論:『昔の人の言い伝え』実例を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19462

「贖(あがな)い」と「救い主の母」

詩編49編8(7)節は神に対し人間が贖(あがな)いの業を行うことはできないと説く。それができるのは「人〔となられた神〕の子」だけであり、そのために主イエスは来られた(マタイ20章28節)。神は劣化できないため、神のままで人間の全てを担う必要があり、そのためにマリアが不可欠だった。

(注)別エントリー「試論:『神には劣化がない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8697

【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。

詩編49(48)編8(7)節は、神に対して人間が贖いの業を行うことはできないと記す。とはいえ神の御独り子が自ら人間となられて自分の「からだ」を「身代金」として贖いの業を行われた時の「からだ」は、マリアから受けたものだった。マリアは極めて特別な形でイエスの贖いの業に「参加」をした。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7795

(注)別エントリー「試論:『履物を脱ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8620

古代のヘブライ人は「肉」という言葉で、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけでなく、魂も含めた人間としての全体)」を表した。ヨハネ1章14節をこの観点で理解すれば、ニケア・コンスタンチノープル信条「おとめマリアよりからだを受け」の「からだ」は、人間としての全てを意味している。

マルコ福音書は主の御降誕には触れないものの、6章3節で主イエスには母親がいたことを記し、10章45節では主の到来の目的の一つが「多くの人の身代金として自分の命を献(ささ)げる」つまり贖(あがな)いのためと記す。パウロもガラテヤ4章で母親の存在(4節)と贖い(5節)とに触れている。

(注)別エントリー「『《マリアの子》なら私生児』説は誤り」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1478

ヨハネ19章は、ゴルゴタの主の十字架の傍らに聖母がおられたと記すが、聖母の内面がどのようであったかについては全く記述がない。しかしルカ2章35節はシメオンの預言として、「多くの人の心にある思い(34節の「逆らい」)があらわになるため、あなた自身も剣で心を刺しつらぬかれる」と記す。

(注)別エントリー「試論:『剣』と『言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7807

ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。

主の御受難を預言したイザヤ53章7節では、出エジプトの代価となった「小羊」(出エジプト記12章3節等)を想起させる一方で、「屠(ほふ)り場に引かれる」と表現してイサクの犠牲の身代わりとなった羊(創世記22章13節)をも想起させ、主の御受難が人々の身代わりであることを再認識させる。

ヨハネ1章で洗礼者は主イエスを「神の小羊」(29節、36節)と呼んで周囲に注意喚起したが、ペトロは第一の手紙1章19節で「きずや汚(けが)れのない小羊のようなキリスト」と呼び2章22節ではさらに「罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」とイザヤ53章9節を引用し説明する。

エレミヤ11章19節「わたしは、飼い馴らされた小羊が屠(ほふ)り場に引かれて行くように、何も知らなかった。彼らはわたしに対して、悪巧みをしていた」ヨハネ5章39節「聖書はわたしについて、あかしをするものだ」ルカ24章44節「わたしについて預言者の書にある事柄は必ず全て実現する」。

(注)別エントリー「試論:主イエスと旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7462

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4783

出エジプト記12章では、イスラエルの人々がファラオの支配から解放される代価となった小羊の存在に言及する。ヨハネ1章29節では、十字架において世の人々が罪の支配から解放される代価となるはずの主イエス・キリストの存在について、洗礼者ヨハネが「神の小羊」と呼んで、注意を喚起したと記す。

(注)別エントリー「試論:世の罪を取り除く神の小羊を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6140

詩編49編8(7)節は神に対し人間は贖いの業を行うことができないと記す。マタイ20章28節で主イエスは、「人の子(人となった神の独り子)」が世に来た目的とは、御自身が担っている「人間としての全て」を「身代金(詩編49編8節と同表現)」として贖いの業を行うためであると、宣言された。

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7479

黙示録7章16節はイザヤ49章10節を踏襲することで洗礼者が言及した(ヨハネ1章)

「〔神の〕小羊」

とイザヤ書の

「主の僕(しもべ)」

が同一人物であると再確認させ、

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために来た」
(マタイ20章28節、マルコ10章45節)

という事柄をも再確認させる。

ヨハネ1章29節「世の罪を取り除く神の小羊」の「取り除く」に当たるギリシア語は、一ヨハネ3章5節にも登場し、その前後では隣人愛の実践を奨励するが、同じ表現をエフェソ4章31節も用い、主に応えて信者が取り除くべき事柄を「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりを全ての悪意と共に」とする。

(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3277

エフェソ4章の後半では「神にかたどって造られた新しい人」として生きるためとして「怒ることはあっても罪を犯してはならない」「日が暮れるまで怒ったままではいけない」「悪い言葉を一切口にしない」「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどの全てを、一切の悪意とともに捨てる」等を勧めている。

ヨハネ1章14節は「神の御言葉(=主イエス)は肉(=人)となられ、わたしたちの間に宿られた(=住まわれた)」と記す。マタイ20章28節では主御自身が「仕えられるためではなく仕えるため」「多くの人の身代金(=あがない)として自分の命を献(ささ)げるために来た」と仰せになられている。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

主はヨハネ12章27節で「今わたしは心騒ぐ」と仰せになり御自分の内面は穏やかでないと告白された。多くの侮辱を伴う凄惨なリンチの末に、十字架を背負わされ、「御自分の民」から罵声を浴びながら体力を消耗し尽くし、ぼろ布のような状態で大きな苦しみの内に息絶える日がそこまで来たからである。

主はヨハネ12章23節で「人の子が栄光を受ける時が来た」と仰せになった。御受難(十字架上の死)によって多くの人々に永遠の命をもたらし(24節〜25節)「死を永久に滅ぼす」(31節、イザヤ25章8節、一コリント15章54節、ヘブライ2章14節以下、コロサイ1章20節等)ためである。

ヨハネ8章34節「罪を犯す者は、罪の奴隷」12章31節「今、この世の支配者が追放される」ヘブライ2章14節〜15節「御自分に委ねられた者たちが人間である以上イエスも同じく人間としての全てを担われたが、死を司る悪魔を御自分の死によって滅ぼし悪魔の罪と死の支配から人々を解放された」。

主はヨハネ12章24節で「一粒の麦もし死なずば」の一節の前に、ギリシア語本文では二度「アーメン」と口にされた。通常この箇所は「まことにまことに」「よくよく」「はっきり」等と訳されるが、主はこうなさることで、そこが御教えの核心部分だと示された(31節及びコロサイ1章20節等参照)。

主はヨハネ8章32節で「真理はあなたたちを自由にする(解放する)」と仰せになった。パウロはヨハネと同じギリシア語を用いて何からの解放か、その答えをローマ6章と同8章で説明した。「罪から解放」(6章18節、22節)、8章2節「罪と死の法則から解放」同21節「滅びへの隷属から解放」。

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

ルカ2章21節でマリアの産んだ幼子はイエスと名付けられたが、その理由をマタイ1章21節では「その子は自分の民を罪から救うから」とヨセフの夢に現れた天使が語る。エレミヤ14章8節は救い主キリストの寄留者や旅人のような日々を預言し、ルカ9章58節は「人の子には枕する所もない」と記す。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888

ルカ2章11節は「あなたたちのために救い主がお生まれになった」マタイ1章21節は「この子は自分の民を罪から救う」と記す。イザヤ35節4節以下は「敵(サタン)を撃ち悪を罰する神が来られ、あなたたちを救われる」と預言し、目や耳や足や言葉の不自由な人々の回復が神の到来の徴になると続く。

マタイ1章でヨセフの夢に現れた主の天使は「マリアが産む子は民を罪から救う」と教えた。同じ事柄をペトロは使徒言行録3章26節で、「神は御自分の僕(しもべ、同13節参照)を立てられ遣わしてくださった。それは一人一人を悪から離れさせ、祝福(マタイ25章34節)に与らせるため」と説いた。

(注)別エントリー「試論:祝福された人と最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13187

マタイ1章21節は「自分の民を罪から救う」ルカ1章77節は「罪の赦しによる救い」と記し、主御自身もマタイ6章13節で「悪い者から救って下さい」と《主の祈り》を教えられ、ガラテヤ1章4節は「この悪の世からわたしたちを救い出そうとして御自身をわたしたちの罪のために献げられた」と記す。

(注)別エントリー「主の御降誕:救い主は何から人々を救うのだろうか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4445

主イエスは黙示録22章13節で「わたしはアルファでありオメガ」「最初の者であり最後の者」「初めであり終わり」と自称された。これはイザヤ44章6節に対応し、同節は「わたしをおいて神はない」と続く。ヘブライ2章10節以下は「万物の源であり目標」「救いの創始者」「一つの源」と主を呼ぶ。

主はヨハネ14章27節で「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と仰せになった。ではどうやって主は御自分の平和をお与えになったのか、パウロがコロサイ1章20節で「その十字架の血によって」と答えを記した。

試論:「永遠の命」「神を知る」を140文字以内で

ヨハネ17章3節「永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなた(御父)とあなたが遣わされたイエス・キリストを知ること」一ヨハネ2章4節「神を知っていると言いつつ神の掟を行わぬ人は偽り者で彼にまことはない」マタイ7章12節「他の人からしてもらいことをあなたから他の人に全てしなさい」。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

(注)別エントリー「試論:真理(まこと)の反対は?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12668

【追記】

ホセア6章6節は「わたしが求めるのは、憐れみであって『いけにえ』ではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」と記すが、これと関連して一ヨハネ2章3節は「知る」という表現の意味を《神の掟を守るという実体験を通して自分は神を知っているのだと自覚する》ことであると説明する。

(注)別エントリー「試論:『いけにえ』と憐れみを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8356

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

主イエスはヨハネ6章40節で「わたしの御父の御心は、御子(=主イエス御自身)を見て信じる者が皆『永遠の命』(マタイ25章46節)を得ることである」と仰せになった。「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

エゼキエル18章「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は仰せになる。彼が悪から立ち帰って生きることを喜ばないだろうか。お前たちが犯した全ての背きを投げ捨てて新しい心と霊を造り出せ。どうしてお前たちは死んでよいだろうか。お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」。

試論:「永遠の命」どうすれば?を140文字以内で

主イエスはヨハネ6章40節で「わたしの御父の御心は、御子(=主イエス御自身)を見て信じる者が皆『永遠の命』(マタイ25章46節)を得ることである」と仰せになった。「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

【追記】

主イエスはルカ13章3節で「あなたたちも悔い改めなければ皆、滅びる」と説かれた。ルカ3章で洗礼者は、悔い改めに必要な事柄を簡潔ながら具体的な指示として与えた。主イエスの御指示は「あなたが他の人からしてもらいたいことは全てあなたから他の人にしなさい」で、これの実行が悔い改めである。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

主イエスや洗礼者は「悔い改め」を説いた。悔い改めと聞くと現代人は、何か仰々しいイメージを抱きがちだが、ルカ3章で実際に洗礼者が皆に指示した事柄は簡潔かつ具体的なものであった。目の前にいる相手を悲しむ顔・困った顔・苦しむ顔にさせるような行為と悪意とを捨て去るように、それらは勧めた。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

ルカ13章23節は主イエスに救われる者は少ないかを尋ねた人がいたと記す。主は直接の回答をされなかったが、のちに最後の晩餐の夜、ヨハネ14章2節で「わたしの父の家には住む所がたくさんある」と仰せになった。それが答えである。合格者の定員は存在しない。従って、問題は合否の基準と言える。

(注)別エントリー「試論:『合格者数と合否の基準』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8201

(注)別エントリー「試論:『誰の死も喜ばれない神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18444

ルカ13章23節は救われる者は少ないかという主への質問を記す。主は27節で不義を行う人々は神に拒まれると答えられ、救われるか否かはあくまでも一人一人が主のおぼしめしに沿うか否かであり、救われる者の多い少ないよりそれ以前にまず神の義(マタイ6章33節)を求めて生きるよう勧められた。

(注)別エントリー「試論:『救われる者は少ないか』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8111

主はルカ13章23節で救われる者は少ないかと問われ、27節で不義を行う人々が神に拒まれると答えられた。確かに「合格者数」や「合格率」がどうしても気になってしまうのは仕方ないが、だからといって、合格と不合格を分ける判断の基準に目が行かなくては本末転倒で、基準は聖書に明記されている。

(注)別エントリー「試論:『神のものを神に返す』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18573

一ペトロ2章1節は「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口」を捨てるよう要請し、エフェソ4章31節は捨てるべき事柄を「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなど全てを一切の悪意とともに」とし、コロサイ3章8節も同様に「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉」を捨てることを要請する。

(注)別エントリー「試論:『捨てる』べきものは何?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9194

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

エゼキエル18章「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は仰せになる。彼が悪から立ち帰って生きることを喜ばないだろうか。お前たちが犯した全ての背きを投げ捨てて新しい心と霊を造り出せ。どうしてお前たちは死んでよいだろうか。お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」。

試論:ガラテヤ6章2節を140文字以内で

ガラテヤ6章2節は、互いの重荷を担い合うことが「キリストの律法」を全うすることだと説く。「互いの重荷を担う」とは「互いの落ち度を容赦する」でもあり、またキリストの律法は「あなたが他の人からしてもらいたいことならなんでも、あなたの方から他の人にしなさい」(マタイ7章12節)である。

(注)別エントリー「試論:憐れみ深い人が幸いの理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14898

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

試論:永遠の命と善きサマリア人を140文字以内で

主イエスはヨハネ6章40節で「御父の御心は、御子(=主イエス御自身)を見て信じる者が皆、永遠の命を得ること」だと説かれた。ルカ10章25節で一人の律法学者が「永遠の命を受け継ぐにはどうすれば〜」と質問したことから、主イエスは「善きサマリア人」の話で憐れみの心の重要性を教えられた。

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4544

【追記】

一人の律法学者は自分を「義化」(ルカ10章29節)しようとして(「義人」(マタイ1章19節)とするために)、隣人愛(ルカ10章27節)に関して、主に、踏み込んだ質問を行なった。主は、憐れみの心(33節)と「神の義」と隣人愛と永遠の命(25節)は事実上重なっているとお教えになった。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

試論:「信仰の目的と手段」を140文字以内で

主イエスはヨハネ6章40節で「御父の御心は、御子(=主イエス御自身)を見て信じる者が皆、永遠の命を得ること」、マタイ25章46節で「正しい人(義人)たちは永遠の命にあずかる」、同7章12節で「あなたが他の人からしてもらいたいことは全て、あなたから他の人にしなさい」と仰せになった。

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11494

(注)別エントリー「試論:「天国の福楽を相続する」を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13891

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

【追記】

マタイ1章19節は、主の養父ヨセフをディカイオス(義人、正しい人)と呼ぶが、25章「最後の審判」の箇所では、ディカイオス(37節、46節)は「永遠の命にあずかる」(46節)人を意味している。つまり、「神の義」を身に着けることこそが、「永遠の命にあずかる」ことを約束するものである。

(注)別エントリー「試論:『神の義』と詩編を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6798

(注)別エントリー「試論:『永遠の命を得るために』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8590

(注)別エントリー「試論:『永遠の命を得ること』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19638

(注)別エントリー「試論:バシレイア(=神の王国)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12654

主イエスの養父ヨセフはマタイ1章19節で「正しい人」と呼ばれるが、25章の「最後の審判」において「正しい人」は永遠の命が確約された人である。母マリアはルカ1章42節で「女の中で祝福された方」と呼ばれるが、マタイ25章34節では「祝福された人」は同じく永遠の命が確約された人である。

(注)別エントリー「試論:『神の母』聖書的根拠を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13155

(注)別エントリー「試論:『親しき仲にも礼儀あり』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13120

試論:「憐れみ深い人々は幸い」を140文字以内で

マタイ7章12節「他人からしてもらいたいことを、あなたから他人にしなさい。これこそ律法と預言者」同5章22節「腹を立ててはならない」同7節「憐れみ深い人は幸い。その人は天の御父の憐れみを受ける」同6章14節「あなたが他人の過ちを赦すならば、天の御父もあなたの過ちをお赦しになる」。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346

【追記】

箴言12章28節「憐れみの道にこそ命がある。この道を行く人に死はない」ルカ6章35節以下「敵に親切にし、善を行い、何も当てにせず貸しなさい。そうすれば、あなたたちはいと高き方であられる天の御父の子となり、大きな報いを受ける。あなたたちも天の御父のように憐れみ深い者になりなさい」。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『永遠の命の言葉を持つ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11244

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

マタイ6章14節〜15節「あなたがたが人を容赦するなら天の父もあなたがたを容赦されるが、あなたがたが人を容赦しないなら天の父もあなたがたを容赦されない」は同5章7節「憐れみ深い人は幸いである。その人は憐れみを受ける」などと、表現を変えながら福音書の随所に登場する、重要事項である。

マタイ5章7節「憐れみ深い人は幸いである。その人は憐れみを受ける」はヨハネ13章「わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい」同14章「わたしを愛する人はわたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、御父とわたしはその人のところに行って一緒に住む」等と同じ道理である。

(注)別エントリー「試論:『いけにえ』と憐れみを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8356

出エジプト記34章で主の栄光がモーセに現わされた際、御自分が優しさと厳しさを兼ね備えた神であると主はモーセに明らかにされた。ダビデは詩編18編21(20)節以下で、主は優しい人には優しく厳しい人には厳しいと歌った。その人が隣人に敬意を示さない限り、主はその人の信仰を認められない。

(注)別エントリー「試論:『選ばれた人は選んだ人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8034

主はマタイ22章で律法中の最も重要な掟の第一は神への愛、第二は隣人愛と仰せになった。申命記10章でモーセへの戒めの再授与の際、12節以下では神への愛が命じられ、19節では「遠くからやって来た者(寄留者、新参者、改宗者)」という表現で隣人愛(レビ19章18節、34節)が命じられた。

(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1982

マタイ22章36節以下の「律法の中で最も重要な掟はどれか」の答えと、ルカ10章25節以下の「永遠の命を得るために何をすればよいか」の答えは一致する。またマルコ12章32節は「神は唯一であり、他に神はない」という事柄をギリシア語本文でアレテイアすなわち真理と表現してこれを強調する。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

マタイ6章14節の主の御言葉「あなたが他人を容赦するなら、天の父もあなたの過ちを容赦される」を聞いた当時のヘブライ人はすぐ詩編18編21(20)節以下を連想し、また「神は高慢な者を敵とし、へりくだる人に恵みをお与えになる」(箴言3章34節、一ペトロ5章5節)も連想したはずである。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

試論:「永遠の命を得ること」?を140文字以内で

主イエスはヨハネ6章40節で「わたしの御父の御心は、御子(=主イエス御自身)を見て信じる者が皆、永遠の命を得ること」と仰せになった。「永遠の命」(マタイ25章46節)を得るために必要な具体的な行動はマタイ25章「最後の審判」の箇所に列記され、その原則とは《キリストの律法》である。

(注)別エントリー「試論:『永遠の命を得るために』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8590

(注)別エントリー「試論:「天国の福楽を相続する」を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13891

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11494

(注)別エントリー「試論:バシレイア(=神の王国)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12654

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

【追記】

【問】エレミヤ31章33節で預言され、ヘブライ8章10節でも引用された、「わたしの律法」とは何ですか?【答】「キリストの律法」(一コリン十9章21節、ガラテヤ6章2節)とパウロが呼ぶ掟のことで、主イエスがマタイ7章12節で「これこそ律法であり、預言者〔の教え〕」と呼ばれた掟です。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

ヘブライ10章16節はエレミヤ31章33節の預言を引用し、神なる主が御自分の律法を人々の内面に書き記すことを再確認する。主イエスはマタイ7章12節で「他人からしてもらいたいことを自分の方から他人にしなさい。これこそ律法と預言者」と仰せになり、パウロはこれをキリストの律法と呼んだ。

主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちが他人からしてもらいたいと思うことは全て、あなたたちから他人にしなさい」と《愛の掟》を教えられて、「これこそ律法と預言者」と宣言された。これをパウロも「キリストの律法」(一コリント9章21節、ガラテヤ6章2節)と呼びモーセの律法と対比した。

主イエスはマタイ7章12節で、「自分が他人からしてもらいたいことを、あなたたちから他人にしなさい。これこそ律法であり、預言者の教え」と御教えを要約された。エレミヤ31章33節は「わたしの律法を、彼らの心に記す」と預言する。キリストの律法は、モーセの律法に比べると、単純だが奥深い。

マタイ5章17節「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するため」同7章12節「人からしてもらいたいと思うことは何でも、あなたたちから人にしなさい。これこそが律法と預言者」ローマ13章9節「他にどんな掟があろうとも、隣人を自分のように愛することに要約されます」。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1982

試論:「心の貧しい人」??を140文字以内で

【問】ダビデは自身の詩編で自分を「貧しい」と表現しますが、ダビデは古代イスラエルでも屈指の裕福な王ではありませんか?【答】その人の貧富とは関係なく、古代のヘブライ人は、主の救いを切実に求める人の心情を「貧しい」と表現しました。マタイ5章3節の「心の貧しい人」も同様の意味合いです。

【追記】

ダビデの詩編では神からの救いを切望する人の内面を「貧しい」と表現するが、特に詩編34編では7(6)節のように「救い」と「(内面の)貧しさ」が表裏一体として述べられている。たとえイスラエルの王であろうとも全能の神なる主の御前では無一物に等しいという自覚が、この表現の背景に存在する。

ダビデは自分の詩編で、神の救いを切望する自分の内面を「貧しい」と表現したが、《イスラエルの王だとしても、神の御前では自分は無一物に等しい》という自覚の故だった。「神の箱」の帰還に喜び踊りミカルから「からっぽ」呼ばわりされても、ダビデは自分が「からっぽ」であることを否定しなかった。

(注)別エントリー「ルカ福音書の聖母とサムエル記下の神の櫃」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1544

生涯の大半、ダビデ王は貧困とは無縁に見えたが、詩編で神の救いを切望(40編14節、70編2節)する際、自身の内面を「貧しい」と表現した(40編18節、70編6節)。ダビデの詩編を踏まえればマタイ5章3節に登場する「心の貧しい人」とは実際には、神の救いを切望している人のことである。

マタイ5章3節の日本語は概ね、「心の貧しい人」と訳されるが、「心の」と訳されたギリシア語本文の表現はマルコ2章6節では「心の中で」となる。マタイ5章3節を「心の中で貧しい人」と捉えるならそれはダビデの詩編の中で自分の内面を「貧しい」と表現して神の救いを切望している人のことである。

試論:近未来の世界と義人ヨセフを140文字以内で

いつか遠くない近未来の世界で、人類は善悪の判断すら人工知能に依存するようになり、「自分が他の人からしてもらいたいことならなんでも、あなたから他の人にしなさい」と聞かされても全く理解不能になり、成人男性が妻や子供を平然と虐待する時代が来た時、ヨセフの存在に人々は希望を見出すだろう。

(注)別エントリー「試論:聖ヨセフの模範を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7243

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

【追記】

カトリックではナザレの聖家族は三人と教える。主の養父ヨセフは終生、息子と妻の望むことだけを行い、三人家族の三番目であるかのように振舞い後世の人々からもそう思われた。世の男性たちが子供たちや女性たちを平然と虐待する、毒々しい時代が来る時、ヨセフの存在は強力な解毒剤として働くだろう。

(注)別エントリー「聖ヨセフ:ディカイオスを旧約聖書で考察」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1613

マタイ1章19節は主の養父ヨセフを「正しい人(ディカイオス)」と表現する。25章の「最後の審判」におけるディカイオスは、隣人が何らかの助けを必要としている時に、必要とされている助けを提供して困り事を解決する人を指し、ヨセフはイエスとマリアが本当に必要としていることだけを実行した。

(注)別エントリー「予備的考察:聖母崇敬そして聖ヨセフ崇敬の起源とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1750

マタイ1章19節は主の養父ヨセフを義人と呼び、エゼキエル18章6節では義人の条件の一つに生理中の女性に近づかないと挙げる。女性特有の心身の辛さに配慮し、女性に余分な負担を加えぬよう自分を律することができる男性こそ義人である。女性を蔑まずリスペクトの対象にできる男性こそ義人である。

(注)別エントリー「試論:マリアとヨセフに倣う事柄を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7012

マタイ福音書は後世への教訓に、最初の二つの章で主の養父ヨセフを模範として掲載した。ヨセフは忍耐強く、情け深く、自慢せず、高ぶらず、礼を失わず、自分の利益を求めず、恨みを抱かず、苛立たず、不義を喜ばず、真理を喜んだ。イエスとマリアのために、全てのことを忍び、確信し、待望し、耐えた。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

試論:「わたしの律法」??を140文字以内で

【問】エレミヤ31章33節で預言され、ヘブライ8章10節でも引用された、「わたしの律法」とは何ですか?【答】「キリストの律法」(一コリン十9章21節、ガラテヤ6章2節)とパウロが呼ぶ掟のことで、主イエスがマタイ7章12節で「これこそ律法であり、預言者〔の教え〕」と呼ばれた掟です。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

【追記】

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

ヘブライ10章16節はエレミヤ31章33節の預言を引用し、神なる主が御自分の律法を人々の内面に書き記すことを再確認する。主イエスはマタイ7章12節で「他人からしてもらいたいことを自分の方から他人にしなさい。これこそ律法と預言者」と仰せになり、パウロはこれをキリストの律法と呼んだ。

主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちが他人からしてもらいたいと思うことは全て、あなたたちから他人にしなさい」と《愛の掟》を教えられて、「これこそ律法と預言者」と宣言された。これをパウロも「キリストの律法」(一コリント9章21節、ガラテヤ6章2節)と呼びモーセの律法と対比した。

主イエスはマタイ7章12節で、「自分が他人からしてもらいたいことを、あなたたちから他人にしなさい。これこそ律法であり、預言者の教え」と御教えを要約された。エレミヤ31章33節は「わたしの律法を、彼らの心に記す」と預言する。キリストの律法は、モーセの律法に比べると、単純だが奥深い。

マタイ5章17節「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するため」同7章12節「人からしてもらいたいと思うことは何でも、あなたたちから人にしなさい。これこそが律法と預言者」ローマ13章9節「他にどんな掟があろうとも、隣人を自分のように愛することに要約されます」。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1982

試論:「神と人に愛された」を140文字以内で

ルカ2章52節は少年時代の主イエスについて「神と人に愛された」と表現する。箴言3章4節には類似の表現「神と人の目に好意や共感を得る」があるが、そうなるための条件として、直前の3節は「慈しみとまこと」すなわち《思いやりの心と裏表(嘘偽り)のない心》を身に着けることが不可欠だと説く。

(注)別エントリー「試論:まこと(真、実、信、誠)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16274

【追記】

主イエスはヨハネ14章6節で「真理」を自称されたが、プロテスタントの「改訳 新約聖書』(1917年)は「まこと」と平仮名を振り、旧約聖書で「まこと」と訳される語との関連を示唆する。嘘偽りや裏表がないこと、上っ面だけでなく内実を伴うこと、真心には真心で返されること等を意味している。

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書の『信じる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16417

富を追求して滅亡した「都」

主イエスはルカ13章35節で「あなたたちの家は見捨てられる」と仰せになった。「家」とは、同2章49節「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前」と同じくエルサレムの神殿を意味しており、紀元七〇年の滅亡後、エルサレムの神殿が変わり果てた姿となり、荒廃したまま放置されると、予告された。

(注)別エントリー「試論:『天使たちが神殿を去る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6363

(注)別エントリー「試論:『大バビロン』エルサレムを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19595

黙示録は17章から18章で「都」の滅亡を啓示し、1章1節と3節、また22章10節は、啓示が切迫していると記す。ヨハネが存命だった紀元一世紀後半において、聖書世界で滅亡した「都」とは、紀元七〇年に滅亡したエルサレムが真っ先に挙げられる。エルサレムは当時、神殿の莫大な富で名高かった。

(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1699

黙示録18章7節「わたしはやもめではなく女王であり、決して悲しい目に遭わない」ルカ19章41節以下「イエスは都のために泣いて仰せになった、『もし今、お前が平和への道をわきまえていたならば。しかし今のお前は、それを理解していない。時が来て、敵がお前を包囲して四方から攻め寄せ〜』」。

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

古代のイスラエルでは「神」と「神の民」との関係がしばしば「花婿」と「花嫁」と表現された。しばしば「女王」にもたとえられる都が「花婿」キリストを歓呼と共に迎え入れながら、数日後に裏切り、夜中に急襲して捕らえ一日のうちに死に至らしめたその行状から、「大淫婦」と呼ばれるのは当然である。

(注)別エントリー「試論:黙示録17章『十本の角』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9155

古代のイスラエルは、神と神の民との関係をしばしば花婿と花嫁の関係にたとえた。洗礼者ヨハネは、イエスを「花婿」と呼んで自身は「花婿の介添人」と称した。主イエスを歓呼の裡に迎え入れながら数日で死に至らしめた都を、黙示録が「大淫婦」と呼んだ理由は、イエスこそ花婿に他ならないからである。

ヨハネの黙示録17章5節には「淫婦の母、地上のあらゆる憎むべきものの母である大バビロン」と書かれているが、ゼカリヤ書2章11節では、エルサレムの住民が「バビロンの娘」という表現で呼び掛けられている。当時のエルサレムの住民は、かつてバビロンに連行されて住み着いた人々の子孫であった。

イザヤ62章5節はシオンの救いに関する文脈で神と神の民との関係を花婿と花嫁の関係にたとえエレミヤ33章11節はエルサレムの復興を「花婿と花嫁の声が聞こえるようになる」と預言したが、ならば、黙示録18章23節が「花婿と花嫁の声は聞かれない」と啓示した都も、やはり同じ都のはずである。

イザヤ62章5節は「神と神の民」の関係を「花婿と花嫁」の関係にたとえたが、ヨハネ3章29節で洗礼者が「花婿の介添人」を自称する場合、「花婿」が主イエス・キリストであるのは、いうまでもない。洗礼者は、「花婿」と「花嫁」を引き合わせるまでが自分の役割と心得て、30節の言葉を口にした。

古代のイスラエルでは、婚礼の時に上質の酒を提供するのは花婿の責任と考えられていた(ヨハネ2章9節以下)。一方、当時は「神」と「神の民」の関係を《花婿》と《花嫁》の関係にたとえていた(イザヤ62章5節)。カナでのぶどう酒の奇跡で、主は御自分こそが真の《花婿》であるとほのめかされた。

黙示録17章10節は、都にとっての五人の王が既に倒れ、その当時の王は六人目だと記す。エルサレムに君臨していたヘロデ王家の五人目の王であるアグリッパ二世がユダヤを去った後、事実上の王としてギスカラのヨハネが都で暴虐の限りを尽くしていたのは紀元六八年から六九年にかけての時期であった。

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

申命記22章5節は男性の女装を禁じた。この掟を古代ユダヤの歴史家ヨセフスは、社会秩序崩壊を防ぐ掟とみなした。主の御受難から三十数年後、独裁者(ギスカラのヨハネ)の下でエルサレムを恐怖支配していた武装勢力の集団は、白昼堂々女装しながら、市民に対し虐殺や略奪や婦女暴行等を繰り拡げた。

(注)別エントリー「『世も末』の徴を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6940

(注)別エントリー「『荒廃をもたらす憎むべきもの』とは何か【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/24206

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

主はルカ21章20節以下において、エルサレムが敵に包囲された際は都に籠城してはならず都を離れるようにと予告されていた。三十数年後ヘブライ13章13節は「宿営(陣営)」という言葉で都を示し、そこを離れるよう促した。黙示録18章4節も都を「彼女」と呼び、残っていた人々に退去を促した。

(注)別エントリー「『ヘブライ人への手紙』が書かれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/2286

主の御降誕から第二神殿の滅亡までエルサレムに七人の「王」が君臨した。ヘロデ大王、アルケラオス、アンティパス、アグリッパ一世、アグリッパ二世がヘロデ王家の人で、ヘロデ王家のユダヤ退去後の独裁者ギスカラのヨハネが六人目に該当し、ローマ帝国に処刑されたシモン・バルギオラが七人目である。

(注)別エントリー「試論:黙示録18章を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5394

(注)別エントリー「試論:黙示録16章を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5086

〔注〕別エントリー「七つの山々の都エルサレム」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/854

主はルカ21章20節以下で(紀元七〇年の)エルサレム滅亡及びその前後にユダヤを襲う「大いなる艱難」(23節)を予告された。また「異邦人の庭」(黙示録11章2節)を持つエルサレム神殿がまだ存在する時期に黙示録の内容を啓示され、エルサレム滅亡後も教会は存続すると希望をお与えになった。

使徒言行録でパウロの尋問に同席したヘロデ・アグリッパ二世は主の御降誕から第二神殿滅亡までの間にエルサレムで君臨した七人の王の一人で、ローマへの反乱に与せず神殿滅亡後ユダヤで返り咲いたが神殿が既に存在せず、その監督権を行使できぬ以上、有名無実の存在で、彼の死でヘロデ王家は断絶した。

(注)別エントリー「試論:黙示録17章『十本の角』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9155

(注)別エントリー「試論:『実現の日』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9074

黙示録はヘロデ・アグリッパ二世をユダヤに返り咲いたとしても「第八の王」とは呼ばない。神殿の監督権を行使する人物こそ「王」の資格があると、当時のユダヤ人は認識していたが、神殿と都とが跡形もなく消滅してしまった後では、ヘロデ・アグリッパ二世は有名無実の存在で、「王」とは見なされない。

黙示録はヘロデ・アグリッパ二世をユダヤに返り咲いたとしても「第八の王」とは呼ばない。いかなる事情であれローマと一緒になって自分の国を滅ぼし、都と神殿を廃墟にしておきながら勝利者の顔をして戻って来た人物に、生き残ったユダヤの人々の心をつかめるはずなどなく、有名無実の王だからである。

紀元七〇年のエルサレム滅亡時にローマ軍へ投降したユダヤ人のうち、使徒言行録22章のパウロのようにローマの市民権を持つ者はローマ法の保護下にあるため留め置かれたが、そうでない者は妻子と共に奴隷とされて売り飛ばされた。こうして「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」は現実となった。

ルカ17章34節から35節で主は「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」と繰り返されたが、では一体どこに「連れて行かれ」るのかを、ルカ21章24節では「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と御説明された。これは大昔モーセがレビ記26章33節以下で預言していた話と同じである。

ヘロデ・アグリッパ二世の妹ベルニケ(使徒言行録25章13節)は年下のローマ軍最高司令官で副帝(次期皇帝)ティトゥスの愛人になっていた。ベルニケがローマの皇后になれば誰も兄妹に頭が上がらなくなるが、クレオパトラの再来を恐れたローマ人はティトゥスに愛人と別れるよう進言し、そうなった。

もしも仮にベルニケがローマの皇后になり、夫の皇帝ティトゥスにエルサレム神殿の再建の許可を願い出たならば、皇帝がそれを認めたかも知れずベルニケと兄がユダヤの人心を取り戻せた可能性も皆無ではなかった。だが歴史はそうは動かずローマ人はベルニケをティトゥスから遠ざけヘロデ王家は断絶した。

「天地が消え去る」の「天」とは、神がお住まいになる場所と見なされたエルサレム神殿とりわけその聖所を指し、二ペトロ3章はその滅亡が近いことを説く。「地」はエゼキエル7章2節同様、イスラエルの地を指す。紀元七〇年にエルサレムと神殿は滅亡しユダヤ(イスラエル人の国家)も同じく消滅した。

二ペトロ3章10節は「主の日」において「天は激しい音を立てながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に熔解し尽くす」と予告した。数年後の紀元七〇年、神が住まわれると見なされて、「天」と同一視されていたエルサレムの神殿は、都の滅亡の際ローマ帝国軍によって火を放たれ、大音響と共に焼け滅びた。

ルカ21章32節で主は「全てのことが起こるまではこの時代は決して滅びない」と仰せになったが、「時代」に当たる原文の単語ゲネアは古代のギリシア語詩編94(95)編10節の「世代」にも用いられ、詩編のこの節ではゲネアを四十年とする。実際この主の仰せからおおよそ四十年後に都は滅亡した。

(注)別エントリー「試論:『今の時代』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5596

(注)別エントリー「試論:『人心荒廃は滅亡の前兆』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6291

プロテスタントの文語訳聖書『改訳 新約聖書』(1917年)はルカ21章23節を「地(ち)には大(おほひ)なる艱難(なやみ)ありて、御怒(みいかり)この民(たみ)に臨(のぞ)み」と訳し、ある人々がいわゆる「大艱難時代」と呼ぶ時期とは実は紀元七〇年の滅亡の前後に他ならないと示唆する。

(注)別エントリー「試論:携挙がない理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4703

(注)別エントリー「試論:主イエスと旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7462

主はルカ21章23節でエルサレム滅亡とその前後のユダヤの苦難を予告されたが、『改訳 新約聖書』(1917年)では「大なる艱難」と日本語訳する。一世紀後半のユダヤの歴史家ヨセフスの記述通り、紀元六六年の大反乱の勃発から七三年のマサダ陥落までの七年間に、ユダヤは惨劇の連続を経験した。

(注)別エントリー「試論:『イエスとヨセフス』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11668

ルカ21章22節において、主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると明言されており、それは紀元七〇年に現実のこととなった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代や近未来の世界情勢に関して旧約聖書の預言から考える行為は無意味である。

(注)別エントリー「試論:聖書研究の目的を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8447

ルカ21章22節には「書かれていること」という言い回しが用いられているが、これはヨシュア記1章8節と同様に、「預言された事柄」「神から啓示された内容」などを意味する表現である。古代においては「書く(書いて記録に残しておく)」という行為それ自体が、非常に重要な意味を持つものだった。

主イエスはヨハネ5章39節で「あなた方は〔旧約〕聖書中に永遠の命が存在すると考え〔旧約〕聖書を研究するが〔旧約〕聖書はわたしに関してあかししている」と仰せになり、御自分と無関係の目的で〔旧約〕聖書を研究したとしても本当に重要な真理には全く到達することができないと、お教えになった。

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

旧約聖書の預言は第一義的に主イエス・キリストの到来及びその前後までの歴史的出来事をあかしするためのものであり、キリスト到来から約二千年後に生きる現代人が国際情勢を読み解くためのものではなく、国際情勢分析など本来の意義とは無関係の完全な逸脱行為であり、真理には絶対にたどり着けない。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

(注)別エントリー「試論:エゼキエル戦争を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4921

(注)別エントリー「予備的考察:いわゆる『エゼキエル戦争』【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15520

古代のヘブライ人は詩編78編69節の通り、エルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。これを踏まえれば主イエスのマルコ13章31節の仰せ「やがて天地は滅びるであろうが、わたしの言葉は決して滅びない」の意味は、「エルサレムと神殿の滅亡後も、わたしの教えと信仰は生き続ける」である。

(注)別エントリー「試論:『主の日』エルサレム滅亡を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12476

主はマタイ5章18節で、全てのことが実現して天地が消え失せるまではモーセの律法も消え失せないと仰せになり、ルカ21章22節ではエルサレム滅亡で預言が全て実現すると予告され、紀元七〇年にそれは成就した。詩編78編69節の通りヘブライ人はエルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。

ルカ19章で、主はエルサレムのために泣かれた。確かに主の予告の通り、約四十年後に都は滅亡した。だが同じ都は数日後に主御自身を殺す都でもあった。それでも主は、ヨナ書で神がニネベを惜しまれた以上に、エルサレムのために泣かれた。エルサレムが決して自分の非を認めようとはしないためである。

(注)別エントリー「試論:『滅びを避けるには』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5749

(注)別エントリー「試論:エゼキエル18章を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5726

試論:「安息日の掟か人助けか」を140文字以内で

ルカ6章で、麦畑から穂を摘んで直に麦を口にするほど主の弟子たちは空腹だった。ファリサイ派の人々に対して主はサムエル上21章を引用された。パンではなく直に麦を口にするほどの空腹をしのぐことは、井戸に落ちた息子をすぐに引き上げる(ルカ14章5節)ことと同じく、安息日の掟にも優先する。

(注)別エントリー「安息日と空腹」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17859

【追記】

マルコ7章の通りファリサイ派の人々は、神が授けられたモーセの律法の多数の掟に加えて、「昔の人の言い伝え」と呼ばれる人間由来の多数の掟を皆に課した。背負い切れない重荷と化した掟の数々に、人々は自分の落ち度を指摘されるよりはとばかりに皆で互いの粗探しを始めたが、そこに隣人愛はあるか?

(注)別エントリー「試論:『背負い切れない数の掟』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19409

ヨハネ5章の通り、敵たちは安息日の掟を持ち出して主イエスを攻撃するのが常だった。安息日の掟は確かに十戒にも含まれるものの、マルコ12章28節以下の律法学者との問答で再確認された通り古代のイスラエルで最も重要な掟の第一は神への愛の掟、第二は隣人愛の掟であり安息日の掟より優先される。

(注)別エントリー「試論:『しるし』と敵意を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15357

主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちは、自分が他の人からしてほしいことを、自分から他の人にしなさい」と《愛の掟》を教えられた。従って「愛の反対」は「他の人からしてほしくないことをあえて他の人に行うこと」そして「他の人からしてほしいことをあえて他の人には行わないこと」からなる。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

試論:「家は見捨てられる」を140文字以内で

主イエスはルカ13章35節で「あなたたちの家は見捨てられる」と仰せになった。「家」とは、同2章49節「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前」と同じくエルサレムの神殿を意味しており、紀元七〇年の滅亡後、エルサレムの神殿が変わり果てた姿となり、荒廃したまま放置されると、予告された。

(注)別エントリー「試論:『天使たちが神殿を去る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6363

(注)別エントリー「試論:『大バビロン』エルサレムを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19595

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

【追記】

二ペトロ3章10節は「主の日」において「天は激しい音を立てながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に熔解し尽くす」と予告した。数年後の紀元七〇年、神が住まわれると見なされて、「天」と同一視されていたエルサレムの神殿は、都の滅亡の際ローマ帝国軍によって火を放たれ、大音響と共に焼け滅びた。

(注)別エントリー「試論:『たとえ天地が滅びても』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12142

主イエスはルカ19章41節以下で心を入れ替えようとしない都の人々を嘆いて泣かれた。神は、全ての人を救われて真理(=主イエス御自身。ヨハネ14章6節)を知るようになることを望んでおられる(一テモテ2章4節)にもかかわらず、神殿を拠点とする宗教指導者たちの思いは正反対だからであった。

(注)別エントリー「試論:エゼキエル18章を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5726

ルカ19章で、主はエルサレムのために泣かれた。確かに主の予告の通り、約四十年後に都は滅亡した。だが同じ都は数日後に主御自身を殺す都でもあった。それでも主は、ヨナ書で神がニネベを惜しまれた以上に、エルサレムのために泣かれた。エルサレムが決して自分の非を認めようとはしないためである。

(注)別エントリー「試論:『滅びを避けるには』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5749

試論:「大バビロン」エルサレムを140文字以内で

黙示録18章24節は「預言者たちと聖なる者たちの血、地上で殺された全ての者たちの血が彼女〔の責任〕において流された」と啓示する。他方ルカ13章33節で主イエスは「エルサレム以外の地で預言者が死ぬことはない」と説かれた。従って黙示録18章の「大バビロン」はエルサレム以外ありえない。

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

【追記】

古代のヘブライ人にとって「地上」の「地」とは、エゼキエル7章1節にある通り「イスラエルの地」を指す。同節は「終わりが来る。地の四隅に終わりが来る」と啓示するが「地の四隅」という表現で、〔古代の〕イスラエルの全体を指しており、バビロン捕囚へと続く民族の破局的事態が、預言されている。

古代のイスラエルでは「神」と「神の民」との関係がしばしば「花婿」と「花嫁」と表現された。しばしば「女王」にもたとえられる都が「花婿」キリストを歓呼と共に迎え入れながら、数日後に裏切り、夜中に急襲して捕らえ一日のうちに死に至らしめたその行状から、「大淫婦」と呼ばれるのは当然である。

(注)別エントリー「試論:黙示録17章『十本の角』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9155

(注)別エントリー「試論:黙示録17章『第八の者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9038

古代のイスラエルは、神と神の民との関係をしばしば花婿と花嫁の関係にたとえた。洗礼者ヨハネは、イエスを「花婿」と呼んで自身は「花婿の介添人」と称した。主イエスを歓呼の裡に迎え入れながら数日で死に至らしめた都を、黙示録が「大淫婦」と呼んだ理由は、イエスこそ花婿に他ならないからである。

(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1699

イザヤ62章5節はシオンの救いに関する文脈で神と神の民との関係を花婿と花嫁の関係にたとえエレミヤ33章11節はエルサレムの復興を「花婿と花嫁の声が聞こえるようになる」と預言したが、ならば、黙示録18章23節が「花婿と花嫁の声は聞かれない」と啓示した都も、やはり同じ都のはずである。

試論:「救い主の愛は母性的?」を140文字以内で

主イエスはルカ13章34節やマタイ23章37節で「めん鳥が雛を羽の下に集めるようにわたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」と仰せになった。またヨハネ13章では最後の晩餐の夜に弟子たちの足を洗われて、厳格な父というよりも母性的な神としての救い主である、と御自分を世に示された。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

(注)別エントリー「試論:新しい掟とキリストの模範を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17092

【追記】

旧約の民にとって神なる主は「わたしたちの父」(イザヤ63章16節)だが、救い主(8節)がお生まれになり(9章5(6)節)、民の「永遠の父」である方は「みどりご」として来られた。養父とはいえ人間が「父」となるなどヨセフにとって太陽が西から昇るどころではなかったが彼は責務を全うした。

(注)別エントリー「試論:『神の養父』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13347

試論:「狭い戸口とは主御自身」を140文字以内で

ルカ13章23節「救われる者は少ないのですか」同24節「狭い戸口から入るよう努めなさい」イザヤ64章4節「主よ、あなたは、あなたの道に従って、あなたを心に留め神の義を喜んで行う人々を、迎え入れてくださいます」ヨハネ14章6節「わたしは道である」ルカ11章9節「門をたたきなさい」。

(注)別エントリー「試論:救われる者は少ないか??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18576

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9949

(注)別エントリー「試論:『イエスは全人類の模範』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5948

(注)別エントリー「試論:『神の義』『狭い門』何?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17358

【追記】

【問】主イエスは狭い戸口または門から入るように勧められましたが、どうすべきですか?【答】狭い門とは、イザヤ26章2節や詩編118編19節にある「神の義の門」のことで、信者が実際にすべきことは「あなたが他の人からしてもらいたいことならなんでも、あなたの方から他の人にしなさい」です。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

イザヤ書の最後の二つの章では「呼んでも答えず、語りかけても聞かず、わたしの目に悪とされることを行い、わたしの喜ばないことを選んだ」という表現を反復し(65章12節、66章4節)神は彼らを選ばれないが(マタイ22章14節)、主はそれをマタイ7章13節では滅びに通じる門と表現された。

(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8105

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

主イエスは「種を蒔く人」の喩えで「茨の中に落ちた種は、茨が伸びて覆いふさいだので実を結ばなかった」(マルコ4章7節)と仰せになったが、同18節以下で「御言葉を聞くには聞くが、世の思い煩いや富の誘惑その他の欲望も心に入り込み、御言葉を途中で覆いふさいで実を結ばない」と御説明された。

(注)別エントリー「試論:『何を聞いているかに〜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14017

(注)別エントリー「試論:聞くだけの人を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5294

(注)別エントリー「試論:聞いても実行しない人を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7347

(注)別エントリー「試論:『土台なしで家を建てる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8274

(注)別エントリー「試論:キリスト抜きのキリスト教を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6639

試論:ティルスやシドンとユダヤを140文字以内で

ルカ6章17節以下では主イエスの評判を聞きエルサレムやユダヤ全土からだけはなく、ティルスとシドンの海岸地方からも人々が集まったと記す。この海岸地方の人々はフェニキア人だったが、使徒言行録12章20節によればユダヤから食糧を調達しており、従ってユダヤの動向から常に目を離さなかった。

(注)別エントリー「試論:『ティルスとシドン』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19240

【追記】

主がルカ10章13節で引き合いに出された「ティルスとシドン」はフェニキア人の都市で、旧約時代にはバアル信仰で知られたが、福音書の時代までにバアルは古代ギリシアのゼウスと習合していた。この地方の人々は使徒言行録12章20節によれば、ユダヤから食糧を調達しているという接点が存在した。

(注)別エントリー「試論:『アグリッパ一世の頓死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17914

試論:ローマ8章の「肉」「霊」を140文字以内で

ローマ8章6節の直訳は「肉の思いは死、霊の思いは命と平和」。ヘブライ人は人間由来の事柄を「肉」、神に由来する事柄を「霊」と呼び、あらゆる幸福を「命」あるいは「平和」と総称した。この節は「人間由来の願望は死で終わるが、神に由来する願望は人間をあらゆる幸福へと導く」という意味である。

【追記】

古代のヘブライ人の世界観に従ってガラテヤ5章は「人間(人間それ自体)」を「肉」、「神〔に由来するもの〕」を「霊」と呼ぶ。ヨハネ3章6節も同様の対比を用い、「霊から生まれた者は霊」の意味を1章12節は「神の御言葉である主イエスは自分を受け入れる人に神の子となる資格を与えた」と記す。

ガラテヤ5章は「肉」と「霊」の対立を記すが、ヨハネ1章同様、パウロは古代のヘブライの世界観に基づき、人間そのものを「肉」と表現して「霊」つ まり「神の霊」と対比する。近代人は「肉と霊」という表現から「〔人間の〕肉体と〔人間の〕霊魂の対立」をイメージしがちだが、パウロの意図は異なる。

ガラテヤ5章16節以下では「肉と霊」が対比されるが、ここで「肉」はヨハネ1章14節同様「人間」を指し、「霊」は「聖霊」「神の霊」を意味する。ガラテヤ5章における「肉」と「霊」との対立とは、「人間に由来する諸悪」(マルコ7章20節以下参照)と「神に由来する諸徳」との対立を意味する。

古代のヘブライ人は「肉」を、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけではなく魂も含めた人間の全体。)」を表す言葉として用いていた。創世記6章12節「すべて肉なる者は堕落の道を歩んでいた」(新共同訳)。日本語訳の「肉なる者」に対応する語は、ヘブライ語本文ではただ単に「肉」である。

古代のイスラエル人にとって「肉」という表現は「人間」を指す場合があった(ヨハネ1章14節等)。マルコ7章20節以下で主イエスが「人から出て来るものこそ人を汚す」と注意を促された諸悪と、ガラテヤ5章19節以下でパウロが「肉の業」と呼んで避けるように促した諸悪が同様なのは当然である。

コヘレト12章7節では人間の肉体を「塵」と表現し死によって大地(創世記2章7節、3章19節)へ帰ると記すが、洗礼により「神の子とする霊」 (ローマ8章15節)を受けた者の「霊」は対照的に、罪に脆い肉体の重荷から解放され「霊」をくださった「与え主」神の許へ帰るべきだと定められている。

(注)別エントリー「試論:『土の家』(+復活の体)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9624

一コリント15章でパウロは「地上の体」「天上の体」という表現を用いて、《人間が地上で生活していた際の、死によって朽ちていく肉体》と《その人 の霊が神の許に帰還した後で、神によって天上で新しく与えられる、朽ちることのない体》について説明し、後者を「霊の体」(44節)等と表現している。

試論:安息日より優先すべき事柄を140文字以内で

ルカ13章の通り、敵たちは安息日の掟を持ち出して主イエスを攻撃するのが常だった。安息日の掟は確かに十戒にも含まれるものの、マルコ12章28節以下の律法学者との問答で再確認された通り古代のイスラエルで最も重要な掟の第一は神への愛の掟、第二は隣人愛の掟であり安息日の掟より優先される。

(注)別エントリー「試論:『しるし』と敵意を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15357

【追記】

ルカ6章で、麦畑から穂を摘んで直に麦を口にするほど主の弟子たちは空腹だった。ファリサイ派の人々に対して主はサムエル上21章を引用された。パンではなく直に麦を口にするほどの空腹をしのぐことは、井戸に落ちた息子をすぐに引き上げる(ルカ14章5節)ことと同じく、安息日の掟にも優先する。

(注)別エントリー「安息日と空腹」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17859

試論:ルカ18章14節を140文字以内で

主はルカ18章14節で、義とされたのはファリサイ派の人ではなく徴税人の方だと仰せになったが、徴税人はファリサイ派の人と違い、他人を裁くことや他人を罪人と決めつけることを一切せずただただ自分の非を認め神の憐れみを切望したからである。主は他人を引き合いに出しての弁明を好まれていない。

(注)別エントリー「ファリサイ派の人と徴税人」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5182

【追記】

マルコ7章の通りファリサイ派の人々は、神が授けられたモーセの律法の多数の掟に加えて、「昔の人の言い伝え」と呼ばれる人間由来の多数の掟を皆に課した。背負い切れない重荷と化した掟の数々に、人々は自分の落ち度を指摘されるよりはとばかりに皆で互いの粗探しを始めたが、そこに隣人愛はあるか?

(注)別エントリー「試論:『背負い切れない数の掟』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19409

(注)別エントリー「試論:ファリサイ派を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19428

(注)別エントリー「試論:『厳しい言葉の理由』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19441

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

生涯の大半、ダビデ王は貧困とは無縁に見えたが、詩編で神の救いを切望(40編14節、70編2節)する際、自身の内面を「貧しい」と表現した(40編18節、70編6節)。ダビデの詩編を踏まえればマタイ5章3節に登場する「心の貧しい人」とは実際には、神の救いを切望している人のことである。

(注)別エントリー「『心の貧しい人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12193

ルカ23章40節以下で主の隣の十字架につけられた盗賊は最後に神への畏れを知り、自分の今の惨めな境遇は全て自業自得だが神には罪はなく神の御心に適う願いなら聞き入れられると確信し、自分の隣にいるのは神そのものであると信じて直接それを伝えた。彼の信仰告白に主は最大の幸福を御約束された。

(注)別エントリー「『ぶどう園の労働者』実例を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18482

ヨハネ9章31節には「神は罪人の言うことなどお聞きにならないとわたしたちは承知している」という言葉が記されてはいる。罪人が良からぬ企みを実行する前に成功を神に願い求めても、神が聞き入れるわけがないが、罪人が罪人であることを止めて回心したいと神に願う時は、神は喜んで聞き入れられる。

(注)別エントリー「試論:『聞き入れられる願い事』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18477

詩編1編1節は幸いな者として「神の逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず」と歌い、「神は高慢な者を敵とされ、へりくだる者に恵みをお与えになる」(箴言3章34節、ヤコブ4章6節、一ペトロ5章5節)と同様に、高慢心は信仰と相容れないことを説く。

(注)別エントリー「試論:『恵みとへりくだり』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8781

「救い主」が世を救われる方法に関しイザヤは、「小羊」(53章7節)つまり代価として御自分をささげ、「しもべ」(42章、49章以下等)として人々に仕えると預言し、主もマルコ10章45節でそれを宣言された。救い主の母となることを承諾した女性が「主のはしため」を称するのは象徴的である。

(注)別エントリー「試論:『しもべ』と『はしため』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9785

「神は高慢な者を敵とする」と聖書は随所(箴言3章34節等)で教える。ただし高慢な人の破滅を準備するのは、実は高慢な人自身である。高慢な人は周囲を侮り、眼中にないかのように配慮もなく、高慢な人の態度を嫌った周囲の人々は高慢な人が窮地に陥っても援助や協力の手を差し延べようとはしない。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

試論:「悔い改め」どうすれば?を140文字以内で

主イエスはルカ13章3節で「あなたたちも悔い改めなければ皆、滅びる」と説かれた。ルカ3章で洗礼者は、悔い改めに必要な事柄を簡潔ながら具体的な指示として与えた。主イエスの御指示は「あなたが他の人からしてもらいたいことは全てあなたから他の人にしなさい」で、これの実行が悔い改めである。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

【追記】

主イエスや洗礼者は「悔い改め」を説いた。悔い改めと聞くと現代人は、何か仰々しいイメージを抱きがちだが、ルカ3章で実際に洗礼者が皆に指示した事柄は簡潔かつ具体的なものであった。目の前にいる相手を悲しむ顔・困った顔・苦しむ顔にさせるような行為と悪意とを捨て去るように、それらは勧めた。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

一ペトロ2章1節は「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口」を捨てるよう要請し、エフェソ4章31節は捨てるべき事柄を「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなど全てを一切の悪意とともに」とし、コロサイ3章8節も同様に「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉」を捨てることを要請する。

(注)別エントリー「試論:『捨てる』べきものは何?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9194

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

【問】ヨナ3章5節には「ニネベの人々は神を信じた」とありますが、ニネベの人々はイスラエルの神なる主に対し、いったい何を信じたのですか?【答】神は悪から離れる者全てに対して憐れみ深く優しい方であることを信じ、善からぬことをいっさい捨てて心の底から悔い改めていることを神に示しました。

ルカ13章23節は主イエスに救われる者は少ないかを尋ねた人がいたと記す。主は直接の回答をされなかったが、のちに最後の晩餐の夜、ヨハネ14章2節で「わたしの父の家には住む所がたくさんある」と仰せになった。それが答えである。合格者の定員は存在しない。従って、問題は合否の基準と言える。

(注)別エントリー「試論:『合格者数と合否の基準』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8201

(注)別エントリー「試論:『誰の死も喜ばれない神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18444

ルカ13章23節は救われる者は少ないかという主への質問を記す。主は27節で不義を行う人々は神に拒まれると答えられ、救われるか否かはあくまでも一人一人が主のおぼしめしに沿うか否かであり、救われる者の多い少ないよりそれ以前にまず神の義(マタイ6章33節)を求めて生きるよう勧められた。

(注)別エントリー「試論:『救われる者は少ないか』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8111

主はルカ13章23節で救われる者は少ないかと問われ、27節で不義を行う人々が神に拒まれると答えられた。確かに「合格者数」や「合格率」がどうしても気になってしまうのは仕方ないが、だからといって、合格と不合格を分ける判断の基準に目が行かなくては本末転倒で、基準は聖書に明記されている。

(注)別エントリー「試論:『神のものを神に返す』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18573

エゼキエル18章「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は仰せになる。彼が悪から立ち帰って生きることを喜ばないだろうか。お前たちが犯した全ての背きを投げ捨てて新しい心と霊を造り出せ。どうしてお前たちは死んでよいだろうか。お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」。

試論:「弱みに付け込むな」を140文字以内で

レビ19章18節は隣人愛の掟を説くが、同章では隣人愛に反する諸行為を禁じる。14節は耳の不自由な人の耳元で聞こえないのをいいことに悪口を言う行為と目の不自由な人の歩いて行く方向に物を置いて邪魔をする行為とを禁じ、申命記27章18節は迷っている人に対して知らん振りをするのを禁じる。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

【追記】

マタイ1章5節は、ヨシュア記に登場するエリコの遊女ラハブがルツ記に登場するボアズの母親であったと記す。ルツ記を読めば一目瞭然だが母親ラハブが息子に何を言い聞かせて育てたか、それは「相手が自分よりも弱い立場で自分の方が優位にあるように思えても、決して相手の弱みに付け込むな」である。

(注)別エントリー「試論:『放蕩息子とナオミ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18107

試論:「神の奴隷か罪の奴隷か」を140文字以内で

ローマ6章15節「わたしたちは律法の下ではなく恩寵の下にあるのだから、罪を犯してもよいということになるのでしょうか? 決してそういうことにはなりません」同16節「あなたたちは、罪に仕えて罪の奴隷となって死に至るか、神に従順であって神の奴隷として〔神の〕義に至るか、どちらかです」。

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『わたしは命である』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11586

(注)別エントリー「試論:なぜ『わたしは命』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11740

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

(注)別エントリー「試論:『神の義とディカイオス』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8685

試論:ルカ12章58節の「牢」を140文字以内で

一ヨハネ5章16節は「死に至らない罪」と「死に至る罪」があると説く。主イエスはルカ12章58節以下で「死に至らない罪」の人が行く期限付きの「牢獄」の存在を示唆された。この牢獄は主なる神が条件を満たしたと判断なさった時、そこから解放される。カトリックでは、この牢獄を「煉獄」と呼ぶ。

(注)別エントリー「試論:二種類の罪と『永遠の命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9895

【追記】

マタイ18章「仲間を赦さない家来のたとえ」には「牢役人」が登場し、5章でも人間関係がこじれて和解に至らない人が行く「牢」が登場するが、ここは「火の地獄」(22節)とは別物として扱われる。この牢は代償を払い続けることにより最終的に出ることができるが、ここをカトリックでは煉獄と呼ぶ。

(注)別エントリー「試論:黙示録の火の池を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5376

試論:「知識の鍵」を140文字以内で

主イエスはルカ11章52節で「あなたたちは人々から知識の鍵を取り上げて、自分が入ろうとしないばかりか入ろうとする人々をも妨げる」と仰せになった。この「知識の鍵」とは「神の知恵」(49節)である主イエス・キリスト御自身及びその御言葉であり、この「鍵」は《天の国の神の義の門》を開く。

(注)別エントリー「試論:『言』と『神の知恵』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17442

【追記】

福音書の時代のユダヤ教の会堂では、詩編と預言書の朗読が特に重視されていた。従って主イエスがルカ11章9節で「門をたたきなさい。そうすれは開かれる」と仰せになった時、人々は、この「門」とは《神の義の門》(詩編118編19節以下、イザヤ26章2節)のことであると、ごく自然に連想した。

(注)別エントリー「試論:『狭い戸口』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6217

主はマタイ7章で「門をたたきなさい」(7節)「狭い門から入りなさい」(13節)「命に至る門はなんと狭く、その道も細いか」(14節)と仰せになられたが、詩編118編19節以下には「正義の門よ、開け。わたしは入って主に感謝しよう。この門は主の門だ。この門から主に従う人は入る」とある。

一人の律法学者は自分を「義化」(ルカ10章29節)しようとして(「義人」(マタイ1章19節)とするために)、隣人愛(ルカ10章27節)に関して、主に、踏み込んだ質問を行なった。主は、憐れみの心(33節)と「神の義」と隣人愛と永遠の命(25節)は事実上重なっているとお教えになった。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

(注)別エントリー「試論:『神の義とディカイオス』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8685

ルカ12章49節「地上に火を投ずるためにわたしは来た」同3章16節「聖霊と火による洗礼」黙示録11章5節「口から火が出る預言者」エレミヤ5章14節「あなたの口に、わたしの言葉を授ける。それは火となり、この民を薪として焼き尽くす」同23章29節「わたしの言葉は、火に似ていないか」。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19474

マタイ3章11節で洗礼者ヨハネは、来るべき方が「聖霊と火」で洗礼をお授けになると教えたが、この節の「火」とはマラキ3章2節〜3節やゼカリヤ13章9節に預言されているもので詩編12編7節〜8節や66編10節にあるように、火が金銀を精錬するのと同じく人間を清くする主の清い仰せを指す。

マタイ3章11節で洗礼者ヨハネは、来るべき方が「聖霊と火」で洗礼をお授けになると教えたが、11節の「火」は12節の「消えることのない火(=『永遠の罰』の象徴)」とは別概念で、詩編105編19節や119編140節にあるように、火が金銀を精錬する如く人間を清くする主の清い仰せを指す。

(注)別エントリー「試論:マタイ3章の二つの『火』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5795

マタイ3章には来るべき方が「聖霊と火」で洗礼をお授けになるとあるが「火」とは「火が金属を精錬する如く人間を清くする主の清い仰せ」を指し詩編12編7節〜8節、66編10節、105編19節、119編140節、エレミヤ6章29節、ゼカリヤ13章9節、マラキ3章2節〜3節などが関連する。

主はマルコ9章49節で「すべての人は火で塩味を付けられねばならない」と仰せになったが、「火」はマタイ3章11節と同じく「火が金銀を精錬する如く人間を清くする主の仰せ」を指し、「塩味」は信仰を指す。主の仰せが人間を清くすることに関しては、ヨハネ15章3節で主御自身が御説明なさった。

(注)別エントリー「試論:『地の塩』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5586

試論:主イエスの「火」と「剣」を140文字以内で

主は「火」「剣」を人々にもたらすと仰せになったが、両者とも御言葉の比喩である。御言葉は心を燃やし(ルカ24章32節)心に刺さる(詩編55編22(21)節等参照。エフェソ6章17節)。黙示録も1章16節等で御言葉を剣に喩え11章5節では御言葉を火に喩えた(エレミヤ5章14節参照)。

(注)別エントリー「試論:『剣』と『言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7807

(注)別エントリー「主イエスが地上にもたらされた『火』とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19511

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19474

【追記】

古代のイスラエル人は《鋭く人間に迫り心に刺さる言葉〔の力〕》を「剣」にたとえた(詩編55編22(21)節等)。この比喩を踏まえ、主イエスも「剣をもたらすために来た」(マタイ10章34節)と仰せになり、ルカ2章35節でも母マリアにシメオンが、この比喩を用いて御受難について預言した。

主イエスが地上にもたらされた「火」とは

ルカ12章49節「地上に火を投ずるためにわたしは来た」同3章16節「聖霊と火による洗礼」黙示録11章5節「口から火が出る預言者」エレミヤ5章14節「あなたの口に、わたしの言葉を授ける。それは火となり、この民を薪として焼き尽くす」同23章29節「わたしの言葉は、火に似ていないか」。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19474

マタイ3章11節で洗礼者ヨハネは、来るべき方が「聖霊と火」で洗礼をお授けになると教えたが、この節の「火」とはマラキ3章2節〜3節やゼカリヤ13章9節に預言されているもので詩編12編7節〜8節や66編10節にあるように、火が金銀を精錬するのと同じく人間を清くする主の清い仰せを指す。

マタイ3章11節で洗礼者ヨハネは、来るべき方が「聖霊と火」で洗礼をお授けになると教えたが、11節の「火」は12節の「消えることのない火(=『永遠の罰』の象徴)」とは別概念で、詩編105編19節や119編140節にあるように、火が金銀を精錬する如く人間を清くする主の清い仰せを指す。

(注)別エントリー「試論:マタイ3章の二つの『火』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5795

マタイ3章には来るべき方が「聖霊と火」で洗礼をお授けになるとあるが「火」とは「火が金属を精錬する如く人間を清くする主の清い仰せ」を指し詩編12編7節〜8節、66編10節、105編19節、119編140節、エレミヤ6章29節、ゼカリヤ13章9節、マラキ3章2節〜3節などが関連する。

主はマルコ9章49節で「すべての人は火で塩味を付けられねばならない」と仰せになったが、「火」はマタイ3章11節と同じく「火が金銀を精錬する如く人間を清くする主の仰せ」を指し、「塩味」は信仰を指す。主の仰せが人間を清くすることに関しては、ヨハネ15章3節で主御自身が御説明なさった。

(注)別エントリー「試論:『地の塩』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5586

主なる神が燃える柴の火の中から御言葉をモーセに語り掛けられたという出来事は、ヘブライ人にとって忘れ難い歴史上の一大事で、洗礼者の「聖霊と火による」に対し、当時のユダヤ人は「火」が何の比喩かを直ちに理解した。しかし異邦人には全く意味不明でマルコ1章8節はこの理由から「火」を省いた。

(注)別エントリー「試論:二種類の『火』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13038

黙示録11章5節「二人に害を加えようとするものがあれば、彼らの口から火が出て、敵を滅ぼすであろう」は、エレミヤ5章14節「わたしは、あなたの口にわたしの言葉を授ける。それは火となり、この民を薪として焼き尽くす」を踏まえており、エレミヤ5章はエルサレムの背信を咎める内容の章である。

(注)別エントリー「試論:黙示録の年代を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5494

試論:「王」と呼ばれる意味を140文字以内で

黙示録20章やローマ5章は「悪に悪を返さない」ことを徹底して罪や悪と決別した人々を「バシレウオ(〔キリストとともに〕王となる)」という動詞で表すが、これはあくまで《義化の完成》を象徴する表現であり政治体制的な意味を含まず、彼らは「第二の死」を免れ「永遠の命」を得ると記されている。

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

【追記】

黙示録5章10節は、「小羊」主イエスに忠実な弟子たちが王となり地上を統治すると啓示する。その理由の一つは彼らが「最も偉い者は皆に仕える者」(マタイ23章11節)という主の仰せに忠実だからであり、一つはローマ5章12節以下の通り、サタンの罪と死による支配に打ち勝った者だからである。

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7514

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』=『主の僕』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8876

(注)別エントリー「試論:小羊の弟子が王となる条件を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17152

【問】いわゆる千年王国説はなぜ誤りなのですか?
【答】キリストの王国は新約聖書本文ではバシレイアという語で表現されますが、主イエスはルカ11章20節で御自分が地上におられる時点でバシレイアが存在し始めていると示唆され、そしてダニエル7章27節はその王国が永遠に続くと預言しています。

(注)別エントリー「『神の指』?」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19346

(注)別エントリー「試論:バシレイア(=神の王国)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12654

主イエスはヨハネ18章36節で、「わたしのバシレイアは、この世には属していない」と仰せになった。原文のギリシア語バシレイアは、聖書では「王権」「〔神の〕王国」を意味し、「王国の一人一人」まで包含する。黙示録1章6節でヨハネは、自分たちは既にその一部を構成していると書き記している。

(注)別エントリー「試論:キリストの『バシレイア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15833

(注)別エントリー「試論:新しい天・地・エルサレムを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16733

主はマタイ4章17節で「天の国は近づいた」6章10節で「御国が来ますように」さらに12章28節で「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば神の国はあなたたちのところに来ている」と教えられ、神の御心が天に行われる通り地上でも行われる状態そのものこそ神の国の到来だと説明された。

(注)別エントリー「試論:『天の国』は今どこに??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11206

マタイ福音書では「天の国は近づいた」と三度(3章2節、4章17節、10章7節)言われるが、6章10節(「主の祈り」)では「御国が来ますように」の次は「御心が行われますように」となる。だとすれば、「天の国は近づいた」の次に続く言葉は「天の父の御心が地の上で行われる時が来た」である。

聖パウロはガラテヤ5章で、聖霊に由来する賜物と聖霊とは無縁の業(すなわち人間由来の悪)について説明したが、天の国とはもとより人間由来の悪など入り込む余地のない場所である。つまりガラテヤ5章の19節〜21節にあるものは全く存在せず、22節〜23節にあるものしか存在しない場所である。

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを確実に識別できる基準」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4564

(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3277

主イエス・キリストは、御自分に向かって「主よ、主よ」(マタイ7章21節)と言う者が「天の国」に入れなくなってしまう場合の理由として、「不法を働く」(23節)「不義を行う」(ルカ13章27節)を挙げられて、「狭い門」「命に通じる門」(マタイ7章13節、14節)の意味を御説明された。

(注)別エントリー「試論:『狭い門』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5628

(注)別エントリー「試論:『主よ、主よ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5380

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『わたしは命である』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11586

(注)別エントリー「試論:なぜ『わたしは命』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11740

主はマタイ18章で、「心を入れ替えて子供のようにならなければ決して天の国に入ることはできない」(3節)また「自分を低くして子供のようになる人が天の国では一番偉い」(4節)と仰せになられ、「心を入れ替える」「自分を低くする」の二つが子供のようになるために必要な事柄であると説かれた。

(注)別エントリー「試論:『十字架が象徴するもの』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7585

(注)別エントリー「試論:キリスト教の日々の十字架を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7590

試論:「主人」「僕(しもべ)」を140文字以内で

ルカ12章43節「主の来臨の際、御言葉に従って生きて来たと認められる者たちは幸い」同17章9節以下「御自分から命じられたことを人々が実行しているとしても、それで神なる主は人々に感謝されるだろうか。あなたたちは『われわれは取るに足らぬ僕で、当然のことをしたまでです』と言いなさい」。

(注)別エントリー「『婚宴帰りの主人』誰???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19501

「婚宴帰りの主人」誰???

ルカ12章36節以下「婚宴帰りの主人が戸を叩く時、目を覚ましていて、すぐ開けようと待つ人は幸い。主人は帯を締め、この僕(しもべ)たちを食事の席に着かせ給仕してくれる」ヨハネ21章9節以下「陸に上がると、炭火が起こしてあって上に魚があり、パンもあった。『さあ来て食事をしなさい』」。

(注)別エントリー「試論:『一緒に食事をする』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16061

ヨハネ3章29節の通りヘブライ人は神を花婿に、神の民を花嫁に喩えた。従ってマタイ22章8節以下の通り、婚宴とは神が神の民の中の相応しい人々を神の国に迎え入れ喜びを共にすることである。主イエスは御受難と御復活の間に新しい天・地・エルサレムを創造され、旧約の義人たちを迎え入れられた。

(注)別エントリー「試論:『聖書が実現するため』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17226

主イエスは福音書で自身の御受難と御復活を随所で暗示されたが、御受難と御復活の間に御自分がどんな働きをなさるかについても、ヨハネ14章2節から3節で予告された。それはイザヤ65章17節以下の「新しい天・地・エルサレムの創造」預言の成就であり、御自身の復活の体の創造で完成の時を見た。

(注)別エントリー「主の御復活とともに創造された事柄とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15917

古代のイスラエルは「神」と「神の民」の関係を「花婿」「花嫁」に喩えた。主イエスは御自身の御復活つまり「復活の体」(一コリント15章)創造に際し、イザヤ65章で預言された「新しい天・地・エルサレム」を創造されて、新しい「神の民」を迎える準備を完了された(ヨハネ14章2節以下参照)。

一コリント15章6節は復活後の主の御出現が五百人以上へ同時になされたと記すが、使徒言行録1章15節は主の御昇天と聖霊降臨の間に一団となっていた人数を百二十人ほどと記す。「五百人以上」とは同じ場所にいた総数ではなく「別々の場所の各人へ同日のほぼ同時刻に」という可能性も否定できない。

(注)別エントリー「試論:聖霊降臨と聖母を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4990

(注)別エントリー「試論:聖母と聖霊降臨を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6762

箴言15章3節は「ありとあらゆる場所に主の御目は注がれ、善人をも悪人をも全てをごらんになっている」と記す。復活された主イエスは、それぞれ遠く離れたさまざまな場所にいた、五百人以上の前に、同じ日の同一時間帯、別々に御出現されることによって、御自分の神としての遍在性をお示しになった。

【問】ヨハネ17章12節は「聖書が実現するため」と記しますが、一体何が実現したのですか?【答】エゼキエル37章27節「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」イザヤ66章8節「誰がこのようなことを見聞きしただろうか。一つの国が一日で生まれ、一つの民が一度に生まれようか」。

パウロは一コリント15章で「キリストの復活」こそ福音の核心であり、キリストの御復活つまり《天上の体(復活の体、霊の体)の創造》こそが信仰における全ての希望の源であると強調した。「天上の体」こそが、キリスト御自身のみならず、キリストを信じる全ての人々にとっての、目的地だからである。

(注)別エントリー「試論:『霊の帰還』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8381

(注)別エントリー「試論:『天国の福楽を相続する』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13891

黙示録21章16節以下では新しいエルサレムの巨大性が啓示される。これは当然、ヨハネ14章2節以下「わたしの父の家には住む場所がたくさんある。もしなかったなら、あなたたちのための場所を準備しに行くとは言わない。あなたたちの場所を準備したらあなたたちの許に戻って来る」を反映している。

主イエスは御受難と御復活の間に「新しい天・地・エルサレムの創造」を準備され誕生させたが、イザヤ66章8節は「誰がこのようなことを見聞きしたであろうか。一つの国が一日で生まれ一つの民が一日で生まれることがあり得るだろうか」と預言する。「天の国は近づいた」の「天の国」とはこれだった。

古代のイスラエルでは「神」と「神の民」との関係がしばしば「花婿」と「花嫁」と表現された。しばしば「女王」にもたとえられる都が「花婿」キリストを歓呼と共に迎え入れながら、数日後に裏切り、夜中に急襲して捕らえ一日のうちに死に至らしめたその行状から、「大淫婦」と呼ばれるのは当然である。

(注)別エントリー「試論:『大淫婦』の正体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15895

黙示録18章7節「わたしはやもめではなく女王であり、決して悲しい目に遭わない」ルカ19章41節以下「イエスは都のために泣いて仰せになった、『もし今、お前が平和への道をわきまえていたならば。しかし今のお前は、それを理解していない。時が来て、敵がお前を包囲して四方から攻め寄せ〜』」。

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1699

試論:「母ラハブと息子ボアズ」を140文字以内で

マタイ1章5節は、ヨシュア記に登場するエリコの遊女ラハブがルツ記に登場するボアズの母親であったと記す。ルツ記を読めば一目瞭然だが母親ラハブが息子に何を言い聞かせて育てたか、それは「相手が自分よりも弱い立場で自分の方が優位にあるように思えても、決して相手の弱みに付け込むな」である。

【追記】

跡取りを産む前に夫に先立たれたルツは、申命記25章の規定に従って亡き夫マフロンの「兄弟」ボアズと再婚したが、このボアズはマフロンとは父も母も異なっていた。古代イスラエルにおける「兄弟」という概念が、父や母を同じくする同胞のみならず、広く親族全般を含んでいたことは、歴然としている。

(注)別エントリー「イエスの『兄弟』『姉妹』:同胞か親戚か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1451

ルツ記の主人公であるルツは、最初の夫マフロンとの間に跡取りを産む前に夫に先立たれ、のちに申命記25章の規定に従ってマフロンの「兄弟」ボアズと再婚したが、このボアズは亡夫マフロンとは父も母も異なっていた。マフロンの父はエリメレク、母はナオミで、ボアズの父はサルマ、母はラハブである。

(注)別エントリー「試論:『履物を脱ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8620

主イエスが放蕩息子のたとえを教えられた際、当時の人々の一部はルツの姑ナオミを思い浮かべたはずである。ナオミは家族と共にモアブに移住したが、夫も息子たちもモアブで亡くした。飢饉を避けるためとはいえ士師の時代にイスラエルを捨ててモアブに移住するのは、尋常ならざる行動と周囲には映った。

(注)別エントリー「試論:『放蕩息子とナオミ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18107

飢饉を避けるためとはいえ故郷イスラエルを捨てて異邦モアブの地に移住したナオミと彼女の家族の行動は、好ましからざるものとして当時のイスラエル人は受け止めたはずである。全てに希望を失い故郷に帰ったナオミへ、モアブ人の嫁ルツの信仰が大きな幸福をもたらしたところに、皆が天の配剤を感じた。

試論:「貪欲に心を奪われるな」を140文字以内で

主イエスはルカ12章15節で、どのような種類の貪欲に対しても十分に目を光らせ、心を奪われてはならないと警告された。同16章13節「あなたたちは、神と富のどちらか一方にしか仕えることができない」マタイ13章22節「茨の間に落ちた種とは、御言葉を聞いても世の思い煩いや富の誘惑が〜」。

(注)別エントリー「試論:『あらゆる貪欲に対して』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18049

【追記】

マタイ19章の主イエスと金持ちの青年との対話で、青年は「わたしにまだ何か欠けていますか」(20節)と質問した。主は問いに答えられ、残る問題点は「世の思い煩いや富の誘惑」(13章22節)が御言葉を覆い隠して実らなくすることだと指摘するために「持ち物を売り払う」という表現をなさった。

マタイ19章16節で主に金持ちの青年が永遠の命を得るにはどうすればと尋ねた時、それを彼は比較的容易な事柄と考えていたが、主は同13章44節以下特に46節で、それを手に入れるためにはあらゆる努力を尽くす必要があることを、「宝」「真珠」「持ち物を全て売り払う」等の表現で御説明された。

(注)別エントリー「試論:『招かれる』『選ばれる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8012

(注)別エントリー「試論:『御言葉によって生きる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11157

ルカ10章25節の律法学者と18章18節の議員は同じ質問をした。ただ議員には「心・精神・力・思いを尽くして」の観点が欠けていた。主は議員に、「持ち物を全て売り払う」という表現で勧告なさったが、この表現はマタイ13章44節〜45節のたとえでは《あらゆる努力を尽くす》を象徴している。

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

主はマタイ13章45節以下で、「天の国」を全財産と引き換えにしてでも手に入れるべき真珠にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「天の国」は「永遠の命」と同義だが、「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

試論:「神を畏れない裁判官」?を140文字以内で

主イエスはルカ18章で祈りの重要性を教えるために「神を畏れない裁判官」を喩えにあえて登場させた。本来モーセの律法では「裁判は神に属する」(申命記1章17節)という理由から、裁判人を「神々」(出エジプト22章8節のヘブライ語本文及び詩編82編。ヨハネ10章34節以下参照)と呼んだ。

【追記】

主イエスはヨハネ10章で「神々」という表現を使われて詩編82編に言及されたが、この詩編は裁判人(出エジプト記21章と22章のヘブライ語本文は裁判人を「神々」と表現する)を戒める内容のものである。詩編82編2節「いったいいつまであなたたちは不正な裁きを行い悪人を容認しているのか」。

主はヨハネ10章34節以下で「聖書は神の言葉を受けた人々を神々と呼んでいる」と主張された(詩編82編参照)。出エジプト記22章8節中の「神の御もとに」は、ヘブライ語本文では「神々のもとに」であり、神々とは裁判人(申命記1章16節)を指す。「裁判は神に属する」(17節)反映である。

(注)別エントリー「試論:詩編82編の『神々』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15676

試論:「人工知能と隣人愛」を140文字以内で

【問】人工知能にキリスト教の隣人愛は理解できますか?
【答】主イエスが弟子の足を洗われた夜、「あなたたちが互いを尊重し敬意を払い合うなら、皆はあなたたちがわたしの弟子だと認める」と仰せになった通り、自分自身が他人から尊重され敬意を払われた経験がなければ、尊重と敬意の理解は困難です。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

【追記】

主イエスは「自分が隣人からしてもらいたいことを自分から隣人にしなさい」を御自分の《律法》すなわち御教えの根幹とされ、弟子たちの足を洗われ隣人への敬意と尊重の重要性を教えられた。しかし御自身は次の晩が来る前に、尊重や敬意とは無縁の暴力や虐待や侮辱の末にぼろ布のようにされて殺された。

(注)別エントリー「試論:御受難と主の僕(しまべ)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9556

主なる神は随所で旧約の民に、あなたたちはエジプトでは寄留者だったのだから、今あなたたちは寄留者に親切にしなさいとお教えになった(レビ19章34節等)。同じ理由で幼子(マタイ18章等)や高齢者(レビ19章32節)も同じくリスペクトされねばならない。彼らは人間の来し方と行く末だから。

(注)別エントリー「試論:『無垢をリスペクトする』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7325

弟子たちの足を洗うという行為を通じて、主イエスは隣人に敬意を払って尊重することこそ御自分の御教えの根幹であると教えられた。自分自身が他人から尊重され敬意を払われた経験がなければ敬意と尊重は理解できない。「互いを尊重するなら、それを見て皆はあなたたちがわたしの弟子であると認める」。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1982

試論:「御言葉」を140文字以内で

キリスト教とはイエス・キリストを神である「主」と仰ぎ信じる教えであるから、当然キリスト教における「御言葉」とは、人間の世に現れた神の御独り子が天使や預言者を介してではなく御自分で直に人々にお話になった事柄、つまり福音書に収録された主イエス御自身の仰せだけが、厳密に言えば該当する。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

【追記】

主イエスはマタイ5章34節で「一切誓ってはならない」と命じられた。申命記6章13節に誓いの掟が現に存在していたものの、マルコ6章の洗礼者の殺害の箇所に見られる通り当時のユダヤでは、神の御旨とはあまりにも程遠い愚行の根拠として誓う行為が悪用され、洗礼者ですら命を失う体たらくだった。

(注)別エントリー「試論:『誓う』の前提条件とは?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18595

(注)別エントリー「試論:『誓いと愚行』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18661

主イエス・キリストはヨハネ1章において「言(ことば)」つまり「神の御言葉」と呼ばれる。《天使や預言者を介さず直に人々に語り掛けられる神》であるのと同時に、《人が御自分の御言葉を実行するか否かで、その人が本当に御自分を愛しているか否かを判断なさる神》(ヨハネ14章)だからでもある。

(注)別エントリー「試論:『選ばれた人は選んだ人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8034

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

「人を惑わす霊」は一ヨハネ4章6節に登場し、3節の「反キリストの霊」「イエスのことを公に言い表さない霊」と同じだが、4節の「偽預言者たち」を指している。「わたしたちから去って行った」「世のことを話す」「世は彼らに耳を傾ける」「キリストの教えにとどまろうとしない」などの特徴を持つ。

(注)別エントリー「試論:『人を惑わす霊』特徴を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17213

(注)別エントリー「試論:キリスト不在のキリスト教を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19421

主はヨハネ5章39節で、聖書とは御自分についてあかしするものであり、御自分を目的としない聖書研究には意味がない旨を仰せになった。これに関連し一ヨハネ4章も、主イエスに関する事柄についてなるべく触れようとしない自称信者を「偽預言者」「反キリストの霊」「人を惑わす霊」などと表現する。

(注)別エントリー「試論:『預言を封印するメシア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8347

(注)別エントリー「試論:聖書を研究する意味とは?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19381

試論:ルカ18章8節の「信仰」を140文字以内で

詩編12編は裏表(嘘偽り)のある人々ばかりの風潮を「信仰のある人はいなくなった」と嘆く。古代のヘブライ人にとって「二心(ふたごころ)」は、信仰とは相容れなかった。「人の子が来る時、はたして地上に信仰を見出すであろうか?」の「信仰」とは、《疑う余地のない確信》《完全な信頼》を指す。

(注)別エントリー「『からし種一粒ほどの信仰』???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19278

(注)別エントリー「『人の子が来るのを見るまで』???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19278

(注)別エントリー「試論:『地上に火を投ずる』??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18126

(注)別エントリー「試論:『地上の全ての民は嘆く』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12544

(注)別エントリー「試論:『地上では海が荒れ狂う』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12775

【追記】

詩編12編は裏表(嘘偽り)のある人々ばかりの風潮を「信仰のある人はいなくなった」と嘆く。古代のヘブライ人にとって「二心(ふたごころ)」は信仰とは相容れなかった。「あなたの信仰があなたを救った」や「からし種の一粒ほどの信仰」の「信仰」とは《疑う余地のない確信》《完全な信頼》を指す。

ヨハネ9章31節には「神は罪人の言うことなどお聞きにならないとわたしたちは承知している」という言葉が記されてはいる。罪人が良からぬ企みを実行する前に成功を神に願い求めても、神が聞き入れるわけがないが、罪人が罪人であることを止めて回心したいと神に願う時は、神は喜んで聞き入れられる。

(注)別エントリー「試論:『聞き入れられる願い事』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18477

キリスト教の歴史上「救われる者と救われない者とは神に予め定められている」という主張が存在したが、ならば神はなぜエゼキエル18章32節で「お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」と仰せになったのだろうか。二コリント5章14節「キリストは全ての人のために亡くなられた」。

(注)別エントリー「試論:救われる者は少ないか??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18576

ルカ23章40節以下で主の隣の十字架につけられた盗賊は最後に神への畏れを知り、自分の今の惨めな境遇は全て自業自得だが神には罪はなく神の御心に適う願いなら聞き入れられると確信し、自分の隣にいるのは神そのものであると信じて直接それを伝えた。彼の信仰告白に主は最大の幸福を御約束された。

(注)別エントリー「『ぶどう園の労働者』実例を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18482

試論:「この家に平和」を140文字以内で

古代のヘブライ人にとって「平和」はあらゆる幸福の総称であり、「あなたに平和」はヘブライ人の挨拶の決まり文句だった。ルカ10章5節「この家に平和があるように」は、より長い形の挨拶(サムエル上25章6節)である。ヘブライ人は「平和に属する者」を言い表したい時に「平和の子」と表現した。

(注)別エントリー「神の子らは人の娘たちを【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8636

【追記】

主イエスはルカ10章で、御自分の教えを受け容れることになる人々を「平和の子」とお呼びになった。イザヤ9章5(6)節ではメシアの称号の一つを「平和の君」と啓示し、またパウロはフィリピ4章9節で自分たちの神を「平和の神」と呼ぶが、ヘブライ人にとって「平和」は全ての幸福の総称でもある。

パウロは主イエスを何度も「平和の神」と呼んだ(一コリント14章33節、フィリピ4章9節、一テサロニケ5章23節等)。これはイザヤ9章5(6)節が、人間の「みどりご」として世に来られた神の御独り子を「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼んで預言したことを踏まえている。

ルカ10章6節「平和の子がそこにいるなら、あなたたちの願う平和は、その人にとどまる」と、マタイ10章13節「家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる」を比べると、「平和の子」とは、「平和〔の神の御教え〕を受け入れるにふさわしい人」だと分かる。

マタイ5章9節「平和を実現する人」の「平和」とは、福音書の時代の人々にとっては単に戦争のない(終わった)状態を意味する以外に個々の健康や幸福・繁栄、人間関係の協調・一致や発展、社会や国家の安寧、暴動や反乱のない状態、心の(霊的な)安定など、物事が好転している状況の総称でもあった。

(注)別エントリー「試論:『柔和な人は幸いである』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5976

(注)別エントリー「試論:『心の清い人は神を見る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5937

試論:「昔の人の言い伝え」実例を140文字以内で

マルコ7章の通りファリサイ派は、神が授けられたモーセの律法の掟の他に「昔の人の言い伝え」と呼ばれる人間由来の掟を人々に課したが、主イエスは反対された。「言い伝え」の中の「目や足の不自由な者は神殿に入るな」(サムエル下5章8節)に対し主は行動で反対表明された(マタイ21章14節)。

(注)別エントリー「試論:『背負い切れない数の掟』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19409

(注)別エントリー「試論:ファリサイ派のパン種??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19450

【追記】

ダビデの故事(サムエル下5章8節)によりエルサレム神殿では目や足の不自由な人々の立ち入りが制限されていた。それに対して主は、あえて神殿に目や足の不自由な人々を招き入れて奇跡的な治癒を行われ(マタイ21章14節以下)それをもって「祈りの家」(同13節)のあるべき姿をお示しになった。

(注)別エントリー「主の御降誕と古代イスラエルにおける洞穴」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4351

マタイ21章14節には主が神殿の境内で目や足の不自由な人々をいやされたとあるが、サムエル下5章8節の故事により目や足の不自由な人々は神殿に入ることを禁じられていた。神殿の人々は目や足の不自由な人々に警告を発したはずだが、主による癒しが瞬時だったためか、神殿側もなすすべがなかった。

サムエル下5章8節の故事に従い、エルサレム神殿は目や足の不自由な人々が入ることを制限していた。しかし主イエスは「人間の言い伝え」(マルコ7章)に関係なく、神殿で目や足の不自由な人々に癒しの奇跡を行われた(マタイ21章14節)。これらの人々はルカ14章21節でも同様に招かれている。

試論:ファリサイ派のパン種??を140文字以内で

マルコ7章の通りファリサイ派の人々は、神が授けられたモーセの律法の多数の掟に加えて、「昔の人の言い伝え」と呼ばれる人間由来の多数の掟を皆に課した。背負い切れない重荷と化した掟の数々に、人々は自分の落ち度を指摘されるよりはとばかりに皆で互いの粗探しを始めたが、そこに隣人愛はあるか?

(注)別エントリー「試論:『背負い切れない数の掟』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19409

(注)別エントリー「試論:『ファリサイ派』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19428

(注)別エントリー「試論:『厳しい言葉の理由』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19441

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

【追記】

主イエスはマルコ8章15節で「ファリサイ派のパン種とヘロデ派のパン種に気をつけなさい」と教えられた。同7章8節以下「あなたたちは神の掟(=モーセの律法)を後回しにして人間の言い伝えの方を固く守っている。あなたたちは自分たちの言い伝えの方を大事にして、神の掟を無い物として扱った」。

(注)別エントリー「試論:マルコ7章と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14278

(注)別エントリー「試論:『ファリサイ派のパン種』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14400

主イエスは「ファリサイ派のパン種とヘロデ派のパン種には気を付けなさい」と教えられ(マルコ8章、マタイ16章参照)、一コリント5章は「古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いてはなりません」「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませる」「あなたがたはパン種の入っていない者」等と教えている。

(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1982

ルカ11章41節「器の中にある物を施せ」の「器」とは「土の器」「陶器」の比喩と同様、人間を指す。「器の中にある物」は人間に吹き込まれた「命の息」(創世記2章7節)つまり「霊魂」を意味する。イザヤ58章10節のヘブライ語原文「霊魂を注ぐ」は、「心を配る」(新共同訳)ことを意味する。

(注)別エントリー「試論:『土の器』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6902

(注)別エントリー「『土の器』(つちのうつは)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14324

古代のイスラエル人は、「困っている人に心を配る」(イザヤ58章10節)ことを表現する際には「霊魂を注ぐ」という言い回しを用いた。従ってルカ11章41節「器(=人間)の中にある物(=霊魂)を施せ」の意味は「揚げ足取りをいい加減に止めて、隣人に心を配ることだけを心掛けなさい」である。

試論:「厳しい言葉の理由」を140文字以内で

主イエスはルカ11章とマタイ23章で、律法学者たちとファリサイ派の人々に厳しい言葉を発せられたが、その理由は「あなたたちは『もし昔の預言者たちの時代に生きていたなら、彼らを弾圧する側には回らなかった』と言いながら、なぜ預言者たちがまさに預言したこのわたしを敵視するのか」であった。

(注)別エントリー「試論:マタイ23章『先生』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18558

【追記】

主はヨハネ5章39節で、聖書とは御自分についてあかしするものであり、御自分を目的としない聖書研究には意味がない旨を仰せになった。これに関連し一ヨハネ4章も、主イエスに関する事柄についてなるべく触れようとしない自称信者を「偽預言者」「反キリストの霊」「人を惑わす霊」などと表現する。

(注)別エントリー「試論:『預言を封印するメシア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8347

(注)別エントリー「試論:聖書を研究する意味とは?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19381

ヨハネ5章39節〜40節「あなたたちは〔旧約〕聖書の中に永遠の命があると考えて、〔旧約〕聖書を研究する。しかし、〔旧約〕聖書とは、わたし(=主イエス・キリスト御自身)についての証しをするものである。それなのにあなたたちは〔永遠の〕命を得るためにわたしのところに来ることをしない」。

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の意義を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9840

(注)別エントリー「試論:旧約聖書を調べる意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6950

(注)別エントリー「試論:預言者も見たかったもの?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19262

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

(注)別エントリー「予備的考察:いわゆる『エゼキエル戦争』【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15520

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

試論:「ファリサイ派」を140文字以内で

紀元前二世紀、シリア王アンティオコス四世の圧政に対し、祭司の息子ユダ・マカバイと彼の兄弟がユダヤ独立の反乱を起こした。マカバイの死後、彼の一族ハスモン家が民族の非常事態に乗じて独裁権を手中にしたため、一部の人々はハスモン家と袂を分かって抵抗したがハスモン家の王から強く弾圧された。

(注)別エントリー「予備的考察:いわゆる『エゼキエル戦争』【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15520

(注)別エントリー「ダニエル書7章:地上に興る第四の王国」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4631

【追記】

ローマの威光を背景にヘロデは重臣の身でありながら、御家騒動を繰り返すハスモン家からユダヤの王位を奪ったが、ハスモン家から厄介者扱いされていたファリサイ派を懐柔した。結果的に各地に存在した諸会堂はファリサイ派の管轄となり、マタイ23章2節の通りファリサイ派は「モーセの座に着いた」。

(注)別エントリー「試論:マルコ7章のファリサイ派を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14260

(注)別エントリー「ファリサイ派の人と徴税人」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5182

(注)別エントリー「試論:『律法学者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11518

主イエスは「ファリサイ派のパン種とヘロデ派のパン種には気を付けなさい」と教えられ(マルコ8章、マタイ16章参照)、一コリント5章は「古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いてはなりません」「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませる」「あなたがたはパン種の入っていない者」等と教えている。

(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1982

試論:キリスト不在のキリスト教を140文字以内で

一ヨハネ4章は信用してはならない人の特徴を、キリスト教を語っているようで実は世間に通じる話題だけで、主イエスが実際に教えられた福音書の御言葉を回避していることとした。キリストを棚上げしながら福音書以外の聖書の箇所を引用する目的は、キリストの代わりに自分自身が主役になるためである。

(注)別エントリー「試論:『招かれる』『選ばれる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8012

(注)別エントリー「試論:『笛は吹かれたけれども』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8056

(注)別エントリー「試論:『神は誰を選ばれるのか』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8051

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

【追記】

主はヨハネ5章39節で、聖書とは御自分についてあかしするものであり、御自分を目的としない聖書研究には意味がない旨を仰せになった。これに関連し一ヨハネ4章も、主イエスに関する事柄についてなるべく触れようとしない自称信者を「偽預言者」「反キリストの霊」「人を惑わす霊」などと表現する。

(注)別エントリー「試論:『預言を封印するメシア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8347

(注)別エントリー「試論:聖書を研究する意味とは?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19381

ヨハネ5章39節〜40節「あなたたちは〔旧約〕聖書の中に永遠の命があると考えて、〔旧約〕聖書を研究する。しかし、〔旧約〕聖書とは、わたし(=主イエス・キリスト御自身)についての証しをするものである。それなのにあなたたちは〔永遠の〕命を得るためにわたしのところに来ることをしない」。

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の意義を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9840

(注)別エントリー「試論:旧約聖書を調べる意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6950

(注)別エントリー「試論:預言者も見たかったもの?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19262

箴言28章9節は、主が教えられた御言葉に耳を傾けないなら、いくら主に祈っても、主のおぼしめしには沿わないと教える。それだと、神を一方的に利用しようとしているだけで、全く信仰の名に値しない。主イエス・キリストが《神の御言葉》である以上、御教えを拒むことは神そのものを拒むのに等しい。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

(注)別エントリー「試論:『主イエスを見失うこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5954

(注)別エントリー「試論:『主に聞き従うこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5685

二テモテ3章でパウロは「終わりの時」の人々の姿を記した。自分本位で金銭を愛し、嘘をつき、神を畏れず嘲り、両親に従わず、恩知らずで、他人を侮り、情け容赦なく、強情で、中傷し、節度がなく、残酷で、善を行わず、裏切り、軽率かつ高慢、信仰を装いつつ実際は快楽を愛し、事実上は棄教している。

(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8105

(注)別エントリー「試論:二ペトロ2章の『偽教師』140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10808

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

(注)別エントリー「予備的考察:いわゆる『エゼキエル戦争』【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15520

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

試論:「背負い切れない数の掟」を140文字以内で

主イエスはルカ11章46節では「背負い切れない重荷を他人に負わせるが自分自身は指一本触れようともしない」マタイ11章30節では「わたしの荷は軽い」と仰せになった。ファリサイ派と律法学者とはモーセの律法に「人間の言い伝え」を上乗せしたが、主イエスはマタイ7章12節に全て要約された。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

【追記】

主イエス・キリストはマルコ7章の最初の部分でファリサイ派の最大の問題点を指摘された。それは彼らが「言い伝え」を過度に重視していることで、本来モーセの律法に対して副次的存在だった「言い伝え」がいつしか律法と同等以上にまで扱われ、しかも隣人を圧迫するための口実と化していた事実である。

(注)別エントリー「ファリサイ派の人と徴税人」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5182

神の国に入るためには「神の義」が不可欠であることを主は「礼服」という比喩で御説明された。コロサイ3章では「着る」べきものは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛と挙げる。マタイ11章で主は「わたしは柔和で謙遜な者だから」(29節)「わたしの荷は軽い」(30節)などと仰せになった。

主はマタイ11章30節で、「わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽い」と仰せになった。主が人々に求められるものとは、「神の義(正義)」と言えばどこか厳格な響きがするが、実際に「神の義」を構成するのは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛などの事柄である(コロサイ3章)。

(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6748

主イエスはルカ11章42節以下で、神から与えられた律法に人間が自分たちの掟(昔の人の言い伝え:マルコ7章3節)を付け加え続けても、最も肝心な神への愛と隣人愛から思いが遠のくだけならば何の意味もないと教えられた。聖書の「正義」つまり神の義とは隣人愛や憐れみの業と事実上、同義である。

(注)別エントリー「試論:『善きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4544

「ただ器の中にある物を施せ」

ルカ11章41節「器の中にある物を施せ」の「器」とは「土の器」「陶器」の比喩と同様、人間を指す。「器の中にある物」は人間に吹き込まれた「命の息」(創世記2章7節)つまり「霊魂」を意味する。イザヤ58章10節のヘブライ語原文「霊魂を注ぐ」は、「心を配る」(新共同訳)ことを意味する。

(注)別エントリー「試論:『土の器』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6902

(注)別エントリー「『土の器』(つちのうつは)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14324

古代のイスラエル人は、「困っている人に心を配る」(イザヤ58章10節)ことを表現する際には「霊魂を注ぐ」という言い回しを用いた。従ってルカ11章41節「器(=人間)の中にある物(=霊魂)を施せ」の意味は「揚げ足取りをいい加減に止めて、隣人に心を配ることだけを心掛けなさい」である。

箴言15章4節「赦しを与える言葉は命の木」にある通り旧約の民は、他者に幸福や安堵を与える事柄を「命」と表現し、主なる神から命の息を吹き込まれた人間は他者に幸福や安堵を与えることができる、という信念を持っていた。故に主はルカ11章41節で他者に幸福や安堵だけを与えるよう命じられた。

(注)別エントリー「試論:『主にとって赦しも癒し』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6013

(注)別エントリー「試論:詩編2編のメシアと鉄の杖を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11450

一人の律法学者は自分を「義化」(ルカ10章29節)しようとして(「義人」(マタイ1章19節)とするために)、隣人愛(ルカ10章27節)に関して、主に、踏み込んだ質問を行なった。主は、憐れみの心(33節)と「神の義」と隣人愛と永遠の命(25節)は事実上重なっているとお教えになった。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4544

主イエスの「善きサマリア人のたとえ」で、サマリア人は「傷に油とぶどう酒を注ぎ包帯をして、宿屋に連れて行って介抱した」(ルカ10章34節)。さらに、その後のことを宿屋の主人に依頼しておくのも忘れなかった。自分の手に負える範囲を超える際には他人の手を借りる方が良い場合も当然あり得る。

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちは、自分が他の人からしてほしいことを、自分から他の人にしなさい」と《愛の掟》を教えられた。従って「愛の反対」は「他の人からしてほしくないことをあえて他の人に行うこと」そして「他の人からしてほしいことをあえて他の人には行わないこと」からなる。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

ガラテヤ5章はヘブライ人特有の「肉と霊」の対比を用い、人間に由来する事柄を「肉」(創世記6章12節)、神に由来する事柄を「霊」と表現する。一ヨハネ4章16節「神は愛です」の具体的内容を、ガラテヤ5章22節以下では「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」と記した。

(注)別エントリー「試論:『肉と霊』の対比を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7740

(注)別エントリー「試論:『言は肉となって』???を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13411

ヨハネは第一の手紙の4章で「神は愛」と二度(8節、16節)記し、また自分の福音書で「神は御独り子をお与えになったほど、世を愛された」と記す。御独り子である主イエスの《愛の掟》は「他人からしてもらいたいことをあなたから他人にしなさい。これが律法と預言者」(マタイ7章12節)である。

一ヨハネ4章8節、16節「神は愛です」同5章3節「神を愛することとは神の掟を守ることですが、神の掟は、荷が重いものではありません」マタイ7章12節「あなたたちは、自分が他人からしてもらいたいことならどんなことであれ、自分の方から他人にしなさい。これこそが律法であり預言者である」。

一コリント9章21節「わたしは神の律法を持たないわけではなくキリストの律法に従っている」ヨハネ13章34節「わたしがあなたたちを愛したように互いに愛し合いなさい」マタイ7章12節「人からしてもらいたいと思うことは、何であれ、あなたから人にしなさい。これこそが律法と預言者である」。

ガラテヤ6章2節「互いに重荷を担い合いなさい。それがキリストの律法を全うすることになる」ヨハネ13章34節「わたしがあなたたちを愛したように互いに愛し合いなさい」マタイ7章12節「人からしてもらいたいと思うことは何であれ、あなたから人にしなさい。これこそが、律法と預言者である」。

マタイ7章12節「人からしてもらいたいと思うことは何でもあなたたちから人にしなさい。これこそが律法と預言者である」ガラテヤ5章14節「律法全体は、隣人愛の掟の実行によって、全うされます」ローマ13章8節「人を愛する者は律法を全うしています」同10節「愛は律法を全うするものです」。

マタイ5章17節「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するため」同7章12節「人からしてもらいたいと思うことは何でも、あなたたちから人にしなさい。これこそが律法と預言者」ローマ13章9節「他にどんな掟があろうとも、隣人を自分のように愛することに要約されます」。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1982

主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちが他人からしてもらいたいと思うことは全て、あなたたちから他人にしなさい」と《愛の掟》を教えられて、「これこそ律法と預言者」と宣言された。これをパウロも「キリストの律法」(一コリント9章21節、ガラテヤ6章2節)と呼びモーセの律法と対比した。

箴言19章17節「困窮している人に親切であることは主に貸しを作っていることに等しく、主は必ず、あなたの善行に報いて下さる」ルカ6章35節「何も当てにせずに貸し、他人に親切であるならば、主からの報いはたくさんであり、いと高き方の子となる。いと高き方は恩知らずにも悪人にも情け深い」。

(注)別エントリー「試論:箴言19章17節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8522

(注)別エントリー「試論:行いを欠く信仰を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5360

最後の晩餐の際に主は、御自分の《愛の掟》においては隣人愛の実践をもって御自分への愛の実践とみなすと宣言された(ヨハネ14章21節等)。最後の審判では各自の行いに応じて裁かれる(黙示録20章13節、マタイ25章45節)ため、神からの赦しを得るには隣人を赦す以外ない(同6章12節)。

黙示録20章12節以下には、マタイ25章31節以下と同様に、「最後の審判」に関する記述が登場するが、そこでは全ての死者たちが各自の行いに応じて裁かれることが書かれており、「行いを伴わないならば、信仰はそれだけでは死んだものです」というヤコブ2章17節の記述とは完全に一致している。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

試論:「ヨナとアッシリア」を140文字以内で

主イエスはルカ11章32節で預言者ヨナの説教がアッシリアの都ニネベの人々を悔い改めさせたと仰せになった。しかし実のところヨナ自身は神がニネベを滅ぼすことを望んでいた。アッシリアが周辺諸国に侵略の手を伸ばしていたからである。ヨナの働きのためかアッシリアの脅威は数十年間、沈静化した。

【追記】

【問】ヨナ3章5節には「ニネベの人々は神を信じた」とありますが、ニネベの人々はイスラエルの神なる主に対し、いったい何を信じたのですか?【答】神は悪から離れる者全てに対して憐れみ深く優しい方であることを信じ、善からぬことをいっさい捨てて心の底から悔い改めていることを神に示しました。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

(注)別エントリー「試論:『ガリラヤからの預言者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15449

(注)別エントリー「試論:エゼキエル18章のまとめを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14893

ヨハネ7章52節に「ガリラヤからは預言者は出ない」という敵たちの難癖がある。彼らの発言は誤りで、預言者ヨナの出身地は列王下14章25節にガト・へフェルと記される。ヨシュア19章13節ではガト・へフェルはゼブルン族の領土で、そこはイザヤ8章23節の通り福音書の時代のガリラヤである。

(注)別エントリー「主イエス・キリストがインマヌエルである理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1338

主イエスはルカ11章29節以下で、ヨナの説教に悔い改めたニネベの人々と、ソロモンの知恵を聞くためにエルサレムを訪れたシェバの女王を引き合いに出されたが、この仰せには当然「あなたたち今の時代のイスラエル人は、ニネベの人々やシェバの女王にまさるものなのか」のニュアンスも含まれている。

(注)別エントリー「試論:『ニネベの回心』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11018

試論:「洗礼者と悔い改め」を140文字以内で

主イエスや洗礼者は「悔い改め」を説いた。悔い改めと聞くと現代人は、何か仰々しいイメージを抱きがちだが、ルカ3章で実際に洗礼者が皆に指示した事柄は簡潔かつ具体的なものであった。目の前にいる相手を悲しむ顔・困った顔・苦しむ顔にさせるような行為と悪意とを捨て去るように、それらは勧めた。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

試論:聖書を研究する意味とは?を140文字以内で

ヨハネ5章39節〜40節「あなたたちは〔旧約〕聖書の中に永遠の命があると考えて、〔旧約〕聖書を研究する。しかし、〔旧約〕聖書とは、わたし(=主イエス・キリスト御自身)についての証しをするものである。それなのにあなたたちは〔永遠の〕命を得るためにわたしのところに来ることをしない」。

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の意義を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9840

(注)別エントリー「試論:旧約聖書を調べる意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6950

(注)別エントリー「試論:預言者も見たかったもの?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19262

【追記】

主はヨハネ5章39節で、聖書とは御自分についてあかしするものであり、御自分を目的としない聖書研究には意味がない旨を仰せになった。これに関連し一ヨハネ4章も、主イエスに関する事柄についてなるべく触れようとしない自称信者を「偽預言者」「反キリストの霊」「人を惑わす霊」などと表現する。

(注)別エントリー「試論:『預言を封印するメシア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8347

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

(注)別エントリー「予備的考察:いわゆる『エゼキエル戦争』【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15520

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

旧約時代においては旧約聖書の読者ばかりでなくそれぞれの書の著者たちですら、何か重大なものが自分たちには欠けており将来それを満たして下さる方が到来されるであろうと感じていた。今、キリストの信者を自認する現代人が、福音書よりも旧約聖書の方を熱心に読んでいるなら本末転倒もはなはだしい。

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4783

試論:「完全な信頼こそが信仰」を140文字以内で

詩編12編は裏表(嘘偽り)のある人々ばかりの風潮を「信仰のある人はいなくなった」と嘆く。古代のヘブライ人にとって「二心(ふたごころ)」は信仰とは相容れなかった。「あなたの信仰があなたを救った」や「からし種の一粒ほどの信仰」の「信仰」とは《疑う余地のない確信》《完全な信頼》を指す。

(注)別エントリー「『からし種一粒ほどの信仰』???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19278

【追記】

ヨハネ9章31節には「神は罪人の言うことなどお聞きにならないとわたしたちは承知している」という言葉が記されてはいる。罪人が良からぬ企みを実行する前に成功を神に願い求めても、神が聞き入れるわけがないが、罪人が罪人であることを止めて回心したいと神に願う時は、神は喜んで聞き入れられる。

(注)別エントリー「試論:『聞き入れられる願い事』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18477

キリスト教の歴史上「救われる者と救われない者とは神に予め定められている」という主張が存在したが、ならば神はなぜエゼキエル18章32節で「お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」と仰せになったのだろうか。二コリント5章14節「キリストは全ての人のために亡くなられた」。

(注)別エントリー「試論:救われる者は少ないか??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18576

ルカ23章40節以下で主の隣の十字架につけられた盗賊は最後に神への畏れを知り、自分の今の惨めな境遇は全て自業自得だが神には罪はなく神の御心に適う願いなら聞き入れられると確信し、自分の隣にいるのは神そのものであると信じて直接それを伝えた。彼の信仰告白に主は最大の幸福を御約束された。

(注)別エントリー「『ぶどう園の労働者』実例を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18482

試論:「信仰が救った」??を140文字以内で

主イエスはヨハネ14章6節で「真理」を自称されたが、プロテスタントの『改訳 新約聖書』(1917年)はそこに「まこと」と平仮名を振る。ヘブライ語の「まこと」に対応しているためであり、主なる神が裏表や嘘偽りのない心を重視される方だからである。従って信仰とは疑う余地のない確信を指す。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

【追記】

主イエスはヨハネ14章6節で「真理」を自称されたが、プロテスタントの『改訳 新約聖書』(1917年)は、そこに「まこと」と平仮名を振り旧約聖書で「まこと」と訳される語との関連を示す。真理というと哲学的で近寄り難い印象を受けるが、主に帰せられる実際の諸徳は「真、実、信、誠」である。

主イエスはヨハネ14章6節で「真理」を自称されたが、プロテスタントの『改訳 新約聖書』(1917年)は「まこと」と平仮名を振り、旧約聖書で「まこと」と訳される語との関連を示唆する。嘘偽りや裏表がないこと、上っ面だけでなく内実を伴うこと、真心には真心で返されること等を意味している。

主イエスは使徒たちに重要な事柄を伝達なさる際、アーメンを二度、口にされた。日本語訳では「まことにまことに」「よくよく」等と表現されるが、ヘブライ語ではアーメンも「まこと」も「信じる」の派生語で、ヘブライ人にとって「信じる」とは裏表(嘘偽り)のない態度で向き合うことを意味していた。

(注)別エントリー「試論:『アーメン』と『まこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16228

古代のヘブライ人は神と神の民との関係を「花婿と花嫁」に喩えた。信仰を夫婦間の愛情に喩えたわけである。夫婦間に「わたしはあなたに60%の愛情を捧げるけれど、別の人にも40%の愛情を捧げる」はあり得ない。従って聖書の中の《信仰》とは、「100%の愛情」つまり疑う余地のない確信である。

(注)別エントリー「試論:『主イエスこそ真の花婿』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7379

(注)別エントリー「神に対する確信を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5613

(注)別エントリー「試論:『わたしたちの確信』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7711

(注)別エントリー「『からし種一粒ほどの信仰』???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19278

マタイ8章で異邦人の百人隊長は、命じられたことを忠実に実行することこそ信仰の本質であるという趣旨の発言をし、主イエスを感心させた。母マリアは人々に御子イエスの言葉通りにするよう勧めたが(ヨハネ2章)、神の言葉通りにしなくとも不幸が訪れることはないと蛇はエバを欺いた(創世記3章)。

(注)別エントリー「試論:『異邦人の百人隊長』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17652

(注)別エントリー「試論:『信仰によってアベルは』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17492

(注)別エントリー「試論:『女』と『竜』の対立を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12925

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは真理である」と宣言された一方、3章21節では「真理を行う者は光の方に来る」と仰せになった。後者の「真理」は、《真理を自称される神の御独り子から、実際に教えられ、信じている事柄(内容)》を指す。ヘブライ語で「真理」は、「信じる」の派生語である。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書のアレテイアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15430

ヨハネ8章51節「わたしの言葉を守るならば、決して死ぬことがない」エゼキエル18章21節「悪人が全ての過ちから離れわたしの掟を全て守り正義と恵みの業を行うなら必ず生きて死ぬことはない」同31節以下「あなたたちは死んでもよいのか、わたしに立ち帰り生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」。

(注)別エントリー「試論:『決して死ぬことがない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15657

【問】ヨハネ8章51節「わたしの言葉を守れば決して死ぬことがない」の意味は?【答】マタイ7章12節のキリストの律法(あなたが他の人にしてもらいたいことを、あなたから他の人にしなさい)を忠実に実行するならマタイ25章の最後の審判で永遠の命にあずかり天国の福楽に達するという意味です。

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11494

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

救い主の母

ルカ11章28節のギリシア語本文を読むと主は前節の「ある女性」の発言を否定しておらず逆に強く同意している。主は「もちろんそうだがさらに(母に関して)言えば、神の言葉を聞いてそれを守る人は幸いだ」とは仰せになったが、母は神の言葉を聞かないとか守らないなどとは一言も口にされていない。

(注)別エントリー「試論:ヨセフが妻を畏敬する理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7888

御自分の母を称える女性の言葉に対し主はルカ11章で神の言葉を守る人こそ幸いと答えられた。ヨハネ14章で主は「わたしを愛する人はわたしの言葉を守る」と仰せになられたが、マリアが母として主を誰よりも愛しておられたことには疑う余地がなく、マリアが神の言葉を守らないことも当然ありえない。

(注)別エントリー「試論:主イエスへの愛を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5453

(注)別エントリー「試論:『新しい契約』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5517

【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。

(注)別エントリー「試論:聖母崇敬の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18956

《御父である神、主》と《御子である神、主イエス》とは、詩編110編1節では御父は「主」、御子は「わが主」でありマタイ22章44節も御父は「主」、御子はダビデの言う「わたしの主」である。ルカ1章43節でエリサベトは詩編110編1節を踏まえ、マリアを「わたしの主のお母さま」と呼んだ。

(注)別エントリー「マリアを『神の母』と呼ぶ聖書的根拠」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4492

(注)別エントリー「試論:『神の母であること』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6079

ルカ1章には「マリアの賛歌」があるが、内容は「神は高慢な者を敵とし、へりくだる人に恵みをお与えになる」(箴言3章34節、ヤコブ4章6節、一ペトロ5章5節)と一致する。主の周囲でへりくだりがどれほど重視されていたかを、「主のはしため」(ルカ1章38節、48節)という言葉が象徴する。

(注)別エントリー「試論:『主のはしため』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5643

ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。

ヨハネ1章14節は神の御独り子が恵みと真理に満ちて人間となられたことを記すが、ヤコブ4章6節と一ペトロ5章5節はともに「神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みをお与えになる」と強調し、ルカ1章は「わたしは主のはしため」とへりくだった女性こそが御独り子の母となったことを特筆する。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7795

(注)別エントリー「試論:『イエスとマリアの関係』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7725

ヨハネ2章5節は、まさに御子イエスの「時」が近づき自分の許からいよいよ世に御子を送り出すに当たっての、この世の人々に対する、母マリアの強い願いと最後の伝言を記す。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」。これを最後に新約聖書には、母が発した言葉は記録されてはいない。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

(注)別エントリー「試論:『救い主の母であること』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7510

試論:「汚れた霊」と「家」を140文字以内で

主イエスはルカ11章24節以下で、いくら御自分や弟子たちが人々から悪霊を追い出したとしても、その人自身が悪霊を拒む強固な意志を抱いて主なる神への信仰によって悪霊に心の隙を与えぬよう努めなければ、やがて悪霊はその人の隙に乗じて戻って来て、その人の内面を占領してしまうと仰せになった。

(注)別エントリー「試論:『体も家も自身の住まい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9924

(注)別エントリー「試論:『土の家』(+復活の体)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9624

【追記】

《体も家も自身にとっての住みか》と考え両者を重ねる概念はヨブ4章19節に見られるヘブライの世界観で、ヨハネ2章19節の主の仰せ「三日で建て直す」や二コリント5章9節と関連する。ヘブライ人は人間それ自身をも「家」にたとえた(マタイ12章やルカ11章の「汚れた霊が家に戻って来る」)。

(注)別エントリー「試論:『さらに完全な幕屋』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10231

「家と体はともに自身にとっての住まい」として両者を重ねる古代のヘブライ人の世界観を踏まえれば、主がヨハネ14章2節以下で仰せになった「あなたたちのために準備する住む場所」とは、「天から与えられる住みか」(二コリント5章1節)すなわち、「天上の体」(一コリント15章40節)を指す。

(注)別エントリー「試論:『霊の帰還』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8381

試論:いわゆる千年王国説の誤りを140文字以内で

【問】いわゆる千年王国説はなぜ誤りなのですか?
【答】キリストの王国は新約聖書本文ではバシレイアという語で表現されますが、主イエスはルカ11章20節で御自分が地上におられる時点でバシレイアが存在し始めていると示唆され、そしてダニエル7章27節はその王国が永遠に続くと預言しています。

(注)別エントリー「『神の指』?」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19346

(注)別エントリー「試論:バシレイア(=神の王国)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12654

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

【追記】

主イエスはヨハネ18章36節で、「わたしのバシレイアは、この世には属していない」と仰せになった。原文のギリシア語バシレイアは、聖書では「王権」「〔神の〕王国」を意味し、「王国の一人一人」まで包含する。黙示録1章6節でヨハネは、自分たちは既にその一部を構成していると書き記している。

(注)別エントリー「試論:キリストの『バシレイア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15833

(注)別エントリー「試論:新しい天・地・エルサレムを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16733

黙示録5章10節は、「小羊」主イエスに忠実な弟子たちが王となり地上を統治すると啓示する。その理由の一つは彼らが「最も偉い者は皆に仕える者」(マタイ23章11節)という主の仰せに忠実だからであり、一つはローマ5章12節以下の通り、サタンの罪と死による支配に打ち勝った者だからである。

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7514

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』=『主の僕』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8876

(注)別エントリー「試論:小羊の弟子が王となる条件を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17152

黙示録20章やローマ5章は「悪に悪を返さない」ことを徹底して罪や悪と決別した人々を「バシレウオ(〔キリストとともに〕王となる)」という動詞で表すが、これはあくまで《義化の完成》を象徴する表現であり政治体制的な意味を含まず、彼らは「第二の死」を免れ「永遠の命」を得ると記されている。

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

主はマタイ4章17節で「天の国は近づいた」6章10節で「御国が来ますように」さらに12章28節で「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば神の国はあなたたちのところに来ている」と教えられ、神の御心が天に行われる通り地上でも行われる状態そのものこそ神の国の到来だと説明された。

(注)別エントリー「試論:『天の国』は今どこに??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11206

マタイ福音書では「天の国は近づいた」と三度(3章2節、4章17節、10章7節)言われるが、6章10節(「主の祈り」)では「御国が来ますように」の次は「御心が行われますように」となる。だとすれば、「天の国は近づいた」の次に続く言葉は「天の父の御心が地の上で行われる時が来た」である。

聖パウロはガラテヤ5章で、聖霊に由来する賜物と聖霊とは無縁の業(すなわち人間由来の悪)について説明したが、天の国とはもとより人間由来の悪など入り込む余地のない場所である。つまりガラテヤ5章の19節〜21節にあるものは全く存在せず、22節〜23節にあるものしか存在しない場所である。

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを確実に識別できる基準」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4564

(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3277

主イエス・キリストは、御自分に向かって「主よ、主よ」(マタイ7章21節)と言う者が「天の国」に入れなくなってしまう場合の理由として、「不法を働く」(23節)「不義を行う」(ルカ13章27節)を挙げられて、「狭い門」「命に通じる門」(マタイ7章13節、14節)の意味を御説明された。

(注)別エントリー「試論:『狭い門』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5628

(注)別エントリー「試論:『主よ、主よ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5380

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『わたしは命である』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11586

(注)別エントリー「試論:なぜ『わたしは命』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11740

主はマタイ18章で、「心を入れ替えて子供のようにならなければ決して天の国に入ることはできない」(3節)また「自分を低くして子供のようになる人が天の国では一番偉い」(4節)と仰せになられ、「心を入れ替える」「自分を低くする」の二つが子供のようになるために必要な事柄であると説かれた。

(注)別エントリー「試論:『十字架が象徴するもの』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7585

(注)別エントリー「試論:キリスト教の日々の十字架を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7590

「神の指」?

主イエスは「ベルゼブル論争」の際、マタイ12章28節では神の霊すなわち聖霊によって悪霊を追い出したと仰せになったが、ルカ11章20節では「神の指によって」と表現されている。「神の指」とは神の御力や御業を表す(出エジプト8章15節、同31章18節、申命記9章10節、詩編8編4節)。

マタイ9章32節以下のいやしのエピソード以降、ファリサイ派の人々は「彼は悪霊のかしらの力で悪霊を追い出している」と主イエスを中傷し続けた。主はマタイ12章32節で、聖霊によって悪霊を追い出した事実を「ベルゼブルによって追い出した」と咎めることは絶対に許容されない、と仰せになった。

主はマルコ3章28節以下で、御自身の人間(人の子)的側面(ガリラヤ人、大工等)を云々する人々には酌量の余地がまだ残されるが、御自身の神としての権威(聖霊によって悪霊を追い出した事実)を目の当りにしながらそれになお難癖をつける人については、最早決して酌量の余地はないと警告なさった。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888

主はマタイ12章32節で、御自分のことを単に人間的な事柄で嘲る人の悪口(同11章19節「大食漢で大酒呑み、徴税人や罪人の仲間」)は許容範囲内だが、神の霊つまり聖霊によって悪霊を追い出した事実を「ベルゼブルによって悪霊を追い出した」と咎めることは絶対に許容されないと、仰せになった。

ヨハネ1章14章は「言(ことば)は肉となって」と記し《人々と直にお話しになる、御子である神》主イエス・キリストが人間となられたことを記すが、10章30節では「わたしと父は一つ」と主は仰せになり、たとえ自分は人間(「人の子」)となっても同時に神は神のままであり続けることも示された。

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』って何?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13834

(注)別エントリー「試論:『受肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7842

主はマタイ12章32節で、御自分の人間としての側面(ガリラヤ人、大工など)に関して同時代の人々からとやかく言われてもそれは看過すると仰せになったが、神としての側面に関して難癖をつける(悪霊を追い出した神の霊つまり聖霊を、ベルゼブル呼ばわりするなど)なら看過されないと仰せになった。

聖書で「神が人となる」とある場合、それは「神が人に変質(劣化)し、人である期間は神であることをやめている」を意味せず、「神は神のまま人間としての全てを担い、神でもあり人でもある存在となる」を意味する。「わたしはある」という神には、変質も劣化もない(詩編102編28(27)節等)。

(注)別エントリー「試論:『神が人となるためには』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7830

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7795

(注)別エントリー「試論:『神が人となる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7836

試論:「わたしたちも赦します」を140文字以内で

主イエスがルカ11章で教えられた祈りの文言の中に「わたしたちの罪をお赦しください。わたしたちも、自分に負い目のある人々を赦します」(4節)とあるが、その理由を主は、マタイ18章の「仲間を赦さない家来のたとえ」で御説明された。同章35節「あなたが心から兄弟を赦さないなら御父も〜」。

(注)別エントリー「試論:『仲間を容赦しない家来』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5511

【追記】

主イエスのたとえには様々な人物が登場するが、他人を引き合いに出して自己正当化したり自分のことを棚に上げて他人を攻撃したりする「他人に厳しく自分に甘い人」に対しては、神からの視線は非常に厳しい。しかし他人に責任転嫁せず正直に自分で自分の非を認める人に対しては、神からの視線は優しい。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

出エジプト記34章で主の栄光がモーセに現わされた際、御自分が優しさと厳しさを兼ね備えた神であると主はモーセに明らかにされた。ダビデは詩編18編21(20)節以下で、主は優しい人には優しく厳しい人には厳しいと歌った。その人が隣人に敬意を示さない限り、主はその人の信仰を認められない。

(注)別エントリー「試論:『選ばれた人は選んだ人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8034

ヤコブ5章9節に「自分が裁きを受けないようにするには互いに不平を言い合わないことです」とあるが、これはマタイ7章1節〜2節「他人を裁くな。自分が裁かれないようにするためである。あなたがたは自分が他人を裁く流儀で裁かれる」とは同じ事柄であり、マタイ6章14節〜15節とも同じである。

(注)別エントリー「試論:赦しの重要性を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5390

(注)別エントリー「試論:主の祈りと赦しを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5305

主イエスはマタイ18章21節以下の「仲間を赦さない家来のたとえ」で、一人一人が他人を裁くその同じ基準(了見)で、神もまた一人一人をそれぞれ裁かれることをお教えになった。これは、基本的には7章で既に仰せになった事柄であり、「あなた自身が裁かれないようにするためにも、他人を裁くな」。

(注)別エントリー「試論:自分が裁かれないためにはを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5501

(注)別エントリー「試論:『慈悲は裁きの上にある』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7694

たとえ過失を犯した人が将来を案じ利己的な動機に基づいて他人の負い目を容赦したとしても、人が他人の負い目を容赦する行為それ自体には神は賛同される(ルカ16章1節以下)が、人が他人の負い目に厳しく臨むならば、神も一度与えた容赦を撤回してその人に厳しくされる(マタイ18章21節以下)。

(注)別エントリー「試論:『主にとって赦しも癒し』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6013

エレミヤ31章33節では救い主が「御自分の律法」をモーセの律法に替えて人々に授けると預言し、続く34節では救い主は人々に赦しを与える存在と預言する。主イエス・キリストは、ルカ7章48節に見られるように人々に赦しをお与えになり、また御自分の律法(マタイ7章12節)をお授けになった。

(注)別エントリー「試論:『主によって教えられる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16434

(注)別エントリー「試論:キリスト教の基礎を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19005

(注)別エントリー「試論:『救い主と赦し』預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19009

試論:門をたたきなさい??を140文字以内で

福音書の時代のユダヤ教の会堂では、詩編と預言書の朗読が特に重視されていた。従って主イエスがルカ11章9節で「門をたたきなさい。そうすれは開かれる」と仰せになった時、人々は、この「門」とは《神の義の門》(詩編118編19節以下、イザヤ26章2節)のことであると、ごく自然に連想した。

(注)別エントリー「試論:『狭い戸口』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6217

【追記】

主はマタイ7章で「門をたたきなさい」(7節)「狭い門から入りなさい」(13節)「命に至る門はなんと狭く、その道も細いか」(14節)と仰せになられたが、詩編118編19節以下には「正義の門よ、開け。わたしは入って主に感謝しよう。この門は主の門だ。この門から主に従う人は入る」とある。

一人の律法学者は自分を「義化」(ルカ10章29節)しようとして(「義人」(マタイ1章19節)とするために)、隣人愛(ルカ10章27節)に関して、主に、踏み込んだ質問を行なった。主は、憐れみの心(33節)と「神の義」と隣人愛と永遠の命(25節)は事実上重なっているとお教えになった。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

(注)別エントリー「試論:『神の義とディカイオス』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8685

試論:「聖母に祈る行為と聖書」を140文字以内で

【問】マリアやヨセフに祈り求めることは聖書に合致しますか?
【答】ヤコブ5章16節は義人の祈りは大きな効果をもたらすと説きますが、ヨセフはマタイ1章19節で義人と呼ばれます。また最後の審判の箇所では「祝福された人」は義人と同一視されますが、聖母はルカ1章で祝福された方と呼ばれます。

(注)別エントリー「試論:最後の審判とイエスの両親を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15086

【追記】

創世記2章3節は、神が天地創造を終えられる際、第七の日を祝福し聖別されたと記す。「聖別」とは、特別のものとして尊重するよう人々に要請することを指す。ルカ1章は28節と42節の二か所で、マリアが救い主の母として祝福されていると記す。マリアを特別に扱い尊重することは、聖書に合致する。

(注)別エントリー「試論:『聖別』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18374

【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。

(注)別エントリー「試論:聖母崇敬の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18956

主の御受難を預言したイザヤ53章7節では、出エジプトの代価となった「小羊」(出エジプト記12章3節等)を想起させる一方で、「屠(ほふ)り場に引かれる」と表現してイサクの犠牲の身代わりとなった羊(創世記22章13節)をも想起させ、主の御受難が人々の身代わりであることを再認識させる。

ヨハネ1章で洗礼者は主イエスを「神の小羊」(29節、36節)と呼んで周囲に注意喚起したが、ペトロは第一の手紙1章19節で「きずや汚(けが)れのない小羊のようなキリスト」と呼び2章22節ではさらに「罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」とイザヤ53章9節を引用し説明する。

エレミヤ11章19節「わたしは、飼い馴らされた小羊が屠(ほふ)り場に引かれて行くように、何も知らなかった。彼らはわたしに対して、悪巧みをしていた」ヨハネ5章39節「聖書はわたしについて、あかしをするものだ」ルカ24章44節「わたしについて預言者の書にある事柄は必ず全て実現する」。

(注)別エントリー「試論:主イエスと旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7462

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4783

出エジプト記12章では、イスラエルの人々がファラオの支配から解放される代価となった小羊の存在に言及する。ヨハネ1章29節では、十字架において世の人々が罪の支配から解放される代価となるはずの主イエス・キリストの存在について、洗礼者ヨハネが「神の小羊」と呼んで、注意を喚起したと記す。

(注)別エントリー「試論:世の罪を取り除く神の小羊を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6140

マルコ福音書は主の御降誕には触れないものの、6章3節で主イエスには母親がいたことを記し、10章45節では主の到来の目的の一つが「多くの人の身代金として自分の命を献(ささ)げる」つまり贖(あがな)いのためと記す。パウロもガラテヤ4章で母親の存在(4節)と贖い(5節)とに触れている。

(注)別エントリー「『《マリアの子》なら私生児』説は誤り」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1478

詩編49章8(7)節は神に対し人間が贖(あがな)いの業を行うことはできないと説く。それができるのは「人〔となられた神〕の子」だけであり、そのために主イエスは来られた(マタイ20章28節)。神は劣化できないため、神のままで人間の全てを担う必要があり、そのためにマリアが不可欠だった。

(注)別エントリー「試論:『神には劣化がない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8697

ヨハネ19章は、ゴルゴタの主の十字架の傍らに聖母がおられたと記すが、聖母の内面がどのようであったかについては全く記述がない。しかしルカ2章35節はシメオンの預言として、「多くの人の心にある思い(34節の「逆らい」)があらわになるため、あなた自身も剣で心を刺しつらぬかれる」と記す。

(注)別エントリー「試論:『剣』と『言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7807

詩編49(48)編8(7)節は、神に対して人間が贖いの業を行うことはできないと記す。とはいえ神の御独り子が自ら人間となられて自分の「からだ」を「身代金」として贖いの業を行われた時の「からだ」は、マリアから受けたものだった。マリアは極めて特別な形でイエスの贖いの業に「参加」をした。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7795

(注)別エントリー「試論:『履物を脱ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8620

古代のヘブライ人は「肉」という言葉で、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけでなく、魂も含めた人間としての全体)」を表した。ヨハネ1章14節をこの観点で理解すれば、ニケア・コンスタンチノープル信条「おとめマリアよりからだを受け」の「からだ」は、人間としての全てを意味している。

ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。

ヨハネ1章14節は「神の御言葉(=主イエス)は肉(=人)となられ、わたしたちの間に宿られた(=住まわれた)」と記す。マタイ20章28節では主御自身が「仕えられるためではなく仕えるため」「多くの人の身代金(=あがない)として自分の命を献(ささ)げるために来た」と仰せになられている。

主はヨハネ14章27節で「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と仰せになった。ではどうやって主は御自分の平和をお与えになったのか、パウロがコロサイ1章20節で「その十字架の血によって」と答えを記した。

試論:マリアは良い方を選んだ?を140文字以内で

主イエスはルカ10章42節で、マルタに「マリアは良い方を選んだ」と仰せになった。その数年後、御昇天される主を見送りながら、主イエスから直に御教えを話していただく機会はもう二度と得られないことにマルタは思い至り、遅まきながら「良い方を選んだ」の真意を悟って、悔み、涙したはずである。

(注)別エントリー「『マリアほ良い方を選んだ』?」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17866

【追記】

ヨハネ1章の通り御子である主イエスは「言(ことば)」つまり御自分で御言葉をお話しになる神として、この世に来られ、「仕えられるため」ではない(マルコ10章45節)。従って主イエスに直接応対する場合に限り「仕える」を選んだマルタより「御言葉に耳を傾ける」を選んだマリアが良しとされた。

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

ルカ10章41節「あなたは多くのことに」の「多くの」に当たるギリシア語は、同福音書の他の箇所では「おびただしい」とも訳され、数や程度のはなはだしさを意味し、大所帯を切盛りできる配慮や才覚がマルタにあったことを示唆している半面、当日のもてなしが「盛り沢山」過ぎた蓋然性をも暗示する。

主イエス・キリストが「神の御言葉」(ヨハネ1章1節)であられる以上、最も喜びとされることは、御自分の仰せになる御言葉に人々が耳を傾けて聞き従うことである。それゆえ主はマルタからマリアを擁護された(ルカ10章41節以下)。ホセア6章6節「わたしが喜ぶのは神を知ることであって、〜」。

(注)別エントリー「試論:『憐れみと赦し』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7927

主イエス・キリストはヨハネ1章において「言(ことば)」つまり「神の御言葉」と呼ばれる。《天使や預言者を介さず直に人々に語り掛けられる神》であるのと同時に、《人が御自分の御言葉を実行するか否かで、その人が本当に御自分を愛しているか否かを判断なさる神》(ヨハネ14章)だからでもある。

ホセア6章6節は「わたしが求めるのは、憐れみであって『いけにえ』ではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」と記すが、これと関連して一ヨハネ2章3節は「知る」という表現の意味を《神の掟を守るという実体験を通して自分は神を知っているのだと自覚する》ことであると説明する。

(注)別エントリー「試論:『いけにえ』と憐れみを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8356

(注)別エントリー「試論:『神を知ること』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5580

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

主はマタイ福音書で「わたしが求めるのはあわれみであって犠牲(いけにえ)ではない」(ホセア6章6節)と繰り返されたが同節は「神を知ることであって焼き尽くす献(ささ)げ物ではない」と続く。「神を知る」を一ヨハネ2章3節は「神の掟(愛の掟。ヨハネ15章12節等)を守る」ことと説明する。

今、あなたの神、主があなたに求めておられることとは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてその全ての導きに従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸せになることではないか。(申命記10章12節〜13節)

ミカ6章8節「何が善であって、主が何をあなたたちに求めておられるかは、あなたたちには既に告げられている。それは神の義を行い、憐れみの業を愛し、へりくだり神と共に歩むこと」ホセア6章6節「わたしが求めるものは『いけにえ』ではなく憐れみであり、焼き尽くす献げ物ではなく神を知ること」。

(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6748

箴言16章7節は、ある人が主に喜ばれる行いに努め続けるならその人はかつての敵とも主の仲介で和解に至るであろうと説く。ホセア6章6節は、主が喜ばれることとは隣人に憐れみの業を行うことであって「いけにえ」ではなく、そして神を知るように努めることであって焼き尽くす献げ物ではないと説く。

(注)別エントリー「試論:『神を知る』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10024

試論:自己正当化???を140文字以内で

「善きサマリア人」の話の契機となった律法学者の質問の動機について、現代人は「自己正当化」「自己弁護」の意味合いでどうしても解釈しがちである。しかしここに登場する律法学者は「最も重要な掟」の質問をした律法学者同様、文脈からは主イエスに何の悪意も抱いていないとしか解釈のしようがない。

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4544

【追記】

主イエスは「仕えるために来た」(マルコ10章45節)と自称されるほどに、へりくだりを重視され、高慢に振舞っていた律法学者たちを厳しく非難された(同12章38節)が、真面目な意図で教えを乞いに来た律法学者たちには的確かつ明快に答えられた(同12章28節以下、ルカ10章25節以下)。

(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7479

一人の律法学者は自分を「義化」(ルカ10章29節)しようとして(「義人」(マタイ1章19節)とするために)、隣人愛(ルカ10章27節)に関して、主に、踏み込んだ質問を行なった。主は、憐れみの心(33節)と「神の義」と隣人愛と永遠の命(25節)は事実上重なっているとお教えになった。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

主イエスの「善きサマリア人のたとえ」で、サマリア人は「傷に油とぶどう酒を注ぎ包帯をして、宿屋に連れて行って介抱した」(ルカ10章34節)。さらに、その後のことを宿屋の主人に依頼しておくのも忘れなかった。自分の手に負える範囲を超える際には他人の手を借りる方が良い場合も当然あり得る。

(注)別エントリー「試論:『マリアと宿屋』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13220

(注)別エントリー「試論:聖書と『ろば』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13192

福音書の本文で律法学者を表すギリシア語と、古代のギリシア語旧約聖書で書記官を表す語は同じで、ネヘミヤ6章で当時の預言者たち皆が周辺異民族に買収される不祥事が発覚後、改革を担った祭司エズラは、預言者としてではなく書記官の立場で民を導き、預言者たちが姿を消し律法学者の時代に移行した。

(注)別エントリー「試論:ネヘミヤ6章の『預言者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10531

(注)別エントリー「試論:マラキから洗礼者までを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6696

(注)別エントリー「試論:ゼカリヤ13章を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6121

試論:からし種一粒ほどの信仰?を140文字以内で

古代のヘブライ人は神と神の民との関係を「花婿と花嫁」に喩えた。信仰を夫婦間の愛情に喩えたわけである。夫婦間に「わたしはあなたに60%の愛情を捧げるけれど、別の人にも40%の愛情を捧げる」はあり得ない。従って聖書の中の《信仰》とは、「100%の愛情」つまり疑う余地のない確信である。

(注)別エントリー「試論:『主イエスこそ真の花婿』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7379

(注)別エントリー「神に対する確信を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5613

(注)別エントリー「試論:『わたしたちの確信』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7711

(注)別エントリー「『からし種一粒ほどの信仰』???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19278

【追記】

マタイ1章でヨセフは、自分の与り知らぬ婚約者の妊娠を知って苦悩したが、夢に現れた主の天使の言葉によって、婚約者の妊娠の真相を知り、相手の真心を信じて疑わないことこそが信仰であることをも、同時に実体験した。ヨセフはエジプトに逃げる時も見失った息子を捜す時も、マリアと行動を共にした。

(注)別エントリー「試論:マリアとヨセフに倣う事柄を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7012

マリアの妊娠にヨセフが微塵でも不満を抱き続けていたなら、彼はエジプトに逃げる途中の荒れ野で、「預言者エリヤも任務を捨てて逃げたがそれでも天使はエリヤを励ました。あなたの産んだ子が神の子なら、天使があなたたちを助けてくれるはずだ」と母子を置き去りにしただろうが、彼はそうしなかった。

(注)別エントリー「試論:『義人は意地悪をしない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11980

(注)別エントリー「試論:預言者エリヤと義人ヨセフを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11055

(注)別エントリー「試論:エリヤとヨセフを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6005

マタイ福音書は後世への教訓に、最初の二つの章で主の養父ヨセフを模範として掲載した。ヨセフは忍耐強く、情け深く、自慢せず、高ぶらず、礼を失わず、自分の利益を求めず、恨みを抱かず、苛立たず、不義を喜ばず、真理を喜んだ。イエスとマリアのために、全てのことを忍び、確信し、待望し、耐えた。

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

(注)別エントリー「試論:『出しゃばらない人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15001

「からし種一粒ほどの信仰」???

主イエスはマタイ5章37節で「はい」なら「はい」、「いいえ」なら「いいえ」と言いなさい、と仰せになり、神に対する愛情つまり信仰心は「ある」と「ない」の二種類に分類され、その中間は基本的にあり得ないと示唆された。「100%の愛情」を持つ一人は、「80%の愛情」を持つ一万人にも勝る。

詩編12(11)編においてダビデは、隣人に嘘をついたり隣人を早口で欺いたり言行不一致状態だったりする人々ばかりの風潮を、「信仰のある人は消え去りました」(12編2節、新共同訳)と表す。ここで「信仰」と訳されるヘブライ語を、古代のギリシア語訳聖書はアレテイア(真理、まこと)と訳す。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

ヨハネ福音書は「信仰」を表現する際、他の福音書が用いるピスティスという語を用いず代わりにアレテイア(真理、まこと)という語を多用する。ヨハネにとって信仰とは、人の真心に対し真心で応じられる神なる主に向かって嘘偽りや裏表のない態度で接することに他ならず、これは当時の共通認識だった。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書のアレテイアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15430

申命記6章5節は「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛さなければならない」と命じる。「100%の愛情」というのは理想的な状態であり、現実にはなかなか難しいものだが、そこにできるだけ限りなく近付けるよう皆は日々弛まぬ努力をしなさいと、神は命じられた。

(注)別エントリー「試論:『アーメン』と『まこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16228

旧新約聖書では神や救い主と信者の関係は「花婿と花嫁」「夫と妻」に喩えられた。つまり信仰心は夫婦間の愛情に喩えられたが、その理由は「100%の愛情」でなければならないからである。夫婦間で「自分はあなたに60%の愛情を捧げるけれど、別の誰かにも40%の愛情を捧げる」と言えるだろうか?

(注)別エントリー「試論:『信仰心と夫婦間の愛情』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19268

古代のイスラエルでは、婚礼の時に上質の酒を提供するのは花婿の責任と考えられていた(ヨハネ2章9節以下)。一方、当時は「神」と「神の民」の関係を《花婿》と《花嫁》の関係にたとえていた(イザヤ62章5節)。カナでのぶどう酒の奇跡で、主は御自分こそが真の《花婿》であるとほのめかされた。

ローマ5章1節は「わたしたちは信仰によって義とされた」と記す。詩編12編でダビデは、隣人に嘘をついたり隣人を早口で欺いたり言行不一致状態だったりする人々ばかりの風潮を、「信仰のある人は消え去りました」(2節。新共同訳)と表現し、悪を行う人の中に信仰の存在など断じて認めてはいない。

ヘブライ11章4節は「信仰によってアベルはカインより優れたいけにえを献げ、神が彼の献げ物を認められることによって彼は義人と証明された」と記す。ヘブライ人にとって信仰とは「まこと(真、実、信、誠)」に基づいたものであるべきで、この節の「信仰」とは、真心(まごころ)と同じ意味である。

(注)別エントリー「試論:詩編12編の『信仰』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17392

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

(注)別エントリー「試論:まこと(真、実、信、誠)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16274

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書の『信じる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16417

試論:「嘘偽りはないのが信仰」を140文字以内で

詩編12(11)編においてダビデは、隣人に嘘をついたり隣人を早口で欺いたり言行不一致状態だったりする人々ばかりの風潮を、「信仰のある人は消え去りました」(12編2節、新共同訳)と表す。ここで「信仰」と訳されるヘブライ語を、古代のギリシア語訳聖書はアレテイア(真理、まこと)と訳す。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

ヨハネ福音書は「信仰」を表現する際、他の福音書が用いるピスティスという語を用いず代わりにアレテイア(真理、まこと)という語を多用する。ヨハネにとって信仰とは、人の真心に対し真心で応じられる神なる主に向かって嘘偽りや裏表のない態度で接することに他ならず、これは当時の共通認識だった。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書のアレテイアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15430

試論:なぜ「心を尽くし〜」??を140文字以内で

申命記6章5節は「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛さなければならない」と命じる。「100%の愛情」というのは理想的な状態であり、現実にはなかなか難しいものだが、そこにできるだけ限りなく近付けるよう皆は日々弛まぬ努力をしなさいと、神は命じられた。

(注)別エントリー「試論:『アーメン』と『まこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16228

【追記】

旧新約聖書では神や救い主と信者の関係は「花婿と花嫁」「夫と妻」に喩えられた。つまり信仰心は夫婦間の愛情に喩えられたが、その理由は「100%の愛情」でなければならないからである。夫婦間で「自分はあなたに60%の愛情を捧げるけれど、別の誰かにも40%の愛情を捧げる」と言えるだろうか?

(注)別エントリー「試論:『信仰心と夫婦間の愛情』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19268

(注)別エントリー「試論:からし種一粒ほどの信仰?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19292

試論:「信仰心と夫婦間の愛情」を140文字以内で

旧新約聖書では神や救い主と信者の関係は「花婿と花嫁」「夫と妻」に喩えられた。つまり信仰心は夫婦間の愛情に喩えられたが、その理由は「100%の愛情」でなければならないからである。夫婦間で「自分はあなたに60%の愛情を捧げるけれど、別の誰かにも40%の愛情を捧げる」と言えるだろうか?

(注)別エントリー「試論:『大淫婦』の正体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15895

【追記】

古代のイスラエルは、神と神の民との関係をしばしば花婿と花嫁の関係にたとえた。洗礼者ヨハネは、イエスを「花婿」と呼んで自身は「花婿の介添人」と称した。主イエスを歓呼の裡に迎え入れながら数日で死に至らしめた都を、黙示録が「大淫婦」と呼んだ理由は、イエスこそ花婿に他ならないからである。

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

黙示録17章5節「淫婦の母、地上のあらゆる憎むべきものの母である大バビロン」と、同18章7節「やもめではなく」とは、イザヤ50章1節「わたしが追い出したという、お前たちの母親への離縁状はどこにあるのか」に対応している。「都」とそこに住む人々との関係が、母子の関係に喩えられている。

古代のイスラエルでは、婚礼の時に上質の酒を提供するのは花婿の責任と考えられていた(ヨハネ2章9節以下)。一方、当時は「神」と「神の民」の関係を《花婿》と《花嫁》の関係にたとえていた(イザヤ62章5節)。カナでのぶどう酒の奇跡で、主は御自分こそが真の《花婿》であるとほのめかされた。

試論:預言者も見たかったもの?を140文字以内で

ルカ10章24節で主イエスは弟子たちに「今あなたたちが目にしているものを多くの預言者たちが目にしたいと思っていたが、実際に見ることは、なかった」と仰せになった。旧約の預言者たちが見たものはあくまでも、いわば「予告編」に過ぎなかったが、弟子たちが実際に見ているものは「本編」である。

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の意義を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9840

(注)別エントリー「試論:旧約聖書を調べる意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6950

【追記】

主イエスは同じ節で、預言者たちの他に「王たち」にも言及されている。サムエル記下7章16節と歴代誌上17章11節以下でダビデが預言を受けてから後、ダビデ王家の王たちは自分たちの中からいつか救い主が現れることを意識していた。それは長い紆余曲折を経て主イエス・キリストにおいて実現した。

(注)別エントリー「試論:『なぜダビデの子なのか』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13127

(注)別エントリー「主イエス・キリストがインマヌエルである理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1338

試論:「不幸だ」を140文字以内で

主イエスはルカ10章16節で「わたしを拒む者はわたしを遣わされた方を拒む」と仰せになり、その意味でコラジン・ベトサイダ・カファルナウムを「不幸」と嘆かれた。同様に主は11章ではファリサイ派の人々と律法学者たちをも「不幸」と呼ばれ、19章41節以下では都エルサレムのために泣かれた。

(注)別エントリー「試論:エゼキエル18章を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5726

【追記】

マタイ5章7節「憐れみ深い人は幸いである。その人は神からの憐れみを受ける」は、箴言11章17節の前半「憐れみ深い人は、その善行によって、自分自身の霊魂にも良いものをもたらす」の答えである。ちなみに、箴言の同じ節の後半は「憐れみのない人は、その行いが回り回って、自分自身が苦しむ」。

(注)別エントリー「試論:箴言11章17節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19154

主イエスはルカ19章41節以下で心を入れ替えようとしない都の人々を嘆いて泣かれた。神は、全ての人を救われて真理(=主イエス御自身。ヨハネ14章6節)を知るようになることを望んでおられる(一テモテ2章4節)にもかかわらず、神殿を拠点とする宗教指導者たちの思いは正反対だからであった。

(注)別エントリー「試論:『都のために泣かれた主』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18313

ヨハネ15章10節「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたたちもまたわたしの掟を守るなら、それによって、わたしの愛にとどまっている」マタイ7章21節「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るのではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入る」。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

マタイ7章12節「あなたたちが他の人からしてもらいたいと思うことはなんでも、あなたから他の人にしなさい。これこそが律法であり、預言者の教えである」ヨハネ13章35節「あなたたちが互いを尊重し敬意を払い合うならば、その姿を見て皆はあなたたちがわたしの弟子であることを認めるだろう」。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

(注)別エントリー「試論:『行った意味が分かるか』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15848

マタイ5章9節「平和を実現する人」の「平和」とは、福音書の時代の人々にとっては単に戦争のない(終わった)状態を意味する以外に個々の健康や幸福・繁栄、人間関係の協調・一致や発展、社会や国家の安寧、暴動や反乱のない状態、心の(霊的な)安定など、物事が好転している状況の総称でもあった。

(注)別エントリー「試論:『柔和な人は幸いである』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5976

(注)別エントリー「試論:『心の清い人は神を見る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5937

今、あなたの神、主があなたに求めておられることとは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてその全ての導きに従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸せになることではないか。(申命記10章12節〜13節)

ミカ6章8節「何が善であって、主が何をあなたたちに求めておられるかは、あなたたちには既に告げられている。それは神の義を行い、憐れみの業を愛し、へりくだり神と共に歩むこと」ホセア6章6節「わたしが求めるものは『いけにえ』ではなく憐れみであり、焼き尽くす献げ物ではなく神を知ること」。

(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6748

主はマタイ福音書で「わたしが求めるのはあわれみであって犠牲(いけにえ)ではない」(ホセア6章6節)と繰り返されたが同節は「神を知ることであって焼き尽くす献(ささ)げ物ではない」と続く。「神を知る」を一ヨハネ2章3節は「神の掟(愛の掟。ヨハネ15章12節等)を守る」ことと説明する。

(注)別エントリー「試論:『神を知る』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10024

試論:「天使と幼子」を140文字以内で

主はマタイ18章10節で、人間と神との連絡を行う天使の存在に言及され、たとえ幼子が言語や思考や体力や行動の面でおぼつかない存在であっても、幼子の非力を侮り良からぬ行動に出る者については全てを天使が逐一、神の御前で報告し、神は全てを御存知であると仰せになった(マタイ6章6節参照)。

(注)別エントリー「試論:『他人の弱みに乗じない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7371

(注)別エントリー「試論:『無垢をリスペクトする』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7325

【追記】

主イエスはマタイ6章で、施し・祈り・断食は人目に付かないようにと命じられ、天の御父である神は全て御存知だと仰せになった。箴言15章3節「どこでも主の御目は注がれ善人も悪人も見ておられる」詩編90編8節「〔主よ、〕あなたはわたしたちの罪を御前に、隠れた罪を御顔の光の中に置かれる」。

(注)別エントリー「マタイ6章『祈る時には』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9168

(注)別エントリー「試論:『偽善者と演技』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8211

主はマタイ10章26節で、「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」と仰せになった。神の御前で隠し事はできないという同じ事柄をローマ2章16節も説くが、後者は「人々の隠れた事柄を神がキリスト・イエスを通して裁かれる日」と関連付けている。

(注)別エントリー「試論:隠し事と『裸』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6711

試論:「ティルスやシドン」を140文字以内で

主がルカ10章13節で引き合いに出された「ティルスとシドン」はフェニキア人の都市で、旧約時代にはバアル信仰で知られたが、福音書の時代までにバアルは古代ギリシアのゼウスと習合していた。この地方の人々は使徒言行録12章20節によれば、ユダヤから食糧を調達しているという接点が存在した。

(注)別エントリー「試論:『アグリッパ一世の頓死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17914

【追記】

エゼキエル26章から28章ではティルスの繁栄と滅亡が預言されたが、二百数十年後マケドニアのアレクサンドロス大王がティルスを滅ぼした。後にティルスは再建されたがローマの長年の宿敵だったカルタゴのルーツが、ティルスの植民市ということもあり、ローマ人がティルスを見る目は冷ややかだった。

(注)別エントリー「試論:ティルスの滅亡と教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11189

試論:聖ヨセフと天使を140文字以内で

古代イスラエルの民にとって神なる主は「わたしたちの父」(イザヤ63章16節)だった。民の「永遠の父」である救い主は嬰児として生まれた。本来、神の御独り子に人間が養父とはいえ父として接するのは本末転倒である。しかし夢に現れる主の天使の指示と妻の存在に強められヨセフは任務を全うした。

(注)別エントリー「試論:『義人』ヨセフを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13100

(注)別エントリー「試論:『神の養父』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13347

【追記】

エリヤは王妃イゼベルに命を狙われていると知り、使命を放棄してホレブ山に逃げ、そこで天使に助けられた。ヨセフはヘロデ王がイエスの命を狙っていると知り幼子と幼子の母を連れてエジプトへ逃れた。天使はヨセフの夢に現れるという形で助けたものの第一義的に幼子を守ったのはヨセフとマリアである。

(注)別エントリー「試論:エリヤとヨセフを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6005

主はマタイ18章10節で、人間と神との連絡を行う天使の存在に言及され、たとえ幼子が言語や思考や体力や行動の面でおぼつかない存在であっても、幼子の非力を侮り良からぬ行動に出る者については全てを天使が逐一、神の御前で報告し、神は全てを御存知であると仰せになった(マタイ6章6節参照)。

(注)別エントリー「試論:『他人の弱みに乗じない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7371

(注)別エントリー「試論:『無垢をリスペクトする』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7325

マタイ福音書のギリシア語本文はヨセフをディカイオス(1章19節)と呼ぶが、ディカイオスは最後の審判で天国の福楽を確約されている人(25章37節)を意味し、ヨセフがもともと天の国にいてもおかしくないほどに無垢な(創世記6章9節)底抜けの大善人で天使のような人であったことを示唆する。

(注)別エントリー「試論:聖ヨセフの模範を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7243

(注)別エントリー「聖母と聖ヨセフが終生童貞である理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4464

「真理はあなたたちを自由にする」って、何から??

【問】「真理はあなたたちを自由にする」はどういう意味?【答】「真理(=まこと)」(ヨハネ14章6節。エレミヤ10章10節参照)とは主イエス御自身を指し、「真理(=まこと)の神である自分はあなたたちを罪の奴隷状態(ヨハネ8章34節、ローマ6章、同8章)から解放する」という意味です。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

(注)別エントリー「真理は罪と悪と死から自由にする」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9524

主はヨハネ8章32節で「真理はあなたたちを自由にする(解放する)」と仰せになった。パウロはヨハネと同じギリシア語を用いて何からの解放か、その答えをローマ6章と同8章で説明した。「罪から解放」(6章18節、22節)、8章2節「罪と死の法則から解放」同21節「滅びへの隷属から解放」。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書のアレテイアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15430

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

主イエスに関してヨハネ福音書は「真理」を事ある毎に強調しイエスに偽りはなかったと説く。裏を返せばイエスの敵たちがイエスに難癖を付けるためなら偽りの告発を平然と行って恥じなかったことをも記している。「ガリラヤからは預言者は出ない」という難癖もヨナという先例がいる以上は虚偽であった。

ヨハネ7章52節に「ガリラヤからは預言者は出ない」という敵たちの難癖がある。彼らの発言は誤りで、預言者ヨナの出身地は列王下14章25節にガト・へフェルと記される。ヨシュア19章13節ではガト・へフェルはゼブルン族の領土で、そこはイザヤ8章23節の通り福音書の時代のガリラヤである。

(注)別エントリー「試論:『ガリラヤからの預言者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15449

(注)別エントリー「主イエス・キリストがインマヌエルである理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1338

エレミヤ10章10節は「主は真理の神」と記すがこの章では、自分では言葉を話せない偶像の神々と違い、イスラエルの神である主は御自ら、御言葉を発せられて真正な御教えを御自分の民にお話しになられる(申命記5章22節以下)という事柄を要約する表現として、「真理〔の神〕」が用いられている。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

エレミヤ10章10節は「主は真理の神、命の神、永遠を支配する王」と呼ぶ。ヨハネ福音書で主イエスが御自身に関連して「真理」「命」「永遠の命」等の表現を頻用されること自体、御自身の神性の表明である。イエスに敵意を抱く人々からすると神に対する冒瀆であり、石打ちの刑に相当する事柄だった。

プロテスタントの文語訳聖書『改訳 新約聖書』(1917年)では、ヨハネ14章6節で「真理(まこと)」と平仮名を振る。詩編145編18節「主は、まことをもって呼び求める人々すべての近くにおられる」に対応するためだが、詩編のこの節の「まこと」とは、《真心(まごころ)》を意味している。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

「真理(ギリシア語本文でアレテイア)とは何か」(ヨハネ18章38節)の答えをマルコ12章32節は「神は唯一で他に神はない」ことがアレテイアとし、主はこれを「適切な答え」とされた(34節)。ヨハネ14章6節「わたしこそが道、真理、命」10章30節「わたしと父とは唯一のものである」。

(注)別エントリー「試論:『御父と御子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7544

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

(注)別エントリー「試論:ヨハネ14章6節の『道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9342

試論:一コリント14章「幼子」を140文字以内で

一コリント14章20節は、悪意・敵意・恨み等の事柄については、無垢な幼子たちが悪感情とは無縁であることを模範として、キリストの信者は「悪い思い」(マルコ7章21節)とは絶縁するように、日々の努力を怠ってはならぬと説く。主イエスは「人から出て来るものこそ、人を汚す」と仰せになった。

(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3277

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

(注)別エントリー「試論:『理由のない憎しみ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6468

(注)別エントリー「レビ記19章17節:理由のない悪意」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4826

【追記】

ローマ13章10節でパウロは「愛とは隣人に対して悪事を行わないことです」と断言している。これを踏まえるなら、隣人に対して悪事を行おうと企む ことこそが愛の反対に該当する行為ということになる。同9節は「姦淫するな、殺すな、盗むな、貪るな(他人の物の横取りを企むな)」等を列挙している。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「《キリストの律法》(マタイ7章12節)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18013

主イエスの「霊的幼児の道」

主はマタイ18章で、「心を入れ替えて子供のようにならなければ決して天の国に入ることはできない」(3節)また「自分を低くして子供のようになる人が天の国では一番偉い」(4節)と仰せになられ、「心を入れ替える」「自分を低くする」の二つが子供のようになるために必要な事柄であると説かれた。

(注)別エントリー「試論:『恵みとへりくだり』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8781

(注)別エントリー「試論:エフェソ4章『新しい人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5730

一ペトロ2章の冒頭は「霊的な乳飲み子」について語っているが、ここでペトロは「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去る」ことを要請しており、当然ペトロは、あまりにも有名な「人から出て来るものこそ、人を汚す」で始まる、マルコ7章20節から23節の主の御言葉を念頭に置いて説明する。

主はマタイ18章で、「心を入れ替えて子供のようにならなければ決して天の国に入ることはできない」と仰せになり、「心を入れ替える」(3節)と「自分を低くする」(4節)の二つが、子供のようになるために必要であると教えられた。弟子たちは詩編131編を歌うたび以前から学んでいたはずである。

主はマタイ18章10節で、人間と神との連絡を行う天使の存在に言及され、たとえ幼子が言語や思考や体力や行動の面でおぼつかない存在であっても、幼子の非力を侮り良からぬ行動に出る者については全てを天使が逐一、神の御前で報告し、神は全てを御存知であると仰せになった(マタイ6章6節参照)。

(注)別エントリー「試論:『他人の弱みに乗じない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7371

主はマタイ18章3節で、心を入れ替えて幼子のようになるように強く弟子たちへお命じになり、他方5章48節では、天の御父と同様に、皆も「完全」となるように主はお勧めになった。古代のギリシア語創世記では「完全」というこのギリシア語が、6章9節においてヘブライ語の「無垢」に対応している。

(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3277

主はマタイ18章6節以下で、無垢な信仰を持つ子供をつまずかせる者は不幸であり厳罰は必至だと示唆された。詩編37編23節以下は主が御旨にかなう道を人間のために準備され、また人間の手をとらえ歩みを定めておられると記す。子供をつまずかせる(御旨から外れさせる)行為は絶対に容認されない。

レビ記19章には18節に有名な隣人愛の掟があるが、それに先立つ箇所には隣人愛に反する様々な行為を禁じる掟が列挙される。14節では、耳の不自由な人がいる前でその人が聴こえないのをいいことに悪口を言う行為と、目の不自由な人が歩いて行く方向に障害物を置いて邪魔をする行為とが禁じられる。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

(注)別エントリー「試論:『理由のない憎しみ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6468

(注)別エントリー「レビ記19章17節:理由のない悪意」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4826

主はマタイ13章45節以下で、「天の国」を全財産と引き換えにしてでも手に入れるべき真珠にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「天の国」は「永遠の命」と同義だが、「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「試論:『招かれる』『選ばれる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8012

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

ルカ1章には「マリアの賛歌」があるが、内容は「神は高慢な者を敵とし、へりくだる人に恵みをお与えになる」(箴言3章34節、ヤコブ4章6節、一ペトロ5章5節)と一致する。主の周囲でへりくだりがどれほど重視されていたかを、「主のはしため」(ルカ1章38節、48節)という言葉が象徴する。

(注)別エントリー「試論:『主のはしため』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5643

(注)別エントリー「試論:へりくだりと恵みを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5777

(注)別エントリー「試論:聖母崇敬の理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5253

(注)別エントリー「試論:『聖母マリアは真の聖櫃』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5865

(注)別エントリー「試論:ルカ11章28節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5786

主イエスは福音書で何度も、非常に小さな幼児を模範として人々にお示しになった。自分一人では足取りもおぼつかないような幼児は、他人をつまずかせようとして障害物を置いたり(レビ19章14節)他人を陥れようとして落とし穴を掘ったり(箴言26章27節)といった悪だくみを行わないからである。

(注)別エントリー「試論:『無抵抗の相手への悪意』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8254

試論:「枕する所すらない」を140文字以内で

主イエスは洗礼者を「預言者以上の者」「優雅に暮らす人なら宮殿にいる」と評された。御自身についても「人の子には枕する所すらない」と語られた。当時の人々は、エレミヤ14章8節に預言された「救い主」を思い起こし、救い主とは宮殿に構えるような方でなくあちこちを訪ね歩く存在だと再認識した。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888

【追記】

福音書の時代、洗礼者ヨハネとイエスのどちらが自分たちにとっての「救い主」であるのか、判断に迷っている人々もいた。しかし、エレミヤ14章8節は、救い主とはあちこちを訪ね歩く存在だと預言している。イエスはあちこちを訪ね歩き宣教を行われたが、洗礼者ヨハネの存在意義はそれとは違っていた。

(注)別エントリー「試論:『洗礼者の使命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17613

ルカ2章21節でマリアの産んだ幼子はイエスと名付けられたが、その理由をマタイ1章21節では「その子は自分の民を罪から救うから」とヨセフの夢に現れた天使が語る。エレミヤ14章8節は救い主キリストの寄留者や旅人のような日々を預言し、ルカ9章58節は「人の子には枕する所もない」と記す。

(注)別エントリー「試論:『イエスと名付けられた』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13427

試論:「聖家族とヒエロニムス」を140文字以内で

四世紀後半、「イエスの兄弟」に関して、三つの解釈が存在した。

【A】ヘルヴィディウス「それはヨセフとマリアとの間の子供たちを指す」

【B】サラミスのエピファニウス「それはヨセフの前妻の子供たちを指す」

【C】ヒエロニムス「それはイエスの親族を指す」

カトリックの伝統的解釈は【C】である。

(注)別エントリー「イエスの『兄弟』『姉妹』:同胞か親戚か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1451

(注)別エントリー「聖書の時代に神殿の処女は存在したのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1539

(注)別エントリー「主の御降誕に助産婦が介在しなかった意味【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/24272

(注)別エントリー「聖ヨセフ:ディカイオスを旧約聖書で考察」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1613

(注)別エントリー「聖母と聖ヨセフが終生童貞である理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4464

【追記】

四世紀後半、聖ヒエロニムスは誰よりも、主の御降誕後のマリアとヨセフの終生童貞を頑強に主張した。ヘブライ語聖書の翻訳に従事していた彼は、「いったん神にささげられたと定まったものを後から人間が自分の都合で私物化する行為は、ヘブライ人にとって重大な罪悪である」と熟知していたからである。

(注)別エントリー「試論:古代イスラエルの兄弟姉妹を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10047

古代のイスラエルでは、一度、神にささげられたと定まったものを後から人間が自分の都合で私物化する行為は、神に対する重大な罪とみなされた(サムエル上2章、15章等)。ヨセフは出産後のマリアを「知る」ことがなかった。処女懐胎時に妻は既に「聖別」されていると、彼が認識していたからである。

ヤコブの名を冠する外典福音書では住民登録のためにベツレヘムへ出発する際、高齢の自分と若いマリアとの二人旅は外聞が悪いとヨセフは考え、前妻との間の息子を呼び寄せて先にマリアと出発させヨセフは後を追った。神の母とは全く不釣り合いのこんな老人を神が選ばれる道理が、どこにあるのだろうか?

(注)別エントリー「福音書の聖ヨセフと外典書の高齢者ヨセフ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4759

(注)別エントリー「主の御降誕の時ヨセフは何歳だったのか【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11500

(注)別エントリー「婚約者の妊娠を知った時のヨセフの心情」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3092

ヤコブを称する外典福音書は二世紀後半までに成立したが、聖母の神殿奉献や聖母の両親の名前の記述はカトリックの聖伝と一致する半面ヨセフ関連の記述全般で信憑性に乏しく、ヒエロニムスや四〜五世紀の諸教皇に排斥されて西欧では一度表舞台から姿を消したが、宗教改革期に再び西欧で広く紹介された。

ルツ記の主人公であるルツは、最初の夫マフロンとの間に跡取りを産む前に夫に先立たれ、のちに申命記25章の規定に従ってマフロンの「兄弟」ボアズと再婚したが、このボアズは亡夫マフロンとは父も母も異なっていた。マフロンの父はエリメレク、母はナオミで、ボアズの父はサルマ、母はラハブである。

(注)別エントリー「試論:『履物を脱ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8620

跡取りを産む前に夫に先立たれたルツは、申命記25章の規定に従って亡き夫マフロンの「兄弟」ボアズと再婚したが、このボアズはマフロンとは父も母も異なっていた。古代イスラエルにおける「兄弟」という概念が、父や母を同じくする同胞のみならず、広く親族全般を含んでいたことは、歴然としている。

マタイ1章19節は主の養父ヨセフを「正しい人(ディカイオス)」と表現する。25章の「最後の審判」におけるディカイオスは、隣人が何らかの助けを必要としている時に、必要とされている助けを提供して困り事を解決する人を指し、ヨセフはイエスとマリアが本当に必要としていることだけを実行した。

(注)別エントリー「試論:聖ヨセフの模範を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7243

(注)別エントリー「試論:マリアとヨセフに倣う事柄を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7012

(注)別エントリー「予備的考察:聖母崇敬そして聖ヨセフ崇敬の起源とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1750

カトリックで聖母を指す表現「天の門」は、聖書では創世記28章17節にのみ登場し、同節は主がおられた場所を「なんと畏れ多い場所」「天の門」と呼ぶ。主を宿した「胎」(ルカ11章27節)であるマリアを、同様に《なんと畏れ多い女性》と感じるのは、古代のイスラエル人の感覚として当然である。

(注)別エントリー「試論:ルカ11章28節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5786

(注)別エントリー「試論:『神の都市』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6648

(注)別エントリー「試論:『偉大なこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7651

(注)別エントリー「ルカ福音書の聖母とサムエル記下の神の櫃」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1544

(注)別エントリー「試論:『受肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7842

カトリックではナザレの聖家族は三人と教える。主の養父ヨセフは終生、息子と妻の望むことだけを行い、三人家族の三番目であるかのように振舞い後世の人々からもそう思われた。世の男性たちが子供たちや女性たちを平然と虐待する、毒々しい時代が来る時、ヨセフの存在は強力な解毒剤として働くだろう。

試論:「死地に赴く救い主」を140文字以内で

ルカ9章51節は主イエスがエルサレムに向かう決意を固められたと記す。その都で救い主は小羊のように屠殺される定めだった。「片方の頬を打たれたらもう片方の頬を相手に向けなさい?? 神には人間の痛みや苦しみが分からないから、そんなことが言えるのだ」という人々の声に対する神の答えである。

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7514

(注)別エントリー「試論:世の罪を取り除く神の小羊を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6140

(注)別エントリー「試論:『悪人に対する抵抗』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17465

【追記】

22節で主は御自分が必ず多くの苦しみを受け、長老・祭司長・律法学者たちから排斥され殺されると予告されていた。また御受難の数日前、ヨハネ12章27節で「今わたしは心騒ぐ。『父よ、この時からわたしを救って下さい』と言おうか。しかし、わたしはまさに、この時のために来た」と仰せになった。

(注)別エントリー「試論:御受難の際の主の模範を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6315

(注)別エントリー「試論:『主の僕の忍耐』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6462

(注)別エントリー「試論:イザヤ42章の『主の僕』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19200

試論:イザヤ42章の「主の僕」を140文字以内で

イザヤ42章は旧約の民と異邦人を罪から救う「主の僕(しもべ)」を預言し、8節では「わたしは栄光を他の神々に渡さないし、わたしの栄誉を偶像に与えはしない」と記す。このことを48章11節では「わたし自身のため」と二度強調する(ヨハネ17章1節「あなたの子があなたの栄光を現すため」)。

【追記】

黙示録7章16節はイザヤ49章10節を踏襲することで洗礼者が言及した(ヨハネ1章)

「〔神の〕小羊」

とイザヤ書の

「主の僕(しもべ)」

が同一人物であると再確認させ、

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために来た」
(マタイ20章28節、マルコ10章45節)

という事柄をも再確認させる。

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7514

(注)別エントリー「試論:世の罪を取り除く神の小羊を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6140

ルカ2章32節でシメオンは幼子を「異邦人を照らす啓示の光」と呼び、この幼子こそイザヤ49章6節で預言された「主の僕(しもべ)」だと示唆した。さらに続けて「反対を受けるしるし」(ルカ2章34節)という表現で、この幼子がイザヤ50章6節の受難を経験することをも、母親のマリアに伝えた。

古代のギリシア語訳イザヤ50章6節では、「主の僕(しもべ)の忍耐」に関する預言を、「平手打ちする者に頬をまかせた」と記した。これと関連して主イエス・キリストはマタイ5章39節で説教され、そして主御自身その通り(マルコ14章65節、ヨハネ18章22節、同19章3節)に実践なさった。

(注)別エントリー「試論:イザヤの預言と主の御受難を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6322

幼子を腕に抱いたシメオンはルカ2章32節で幼子を「万民を照らす啓示の光」と呼んだ。イザヤ49章6節は「わたしはあなたを僕(しもべ)とし、国々の光としてわたしの救いを地の果てまでも、もたらす者とする」と預言した。フィリピ2章7節「キリストは人間と同じ者になられ、僕の身になられた」。

(注)別エントリー「試論:『主の僕(しもべ)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8849

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』=『主の僕』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8876

主はマタイ5章14節で「あなたがたは世の光」ヨハネ8章12節で「わたしは世の光」「わたしに従う者は暗闇の中を歩まず命の光を持つ」と仰せになった。同1章4節は「御言葉のうちに命があり、命は人間を照らす光」と記す。イザヤ58章6節以下では隣人に心を配り助けを惜しまない人に、光が伴う。

(注)別エントリー「試論:『世の光』どういうこと?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13685

古代のギリシア語イザヤ50章6節は「わたしは鞭打つ者に背中を、平手打ちする者に頬を向け、なお嘲りと唾からも顔をそむけることがなかった」と記し、この節をマタイ5章39章の主の仰せそして御受難の際(マルコ14章〜15章)の主の御苦しみと御振舞いに、最も近いニュアンスで、解釈している。

(注)別エントリー「試論:御受難の際の主の模範を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6315

主はヨハネ12章27節で「今わたしは心騒ぐ」と仰せになり御自分の内面は穏やかでないと告白された。多くの侮辱を伴う凄惨なリンチの末に、十字架を背負わされ、「御自分の民」から罵声を浴びながら体力を消耗し尽くし、ぼろ布のような状態で大きな苦しみの内に息絶える日がそこまで来たからである。

(注)別エントリー「試論:『主の僕の忍耐』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6462

主はヨハネ12章23節で「人の子が栄光を受ける時が来た」と仰せになった。御受難(十字架上の死)によって多くの人々に永遠の命をもたらし(24節〜25節)「死を永久に滅ぼす」(31節、イザヤ25章8節、一コリント15章54節、ヘブライ2章14節以下、コロサイ1章20節等)ためである。

(注)別エントリー「試論:『自分の命を憎む人』??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9419

ヨハネ12章27節「わたしはまさにこの時(=御自身がゴルゴタにおいて十字架上に『上げられる《高い所に掲げられて顕示される》』御受難の時)のために来た」マタイ20章28節、マルコ10章45節「人の子は、多くの人々の身代金(=あがない)として、自分の命を献(ささ)げるために、来た」。

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

(注)別エントリー「試論:真理と贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9081

試論:「主」の憐れみと忍耐強さを140文字以内で

出エジプト記34章5節以下で、モーセの前に天から降(くだ)られた「主」というイスラエルの神は、御自身がどのような神であるかをモーセに伝えられた。それは、御自分に心から立ち帰ろうとしている者への慈しみと憐れみと赦しは限りないが、そうでない者には罰するべきは罰する、というものである。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

【追記】

エゼキエル18章「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は仰せになる。彼が悪から立ち帰って生きることを喜ばないだろうか。お前たちが犯した全ての背きを投げ捨てて新しい心と霊を造り出せ。どうしてお前たちは死んでよいだろうか。お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」。

出エジプト記34章で主は、モーセに御自分がどのような神かを宣言された。憐れみに満ちて忍耐強く罪と背きと過ちを赦す一方、罰するべきは罰すると仰せになり、悔い改めて自分の非を認める者には非常に優しいが、頑として自分の非を認めぬ者には厳しく接すると宣言された(ルカ18章14節も参照)。

(注)別エントリー「ファリサイ派の人と徴税人」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5182

(注)別エントリー「試論:『主よ、主よ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5380

キリスト教の歴史上「救われる者と救われない者とは神に予め定められている」という主張が存在したが、ならば神はなぜエゼキエル18章32節で「お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」と仰せになったのだろうか。二コリント5章14節「キリストは全ての人のために亡くなられた」。

(注)別エントリー「試論:救われる者は少ないか??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18576

(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3277

主イエスはルカ15章7節で「悔い改める必要のない九十九人の義人よりも、悔い改めている一人の罪人のことを天は大いに喜ぶ」と仰せになり、マタイ18章14節ではエゼキエル18章32節「わたしは誰の死も喜ばない」と同様に、天の御父は悪人の滅亡よりも悪人の回心を喜ばれることを再確認された。

(注)別エントリー「試論:『悔い改める一人の罪人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17627

ヨハネ9章31節には「神は罪人の言うことなどお聞きにならないとわたしたちは承知している」という言葉が記されてはいる。罪人が良からぬ企みを実行する前に成功を神に願い求めても、神が聞き入れるわけがないが、罪人が罪人であることを止めて回心したいと神に願う時は、神は喜んで聞き入れられる。

(注)別エントリー「試論:『聞き入れられる願い事』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18477

ルカ23章40節以下で主の隣の十字架につけられた盗賊は最後に神への畏れを知り、自分の今の惨めな境遇は全て自業自得だが神には罪はなく神の御心に適う願いなら聞き入れられると確信し、自分の隣にいるのは神そのものであると信じて直接それを伝えた。彼の信仰告白に主は最大の幸福を御約束された。

(注)別エントリー「『ぶどう園の労働者』実例を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18482

試論:天使にひれ伏す行為の是非を140文字以内で

旧約聖書では基本的に神は人々に御姿をお見せにならず天使が神の仰せを伝えた。故に人々は天使にひれ伏すことで神への礼拝の態度を表した(創世記19章等)。主イエスが人々の前に御姿をお見せになった後は、人々は天使に対してではなく、ただ神なる主だけにひれ伏すべきだと、黙示録22章は教える。

(注)別エントリー「試論:『心の清い人は神を見る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5937

【追記】

出エジプト記24章にモーセの一行が「神を見た」とあるが、神の御姿を実際に見たわけではなくその「足台」(「サファイアの敷石のようなもの」)を見たことによって、その上に必ずおられるはずの神を「見た」わけである。また同様に、雲や火や煙、雷鳴や稲妻、角笛の音なども神の現存を象徴していた。

(注)別エントリー「イエス・キリストと天の雲」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/684

(注)別エントリー「試論:福音書と『西遊記』の違いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5760

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:神の国の到来と『主の日』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5578

(注)別エントリー「試論:『一人は連れて行かれる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5599

(注)別エントリー「試論:連れて行かれるのはどこ?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6151

(注)別エントリー「試論:『一人は連れて行かれ〜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5819

「時代」(四十年間)

主イエスはマタイ23章36節と同24章34節で「時代」という表現を用いられ、エルサレムと神殿の滅亡がいつまでに起こる出来事かを暗示された。ヘブライ3章9節以下では古代のギリシア語訳詩編94(95)編10節を引用して、それは主の御言葉が発せられてから四十年以内のことだと再確認する。

ルカ21章32節で主は「全てのことが起こるまではこの時代は決して滅びない」と仰せになったが、「時代」に当たる原文の単語ゲネアは古代のギリシア語詩編94(95)編10節の「世代」にも用いられ、詩編のこの節ではゲネアを四十年とする。実際この主の仰せからおおよそ四十年後に都は滅亡した。

(注)別エントリー「試論:『今の時代』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5596

(注)別エントリー「試論:『人心荒廃は滅亡の前兆』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6291

古代のヘブライ人は詩編78編69節の通り、エルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。これを踏まえれば、主イエスのルカ21章33節の仰せ「やがて天地は滅びるであろうが、わたしの言葉は決して滅びない」の意味は、「エルサレムと神殿の滅亡後も、わたしの教えと信仰は生き続ける」である。

(注)別エントリー「試論:黙示録の『第八の者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12097

ヘブライ13章13節はエルサレムを「宿営」と呼び退去を勧める。「年を経て古びたものは間もなく消え失せます」(同8章13節)の通り都と神殿が滅亡して旧約時代が終焉するからだが、既にマタイ5章18節で主イエスは神殿の聖所を「天地」と呼ばれ(詩編78編69節参照)それを予告されていた。

(注)別エントリー「『ヘブライ人への手紙』が書かれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/2286

主はマタイ5章18節で、全てのことが実現して天地が消え失せるまではモーセの律法も消え失せないと仰せになり、ルカ21章22節ではエルサレム滅亡で預言が全て実現すると予告され、紀元七〇年にそれは成就した。詩編78編69節の通りヘブライ人はエルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。

(注)別エントリー「試論:ルカ19章41節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5814

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

ルカ21章22節には「書かれていること」という言い回しが用いられているが、これはヨシュア記1章8節と同様に、「預言された事柄」「神から啓示された内容」などを意味する表現である。古代においては「書く(書いて記録に残しておく)」という行為それ自体が、非常に重要な意味を持つものだった。

主はマタイ5章18節で、全てのことが実現し天地が消え失せるまで律法の時代が続くことを仰せになった。ルカ21章22節では、エルサレム滅亡(20節)の日を「書かれていることが完全に実現する報復の日」と仰せになり、エルサレムと神殿の滅亡(紀元七〇年)で律法の時代が終わると宣言なさった。

「天地が消え去る」の「天」とは、神がお住まいになる場所と見なされたエルサレム神殿とりわけその聖所を指し、二ペトロ3章はその滅亡が近いことを説く。「地」はエゼキエル7章2節同様、イスラエルの地を指す。紀元七〇年にエルサレムと神殿は滅亡しユダヤ(イスラエル人の国家)も同じく消滅した。

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

ルカ21章22節において、主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると明言されており、それは紀元七〇年に現実のこととなった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代や近未来の世界情勢に関して旧約聖書の預言から考える行為は、不毛である。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

試論:「まことのイスラエル人」を140文字以内で

プロテスタントの『改訳 新約聖書』(1917年)はヨハネ14章6節の「真理」に「まこと」と平仮名を振った。旧約聖書で「まこと」と訳されるヘブライ語に対応するからだが、主イエスはヨハネ1章47節でナタナエルを「まことのイスラエル人」と呼ばれ、彼が律法に忠実な人であると仰せになった。

(注)別エントリー「試論:『信仰とは忠実』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17662

【追記】

プロテスタントの『改訳 新約聖書』(1917年)はヨハネ14章6節の「真理」に「まこと」と平仮名を振った。旧約聖書で「まこと」と日本語訳されるヘブライ語に対応するからだが、このヘブライ語は「真」「実」「信」「誠」のニュアンスを全て含むため通例、平仮名で「まこと」と日本語訳される。

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

主イエスはヨハネ14章6節で「真理」を自称されたが、プロテスタントの『改訳 新約聖書』(1917年)は「まこと」と平仮名を振り、旧約聖書で「まこと」と訳される語との関連を示唆する。嘘偽りや裏表がないこと、上っ面だけでなく内実を伴うこと、真心には真心で返されること等を意味している。

(注)別エントリー「試論:『アーメン』と『まこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16228

主イエスはヨハネ14章6節で「真理」を自称されたが、プロテスタントの『改訳 新約聖書』(1917年)は、そこに「まこと」と平仮名を振り旧約聖書で「まこと」と訳される語との関連を示す。真理というと哲学的で近寄り難い印象を受けるが、主に帰せられる実際の諸徳は「真、実、信、誠」である。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

試論:「富を誇り神を忘れる人」を140文字以内で

申命記8章11節以下「食糧に満ち足りて立派な建物に住み、牛や羊や金銀など財産が増えた時、慢心してあなたの神である主を忘れないように、注意しなさい」「あなたは決して、財産を築けたのは自分だけの力によるものだなどと慢心してはならない」レビ19章18節「隣人を尊重しなければならない」。

(注)別エントリー「高慢な悪人の末路」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17828

(注)別エントリー「試論:『ともし火と隣人愛』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19094

【追記】

主イエスは「金持ちとラザロ」の話の最後を、この話をファリサイ派の人々に聞かせた理由も含め御説明された。それは、隣人愛を忘れて貪欲に走るだけの生活の虚しさを、既にモーセ(申命記8章11節以下、民数記11章31節以下等)と預言者(エゼキエル7章19節等)が語っているということである。

(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1699

試論:「モーセと預言者がいる」を140文字以内で

主イエスは「金持ちとラザロ」の話の最後を、この話をファリサイ派の人々に聞かせた理由も含め御説明された。それは、隣人愛を忘れて貪欲に走るだけの生活の虚しさを、既にモーセ(申命記8章11節以下、民数記11章31節以下等)と預言者(エゼキエル7章19節等)が語っているということである。

(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1699

【追記】

主イエスはルカ16章9節で、まだ信仰心の乏しい時期に誉められたものでない方法で蓄財した富を、後からでも隣人愛のために使うなら、その人の身に何が起ころうともその人は永遠の命を得ると教えられた。箴言19章17節「困窮している人を助けることは、主に貸しをを作るに等しく、必ず報われる」。

(注)別エントリー「試論:『憐れみの道に命がある』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18765

試論:箴言11章17節を140文字で

マタイ5章7節「憐れみ深い人は幸いである。その人は神からの憐れみを受ける」は、箴言11章17節の前半「憐れみ深い人は、その善行によって、自分自身の霊魂にも良いものをもたらす」の答えである。ちなみに、箴言の同じ節の後半は「憐れみのない人は、その行いが回り回って、自分自身が苦しむ」。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

【追記】

主はルカ17章1節で「つまずきは避けられないがそれをもたらす者は不幸だ」と仰せになった。レビ19章17節は悪意を抱いたまま隣人に接することを禁じ、箴言26章27節は他人を落とす穴を掘る者は自分がそこに落ちると記し、民数記12章でモーセに難癖をつけたミリアムは厳しく主に罰せられた。

(注)別エントリー「試論:『理由のない憎しみ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6468

(注)別エントリー「試論:『モーセの模範』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7466

(注)別エントリー「試論:『つまずき』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7363

レビ19章18節は有名な隣人愛の掟を教えるが、その対極の行為として17節は兄弟を心の中で憎むことを禁じる。ゼカリヤ7章10節は互いに災いを心の中で企むこと、8章17節は互いに心の中で悪を企むことを禁じ、相手の困った顔・悲しむ顔・苦しむ顔を見たいという悪意を抱いてはならぬと戒める。

ローマ13章10節でパウロは「愛とは隣人に対して悪事を行わないことです」と断言している。これを踏まえるなら、隣人に対して悪事を行おうと企むことこそが愛の反対に該当する行為ということになる。同9節は「姦淫するな、殺すな、盗むな、貪るな(他人の物の横取りを企むな)」等を列挙している。

試論:「アブラハムのふところ」を140文字以内で

ルカ16章の「金持ちとラザロ」のたとえ通り古代の旧約の民は、義人たちは死後に苦しみのない場所で過ごすと考えていた。しかしイザヤ65章17節以下とりわけ66章8節の預言通り救い主は御受難と御復活の間に「新しい天・地・エルサレム」を創造され、待っていた旧約の義人たちをお迎えになった。

(注)別エントリー「試論:死者の中から最初に復活?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18370

【追記】

キリスト教の立場からすると「新しい天・地・エルサレム」及び「復活の体(天上の体)」が創造され、旧約の義人たちがそこに迎え入れられた以上、「アブラハムのふところ」とは、あくまでも旧約の義人たちにとっての「〔永遠の命に到達する以前の〕一時的な通過点」に過ぎず、最終的な目的地ではない。

(注)別エントリー「試論:人間の完成形(最終形態)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15868

ヨハネ3章29節の通りヘブライ人は神を花婿に、神の民を花嫁に喩えた。従ってマタイ22章8節以下の通り、婚宴とは神が神の民の中の相応しい人々を神の国に迎え入れ喜びを共にすることである。主イエスは御受難と御復活の間に新しい天・地・エルサレムを創造され、旧約の義人たちを迎え入れられた。

(注)別エントリー「試論:『聖書が実現するため』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17226

主イエスは福音書で自身の御受難と御復活を随所で暗示されたが、御受難と御復活の間に御自分がどんな働きをなさるかについても、ヨハネ14章2節から3節で予告された。それはイザヤ65章17節以下の「新しい天・地・エルサレムの創造」預言の成就であり、御自身の復活の体の創造で完成の時を見た。

(注)別エントリー「主の御復活とともに創造された事柄とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15917

試論:イエスからそれて行く人々を140文字以内で

二テモテ4章3節以下では、やがて人々が健全な教え、すなわち神の御独り子イエスが人間の世に来られた時に実際に仰せになった御教えからそれて行き、替わりに人々はただ自分に都合のいい話を聞くために真理(=主イエス。ヨハネ14章6節)の言葉から耳をそむけて、作り話に引かれて行くと警告した。

(注)別エントリー「試論:『イエスは全人類の模範』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5948

(注)別エントリー「試論:預言解釈の基本を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5092

【追記】

ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは「天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神」主イエスを表す称号であり主が直接人々にお話しになった御言葉を記したものが福音書である。福音書を顧みず他のものばかりに目を奪われ続けるならばイエス・キリストがわからなくなる。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

試論:ルカ福音書中の「ヘロデ」を140文字以内で

ルカ福音書の「ヘロデ」は、マタイ2章に登場するヘロデ大王の息子の、ヘロデ・アンティパスである。マルコ6章によれば彼は洗礼者の教えに耳を傾けてはいたが、多分に好奇心によるもので、悔い改める気などなかった。後に御受難の日の主イエスに会っても、思う通りにならないと直ちに嘲弄し侮辱した。

【追記】

ヘロデ・アンティパスは洗礼者の言葉に喜んで耳を傾けたが単なる好奇心からで、自分の兄弟がお人好しであることにつけ込んで、その妻と親密になり、やがて彼女を奪い取った。根はやはり悪人の彼はイエスの逮捕後、イエスにも興味を抱いたが、興味を失うと洗礼者の時と同様に、イエスを平気で見捨てた。

申命記25章には跡取りを産む前に夫に先立たれた女性に、家名を存続させる目的で亡夫の「兄弟(親族の男性全般)」との再婚を求める規定がある。しかしマタイ14章のヘロデは兄弟フィリポが存命中なのに、その妻と親密になり兄弟から妻を奪い取った。この件で洗礼者ヨハネはヘロデを厳しく叱責した。

(注)別エントリー「試論:『洗礼者ヨハネの死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14207

兄弟に妻を奪われたフィリポは、ヘロデ大王の息子たちの中ではへりくだりを知る常識人だった。ただ、癖の強い猛々しい悪人が揃うヘロデ王家の中にあっては、フィリポのこの態度は物足りなくも弱々しい「お人好し」として周囲に映ったようで、そこにつけ込んだ妻と兄弟によって小馬鹿にされてしまった。

主の御降誕から第二神殿の滅亡までエルサレムに七人の「王」が君臨した。ヘロデ大王、アルケラオス、アンティパス、アグリッパ一世、アグリッパ二世がヘロデ王家の人で、ヘロデ王家のユダヤ退去後の独裁者ギスカラのヨハネが六人目に該当し、ローマ帝国に処刑されたシモン・バルギオラが七人目である。

(注)別エントリー「試論:黙示録18章を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5394

(注)別エントリー「試論:黙示録16章を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5086

(注)別エントリー「試論:黙示録の「第八の者」を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12097

試論:「自信過剰」「自信喪失」を140文字以内で

主イエスはマタイ26章で、ペトロが「たとえ皆があなたにつまずいても決してわたしはつまずきません」と大言壮語した際「鶏が鳴く前に」と警告された。しかし御復活の後、肝心な時に逃げたことで意気消沈しているペトロに対して、主は食事を準備して待ち、近くで給仕された(ルカ12章38節参照)。

(注)別エントリー「『婚宴帰りの主人』=『御復活の主』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18271

【追記】

ルカ12章36節以下「婚宴帰りの主人が戸を叩く時、目を覚ましていて、すぐ開けようと待つ人は幸い。主人は帯を締め、この僕(しもべ)たちを食事の席に着かせ給仕してくれる」ヨハネ21章9節以下「陸に上がると、炭火が起こしてあって上に魚があり、パンもあった。『さあ来て食事をしなさい』」。

(注)別エントリー「試論:『一緒に食事をする』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16061

試論:「九月二十四日」と御降誕を140文字以内で

福音書に救い主の誕生日の記述はないが、旧約聖書のハガイ2章には「神殿の礎」すなわち《神の家の隅の親石(=主イエス・キリスト)》が備えられる日として、古いヘブライの暦で「第九の月の二十四日」という冬の日付が何度も啓示される。この日はユダヤ教のハヌカ(神殿奉献記念祭)と同時期である。

(注)別エントリー「試論:神殿奉献記念祭(ハヌカ)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12788

(注)別エントリー「聖書にはクリスマスの日付が載っていますか???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13267

(注)別エントリー「旧約聖書と『偽教師』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17476

【追記】

キリスト教が主の御降誕を祝う時期に、ユダヤ教もハヌカ(ヨハネ10章22節)を祝う。ハヌカは、紀元前二世紀にエルサレムの神殿が清められ新生したこと(一マカバイ4章52節)を祝う。主もヨハネ2章で御自身の体を神殿に喩えられた。キリスト教の伝統では、主の御降誕はハヌカと同時期であった。

エズラ10章9節以下では、ユダとベニヤミンの男性たちが異邦人の娘たちとの結婚を祭司エズラに咎められ、エルサレム神殿の広場に座っていたと記す。季節はヘブライの暦の「第九の月の二十日」と冬で、恐れと雨とで人々は震えていた。この時の雨量は大集会が雨天でも野外で決行可能な程度だと分かる。

主イエスはマタイ21章42節で、詩編118編22節を踏まえ御自身を「家」の《隅の親石》に喩えられた。他方ハガイ2章は《主の神殿(=神の「家」)の基》が置かれる日(18節)としてヘブライ人の暦で「第九の月の二十四日」と冬の日付を何度も強調する。これはユダヤ教のハヌカと同時期である。

試論:「奇跡以上の奇跡?」を140文字以内で

キリストの信者を自称する人々の中には、御降誕の後のマリアの終生童貞を認めない人々がいる。処女懐胎もキリストの復活もキリストの昇天も、キリストが水の上を歩いたこともパンを増やしたことも認めるけれど、ただマリアの終生童貞だけは頑として認めないわけである。そこに奇跡などは必要ないのに。

(注)別エントリー「試論:ヨセフが妻を畏敬する理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7888

(注)別エントリー「試論:『聖別』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18374

(注)別エントリー「イエスの『兄弟』『姉妹』:同胞か親戚か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1451

(注)別エントリー「試論:ルツ記とイエスの兄弟たちを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8585

(注)別エントリー「試論:四世紀の『イエスの兄弟』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13087

【追記】

ルカ2章51節は少年時代の主イエスが両親に従っておられたと記す。他方、4章5節から8節は悪魔が主を誘惑して自分に従わせようとしたが、主は断固として拒まれたと記す。今、キリストの弟子を自称する人々が、母マリアを拒む一方で悪の誘惑には抵抗できないとしたら、彼らの本籍はどこにあるのか?

(注)別エントリー「試論:『女』とサタンの対立を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10314

(注)別エントリー「試論:どちらに従うべきか?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19047

(注)別エントリー「試論:『マリアとヨセフと聖書』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16295

試論:宣教の目的を140文字以内で

主イエスは「神の国」を宣べ伝えるために十二人を遣わされた(ルカ9章2節)。マタイ10章7節「『天の国は近づいた』と宣べ伝えるために出発しなさい」同6章33節「神の国と神の義とを求めなさい」同7章12節「あなたが他の人からしてもらいたいことを全て、あなたの方から他の人にしなさい」。

(注)別エントリー「試論:『ともし火と隣人愛』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19094

【追記】

主イエスは御受難と御復活の間に「新しい天・地・エルサレムの創造」を準備され誕生させたが、イザヤ66章8節は「誰がこのようなことを見聞きしたであろうか。一つの国が一日で生まれ一つの民が一日で生まれることがあり得るだろうか」と預言する。「天の国は近づいた」の《天の国》とはこれだった。

(注)別エントリー「試論:『神のものを神に返す』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18573

(注)別エントリー「試論:新都エルサレムに住む条件を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11197

パウロは一コリント15章で「キリストの復活」こそ福音の核心であり、キリストの御復活つまり《天上の体(復活の体、霊の体)の創造》こそが信仰における全ての希望の源であると強調した。「天上の体」こそが、キリスト御自身のみならず、キリストを信じる全ての人々にとっての、目的地だからである。

(注)別エントリー「試論:『霊の帰還』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8381

(注)別エントリー「試論:『天国の福楽を相続する』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13891

(注)別エントリー「試論:死者の中から最初に復活?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18730

黙示録21章16節以下では新しいエルサレムの巨大性が啓示される。これは当然、ヨハネ14章2節以下「わたしの父の家には住む場所がたくさんある。もしなかったなら、あなたたちのための場所を準備しに行くとは言わない。あなたたちの場所を準備したらあなたたちの許に戻って来る」を反映している。

ルカ13章23節は主イエスに救われる者は少ないかを尋ねた人がいたと記す。主は直接の回答をされなかったが、のちに最後の晩餐の夜、ヨハネ14章2節で「わたしの父の家にはたくさん住む所がある」と仰せになった。それが答えである。合格者の定員は存在しない。従って、問題は合否の基準と言える。

(注)別エントリー「試論:救われる者は少ないか??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18576

(注)別エントリー「試論:『誰の死も喜ばれない神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18444

試論:「わたしの母と兄弟たち」を140文字以内で

主イエスはルカ8章21節で「わたしの母と兄弟たちとは神の御言葉を聞いて行う人々のこと」と仰せになり、聞いて行うことの重要性を再確認された。既に主は18節で「持っている者はさらに与えられ、持っていない者は〜」と仰せになり、聞いても行わない者は御言葉自体から離れていくと御暗示された。

(注)別エントリー「試論:『持つ人は更に与えられ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11656

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「イエスの『兄弟』『姉妹』:同胞か親戚か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1451

【追記】

ルカ11章28節のギリシア語本文を読むと主は前節の「ある女性」の発言を否定しておらず逆に強く同意している。主は「もちろんそうだがさらに(母に関して)言えば、神の言葉を聞いてそれを守る人は幸いだ」とは仰せになったが、母は神の言葉を聞かないとか守らないなどとは一言も口にされていない。

(注)別エントリー「試論:ヨセフが妻を畏敬する理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7888

(注)別エントリー「試論:『マリアやヨセフに祈る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18647

御自分の母を称える女性の言葉に対し主はルカ11章で神の言葉を守る人こそ幸いと答えられた。ヨハネ14章で主は「わたしを愛する人はわたしの言葉を守る」と仰せになられたが、マリアが母として主を誰よりも愛しておられたことには疑う余地がなく、マリアが神の言葉を守らないことも当然ありえない。

(注)別エントリー「試論:主イエスへの愛を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5453

マタイ22章14節の「選ばれる人」とは、神からの招きに忠実に応じて「神の掟を守り通す人」(黙示録12章17節)である。隣人に対して憐れみ深い人は自分も神の憐れみを受ける(マタイ5章7節)。一人一人が隣人に対して取るのと同じ態度を、神も一人一人に対して返される(ルカ6章38節等)。

主はマタイ7章26節で「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は、砂の上に家を建てる人に似ている」と教えられた。22章14節「招かれる者は多いが選ばれる者は少ない」とは、「わたしの教えを耳にしたことのある者は多いが、それを真摯に受け止めて日々実践している者は少ない」という意味である。

黙示録7章9節は、「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆」が御父と御子を称える光景を記す。イザヤ56章1節は、正義を守り恵みの業を行う人々、すなわち、主が望まれることを選んだ(4節)人々に、救いと恵みの業が訪れることを預言する。

(注)別エントリー「試論:『合格者数と合否の基準』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8201

(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6748

今、あなたの神、主があなたに求めておられることとは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてその全ての導きに従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸せになることではないか。(申命記10章12節〜13節)

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

ミカ6章8節「何が善であって、主が何をあなたたちに求めておられるかは、あなたたちには既に告げられている。それは神の義を行い、憐れみの業を愛し、へりくだり神と共に歩むこと」ホセア6章6節「わたしが求めるものは『いけにえ』ではなく憐れみであり、焼き尽くす献げ物ではなく神を知ること」。

弟子たちの足を洗うという行為を通じて、主イエスは隣人に敬意を払って尊重することこそ御自分の御教えの根幹であると教えられた。自分自身が他人から尊重され敬意を払われた経験がなければ敬意と尊重は理解できない。「互いを尊重するなら、それを見て皆はあなたたちがわたしの弟子であると認める」。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

試論:どう聞くべきかに注意??を140文字以内で

主イエスはルカ8章18節で「どう聞くべきかに注意しなさい」と仰せになり、マルコ4章33節では「人々の聞く力に応じて多くのたとえで御言葉を語られた」。これらの場合「聞く」は「聞き分ける(心で理解する)」の意味である。マタイ13章15節では「聞く」と「心で理解する」とを併記している。

(注)別エントリー「試論:『持つ人は更に与えられ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11656

【追記】

マタイ13章で主はたとえで話す理由を御説明されたが、「目で見る」「耳で聞く」という表現も「御教え(御言葉)を悟る」「心で理解する」ことの比喩で、それは「悔い改め」に導く。忠実な弟子に主は特別な「耳」(理解力)を与えるとイザヤ50章4節は預言し、理解力と悔い改めとは表裏一体である。

(注)別エントリー「試論:聞くだけの人を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5294

(注)別エントリー「試論:聞いても実行しない人を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7347

箴言8章5節は「あさはかな人」に熟慮を勧め、「愚かな人」すなわち「主の御言葉を聞くだけで実行しない人」(マタイ7章26節)に反省を勧める。主の御言葉は慎重さ(箴言2章11節)と熟慮(8章12節)を教えて日常の不必要なトラブルから人を守るのに、いつまでも暴言を吐く人にはわからない。

(注)別エントリー「試論:『救われる者は少ないか』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8111

主はマタイ13章12節で御教えを聞いても実行しない人のことを、持っていない人は持っているものまでも取り上げられると仰せになった。これは25章29節でも繰り返され恵みである御教えを隠したと同然の人は、最終的に一度与えられた恵みまで取り上げられると、タラントンのたとえで御説明された。

(注)別エントリー「試論:『土台なしで家を建てる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8274

(注)別エントリー「試論:キリスト抜きのキリスト教を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6639

一ヨハネ4章は、世間的な事柄(5節)ばかり語る一方で福音書の主の御言葉に関してはなるべく触れずに自分も実行しない者を、たとえキリスト信者を自称しようと「反キリストの霊」と断じたが、この種の欺瞞的な信者をマタイ25章では主人から預かった財産(=福音の賜物)を隠した者にたとえている。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:反キリストの霊を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5217

(注)別エントリー「試論:反キリストを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5487

(注)別エントリー「試論:福音書からそれていくことを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6074

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

(注)別エントリー「試論:『世の光』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5388

(注)別エントリー「試論:マタイ25章の十人の乙女を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5994

試論:「ともし火と隣人愛」を140文字以内で

主イエスはルカ8章16節以下で、「ともし火」の比喩を用いられ、「あなたがわたしの御言葉を聞き、わたしの律法(マタイ7章12節)を理解したならば、聞くだけの人で終わってはならず、必ず隣人たちには親切にして、わたしの御言葉を自分が受けたことを態度で示して伝えなさい」とお教えになった。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

【追記】

箴言12章28節「憐れみの道にこそ命がある。この道を行く人に死はない」ルカ6章35節以下「敵に親切にし、善を行い、何も当てにせず貸しなさい。そうすれば、あなたたちはいと高き方であられる天の御父の子となり、大きな報いを受ける。あなたたちも天の御父のように憐れみ深い者になりなさい」。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

イザヤ58章9節「もしもあなたが隣人を圧迫することをやめるなら、もしもあなたが隣人を侮ることをやめるなら、もしもあなたが隣人を言葉で傷つけることをやめるなら、あなたが主を呼ぶ時には必ず主は御答えになり、あなたが主に向かって叫ぶ時には必ず主は『わたしはここにいる』と御返事される」。

主イエスはマタイ5章16節で「あなたたちの光を、人々の前に輝かせなさい」と仰せになった。イザヤ58章6節〜10節では主からの賜物である光が輝く条件として、他人を圧迫したり小馬鹿にしたり暴言を吐いたりすることをやめて、困窮している隣人に救いの手を差し延べることであると啓示している。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

主イエス・キリストは「山上の説教」で「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」(マタイ7章26節)と仰せになり、また「聞いて行う者は岩の上に家を建てた賢い人に似ている」(24節)とも仰せになられ、行うことがない信仰生活のもろさを強調なさった。

(注)別エントリー「試論:マタイ25章の十人の乙女を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5994

主はマタイ13章12節で御教えを聞いても実行しない人のことを、持っていない人は持っているものまでも取り上げられると仰せになった。これは25章29節でも繰り返され恵みである御教えを隠したと同然の人は、最終的に一度与えられた恵みまで取り上げられると、タラントンのたとえで御説明された。

(注)別エントリー「試論:『土台なしで家を建てる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8274

一ヨハネ4章は、世間的な事柄(5節)ばかり語る一方で福音書の主の御言葉に関してはなるべく触れずに自分も実行しない者を、たとえキリスト信者を自称しようと「反キリストの霊」と断じたが、この種の欺瞞的な信者をマタイ25章では主人から預かった財産(=福音の賜物)を隠した者にたとえている。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:反キリストの霊を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5217

(注)別エントリー「試論:反キリストを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5487

二テモテ4章でパウロは、人々が「御言葉」(2節)つまり《主が人々の前に御姿をお見せになり直接人々にお話しになった御教え》には耳を傾けなくなり、「自分に都合の良い」(3節)「作り話」(4節)つまり真の御言葉ではない紛い物の方に引かれていくと警告したが、対策は福音書を読む以外にない。

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

ヨハネの手紙一は、キリストの弟子を自称する一方で公生活中にキリストが実際に何を語ってどう実行したかについて全く触れようとしない人々を警戒するよう呼び掛け、彼らがキリストの教会を乗っ取りキリストの御教えの代わりに世間のことだけ語り教会からキリストの存在を奪おうとしていると警告した。

(注)別エントリー「試論:『主イエスを見失うこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5954

ヨハネ1章1節の「言(ことば)」、いわゆる「神の御言葉」とは、「御自分で御言葉をお話しになる神」すなわち御子である神、主イエス・キリストを意味する。「言(ことば)は神とともにあった」とは、天地創造以前の初めから、御子である神は御父である神とともに存在しておられたということである。

ローマ10章17節以下「信仰は聞くことで、しかもキリストの御言葉を聞くことで始まる」「彼らはもちろん、聞いてはいた」マルコ4章23節以下「聞く耳のある者は聞け」「何を聞いているかに注意せよ。あなたたちは自分が他者を量る秤で神なる主から量り与えられ、それに加えてさらに与えられる」。

(注)別エントリー「試論:『話を聞くべき方』は誰?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13716

(注)別エントリー「試論:『話を聞くべきでない者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13709

主イエスはルカ8章18節で「どう聞くべきかに注意しなさい」と仰せになり、マルコ4章33節では「人々の聞く力に応じて多くのたとえで御言葉を語られた」。これらの場合「聞く」は「聞き分ける(心で理解する)」の意味である。マタイ13章15節では「聞く」と「心で理解する」とを併記している。

(注)別エントリー「試論:『どう聞くべきかに注意』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11664

主イエスはマタイ13章の「種を蒔く人」の喩えをお話しにになった際、「耳のある者は聞け」(9節)と命じられた。御子イエスは「言(ことば)」つまり御自分で御言葉をお話しになる神として来られた。従って主イエスに直接応対する場合には「御言葉に耳を傾ける」を選んだマリアの方が良しとされた。

(注)別エントリー「『マリアは良い方を選んだ』?」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17866

「罪人を招く」

マタイ9章13節「わたしが来た目的は、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」ホセア6章1節〜2節「さあ、わたしたちは主の御許に帰ろう。主はわたしたちの傷を覆ってくださり、いやしてくださる。主はわたしたちを立ち上がらせ命を与えてくださる。わたしたちは主の御前で生きる」。

主がマタイ9章13節で「わたしが求めるのは憐れみであり『いけにえ』ではない」とホセア6章6節に言及されてファリサイ派の人々に学ばせたかった「意味」という事柄の答えは、ホセア6章3節「主は曙の光のように必ず現われて、春に降り注ぎ大地を潤す雨のようにわたしたちを訪れて下さる」である。

主はマタイ福音書で「わたしが求めるのはあわれみであって犠牲(いけにえ)ではない」(ホセア6章6節)と繰り返されたが同節は「神を知ることであって焼き尽くす献(ささ)げ物ではない」と続く。「神を知る」を一ヨハネ2章3節は「神の掟(愛の掟。ヨハネ15章12節等)を守る」ことと説明する。

(注)別エントリー「試論:『神の御前で安心できる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7564

今、あなたの神、主があなたに求めておられることとは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてその全ての導きに従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸せになることではないか。(申命記10章12節〜13節)

ミカ6章8節「何が善であって、主が何をあなたたちに求めておられるかは、あなたたちには既に告げられている。それは神の義を行い、憐れみの業を愛し、へりくだり神と共に歩むこと」ホセア6章6節「わたしが求めるものは『いけにえ』ではなく憐れみであり、焼き尽くす献げ物ではなく神を知ること」。

洗礼者ヨハネは人々に「悔い改めよ。天の国は近づいた」と訴えたが、ルカ1章17節では洗礼者が担うことになる重大な使命として、《主に逆らう者に「正しい人(最後の審判で永遠の命が確約されている人)」としての分別を持たせるための準備をする》ことが、天使によって父ザカリヤに予告されている。

一ペトロ2章1節は「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口」を捨てるよう要請し、エフェソ4章31節は捨てるべき事柄を「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなど全てを一切の悪意とともに」とし、コロサイ3章8節も同様に「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉」を捨てることを要請する。

(注)別エントリー「試論:『捨てる』べきものは何?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9194

エゼキエル18章「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は仰せになる。彼が悪から立ち帰って生きることを喜ばないだろうか。お前たちが犯した全ての背きを投げ捨てて新しい心と霊を造り出せ。どうしてお前たちは死んでよいだろうか。お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」。

キリスト教の歴史上「救われる者と救われない者とは神に予め定められている」という主張が存在したが、ならば神はなぜエゼキエル18章32節で「お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」と仰せになったのだろうか。二コリント5章14節「キリストは全ての人のために亡くなられた」。

(注)別エントリー「試論:救われる者は少ないか??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18576

(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3277

主イエスはルカ15章7節で「悔い改める必要のない九十九人の義人よりも、悔い改めている一人の罪人のことを天は大いに喜ぶ」と仰せになり、マタイ18章14節ではエゼキエル18章32節「わたしは誰の死も喜ばない」と同様に、天の御父は悪人の滅亡よりも悪人の回心を喜ばれることを再確認された。

(注)別エントリー「試論:『悔い改める一人の罪人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17627

ヨハネ9章31節には「神は罪人の言うことなどお聞きにならないとわたしたちは承知している」という言葉が記されてはいる。罪人が良からぬ企みを実行する前に成功を神に願い求めても、神が聞き入れるわけがないが、罪人が罪人であることを止めて回心したいと神に願う時は、神は喜んで聞き入れられる。

(注)別エントリー「試論:『聞き入れられる願い事』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18477

ルカ23章40節以下で主の隣の十字架につけられた盗賊は最後に神への畏れを知り、自分の今の惨めな境遇は全て自業自得だが神には罪はなく神の御心に適う願いなら聞き入れられると確信し、自分の隣にいるのは神そのものであると信じて直接それを伝えた。彼の信仰告白に主は最大の幸福を御約束された。

(注)別エントリー「『ぶどう園の労働者』実例を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18482

試論:「光の子らよりも賢く」?を140文字以内で

主イエスはルカ16章8節で「この世の子らは自分の仲間に対して、光の子らより賢くふるまう」と仰せになった。「光」は主イエス御自身、「光の子ら」は弟子たち、「この世の子ら」は世間の人々、「賢く」は抜け目なくの意味である。ルカ6章32節「罪人でさえ、自分を愛してくれる人を愛している」。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章4節『命の光』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7297

(注)別エントリー「試論:『人間を照らす光』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7227

【追記】

イザヤ55章6節「主を見つけられる間に主を尋ね求め、主が近くにおられる間に主を呼び求めなさい」ヨハネ12章35節「暗闇に追いつかれぬよう光のある間に光の中を歩みなさい」。「もし永遠の意味を理解したなら人は自分を改めるためにどんな努力でもするでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「試論:悪人のままでもいいの??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16169

(注)別エントリー「試論:『光のある間に歩め』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15910

ヨハネ3章19節「光(=救い主イエス・キリスト)が世に来たのに、人々は自分の行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだが、そのこと自体で既に裁かれている」マタイ7章21節「わたしに向かって『主よ、主よ』と呼ぶ者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入る」。

(注)別エントリー「試論:『わたしは世の光』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15561

試論:「不正の富」と「隣人愛」を140文字以内で

主イエスはルカ16章9節で、まだ信仰心の乏しい時期に誉められたものでない方法で蓄財した富を、後から隣人愛のために使うなら、その人の身に何が起ころうと、その人は永遠の命を得られると教えられた。。箴言19章17節「困窮している人を助けることは主に貸しを作ることに等しく必ず報われる」。

(注)別エントリー「試論:『憐れみの道に命がある』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18765

【追記】

箴言19章17節は「誰かの助けを待ち続けて落ち着けぬ思いの人に対して、あなたが親切にすることは、主に対して貸しを作っていることと同じであり、主はあなたの行いに対し、いずれ必ずお返しをしてくださる」と説き、内容的にはマタイ25章「最後の審判」の箇所における主の御言葉と対応している。

(注)別エントリー「試論:『主の祈り』と最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7047

ルカ19章8節でザアカイは主に「わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また何かを誰かからだまし取っていたなら四倍にして返します」と約束した。マタイ5章7節の「憐れみ深い人は幸いである。その人は憐れみを受ける」という御言葉の通り、主は「今日この家に救いが訪れた」と宣言なさった。

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346

一人の律法学者は自分を「義化」(ルカ10章29節)しようとして(「義人」(マタイ1章19節)とするために)、隣人愛(ルカ10章27節)に関して、主に、踏み込んだ質問を行なった。主は、憐れみの心(33節)と「神の義」と隣人愛と永遠の命(25節)は事実上重なっているとお教えになった。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4544

試論:「神と富とに仕えること」を140文字以内で

ルカ16章13節「神と富とに仕えることはできない」同8章14節「茨の中に落ちたとは人生の思い煩いや富や快楽が途中で覆い塞ぐ人のことで、神の御言葉を聞いても実が熟するに至らない」同章11節「種とは神の御言葉」ヨハネ1章14節「神の御言葉は人間となられ、わたしたちと共に住まわれた」。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

(注)別エントリー「試論:『心を燃やす主の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18425

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7795

【追記】

主イエスはルカ16章で「神と富の両方に仕えることはできない」(13節)と教えられた。具体的に、19節以下の「金持ちとラザロ」の話で憐れみの心を持たない者の末路を仰せになり、他方「不正な管理人」の話で「愛は罪を覆う」(一ペトロ4章8節)の意味及び「憐れみの道」の重要性を教えられた。

(注)別エントリー「試論:『不正な管理人』ザアカイを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12335

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「試論:『憐れみの道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14859

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

(注)別エントリー「試論:『背を向けてはならない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15021

試論:「不正にまみれた富」を140文字以内で

ルカ19章8節でザアカイは主に「わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また何かを誰かからだまし取っていたなら四倍にして返します」と約束した。マタイ5章7節の「憐れみ深い人は幸いである。その人は憐れみを受ける」という御言葉の通り、主は「今日この家に救いが訪れた」と宣言なさった。

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346

【追記】

主イエスはルカ16章の「不正な管理人」のたとえで、私欲のためでなく隣人のために富を費やすならば救いが訪れると仰せになり、後に徴税人ザアカイがその実例となった。19章8節「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。誰かから何かをだまし取っていたならそれを四倍にして返します」。

(注)別エントリー「試論:憐れみは『上から目線』かを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5471

試論:どちらに従うべきか?を140文字以内で

ルカ2章51節は少年時代の主イエスが両親に従っておられたと記す。他方、4章5節から8節は悪魔が主を誘惑して自分に従わせようとしたが、主は断固として拒まれたと記す。今、キリストの弟子を自称する人々が、母マリアを拒む一方で悪の誘惑には抵抗できないとしたら、彼らの本籍はどこにあるのか?

(注)別エントリー「試論:『女』とサタンの対立を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10314

(注)別エントリー「試論:『マリアとヨセフと聖書』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16295

【追記】

黙示録12章の女は5節で、諸国民を鉄の杖で治める男の子を産んだ。かつてモーセは神の杖を槌として用い岩を打ち砕いた。エレミヤ23章29節は御言葉を、岩を打ち砕く鉄槌に喩える。故に黙示録の鉄の杖も御言葉の象徴的表現で、男の子は「神の御言葉」主イエス・キリスト、女はその母マリアを指す。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

創世記3章15節で神は、サタンと決定的に対立する一人の女性が将来現れることを予告された。黙示録12章では、それは救い主の母となった女性のことだと啓示された。救い主は人々を罪や悪から救うために生まれるので、その母が存在の最初の瞬間から罪や悪とは完全に無縁であるべきなのは当然である。

(注)別エントリー「神のお告げ:受胎告知と無原罪の御宿り」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4835

黙示録は古代のヘブライの世界観に従い人間を「土の器」(2章27節)と表現し、さらにそれを踏まえ「諸国の民の上に立つ権威」(同節)を「鉄の杖」(同節、12章5節)に喩える。12章で「鉄の杖」は神の御独り子たる主イエスの王権を象徴し、最後までイエスに忠実だった人々は主の王権にも与る。

(注)別エントリー「試論:『女』と『残りの者たち』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10682

(注)別エントリー「『土の器』(つちのうつは)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14324

試論:「七つの悪霊」???を140文字以内で

ルカ8章2節はマグダラのマリアを、主イエスに七つの悪霊を追い出していただいた女性と記す。「七つの悪霊」として最も蓋然性が高い事柄は箴言6章17節以下に記される七つの悪徳(高慢、虚言、殺意、悪巧み、無分別、詐欺、偽証)を指すと思われる。マグダラは風紀の乱れた地として悪名が高かった。

(注)別エントリー「試論:『わたしに触れるな』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16000

(注)別エントリー「マグダラのマリア」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17893

【追記】

ルカ8章48節で主は御自分の服に触れ癒しを得た女性に「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と仰せになった。7章50節でも主は罪の女性に赦しを与えた際に、同じ言葉をかけられた。イザヤ6章10節(マタイ13章15節、ヨハネ12章40節)でも主の赦しは癒しと同一視される。

(注)別エントリー「試論:他人を赦すことを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5300

主イエスはルカ11章24節以下で、いくら御自分や弟子たちが人々から悪霊を追い出したとしても、その人自身が悪霊を拒む強固な意志を抱いて主なる神への信仰によって悪霊に心の隙を与えぬよう努めなければ、やがて悪霊はその人の隙に乗じて戻って来て、その人の内面を占領してしまうと仰せになった。

(注)別エントリー「試論:『体も家も自身の住まい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9924

(注)別エントリー「試論:『土の家』(+復活の体)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9624

ローマ1章は28節「してはならぬこと」32節「死に値する行い」(32節)に関し29節以下に列挙する。全ての不義と悪、貪欲、悪意、妬み、殺 意、不和、詐欺、邪念、悪口、誹謗中傷、神を憎むこと、隣人を侮ること、高慢、大言壮語、悪だくみ、親不孝、御言葉の無視、不誠実、冷酷や無慈悲である。

主はマルコ7章20節以下で、御自分が人々にお望みである「清さ」とは対極にあるもの、つまり「愛」そのものである御自分とは相容れないものについ て「悪い思い」と総称され、具体的には、みだらな行い・盗み・殺意・姦淫・貪欲・悪意・詐欺・好色・ねたみ・悪口・傲慢・無分別などだと御説明された。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

二テモテ3章でパウロは「終わりの時」の人々の姿を記した。自分本位で金銭を愛し、嘘をつき、神を畏れず嘲り、両親に従わず、恩知らずで、他人を侮 り、情け容赦なく、強情で、中傷し、節度がなく、残酷で、善を行わず、裏切り、軽率かつ高慢、信仰を装いつつ実際は快楽を愛し、事実上は棄教している。

試論:「あなたの罪は赦された」を140文字以内で

主イエスはルカ7章48節で「罪深い女」に「あなたの罪は赦された」と仰せになり、続く49節は同席の人々が「罪まで赦すこの人は一体何者なのか」と考え始めたと記す。詩編103編3節は「主はあなたの罪をことごとく赦される」と歌う。人々は目の前の人物がメシアとして振る舞っていると気付いた。

(注)別エントリー「試論:『安心して行きなさい』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10593

(注)別エントリー「試論:『わたしの主』と母マリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8575

【追記】

ルカ8章48節で主は御自分の服に触れ癒しを得た女性に「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と仰せになった。7章50節でも主は罪の女性に赦しを与えた際に、同じ言葉をかけられた。イザヤ6章10節(マタイ13章15節、ヨハネ12章40節)でも主の赦しは癒しと同一視される。

(注)別エントリー「試論:他人を赦すことを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5300

試論:「知恵を得られない人々」を140文字以内で

一コリント1章24節はキリストを神の知恵と呼ぶ。主イエス御自身もルカ11章49節では神の知恵を自称され同7章35節でも知恵を自称された。不遜な人は知恵を得られぬと箴言14章6節は説く。十字架上のイエスを「そこから降りてみろ」と嘲った者たちにはキリストの生涯の意味は理解不能である。

(注)別エントリー「試論:神の知恵としてのキリストを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17439

【追記】

主イエスは「知恵の正しさは、それに従う全ての人によって証明される」と仰せになった。これに関連しルカ11章49節は「神の知恵」に言及するが、一コリント1章24節はキリストを「神の知恵」と呼ぶ。ヨハネ13章35節「あなたたちが互いを尊重するなら皆はあなたたちをわたしの弟子と認める」。

(注)別エントリー「試論:ルカ7章35節の『知恵』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18970

試論:「裏切り者の秘めた悪意」を140文字以内で

ルカ7章36節以下は「罪深い女」が主イエスのために香油を惜しげもなく注いだと記し、ヨハネ12章は酷似した出来事があったことを記す。ユダは自分の盗みを棚に上げてベタニアのマリアを非難した。ユダは自身が信仰を失っていたにもかかわらず、他人を批判できる時には急に活気付きマリアを責めた。

(注)別エントリー「試論:『正論を装った悪意』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11241

【追記】

レビ19章18節は隣人愛の掟を記すが、15節は貧者救済の理由であろうと判断を惑わされてはならないと説く。ヨハネ12章でイスカリオテのユダが貧者救済を理由にベタニアのマリアを攻撃した際、主イエスはユダの言葉が貧者救済を口実にした単なる言い掛かりに過ぎないと見抜かれ、女性を擁護した。

(注)別エントリー「試論:『人間を照らす光』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7227

二テモテ3章でパウロは「終わりの時」の人々の姿を記した。自分本位で金銭を愛し、嘘をつき、神を畏れず嘲り、両親に従わず、恩知らずで、他人を侮り、情け容赦なく、強情で、中傷し、節度がなく、残酷で、善を行わず、裏切り、軽率かつ高慢、信仰を装いつつ実際は快楽を愛し、事実上は棄教している。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

エフェソ4章の後半以降(17節以下)では、洗礼を受けた人が取るべき(また避けるべき)態度を教える。悪態をつき、無慈悲で、平然と悪口を言い、思う通りにならないと大声で喚き、怒鳴り散らし、相手が幼子や女性だと小馬鹿にして勝ち誇る人がいたとして、誰が彼のことを信者だなどと思うだろうか?

(注)別エントリー「試論:『ねたみや利己心のある』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12116

試論:赦されることの少ない者?を140文字以内で

主イエスはルカ7章47節で「赦されることの少ない者は、愛することも少ない」と教えられた。マタイ18章35節「あなたが心から兄弟を赦さないならば、わたしの天の父もあなたに同じようになさる」マタイ7章12節「他の人からしてもらいたいことならなんでも、あなたの方から他の人にしなさい」。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

(注)別エントリー「試論:『仲間を容赦しない家来』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5511

(注)別エントリー「試論:『仲間を赦さない者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7690

【追記】

「罪深い女」は主イエスが自分の町におられることを知り、ただただ赦されたいという一心で、主に会おうとファリサイ派の人の家に入った。行けばファリサイ派の人々の非難の標的にされることは、分かり切っていた。しかし彼女は、主から赦しを得られるのならばと、黙って何を言われようとも耐え忍んだ。

(注)別エントリー「試論:赦しは救いの鍵を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5382

(注)別エントリー「試論:自分が裁かれないためにはを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5501

試論:「救い主と赦し」預言を140文字以内で

エレミヤ31章33節では救い主が「御自分の律法」をモーセの律法に替えて人々に授けると預言し、続く34節では救い主は人々に赦しを与える存在と預言する。主イエス・キリストは、ルカ7章48節に見られるように人々に赦しをお与えになり、また御自分の律法(マタイ7章12節)をお授けになった。

(注)別エントリー「試論:『主によって教えられる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16434

(注)別エントリー「試論:キリスト教の基礎を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/19005

【追記】

ルカ2章11節は救い主がお生まれになったと記し、1章77節は「罪の赦しによる救い」の預言を記す。救い主イエス・キリストは6章37節で「あなたが他人を赦すなら、あなたも赦される」また「あなたが他人を罪人と決めつけないなら、あなたも罪人と決めつけられることがない」等々と仰せになった。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

(注)別エントリー「試論:キリスト教と旧約聖書を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6527

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4783

試論:キリスト教の基礎を140文字以内で

主イエスは「他の人からしてもらいたいことはなんでも、あなたから他の人にしなさい」(マタイ7章12節)とお教えになり、これを御自分の《律法》と仰せになった。パウロは一コリント9章21節とガラテヤ6章2節でこれを《キリストの律法》と呼び、モーセの律法に替わるものとして人々に提示した。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

【追記】

【問】キリストの御教えは、現代社会では流行らないようにも思えますが?
【答】キリストは御教えの核心を「他人からしてもらいたいことなら全て、あなたから他人にしなさい」と教えられました。他人に対する敬意や尊重は相互の実践でしか世に広まらず、欠乏すると人間社会が針のむしろに感じられます。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

弟子たちの足を洗うという行為を通じて、主イエスは隣人に敬意を払って尊重することこそ御自分の御教えの根幹であると教えられた。自分自身が他人から尊重され敬意を払われた経験がなければ敬意と尊重は理解できない。「互いを尊重するなら、それを見て皆はあなたたちがわたしの弟子であると認める」。

試論:「大バビロン」を140文字以内で

【問】なぜ黙示録では、エルサレムが「大バビロン」と呼ばれましたか?
【答】バビロン捕囚から解放されたユダヤ人は、失ったも同然の信仰を回復するためエルサレムに帰り、神殿を再建しました。ところが約五百年後、神殿の人々は救い主を殺すことによって信仰を失っていたバビロン時代へ逆行しました。

(注)別エントリー「試論:『大淫婦』の正体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15895

(注)別エントリー「試論:大祭司アンナスを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16079

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

(注)別エントリー「試論:『アンナス二世』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15414

【追記】

主イエスはヨハネ8章15節で「あなたたちは肉に従って裁く」と仰せになった。ヨハネ福音書は人間的な事柄を「肉」、神に由来する事柄を「霊」と呼び対比する。ヘロデ王家は自分たちに同調する祭司へ大祭司の権力と富を与え籠絡していた。福音書における神殿の有力者たちの堕落はそれが原因であった。

(注)別エントリー「試論:『肉と霊』の対比を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7740

(注)別エントリー「試論:ガラテヤ5章の『肉と霊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7657

(注)別エントリー「試論:聖書と『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7649

ヨハネの黙示録17章5節には「淫婦の母、地上のあらゆる憎むべきものの母である大バビロン」と書かれているが、ゼカリヤ書2章11節では、エルサレムの住民が「バビロンの娘」という表現で呼び掛けられている。当時のエルサレムの住民は、かつてバビロンに連行されて住み着いた人々の子孫であった。

(注)別エントリー「試論:『売買できぬようにした』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17376

(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1699

〔注〕別エントリー「七つの山々の都エルサレム」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/854

試論:ルカ7章35節の「知恵」を140文字以内で

主イエスは「知恵の正しさは、それに従う全ての人によって証明される」と仰せになった。これに関連しルカ11章49節は「神の知恵」に言及するが、一コリント1章24節はキリストを「神の知恵」と呼ぶ。ヨハネ13章35節「あなたたちが互いを尊重するなら皆はあなたたちをわたしの弟子と認める」。

(注)別エントリー「試論:神の知恵としてのキリストを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17439

【追記】

パウロは一コリント1章24節で「召された者に対しては、神の力であり神の知恵であるキリストを宣べ伝えている」、同30節で「このキリストはわたしたちにとって神の知恵となり」と記す。主イエスもルカ11章49節で「神の知恵もこう言っている」と「神の知恵」を自称なさり仰せを宣べられている。

(注)別エントリー「試論:『言』と『神の知恵』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17442

試論:「シュネムとナイン」を140文字以内で

主イエスはルカ7章で、ナインという町のやもめの息子を生き返らせられた。その八百年以上前にエリシャはシュネムという町の婦人の子供を生き返らせる奇跡を行っていた。シュネムとナインは距離的に極めて近かったと想定され、町の人々がイエスを大預言者と呼んだのも、エリシャの故事を踏まえている。

(注)別エントリー「試論:『時代のしるし』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14378

【追記】

主イエスはパンを増やし五千人の群衆に食べ物を与えるという奇跡を行われた。類似の奇跡は列王下4章42節以下で「神の人」預言者エリシャも行っていた。主イエスの神の御独り子たる本領は「生まれつき目が見えなかった人の視力を回復させた」(ヨハネ9章32節、イザヤ35章5節)時に発揮された。

(注)別エントリー「試論:『救い主の識別』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13316

試論:聖母崇敬の意味を140文字以内で

【問】なぜ母マリアは崇敬されるべきですか?
【答】神の御独り子が救い主として人間の世に来られることを預言者たちは語っていましたが同時に、救い主が生贄の小羊のように屠殺されるとも語っていました。しかしマリアは生まれて来る子の苛酷な定めを完全に理解した上で、母となることを承諾しました。

【追記】

主の御受難を預言したイザヤ53章7節では、出エジプトの代価となった「小羊」(出エジプト記12章3節等)を想起させる一方で、「屠(ほふ)り場に引かれる」と表現してイサクの犠牲の身代わりとなった羊(創世記22章13節)をも想起させ、主の御受難が人々の身代わりであることを再認識させる。

ヨハネ1章で洗礼者は主イエスを「神の小羊」(29節、36節)と呼んで周囲に注意喚起したが、ペトロは第一の手紙1章19節で「きずや汚(けが)れのない小羊のようなキリスト」と呼び2章22節ではさらに「罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」とイザヤ53章9節を引用し説明する。

エレミヤ11章19節「わたしは、飼い馴らされた小羊が屠(ほふ)り場に引かれて行くように、何も知らなかった。彼らはわたしに対して、悪巧みをしていた」ヨハネ5章39節「聖書はわたしについて、あかしをするものだ」ルカ24章44節「わたしについて預言者の書にある事柄は必ず全て実現する」。

(注)別エントリー「試論:主イエスと旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7462

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4783

出エジプト記12章では、イスラエルの人々がファラオの支配から解放される代価となった小羊の存在に言及する。ヨハネ1章29節では、十字架において世の人々が罪の支配から解放される代価となるはずの主イエス・キリストの存在について、洗礼者ヨハネが「神の小羊」と呼んで、注意を喚起したと記す。

(注)別エントリー「試論:世の罪を取り除く神の小羊を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6140

詩編49編8(7)節は神に対し人間は贖いの業を行うことができないと記す。マタイ20章28節で主イエスは、「人の子(人となった神の独り子)」が世に来た目的とは、御自身が担っている「人間としての全て」を「身代金(詩編49編8節と同表現)」として贖いの業を行うためであると、宣言された。

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7479

黙示録7章16節はイザヤ49章10節を踏襲することで洗礼者が言及した(ヨハネ1章)

「〔神の〕小羊」

とイザヤ書の

「主の僕(しもべ)」

が同一人物であると再確認させ、

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために来た」
(マタイ20章28節、マルコ10章45節)

という事柄をも再確認させる。

ヨハネ1章29節「世の罪を取り除く神の小羊」の「取り除く」に当たるギリシア語は、一ヨハネ3章5節にも登場し、その前後では隣人愛の実践を奨励するが、同じ表現をエフェソ4章31節も用い、主に応えて信者が取り除くべき事柄を「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりを全ての悪意と共に」とする。

(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3277

エフェソ4章の後半では「神にかたどって造られた新しい人」として生きるためとして「怒ることはあっても罪を犯してはならない」「日が暮れるまで怒ったままではいけない」「悪い言葉を一切口にしない」「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどの全てを、一切の悪意とともに捨てる」等を勧めている。

ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。

ヨハネ1章14節は「神の御言葉(=主イエス)は肉(=人)となられ、わたしたちの間に宿られた(=住まわれた)」と記す。マタイ20章28節では主御自身が「仕えられるためではなく仕えるため」「多くの人の身代金(=あがない)として自分の命を献(ささ)げるために来た」と仰せになられている。

主はヨハネ14章27節で「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と仰せになった。ではどうやって主は御自分の平和をお与えになったのか、パウロがコロサイ1章20節で「その十字架の血によって」と答えを記した。

主はヨハネ12章27節で「今わたしは心騒ぐ」と仰せになり御自分の内面は穏やかでないと告白された。多くの侮辱を伴う凄惨なリンチの末に、十字架を背負わされ、「御自分の民」から罵声を浴びながら体力を消耗し尽くし、ぼろ布のような状態で大きな苦しみの内に息絶える日がそこまで来たからである。

主はヨハネ12章23節で「人の子が栄光を受ける時が来た」と仰せになった。御受難(十字架上の死)によって多くの人々に永遠の命をもたらし(24節〜25節)「死を永久に滅ぼす」(31節、イザヤ25章8節、一コリント15章54節、ヘブライ2章14節以下、コロサイ1章20節等)ためである。

ヨハネ8章34節「罪を犯す者は、罪の奴隷」12章31節「今、この世の支配者が追放される」ヘブライ2章14節〜15節「御自分に委ねられた者たちが人間である以上イエスも同じく人間としての全てを担われたが、死を司る悪魔を御自分の死によって滅ぼし悪魔の罪と死の支配から人々を解放された」。

主はヨハネ12章24節で「一粒の麦もし死なずば」の一節の前に、ギリシア語本文では二度「アーメン」と口にされた。通常この箇所は「まことにまことに」「よくよく」「はっきり」等と訳されるが、主はこうなさることで、そこが御教えの核心部分だと示された(31節及びコロサイ1章20節等参照)。

主はヨハネ8章32節で「真理はあなたたちを自由にする(解放する)」と仰せになった。パウロはヨハネと同じギリシア語を用いて何からの解放か、その答えをローマ6章と同8章で説明した。「罪から解放」(6章18節、22節)、8章2節「罪と死の法則から解放」同21節「滅びへの隷属から解放」。

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

ヨハネ1章14節は「神の御言葉(=主イエス)は肉(=人)となられ、わたしたちの間に宿られた(=住まわれた)」と記す。マタイ20章28節では主御自身が「仕えられるためではなく仕えるため」「多くの人の身代金(=あがない)として自分の命を献(ささ)げるために来た」と仰せになられている。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

ルカ2章21節でマリアの産んだ幼子はイエスと名付けられたが、その理由をマタイ1章21節では「その子は自分の民を罪から救うから」とヨセフの夢に現れた天使が語る。エレミヤ14章8節は救い主キリストの寄留者や旅人のような日々を預言し、ルカ9章58節は「人の子には枕する所もない」と記す。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888

ルカ2章11節は「あなたたちのために救い主がお生まれになった」マタイ1章21節は「この子は自分の民を罪から救う」と記す。イザヤ35節4節以下は「敵(サタン)を撃ち悪を罰する神が来られ、あなたたちを救われる」と預言し、目や耳や足や言葉の不自由な人々の回復が神の到来の徴になると続く。

マタイ1章でヨセフの夢に現れた主の天使は「マリアが産む子は民を罪から救う」と教えた。同じ事柄をペトロは使徒言行録3章26節で、「神は御自分の僕(しもべ、同13節参照)を立てられ遣わしてくださった。それは一人一人を悪から離れさせ、祝福(マタイ25章34節)に与らせるため」と説いた。

(注)別エントリー「試論:祝福された人と最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13187

マタイ1章21節は「自分の民を罪から救う」ルカ1章77節は「罪の赦しによる救い」と記し、主御自身もマタイ6章13節で「悪い者から救って下さい」と《主の祈り》を教えられ、ガラテヤ1章4節は「この悪の世からわたしたちを救い出そうとして御自身をわたしたちの罪のために献げられた」と記す。

(注)別エントリー「主の御降誕:救い主は何から人々を救うのだろうか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4445

主イエスは黙示録22章13節で「わたしはアルファでありオメガ」「最初の者であり最後の者」「初めであり終わり」と自称された。これはイザヤ44章6節に対応し、同節は「わたしをおいて神はない」と続く。ヘブライ2章10節以下は「万物の源であり目標」「救いの創始者」「一つの源」と主を呼ぶ。

試論:神と共にいるための三条件を140文字以内で

詩編1編1節は神と共にいるための必要三条件を記す。一つ目は神に逆らう人に同調しないこと、二つ目は罪や悪に走らないこと、三つ目は高慢心を捨てることである。高慢で周囲の人々を粗略に扱う人は、いつか必ず神をも粗略に扱う。神の御独り子の母となった女性が高慢心とは無縁であるのは当然である。

(注)別エントリー「試論:『しもべ』と『はしため』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9785

(注)別エントリー「試論:『わたしの主』と母マリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8575

(注)別エントリー「試論:『恵みとへりくだり』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8781

【追記】

主イエスは福音書で「自ら高ぶる者は低くされ、へりくだり自ら低くなる者は高くされる」と繰り返された。神の御独り子の母に選ばれたにもかかわらず「わたしは主のはしため」と繰り返し実際「人となられた神」に生涯仕え続けた女性が、「神と共に歩んだ」点においてエノクに引けを取るなどありえない。

(注)別エントリー「試論:『謙遜の極み故の被昇天』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11125

箴言3章34節は「神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みをお与えになる」と説く。「自分は誰かの召使になった覚えはないし、他の人のためにあれこれするなど、やってられない」と放言する人は「キリストの律法」を絶対に実行できないし、神がお与えになる恵みもまた、永遠にその人には届かない。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』と世情を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18499

【問】なぜ受胎告知の際にマリアは、承諾の返答よりも先に「わたしは主のはしため」と再確認しましたか?【答】マリアはそう前置きすることで、「わたしは神の御独り子の母となることを承諾しますが、決して『神のようになること』(創世記3章5節)を望むからではありません」と意思表示をしました。

(注)別エントリー「試論:「わたしの主のお母さま」を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10221

試論:「女性たちの悲しみ」を140文字以内で

主イエスの御受難の際、ヨハネ一人を除いて使徒たちはゴルゴタにはいなかったが、聖母マリアを含め四人の女性たちが十字架の近くに付き添った。またルカ23章27節は嘆き悲しむ女性たちの大群を記し、既にゼカリヤ12章10節以下では神の御独り子の死を嘆き悲しむ女性たちの存在が預言されている。

(注)別エントリー「試論:『十字架刑と聖母マリア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18925

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

(注)別エントリー「エルサレムの婦人たちへの伝言」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15741

【追記】

御子が幼子の頃やカナでの婚礼の折を除けば、人々から御子が尊敬や賞賛を受けられている場所にいて御自分も同じく栄誉に与るということを、聖母は基本的に避けられていた。しかしゴルゴタで御子が人々から嘲りや罵りの的となられた際には十字架の傍らに立たれ、御子と最も苛酷な時間を共に過ごされた。

(注)別エントリー「試論:聖母マリアってどんな方?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5920

ヨハネ1章14節は神の御独り子が「肉」となられたと記す。「肉」は創世記6章で人間を指す語だが道徳的な脆さのニュアンスも含む表現であり、それゆえ悪魔が誘惑を試みた。誘惑の後、天使たちがイエスに仕えたが天使は本来単なる人間には仕えない。主イエスは神のままで人間としての全てを担われた。

(注)別エントリー「試論:『神には劣化がない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8697

【問】なぜ受胎告知の際にマリアは、承諾の返答よりも先に「わたしは主のはしため」と再確認しましたか?【答】マリアはそう前置きすることで、「わたしは神の御独り子の母となることを承諾しますが、決して『神のようになること』(創世記3章5節)を望むからではありません」と意思表示をしました。

(注)別エントリー「試論:「わたしの主のお母さま」を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10221

試論:「十字架刑と聖母マリア」を140文字以内で

詩編49章8(7)節は神に対し人間が贖(あがな)いの業を行うことはできないと説く。それができるのは「人〔となられた神〕の子」だけであり、そのために主イエスは来られた(マタイ20章28節)。神は劣化できないため、神のままで人間の全てを担う必要があり、そのためにマリアが不可欠だった。

(注)別エントリー「試論:『神には劣化がない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8697

(注)別エントリー「神のお告げ:受胎告知と無原罪の御宿り」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4835

【追記】

マルコ福音書は主の御降誕には触れないものの、6章3節で主イエスには母親がいたことを記し、10章45節では主の到来の目的の一つが「多くの人の身代金として自分の命を献(ささ)げる」つまり贖(あがな)いのためと記す。パウロもガラテヤ4章で母親の存在(4節)と贖い(5節)とに触れている。

(注)別エントリー「『《マリアの子》なら私生児』説は誤り」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1478

ヨハネ19章は、ゴルゴタの主の十字架の傍らに聖母がおられたと記すが、聖母の内面がどのようであったかについては全く記述がない。しかしルカ2章35節はシメオンの預言として、「多くの人の心にある思い(34節の「逆らい」)があらわになるため、あなた自身も剣で心を刺しつらぬかれる」と記す。

(注)別エントリー「試論:『剣』と『言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7807

詩編49(48)編8(7)節は、神に対して人間が贖いの業を行うことはできないと記す。とはいえ神の御独り子が自ら人間となられて自分の「からだ」を「身代金」として贖いの業を行われた時の「からだ」は、マリアから受けたものだった。マリアは極めて特別な形でイエスの贖いの業に「参加」をした。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7795

(注)別エントリー「試論:『履物を脱ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8620

古代のヘブライ人は「肉」という言葉で、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけでなく、魂も含めた人間としての全体)」を表した。ヨハネ1章14節をこの観点で理解すれば、ニケア・コンスタンチノープル信条「おとめマリアよりからだを受け」の「からだ」は、人間としての全てを意味している。

ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。

ヨハネ1章14節は「神の御言葉(=主イエス)は肉(=人)となられ、わたしたちの間に宿られた(=住まわれた)」と記す。マタイ20章28節では主御自身が「仕えられるためではなく仕えるため」「多くの人の身代金(=あがない)として自分の命を献(ささ)げるために来た」と仰せになられている。

主はヨハネ14章27節で「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と仰せになった。ではどうやって主は御自分の平和をお与えになったのか、パウロがコロサイ1章20節で「その十字架の血によって」と答えを記した。

創世記3章15節で神は、サタンと決定的に対立する一人の女性が将来現れることを予告された。黙示録12章では、それは救い主の母となった女性のことだと啓示された。救い主は人々を罪や悪から救うために生まれるので、その母が存在の最初の瞬間から罪や悪とは完全に無縁であるべきなのは当然である。

(注)別エントリー「試論:黙示録12章の『鉄の杖』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11093

(注)別エントリー「創世記3章15節:蛇の頭を踏み砕く者は誰か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1488

「救い主」が世を救われる方法に関しイザヤは、「小羊」(53章7節)つまり代価として御自分をささげ、「しもべ」(42章、49章以下等)として人々に仕えると預言し、主もマルコ10章45節でそれを宣言された。救い主の母となることを承諾した女性が「主のはしため」を称するのは象徴的である。

(注)別エントリー「試論:『しもべ』と『はしため』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9785

マタイ1章21節は「自分の民を罪から救う」ルカ1章77節は「罪の赦しによる救い」と記し、主御自身もマタイ6章13節で「悪い者から救って下さい」と《主の祈り》を教えられ、ガラテヤ1章4節は「この悪の世からわたしたちを救い出そうとして御自身をわたしたちの罪のために献げられた」と記す。

(注)別エントリー「試論:救い主は何から救うの??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10720

(注)別エントリー「主の御降誕:救い主は何から人々を救うのだろうか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4445

御子が幼子の頃やカナでの婚礼の折を除けば、人々から御子が尊敬や賞賛を受けられている場所にいて御自分も同じく栄誉に与るということを、聖母は基本的に避けられていた。しかしゴルゴタで御子が人々から嘲りや罵りの的となられた際には十字架の傍らに立たれ、御子と最も苛酷な時間を共に過ごされた。

(注)別エントリー「試論:聖母マリアってどんな方?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5920

ヨハネ1章14節は神の御独り子が「肉」となられたと記す。「肉」は創世記6章で人間を指す語だが道徳的な脆さのニュアンスも含む表現であり、それゆえ悪魔が誘惑を試みた。誘惑の後、天使たちがイエスに仕えたが天使は本来単なる人間には仕えない。主イエスは神のままで人間としての全てを担われた。

【問】なぜ受胎告知の際にマリアは、承諾の返答よりも先に「わたしは主のはしため」と再確認しましたか?【答】マリアはそう前置きすることで、「わたしは神の御独り子の母となることを承諾しますが、決して『神のようになること』(創世記3章5節)を望むからではありません」と意思表示をしました。

(注)別エントリー「試論:「わたしの主のお母さま」を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10221

上げられる(=高く掲げられ顕示される)

主はヨハネ3章14節で、モーセが荒れ野で「青銅の蛇」(民数記21章8節以下)を上げた(=高く掲げて顕示した)ことに言及された。御自身もやがて十字架上に上げられるが、それは旧約の民が「青銅の蛇」によって命を得たように、御自分の民が永遠の命を得るためである(コロサイ1章20節参照)。

(注)別エントリー「試論:真理と贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9081

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

ヨハネ8章34節「罪を犯す者は、皆、罪の奴隷である」32節「真理はあなた方を自由にする」ヘブライ2章14節〜15節「御自分に委ねられた者たちが人間である以上イエスも同じく人間としての全てを担われたが、死を司る悪魔を御自分の死によって滅ぼし悪魔の罪と死の支配から人々を解放された」。

主はヨハネ8章32節で「真理はあなたたちを自由にする(解放する)」と仰せになった。パウロはヨハネと同じギリシア語を用いて何からの解放か、その答えをローマ6章と同8章で説明した。「罪から解放」(6章18節、22節)、8章2節「罪と死の法則から解放」同21節「滅びへの隷属から解放」。

ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7514

詩編49(48)編8(7)節は、神に対して人間が贖いの業を行うことはできないと記す。とはいえ神の御独り子が自ら人間となられて自分の「からだ」を「身代金」として贖いの業を行われた時の「からだ」は、マリアから受けたものだった。マリアは極めて特別な形でイエスの贖いの業に「参加」をした。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7795

(注)別エントリー「試論:『履物を脱ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8620

ヨハネ1章29節「世の罪を取り除く神の小羊」の「取り除く」に当たるギリシア語は、一ヨハネ3章5節にも登場し、その前後では隣人愛の実践を奨励するが、同じ表現をエフェソ4章31節も用い、主に応えて信者が取り除くべきものを「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりを全ての悪意と共に」とする。

(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3277

エフェソ4章の後半では、「神にかたどって造られた新しい人」として生きるために、「怒ることはあっても罪を犯してはならない」「日が暮れるまで怒ったままではいけない」「悪い言葉を一切口にしない」「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどの全てを、一切の悪意とともに捨てる」等を勧めている。

(注)別エントリー「試論:一ペトロ2章『乳飲み子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5721

エゼキエル18章「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は仰せになる。彼が悪から立ち帰って生きることを喜ばないだろうか。お前たちが犯し た全ての背きを投げ捨てて新しい心と霊を造り出せ。どうしてお前たちは死んでよいだろうか。お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」。

キリスト教の歴史上「救われる者と救われない者とは神に予め定められている」という主張が存在したが、ならば神はなぜエゼキエル18章32節で「お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」と仰せになったのだろうか。二コリント5章14節「キリストは全ての人のために亡くなられた」。

主イエスはルカ15章7節で「悔い改める必要のない九十九人の義人よりも、悔い改めている一人の罪人のことを天は大いに喜ぶ」と仰せになり、マタイ18章14節ではエゼキエル18章32節「わたしは誰の死も喜ばない」と同様に、天の御父は悪人の滅亡よりも悪人の回心を喜ばれることを再確認された。

(注)別エントリー「試論:『悔い改める一人の罪人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17627

ヨハネ9章31節には「神は罪人の言うことなどお聞きにならないとわたしたちは承知している」という言葉が記されてはいる。罪人が良からぬ企みを実行する前に成功を神に願い求めても、神が聞き入れるわけがないが、罪人が罪人であることを止めて回心したいと神に願う時は、神は喜んで聞き入れられる。

(注)別エントリー「試論:『聞き入れられる願い事』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18477

ルカ23章40節以下で主の隣の十字架につけられた盗賊は最後に神への畏れを知り、自分の今の惨めな境遇は全て自業自得だが神には罪はなく神の御心に適う願いなら聞き入れられると確信し、自分の隣にいるのは神そのものであると信じて直接それを伝えた。彼の信仰告白に主は最大の幸福を御約束された。

(注)別エントリー「『ぶどう園の労働者』実例を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18482

ルカ13章23節は主イエスに救われる者は少ないかを尋ねた人がいたと記す。主は直接の回答をされなかったが、のちに最後の晩餐の夜、ヨハネ14章2節で「わたしの父の家には住む所がたくさんある」と仰せになった。それが答えである。合格者の定員は存在しない。従って、問題は合否の基準と言える。

(注)別エントリー「試論:『合格者数と合否の基準』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8201

ルカ13章23節は救われる者は少ないかという主への質問を記す。主は27節で不義を行う人々は神に拒まれると答えられ、救われるか否かはあくまでも一人一人が主のおぼしめしに沿うか否かであり、救われる者の多い少ないよりそれ以前にまず神の義(マタイ6章33節)を求めて生きるよう勧められた。

主はルカ13章23節で救われる者は少ないかと問われ、27節で不義を行う人々が神に拒まれると答えられた。確かに「合格者数」や「合格率」がどうしても気になってしまうのは仕方ないが、だからといって、合格と不合格を分ける判断の基準に目が行かなくては本末転倒で、基準は聖書に明記されている。

(注)別エントリー「試論:『神のものを神に返す』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18573

試論:「『実』=その人の発言」を140文字以内で

主イエスはルカ6章45節で「人の口は、心からあふれ出ることを語る」と仰せになり、どんなに隠そうと努力したとしても、人の言葉の端々にその人の本性(秘められた内面)が露呈してしまうと示唆された。主はマタイ6章22節でも同様に、目つきやまなざしにその人の本性が露呈されることを説かれた。

(注)別エントリー「試論:『目』と『ともし火』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8003

【追記】

シラ27章6節は「実を見れば木が手入れされているかどうか分かるように、人間が心の中で何を考えているかはその人の話を聞けば見えて来る」と説く。主イエスもルカ6章44節で「木はその結ぶ実によって分かる」と仰せになり、45節で「人間の口は、心からあふれ出ることを語る」と続けて語られた。

主イエスはルカ6章45節で「人間の口は、心からあふれ出ることを語る」と教えられたが、さらにマタイ12章36節以下では、その続きとして「人間は自分の話した些細な言葉の全てについて『裁きの日』には責任を問われ、自分の言葉によって義とされたり、あるいは罪ある者とされる」と仰せになった。

(注)別エントリー「試論:『実によって分かる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14662

マタイ12章37節「あなたは自分が口にした言葉によって義とされ、自分の言葉によって罪ある者とされる」5章22節「兄弟に『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」7章21節「わたしに『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るわけではなく、天の父の御心を行う者だけが天の国に入る」。

(注)別エントリー「試論:『新たに生まれなければ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9816

主イエス・キリストは「人は自分が発したどんな言葉に関しても裁きの日には責任を問われ、自分が発した言葉について義とされまたは罪ある者とされる」(マタイ12章36節〜37節)と舌を制御する(ヤコブ3章)重要性を強調され、心にもないことをつい口走ってしまったという言い訳を認められない。

エフェソ4章の後半以降(17節以下)では、洗礼を受けた人が取るべき(また避けるべき)態度を教える。悪態をつき、無慈悲で、平然と悪口を言い、思う通りにならないと大声で喚き、怒鳴り散らし、相手が幼子や女性だと小馬鹿にして勝ち誇る人がいたとして、誰が彼のことを信者だなどと思うだろうか?

(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6748

マタイ25章45節で主は「この小さな者の一人にしなかったことは、わたしにしなかったことである」と仰せになり、隣人愛の実行を神への愛の基準にすると宣言された。従って「私は周囲とはトラブルを起こしてばかりですが、主よ、あなたへの愛だけは誰にも負けません」という自己申告は、通用しない。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

試論:「主のはしため」と無原罪を140文字以内で

【問】なぜ受胎告知の際にマリアは、承諾の返答よりも先に「わたしは主のはしため」と再確認しましたか?【答】マリアはそう前置きすることで、「わたしは神の御独り子の母となることを承諾しますが、決して『神のようになること』(創世記3章5節)を望むからではありません」と意思表示をしました。

(注)別エントリー「試論:「わたしの主のお母さま」を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10221

(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7479

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

【追記】

主イエスはマルコ10章45節で御自分が人間となられた目的を「仕えられるためではなく仕えるため」と仰せになった。その三十年以上前、ルカ1章38節で救い主の母となることを告知された女性は「わたしは主のはしため」と答え、彼女が「救い主の母」という立場を的確に認識していることが記される。

(注)別エントリー「試論:なぜ『主のはしため』??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17082

試論:「行いを伴わないならば」を140文字以内で

ヤコブ2章17節「行いを伴わないならば、信仰はそれだけでは死んだものです」は、主イエスのルカ6章49節の御言葉「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は、土台なしで地面に家を建てた愚かな人に似ている」とは内容的には同じであり、いわゆる「信仰義認」の適不適を考える上では良い基準となる。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

【追記】

ヨハネ5章24節では、イエスの言葉を聞いて御父である神を信じる者は永遠の命を得て裁かれることなく死から命へ移ると説明されているが、29節では悪を行う者は裁きを受けると説明され、悪を行いながらの信仰などは神はお認めにならないことがわかる。神は人間が悪から離れることを要請されている。

ローマ3章でパウロは、「信仰」「律法」という表現で実際には《イエス・キリストを信仰する人々にとっての新しい掟である愛の掟》と《イエスを認めぬ人々が律法とするモーセが与えた掟》とを比較した。人間を「義」とするのは、《律法の掟》の実行ではなく、信仰に基づく《愛の掟》の実行如何による。

(注)別エントリー「試論:『主よ、主よ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5380

主イエスは「あなたが他の人からしてもらいたいことは全て、あなたの方から他の人にしなさい」(マタイ7章12節)を御自分の《律法》となさり、これをもって隣人愛の掟(ヨハネ13章34節)の基礎となさった。このことが欠乏しているがゆえに人々は報道で連日のように惨劇を目にし続けるのである。

(注)別エントリー「《キリストの律法》(マタイ7章12節)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18013

ローマ3章でパウロは、「信仰」「律法」という表現で実際は、

《イエス・キリストを信仰する人々にとっての新しい掟=愛の掟》と、

《イエスを認めぬ人々の古い掟=律法の掟》を比較した。

人間を「義」とするのは《律法の掟》の実行ではなく、信仰に基づく《愛の掟》の実践(ガラテヤ5章6節)による。

(注)別エントリー「試論:ローマ3章『信仰と律法』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8650

試論:「旧約聖書の教えの要約」を140文字以内で

キリストの教えに従う現代の信者が、キリストの教えを知らなかった時代の人々の行状を旧約聖書で読む時、とても「聖」とは言い難い粗暴性に辟易するのは当然である。主イエスは旧約聖書中の教えの要約として弟子たちが知っておくべきことは「他人からしてもらいことを他人にしなさい」と仰せになった。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

【追記】

ダビデは多くの妻がありながら家来ウリヤの妻に横恋慕してつまずき、ソロモンは多数の異邦出身の妻たちのためにイスラエルに異教礼拝を持ち込むのを容認した。婚約者の妊娠に苦悩したが道を誤らず幼子と母を守り通したヨセフに比べれば、女性で道を誤ったダビデやソロモンはあさましい凡人に過ぎない。

(注)別エントリー「試論:『貞潔とは』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17407

(注)別エントリー「試論:『聖母と聖ヒエロニムス』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11791

(注)別エントリー「試論:『ダビデ王の十字架』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11707

旧約時代においては旧約聖書の読者ばかりでなくそれぞれの書の著者たちですら、何か重大なものが自分たちには欠けており将来それを満たして下さる方が到来されるであろうと感じていた。今、キリストの信者を自認する現代人が、福音書よりも旧約聖書の方を熱心に読んでいるなら本末転倒もはなはだしい。

(注)別エントリー「試論:主イエスと旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7462

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4783

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

試論:「キリストの律法」重要性を140文字以内で

【問】キリストの御教えは、現代社会では流行らないようにも思えますが?
【答】キリストは御教えの核心を「他人からしてもらいたいことなら全て、あなたから他人にしなさい」と教えられました。他人に対する敬意や尊重は相互の実践でしか世に広まらず、欠乏すると人間社会が針のむしろに感じられます。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

【追記】

弟子たちの足を洗うという行為を通じて、主イエスは隣人に敬意を払って尊重することこそ御自分の御教えの根幹であると教えられた。自分自身が他人から尊重され敬意を払われた経験がなければ敬意と尊重は理解できない。「互いを尊重するなら、それを見て皆はあなたたちがわたしの弟子であると認める」。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

試論:「隅の親石」と「秤」を140文字以内で

主イエスはイザヤ28章16節や詩編118編22(21)節を踏まえて御自分を「隅の親石」と呼ばれた。古代ギリシア語訳イザヤ28章17節では、神なる主が個々の人間を評価される基準を「〔わたしは〕憐れみの業を分銅とする」と記す。ルカ6章38節「あなたたちは自分の量る秤で量り返される」。

(注)別エントリー「試論:マタイ21章42節『家』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15057

(注)別エントリー「聖書にはクリスマスの日付が載っていますか???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13267

(注)別エントリー「試論:憐れみ深い人が幸いの理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14898

【追記】

マタイ7章12節「他人からしてもらいたいことを、あなたから他人にしなさい。これこそ律法と預言者」同5章22節「腹を立ててはならない」同7節「憐れみ深い人は幸い。その人は天の御父の憐れみを受ける」同6章14節「あなたが他人の過ちを赦すならば、天の御父もあなたの過ちをお赦しになる」。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346

ルカ6章38節で主は、「あなたがたは自分の量る秤(はかり)で量り返される」と仰せになり、他人に厳しく自分に甘い人に対して神が厳しい態度で臨まれることを宣言された。それゆえ、主は「人を裁くな」「人を罪人と決めるな」「赦しなさい」「与えなさい」「敵を愛しなさい」等々とお教えになった。

(注)別エントリー「試論:赦しの重要性を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5390

マタイ22章14節の「選ばれる人」とは、神からの招きに忠実に応じて「神の掟を守り通す人」(黙示録12章17節)である。隣人に対して憐れみ深い人は自分も神の憐れみを受ける(マタイ5章7節)。一人一人が隣人に対して取るのと同じ態度を、神も一人一人に対して返される(ルカ6章38節等)。

(注)別エントリー「試論:『選ばれた人は選んだ人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8034

試論:「人間の神格化」を140文字以内で

古代のイスラエルでは「主」という神こそが唯一の神であり、他の異邦の神々は忌み嫌うべき存在で、まして人間の神格化など論外だった。他方、古代の異邦人は、使徒言行録のヘロデ王(12章22節)やバルナバとパウロ(14章11節以下)の例に見られる通り、「人間の神格化」に全く抵抗がなかった。

(注)別エントリー「試論:『アグリッパ一世の頓死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17914

【追記】

使徒言行録12章でヤコブを殺害させた「ヘロデ王」ことヘロデ・アグリッパ一世は、ユダヤ人の歓心を買おうとしてキリスト信者たちに大弾圧を行った後、異邦人から露骨に追従され神のように扱われ、一神教信者ならば直ちに止めさせるべきところをそうせずに自己陶酔し、主の天使に打ち倒され頓死した。

(注)別エントリー「試論:黙示録17章『七人の王』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11401

ヨハネ1章1節の「言(ことば)」、いわゆる「神の御言葉」とは、「御自分で御言葉をお話しになる神」すなわち御子である神、主イエス・キリストを意味する。「言(ことば)は神とともにあった」とは、天地創造以前の初めから、御子である神は御父である神とともに存在しておられたということである。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

主イエス・キリストは、人間たちに模範(ヨハネ13章34節)を示されるために、神であり続けながら(ヘブライ13章8節)人間の肉体と魂を担われた(ヨハネ1章14節)以上は、神として教えられた掟(申命記5章16節)を人間として自ら忠実に実践された(ルカ2章51節、マタイ20章28節)。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節の『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7783

試論:「キリストの信者」とは?を140文字以内で

聖書の一節を引用して振りかざし大見得を切ることが「信者仕草」である、と思い違いをしている人が世には少なくない。しかし荒れ野で主イエスを誘惑した悪魔さえもそうしていた。主イエスが弟子たちに求められているのは「他人からしてもらいたいことならなんでも、あなたから他人にしなさい」である。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

【追記】

主イエスが悪魔による誘惑を受けられた際、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせ、詩編91編11節から12節を引用して、主イエスを挑発した。たとえ聖書の一節を引用して大見得を切っても、神の御旨と相反する意図に基づくなら百害あって一利なく、単なる冒涜に過ぎない。

(注)別エントリー「試論:『落とし穴を掘る人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13476

試論:侮辱する者のために祈れ?を140文字以内で

ルカ6章28節「あなたを侮辱する者のために祈りなさい」マタイ26章67節「人々はイエスの顔に唾を吐きかけ、拳で殴り、平手で打った」同27章30節「総督の兵士たちは、イエスに唾を吐きかけ葦の棒でイエスを殴り続けた」ルカ23章34節「イエスは言われた、『父よ、彼らをお赦し下さい』」。

(注)別エントリー「試論:『主の僕の忍耐』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6462

(注)別エントリー「試論:イザヤの預言と主の御受難を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6322

【追記】

ルカ23章34節の主イエスの御言葉「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは自分が何をしているのか分かっていないのです」と類似の事柄を数年後、使徒言行録7章60節でステファノが殉教の際に口にした。さらにその二十数年後エルサレム監督である「主の兄弟」ヤコブが殉教の際、類似の事柄を口にした。

(注)別エントリー「試論:もう一人の『エリヤ』??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10009

(注)別エントリー「試論:主の兄弟ヤコブを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4911

(注)別エントリー「試論:ルツ記とイエスの兄弟たちを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8585

(注)別エントリー「イエスの『兄弟』『姉妹』:同胞か親戚か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1451

古代のギリシア語イザヤ50章6節は「わたしは鞭打つ者に背中を、平手打ちする者に頬を向け、なお嘲りと唾からも顔をそむけることがなかった」と記し、この節をマタイ5章39章の主の仰せそして御受難の際(マルコ14章〜15章)の主の御苦しみと御振舞いに、最も近いニュアンスで、解釈している。

(注)別エントリー「試論:御受難の際の主の模範を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6315

主はヨハネ12章27節で「今わたしは心騒ぐ」と仰せになり御自分の内面は穏やかでないと告白された。多くの侮辱を伴う凄惨なリンチの末に、十字架を背負わされ、「御自分の民」から罵声を浴びながら体力を消耗し尽くし、ぼろ布のような状態で大きな苦しみの内に息絶える日がそこまで来たからである。

(注)別エントリー「試論:『恵みの時』『救いの日』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14772

試論:「責任転嫁する人の末路」を140文字以内で

主イエスはマタイ7章26節で、御自分の御教え(御言葉)を聞くだけで行おうとしない人々を、砂上に家を建てる愚か者にたとえられた。箴言14章9節は〔主の御言葉を聞くだけで行わない〕愚かで高慢な人々は全てにおいて他人に責任転嫁するため、仲間割れして互いになじり合い共倒れに終わると説く。

(注)別エントリー「高慢な悪人の末路」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17828

【追記】

一コリント6章10節「他人を悪く言う者は決して神の国を受け継ぐことができない」エフェソ4章31節「無慈悲、憤り、怒り、喚き、誹り等の全てを、全ての悪意と共に捨てなさい」一ペトロ2章1節「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口を全て捨てなさい」レビ19章17節「心の中で憎んではならない」。

(注)別エントリー「レビ記19章17節:理由のない悪意」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4826

試論:聖書と自業自得を140文字以内で

箴言26章27節は「落とし穴を掘る者は自分がそこに落ちる」と記し、自分の行いは全部いずれ自分に戻って来ると教える。主イエスはマタイ7章12節とルカ6章31節において「あなたは、自分が他の人からしてもらいたいと思うことは、どんなことでも、あなたから他の人にしなさい」と仰せになった。

(注)別エントリー「試論:『落とし穴を掘る人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13476

【追記】

箴言17章5節の後半は「他人の不幸を喜ぶ人は罰を免れない」等と訳される。古代のギリシア語訳はさらに「同情する人は憐れみを受ける」と続け、これはマタイ5章7節と同じ趣旨であり聖書の「憐れみ」とは他人の不幸を喜んだり笑ったり嘲ったり蔑んだりせず、ただ同情を寄せることであると説明する。

(注)別エントリー「試論:『憐れみと赦し』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7927

主はルカ17章1節で「つまずきは避けられないがそれをもたらす者は不幸だ」と仰せになった。レビ19章17節は悪意を抱いたまま隣人に接することを禁じ、箴言26章27節は他人を落とす穴を掘る者は自分がそこに落ちると記し、民数記12章でモーセに難癖をつけたミリアムは厳しく主に罰せられた。

(注)別エントリー「試論:『理由のない憎しみ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6468

(注)別エントリー「試論:『モーセの模範』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7466

(注)別エントリー「試論:『つまずき』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7363

主イエスはマタイ7章12節で「あなたが他の人からしてもらいと思うことは何であっても他の人にあなたの方から行いなさい。これこそ律法と預言者〔の教え〕である」と仰せになり、御自分の御教えの核心とされた。パウロはこれを「キリストの律法」(一コリント9章21節、ガラテヤ6章2節)と呼ぶ。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

試論:ルカ6章21節を140文字以内で

主はルカ6章21節で「今飢えている人は幸い。あなたたちは満たされる」と仰せになった。これを聞き当時のユダヤ人は詩編33編18節〜19節「主は、御自分を畏れて御自分の慈しみを待ち望む人々に御目を注がれ、この人々の魂を飢えと死から救われ命を得させてくださる」をすぐ連想したはずである。

(注)別エントリー「試論:『パンと御言葉は不可分』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10226

【追記】

主は山上の説教で「神の義に飢え渇く人は幸い。その人は満たされる」と仰せになった。その理由はヨハネ6章35節で説明される。「わたしは命のパンである。わたしの許に来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」同7章37節「渇く人は、わたしの許で飲みなさい」。

(注)別エントリー「試論:『わたしが与える水』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10708

(注)別エントリー「試論:『根』と『水』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10855

主は「神の義に飢え渇く人は幸いである。その人は満たされる」と仰せになったが、ルカ10章では自分を「義化」(29節)しようとして踏み込んだ質問をした律法学者に対して、憐れみの心(33節)と「神の義」と隣人愛(27節)と永遠の命(25節)は全て事実上重なっていることをお教えになった。

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4544

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346

(注)別エントリー「試論:隣人愛と『心の中で憎む』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10483

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1982

申命記30章が示す通り、古代のヘブライ人にとって「命」(15節)という言葉は「祝福」(1節)「幸い」(5節)「恵み」「実り」「繁栄」「喜び」(9節)等の意味を包含し総称するものだった。御自分とは無関係に天の御父に到達することなどあり得ないと、主イエスは多様な表現で強調されていた。

試論:箴言17章9節を140文字以内で

箴言17章9節は、他人のせいで何か気分を悪くするようなことがあっても寛大に赦せる人は人間関係を育めるが、相手の落ち度を何度も蒸し返す人からは仲間も離れ去ると説く。主の養父ヨセフは自分の与り知らぬ婚約者の妊娠に気付いても相手を急いで断罪することがなく、主の天使からの啓示に救われた。

(注)別エントリー「試論:『新たなる関係性の構築』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18749

【追記】

マタイ福音書は後世への教訓に、最初の二つの章で主の養父ヨセフを模範として掲載した。ヨセフは忍耐強く、情け深く、自慢せず、高ぶらず、礼を失わず、自分の利益を求めず、恨みを抱かず、苛立たず、不義を喜ばず、真理を喜んだ。イエスとマリアのために、全てのことを忍び、確信し、待望し、耐えた。

(注)別エントリー「試論:マリアとヨセフに倣う事柄を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7012

試論:「神の御旨に忠実な人々」を140文字以内で

箴言12章22節の後半は何事においても神に忠実な人は主に喜ばれ主に受け入れられると記す。人間世界に来られた《御子である神》の両親として《御父である神》がお選びになった、マリアとヨセフの二人が、神に対する忠実という点において当時のヘブライ人の間で抜きん出ていたことは疑いようがない。

(注)別エントリー「試論:『新たなる関係性の構築』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18749

(注)別エントリー「試論:『あなたがヨセフならば』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18521

【追記】

古代のイスラエルにおける第一の掟は、「あなたは心・精神・思い・力を尽くして、あなたの神である主を愛さなければならない」(マルコ12章30節、申命記6章5節)。この掟に鑑みて養父ヨセフは、自分自身と妻マリアから幼子イエスを愛する機会を片時でも奪う可能性のある行為を、永久に断念した。

(注)別エントリー「聖母と聖ヨセフが終生童貞である理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4464

御子が幼子の頃やカナでの婚礼の折を除けば、人々から御子が尊敬や賞賛を受けられている場所にいて御自分も同じく栄誉に与るということを、聖母は基本的に避けられていた。しかしゴルゴタで御子が人々から嘲りや罵りの的となられた際には十字架の傍らに立たれ、御子と最も苛酷な時間を共に過ごされた。

(注)別エントリー「試論:聖母マリアってどんな方?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5920

(注)別エントリー「試論:『わたしの主のお母さま』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17090

試論:ルカ6章24節を140文字以内で

主イエスはルカ6章24節で「富んでいる人々は不幸だ。あなたたちはもう慰めを受けている」と仰せになった。同8章14節「茨の中に落ちたとは、御言葉を聞くが途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆い塞がれて、実が熟するまでに至らない人」同16章13節「神と富の両方に仕えることなどできない」。

(注)別エントリー「試論:マルコ4章『種を蒔く人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13982

(注)別エントリー「試論:ヘブライ語『貧しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14049

(注)別エントリー「試論:『貧しい人々は幸い』??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14342

【追記】

主イエスはマルコ10章25節で「ラクダが針の穴を〜」と表現され金持ちが神の国に入ることの難しさを説明されたが、続く27節では神つまり御自分なら状況を変えられると約束された。主はルカ19章で実際ザアカイに「救いがこの家を訪れた」「人の子は失われた者を救うために来た」と仰せになった。

(注)別エントリー「試論:『ラクダが針の穴を』??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11193

試論:「全てのことが実現する」を140文字以内で

黙示録21章1節は「最初の天と最初の地は過ぎ去った」と記す。詩編78編69節はエルサレム神殿の聖所を天地に喩えた。主イエスはマタイ5章18節で全てのことが実現し天地が消え失せるまで律法の時代は続くと仰せになり、ルカ21章22節でエルサレム滅亡で全てのことが実現するとも予告された。

(注)別エントリー「試論:『最初の天地が過ぎ去る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16809

【追記】

古代のヘブライ人は詩編78編69節の通り、エルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。これを踏まえれば、主イエスのルカ21章33節の仰せ「やがて天地は滅びるであろうが、わたしの言葉は決して滅びない」の意味は、「エルサレムと神殿の滅亡後も、わたしの教えと信仰は生き続ける」である。

(注)別エントリー「試論:黙示録の『第八の者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12097

主はマタイ5章18節で、全てのことが実現して天地が消え失せるまではモーセの律法も消え失せないと仰せになり、ルカ21章22節ではエルサレム滅亡で預言が全て実現すると予告され、紀元七〇年にそれは成就した。詩編78編69節の通りヘブライ人はエルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。

(注)別エントリー「試論:ルカ19章41節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5814

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

ルカ21章22節には「書かれていること」という言い回しが用いられているが、これはヨシュア記1章8節と同様に、「預言された事柄」「神から啓示された内容」などを意味する表現である。古代においては「書く(書いて記録に残しておく)」という行為それ自体が、非常に重要な意味を持つものだった。

主はマタイ5章18節で、全てのことが実現し天地が消え失せるまで律法の時代が続くことを仰せになった。ルカ21章22節では、エルサレム滅亡(20節)の日を「書かれていることが完全に実現する報復の日」と仰せになり、エルサレムと神殿の滅亡(紀元七〇年)で律法の時代が終わると宣言なさった。

(注)別エントリー「試論:『大淫婦』の正体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15895

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

試論:「悪魔も聖書を引用する」を140文字以内で

主イエスが悪魔による誘惑を受けられた際、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせ、詩編91編11節から12節を引用して、主イエスを挑発した。たとえ聖書の一節を引用して大見得を切っても、神の御旨とは全く相反する意図に基づくなら百害あって一利なく、冒涜に過ぎない。

試論:「仕えるために」を140文字以内で

主イエスはマルコ10章45節で御自分が「仕えるために」来られたと仰せになり、実際に最後の晩餐の夜、弟子たちの足を洗われた。人間は自分自身が実際に他人から敬意を払われて尊重された経験がなければ他人に対する敬意や尊重とは何であるのかを理解できないし、それ以外に学ぶ方法など存在しない。

【追記】

主イエスは「自分が他人にしてもらいたいことを自分から他人にしなさい」と《キリストの律法》を教えられたが、ヨハネ13章1節では《御自分の時》が来たと自覚された主が、弟子たちを尊重され、どこまでも尊重されたことが記される。《キリストの律法》とは尊重と敬意であると、主は御自ら示された。

主イエスは「自分が隣人からしてもらいたいことを自分から隣人にしなさい」を御自分の《律法》すなわち御教えの根幹とされ、弟子たちの足を洗われ隣人への敬意と尊重の重要性を教えられた。しかし御自身は次の晩が来る前に、尊重や敬意とは無縁の暴力や虐待や侮辱の裡にぼろ布のようにされて殺された。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

弟子たちの足を洗うという行為を通じて、主イエスは隣人に敬意を払って尊重することこそ御自分の御教えの根幹であると教えられた。自分自身が他人から尊重され敬意を払われた経験がなければ敬意と尊重は理解できない。「互いを尊重するなら、それを見て皆はあなたたちがわたしの弟子であると認める」。

試論:「キリストに結ばれた人」を140文字以内で

コロサイ2章6節は主キリスト・イエスを受け入れた人々に対し、キリストに結ばれて歩むように勧める。その具体的な内容は3章とりわけ9節以下で説明され、「古い自分をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主(=キリスト。ヨハネ1章)の姿に倣う自分を身に着け、日々新たにされる」ことをパウロは説いた。

(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6748

【追記】

主イエスはマルコ8章34節で「自分を捨てる」ようにと教えられた。この意味をコロサイ3章9節以下でパウロは、「古い自分をその行いとともに脱ぎ捨て、造り主(=「言」である主イエス。ヨハネ1章3節)の姿に倣う新しい自分を身に着け、日々このようにして、新たにされる」ことであると説明した。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

マタイ22章「礼服」に関連して、パウロはコロサイ3章で、キリストに結ばれていたいと望む人々が「着る」つまり身に着けるべき事柄に関してとりわけ10節以下で論じ、5節から9節では脱ぎ捨てるべきものも説く。身に着けるべきは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、そして愛だとパウロは説いた。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

主イエスはルカ15章7節で「悔い改める必要のない九十九人の義人よりも、悔い改めている一人の罪人のことを天は大いに喜ぶ」と仰せになり、マタイ18章14節ではエゼキエル18章32節「わたしは誰の死も喜ばない」と同様に、天の御父は悪人の滅亡よりも悪人の回心を喜ばれることを再確認された。

(注)別エントリー「試論:『悔い改める一人の罪人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17627

試論:「憐れみの道に命がある」を140文字以内で

箴言12章28節「憐れみの道にこそ命がある。この道を行く人に死はない」ルカ6章35節以下「敵に親切にし、善を行い、何も当てにせず貸しなさい。そうすれば、あなたたちはいと高き方であられる天の御父の子となり、大きな報いを受ける。あなたたちも天の御父のように憐れみ深い者になりなさい」。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

【追記】

「道」とは全ての人が生きる上で辿るべき道筋(道理・規範)でイエスがその模範であること、「真理」とは人が信仰・礼拝すべき三位一体の唯一の神を指し御父・御子・聖霊の間に矛盾がないこと、「命」とは幸福・安堵・充足等の人を生かすものの全てで人間にそれを授ける源は唯一の神ということを指す。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

試論:「ヤコブのユダ」を140文字以内で

ルカ6賞16節はイスカリオテでない方のタダイとも呼ばれるユダを記す。多くの訳が彼をヤコブの子とする。他方カトリックでは、ギリシア語本文を「ヤコブのユダ」と訳して、ヘブライ語「〜の〔子〕」が親子以外にも所属関係全般を表す可能性も考慮し、伝承に従ってヤコブの兄弟とする解釈も存在した。

(注)別エントリー「試論:主の兄弟ヤコブを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4911

(注)別エントリー「試論:ルツ記とイエスの兄弟たちを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8585

(注)別エントリー「イエスの『兄弟』『姉妹』:同胞か親戚か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1451

【追記】

古代のヘブライ人は「〜の子」という表現で所属を示す。創世記6章4節「神の子らは人の娘たちを〜」とは、神に属する〔信仰者の〕集団の男性たちが、そうではない〔不信仰者の〕集団の女性たちを娶るようになり、信仰者の集団にも徐々に不信仰が蔓延し人類が堕落の道を歩み始めたことを同章は物語る。

(注)別エントリー「神の子らは人の娘たちを【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8636

試論:マリアの誕生を140文字以内で

創世記2章22節はエバの創造を記す際、祭壇や都市を築き上げた時と同じヘブライ語を用いて、エバは細心の注意を払いつつ達成された主なる神の《苦心の作》だと示唆する。ましてや天の御父が、御子の母となる女性の受胎から誕生に至るまでの間、エバに対する以上の御配慮をなさらないはずがあろうか?

(注)別エントリー「神のお告げ:受胎告知と無原罪の御宿り」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4835

【追記】

創世記3章15節で神は、サタンと決定的に対立する一人の女性が将来現れることを予告された。黙示録12章では、それは救い主の母となった女性のことだと啓示された。救い主は人々を罪や悪から救うために生まれるので、その母が存在の最初の瞬間から罪や悪とは完全に無縁であるべきなのは当然である。

(注)別エントリー「試論:黙示録12章の『鉄の杖』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11093

(注)別エントリー「創世記3章15節:蛇の頭を踏み砕く者は誰か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1488

「救い主」が世を救われる方法に関しイザヤは、「小羊」(53章7節)つまり代価として御自分をささげ、「しもべ」(42章、49章以下等)として人々に仕えると預言し、主もマルコ10章45節でそれを宣言された。救い主の母となることを承諾した女性が「主のはしため」を称するのは象徴的である。

(注)別エントリー「試論:『しもべ』と『はしため』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9785

マタイ1章21節は「自分の民を罪から救う」ルカ1章77節は「罪の赦しによる救い」と記し、主御自身もマタイ6章13節で「悪い者から救って下さい」と《主の祈り》を教えられ、ガラテヤ1章4節は「この悪の世からわたしたちを救い出そうとして御自身をわたしたちの罪のために献げられた」と記す。

(注)別エントリー「試論:救い主は何から救うの??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10720

(注)別エントリー「主の御降誕:救い主は何から人々を救うのだろうか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4445

詩編49(48)編8(7)節は、神に対して人間が贖いの業を行うことはできないと記す。とはいえ神の御独り子が自ら人間となられて自分の「からだ」を「身代金」として贖いの業を行われた時の「からだ」は、マリアから受けたものだった。マリアは極めて特別な形でイエスの贖いの業に「参加」をした。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7795

(注)別エントリー「試論:『履物を脱ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8620

試論:「新たなる関係性の構築」を140文字以内で

主イエスはルカ14章33節で弟子たちに、自分の持ち物を全て捨てて従うよう勧められた。養父ヨセフは婚約者の妊娠を知り熟慮の末、彼女との関係を全て断ち切ろうとしたが、夢に現れた天使のお告げにより、一度は放棄しようとした彼女との関係を、執着心とは一切無縁の、神に喜ばれる形で再構築した。

(注)別エントリー「試論:『あなたがヨセフならば』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18521

【追記】

古代のイスラエルにおける第一の掟は、「あなたは心・精神・思い・力を尽くして、あなたの神である主を愛さなければならない」(マルコ12章30節、申命記6章5節)。この掟に鑑みて養父ヨセフは、自分自身と妻マリアから幼子イエスを愛する機会を片時でも奪う可能性のある行為を、永久に断念した。

(注)別エントリー「聖母と聖ヨセフが終生童貞である理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4464

マタイ福音書は後世への教訓に、最初の二つの章で主の養父ヨセフを模範として掲載した。ヨセフは忍耐強く、情け深く、自慢せず、高ぶらず、礼を失わず、自分の利益を求めず、恨みを抱かず、苛立たず、不義を喜ばず、真理を喜んだ。イエスとマリアのために、全てのことを忍び、確信し、待望し、耐えた。

(注)別エントリー「試論:マリアとヨセフに倣う事柄を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7012

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

カトリックで聖母を指す表現「天の門」は、聖書では創世記28章17節にのみ登場し、同節は主がおられた場所を「なんと畏れ多い場所」「天の門」と呼ぶ。主を宿した「胎」(ルカ11章27節)であるマリアを、同様に《なんと畏れ多い女性》と感じるのは、古代のイスラエル人の感覚として当然である。

(注)別エントリー「試論:ルカ11章28節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5786

試論:腰を据える(=専念する)を140文字以内で

主イエスはルカ14章25節以下の「弟子の条件」に関する議論の中で「腰を据える」ことが重要だと仰せになった。日本語の「腰を据える」には「専念する」という意味合いがあるがまさにこれこそ、主がこの議論の中で求めておられることである。申命記6章5節「あなたたちは心・魂・力を尽くして〜」。

(注)別エントリー「試論:『腰を据える』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12480

【追記】

ヨハネ12章25節は「この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命を得る」と主の仰せを記す。古代のヘブライ人は「〜を二の次にする」と言いたい時にも、「〜を憎む」という表現を用いた。主の養父ヨセフはヘロデが幼子の命を狙った時も、自分の命を二の次にして幼子と幼子の母を守り続けた。

(注)別エントリー「試論:『互いを尊重した聖家族』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15036

試論:死者の中から最初に復活?を140文字以内で

コロサイ1章18節は「御子は死者の中から最初に生まれた方」と記すが、主イエスは御受難と御復活の間に「新しい天・地・エルサレム」を創造され御自身の「復活の体」の創造で完成された。その時を「アブラハムのふところ」で待ち続けていた過去の義人たちは、創造された《王国》へと受け入れられた。

(注)別エントリー「主の御復活とともに創造された事柄とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15917

(注)別エントリー「試論:人間の完成形(最終形態)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15868

【追記】

ヨハネ3章29節の通りヘブライ人は神を花婿に、神の民を花嫁に喩えた。従ってマタイ22章8節以下の通り、婚宴とは神が神の民の中の相応しい人々を神の国に迎え入れ喜びを共にすることである。主イエスは御受難と御復活の間に新しい天・地・エルサレムを創造され、旧約の義人たちを迎え入れられた。

(注)別エントリー「試論:『聖書が実現するため』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17226

古代のイスラエルは「神」と「神の民」の関係を「花婿」「花嫁」に喩えた。主イエスは御自身の御復活つまり「復活の体」(一コリント15章)創造に際し、イザヤ65章で預言された「新しい天・地・エルサレム」を創造されて、新しい「神の民」を迎える準備を完了された(ヨハネ14章2節以下参照)。

【問】ヨハネ17章12節は「聖書が実現するため」と記しますが、一体何が実現したのですか?【答】エゼキエル37章27節「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」イザヤ66章8節「誰がこのようなことを見聞きしただろうか。一つの国が一日で生まれ、一つの民が一度に生まれようか」。

パウロは一コリント15章で「キリストの復活」こそ福音の核心であり、キリストの御復活つまり《天上の体(復活の体、霊の体)の創造》こそが信仰における全ての希望の源であると強調した。「天上の体」こそが、キリスト御自身のみならず、キリストを信じる全ての人々にとっての、目的地だからである。

(注)別エントリー「試論:『霊の帰還』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8381

(注)別エントリー「試論:『天国の福楽を相続する』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13891

黙示録21章16節以下では新しいエルサレムの巨大性が啓示される。これは当然、ヨハネ14章2節以下「わたしの父の家には住む場所がたくさんある。もしなかったなら、あなたたちのための場所を準備しに行くとは言わない。あなたたちの場所を準備したらあなたたちの許に戻って来る」を反映している。

ルカ13章23節は主イエスに救われる者は少ないかを尋ねた人がいたと記す。主は直接の回答をされなかったが、のちに最後の晩餐の夜、ヨハネ14章2節で「わたしの父の家にはたくさん住む所がある」と仰せになった。それが答えである。合格者の定員は存在しない。従って、問題は合否の基準と言える。

(注)別エントリー「試論:救われる者は少ないか??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18576

(注)別エントリー「試論:『誰の死も喜ばれない神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18444

主イエスは御受難と御復活の間に「新しい天・地・エルサレムの創造」を準備され誕生させたが、イザヤ66章8節は「誰がこのようなことを見聞きしたであろうか。一つの国が一日で生まれ一つの民が一日で生まれることがあり得るだろうか」と預言する。「天の国は近づいた」の《天の国》とはこれだった。

(注)別エントリー「試論:『神のものを神に返す』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18573

(注)別エントリー「試論:新都エルサレムに住む条件を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11197

試論:ルカ6章「安息日と空腹」を140文字以内で

ルカ6章で、麦畑から穂を摘んで直に麦を口にするほど主の弟子たちは空腹だった。ファリサイ派の人々に対して主はサムエル上21章を引用された。パンではなく直に麦を口にするほどの空腹をしのぐことは、井戸に落ちた息子をすぐに引き上げる(ルカ14章5節)ことと同じく、安息日の掟にも優先する。

(注)別エントリー「安息日と空腹」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17859

【追記】

ヨハネ5章の通り、敵たちは安息日の掟を持ち出して主イエスを攻撃するのが常だった。安息日の掟は確かに十戒にも含まれるものの、マルコ12章28節以下の律法学者との問答で再確認された通り古代のイスラエルで最も重要な掟の第一は神への愛の掟、第二は隣人愛の掟であり安息日の掟より優先される。

(注)別エントリー「試論:『しるし』と敵意を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15357

試論:「酒と革袋」を140文字以内で

主イエスは使徒をお選びになる際、既存の教派に属したことのない者か属したことがあっても以前の流儀や特色に固執せず頭を切り替えた者を選ばれた。例えば初めは洗礼者の弟子だったが、洗礼者の言葉に従ってイエスの弟子となり、主に従うことこそ洗礼者にも忠実であることと割り切ったアンデレである。

(注)別エントリー「試論:『履物のひもを解く』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13454

【追記】

イザヤ62章5節は「神と神の民」の関係を「花婿と花嫁」の関係にたとえたが、ヨハネ3章29節で洗礼者が「花婿の介添人」を自称する場合、「花婿」が主イエス・キリストであるのは、いうまでもない。洗礼者は、「花婿」と「花嫁」を引き合わせるまでが自分の役割と心得て、30節の言葉を口にした。

(注)別エントリー「試論:『花婿と花嫁』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5665

試論:どうやってお与えになる?を140文字以内で

主イエスはヨハネ14章27節で「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と教えられた。ではどうやって御自分の平和をお与えになったのか、パウロがコロサイ1章20節で「その十字架の血によって」と答えを記した。

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

【追記】

ヨハネ1章14節は「神の御言葉(=主イエス)は肉(=人)となられ、わたしたちの間に宿られた(=住まわれた)」と記す。マタイ20章28節では主御自身が「仕えられるためではなく仕えるため」「多くの人の身代金(=あがない)として自分の命を献(ささ)げるために来た」と仰せになられている。

(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7479

試論:コロサイ1章15節「姿」を140文字以内で

ヨハネ14章8節のフィリポの言葉「主よ、わたしたちに御父をお示しください」に対しコロサイ1章15節では「御子は、見えない神の姿」と表現した。「見えない神」とは御父であり「姿」とは《生き写し(似姿)》というニュアンスも含む。ヘブライ1章3節は「神の本性の完全な具現」などと表現した。

(注)別エントリー「『御父である神』に結ばれていない人々」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17900

【追記】

主はヨハネ10章30節で「わたしと父とは一つ」と仰せになった後、17章では弟子たちのために天を仰いで祈られたが、それは御父と御自分が「一つ」であるように、弟子たちもまた「一つ」となるためであった(11節、21節〜23節)。使徒言行録4章32節「信じた人々の群れは心も思いも一つ」。

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

試論:ルカ5章34節を140文字以内で

イザヤ62章5節は神と神の民の関係を花婿と花嫁のそれに喩えた。花婿と花嫁が出会って喜びを共にすることが婚礼、婚礼の客あるいは花婿の友人とは弟子たちである。主イエスは御自分が人間の世におられる貴重な期間には弟子たちに断食などさせないが、御自分がいなくなった後はさせると仰せになった。

(注)別エントリー「試論:『新しい酒と新しい革袋』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13480

(注)別エントリー「試論:古代の王の『宴』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18516

試論:パウロは女性差別主義者?を140文字以内で

一コリント14章34節「女性たちは教会では黙っていなさい」を根拠に、パウロに女性差別主義者のレッテルを貼る人々が存在し続けた。しかし前節で「聖なる者たちの全ての教会でそうであるように」と断っている以上、パウロは初代教会のコンセンサスを再確認したに過ぎず女性差別云々は濡れ衣である。

試論:「天の国は次のように〜」を140文字以内で

主イエスはマタイ福音書で「天の国は次のようにたとえられる」と何度も仰せになる。日本語訳では「国」と表現されるがギリシア語本文では《バシレイア(王国)》で、この語は黙示録1章6節の通り《王国の一人一人》までを包含する。つまり主は「わたしの弟子である一人一人」について仰せになられた。

(注)別エントリー「試論:バシレイア(=神の王国)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12654

【追記】

有名な「種を蒔く人」のたとえでは、種は神の御言葉(ルカ8章11節)である。マタイ25章の「タラントンのたとえ」でもタラントンは神の御言葉または、御言葉が勧める隣人愛(マタイ7章12節)であり、神の財産である《愛》を掘った穴に埋める人とはつまり隣人愛を全く実践しない人を指している。

(注)別エントリー「試論:『世の光と一タラントン』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11353

(注)別エントリー「試論:『神のものを神に返す』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18573

(注)別エントリー「試論:隣人愛って、何ですか??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18638

試論:「誓いと愚行」を140文字以内で

主イエスはマタイ5章34節で「一切誓ってはならない」と命じられた。申命記6章13節に誓いの掟が現に存在していたものの、マルコ6章の洗礼者の殺害の箇所に見られる通り当時のユダヤでは、神の御旨とはあまりにも程遠い愚行の根拠として誓う行為が悪用され、洗礼者ですら命を失う体たらくだった。

(注)別エントリー「試論:『誓う』の前提条件とは?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18595

【追記】

ヘロデ・アンティパスは洗礼者の言葉に喜んで耳を傾けたが単なる好奇心からで、自分の兄弟がお人好しであることにつけ込んで、その妻と親密になり、やがて彼女を奪い取った。根はやはり悪人の彼はイエスの逮捕後、イエスにも興味を抱いたが、興味を失うと洗礼者の時と同様に、イエスを平気で見捨てた。

(注)別エントリー「試論:『洗礼者の死とヘロデ家』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18061

試論:神と一緒にいるためには?を140文字以内で

主イエスはマタイ5章16節で「あなたたちの光を、人々の前に輝かせなさい」と仰せになった。イザヤ58章6節〜10節では主からの賜物である光が輝く条件として、他人を圧迫したり小馬鹿にしたり暴言を吐いたりすることをやめて、困窮している隣人に救いの手を差し延べることであると啓示している。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

【追記】

イザヤ58章9節「もしもあなたが隣人を圧迫することをやめるなら、もしもあなたが隣人を侮ることをやめるなら、もしもあなたが隣人を言葉で傷つけることをやめるなら、あなたが主を呼ぶ時には必ず主は御答えになり、あなたが主に向かって叫ぶ時には必ず主は『わたしはここにいる』と御返事される」。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

試論:「敬意と尊重」を140文字以内で

弟子たちの足を洗うという行為を通じて、主イエスは隣人に敬意を払って尊重することこそ御自分の御教えの根幹であると教えられた。自分自身が他人から尊重され敬意を払われた経験がなければ敬意と尊重は理解できない。「互いを尊重するなら、それを見て皆はあなたたちがわたしの弟子であると認める」。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

【追記】

主イエスは「自分が隣人からしてもらいたいことを自分から隣人にしなさい」を御自分の《律法》すなわち御教えの根幹とされ、弟子たちの足を洗われ隣人への敬意と尊重の重要性を教えられた。しかし御自身は次の晩が来る前に、尊重や敬意とは無縁の暴力や虐待や侮辱の裡にぼろ布のようにされて殺された。

(注)別エントリー「試論:イザヤの預言と主の御受難を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6322

主なる神は随所で旧約の民に、あなたたちはエジプトでは寄留者だったのだから、今あなたたちは寄留者に親切にしなさいとお教えになった(レビ19章34節等)。同じ理由で幼子(マタイ18章等)や高齢者(レビ19章32節)も同じくリスペクトされねばならない。彼らは人間の来し方と行く末だから。

(注)別エントリー「試論:『無垢をリスペクトする』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7325

試論:「マリアやヨセフに祈る」を140文字以内で

【問】マリアやヨセフに祈り求めることは聖書に合致しますか?
【答】ヤコブ5章16節は義人の祈りは大きな効果をもたらすと説きますが、ヨセフはマタイ1章19節で義人と呼ばれます。また最後の審判の箇所では「祝福された人」は義人と同一視されますが、聖母はルカ1章で祝福された方と呼ばれます。

(注)別エントリー「試論:最後の審判とイエスの両親を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15086

【追記】

創世記2章3節は、神が天地創造を終えられる際、第七の日を祝福し聖別されたと記す。「聖別」とは、特別のものとして尊重するよう人々に要請することを指す。ルカ1章は28節と42節の二か所で、マリアが救い主の母として祝福されていると記す。マリアを特別に扱い尊重することは、聖書に合致する。

(注)別エントリー「試論:『聖別』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18374

ルカ11章28節のギリシア語本文を読むと主は前節の「ある女性」の発言を否定しておらず逆に強く同意している。主は「もちろんそうだがさらに(母に関して)言えば、神の言葉を聞いてそれを守る人は幸いだ」とは仰せになったが、母は神の言葉を聞かないとか守らないなどとは一言も口にされていない。

(注)別エントリー「試論:ヨセフが妻を畏敬する理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7888

御自分の母を称える女性の言葉に対し主はルカ11章で神の言葉を守る人こそ幸いと答えられた。ヨハネ14章で主は「わたしを愛する人はわたしの言葉を守る」と仰せになられたが、マリアが母として主を誰よりも愛しておられたことには疑う余地がなく、マリアが神の言葉を守らないことも当然ありえない。

(注)別エントリー「試論:主イエスへの愛を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5453

(注)別エントリー「試論:『新しい契約』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5517

(注)別エントリー「試論:『謙遜の極み故の被昇天』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11125

試論:未来は決まっていますか?を140文字以内で

キリスト教の歴史上「救われる者と救われない者とは神に予め定められている」という主張が存在したが、ならば神はなぜエゼキエル18章32節で「お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」と仰せになったのだろうか。二コリント5章14節「キリストは全ての人のために亡くなられた」。

(注)別エントリー「試論:救われる者は少ないか??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18576

(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3277

【追記】

主イエスはルカ15章7節で「悔い改める必要のない九十九人の義人よりも、悔い改めている一人の罪人のことを天は大いに喜ぶ」と仰せになり、マタイ18章14節ではエゼキエル18章32節「わたしは誰の死も喜ばない」と同様に、天の御父は悪人の滅亡よりも悪人の回心を喜ばれることを再確認された。

(注)別エントリー「試論:『悔い改める一人の罪人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17627

ヨハネ9章31節には「神は罪人の言うことなどお聞きにならないとわたしたちは承知している」という言葉が記されてはいる。罪人が良からぬ企みを実行する前に成功を神に願い求めても、神が聞き入れるわけがないが、罪人が罪人であることを止めて回心したいと神に願う時は、神は喜んで聞き入れられる。

(注)別エントリー「試論:『聞き入れられる願い事』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18477

ルカ23章40節以下で主の隣の十字架につけられた盗賊は最後に神への畏れを知り、自分の今の惨めな境遇は全て自業自得だが神には罪はなく神の御心に適う願いなら聞き入れられると確信し、自分の隣にいるのは神そのものであると信じて直接それを伝えた。彼の信仰告白に主は最大の幸福を御約束された。

(注)別エントリー「『ぶどう園の労働者』実例を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18482

試論:隣人愛って、何ですか??を140文字以内で

【問】キリスト教の言う「隣人愛」って、何ですか?
【答】聖書の多くの箇所が隣人愛を語りますが、実践する場合の基礎となるのはマタイ7章12節「あなたが他の人からしてもらいたいことならなんでも、あなたの方から他の人にしなさい」で、《キリストの律法》(ガラテヤ6章2節)と呼ばれています。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

【追記】

一ヨハネ5章3節は「神の掟は荷が重くない」と記し、主イエスはマタイ11章30節で「わたしの荷は軽い」と仰せになった。「わたしの荷」すなわち《キリストの律法》(マタイ7章12節:他人からしてもらいたいと思うことを全て他人にしなさい)は、モーセの律法に比べると驚くほど単純だが奥深い。

(注)別エントリー「試論:『愛の掟は荷が重くない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13558

試論:「主が帰って来られる日」を140文字以内で

主はマタイ10章7節で「天の国が近づいた」と告げるよう仰せになったが、これと別に23節で「人の子」が来る日をほのめかされた。これはルカ17章22節「人の子の日」や黙示録6章17節「神と小羊の怒りの大いなる日」を指し、マタイ24章33節の通り、人々は悲惨な諸事件から主の来臨を悟る。

(注)別エントリー「試論:『主の日』二つの意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12894

【追記】

主はマタイ10章23節で「人の子は来る」と仰せになり、「人の子の日」(ルカ17章22節)に言及されたが、黙示録6章17節は「神と小羊の怒りの大いなる日」と表現し、これらの啓示は紀元七〇年のエルサレム滅亡で実現した。支配者たちはイザヤ2章と黙示録6章の通り、洞穴からの逃亡を企てた。

(注)別エントリー「『人の子が来るのを見るまで』???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18126

試論:マタイ24章43節の意味を140文字以内で

「家の主人は、泥棒が夜のいつ頃に来るか知っていたら自分の家に入らせない」の、「家の主人」とは人間一人一人、「泥棒」とは悪あるいは「悪い思い」(マルコ7章21節)、「自分の家」とは自身の内面である。マタイ11章43節以下「汚れた霊と家」のたとえも同様で日頃からの悪への警戒を勧める。

(注)別エントリー「試論:『体も家も自身の住まい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9924

【追記】

主イエスはルカ11章24節以下で、いくら御自分や弟子たちが人々から悪霊を追い出したとしても、その人自身が悪霊を拒む強固な意志を抱いて主なる神への信仰によって悪霊に心の隙を与えぬよう努めなければ、やがて悪霊はその人の隙に乗じて戻って来て、その人の内面を占領してしまうと仰せになった。

(注)別エントリー「試論:『土の家』(+復活の体)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9624

試論:「預言者を殺した者たち」を140文字以内で

主イエスはマタイ23章29節以下で敵たちのことを、彼らは昔の預言者を讃えるがそうすることで自分たちが昔の預言者を殺した人々と同類だと証明する、と非難された。昔の預言者は主イエスについて語っているのに敵たちはそれを無視してイエスを殺そうとしているからである(使徒言行録7章52節)。

(注)別エントリー「試論:キリスト教と旧約聖書を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6527

【追記】

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

(注)別エントリー「試論:『終末預言?ありません』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13853

(注)別エントリー「旧約聖書と『偽教師』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17476

試論:「内側を清くしなさい」?を140文字以内で

主イエスはマタイ23章26節で「まず内側を清くするなら、外側も清くなる」と仰せになった。同じ事柄はルカ11章39節以下でも問題にされており、同41節では「器の中にある物を施す」よう勧められた。「器」は人間、「器の中にある物」は霊魂で、《霊魂を注ぐ》は日本語では「心を配る」である。

(注)別エントリー「試論:『霊魂を注ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13590

(注)別エントリー「『土の器』(つちのうつは)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14324

【追記】

「内側を清くする」と聞いて、人々はエレミヤ4章14節「あなたの心から悪を洗い去りなさい。そうすれば、あなたは救われる。あなたはいつまで、心の中に邪悪な思いを抱え続けているのか」や、エゼキエル36章26節「あなたに新しい心を与え、あなたの中に新しい霊を置く」等を連想したはずである。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ3章5節『水と霊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16130

試論:「誓う」の前提条件とは?を140文字以内で

主イエスはマタイ23章16節以下で特に「誓う」行為について批判されている。山上の説教でも誓ってはならないと教えられた。「誓う」際の前提を申命記6章13節は「あなたの神、主の御名によって」と記す。「誓う」の最も嘆かわしい実例はペトロの「わたしはそんな人を知らない」で鶏はすぐ鳴いた。

(注)別エントリー「試論:『自分の十字架』とペトロを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12304

【追記】

主イエスの「あなたたちは一切、誓ってはならない」の真意は、申命記6章13節が定める誓いの条件「あなたの神、主の御名によって」という前提が当時はあまりにも軽んじられ、実際には神の本来望んでおられたものとは全く異なる有様で運用されており、誓う行為自体が悪の温床になっていたためだった。

(注)別エントリー「『拒むべき言説(教え)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10140

試論:救われる者は少ないか??を140文字以内で

ルカ13章23節は主イエスに救われる者は少ないかを尋ねた人がいたと記す。主は直接の回答をされなかったが、のちに最後の晩餐の夜、ヨハネ14章2節で「わたしの父の家には住む所がたくさんある」と仰せになった。それが答えである。合格者の定員は存在しない。従って、問題は合否の基準と言える。

(注)別エントリー「試論:『合格者数と合否の基準』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8201

(注)別エントリー「試論:『誰の死も喜ばれない神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18444

【追記】

ルカ13章23節は救われる者は少ないかという主への質問を記す。主は27節で不義を行う人々は神に拒まれると答えられ、救われるか否かはあくまでも一人一人が主のおぼしめしに沿うか否かであり、救われる者の多い少ないよりそれ以前にまず神の義(マタイ6章33節)を求めて生きるよう勧められた。

(注)別エントリー「試論:『救われる者は少ないか』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8111

主はルカ13章23節で救われる者は少ないかと問われ、27節で不義を行う人々が神に拒まれると答えられた。確かに「合格者数」や「合格率」がどうしても気になってしまうのは仕方ないが、だからといって、合格と不合格を分ける判断の基準に目が行かなくては本末転倒で、基準は聖書に明記されている。

(注)別エントリー「試論:『神のものを神に返す』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18573

試論:「神のものを神に返す」?を140文字以内で

キリスト教では神御自身が愛であられる(一ヨハネ4章8節)以上、「神のものを神に返す」とは神を愛することに他ならないが、5章3節は「神を愛するとは神の掟を守ること」と説く。従って隣人愛の掟(ガラテヤ5章14節等)をキリストの律法(マタイ7章12節)に即して行うことがそれに該当する。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

【追記】

主イエスはマタイ23章4節で「彼らは背負い切れない重荷を他人に負わせるが自分自身は指一本貸そうともしない」、同11章30節では「わたしの荷は軽い」と仰せになった。ファリサイ派と律法学者とはモーセの律法に「人間の言い伝え」を上乗せしたが、主イエスはマタイ7章12節に全て要約された。

(注)別エントリー「試論:『わたしに荷は軽い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6870

試論:「狭い戸口から入る」??を140文字以内で

【問】主イエスは狭い戸口または門から入るように勧められましたが、どうすべきですか?【答】狭い門とは、イザヤ26章2節や詩編118編19節にある「神の義の門」のことで、信者が実際にすべきことは「あなたが他の人からしてもらいたいことならなんでも、あなたの方から他の人にしなさい」です。

(注)別エントリー「試論:『神の義』『狭い門』何?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17358

【追記】

イザヤ書の最後の二つの章では「呼んでも答えず、語りかけても聞かず、わたしの目に悪とされることを行い、わたしの喜ばないことを選んだ」という表現を反復し(65章12節、66章4節)神は彼らを選ばれないが(マタイ22章14節)、主はそれをマタイ7章13節では滅びに通じる門と表現された。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

試論:「荷」って何?を140文字以内で

主イエスはマタイ23章4節で「彼らは背負い切れない重荷を他人に負わせるが自分自身は指一本貸そうともしない」、同11章30節では「わたしの荷は軽い」と仰せになった。ファリサイ派と律法学者とはモーセの律法に「人間の言い伝え」を上乗せしたが、主イエスはマタイ7章12節に全て要約された。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

【追記】

神の国に入るためには「神の義」が不可欠であることを主は「礼服」という比喩で御説明された。コロサイ3章では「着る」べきものは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛と挙げる。マタイ11章で主は「わたしは柔和で謙遜な者だから」(29節)「わたしの荷は軽い」(30節)などと仰せになった。

(注)別エントリー「試論:なぜ『わたしの軛は〜』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6781

試論:マタイ23章「先生」を140文字以内で

主イエスはマタイ23章7節と8節で、御自分の弟子たちは「ラビ」と呼ばれてはならないと仰せになった。日本語聖書では「先生」と訳されることが多いが、ヘブライ語の「ラビ」をギリシア語本文はそのまま音訳した。「ラビ」には「大なる者」のニュアンスがあるが謙遜を重視される御旨とは合致しない。

(注)別エントリー「試論:へりくだりと恵みを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5777

【追記】

古い文語訳ではカトリックでもプロテスタントでも「ラビと呼ばれてはならぬ」の意味合いのものがあったが、ユダヤ教批判を連想させかねないとの懸念からか戦後の口語訳はもっぱら「先生」である。しかし主の仰せの真意は「わたしの弟子が『ラビ』と呼ばれることはあってはならない」というものである。

(注)別エントリー「試論:『高慢な人々の末路』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12091

試論:「律法全体と預言者」を140文字以内で

主イエスはエルサレム入城の後、一人の律法学者の問いに答えられ、律法全体と預言者は二つの掟(神への愛の掟と隣人愛の掟)に基づくと仰せになった。ただし、「山上の説教」の際には群衆に「他の人からしてもらいたいことならなんでも、あなたから他の人にしなさい」と、より実践的な掟を授けられた。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

【追記】

【問】主イエスは「自分が他人からしてもらいたいことはなんでも、あなたから他人にしなさい」を御自分の《律法》とされましたが、なぜですか?【答】主は「最後の晩餐」の折に《隣人愛》の掟を授けられましたが、弟子たちが「今更ですが、愛とは一体、何ですか」などと言い出さぬようにするためです。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

試論:「主のしもべとはしため」を140文字以内で

箴言3章34節は「神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みをお与えになる」と説く。「自分は誰かの召使になった覚えはないし、他の人のためにあれこれするなど、やってられない」と放言する人は「キリストの律法」を絶対に実行できないし、神がお与えになる恵みもまた、永遠にその人には届かない。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』と世情を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18499

【追記】

主イエスは福音書で「自ら高ぶる者は低くされ、へりくだり自ら低くなる者は高くされる」と繰り返された。神の御独り子の母に選ばれたにもかかわらず「わたしは主のはしため」と繰り返し実際「人となられた神」に生涯仕え続けた女性が、「神と共に歩んだ」点においてエノクに引けを取るなどありえない。

(注)別エントリー「試論:『謙遜の極み故の被昇天』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11125

試論:なぜ聖母は「女王」なの?を140文字以内で

【問】カトリックは聖母を「女王」扱いしますが福音書のマリアは控え目な女性ではないでしょうか?【答】黙示録5章10節は小羊に忠実な人々が王になると啓示します。「最も偉い者とは皆に仕える者」の御教えに忠実でサタンの罪と死による支配に打ち勝った者だからで、聖母は全信者の先駆的存在です。

(注)別エントリー「試論:『王であること』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17293

【追記】

マタイ23章11節「あなたたちの中で最も偉い者は、仕える者であり続けなさい」ルカ1章38節「わたしは主のはしためです」ローマ5章17節「神の恵みと義の賜物を豊かに受けている人は唯一の主であるイエス・キリストを通して永遠の命を得て、サタンの罪と死による支配から自由になり王となる」。

(注)別エントリー「試論:『しもべ』と『はしため』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9785

試論:神と最も長く共にいた女性を140文字以内で

もし仮にそれが名もない女性だったとしても、人となられた神のために、ただただ手料理を三十年前後もの間、作り続けた女性がもしも実際に存在したとするならば、その一事のみをもって、その女性は全世界から崇敬を集めるに値する。まして彼女は、裁縫も洗濯も掃除もその他全ての神の家の家事を行った。

(注)別エントリー「試論:『地上の星』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11997

【追記】

主イエスは福音書で「自ら高ぶる者は低くされ、へりくだり自ら低くなる者は高くされる」と繰り返された。神の御独り子の母に選ばれたにもかかわらず「わたしは主のはしため」と繰り返し実際「人となられた神」に生涯仕え続けた女性が、「神と共に歩んだ」点においてエノクに引けを取るなどありえない。

(注)別エントリー「試論:『謙遜の極み故の被昇天』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11125

試論:「あなたがヨセフならば」を140文字以内で

年下の妻であるマリアは神の御独り子である幼子イエスの御世話に夢中になっている。その後ろ姿を見ながらヨセフは、なんとかしてイエスよりも自分の方を振り向かせたい、と思うだろうか? それとも、自分もまた神のしもべの一人なのだからマリア一人だけでは足りなければ手伝いたい、と思うだろうか?

(注)別エントリー「試論:『良いことだけを求める』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16198

【追記】

マタイ福音書は後世への教訓に、最初の二つの章で主の養父ヨセフを模範として掲載した。ヨセフは忍耐強く、情け深く、自慢せず、高ぶらず、礼を失わず、自分の利益を求めず、恨みを抱かず、苛立たず、不義を喜ばず、真理を喜んだ。イエスとマリアのために、全てのことを忍び、確信し、待望し、耐えた。

(注)別エントリー「試論:マリアとヨセフに倣う事柄を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7012

試論:「永遠の命」「律法の掟」を140文字以内で

マタイ22章36節以下の「律法の中で最も重要な掟はどれか」の答えと、ルカ10章25節以下の「永遠の命を得るために何をすればよいか」の答えは一致する。またマルコ12章32節は「神は唯一であり、他に神はない」という事柄をギリシア語本文でアレテイアすなわち真理と表現してこれを強調する。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書のアレテイアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15430

【追記】

主はマタイ22章で律法中の最も重要な掟の第一は神への愛、第二は隣人愛と仰せになった。申命記10章でモーセへの戒めの再授与の際、12節以下では神への愛が命じられ、19節では「遠くからやって来た者(寄留者、新参者、改宗者)」という表現で隣人愛(レビ19章18節、34節)が命じられた。

(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

試論:古代の王の「宴」を140文字以内で

バビロン捕囚からの解放後、ユダヤ人は引き続きペルシアの統治下に組み込まれたが、エステル1章にある通り、ペルシア王は自分の莫大な富と権力を誇示するため都に住む民を皆、身分の上下を問わず宴に招いた(6節)。マタイ22章の「婚宴」とは、神が民を天の国に招かれて喜びを共にすることである。

(注)別エントリー「『婚宴帰りの主人』=『御復活の主』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18271

【追記】

マタイ22章は神の御前に立つためには「礼服」が不可欠と教える。詩編132編は9節で「正義を衣としてまとう」16節で「救いを衣としてまとう」と表現して「救い」すなわち神と共にある条件を、「正義」すなわち「神の義」(マタイ6章33節)とし、その具体例をコロサイ3章12節以下が教える。

(注)別エントリー「試論:『神の義』と詩編を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6798

マタイ22章の「礼服」に関連して、ローマ13章14節で「主イエス・キリストを着る」ことをパウロは勧め、コロサイ3章10節でも「主の姿に倣う新しい人を着る」ことを勧める。「倣う=着る」べきものとして憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容そして愛を「着る」ことをコロサイ3章は勧めている。

(注)別エントリー「試論:マタイ22章『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6740

試論:「聖霊と火」の「火」再考を140文字以内で

ルカ3章16節は「聖霊と火による洗礼」という言い回しを記し、エレミヤ5章14節は「あなたの口にわたしの言葉を授ける。それは火となり民を焼き尽くす」と預言する。さらにこれを踏まえヘブライ1章7節(詩編104編4節より引用)では「御自分に仕える者たちを燃える炎(=火)とする」と記す。

(注)別エントリー「試論:『火』と『主の仰せ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18438

【追記】

エレミヤ5章14節の預言では、「主の御言葉」それ自体が「火」に喩えられているのは言うまでもないが、民の中で主の御言葉を受け入れて自分のものとした人々もまた「火」に喩えられているとも解釈できる。実際ヘブライ1章7節は詩編104編4節を引用するに際し、主に忠実な人々を「火」に喩える。

(注)別エントリー「試論:二種類の『火』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13038

ルカ12章49節「地上に火を投ずるためにわたしは来た」同3章16節「聖霊と火による洗礼」黙示録11章5節「口から火が出る預言者」エレミヤ5章14節「あなたの口に、わたしの言葉を授ける。それは火となり、この民を薪として焼き尽くす」同23章29節「わたしの言葉は、火に似ていないか」。

(注)別エントリー「試論:『御言葉は心を燃やす火』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11034

試論:「キリストの律法」と世情を140文字以内で

【問】「キリストの律法」とは何ですか?
【答】マタイ7章12節「あなたが他の人からしてもらいたいことならなんでも、あなたから他の人にしなさい。これこそ律法〔であり預言者の教え〕」のことで御教えの基礎となる事柄であり、これが欠乏すると、人々は互いに隣人を侮り始め、世情は殺伐とします。

(注)別エントリー「《キリストの律法》(マタイ7章12節)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18013

試論:「携挙」がありえない理由を140文字以内で

英訳聖書の一テサロニケ4章17節中の表現

“in the air”

「空中で」

というニュアンスで理解するのは近代人の発想である。

より厳密に言えば1783年の有人気球飛行実験成功以降の発想であり、

英語「エアー」に対応する原文のギリシア語「アエール」の元のニュアンスは

「地上界」

である。

(注)別エントリー「試論:『携挙』はなぜ誕生したかを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14420

【追記】

古代ギリシアの宇宙観では人間が住む地上界(下界)は

「アエール」

という「くもりのある」物質で満たされている一方、神々が住む天上界は

「アイテール」

という「くもりのない」物質で満たされている、と考えられていた。

ゆえに

「アエール」「アイテール」

はそれぞれ

「地上界」「天上界」

の象徴だった。

(注)別エントリー「『携挙』:ギリシア語聖書本文で徹底検証【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7753

試論:「ぶどう園の労働者」実例を140文字以内で

ルカ23章40節以下で主の隣の十字架につけられた盗賊は最後に神への畏れを知り、自分の今の惨めな境遇は全て自業自得だが神には罪はなく神の御心に適う願いなら聞き入れられると確信し、自分の隣にいるのは神そのものであると信じて直接それを伝えた。彼の信仰告白に主は最大の幸福を御約束された。

(注)別エントリー「神に対する確信を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5613

【追記】

詩編145編19節は「主を畏れる人々の願いはかなえられる」とし、箴言10章24節は「神に従う人の願いはかなえられる」と説く。マタイ7章7節は「求めなさい。そうすれば与えられる」と主の御言葉を教え、ヨハネ14章13節は「わたしの名によって願うことは何でもかなえてあげよう」とも記す。

(注)別エントリー「ヨハネ9章31節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18466

試論:「聞き入れられる願い事」を140文字以内で

ヤコブ4章3節「願い求めても与えられないのは、自分の楽しみのために利用しようと、間違った動機で願い求めるから」一ヨハネ5章14節「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うのなら、神は聞き入れて下さる。これが神に対するわたしたちの確信」同3節「神を愛するとは神の掟を守ること」。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ9章31節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18466

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の要諦を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5617

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

【追記】

ルカ18章で主は「やもめと裁判官」のたとえを話されたが、それは「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるため」(1節)で、「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる」また「これがわたしたちの神に対する確信」と一ヨハネ5章14節は教える。

(注)別エントリー「試論:ルカ18章7節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12491

試論:「新しい世界になり」を140文字以内で

主イエスはマタイ19章28節で、「新しい世界になり、人の子が栄光の座に座る時」という言い回しを用いられた。主は御受難と御復活の間に「新しい天・地・エルサレム」を創造され、御自身の復活の体の創造をもって完成された。また御復活と御昇天を経て神の右の座に着かれた(マルコ16章19節)。

(注)別エントリー「試論:『新しい天と新しい地』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15361

(注)別エントリー「主の御復活とともに創造された事柄とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15917

【追記】

イザヤ書は42章以降で救い主の様々な御業を預言し、65章17節以下では、究極の目的である「天の国」つまり「新しい天・地・エルサレム」の創造を記す。ヨハネ14章2節以下で主イエスはそれを準備するために自分は出発すると予告された。この「天の国」は、「復活の体」の創造をもって完成した。

(注)別エントリー「試論:『天の国は近づいた』意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16775

試論:「ラクダと金持ちの青年」を140文字以内で

古代の都市は、防衛や警備の都合上、城壁の内外を往来する城門を狭く造った。大柄なラクダでは通れないため、より小柄なロバ等に隊商は荷を積み替える場合もあった。金持ちは無意識のうちに態度や心掛けが尊大になりがちなので、それを自覚して改めなければ「神の国」の門を通れないと主は警告された。

(注)別エントリー「試論:『永遠の命を得るには?』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11171

【追記】

古代の都市は防衛や警備の必要上なるべく城壁を大規模で頑丈に造ったが、同じ理由から城壁の内外を往来する通用門は必要最小限の大きさに留めた。郊外の山上から見下ろすと、「長い城壁」と「所々に設置された城門」と「開門を待つ人々の長い行列」は、「長い針」と「針の穴」と「糸」のように見えた。

(注)別エントリー「試論:『ラクダが針の穴を』??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11193

試論:ヨハネ9章31節を140文字以内で

この節で生まれつき目が見えなかった人は「神は罪人の言うことはお聞きにならないとわたしたちは承知している」と言った。罪人が良からぬ企みを実行する前に成功を神に願い求めても神が聞き入れるわけがない。ただし、罪人が罪人であることを止めて回心したいと神に願う時、神は喜んで聞き入れられる。

(注)別エントリー「試論:『聞き入れられる願い事』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18477

(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3277

【追記】

主イエスはルカ15章7節で「悔い改める必要のない九十九人の義人よりも、悔い改めている一人の罪人のことを天は大いに喜ぶ」と仰せになり、マタイ18章14節ではエゼキエル18章32節「わたしは誰の死も喜ばない」と同様に、天の御父は悪人の滅亡よりも悪人の回心を喜ばれることを再確認された。

(注)別エントリー「試論:『誰の死も喜ばれない神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18444

試論:キュロス王とメディア王国を140文字以内で

古代ギリシアの歴史家ヘロドトスは捕囚のユダヤ人を解放したペルシア王キュロスを、彼は母方の祖父を倒しメディアを併合したと記す。別の歴史家クセノフォンは、彼は母方の伯父からメディア王国を譲られたと記す。この伯父を古代ユダヤの歴史家ヨセフスは、「メディア人ダレイオス」であると示唆する。

【追記】

クセノフォンによればペルシアの王子キュロスは少年時代、母方の祖父の意向によって人質のようにメディアの王宮で育てられることになった。母方の伯父がキュロスの教育に当たったがキュロスの才覚は目覚ましい成長を遂げ、伯父も他のメディア人たちもキュロスに絶大な信頼を置くまでの存在感を見せた。

一世紀後半のユダヤ人歴史家ヨセフスは「キュロスは親族であるメディア王ダレイオスと連携してバビロンを占領したが、この親族をギリシア人は別の名前で呼んでいる」と記す。クセノフォンはキュロスの伯父をキュアクサレスと呼ぶが、歴史学の主流はヘロドトス説を支持し、クセノフォン説を支持しない。

歴史学の主流は「キュロスの伯父」説を支持しないが、旧約聖書ではダニエル書でキュロスの前に「既に六十二歳」であった「メディア人ダレイオス」なる人物が、バビロンに君臨していたことを記し、これをヨセフスも踏まえる。旧約聖書の記述と整合するのはヘロドトス説ではなく、クセノフォン説である。

ヘロドトスとユダヤ側の伝承との相違や信憑性を考える際、ヘロドトスはペルシアの侵略を退けたギリシア人でペルシアにとっては「外部」の人間に過ぎないが、ユダヤ人はバビロン捕囚後は引き続きペルシアの統治下に組み込まれており、ペルシアにとっては「内部」の人間である点に、留意する必要がある。

試論:「隣人を自分のように〜」を140文字以内で

マタイ19章の主イエスと金持ちの青年との対話の際、青年は隣人愛の掟についても「守って来ました」と答えた。しかし主イエスから「もし完全になりたければ〜」と言われ立ち去った。「もし『永遠』とは何かを理解したなら皆は全ての努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「『持ち物を全て売り払う』??」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18011

【追記】

マタイ6章11節「わたしたちの日ごとの糧を今日お与え下さい」一テモテ6章6節〜8節「信心とは貪欲ではない者にとっては大きな利得の道です。というのも、わたしたちは何も持たずにこの世に来て、何も持たずにこの世から出て行かなければならないからです。衣食が足りるならば良しとすべきです」。

(注)別エントリー「『日ごとの糧』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17530

試論:「何か欠けていますか?」を140文字以内で

マタイ19章の主イエスと金持ちの青年との対話で、青年は「わたしにまだ何か欠けていますか」(20節)と質問した。主は問いに答えられ、残る問題点は「世の思い煩いや富の誘惑」(13章22節)が御言葉を覆い隠して実らなくすることだと指摘するために「持ち物を売り払う」という表現をなさった。

(注)別エントリー「試論:『永遠の命を得るには?』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11171

【追記】

主イエスはルカ12章15節で、どのような種類の貪欲に対しても十分に目を光らせ、心を奪われてはならないと警告された。同16章13節「あなたたちは、神と富のどちらか一方にしか仕えることができない」マタイ13章22節「茨の間に落ちた種とは、御言葉を聞いても世の思い煩いや富の誘惑が〜」。

(注)別エントリー「試論:『あらゆる貪欲に対して』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18049

試論:「誰の死も喜ばれない神」を140文字以内で

キリスト教の歴史上「救われる者と救われない者とは神に予め定められている」という主張が存在したが、ならば神はなぜエゼキエル18章32節で「お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」と仰せになったのだろうか。二コリント5章14節「キリストは全ての人のために亡くなられた」。

(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3277

【追記】

主イエスはルカ15章7節で「悔い改める必要のない九十九人の義人よりも、悔い改めている一人の罪人のことを天は大いに喜ぶ」と仰せになり、マタイ18章14節ではエゼキエル18章32節「わたしは誰の死も喜ばない」と同様に、天の御父は悪人の滅亡よりも悪人の回心を喜ばれることを再確認された。

(注)別エントリー「試論:『悔い改める一人の罪人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17627

試論:平和をもたらすのでない?を140文字以内で

ルカ12章51節「わたしが来たのは平和をもたらすためだと思ってはならない」。この御言葉の真意を、三十数年前シメオンから聖母は預言されていた(同2章34節)。「この子はイスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするしるしとして、また反対を受けるしるしとして、定められています」。

(注)別エントリー「試論:母マリアと『剣』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7974

(注)別エントリー「試論:『火も剣も御言葉の比喩』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7812

【追記】

主イエスは御復活の後、弟子たち(使徒たち)に初めて現われた際「あなたがたに平和があるように」と仰せになった。古代のヘブライ人にとって「平和」は全ての幸福の総称である。挨拶として長い形式ではサムエル上25章6節「あなたに平和、あなたの家に平和、あなたのもの全てに平和があるように」。

(注)別エントリー「試論:『平和をもたらさない』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14097

試論:「火」と「主の仰せ」を140文字以内で

マタイ3章11節で洗礼者ヨハネは、来るべき方が「聖霊と火」で洗礼をお授けになると教えたが、この節の「火」とはマラキ3章2節〜3節やゼカリヤ13章9節に預言されているもので詩編12編7節〜8節や66編10節にあるように、火が金銀を精錬するのと同じく人間を清くする主の清い仰せを指す。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

【追記】

マタイ3章には来るべき方が「聖霊と火」で洗礼をお授けになるとあるが「火」とは「火が金属を精錬する如く人間を清くする主の清い仰せ」を指し詩編12編7節〜8節、66編10節、105編19節、119編140節、エレミヤ6章29節、ゼカリヤ13章9節、マラキ3章2節〜3節などが関連する。

(注)別エントリー「試論:マタイ3章の二つの『火』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5795

試論:「分裂をもたらされる主」を140文字以内で

主イエスはルカ12章49節で「火」つまり神の御言葉をもたらすと仰せになり、51節では分裂をもたらすと続けられた。この分裂はゼカリヤ12章10節以下に預言され、救い主の死に際し民の間に大きな嘆きが起こるが一人一人の反応は各氏族間で、また男性と女性(ルカ23章27節)とで様々である。

(注)別エントリー「試論:『火も剣も御言葉の比喩』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7812

【追記】

ヨハネ19章37節はゼカリヤ12章10節を引用し「彼らは、自分たちが突き刺した者を見る」と記す。詩編55編22(21)節では剣とは「鋭く人間に迫り心に突き刺さる言葉」の比喩で、57編5(4)節や59編8(7)節も同様の比喩を用い、心ない言葉を相手に浴びせて傷付ける行為を表現する。

(注)別エントリー「試論:『わたしは地上に剣を〜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6064

試論:「心を燃やす主の御言葉」を140文字以内で

主は「火」「剣」を人々にもたらすと仰せになったが、両者とも御言葉の比喩である。御言葉は心を燃やし(ルカ24章32節)心に刺さる(詩編55編22(21)節等参照。エフェソ6章17節)。黙示録も1章16節等で御言葉を剣に喩え11章5節では御言葉を火に喩えた(エレミヤ5章14節参照)。

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

【追記】

ルカ12章49節「わたしは地上に火を投ずるために来た。既にその火が燃えていることをどんなに願っているか」同24章32節「主が道でお話しされた時や聖書を説明されていた時、われわれの心は燃えていたではないか」エレミヤ23章29節「わたしの言葉は火のようではないか、と主は仰せになる」。

(注)別エントリー「試論:『聖霊と火』の『火』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5770

試論:「地上に火を投ずる」??を140文字以内で

ルカ12章49節「地上に火を投ずるためにわたしは来た」同3章16節「聖霊と火による洗礼」黙示録11章5節「口から火が出る預言者」エレミヤ5章14節「あなたの口に、わたしの言葉を授ける。それは火となり、この民を薪として焼き尽くす」同23章29節「わたしの言葉は、火に似ていないか」。

(注)別エントリー「試論:マタイ3章の二つの『火』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5795

【追記】

主なる神が燃える柴の火の中から御言葉をモーセに語り掛けられたという出来事は、ヘブライ人にとって忘れ難い歴史上の一大事で、洗礼者の「聖霊と火による」に対し、当時のユダヤ人は「火」が何の比喩かを直ちに理解した。しかし異邦人には全く意味不明でマルコ1章8節はこの理由から「火」を省いた。

(注)別エントリー「試論:二種類の『火』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13038

試論:「子供と天の国」を140文字以内で

主イエスはマタイ19章14節で、「子供たちを来させなさい。天の国はこのような者たちのものである」と仰せになり、理由を18章では「〔素直に〕心を入れ替え〔反省する〕」(3節)及び「自分を低くして〔高慢にはならない〕」(4節)と二つ挙げられた。ダビデは詩編131編で同内容を詩にした。

(注)別エントリー「試論:『高慢と謙遜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9051

【追記】

ヨハネ1章14節は神の御独り子が恵みと真理に満ちて人間となられたことを記すが、ヤコブ4章6節と一ペトロ5章5節はともに「神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みをお与えになる」と強調し、ルカ1章は「わたしは主のはしため」とへりくだった女性こそが御独り子の母となったことを特筆する。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7795

試論:ルカ1章45節を140文字以内で

ルカ1章45節で聖霊に満たされたエリサベトは、マリアに「主の仰せは必ず実現すると信じた方はなんと幸いでしょう」と声高らかに言った。「なんと幸い」という表現は古代のイスラエルでは詩編1編と直結し、《主に逆らう者や罪人や高慢な者とは一線を画して常に主の教えを語り愛する人》と関連する。

(注)別エントリー「試論:詩編1編1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10619

【追記】

ルカ3章5節はイザヤ40章4節を引用して、「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる」と記す。イザヤが到来を預言した救い主イエスは何度も「自分を高くする者は神によって低くされ自分を低くする者は神によって高くされる」と繰り返され、イザヤ40章4節の預言が何の比喩かを御説明された。

(注)別エントリー「試論:『高慢と謙遜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9051

試論:ルカ11章27節を140文字以内で

ある女性がルカ11章27節で主イエスに「あなたを宿した胎はなんと幸いでしょう」と声高らかに言い、次節で主はそれに否定的に反応されたと解釈されがちである。ただし同じ事柄を1章45節で聖霊に満たされたエリサベトが声を大にして言っており、そして主イエスと聖霊とは相反する内容を語れない。

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

【追記】

ルカ11章28節のギリシア語本文を読むと主は前節の「ある女性」の発言を否定しておらず逆に強く同意している。主は「もちろんそうだがさらに(母に関して)言えば、神の言葉を聞いてそれを守る人は幸いだ」とは仰せになったが、母は神の言葉を聞かないとか守らないなどとは一言も口にされていない。

(注)別エントリー「試論:ルカ11章28節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5786

試論:「謙遜と高慢の対立」を140文字以内で

黙示録12章は「女」聖母マリアと「竜」サタンとの決定的対立を象徴的に描く。それはマリアの賛歌や箴言3章34節「神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みをお与えになる」の通りで、後に主イエスも、「自ら高ぶる者は低くされ、へりくだり自ら低くなる者は高くされる」と福音書で繰り返された。

(注)別エントリー「試論:『謙遜の極み故の被昇天』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11125

【追記】

聖母は「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)となられた方ながら、「わたしは主のはしため」(38節)と自称されたが、ペトロとヤコブは「神はへりくだる人に恵みをお与えになる」と書いた。「神の御独り子の母」となられた女性のへりくだりと恵み(ルカ1章28節)とは、いかばかりだろうか?

(注)別エントリー「試論:初代教会と箴言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5756

試論:「エノクと聖母」を140文字以内で

創世記5章22節以下では、エノクが神と共に歩み、その親密さゆえに神が彼を連れて行ったので人々が彼を見ることはなくなったと記す。いかに神とエノクが親密であろうとも、人となられた神の御独り子と、その母との親密さに比べれば、母子関係のそれを超えるはずがない。聖母の被昇天は必然と言える。

(注)別エントリー「試論:『謙遜の極み故の被昇天』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11125

【追記】

主イエスは福音書で「自ら高ぶる者は低くされ、へりくだり自ら低くなる者は高くされる」と繰り返された。神の御独り子の母に選ばれたにもかかわらず「わたしは主のはしため」と言い続け実際「人となられた神」に生涯仕え続けた女性が、「神と共に歩んだ」点においてエノクに引けを取るなどありえない。

(注)別エントリー「試論:『地上の星』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11997

試論:ルカ1章49節を140文字以内で

ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。自身を母胎として神が人間の肉体と魂を担われた事実を、「偉大なこと」とマリアの賛歌は表現した。

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

【追記】

主はヨハネ8章32節で「真理はあなたたちを自由にする(解放する)」と仰せになった。パウロはヨハネと同じギリシア語を用いて何からの解放か、その答えをローマ6章と同8章で説明した。「罪から解放」(6章18節、22節)、8章2節「罪と死の法則から解放」同21節「滅びへの隷属から解放」。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

試論:「聖別」を140文字以内で

創世記2章3節は、神が天地創造を終えられる際、第七の日を祝福し聖別されたと記す。「聖別」とは、特別のものとして尊重するよう人々に要請することを指す。ルカ1章は28節と42節の二か所で、マリアが救い主の母として祝福されていると記す。マリアを特別に扱い尊重することは、聖書に合致する。

(注)別エントリー「試論:『神の母』聖書的根拠を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13155

【追記】

主イエスの養父ヨセフはマタイ1章19節で「正しい人」と呼ばれるが、25章の「最後の審判」において「正しい人」は永遠の命が確約された人である。母マリアはルカ1章42節で「女の中で祝福された方」と呼ばれるが、マタイ25章34節では「祝福された人」は同じく永遠の命が確約された人である。

(注)別エントリー「試論:『親しき仲にも礼儀あり』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13120

試論:「忠実と反逆の対立」を140文字以内で

マタイ8章で異邦人の百人隊長は、命じられたことを忠実に実行することこそ信仰の本質であるという趣旨の発言をし、主イエスを感心させた。母マリアは人々に御子イエスの言葉通りにするよう勧めたが(ヨハネ2章)、神の言葉通りにしなくとも不幸が訪れることはないと蛇はエバを欺いた(創世記3章)。

(注)別エントリー「創世記3章15節:蛇の頭を踏み砕く者は誰か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1488

【追記】

創世記3章15節で神は、サタンと決定的に対立する一人の女性が将来現れることを予告された。黙示録12章では、それは救い主の母となった女性のことだと啓示された。救い主は人々を罪や悪から救うために生まれるので、その母が存在の最初の瞬間から罪や悪とは完全に無縁であるべきなのは当然である。

(注)別エントリー「神のお告げ:受胎告知と無原罪の御宿り」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4835

黙示録12章5節の「男の子」「鉄の杖」

黙示録12章の女は5節で、諸国民を鉄の杖で治める男の子を産んだ。かつてモーセは神の杖を槌として用い岩を打ち砕いた。エレミヤ23章29節は御言葉を、岩を打ち砕く鉄槌に喩える。故に黙示録の鉄の杖も御言葉の象徴的表現で、男の子は「神の御言葉」主イエス・キリスト、女はその母マリアを指す。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:「わたしの主のお母さま」を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10221

詩編2編7節以下「主はわたしに対して仰せになった。『あなたはわたしの子である。今日わたしはあなたを生んだ。あなたはわたしに対して求めなさい。わたしは国々をあなたの相続財産とし、地の果てまでも、あなたの領土とする。あなたは国々を鉄の杖で打ち、陶工が器を砕くように砕くことだろう』」。

黙示録は古代のヘブライの世界観に従い人間を「土の器」(2章27節)と表現し、さらにそれを踏まえ「諸国の民の上に立つ権威」(同節)を「鉄の杖」(同節、12章5節)に喩える。12章で「鉄の杖」は神の御独り子たる主イエスの王権を象徴し、最後までイエスに忠実だった人々は主の王権にも与る。

(注)別エントリー「試論:『女』とサタンの対立を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10314

黙示録20章やローマ5章は「悪に悪を返さない」ことを徹底して罪や悪と決別した人々を「バシレウオ(〔キリストとともに〕王となる)」という動詞で表すが、これはあくまで《義化の完成》を象徴する表現であり政治体制的な意味を含まず、彼らは「第二の死」を免れ「永遠の命」を得ると記されている。

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

エレミヤ18章の有名な「陶工と粘土」の話にある通り、「土の器」(二コリント4章7節、黙示録2章27節、哀歌4章2節、イザヤ45章9節)とは、人間〔の特に脆さと弱さ〕を表す表現である。古代のヘブライ人の世界観(創世記3章19節参照)では人間の肉体は土から取られて土に返る定めにある。

詩編31編でダビデは、さまざまな意味で衰えてきた自分の肉体を「壊れた器」(13節)と表現した。また二コリント4章7節でパウロは、人間の「外側」つまり「肉」の部分を、「土の器」と表現した。古代のヘブライ人の世界観では人間の肉体は土から取られて土に返る(創世記3章19節)定めである。

主の御言葉はエレミヤ23章29節の啓示では「岩を打ち砕く〔鉄〕槌」にたとえられた。出エジプト記では神の杖(4章20節)もまた、「槌」として岩を打ち砕く(同17章5節以下)。故に黙示録の「〔土の器を打ち砕く〕鉄の杖」(2章27節、12章5節)は、主の御言葉を象徴的に表す比喩である。

ヨブ19章2節で、自分を尋ねて来た友人たちに対しヨブは、彼らの言葉が自分を打ち砕くと答えた。エレミヤ23章29節で主は「わたしの言葉は岩を打ち砕く鉄槌のようだ」と仰せになった。黙示録2章27節の「土の器(=人間)を打ち砕く鉄の杖」とは実は「神の御言葉」の比喩の一つであると分かる。

エレミヤ23章29節「わたしの言葉は火のようではないか」を踏まえれば、ルカ12章49節「わたしは地上に火を投ずる」の「火」は「神の御言葉」を指す。エレミヤ23章29節「わたしの言葉は岩を打ち砕く鉄槌のようではないか」を踏まえれば、黙示録2章27節「鉄の杖」も「神の御言葉」を指す。

(注)別エントリー「試論:『御言葉は心を燃やす火』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11034

創世記3章15節で神は、サタンと決定的に対立する一人の女性が将来現れることを予告された。黙示録12章では、それは救い主の母となった女性のことだと啓示された。救い主は人々を罪や悪から救うために生まれるので、その母が存在の最初の瞬間から罪や悪とは完全に無縁であるべきなのは当然である。

(注)別エントリー「神のお告げ:受胎告知と無原罪の御宿り」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4835

黙示録12章17節〜18節「竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者(神の掟を守り、イエスの証しを守り通している者)たちと戦おうとして出て行った。竜は海辺の砂の上に立った」ローマ9章27節「たとえ、イスラエルの子孫の数が、海辺の砂のようであったとしても、残りの者が救われる」。

(注)別エントリー「試論:『女』と『残りの者たち』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10682

詩編49章8(7)節は神に対し人間が贖(あがな)いの業を行うことはできないと説く。それができるのは「人〔となられた神〕の子」だけであり、そのために主イエスは来られた(マタイ20章28節)。神は劣化できないため、神のままで人間の全てを担う必要があり、そのためにマリアが不可欠だった。

(注)別エントリー「試論:『神には劣化がない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8697

詩編49(48)編8(7)節は、神に対して人間が贖いの業を行うことはできないと記す。とはいえ神の御独り子が自ら人間となられて自分の「からだ」を「身代金」として贖いの業を行われた時の「からだ」は、マリアから受けたものだった。マリアは極めて特別な形でイエスの贖いの業に「参加」をした。

(注)別エントリー「試論:『イエスとマリアの関係』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7725

ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。

(注)別エントリー「試論:『贖(あがな)いの小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9650

ヨハネ19章は、ゴルゴタの主の十字架の傍らに聖母がおられたと記すが、聖母の内面がどのようであったかについては全く記述がない。しかしルカ2章35節はシメオンの預言として、「多くの人の心にある思い(34節の「逆らい」)があらわになるため、あなた自身も剣で心を刺しつらぬかれる」と記す。

(注)別エントリー「試論:『剣』と『言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7807

マルコ福音書は主の御降誕には触れないものの、6章3節で主イエスには母親がいたことを記し、10章45節では主の到来の目的の一つが「多くの人の身代金として自分の命を献(ささ)げる」つまり贖(あがな)いのためと記す。パウロもガラテヤ4章で母親の存在(4節)と贖い(5節)とに触れている。

ヨハネ1章14節は神の御独り子が「肉」となられたと記す。「肉」は創世記6章で人間を指す語だが道徳的な脆さのニュアンスも含む表現であり、それゆえ悪魔が誘惑を試みた。誘惑の後、天使たちがイエスに仕えたが天使は本来単なる人間には仕えない。主イエスは神のままで人間としての全てを担われた。

古代のヘブライ人は「肉」という言葉で、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけでなく、魂も含めた人間としての全体)」を表した。ヨハネ1章14節をこの観点で理解すれば、ニケア・コンスタンチノープル信条「おとめマリアよりからだを受け」の「からだ」は、人間としての全てを意味している。

一コリント15章は《地上で生きる体》と《永遠の命を得て復活し天の国で生きる体》を、「地上の体」と「天上の体」、「地上の命の体」と「霊の体」などと表現する。ガラテヤ5章は人間的な事柄を「肉」、神的な事柄を「霊」と表現し、コロサイ1章22節「肉の体」とは「人間としての体」の意である。

上記を踏まえればヨハネ14章27節「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える」際の方法を、コロサイ1章は「十字架の血によって」(20節)「御子の肉の体の死によって」(22節)と説く。主には人間として母親しか存在せず、「御子の肉の体」はマリア一人に由来する。

救い主を預言する際ダビデとエリサベトは「わたしの主」と呼ぶ。救い主には人間として母親しか存在せず、マリアは救い主を「わたしの肉の肉」(創世記2章23節)と呼んで誇ることもできたが、しかし母から人々への伝言は、「万事この人の言う通りにしてください」(ヨハネ2章5節)まずこれである。

(注)別エントリー「試論:『わたしの主』と母マリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8575

(注)別エントリー「試論:『恵みとへりくだり』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8781

試論:聖書と「神の母」を140文字以内で

エリサベトはルカ1章43節においてマリアのことを「わたしの主のお母さま」と呼んだが、この場合の「わたしの主」とは当然「神」と同義語である。これこそカトリックが「神の母」とマリアを呼ぶ根拠であり、この言葉はエリサベトが「聖霊に満たされて言った」(ルカ1章41節〜42節)ものである。

(注)別エントリー「マリアを『神の母』と呼ぶ聖書的根拠」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4492

【追記】

《御父である神、主》と《御子である神、主イエス》とは、詩編110編1節では御父は「主」、御子は「わが主」でありマタイ22章44節も御父は「主」、御子はダビデの言う「わたしの主」である。ルカ1章43節でエリサベトは詩編110編1節を踏まえ、マリアを「わたしの主のお母さま」と呼んだ。

(注)別エントリー「試論:『神の母であること』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6079

試論:「聖母の被昇天」を140文字以内で

主イエスは福音書で「自ら高ぶる者は低くされ、へりくだり自ら低くなる者は高くされる」と繰り返された。神の御独り子の母に選ばれたにもかかわらず「わたしは主のはしため」と繰り返し実際「人となられた神」に生涯仕え続けた女性が、「神と共に歩んだ」点においてエノクに引けを取るなどありえない。

(注)別エントリー「試論:『謙遜の極み故の被昇天』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11125

【追記】

もし仮にそれが名もない女性だったとしても、人となられた神のために、ただただ手料理を三十年前後もの間、作り続けた女性がもしも実際に存在したとするならば、その一事のみをもって、その女性は全世界から崇敬を集めるに値する。まして彼女は、裁縫も洗濯も掃除もその他全ての神の家の家事を行った。

(注)別エントリー「試論:『地上の星』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11997

試論:「牢」と「煉獄」を140文字以内で

主イエスの仰せの中には悪人が死んだ後に赴く場所として、「最後の審判」の「永遠の火」「永遠の罰」に象徴される、「無限の罰」のための場所(マタイ25章41節以下)が存在する。また別に人間関係がこじれて和解に至らない人が行く「牢」も存在するが、この「牢」は「有限の罰」の人の場所である。

(注)別エントリー「試論:マタイ18章34節『牢』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18338

【追記】

黙示録20章13節には「海」が登場し「その中にいた死者を外に出した」と記される。「海」はミカ7章19節の通り古代のイスラエル人にとって「罪」や「咎」と関係している。しかし黙示録の「海」の中にいた死者は「火の池」には投げ込まれず、「海」自体が最終的には存在しなくなる(21章1節)。

(注)別エントリー「試論:黙示録の火の池を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5376

試論:マタイ18章34節「牢」を140文字以内で

マタイ18章「仲間を赦さない家来のたとえ」には「牢役人」が登場し、5章でも人間関係がこじれて和解に至らない人が行く「牢」が登場するが、ここは「火の地獄」(22節)とは別物として扱われる。この牢は代償を払い続けることにより最終的に出ることができるが、ここをカトリックでは煉獄と呼ぶ。

(注)別エントリー「試論:黙示録の火の池を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5376

【追記】

マタイ12章32節は、主イエスの人間的属性だけを非難した者は赦されるが、主が聖霊によって悪霊を追い出したことを非難する者は赦されない、と記す。一ヨハネ5章16節以下も永遠の死に至る罪と死に至らない罪を分けて論じる。愛の掟に留まることを止める人(ヨハネ15章6節)が永遠の死に至る。

(注)別エントリー「試論:二種類の罪と『永遠の命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9895

試論:「負い目を容赦する」を140文字以内で

たとえ過失を犯した人が将来を案じ利己的な動機に基づいて他人の負い目を容赦したとしても、人が他人の負い目を容赦する行為それ自体には神は賛同される(ルカ16章1節以下)が、人が他人の負い目に厳しく臨むならば、神も一度与えた容赦を撤回してその人に厳しくされる(マタイ18章21節以下)。

(注)別エントリー「試論:赦しは救いの鍵を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5382

【追記】

マタイ6章14節から15節「あなたがたが人を容赦するなら天の父もあなたがたを容赦されるが、あなたがたが人を容赦しないなら天の父もあなたがたを容赦されない」は、「主の祈り」(6章12節)の補足説明であり、従って「主の祈り」を唱える者はその都度14節から15節に思いを致すべきである。

(注)別エントリー「試論:自分が裁かれないためにはを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5501

試論:申命記34章の「ネボ山」を140文字以内で

ルカ1章の聖母マリアに関する記述が、サムエル下6章の「神の箱(契約の箱)」に関する記述と重なっていることは、古代より知られていた。二マカバイ2章は「契約の箱」を預言者エレミヤがネボ山に隠したと記すが数百年後、黙示録11章19節は神の神殿に「契約の箱」つまりマリアの姿を見たと記す。

(注)別エントリー「ルカ福音書の聖母とサムエル記下の神の櫃」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1544

【追記】

ルカ1章は、サムエル下6章の「神の箱(契約の箱)」と受胎後のマリアとを重ねる記述を行う。真の「神の御言葉」を胎内に宿したマリアは、同じく真の「神の箱」だからである。「神の箱」に不用意に触れて死んだ男(サムエル下6章6節以下)をヨセフは思い起こし、マリアに最大限配慮したはずである。

(注)別エントリー「聖母と聖ヨセフが終生童貞である理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4464

試論:ヨセフとマリアの終生童貞を140文字以内で

古代のイスラエルにおける第一の掟は、「あなたは心・精神・思い・力を尽くして、あなたの神である主を愛さなければならない」(マルコ12章30節、申命記6章5節)。この掟に鑑みて養父ヨセフは、自分自身と妻マリアから幼子イエスを愛する機会を片時でも奪う可能性のある行為を、完全に断念した。

(注)別エントリー「聖母と聖ヨセフが終生童貞である理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4464

【追記】

カトリックで聖母を指す表現「天の門」は、聖書では創世記28章17節にのみ登場し、同節は主がおられた場所を「なんと畏れ多い場所」「天の門」と呼ぶ。主を宿した「胎」(ルカ11章27節)であるマリアを、同様に《なんと畏れ多い女性》と感じるのは、古代のイスラエル人の感覚として当然である。

(注)別エントリー「試論:ルカ11章28節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5786

試論:旧約聖書中の最大の預言者を140文字以内で

申命記34章10節は、モーセこそが旧約時代で最大の預言者であると記す。モーセはレビ記26章と申命記28章で、どのような場合に古代のイスラエルへ神からの幸福が訪れるのか、またどのような場合に神からの不幸が訪れるのかについて、後世の人々に対する戒めの意味でも詳しい預言を残しておいた。

(注)別エントリー「試論:モーセが預言したキリストを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6497

【追記】

申命記28章49節でモーセは、将来イスラエルの民を滅ぼす国民の象徴となる動物を預言した。マタイ24章28節のギリシア語本文も古代のギリシア語訳申命記と同じ単語を用いている。それはローマの国章と同じ動物で、ヨハネ11章48節で「ローマ人」という表現が登場する、根拠の一つでもあった。

(注)別エントリー「試論:『人の子が現れる日』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8454

試論:「都のために泣かれた主」を140文字以内で

主イエスはルカ19章41節以下で心を入れ替えようとしない都の人々を嘆いて泣かれた。神は、全ての人を救われて真理(=主イエス御自身。ヨハネ14章6節)を知るようになることを望んでおられる(一テモテ2章4節)にもかかわらず、神殿を拠点とする宗教指導者たちの思いは正反対だからであった。

(注)別エントリー「試論:エゼキエル18章を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5726

【追記】

ルカ19章で、主はエルサレムのために泣かれた。確かに主の予告の通り、約四十年後に都は滅亡した。だが同じ都は数日後に主御自身を殺す都でもあった。それでも主は、ヨナ書で神がニネベを惜しまれた以上に、エルサレムのために泣かれた。エルサレムが決して自分の非を認めようとはしないためである。

(注)別エントリー「試論:『滅びを避けるには』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5749

試論:「いつも潔白でいなさい」を140文字以内で

主はマタイ18章15節で「もしもあなたに近しい人があなたの目の前でこれ見よがしに良からぬことを行ったならば、あなたはすぐに動いてその人を戒め止めさせなさい(レビ19章17節)」と仰せになった。一テモテ5章22節も「他人の罪に加わってはならず、いつも潔白でいなさい」と厳命している。

試論:「天の門」聖母マリアを140文字以内で

カトリックで聖母を指す表現「天の門」は、聖書では創世記28章17節にのみ登場し、同節は主がおられた場所を「なんと畏れ多い場所」「天の門」と呼ぶ。主を宿した「胎」(ルカ11章27節)であるマリアを、同様に《なんと畏れ多い女性》と感じるのは、古代のイスラエル人の感覚として当然である。

(注)別エントリー「試論:ルカ11章28節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5786

【追記】

ルカ1章は、サムエル下6章の「神の箱」と受胎後のマリアとを重ね合わせる記述を行っている。真の「神の御言葉」を胎内に宿したマリアは、同じく真の「神の箱」だからである。ヨセフは「神の箱」に不用意に触れて死んだ男(サムエル下6章6節以下)を思い起こし、マリアに最大限配慮したはずである。

(注)別エントリー「ルカ福音書の聖母とサムエル記下の神の櫃」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1544

試論:子供のようになるには??を140文字以内で

主イエスはマタイ18章3節で「子供のようにならなければ決して天の国には入れない」と仰せになり、その前段階として「心を入れ替える」ことが不可欠と教えられた。大人は自己正当化に固執し過ちを認めようとせず、自己正当化のためならば「神こそが間違っている」などと言い出しかねないからである。

(注)別エントリー「試論:『悔い改め』とは無縁な人を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17099

【追記】

創世記4章8節のタルグム(旧約聖書本文に短い注釈を付加したアラム語訳)は、カインとアベルが野原で口論になったことを記す。神が弟の献げ物だけに目を留められたことを「えこひいき」と誤解した兄は、神の不正を主張して自分を正当化しようとしたが、弟が逐一それに反論したため、兄は弟を殺した。

(注)別エントリー「試論:創世記4章8節のタルグムを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17862

試論:「子供たちのように」何?を140文字以内で

主はマタイ18章で、「心を入れ替えて子供のようにならなければ決して天の国に入ることはできない」と仰せになり、「心を入れ替える」(3節)と「自分を低くする」(4節)の二つが、子供のようになるために必要であると教えられた。弟子たちは詩編131編を歌うたび以前から学んでいたはずである。

(注)別エントリー「試論:子供をつまずかせる者を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8277

【追記】

主はマタイ18章10節で、人間と神との連絡を行う天使の存在に言及され、たとえ幼子が言語や思考や体力や行動の面でおぼつかない存在であっても、幼子の非力を侮り良からぬ行動に出る者については全てを天使が逐一、神の御前で報告し、神は全てを御存知であると仰せになった(マタイ6章6節参照)。

(注)別エントリー「試論:幼子を軽視することの禁止を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7404

主があなたに求めておられることとは何か

今、あなたの神、主があなたに求めておられることとは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてその全ての導きに従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸せになることではないか。(申命記10章12節〜13節)

ミカ6章8節「何が善であって、主が何をあなたたちに求めておられるかは、あなたたちには既に告げられている。それは神の義を行い、憐れみの業を愛し、へりくだり神と共に歩むこと」ホセア6章6節「わたしが求めるものは『いけにえ』ではなく憐れみであり、焼き尽くす献げ物ではなく神を知ること」。

(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6748

主イエスはマタイ13章44節から46節で、「天の国」を「宝」や「真珠」に喩えられた。この喩えで主が実際にお伝えになりたかった内容は、パウロが一テモテ6章17節から19節に記していることと同じで、「真理における『命』つまり《永遠の命》を得るために、物惜しみをせず善行に励みなさい」。

(注)別エントリー「試論:『永遠の命』とは??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17203

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11494

主イエスはヨハネ17章3節で「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ること」と仰せになった。一コリント13章12節では、天の国においては人間は神を「顔と顔とを合わせて見る〔ようにはっきり理解する〕ことになる」と説明している。

(注)別エントリー「試論:バシレイア(=神の王国)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12654

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4544

マタイ25章34節「御父に祝福された人々よ、天地創造の時からあなたたちのために準備されていた王国を受け継ぎなさい」黙示録21章7節「勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ」ヘブライ6章12節「怠け者とならず信仰と忍耐によって、約束されたものを受け継ぐ人々に倣う者となってほしい」。

(注)別エントリー「試論:『王国を受け継ぐ者たち』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13826

放蕩息子のたとえでは父親はしもべたちに、帰って来た息子の手に指輪をはめるよう指示するが、エステル記3章10節以下に王権の委任を象徴する印章として指輪が登場する。放蕩息子のたとえでは相続人の権利回復の象徴で、人が本当に悔い改めるならば、神は全面的にその人に対する信頼を取り戻される。

ホセア6章6節は「わたしが求めるのは、憐れみであって『いけにえ』ではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」と記すが、これと関連して一ヨハネ2章3節は「知る」という表現の意味を《神の掟を守るという実体験を通して自分は神を知っているのだと自覚する》ことであると説明する。

(注)別エントリー「試論:『いけにえ』と憐れみを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8356

(注)別エントリー「試論:『神を知ること』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5580

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

主はマタイ福音書で「わたしが求めるのはあわれみであって犠牲(いけにえ)ではない」(ホセア6章6節)と繰り返されたが同節は「神を知ることであって焼き尽くす献(ささ)げ物ではない」と続く。「神を知る」を一ヨハネ2章3節は「神の掟(愛の掟。ヨハネ15章12節等)を守る」ことと説明する。

箴言16章7節は、ある人が主に喜ばれる行いに努め続けるならその人はかつての敵とも主の仲介で和解に至るであろうと説く。ホセア6章6節は、主が喜ばれることとは隣人に憐れみの業を行うことであって「いけにえ」ではなく、そして神を知るように努めることであって焼き尽くす献げ物ではないと説く。

(注)別エントリー「試論:『神を知る』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10024

主はマタイ13章45節以下で、「天の国」を全財産と引き換えにしてでも手に入れるべき真珠にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「天の国」は「永遠の命」と同義だが、「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

試論:「平和の神」を140文字以内で

パウロは自分たちの神を「平和の神」と呼ぶ(フィリピ4章9節等)。もしも人間世界に「あなたが他の人からしてもらいことならなんでも、あなたの方から他の人にしなさい」(マタイ7章12節)という《キリストの律法》(ガラテヤ6章2節等)が完全に行き渡ったなら、争い事は絶えているからである。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

試論:マタイ22章の婚宴と礼服を140文字以内で

古代のイスラエルでは神と神の民の関係を花婿と花嫁に喩えた。従って「婚宴」とは神が神の民の中の相応しい人々を神の国に迎え入れて喜びを共にすることの比喩的表現である。救いに不可欠な神の義(マタイ6章33節)を自分のものとすることを詩編132編は、身にまとう(9節、16節)と表現した。

(注)別エントリー「『婚宴帰りの主人』=『御復活の主』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18271

試論:「戸を開ける者との食事」を140文字以内で

主イエスはルカ12章35節以下で、帰って来た主人が戸を叩く時すぐ戸を開けようと待ち構える僕(しもべ)は、主人と食事を共にする栄誉にあずかることを仰せになった。黙示録3章20節は同じ事柄を語り「勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう」と続け、食事が象徴する事柄を説明する。

(注)別エントリー「試論:小羊の弟子が王となる条件を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17152

「婚宴帰りの主人」=「御復活の主」

ルカ12章36節以下「婚宴帰りの主人が戸を叩く時、目を覚ましていて、すぐ開けようと待つ人は幸い。主人は帯を締め、この僕(しもべ)たちを食事の席に着かせ給仕してくれる」ヨハネ21章9節以下「陸に上がると、炭火が起こしてあって上に魚があり、パンもあった。『さあ来て食事をしなさい』」。

(注)別エントリー「試論:『一緒に食事をする』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16061

ヨハネ3章29節の通りヘブライ人は神を花婿に、神の民を花嫁に喩えた。従ってマタイ22章8節以下の通り、婚宴とは神が神の民の中の相応しい人々を神の国に迎え入れ喜びを共にすることである。主イエスは御受難と御復活の間に新しい天・地・エルサレムを創造され、旧約の義人たちを迎え入れられた。

(注)別エントリー「試論:『聖書が実現するため』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17226

主イエスは福音書で自身の御受難と御復活を随所で暗示されたが、御受難と御復活の間に御自分がどんな働きをなさるかについても、ヨハネ14章2節から3節で予告された。それはイザヤ65章17節以下の「新しい天・地・エルサレムの創造」預言の成就であり、御自身の復活の体の創造で完成の時を見た。

(注)別エントリー「主の御復活とともに創造された事柄とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15917

古代のイスラエルは「神」と「神の民」の関係を「花婿」「花嫁」に喩えた。主イエスは御自身の御復活つまり「復活の体」(一コリント15章)創造に際し、イザヤ65章で預言された「新しい天・地・エルサレム」を創造されて、新しい「神の民」を迎える準備を完了された(ヨハネ14章2節以下参照)。

【問】ヨハネ17章12節は「聖書が実現するため」と記しますが、一体何が実現したのですか?【答】エゼキエル37章27節「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」イザヤ66章8節「誰がこのようなことを見聞きしただろうか。一つの国が一日で生まれ、一つの民が一度に生まれようか」。

パウロは一コリント15章で「キリストの復活」こそ福音の核心であり、キリストの御復活つまり《天上の体(復活の体、霊の体)の創造》こそが信仰における全ての希望の源であると強調した。「天上の体」こそが、キリスト御自身のみならず、キリストを信じる全ての人々にとっての、目的地だからである。

(注)別エントリー「試論:『霊の帰還』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8381

(注)別エントリー「試論:『天国の福楽を相続する』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13891

黙示録21章16節以下では新しいエルサレムの巨大性が啓示される。これは当然、ヨハネ14章2節以下「わたしの父の家には住む場所がたくさんある。もしなかったなら、あなたたちのための場所を準備しに行くとは言わない。あなたたちの場所を準備したらあなたたちの許に戻って来る」を反映している。

主イエスは御受難と御復活の間に「新しい天・地・エルサレムの創造」を準備され誕生させたが、イザヤ66章8節は「誰がこのようなことを見聞きしたであろうか。一つの国が一日で生まれ一つの民が一日で生まれることがあり得るだろうか」と預言する。「天の国は近づいた」の「天の国」とはこれだった。

古代のイスラエルでは「神」と「神の民」との関係がしばしば「花婿」と「花嫁」と表現された。しばしば「女王」にもたとえられる都が「花婿」キリストを歓呼と共に迎え入れながら、数日後に裏切り、夜中に急襲して捕らえ一日のうちに死に至らしめたその行状から、「大淫婦」と呼ばれるのは当然である。

(注)別エントリー「試論:『大淫婦』の正体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15895

黙示録18章7節「わたしはやもめではなく女王であり、決して悲しい目に遭わない」ルカ19章41節以下「イエスは都のために泣いて仰せになった、『もし今、お前が平和への道をわきまえていたならば。しかし今のお前は、それを理解していない。時が来て、敵がお前を包囲して四方から攻め寄せ〜』」。

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1699

試論:ルカ12章36節「婚宴」を140文字以内で

ヨハネ3章29節の通りヘブライ人は神を花婿に、神の民を花嫁に喩えた。従ってマタイ22章8節以下の通り、婚宴とは神が神の民の中の相応しい人々を神の国に迎え入れ喜びを共にすることである。主イエスは御受難と御復活の間に新しい天・地・エルサレムを創造され、旧約の義人たちを迎え入れられた。

(注)別エントリー「試論:『聖書が実現するため』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17226

【追記】

主イエスは福音書で自身の御受難と御復活を随所で暗示されたが、御受難と御復活の間に御自分がどんな働きをなさるかについても、ヨハネ14章2節から3節で予告された。それはイザヤ65章17節以下の「新しい天・地・エルサレムの創造」預言の成就であり、御自身の復活の体の創造で完成の時を見た。

(注)別エントリー「主の御復活とともに創造された事柄とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15917

試論:「腰に帯を締めよ」???を140文字以内で

ヨブと議論を始められる際、主は「腰に帯を締めよ」(ヨブ38章3節)と仰せになったが、これは「さあ、用意はいいか?」「心の準備はできているか?」といった意味の、古代のイスラエルの慣用句であり、主イエスも同じ言葉を、ルカ12章35節で「ともし火をともしていなさい」の前に仰せになった。

(注)別エントリー「試論:『一緒に食事をする』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16061

試論:マタイ17章20節「山」を140文字以内で

ゼカリヤ4章7節「大いなる山よ、お前は何者か。ゼルバベルの前では平らにされる」から分かる通り、古代のヘブライ人は頑強な抵抗を「山」にたとえた。マタイ17章での主イエスの、悪霊を追い出せなかった弟子たちへの仰せ「からし種一粒の信仰があれば、この山に向かって」の「山」も、同じである。

(注)別エントリー「試論:動かし難い物の比喩『山』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9551

ダニエル9章の「七十週」預言【再投稿】

(以下、聖書の日本語訳は、特に注釈が加えられた場合を除き、基本的にフランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』によります)

ダニエル書9章は、エルサレムそしてその神殿の再建を強く願うダニエルの祈り(3節~21節)及び、それに対する応答である「七十週」の預言(24節以降)とによって構成されている。
ということは「七十週」の預言とは必然的に、再建後のエルサレムとその神殿──すなわち、第二神殿の時代のエルサレムに関する預言であるとしか解釈できない。

ところが、このダニエル書9章の「七十週」預言については、ダニエルの時代から二千五百年以上そして主イエス・キリストの時代から二千年が経過した現代においてさえも、この預言を将来的に成就する事柄と捉えるという見解が未だに存在するというのも、確かに一つの現実である。

そこで、あらためて、このいわゆる「七十週」預言の構成と問題点に関して、再検討する。

まず、ダニエル書の預言の時代、ユダヤ人たちは祖国を滅ぼされ捕虜としてバビロンに連行されていた(バビロン捕囚)という歴史的事実があった。

◯ダニエル書9章5節(フランシスコ会訳)
「わたしたちは罪を犯し、不正を行い、邪(よこしま)な者になって反抗を続け、あなたの命令に従いませんでした。」

旧約の民すなわちユダヤ人たちが神に背を向け続けた結果がバビロン捕囚であるとの認識が、まずダニエル書9章の前提として存在するということである。

◯歴代誌下36章15節~16節(フランシスコ会訳)
「彼らの先祖の神、主は、使者たちを通じて彼らに警告し、何度となく警告された。ご自分の民と住まいを憐(あわ)れまれたからである。しかし、彼らは神の使者たちをあざけり、神の言葉をさげすみ、神の預言者たちを笑いものにした。そのために、主の怒りが民に対して燃え上がり、もはや容赦なかった」

◯エゼキエル書5章5節~9節、14節~15節(フランシスコ会訳)
「主なる神は仰せになる。これがエルサレムである。わたしはこの都を周辺の異国の民および諸国のただ中に置いた。しかしこの都は異国にもましてわたしの定めに逆らい、また周辺の国々にもましてわたしの掟に逆らった。わたしの定めを拒絶し、掟に従おうとはしなかった」
「それ故、主なる神は仰せになる。お前たちは周辺の異国の民以上に強情である。そのためわたしの掟に従わず、周辺の異国の民の定めほどにもわたしの定めを実践しなかった。主なる神は仰せになる。それ故、わたしはお前に制裁を加える。異国の民が注視する中、お前の間で裁きを下す。ありとあらゆる忌まわしい行為に対して、かつて行ったことがなく、またこれからも決して行わないことをお前に行う」
「通り過ぎ行くすべての者の目の前でお前を廃墟とし、周辺の異国の民のあざけりの的とする。怒りと憤り、激しい非難のうちにお前を裁くとき、お前は周辺の異国の民のあざけりの的、物笑い、また警告、恐れとなる。これを語ったのは主なるわたしである」

◯ダニエル書9章12節(フランシスコ会訳)
「神は恐ろしい災難をもたらすことによって、わたしたちに、また、わたしたちを支配した指導者たちに語られた言葉を成就されたのです。エルサレムに起こったようなことが、かつて、この天の下で起きたことはありませんでした」

【1】24節:まず「七十週」が「定められた」(または「切り取られた」)

◯ダニエル書9章24節(フランシスコ会訳)
「お前の民とお前の聖なる都に、七十週が定められている。それは反逆を終わらせ、罪を封じ、不義を償わせるため。永遠の正義をもたらし、幻と預言を確認させ、いとも聖なるものに油を注ぐためである。」

いうまでもなく、「お前の民」は、旧約の民すなわち、「全イスラエル」(11節)の民のことであり、「お前の聖なる都」は「あなたの都、聖なる山エルサレム」(16節)を指している。

また、「七十週」とは一週が七日であることから70×7=490(年)すなわち「四百九十年」のことであると一般的に解釈されている。

「定められている」と日本語訳されたヘブライ語(chathak – חָתַך)の原意は、「切り取られる」という点も重要である。

これらのことから、一般には、

(A)「時の流れから七十週という期間が切り取られる」→「490年が定められる」→「490年が経過した時点で実現する」

と解釈されるが、

(B)「七十週という期間のそれ自体が切り取られる(ショートカットされる)」→「490年が予定されたが実際にはもう少し短い期間で実現する」→「490年以内に実現する」「490年が経過する時点までには必ず実現している」

という別の解釈も存在する。

上に挙げた(A)と(B)の二つの解釈のうち、新ヴルガタを含めた現代の翻訳が(A)の解釈を採用する一方で、ギリシア語七十人訳と伝統的なラテン語ヴルガタ訳とは(B)の解釈を採用している。

例えば「定められている」と日本語訳された箇所を、ギリシア語七十人訳はローマの信徒への手紙9章28節にあるのと同じ語で「速やかに行われる(συντέμνω – suntemnō)」と解釈する。

また、伝統的なヴルガタ訳は「短縮される(abbrevio)」と表現している。

ちなみに、新ヴルガタでは、「定められている(decerno)」という別のラテン語の表現に置き換えられてしまっている。

そして、「いとも聖なるものに油を注ぐためである」という箇所は当然、続く25節の「油注がれた者」という表現につながっていくことになる。

【2】25節:エルサレムの復興そして第二神殿の再建そして「油注がれた者」の到来

◯ダニエル書9章25節(フランシスコ会訳)
「このことを知って、悟れ。エルサレムの復興と再建についてのみ言葉が出されてから油注がれた君の来られるまでが七週。そして六十二週の後、危機の時に、広場と堀が再建される。」

「エルサレム復興と再建」について、ネヘミヤ記2章によれば、紀元前四四五年頃ペルシア王から書状が出され、それ以来、真の「油注がれた者(メシア)」イエス・キリストの到来まで、御降誕の時点で考えた場合でも公生活の開始の時点で考えた場合でもいすれにしろ、490年あるいは「七週」「また、六十二週」=(7+62)×7=483年よりも、実際のところもう少し短い期間で実現した。

さて、神殿が存在した時代──とりわけ第二神殿時代のエルサレムにおいて、「広場」とは第一に「神殿の広場」(エズラ記10章9節、日本聖書協会新共同訳)が連想される表現である。

フランシスコ会訳ではエズラ記10章9節の表現は「神の宮の前庭」となっているが、ダニエル書9章25節の「広場」と、エズラ記10章9節の「前庭」または「広場」とを比較すると、原文で用いられているヘブライ語及び古代のギリシア語訳の表現がともに一致している。

つまり、ダニエル書9章25節の「広場」が再建されるという預言が意味することとは、「神殿の広場」が再建される──すなわち神殿それ自体が再建されるということに他ならない。
神殿が再建されなければ当然、「神殿の広場」も再建されることがないからである。

一方、「堀」という表現は、神殿以外の領域のエルサレムの都市機能もまた神殿の工事と並行して再建されることを、暗示しており、古代のギリシア語訳では、使徒言行録9章25節で「(町の)城壁」と日本語訳(フランシスコ会訳、新共同訳)されているものと同じ単語が用いられている。

すなわち25節の預言は、26節の「油注がれた者」の到来に先立つ時点で、既に神殿の所在地である都エルサレムが再建を果たしていることを、暗示しているわけである。

【3】26節(1):せっかく到来したメシア(=キリスト)が絶たれる

◯ダニエル書9章26節(フランシスコ会訳)〔前半部分〕
「六十二週の後、油注がれた者は絶たれ、彼にはない。」

26節の「油注がれた者」とは主イエス・キリストのことであると、カトリックの伝統においては理解されてきた。

◯ヨハネによる福音書5章39節~40節(フランシスコ会訳)
「あなた方は聖書を調べている。その中に永遠の命があると、思い込んでいるからである。だが、その聖書は、わたしについて証しするものである。それなのに、あなた方は、命を得るために、わたしの所に来ようとはしない」

この場合の「聖書」とは、旧約聖書を指している。
なぜなら、主イエス・キリストがこのことをお話しになられた時点では、まだ新約聖書は全く存在していないからである。
つまり主イエス・キリストは、旧約聖書とは第一義的に御自身について証しするための書物であると、この箇所において宣言なさったことになる。

また、このダニエル書9章26節の「彼にはない」という箇所に関しては、それではいったい何がないのかについて、さまざまな解釈が古代よりなされてきたが、少なくとも使徒言行録13章28節には、聖パウロによる一つの解答が提示されている。「油注がれた者(メシア、キリスト)」にはなかったもの──それこそまさに、「死に値する理由」であった。

◯使徒言行録13章26節~29節(フランシスコ会訳)
「アブラハムの子孫である兄弟たち、並びにみなさんの中にいて神を畏れ敬う方々、わたしたちのために、この救いの言葉は送られたのです。エルサレムに住む人たちとその指導者たちは、このイエスを認めず、また安息日ごとに読まれる預言者たちの言葉をも理解せず、この方を罪に定めて、その預言を成就させました。死に値する理由は何一つ見出せなかったのに、彼らはピラトに、イエスを死刑にすることを求めました。こうして、イエスについて書かれているすべてのことが成就された後、彼らはイエスを木から下ろして墓に納めました」

日本聖書協会新共同訳のダニエル書9章26節〔前半部分〕では、「その六十二週のあと油注がれた者は 不当に断たれ」と表現されているが、「不当に」という訳語は、結果的に、「死に値する理由」がなかったという解釈に近いところに落ち着いている。

ちなみに聖ペトロは、ペトロの第一の手紙2章22節において、「キリストは、『罪を犯したことがなく、その口には何の偽りも見出されませんでした』」と、イザヤ書53章9節を引用して説明している。つまり、キリストにはなかったものとして、「罪を犯したこと」と「偽り」という二つを挙げているわけである。

また、ルカによる福音書23章41節には、「この人は何も悪いことをなさってはいない」という証言が記述されている。
さらに、ヨハネによる福音書18章38節には、「わたしはあの者に何の罪も見出(みいだ)せない」とある。
ヨハネの第一の手紙3章5節にも、「イエスが罪を除くために現れたこと、また、彼には罪がないことを、あなた方は知っています」と書かれている。

【4】26節(2):メシアが絶たれた後、ローマ帝国の大軍団がエルサレムへ進撃

◯ダニエル書9章26節(フランシスコ会訳)〔後半部分〕
「次に来る指導者の民によって都と聖所は荒らされる。その終わりは洪水。戦いの終わりまで荒廃が定められている。」

ここで再確認すると、ダニエル書9章は、エルサレムそしてその神殿の再建を強く願うダニエルの祈りと、それに対する応答としてのいわゆる「七十週」の預言から構成されている。つまり「七十週」の預言とは必然的に、再建後のエルサレム及び神殿──すなわち第二神殿の時代のエルサレムに関する預言であるとしか解釈できない。

そこで「次に来る指導者の民」がローマ帝国の国民であり、「都」はエルサレム、「聖所」はエルサレム神殿の聖所と考えると、まさにその出来事は、紀元七〇年に起こった。ヨハネ福音書11章48節の「ローマ人が来て、われわれの土地と国民とを征服してしまう」との比較に注意。ここでの「洪水」とは怒濤の勢いで大軍団が殺到する光景の比喩的な表現であるのと同時に、その襲来によって全てが一掃され跡形もなくなってしまうことをも暗示している。ヨハネ福音書11章で最高法院の人々は、「もしもユダヤ人が、イエスこそダニエル書9章に預言されているメシアすなわちキリストであると信じてしまうならば、その次に来たる事態はローマ人によるエルサレムと神殿との滅亡である」という論理で、イエスの殺害を正当化しようとしたのである。

◯ヨハネによる福音書11章45節~53節(フランシスコ会訳)
「さて、マリアの所に来ていて、イエスの行われたことを見たユダヤ人の多くが、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々の所に行き、イエスの行われたことを告げた人もいた。そこで、祭司長たちやファリサイ派の人々は、最高法院を召集して言った、『この人は多くの徴(しるし)を行っているが、われわれはどうしたらよいのか。このままにしておけば、みなが彼を信じるようになる。そうなると、ローマ人が来て、われわれの土地と国民とを征服してしまうだろう』。その中の一人で、その年の大祭司であったカイアファは言った、『あなた方は、何も分かっていない。一人の人間が民に代わって死に、国民全体が滅びないほうが、あなた方にとって得策であることを、考えていない』。カイアファは自分勝手にこう言ったのではない。その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死ぬようになること、いや、国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるために死ぬようになることを、預言したのである。そこで、彼らはこの日以来、イエスを殺そうと決めた」

(注)別エントリー「『荒廃をもたらす憎むべきもの』とは何か【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/24206

ローマ帝国軍によるエルサレムそしてその神殿の滅亡を、まさに同時代の目撃者でもあったユダヤ人の歴史家ヨセフスは、ダニエル書に記された預言の成就であると見なした。

ユダヤの歴史に関する著作においてヨセフスは、当然ながら預言者ダニエルについて言及し、またダニエル書の預言が成就したのは、歴史上、二度にわたっていることを、書き記した。
すなわち一度目はアンティオコス・エピファネスの時代(ユダ・マカバイの時代)のことであり、二度目はローマ軍によるエルサレム(そして第二神殿)滅亡の時であると、ヨセフスは説明した。

結局のところ、この26節では、「メシア(キリスト)の死」が時系列的に「エルサレム及び第二神殿の滅亡」に先んじることが、預言されている。

【5】27節(1):ローマ人たちはユダヤの大反乱に対してどのように対処したのか

◯ダニエル書9章27節より〔第一部分〕(フランシスコ会訳)
「彼は一週の間、多くの者と固く同盟を結び、週の半分の間、犠牲(いけにえ)と献(ささ)げ物を廃止させる。」

紀元六六年に勃発したユダヤにおける大反乱は、最終局面となる紀元七三年のマサダ制圧までの「一週」すなわち七年の間、ローマ帝国の手を煩わせることとなった。

しかし、27節の「彼」すなわち、26節の「次に来る指導者」である(後のローマ皇帝となる)ローマ軍の司令官ウェスパシアヌスは、決して全てのユダヤ人が大反乱を支持しているわけなどではないことを、十分に理解していた。
そもそも、大反乱が勃発する以前にユダヤに君臨していたヘロデ・アグリッパ二世(使徒言行録では「アグリッパ王」として登場)からして、大反乱には全く賛同せずに、「親ローマ」という態度を崩さなかった。
ヘロデ・アグリッパ二世の代には、既にローマ帝国によってヘロデ王家はかなりの実権を奪われており、使徒言行録では「王」と呼ばれているものの事実上は地方領主と言えるまで支配地域も制限されていたが、曾祖父ヘロデ大王の時代からユダヤ人たちに不人気であったヘロデ王家にすれば、どこまでもローマに従属する以外に生き延びる道はなかった。

ただ、ヘロデ・アグリッパ二世は、ローマ帝国に政治的な実権は大きく制限されていたとはいえ、ローマ帝国からはエルサレム神殿を監督する権限を認められており、大反乱の勃発までは大祭司職の任命あるいは解任さえ可能であった。
その意味では大反乱の勃発までは、やはりヘロデ・アグリッパ二世はユダヤ人たちに大きな影響力を及ぼすことのできる存在ではあったものの、大反乱の勃発によってユダヤでは居場所を失うこととなってしまった。

大反乱の指導者たちは首都エルサレムの市民をローマに対する戦争に駆り立てるため、一種の恐怖政治的な強権支配を行なっていたが、ウェスパシアヌスはまずエルサレム以外のユダヤの諸都市を制圧していく一方で、反乱の指導者たちに嫌気が差していた親ローマ感情を持つユダヤ人の有力者たちを少しずつ味方に取り込んでいくことで、反乱軍の内部崩壊を促していく長期戦略を立てた。
エルサレム市民の中には、ローマの支配下でそれなりに繁栄していた時代を懐かしみ、実はローマとの和平を希求する人々も少なからず存在していたのである。

皇帝ネロによってユダヤ大反乱鎮圧のための司令官に任命されたウェスパシアヌスが、あえて急ぐことなく下準備に数年もの時間をかけてエルサレムを攻略する長期戦略を立てた理由は、前任者の失敗の教訓を受けてのものであった。
彼の前任者は、当時世界最強勢力であったローマ軍が大挙して押し寄せればユダヤの反乱など容易に鎮圧できるとばかりに、エルサレムに進撃したが、都を占領寸前まで行きながらなぜかいったん撤退を始め、追撃戦を挑んだユダヤの反乱軍に思わぬ惨敗を喫し、大いに面目を失っていた。

やがてローマ帝国でネロ皇帝に対する反乱が起こりネロは自殺、その後しばらく続いたローマ帝国の内戦を終わらせ自身がローマ皇帝となったウェスパシアヌスは、都を強権支配していた武装勢力に対して反感を抱く多くのユダヤ人を取り込みながら、ついに紀元七〇年に至り、エルサレム攻略に着手した。

ただしエルサレム神殿については、紀元七〇年における滅亡後も、ローマ帝国から再建を許されることが決してなかった。「犠牲(いけにえ)と献(ささ)げ物を廃止させる。」という箇所が預言していることは、宗教施設としての機能を回復させることをローマ帝国が絶対に認めなかった事実に他ならない。「週の半分」すなわち三年の後の紀元七三年に反乱軍の最後の拠点であるマサダが制圧され、大反乱が完全に終息した後も、ローマ帝国はエルサレム神殿の再建を決して認めようとはしなかった。
結局エルサレム神殿における「犠牲(いけにえ)と献(ささ)げ物」の伝統は廃れたまま21世紀の現代に至っている。

ローマ帝国が大反乱の鎮圧後もエルサレム神殿の再建を決して認めようとしなかったのは、大きく二つの理由による。
一つは、エルサレム神殿がユダヤ本土からのみならず世界各地に離散している全てのユダヤ人たちからも集めていた「神殿税」(マタイ福音書17章24節および出エジプト記30章11節〜16節参照)こそが、エルサレムの莫大な富の源泉であり、まさに、この莫大な富こそが今回の大反乱の資金源であり原動力に他ならなかったと、ローマ人たちが見なしていたからである。
そしてもう一つは、今回の大反乱の重要局面において、壮大な建造物であったエルサレム神殿それ自体が、堅固な要害としてローマ軍の前に立ちはだかった、という点である。

二世紀前半のローマ人の歴史家タキトゥスの著作を読む限り、当時のローマ人たちはユダヤの宗教にはあまり関心を持っておらず、ローマの支配に対し従順である限りできるだけユダヤ人の自由に委ねようという姿勢であったと、感じられる。しかし、今回の大反乱においては、あらゆる意味でユダヤ人の中心に存在したのがエルサレム神殿(第二神殿)であった。
大反乱の再発を懸念したローマ人たちは紀元七〇年以降、ユダヤ人たちにエルサレム神殿の再建を決して許しはしなかった。

なお紀元七〇年当時、ヘロデ王家のユダヤ以外にもローマの保護下に入ることで存続を認められていた比較的小規模の王国が中東にはいくつか存在し、それらの小王国の王たちはローマの新皇帝の歓心を買うためにも、ウェスパシアヌスと固く同盟を結びエルサレム攻略に参戦を表明した。
そしてヘロデ大王の曾孫に当たる「アグリッパ王」すなわちヘロデ・アグリッパ二世も、新皇帝のウェスパシアヌスと固く同盟を結び、自分の軍隊を率いてローマ帝国側に立ってエルサレム攻略戦に参加していた。

ヘロデ・アグリッパ二世は、曾祖父ヘロデ大王の代から自分の代まで、実に八十年以上にわたって大拡張工事を行い続けたエルサレム神殿──かつては自身が監督権を行使し、ようやく六年ほど前に大拡張工事を竣工させたばかりのエルサレム神殿を滅亡させる戦いに、参加していたのである。

【6】27節(2):マカバイ記の時代に「荒廃をもたらす憎むべきもの」が実際に登場した

◯ダニエル書9章27節より〔第二部分〕(フランシスコ会訳)
「荒廃をもたらす憎むべきものが翼の上に座す。」

フランシスコ会訳の欄外の注には、「『翼』は祭壇についていた四つの角を指す。」とある。

この箇所の「荒廃をもたらす憎むべきもの」の登場は、マカバイ記の時代すなわち紀元前一六七年頃に実際に起こったことが、マカバイ記一の1章54節に記録されている。

◯マカバイ記二5章1節、23節~24節(フランシスコ会訳)
「そのころ、アンティオコスは、第二次エジプト遠征の準備をしていた」
「ユダヤ人に対する敵意を抱いて、アンティオコスはまた、ムシア人の指揮官アポロニオスに二万二千の軍を率いさせ、成人男子をことごとく虐殺し、女や子供を奴隷として売り払うよう命じた」

◯マカバイ記一1章20節~24節(フランシスコ会訳)
「エジプトを打ち破った後、アンティオコスは第百四十三年に帰途に就き、強大な軍勢を率いてイスラエルに向かって上り、エルサレムに入城した。そして、不遜にも聖所に入り、金の祭壇、ともしび台をはじめ、そのすべての調度、供えのパンのための机、奉納酒用の杯、椀、金でできた香の十能、垂れ幕、冠を奪い、神殿の正面にあった金の飾りを、ことごとくはぎ取った。彼はまた銀と金と高価な器を取り、隠されていた宝も見つけ出して奪い取った。彼はこれらのすべてを携えて自分の地に帰っていった。彼は人々を虐殺し、大言壮語した」

◯マカバイ記一1章54節~57節(フランシスコ会訳)
「さて、第百四十五年のキスレウの月の十五日に、王は焼き尽くす献(ささ)げ物の祭壇上に『荒廃をもたらす憎むべきもの』を築き、また周囲のユダの町々に異教の祭壇を築いた。人々は家々の戸口や通りで香をたき、見つけ出した数々の律法の書を、ばらばらに引き裂き、火で焼いた。誰であれ契約の書を持っていたり、律法を守っていることが分かると、王の命令に従って死刑に処せられた」

またマカバイ記二には、次のように記されている。

◯マカバイ記二6章1節~3節、5節(フランシスコ会訳)
「その後しばらくして、王はアテネ人の一人の老人をユダヤ人の所に遣わし、彼らが先祖の律法を捨て、神の律法に従って生活しないように強要した。またエルサレムの神殿をゼウス・オリンポスに、ゲリジム山の神殿を、その場所に住む人々の願いによって、よそ者の守り神ゼウスにささげ、それらを汚(けが)させた」
「醜くかつ耐えられないほどの悪が、すべての人の上に及んだ」
「祭壇は律法によって禁止された忌むべき物で覆われた」

マカバイ記一とマカバイ記二とを比較すると、マカバイ記一1章54節において登場した「荒廃をもたらす憎むべきもの」に対応しているのは、マカバイ記二6章5節の「律法によって禁止された忌むべき物」であることが明らかとなる。

異教を強要しようとするシリア王アンティオコス・エピファネスの暴挙に対しては、心ある敬虔なユダヤ人たちは当然ながら次のように反応した。

◯マカバイ記一2章7節(フランシスコ会訳)
「何と悲しいことだ、どうしてわたしは生まれたのか。わたしの民の滅亡と、聖なる都の滅亡とを見るためだったのか。都が敵の手に渡され、聖所が他国の者たちの手に渡されたこの時、ここに住むためだったのか」

ユダ・マカバイと彼の一族を中心とする人々がアンティオコス王に対する反乱を起こし、最終的に宗教的・政治的独立を果たす過程がマカバイ記一とマカバイ記二には記述されている。

(注)別エントリー「ダニエル書7章:地上に興る第四の王国」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4631

マカバイ記の時代、神殿の祭壇上に「荒廃をもたらす憎むべきもの」が築かれたのは「第百四十五年のキスレウの月の十五日」のことであった(マカバイ記一1章54節)。
そして、それが撤去されてユダ・マカバイたちが祭壇を新たにし、神殿の清めを終えてその奉献を行なったのは、「第百四十八年の第九の月、すなわちキスレウの月の二十五日」(マカバイ記一4章52節)であった。

つまり、アンティオコス・エピファネス王が築いた「荒廃をもたらす憎むべきもの」によって被ることになった荒廃の時代は、現実的には三年より少し長い期間で終わったのである。

しかし、マカバイ記の時代に「荒廃をもたらす憎むべきもの」が実際に登場してから約二百年の後(紀元三〇年前後)、主イエス・キリストは、この「荒廃をもたらす憎むべきもの」を再び問題にされて近未来に起こるであろう事態について語られた。

◯マタイによる福音書24章15節~16節(フランシスコ会訳)
「預言者ダニエルによって言われた『荒廃をもたらす憎むべきもの』が聖なる場所に立つのを見たなら、──読者は悟れ──その時、ユダヤにいる人は山に逃げなさい」

ダニエル書9章の預言に登場するこの「荒廃をもたらす憎むべきもの」が、主イエス・キリストによって再び問題にされたということは、ダニエル書の預言がマカバイ記の時代に全て成就したわけではなかったことを意味している。マカバイ時代から約二百年を経て、主イエス・キリストは再び「荒廃をもたらす憎むべきもの」と次に示す神殿の滅亡とを、マタイ24章で話題にされているのである。

フランシスコ会聖書研究所訳マタイ24章15節の「荒廃をもたらす憎むべきもの」は、新共同訳では「憎むべき破壊者」、バルバロ訳では「<荒らす者のいとわしいもの>」、ラゲ訳では「『いと憎むべき荒廃』」、日本聖書協会口語訳では「荒らす憎むべき者」などの表現で訳されている。これは下記のマルコ13章14節の場合も同様である(日本聖書協会口語訳では「荒らす憎むべきもの」)。当時のユダヤ世界において「聖なる場所」と言えばエルサレムの神殿とりわけその聖所に他ならない。従って、マタイ24章15節が予告している出来事が起こるのは、ローマ帝国軍によるエルサレム神殿滅亡(紀元七〇年)以前ということになる。なぜなら、エルサレムの市街地は神殿を囲むように存在していたため、ローマ軍による聖所の占領以前の時点で既にエルサレムの町は破壊し尽くされており、ローマ軍の神殿占拠を目撃した後では、山に逃げるタイミングとしては遅過ぎるのである。それゆえ、「荒廃をもたらす憎むべきもの」あるいは「憎むべき破壊者」とは、ローマ軍のことではなく、それ以前に神殿の聖所を占拠していた別の何かということになる。

◯マタイによる福音書24章1節~3節(フランシスコ会訳)
「イエスが神殿の境内を出ていかれると、弟子たちが近寄ってきて、イエスに神殿の建物を指し示した。すると、イエスは仰せになった、『あなた方はこれらのすべてを見ているのか。あなた方によく言っておく。積み上げられた石が一つも残らないまでに、すべてが破壊される』」

◯マルコによる福音書13章1節~2節(フランシスコ会訳)
「さて、イエスが神殿の境内を出られると、弟子の一人が言った、『先生、ご覧ください。何と素晴らしい石、何と素晴らしい建物でしょう』。すると、イエスは仰せになった、『あなたはこれらの壮大な建物を眺めているのか。積み上げられた石が一つも残らないまでに、すべては崩されるであろう』」

◯マルコによる福音書13章14節(フランシスコ会訳)
「さて、『荒廃をもたらす憎むべきもの』が立つべきではない所に立つのを見たなら、──読者は悟れ──その時、ユダヤにいる人は山に逃げなさい」

紀元六六年に勃発したユダヤ人のローマ帝国への大反乱において、前線から首都エルサレムに撤退した敗残兵たちは地方から都に流れ込んで来た無法者たちと結託して武装勢力を形成、神殿の聖所を占拠してそこを根城にエルサレム市民たちに対し虐殺や略奪など暴虐の限りを尽くし、また先祖伝来の律法に背く行為を市民たちに強要した。当初は武装勢力を自分たちの守護者と見なしていたエルサレム市民は、こんなことならばローマ軍の手に落ちた方がよほどましだと考えて、城外への脱出を試みる者たちが続出した。マルコ13章14節の「立つべきではない所」とは、マタイ24章15節の「聖なる場所」と同様に神殿の聖所を意味している。

しかしそれ以前、まだ大反乱が勃発した初期の段階で、都に残存していたローマ軍をユダヤの反乱軍が降伏させた際、こともあろうに安息日にもかかわらずローマ兵を虐殺し聖なる都と見なされたエルサレムを血に染めた反乱軍の所業を目撃していた市民たちの中には、理由はどうあれこのようなことが起こったからには近い将来、恐ろしい惨劇が必ずや都を見舞うに違いないと悲観し、都を離れ去って行く者たちが相次いだ。

不幸にして、やがて彼らの懸念は遠からず現実のものになった。

ヨハネによる福音書11章55節に「多くの人々は身を清めるために、過越の祭りの前に、地方からエルサレムへ上った」とあるように、イエス・キリストの公生活の時代であれ、それからおよそ四十年後の大反乱の時代であれ、一世紀当時のユダヤ社会では、神殿が存在するエルサレムという都それ自体が清めの場であり大きな意味での神殿に含まれるという概念が存在し、支配的だった。しかし、ローマ帝国に対する大反乱の時代にエルサレムを支配していた武装勢力は、都を流血の巷に変えてしまい荒廃させてしまった。

その事件からおおよそ四十年前には、ユダヤの人々はイエス・キリストに対して、安息日に病気を治したことについて、再三にわたり強く詰っていた──もしも、安息日に病人を癒したことさえも批判の対象とされてしまうのであれば、安息日に多くの人々を殺し、神が住まわれると見なされていた神殿の存在する聖なる都を血で汚(けが)してしまった所業は、どれほど神の御前では厳しく裁きを受けることだろうか──エルサレムの心ある人々は、同じユダヤ人である反乱軍による行為に、恐怖した。

(ちなみにルカ福音書14章でイエス・キリストは、「あなた方の息子か牛が井戸に落ちたとき、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」(5節)と仰せになり、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちの問いに答えられた)

◯レビ記26章2節
「お前たちはわたしの安息日(あんそくじつ)を守り、わたしの聖所を敬わなければならない。わたしは主である。」

反乱軍が事実上エルサレムを支配し始めると、まず安息日の掟が上記のような経緯でないがしろにされ始め、そこからやがてはモーセの律法全体をないがしろにする無法集団の出現へと至ったわけである。

(注)別エントリー「『ヘブライ人への手紙』が書かれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/2286

ちなみに、紀元六九年(エルサレムの滅亡の前年)春、三派が分立した武装勢力の指導者の一人、シモン・バル・ギオラがエルサレムに入城した際、その支持者たちはオリーブの枝を手にして歓呼の声を上げながら指導者を迎え入れた。

その三十数年前の春、主イエス・キリストが都エルサレムに入城なさる際の光景を、ヨハネによる福音書12章12節〜13節は、「祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞いて、棗椰子(なつめやし)の枝を手に取り、迎えに出ていき、そして叫び始めた、『ホザンナ。ほめたたえられるように、主の名によって来られる方、イスラエルの王』」と記述している。

また同じくヨハネによる福音書5章43節には、主イエス・キリストの御言葉として、「わたしは父の名によって来たのに、あなた方はわたしを受け入れない。もし、ほかの者が自分の名によって来れば、あなた方はその人を受け入れる」と書き記されている。

【7】27節(3):主イエス・キリストの予告と第二神殿の滅亡──旧約時代の終焉

◯ダニエル書9章27節より〔第三部分〕(フランシスコ会訳)
「そしてついに、定められた破滅が、荒廃をもたらすものに注がれる。」

◯マタイによる福音書23章35節~39節(フランシスコ会訳)
「こうして、正しい人アベルの血から、あなた方が聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカリヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなた方の上に降りかかる。あなた方によく言っておく。これらのことはみな、今の時代に降りかかるであろう」
「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ。雌鳥が翼の下に雛を集めるように、わたしはいく度、あなたの子らを集めようとしたことであろう。しかし、あなた方はそれに応じようとしなかった。見よ、あなた方の家は荒れ果てたまま、見捨てられる。わたしは言っておく。あなた方が、『主の名によって来られる方に祝福があるように』と言う時まで、あなた方は決してわたしを見ることがない」

「あなた方の家」とは旧約の民にとっての神の住まいすなわちエルサレムの神殿である。歴代誌下36章15節の「住まい」も同じで、同節の「ご自分の民」は旧約の民のことである。

◯ルカによる福音書11章50節~51節(フランシスコ会訳)
「この時代は、世の初めから流された、すべての預言者の血の責任を問われる。それは、アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカリヤの血に至るまで及ぶ。そうだ、あなた方に言っておく。この時代はその責任を問われる」

マタイ23章36節やルカ11章50節そして51節に登場する「時代(γενεά – genea)」という表現は、七十人訳の詩編95(94)編10節の「世代」と同じギリシア語表現であるが、詩編のこの節では「世代」は「四十年」を意味する。
主イエス・キリストの公生活においてエルサレムの滅亡が予告された後、実際に都の滅亡が始まるに至る期間は、おおよそ四十年であった。

◯ルカによる福音書19章28節、41節~44節(フランシスコ会訳)
「さて、イエスはこれらのことを語り終えると、先頭に立って、エルサレムへ上って行かれた」
「都に近づき、イエスは都をご覧になると、そのためにお泣きになって、仰せになった、『もしこの日、お前も平和をもたらす道が何であるかを知ってさえいたら……。しかし今は、それがお前の目には隠されている。いつか時が来て、敵が周囲に塁壁を築き、お前を取り囲んで、四方から押し迫る。そして、お前と、そこにいるお前の子らを打ち倒し、お前のうちに積み上げられた石を一つも残さないであろう。それは、訪れの時を、お前が知らなかったからである』」

◯ルカによる福音書21章20節~24節(フランシスコ会訳)
「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいているのを悟りなさい。その時、ユダヤにいる人は山に逃げなさい。また、都にいる人はそこを立ち去り、地方にいる人は都に入ってはならない。それは、書き記されていることがすべて成就される、報復の時だからである。それらの日に、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸である。地上には深い苦悩が、この民の上には神の怒りが臨むからである。人々は剣の刃に倒れ、捕虜となって、あらゆる国に連れていかれる。そして、異邦人の期間が満たされるまで、エルサレムは異邦人に踏みにじられる」

「軍隊」はルカ19章43節の「敵」と同様にローマ軍に他ならないが、ローマ軍がエルサレムを包囲した時点で神殿の聖所を占拠していたのは、無法集団と化していたエルサレム市内の武装勢力であった。よってマタイ24章15節やマルコ13章14節との比較から、この無法集団こそが「荒廃をもたらす憎むべきもの」「憎むべき破壊者」ということになる。エルサレム市内において無法集団は、略奪や暴行そして虐殺また放火にいたるまであらゆる悪事をほしいままにしていた。

ルカ福音書のこれらの引用箇所では紀元七〇年のエルサレム滅亡について語られている。ルカ19章44節の「訪れ」とは「主の来臨」に他ならない。そしてルカ21章21節において主イエス・キリストは、エルサレムが包囲されようとしている時にはその都を脱出すべきであると警告され、また地方にいる人々は山に逃げるべきでエルサレムがいかに堅固な都であろうとそこに入って籠城すべきではないとも警告された。

大反乱の初期段階には、ローマ帝国との戦争という事態を受けて将来に不安を抱いたエルサレムの人々は、まだ自分の意思で都を離れ去って行くことが可能だったが、やがて都を支配する武装勢力は、エルサレム市民が都を出て行くことは結果的に敵であるローマを利する行為だとして、市民がエルサレムを離れることを禁じ、この禁を破ろうとする者たちに対しては生命を奪うことすら躊躇しなかった。
よって、既にイエス・キリストの「都にいる人はそこを立ち去り」「山に逃げなさい」という警告に従って行動すると予め決めていた人々は、いつまでも都エルサレムに未練を残して行動に移さずにいるわけにはいかなかったのである。

ローマ帝国でネロ皇帝に対する反乱が起こり、ネロの自殺後ローマ帝国が内戦状態に入り、ローマ軍の脅威がいったん去ったかのように見えると、三派が割拠した状態でエルサレムを支配していた武装勢力は、市民たちをも巻き込んで血で血を洗う内部抗争を展開した。
大反乱の時期のエルサレムにおいては、それぞれの武装勢力各派が敵対する勢力の支配地域を攻撃する際、穀物市場に放火して小麦だろうと大麦だろうと焼き払う、という蛮行が行なわれていた。
ユダヤ人の歴史家ヨセフスやローマ人の歴史家タキトゥスが、大反乱の時期のエルサレムで大量の穀物が焼き払われていたことを書き残しており、さらにユダヤの伝承の集大成であるタルムードにおいてまでも、武装勢力がエルサレム市民を対ローマ戦争に駆り立てる目的であえて小麦や大麦を焼き払って見せたことが記録されている。

◯ヨハネの黙示録6章5節〜6節(フランシスコ会訳)
「小羊が第三の封印を解いたとき、わたしは第三の生き物が『出てこい』と言うのを聞いた。そして、わたしは見た。見よ、一頭の黒い馬が現れた。それにまたがっている者は、手に天秤(てんびん)を持っていた。そして、わたしは四つの生き物の中から出る声のようなものが、こう言うのを聞いた、「小麦一升は一デナリオン、大麦三升は一デナリオン、オリーブ油とぶどう酒には害を加えてはならない』」

(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1699

最終的に、滅亡を前にしたエルサレムは深刻な食糧不足そして飢饉に苦しむこととなった。

◯ヨハネの黙示録6章7節〜8節(フランシスコ会訳)
「小羊が第四の封印を解いたとき、わたしは第四の生き物が『出てこい』と言うのを聞いた。そして、わたしは見た。見よ、一頭の青白い馬が現れた。それにまたがっている者の名は『死』であり、その後ろには陰府(よみ)が従っていた。彼らには、剣と飢饉(ききん)と死病と地上の野獣によって、地上の四分の一の人々を殺す権力が与えられた」

黙示録6章8節の記述を目にした紀元一世紀後半のユダヤ人キリスト教徒の多くは、次の瞬間にはエゼキエル書14章の次の箇所を連想したに違いない。

◯エゼキエル書14章21節~23節(フランシスコ会訳)
「まことに、主なる神は仰せになる。剣、飢饉、獰猛(どうもう)な獣(けもの)、疫病という四つのきびしい裁きをエルサレムにもたらし、その地の人間と獣を滅ぼす時はなおさらである。しかし、そこには必ず生き延びる者を残しておく。息子や娘たちは救い出され、お前たちのもとへ帰ってくる。お前たちは彼らの歩みと行いを目にして、わたしがエルサレムにもたらした災い、そこにもたらした出来事のすべてに慰めを見出(みいだ)す。お前たちは彼らの歩みと行いを目にして、彼らによって慰めを得る。その時、わたしがわけもなくその地に災いをもたらしたのではないことをお前たちは知るだろう──主なる神の言葉。」

ただし黙示録6章8節もエゼキエル書14章21節も、その「おおもと」となる言い回しは、既に申命記32章における「モーセの歌」の中に存在していた。これもまた紀元一世紀後半のユダヤ人キリスト教徒にとっては、もとより熟知していた箇所であろう。

◯申命記32章23節~25節(フランシスコ会訳)
「わたしは、彼らの上に災いを増し加え、わたしの矢を彼らに向けて射尽くす。彼らは飢えて痩せ衰え、熱病と激しい疫病で滅びる。わたしは野獣の牙(きば)を、地を這うものの猛毒とともに彼らに送る。外では剣(つるぎ)が殺し回り、家の内では恐れが、若い男にも女にも、乳飲み子にも白髪の老人にも等しく襲いかかる。」

また、レビ記26章には次のように書かれている。

◯レビ記26章2節【再掲】(フランシスコ会訳)
「お前たちはわたしの安息日(あんそくじつ)を守り、わたしの聖所を敬わなければならない。わたしは主である。」

◯レビ記26章3節~5節、6節~7節、11節~12節、14節~16節(フランシスコ会訳)
「もしお前たちがわたしの掟(おきて)に従って歩み、わたしの命令を守り、それらを行うなら、わたしはお前たちに季節に応じて雨を降らせる。大地はその産物を生じさせ、畑の木はその実を結ぶであろう。お前たちの脱穀作業はぶどうの収穫まで続き、ぶどうの収穫は麦の種(たね)蒔(ま)きまで続くであろう。お前たちは飽きるほどのパンを食べ、お前たちの土地に安心して住むであろう。」
「わたしはこの地に平和を与える。お前たちは何も恐れることなく眠るであろう。またわたしは悪い獣(けもの)をこの地から取り除く。剣(つるぎ)がお前たちの土地を通り過ぎることはないであろう。」
「わたしはお前たちのうちにわたしの住まいを置く。わたしの心がお前たちを忌み嫌うことはないであろう。わたしはお前たちの間を巡り歩き、お前たちの神となり、お前たちはわたしの民となるであろう。」
「しかし、もしお前たちがわたしに聞き従わず、これらのすべての命令を行わないなら、また、もしお前たちがわたしの掟を拒み、お前たち自身がわたしの定めを忌み嫌い、わたしのすべての命令を行わず、わたしの契約を破るなら、わたしはお前たちに次のことを行うであろう。すなわち、お前たちの上に恐怖を臨ませ、肺病と熱病をもって目を見えなくさせ、体を衰弱させるであろう。お前たちが種を蒔いても無駄となるであろう。お前たちの敵がそれを食べ尽くすからである。」

そしてルカによる福音書21章22節には、「それは書き記されていることがすべて成就される、報復の時だからである。」とあり、ここにおいて主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡(紀元七〇年)をもって旧約聖書の預言が全て成就し、旧約時代──すなわち、エルサレム神殿の時代が完全に終焉を迎えることを、明らかにされた。
(新共同訳では「書かれていることがことごとく実現する報復の日」、バルバロ訳では「書き記されているすべてのことの実現する報復の日」、ラゲ訳では「これ刑罰の日にして、書きしるされたること、すべて成就すべければなり」、日本聖書協会口語訳では「聖書にしるされたすべての事が実現する刑罰の日」の表現である)

エルサレムそして第二神殿の滅亡とそれに関連する諸々の出来事をもって、旧約聖書の全ての預言がことごとく成就することを、ルカ21章22節において主イエス・キリストは宣言されている。
従って、ダニエル書の「七十週」預言も、二世紀以降の歴史的出来事とは基本的に関係はない。
ましてや21世紀の現代あるいは近未来の世界情勢とは関わりがあろうはずはない。

◯ルカによる福音書13章34節~35節(フランシスコ会訳)
「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ。めん鳥が翼の下に雛を集めるように、わたしはいく度、お前の子らを集めようとしたことであろう。しかし、お前たちはそれに応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられる。わたしは言っておく。お前たちが、『主の名によって来られる方に祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない」

紀元七〇年のエルサレム滅亡後、城外へと通じる秘密の地下通路を利用して武装勢力の指導者たちは逃亡を図ったが、その多くが結局はローマ軍に捕われることとなった。
ある有力な指導者だけは脱出に成功して、最後の抵抗戦を行なうべく死海西岸近辺のマサダに立て籠ったが、「週の半分」が経過しようとする紀元七三年にはマサダも陥落、大反乱は終焉を迎えたのであった。

第二神殿の滅亡の契機となったユダヤにおける大反乱の勃発(紀元六六年)からその最終的な鎮圧(紀元七三年)まで、まさに「一週」すなわち七年を要したのである。

しかしそれ以降も大反乱の再発を懸念したローマ人たちは、ユダヤ人たちにエルサレム神殿の再建を決して許すことはなかった。

次に示す旧約聖書の三つの箇所は、このエントリーの初めの方に示したものであり、第一神殿滅亡とバビロン捕囚に関係している。しかし、主イエス・キリストが公生活中に何度も第二神殿滅亡を予告されたことで、これら三つの箇所は第二神殿の滅亡とも無関係なものとは言えなくなった。

◯歴代誌下36章15節~16節(フランシスコ会訳)【再掲】
「彼らの先祖の神、主は、使者たちを通じて彼らに警告し、何度となく警告された。ご自分の民と住まいを憐(あわ)れまれたからである。しかし、彼らは神の使者たちをあざけり、神の言葉をさげすみ、神の預言者たちを笑いものにした。そのために、主の怒りが民に対して燃え上がり、もはや容赦なかった」

◯ダニエル書9章12節(フランシスコ会訳)【再掲】
「神は恐ろしい災難をもたらすことによって、わたしたちに、また、わたしたちを支配した指導者たちに語られた言葉を成就されたのです。エルサレムに起こったようなことが、かつて、この天の下で起きたことはありませんでした」

◯エゼキエル書5章5節~9節、14節~15節(フランシスコ会訳)【再掲】
「主なる神は仰せになる。これがエルサレムである。わたしはこの都を周辺の異国の民および諸国のただ中に置いた。しかしこの都は異国にもましてわたしの定めに逆らい、また周辺の国々にもましてわたしの掟に逆らった。わたしの定めを拒絶し、掟に従おうとはしなかった」
「それ故、主なる神は仰せになる。お前たちは周辺の異国の民以上に強情である。そのためわたしの掟に従わず、周辺の異国の民の定めほどにもわたしの定めを実践しなかった。主なる神は仰せになる。それ故、わたしはお前に制裁を加える。異国の民が注視する中、お前の間で裁きを下す。ありとあらゆる忌まわしい行為に対して、かつて行ったことがなく、またこれからも決して行わないことをお前に行う」
「通り過ぎ行くすべての者の目の前でお前を廃墟とし、周辺の異国の民のあざけりの的とする。怒りと憤り、激しい非難のうちにお前を裁くとき、お前は周辺の異国の民のあざけりの的、物笑い、また警告、恐れとなる。これを語ったのは主なるわたしである」

主イエス・キリストの御受難(ダニエル書9章26節)とエルサレム神殿の滅亡の間の、ほぼ中間あたりの時期に、聖パウロは同胞であるユダヤ人たちに次のように語りかけている。

◯使徒言行録13章38節~41節(フランシスコ会訳)
「ですから、兄弟のみなさん、知っていただきたいのです。このイエスによって罪の赦(ゆる)しが宣べ伝えられ、また、モーセの律法によっては義とされなかったあらゆることについても、信じる者はみな、この方によって義とされるのです。ですから、預言者たちの書で言われていることが、あなた方の上に起こらないように、警戒してください。『見よ、お前たち、侮(あなど)る者よ、驚け。滅び去れ。わたしはお前たちの時代に一つの業を行う。誰かがこれを、お前たちに説明しても、お前たちにはとうてい信じられないことを』」

聖パウロは明らかに、第一神殿滅亡と同じ事態が近未来に再現される蓋然性を強く意識しながら、発言している。

そして、主イエス・キリスト御自身もまた、次の御言葉を残されている。

◯マタイによる福音書24章21節(フランシスコ会訳)
「その時には、世の初めから今に至るまでかつてなく、また今後もないような、大きな苦難が起こるからである」

◯マルコによる福音書13章19節(フランシスコ会訳)
「それらの日には、神が創造した世界の初めから今に至るまでかつてなく、また今後もないような苦難が起こるであろう」

マタイ24章21節とマルコ13章19節の主イエス・キリストの御言葉と使徒言行録13章38節~41節の聖パウロの言葉とは、明らかにダニエル書9章12節を踏まえているが、ダニエル書9章12節は第一神殿滅亡に言及した発言である。
つまり、主イエス・キリストも聖パウロも、第一神殿滅亡の再現というべき事態が近未来にやって来る蓋然性──すなわち第二神殿の滅亡について警告を発していることになる。

ルカ21章23節には「地上には深い苦悩が、この民の上には神の怒りが臨む」という主イエス・キリストの御言葉があり、当然この箇所は、マタイ24章21節やマルコ13章19節に対応しているが、プロテスタントの文語訳聖書である『改訳 新約聖書』(1917年)においては、ルカ21章23節の同じ箇所を「地(ち)には大(おほひ)なる艱難(なやみ)ありて、御怒(みいかり)この民(たみ)に臨(のぞ)み」と訳しており、ある人々がいわゆる「大艱難時代」「大患難時代」などと呼んでいる時期が実は第二神殿滅亡の前後に他ならないことを、既に暗示している。

マカバイ記の時代、神殿の祭壇上に「荒廃をもたらす憎むべきもの」が築かれたのは「第百四十五年のキスレウの月の十五日」のことであった(マカバイ記一1章54節)。
そして、それが撤去されてユダ・マカバイたちが祭壇を新たにし、神殿の清めを終えてその奉献を行なったのは、「第百四十八年の第九の月、すなわちキスレウの月の二十五日」(マカバイ記一4章52節)であった。

つまり、アンティオコス・エピファネス王が築いた「荒廃をもたらす憎むべきもの」によって被ることになった荒廃の時代は、三年より少し長い期間で終わったのである。

マカバイ記の時代の後、ローマ帝国による破壊までの二百数十年の間、ともかくエルサレムの第二神殿は存続し続けた。
しかし、紀元七〇年の滅亡の後、結局エルサレム神殿における「犠牲(いけにえ)と献(ささ)げ物」の伝統は完全に廃れたままで二千年近くが経過し、21世紀の現代に至っている。
まさに、アンティオコス・エピファネス王が築いた「荒廃をもたらす憎むべきもの」などとは比べようがないほどの、はるかに決定的で甚大な長期間に及ぶ破壊的影響が、紀元七〇年における滅亡によってもたらされたわけである。

(注)別エントリー「予備的考察:いわゆる『エゼキエル戦争』【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15520

最後に、非常に重要な問題であるため、あえて重ねて次の事柄を強調しておく。
エルサレムそして第二神殿の滅亡とそれに関連する諸々の出来事をもって旧約聖書の全ての預言がことごとく成就することを、ルカ21章22節において主イエス・キリストは宣言されている。
従ってダニエル書の「七十週」預言も、二世紀以降の歴史的出来事とは基本的に関係はない。
ましてや21世紀の現代あるいは近未来の世界情勢とは関わりがあろうはずはない。

(注)別エントリー「『携挙』:ギリシア語聖書本文で徹底検証【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7753

「自分を捨て、自分の十字架を背負って」

主イエスはマルコ8章34節で「自分を捨てる」ようにと教えられた。この意味をコロサイ3章9節以下でパウロは、「古い自分をその行いとともに脱ぎ捨て、造り主(=「言」である主イエス。ヨハネ1章3節)の姿に倣う新しい自分を身に着け、日々このようにして、新たにされる」ことであると説明した。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

マタイ22章「礼服」に関連して、パウロはコロサイ3章で、キリストに結ばれていたいと望む人々が「着る」つまり身に着けるべき事柄に関してとりわけ10節以下で論じ、5節から9節では脱ぎ捨てるべきものも説く。身に着けるべきは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、そして愛だとパウロは説いた。

注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6748

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

主イエスはマルコ8章34節で、弟子となる者は自分の十字架を背負い、従って来るべきだと仰せになった。初代教会時代、新しく信者になろうとする人々がペトロに「あなたにとっての『自分の十字架』とは何ですか?」と訊ねたなら、恐らく「鶏が鳴く前に三度主を知らないと言ったこと」と答えただろう。

(注)別エントリー「試論:ペトロの生涯を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10550

(注)別エントリー「試論:ルカ22章32節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5899

ベタニアのラザロの姉妹マリアは、主イエスによって「七つの悪霊」を追い出され主に最も忠実な女性たちの一人に変わったが、かつて彼女が歓楽に耽った風紀の乱れた町マグダラは彼女の代名詞となり、彼女もまたそれを甘んじて受け続けた。自分の間違っていた過去を忘れることなく戒めとするためである。

ガラテヤ5章24節や同6章14節は、「神の国と神の義」(マタイ6章33節)に相応しくない現世的な「肉の業」(ガラテヤ5章19節以下)と絶縁する決意や日々のそのための努力を、負うべき十字架にたとえた。マタイ6章12節の「負い目」とは、「肉の業」つまり人間の「過ち」(14節)を指す。

主はマタイ10章38節で、御自分に従いつつも当人が抱える良心の問題と向き合わない者を批判された。それだと「御言葉を聞くと喜んで受け入れるが当人に根がないので、御言葉のために艱難や迫害が起こるとすぐつまずく者」(13章20節〜21節)だからである。信仰は一時の熱意や高揚感ではない。

「十字架」に関しルカ9章23節は「日々」と記して日常との関連を示唆し「自分を捨て」と記して自分の諸欠点との関連を示唆する。二コリント11章28節「日々の厄介事や心配事」。「捨てるべき古い自分」は自分の諸欠点、「自分の十字架」は自分の諸欠点に伴う日常の労苦(厄介事、心配事)である。

(注)別エントリー「試論:『自分を捨てる』??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14466

(注)別エントリー「試論:『捨てる』べきものは何?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9194

ガラテヤ5章24節や同6章14節は、「神の国と神の義」(マタイ6章33節)に相応しくない現世的な「肉の業」(ガラテヤ5章19節以下)と絶縁する決意や日々のそのための努力を、負うべき十字架にたとえた。マタイ6章12節の「負い目」とは、「肉の業」つまり人間の「過ち」(14節)を指す。

主はマタイ6章12節で「われらが負債ある人を赦す如く、われらの負債を赦したまえ」と仰せになったが、同18章21節の「仲間を容赦しない家来のたとえ」で意味を詳しく御説明され、また35節は「あなたがた一人一人が心から兄弟を赦さないなら、天の御父もあなたがたに同じようになさる」と記す。

マタイ18章の「仲間を容赦しない家臣」のたとえで主は、「わたしがお前を憐れんだようにお前も仲間を憐れんでやるべきではなかったか」の言葉通り他人を容赦することこそ憐れみそのものであると説明され、一人一人が心から兄弟を容赦しないのならば天の御父も一人一人に同じくなさると警告なさった。

(注)別エントリー「試論:自分が裁かれないためにはを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5501

(注)別エントリー「試論:赦しの重要性を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5390

(注)別エントリー「試論:主の祈りと赦しを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5305

(注)別エントリー「試論:他人を赦すことを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5300

ヨハネ1章12節以下は「言(ことば)」つまり主イエス・キリストによって「神の子」とされた人々は本来、「肉の欲」と無縁であるべきとする。ガラテヤ5章24節は「肉の欲」と絶縁するという決意と日々の努力を十字架という比喩で表現し、19節以下は信者が避けるべき「肉の業」に関して列挙する。

新約聖書において十字架は比喩的に、当然「困難」「苦難」「試練」等の事柄を意味するが、同時にパウロがガラテヤ5章24節や6章14節で表現するように、「神の国と神の義」(マタイ6章33節)に相応しくない現世的な「肉の業」(ガラテヤ5章19節以下)と絶縁する決意や日々の努力を象徴する。

試論:「自分の十字架を担う」?を140文字以内で

ベタニアのラザロの姉妹マリアは、主イエスによって「七つの悪霊」を追い出され主に最も忠実な女性たちの一人に変わったが、かつて彼女が歓楽に耽った風紀の乱れた町マグダラは彼女の代名詞となり、彼女もまたそれを甘んじて受け続けた。自分の間違っていた過去を忘れることなく戒めとするためである。

(注)別エントリー「試論:『自分の十字架』??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14469

(注)別エントリー「試論:『自分を捨てる』??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14466

【追記】

マルコは、ベタニアで主の頭に高価な香油を注ぐ女性を記す。ヨハネも、ベタニアでラザロの姉妹マリアが主の足に高価な香油を塗ったと記す。主は彼女の行動を埋葬の準備と呼んだ。マルコ16章冒頭で主の御遺体に油を塗りに行く婦人たちの中に彼女もいたはずで、マグダラのマリアである蓋然性が大きい。

御復活の朝、主を目の前にしてマグダラのマリアは、十人の使徒たちやトマスのように、まず手の釘の痕や脇腹の槍の痕を確認しようとしたはずである。主の「わたしに触れてはならない」は、「手や脇腹を見なくとも、あなたは少しの疑いの余地もなくわたしを認識できているでしょう?」の裏返しでもある。

主はヨハネ20章17節でマグダラのマリアに「触れてはならない」と仰せになった。この時、主が指先で、彼女の額に触れて制止された、という伝承がある。マルコ3章9節以下には、主に触れようとする群衆のあまりの勢いに小舟が用意される話があるが、彼女の勢いもまたそれに近かったのかも知れない。

マルコ16章9節はマグダラのマリアを「以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人」と呼ぶ。箴言6章16節は「主の憎まれるものが六つ、主の心からいとわれるものが七つ」として17節以下で七つの悪徳について列挙する。「七つの悪霊」とは、マリアが克服した七つの悪徳を指すと思われる。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

一世紀にはギリシア語でタリケアと呼ばれていたガリラヤ湖畔の町をユダヤ人はヘブライ語でミグダル、アラム語でマグダラと呼んだと想定され、魚を保存用に加工する燻製工場で知られた。風紀の乱れた町としても悪名高く、歓楽地としての町全体または一部の歓楽街を呼ぶ際マグダラが悪名的に用いられた。

ヨハネ1章の通り御子である主イエスは「言(ことば)」つまり御自分で御言葉をお話しになる神として、この世に来られ、「仕えられるため」ではない(マルコ10章45節)。従って主イエスに直接応対する場合に限り「仕える」を選んだマルタより「御言葉に耳を傾ける」を選んだマリアが良しとされた。

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

主イエスはマタイ12章38節以下で「しるしを見せてください」と迫った人々に対して、救い主に求めるべきものはしるしなどではなく、むしろ救い主が語る御教えであるべきだと強調された。主イエスはルカ10章でも「仕える」を選んだマルタより「御教えを聞く」を選んだマリアの姿勢を良しとされた。

(注)別エントリー「『マリアは良い方を選んだ』?」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17866

「人の子が来るのを見るまで」???

主イエスはマタイ16章28節で「ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは決して死なない者がいる」と仰せになり、ヨハネ21章22節以下ではそれが愛弟子ヨハネであると教えられた。紀元七〇年の時点でペトロも二人のヤコブも殉教していたが、ヨハネのみ存命だった。

主イエスはヨハネ21章で「わたしの来る時まで彼(ヨハネ)が生きていることをわたしが望んだとしても、あなた(ペトロ)に何の関係があるか」と仰せになった。「主の日」つまり主の来臨としての都の滅亡が紀元七〇年が実現した際、ペトロも二人のヤコブも既に殉教していたがヨハネは生き残っていた。

(注)別エントリー「エルサレムの婦人たちへの伝言」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15741

主はマタイ10章23節で「人の子は来る」と仰せになり、「人の子の日」(ルカ17章22節)に言及されたが、黙示録6章17節は「神と小羊の怒りの大いなる日」と表現し、これらの啓示は紀元七〇年のエルサレム滅亡で実現した。支配者たちはイザヤ2章と黙示録6章の通り、洞穴からの逃亡を企てた。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888

(注)別エントリー「主の御降誕と古代イスラエルにおける洞穴」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4351

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7514

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』=『主の僕』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8876

主はルカ17章30節で「人の子が現れる日」に言及された。これは黙示録6章17節「神と小羊の怒りの大いなる日」と同じで「神」は御父である神、「人の子」「小羊」は主イエス・キリストである。「はげ鷹」ローマ帝国は繁栄の都エルサレムと神殿を、神の介在を疑い得ないほどに跡形もなく滅ぼした。

主はマタイ10章7節で「天の国が近づいた」と告げるよう仰せになったが、これと別に23節で「人の子」が来る日をほのめかされた。これはルカ17章22節「人の子の日」や黙示録6章17節「神と小羊の怒りの大いなる日」を指し、マタイ24章33節の通り、人々は悲惨な諸事件から主の来臨を悟る。

出エジプト記24章にモーセの一行が「神を見た」とあるが、神の御姿を実際に見たわけではなくその「足台」(「サファイアの敷石のようなもの」)を見たことによって、その上に必ずおられるはずの神を「見た」わけである。また同様に、雲や火や煙、雷鳴や稲妻、角笛の音なども神の現存を象徴していた。

主はルカ21章20節以下で(紀元七〇年の)エルサレム滅亡及びその前後にユダヤを襲う「大いなる艱難」(23節)を予告された。また「異邦人の庭」(黙示録11章2節)を持つエルサレム神殿がまだ存在する時期に黙示録の内容を啓示され、エルサレム滅亡後も教会は存続すると希望をお与えになった。

主はルカ17章20節で「神の国は見える形では来ない」22節で「人の子の日を弟子たちが見ることはない」と仰せになったが、アモス5章18節では「主の日を待ち望む者は災いだ。主の日は闇であって光ではない」と預言しており、「神の国の到来」と「主の日」とを混同すべきではないと、理解できる。

(注)別エントリー「試論:『主の日』二つの意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12894

主はルカ17章34節で「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」21章24節で「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と仰せになった。紀元七〇年のエルサレム滅亡の際、ユダヤ人はローマ市民権の有無によって運命が大きく分かれ、奴隷にされた者たちはローマ帝国の各地へと売られて行った。

ルカ17章34節から35節で主は「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」と繰り返されたが、では一体どこに「連れて行かれ」るのかを、ルカ21章24節では「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と御説明された。これは大昔モーセがレビ記26章33節以下で預言していた話と同じである。

紀元七〇年のエルサレム滅亡時にローマ軍へ投降したユダヤ人のうち、使徒言行録22章のパウロのようにローマの市民権を持つ者はローマ法の保護下にあるため留め置かれたが、そうでない者は妻子と共に奴隷とされて売り飛ばされた。こうして「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」は現実となった。

プロテスタントの文語訳聖書『改訳 新約聖書』(1917年)はルカ21章23節を「地(ち)には大(おほひ)なる艱難(なやみ)ありて、御怒(みいかり)この民(たみ)に臨(のぞ)み」と訳し、ある人々がいわゆる「大艱難時代」と呼ぶ時期とは実は紀元七〇年の滅亡の前後に他ならないと示唆する。

主はルカ21章23節でエルサレム滅亡とその前後のユダヤの苦難を予告されたが、『改訳 新約聖書』(1917年)では「大なる艱難」と日本語訳する。一世紀後半のユダヤの歴史家ヨセフスの記述通り、紀元六六年の大反乱の勃発から七三年のマサダ陥落までの七年間に、ユダヤは惨劇の連続を経験した。

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の意義を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9840

ダニエル9章24節はメシアに関して預言の時代を封印する存在だと預言し、主イエスはルカ21章22節で旧約聖書の全預言が(紀元七〇年の)エルサレム滅亡で成就すると仰せになった。故に現代や近未来の国際情勢と旧約聖書の預言とは無関係で、関係ありとする解釈は主の仰せとは明確に相反している。

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

(注)別エントリー「イエス・キリストと天の雲」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/684

(注)別エントリー「試論:福音書と『西遊記』の違いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5760

申命記28章49節でモーセは、将来イスラエルの民を滅ぼす国民の象徴となる動物を預言した。ルカ17章37節のギリシア語本文も、古代のギリシア語訳申命記と同じ単語を用いている。それはローマの国章と同じ動物で、ヨハネ11章48節で「ローマ人」という表現が登場する、根拠の一つでもあった。

ダニエル9章24節はメシアに関して預言の時代を封印する存在だと預言し、主イエスはルカ21章22節で旧約聖書の全預言が(紀元七〇年の)エルサレム滅亡で成就すると仰せになった。故に現代や近未来の国際情勢と旧約聖書の預言は無関係で、関係ありとする強弁は、キリスト教の範疇を逸脱している。

主はマタイ5章18節で、全てのことが実現し天地が消え失せるまで律法の時代が続くことを仰せになった。ルカ21章22節では、エルサレム滅亡(20節)の日を「書かれていることが完全に実現する報復の日」と仰せになり、エルサレムと神殿の滅亡(紀元七〇年)で律法の時代が終わると宣言なさった。

黙示録21章1節は「最初の天と最初の地は過ぎ去った」と記す。詩編78編69節はエルサレム神殿の聖所を天地に喩えた。主イエスはマタイ5章18節で全てのことが実現し天地が消え失せるまで律法の時代は続くと仰せになり、ルカ21章22節でエルサレム滅亡で全てのことが実現するとも予告された。

「天地が消え去る」の「天」とは、神がお住まいになる場所と見なされたエルサレム神殿とりわけその聖所を指し、二ペトロ3章はその滅亡が近いことを説く。「地」はエゼキエル7章2節同様、イスラエルの地を指す。紀元七〇年にエルサレムと神殿は滅亡しユダヤ(イスラエル人の国家)も同じく消滅した。

二ペトロ3章10節は「主の日」において「天は激しい音を立てながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に熔解し尽くす」と予告した。数年後の紀元七〇年、神が住まわれると見なされて、「天」と同一視されていたエルサレムの神殿は、都の滅亡の際ローマ帝国軍によって火を放たれ、大音響と共に焼け滅びた。

ルカ21章20節以下で主は、「敵が都を包囲しようとする時は籠城すべきでなく都を離れよ」と警告された。約四十年後、ローマ軍が迫る都では「預言者」たちが、「神が都を救われるから都で待て」と説いたが、神の介入はなく都は滅亡した。この「預言者」たちの虚言を歴史家ヨセフスが書き残している。

(注)別エントリー「試論:黙示録18章を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5394

(注)別エントリー「試論:黙示録16章を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5086

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1699

予備的考察:聖書と「平和」

主イエスは御復活の後、弟子たち(使徒たち)に初めて現われた際「あなたがたに平和があるように」と仰せになった。古代のヘブライ人にとって「平和」は全ての幸福の総称である。挨拶として長い形式ではサムエル上25章6節「あなたに平和、あなたの家に平和、あなたのもの全てに平和があるように」。

主イエスはマタイ9章で慢性出血の女性を治癒されたが「あなたの信仰があなたを救った」の後にマルコ5章34節では「安心して行きなさい」と続ける。これは《平和のうちに出発しなさい》というヘブライ人の別れの挨拶(サムエル上1章17節)で《あなたの願いは既に聞き入れられた》を示唆している。

古代のヘブライ人にとって「平和」はあらゆる幸福の総称であり、「あなたに平和」はヘブライ人の挨拶の決まり文句だった。ルカ10章5節「この家に平和があるように」は、より長い形の挨拶(サムエル上25章6節)である。ヘブライ人は「平和に属する者」を言い表したい時に「平和の子」と表現した。

(注)別エントリー「神の子らは人の娘たちを【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8636

主イエスはマルコ5章で、「十二年間も出血の止まらなかった女性」を癒された後、彼女に「安心して行きなさい」と仰せになった。これは列王記下5章19節等に登場する常套句で、ヘブライ語では全ての幸福の総称である「平和」という単語を含み「これからは幸せに暮らしなさい」を意味する表現である。

マタイ5章9節「平和を実現する人」の「平和」とは、福音書の時代の人々にとっては単に戦争のない(終わった)状態を意味する以外に個々の健康や幸福・繁栄、人間関係の協調・一致や発展、社会や国家の安寧、暴動や反乱のない状態、心の(霊的な)安定など、物事が好転している状況の総称でもあった。

マタイ10章34節「わたしが来たのは平和をもたらすためだと思ってはならない」。この言葉の真意を三十数年前シメオンから聖母は預言されていた(ルカ2章34節)。「この子はイスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするしるしとして、また反対を受けるしるしとして、定められています」。

(注)別エントリー「試論:母マリアと『剣』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7974

ルカ2章14節「地には平和」の「平和」は、福音書の時代のヘブライ人にとって単に戦争のない(終わった)状態を意味する以外にも、個々の健康や幸福・繁栄、人間関係の協調・一致や発展、社会や国家の安寧、暴動や反乱のない状態、心の(霊的な)安定など、物事が好転している状況の総称でもあった。

主はヨハネ14章27節で「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と仰せになった。ではどうやって主は御自分の平和をお与えになったのか、パウロがコロサイ1章20節で「その十字架の血によって」と答えを記した。

(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7479

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

主イエスはルカ10章で、御自分の教えを受け容れることになる人々を「平和の子」とお呼びになった。イザヤ9章5(6)節ではメシアの称号の一つを「平和の君」と啓示し、またパウロはフィリピ4章9節で自分たちの神を「平和の神」と呼ぶが、ヘブライ人にとって「平和」は全ての幸福の総称でもある。

主イエスは「あなたが他の人からしてもらいたいことは全て、あなたの方から他の人にしなさい」(マタイ7章12節)を御自分の《律法》となさり、これをもって隣人愛の掟(ヨハネ13章34節)の基礎となさった。このことが欠乏しているがゆえに人々は報道で連日のように惨劇を目にし続けるのである。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

ガラテヤ5章22節は聖霊の賜物の一つに「平和」を挙げる。これは古代のヘブライ人にとっては戦争のない(終わった)状態を表す以外にも、人間関係の協調・一致・発展、個々の健康・幸福・繁栄、心の(霊的な)安定、暴動・反乱のない社会や国家の安寧など、物事が好転している状況の総称でもあった。

(注)別エントリー「試論:『心も思いも』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10376

主イエスはマルコ4章26節以下の「種」のたとえで信仰の成長をお教えになったが、ヨハネ3章では同様の事柄をニコデモに別の表現で御説明され、同章8節は聖霊を「風」と表現する。同章とマルコ4章を比較すると、種が芽を出して日々ゆっくり成長するように聖霊は静かに働き続けると示唆されている。

聖パウロのガラテヤ書5章によれば、聖霊が働いている徴は愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・節制(22節〜23節)であり、聖霊が不在である徴は姦淫・わいせつ・好色・偶像礼拝・魔術・敵意・争い・そねみ・怒り・利己心・不和・仲間争い・ねたみ・泥酔・酒宴(19節〜21節)などである。

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを確実に識別できる基準」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4564

ローマ8章6節の直訳は「肉の思いは死、霊の思いは命と平和」。ヘブライ人は人間由来の事柄を「肉」、神に由来する事柄を「霊」と呼び、あらゆる幸福を「命」あるいは「平和」と総称した。この節は「人間由来の願望は死で終わるが、神に由来する願望は人間をあらゆる幸福へと導く」という意味である。

(注)別エントリー「試論:『わたしは命である』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11586

(注)別エントリー「試論:『肉と霊』の対比を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7740

(注)別エントリー「試論:ガラテヤ5章の『肉と霊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7657

(注)別エントリー「試論:聖書と『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7649

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『永遠の命の言葉を持つ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11244

(注)別エントリー「『永遠の命』と『新しい掟』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4905

試論:「律法の再定義」を140文字以内で

主イエスはマタイ7章12節で、「他の人からしてもらいたいことは何でも、あなたから他の人にしなさい」と有名な御教えを仰せになり、「これこそ律法であり預言者〔の教え〕」と続けられ、律法を再定義された。これをパウロは《キリストの律法》(一コリント9章21節、ガラテヤ6章2節)と呼んだ。

(注)別エントリー「《キリストの律法》(マタイ7章12節)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18013

【追記】

主イエスは「あなたが他の人からしてもらいたいことは全て、あなたの方から他の人にしなさい」(マタイ7章12節)を御自分の《律法》となさり、これをもって隣人愛の掟(ヨハネ13章34節)の基礎となさった。このことが欠乏しているがゆえに人々は報道で連日のように惨劇を目にし続けるのである。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

試論:「放蕩息子とナオミ」を140文字以内で

主イエスが放蕩息子のたとえを教えられた際、当時の人々の一部はルツの姑ナオミを思い浮かべたはずである。ナオミは家族と共にモアブに移住したが、夫も息子たちもモアブで亡くした。飢饉を避けるためとはいえ士師の時代にイスラエルを捨ててモアブに移住するのは、尋常ならざる行動と周囲には映った。

(注)別エントリー「試論:『放蕩息子』『父親』誰?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15313

【追記】

飢饉を避けるためとはいえ故郷イスラエルを捨てて異邦モアブの地に移住したナオミと彼女の家族の行動は、好ましからざるものとして当時のイスラエル人は受け止めたはずである。全てに希望を失い故郷に帰ったナオミへモアブ人の嫁ルツの信仰が大きな幸福をもたらしたところに、人々は天の配剤を感じた。

モアブの女性ルツは亡き夫の母ナオミに「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神」と誓い、寄留者としてイスラエルに住んだが何一つ差別を受けなかった。ルツは「あなたたちイスラエル人はそうするけれど、わたしの故郷の流儀は違います」という口答え(減らず口)を、何一つ口にしなかった。

申命記25章5節には、古代イスラエルで家名を存続させる律法として、跡取りを生む前に夫に先立たれた妻と亡き夫の「兄弟」との結婚を義務付ける規定が存在した。ルツは規定に従いボアズと結婚したがボアズはルツの亡夫マフロンとは父も母も異なり、古代の「兄弟」とは親族全般を指す表現だと分かる。

(注)別エントリー「イエスの『兄弟』『姉妹』:同胞か親戚か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1451

ルツ記の主人公であるルツは、最初の夫マフロンとの間に跡取りを産む前に夫に先立たれ、のちに申命記25章の規定に従ってマフロンの「兄弟」ボアズと再婚したが、このボアズは亡夫マフロンとは父も母も異なっていた。マフロンの父はエリメレク、母はナオミで、ボアズの父はサルマ、母はラハブである。

(注)別エントリー「試論:『履物を脱ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8620

(注)別エントリー「聖母と聖ヨセフが終生童貞である理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4464

《主の変容》

主イエスは、ルカ9章の「主の変容」で三人の使徒に、「天上の体」(一コリント15章40節)すなわち死者の復活後の人間の姿(同章35節以下)をお示しになったが、当時三人の使徒は全く理解できなかった。「人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は愛する者たちに準備された」(同2章9節)。

(注)別エントリー「試論:人間の完成形(最終形態)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15868

「主の変容」の際、マタイ17章2節は「その顔は太陽のように輝き」と記すが、黙示録1章16節は天上におられるキリストを「顔は照り輝く太陽のようであった」と記し、まさに「主の変容」において三人の使徒は「天上の体」を目撃した。黙示録1章でヨハネは「主の変容」を思い出し主の足許に倒れた。

(注)別エントリー「試論:『火も剣も御言葉の比喩』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7812

「主の変容」の後、主イエスは「人の子が死者の中から復活するまでは今見たことを誰にも話してはならない」と命じられた。使徒たちは「天上の体」(一コリント15章40節)を目撃したのだが、まず主の御復活前後の実体験を経た上で復活の意義を理解しなければ、「天上の体」の理解もないからである。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888

ダニエル7章は、天において《御父である神》が《御子である神》に全権を委任する光景(13節〜14節)を啓示する。このことを主イエスは四福音書の随所で繰り返し強調され(マタイ11章27節、同28章18節、ルカ10章22節、ヨハネ3章35節、同13章3節等)、「真理」とお呼びになった。

(注)別エントリー「試論:ダニエル7章の『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10985

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

(注)別エントリー「試論:『御父と御子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7544

(注)別エントリー「イエス・キリストと天の雲」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/684

(注)別エントリー「ダニエル書7章:地上に興る第四の王国」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4631

主は高い山の上でモーセやエリヤと語り合われたが、語り合っているのは誰かがペトロには察しがついた。モーセは「神の杖」を手に携えていて(出エジプト記4章20節、17章9節)エリヤは「毛衣を着て腰には革帯を締めている」(列王記下1章8節)という外見的特徴からペトロは判断したのであろう。

「主の変容」とは、一コリント15章でパウロが言及する

「天上の体」(40節)

を主イエスが実際に三人の使徒へお示しになった意義深い出来事で、パウロは「天上の体」を

「朽ちないもの」(42節)

「輝かしいもの」「力強いもの」(43節)

「霊の体」(44節)

「天に属する者」(47節)

等と呼ぶ。

コヘレト12章7節では人間の肉体を「塵」と表現し死によって大地(創世記2章7節、3章19節)へ帰ると記すが、洗礼により「神の子とする霊」(ローマ8章15節)を受けた者の「霊」は対照的に、罪に脆い肉体の重荷から解放され「霊」をくださった「与え主」神の許へ帰るべきだと定められている。

(注)別エントリー「試論:『盗賊さえ楽園に達した』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8383

一コリント15章でパウロは「地上の体」「天上の体」という表現を用いて、《人間が地上で生活していた際の、死によって朽ちていく肉体》と《その人の霊が神の許に帰還した後で、神によって天上で新しく与えられる、朽ちることのない体》について説明し、後者を「霊の体」(44節)等と表現している。

(注)別エントリー「試論:『イエスは復活と命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8389

古代のヘブライ人の世界観に従ってガラテヤ5章は「人間(人間それ自体)」を「肉」、「神〔に由来するもの〕」を「霊」と呼ぶ。ヨハネ3章6節も同様の対比を用い、「霊から生まれた者は霊」の意味を1章12節は「神の御言葉である主イエスは自分を受け入れる人に神の子となる資格を与えた」と記す。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:ガラテヤ5章の『肉と霊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7657

古代のイスラエル人にとって「肉」という表現は「人間」を指す場合があった(ヨハネ1章14節等)。マルコ7章20節以下で主イエスが「人から出て来るものこそ人を汚す」と注意を促された諸悪と、ガラテヤ5章19節以下でパウロが「肉の業」と呼んで避けるように促した諸悪が同様なのは当然である。

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346

ガラテヤ5章は「肉」と「霊」の対立を記すが、ヨハネ1章同様、パウロは古代のヘブライの世界観に基づき、人間そのものを「肉」と表現して「霊」つまり「神の霊」と対比する。近代人は「肉と霊」という表現から「〔人間の〕肉体と〔人間の〕霊魂の対立」をイメージしがちだが、パウロの意図は異なる。

古代のヘブライ人は「肉」を、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけではなく魂も含めた人間の全体。)」を表す言葉として用いていた。創世記6章12節「すべて肉なる者は堕落の道を歩んでいた」(新共同訳)。日本語訳の「肉なる者」に対応する語は、ヘブライ語本文ではただ単に「肉」である。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7795

二世紀初めにアンティオキアの聖イグナティウスが記したように初代の信者は、キリストの御復活すなわち「天上の体」(一コリント15章40節)の創造の記念に、週七日の中で祝うべき特別の日を土曜日(ユダヤ教の安息日)から、御復活があった「週の最初の日(安息日の翌日)」日曜日へと置き換えた。

(注)別エントリー「試論:『安息日と主日との違い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12017

試論:「ペトロの人間的な弱さ」を140文字以内で

マタイ14章でペトロは自分も湖上を歩くと申し出たが途中で怖くなり沈みかけ、使徒言行録10章で啓示によりモーセの律法の食事規定にとらわれなくてよいと宣言したが、のちに曖昧な態度を取りパウロに厳重注意された(ガラテヤ2章)。主はペトロの揺らぎやすさを承知で彼に御自分の羊を委ねられた。

(注)別エントリー「試論:『口火を切る人、ペトロ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14220

(注)別エントリー「試論:『イエスの舟』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14247

【追記】

彼は家庭を持つ漁師で湖の対岸の異邦人とも交流がないほどだったが、大工の男に説得され、その弟子となり、師とともに湖上を歩き、師から一番弟子に指名された。一度は師を見捨てた彼を師は変わらず信頼し、師が去った後も教えを広めるために彼は世界を巡り、世界の都で一粒のからし種として殉教した。

(注)別エントリー「試論:『自分の十字架』とペトロを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12304

福音書には主の職業はテクトーンとあるが、ホメロスの叙事詩ではテクトーンは船大工をも意味し、もしも主が腕の確かな職人として既に漁師の間で知られていたとすれば、故郷で生涯を終えることが多く同業者だけで集まりがちな漁師の中からすぐ四人の信頼を得て弟子とすることができたのも、道理である。

(注)別エントリー「試論:天の国と『人間をとる漁』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8963

主はマルコ4章で弟子たちの前で突風を静められて創造主としての権威の片鱗を示されたが、後にペトロだけは最後に沈みかけたものの湖の上を歩く体験をして主の権威に対する確信を強め、このペトロの確信がマタイ16章16節「あなたは生ける神の子キリスト(メシア)です」の信仰宣言へとつながった。

主イエスが湖の上をお歩きになった際、弟子たちの中でペトロが最初に自分も歩くと申し出たが、怖くなって沈みかけ、主に助けを求めた。主はペトロをお叱りになったが、すぐに手を伸ばし助けられた。失敗も多かったが、御言葉に真っ先に反応して忠実を示し続けるペトロに、主は御自分の羊を委ねられた。

主がペトロに「あなたは鶏が鳴くまでに三度わたしを知らないと言うであろう」と予告されたことはあまりにも有名である。しかしその前に、主はさらに先のことを見通すかのように、「あなたが(自分の痛手から)立ち直ったならば今度はあなたが仲間たちを力づけなさい」ともペトロに仰せになられていた。

ヨハネ1章42節はシモン・ペトロをヨハネの子とするが、マタイ16章17節はバルヨナ(ヨナの子)と呼ぶ。ヨナは鳩すなわち神の霊を意味し、主イエスはペトロを鳩の子と呼ぶことで《今のあなたの言葉は神の霊があなたに言わせたことである》という事柄をシモン本人及びその場にいた皆に示唆された。

ヨハネ21章15節はシモン・ペトロを「ヨハネの子」と呼ぶ。マタイ16章17節「バルヨナ」は通常「ヨナの子」と訳されるが福音書時代のヘブライ語でヨナは鳩を意味した。ただしシモン・ペトロの元々の性格が、ヨナ書最終章の預言者の姿(不満や怒りを隠せない)と同じだった可能性も否定できない。

マタイ16章17節「バルヨナ」の「ヨナ」は、福音書時代のヘブライ語では「鳩」を意味した。シモン・ペトロを「鳩(=神の霊。マタイ3章16節)の子」と呼ぶことで、主イエスは「あなたの今の言葉は神の霊があなたに言わせたことである」という事柄をシモン本人そしてその場にいた皆に示唆された。

試論:「食事と貪欲」を140文字以内で

主イエスはどんな貪欲にも警戒するようルカ12章15節で教えられた。マタイ1章19節で主の養父ヨセフはディカイオスと呼ばれるが、古代ギリシア語訳箴言13章25節は「ディカイオスは食事の際にどんなものにも満足する」と記す。マリアの手料理に不平不満を口にするヨセフを想像できるだろうか?

(注)別エントリー「試論:『親しき仲にも礼儀あり』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13120

(注)別エントリー「聖家族はどのような雰囲気の中で暮らしていたのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5246

(注)別エントリー「試論:『ディカイオスとは』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12714

(注)別エントリー「聖ヨセフ:ディカイオスを旧約聖書で考察」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1613

【追記】

箴言13章25節は、神に従う義人は食事の際にも欲張らず満ち足りることを知っているが、神に逆らう悪人は万事につけて貪欲なので、他にも自分が食べられなかった美味しいものがあるのではないかという卑しい思いが先に立ち、今現在自分がどのような美食を貪っていようと少しも満足が行かないと説く。

(注)別エントリー「試論:『あらゆる貪欲に対して』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18049

試論:「悪は人間の心から出る」を140文字以内で

主イエスはルカ12章15節で、あらゆる種類の貪欲に警戒するよう仰せになり、マルコ7章20節以下で「人から出て来るものこそ人を汚す」と教えられたが、貪欲もそこに含まれる(同章22節)。ローマ1章29節以下でパウロは、マルコ7章の主の御言葉を踏まえ諸悪を列挙したが貪欲も含まれている。

(注)別エントリー「試論:『あらゆる貪欲に対して』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18049

(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1699

【追記】

主はヨハネ3章20節以下で「悪を行う者は、自分の行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない」「真理を行う者は、光の方に来る」と仰せになり、マルコ7章21節以下では「淫行、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、好色、妬み、悪口、傲慢、無分別」等を、「悪」の代表的な例として列挙された。

脱ぎ捨てるべきもの、身に着けるべきもの

マタイ22章「礼服」に関連して、パウロはコロサイ3章で、キリストに結ばれていたいと望む人々が「着る」つまり身に着けるべき事柄に関してとりわけ10節以下で論じ、5節から9節では脱ぎ捨てるべきものも説く。身に着けるべきは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、そして愛だとパウロは説いた。

主はマタイ6章33節で「神の国と神の義を求めよ」と仰せになり、また同22章では神の国で神の御前に立つために不可欠な「神の義」を、「礼服」にたとえられた。この「礼服」すなわち「神の義」とは何であるかについて、パウロはコロサイ3章で、キリストの弟子が身に着けるべきものとして説明した。

ヨハネ15章12節「これがわたしの掟である。わたしがあなたたちを尊重したように互いに尊重し合いなさい」コロサイ3章13節「互い〔の欠点〕を我慢し合い、もしも相手に非難すべきことがあっても赦し合いなさい。主があなたたちを既に赦して下さったように、あなたたちも同じように赦しなさい」。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

主イエスは「自分が他人にしてもらいたいことを自分から他人にしなさい」と《キリストの律法》を教えられたが、ヨハネ13章1節では《御自分の時》が来たと自覚された主が、弟子たちを尊重され、どこまでも尊重されたことが記される。《キリストの律法》とは尊重と敬意であると、主は御自ら示された。

主イエスは「自分が隣人からしてもらいたいことを自分から隣人にしなさい」を御自分の《律法》すなわち御教えの根幹とされ、弟子たちの足を洗われ隣人への敬意と尊重の重要性を教えられた。しかし御自身は次の晩が来る前に、尊重や敬意とは無縁の暴力や虐待や侮辱の裡にぼろ布のようにされて殺された。

弟子たちの足を洗うという行為を通じて、主イエスは隣人に敬意を払って尊重することこそ御自分の御教えの根幹であると教えられた。自分自身が他人から尊重され敬意を払われた経験がなければ敬意と尊重は理解できない。「互いを尊重するなら、それを見て皆はあなたたちがわたしの弟子であると認める」。

ガラテヤ5章では「聖霊の結ぶ実」として神の御独り子の母の内面に関連する《愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制》を説く。他方、コロサイ3章では「礼服」(マタイ22章)という比喩を踏まえ、「義人」ヨセフの「義」に関連する《憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛》を説く。

マタイ22章の「礼服」に関連して、ローマ13章14節で「主イエス・キリストを着る」ことをパウロは勧め、コロサイ3章10節でも「主の姿に倣う新しい人を着る」ことを勧める。「倣う=着る」べきものとして憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容そして愛を「着る」ことをコロサイ3章は勧めている。

(注)別エントリー「試論:『神の義』と詩編を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6798

主はマタイ6章33節で「まず神の国と神の義を求めよ」と仰せになった。古代のヘブライ人は神の義(正義)を実行する人となることを「正義を衣としてまとう(=身に着ける)」と比喩で表現した(詩編132編9節、ヨブ29章14節)。従ってマタイ22章の「礼服」とは正義(神の義)の比喩である。

マタイ22章は神の御前に立つためには「礼服」が不可欠と教える。詩編132編は9節で「正義を衣としてまとう」16節で「救いを衣としてまとう」と表現して「救い」すなわち神と共にある条件を、「正義」すなわち「神の義」(マタイ6章33節)とし、その具体例をコロサイ3章12節以下が教える。

(注)別エントリー「試論:マタイ22章『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6740

黙示録16章15節は「わたしは盗人のように来る」に「衣を身に着けている人は幸い」と続け、マタイ22章「礼服」の比喩を再現する。黙示録が啓示する時代でも、福音書の主の仰せが本質的に重要と分かる。身に着けるべき衣とは、詩編132編9節によれば正義(=神の義。マタイ6章33節)を指す。

(注)別エントリー「試論:『人の行いに応じた報い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5743

(注)別エントリー「試論:『神の義とディカイオス』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8685

ヨハネ1章14節は神の御独り子が恵みと真理に満ちて人間となられたことを記すが、ヤコブ4章6節と一ペトロ5章5節はともに「神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みをお与えになる」と強調し、ルカ1章は「わたしは主のはしため」とへりくだった女性こそが御独り子の母となったことを特筆する。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7795

(注)別エントリー「試論:『イエスとマリアの関係』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7725

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

試論:「あらゆる貪欲に対して」を140文字以内で

主イエスはルカ12章15節で、どのような種類の貪欲に対しても十分に目を光らせ、心を奪われてはならないと警告された。同16章13節「あなたたちは、神と富のどちらか一方にしか仕えることができない」マタイ13章22節「茨の間に落ちた種とは、御言葉を聞いても世の思い煩いや富の誘惑が〜」。

(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1699

【追記】

主イエスはマタイ19章24節で、あまりにも有名な「金持ちが天の国に入るよりも、ラクダが針の穴を通る方が、まだ容易である」の御言葉を仰せになった。これに関連して13章22節で次のように説明される。「御言葉を聞くには聞くが世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆い塞ぎ、実りには至らない」。

(注)別エントリー「試論:『針の穴』何のたとえ??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10544

主イエスはマルコ10章25節で「ラクダが針の穴を〜」と表現され金持ちが神の国に入ることの難しさを説明されたが、続く27節では神つまり御自分なら状況を変えられると約束された。主はルカ19章で実際ザアカイに「救いがこの家を訪れた」「人の子は失われた者を救うために来た」と仰せになった。

(注)別エントリー「試論:『ラクダが針の穴を』??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11193

主イエスはルカ16章の「不正な管理人」のたとえで、私欲のためでなく隣人のために富を費やすならば救いが訪れると仰せになり、後に徴税人ザアカイがその実例となった。19章8節「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。誰かから何かをだまし取っていたならそれを四倍にして返します」。

(注)別エントリー「試論:憐れみは『上から目線』かを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5471

ルカ19章8節でザアカイは主に「わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また何かを誰かからだまし取っていたなら四倍にして返します」と約束した。マタイ5章7節の「憐れみ深い人は幸いである。その人は憐れみを受ける」という御言葉の通り、主は「今日この家に救いが訪れた」と宣言なさった。

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346

古代の都市は防衛や警備の必要上なるべく城壁を大規模で頑丈に造ったが、同じ理由から城壁の内外を往来する通用門は必要最小限の大きさに留めた。郊外の山上から見下ろすと、「長い城壁」と「所々に設置された城門」と「開門を待つ人々の長い行列」は、「長い針」と「針の穴」と「糸」のように見えた。

古代の都市は、防衛や警備の都合上、城壁の内外を往来する城門を狭く造った。大柄なラクダでは通れないため、より小柄なロバ等に隊商は荷を積み替える場合もあった。金持ちは無意識のうちに態度や心掛けが尊大になりがちなので、それを自覚して改めなければ「神の国」の門を通れないと主は警告された。

主イエスはマタイ7章15節で貪欲こそ偽預言者の特徴であると教えられた。ペトロも第二の手紙の2章で同様に、貪欲こそ偽教師の特徴であると教えた。偽預言者も偽教師も一般の信者が真面目に働く時間帯に美食を貪り、旅行・観光・娯楽施設と遊興三昧の日々を送り、神について考えるのは片手間である。

(注)別エントリー「試論:『迷信としての終末預言』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17548

(注)別エントリー「試論:『真の預言者すらいない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8425

(注)別エントリー「旧約聖書と『偽教師』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17476

試論:「洗礼者の死とヘロデ家」を140文字以内で

申命記25章には跡取りを産む前に夫に先立たれた女性に、家名を存続させる目的で亡夫の「兄弟(親族の男性全般)」との再婚を求める規定がある。しかしマタイ14章のヘロデは兄弟フィリポが存命中なのに、その妻と親密になり兄弟から妻を奪い取った。この件で洗礼者ヨハネはヘロデを厳しく叱責した。

(注)別エントリー「試論:『洗礼者ヨハネの死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14207

【追記】

兄弟に妻を奪われたフィリポは、ヘロデ大王の息子たちの中ではへりくだりを知る常識人だった。ただ、癖の強い猛々しい悪人が揃うヘロデ王家の中にあっては、フィリポのこの態度は物足りなくも弱々しい「お人好し」として周囲に映ったようで、そこにつけ込んだ妻と兄弟によって小馬鹿にされてしまった。

試論:「金持ちと天の国」なぜ?を140文字以内で

主イエスはマタイ19章24節で、あまりにも有名な「金持ちが天の国に入るよりも、ラクダが針の穴を通る方が、まだ容易である」の御言葉を仰せになった。これに関連して13章22節で次のように説明される。「御言葉を聞くには聞くが世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆い塞ぎ、実りには至らない」。

(注)別エントリー「試論:『針の穴』何のたとえ??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10544

【追記】

主イエスはマルコ10章25節で「ラクダが針の穴を〜」と表現され金持ちが神の国に入ることの難しさを説明されたが、続く27節では神つまり御自分なら状況を変えられると約束された。主はルカ19章で実際ザアカイに「救いがこの家を訪れた」「人の子は失われた者を救うために来た」と仰せになった。

(注)別エントリー「試論:『ラクダが針の穴を』??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11193

主イエスはルカ16章の「不正な管理人」のたとえで、私欲のためでなく隣人のために富を費やすならば救いが訪れると仰せになり、後に徴税人ザアカイがその実例となった。19章8節「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。誰かから何かをだまし取っていたならそれを四倍にして返します」。

(注)別エントリー「試論:憐れみは『上から目線』かを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5471

ルカ19章8節でザアカイは主に「わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また何かを誰かからだまし取っていたなら四倍にして返します」と約束した。マタイ5章7節の「憐れみ深い人は幸いである。その人は憐れみを受ける」という御言葉の通り、主は「今日この家に救いが訪れた」と宣言なさった。

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346

古代の都市は防衛や警備の必要上なるべく城壁を大規模で頑丈に造ったが、同じ理由から城壁の内外を往来する通用門は必要最小限の大きさに留めた。郊外の山上から見下ろすと、「長い城壁」と「所々に設置された城門」と「開門を待つ人々の長い行列」は、「長い針」と「針の穴」と「糸」のように見えた。

古代の都市は、防衛や警備の都合上、城壁の内外を往来する城門を狭く造った。大柄なラクダでは通れないため、より小柄なロバ等に隊商は荷を積み替える場合もあった。金持ちは無意識のうちに態度や心掛けが尊大になりがちなので、それを自覚して改めなければ「神の国」の門を通れないと主は警告された。

試論:「聞くには聞くが〜」の人を140文字以内で

主はマタイ13章12節で御教えを聞いても実行しない人のことを、持っていない人は持っているものまでも取り上げられると仰せになった。これは25章29節でも繰り返され恵みである御教えを隠したと同然の人は、最終的に一度与えられた恵みまで取り上げられると、タラントンのたとえで御説明された。

(注)別エントリー「試論:マタイ25章のタラントンを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6174

【追記】

主はルカ6章46節で「あなたたちはわたしのことを『主よ、主よ』と呼んでおきながらどうしてわたしの言うことを行わないのか」と仰せになった。さらに次節以下では「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞きながら聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている」とお教えになった。

ヨハネの手紙一は、キリストの弟子を自称する一方で公生活中にキリストが実際に何を語ってどう実行したかについて全く触れようとしない人々を警戒するよう呼び掛け、彼らがキリストの教会を乗っ取りキリストの御教えの代わりに世間のことだけ語り教会からキリストの存在を奪おうとしていると警告した。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

マタイ7章21節の主の仰せ「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」の「主よ」という呼び掛けは、当然、25章44節「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、〜」という箇所とは内容的に直結しており、信仰義認の適不適を判断する良い基準である。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:マタイ25章の十人の乙女を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5994

マタイ7章21節〜27節で主は、「天の国」に入るための条件は「天の父の御心を行う」ことであり、たとえ預言や奇跡を行い悪霊も追い出すような人であっても不法を働くなら入れなくなると仰せになり、「わたしの言葉を聞くだけで行わない人は砂の上に家を建てた愚かな人のようだ」とも仰せになった。

試論:古代イスラエルの兄弟姉妹を140文字以内で

ルツ記の主人公であるルツは、最初の夫マフロンとの間に跡取りを産む前に夫に先立たれ、のちに申命記25章の規定に従ってマフロンの「兄弟」ボアズと再婚したが、このボアズは亡夫マフロンとは父も母も異なっていた。マフロンの父はエリメレク、母はナオミで、ボアズの父はサルマ、母はラハブである。

(注)別エントリー「イエスの『兄弟』『姉妹』:同胞か親戚か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1451

【追記】

跡取りを産む前に夫に先立たれたルツは、申命記25章の規定に従って亡き夫マフロンの「兄弟」ボアズと再婚したが、このボアズはマフロンとは父も母も異なっていた。古代イスラエルにおける「兄弟」という概念が、父や母を同じくする同胞のみならず、広く親族全般を含んでいたことは、歴然としている。

古代のイスラエルでは、一度、神にささげられたと定まったものを後から人間が自分の都合で私物化する行為は、神に対する重大な罪とみなされた(サムエル上2章、15章等)。ヨセフは出産後のマリアを「知る」ことがなかった。処女懐胎時に妻は既に「聖別」されていると、彼が認識していたからである。

(注)別エントリー「ルカ福音書の聖母とサムエル記下の神の櫃」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1544

(注)別エントリー「聖母と聖ヨセフが終生童貞である理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4464

(注)別エントリー「主の御降誕に助産婦が介在しなかった意味【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/24272

カトリックで聖母を指す表現「天の門」は、聖書では創世記28章17節にのみ登場し、同節は主がおられた場所を「なんと畏れ多い場所」「天の門」と呼ぶ。主を宿した「胎」(ルカ11章27節)であるマリアを、同様に《なんと畏れ多い女性》と感じるのは、古代のイスラエル人の感覚として当然である。

(注)別エントリー「試論:ルカ11章28節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5786

(注)別エントリー「試論:『神の都市』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6648

(注)別エントリー「試論:『偉大なこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7651

(注)別エントリー「試論:『受肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7842

マタイ1章19節は主の養父ヨセフを「正しい人(ディカイオス)」と表現する。25章の「最後の審判」におけるディカイオスは、隣人が何らかの助けを必要としている時に、必要とされている助けを提供して困り事を解決する人を指し、ヨセフはイエスとマリアが本当に必要としていることだけを実行した。

(注)別エントリー「試論:聖ヨセフの模範を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7243

試論:主イエスの職業テクトーンを140文字以内で

福音書でイエスやヨセフの職業はギリシア語でテクトーンと表現されるが、ホメロスの叙事詩ではこの語は建築や工芸全般また船大工とも関連した。福音書の時代、この職業に特に期待された役割は二輪馬車とりわけ車輪の製造・修理と考えられ、イザヤ44章13節はテクトーンの道具としてコンパスを記す。

(注)別エントリー「『イエスやヨセフは石切』ではない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/67

(注)別エントリー「イエス・キリスト石切説が否定される理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1355

(注)別エントリー「旧約時代の木造建築水準」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/2262

【追記】

イザヤ9章9節の記述からは、古代の中東において建築素材として一般的であったのは煉瓦や石であり、あくまでも木材はそれらに次ぐものでしかなかったことが窺える。古代において素材として可塑性の高さが際立っていた木材は、建築用としては高温の乾燥地帯では燃えやすいという致命的な弱点があった。

古代において車輪の発明は、これをもって「原始人」は「文明人」に移行したと評されるほど人間社会に大きな変革をもたらした。列王記下6章にある通り、一般人でも日曜大工的に木造建築技術をある程度は身に付けていたが、むしろ専門の木工職人の本領は、二輪馬車の車輪の修理において発揮されていた。

イエスとヨセフの職業として福音書に登場するギリシア語テクトーンは、トロイ戦争と後日談を扱ったホメロスの叙事詩では船の材木を準備する作業つまり船大工とも関連し、恐らく主イエスが内陸のナザレ育ちでありながら違和感なくガリラヤ湖の舟(船)の生活に対応できておられることとも符合している。

福音書には主の職業はテクトーンとあるが、ホメロスの叙事詩ではテクトーンは船大工をも意味し、もしも主が腕の確かな職人として既に漁師の間で知られていたとすれば、故郷で生涯を終えることが多く同業者だけで集まりがちな漁師の中からすぐ四人の信頼を得て弟子とすることができたのも、道理である。

(注)別エントリー「試論:天の国と『人間をとる漁』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8963

試論:創世記4章8節のタルグムを140文字以内で

創世記4章8節のタルグム(旧約聖書本文に短い注釈を付加したアラム語訳)は、カインとアベルが野原で口論になったことを記す。神が弟の献げ物だけに目を留められたことを「えこひいき」と誤解した兄は、神の不正を主張して自分を正当化しようとしたが、弟が逐一それに反論したため、兄は弟を殺した。

(注)別エントリー「試論:『悔い改め』とは無縁な人を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17099

【追記】

創世記4章の「カインとアベル」の箇所について、「神はアベルを『えこひいき』された」と誤解する人がいる。しかし申命記1章17節に見られる通り、「えこひいき」は主なる神が好まれない行為であると考えられ、同じ考え方は箴言24章23節、同28章21節、ヨブ34章19節等にも見受けられる。

(注)別エントリー「試論:『カインの高慢』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17085

箴言24章では23節でまず「えこひいき」が否定された後で、30節で「怠け者の畑」「意志の弱い者のぶどう畑」について言及され、それが神の知恵とは対極にある状態を象徴する光景であることが暗示され、また創世記4章のカインが「怠け者」「意志の弱い者」だったであろう蓋然性をも示唆している。

カインはアベルと違って献げ物となる作物を育てる際、手間暇をかけようとせず、ろくに手入れもせず、ただ自然に育ったがままの状態のものを献げた。それでいて神に目を留められなかったことで激怒し、そうなった理由を反省せず弟の意見を参考にしようとせず両親にも相談せず、神に質問すらしなかった。

試論:聖書と「えこひいき」を140文字以内で

創世記4章の「カインとアベル」の箇所について、「神はアベルを『えこひいき』された」と誤解する人がいる。しかし申命記1章17節に見られる通り、「えこひいき」は主なる神が好まれない行為であると考えられ、同じ考え方は箴言24章23節、同28章21節、ヨブ34章19節等にも見受けられる。

(注)別エントリー「試論:『カインの高慢』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17085

【追記】

箴言24章では23節でまず「えこひいき」が否定された後で、30節で「怠け者の畑」「意志の弱い者のぶどう畑」について言及され、それが神の知恵とは対極にある状態を象徴する光景であることが暗示され、また創世記4章のカインが「怠け者」「意志の弱い者」だったであろう蓋然性をも示唆している。

試論:神から求められる重要事項を140文字以内で

主イエスはマタイ7章22節以下で、神が人々に求めておられるのは預言でも悪霊を追い出すことでも奇跡でもなく、ただ悪を行わないことだと示唆された。ヨセフは1章19節で義人と呼ばれるが、25章の最後の審判では義人は隣人の困り事に親身に対応する無私の人そして永遠の命を確約された人を指す。

(注)別エントリー「『永遠の命』と『新しい掟』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4905

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

試論:「キリストの律法」再確認を140文字以内で

主イエスは「あなたが他の人からしてもらいたいことは全て、あなたの方から他の人にしなさい」(マタイ7章12節)を御自分の《律法》となさり、これをもって隣人愛の掟(ヨハネ13章34節)の基礎となさった。このことが欠乏しているがゆえに人々は報道で連日のように惨劇を目にし続けるのである。

(注)別エントリー「《キリストの律法》(マタイ7章12節)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18013

《キリストの律法》(マタイ7章12節)

一コリント9章21節「わたしは神の律法を持たないわけではなくキリストの律法に従っている」ヨハネ13章34節「わたしがあなたたちを愛したように互いに愛し合いなさい」マタイ7章12節「人からしてもらいたいと思うことは、何であれ、あなたから人にしなさい。これこそが律法と預言者である」。

マタイ5章17節「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するため」同7章12節「人からしてもらいたいと思うことは何でも、あなたたちから人にしなさい。これこそが律法と預言者」ローマ13章9節「他にどんな掟があろうとも、隣人を自分のように愛することに要約されます」。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1982

ガラテヤ6章2節「互いに重荷を担い合いなさい。それがキリストの律法を全うすることになる」ヨハネ13章34節「わたしがあなたたちを愛したように互いに愛し合いなさい」マタイ7章12節「人からしてもらいたいと思うことは何であれ、あなたから人にしなさい。これこそが、律法と預言者である」。

マタイ7章12節「人からしてもらいたいと思うことは何でもあなたたちから人にしなさい。これこそが律法と預言者である」ガラテヤ5章14節「律法全体は、隣人愛の掟の実行によって、全うされます」ローマ13章8節「人を愛する者は律法を全うしています」同10節「愛は律法を全うするものです」。

主イエス・キリストはマルコ12章における「最も重要な掟」の第一と第二とを統合され、ヨハネ13章34節で「新しい掟」そして「わたしの掟」(同14章15節)とされた。この掟は隣人愛の実践をもって、神への愛の実践とする(同節)。隣人愛の実行こそがキリストへの信仰をあかしするものとなる。

ヨハネ13章34節以下で主は「新しい掟」について宣言されたが、これこそエレミヤ31章31節の「新しい契約」で、同33節「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」に関して主はヨハネ14章とりわけ21節で説明され、愛の掟を守ることが神の民となるための条件である旨を宣言された。

(注)別エントリー「試論:預言解釈の基本を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5092

ローマ3章でパウロは、「信仰」「律法」という表現で実際には《イエス・キリストを信仰する人々にとっての新しい掟である愛の掟》と《イエスを認めぬ人々が律法とするモーセが与えた掟》とを比較した。人間を「義」とするのは、《律法の掟》の実行ではなく、信仰に基づく《愛の掟》の実行如何による。

(注)別エントリー「試論:『主よ、主よ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5380

マルコ12章では、主イエス・キリストと一人の律法学者との対話で、申命記6章の「唯一の主」の掟とともに、レビ記19章18節の「隣人愛」の掟が二回(マルコ12章31節、33節)言及されている。マタイ7章12節でも主は「これこそ律法と預言者」と仰せになり、最も重要な掟であると示された。

レビ19章18節は有名な隣人愛の掟を教えるが、その対極の行為として17節は兄弟を心の中で憎むことを禁じる。ゼカリヤ7章10節は互いに災いを心の中で企むこと、8章17節は互いに心の中で悪を企むことを禁じ、相手の困った顔・悲しむ顔・苦しむ顔を見たいという悪意を抱いてはならぬと戒める。

(注)別エントリー「試論:新都エルサレムに住む条件を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11197

ローマ13章10節でパウロは「愛とは隣人に対して悪事を行わないことです」と断言している。これを踏まえるなら、隣人に対して悪事を行おうと企むことこそが愛の反対に該当する行為ということになる。同9節は「姦淫するな、殺すな、盗むな、貪るな(他人の物の横取りを企むな)」等を列挙している。

一ヨハネ4章16節以下「わたしたちは神の愛を知り、信じます。神は愛です。愛にとどまる人は神の内にとどまり、神もその人の内にとどまって下さいます。この世でわたしたちがイエスのようであるなら愛がわたしたちのうちに全うされており、裁きの日にでも確信を持つことができ、恐れなどしません」。

主イエスはマタイ7章13節で、狭い門つまり命(ヨハネ14章6節)へ通じる神の義の門(詩編118編19節、イザヤ26章2節)から神の国に入るようにと勧められた。門を通過できるか否かの唯一無二の基準になるのは《愛の掟》キリストの律法(マタイ7章12節)であると、直前で主は断言された。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『神の義』『門』『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10465

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

「持ち物を全て売り払う」??

ルカ10章25節の律法学者と18章18節の議員は同じ質問をした。ただ議員には「心・精神・力・思いを尽くして」の観点が欠けていた。主は議員に、「持ち物を全て売り払う」という表現で勧告なさったが、この表現はマタイ13章44節〜45節のたとえでは《あらゆる努力を尽くす》を象徴している。

(注)別エントリー「試論:『善きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

フィリピ3章8節「わたしの主キリスト・イエスを知ったがゆえに、わたしは他の一切を失ってしまいましたが、それらはわたしにとって無価値です」マタイ13章44節「畑に宝が隠されているが見つけた人はそのまま隠しておき、喜びながら帰り、全財産をすっかり売り払ってでもその畑を買うであろう」。

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11494

主はマタイ13章45節以下で、「天の国」を全財産と引き換えにしてでも手に入れるべき真珠にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「天の国」は「永遠の命」と同義だが、「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

主イエスはマタイ6章19節以下で「あなたたちは地上に富を積んではならない。富は、天に積みなさい。あなたの富のあるところに、あなたの心もある」と仰せになった。これに関連して、箴言23章4節は「富を必要以上に得ようとして、神経を使い過ぎるな。善悪の分別を失う前に止めなさい」と戒める。

(注)別エントリー「『何も持たずに』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17534

マタイ6章11節「わたしたちの日ごとの糧を今日お与え下さい」一テモテ6章6節〜8節「信心とは貪欲ではない者にとっては大きな利得の道です。というのも、わたしたちは何も持たずにこの世に来て、何も持たずにこの世から出て行かなければならないからです。衣食が足りるならば良しとすべきです」。

(注)別エントリー「『日ごとの糧』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17530

詩編12(11)編においてダビデは、隣人に嘘をついたり隣人を早口で欺いたり言行不一致状態だったりする人々ばかりの風潮を、「信仰のある人は消え去りました」(12編2節、新共同訳)と表す。ここで「信仰」と訳されるヘブライ語を、古代のギリシア語訳聖書はアレテイア(真理、まこと)と訳す。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

ヨハネ福音書は「信仰」を表現する際、他の福音書が用いるピスティスという語を用いず代わりにアレテイア(真理、まこと)という語を多用する。ヨハネにとって信仰とは、人の真心に対し真心で応じられる神なる主に向かって嘘偽りや裏表のない態度で接することに他ならず、これは当時の共通認識だった。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書のアレテイアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15430

主イエスに関してヨハネ福音書は「真理」を事ある毎に強調しイエスに偽りはなかったと説く。裏を返せばイエスの敵たちがイエスに難癖を付けるためなら偽りの告発を平然と行って恥じなかったことをも記している。「ガリラヤからは預言者は出ない」という難癖もヨナという先例がいる以上は虚偽であった。

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

ヨハネ7章52節に「ガリラヤからは預言者は出ない」という敵たちの難癖がある。彼らの発言は誤りで、預言者ヨナの出身地は列王下14章25節にガト・へフェルと記される。ヨシュア19章13節ではガト・へフェルはゼブルン族の領土で、そこはイザヤ8章23節の通り福音書の時代のガリラヤである。

(注)別エントリー「試論:『ガリラヤからの預言者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15449

主イエスはヨハネ14章6節で「真理」を自称されたが、プロテスタントの「改訳 新約聖書』(1917年)は「まこと」と平仮名を振り、旧約聖書で「まこと」と訳される語との関連を示唆する。嘘偽りや裏表がないこと、上っ面だけでなく内実を伴うこと、真心には真心で返されること等を意味している。

(注)別エントリー「試論:まこと(真、実、信、誠)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16274

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書の『信じる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16417

主イエスはマタイ11章30節で「わたしの軛(くびき)は負いやすい」と表現された。エレミヤ5章4節以下や同2章20節では「主の道、神の掟」を「軛」や「手綱(綱)」に喩える。モーセの律法に比べ、「キリストの律法」(マタイ7章12節)は一見すると驚くほど表現は簡潔だが、しかし奥が深い。

(注)別エントリー「試論:『わたしの荷は軽い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6870

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

マタイ13章34節以下に「これら全てをイエスはたとえで群衆に語られ何事もたとえを用いずには語られなかった。それは預言者の啓示が実現するためだった。『わたしは口を開き初めの時からの秘密をたとえで語る』(詩編78編)」とある以上、「字義通りの解釈」を強調するのは不自然で眉唾物である。

(注)別エントリー「試論:『地上に火を投ずる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7803

(注)別エントリー「試論:『火も剣も御言葉の比喩』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7812

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『剣』と『言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7807

(注)別エントリー「試論:『人間をとる漁』のたとえを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8982

(注)別エントリー「試論:ヨハネ14章6節の『道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9342

(注)別エントリー「試論:動かし難い物の比喩『山』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9551

(注)別エントリー「試論:『山』と『高慢』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9201

(注)別エントリー「試論:『水と根』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7416

試論:関わってはいけない眉唾物を140文字以内で

主イエスは、旧約聖書の預言とは何より御自分及び御自分の到来前後の歴史への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、都の滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると説かれた(ルカ21章22節)。旧約聖書と現代の国際情勢を結び付ける言説は主イエスと無関係の眉唾物である。

(注)別エントリー「旧約聖書と『偽教師』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17476

【追記】

旧約時代においては旧約聖書の読者ばかりでなくそれぞれの書の著者たちですら、何か重大なものが自分たちには欠けており将来それを満たして下さる方が到来されるであろうと感じていた。今、キリストの信者を自認する現代人が、福音書よりも旧約聖書の方を熱心に読んでいるなら本末転倒もはなはだしい。

(注)別エントリー「試論:主イエスと旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7462

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4783

マタイ13章34節は「イエスはこれら全てをたとえを用いて語られた」と記す。主御自身はルカ8章11節で「種とは、神の御言葉」と仰せになった。ヨハネ1章は主イエスを「言(ことば)」つまり《御自ら人々に御教えをお話しになる神》と表現する。マタイ13章37節「良い種を蒔く者は、人の子」。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888

ローマ10章17節以下「信仰は聞くことで、しかもキリストの御言葉を聞くことで始まる」「彼らはもちろん、聞いてはいた」マルコ4章23節以下「聞く耳のある者は聞け」「何を聞いているかに注意せよ。あなたたちは自分が他者を量る秤で神なる主から量り与えられ、それに加えてさらに与えられる」。

(注)別エントリー「試論:『話を聞くべき方は誰』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13716

(注)別エントリー「試論:『話を聞くべきでない者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13709

試論:「天の国」「宝」「真珠」を140文字以内で

主イエスはマタイ13章44節から46節で、「天の国」を「宝」や「真珠」に喩えられた。この喩えで主が実際にお伝えになりたかった内容は、パウロが一テモテ6章17節から19節に記していることと同じで、「真理における『命』つまり《永遠の命》を得るために、物惜しみをせず善行に励みなさい」。

(注)別エントリー「試論:『永遠の命』とは??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17203

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11494

【追記】

主イエスはヨハネ17章3節で「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ること」と仰せになった。一コリント13章12節では、天の国においては人間は神を「顔と顔とを合わせて見る〔ようにはっきり理解する〕ことになる」と説明している。

(注)別エントリー「試論:バシレイア(=神の王国)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12654

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4544

マタイ25章34節「御父に祝福された人々よ、天地創造の時からあなたたちのために準備されていた王国を受け継ぎなさい」黙示録21章7節「勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ」ヘブライ6章12節「怠け者とならず信仰と忍耐によって、約束されたものを受け継ぐ人々に倣う者となってほしい」。

(注)別エントリー「試論:『王国を受け継ぐ者たち』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13826

放蕩息子のたとえでは父親はしもべたちに、帰って来た息子の手に指輪をはめるよう指示するが、エステル記3章10節以下に王権の委任を象徴する印章として指輪が登場する。放蕩息子のたとえでは相続人の権利回復の象徴で、人が本当に悔い改めるならば、神は全面的にその人に対する信頼を取り戻される。

ホセア6章6節は「わたしが求めるのは、憐れみであって『いけにえ』ではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」と記すが、これと関連して一ヨハネ2章3節は「知る」という表現の意味を《神の掟を守るという実体験を通して自分は神を知っているのだと自覚する》ことであると説明する。

(注)別エントリー「試論:『いけにえ』と憐れみを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8356

(注)別エントリー「試論:『神を知ること』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5580

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

主はマタイ福音書で「わたしが求めるのはあわれみであって犠牲(いけにえ)ではない」(ホセア6章6節)と繰り返されたが同節は「神を知ることであって焼き尽くす献(ささ)げ物ではない」と続く。「神を知る」を一ヨハネ2章3節は「神の掟(愛の掟。ヨハネ15章12節等)を守る」ことと説明する。

今、あなたの神、主があなたに求めておられることとは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてその全ての導きに従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸せになることではないか。(申命記10章12節〜13節)

ミカ6章8節「何が善であって、主が何をあなたたちに求めておられるかは、あなたたちには既に告げられている。それは神の義を行い、憐れみの業を愛し、へりくだり神と共に歩むこと」ホセア6章6節「わたしが求めるものは『いけにえ』ではなく憐れみであり、焼き尽くす献げ物ではなく神を知ること」。

(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6748

箴言16章7節は、ある人が主に喜ばれる行いに努め続けるならその人はかつての敵とも主の仲介で和解に至るであろうと説く。ホセア6章6節は、主が喜ばれることとは隣人に憐れみの業を行うことであって「いけにえ」ではなく、そして神を知るように努めることであって焼き尽くす献げ物ではないと説く。

(注)別エントリー「試論:『神を知る』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10024

主はマタイ13章45節以下で、「天の国」を全財産と引き換えにしてでも手に入れるべき真珠にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「天の国」は「永遠の命」と同義だが、「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

試論:「畑に隠されている宝」?を140文字以内で

主イエスはマタイ13章44節で「天の国」を「畑に隠されている宝」に喩えられた。これに関連してコロサイ2章3節は「全て知恵と知識の宝はキリストの内に隠されている」と断言しており、ローマ10章17節「信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことにより始まる」とも合致している。

(注)別エントリー「『これに聞け』聞くことで信仰は始まる」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17912

【追記】

フィリピ3章8節「わたしの主キリスト・イエスを知ったがゆえに、わたしは他の一切を失ってしまいましたが、それらはわたしにとって無価値です」マタイ13章44節「畑に宝が隠されているが見つけた人はそのまま隠しておき、喜びながら帰り、全財産をすっかり売り払ってでもその畑を買うであろう」。

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11494

主はマタイ13章45節以下で、「天の国」を全財産と引き換えにしてでも手に入れるべき真珠にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「天の国」は「永遠の命」と同義だが、「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

ルカ10章25節の律法学者と18章18節の議員は同じ質問をした。ただ議員には「心・精神・力・思いを尽くして」の観点が欠けていた。主は議員に、「持ち物を全て売り払う」という表現で勧告なさったが、この表現はマタイ13章44節〜45節のたとえでは《あらゆる努力を尽くす》を象徴している。

(注)別エントリー「試論:『善きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

主イエスはマタイ6章19節以下で「あなたたちは地上に富を積んではならない。富は、天に積みなさい。あなたの富のあるところに、あなたの心もある」と仰せになった。これに関連して、箴言23章4節は「富を必要以上に得ようとして、神経を使い過ぎるな。善悪の分別を失う前に止めなさい」と戒める。

(注)別エントリー「『何も持たずに』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17534

マタイ6章11節「わたしたちの日ごとの糧を今日お与え下さい」一テモテ6章6節〜8節「信心とは貪欲ではない者にとっては大きな利得の道です。というのも、わたしたちは何も持たずにこの世に来て、何も持たずにこの世から出て行かなければならないからです。衣食が足りるならば良しとすべきです」。

(注)別エントリー「『日ごとの糧』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17530

ヨハネ6章27節「人の子は、あなたたちに永遠の命へと至る食べ物を与える」35節「わたしがその命のパンである」イザヤ55章2節〜3節「わたしに聞き従うならば、あなたたちは良いものを豊富に享受するだろう。あなたたちはわたしの許に来て、それに耳を傾けて聞き従い、魂に命を得させなさい」。

ヨハネ6章51節「わたしが与えるパンとは世を生かすための、わたしの肉のことである」同33節「神のパンは天から降(くだ)って来て世に命を与える」マルコ14章22節「これはわたしの体である」申命記8章3節「人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出る、全ての御言葉によって生きる」。

主はヨハネ6章27節で御自分の仰せになる《神の御言葉》を「永遠の命に至る食べ物」にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「永遠の命にあずかる」と「天の国を受け継ぐ」は同義だが、御言葉を日々味わうことによって人は天の国を受け継ぐにふさわしい存在へと少しずつ霊的に成長するからである。

(注)別エントリー「試論:『主の祈り』と最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7047

ヨハネ6章27節「あなたたちは、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」32節「わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる」33節「神からのパンは、天から下って来て人間世界に命を与える」35節「わたしこそが、その命のパンである。わたしの許に来る者は、飢えることが決してない」。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』到来の目的を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10216

エレミヤ5章14節は主の御言葉を「火」に喩え、これを踏まえられ主イエスはルカ12章49節で「わたしは地上に火を投ずる」と仰せになった。他方イザヤ55章10節は主の御言葉を「糧」に喩えるが、ならばマタイ6章11節「わたしたちの日ごとの糧」の「糧」も、やはり主の御言葉を暗示している。

(注)別エントリー「試論:『イエスの御言葉こそ糧』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14841

ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは「御自分でお話しになる神」の意味で《天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神》主イエスを表す称号であり、直接お話しになった記録が福音書である。福音書を読まないことは主イエス・キリストを理解しようとしないことに等しい。

試論:「裁きの日に確信を持つ」を140文字以内で

一ヨハネ4章16節以下「わたしたちは神の愛を知り、信じます。神は愛です。愛にとどまる人は神の内にとどまり、神もその人の内にとどまって下さいます。この世でわたしたちがイエスのようであるなら愛がわたしたちのうちに全うされており、裁きの日にでも確信を持つことができ、恐れなどしません」。

【追記】

ヨハネ14章23節「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしはその人のところへ行き一緒に住む」同章2節以下「わたしの父の家にはたくさん住む所がある。わたしは行ってあなたたちの場所を用意したら、わたしの許にあなたたちを迎えるために戻って来る」。

(注)別エントリー「試論:新都エルサレムの『用意』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16763

ヨハネ14章2節以下「わたしの父の家には住む場所がたくさんある。行ってあなたたちの場所を用意したら、あなたたちの許へ戻って来て、あなたたちを迎える」黙示録21章2節「聖なる都、新しいエルサレムが、花婿のために着飾った花嫁のように用意を整えて、天から下って来るのを、わたしは見た」。

イザヤ書は42章以降で救い主の様々な御業を預言し、65章17節以下では、究極の目的である「天の国」つまり「新しい天・地・エルサレム」の創造を記す。ヨハネ14章2節以下で主イエスはそれを準備するために自分は出発すると予告された。この「天の国」は、「復活の体」の創造をもって完成した。

(注)別エントリー「試論:『天の国は近づいた』意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16775

主イエスは御受難と御復活の間に「新しい天・地・エルサレムの創造」を準備され誕生させたが、イザヤ66章8節は「誰がこのようなことを見聞きしたであろうか。一つの国が一日で生まれ一つの民が一日で生まれることがあり得るだろうか」と預言する。「天の国は近づいた」の「天の国」とはこれだった。

一ヨハネ5章3節は「神の掟は荷が重くない」と記し、主イエスはマタイ11章30節で「わたしの荷は軽い」と仰せになった。「わたしの荷」すなわち《キリストの律法》(マタイ7章12節:他人からしてもらいたいと思うことを全て他人にしなさい)は、モーセの律法に比べると驚くほど単純だが奥深い。

(注)別エントリー「試論:『わたしの荷は軽い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6870

主イエスはマタイ7章13節で、狭い門つまり命(ヨハネ14章6節)へ通じる神の義の門(詩編118編19節、イザヤ26章2節)から神の国に入るようにと勧められた。門を通過できるか否かの唯一無二の基準になるのは《愛の掟》キリストの律法(マタイ7章12節)であると、直前で主は断言された。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『神の義』『門』『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10465

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

マタイ1章21節で主の天使は、「マリアが産む子は自分の民を罪から救う」とヨセフに伝えた。成長された主イエスは「まず神の国と神の義を求めなさい」と教えられた。ローマ6章17節以下は「あなたたちは罪の奴隷だったが、伝えられた御教えの規範に従って罪から解放され義の奴隷になった」と記す。

一ヨハネ3章7節は「〔神の〕義を行う人は、御子(=主イエス・キリスト)が義であるように、義人です」と記し、マタイ6章33節「まず神の国と神の義を追い求めなさい」を想起させると共にルカ13章27節「お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、わたしから離れ去れ」にも注意を促す。

(注)別エントリー「聖ヨセフ:ディカイオスを旧約聖書で考察」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1613

(注)別エントリー「試論:最後の審判とディカイオスを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6704

(注)別エントリー「試論:『ディカイオス』聖ヨセフを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8497

試論:「ラザロの死」を140文字以内で

民数記4章は「三十歳以上五十歳以下」と繰り返して、古代のイスラエルではこの年代を働き盛りと考えていたと示唆し、ヨハネ11章ではマルタ(21節)とマリア(32節)またユダヤ人たち(37節)まで口々にラザロの死を悔やみ、天寿を全うしたと言える年齢に彼が達していなかったことを暗示する。

【追記】

主イエスはヨハネ12章30節で、御父の天からの声(28節)が聴こえたのは、イエス御自身のためではなく、人々が信じて救いに入るためだと仰せになった。主はラザロの死(11章15節)と復活(42節)の際も、人々が信じて救いに入るためにこのようなことが起きるという旨を仰せになられている。

ヨハネ12章3節はラザロの姉妹マリア(同11章2節参照)が非常に高価なナルドの香油を惜し気もなく、主イエスのために消費したことを記し、またルカ10章40節以下はマルタのもてなしが、「盛り沢山」過ぎたことを暗示しており、この兄妹たちが、非常に裕福な資産家であったことを示唆している。

(注)別エントリー「『マリアは良い方を選んだ』?」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17866

主イエスは「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしの他にはしるしは与えられない」と仰せになった。「ヨナのしるし」とは御自身の復活のことであり、その前にも人々はラザロの復活という「しるし」を目にすることになるが結果かえって有力者たちはイエスの殺害を決意した。

主はヨハネ11章25節で御自身を復活と命だと称され、6章63節では命を与えるのは「〔神の〕霊」だと仰せになった。コヘレト12章7節は人間の死でその肉体は塵(土)に還るが、命を与えられたその霊は「与え主」である神の許へと還るとし、一コリント15章44節は「霊の体が復活する」と記す。

主イエスは「わたしは世の光」(ヨハネ8章12節)と仰せになられ、1章4節は「御言葉(人々に語り掛ける神=御子イエス・キリスト)の内に命があり、命は人間を照らす光」と記し、5節では主を「光」と表現する。3章19節で主は「光」と自称され、11章25節では「復活」「命」とも自称された。

(注)別エントリー「試論:『世の光』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5388

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『神よあなたのことばは』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6358

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

一コリント15章でパウロは「地上の体」「天上の体」という表現を用いて、《人間が地上で生活していた際の、死によって朽ちていく肉体》と《その人の霊が神の許に帰還した後で、神によって天上で新しく与えられる、朽ちることのない体》について説明し、後者を「霊の体」(44節)等と表現している。

(注)別エントリー「試論:『霊の帰還』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8381

申命記30章15節には「わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く」とある。この章で「命」は、「祝福」(1節)「幸い」(5節)「恵み」「実り」「繁栄」「喜び」(9節)等の総称で、20節は「あなたの神、主を愛し、御声を聞き、付き従いなさい。それこそあなたの命である」と説く。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『命の木』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11236

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章4節『命の光』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7297

(注)別エントリー「試論:『永遠の命の言葉を持つ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11244

(注)別エントリー「試論:『御言葉によって生きる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11157

(注)別エントリー「試論:ローマ8章6節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11523

試論:「種」って何?を140文字以内で

マタイ13章34節は「イエスはこれら全てをたとえを用いて語られた」と記す。主御自身はルカ8章11節で「種とは、神の御言葉」と仰せになった。ヨハネ1章は主イエスを「言(ことば)」つまり《御自ら人々に御教えをお話しになる神》と表現する。マタイ13章37節「良い種を蒔く者は、人の子」。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888

【追記】

ヨハネ1章は主を「言(ことば)」すなわち「神の御言葉」と表現した。これは「〔神の〕小羊」と同様に主イエスの特徴を表す称号で「御自分でお話しになる神」を意味する。神は御姿を人々にお見せにならず天使や預言者を介してお話しになると考えられていたが、主は直接人々に御言葉をお教えになった。

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

ヨハネ1章1節は主イエス・キリストを「言(ことば)」と呼び紹介する。これは「天使や預言者を介することなく、御自分で直接人々に御言葉をお話しになる神」を意味し、「イエス・キリストなんか本当は実在しなかった」と言い立てる人々に対しては、主が残された御言葉それ自体がその存在証明となる。

(注)別エントリー「試論:『主が求められるものは』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7932

ヨハネ1章14章は「言(ことば)は肉となって」と記し《人々と直にお話しになる、御子である神》主イエス・キリストが人間となられたことを記すが、10章30節では「わたしと父は一つ」と主は仰せになり、たとえ自分は人間(「人の子」)となっても同時に神は神のままであり続けることも示された。

(注)別エントリー「試論:『受肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7842

(注)別エントリー「試論:神であり人であるキリストを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6725

エゼキエルやダニエルが「人の子よ」と呼びかけられる時「人の子」は「人間(人類の一員)」という一般的な意味である。「人となられた神」が自称される時だけ「人の子」は神の称号としての意味を持つ。マタイ12章では「人の子」は主の人間としての側面を指し、「聖霊《神の霊》」の比較対象である。

主イエスはルカ8章18節で「どう聞くべきかに注意しなさい」と仰せになり、マルコ4章33節では「人々の聞く力に応じて多くのたとえで御言葉を語られた」。これらの場合「聞く」は「聞き分ける(心で理解する)」の意味である。マタイ13章15節では「聞く」と「心で理解する」とを併記している。

(注)別エントリー「試論:『どう聞くべきかに注意』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11664

主イエスはマタイ13章の「種を蒔く人」の喩えをお話しにになった際、「耳のある者は聞け」(9節)と命じられた。御子イエスは「言(ことば)」つまり御自分で御言葉をお話しになる神として来られた。従って主イエスに直接応対する場合には「御言葉に耳を傾ける」を選んだマリアの方が良しとされた。

(注)別エントリー「『マリアは良い方を選んだ』?」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17866

ローマ10章17節以下「信仰は聞くことで、しかもキリストの御言葉を聞くことで始まる」「彼らはもちろん、聞いてはいた」マルコ4章23節以下「聞く耳のある者は聞け」「何を聞いているかに注意せよ。あなたたちは自分が他者を量る秤で神なる主から量り与えられ、それに加えてさらに与えられる」。

(注)別エントリー「試論:『話を聞くべき方は誰』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13716

(注)別エントリー「試論:『話を聞くべきでない者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13709

試論:「負い目」を140文字以内で

主イエスがルカ11章で教えられた祈りの文言の中に「わたしたちの罪をお赦しください。わたしたちも、自分に負い目のある人々を赦します」(4節)とあるが、その理由を主は、マタイ18章の「仲間を赦さない家来のたとえ」で御説明された。同章35節「あなたが心から兄弟を赦さないなら御父も〜」。

(注)別エントリー「試論:『仲間を容赦しない家来』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5511

(注)別エントリー「試論:『仲間を赦さない者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7690

【追記】

主イエスのたとえには様々な人物が登場するが、他人を引き合いに出して自己正当化したり自分のことを棚に上げて他人を攻撃したりする「他人に厳しく自分に甘い人」に対しては、神からの視線は非常に厳しい。しかし他人に責任転嫁せず正直に自分で自分の非を認める人に対しては、神からの視線は優しい。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

出エジプト記34章で主の栄光がモーセに現わされた際、御自分が優しさと厳しさを兼ね備えた神であると主はモーセに明らかにされた。ダビデは詩編18編21(20)節以下で、主は優しい人には優しく厳しい人には厳しいと歌った。その人が隣人に敬意を示さない限り、主はその人の信仰を認められない。

(注)別エントリー「試論:『選ばれた人は選んだ人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8034

ヤコブ5章9節に「自分が裁きを受けないようにするには互いに不平を言い合わないことです」とあるが、これはマタイ7章1節〜2節「他人を裁くな。自分が裁かれないようにするためである。あなたがたは自分が他人を裁く流儀で裁かれる」とは同じ事柄であり、マタイ6章14節〜15節とも同じである。

(注)別エントリー「試論:赦しの重要性を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5390

(注)別エントリー「試論:主の祈りと赦しを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5305

(注)別エントリー「試論:他人を赦すことを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5300

試論:「祭司族の女性」を140文字以内で

レビ21章9節は、祭司族の女性たちへ特に品行方正であるよう戒める。古代イスラエルでは先祖が共通する同士の結婚が望ましいとされたため、祭司族の女性はダビデ王家の男性と結婚することもあった。カトリックでは聖母マリアの両親を、母は祭司族のアンナ、父はダビデの末裔ヨヤキムだと教えて来た。

(注)別エントリー「『教会の母』聖マリア」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17315

(注)別エントリー「ヨセフの父親は『ヤコブ』か『エリ』か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3123

【追記】

聖母マリアの両親に関してカトリック教会の聖伝は、父がダビデ王家の末裔ヨヤキム、母はアロン族(祭司族)の娘アンナと教えてきた。古代のイスラエルでは、結婚相手は同じ部族または先祖が共通する同士が望ましいとされたが、大祭司アロンの妻はユダの族長ナフション(ダビデの先祖)の姉妹であった。

(注)別エントリー「試論:カナでの婚礼と聖母マリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9059

主イエスはマタイ23章35節で、悲劇的な死を遂げた(歴代誌下24章)義人ゼカルヤについて語られたが、その子孫の女性の一人はダビデ王家でも最悪級の馬鹿殿様だったアハズ王に嫁ぎ男子を産んだ。この男子がダビデ王家でも屈指の賢君ヒゼキヤ王である。祭司の娘との結婚は道徳的に王家を刷新した。

(注)別エントリー「主イエス・キリストがインマヌエルである理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1338

主はマタイ23章35節で「バラキアの子ゼカルヤ」(歴代誌下24章21節)の名に言及されたが、バラキアとは「祝福する」という意味のヘブライ語バラクに由来し、「主の祝福された者」を指す称号である。ゼカルヤの父である祭司ヨヤダは、滅亡寸前のダビデ王家と正統信仰を中興した大功労者だった。

ヨハネは大祭司が自分の存在を認識していた(ヨハネ18章15節)と記す。大祭司がガリラヤの漁師の息子をなぜ、認識していたのか? 理由として可能性が大きいのは、ヨハネの母が聖母の母アンナやエリサベトと同様、祭司族出身の女性だったためと推定され、母方が祭司族という点で、皆が遠縁だった。

(注)別エントリー「試論:『清めの水』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13744

試論:イサクの美点を140文字以内で

聖書においてアブラハム、イサク、ヤコブの三人の名前はよく並称されるが、父アブラハムや息子ヤコブに比べると、イサクには歴然とまさっている点があった。それは、多くの財産を持つ有力者であるにもかかわらず複数の女性をわがものとすることなく生涯リベカただ一人だけを愛し続けたという点だった。

(注)別エントリー「試論:『ヨセフと先祖の王たち』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7598

【追記】

イサクにとって元来リベカは親族だが自分よりも一世代下で、イサクが中年の域に入っていたにもかかわらず、彼女は主なる神の御意向に応じ遠路はるばる嫁いでくれた若い女性だった。世の男性の中には、もっともらしい理由をつけては年下の妻を小馬鹿にする人もいるが、イサクは妻リベカを尊重し続けた。

(注)別エントリー「『マリアの処女懐胎は誤訳に基づく話』説は本当か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1524

(注)別エントリー「『処女懐胎は誤訳に基づく話』説は本当か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1551

創世記で、イスラエルの十二部族の始祖となったヤコブの十二人の息子は四人の女性から産まれたため、必然的に古代のイスラエル人の共通の母はヤコブの母リベカになる。リベカは「若い娘」の時分に父の従兄弟イサクと結婚したがイサクは既に四十歳だった。この年齢差を旧約の民は不自然と感じなかった。

(注)別エントリー「試論:ヨセフとマリアとの年齢差を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16205

リベカは「古代のイスラエル人の共通の母」として旧約時代の重要人物であるにもかかわらず創世記は彼女の死について記述を残していない。息子たちの和解の後にもイサクは登場するがリベカの姿はない。一世紀後半のユダヤの歴史家ヨセフスはイサクの死を記した箇所で彼が妻に先立たれていたことを記す。

試論:「マルタとマリア」の解答を140文字以内で

ローマ10章17節は「信仰は、何よりキリストの言葉を聞くことが始まり」と説き、主はマタイ20章28節で「人の子(キリスト)は仕えられるために来たのではない」と教えられた。従ってキリストに直に応対する場面では、「仕える」を選んだマルタよりも「聞く」を選んだマリアの方が良しとされた。

(注)別エントリー「『マリアは良い方を選んだ』?」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17866

「ヨハネの兄弟」ヤコブの殉教

主にゼベダイの子らの母が息子たちを左右の座にと願った時、残りの十人の使徒は立腹した。これはしかし主が御受難を予告された直後であり、この「雷の子」である兄弟は決死の覚悟を主に伝えたい一心だった。ヨハネは御受難の折も主の傍らにあり、御受難の際に主から一時離れたヤコブも最後は殉教した。

使徒言行録12章でヤコブを殺害させた「ヘロデ王」ことヘロデ・アグリッパ一世は、ユダヤ人の歓心を買おうとしてキリスト信者たちに大弾圧を行った後、異邦人から露骨に追従され神のように扱われ、一神教信者ならば直ちに止めさせるべきところをそうせずに自己陶酔し、主の天使に打ち倒され頓死した。

福音書には主の職業はテクトーンとありホメロスの叙事詩ではテクトーンは船大工をも意味した。もしも主が腕の確かな職人として既に漁師の間で知られていたとすれば、故郷で生涯を終えることが多く同業者だけで集まりがちな漁師の中から、すぐ四人の信頼を得て弟子とすることができたのも、道理である。

ヨハネは大祭司が自分の存在を認識していた(ヨハネ18章15節)と記す。大祭司がガリラヤの漁師の息子をなぜ、認識していたのか? 理由として可能性が大きいのは、ヨハネの母が聖母の母アンナやエリサベトと同様、祭司族出身の女性だったためと推定され、母方が祭司族という点で、皆が遠縁だった。

(注)別エントリー「試論:『清めの水』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13744

古代に遡ることができるある伝承は、十二使徒の中で、聖母に対する敬愛が特に強かった三人が、聖母の終生童貞に倣って終生童貞(独身)であったとする。それはヨハネと二人のヤコブで、ゼベダイの子らの母は聖母の「姉妹」(ヨハネ19章25節)であり、ヤコブの母も聖母の(義理の)「姉妹」だった。

(注)別エントリー「イエスの『兄弟』『姉妹』:同胞か親戚か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1451

福音書は主イエスの「兄弟姉妹」の存在を記すが、主は御受難の際、母を弟子ヨハネに託された。古代イスラエルでは師の死後その母の面倒を見るのは本来、弟子でなく遺族の責務である。ヨハネは自分の母を「母の姉妹」(ヨハネ19章25節)と記す。古代イスラエルで「兄弟姉妹」は親族全般を意味した。

聖母マリアの両親に関してカトリック教会の聖伝は、父がダビデ王家の末裔ヨヤキム、母はアロン族(祭司族)の娘アンナと教えてきた。古代のイスラエルでは、結婚相手は同じ部族または先祖が共通する同士が望ましいとされたが、大祭司アロンの妻はユダの族長ナフション(ダビデの先祖)の姉妹であった。

(注)別エントリー「試論:カナでの婚礼と聖母マリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9059

主は御受難の際、ヨハネに母を託された。このことで聖母には主以外に子がないとわかるが、ルツ記のように「近くの他人より遠くの親戚」の聖書世界では愛弟子というだけで師の母親を引き取るのは不自然で、ヨハネの母が「母の姉妹」(ヨハネ19章25節)つまり聖母の親族である蓋然性は否定できない。

主イエスは、ルカ9章の「主の変容」で三人の使徒に、「天上の体」(一コリント15章40節)すなわち死者の復活後の人間の姿(同章35節以下)をお示しになったが、当時三人の使徒は全く理解できなかった。「人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は愛する者たちに準備された」(同2章9節)。

「主の変容」の後、主イエスは「人の子が死者の中から復活するまでは今見たことを誰にも話してはならない」と命じられた。使徒たちは「天上の体」(一コリント15章40節)を目撃したのだが、まず主の御復活前後の実体験を経た上で復活の意義を理解しなければ、「天上の体」の理解もないからである。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888

跡取りを産む前に夫に先立たれたルツは、申命記25章の規定に従って亡き夫マフロンの「兄弟」ボアズと再婚したが、このボアズはマフロンとは父も母も異なっていた。古代イスラエルにおける「兄弟」という概念が、父や母を同じくする同胞のみならず、広く親族全般を含んでいたことは、歴然としている。

ルツ記の主人公であるルツは、最初の夫マフロンとの間に跡取りを産む前に夫に先立たれ、のちに申命記25章の規定に従ってマフロンの「兄弟」ボアズと再婚したが、このボアズは亡夫マフロンとは父も母も異なっていた。マフロンの父はエリメレク、母はナオミで、ボアズの父はサルマ、母はラハブである。

試論:「アグリッパ一世の頓死」を140文字以内で

使徒言行録12章でヤコブを殺害させた「ヘロデ王」ことヘロデ・アグリッパ一世は、ユダヤ人の歓心を買おうとしてキリスト信者たちに大弾圧を行った後、異邦人から露骨に追従され神のように扱われ、一神教信者ならば直ちに止めさせるべきところをそうせずに自己陶酔し、主の天使に打ち倒され頓死した。

【追記】

主の御降誕から第二神殿の滅亡までエルサレムに七人の「王」が君臨した。ヘロデ大王、アルケラオス、アンティパス、アグリッパ一世、アグリッパ二世がヘロデ王家の五人で、アグリッパ二世のユダヤ退去後の独裁者ギスカラのヨハネが六人目となり、ローマに処刑されたシモン・バルギオラが七人目である。

(注)別エントリー「試論:黙示録17章『七人の王』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11401

「これに聞け」聞くことで信仰は始まる

主イエスはルカ8章18節で「どう聞くべきかに注意しなさい」と仰せになり、マルコ4章33節では「人々の聞く力に応じて多くのたとえで御言葉を語られた」。これらの場合「聞く」は「聞き分ける(心で理解する)」の意味である。マタイ13章15節では「聞く」と「心で理解する」とを併記している。

(注)別エントリー「試論:『どう聞くべきかに注意』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11664

主イエスはマタイ13章の「種を蒔く人」の喩えをお話しにになった際、「耳のある者は聞け」(9節)と命じられた。御子イエスは「言(ことば)」つまり御自分で御言葉をお話しになる神として来られた。従って主イエスに直接応対する場合には「御言葉に耳を傾ける」を選んだマリアの方が良しとされた。

(注)別エントリー「『マリアは良い方を選んだ』?」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17866

ローマ10章17節以下「信仰は聞くことで、しかもキリストの御言葉を聞くことで始まる」「彼らはもちろん、聞いてはいた」マルコ4章23節以下「聞く耳のある者は聞け」「何を聞いているかに注意せよ。あなたたちは自分が他者を量る秤で神なる主から量り与えられ、それに加えてさらに与えられる」。

(注)別エントリー「試論:『話を聞くべき方』は誰?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13716

(注)別エントリー「試論:『話を聞くべきでない者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13709

箴言18章13節は、他人の話に聞き従う以前にまず何か口答えする習慣を持つ者に相応しいものを二つ挙げている。また12節では心の驕りが破滅に先立つことを記し、20章12節も聞く耳を持つよう勧め、21章4節でも高慢なまなざしと傲慢な心こそ、神に逆らう者と罪の「しるし」となることを説く。

主イエス・キリストは「山上の説教」で「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」(マタイ7章26節)と仰せになり、また「聞いて行う者は岩の上に家を建てた賢い人に似ている」(24節)とも仰せになられ、行うことがない信仰生活のもろさを強調なさった。

(注)別エントリー「試論:聞いても実行しない人を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7347

(注)別エントリー「試論:マタイ25章の十人の乙女を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5994

黙示録20章12節以下には、マタイ25章31節以下と同様に、「最後の審判」に関する記述が登場するが、そこでは全ての死者たちが各自の行いに応じて裁かれることが書かれており、「行いを伴わないならば、信仰はそれだけでは死んだものです」というヤコブ2章17節の記述とは完全に一致している。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:行いを欠く信仰を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5360

マタイ13章で主はたとえで話す理由を御説明されたが、「目で見る」「耳で聞く」という表現も「御教え(御言葉)を悟る」「心で理解する」ことの比喩で、それは「悔い改め」に導く。忠実な弟子に主は特別な「耳」(理解力)を与えるとイザヤ50章4節は預言し、理解力と悔い改めとは表裏一体である。

(注)別エントリー「試論:聞くだけの人を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5294

(注)別エントリー「試論:聞いても実行しない人を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7347

新約聖書には、「耳のある者は聞け」という表現が随所に登場するが(マタイ11章15節、黙示録13章9節等)、この場合の「耳」とはイザヤ50章にある通り、主が忠実な弟子に賜る特別な恵み「理解力」の比喩である(4節〜5節、「主なる神は弟子となったわたしを呼び覚まされて耳を開かれた」)。

マルコ9章7節「これはわたしの愛する子。これに聞け」マタイ13章14節以下「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。心は鈍り、耳は遠くなり、目を閉じてしまう。こうして、この民は、目で見ず耳で聞かず、心で理解せず悔い改めず、わたしはいやさない」。

(注)別エントリー「試論:『良い土地に蒔かれた種』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6659

(注)別エントリー「試論:種蒔きのたとえを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5260

「主を畏れること」とは?

箴言8章13節は「主を畏れることは、悪を憎むこと」と記し「主を畏れる」を明確に定義した。同14章2節は「主を畏れる」を「主を侮る」と対置し、同章16節は「知恵ある人は主を畏れて悪を避けるが愚か者は高慢で自分を過信する」と記す。マタイ福音書で「愚かな」は聞いても実行しない人を指す。

(注)別エントリー「試論:聞くだけの人を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5294

(注)別エントリー「試論:砂の上の家を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5563

(注)別エントリー「試論:『主よ、主よ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5380

ローマ5章1節は「わたしたちは信仰によって義とされた」と記す。詩編12編でダビデは、隣人に嘘をついたり隣人を早口で欺いたり言行不一致状態だったりする人々ばかりの風潮を、「信仰のある人は消え去りました」(2節。新共同訳)と表現し、悪を行う人の中に信仰の存在など断じて認めてはいない。

(注)別エントリー「試論:詩編12編の『信仰』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17392

詩編145編19節は「主を畏れる人々の願いはかなえられる」箴言10章24節は「神に従う人の願いはかなえられる」と説く。箴言8章13節は「主を畏れることは悪を憎むこと」とし、主を畏れる人と無縁な事柄を「傲慢、驕り、悪の道、暴言を吐く口」とする。これらを行う人の願いはかなえられない。

マタイ6章で主は、祈る際の「これ見よがし」的な態度を避けるように人々を戒められ、「隠れたことを見ておられる天の父が報いてくださる」と仰せになった。サムエル上1章13節「ハンナは心のうちで祈っていて、唇は動いていたが声は聞こえなかった」その結果19節「主は彼女を御心に留められた」。

詩編145編19節は「主を畏れる人々の願いはかなえられる」とし、箴言10章24節は「神に従う人の願いはかなえられる」と説く。マタイ7章7節は「求めなさい。そうすれば与えられる」と主の御言葉を教え、ヨハネ14章13節は「わたしの名によって願うことは何でもかなえてあげよう」とも記す。

ヨハネ2章のカナでの婚礼の際、3節の母の言葉に対し、主は4節でその真意を測りかねる答えをされた。しかし母は5節で、願いが聞き入れられたことを確信して召し使いたちに言葉をかけた。その理由は一ヨハネ5章14節以下に、「これが神に対するわたしたちの確信」という表現とともに記されている。

ルカ18章で主は「やもめと裁判官」のたとえを話されたが、それは「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるため」(1節)で、「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる」また「これがわたしたちの神に対する確信」と一ヨハネ5章14節は教える。

詩編145(144)編19節には「主は御自分を畏れる人々の望みをかなえられ、彼らの救いを求める叫びを聞けば願いを聞き入れてくださる」とある。主イエスは水の上から沈みかけたペトロにすぐ手を延ばしてつかまえられ、悪霊に苦しめられ続ける娘を持つカナンの女性の叫びに願いを聞き入れられた。

コヘレト12章13節は「全てに耳を傾けて得た結論」として「神を畏れ神の戒めを守れ」「それこそが人間の全て」と締め括る。8章12節では「神を畏れる人は畏れるからこそ幸福になる」と記し、箴言8章13節は「主を畏れることは悪を憎むこと」として、傲慢・驕り・悪の道・暴言を吐く口を戒める。

(注)別エントリー「試論:聖霊とは縁遠い人を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8993

試論:「耳のある者は聞け」を140文字以内で

主イエスはマタイ13章の「種を蒔く人」の喩えをお話しにになった際、「耳のある者は聞け」(9節)と命じられた。御子イエスは「言(ことば)」つまり御自分で御言葉をお話しになる神として来られた。従って主イエスに直接応対する場合には「御言葉に耳を傾ける」を選んだマリアの方が良しとされた。

(注)別エントリー「『マリアは良い方を選んだ』?」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17866

【追記】

箴言18章13節は、他人の話に聞き従う以前にまず何か口答えする習慣を持つ者に相応しいものを二つ挙げている。また12節では心の驕りが破滅に先立つことを記し、20章12節も聞く耳を持つよう勧め、21章4節でも高慢なまなざしと傲慢な心こそ、神に逆らう者と罪の「しるし」となることを説く。

主イエス・キリストは「山上の説教」で「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」(マタイ7章26節)と仰せになり、また「聞いて行う者は岩の上に家を建てた賢い人に似ている」(24節)とも仰せになられ、行うことがない信仰生活のもろさを強調なさった。

(注)別エントリー「試論:マタイ25章の十人の乙女を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5994

マタイ13章で主はたとえで話す理由を御説明されたが、「目で見る」「耳で聞く」という表現も「御教え(御言葉)を悟る」「心で理解する」ことの比喩で、それは「悔い改め」に導く。忠実な弟子に主は特別な「耳」(理解力)を与えるとイザヤ50章4節は預言し、理解力と悔い改めとは表裏一体である。

(注)別エントリー「試論:聞くだけの人を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5294

(注)別エントリー「試論:聞いても実行しない人を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7347

新約聖書には、「耳のある者は聞け」という表現が随所に登場するが(マタイ11章15節、黙示録13章9節等)、この場合の「耳」とはイザヤ50章にある通り、主が忠実な弟子に賜る特別な恵み「理解力」の比喩である(4節〜5節、「主なる神は弟子となったわたしを呼び覚まされて耳を開かれた」)。

黙示録20章12節以下には、マタイ25章31節以下と同様に、「最後の審判」に関する記述が登場するが、そこでは全ての死者たちが各自の行いに応じて裁かれることが書かれており、「行いを伴わないならば、信仰はそれだけでは死んだものです」というヤコブ2章17節の記述とは完全に一致している。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:行いを欠く信仰を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5360

マルコ9章7節「これはわたしの愛する子。これに聞け」マタイ13章14節以下「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。心は鈍り、耳は遠くなり、目を閉じてしまう。こうして、この民は、目で見ず耳で聞かず、心で理解せず悔い改めず、わたしはいやさない」。

(注)別エントリー「試論:『良い土地に蒔かれた種』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6659

(注)別エントリー「試論:種蒔きのたとえを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5260

主イエスはルカ8章18節で「どう聞くべきかに注意しなさい」と仰せになり、マルコ4章33節では「人々の聞く力に応じて多くのたとえで御言葉を語られた」。これらの場合「聞く」は「聞き分ける(心で理解する)」の意味である。マタイ13章15節では「聞く」と「心で理解する」とを併記している。

(注)別エントリー「試論:『持つ人は更に与えられ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11656

申命記30章15節には「わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く」とある。この章で「命」は、「祝福」(1節)「幸い」(5節)「恵み」「実り」「繁栄」「喜び」(9節)等の総称で、20節は「あなたの神、主を愛し、御声を聞き、付き従いなさい。それこそあなたの命である」と説く。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『命の木』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11236

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章4節『命の光』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7297

(注)別エントリー「試論:『永遠の命の言葉を持つ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11244

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『御言葉によって生きる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11157

(注)別エントリー「試論:ローマ8章6節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11523

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

「御父である神」に結ばれていない人々

一ヨハネ2章23節は「御子〔主イエス〕を否定する者は、誰であろうと、御父である神にも結ばれてはいません」と記す。主イエスがヨハネ10章30節で「わたしと御父とは一つ」、同14章6節で「誰であれ、わたしを通らなければ、御父の許にはたどり着けない」と仰せになる以上は、当然の話である。

主はヨハネ13章34節で「互いに愛し合いなさい」と「愛の掟」をお授けになったが、「わたしがあなたがたを愛したように」と付け加えられることによって、御自身を模範(全人類のあるべき姿)としてお示しになった。「言(ことば)」である主が「肉」つまり人間となられた意義の一つがここにあった。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは「御自分でお話しになる神」の意味で《天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神》主イエスを表す称号であり、直接お話しになった記録が福音書である。福音書を読まないことは主イエス・キリストを理解しようとしないことに等しい。

主イエスをヨハネ1章1節は「言(ことば)」つまり《人々の前に御姿を現され御自ら御教えをお話しになる神》と呼ぶ。主イエスに従う人々にとって「神の御言葉」とは、まず何より主イエス御自身の仰せである。聖書やキリスト教について話題にしても肝心の主イエスの御教えを避ける人々は眉唾物である。

一ヨハネ4章は、信者を自称しながら世間の事柄ばかり話題にして主イエスの福音の中身に関して頑に触れようとせず沈黙する人々を、「偽預言者」「反キリストの霊」などと呼ぶ。2章19節は「彼らはわたしたちから去って行った」「元々仲間ではなかった」「仲間ならとどまっていた」とその末路を記す。

主はヨハネ14章23節で、「わたしのことを愛している者なら、わたしの言葉を守るであろう。わたしの父はその人を愛され、父とわたしはその人のところへ行って一緒に住む」と教えられた。福音書の中の主の御言葉を気にも留めようとしないなら、本当は主を愛してなどいないと見なされても仕方がない。

(注)別エントリー「試論:『主の御言葉の権威』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9025

主イエスはヨハネ10章30節「わたしと御父とは一つ」38節「わたしは御父の内にあり御父はわたしの内におられる」と教えられ14章でも繰り返され(10節、11節、21節)16章15節「御父の持っているものは全てわたしの持っているもの」で、御父と御自分との間に差異はないと仰せになった。

ヨハネ14章8節のフィリポの言葉「主よ、わたしたちに御父をお示しください」に対しコロサイ1章15節では「御子は、見えない神の姿」と表現した。「見えない神」とは御父であり「姿」とは《生き写し》というニュアンスをも含んでいる。ヘブライ1章3節は「神の本性の完全な具現」などと表現した。

主はヨハネ10章30節で「わたしと父とは一つ」と仰せになった後、17章では弟子たちのために天を仰いで祈られたが、それは御父と御自分が「一つ」であるように、弟子たちもまた「一つ」となるためであった(11節、21節〜23節)。使徒言行録4章32節「信じた人々の群れは心も思いも一つ」。

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

ニケア・コンスタンチノープル信条「父と一体」はヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」と38節に拠り、御父と御子の間には矛盾・対立・齟齬の類は一切ないことを表す。ギリシア神話では最高神ゼウスと父クロノス、クロノスと父ウーラノスの父子相剋が存在するが、キリスト教には全く存在しない。

主はマタイ11章27節で、全てのことは御父から御自分に任せられていると仰せになった。これは、既にダニエル7章13節以下で啓示された事柄であり、マタイ28章18節やルカ10章22節やヨハネ3章35節や同13章3節等、福音書では事ある毎に強調される「真理(ヨハネ14章6節)」である。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

《御父である神、主》と《御子である神、主イエス》とは、詩編110編1節では御父は「主」、御子は「わが主」でありマルコ12章36節で御父は「主」、御子はダビデの言う「わたしの主」である。ヨハネ1章1節では御父は「神」、御子は「言(ことば)」であり、「言は神であった」と記されている。

《御父である神、主》と《御子である神、主イエス》とは、詩編110編1節では御父は「主」、御子は「わが主」でありマタイ22章44節も御父は「主」、御子はダビデの言う「わたしの主」である。ルカ1章43節でエリサベトは詩編110編1節を踏まえ、マリアを「わたしの主のお母さま」と呼んだ。

(注)別エントリー「マリアを『神の母』と呼ぶ聖書的根拠」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4492

(注)別エントリー「試論:『神の母であること』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6079

(注)別エントリー「試論:『救い主の母であること』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7510

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは道」と仰せになり、「わたしを通らなければ、誰であれ御父には到達できない」と続けられた。パウロはエフェソ2章14節でユダヤ人と異邦人をこの点において隔てる壁はないと記し、ローマ10章12節でも「ユダヤ人とギリシア人の区別はない」と明言している。

主イエスの御前でユダヤ人と異邦人の「区別」が存在しないことはエフェソ2章14節以下、使徒言行録15章9節「わたしたちと彼らの間に何の差別もなさいません」、ローマ3章29節「神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもあります」、一コリント12章13節、ガラテヤ3章28節以下等。

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは道」と仰せになり、「わたしを通らなければ、誰であれ御父には到達できない」と続けられ、また御昇天前にマタイ28章19節で「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じられた。パウロもローマ10章12節で「ユダヤ人とギリシア人の区別はない」と説く。

主が「わたしは道」(ヨハネ14章6節)と仰せになる場合、自身が御父へ通じる唯一無二の存在であると示唆するだけではなく、日本語の「人としての道から外れる」と同様に、誰もがそこを通って進んで行くべき人間としての道筋つまり御父である神の御前における模範(同13章15節)の意味をも含む。

「マグダラのマリア」

マルコは、ベタニアで主の頭に高価な香油を注ぐ女性を記す。ヨハネも、ベタニアでラザロの姉妹マリアが主の足に高価な香油を塗ったと記す。主は彼女の行動を埋葬の準備と呼んだ。マルコ16章冒頭で主の御遺体に油を塗りに行く婦人たちの中に彼女もいたはずで、マグダラのマリアである蓋然性が大きい。

御復活の朝、主を目の前にしてマグダラのマリアは、十人の使徒たちやトマスのように、まず手の釘の痕や脇腹の槍の痕を確認しようとしたはずである。主の「わたしに触れてはならない」は、「手や脇腹を見なくとも、あなたは少しの疑いの余地もなくわたしを認識できているでしょう?」の裏返しでもある。

主はヨハネ20章17節でマグダラのマリアに「触れてはならない」と仰せになった。この時、主が指先で、彼女の額に触れて制止された、という伝承がある。マルコ3章9節以下には、主に触れようとする群衆のあまりの勢いに小舟が用意される話があるが、彼女の勢いもまたそれに近かったのかも知れない。

マルコ16章9節はマグダラのマリアを「以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人」と呼ぶ。箴言6章16節は「主の憎まれるものが六つ、主の心からいとわれるものが七つ」として17節以下で七つの悪徳について列挙する。「七つの悪霊」とは、マリアが克服した七つの悪徳を指すと思われる。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

一世紀にはギリシア語でタリケアと呼ばれていたガリラヤ湖畔の町をユダヤ人はヘブライ語でミグダル、アラム語でマグダラと呼んだと想定され、魚を保存用に加工する燻製工場で知られた。風紀の乱れた町としても悪名高く、歓楽地としての町全体または一部の歓楽街を呼ぶ際マグダラが悪名的に用いられた。

ヨハネ1章の通り御子である主イエスは「言(ことば)」つまり御自分で御言葉をお話しになる神として、この世に来られ、「仕えられるため」ではない(マルコ10章45節)。従って主イエスに直接応対する場合に限り「仕える」を選んだマルタより「御言葉に耳を傾ける」を選んだマリアが良しとされた。

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

主イエスはマタイ12章38節以下で「しるしを見せてください」と迫った人々に対して、救い主に求めるべきものはしるしなどではなく、むしろ救い主が語る御教えであるべきだと強調された。主イエスはルカ10章でも「仕える」を選んだマルタより「御教えを聞く」を選んだマリアの姿勢を良しとされた。

(注)別エントリー「『マリアは良い方を選んだ』?」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17866

試論:「しるしよりも聞くこと」を140文字以内で

主イエスはマタイ12章38節以下で「しるしを見せてください」と迫った人々に対して、救い主に求めるべきものはしるしなどではなく、むしろ救い主が語る御教えであるべきだと強調された。主イエスはルカ10章でも「仕える」を選んだマルタより「御教えを聞く」を選んだマリアの姿勢を良しとされた。

(注)別エントリー「『マリアは良い方を選んだ』?」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17866

【追記】

ニネベの人々はヨナの語る言葉に聞き従って悔い改め、南の国の女王はソロモンの語る言葉を聞くために遠路はるばるエルサレムを訪れた。異邦人の彼らでさえ神の霊感を受けた言葉に耳を傾けたのに、どうしてあなたたちはわたしの言葉を聞かずにしるしを求めるのか? 主イエスのお嘆きがそこにはあった。

主イエスはルカ11章29節以下で、ヨナの説教に悔い改めたニネベの人々と、ソロモンの知恵を聞くためにエルサレムを訪れたシェバの女王を引き合いに出されたが、この仰せには当然「あなたたち今の時代のイスラエル人は、ニネベの人々やシェバの女王にまさるものなのか」のニュアンスも含まれている。

(注)別エントリー「試論:『ニネベの回心』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11018

主イエスはルカ11章29節で、しるしを欲しがる人々を「今の時代の者たちはよこしま」と仰せになった。同4章3節「神の子ならば、この石にパンになるように命じたらどうだ」同9節「神の子ならば、ここから飛び降りたらどうだ」同23章35節「もし選ばれた者ならば、まず自分自身を救ってみろ」。

(注)別エントリー「試論:『しるしを欲しがる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14861

試論:「新約時代と預言者」を140文字以内で

旧約時代には申命記18章15節以下の律法の通り、神が立てられた預言者には聞き従わなければならなかった。しかし使徒言行録21章でパウロは、アガボやフィリポの四人の娘など「預言」を行う人々の制止を振り切り、エルサレムへと出発した。新約時代には旧約時代と同じ立場の預言者など存在しない。

【追記】

旧約の律法では王や大祭司も預言者に従う定めがあったがダニエル9章24節は「預言を封印するメシア」を預言し、ルカ21章22節の主の御言葉と紀元七〇年のエルサレム滅亡で、その預言は成就した。その後も当然「私的啓示」は続くが、決してそれらを旧約時代の「預言」と同じ扱いにしてはならない。

(注)別エントリー「試論:『偽預言者』と『もみ殻』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7600

(注)別エントリー「試論:偽預言者の悪質性を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7549

(注)別エントリー「試論:『人を惑わす霊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5682

(注)別エントリー「試論:偽預言者と反キリストの霊を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6839

(注)別エントリー「試論:偽預言者と貪欲を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7125

(注)別エントリー「試論:偽預言者と滅亡を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5401

(注)別エントリー「試論:偽預言者の識別を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6118

ダニエル9章24節はメシアについて預言の時代を封印する存在だと預言し、主はルカ21章22節で、(紀元七〇年の)エルサレム滅亡で旧約聖書の全預言が成就し預言の時代が終わると仰せになった。故に紀元七〇年以降の国際情勢と旧約聖書の預言は無関係で、関係ありとする強弁は主の御言葉に反する。

(注)別エントリー「試論:主イエスと旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7462

「マリアは良い方を選んだ」?

主イエスはルカ10章42節で「マリアは良い方を選んだ」と仰せになった。ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」つまり《人々へ直に御教えをお話しになる神》と呼ぶ。主はマタイ20章28節では「人の子は仕えられるために来たのではない」と宣言され、まずは御自分の言葉に傾聴するよう勧められた。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

ヨハネ1章の通り御子である主イエスは「言(ことば)」つまり御自分で御言葉をお話しになる神として、この世に来られ、「仕えられるため」ではない(マルコ10章45節)。従って主イエスに直接応対する場合に限り「仕える」を選んだマルタより「御言葉に耳を傾ける」を選んだマリアが良しとされた。

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

ルカ10章41節「あなたは多くのことに」の「多くの」に当たるギリシア語は、同福音書の他の箇所では「おびただしい」とも訳され、数や程度のはなはだしさを意味し、大所帯を切盛りできる配慮や才覚がマルタにあったことを示唆している半面、当日のもてなしが「盛り沢山」過ぎた蓋然性をも暗示する。

主イエス・キリストが「神の御言葉」(ヨハネ1章1節)であられる以上、最も喜びとされることは、御自分の仰せになる御言葉に人々が耳を傾けて聞き従うことである。それゆえ主はマルタからマリアを擁護された(ルカ10章41節以下)。ホセア6章6節「わたしが喜ぶのは神を知ることであって、〜」。

(注)別エントリー「試論:『憐れみと赦し』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7927

主イエス・キリストはヨハネ1章において「言(ことば)」つまり「神の御言葉」と呼ばれる。《天使や預言者を介さず直に人々に語り掛けられる神》であるのと同時に、《人が御自分の御言葉を実行するか否かで、その人が本当に御自分を愛しているか否かを判断なさる神》(ヨハネ14章)だからでもある。

主イエスは、たとえ御自分を批判する人々から「大食漢で大酒飲み、徴税人や罪人の仲間」と中傷されようとも、御自分の教えに喜んで耳を傾けようという人々に対しては機会を逃さずに、いくらでもお話しをしようという心構えであられた。人間世界にいつまでもとどまっておられるわけではないからである。

主はマタイ福音書で「わたしが求めるのはあわれみであって犠牲(いけにえ)ではない」(ホセア6章6節)と繰り返されたが同節は「神を知ることであって焼き尽くす献(ささ)げ物ではない」と続く。「神を知る」を一ヨハネ2章3節は「神の掟(愛の掟。ヨハネ15章12節等)を守る」ことと説明する。

(注)別エントリー「試論:『神の御前で安心できる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7564

主イエスはヨハネ14章6節で真理を自称され、1章1節は御子を「言(ことば)」つまり《人々の前に御姿を現され御自ら御教えをお話になる神》と記す。18章37節で主は「真理に属する者は皆、わたしの声を聞く」と仰せになった。福音書に収録された実際の主の仰せを軽視する人は主に属していない。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『真理を行う者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16184

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは「御自分でお話しになる神」の意味で《天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神》主イエスを表す称号であり、直接お話しになった記録が福音書である。福音書を読まないことは主イエス・キリストを理解しようとしないことに等しい。

(注)別エントリー「試論:反キリストの霊を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5217

(注)別エントリー「試論:聖書と私的啓示を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5319

(注)別エントリー「試論:預言解釈の基本を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5092

マタイ7章21節の主の仰せ「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」の「主よ」という呼び掛けは、当然、25章44節「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、〜」という箇所とは内容的に直結しており、信仰義認の適不適を判断する良い基準である。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:マタイ25章の十人の乙女を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5994

安息日と空腹

マタイ12章で、麦畑から穂を摘んで直に麦を口にするほど弟子たちは空腹だった。ファリサイ派の人々に対して主はサムエル上21章を引用された。パンではなく直に麦を口にするほどの空腹をしのぐことは、井戸に落ちた息子をすぐに引き上げる(ルカ14章5節)ことと同じく、安息日の掟にも優先する。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

主が集まった群衆のためにパンを増やす奇跡を行われたことは有名だが、その少し前に弟子たちが極度の空腹のため安息日に麦畑で穂を摘み直に麦を口にし、ファリサイ派の人々と論争になった。なぜ主は奇跡で弟子たちの空腹を満たそうとはされなかったのか? 「現世利益」目的では奇跡を主は行われない。

公生活中、主イエスは安息日に病人を治癒され、ユダヤで批判を受けた。三十数年後ユダヤで反乱が起こり、反乱軍は降伏したローマの守備隊を安息日に都で虐殺した。安息日の虐殺を見て心あるユダヤ人の多くは将来を悲観し、都を離れた。彼らの不吉な予感は数年後、都と神殿の滅亡で現実のものとなった。

(注)別エントリー「試論:『人心荒廃は滅亡の前兆』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6291

(注)別エントリー「試論:『理由のない憎しみ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6468

(注)別エントリー「『荒廃をもたらす憎むべきもの』とは何か」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/24206

ヨハネ5章の通り、敵たちは安息日の掟を持ち出して主イエスを攻撃するのが常だった。安息日の掟は確かに十戒にも含まれるものの、マルコ12章28節以下の律法学者との問答で再確認された通り古代のイスラエルで最も重要な掟の第一は神への愛の掟、第二は隣人愛の掟であり安息日の掟より優先される。

(注)別エントリー「試論:『しるし』と敵意を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15357

二世紀初めにアンティオキアの聖イグナティウスが記したように初代の信者は、キリストの御復活すなわち「天上の体」(一コリント15章40節)の創造の記念に、週七日の中で祝うべき特別の日を土曜日(ユダヤ教の安息日)から、御復活があった「週の最初の日(安息日の翌日)」日曜日へと置き換えた。

(注)別エントリー「試論:『土曜と日曜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12677

「主の変容」の後、主イエスは「人の子が死者の中から復活するまでは今見たことを誰にも話してはならない」と命じられた。使徒たちは「天上の体」(一コリント15章40節)を目撃したのだが、まず主の御復活前後の実体験を経た上で復活の意義を理解しなければ、「天上の体」の理解もないからである。

「主の変容」とは、一コリント15章でパウロが言及する

「天上の体」(40節)

を主イエスが実際に三人の使徒へお示しになった意義深い出来事で、パウロは「天上の体」を

「朽ちないもの」(42節)

「輝かしいもの」「力強いもの」(43節)

「霊の体」(44節)

「天に属する者」(47節)

等と呼ぶ。

「主の変容」の際、マタイ17章2節は「その顔は太陽のように輝き」と記すが、黙示録1章16節は天上におられるキリストを「顔は照り輝く太陽のようであった」と記し、まさに「主の変容」において三人の使徒は「天上の体」を目撃した。黙示録1章でヨハネは「主の変容」を思い出し主の足許に倒れた。

(注)別エントリー「試論:『火も剣も御言葉の比喩』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7812

コヘレト12章7節では人間の肉体を「塵」と表現し死によって大地(創世記2章7節、3章19節)へ帰ると記すが、洗礼により「神の子とする霊」(ローマ8章15節)を受けた者の「霊」は対照的に、罪に脆い肉体の重荷から解放され「霊」をくださった「与え主」神の許へ帰るべきだと定められている。

(注)別エントリー「試論:『盗賊さえ楽園に達した』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8383

一コリント15章でパウロは「地上の体」「天上の体」という表現を用いて、《人間が地上で生活していた際の、死によって朽ちていく肉体》と《その人の霊が神の許に帰還した後で、神によって天上で新しく与えられる、朽ちることのない体》について説明し、後者を「霊の体」(44節)等と表現している。

(注)別エントリー「試論:『イエスは復活と命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8389

古代のヘブライ人の世界観に従ってガラテヤ5章は「人間(人間それ自体)」を「肉」、「神〔に由来するもの〕」を「霊」と呼ぶ。ヨハネ3章6節も同様の対比を用い、「霊から生まれた者は霊」の意味を1章12節は「神の御言葉である主イエスは自分を受け入れる人に神の子となる資格を与えた」と記す。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:ガラテヤ5章の『肉と霊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7657

古代のイスラエル人にとって「肉」という表現は「人間」を指す場合があった(ヨハネ1章14節等)。マルコ7章20節以下で主イエスが「人から出て来るものこそ人を汚す」と注意を促された諸悪と、ガラテヤ5章19節以下でパウロが「肉の業」と呼んで避けるように促した諸悪が同様なのは当然である。

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346

ガラテヤ5章は「肉」と「霊」の対立を記すが、ヨハネ1章同様、パウロは古代のヘブライの世界観に基づき、人間そのものを「肉」と表現して「霊」つまり「神の霊」と対比する。近代人は「肉と霊」という表現から「〔人間の〕肉体と〔人間の〕霊魂の対立」をイメージしがちだが、パウロの意図は異なる。

古代のヘブライ人は「肉」を、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけではなく魂も含めた人間の全体。)」を表す言葉として用いていた。創世記6章12節「すべて肉なる者は堕落の道を歩んでいた」(新共同訳)。日本語訳の「肉なる者」に対応する語は、ヘブライ語本文ではただ単に「肉」である。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7795

試論:マタイ11章29節の意味を140文字以内で

主イエスはマタイ11章29節で「わたしの軛(くびき)を負う」ように仰せになった。「軛」はエレミヤ5章5節では「主の道、神の掟」の比喩である。「柔和で謙遜な者」キリストの律法とは「自分が他人からしてもらいたいことなら全て、自分から他人にしなさい」(マタイ7章12節)に、尽きている。

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9949

(注)別エントリー「試論:『わたしの荷は軽い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6870

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

予備的考察:聖霊の働きか否かを識別する基準を再考

主イエスはマタイ4章24節と同17章15節で、てんかん(けいれん、ひきつけ)の人々を治癒の対象とされた。急に体をブルブル(ガクンガクン)させて白目を剥いたり、呼び掛けに応じなくなったり、口から泡を吹いてひっくり返ったり等が見られれば、当然、聖霊の働きでなく救急医療の対象に当たる。

イザヤ11章2節以下とガラテヤ5章22節以下では聖霊による賜物について列挙されるが、そこにはいわゆる「異言(諸言語〔の賜物〕)」も「預言」も含まれていない。「預言」にも真の預言者と偽預言者が存在したように異国の言語らしきものを話し始めた人がいたとしても本物とは限らないからである。

いわゆる「異言」と呼ばれる《諸言語〔の賜物〕》に関して、パウロは一コリント12章から14章において、それを「解釈(通訳)する人」の存在と重要性を繰り返し強調している。14章28節では、その場に通訳(解釈)できる人が皆無なら、語る人は教会の中では沈黙しているようにと強く命じている。

一コリント14章26節以下でパウロは、いわゆる「異言」と呼ばれる《諸言語〔の賜物〕》に関し、「語る人」と「解釈(通訳)する人」がいて初めて成り立つと記す。従って、どの言語か全く分からない何事かが話されても、その場に通訳(解釈)できる人が皆無ならば、聖霊に由来するとは認められない。

パウロは一コリント14章33節で神は混乱(無秩序)の神ではないと記し、同30節で集会中に複数人が同時並行的に言葉を発することを禁じ37節で混乱は主の流儀ではないことを示唆した。ヨハネ17章11節等で主イエスが強く願われ使徒言行録4章32節で実現した、「一つ」に違反するからである。

主はヨハネ10章30節で「わたしと父とは一つ」と仰せになった後、17章では弟子たちのために天を仰いで祈られたが、それは御父と御自分が「一つ」であるように、弟子たちもまた「一つ」となるためであった(11節、21節〜23節)。使徒言行録4章32節「信じた人々の群れは心も思いも一つ」。

ニケア・コンスタンチノープル信条「父と一体」はヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」と38節に拠り、御父と御子の間には矛盾・対立・齟齬の類は一切ないことを表す。ギリシア神話では最高神ゼウスと父クロノス、クロノスと父ウーラノスの父子相剋が存在するが、キリスト教には全く存在しない。

一コリント12章以下でパウロは霊的な賜物に関し論じた。14章33節は「神は混乱(無秩序)の神ではなく協調(平和)の神」と説き、集会中の発言は順番(27節、40節)になされるべきで複数人が別々の事柄を同時並行で語ることを禁じ(30節)、それは「主の命令」(38節)であると厳命した。

聖パウロのガラテヤ書5章によれば、聖霊が働いている徴は愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・節制(22節〜23節)であり、聖霊が不在である徴は姦淫・わいせつ・好色・偶像礼拝・魔術・敵意・争い・そねみ・怒り・利己心・不和・仲間争い・ねたみ・泥酔・酒宴(19節〜21節)などである。

聖霊の七つの賜物という特別の恵みは、古代のギリシア語訳またラテン語訳のイザヤ書11章2節〜3節の記述に基づいており、

【1】知恵(上智)
【2】分別(識別)
【3】思慮(賢慮)
【4】剛毅(勇気)
【5】〔主に関する〕知識
【6】〔主に対する〕孝愛(信心)
【7】〔主に対する〕畏敬

などである。

(注)別エントリー「試論:聖霊降臨と聖母を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4990

ヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」の意味を使徒言行録4章32節は「心も思いも一つ」「持ち物を自分だけのものと主張せず共有している」と説明する。従って、御父の持ち物は御子の持ち物でもあり逆もまた然りである。ヨハネ10章38節「わたしは父の内にあり、父はわたしの内におられる」。

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

イザヤ11章では聖霊の賜物として知恵・識別・思慮を挙げ、またガラテヤ5章23節では節制を挙げる。従って例えば詐欺に引っ掛かったり、貴重品を紛失したり、交通事故を起こしたり警察に違反を指摘されたり、多くの飲食物への執着を断ち切れないならば、常識的に判断して聖霊の介在は否定的である。

ルカ1章35節以下では、マリアに聖霊が降臨され彼女が神の御独り子を身籠るという事柄が告知された。従って《聖霊の結ぶ実》(ガラテヤ5章22節以下)すなわち《愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制》がマリアの内面をあふれんばかりに満たしていることには、疑問の余地などない。

パウロは一コリント14章33節で神は無秩序の神ではないと説き、40節では全てを秩序正しく行うよう勧め、30節で複数人が同時に口を開くことを禁じる。従って「ある人々は互いに別々の事柄を語り始め、別の人々は歌い出し、また別の人々は踊り出す」ならそれは神の霊とは全く関係ない現象である。

主イエスはさまざまな病気に対し奇跡的な治癒を行われたが、病人に医者が必要であることは否定されない(ルカ5章31節等)。シラ書38章は、病気になった際に主に治癒を祈り求めることを勧める(9節)が、それと共に医者の手を借りることも勧め(12節)治癒に医者が必要な場合もあり得ると説く。

(注)別エントリー「試論:『善きサマリア人と宿屋』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13394

(以下の聖書からの引用は、基本的にはフランシスコ会聖書研究所訳注『聖書』(サンパウロ)によりますが、その他の聖書から引用する場合は、その都度、適宜その旨を付け加えます)

ガラテヤの人々への手紙5章においては、「肉の業(わざ)」と「霊の結ぶ実」とが対比されて、説明されている。
E・ラゲ訳『聖書』(中央出版社)においては、この章の5節で、「〔聖〕霊」という表現が用いられているが、この表現からも分かる通り、この章における「霊」とは、すなわち「聖霊」を意味していると考えられる。

◯ガラテヤの人々への手紙5章22節~23節(フランシスコ会訳)
「しかし、霊の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟(おきて)はありません」

受胎告知の際のみ使いの言葉「聖霊があなたに臨み、いと高き方の力があなたを覆う」(ルカ1章35節)がその通りであるとしたら、当然マリアは胎内に「聖なる者、神の子」(同節)に宿しているのと同時に、マリアの内面には、「霊(聖霊)の結ぶ実」すなわち「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」が宿っていたことになる。

この箇所について、E・ラゲ訳では、「霊の効果」として、「(愛)」「喜び」「平安」「堪忍(かんにん)」「慈恵(じけい)」「(忍耐)」「温良(おんりょう)」「真実」「謹慎(きんしん)」「節制」「貞操(ていそう)」と列挙している。

また、日本聖書協会新共同訳『聖書』では、フランシスコ会訳と同様の表現が列挙されている。

バルバロ訳『聖書』(講談社)においては、「愛」「喜び」「平和」「寛容」「仁慈(じんじ)」「善良」「誠実」「柔和」「節制」などという表現である。

ところが、「肉の業」(19節)として列挙されている事柄を行う人に関しては、「神の国を受け継ぐことはできません」と明言されている。

◯ガラテヤの人々への手紙5章19節~21節(フランシスコ会訳)
「肉の業は明らかです。すなわち、姦淫、猥褻(わいせつ)、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間割れ、妬(ねた)み、泥酔、度外れた遊興、その他このたぐいです。前にも警告したように、改めてあなた方に警告します。このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません」

すなわち、もしも「姦淫」「猥褻」「好色」「偶像礼拝」「魔術」「敵意」「争い」「そねみ」「怒り」「利己心」「不和」「仲間割れ」「妬み」「泥酔」「度外れた遊興」等々といった事柄に心がとらわれている人がいるならば、その人に聖霊が働いていることなどありえないと分かる。

この部分は、ラゲ訳では、「私通」「不潔」「わいせつ」「邪淫」「偶像崇拝」「魔術」「恨み」「争い」「ねたみ」「腹立ち」「けんか」「擾乱(じょうらん)」「異説」「そねみ」「人殺し」「酩酊」「とう食」などとなっており、これらの事柄に心がとらわれているならば、聖霊が働いていない証拠というわけである(「とう食」は「貪食」などと同じ意味)。

新共同訳では、「姦淫」「わいせつ」「好色」「偶像礼拝」「魔術」「敵意」「争い」「そねみ」「怒り」「利己心」「不和」「仲間争い」「ねたみ」「泥酔」「酒宴」などとなっている。

バルバロ訳では、「淫行」「不潔」「猥褻」「偶像崇拝」「魔術」「憎悪」「紛争」「嫉妬」「憤怒(ふんぬ)」「徒党」「分離」「異端」「羨望」「泥酔」「遊蕩」などが挙げられている。

このガラテヤ5章19節から21節そして22節から23節の記述によって吟味することにより、そこに聖霊が本当に働いているのかどうかを確実に識別することができるわけである。

以下に、関連している新約聖書のいくつかの箇所を列挙する。

◯ガラテヤの人々への手紙5章14節~15節(フランシスコ会訳)
「律法全体は、『隣人を自分のように愛せよ』という一句を守ることによって果たされます。しかし、もし互いに嚙(か)み合(あ)い、食い合っているとするなら、互いに滅ぼされないように気をつけなさい」

◯コロサイの人々への手紙3章8節~9節(フランシスコ会訳)
「しかし、今はもう、これらすべてのこと、すなわち怒り、憤(いきどお)り、悪意を捨て去り、ののしりや顔を赤らめるような言葉を口にしてはなりません」

◯エフェソの人々への手紙4章31節(フランシスコ会訳)
「すべての苦々しい思い、憤り、怒り、刺々(とげとげ)しい声、ののしりを、すべての悪意と共に除き去りなさい」

◯ヤコブの手紙1章19節~21節(フランシスコ会訳)
「わたしの愛する兄弟たちよ、心に留めておきなさい。人はみな、聞くに早く、語るに遅く、怒るにも遅くなければなりません。人の怒りは、神の義を実現するものではありません。ですから、あらゆる汚れや溢れ出る悪を捨てて、あなた方の心に植えつけられたみ言葉を素直に受け入れなさい。み言葉には、あなた方の魂を救う力があります」

◯ペトロの第一の手紙2章1節~2節(フランシスコ会訳)
「それ故、あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、妬み、一切の悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、み言葉である清い乳を切に求めなさい。それによって、あなた方が成長し、救いに至るためです」

◯テサロニケの人々への第一の手紙5章15節(フランシスコ会訳)
「誰も悪に悪を返すことがないようによく注意し、互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うよう励みなさい」

◯ペトロの第一の手紙3章9節(フランシスコ会訳)
「悪をもって悪に、ののしりをもってののしりに報いてはなりません。かえって、祝福をもって報いなさい。あなた方は祝福を受け継ぐために召されたのです」

◯ローマの人々への手紙13章8節~10節(フランシスコ会訳)
「互いに愛し合うことのほかに、誰(だれ)に対しても負い目があってはなりません。他人を愛する者は、律法を完全に果たしているのです。『姦通してはならない。殺してはならない。盗んではならない。貪(むさぼ)ってはならない』など、また、ほかに何か掟があっても、それは、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。したがって、愛は律法を完全に果たすものです」

10節では、当然のことではあるが隣人に対して悪を行うことが隣人愛の反対に該当すると、示唆されている。

◯ヨハネの第一の手紙4章19節~21節(フランシスコ会訳)
「わたしたちが愛するのは、神がまず、わたしたちを愛してくださったからです。『神を愛している』と言いながら、自分の兄弟を憎むなら、その人は嘘(うそ)つきです。目に見える自分の兄弟を愛さない人は、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、自分の兄弟をも愛さなければなりません。これが、わたしたちが神から受けた掟です」

この箇所では、「愛する」と「憎む」とが明らかに対比されている。つまり、キリスト教的な愛は憎しみとは相容れない反対の事柄であることが語られている。

◯ヨハネの第一の手紙3章11節~12節、15節(フランシスコ会訳)
「わたしたちは互いに愛すべきであるということ、これこそ、あなた方が初めから聞いている教えです。カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属し、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。それは、彼の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです」
「兄弟を憎む人はみな、人殺しです。あなた方も知っているように、すべて人殺しのうちには、永遠の命は留まりません」

◯ローマの人々への手紙12章9節、14節、17節、21節(フランシスコ会訳)
「愛には偽りがあってはなりません。悪を忌み嫌い、善から離れてはなりません」
「あなた方を迫害する者の上に祝福を願いなさい。祝福を願うのであって、呪(のろ)いを求めてはなりません」
「誰(だれ)に対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善いことを行うよう心がけなさい」
「悪に負けてはなりません。むしろ善をもって悪に勝ちなさい」

◯コリントの人々への第一の手紙13章4節~7節(フランシスコ会訳)
「愛は寛容なもの、慈悲深いものは愛。愛は、妬まず、高ぶらず、誇らない。見苦しい振る舞いをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人の悪事を数え立てない。不正を喜ばないが、人とともに真理を喜ぶ。すべてをこらえ、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐え忍ぶ」

新共同訳では、「自慢せず」(4節)「礼を失せず」「いら立たず」「恨みを抱かない」(5節)などと表現する。バルバロ訳では「憤らず」「悪を気にせず」(5節)などと表現し、後者に関し欄外の注で「『邪推しない』という訳もある。」としている。ラゲ訳では「悪を負わせず」(5節)と表現する。

◯テモテへの第二の手紙3章1節~5節(フランシスコ会訳)
「終わりの日には、困難な時が来ます。このことを悟りなさい。その時、人々は自分だけを愛し、金銭を貪(むさぼ)り、大言壮語し、高ぶり、ののしり、親に逆らい、恩を忘れ、神を汚(けが)すものとなるでしょう。また、非人情で、人と和解せず、中傷し、節度がなく、狂暴で善を好まないものとなり、人を裏切り、無謀で、驕(おご)り高ぶり、神よりも快楽を愛し、上辺(うわべ)は信心に熱心に見えるが、実際は信心の力を否定するものとなるでしょう。このような人々を避けなさい」

◯ローマの人々への手紙1章28節~32節(フランシスコ会訳)
「彼らは、神を深く知ることに価値を認めなかったので、神は彼らを価値のない考えのままに任せられました。そこで彼らはしてはならないことをしています。彼らはあらゆる邪(よこしま)なことと悪と貪欲(どんよく)と悪意に満ち、妬みと殺意と争いと欺きと敵意に溢(あふ)れ、陰口を言い、謗(そし)り、神を憎み、人を侮り、高ぶり、自慢し、悪事を編み出し、親不孝で、弁(わきま)えがなく、約束を守らず、薄情で、無慈悲です。こういう者たちは死に値するという神の定めを、彼らはよく知りながら、自ら行うばかりでなく、そのようなことを行う人たちに賛同しています」

◯マタイによる福音書15章11節、17節~20節(フランシスコ会訳)
「口に入るものが人を汚(けが)すのではない。口から出るものが人を汚すのである」
「口に入るものはみな腹に入り、厠(かわや)に落ちることが分からないのか。しかし、口から出てくるものは、心から出てくるもので、これが人を汚す。悪い考えや、殺人、不品行、盗み、偽証、冒瀆(ぼうとく)は、心から出てくる。これこそが人を汚す。手を洗わずに食べることは人を汚さない」

◯マルコによる福音書7章14節~15節、20節~23節(フランシスコ会訳)
「それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて仰せになった、『みな、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の中に入るもので、人を汚すことのできるものは何一つない。人の中から出てくるものが人を汚すのである』」
「さらにまた仰せになった、『人から出てくるもの、それが人を汚すのである。内部、すなわち人の心の中から邪念が出る。姦淫、盗み、殺人、姦通、貪欲、悪行、詐欺(さぎ)、卑猥(ひわい)、妬み、謗り、高慢、愚かさなど、これらの悪はすべて内部から出て、人を汚すのである」

◯マタイによる福音書5章21節~24節(フランシスコ会訳)
「あなた方も聞いている通り、昔の人々は、『殺してはならない。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられていた。しかし、わたしはあなた方に言っておく。兄弟に対して怒る者はみな裁きを受ける。また兄弟に『ばか者』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に落とされる」
「祭壇に供え物をささげる時、兄弟があなたに恨みを抱いているのを思い出したなら、供え物を祭壇の前に置き、行って、まず兄弟と和解しなさい。それから戻ってきて、供え物をささげなさい」

◯マタイによる福音書7章1節~2節(フランシスコ会訳)
「裁いてはならない。裁かれないためである。あなた方が人を裁くように、あなた方は裁かれ、あなた方が量るその升(ます)で、あなた方にも量り与えられる」

◯ルカによる福音書10章30節~37節(フランシスコ会訳)
「イエスはこれに答えて仰せになった、『ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗に襲われた。彼らはその人の衣服をはぎ取り、打ちのめし、半殺しにして去っていった。たまたま、一人の祭司がその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通っていった。また、同じように、一人のレビ人がそこを通りかかったが、その人を見ると、レビ人も道の向こう側を通っていった。ところが、旅をしていた、一人のサマリア人がその人のそばに来て、その人を見ると憐れに思い、近寄って、傷口に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をした。それから、自分のろばに乗せて宿に連れていき、介抱した。翌日、サマリア人はデナリオン銀貨二枚を取り出し、宿の主人に渡して言った、<この人を介抱してください。費用がかさんだら、帰ってきた時には支払います>。さて、あなたは、この三人のうち、強盗に襲われた人に対して、隣人となったのは、誰だと思うか』。律法の専門家が、『憐れみを施した人です』と言うと、イエスは仰せになった、『では、行って、あなたも同じようにしなさい』」

古代のヘブライ人の世界観は「携挙」とは両立しない

ヘブライ語旧約聖書本文には「空中」という表現が存在しない。現代人ならば「空中」と表現する領域に言及する際、ヘブライ語聖書は「地と天の間」(歴代誌上21章16節、エゼキエル8章3節、ゼカリヤ5章9節)等と表現する。ヘブライ人は創世記1章6節以下の記述に基づく世界観に立つためである。

(注)別エントリー「試論:『携挙』の否定を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6277

1783年の有人気球飛行実験以前、人類にとって高度数百メートルの上空は「大空」であった。しかし有人気球で人類がそこに到達すると気球に乗っている人間にとって、そこは大空というよりむしろ「空中」となった。こうして18世紀後半以降、科学技術の発達とともに「空中」の領域は著しく拡大した。

(注)別エントリー「試論:『携挙』はなぜ誕生したかを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14420

(注)別エントリー「試論:携挙がない理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4703

(注)別エントリー「試論:十分の一献金がNGの理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12467

(注)別エントリー「試論:創世記1章と『空中』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14255

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを識別する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14194

(注)別エントリー「ヘブライ語聖書は『空中』とは表現しない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4223

(注)別エントリー「『携挙』:ギリシア語聖書本文で徹底検証【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7753

一テサロニケ4章17節やエフェソ2章2節でパウロは、「空中」と一般的に訳されるギリシア語「アエール」という表現を用いているが、この古代の言葉は「地上界」を象徴する元素を意味し、「アエール」の英訳語「エアー」が現代人のイメージする「空中」を指すようになるのは18世紀後半以降である。

本来「空中」と「大空」は別物で、例えば父親と幼児が向かい合って立ち幼児がその場でジャンプした時、幼児は「空中」にいても地上に立つ父親の身長には届かない。熱気球の有人飛行成功まで「空中」は、地上から両足が離れたとしても高度はさほどない状態を指し、「大空」と混同されることはなかった。

17世紀までに成立した英訳聖書の一テサロニケ4章17節にある、

”in the air”

という表現が、現代人のイメージする「空中」の意味で用いられ始めるのは、18世紀後半の有人気球飛行実験成功以降のことで、この時系列を理解するなら19世紀以降に始まる「携挙」の概念には惑わされない。

ルカ17章34節から35節で主は「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」と繰り返されたが、では一体どこに「連れて行かれ」るのかを、ルカ21章24節では「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と御説明された。これは大昔モーセがレビ記26章33節以下で預言していた話と同じである。

紀元七〇年のエルサレム滅亡時にローマ軍へ投降したユダヤ人のうち、使徒言行録22章のパウロのようにローマの市民権を持つ者はローマ法の保護下にあるため留め置かれたが、そうでない者は妻子と共に奴隷とされて売り飛ばされた。こうして「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」は現実となった。

プロテスタントの文語訳聖書『改訳 新約聖書』(1917年)はルカ21章23節を「地(ち)には大(おほひ)なる艱難(なやみ)ありて、御怒(みいかり)この民(たみ)に臨(のぞ)み」と訳し、ある人々がいわゆる「大艱難時代」と呼ぶ時期とは実は紀元七〇年の滅亡の前後に他ならないと示唆する。

主はルカ21章23節でエルサレム滅亡とその前後のユダヤの苦難を予告されたが、『改訳 新約聖書』(1917年)では「大なる艱難」と日本語訳する。一世紀後半のユダヤの歴史家ヨセフスの記述通り、紀元六六年の大反乱の勃発から七三年のマサダ陥落までの七年間に、ユダヤは惨劇の連続を経験した。

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の意義を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9840

(注)別エントリー「試論:『十分の一献金』なる虚構を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10039

ダニエル9章24節はメシアに関して預言の時代を封印する存在だと預言し、主イエスはルカ21章22節で旧約聖書の全預言が(紀元七〇年の)エルサレム滅亡で成就すると仰せになった。故に現代や近未来の国際情勢と旧約聖書の預言とは無関係で、関係ありとする解釈は主の仰せとは明確に相反している。

(注)別エントリー「試論:主イエスと旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7462

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4783

(注)別エントリー「試論:神の国の到来と『主の日』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5578

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

ヘブライ語聖書に「空中」という表現は存在せず、古代のヘブライの世界観には「空中」の概念がない。故に一テサロニケ4章17節を根拠に「〔空中〕携挙」の概念を受容するならばヘブライの世界観には立っておらず、逆にヘブライの世界観に立つならば「〔空中〕携挙」の概念を受容することはできない。

試論:「悪人でも神を利用する」を140文字以内で

創世記4章でカインは自分の怠慢を棚に上げ「神は弟と共謀して自分を笑い者にした」と邪推して弟を殺害し神に対してまで憎まれ口を叩いたが、すぐに自分もまた誰かに殺されるのではと不安になり、神に容赦を求めた。しかしカインは一度たりとも反省を口にしたことがなく、自分が助かりたいだけだった。

【追記】

【問】カインはなぜ弟アベルを殺すほど激怒したのですか?【答】弟は真心を込めて献げ物を準備しましたが、兄は自分が何もせずとも作物は勝手に育つという態度で弟を小馬鹿にしていました。日頃から他人を小馬鹿にしていたカインは、神と弟が共謀して自分を小馬鹿にしていると思い込み弟を殺しました。

(注)別エントリー「試論:『カインの高慢』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17085

カインはアベルと違って献げ物となる作物を育てる際、手間暇をかけようとせず、ろくに手入れもせず、ただ自然に育ったがままの状態のものを献げた。それでいて神に目を留められなかったことで激怒し、そうなった理由を反省せず弟の意見を参考にしようとせず両親にも相談せず、神に質問すらしなかった。

カインは怒りに任せ弟アベルを殺害した後、主の問いに「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」と白(しら)を切った。その後「わたしの罪は重過ぎて負い切れません」と口にしたが、この言葉は、決して反省の弁ではなく、主からの庇護(創世記4章15節「しるし」)を引き出すための方便であった。

一ヨハネ5章16節は「死に至らない罪」と「死に至る罪」を対比する。旧約聖書第二正典の知恵の書10章はアダムとカインを対比し、カインは弟を殺しただけでなく「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」と神に嘘をつき、その上で神に対しても敵意を剥き出しにして、最後まで全く反省しなかった。

(注)別エントリー「試論:アベルとヨセフを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17350

エゼキエル18章「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は仰せになる。彼が悪から立ち帰って生きることを喜ばないだろうか。お前たちが犯した全ての背きを投げ捨てて新しい心と霊を造り出せ。どうしてお前たちは死んでよいだろうか。お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」。

エフェソ4章の後半では、「神にかたどって造られた新しい人」として生きるために、「怒ることはあっても罪を犯してはならない」「日が暮れるまで怒ったままではいけない」「悪い言葉を一切口にしない」「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどの全てを、一切の悪意とともに捨てる」等を勧めている。

(注)別エントリー「試論:『怒ってはならない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10341

主はマタイ5章22節で「怒ってはならない」と仰せになった。ヤコブ1章20節は「人の怒りは神の義を実現しない」と記し、同19節は「だれでも聞くのに早く、話すのに遅く、怒るのに遅いようにしなさい」2章13節では「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下される」と警告している。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

主イエスはマタイ7章22節以下で、神が人々に求めておられるのは預言でも奇跡でも悪霊を追い出すことでもなく、ただ悪を行わないことだと示唆された。ヨセフは1章19節で義人と呼ばれるが、25章の最後の審判では義人は隣人の困り事に親身に対応する無私の人そして永遠の命を確約された人を指す。

箴言28章14節は「いつも気を配っている者は幸いであるが、周囲に厳しい者は苦難に陥る」と記し、神に対しても隣人に対してもどんな物事に対しても注意深く慎重に接する人はそうそう困難に遭うことはないが、万事に頑固で当たりの強い者はそれだけ様々な面倒事に巻き込まれ易いものだと説いている。

「神は高慢な者を敵とする」と聖書は随所(箴言3章34節等)で教える。ただし高慢な人の破滅を準備するのは、実は高慢な人自身である。高慢な人は周囲を侮り、眼中にないかのように配慮もなく、高慢な人の態度を嫌った周囲の人々は高慢な人が窮地に陥っても援助や協力の手を差し延べようとはしない。

創世記4章は、弟を殺しておきながら、「あなたが御顔を隠されたら」(14節)つまり神の庇護が失われれば自分は誰かに殺されてしまうと神に頼み込むカインの姿が描かれる。「わたしは弟の番人でしょうか」(9節)と憎まれ口を神に叩いておいてこの身勝手振りで、彼は自分自身にしか興味がなかった。

旧約聖書第二正典の知恵の書は10章1節以下で、アダムは過ちを犯したが知恵に救われたとする一方、続く3節ではカインが滅び去ったと記す。一ヨハネ5章16節以下は死に至る罪(大罪)と死に至らない罪(小罪)との区別を説くが、カインは知恵と表裏一体である分別(箴言4章5節)とは無縁だった。

ヨハネ1章14節は神の御独り子が恵みと真理に満ちて人間となられたことを記すが、ヤコブ4章6節と一ペトロ5章5節はともに「神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みをお与えになる」と強調し、ルカ1章は「わたしは主のはしため」とへりくだった女性こそが御独り子の母となったことを特筆する。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7795

(注)別エントリー「試論:『イエスとマリアの関係』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7725

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

試論:「わたしの軛」???を140文字以内で

主イエスはマタイ11章30節で「わたしの軛(くびき)は負いやすい」と表現された。エレミヤ5章4節以下や同2章20節では「主の道、神の掟」を「軛」や「手綱(綱)」に喩える。モーセの律法に比べ、「キリストの律法」(マタイ7章12節)は一見すると驚くほど表現は簡潔だが、しかし奥が深い。

(注)別エントリー「試論:『わたしの荷は軽い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6870

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

【追記】

一ヨハネ5章3節は「神の掟は荷が重くない」と記し、主イエスはマタイ11章30節で「わたしの荷は軽い」と仰せになった。「わたしの荷」すなわち《キリストの律法》(マタイ7章12節:他人からしてもらいたいと思うことを全て他人にしなさい)は、モーセの律法に比べると驚くほど単純だが奥深い。

(注)別エントリー「試論:『愛の掟は荷が重くない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13558

高慢な悪人の末路

主イエスはマタイ7章26節で、御自分の御教え(御言葉)を聞くだけで行おうとしない人々を、砂上に家を建てる愚か者にたとえられた。箴言14章9節は〔主の御言葉を聞くだけで行わない〕愚かで高慢な人々は全てにおいて他人に責任転嫁するため、仲間割れして互いになじり合い共倒れに終わると説く。

一コリント6章10節「他人を悪く言う者は決して神の国を受け継ぐことができない」エフェソ4章31節「無慈悲、憤り、怒り、喚き、誹り等の全てを、全ての悪意と共に捨てなさい」一ペトロ2章1節「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口を全て捨てなさい」レビ19章17節「心の中で憎んではならない」。

(注)別エントリー「レビ記19章17節:理由のない悪意」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4826

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

レビ19章18節は「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」17節は「心の中で兄弟を憎んではならない」ゼカリヤ7章9節は「互いにいたわり合い憐れみ深くありなさい」10節は「互いに災いを心にたくらんではならない」と教える。「心の中で憎む」とは相手の不幸を心の中で望むことを意味する。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1982

「愛の反対は無関心」という言葉は、これを聞き「善きサマリア人の話」(ルカ10章)や「最後の審判」(マタイ25章)をすぐ連想できる人にとっては、キリスト教的な意味を持つ。しかし、これらの箇所に思い至らず、それどころか福音書のどんなエピソードも浮かばない人にとっては、混乱の元となる。

(注)別エントリー「試論:『善きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

一ヨハネ4章は、信者を自称しながら世間の事柄ばかり話題にして主イエスの福音の中身に関して頑に触れようとせず沈黙する人々を、「偽預言者」「反キリストの霊」などと呼ぶ。2章19節は「彼らはわたしたちから去って行った」「元々仲間ではなかった」「仲間ならとどまっていた」とその末路を記す。

(注)別エントリー「試論:『愛している者なら』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9220

(注)別エントリー「試論:『主の御言葉の権威』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9025

二ペトロ2章は「偽教師」への警戒を呼びかける。彼らは「滅びをもたらす異端を持ち込み、主を拒む」(1節)、「欲が深く虚言で人々を食い物にする」(3節)、「厚かましく、わがまま」(10節)「昼間から歓楽にふけるのを愉しみとする」(13節)「無意味な大言壮語」(18節)等の特徴を持つ。

(注)別エントリー「試論:主イエスと旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7462

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4783

(注)別エントリー「試論:神の国の到来と『主の日』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5578

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の意義を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9840

(注)別エントリー「試論:携挙がない理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4703

(注)別エントリー「試論:『携挙』の否定を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6277

(注)別エントリー「試論:有人気球と『空中』の拡大を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10279

一ヨハネ4章2節とヨハネ1章14節を照合すると「惑わす霊」の特徴は、主イエスが公生活中に仰せになった「主の御言葉」の内容(掟や戒め)に頑として触れようとしない点で、キリスト不在のキリスト教と呼ぶべきものへと信仰を換骨奪胎し、信者を福音書の主の御言葉から遠ざけることこそ目的である。

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)である神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8969

主はルカ6章46節で「あなたたちはわたしのことを『主よ、主よ』と呼んでおきながらどうしてわたしの言うことを行わないのか」と仰せになった。さらに次節以下では「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞きながら聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている」とお教えになった。

ダニエル9章24節はメシアに関して預言の時代を封印する存在だと預言し、ルカ21章22節で主イエスは旧約聖書の全預言が(紀元七〇年の)エルサレム滅亡で成就すると仰せになった。故に現代や近未来の国際情勢と旧約聖書の預言は無関係で、関係ありとする強弁は、キリスト教の範疇を逸脱している。

ルカ17章34節から35節で主は「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」と繰り返されたが、では一体どこに「連れて行かれ」るのかを、ルカ21章24節では「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と御説明された。これは大昔モーセがレビ記26章33節以下で預言していた話と同じである。

紀元七〇年のエルサレム滅亡時にローマ軍へ投降したユダヤ人のうち、使徒言行録22章のパウロのようにローマの市民権を持つ者はローマ法の保護下にあるため留め置かれたが、そうでない者は妻子と共に奴隷とされて売り飛ばされた。こうして「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」は現実となった。

プロテスタントの文語訳聖書『改訳 新約聖書』(1917年)はルカ21章23節を「地(ち)には大(おほひ)なる艱難(なやみ)ありて、御怒(みいかり)この民(たみ)に臨(のぞ)み」と訳し、ある人々がいわゆる「大艱難時代」と呼ぶ時期とは実は紀元七〇年の滅亡の前後に他ならないと示唆する。

主はルカ21章23節でエルサレム滅亡とその前後のユダヤの苦難を予告されたが、『改訳 新約聖書』(1917年)では「大なる艱難」と日本語訳する。一世紀後半のユダヤの歴史家ヨセフスの記述通り、紀元六六年の大反乱の勃発から七三年のマサダ陥落までの七年間に、ユダヤは惨劇の連続を経験した。

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

ダニエル9章24節はメシアに関して預言の時代を封印する存在だと預言し、主イエスはルカ21章22節で旧約聖書の全預言が(紀元七〇年の)エルサレム滅亡で成就すると仰せになった。故に現代や近未来の国際情勢と旧約聖書の預言とは無関係で、関係ありとする解釈は主の仰せとは明確に相反している。

(注)別エントリー「試論:神の国の到来と『主の日』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5578

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

主はマタイ5章22節で「怒ってはならない」と仰せになった。ヤコブ1章20節は「人の怒りは神の義を実現しない」と記し、同19節は「だれでも聞くのに早く、話すのに遅く、怒るのに遅いようにしなさい」2章13節では「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下される」と警告している。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

箴言28章14節は「いつも気を配っている者は幸いであるが、周囲に厳しい者は苦難に陥る」と記し、神に対しても隣人に対してもどんな物事に対しても注意深く慎重に接する人はそうそう困難に遭うことはないが、万事に頑固で当たりの強い者はそれだけ様々な面倒事に巻き込まれ易いものだと説いている。

「神は高慢な者を敵とする」と聖書は随所(箴言3章34節等)で教える。ただし高慢な人の破滅を準備するのは、実は高慢な人自身である。高慢な人は周囲を侮り、眼中にないかのように配慮もなく、高慢な人の態度を嫌った周囲の人々は高慢な人が窮地に陥っても援助や協力の手を差し延べようとはしない。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『永遠の命の言葉を持つ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11244

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

天の御父から全てを任せられた主イエス

主はマタイ11章27節で、全てのことは御父から御自分に任せられていると仰せになった。これは、既にダニエル7章13節以下で啓示された事柄であり、マタイ28章18節やルカ10章22節やヨハネ3章35節や同13章3節等、福音書では事ある毎に強調される「真理(ヨハネ14章6節)」である。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書のアレテイアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15430

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

キリスト教の「三位一体」を論じる際に最も忘れてはならない重要な事柄がある。それは《御子は御父の生き写しであり、御子は御父に少しも劣るところなどない存在である》。ヨハネ14章9節「わたしを見た者は御父を見ていたのである」同11節「わたしは御父の内にあり御父はわたしの内におられる」。

ヨハネ14章8節のフィリポの言葉「主よ、わたしたちに御父をお示しください」に対しコロサイ1章15節では「御子は、見えない神の姿」と表現した。「見えない神」とは御父であり「姿」とは《生き写し》というニュアンスをも含んでいる。ヘブライ1章3節は「神の本性の完全な具現」などと表現した。

ヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」の意味を使徒言行録4章32節は「心も思いも一つ」「持ち物を自分だけのものと主張せず共有している」と説明する。従って、御父の持ち物は御子の持ち物でもあり逆もまた然りである。ヨハネ16章15節「父が持っておられるものは全てわたしのものである」。

一ヨハネ5章は20節で「神の御子が来られ、私たちに真理である方を知る力を与えられました。私たちは真理である方の内に、またその御子イエス・キリストの内にいるのです」と記し、「この方こそ真理である神、永遠の命」と続け、御父と御子と聖霊(6節)の御三方を「真理」と呼び、唯一の神とする。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

(注)別エントリー「試論:『御子に全て委ねられた』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7629

ヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」の意味を使徒言行録4章32節は「心も思いも一つ」「持ち物を自分だけのものと主張せず共有している」と説明する。従って、御父の持ち物は御子の持ち物でもあり逆もまた然りである。ヨハネ10章38節「わたしは父の内にあり、父はわたしの内におられる」。

主はヨハネ10章30節で「わたしと父とは一つ」と仰せになった後、17章では弟子たちのために天を仰いで祈られたが、それは御父と御自分が「一つ」であるように、弟子たちもまた「一つ」となるためであった(11節、21節〜23節)。使徒言行録4章32節「信じた人々の群れは心も思いも一つ」。

ニケア・コンスタンチノープル信条「父と一体」はヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」と38節に拠り、御父と御子の間には矛盾・対立・齟齬の類は一切ないことを表す。ギリシア神話では最高神ゼウスと父クロノス、クロノスと父ウーラノスの父子相剋が存在するが、キリスト教には全く存在しない。

《御父である神、主》と《御子である神、主イエス》とは、詩編110編1節では御父は「主」、御子は「わが主」でありマタイ22章44節で御父は「主」、御子はダビデの言う「わたしの主」である。ヨハネ1章1節では御父は「神」、御子は「言(ことば)」であり、「言は神であった」と記されている。

(注)別エントリー「試論:「わたしの主」は誰?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7536

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは道」と仰せになり、「わたしを通らなければ、誰であれ御父には到達できない」と続けられた。パウロはエフェソ2章14節でユダヤ人と異邦人をこの点において隔てる壁はないと記し、ローマ10章12節でも「ユダヤ人とギリシア人の区別はない」と明言している。

「道」とは全ての人が生きる上で辿るべき道筋(道理・規範)でイエスがその模範であること、「真理」とは人が信仰・礼拝すべき三位一体の唯一の神を指し御父・御子・聖霊の間に矛盾がないこと、「命」とは幸福・安堵・充足等の人を生かすものの全てで人間にそれを授ける源は唯一の神ということを指す。

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9949

主イエスの御前でユダヤ人と異邦人の「区別」が存在しないことはエフェソ2章14節以下、使徒言行録15章9節「わたしたちと彼らの間に何の差別もなさいません」、ローマ3章29節「神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもあります」、一コリント12章13節、ガラテヤ3章28節以下等。

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは道」と仰せになり、「わたしを通らなければ、誰であれ御父には到達できない」と続けられ、また御昇天前にマタイ28章19節で「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じられた。パウロもローマ10章12節で「ユダヤ人とギリシア人の区別はない」と説く。

(注)別エントリー「試論:『イエスは全人類の模範』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5948

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7818

主が「わたしは道」(ヨハネ14章6節)と仰せになる場合、自身が御父へ通じる唯一無二の存在であると示唆するだけではなく、日本語の「人としての道から外れる」と同様に、誰もがそこを通って進んで行くべき人間としての道筋つまり御父である神の御前における模範(同13章15節)の意味をも含む。

わたしは剣をもたらす??

古代のイスラエル人は《鋭く人間に迫り心に刺さる言葉〔の力〕》を「剣」にたとえた(詩編55編22(21)節等)。この比喩を踏まえ、主イエスも「剣をもたらすために来た」(マタイ10章34節)と仰せになり、ルカ2章35節でも母マリアにシメオンが、この比喩を用いて御受難について預言した。

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

黙示録19章の白馬の騎手は「真実」(11節。ヨハネ3章33節参照)と呼ばれ、剣で戦われるが、この剣は口から放たれる(黙示録19章15節、同1章16節)。相手に鋭く迫り心に刺さる言葉をヘブライ人は剣に喩えた(詩編55編、ルカ2章35節)。マタイ10章34節「わたしは剣をもたらす」。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ3章の『真実』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16193

ヨハネ3章33節は主イエスを「真実(=真理である方)」と呼び、黙示録3章14節は主イエスを「アーメンである方」「誠実」「真実」等と呼ぶ。黙示録では19章11節の「白馬の騎手」が「誠実」「真実」と呼ばれ、同章13節は「神の御言葉」16節は「王の王、主の主」と、「白馬の騎手」を呼ぶ。

(注)別エントリー「試論:『アーメン』と『まこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16228

イザヤ49章2節はイエス・キリストを彷彿とさせる「主の僕(しもべ)」の姿に関し、「わたしの口を鋭い剣として」と預言し、50章4節ではさらに、「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え言葉を呼び覚ましてくださる」と続け、この「主の僕」が語る言葉を「鋭い剣」にたとえて預言をしている。

(注)別エントリー「試論:イザヤの預言と主の御受難を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6322

黙示録1章16節に「口から出る鋭い剣」という記述がある。一世紀後半のユダヤ人キリスト教徒は即座にイザヤ49章2節の類似の記述を連想し、「剣」が「言葉」(イザヤ50章4節)の比喩であると思い至ったはずである。安息日ごとに会堂で、必ずいずれかの預言書が朗読されることが定められていた。

主はマタイ10章34節で自分は剣をもたらすために来たと仰せになったが、剣は詩編55編22(21)節では「鋭く人間に迫り心に突き刺さる言葉」の比喩である。57編5(4)節や59編8(7)節も同様の比喩を用い、エフェソ6章17節では神の御言葉それ自体を「〔聖〕霊の剣」にたとえている。

(注)別エントリー「試論:『御言葉は剣(つるぎ)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6245

主はマタイ10章34節で、自分は「剣(つるぎ)」を投ずるために来たと仰せになった。剣とは分断(ルカ12章51節)を行う象徴で、この「分断」の究極の意味はマタイ25章32節以下で説明されている。剣を用いた争い事を主が奨励されたわけではないことは同26章52節の御言葉から当然である。

古代のヘブライ人は《鋭く人間に迫り心に突き刺さる言葉》を「剣」にたとえた(ルカ2章35節等)。ならば当然、黙示録1章7節「彼を突き刺した者ども」は、実際には、「彼に激越な言葉を浴びせ情け容赦ない悪口で攻撃した者ども」を意味する。同節「地」はエゼキエル7章2節「地」とは同様である。

主は「火」「剣」を人々にもたらすと仰せになったが、両者とも御言葉の比喩である。御言葉は心を燃やし(ルカ24章32節)心に刺さる(詩編55編22(21)節等参照。エフェソ6章17節)。黙示録も1章16節等で御言葉を剣に喩え11章5節では御言葉を火に喩えた(エレミヤ5章14節参照)。

(注)別エントリー「試論:『わたしは地上に火を〜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6048

試論:「神の義」と「永遠の命」を140文字以内で

主イエスは「神の義に飢え渇く人は幸いである。その人は満たされる」と仰せになったがルカ10章では、自分を《義化》(29節)しようとして踏み込んだ質問をした律法学者に対し、憐れみの心(33節)と《神の義》と隣人愛(27節)と永遠の命(25節)は全て事実上重なっているとお教えになった。

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4544

【追記】

主イエスはマタイ6章31節以下で日頃の衣食について過度に頭を悩ませることを戒め、少しでも神の国と神の義について思いを馳せるように勧められた。主は7章9節以下で同じ議論に戻られ、神の義とは「自分が他の人からしてもらいたいことなら全て、自分から他の人にする」ことであると、強調された。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

主はマタイ6章33節で「まず神の国と神の義を求めよ」と仰せになった。神の国に入るためには「神の義」を自分のものとする必要があり、その比喩として「門」(同7章、詩編118編19節参照)や「礼服」(マタイ22章、詩編132編9節参照)と表現され、旧約の民が熟知する詩編に、言及された。

(注)別エントリー「試論:『神の義』『門』『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10465

マタイ6章34節「その日の苦労はその日だけで十分」は有名である。ただし「苦労」と日本語訳されるギリシア語には「悪」「災難」の意味合いがあり、全てを失った放蕩息子が回心し父親の許への帰郷を思い立ったのと同様に、主は第一に「神の国と神の義」(33節)への回帰(回心)をお勧めになった。

マタイ1章19節は、主の養父ヨセフをディカイオス(義人、正しい人)と呼ぶが、25章「最後の審判」の箇所では、ディカイオス(37節、46節)は「永遠の命にあずかる」(46節)人を意味している。つまり、「神の義」を身に着けることこそが、「永遠の命にあずかる」ことを約束するものである。

(注)別エントリー「試論:『神の義』と詩編を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6798

神の霊つまり聖霊が人間に賜るものをガラテヤ5章は愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制と説く。主はマタイ6章33節で「神の義」を求めよと仰せになり、同22章でそれを「礼服」にたとえられる。コロサイ3章では、着るべきものとは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛と説く。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

マタイ6章33節で主は「まず神の国と神の義を求めよ」と仰せになり、同22章では、神の国で神の御前に立つために不可欠な「神の義」を「礼服」にたとえられた。他方ヤコブ1章20節は、「人の怒りは神の義を実現しない」と説く。怒りっぽい人が神の国に入って主の御前に立つことは至難の業である。

マタイ5章7節「憐れみ深い人は幸いである。その人は憐れみを受ける」はヨハネ13章「わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい」同14章「わたしを愛する人はわたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、御父とわたしはその人のところに行って一緒に住む」等と同じことである。

レビ19章18節「あなたは自分自身を愛するように、他の人を愛さなければならない」マタイ7章12節「あなたは、他の人からしてもらいたいと思うことならどんなことでも、あなたから他の人にしなさい」ヨハネ13章34節「わたしがあなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合いなさい」。

試論:「人の子は来る」??を140文字以内で

主はマタイ10章23節で「人の子は来る」と仰せになり、「人の子の日」(ルカ17章22節)に言及されたが、黙示録6章17節は「神と小羊の怒りの大いなる日」と表現し、これらの啓示は紀元七〇年のエルサレム滅亡で実現した。支配者たちはイザヤ2章と黙示録6章の通り、洞穴からの逃亡を企てた。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888

(注)別エントリー「主の御降誕と古代イスラエルにおける洞穴」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4351

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7514

【追記】

黙示録7章16節はイザヤ49章10節を踏襲することで洗礼者が言及した(ヨハネ1章)

「〔神の〕小羊」

とイザヤ書の

「主の僕(しもべ)」

が同一人物であると再確認させ、

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために来た」
(マタイ20章28節、マルコ10章45節)

という事柄をも再確認させる。

主イエスはヨハネ21章で「わたしの来る時まで彼(ヨハネ)が生きていることをわたしが望んだとしても、あなた(ペトロ)に何の関係があるか」と仰せになった。「主の日」つまり主の来臨としての都の滅亡が紀元七〇年が実現した際、ペトロも二人のヤコブも既に殉教していたがヨハネは生き残っていた。

(注)別エントリー「エルサレムの婦人たちへの伝言」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15741

主はルカ17章30節で「人の子が現れる日」に言及された。これは黙示録6章17節「神と小羊の怒りの大いなる日」と同じで「神」は御父である神、「人の子」「小羊」は主イエス・キリストである。「はげ鷹」ローマ帝国は繁栄の都エルサレムと神殿を、神の介在を疑い得ないほどに跡形もなく滅ぼした。

主はマタイ10章7節で「天の国が近づいた」と告げるよう仰せになったが、これと別に23節で「人の子」が来る日をほのめかされた。これはルカ17章22節「人の子の日」や黙示録6章17節「神と小羊の怒りの大いなる日」を指し、マタイ24章33節の通り、人々は悲惨な諸事件から主の来臨を悟る。

出エジプト記24章にモーセの一行が「神を見た」とあるが、神の御姿を実際に見たわけではなくその「足台」(「サファイアの敷石のようなもの」)を見たことによって、その上に必ずおられるはずの神を「見た」わけである。また同様に、雲や火や煙、雷鳴や稲妻、角笛の音なども神の現存を象徴していた。

主はルカ21章20節以下で(紀元七〇年の)エルサレム滅亡及びその前後にユダヤを襲う「大いなる艱難」(23節)を予告された。また「異邦人の庭」(黙示録11章2節)を持つエルサレム神殿がまだ存在する時期に黙示録の内容を啓示され、エルサレム滅亡後も教会は存続すると希望をお与えになった。

主はルカ17章20節で「神の国は見える形では来ない」22節で「人の子の日を弟子たちが見ることはない」と仰せになったが、アモス5章18節では「主の日を待ち望む者は災いだ。主の日は闇であって光ではない」と預言しており、「神の国の到来」と「主の日」とを混同すべきではないと、理解できる。

主はルカ17章34節で「一人は連れて行かれ、もう一人は残される」21章24節で「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と仰せになった。紀元七〇年のエルサレム滅亡の際、ユダヤ人はローマ市民権の有無によって運命が大きく分かれ、奴隷にされた者たちはローマ帝国の各地へと売られて行った。

ルカ17章34節から35節で主は「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」と繰り返されたが、では一体どこに「連れて行かれ」るのかを、ルカ21章24節では「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と御説明された。これは大昔モーセがレビ記26章33節以下で預言していた話と同じである。

紀元七〇年のエルサレム滅亡時にローマ軍へ投降したユダヤ人のうち、使徒言行録22章のパウロのようにローマの市民権を持つ者はローマ法の保護下にあるため留め置かれたが、そうでない者は妻子と共に奴隷とされて売り飛ばされた。こうして「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」は現実となった。

プロテスタントの文語訳聖書『改訳 新約聖書』(1917年)はルカ21章23節を「地(ち)には大(おほひ)なる艱難(なやみ)ありて、御怒(みいかり)この民(たみ)に臨(のぞ)み」と訳し、ある人々がいわゆる「大艱難時代」と呼ぶ時期とは実は紀元七〇年の滅亡の前後に他ならないと示唆する。

主はルカ21章23節でエルサレム滅亡とその前後のユダヤの苦難を予告されたが、『改訳 新約聖書』(1917年)では「大なる艱難」と日本語訳する。一世紀後半のユダヤの歴史家ヨセフスの記述通り、紀元六六年の大反乱の勃発から七三年のマサダ陥落までの七年間に、ユダヤは惨劇の連続を経験した。

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の意義を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9840

ダニエル9章24節はメシアに関して預言の時代を封印する存在だと預言し、主イエスはルカ21章22節で旧約聖書の全預言が(紀元七〇年の)エルサレム滅亡で成就すると仰せになった。故に現代や近未来の国際情勢と旧約聖書の預言とは無関係で、関係ありとする解釈は主の仰せとは明確に相反している。

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

(注)別エントリー「イエス・キリストと天の雲」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/684

(注)別エントリー「試論:福音書と『西遊記』の違いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5760

申命記28章49節でモーセは、将来イスラエルの民を滅ぼす国民の象徴となる動物を預言した。ルカ17章37節のギリシア語本文も、古代のギリシア語訳申命記と同じ単語を用いている。それはローマの国章と同じ動物で、ヨハネ11章48節で「ローマ人」という表現が登場する、根拠の一つでもあった。

ダニエル9章24節はメシアに関して預言の時代を封印する存在だと預言し、主イエスはルカ21章22節で旧約聖書の全預言が(紀元七〇年の)エルサレム滅亡で成就すると仰せになった。故に現代や近未来の国際情勢と旧約聖書の預言は無関係で、関係ありとする強弁は、キリスト教の範疇を逸脱している。

ルカ21章20節以下で主は、「敵が都を包囲しようとする時は籠城すべきでなく都を離れよ」と警告された。約四十年後、ローマ軍が迫る都では「預言者」たちが、「神が都を救われるから都で待て」と説いたが、神の介入はなく都は滅亡した。この「預言者」たちの虚言を歴史家ヨセフスが書き残している。

(注)別エントリー「試論:黙示録18章を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5394

(注)別エントリー「試論:黙示録16章を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5086

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1699

試論:出エジプト4章のツィポラを140文字以内で

主はモーセに指導者としての大きな使命を託されたがイスラエルの指導者の息子が無割礼のままでいることはあり得なかった(創世記17章)。ツィポラは息子に割礼を授けて夫モーセに対する主の信頼を回復させ夫をエジプトに送り出す一方、自身は息子たちと共に故郷へ帰った(出エジプト18章を参照)。

【追記】

モーセはミディアンにいる間、息子たちの割礼について舅エトロの同意を得られずに無割礼のままとしていたが、モーセがエジプトに戻ってイスラエル人の指導者となるつもりならば、これは放置できない問題だった。主が夫に大きな不満を抱くとしたら原因はそれだとツィポラは直ちに察知し解決へと動いた。

試論:「わたしを通らなければ」を140文字以内で

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは道」と仰せになり、「わたしを通らなければ、誰であれ御父には到達できない」と続けられた。パウロはエフェソ2章14節でユダヤ人と異邦人をこの点において隔てる壁はないと記し、ローマ10章12節でも「ユダヤ人とギリシア人の区別はない」と明言している。

【追記】

主イエスの御前でユダヤ人と異邦人の「区別」が存在しないことはエフェソ2章14節以下、使徒言行録15章9節「わたしたちと彼らの間に何の差別もなさいません」、ローマ3章29節「神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもあります」、一コリント12章13節、ガラテヤ3章28節以下等。

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは道」と仰せになり、「わたしを通らなければ、誰であれ御父には到達できない」と続けられ、また御昇天前にマタイ28章19節で「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じられた。パウロもローマ10章12節で「ユダヤ人とギリシア人の区別はない」と説く。

(注)別エントリー「試論:『イエスは全人類の模範』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5948

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7818

主が「わたしは道」(ヨハネ14章6節)と仰せになる場合、自身が御父へ通じる唯一無二の存在であると示唆するだけではなく、日本語の「人としての道から外れる」と同様に、誰もがそこを通って進んで行くべき人間としての道筋つまり御父である神の御前における模範(同13章15節)の意味をも含む。

主はヨハネ10章30節で「わたしと父とは一つ」と仰せになった後、17章では弟子たちのために天を仰いで祈られたが、それは御父と御自分が「一つ」であるように、弟子たちもまた「一つ」となるためであった(11節、21節〜23節)。使徒言行録4章32節「信じた人々の群れは心も思いも一つ」。

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

ニケア・コンスタンチノープル信条「父と一体」はヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」と38節に拠り、御父と御子の間には矛盾・対立・齟齬の類は一切ないことを表す。ギリシア神話では最高神ゼウスと父クロノス、クロノスと父ウーラノスの父子相剋が存在するが、キリスト教には全く存在しない。

主はマタイ11章27節で、全てのことは御父から御自分に任せられていると仰せになった。これは、既にダニエル7章13節以下で啓示された事柄であり、マタイ28章18節やルカ10章22節やヨハネ3章35節や同13章3節等、福音書では事ある毎に強調される「真理(ヨハネ14章6節)」である。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

(注)別エントリー「試論:『御父と御子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7544

試論:「主の弟子としての証明」を140文字以内で

主イエスはマタイ7章22節以下で、預言や悪霊を追い出すことや奇跡よりも、悪を行わないことこそが重要で御自分の弟子である証明だと教えられた。イスカリオテのユダは汚れた霊を追い出す権能と病気を癒す力を使徒として与えられたが(マタイ10章)、献金を盗んでいたためサタンが彼の中に入った。

(注)別エントリー「試論:『献金泥棒』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11983

【追記】

主イエスはマタイ10章で十二人をお選びになり、「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いを癒す権能」を授けられた。マルコ3章14節は「十二人」選抜の目的を御自分の傍に置くためと記す。その一人は泥棒(ヨハネ12章6節)となり、銀貨三十枚(マタイ26章15節)で、自分の師を売り渡した。

(注)別エントリー「試論:『預言や奇跡よりも』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16157

(注)別エントリー「試論:『無償で与えなさい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16019

パウロは一コリント13章で愛こそ諸徳の中で最上のものと説くが、ローマ13章10節では愛は隣人に悪を行わないと説く。これは主イエスがマタイ7章22節以下で仰せになった内容(たとえ預言や奇跡や悪霊を追い出すこと等を行おうとも、悪を行わないことを疎かにするなら無意味)と完全に合致する。

主イエスはマタイ7章22節以下で、神が人々に求めておられるのは預言でも奇跡でも悪霊を追い出すことでもなく、ただ悪を行わないことだと示唆された。ヨセフは1章19節で義人と呼ばれるが、25章の最後の審判では義人は隣人の困り事に親身に対応する無私の人そして永遠の命を確約された人を指す。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

主イエスはマタイ7章22節以下で、預言や奇跡や悪霊を追い出すことよりも、悪を行わないことが重要であり唯一それが御自分の弟子としての証明であると仰せになった。これを踏まえてパウロはローマ13章10節で「愛とは悪を行わないこと」と明確に定義し、一コリント13章では愛の重要性を説いた。

詩編12(11)編においてダビデは、隣人に嘘をついたり隣人を早口で欺いたり言行不一致状態だったりする人々ばかりの風潮を、「信仰のある人は消え去りました」(12編2節、新共同訳)と表す。ここで「信仰」と訳されるヘブライ語を、古代のギリシア語訳聖書はアレテイア(真理、まこと)と訳す。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

ヨハネ福音書は「信仰」を表現する際、他の福音書が用いるピスティスという語を用いず代わりにアレテイア(真理、まこと)という語を多用する。ヨハネにとって信仰とは、人の真心に対し真心で応じられる神なる主に向かって嘘偽りや裏表のない態度で接することに他ならず、これは当時の共通認識だった。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書のアレテイアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15430

主イエスはヨハネ14章6節で「真理」を自称されたが、プロテスタントの「改訳 新約聖書』(1917年)は「まこと」と平仮名を振り、旧約聖書で「まこと」と訳される語との関連を示唆する。嘘偽りや裏表がないこと、上っ面だけでなく内実を伴うこと、真心には真心で返されること等を意味している。

(注)別エントリー「試論:まこと(真、実、信、誠)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16274

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書の『信じる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16417

試論:「口の利けない人の治癒」を140文字以内で

主イエスはマタイ9章33節で口の利けない人を完治させたがイザヤ35章6節の預言によれば、それは目の見えない人の治癒(同5節)と共にメシア到来の徴だった。この徴を認めたくない人は「悪霊のかしらの力で悪霊を追い出している」と難癖を付けたが、これを主は「ベルゼブル論争」にて否定された。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888

【追記】

主はマタイ12章32節で、御自分のことを単に人間的な事柄で嘲る人の悪口(同11章19節「大食漢で大酒呑み、徴税人や罪人の仲間」)は許容範囲内だが、神の霊つまり聖霊によって悪霊を追い出した事実を「ベルゼブルによって悪霊を追い出した」と咎めることは絶対に許容されないと、仰せになった。

主イエスは「ベルゼブル論争」の際、マタイ12章28節では神の霊すなわち聖霊によって悪霊を追い出したと仰せになったが、ルカ11章20節では「神の指によって」と表現されている。「神の指」とは神の御力や御業を表す(出エジプト8章15節、同31章18節、申命記9章10節、詩編8編4節)。

(注)別エントリー「試論:『神の指』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15224

マタイ9章32節以下のいやしのエピソード以降、ファリサイ派の人々は「彼は悪霊のかしらの力で悪霊を追い出している」と主イエスを中傷し続けた。主はマタイ12章32節で、聖霊によって悪霊を追い出した事実を「ベルゼブルによって追い出した」と咎めることは絶対に許容されない、と仰せになった。

試論:「別れの挨拶」を140文字以内で

主イエスはマタイ9章で慢性出血の女性を治癒されたが「あなたの信仰があなたを救った」の後にマルコ5章34節では「安心して行きなさい」と続ける。これは《平和のうちに出発しなさい》というヘブライ人の別れの挨拶(サムエル上1章17節)で《あなたの願いは既に聞き入れられた》を示唆している。

(注)別エントリー「試論:『地には平和』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8769

【追記】

古代のヘブライ人にとって「平和」はあらゆる幸福の総称であり、「あなたに平和」はヘブライ人の挨拶の決まり文句だった。ルカ10章5節「この家に平和があるように」は、より長い形の挨拶(サムエル上25章6節)である。ヘブライ人は「平和に属する者」を言い表したい時に「平和の子」と表現した。

(注)別エントリー「試論:ルカ10章の『平和』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17745

主イエスはマルコ5章で、「十二年間も出血の止まらなかった女性」を癒された後、彼女に「安心して行きなさい」と仰せになった。これは列王記下5章19節等に登場する常套句で、ヘブライ語では全ての幸福の総称である「平和」という単語を含み「これからは幸せに暮らしなさい」を意味する表現である。

(注)別エントリー「試論:『平和を実現する人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6272

ルカ2章14節「地には平和」の「平和」は、福音書の時代のヘブライ人にとって単に戦争のない(終わった)状態を意味する以外にも、個々の健康や幸福・繁栄、人間関係の協調・一致や発展、社会や国家の安寧、暴動や反乱のない状態、心の(霊的な)安定など、物事が好転している状況の総称でもあった。

ルカ1章79節は「救い主」(2章11節)が「我らの歩みを平和の道に導く」と預言を記す。「平和」は古代のヘブライ人にとって物事が好転している状況の総称である。だが19章41節で主はエルサレムがその道を知らないことを嘆いて泣かれた。数日後の御自分の死よりも、そのことを嘆いて泣かれた。

主はヨハネ14章27節で「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と仰せになった。ではどうやって主は御自分の平和をお与えになったのか、パウロがコロサイ1章20節で「その十字架の血によって」と答えを記した。

(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7479

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

ガラテヤ5章22節は聖霊の賜物の一つに「平和」を挙げる。これは古代のヘブライ人にとっては戦争のない(終わった)状態を表す以外にも、人間関係の協調・一致・発展、個々の健康・幸福・繁栄、心の(霊的な)安定、暴動・反乱のない社会や国家の安寧など、物事が好転している状況の総称でもあった。

(注)別エントリー「試論:『心も思いも』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10376

試論:ルカ10章の「平和」を140文字以内で

古代のヘブライ人にとって「平和」はあらゆる幸福の総称であり、「あなたに平和」はヘブライ人の挨拶の決まり文句だった。ルカ10章5節「この家に平和があるように」は、より長い形の挨拶(サムエル上25章6節)である。ヘブライ人は「平和に属する者」を言い表したい時に「平和の子」と表現した。

(注)別エントリー「神の子らは人の娘たちを【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8636

【追記】

主イエスはルカ10章で、御自分の教えを受け容れることになる人々を「平和の子」とお呼びになった。イザヤ9章5(6)節ではメシアの称号の一つを「平和の君」と啓示し、またパウロはフィリピ4章9節で自分たちの神を「平和の神」と呼ぶが、ヘブライ人にとって「平和」は全ての幸福の総称でもある。

パウロは主イエスを何度も「平和の神」と呼んだ(一コリント14章33節、フィリピ4章9節、一テサロニケ5章23節等)。これはイザヤ9章5(6)節が、人間の「みどりご」として世に来られた神の御独り子を「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼んで預言したことを踏まえている。

ルカ10章6節「平和の子がそこにいるなら、あなたたちの願う平和は、その人にとどまる」と、マタイ10章13節「家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる」を比べると、「平和の子」とは、「平和〔の神の御教え〕を受け入れるにふさわしい人」だと分かる。

ガラテヤ5章22節は聖霊の賜物の一つに「平和」を挙げる。これは古代のヘブライ人にとっては戦争のない(終わった)状態を表す以外にも、人間関係の協調・一致・発展、個々の健康・幸福・繁栄、心の(霊的な)安定、暴動・反乱のない社会や国家の安寧など、物事が好転している状況の総称でもあった。

(注)別エントリー「試論:『地には平和』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8769

(注)別エントリー「試論:『平和を実現する人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6272

聖パウロのガラテヤ書5章によれば、聖霊が働いている徴は愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・節制(22節〜23節)であり、聖霊が不在である徴は姦淫・わいせつ・好色・偶像礼拝・魔術・敵意・争い・そねみ・怒り・利己心・不和・仲間争い・ねたみ・泥酔・酒宴(19節〜21節)などである。

主イエスはヨハネ16章33節で、お話しになった理由を「あなたたちがわたしによって、平和を得るため」と説明された。平和という表現で福音書の時代の人々は個々の健康や幸福・協調・一致や発展、社会や国家の安寧、暴動や反乱のない状態、心の(霊的な)安定など物事が好転している状況を総称した。

一コリント12章以下でパウロは霊的な賜物に関し論じた。14章33節は「神は混乱(無秩序)の神ではなく協調(平和)の神」と説き、集会中の発言は順番(27節、40節)になされるべきで複数人が別々の事柄を同時並行で語ることを禁じ(30節)、それは「主の命令」(38節)であると厳命した。

試論:「人間の罪悪は神の重荷」を140文字以内で

イザヤ43章24節「あなたの罪がわたしを苦しめ、あなたの悪がわたしの重荷となる」59章2節「あなたの悪が神とあなたの間を隔て、あなたの罪が神の御顔を隠させあなたに耳を傾けるのを妨げる」ホセア6章6節「わたしが求めるのは神を知ることや憐れみで、焼き尽くす献げ物やいけにえではない」。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

【追記】

主イエスはマタイ福音書で二度(9章13節、12章7節)、ホセア6章6節「わたしが喜ぶのは憐れみであっていけにえではない」を引用され、隣人への敬意を欠いた者による尊敬など神に受け入れられぬと教えられた。22章で律法の最も重要な掟の第一を神への愛、第二を隣人愛とされたことと符合する。

(注)別エントリー「試論:『神がお喜びになる事柄』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17729

箴言12章28節「憐れみの道にこそ命がある。この道を行く人に死はない」ルカ6章35節以下「敵に親切にし、善を行い、何も当てにせず貸しなさい。そうすれば、あなたたちはいと高き方であられる天の御父の子となり、大きな報いを受ける。あなたたちも天の御父のように憐れみ深い者になりなさい」。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

主はヨハネ14章6節で「わたしは命である」と仰せになり、これは生きていく上で最も重要かつ不可欠な事柄を「命」と呼ぶヘブライ人の観念(レビ17章14節「全ての生物の命は、その血」)に基づいてはいるが、同様の観念は現代の日本人の中にも当然ある(例:「ギタリストにとってギターは命」)。

「道」とは全ての人が生きる上で辿るべき道筋(道理・規範)でイエスがその模範であること、「真理」とは人が信仰・礼拝すべき三位一体の唯一の神を指し御父・御子・聖霊の間に矛盾がないこと、「命」とは幸福・安堵・充足等の人を生かすものの全てで人間にそれを授ける源は唯一の神ということを指す。

申命記30章15節には「わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く」とある。この章で「命」は、「祝福」(1節)「幸い」(5節)「恵み」「実り」「繁栄」「喜び」(9節)等の総称で、20節は「あなたの神、主を愛し、御声を聞き、付き従いなさい。それこそあなたの命である」と説く。

箴言15章4節では赦しを与える言葉を命の木と記し、相手に安堵と幸福を与える言葉を「命」と表現した。創世記50章では父の死を機に復讐されるのではないかと恐れる兄たちに対し、ヨセフは赦しを再確認する言葉で安堵させた。ヨハネ6章68節は主イエスを「永遠の命の言葉を持つ」と表現している。

(注)別エントリー「試論:『主にとって赦しも癒し』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6013

マタイ25章34節「御父に祝福された人々よ、天地創造の時からあなたたちのために準備されていた王国を受け継ぎなさい」黙示録21章7節「勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ」ヘブライ6章12節「怠け者とならず信仰と忍耐によって、約束されたものを受け継ぐ人々に倣う者となってほしい」。

マルコ10章17節で主に金持ちの男が永遠の命を受け継ぐにはどうすればと尋ねた時、彼はそれが比較的容易な問題と考えていた。主はマタイ13章44節以下特に46節で、それを手に入れるためにはあらゆる努力を尽くす必要があると、「宝」「真珠」「持ち物を全て売り払う」等の表現で御説明された。

ルカ10章25節以下では、主イエスと一人の律法学者との対話を記し、「永遠の命」を受け継ぐために実行すべき事柄として「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい」とあり、主は「正しい答え」と仰せになった。

(注)別エントリー「試論:『善きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちは、自分が他の人からしてほしいことを、自分から他の人にしなさい」と《愛の掟》を教えられた。従って「愛の反対」は「他の人からしてほしくないことをあえて他の人に行うこと」そして「他の人からしてほしいことをあえて他の人には行わないこと」からなる。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

試論:神がお喜びになる事柄を140文字以内で

主イエスはマタイ福音書で二度(9章13節、12章7節)、ホセア6章6節「わたしが喜ぶのは憐れみであっていけにえではない」を引用され、隣人への敬意を欠いた者による尊敬など神に受け入れられぬと教えられた。22章で律法の最も重要な掟の第一を神への愛、第二を隣人愛とされたことと符合する。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

【追記】

ホセア6章6節は「わたしが求めるのは、憐れみであって『いけにえ』ではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」と記すが、これと関連して一ヨハネ2章3節は「知る」という表現の意味を《神の掟を守るという実体験を通して自分は神を知っているのだと自覚する》ことであると説明する。

(注)別エントリー「試論:『神を知ること』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5580

主イエスはマタイ7章21節で「わたしの天の父の御心を行う者だけが天の国に入る」と宣言され11節で「求める相手に良いものを与えることこそ天の父の御心」と仰せになった。天の父の御心とは、「あなたが他の人からしてもらいたいことならなんでも、あなたから他の人にしなさい」を行うことである。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』の意義を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17078

【問】主イエスは「自分が他人からしてもらいたいことはなんでも、あなたから他人にしなさい」を御自分の《律法》とされましたが、なぜですか?【答】主は「最後の晩餐」の折に《隣人愛》の掟を授けられましたが、弟子たちが「今更ですが、愛とは一体、何ですか」などと言い出さぬようにするためです。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

【問】一ペトロ2章9節「あなたたちは王の系統を引く祭司」の意味とは?【答】モーセの律法の祭司はいけにえや献げ物を神に献げますが、王であるキリストの弟子は一人一人がいけにえでなく憐れみの業(ホセア6章6節、ミカ6章8節)を神に献げる義務がある、という意味でキリストにおける祭司です。

(注)別エントリー「試論:憐れみ深い人が幸いの理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14898

(注)別エントリー「試論:ホセア6章の『神を知る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15271

試論:主イエスに興味がない人々を140文字以内で

主はヨハネ14章23節で、「わたしのことを愛している者なら、わたしの言葉を守るであろう。わたしの父はその人を愛され、父とわたしはその人のところへ行って一緒に住む」と教えられた。福音書の中の主の御言葉を気にも留めようとしないなら、本当は主を愛してなどいないと見なされても仕方がない。

(注)別エントリー「試論:『主の御言葉の権威』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9025

【追記】

一コリント4章8節でパウロはコリントの人々に、《あなた方は教会を意のままに統治して誇っているが、どうかキリスト教の本分「罪と死の支配からの自由」を心がけ永遠の命に至るために日々怠らぬように。それならわれわれも福音宣教が実を結んだと主に認められて永遠の命に至るのに》等と書き送った。

(注)別エントリー「試論:一コリント4章の『王様』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12752

主イエスをヨハネ1章1節は「言(ことば)」つまり《人々の前に御姿を現され御自ら御教えをお話しになる神》と呼ぶ。主イエスに従う人々にとって「神の御言葉」とは、まず何より主イエス御自身の仰せである。聖書やキリスト教に関して話題にしても肝心の主イエスの御教えを避ける人々は眉唾物である。

一ヨハネ4章は、信者を自称しながら世間の事柄ばかり話題にして主イエスの福音の中身に関して頑に触れようとせず沈黙する人々を、「偽預言者」「反キリストの霊」などと呼ぶ。2章19節は「彼らはわたしたちから去って行った」「元々仲間ではなかった」「仲間ならとどまっていた」とその末路を記す。

二ペトロ2章は「偽教師」への警戒を呼びかける。彼らは「滅びをもたらす異端を持ち込み、主を拒む」(1節)、「欲が深く虚言で人々を食い物にする」(3節)、「厚かましく、わがまま」(10節)「昼間から歓楽にふけるのを愉しみとする」(13節)「無意味な大言壮語」(18節)等の特徴を持つ。

(注)別エントリー「試論:主イエスと旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7462

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4783

(注)別エントリー「試論:神の国の到来と『主の日』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5578

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の意義を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9840

(注)別エントリー「試論:携挙がない理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4703

(注)別エントリー「試論:『携挙』の否定を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6277

(注)別エントリー「試論:有人気球と『空中』の拡大を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10279

一ヨハネ4章2節とヨハネ1章14節を照合すると「惑わす霊」の特徴は、主イエスが公生活中に仰せになった「主の御言葉」の内容(掟や戒め)に頑として触れようとしない点で、キリスト不在のキリスト教と呼ぶべきものへと信仰を換骨奪胎し、信者を福音書の主の御言葉から遠ざけることこそ目的である。

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)である神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8969

主はルカ6章46節で「あなたたちはわたしのことを『主よ、主よ』と呼んでおきながらどうしてわたしの言うことを行わないのか」と仰せになった。さらに次節以下では「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞きながら聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている」とお教えになった。

ダニエル9章24節はメシアに関して預言の時代を封印する存在だと預言し、ルカ21章22節で主イエスは旧約聖書の全預言が(紀元七〇年の)エルサレム滅亡で成就すると仰せになった。故に現代や近未来の国際情勢と旧約聖書の預言は無関係で、関係ありとする強弁は、キリスト教の範疇を逸脱している。

ルカ17章34節から35節で主は「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」と繰り返されたが、では一体どこに「連れて行かれ」るのかを、ルカ21章24節では「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と御説明された。これは大昔モーセがレビ記26章33節以下で預言していた話と同じである。

紀元七〇年のエルサレム滅亡時にローマ軍へ投降したユダヤ人のうち、使徒言行録22章のパウロのようにローマの市民権を持つ者はローマ法の保護下にあるため留め置かれたが、そうでない者は妻子と共に奴隷とされて売り飛ばされた。こうして「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」は現実となった。

プロテスタントの文語訳聖書『改訳 新約聖書』(1917年)はルカ21章23節を「地(ち)には大(おほひ)なる艱難(なやみ)ありて、御怒(みいかり)この民(たみ)に臨(のぞ)み」と訳し、ある人々がいわゆる「大艱難時代」と呼ぶ時期とは実は紀元七〇年の滅亡の前後に他ならないと示唆する。

主はルカ21章23節でエルサレム滅亡とその前後のユダヤの苦難を予告されたが、『改訳 新約聖書』(1917年)では「大なる艱難」と日本語訳する。一世紀後半のユダヤの歴史家ヨセフスの記述通り、紀元六六年の大反乱の勃発から七三年のマサダ陥落までの七年間に、ユダヤは惨劇の連続を経験した。

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

ダニエル9章24節はメシアに関して預言の時代を封印する存在だと預言し、主イエスはルカ21章22節で旧約聖書の全預言が(紀元七〇年の)エルサレム滅亡で成就すると仰せになった。故に現代や近未来の国際情勢と旧約聖書の預言とは無関係で、関係ありとする解釈は主の仰せとは明確に相反している。

(注)別エントリー「試論:神の国の到来と『主の日』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5578

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

試論:わたしは決して信じない?を140文字以内で

ヨハネ20章25節は、指や手を釘跡や脇腹に入れてみなければ自分は決して信じないとトマスが言ったと記す。この場合「信じる」は《確信を持つ》の意味合いである。ヘブライ人にとって信仰とは《確信》であり、どっちつかずの心理状態や言行不一致の状態は「信じる」「信仰」のうちには入らなかった。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書の『信じる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16417

【追記】

詩編12(11)編においてダビデは、隣人に嘘をついたり隣人を早口で欺いたり言行不一致状態だったりする人々ばかりの風潮を、「信仰のある人は消え去りました」(12編2節、新共同訳)と表す。ここで「信仰」と訳されるヘブライ語を、古代のギリシア語訳聖書はアレテイア(真理、まこと)と訳す。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

ヨハネ福音書は「信仰」を表現する際、他の福音書が用いるピスティスという語を用いず代わりにアレテイア(真理、まこと)という語を多用する。ヨハネにとって信仰とは、人の真心に対し真心で応じられる神なる主に向かって嘘偽りや裏表のない態度で接することに他ならず、これは当時の共通認識だった。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書のアレテイアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15430

主イエスはヨハネ14章6節で「真理」を自称されたが、プロテスタントの「改訳 新約聖書』(1917年)は「まこと」と平仮名を振り、旧約聖書で「まこと」と訳される語との関連を示唆する。嘘偽りや裏表がないこと、上っ面だけでなく内実を伴うこと、真心には真心で返されること等を意味している。

(注)別エントリー「試論:まこと(真、実、信、誠)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16274

プロテスタントの『改訳 新約聖書』(1917年)はヨハネ14章6節の「真理」に「まこと」と平仮名を振った。旧約聖書で「まこと」と日本語訳されるヘブライ語に対応するからだが、このヘブライ語は「真」「実」「信」「誠」のニュアンスを全て含むため通例、平仮名で「まこと」と日本語訳される。

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

「完全」とは??

マタイ7章21節「わたしの天の父の御心を行う者だけが、天の国に入る」11節「求める相手に良いものを与えることこそ、天の父の御心」12節「あなたが他の人からしてもらいたいことならなんでも、あなたから他の人にしなさい」5章48節「天の父が完全であられるように、完全な者となりなさい」。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』の意義を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17078

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346

主イエスはマタイ5章48節で「あなたたちの天の御父が完全な方であられるように、あなたたちも完全な人になりなさい」と仰せになったが、「完全」の意味をヤコブ3章2節は「言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人」と呼び、「舌を制御する」(8節)ことの重要性を説く。

マタイ5章48節の「あなたたちの天の父が完全であられるように、あなたたちも完全な者となりなさい」の「完全な」に当たる原文のギリシア語は、古代のギリシア語訳創世記6章9節でも用いられている。この語に同節で対応する原文のヘブライ語は新共同訳では「無垢な」という日本語で表現されている。

マタイ5章48節では「天の父が完全であるように、完全な者となりなさい」と説く。この場合の「完全な者」とは、レビ記19章2節では「聖なる者」、ルカ6章36節では「憐れみ深い者」であり、「完全」という表現でも人間に実行不可能な無理難題ではない(一ヨハネ5章3節、マタイ11章30節)。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

(注)別エントリー「試論:『いけにえ』と憐れみを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8356

マタイ5章48節で主は、天の御父が完全であられるように各自も完全な者となるよう勧められたが、憐れみ深さという点で「完全」を目指すべきことがルカ6章36節では説明されている。さらに同40節の後半で、福音の教えに従って自分自身を矯正し続ける者は「完全」まで到達できると主は確約された。

(注)別エントリー「試論:『わたしの荷は軽い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6870

主イエスはルカ6章40節でどうすれば弟子は師のようになれるか教えられた。ギリシア語本文の動詞はマルコ1章19節「〔網の〕手入れをする」と同じで「破れがないか全体を確認し、あれば修繕し、付着物を念入りに除去し、十分に洗い、現場で使い物になる完全な状態まで仕上げる」という意味である。

主はルカ6章40節で「弟子は先生より優れた者でないにせよ、普段から十分に心の準備を整えていれば、その先生のようになれる」と仰せになった。この箇所は内容的には36節の「あなたたちの天の御父が憐れみ深い方であられるように、あなたたちもまた、憐れみ深い者になりなさい」に結び付いている。

(注)別エントリー「試論:『憐れみ深い人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10347

(注)別エントリー「試論:『憐れみ深い人、ヨセフ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6057

主はマタイ18章3節で、心を入れ替えて幼子のようになるように強く弟子たちへお命じになり、他方5章48節では、天の御父と同様に、皆も「完全」となるように主はお勧めになった。古代のギリシア語創世記では「完全」というこのギリシア語が、6章9節においてヘブライ語の「無垢」に対応している。

(注)別エントリー「試論:マタイ5章8節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7254

マタイ11章28節「重荷を負う者は、わたしの許へ来なさい」詩編38編5(4)節「わたしの罪悪は耐え難い重荷」マタイ9章13節「正しい人を招くためではなく罪人を招くために、わたしは来た」ホセア6章1節〜2節「わたしたちは主の許に帰ろう。主はわたしたちをいやされ、傷を包んで下さる」。

マタイ9章13節「わたしが来た目的は、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」ホセア6章1節〜2節「さあ、わたしたちは主の御許に帰ろう。主はわたしたちの傷を覆ってくださり、いやしてくださる。主はわたしたちを立ち上がらせ命を与えてくださる。わたしたちは主の御前で生きる」。

主がマタイ9章13節で「わたしが求めるのは憐れみであり『いけにえ』ではない」とホセア6章6節に言及されてファリサイ派の人々に学ばせたかった「意味」という事柄の答えは、ホセア6章3節「主は曙の光のように必ず現われて、春に降り注ぎ大地を潤す雨のようにわたしたちを訪れて下さる」である。

ホセア6章6節は「わたしが求めるのは、憐れみであって『いけにえ』ではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」と記すが、これと関連して一ヨハネ2章3節は「知る」という表現の意味を《神の掟を守るという実体験を通して自分は神を知っているのだと自覚する》ことであると説明する。

(注)別エントリー「試論:『神を知ること』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5580

主はマタイ福音書で「わたしが求めるのはあわれみであって犠牲(いけにえ)ではない」(ホセア6章6節)と繰り返されが、同節は「神を知ることであって焼き尽くす献(ささ)げ物ではない」と続く。「神を知る」を一ヨハネ2章3節は「神の掟(愛の掟。ヨハネ15章12節等)を守る」ことと説明する。

箴言16章7節は、ある人が主に喜ばれる行いに努め続けるならその人はかつての敵とも主の仲介で和解に至るであろうと説く。ホセア6章6節は、主が喜ばれることとは隣人に憐れみの業を行うことであって「いけにえ」ではなく、そして神を知るように努めることであって焼き尽くす献げ物ではないと説く。

(注)別エントリー「試論:『神を知る』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10024

今、あなたの神、主があなたに求めておられることとは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてその全ての導きに従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸せになることではないか。(申命記10章12節〜13節)

ミカ6章8節「何が善であって、主が何をあなたたちに求めておられるかは、あなたたちには既に告げられている。それは神の義を行い、憐れみの業を愛し、へりくだり神と共に歩むこと」ホセア6章6節「わたしが求めるものは『いけにえ』ではなく憐れみであり、焼き尽くす献げ物ではなく神を知ること」。

(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6748

試論:「まことの神」???を140文字以内で

プロテスタントの『改訳 新約聖書』(1917年)はヨハネ14章6節の「真理」に「まこと」と平仮名を振った。旧約聖書で「まこと」と日本語訳されるヘブライ語に対応するからだが、このヘブライ語は「真」「実」「信」「誠」のニュアンスを全て含むため通例、平仮名で「まこと」と日本語訳される。

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

【追記】

主イエスはヨハネ14章6節で「真理」を自称されたが、プロテスタントの『改訳 新約聖書』(1917年)は「まこと」と平仮名を振り、旧約聖書で「まこと」と訳される語との関連を示唆する。嘘偽りや裏表がないこと、上っ面だけでなく内実を伴うこと、真心には真心で返されること等を意味している。

(注)別エントリー「試論:『信仰とは忠実』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17662

主イエスはヨハネ14章6節で「真理」を自称されたが、プロテスタントの『改訳 新約聖書』(1917年)は、そこに「まこと」と平仮名を振り旧約聖書で「まこと」と訳される語との関連を示す。真理というと哲学的で近寄り難い印象を受けるが、主に帰せられる実際の諸徳は「真、実、信、誠」である。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

主イエスは使徒たちに重要な事柄を伝達なさる際、アーメンを二度、口にされた。日本語訳では「まことにまことに」「よくよく」等と表現されるが、ヘブライ語ではアーメンも「まこと」も「信じる」の派生語で、ヘブライ人にとって「信じる」とは裏表(嘘偽り)のない態度で向き合うことを意味していた。

(注)別エントリー「試論:『アーメン』と『まこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16228

(注)別エントリー「試論:『真理を行う者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16184

試論:「天の父の御心を行う者」を140文字以内で

主イエスはマタイ7章21節で「わたしの天の父の御心を行う者だけが天の国に入る」と宣言され11節で「求める相手に良いものを与えることこそ天の父の御心」と仰せになった。天の父の御心とは、「あなたが他の人からしてもらいたいことならなんでも、あなたから他の人にしなさい」を行うことである。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』の意義を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17078

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

【追記】

【問】主イエスは「自分が他人からしてもらいたいことはなんでも、あなたから他人にしなさい」を御自分の《律法》とされましたが、なぜですか?【答】主は「最後の晩餐」の折に《隣人愛》の掟を授けられましたが、弟子たちが「今更ですが、愛とは一体、何ですか」などと言い出さぬようにするためです。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

試論:「しるしを見せてほしい」を140文字以内で

マタイ16章はファリサイ派やサドカイ派の人々が主イエスに、天からのしるしを見せてほしいと願ったと記す。主は「空模様」を例に応じられたが、人々が見たいと願っていたしるしとは空模様(気象)に関するものだとわかる。主は湖で暴風雨を鎮められ、弟子たちにだけ気象を司る権能をお示しになった。

【追記】

洗礼者は主からエリヤと呼ばれた(マタイ11章14節)ものの干ばつの際のしるし(列王上18章41節以下)は行わず(ヨハネ10章41節)、このしるしは主も行われなかった。古代に遡るある伝承は、エルサレムの監督ヤコブがエリヤのしるしを行ったとする。このしるしには圧倒的な説得力があった。

(注)別エントリー「試論:もう一人の『エリヤ』??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10009

マルコ8章11節でファリサイ派の人々は主イエスを試そうと「天からのしるし」を求めたのに対し、主は「なぜ『時代のしるし』を悟ることができないのか」とマタイ16章3節で答えられた。「時代のしるし」とは、預言されていた救い主による癒し(イザヤ35章5節以下)と、主によるその実践である。

(注)別エントリー「試論:『時代のしるし』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14378

主イエスはパンを増やし四千人の群衆に食べ物を与えるという奇跡を行われた。類似の奇跡は列王下4章42節以下で「神の人」預言者エリシャも行っていた。主イエスの神の御独り子たる本領は「生まれつき目が見えなかった人の視力を回復させた」(ヨハネ9章32節、イザヤ35章5節)時に発揮された。

(注)別エントリー「試論:『救い主の識別』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13316

試論:「カインが激怒した理由」を140文字以内で

【問】カインはなぜ弟アベルを殺すほど激怒したのですか?【答】弟は真心を込めて献げ物を準備しましたが、兄は自分が何もせずとも作物は勝手に育つという態度で弟を小馬鹿にしていました。日頃から他人を小馬鹿にしていたカインは、神と弟が共謀して自分を小馬鹿にしていると思い込み弟を殺しました。

(注)別エントリー「試論:『カインの高慢』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17085

【追記】

カインはアベルと違って献げ物となる作物を育てる際、手間暇をかけようとせず、ろくに手入れもせず、ただ自然に育ったがままの状態のものを献げた。それでいて神に目を留められなかったことで激怒し、そうなった理由を反省せず弟の意見を参考にしようとせず両親にも相談せず、神に質問すらしなかった。

カインは怒りに任せ弟アベルを殺害した後、主の問いに「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」と白(しら)を切った。その後「わたしの罪は重過ぎて負い切れません」と口にしたが、この言葉は、決して反省の弁ではなく、主からの庇護(創世記4章15節「しるし」)を引き出すための方便であった。

一ヨハネ5章16節は「死に至らない罪」と「死に至る罪」を対比する。旧約聖書第二正典の知恵の書10章はアダムとカインを対比し、カインは弟を殺しただけでなく「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」と神に嘘をつき、その上で神に対しても敵意を剥き出しにして、最後まで全く反省しなかった。

(注)別エントリー「試論:アベルとヨセフを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17350

エゼキエル18章「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は仰せになる。彼が悪から立ち帰って生きることを喜ばないだろうか。お前たちが犯した全ての背きを投げ捨てて新しい心と霊を造り出せ。どうしてお前たちは死んでよいだろうか。お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」。

エフェソ4章の後半では、「神にかたどって造られた新しい人」として生きるために、「怒ることはあっても罪を犯してはならない」「日が暮れるまで怒ったままではいけない」「悪い言葉を一切口にしない」「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどの全てを、一切の悪意とともに捨てる」等を勧めている。

(注)別エントリー「試論:『怒ってはならない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10341

主はマタイ5章22節で「怒ってはならない」と仰せになった。ヤコブ1章20節は「人の怒りは神の義を実現しない」と記し、同19節は「だれでも聞くのに早く、話すのに遅く、怒るのに遅いようにしなさい」2章13節では「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下される」と警告している。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

主イエスはマタイ7章22節以下で、神が人々に求めておられるのは預言でも奇跡でも悪霊を追い出すことでもなく、ただ悪を行わないことだと示唆された。ヨセフは1章19節で義人と呼ばれるが、25章の最後の審判では義人は隣人の困り事に親身に対応する無私の人そして永遠の命を確約された人を指す。

箴言28章14節は「いつも気を配っている者は幸いであるが、周囲に厳しい者は苦難に陥る」と記し、神に対しても隣人に対してもどんな物事に対しても注意深く慎重に接する人はそうそう困難に遭うことはないが、万事に頑固で当たりの強い者はそれだけ様々な面倒事に巻き込まれ易いものだと説いている。

「神は高慢な者を敵とする」と聖書は随所(箴言3章34節等)で教える。ただし高慢な人の破滅を準備するのは、実は高慢な人自身である。高慢な人は周囲を侮り、眼中にないかのように配慮もなく、高慢な人の態度を嫌った周囲の人々は高慢な人が窮地に陥っても援助や協力の手を差し延べようとはしない。

創世記4章は、弟を殺しておきながら、「あなたが御顔を隠されたら」(14節)つまり神の庇護が失われれば自分は誰かに殺されてしまうと神に頼み込むカインの姿が描かれる。「わたしは弟の番人でしょうか」(9節)と憎まれ口を神に叩いておいてこの身勝手振りで、彼は自分自身にしか興味がなかった。

旧約聖書第二正典の知恵の書は10章1節以下で、アダムは過ちを犯したが知恵に救われたとする一方、続く3節ではカインが滅び去ったと記す。一ヨハネ5章16節以下は死に至る罪(大罪)と死に至らない罪(小罪)との区別を説くが、カインは知恵と表裏一体である分別(箴言4章5節)とは無縁だった。

ヨハネ1章14節は神の御独り子が恵みと真理に満ちて人間となられたことを記すが、ヤコブ4章6節と一ペトロ5章5節はともに「神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みをお与えになる」と強調し、ルカ1章は「わたしは主のはしため」とへりくだった女性こそが御独り子の母となったことを特筆する。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7795

(注)別エントリー「試論:『イエスとマリアの関係』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7725

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

「ヨナ(鳩)の子シモン」

マタイ16章17節「バルヨナ」の「ヨナ」は、福音書時代のヘブライ語では「鳩」を意味した。シモン・ペトロを「鳩(=神の霊。マタイ3章16節)の子」と呼ぶことで、主イエスは「あなたの今の言葉は神の霊があなたに言わせたことである」という事柄をシモン本人そしてその場にいた皆に示唆された。

ヨハネ1章42節はシモン・ペトロをヨハネの子とするが、マタイ16章17節はバルヨナ(ヨナの子)と呼ぶ。ヨナは鳩すなわち神の霊を意味し、主イエスはペトロを鳩の子と呼ぶことで《今のあなたの言葉は神の霊があなたに言わせたことである》という事柄をシモン本人及びその場にいた皆に示唆された。

ヨハネ21章15節はシモン・ペトロを「ヨハネの子」と呼ぶ。マタイ16章17節「バルヨナ」は通常「ヨナの子」と訳されるが福音書時代のヘブライ語でヨナは鳩を意味した。ただしシモン・ペトロの元々の性格が、ヨナ書最終章の預言者の姿(不満や怒りを隠せない)と同じだった可能性も否定できない。

彼は家庭を持つ漁師で湖の対岸の異邦人とも交流がないほどだったが、大工の男に説得され、その弟子となり、師とともに湖上を歩き、師から一番弟子に指名された。一度は師を見捨てた彼を師は変わらず信頼し、師が去った後も教えを広めるために彼は世界を巡り、世界の都で一粒のからし種として殉教した。

(注)別エントリー「試論:『自分の十字架』とペトロを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12304

福音書には主の職業はテクトーンとありホメロスの叙事詩ではテクトーンは船大工をも意味した。もしも主が腕の確かな職人として既に漁師の間で知られていたとすれば、故郷で生涯を終えることが多く同業者だけで集まりがちな漁師の中から、すぐ四人の信頼を得て弟子とすることができたのも、道理である。

(注)別エントリー「試論:天の国と『人間をとる漁』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8963

主はマルコ4章で弟子たちの前で突風を静められて創造主としての権威の片鱗を示されたが、後にペトロだけは最後に沈みかけたものの湖の上を歩く体験をして主の権威に対する確信を強め、このペトロの確信がマタイ16章16節「あなたは生ける神の子キリスト(メシア)です」の信仰宣言へとつながった。

主イエスが湖の上をお歩きになった際、弟子たちの中でペトロが最初に自分も歩くと申し出たが、怖くなって沈みかけ、主に助けを求めた。主はペトロをお叱りになったが、すぐに手を伸ばし助けられた。失敗も多かったが、御言葉に真っ先に反応して忠実を示し続けるペトロに、主は御自分の羊を委ねられた。

主がペトロに「あなたは鶏が鳴くまでに三度わたしを知らないと言うであろう」と予告されたことはあまりにも有名である。しかしその前に、主はさらに先のことを見通すかのように、「あなたが(自分の痛手から)立ち直ったならば今度はあなたが仲間たちを力づけなさい」ともペトロに仰せになられていた。

主イエスはマルコ8章34節で、弟子となる者は自分の十字架を背負い、従って来るべきだと仰せになった。初代教会時代、新しく信者になろうとする人々がペトロに「あなたにとっての『自分の十字架』とは何ですか?」と訊ねたなら、恐らく「鶏が鳴く前に三度主を知らないと言ったこと」と答えただろう。

主イエスはエレミヤ16章の預言通り、早い時期に四人の漁師を弟子に選ばれた。しかし彼らの中で、いつも口火を切るのはペトロである。ルカ5章では真っ先にイエスの足許にひれ伏し、後には間違った忠告をして主に「サタン(邪魔をする者)」と呼ばれたり、湖の上を歩きたいと申し出て溺れたりもした。

(注)別エントリー「試論:『聖書と漁師』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13896

二ペトロ3章15節以下では、パウロの著した手紙について言及しているが、16節でペトロは、自分がパウロの手紙の全てに目を通して内容に同意し、「聖書」を構成する一部として、それらを認めている旨を述べている。ガラテヤ2章の自身を批判している箇所も含めてペトロは手紙の内容を承認している。

二ペトロ3章10節は「主の日」において「天は激しい音を立てながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に熔解し尽くす」と予告した。数年後の紀元七〇年、神が住まわれると見なされて、「天」と同一視されていたエルサレムの神殿は、都の滅亡の際ローマ帝国軍によって火を放たれ、大音響と共に焼け滅びた。

(注)別エントリー「試論:『たとえ天地が滅びても』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12142

ヘブライ4章14節は主イエスを「もろもろの天を通過され」と記すが詩編78編69節の通り、ヘブライ人は聖所を天にたとえた。天地創造以前から「御言葉」はおられ、メルキゼデクの聖所にもシケムにもシロにもエルサレムにも、それらが天の「写し」(ヘブライ9章24節)に過ぎないにせよおられた。

(注)別エントリー「試論:『もろもろの天を通過』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13750

使徒言行録12章はペトロの逮捕時、天使の導きで、門扉がひとりでに開き、ペトロを解放したと記す。他方ユダヤの歴史家ヨセフスやタルムードはエルサレムと神殿の滅亡前の「凶兆」として、非常に重い門扉がひとりでに開いたと記し、神殿守衛長(使徒言行録5章24節)たちが閉めたとヨセフスは記す。

(注)別エントリー「試論:『天使たちが神殿を去る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6363

主イエスはルカ6章40節でどうすれば弟子は師のようになれるか教えられた。ギリシア語本文の動詞はマルコ1章19節「〔網の〕手入れをする」と同じで「破れがないか全体を確認し、あれば修繕し、付着物を念入りに除去し、十分に洗い、現場で使い物になる完全な状態まで仕上げる」という意味である。

試論:「信仰とは忠実」を140文字以内で

マタイ8章で異邦人の百人隊長は、命じられたことを忠実に実行することこそ信仰の本質であるという趣旨の発言をし、主イエスを感心させた。母マリアは人々に御子イエスの言葉通りにするよう勧めたが(ヨハネ2章)、神の言葉通りにしなくとも不幸が訪れることはないと蛇はエバを欺いた(創世記3章)。

(注)別エントリー「試論:『異邦人の百人隊長』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17652

(注)別エントリー「試論:『信仰によってアベルは』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17492

(注)別エントリー「試論:『女』と『竜』の対立を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12925

試論:「救われる者は誰か」を140文字以内で

主イエスはマタイ7章21節以下で次のように宣言された。「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るのではなくて、わたしの天の父の御心を行う者だけが入る」「『不法を行う者ども、わたしから離れ去れ。わたしはあなたたちのことなど、全く知らない』と、わたしは言うであろう」。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

【追記】

主はマタイ13章45節以下で、「天の国」を全財産と引き換えにしてでも手に入れるべき真珠にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「天の国」は「永遠の命」と同義だが、「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11494

ルカ10章25節の律法学者と18章18節の議員は同じ質問をした。ただ議員には「心・精神・力・思いを尽くして」の観点が欠けていた。主は議員に、「持ち物を全て売り払う」という表現で勧告なさったが、この表現はマタイ13章44節〜45節のたとえでは《あらゆる努力を尽くす》を象徴している。

(注)別エントリー「試論:『善きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

フィリピ3章8節「わたしの主キリスト・イエスを知ったがゆえに、わたしは他の一切を失ってしまいましたが、それらはわたしにとって無価値です」マタイ13章44節「畑に宝が隠されているが見つけた人はそのまま隠しておき、喜びながら帰り、全財産をすっかり売り払ってでもその畑を買うであろう」。

マタイ6章11節「わたしたちの日ごとの糧を今日お与え下さい」一テモテ6章6節〜8節「信心とは貪欲ではない者にとっては大きな利得の道です。というのも、わたしたちは何も持たずにこの世に来て、何も持たずにこの世から出て行かなければならないからです。衣食が足りるならば良しとすべきです」。

(注)別エントリー「『日ごとの糧』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17530

試論:「異邦人の百人隊長」を140文字以内で

マタイ8章で異邦人の百人隊長は、「行け」「来い」「これをしろ」と仰せられた事柄がその通り実現されていくことが信仰の本質であるという趣旨の答えをして、主イエスを感心させた。マタイ1章から2章でヨセフは、幼子イエスとマリアに対して、全てをまさに仰せの通りに実現させたのではなかったか?

【追記】

マタイ8章で異邦人の百人隊長は「行けと言われれば行きます。来いと言われれば来ます。やれと言われればやります」と答え主は「イスラエルでもこれほどの信仰はない」と感心された。マルコ7章の通り、当時のイスラエルでは元々の指示がないがしろにされ指示とは違うことが実行されていたからである。

マルコ7章6節以下で主はイザヤの預言等を旧約聖書から引用しつつ、手前勝手な取捨選択で神の掟をないがしろにする行為を厳しく批判され、それは信仰というよりもむしろ信仰を装ってはいるが実質的には神に対する背信行為なのではないかと、主はファリサイ派の人々と律法学者たちとに投げ掛けられた。

主は、マタイ福音書の最後の箇所において、十一人の弟子たちに指示を与えられたが、それは、【1】すべての民を御自分の弟子にするために出発すること【2】彼らに父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けること【3】弟子たちに命じておいたことの「すべて」を守らせるように彼らに教えることであった。

ヨハネ14章23節において主は「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところへ行き、一緒に住む」と仰せになられ、それを受けて一ヨハネ2章4節では、「神を知っている」と言いながら神の掟を守らない者のことを「偽り者」と断定している。

(注)別エントリー「試論:『新しい契約』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5517

(注)別エントリー「試論:神から受けた掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5418

マタイ23章で主は、偽りの信仰の特徴について説明されたが、「言うだけで、実行しない」「背負いきれないほどの重荷をまとめて、他人の肩に載せるが、自分はそれを動かすために、指一本貸そうとしない」「そのすることは、すべて人に見せるため」「やもめの家を食い物にする」などにより識別できる。

主イエスはマタイ5章33節〜37節で誓ってはならないと教えられ、また『はい』『いいえ』をはっきりさせなければならず、「それ以上のことは悪い者から出る」と仰せになった。ヤコブ5章12節と二コリント1章17節以下も同様に説き、箴言10章19節は「口数が多ければ罪は避けえない」と説く。

マタイ1章19節は主の養父ヨセフを「正しい人(ディカイオス)」と表現する。25章の「最後の審判」におけるディカイオスは、隣人が何らかの助けを必要としている時に、必要とされている助けを提供して困り事を解決する人を指し、ヨセフはイエスとマリアが本当に必要としていることだけを実行した。

(注)別エントリー「試論:聖ヨセフの模範を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7243

(注)別エントリー「試論:聖母と聖ヨセフの終生童貞を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6397

(注)別エントリー「試論:『聖別』と聖母の終生童貞を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7939

(注)別エントリー「聖母と聖ヨセフが終生童貞である理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4464

(注)別エントリー「イエスの『兄弟』『姉妹』:同胞か親戚か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1451

試論:エゼキエル書34章16節を140文字以内で

エゼキエル34章16節に関し中世のヘブライ語聖書は「弱いものを力づけ、強いものを滅ぼす」と解釈したが、古代に遡るギリシア語訳とラテン語訳は「弱いものを力づけ、強いものを守る」というニュアンスで解釈した。これはヘブライ語で「滅ぼす」と「守る」の子音文字が酷似することに由来している。

【追記】

日本聖書協会の新共同訳と共同訳そしてフランシスコ会聖書研究所訳は、中世のヘブライ語聖書を底本とする『ビブリア・ヘブライカ・シュトットガルテンシア』に拠っているため、「滅ぼす」のニュアンスで解釈している。他方カトリックの伝統的な解釈を踏襲しているのはバルバロ訳と光明社文語訳である。

試論:「悔い改める一人の罪人」を140文字以内で

主イエスはルカ15章7節で「悔い改める必要のない九十九人の義人よりも、悔い改めている一人の罪人のことを天は大いに喜ぶ」と仰せになり、マタイ18章14節ではエゼキエル18章32節「わたしは誰の死も喜ばない」と同様に、天の御父は悪人の滅亡よりも悪人の回心を喜ばれることを再確認された。

(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3277

【追記】

エゼキエル18章「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は仰せになる。彼が悪から立ち帰って生きることを喜ばないだろうか。お前たちが犯した全ての背きを投げ捨てて新しい心と霊を造り出せ。どうしてお前たちは死んでよいだろうか。お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」。

エフェソ4章の後半では、「神にかたどって造られた新しい人」として生きるために、「怒ることはあっても罪を犯してはならない」「日が暮れるまで怒ったままではいけない」「悪い言葉を一切口にしない」「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどの全てを、一切の悪意とともに捨てる」等を勧めている。

一ペトロ2章の冒頭は「霊的な乳飲み子」について語っているが、ここでペトロは「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去る」ことを要請しており、当然ペトロは、あまりにも有名な「人から出て来るものこそ、人を汚す」で始まる、マルコ7章20節から23節の主の御言葉を念頭に置いて説明する。

主はマタイ18章で、「心を入れ替えて子供のようにならなければ決して天の国に入ることはできない」と仰せになり、「心を入れ替える」(3節)と「自分を低くする」(4節)の二つが、子供のようになるために必要であると教えられた。弟子たちは詩編131編を歌うたび以前から学んでいたはずである。

(注)別エントリー「試論:『幼子と天使』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7391

主はマタイ18章で、「心を入れ替えて子供のようにならなければ決して天の国に入ることはできない」(3節)また「自分を低くして子供のようになる人が天の国では一番偉い」(4節)と仰せになられ、「心を入れ替える」「自分を低くする」の二つが子供のようになるために必要な事柄であると説かれた。

主はマタイ5章39節で、悪人に「対抗」(ルカ21章15節)してはならないと仰せになった。原文のギリシア語は「全面的に対抗する」「徹底的に応戦する」というニュアンスであり、それも含めてマタイ5章で主は早期の和解を勧められ、同じギリシア語で悪魔への「対抗」をヤコブ4章7節では勧める。

主はマタイ5章39節で悪人に手向かってはならないと仰せになったが、主がここで禁じられたのは<悪人と同じ次元の争い事>つまり、悪人と同じ手段で報復を行い自分も悪事に手を染めることだった。38節で「目には目、歯には歯」に言及されたのはそのためで、報復の連鎖に陥らぬよう主は戒められた。

主はヨハネ3章20節以下で「悪を行う者は、自分の行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない」「真理を行う者は、光の方に来る」と仰せになり、マルコ7章21節以下では「淫行、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、好色、妬み、悪口、傲慢、無分別」等を、「悪」の代表的な例として列挙された。

試論:「権威ある者」を140文字以内で

マタイ7章28節以下は「イエスが語り終えられると群衆は非常に驚いた。彼が権威ある者として教えられたからである」と記す。同5章21節以下は「昔の人々は△△と教えられていたがわたしは、あなたたちに◯◯であると教える」と主が説かれたと記し、主は御自身をモーセや他の預言者より上とされた。

試論:「天の国は近づいた」を140文字以内で

マタイ3章2節で洗礼者は「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝え、主イエスも同4章17節で同じく声を上げられた。ただし主は同7章21節で、「わたしに向かって『主よ主よ』という者が皆、天の国に入るわけではなく、天の父の御心を行う者だけが入る」と教えられ、行いの重要性を強調された。

【追記】

ルカ6章46節「あなたたちはわたしを『主よ、主よ』と呼んでおきながら、なぜわたしが言っていることを、行わないのか?」ヨハネ8章51節「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことはない」ガラテヤ5章6節「キリスト・イエスに結びついているのなら、愛の実践を伴う信仰こそ重要です」。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

マタイ7章21節「わたしに向かって、『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るのではなく、わたしの天の父の御心を行う者だけ入る」ヨハネ13章34節「わたしがあなたがたを愛したように、愛し合いなさい」ガラテヤ5章6節「キリスト・イエスに結ばれているなら、愛の実践を伴う信仰こそ大切」。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:新都エルサレムに住む条件を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11197

マタイ25章45節で主は「この小さな者の一人にしなかったことは、わたしにしなかったことである」と仰せになり、隣人愛の実行を神への愛の基準にすると宣言された。従って「私は周囲とはトラブルを起こしてばかりですが、主よ、あなたへの愛だけは誰にも負けません」という自己申告は、通用しない。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

ヨハネ14章15節で主は「わたしを愛しているのなら、わたしの掟を守りなさい」と仰せになり御自身が教えられた掟を守ることをもって御自身への愛を判断すると宣言された。従って、「私はあなたの掟を守れてはいませんが、主よ、あなたへの愛だけは誰にも負けません」という自己申告は、通用しない。

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

マタイ25章45節「この小さな者の一人にしなかったことは、わたしにしなかったことである」は、一ヨハネ4章20節で「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」と繰り返され、21節は神から受けた掟として「神を愛する人は兄弟をも愛すべきです」と断言している。

主イエスはマタイ5章29節で「体の一部がなくなっても全身が地獄に投げ込まれない方がまし」と仰せになり、「悪魔と、その手下のために用意してある永遠の火」(同25章41節)を絶対に避けるよう教えられた。一コリント9章27節は、他の人に宣教しながら自分が失格者にならないようにと戒める。

試論:「洗礼者の使命」を140文字以内で

洗礼者ヨハネは人々に「悔い改めよ。天の国は近づいた」と訴えたが、ルカ1章17節では洗礼者が担うことになる重大な使命として、《主に逆らう者に「正しい人(最後の審判で永遠の命が確約されている人)」としての分別を持たせるための準備をする》ことが、天使によって父ザカリヤに予告されている。

(注)別エントリー「試論:『悔い改め』に必要な事柄を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16285

試論:「偽預言者の特徴は貪欲」を140文字以内で

主イエスはマタイ7章15節で貪欲こそ偽預言者の特徴であると教えられた。ペトロも第二の手紙の2章で同様に、貪欲こそ偽教師の特徴であると教えた。偽預言者も偽教師も一般の信者が真面目に働く時間帯に美食を貪り、旅行・観光・娯楽施設と遊興三昧の日々を送り、神について考えるのは片手間である。

(注)別エントリー「試論:『迷信としての終末預言』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17548

(注)別エントリー「試論:『真の預言者すらいない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8425

(注)別エントリー「旧約聖書と『偽教師』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17476

試論:「メシアと先駆者の関係」を140文字以内で

福音書の時代、ユダヤ世界の人々の前に、まず洗礼者ヨハネが現れ、続いて主イエスが活動を開始された。当時の人々は誰しも、一度は「どちらがメシアか」と疑問を持ったはずだが、その答えはヨハネ10章41節の通りしるしを行わない方がマラキが預言した先駆者、しるしを行われる御方がメシアである。

【追記】

主イエスはマタイ11章14節で、洗礼者ヨハネが預言者マラキのいうエリヤだと教えられたが、ヨハネ1章21節で洗礼者は一度それを否定した。当時の人々は最初にしるしで判断しようとした(マタイ12章38節)が、洗礼者にはエリヤと同じしるしを行う意図はない(ヨハネ10章41節)からである。

洗礼者は何のしるしも行わなかった(ヨハネ10章41節)が、主は彼がエリヤだと仰せになった(マタイ11章14節)。洗礼者自身はエリヤであることを否定した(ヨハネ1章21節)が、人々から「天からのしるし」(列王上18章38節、マタイ16章)を求める声が起こらないようにするためだった。

マルコ8章11節でファリサイ派の人々は主イエスを試そうと「天からのしるし」を求めたのに対し、主は「なぜ『時代のしるし』を悟ることができないのか」とマタイ16章3節で答えられた。「時代のしるし」とは、預言されていた救い主による癒し(イザヤ35章5節以下)と、主によるその実践である。

主イエスはパンを増やし四千人の群衆に食べ物を与えるという奇跡を行われた。類似の奇跡は列王下4章42節以下で「神の人」預言者エリシャも行っていた。主イエスの神の御独り子たる本領は「生まれつき目が見えなかった人の視力を回復させた」(ヨハネ9章32節、イザヤ35章5節)時に発揮された。

ルカ2章11節は「あなたたちのために救い主がお生まれになった」マタイ1章21節は「この子は自分の民を罪から救う」と記す。イザヤ35節4節以下は「敵(サタン)を撃ち悪を罰する神が来られ、あなたたちを救われる」と預言し、目や耳や足や言葉の不自由な人々の回復が神の到来の徴になると続く。

四福音書は主イエス・キリストによる病人の奇跡的な癒しをさまざまに記すが、理由はイザヤ35章4節以下で救い主の到来が預言されている通り、見分ける徴は目や耳や手足や言葉の不自由な人の奇跡的な治癒(6節。またヨハネ9章32節参照)であることが、既に数百年前から預言されていたからである。

主イエスはヨハネ5章39節で「あなた方は〔旧約〕聖書中に永遠の命が存在すると考え〔旧約〕聖書を研究するが、〔旧約〕聖書はわたしに関してあかししている」と仰せになり、御自分とは無関係の目的で〔旧約〕聖書を研究しても、本当に重要な真理には全く到達することができないと、お教えになった。

試論:「隣人を侮る行為の禁止」を140文字以内で

箴言14章21節は隣人を侮る者が必ず罪ありとされることを説き、同11章12節は隣人を侮る者とは思慮に乏しくあさはかな者だと説く。真心の人アベルは兄カインを侮る気など皆無だったが兄から恨まれて殺された。ましてアベルほどの真心もなく隣人を軽々に侮る者を待つ災難は、どれほどであろうか?

(注)別エントリー「試論:カインとアベルを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16646

【追記】

ヘブライ11章4節は「信仰によってアベルはカインより優れたいけにえを献げ、神が彼の献げ物を認められることによって彼は義人と証明された」と記す。ヘブライ人にとって信仰とは「まこと(真、実、信、誠)」に基づいたものであるべきで、この節の「信仰」とは、真心(まごころ)と同じ意味である。

(注)別エントリー「試論:『信仰によってアベルは』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14392

(注)別エントリー「試論:詩編12編の『信仰』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17392

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

(注)別エントリー「試論:まこと(真、実、信、誠)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16274

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書の『信じる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16417

マタイ1章19節は主の養父ヨセフをディカイオス(正しい人、義人)というギリシア語で呼び、主は同23章35節で創世記4章のアベルを同じ語で呼ばれた。古代ギリシア語訳創世記6章9節とシラ44章17節とはノアを同じ語で表現し、アベル・ノア・ヨセフの三人が同じカテゴリーに属すると物語る。

(注)別エントリー「試論:聖ヨセフの模範を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7243

(注)別エントリー「試論:ノアとヨセフを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7129

(注)別エントリー「聖ヨセフ:ディカイオスを旧約聖書で考察」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1613

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちは、自分が他の人からしてほしいことを、自分から他の人にしなさい」と《愛の掟》を教えられた。従って「愛の反対」は「他の人からしてほしくないことをあえて他の人に行うこと」そして「他の人からしてほしいことをあえて他の人には行わないこと」からなる。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

試論:「目」「おが屑」「丸太」を140文字以内で

主は「体のともし火は目」と仰せになり、「目」つまり目つきやまなざしにはその人の内面が露呈されるものだと注意を促され、だからこそ「目の中にある、おが屑や丸太」という比喩で《あなたは相手の内面の小さな問題にはすぐ気付くくせに、自分の内面の大きな問題を直せないのか?》と注意を促される。

(注)別エントリー「試論:『主の戒めと目』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17563

【追記】

主は「体のともし火は目」と教えられた(マタイ6章22節、ルカ11章34節)。箴言6章17節は「主が憎まれ心からいとわれる」ものに「驕り高ぶる目」をまず挙げる。いくら笑顔を作っていても、相手を小馬鹿にしたような目つきをしているなら、誰がその人を神と関係のある人だなどと思うだろうか?

試論:「神の国について教える」を140文字以内で

主イエスはルカ9章で「パンの奇跡」を行われたが、その前に治療の必要な人々を癒され神の国について教えられた。マタイ6章33節で神の国と神の義とをまず求めるよう勧められたが、同7章12節では、それは「自分が他の人からしてもらいたいことなら全て自分から他の人にする」ことだと教えられた。

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11494

(注)別エントリー「試論:マルコ8章『パンの奇跡』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14326

【追記】

主イエスはパンを増やし五千人の群衆に食べ物を与えるという奇跡を行われた。類似の奇跡は列王下4章42節以下で「神の人」預言者エリシャも行っていた。主イエスの神の御独り子たる本領は「生まれつき目が見えなかった人の視力を回復させた」(ヨハネ9章32節、イザヤ35章5節)時に発揮された。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ6章『パンの奇跡』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16226

(注)別エントリー「試論:『救い主の識別』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13316

主が集まった群衆のためにパンを増やす奇跡を行われたことは有名だが、その少し前に弟子たちが極度の空腹のため安息日に麦畑で穂を摘み直に麦を口にし、ファリサイ派の人々と論争になった。なぜ主は奇跡で弟子たちの空腹を満たそうとはされなかったのか? 「現世利益」目的では奇跡を主は行われない。

(注)別エントリー「試論:『空腹をしのぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10791

ヨハネ6章51節「わたしは天から降(くだ)って来たパンであり、このパンを食べる者は永遠に生きる」ルカ4章4節「人はパンだけで生きる者ではない」申命記8章3節「人はパンだけで生きる者ではなく主の口から出る全ての言葉で生きる」ヨハネ6章68節「あなたこそ永遠の命の言葉を語る方です」。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは「御自分でお話しになる神」の意味で《天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神》主イエスを表す称号であり、直接お話しになった記録が福音書である。福音書を読まないことは主イエス・キリストを理解しようとしないことに等しい。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

主は山上の説教で「神の義に飢え渇く人は幸い。その人は満たされる」と仰せになった。その理由はヨハネ6章35節で説明される。「わたしは命のパンである。わたしの許に来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」同7章37節「渇く人は、わたしの許で飲みなさい」。

ヨハネ6章51節「わたしが与えるパンとは世を生かすための、わたしの肉のことである」同33節「神のパンは天から降(くだ)って来て世に命を与える」マルコ14章22節「これはわたしの体である」申命記8章3節「人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出る、全ての御言葉によって生きる」。

主はヨハネ6章27節で御自分の仰せになる《神の御言葉》を「永遠の命に至る食べ物」にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「永遠の命にあずかる」と「天の国を受け継ぐ」は同義だが、御言葉を日々味わうことによって人は天の国を受け継ぐにふさわしい存在へと少しずつ霊的に成長するからである。

ヨハネ6章27節「あなたたちは、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」32節「わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる」33節「神からのパンは、天から下って来て人間世界に命を与える」35節「わたしこそが、その命のパンである。わたしの許に来る者は、飢えることが決してない」。

試論:「神の義を求める」???を140文字以内で

主イエスはマタイ6章31節以下で日頃の衣食について過度に頭を悩ませることを戒め、少しでも神の国と神の義について思いを馳せるように勧められた。主は7章9節以下で同じ議論に戻られ、神の義とは「自分が他の人からしてもらいたいことなら全て、自分から他の人にする」ことであると、強調された。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

【追記】

主はマタイ6章33節で「まず神の国と神の義を求めよ」と仰せになった。神の国に入るためには「神の義」を自分のものとする必要があり、その比喩として「門」(同7章、詩編118編19節参照)や「礼服」(マタイ22章、詩編132編9節参照)と表現され、旧約の民が熟知する詩編に、言及された。

(注)別エントリー「試論:『神の義』『門』『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10465

マタイ6章34節「その日の苦労はその日だけで十分」は有名である。ただし「苦労」と日本語訳されるギリシア語には「悪」「災難」の意味合いがあり、全てを失った放蕩息子が回心し父親の許への帰郷を思い立ったのと同様に、主は第一に「神の国と神の義」(33節)への回帰(回心)をお勧めになった。

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4544

主は「神の義に飢え渇く人は幸いである。その人は満たされる」と仰せになったが、ルカ10章では自分を「義化」(29節)しようとして踏み込んだ質問をした律法学者に対して、憐れみの心(33節)と「神の義」と隣人愛(27節)と永遠の命(25節)は全て事実上重なっていることをお教えになった。

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346

(注)別エントリー「試論:隣人愛と『心の中で憎む』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10483

(注)別エントリー「試論:『わたしが与える水』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10708

試論:「主の戒めと目」を140文字以内で

主イエスはマタイ6章22節で「体のともし火は目」と教えられた。これは詩編19(18)編の9(8)節「主の定めは正しく心に喜びを与え、主の戒めは清く目に光を与える」箴言6章23節「戒めは灯、御教えは光」ヨハネ1章4節「神の御言葉の内に命があり、命は人間を照らす光」等と関連している。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章4節『命の光』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7297

【追記】

主は「体のともし火は目」と教えられた(マタイ6章22節、ルカ11章34節)。箴言6章17節は「主が憎まれ心からいとわれる」ものに「驕り高ぶる目」をまず挙げる。いくら笑顔を作っていても、相手を小馬鹿にしたような目つきをしているなら、誰がその人を神と関係のある者だなどと思うだろうか?

主は「体のともし火は目」(ルカ11章34節以下、マタイ6章22節以下)と仰せになったが、当然、「あなたの内面は、まなざし・目つきで明らかにされる」という意味でも上記の表現を用いられ、箴言21章4節は《高慢なまなざしは神に逆らう者の傲慢な心を明らかにするが、傲慢は罪である》と説く。

イザヤ10章12節の「主はアッシリア王の驕った心の結ぶ実と高ぶる目の輝きを罰せられる」が示す通りヘブライ人は、「人間の心の状態は眼差し・目付きなどに反映されるため目を見ればその人の内面とりわけ高慢心が明らかになる」と考えており、マタイ6章「体のともし火は目」はこれを踏まえている。

ルカ1章「マリアの賛歌」で、聖母は御自分を「身分の低い(タペイノス)」「はしため」と表現されたが、このギリシア語「タペイノス」は古代のギリシア語訳ヨブ記22章29節にも見られ、ヨブ記のヘブライ語本文では「目を伏せる」となるが、この所作はヘブライ人にとってへりくだりを象徴していた。

聖母は「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)となられた方ながら、「わたしは主のはしため」(38節)と自称されたが、ペトロとヤコブは「神はへりくだる人に恵みをお与えになる」と書いた。「神の御独り子の母」となられた女性のへりくだりと恵み(ルカ1章28節)とは、いかばかりだろうか?

(注)別エントリー「試論:初代教会と箴言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5756

聖母マリアは「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)となられた方でありながら、「わたしは主のはしため」(38節)と自称されるほど高慢心のかけらもない謙遜そのものの方であった。従って、高慢心との訣別こそが「聖母マリアへの真の信心」へと踏み出す最初の一歩であるのは、至極当然である。

(注)別エントリー「試論:『救い主の母であること』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7510

受胎告知の際マリアは「恵まれた方」(新共同訳)と呼ばれたが、「恵まれた」とは、

《〔神からの〕とめどもない好意を得た》

の意味で、古代ギリシア語訳箴言を参照すると比類のないこの《好意》は、彼女の「へりくだり」(箴言3章34節)と「善のみの追求」(同11章27節)に対する、恵みである。

(注)別エントリー「試論:『聖寵充ち満てるマリア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8642

(注)別エントリー「試論:無原罪の御宿りを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4629

(注)別エントリー「試論:聖母崇敬の理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5253

主イエスはヨハネ8章12節で、「わたしは世の光」と仰せになり、山上の説教を聞きに集まった人々に対し「あなたたちは世の光」(マタイ5章14節)と呼ばれた。主イエスにとって御自分の御言葉を行おうと積極的に反応する「聞く耳のある者」(マルコ4章23節)は「ともし火」(同21節)である。

(注)別エントリー「試論:『光を輝かせなさい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13889

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節『言』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13546

(注)別エントリー「試論:『何を聞いているかに〜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14017

試論:「富は、天に積みなさい」を140文字以内で

主イエスはマタイ6章19節以下で「あなたたちは地上に富を積んではならない。富は、天に積みなさい。あなたの富のあるところに、あなたの心もある」と仰せになった。これに関連して、箴言23章4節は「富を必要以上に得ようとして、神経を使い過ぎるな。善悪の分別を失う前に止めなさい」と戒める。

(注)別エントリー「『何も持たずに』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17534

【追記】

マタイ6章11節「わたしたちの日ごとの糧を今日お与え下さい」一テモテ6章6節〜8節「信心とは貪欲ではない者にとっては大きな利得の道です。というのも、わたしたちは何も持たずにこの世に来て、何も持たずにこの世から出て行かなければならないからです。衣食が足りるならば良しとすべきです」。

(注)別エントリー「『日ごとの糧』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17530

フィリピ3章8節「わたしの主キリスト・イエスを知ったがゆえに、わたしは他の一切を失ってしまいましたが、それらはわたしにとって無価値です」マタイ13章44節「畑に宝が隠されているが見つけた人はそのまま隠しておき、喜びながら帰り、全財産をすっかり売り払ってでもその畑を買うであろう」。

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11494

主はマタイ13章45節以下で、「天の国」を全財産と引き換えにしてでも手に入れるべき真珠にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「天の国」は「永遠の命」と同義だが、「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

ルカ10章25節の律法学者と18章18節の議員は同じ質問をした。ただ議員には「心・精神・力・思いを尽くして」の観点が欠けていた。主は議員に、「持ち物を全て売り払う」という表現で勧告なさったが、この表現はマタイ13章44節〜45節のたとえでは《あらゆる努力を尽くす》を象徴している。

(注)別エントリー「試論:『善きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

試論:「迷信としての終末預言」を140文字以内で

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると教えられた(ルカ21章22節)。旧約聖書は現代のどこの国の軍事行動も正当化しない。

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4783

(注)別エントリー「旧約聖書と『偽教師』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17476

【追記】

【問】主イエスはマタイ11章13節で〔旧約〕聖書の預言はヨハネの時までと仰せですが、ルカ24章とヨハネ5章39節では〔旧約〕聖書は御自分について証ししていると仰せです。
【答】「ヨハネの時」には洗礼者自身が預言した内容、つまり救い主の到来と差し迫った神の怒りまでが、含まれています。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ5章39節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9100

(注)別エントリー「試論:預言解釈の基本を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5092

(注)別エントリー「試論:『滅びを避けるには』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5749

【問】洗礼者が預言した「差し迫った神の怒り」(マタイ3章8節)とは何ですか?
【答】主イエスも数年後にルカ21章20節で予告されたエルサレム及びユダヤの滅亡のことで、この予告は洗礼者の預言の四十数年後、紀元七〇年に成就しました。この滅亡は、ダニエル9章の預言でも啓示されていました。

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

試論:「救いの創始者」を140文字以内で

マタイ1章21節は「自分の民を罪から救う」ルカ1章77節は「罪の赦しによる救い」と記し、主御自身もマタイ6章13節で「悪い者から救って下さい」と《主の祈り》を教えられ、ガラテヤ1章4節は「この悪の世からわたしたちを救い出そうとして御自身をわたしたちの罪のために献げられた」と記す。

(注)別エントリー「主の御降誕:救い主は何から人々を救うのだろうか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4445

(注)別エントリー「救いの創始者(ヘブライ2章10節)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13705

試論:「何も持たずに」を140文字以内で

マタイ6章11節「わたしたちの日ごとの糧を今日お与え下さい」一テモテ6章6節〜8節「信心とは貪欲ではない者にとっては大きな利得の道です。というのも、わたしたちは何も持たずにこの世に来て、何も持たずにこの世から出て行かなければならないからです。衣食が足りるならば良しとすべきです」。

(注)別エントリー「『日ごとの糧』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17530

【追記】

フィリピ3章8節「わたしの主キリスト・イエスを知ったがゆえに、わたしは他の一切を失ってしまいましたが、それらはわたしにとって無価値です」マタイ13章44節「畑に宝が隠されているが見つけた人はそのまま隠しておき、喜びながら帰り、全財産をすっかり売り払ってでもその畑を買うであろう」。

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11494

主はマタイ13章45節以下で、「天の国」を全財産と引き換えにしてでも手に入れるべき真珠にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「天の国」は「永遠の命」と同義だが、「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

主イエスはマタイ6章で「主の祈り」を教えられた。11節「わたしたちの日ごとの糧」の「糧」とヨハネ6章35節の「わたしは命のパン」の「パン」とは原文のギリシア語では同じで、古代のギリシア語訳イザヤ55章10節「糧」も同じだが同節で「糧」は「主の御言葉」(ヨハネ1章1節参照)を指す。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』到来の目的を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10216

エレミヤ5章14節は主の御言葉を「火」に喩え、これを踏まえられ主イエスはルカ12章49節で「わたしは地上に火を投ずる」と仰せになった。他方イザヤ55章10節は主の御言葉を「糧」に喩えるが、ならばマタイ6章11節「わたしたちの日ごとの糧」の「糧」も、やはり主の御言葉を暗示している。

(注)別エントリー「試論:『イエスの御言葉こそ糧』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14841

主は山上の説教で「神の義に飢え渇く人は幸い。その人は満たされる」と仰せになった。その理由はヨハネ6章35節で説明される。「わたしは命のパンである。わたしの許に来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」同7章37節「渇く人は、わたしの許で飲みなさい」。

(注)別エントリー「試論:『わたしが与える水』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10708

ヨハネ6章27節「人の子は、あなたたちに永遠の命へと至る食べ物を与える」35節「わたしがその命のパンである」イザヤ55章2節〜3節「わたしに聞き従うならば、あなたたちは良いものを豊富に享受するだろう。あなたたちはわたしの許に来て、それに耳を傾けて聞き従い、魂に命を得させなさい」。

ヨハネ6章51節「わたしが与えるパンとは世を生かすための、わたしの肉のことである」同33節「神のパンは天から降(くだ)って来て世に命を与える」マルコ14章22節「これはわたしの体である」申命記8章3節「人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出る、全ての御言葉によって生きる」。

主はヨハネ6章27節で御自分の仰せになる《神の御言葉》を「永遠の命に至る食べ物」にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「永遠の命にあずかる」と「天の国を受け継ぐ」は同義だが、御言葉を日々味わうことによって人は天の国を受け継ぐにふさわしい存在へと少しずつ霊的に成長するからである。

(注)別エントリー「試論:『主の祈り』と最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7047

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

ヨハネ6章27節「あなたたちは、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」32節「わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる」33節「神からのパンは、天から下って来て人間世界に命を与える」35節「わたしこそが、その命のパンである。わたしの許に来る者は、飢えることが決してない」。

ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは「御自分でお話しになる神」の意味で《天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神》主イエスを表す称号であり、直接お話しになった記録が福音書である。福音書を読まないことは主イエス・キリストを理解しようとしないことに等しい。

主は「神の義に飢え渇く人は幸いである。その人は満たされる」と仰せになったが、ルカ10章では自分を「義化」(29節)しようとして踏み込んだ質問をした律法学者に対して、憐れみの心(33節)と「神の義」と隣人愛(27節)と永遠の命(25節)は全て事実上重なっていることをお教えになった。

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4544

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346

(注)別エントリー「試論:隣人愛と『心の中で憎む』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10483

「日ごとの糧」

主は「主の祈り」で「日ごとの糧を今日お与えください」(マタイ6章11節、ルカ11章3節)と祈るよう教えられた。マタイ6章34節では「その日の苦労はその日だけで十分」ともお教えになった。出エジプト記16章でも安息日を除けば基本的にその日の一日分ごとに、「マナ」は民へ与えられていた。

マタイ6章11節は「われらの日用の糧を今日われらに与え給え」と祈るが、詩編111編5節は「主は御自身を畏れる人に糧をお与えになる」同145編19節は「主を畏れる人の願いはかなえられる」と歌い、箴言8章13節は「主を畏れることは悪を憎むこと」とし、傲慢・悪事・暴言との絶縁を勧める。

詩編145編19節は「主を畏れる人々の願いはかなえられる」箴言10章24節は「神に従う人の願いはかなえられる」と説く。箴言8章13節は「主を畏れることは悪を憎むこと」とし、主を畏れる人と無縁な事柄を「傲慢、驕り、悪の道、暴言を吐く口」とする。これらを行う人の願いはかなえられない。

マタイ6章で主は、祈る際の「これ見よがし」的な態度を避けるように人々を戒められ、「隠れたことを見ておられる天の父が報いてくださる」と仰せになった。サムエル上1章13節「ハンナは心のうちで祈っていて、唇は動いていたが声は聞こえなかった」その結果19節「主は彼女を御心に留められた」。

(注)別エントリー「神に対する確信を140文字以内で」も参照のこと。
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詩編145編19節は「主を畏れる人々の願いはかなえられる」とし、箴言10章24節は「神に従う人の願いはかなえられる」と説く。マタイ7章7節は「求めなさい。そうすれば与えられる」と主の御言葉を教え、ヨハネ14章13節は「わたしの名によって願うことは何でもかなえてあげよう」とも記す。

ヨハネ2章のカナでの婚礼の際、3節の母の言葉に対し、主は4節でその真意を測りかねる答えをされた。しかし母は5節で、願いが聞き入れられたことを確信して召し使いたちに言葉をかけた。その理由は一ヨハネ5章14節以下に、「これが神に対するわたしたちの確信」という表現とともに記されている。

ルカ18章で主は「やもめと裁判官」のたとえを話されたが、それは「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるため」(1節)で、「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる」また「これがわたしたちの神に対する確信」と一ヨハネ5章14節は教える。

詩編145(144)編19節には「主は御自分を畏れる人々の望みをかなえられ、彼らの救いを求める叫びを聞けば願いを聞き入れてくださる」とある。主イエスは水の上から沈みかけたペトロにすぐ手を延ばしてつかまえられ、悪霊に苦しめられ続ける娘を持つカナンの女性の叫びに願いを聞き入れられた。

コヘレト12章13節は「全てに耳を傾けて得た結論」として「神を畏れ神の戒めを守れ」「それこそが人間の全て」と締め括る。8章12節では「神を畏れる人は畏れるからこそ幸福になる」と記し、箴言8章13節は「主を畏れることは悪を憎むこと」として、傲慢・驕り・悪の道・暴言を吐く口を戒める。

(注)別エントリー「試論:聖霊とは縁遠い人を140文字以内で」も参照のこと。
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エレミヤ5章14節は主の御言葉を「火」に喩え、これを踏まえられ主イエスはルカ12章49節で「わたしは地上に火を投ずる」と仰せになった。他方イザヤ55章10節は主の御言葉を「糧」に喩えるが、ならばマタイ6章11節「わたしたちの日ごとの糧」の「糧」も、やはり主の御言葉を暗示している。

(注)別エントリー「試論:『パンと御言葉は不可分』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10226

(注)別エントリー「試論:『地上に火を投ずる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7803

(注)別エントリー「試論:『火も剣も御言葉の比喩』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7812

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『剣』と『言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7807

(注)別エントリー「試論:『人間をとる漁』のたとえを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8982

(注)別エントリー「試論:ヨハネ14章6節の『道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9342

(注)別エントリー「試論:動かし難い物の比喩『山』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9551

(注)別エントリー「試論:『山』と『高慢』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9201

(注)別エントリー「試論:『水と根』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7416

「赦し」と「憐れみ」と「命」

マタイ6章14節〜15節「あなたがたが人を容赦するなら天の父もあなたがたを容赦されるが、あなたがたが人を容赦しないなら天の父もあなたがたを容赦されない」は同5章7節「憐れみ深い人は幸いである。その人は憐れみを受ける」などと、表現を変えながら福音書の随所に登場する、重要事項である。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346

箴言12章28節「憐れみの道にこそ命がある。この道を行く人に死はない」ルカ6章35節以下「敵に親切にし、善を行い、何も当てにせず貸しなさい。そうすれば、あなたたちはいと高き方であられる天の御父の子となり、大きな報いを受ける。あなたたちも天の御父のように憐れみ深い者になりなさい」。

(注)別エントリー「試論:『永遠の命の言葉を持つ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11244

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

申命記30章15節には「わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く」とある。この章で「命」は、「祝福」(1節)「幸い」(5節)「恵み」「実り」「繁栄」「喜び」(9節)等の総称で、20節は「あなたの神、主を愛し、御声を聞き、付き従いなさい。それこそあなたの命である」と説く。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
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有名な「命の木」という表現は創世記と黙示録に登場し、主なる神が人間のために準備された何物かを指す言葉だが、箴言3章18節では知恵に関連してこの表現を用いて、それが幸福の源であると示す。11章30節「神に従う人の結ぶ実」13章12節「叶えられた望み」15章4節「癒しを与える言葉」。

(注)別エントリー「試論:『主にとって赦しも癒し』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ1章4節は「言(ことば)の内に命があり、命は人間を照らす光」と記す。これはヨブ33章27節以下「わたしは罪を犯し正義を曲げたが、すべきでなかった。神はわたしの魂を滅びから救われ、命を得てわたしは光を仰ぐ」を踏まえており、主が御言葉で人間の魂を滅びから救われることを宣言する。

(注)別エントリー「試論:『人間を照らす光』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7227

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『御言葉によって生きる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11157

ローマ8章6節の直訳は「肉の思いは死、霊の思いは命と平和」。ヘブライ人は人間由来の事柄を「肉」、神に由来する事柄を「霊」と呼び、あらゆる幸福を「命」あるいは「平和」と総称した。この節は「人間由来の願望は死で終わるが、神に由来する願望は人間をあらゆる幸福へと導く」という意味である。

(注)別エントリー「試論:『肉と霊』の対比を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ガラテヤ5章の『肉と霊』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:聖書と『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ5章9節「平和を実現する人」の「平和」とは、福音書の時代の人々にとっては単に戦争のない(終わった)状態を意味する以外に個々の健康や幸福・繁栄、人間関係の協調・一致や発展、社会や国家の安寧、暴動や反乱のない状態、心の(霊的な)安定など、物事が好転している状況の総称でもあった。

(注)別エントリー「試論:『柔和な人は幸いである』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『心の清い人は神を見る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5937

主はマタイ6章12節で「われらが負債ある人を赦す如く、われらの負債を赦したまえ」と仰せになったが、同18章21節の「仲間を容赦しない家来のたとえ」で意味を詳しく御説明され、また35節は「あなたがた一人一人が心から兄弟を赦さないなら、天の御父もあなたがたに同じようになさる」と記す。

ガラテヤ5章24節や同6章14節は、「神の国と神の義」(マタイ6章33節)に相応しくない現世的な「肉の業」(ガラテヤ5章19節以下)と絶縁する決意や日々のそのための努力を、負うべき十字架にたとえた。マタイ6章12節の「負い目」とは、「肉の業」つまり人間の「過ち」(14節)を指す。

主はマタイ10章38節で、御自分に従いつつも当人が抱える良心の問題と向き合わない者を批判された。それだと「御言葉を聞くと喜んで受け入れるが当人に根がないので、御言葉のために艱難や迫害が起こるとすぐつまずく者」(13章20節〜21節)だからである。信仰は一時の熱意や高揚感ではない。

二コリント12章7節でパウロは、自分が高慢にならぬように神はサタンからの使いが付きまとうことを認められたと記す。サタンがパウロを苦しめた方法は想像に難くなく、「お前は忠実な弟子を気取ってるが、元はステファノの殺害に賛成していた男だし、ダマスコ行きの目的も迫害のためだっただろ?」。

マタイ18章の「仲間を容赦しない家来」のたとえで主は、「わたしがお前を憐れんだようにお前も仲間を憐れんでやるべきではなかったか」の言葉通り他人を容赦することこそ憐れみそのものであると説明され、一人一人が心から兄弟を容赦しないのならば天の御父も一人一人に同じくなさると警告なさった。

(注)別エントリー「試論:自分が裁かれないためにはを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5501

(注)別エントリー「試論:赦しの重要性を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5390

(注)別エントリー「試論:主の祈りと赦しを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5305

(注)別エントリー「試論:他人を赦すことを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5300

試論:「ラッパを吹き鳴らす」?を140文字以内で

主イエスはマタイ6章2節で「憐れみの業を行う際に、自分の前でラッパを吹き鳴らすな」と仰せになった。聖書で「ラッパ」は、しばしば神の威厳に満ちた御声による仰せの比喩だが、主はここで、神のお告げのような仰々しい物言いで自己宣伝する行為や相手に対する恩着せがましい態度を戒めておられる。

【追記】

黙示録1章10節や4章2節は、ラッパのように響く大声という表現を用いる。1章ではヨハネが声の主(ぬし)を確かめようと振り向き「顔は強く照り輝く太陽のようであった」(16節)ことで「主の変容」を思い出し、主の「天上の体」を目撃する。ラッパは神の威厳に満ちた力強い御声のたとえである。

(注)別エントリー「試論:『主の変容』と御復活を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14552

古代のギリシア語旧約聖書は「角笛」(新共同訳)と訳されるヘブライ語に対して、新約聖書本文中で「ラッパ」(新共同訳)と訳されるギリシア語を、当てている。ヘブライ12章19節で言及される「ラッパ」はシナイ山の出来事と関連し、出エジプト19章や20章で言及される「角笛」に対応している。

主イエスはマタイ6章17節で「断食の際は頭に油を付け、顔を洗う」よう教えられた。コヘレト9章8節は「どんな時も純白の衣を着て、頭に香油を絶やすな」と日々を爽やかな心持ちで過ごすことを勧めており、主イエスが「頭に油を付け」と勧められる理由も結局は万事を自然な態度でという点に尽きる。

主イエスは、マタイ5章14節で「あなたたちは世の光」16節で「光を輝かせなさい」と仰せになった。「光」はイザヤ58章8節と10節の通り神の御言葉に従う憐れみの業を象徴している。ただし主イエスはマタイ6章で、その業を行う際にはこれ見よがしな態度で見せびらかさないよう厳に戒められた。

主はマタイ5章14節で「あなたがたは世の光」ヨハネ8章12節で「わたしは世の光」「わたしに従う者は暗闇の中を歩まず命の光を持つ」と仰せになった。同1章4節は「御言葉のうちに命があり、命は人間を照らす光」と記す。イザヤ58章6節以下では隣人に心を配り助けを惜しまない人に、光が伴う。

(注)別エントリー「試論:『世の光と一タラントン』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11353

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『わたしは命である』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11586

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章4節『命の光』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7297

主イエスの「善きサマリア人のたとえ」で、サマリア人は「傷に油とぶどう酒を注ぎ包帯をして、宿屋に連れて行って介抱した」(ルカ10章34節)。さらに、その後のことを宿屋の主人に依頼しておくのも忘れなかった。自分の手に負える範囲を超える際には他人の手を借りる方が良い場合も当然あり得る。

(注)別エントリー「試論:『善きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

古代のイスラエル人は、「困っている人に心を配る」(イザヤ58章10節)ことを表現する際には「霊魂を注ぐ」という言い回しを用いた。従ってルカ11章41節「器(=人間)の中にある物(=霊魂)を施せ」の意味は《揚げ足取りをいい加減に止めて、隣人に心を配ることだけを心掛けなさい》である。

(注)別エントリー「試論:『土の器』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6902

(注)別エントリー「『土の器』(つちのうつは)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14324

試論:エゼキエル書38章の戦争を140文字以内で

エゼキエル書38章で預言されている戦争において「ゴグ」の侵略目的は、「金銀」や「財産」や「家畜」の「略奪」ではないかと周辺から「非難」を受ける性質のものであり、現代人がイメージする近未来の戦争とは程遠く、まして家畜の略奪が話題にされるような戦争が「世界最終戦争」であるわけがない。

(注)別エントリー「予備的考察:いわゆる『エゼキエル戦争』【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15520

【追記】

エゼキエル書38章から39章に言及される軍隊の主力は騎兵部隊で現代人がイメージする近未来の戦争とは程遠く、また軍隊全体の武装も大盾・小盾・剣・兜・弓矢・棍棒・槍の類いで前近代的と形容せざるを得ず、この戦争を「世界最終戦争」とか「終末預言」とか言い立てるのは羊頭狗肉もはなはだしい。

エゼキエル書38章12節はゴグが「地上(イスラエル)」の「中心(エルサレム)」を襲う主要目的の一つに、「財産」を挙げる。エルサレムが圧倒的に富裕な「中心」たり得るのは、神殿税や献金の集まる神殿の所在地だからであり、従ってこの戦争が勃発するのはエルサレムに神殿が存在する時代である。

約二千六百年前にエゼキエルが「マゴグのゴグ」預言の啓示を受けて以降、「メシェク」を現在のロシアの首都モスクワと関連付ける解釈は二千年以上の間、存在しないに等しかった。「メシェク=モスクワ」説は約五百年前に始まった比較的新しい解釈だが古代史や考古学の立場からは空想も同然の話である。

(注)別エントリー「試論:エゼキエル戦争を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4921

ルネサンスと宗教改革の後ヨーロッパでは「ヨーロッパ人はノアの子ヤフェトの末裔」とする説が広まり、創世記の系図上の人名と現実に存在する国々とを組み合わせる様々な説が提唱されたが、東欧を中心にロシアの膨張を警戒する諸国で「メシェク=モスクワ」説が流行したのも、ある意味では当然だった。

エゼキエル書38章では北方の諸民族を中心とした大軍団がイスラエルに侵攻して一大危機が到来すると預言されているが、39章の最後ではこの戦争の後にはイスラエルが元の繁栄の時代に戻るとも預言されていることから、この戦争は「世界最終戦争」ではありえないし、この預言は「終末預言」でもない。

ルカ21章22節において、主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると明言されており、それは紀元七〇年に現実のこととなった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代や近未来の世界情勢に関して旧約聖書の預言から考える行為は無意味である。

旧約聖書の預言は第一義的に主イエス・キリストの到来及びその前後までの歴史的出来事をあかしするためのものであり、キリスト到来から約二千年後に生きる現代人が国際情勢を読み解くためのものではなく、国際情勢分析など本来の意義とは無関係の完全な逸脱行為であり、真理には絶対にたどり着けない。

バビロン捕囚からの帰還と主イエス・キリストの御降誕との間の約五百年で、アンティオコス四世エピファネスによる迫害ほどイスラエル人にとって苛酷な惨劇はなかった。エゼキエル書38章で預言されている危機的状況をマカバイ記の時代の惨劇とは全く無関係と捉えるのは、やはり解釈として無理がある。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

エゼキエル書38章には「マゴグのゴグ」預言があり、13節「タルシシュの商人」に関して古代のギリシア語聖書は「タルシシュ」を「カルタゴ」と解釈したが、商業国カルタゴは紀元前146年には既に滅亡しており、従って「マゴグのゴグ」預言はカルタゴ滅亡以前の時期に実現していなければならない。

19世紀前半の作家エドガー・アラン・ポーは、紀元前二世紀のシリア王アンティオコス四世エピファネスを題材にした、「エピマネス(狂人)」という作品を書いたが、その冒頭には「アンティオコス・エピファネスは、一般的に預言者エゼキエルのいうところのゴグと見なされている」などと記されている。

「敵を愛する」???

主イエスは敵を愛するよう命じられたが既にそれはモーセの律法に存在した。出エジプト23章4節〜5節「あなたの敵の牛やろばがさまよっているのを見たなら、その家畜を敵のところへ帰してやりなさい。あなたを憎む者のろばが重荷の下敷きになっているのを見たなら、その者と共にろばを助けなさい」。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

主はマタイ5章44節で「敵を愛する」ように教えられたが、のちに具体例としてルカ10章30節以下で「善きサマリア人のたとえ」をお話しになった。このたとえは、当時ユダヤ人とサマリア人とが実際には、交流すら避けるほど不仲の間柄であった(ヨハネ4章9節等参照)という状況を前提にしている。

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4544

一人の律法学者は自分を「義化」(ルカ10章29節)しようとして(「義人」(マタイ1章19節)とするために)、隣人愛(ルカ10章27節)に関して、主に、踏み込んだ質問を行なった。主は、憐れみの心(33節)と「神の義」と隣人愛と永遠の命(25節)は事実上重なっているとお教えになった。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

マタイ5章43節で主は、「『隣人を愛し、敵を憎め』と教えられている。しかし、〜」と仰せになった。隣人愛の掟はレビ19章18節に由来する。「敵を憎め」の方の由来は「主よ、あなたを憎む者をわたしも敵とみなし憎む。敵に屈しはせず、とことんわたしも憎む」(詩編139編21節以下)である。

ダビデは詩編139編21節〜22節で「敵」を憎むことを神なる主に誓ったが、この場合「敵」とは「あなたを憎む者」すなわちサタン(悪魔)である。一方、主イエス・キリストが「敵」を愛することをお勧めになる時、その場合「敵」とは「悪人」(マタイ5章39節、45節)すなわち同じ人間を指す。

主はマタイ5章39節で、悪人に「対抗」(ルカ21章15節)してはならないと仰せになった。原文のギリシア語は「全面的に対抗する」「徹底的に応戦する」というニュアンスであり、それも含めてマタイ5章で主は早期の和解を勧められ、同じギリシア語で悪魔への「対抗」をヤコブ4章7節では勧める。

マタイ5章39節の原文の表現を調べると、主が禁じたのは悪人と同じ次元(行為や目的)の報復や応戦であり、逃れる手段があれば用いてもよく(ヨハネ8章59節)言説による反論もよい(同18章23節)。もちろん女性が暴行から逃れる目的で男性に抵抗するのもよい(同じ目的の応戦に該当しない)。

主はマタイ5章39節で悪人に手向かってはならないと仰せになったが、主がここで禁じられたのは<悪人と同じ次元の争い事>つまり、悪人と同じ手段で報復を行い自分も悪事に手を染めることだった。38節で「目には目、歯には歯」に言及されたのはそのためで、報復の連鎖に陥らぬよう主は戒められた。

ヨハネ18章で主が逮捕されて大祭司のもとで尋問を受けた際、「返事の仕方」のことで大祭司の「下役」に難癖をつけられ、主は平手打ちを受けた。もちろん主は不当な暴力に対して暴力で返すことなどなさらなかった(マタイ5章39節参照)が、不当な言い掛かりに対して主張すべき事柄は主張なさった。

モーセの律法には「目には目」という表現が登場するが、これはあくまで公的な裁判における刑罰の基準を示すものであって、その目的はイスラエルの民に悪事が蔓延するのを防ぐ(申命記19章19節以下)ためであり、私的な復讐の基準ではなく元来、復讐は律法で許されていない(レビ記19章18節)。

箴言12章28節「憐れみの道にこそ命がある。この道を行く人に死はない」ルカ6章35節以下「敵に親切にし、善を行い、何も当てにせず貸しなさい。そうすれば、あなたたちはいと高き方であられる天の御父の子となり、大きな報いを受ける。あなたたちも天の御父のように憐れみ深い者になりなさい」。

主はマタイ5章22節で「怒ってはならない」と仰せになった。ヤコブ1章20節は「人の怒りは神の義を実現しない」と記し、同19節は「だれでも聞くのに早く、話すのに遅く、怒るのに遅いようにしなさい」2章13節では「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下される」と警告している。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
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箴言28章14節は「いつも気を配っている者は幸いであるが、周囲に厳しい者は苦難に陥る」と記し、神に対しても隣人に対してもどんな物事に対しても注意深く慎重に接する人はそうそう困難に遭うことはないが、万事に頑固で当たりの強い者はそれだけ様々な面倒事に巻き込まれ易いものだと説いている。

「神は高慢な者を敵とする」と聖書は随所(箴言3章34節等)で教える。ただし高慢な人の破滅を準備するのは、実は高慢な人自身である。高慢な人は周囲を侮り、眼中にないかのように配慮もなく、高慢な人の態度を嫌った周囲の人々は高慢な人が窮地に陥っても援助や協力の手を差し延べようとはしない。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『永遠の命の言葉を持つ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11244

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

試論:「預言や奇跡よりも」を140文字以内で

「預言」「奇跡」の類いばかりをキリスト教の中に見出そうとする人々は結局、「真理」(ヨハネ14章6節)であるキリストに対する真の信仰に到達できない。主イエスはマタイ7章21節以下の通り、預言よりも奇跡よりも悪霊を追い出すことよりも悪を行わないことの方をこそ重視される神だからである。

(注)別エントリー「試論:『永遠の命を得るには?』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11171

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

【追記】

一ペトロ2章の冒頭では、霊的な成長とは悪意・偽り・偽善・ねたみ・悪口を捨て去ることと示唆し、使徒言行録8章では、魔術師シモンが聖霊のしるしを金で買おうとしてペトロに非難された。主イエスもマタイ7章22節以下で預言や奇跡や悪霊を追い出すことより悪を行わないことが重要と仰せになった。

(注)別エントリー「試論:『幼子のように』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11080

(注)別エントリー「試論:『主よ、主よ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5380

主イエスはマルコ4章26節以下の「種」のたとえで信仰の成長をお教えになったが、ヨハネ3章では同様の事柄をニコデモに別の表現で御説明され、同章8節は聖霊を「風」と表現する。同章とマルコ4章を比較すると、種が芽を出して日々ゆっくり成長するように聖霊は静かに働き続けると示唆されている。

聖パウロのガラテヤ書5章によれば、聖霊が働いている徴は愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・節制(22節〜23節)であり、聖霊が不在である徴は姦淫・わいせつ・好色・偶像礼拝・魔術・敵意・争い・そねみ・怒り・利己心・不和・仲間争い・ねたみ・泥酔・酒宴(19節〜21節)などである。

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを確実に識別できる基準」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4564

聖霊の七つの賜物という特別の恵みは、古代のギリシア語訳またラテン語訳のイザヤ書11章2節〜3節の記述に基づいており、

【1】知恵(上智)
【2】分別(識別)
【3】思慮(賢慮)
【4】剛毅(勇気)
【5】〔主に関する〕知識
【6】〔主に対する〕孝愛(信心)
【7】〔主に対する〕畏敬

などである。

(注)別エントリー「試論:聖霊降臨と聖母を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4990

パウロは一コリント14章33節で神は混乱(無秩序)の神ではないと記し、同30節で集会中に複数人が同時並行的に言葉を発することを禁じ37節で混乱は主の流儀ではないことを示唆した。ヨハネ17章11節等で主イエスが強く願われ使徒言行録4章32節で実現した、「一つ」に違反するからである。

(注)別エントリー「試論:『心も思いも』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10376

(注)別エントリー「試論:『混乱の神ではない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10363

主はヨハネ6章27節で御自分の仰せになる《神の御言葉》を「永遠の命に至る食べ物」にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「永遠の命にあずかる」と「天の国を受け継ぐ」は同義だが、御言葉を日々味わうことによって人は天の国を受け継ぐにふさわしい存在へと少しずつ霊的に成長するからである。

(注)別エントリー「試論:『パンと御言葉は不可分』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10226

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『主の祈り』と最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7047

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

一ペトロ2章の冒頭は「霊的な乳飲み子」について語っているが、ここでペトロは「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去る」ことを要請しており、当然ペトロは、あまりにも有名な「人から出て来るものこそ、人を汚す」で始まる、マルコ7章20節から23節の主の御言葉を念頭に置いて説明する。

主はマタイ18章で、「心を入れ替えて子供のようにならなければ決して天の国に入ることはできない」と仰せになり、「心を入れ替える」(3節)と「自分を低くする」(4節)の二つが、子供のようになるために必要であると教えられた。弟子たちは詩編131編を歌うたび以前から学んでいたはずである。

主はマタイ18章10節で、人間と神との連絡を行う天使の存在に言及され、たとえ幼子が言語や思考や体力や行動の面でおぼつかない存在であっても、幼子の非力を侮り良からぬ行動に出る者については全てを天使が逐一、神の御前で報告し、神は全てを御存知であると仰せになった(マタイ6章6節参照)。

(注)別エントリー「試論:『他人の弱みに乗じない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7371

主はマタイ18章3節で、心を入れ替えて幼子のようになるように強く弟子たちへお命じになり、他方5章48節では、天の御父と同様に、皆も「完全」となるように主はお勧めになった。古代のギリシア語創世記では「完全」というこのギリシア語が、6章9節においてヘブライ語の「無垢」に対応している。

(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3277

主はマタイ18章6節以下で、無垢な信仰を持つ子供をつまずかせる者は不幸であり厳罰は必至だと示唆された。詩編37編23節以下は主が御旨にかなう道を人間のために準備され、また人間の手をとらえ歩みを定めておられると記す。子供をつまずかせる(御旨から外れさせる)行為は絶対に容認されない。

レビ記19章には18節に有名な隣人愛の掟があるが、それに先立つ箇所には隣人愛に反する様々な行為を禁じる掟が列挙される。14節では、耳の不自由な人がいる前でその人が聴こえないのをいいことに悪口を言う行為と、目の不自由な人が歩いて行く方向に障害物を置いて邪魔をする行為とが禁じられる。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

(注)別エントリー「試論:『理由のない憎しみ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6468

(注)別エントリー「レビ記19章17節:理由のない悪意」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4826

試論:「信仰によってアベルは」を140文字以内で

ヘブライ11章4節は「信仰によってアベルはカインより優れたいけにえを献げ、神が彼の献げ物を認められることによって彼は義人と証明された」と記す。ヘブライ人にとって信仰とは「まこと(真、実、信、誠)」に基づいたものであるべきで、この節の「信仰」とは、真心(まごころ)と同じ意味である。

(注)別エントリー「試論:詩編12編の『信仰』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17392

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

(注)別エントリー「試論:まこと(真、実、信、誠)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16274

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書の『信じる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16417

【追記】

マタイ福音書は、アダムとエバの次男アベル(23章35節)と、主の養父ヨセフを、ともに「ディカイオス(正しい人、義人)」というギリシア語で呼ぶ。二人にはもう一つ共通点がある。聖書は二人が発した言葉を収録していない。アベルを殺したカインについては、その身勝手な言い分を多数、収録する。

カインは怒りに任せ弟アベルを殺害した後、主の問いに「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」と白(しら)を切った。その後「わたしの罪は重過ぎて負い切れません」と口にしたが、この言葉は、決して反省の弁ではなく、主からの庇護(創世記4章15節「しるし」)を引き出すための口実であった。

創世記4章は、弟を殺しておきながら、「あなたが御顔を隠されたら」(14節)つまり神の庇護が失われれば自分は誰かに殺されてしまうと神に頼み込むカインの姿が描かれる。「わたしは弟の番人でしょうか」(9節)と憎まれ口を神に叩いておいてこの身勝手振りで、彼は自分自身にしか興味がなかった。

(注)別エントリー「試論:『悔い改め』とは無縁の人を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17099

カインはアベルと違って献げ物となる作物を育てる際、手間暇をかけようとせず、ろくに手入れもせず、ただ自然に育ったがままの状態のものを献げた。それでいて神に目を留められなかったことで激怒し、そうなった理由を反省せず弟の意見を参考にしようとせず両親にも相談せず、神に質問すらしなかった。

「神は高慢な者を敵とする」と聖書は随所(箴言3章34節等)で教える。ただし高慢な人の破滅を準備するのは、実は高慢な人自身である。高慢な人は周囲を侮り、眼中にないかのように配慮もなく、高慢な人の態度を嫌った周囲の人々は高慢な人が窮地に陥っても援助や協力の手を差し延べようとはしない。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

箴言28章14節「主を畏れ続ける人は幸いであるが、心のかたくなな人は、好ましからざる状況に陥る」同8章13節「主を畏れることとは、悪を憎むことである。高慢、驕り、悪の道、暴言を吐く口を、わたし(知恵)は憎む」同12節「わたしは知恵。熟慮と共に住まい、知識と慎重さを兼ね備える」。

【問】弟を殺したカインには違う道はなかったのですか?【答】なぜ弟の献げ物には神は目を留められたのに自分の献げ物にはそうされなかったのか、まず彼は弟と話し合うべきでした。間違った自尊心のために彼はそうせず、神から語り掛けられた際に神へ理由を直接質問することさえも彼はしませんでした。

【問】神はえこひいきされましたか?【答】兄は適当な気持ちで自分の産物の中からありきたりのものを神に献げましたが、弟は真心を込めて選りすぐりのものを献げました。詩編18編の通り、神は無垢な者には無垢に向き合われ心の曲がった者には背を向けられますが、兄は弟だけではなく神も恨みました。

神からアベルの不在について質問を受けた際、最初カインは神に対し白(しら)を切った。カインはそれだけでなく「わたしは弟の番人でしょうか」と憎まれ口を続け、神に対する高慢や敵意すら隠さなかった。もし神を殺せるならそうしていたのではないかと思える毒々しさがカインの言葉には込もっている。

旧約聖書第二正典の知恵の書の10章では、人類の始祖アダムが一度は過ちを犯したが、そこから立ち直って救われ、嫉妬のためにカインは神から遠ざかり、弟を殺した後も不信仰のまま死に滅び去り、カインの不信仰が人類に蔓延した結果として洪水に至った世界から神に導かれノアが箱舟で救われたと記す。

(注)別エントリー「試論:神の子と人の娘の結婚??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14394

(注)別エントリー「神の子らは人の娘たちを【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8636

主の養父をマタイ1章19節はディカイオスと表現するが、古代ギリシア語訳ハバクク2章4節はディカイオスを高慢な者と対置する。主が「人の子は仕えるために来た」(マルコ10章45節)と仰せになり、聖母が「主のはしため」(ルカ1章48節)を自称する以上、ヨセフのへりくだりは必然と言える。

(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7479

使徒たちは箴言3章34節を引用し「神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みを与えられる」(一ペトロ5章5節、ヤコブ4章6節)と説いた。主イエスもマタイ23章12節で「高慢な者は誰でも低くされ、へりくだる者は誰もが高くされる」と、御自分の弟子たちも含めて、全ての人々に仰せになった。

(注)別エントリー「試論:『恵みとへりくだり』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8781

イザヤ10章12節の「主はアッシリア王の驕った心の結ぶ実と高ぶる目の輝きを罰せられる」が示す通りヘブライ人は、「人間の心の状態は眼差し・目付きなどに反映されるため目を見ればその人の内面とりわけ高慢心が明らかになる」と考えており、マタイ6章「体のともし火は目」はこれを踏まえている。

主は「体のともし火は目」(ルカ11章34節以下、マタイ6章22節以下)と仰せになったが、当然、「あなたの内面は、まなざし・目つきで明らかにされる」という意味でも上記の表現を用いられ、箴言21章4節は《高慢なまなざしは神に逆らう者の傲慢な心を明らかにするが、傲慢は罪である》と説く。

詩編1編1節は幸いな者として「神の逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず」と歌い、「神は高慢な者を敵とされ、へりくだる者に恵みをお与えになる」(箴言3章34節、ヤコブ4章6節、一ペトロ5章5節)と同様に、高慢心は信仰と相容れないことを説く。

試論:「御言葉であるキリスト」を140文字以内で

ヨハネ1章1節は「御子である神」主イエス・キリストを、「言(ことば)」つまり《御自ら人々の前にお出ましになり御教えをお話しになる神》と表現する。従ってキリストの弟子にとって聖書の中で厳密な意味での《御言葉》と呼び得るのは、福音書及び使徒言行録の中の主イエスの実際の仰せのみである。

【追記】

一ヨハネ4章は、信者を自称しながらも主イエスに関して頑として触れようとしない人々のことを「人を惑わす霊」「反キリストの霊」「偽預言者」等と表現する。これらの人々は、福音書の中の主イエスの実際の仰せには絶対に触れず、替わりに俗世間の話や根拠不明の胡散臭い「終末預言」で人々を惑わす。

(注)別エントリー「試論:偽預言者と貪欲を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7125

(注)別エントリー「試論:『偽教師を識別する』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17303

主はルカ21章22節で、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就することを仰せになり、それは紀元七〇年に現実となった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代の世界情勢を安易に旧約聖書の預言に関連付ける行為は不毛で誤りの元であり、主の仰せにも合致していない。

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

ルカ21章22節には「書かれていること」という言い回しが用いられているが、これはヨシュア記1章8節と同様に、「預言された事柄」「神から啓示された内容」などを意味する表現である。古代においては「書く(書いて記録に残しておく)」という行為それ自体が、非常に重要な意味を持つものだった。

ダニエル9章24節はメシアに関して預言の時代を封印する存在だと預言し、主イエスはルカ21章22節で旧約聖書の全預言が(紀元七〇年の)エルサレム滅亡で成就すると仰せになった。故に現代や近未来の国際情勢と旧約聖書の預言とは無関係で、関係ありとする解釈は主の仰せとは明確に相反している。

主はヨハネ5章39節で、聖書とは御自分についてあかしするものであり、御自分を目的としない聖書研究には意味がない旨を仰せになった。これに関連し一ヨハネ4章も、主イエスに関する事柄についてなるべく触れようとしない自称信者を「偽預言者」「反キリストの霊」「人を惑わす霊」などと表現する。

ルカ17章34節から35節で主は「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」と繰り返されたが、では一体どこに「連れて行かれ」るのかを、ルカ21章24節では「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と御説明された。これは大昔モーセがレビ記26章33節以下で預言していた話と同じである。

紀元七〇年のエルサレム滅亡時にローマ軍へ投降したユダヤ人のうち、使徒言行録22章のパウロのようにローマの市民権を持つ者はローマ法の保護下にあるため留め置かれたが、そうでない者は妻子と共に奴隷とされて売り飛ばされた。こうして「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」は現実となった。

プロテスタントの文語訳聖書『改訳 新約聖書』(1917年)はルカ21章23節を「地(ち)には大(おほひ)なる艱難(なやみ)ありて、御怒(みいかり)この民(たみ)に臨(のぞ)み」と訳し、ある人々がいわゆる「大艱難時代」と呼ぶ時期とは実は紀元七〇年の滅亡の前後に他ならないと示唆する。

主はルカ21章23節でエルサレム滅亡とその前後のユダヤの苦難を予告されたが、『改訳 新約聖書』(1917年)では「大なる艱難」と日本語訳する。一世紀後半のユダヤの歴史家ヨセフスの記述通り、紀元六六年の大反乱の勃発から七三年のマサダ陥落までの七年間に、ユダヤは惨劇の連続を経験した。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ5章39節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9100

(注)別エントリー「試論:ルカ19章41節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5814

(注)別エントリー「試論:預言解釈の基本を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5092

(注)別エントリー「試論:『滅びを避けるには』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5749

(注)別エントリー「試論:エゼキエル18章を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5726

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

(注)別エントリー「試論:エゼキエル戦争を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4921

試論:「ただ器の中の物を施せ」を140文字以内で

ルカ11章41節「器の中にある物を施せ」の「器」とは「土の器」「陶器」の比喩と同様、人間を指す。「器の中にある物」は人間に吹き込まれた「命の息」(創世記2章7節)つまり「霊魂」を意味する。イザヤ58章10節のヘブライ語原文「霊魂を注ぐ」は、「心を配る」(新共同訳)ことを意味する。

(注)別エントリー「試論:『土の器』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6902

(注)別エントリー「『土の器』(つちのうつは)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14324

【追記】

古代のイスラエル人は、「困っている人に心を配る」(イザヤ58章10節)ことを表現する際には「霊魂を注ぐ」という言い回しを用いた。従ってルカ11章41節「器(=人間)の中にある物(=霊魂)を施せ」の意味は「揚げ足取りをいい加減に止めて、隣人に心を配ることだけを心掛けなさい」である。

箴言15章4節「赦しを与える言葉は命の木」にある通り旧約の民は、他者に幸福や安堵を与える事柄を「命」と表現し、主なる神から命の息を吹き込まれた人間は他者に幸福や安堵を与えることができる、という信念を持っていた。故に主はルカ11章41節で他者に幸福や安堵だけを与えるよう命じられた。

(注)別エントリー「試論:『主にとって赦しも癒し』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6013

(注)別エントリー「試論:詩編2編のメシアと鉄の杖を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11450

一人の律法学者は自分を「義化」(ルカ10章29節)しようとして(「義人」(マタイ1章19節)とするために)、隣人愛(ルカ10章27節)に関して、主に、踏み込んだ質問を行なった。主は、憐れみの心(33節)と「神の義」と隣人愛と永遠の命(25節)は事実上重なっているとお教えになった。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4544

主イエスの「善きサマリア人のたとえ」で、サマリア人は「傷に油とぶどう酒を注ぎ包帯をして、宿屋に連れて行って介抱した」(ルカ10章34節)。さらに、その後のことを宿屋の主人に依頼しておくのも忘れなかった。自分の手に負える範囲を超える際には他人の手を借りる方が良い場合も当然あり得る。

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちは、自分が他の人からしてほしいことを、自分から他の人にしなさい」と《愛の掟》を教えられた。従って「愛の反対」は「他の人からしてほしくないことをあえて他の人に行うこと」そして「他の人からしてほしいことをあえて他の人には行わないこと」からなる。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

ガラテヤ5章はヘブライ人特有の「肉と霊」の対比を用い、人間に由来する事柄を「肉」(創世記6章12節)、神に由来する事柄を「霊」と表現する。一ヨハネ4章16節「神は愛です」の具体的内容を、ガラテヤ5章22節以下では「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」と記した。

(注)別エントリー「試論:『肉と霊』の対比を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7740

(注)別エントリー「試論:『言は肉となって』???を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13411

ヨハネは第一の手紙の4章で「神は愛」と二度(8節、16節)記し、また自分の福音書で「神は御独り子をお与えになったほど、世を愛された」と記す。御独り子である主イエスの《愛の掟》は「他人からしてもらいたいことをあなたから他人にしなさい。これが律法と預言者」(マタイ7章12節)である。

一ヨハネ4章8節、16節「神は愛です」同5章3節「神を愛することとは神の掟を守ることですが、神の掟は、荷が重いものではありません」マタイ7章12節「あなたたちは、自分が他人からしてもらいたいことならどんなことであれ、自分の方から他人にしなさい。これこそが律法であり預言者である」。

一コリント9章21節「わたしは神の律法を持たないわけではなくキリストの律法に従っている」ヨハネ13章34節「わたしがあなたたちを愛したように互いに愛し合いなさい」マタイ7章12節「人からしてもらいたいと思うことは、何であれ、あなたから人にしなさい。これこそが律法と預言者である」。

ガラテヤ6章2節「互いに重荷を担い合いなさい。それがキリストの律法を全うすることになる」ヨハネ13章34節「わたしがあなたたちを愛したように互いに愛し合いなさい」マタイ7章12節「人からしてもらいたいと思うことは何であれ、あなたから人にしなさい。これこそが、律法と預言者である」。

マタイ7章12節「人からしてもらいたいと思うことは何でもあなたたちから人にしなさい。これこそが律法と預言者である」ガラテヤ5章14節「律法全体は、隣人愛の掟の実行によって、全うされます」ローマ13章8節「人を愛する者は律法を全うしています」同10節「愛は律法を全うするものです」。

マタイ5章17節「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するため」同7章12節「人からしてもらいたいと思うことは何でも、あなたたちから人にしなさい。これこそが律法と預言者」ローマ13章9節「他にどんな掟があろうとも、隣人を自分のように愛することに要約されます」。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1982

主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちが他人からしてもらいたいと思うことは全て、あなたたちから他人にしなさい」と《愛の掟》を教えられて、「これこそ律法と預言者」と宣言された。これをパウロも「キリストの律法」(一コリント9章21節、ガラテヤ6章2節)と呼びモーセの律法と対比した。

試論:「三位一体」最重要の事柄を140文字以内で

キリスト教の「三位一体」を論じる際に最も忘れてはならない重要な事柄がある。それは「御子は御父の生き写しであり、御子は御父に少しも劣るところなどない存在である」。ヨハネ14章9節「わたしを見た者は御父を見ていたのである」同11節「わたしは御父の内にあり御父はわたしの内におられる」。

【追記】

ヨハネ14章8節のフィリポの言葉「主よ、わたしたちに御父をお示しください」に対しコロサイ1章15節では「御子は、見えない神の姿」と表現した。「見えない神」とは御父であり「姿」とは《生き写し》というニュアンスをも含んでいる。ヘブライ1章3節は「神の本性の完全な具現」などと表現した。

ヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」の意味を使徒言行録4章32節は「心も思いも一つ」「持ち物を自分だけのものと主張せず共有している」と説明する。従って、御父の持ち物は御子の持ち物でもあり逆もまた然りである。ヨハネ16章15節「父が持っておられるものは全てわたしのものである」。

一ヨハネ5章は20節で「神の御子が来られ、私たちに真理である方を知る力を与えられました。私たちは真理である方の内に、またその御子イエス・キリストの内にいるのです」と記し、「この方こそ真理である神、永遠の命」と続け、御父と御子と聖霊(6節)の御三方を「真理」と呼び、唯一の神とする。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

(注)別エントリー「試論:『御子に全て委ねられた』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7629

ヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」の意味を使徒言行録4章32節は「心も思いも一つ」「持ち物を自分だけのものと主張せず共有している」と説明する。従って、御父の持ち物は御子の持ち物でもあり逆もまた然りである。ヨハネ10章38節「わたしは父の内にあり、父はわたしの内におられる」。

主はヨハネ10章30節で「わたしと父とは一つ」と仰せになった後、17章では弟子たちのために天を仰いで祈られたが、それは御父と御自分が「一つ」であるように、弟子たちもまた「一つ」となるためであった(11節、21節〜23節)。使徒言行録4章32節「信じた人々の群れは心も思いも一つ」。

ニケア・コンスタンチノープル信条「父と一体」はヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」と38節に拠り、御父と御子の間には矛盾・対立・齟齬の類は一切ないことを表す。ギリシア神話では最高神ゼウスと父クロノス、クロノスと父ウーラノスの父子相剋が存在するが、キリスト教には全く存在しない。

主はマタイ11章27節で、全てのことは御父から御自分に任せられていると仰せになった。これは、既にダニエル7章13節以下で啓示された事柄であり、マタイ28章18節やルカ10章22節やヨハネ3章35節や同13章3節等、福音書では事ある毎に強調される「真理(ヨハネ14章6節)」である。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書のアレテイアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15430

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

《御父である神、主》と《御子である神、主イエス》とは、詩編110編1節では御父は「主」、御子は「わが主」でありマタイ22章44節で御父は「主」、御子はダビデの言う「わたしの主」である。ヨハネ1章1節では御父は「神」、御子は「言(ことば)」であり、「言は神であった」と記されている。

(注)別エントリー「試論:「わたしの主」は誰?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7536

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは道」と仰せになり、「わたしを通らなければ、誰であれ御父には到達できない」と続けられた。パウロはエフェソ2章14節でユダヤ人と異邦人をこの点において隔てる壁はないと記し、ローマ10章12節でも「ユダヤ人とギリシア人の区別はない」と明言している。

「道」とは全ての人が生きる上で辿るべき道筋(道理・規範)でイエスがその模範であること、「真理」とは人が信仰・礼拝すべき三位一体の唯一の神を指し御父・御子・聖霊の間に矛盾がないこと、「命」とは幸福・安堵・充足等の人を生かすものの全てで人間にそれを授ける源は唯一の神ということを指す。

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9949

主イエスの御前でユダヤ人と異邦人の「区別」が存在しないことはエフェソ2章14節以下、使徒言行録15章9節「わたしたちと彼らの間に何の差別もなさいません」、ローマ3章29節「神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもあります」、一コリント12章13節、ガラテヤ3章28節以下等。

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは道」と仰せになり、「わたしを通らなければ、誰であれ御父には到達できない」と続けられ、また御昇天前にマタイ28章19節で「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じられた。パウロもローマ10章12節で「ユダヤ人とギリシア人の区別はない」と説く。

(注)別エントリー「試論:『イエスは全人類の模範』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5948

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7818

主が「わたしは道」(ヨハネ14章6節)と仰せになる場合、自身が御父へ通じる唯一無二の存在であると示唆するだけではなく、日本語の「人としての道から外れる」と同様に、誰もがそこを通って進んで行くべき人間としての道筋つまり御父である神の御前における模範(同13章15節)の意味をも含む。

旧約聖書と「偽教師」

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4783

一ヨハネ4章の通り偽預言者や偽教師は、主イエスが実際に仰せになった福音書の御言葉には絶対に触れようとせず、代わりに「世」すなわち俗世間や国際情勢の話で置き換える。主イエス御自身が、預言とは御自分についてあかしするものだと仰せにもかかわらず、国際情勢や「終末預言」に話をすり替える。

主イエスはヨハネ5章39節で「あなた方は〔旧約〕聖書中に永遠の命が存在すると考え〔旧約〕聖書を研究するが〔旧約〕聖書はわたしに関してあかししている」と仰せになり、御自分と無関係の目的で〔旧約〕聖書を研究したとしても本当に重要な真理には全く到達することができないと、お教えになった。

(注)別エントリー「聖書にはクリスマスの日付が載っていますか???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13267

二ペトロ2章は「偽教師」への警戒を呼びかけ、「彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にする」(3節)「昼間から享楽に耽るのを楽しみにする」(13節)「強欲」(14節)等と表現した。一般の信者が真面目に働く時間帯に美食を貪り、旅行・観光・娯楽施設と遊興三昧なのが偽教師である。

ヨハネ5章39節で主が仰せの通り、旧約聖書全体を等しく重視するよりも主イエスとその福音に関連の強い事柄を優先して学ばねばならない。例えば「正義(=「神の義」)を衣としてまとう」(詩編132編9節)という旧約聖書の慣用句を知らなければ、マタイ22章の「礼服」のたとえは理解が難しい。

(注)別エントリー「試論:『神の義』と詩編を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6798

ルカ24章のエマオでの御出現において主は、旧約聖書とは御自分について証しするものであり、実際その詳細について《全体》の説明を始めると、何時間あっても語り尽くせないことをお示しになった(27節)。主は以前にもユダヤの人々に対して同じ事柄をお話しになられていた(ヨハネ5章39節等)。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ5章46節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7208

旧約聖書の預言は第一義的に主イエス・キリストの到来及びその前後までの歴史的出来事をあかしするためのものであり、キリスト到来から約二千年後に生きる現代人が国際情勢を読み解くためのものではなく、国際情勢分析など本来の意義とは無関係の完全な逸脱行為であり、真理には絶対にたどり着けない。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

マルコ12章における律法学者との対話において主は、旧約聖書の中の多くの掟について、重要性における順序があることを再確認された。またヨハネ5章39節で、旧約聖書とは御自分について証しするものだと主は御説明され、旧約聖書を調べる目的は御自分へと到達するためであるべきだと仰せになった。

(注)別エントリー「試論:キリスト教と旧約聖書を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6527

主はヨハネ5章39節で、聖書とは御自分についてあかしするものであり、御自分を目的としない聖書研究には意味がない旨を仰せになった。これに関連し一ヨハネ4章も、主イエスに関する事柄についてなるべく触れようとしない自称信者を「偽預言者」「反キリストの霊」「人を惑わす霊」などと表現する。

(注)別エントリー「試論:『預言を封印するメシア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8347

(注)別エントリー「試論:『真の預言者すらいない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8425

(注)別エントリー「試論:『預言と私的啓示の違い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8360

二ペトロ2章は「偽教師」への警戒を呼びかけ、「彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にする」(3節)「昼間から享楽に耽るのを楽しみにする」(13節)「強欲」(14節)等と表現する。一般の信者が真面目に働いている時間帯に、連日のように臆面もなく美食を貪る者こそが偽教師である。

(注)別エントリー「試論:偽預言者と貪欲を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7125

(注)別エントリー「試論:『終末預言?ありません』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13853

(注)別エントリー「試論:有人気球と『空中』の拡大を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10270

二ペトロ2章は「偽教師」への警戒を呼びかける。彼らは「滅びをもたらす異端を持ち込み、主を拒む」(1節)、「欲が深く虚言で人々を食い物にする」(3節)、「厚かましく、わがまま」(10節)「昼間から歓楽にふけるのを愉しみとする」(13節)「無意味な大言壮語」(18節)等の特徴を持つ。

試論:「悪人に対する抵抗」を140文字以内で

マタイ5章39節の原文の表現を調べると、主が禁じたのは悪人と同じ次元(行為や目的)の報復や応戦であり、逃れる手段があれば用いてもよく(ヨハネ8章59節)言説による反論もよい(同18章23節)。もちろん女性が暴行から逃れる目的で男性に抵抗するのもよい(同じ目的の応戦に該当しない)。

【追記】

主はマタイ5章39節で、悪人に「対抗」(ルカ21章15節)してはならないと仰せになった。原文のギリシア語は「全面的に対抗する」「徹底的に応戦する」というニュアンスであり、それも含めてマタイ5章で主は早期の和解を勧められ、同じギリシア語で悪魔への「対抗」をヤコブ4章7節では勧める。

主はマタイ5章39節で悪人に手向かってはならないと仰せになったが、主がここで禁じられたのは<悪人と同じ次元の争い事>つまり、悪人と同じ手段で報復を行い自分も悪事に手を染めることだった。38節で「目には目、歯には歯」に言及されたのはそのためで、報復の連鎖に陥らぬよう主は戒められた。

主はマタイ5章39節で「悪人に対抗してはならない」と仰せになり、悪人と真っ正面からまともにぶつかって、やり合ってはならないと教えられた。これは箴言22章3節「思慮深い人は悪事を察知すれば避けようとするが、あさはかな人はそのまま突っ込んで行き災難に遭う」を再確認する御教えでもある。

ヨハネ18章で主が逮捕されて大祭司のもとで尋問を受けた際、「返事の仕方」のことで大祭司の「下役」に難癖をつけられ、主は平手打ちを受けた。もちろん主は不当な暴力に対して暴力で返すことなどなさらなかった(マタイ5章39節参照)が、不当な言い掛かりに対して主張すべき事柄は主張なさった。

モーセの律法は「目には目」(出エジプト21章24節、レビ24章20節、申命19章21節)と説くが、あくまでも公的な裁判の刑罰の基準を示すものであり、目的は悪事の蔓延の予防(申命19章19節以下)で、決して私的な復讐の基準ではなく元来復讐は律法で許されていない(レビ19章18節)。

ローマ帝国の闘技場では人間対猛獣や人間同士の格闘で多くの命が失われたが、人々は闘いに熱狂した。「力こそ正義、強者が世界を支配する」という理念の象徴がそれだったが、何かが間違っていると感じる人が徐々に増え、最終的に「頬を打たれたら反対の頬も向けよ」と語った人の教えを帝国は受容した。

二千年近く前、「力こそ正義」を地で行く最強の帝国に、属国の一つが反乱を起こした。反乱の約四十年前、その属国には長年待望されていた「メシア」が現われたが指導者たちは彼を認めず、彼は処刑されていた。反乱は鎮圧され国も都も神殿も滅亡したが約三百年後、帝国が処刑された男の教えを受容した。

試論:「信仰と悪は両立しない」を140文字以内で

ローマ5章1節は「わたしたちは信仰によって義とされた」と記す。詩編12編でダビデは、隣人に嘘をついたり隣人を早口で欺いたり言行不一致状態だったりする人々ばかりの風潮を、「信仰のある人は消え去りました」(2節。新共同訳)と表現し、悪を行う人の中に信仰の存在など断じて認めてはいない。

(注)別エントリー「試論:詩編12編の『信仰』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17392

【追記】

箴言8章13節は「主を畏れることは、悪を憎むこと」と記し「主を畏れる」を明確に定義した。同14章2節は「主を畏れる」を「主を侮る」と対置し、同章16節は「知恵ある人は主を畏れて悪を避けるが愚か者は高慢で自分を過信する」と記す。マタイ福音書で「愚かな」は聞いても実行しない人を指す。

(注)別エントリー「試論:聞くだけの人を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5294

(注)別エントリー「試論:砂の上の家を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5563

(注)別エントリー「試論:『主よ、主よ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5380

詩編145編19節は「主を畏れる人々の願いはかなえられる」箴言10章24節は「神に従う人の願いはかなえられる」と説く。箴言8章13節は「主を畏れることは悪を憎むこと」とし、主を畏れる人と無縁な事柄を「傲慢、驕り、悪の道、暴言を吐く口」とする。これらを行う人の願いはかなえられない。

マタイ6章で主は、祈る際の「これ見よがし」的な態度を避けるように人々を戒められ、「隠れたことを見ておられる天の父が報いてくださる」と仰せになった。サムエル上1章13節「ハンナは心のうちで祈っていて、唇は動いていたが声は聞こえなかった」その結果19節「主は彼女を御心に留められた」。

詩編145編19節は「主を畏れる人々の願いはかなえられる」とし、箴言10章24節は「神に従う人の願いはかなえられる」と説く。マタイ7章7節は「求めなさい。そうすれば与えられる」と主の御言葉を教え、ヨハネ14章13節は「わたしの名によって願うことは何でもかなえてあげよう」とも記す。

ヨハネ2章のカナでの婚礼の際、3節の母の言葉に対し、主は4節でその真意を測りかねる答えをされた。しかし母は5節で、願いが聞き入れられたことを確信して召し使いたちに言葉をかけた。その理由は一ヨハネ5章14節以下に、「これが神に対するわたしたちの確信」という表現とともに記されている。

ルカ18章で主は「やもめと裁判官」のたとえを話されたが、それは「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるため」(1節)で、「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる」また「これがわたしたちの神に対する確信」と一ヨハネ5章14節は教える。

詩編145(144)編19節には「主は御自分を畏れる人々の望みをかなえられ、彼らの救いを求める叫びを聞けば願いを聞き入れてくださる」とある。主イエスは水の上から沈みかけたペトロにすぐ手を延ばしてつかまえられ、悪霊に苦しめられ続ける娘を持つカナンの女性の叫びに願いを聞き入れられた。

コヘレト12章13節は「全てに耳を傾けて得た結論」として「神を畏れ神の戒めを守れ」「それこそが人間の全て」と締め括る。8章12節では「神を畏れる人は畏れるからこそ幸福になる」と記し、箴言8章13節は「主を畏れることは悪を憎むこと」として、傲慢・驕り・悪の道・暴言を吐く口を戒める。

(注)別エントリー「試論:聖霊とは縁遠い人を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8993

試論:福音書中の御言葉の重要性を140文字以内で

キリストの弟子を自称する人々は多数存在する。しかしキリストの御教えの根幹である《キリストの律法》(あなたが他の人からしてもらいたいことならなんでも、あなたから他の人にしなさい)をおろそかにしながら、いくら「自分は救われる?救われない?」と頭を悩ませても、全く意味のないことである。

(注)別エントリー「試論:『永遠の命を得るには?』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11171

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

【追記】

主はルカ13章23節で救われる者は少ないかと問われ、27節で不義を行う人々が神に拒まれると答えられた。確かに「合格者数」や「合格率」がどうしても気になってしまうのは仕方ないが、だからといって合格と不合格を分ける判断の基準に目が行かなくては本末転倒で、基準は福音書に明記されている。

(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8105

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

(注)別エントリー「試論:『救われる者は少ないか』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『命に通じる狭い門』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7118

(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6748

試論:「言」と「神の知恵」を140文字以内で

ヨハネ1章1節では神の御独り子である主イエス:キリストを「言(ことば)」すなわち「神の御言葉」と呼ぶ。他方、主はルカ11章49節では「神の知恵」と自称された。ヨハネ1章1節以下は「言」イエスは天地万物の創造以前に既に存在されていたと説き、箴言8章22節以下は類似の内容を叙述する。

【追記】

「言(ことば)」とは、《御自ら人々の前に現れて直に御言葉を語られる御子(おんこ)である神なる主イエス・キリスト》を指し、この節の意味は「万物創造の前から御子である主イエスは存在され、御子イエスは御父である神と共にいついかなる時もおられ、御子イエスも御父同様に完全な神であられた」。

パウロは一コリント1章24節で「召された者に対しては、神の力であり神の知恵であるキリストを宣べ伝えている」、同30節で「このキリストはわたしたちにとって神の知恵となり」と記す。主イエスもルカ11章49節で「神の知恵もこう言っている」と「神の知恵」を自称なさり仰せを宣べられている。

シラ4章11節では「知恵は、自分に従う者を高め、自分を追い求める者を助ける」と説く。主はルカ7章35節で「知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される」と仰せになり、11章49節では御自身を「神の知恵」と称された。一コリント1章24節と30節もキリストを神の知恵と呼ぶ。

ヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」の意味を使徒言行録4章32節は「心も思いも一つ」「持ち物を自分だけのものと主張せず共有している」と説明する。従って、御父の持ち物は御子の持ち物でもあり逆もまた然りである。ヨハネ16章15節「父が持っておられるものは全てわたしのものである」。

一ヨハネ5章は20節で「神の御子が来られ、私たちに真理である方を知る力を与えられました。私たちは真理である方の内に、またその御子イエス・キリストの内にいるのです」と記し、「この方こそ真理である神、永遠の命」と続け、御父と御子と聖霊(6節)の御三方を「真理」と呼び、唯一の神とする。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

(注)別エントリー「試論:『御子に全て委ねられた』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7629

ヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」の意味を使徒言行録4章32節は「心も思いも一つ」「持ち物を自分だけのものと主張せず共有している」と説明する。従って、御父の持ち物は御子の持ち物でもあり逆もまた然りである。ヨハネ10章38節「わたしは父の内にあり、父はわたしの内におられる」。

主はヨハネ10章30節で「わたしと父とは一つ」と仰せになった後、17章では弟子たちのために天を仰いで祈られたが、それは御父と御自分が「一つ」であるように、弟子たちもまた「一つ」となるためであった(11節、21節〜23節)。使徒言行録4章32節「信じた人々の群れは心も思いも一つ」。

ニケア・コンスタンチノープル信条「父と一体」はヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」と38節に拠り、御父と御子の間には矛盾・対立・齟齬の類は一切ないことを表す。ギリシア神話では最高神ゼウスと父クロノス、クロノスと父ウーラノスの父子相剋が存在するが、キリスト教には全く存在しない。

主はマタイ11章27節で、全てのことは御父から御自分に任せられていると仰せになった。これは、既にダニエル7章13節以下で啓示された事柄であり、マタイ28章18節やルカ10章22節やヨハネ3章35節や同13章3節等、福音書では事ある毎に強調される「真理(ヨハネ14章6節)」である。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書のアレテイアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15430

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

《御父である神、主》と《御子である神、主イエス》とは、詩編110編1節では御父は「主」、御子は「わが主」でありマタイ22章44節で御父は「主」、御子はダビデの言う「わたしの主」である。ヨハネ1章1節では御父は「神」、御子は「言(ことば)」であり、「言は神であった」と記されている。

(注)別エントリー「試論:「わたしの主」は誰?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7536

試論:詩編12編の「信仰」を140文字以内で

詩編12(11)編においてダビデは、隣人に嘘をついたり隣人を早口で欺いたり言行不一致状態だったりする人々ばかりの風潮を、「信仰のある人は消え去りました」(12編2節、新共同訳)と表す。ここで「信仰」と訳されるヘブライ語を、古代のギリシア語訳聖書はアレテイア(真理、まこと)と訳す。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

【試論】

ヨハネ福音書は「信仰」を表現する際、他の福音書が用いるピスティスという語を用いず代わりにアレテイア(真理、まこと)という語を多用する。ヨハネにとって信仰とは、人の真心に対し真心で応じられる神なる主に向かって嘘偽りや裏表のない態度で接することに他ならず、これは当時の共通認識だった。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書のアレテイアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15430

主イエスに関してヨハネ福音書は「真理」を事ある毎に強調しイエスに偽りはなかったと説く。裏を返せばイエスの敵たちがイエスに難癖を付けるためなら偽りの告発を平然と行って恥じなかったことをも記している。「ガリラヤからは預言者は出ない」という難癖もヨナという先例がいる以上は虚偽であった。

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

ヨハネ7章52節に「ガリラヤからは預言者は出ない」という敵たちの難癖がある。彼らの発言は誤りで、預言者ヨナの出身地は列王下14章25節にガト・へフェルと記される。ヨシュア19章13節ではガト・へフェルはゼブルン族の領土で、そこはイザヤ8章23節の通り福音書の時代のガリラヤである。

(注)別エントリー「試論:『ガリラヤからの預言者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15449

主イエスはヨハネ14章6節で「真理」を自称されたが、プロテスタントの「改訳 新約聖書』(1917年)は「まこと」と平仮名を振り、旧約聖書で「まこと」と訳される語との関連を示唆する。嘘偽りや裏表がないこと、上っ面だけでなく内実を伴うこと、真心には真心で返されること等を意味している。

(注)別エントリー「試論:まこと(真、実、信、誠)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16274

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書の『信じる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16417

試論:神の知恵としてのキリストを140文字以内で

パウロは一コリント1章24節で「召された者に対しては、神の力であり神の知恵であるキリストを宣べ伝えている」、同30節で「このキリストはわたしたちにとって神の知恵となり」と記す。主イエスもルカ11章49節で「神の知恵もこう言っている」と「神の知恵」を自称なさり仰せを宣べられている。

【追記】

シラ4章11節では「知恵は、自分に従う者を高め、自分を追い求める者を助ける」と説く。主はルカ7章35節で「知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される」と仰せになり、11章49節では御自身を「神の知恵」と称された。一コリント1章24節と30節もキリストを神の知恵と呼ぶ。

主イエスはヨハネ15章26節で聖霊を「弁護者」「真理の霊」と呼ばれ、前章の26節に続いて聖霊が弟子たちを助けてくれると教えられた。イザヤ11章2節は「主の霊」の賜物の筆頭を知恵と啓示する。箴言8章12節は「知恵は熟慮と共に住まい知識と慎重さを備える」と記し、熟慮と慎重さを勧める。

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを確実に識別できる基準」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4564

イエスをルカ2章40節は「知恵に満ち神の恵みに包まれていた」と記し、ヨハネ1章14節では「恵みとアレテイアに満ちていた」と記すがヨハネはアレテイアを「忠実(わたしが父の掟に忠実であるように皆もわたしの掟に忠実であれ)」の意味で使う。聖書の知恵とは主への忠実(箴言1章7節)である。

(注)別エントリー「試論:『主を畏れる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10751

(注)別エントリー「試論:『信仰とアレテイア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16847

試論:「全て共有するから一つ」を140文字以内で

ヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」の意味を使徒言行録4章32節は「心も思いも一つ」「持ち物を自分だけのものと主張せず共有している」と説明する。従って、御父の持ち物は御子の持ち物でもあり逆もまた然りである。ヨハネ16章15節「父が持っておられるものは全てわたしのものである」。

【追記】

一ヨハネ5章は20節で「神の御子が来られ、私たちに真理である方を知る力を与えられました。私たちは真理である方の内に、またその御子イエス・キリストの内にいるのです」と記し、「この方こそ真理である神、永遠の命」と続け、御父と御子と聖霊(6節)の御三方を「真理」と呼び、唯一の神とする。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

(注)別エントリー「試論:『御子に全て委ねられた』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7629

ヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」の意味を使徒言行録4章32節は「心も思いも一つ」「持ち物を自分だけのものと主張せず共有している」と説明する。従って、御父の持ち物は御子の持ち物でもあり逆もまた然りである。ヨハネ10章38節「わたしは父の内にあり、父はわたしの内におられる」。

主はヨハネ10章30節で「わたしと父とは一つ」と仰せになった後、17章では弟子たちのために天を仰いで祈られたが、それは御父と御自分が「一つ」であるように、弟子たちもまた「一つ」となるためであった(11節、21節〜23節)。使徒言行録4章32節「信じた人々の群れは心も思いも一つ」。

ニケア・コンスタンチノープル信条「父と一体」はヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」と38節に拠り、御父と御子の間には矛盾・対立・齟齬の類は一切ないことを表す。ギリシア神話では最高神ゼウスと父クロノス、クロノスと父ウーラノスの父子相剋が存在するが、キリスト教には全く存在しない。

主はマタイ11章27節で、全てのことは御父から御自分に任せられていると仰せになった。これは、既にダニエル7章13節以下で啓示された事柄であり、マタイ28章18節やルカ10章22節やヨハネ3章35節や同13章3節等、福音書では事ある毎に強調される「真理(ヨハネ14章6節)」である。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書のアレテイアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15430

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

《御父である神、主》と《御子である神、主イエス》とは、詩編110編1節では御父は「主」、御子は「わが主」でありマタイ22章44節で御父は「主」、御子はダビデの言う「わたしの主」である。ヨハネ1章1節では御父は「神」、御子は「言(ことば)」であり、「言は神であった」と記されている。

(注)別エントリー「試論:「わたしの主」は誰?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7536

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは道」と仰せになり、「わたしを通らなければ、誰であれ御父には到達できない」と続けられた。パウロはエフェソ2章14節でユダヤ人と異邦人をこの点において隔てる壁はないと記し、ローマ10章12節でも「ユダヤ人とギリシア人の区別はない」と明言している。

「道」とは全ての人が生きる上で辿るべき道筋(道理・規範)でイエスがその模範であること、「真理」とは人が信仰・礼拝すべき三位一体の唯一の神を指し御父・御子・聖霊の間に矛盾がないこと、「命」とは幸福・安堵・充足等の人を生かすものの全てで人間にそれを授ける源は唯一の神ということを指す。

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9949

主イエスの御前でユダヤ人と異邦人の「区別」が存在しないことはエフェソ2章14節以下、使徒言行録15章9節「わたしたちと彼らの間に何の差別もなさいません」、ローマ3章29節「神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもあります」、一コリント12章13節、ガラテヤ3章28節以下等。

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは道」と仰せになり、「わたしを通らなければ、誰であれ御父には到達できない」と続けられ、また御昇天前にマタイ28章19節で「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じられた。パウロもローマ10章12節で「ユダヤ人とギリシア人の区別はない」と説く。

(注)別エントリー「試論:『イエスは全人類の模範』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5948

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7818

主が「わたしは道」(ヨハネ14章6節)と仰せになる場合、自身が御父へ通じる唯一無二の存在であると示唆するだけではなく、日本語の「人としての道から外れる」と同様に、誰もがそこを通って進んで行くべき人間としての道筋つまり御父である神の御前における模範(同13章15節)の意味をも含む。

試論:「売買できぬようにした」を140文字以内で

黙示録13章17節は。「地」つまり古代イスラエルの地を支配している「獣」の刻印がある者でなければ売買できぬようになると啓示する。これは、ローマに大反乱を起こしたユダヤで偽救世主が、ローマ皇帝の肖像と銘が入る貨幣(マタイ22章21節)の替わりに、自分の貨幣を発行すると暗示している。

(注)別エントリー「『旧約』の時代はいつの時点で終わったのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15210

【追記】

ヨハネ5章43節で主は、自分はユダヤ人に受け入れられないが、将来、別の人物が現われて受け入れられると予告された。約四十年後、ローマへの大反乱のさなかに、シモン・バルギオラが主と同様の歓呼を受けて都に入城し指導者に納まった。やがて都と神殿は滅ぼされバルギオラも捕らえられ処刑された。

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

(注)別エントリー「試論:『今の時代』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5596

主の御降誕から第二神殿の滅亡までエルサレムに七人の「王」が君臨した。ヘロデ大王、アルケラオス、アンティパス、アグリッパ一世、アグリッパ二世がヘロデ王家の人で、ヘロデ王家のユダヤ退去後の独裁者ギスカラのヨハネが六人目に該当し、ローマ帝国に処刑されたシモン・バルギオラが七人目である。

(注)別エントリー「試論:『荒らす憎むべき者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16905

(注)別エントリー「試論:黙示録17章『第八の者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9038

(注)別エントリー「試論:黙示録の『第八の者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12097

(注)別エントリー「試論:黙示録17章『十本の角』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9155

(注)別エントリー「試論:黙示録18章を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5394

(注)別エントリー「試論:黙示録16章を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5086

「天地が消え去る」の「天」とは、神がお住まいになる場所と見なされたエルサレム神殿とりわけその聖所を指し、二ペトロ3章はその滅亡が近いことを説く。「地」はエゼキエル7章2節同様、イスラエルの地を指す。紀元七〇年にエルサレムと神殿は滅亡しユダヤ(イスラエル人の国家)も同じく消滅した。

(注)別エントリー「試論:『もろもろの天を通過』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13750

黙示録13章16節「右手や額に刻印を」は、古代のヘブライ人には周知の表現で、出エジプト記13章9節と16節や申命記6章8節に同様の記述があり、申命記11章18節では従順また雅歌8章6節では愛情表現とも関連している。「第二の獣」が自身への従順や愛情さえも強要する所業のたとえである。

雅歌8章6節は男女の愛情の証として「腕に印章を刻む」という当時の慣用句を用いる。神と神の民の関係を古代のヘブライ人は花婿と花嫁の関係に喩えたが、これを踏まえて黙示録13章を再考すると、「第二の獣」が「小羊」つまりキリストを真似て人々に自分への愛と崇拝を強要する行為の比喩と分かる。

(注)別エントリー「試論:『花婿と花嫁』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5665

(注)別エントリー「試論:『主イエスこそ真の花婿』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7379

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7514

古代のイスラエルは、神と神の民との関係をしばしば花婿と花嫁の関係にたとえた。洗礼者ヨハネは、イエスを「花婿」と呼んで自身は「花婿の介添人」と称した。主イエスを歓呼の裡に迎え入れながら数日で死に至らしめた都を、黙示録が「大淫婦」と呼んだ理由は、イエスこそ花婿に他ならないからである。

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

イザヤ62章5節は「神と神の民」の関係を「花婿と花嫁」の関係にたとえたが、ヨハネ3章29節で洗礼者が「花婿の介添人」を自称する場合、「花婿」が主イエス・キリストであるのは、いうまでもない。洗礼者は、「花婿」と「花嫁」を引き合わせるまでが自分の役割と心得て、30節の言葉を口にした。

ヨハネの黙示録17章5節には「淫婦の母、地上のあらゆる憎むべきものの母である大バビロン」と書かれているが、ゼカリヤ書2章11節では、エルサレムの住民が「バビロンの娘」という表現で呼び掛けられている。当時のエルサレムの住民は、かつてバビロンに連行されて住み着いた人々の子孫であった。

(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1699

〔注〕別エントリー「七つの山々の都エルサレム」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/854

黙示録21章1節は「最初の天と最初の地は過ぎ去った」と記す。詩編78編69節はエルサレム神殿の聖所を天地に喩えた。主イエスはマタイ5章18節で全てのことが実現し天地が消え失せるまで律法の時代は続くと仰せになり、ルカ21章22節でエルサレム滅亡で全てのことが実現するとも予告された。

古代のヘブライ人は詩編78編69節の通り、エルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。これを踏まえれば、主イエスのルカ21章33節の仰せ「やがて天地は滅びるであろうが、わたしの言葉は決して滅びない」の意味は、「エルサレムと神殿の滅亡後も、わたしの教えと信仰は生き続ける」である。

(注)別エントリー「試論:『最初の天地が過ぎ去る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16809

主はマタイ5章18節で、全てのことが実現して天地が消え失せるまではモーセの律法も消え失せないと仰せになり、ルカ21章22節ではエルサレム滅亡で預言が全て実現すると予告され、紀元七〇年にそれは成就した。詩編78編69節の通りヘブライ人はエルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。

(注)別エントリー「試論:ルカ19章41節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5814

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

ルカ17章34節から35節で主は「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」と繰り返されたが、では一体どこに「連れて行かれ」るのかを、ルカ21章24節では「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と御説明された。これは大昔モーセがレビ記26章33節以下で預言していた話と同じである。

紀元七〇年のエルサレム滅亡時にローマ軍へ投降したユダヤ人のうち、使徒言行録22章のパウロのようにローマの市民権を持つ者はローマ法の保護下にあるため留め置かれたが、そうでない者は妻子と共に奴隷とされて売り飛ばされた。こうして「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」は現実となった。

(注)別エントリー「試論:神の国の到来と『主の日』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5578

試論:『はい』と『いいえ』を140文字以内で

主イエスはマタイ5章33節〜37節で誓ってはならないと教えられ、また『はい』『いいえ』をはっきりさせなければならず、「それ以上のことは悪い者から出る」と仰せになった。ヤコブ5章12節と二コリント1章17節以下も同様に説き、箴言10章19節は「口数が多ければ罪は避けえない」と説く。

試論:「わたしが愛したように」を140文字以内で

【問】主イエスはヨハネ13章34節で、「わたしが愛したように、あなたたちは互いに愛し合いなさい」と教えられましたが、どこで「わたしが愛したように」という模範をお示しになりましたか?【答】同14節〜15節「わたしがあなたたちの足を洗ったようにあなたたちもするようにと模範を示した」。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

【追記】

ヨハネ13章34節「わたしがあなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合いなさい」の「わたしがあなたたちを愛したように」は、同章15節「模範を示した」を踏まえる。他人から尊重されたり敬意を払われたりした経験がない人には、なぜ他人に対する尊重と敬意が必要か理由を理解できない。

(注)別エントリー「試論:新しい掟とキリストの模範を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17092

試論:「貞潔とは」を140文字以内で

主イエスはマタイ5章28節で「淫らな思いを抱きながら他人の妻を見る者は誰でも、心の中では既にその女性を犯している」と仰せになった。箴言6章25節は男性に対し、女性の美に心を奪われはならず必要以上に女性のまなざしを追ってはならないと戒めている。箴言9章17節は「悪魔の囁き」を記す。

【追記】

主イエスはマタイ5章29節で「体の一部がなくなっても全身が地獄に投げ込まれない方がまし」と仰せになり、「悪魔と、その手下のために用意してある永遠の火」(同25章41節)を絶対に避けるよう教えられた。一コリント9章27節は、他の人に宣教しながら自分が失格者にならないようにと戒める。

ダビデは詩編38編5(4)節で、自分の過去の罪悪を「重荷」と呼び、以前の過失の記憶が神の御前で良心を責めると歌う。サムエル下11章の通りダビデは以前に家臣ウリヤの妻バト・シェバに横恋慕し、彼女を手に入れるために夫を激戦地の最前線に送り込み敵に殺させる、という非道な所業を実行した。

ダビデは多くの妻がありながら家臣ウリヤの妻に横恋慕してつまずき、数多くの異邦出身の妻たちのためにソロモンはイスラエルに異教礼拝を持ち込むのを容認した。処女懐胎後の婚約者の妊娠に苦悩したが道を間違えなかったヨセフの姿は、女性に惑わされて道を誤ったダビデやソロモンとは雲泥の差がある。

ダビデは多くの妻がありながら家来ウリヤの妻に横恋慕してつまずき、ソロモンは多数の異邦出身の妻たちのためにイスラエルに異教礼拝を持ち込むのを容認した。婚約者の妊娠に苦悩したが道を誤らず幼子と母を守り通したヨセフに比べれば、女性で道を誤ったダビデやソロモンはあさましい凡人に過ぎない。

試論:「偽りの霊」を140文字以内で

一ヨハネ4章は、信者を自称しながらも主イエスに関して頑として触れようとしない人々のことを「人を惑わす霊」「反キリストの霊」「偽預言者」等と表現する。これらの人々は、福音書の中の主イエスの実際の仰せには絶対に触れず、替わりに俗世間の話や根拠不明の胡散臭い「終末預言」で人々を惑わす。

(注)別エントリー「試論:偽預言者と貪欲を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7125

(注)別エントリー「試論:『偽教師を識別する』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17303

【追記】

主はルカ21章22節で、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就することを仰せになり、それは紀元七〇年に現実となった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代の世界情勢を安易に旧約聖書の預言に関連付ける行為は不毛で誤りの元であり、主の仰せにも合致していない。

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

ルカ21章22節には「書かれていること」という言い回しが用いられているが、これはヨシュア記1章8節と同様に、「預言された事柄」「神から啓示された内容」などを意味する表現である。古代においては「書く(書いて記録に残しておく)」という行為それ自体が、非常に重要な意味を持つものだった。

ダニエル9章24節はメシアに関して預言の時代を封印する存在だと預言し、主イエスはルカ21章22節で旧約聖書の全預言が(紀元七〇年の)エルサレム滅亡で成就すると仰せになった。故に現代や近未来の国際情勢と旧約聖書の預言とは無関係で、関係ありとする解釈は主の仰せとは明確に相反している。

主はヨハネ5章39節で、聖書とは御自分についてあかしするものであり、御自分を目的としない聖書研究には意味がない旨を仰せになった。これに関連し一ヨハネ4章も、主イエスに関する事柄についてなるべく触れようとしない自称信者を「偽預言者」「反キリストの霊」「人を惑わす霊」などと表現する。

ルカ17章34節から35節で主は「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」と繰り返されたが、では一体どこに「連れて行かれ」るのかを、ルカ21章24節では「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と御説明された。これは大昔モーセがレビ記26章33節以下で預言していた話と同じである。

紀元七〇年のエルサレム滅亡時にローマ軍へ投降したユダヤ人のうち、使徒言行録22章のパウロのようにローマの市民権を持つ者はローマ法の保護下にあるため留め置かれたが、そうでない者は妻子と共に奴隷とされて売り飛ばされた。こうして「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」は現実となった。

プロテスタントの文語訳聖書『改訳 新約聖書』(1917年)はルカ21章23節を「地(ち)には大(おほひ)なる艱難(なやみ)ありて、御怒(みいかり)この民(たみ)に臨(のぞ)み」と訳し、ある人々がいわゆる「大艱難時代」と呼ぶ時期とは実は紀元七〇年の滅亡の前後に他ならないと示唆する。

主はルカ21章23節でエルサレム滅亡とその前後のユダヤの苦難を予告されたが、『改訳 新約聖書』(1917年)では「大なる艱難」と日本語訳する。一世紀後半のユダヤの歴史家ヨセフスの記述通り、紀元六六年の大反乱の勃発から七三年のマサダ陥落までの七年間に、ユダヤは惨劇の連続を経験した。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ5章39節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9100

(注)別エントリー「試論:ルカ19章41節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5814

(注)別エントリー「試論:預言解釈の基本を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5092

(注)別エントリー「試論:『滅びを避けるには』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5749

(注)別エントリー「試論:エゼキエル18章を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5726

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

(注)別エントリー「試論:エゼキエル戦争を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4921

試論:体の一部がなくなっても?を140文字以内で

主イエスはマタイ5章29節で「体の一部がなくなっても全身が地獄に投げ込まれない方がまし」と仰せになり、「悪魔と、その手下のために用意してある永遠の火」(同25章41節)を絶対に避けるよう教えられた。一コリント9章27節は、他の人に宣教しながら自分が失格者にならないようにと戒める。

【追記】

ルカ6章46節「あなたたちはわたしを『主よ、主よ』と呼んでおきながら、なぜわたしが言っていることを、行わないのか?」ヨハネ8章51節「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことはない」ガラテヤ5章6節「キリスト・イエスに結びついているのなら、愛の実践を伴う信仰こそ重要です」。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

マタイ7章21節「わたしに向かって、『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るのではなく、わたしの天の父の御心を行う者だけ入る」ヨハネ13章34節「わたしがあなたがたを愛したように、愛し合いなさい」ガラテヤ5章6節「キリスト・イエスに結ばれているなら、愛の実践を伴う信仰こそ大切」。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:新都エルサレムに住む条件を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11197

マタイ25章45節で主は「この小さな者の一人にしなかったことは、わたしにしなかったことである」と仰せになり、隣人愛の実行を神への愛の基準にすると宣言された。従って「私は周囲とはトラブルを起こしてばかりですが、主よ、あなたへの愛だけは誰にも負けません」という自己申告は、通用しない。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

ヨハネ14章15節で主は「わたしを愛しているのなら、わたしの掟を守りなさい」と仰せになり御自身が教えられた掟を守ることをもって御自身への愛を判断すると宣言された。従って、「私はあなたの掟を守れてはいませんが、主よ、あなたへの愛だけは誰にも負けません」という自己申告は、通用しない。

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

マタイ25章45節「この小さな者の一人にしなかったことは、わたしにしなかったことである」は、一ヨハネ4章20節で「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」と繰り返され、21節は神から受けた掟として「神を愛する人は兄弟をも愛すべきです」と断言している。

試論:神からの賜物「良心」を140文字以内で

「内側」を表すギリシア語が新約聖書で持つ特別な意味は二コリント4章で「土の器に納めた宝」(7節)「内なる人」(16節)に喩えられ、「イエス・キリストの御前に輝き心の内で輝く、神の栄光を悟る光」(6節)「イエスの命」(19節、11節)等と表現される「良心」=「真理」(2節)である。

(注)別エントリー「『土の器』(つちのうつは)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14324

【追記】

詩編31編でダビデは、さまざまな意味で衰えてきた自分の肉体を「壊れた器」(13節)と表現した。また二コリント4章7節でパウロは、人間の「外側」つまり「肉」の部分を、「土の器」と表現した。古代のヘブライ人の世界観では人間の肉体は土から取られて土に返る(創世記3章19節)定めである。

エレミヤ18章の有名な「陶工と粘土」の話にある通り、「土の器」(二コリント4章7節、黙示録2章27節、哀歌4章2節、イザヤ45章9節)とは、人間〔の特に脆さと弱さ〕を表す表現である。古代のヘブライ人の世界観(創世記3章19節参照)では人間の肉体は土から取られて土に返る定めにある。

古代のイスラエル人は、「困っている人に心を配る」(イザヤ58章10節)ことを表現する際には「霊魂を注ぐ」という言い回しを用いた。従ってルカ11章41節「器(=人間)の中にある物(=霊魂)を施せ」の意味は「揚げ足取りをいい加減に止めて、隣人に心を配ることだけを心掛けなさい」である。

ルカ11章41節「器の中にある物を施せ」の「器」とは「土の器」「陶器」の比喩と同様、人間を指す。「器の中にある物」は人間に吹き込まれた「命の息」(創世記2章7節)つまり「霊魂」を意味する。イザヤ58章10節のヘブライ語原文「霊魂を注ぐ」は、「心を配る」(新共同訳)ことを意味する。

(注)別エントリー「試論:『器の中にある物を施せ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11264

(注)別エントリー「試論:詩編2編のメシアと鉄の杖を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11450

イザヤ58章9節「もしもあなたが隣人を圧迫することをやめるなら、もしもあなたが隣人を侮ることをやめるなら、もしもあなたが隣人を言葉で傷つけることをやめるなら、あなたが主を呼ぶ時には必ず主は御答えになり、あなたが主に向かって叫ぶ時には必ず主は『わたしはここにいる』と御返事される」。

箴言15章4節「赦しを与える言葉は命の木」にある通り旧約の民は、他者に幸福や安堵を与える事柄を「命」と表現し、主なる神から命の息を吹き込まれた人間は他者に幸福や安堵を与えることができる、という信念を持っていた。故に主はルカ11章41節で他者に幸福や安堵だけを与えるよう命じられた。

(注)別エントリー「試論:『主にとって赦しも癒し』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6013

「道」とは全ての人が生きる上で辿るべき道筋(道理・規範)でイエスがその模範であること、「真理」とは人が信仰・礼拝すべき三位一体の唯一の神を指し御父・御子・聖霊の間に矛盾がないこと、「命」とは幸福・安堵・充足等の人を生かすものの全てで人間にそれを授ける源は唯一の神ということを指す。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

試論:アダムとカインを140文字以内で

一ヨハネ5章16節は「死に至らない罪」と「死に至る罪」を対比する。旧約聖書第二正典の知恵の書10章はアダムとカインを対比し、カインは弟を殺しただけでなく「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」と神に嘘をつき、その上で神に対しても敵意を剥き出しにして、最後まで全く反省しなかった。

(注)別エントリー「試論:アベルとヨセフを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17350

【追記】

エゼキエル18章「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は仰せになる。彼が悪から立ち帰って生きることを喜ばないだろうか。お前たちが犯した全ての背きを投げ捨てて新しい心と霊を造り出せ。どうしてお前たちは死んでよいだろうか。お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」。

エフェソ4章の後半では、「神にかたどって造られた新しい人」として生きるために、「怒ることはあっても罪を犯してはならない」「日が暮れるまで怒ったままではいけない」「悪い言葉を一切口にしない」「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどの全てを、一切の悪意とともに捨てる」等を勧めている。

(注)別エントリー「試論:『怒ってはならない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10341

主はマタイ5章22節で「怒ってはならない」と仰せになった。ヤコブ1章20節は「人の怒りは神の義を実現しない」と記し、同19節は「だれでも聞くのに早く、話すのに遅く、怒るのに遅いようにしなさい」2章13節では「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下される」と警告している。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

主イエスはマタイ7章22節以下で、神が人々に求めておられるのは預言でも奇跡でも悪霊を追い出すことでもなく、ただ悪を行わないことだと示唆された。ヨセフは1章19節で義人と呼ばれるが、25章の最後の審判では義人は隣人の困り事に親身に対応する無私の人そして永遠の命を確約された人を指す。

箴言28章14節は「いつも気を配っている者は幸いであるが、周囲に厳しい者は苦難に陥る」と記し、神に対しても隣人に対してもどんな物事に対しても注意深く慎重に接する人はそうそう困難に遭うことはないが、万事に頑固で当たりの強い者はそれだけ様々な面倒事に巻き込まれ易いものだと説いている。

「神は高慢な者を敵とする」と聖書は随所(箴言3章34節等)で教える。ただし高慢な人の破滅を準備するのは、実は高慢な人自身である。高慢な人は周囲を侮り、眼中にないかのように配慮もなく、高慢な人の態度を嫌った周囲の人々は高慢な人が窮地に陥っても援助や協力の手を差し延べようとはしない。

試論:「神の義」「狭い門」何?を140文字以内で

主イエスは「神の義を求めなさい」(マタイ6章33節)「狭い門から入りなさい」(同7章13節)と仰せになり、それらが何のことなのか、その答えもお教えになっていた。《あなたが他の人からしてもらいたいことならなんでも、あなたから他の人にしなさい。これこそ律法であり預言者の教えである》。

【追記】

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちは、自分が他の人からしてほしいことを、自分から他の人にしなさい」と《愛の掟》を教えられた。従って「愛の反対」は「他の人からしてほしくないことをあえて他の人に行うこと」そして「他の人からしてほしいことをあえて他の人には行わないこと」からなる。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

マタイ7章は「門」という比喩で、「神の国」に入るための条件「神の義」(6章33節)を表現した。これは詩編118編19節以下「義の門よ開け。この門は主の門だ。主に従う者はここから入る」とともに、イザヤ26章2節「門よ開け。信仰を守って神の義に従う民が入れるように」とも関連している。

(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8105

(注)別エントリー「試論:『神の義』と詩編を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6798

「愛の反対」とは??

ローマ13章10節は「愛は隣人に悪を行わない」と記す。これに従えば「愛の反対」とは「隣人に悪を行うこと」である。マタイ7章21節以下「わたしを『主よ、主よ』と呼ぶ者が皆、天の国に入るわけではない」「不法を働く者どもよ、わたしから離れ去れ。わたしはお前たちのことなど全く知らない」。

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

マタイ7章23節では主なる神が「不法を働く者たちよ、おまえたちなど知らない」と仰せになると記す。全知全能の神が彼らを知らぬはずはないが、神は知らないとあえて仰せになる。この場合「知らない」は拒絶の意味だが、不法を働く者こそが御教えを「知らない(わからない)」と拒絶した結果である。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

マタイ22章14節「招かれる者は多く選ばれる者は少ない」7章21節「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心(=神の義)を行う者だけが入る」23節「不法を行う者ども、あなたたちのことなどわたしは全く知らない。わたしから離れ去れ」。

(注)別エントリー「試論:『神は誰を選ばれるのか』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8051

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8105

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

ローマ3章28節では「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」と記すが、30節では「神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とされ、割礼のない者をも信仰のゆえに義とされる」と説く。つまり「人が義とされるのは割礼〔の有無〕によるのではなく、信仰による」の意味合いである。

ローマ3章でパウロは、「信仰」「律法」という表現で実際は、

《イエス・キリストを信仰する人々にとっての新しい掟=愛の掟》と、

《イエスを認めぬ人々の古い掟=律法の掟》を比較した。

人間を「義」とするのは《律法の掟》の実行ではなく、信仰に基づく《愛の掟》の実践(ガラテヤ5章6節)による。

(注)別エントリー「試論:『新しい掟』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7016

(注)別エントリー「試論:『永遠の命を得るには?』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11171

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

マタイ22章14節「招かれる者は多く選ばれる者は少ない」の《選ばれない理由》をイザヤ65章12節は「呼んでも答えず、語りかけても聞かず、わたしの目に悪とされることを行い、わたしの喜ばないことを選んだからである」と記した。「笛を吹いたのに踊ってくれなかった」(マタイ11章17節)。

イザヤ59章2節「あなたたちの悪こそが、神とあなたたちの間を隔て、あなたたちの罪こそが、神の御顔を隠させ、神があなたたちに耳を傾けられるのを妨げている」ヨハネ14章24節「本当はわたしのことなど愛してはいない者は、決して御父とわたしの言葉や掟を受け入れはせず守ろうなどとしない」。

マタイ22章14節「招かれる者は多く選ばれる者は少ない」ルカ13章23節「救われる者は少ないのですか」27節「不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」マタイ6章33節「神の国と神の義を求めなさい」ヨハネ14章23節「わたしを愛する者はわたしの言葉を守り父とわたしはその人と住む」。

主はマタイ7章26節で「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は、砂の上に家を建てる人に似ている」と教えられた。22章14節「招かれる者は多いが選ばれる者は少ない」とは、《わたしの教えを耳にしたことのある者は多いが、それを真摯に受け止めて日々実践している者は少ない》という意味である。

主はマタイ13章45節以下で、「天の国」を全財産と引き換えにしてでも手に入れるべき真珠にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「天の国」は「永遠の命」と同義だが、「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「試論:『主の祈り』と最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7047

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

二テモテ3章でパウロは「終わりの時」の人々の姿を記した。自分本位で金銭を愛し、嘘をつき、神を畏れず嘲り、両親に従わず、恩知らずで、他人を侮り、情け容赦なく、強情で、中傷し、節度がなく、残酷で、善を行わず、裏切り、軽率かつ高慢、信仰を装いつつ実際は快楽を愛し、事実上は棄教している。

エフェソ4章の後半以降(17節以下)では、洗礼を受けた人が取るべき(また避けるべき)態度を教える。悪態をつき、無慈悲で、平然と悪口を言い、思う通りにならないと大声で喚き、怒鳴り散らし、相手が幼子や女性だと小馬鹿にして勝ち誇る人がいたとして、誰が彼のことを信者だなどと思うだろうか?

(注)別エントリー「試論:『ねたみや利己心のある』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12116

主イエスはマタイ5章16節で「あなたたちの光を、人々の前に輝かせなさい」と仰せになった。イザヤ58章6節〜10節では主からの賜物である光が輝く条件として、他人を圧迫したり小馬鹿にしたり暴言を吐いたりすることをやめて、困窮している隣人に救いの手を差し延べることであると啓示している。

主イエスはマタイ5章16節で「光を、人々の前に輝かせなさい。人々が立派な行いを見て、天の父をあがめるようになるため」と仰せになった。神からの光が人々に伴って輝くのはどんな時かがイザヤ58章9節〜10節に記されているが、憐れみの業を行うと共に自分の中の悪意を放棄しなければならない。

(注)別エントリー「試論:『人心荒廃は滅亡の前兆』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6291

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

マタイ5章で主は、「あなたがたは世の光」(14節)、「あなたがたの光を、人々の前に輝かせなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(16節)と仰せになり、行いを伴わぬ信仰など役に立たない(ヤコブ2章14節)ことをお話しになった。

(注)別エントリー「試論:行いを欠く信仰を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5360

(注)別エントリー「試論:『地の塩』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5586

イザヤ58章9節「もしもあなたが隣人を圧迫することをやめるなら、もしもあなたが隣人を侮ることをやめるなら、もしもあなたが隣人を言葉で傷つけることをやめるなら、あなたが主を呼ぶ時には必ず主は御答えになり、あなたが主に向かって叫ぶ時には必ず主は『わたしはここにいる』と御返事される」。

試論:アベルとヨセフを140文字以内で

マタイ福音書は、アダムとエバの次男アベル(23章35節)と、主の養父ヨセフを、ともに「ディカイオス(正しい人、義人)」というギリシア語で呼ぶ。二人にはもう一つ共通点がある。聖書は二人が発した言葉を収録していない。アベルを殺したカインについては、その身勝手な言い分を多数、収録する。

【追記】

カインは怒りに任せ弟アベルを殺害した後、主の問いに「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」と白(しら)を切った。その後「わたしの罪は重過ぎて負い切れません」と口にしたが、この言葉は、決して反省の弁ではなく、主からの庇護(創世記4章15節「しるし」)を引き出すための口実であった。

創世記4章は、弟を殺しておきながら、「あなたが御顔を隠されたら」(14節)つまり神の庇護が失われれば自分は誰かに殺されてしまうと神に頼み込むカインの姿が描かれる。「わたしは弟の番人でしょうか」(9節)と憎まれ口を神に叩いておいてこの身勝手振りで、彼は自分自身にしか興味がなかった。

(注)別エントリー「試論:『悔い改め』とは無縁の人を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17099

カインはアベルと違って献げ物となる作物を育てる際、手間暇をかけようとせず、ろくに手入れもせず、ただ自然に育ったがままの状態のものを献げた。それでいて神に目を留められなかったことで激怒し、そうなった理由を反省せず弟の意見を参考にしようとせず両親にも相談せず、神に質問すらしなかった。

「神は高慢な者を敵とする」と聖書は随所(箴言3章34節等)で教える。ただし高慢な人の破滅を準備するのは、実は高慢な人自身である。高慢な人は周囲を侮り、眼中にないかのように配慮もなく、高慢な人の態度を嫌った周囲の人々は高慢な人が窮地に陥っても援助や協力の手を差し延べようとはしない。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

箴言28章14節「主を畏れ続ける人は幸いであるが、心のかたくなな人は、好ましからざる状況に陥る」同8章13節「主を畏れることとは、悪を憎むことである。高慢、驕り、悪の道、暴言を吐く口を、わたし(知恵)は憎む」同12節「わたしは知恵。熟慮と共に住まい、知識と慎重さを兼ね備える」。

【問】弟を殺したカインには違う道はなかったのですか?【答】なぜ弟の献げ物には神は目を留められたのに自分の献げ物にはそうされなかったのか、まず彼は弟と話し合うべきでした。間違った自尊心のために彼はそうせず、神から語り掛けられた際に神へ理由を直接質問することさえも彼はしませんでした。

【問】神はえこひいきされましたか?【答】兄は適当な気持ちで自分の産物の中からありきたりのものを神に献げましたが、弟は真心を込めて選りすぐりのものを献げました。詩編18編の通り、神は無垢な者には無垢に向き合われ心の曲がった者には背を向けられますが、兄は弟だけではなく神も恨みました。

神からアベルの不在について質問を受けた際、最初カインは神に対し白(しら)を切った。カインはそれだけでなく「わたしは弟の番人でしょうか」と憎まれ口を続け、神に対する高慢や敵意すら隠さなかった。もし神を殺せるならそうしていたのではないかと思える毒々しさがカインの言葉には込もっている。

旧約聖書第二正典の知恵の書の10章では、人類の始祖アダムが一度は過ちを犯したが、そこから立ち直って救われ、嫉妬のためにカインは神から遠ざかり、弟を殺した後も不信仰のまま死に滅び去り、カインの不信仰が人類に蔓延した結果として洪水に至った世界から神に導かれノアが箱舟で救われたと記す。

(注)別エントリー「試論:神の子と人の娘の結婚??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14394

(注)別エントリー「神の子らは人の娘たちを【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8636

主の養父をマタイ1章19節はディカイオスと表現するが、古代ギリシア語訳ハバクク2章4節はディカイオスを高慢な者と対置する。主が「人の子は仕えるために来た」(マルコ10章45節)と仰せになり、聖母が「主のはしため」(ルカ1章48節)を自称する以上、ヨセフのへりくだりは必然と言える。

(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7479

使徒たちは箴言3章34節を引用し「神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みを与えられる」(一ペトロ5章5節、ヤコブ4章6節)と説いた。主イエスもマタイ23章12節で「高慢な者は誰でも低くされ、へりくだる者は誰もが高くされる」と、御自分の弟子たちも含めて、全ての人々に仰せになった。

(注)別エントリー「試論:『恵みとへりくだり』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8781

イザヤ10章12節の「主はアッシリア王の驕った心の結ぶ実と高ぶる目の輝きを罰せられる」が示す通りヘブライ人は、「人間の心の状態は眼差し・目付きなどに反映されるため目を見ればその人の内面とりわけ高慢心が明らかになる」と考えており、マタイ6章「体のともし火は目」はこれを踏まえている。

主は「体のともし火は目」(ルカ11章34節以下、マタイ6章22節以下)と仰せになったが、当然、「あなたの内面は、まなざし・目つきで明らかにされる」という意味でも上記の表現を用いられ、箴言21章4節は《高慢なまなざしは神に逆らう者の傲慢な心を明らかにするが、傲慢は罪である》と説く。

詩編1編1節は幸いな者として「神の逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず」と歌い、「神は高慢な者を敵とされ、へりくだる者に恵みをお与えになる」(箴言3章34節、ヤコブ4章6節、一ペトロ5章5節)と同様に、高慢心は信仰と相容れないことを説く。

試論:「〔偽〕バルナバの手紙」を140文字以内で

二世紀以降、通称『バルナバの手紙』と呼ばれる著作が伝えられて来た。ペトロは第二の手紙3章16節で、パウロの全書簡に《聖書》の一部として同意を与えるが、〔偽〕バルナバ書簡は同意を受けてはおらず、また同書簡は紀元七〇年の滅亡に言及するが教会の伝承はバルナバがそれ以前に殉教したとする。

【追記】

二ペトロ3章15節以下では、パウロの著した手紙について言及しているが、16節でペトロは、自分がパウロの手紙の全てに目を通して内容に同意し、《聖書》を構成する一部として、それらを認めている旨を述べている。ガラテヤ2章の自身を批判している箇所も含めてペトロは手紙の内容を承認している。

試論:「真実である方」を140文字以内で

二コリント1章18節は「神は真実である方」と記し、同20節はヘブライ語「アーメン」と関連付ける。ヨハネ3章33節は主イエスを「真実(=真理である方)」と呼び、黙示録3章14節は主イエスを「アーメンである方」「誠実」「真実」と呼び、同19章の「白馬の騎手」を「誠実」「真実」と呼ぶ。

【追記】

ヨハネ3章33節は主イエスを「真実(=真理である方)」と呼び、黙示録3章14節は主イエスを「アーメンである方」「誠実」「真実」等と呼ぶ。黙示録では19章11節の「白馬の騎手」が「誠実」「真実」と呼ばれ、同章13節は「神の御言葉」16節は「王の王、主の主」と、「白馬の騎手」を呼ぶ。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

ヨハネ3章33節は「天から来られた方のあかしを受け入れる者は、その方が真理である方だと、確認したことになる」と記す。主イエスは同14章6節で「真理」を自称され黙示録3章14節は主イエスを「アーメンである方」と呼ぶが、ヘブライ語で「アーメン」「真理」は共に「信じる」に由来している。

(注)別エントリー「試論:『真理を行う者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16184

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

主イエスは使徒たちに重要な事柄を伝達なさる際、アーメンを二度、口にされた。日本語訳では「まことにまことに」「よくよく」等と表現されるが、ヘブライ語ではアーメンも「まこと」も「信じる」の派生語で、ヘブライ人にとって「信じる」とは裏表(嘘偽り)のない態度で向き合うことを意味していた。

主はヨハネ12章24節で「一粒の麦もし死なずば」の一節の前に、ギリシア語本文では二度「アーメン」と口にされた。通常この箇所は「まことにまことに」「よくよく」「はっきり」等と訳されるが、主はこうなさることで、そこが御教えの核心部分だと示された(31節及びコロサイ1章20節等参照)。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

「真理(ギリシア語本文でアレテイア)とは何か」(ヨハネ18章38節)の答えをマルコ12章32節は「神は唯一で他に神はない」ことがアレテイアとし、主はこれを「適切な答え」とされた(34節)。ヨハネ14章6節「わたしこそが道、真理、命」10章30節「わたしと父とは唯一のものである」。

(注)別エントリー「試論:『御父と御子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7544

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

(注)別エントリー「試論:ヨハネ14章6節の『道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9342

プロテスタントの文語訳聖書『改訳 新約聖書』(1917年)では、ヨハネ14章6節で「真理(まこと)」と平仮名を振る。詩編145編18節「主は、まことをもって呼び求める人々すべての近くにおられる」に対応するためだが、詩編のこの節の「まこと」とは、《真心(まごころ)》を意味している。

エレミヤ10章10節は「主は真理の神」と記すがこの章では、自分では言葉を話せない偶像の神々と違い、イスラエルの神である主は御自ら、御言葉を発せられて真正な御教えを御自分の民にお話しになられる(申命記5章22節以下)という事柄を要約する表現として、「真理〔の神〕」が用いられている。

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

エレミヤ10章10節は「主は真理の神、命の神、永遠を支配する王」と呼ぶ。ヨハネ福音書で主イエスが御自身に関連して「真理」「命」「永遠の命」等の表現を頻用されること自体、御自身の神性の表明である。イエスに敵意を抱く人々からすると神に対する冒瀆であり、石打ちの刑に相当する事柄だった。

イスラエルの神である主は御自分の民に対して御自ら御言葉を発せられて御教えをお話しになり(申命記5章22節以下)、それこそが自分で言葉を話せない偶像の神と最も異なるとして、主をエレミヤ10章10節は「真理の神」と呼ぶ。主イエスはピラトに御自分が何者か「真理」の表現で端的に示された。

試論:「主からの光が輝く条件」を140文字以内で

主イエスはマタイ5章16節で「あなたたちの光を、人々の前に輝かせなさい」と仰せになった。イザヤ58章6節〜10節では主からの賜物である光が輝く条件として、他人を圧迫したり小馬鹿にしたり暴言を吐いたりすることをやめて、困窮している隣人に救いの手を差し延べることであると啓示している。

【追記】

イザヤ58章9節「もしもあなたが隣人を圧迫することをやめるなら、もしもあなたが隣人を侮ることをやめるなら、もしもあなたが隣人を言葉で傷つけることをやめるなら、あなたが主を呼ぶ時には必ず主は御答えになり、あなたが主に向かって叫ぶ時には必ず主は『わたしはここにいる』と御返事される」。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

主イエスはマタイ5章16節で「光を、人々の前に輝かせなさい。人々が立派な行いを見て、天の父をあがめるようになるため」と仰せになった。神からの光が人々に伴って輝くのはどんな時かがイザヤ58章9節〜10節に記されているが、憐れみの業を行うと共に自分の中の悪意を放棄しなければならない。

(注)別エントリー「試論:『人心荒廃は滅亡の前兆』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6291

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

マタイ5章で主は、「あなたがたは世の光」(14節)、「あなたがたの光を、人々の前に輝かせなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(16節)と仰せになり、行いを伴わぬ信仰など役に立たない(ヤコブ2章14節)ことをお話しになった。

(注)別エントリー「試論:行いを欠く信仰を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5360

(注)別エントリー「試論:『地の塩』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5586

主はマタイ5章14節で「あなたがたは世の光」ヨハネ8章12節で「わたしは世の光」「わたしに従う者は暗闇の中を歩まず命の光を持つ」と仰せになった。同1章4節は「御言葉のうちに命があり、命は人間を照らす光」と記す。イザヤ58章6節以下では隣人に心を配り助けを惜しまない人々に光が伴う。

(注)別エントリー「試論:『世の光と一タラントン』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11353

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章4節『命の光』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7297

(注)別エントリー「試論:『霊魂を注ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13590

詩編119編105節に「〔主よ〕あなたのことばはわたしの道の光」とあるが、「ことば」は神の御教えを指すのと同時に、ヨハネ1章1節では人々に御姿をお見せになり御教えを直にお話しになる主イエスの称号でもあり、主は御自分を同14章6節で「道」、同8章12節で「世の光」だと表現なさった。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ14章6節の『道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9342

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

エゼキエル18章「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は仰せになる。彼が悪から立ち帰って生きることを喜ばないだろうか。お前たちが犯した全ての背きを投げ捨てて新しい心と霊を造り出せ。どうしてお前たちは死んでよいだろうか。お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」。

【問】主イエスはマタイ7章7節以下で、「求める者は受け、探す者は見つけ、門を叩く者は開かれる」と仰せになりましたが、どういうことですか?【答】あなたが真心(まごころ)をもって神を探すなら神は真心で答えられる(詩編18編27(26)節)という意味で、当然真面目な意図が求められます。

試論:「王であり祭司」を140文字以内で

【問】黙示録5章10節は主イエスに忠実な弟子たちを王や祭司と呼びますが、なぜですか?【答】主に忠実な弟子は、「最も偉い者は仕える者でありなさい」の御教えに忠実でサタンの罪と死によ支配に打ち勝ったという意味で「王」、いけにえの替わりに憐れみの業を主に献げるという意味で「祭司」です。

(注)別エントリー「試論:『王であること』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17293

(注)別エントリー「試論:『王の系統を引く祭司』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15281

【追記】

「救い主」が世を救われる方法に関しイザヤは、「小羊」(53章7節)つまり代価として御自分をささげ、「しもべ」(42章、49章以下等)として人々に仕えると預言し、主もマタイ20章28節でそれを宣言された。救い主の母となることを承諾した女性が「主のはしため」を称するのは象徴的である。

マタイ23章11節「あなたたちの中で最も偉い者は、仕える者であり続けなさい」ルカ1章38節「わたしは主のはしためです」ローマ5章17節「神の恵みと義の賜物を豊かに受けている人は唯一の主であるイエス・キリストを通して永遠の命を得て、サタンの罪と死による支配から自由になり王となる」。

【問】カトリックは聖母を「女王」扱いしますが福音書のマリアは控え目な女性ではないでしょうか?【答】黙示録5章10節は小羊に忠実な人々が王になると啓示します。「最も偉い者とは皆に仕える者」の御教えに忠実でサタンの罪と死による支配に打ち勝った者だからで、聖母は全信者の先駆的存在です。

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7514

(注)別エントリー「試論:世の罪を取り除く神の小羊を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6140

創世記3章15節で神は、サタンと決定的に対立する一人の女性が将来現れることを予告された。黙示録12章では、それは救い主の母となった女性のことだと啓示された。救い主は人々を罪や悪から救うために生まれるので、その母が存在の最初の瞬間から罪や悪とは完全に無縁であるべきなのは当然である。

(注)別エントリー「神のお告げ:受胎告知と無原罪の御宿り」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4835

(注)別エントリー「創世記3章15節:蛇の頭を踏み砕く者は誰か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1488

黙示録12章の女は5節で、諸国民を鉄の杖で治める男の子を産んだ。かつてモーセは神の杖を槌として用い岩を打ち砕いた。エレミヤ23章29節は御言葉を、岩を打ち砕く鉄槌に喩える。故に黙示録の鉄の杖も御言葉の象徴的表現で、男の子は「神の御言葉」主イエス・キリスト、女はその母マリアを指す。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:「わたしの主のお母さま」を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10221

黙示録は古代のヘブライの世界観に従い人間を「土の器」(2章27節)と表現し、さらにそれを踏まえ「諸国の民の上に立つ権威」(同節)を「鉄の杖」(同節、12章5節)に喩える。12章で「鉄の杖」は神の御独り子たる主イエスの王権を象徴し、最後までイエスに忠実だった人々は主の王権にも与る。

(注)別エントリー「試論:『女』とサタンの対立を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10314

(注)別エントリー「試論:『女』と『残りの者たち』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10682

黙示録20章やローマ5章は「悪に悪を返さない」ことを徹底して罪や悪と決別した人々を「バシレウオ(〔キリストとともに〕王となる)」という動詞で表すが、これはあくまで《義化の完成》を象徴する表現であり政治体制的な意味を含まず、彼らは「第二の死」を免れ「永遠の命」を得ると記されている。

黙示録5章10節は、「小羊」主イエスに忠実な弟子たちが王となり地上を統治すると啓示する。その理由の一つは彼らが「最も偉い者は皆に仕える者」(マタイ23章11節)という主の仰せに忠実だからであり、一つはローマ5章12節以下の通り、サタンの罪と死による支配に打ち勝った者だからである。

一コリント4章8節でパウロはコリントの人々に、《あなた方は教会を意のままに差配して誇っているが、どうかキリスト教の本分「罪と死の支配からの自由」を心がけ永遠の命に至る努力を日々怠らぬように。それならわれわれも福音宣教が実を結んだと主に認められて永遠の命に至るのに》等と書き送った。

【問】一ペトロ2章9節「あなたたちは王の系統を引く祭司」の意味とは?【答】モーセの律法の祭司はいけにえや献げ物を神に献げますが、王であるキリストの弟子は一人一人がいけにえでなく憐れみの業(ホセア6章6節、ミカ6章8節)を神に献げる義務がある、という意味でキリストにおける祭司です。

(注)別エントリー「試論:『いけにえ』と憐れみを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8356

(注)別エントリー「試論:憐れみ深い人が幸いの理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14898

(注)別エントリー「試論:ホセア6章の『神を知る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15271

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

(注)別エントリー「試論:『永遠の命の言葉を持つ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11244

「教会の母」聖マリア

主の昇天後の五旬祭の日、弟子たちは聖霊降臨を経験したが、聖母だけは三十年以上前、受胎告知前後に聖霊の《降臨》を経験されていた(ルカ1章35節)。ルカ1章35節と使徒言行録1章8節のギリシア語動詞は同一で、これぞ聖霊降臨を前にして聖母が精神的支柱として別格扱いされていた理由である。

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを確実に識別できる基準」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4564

(注)別エントリー「試論:聖霊の働きの徴を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4984

【問】カトリックは聖母を「女王」扱いしますが福音書のマリアは控え目な女性ではないでしょうか?【答】黙示録5章10節は小羊に忠実な人々が王になると啓示します。「最も偉い者とは皆に仕える者」の御教えに忠実でサタンの罪と死による支配に打ち勝った者だからで、聖母は全信者の先駆的存在です。

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7514

(注)別エントリー「試論:世の罪を取り除く神の小羊を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6140

創世記3章でエバが蛇の誘惑に迷わされた後、主なる神は、エバに代わって蛇(サタン)と徹底的に対立する一人の女性が将来現れることを予告されたが、黙示録12章では、それは救い主の母となった女性のことで救い主に従おうとする全ての人々にとっても彼女は母の役割を果たすであろうと、啓示された。

(注)別エントリー「神のお告げ:受胎告知と無原罪の御宿り」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4835

(注)別エントリー「創世記3章15節:蛇の頭を踏み砕く者は誰か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1488

使徒言行録1章14節には、「熱心に祈っていた」人々の中で「婦人たち」とは別に「イエスの母マリア」の存在が特記され、聖母がいわゆる「聖婦人」と呼ばれた敬虔な女性たちとは別個の存在とみなされていたことが記されており、初代教会で聖母がおのずと別格扱いとされた当時の状況が示唆されている。

(注)別エントリー「試論:『第二のエバ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4880

創世記3章15節で神は、サタンと決定的に対立する一人の女性が将来現れることを予告されたが、黙示録12章で、それは救い主の母となった女性のことだと啓示された。救い主は人々を罪や悪から救うために生まれるので、その母が存在の最初の瞬間から罪や悪とは完全に無縁であるべきなのは当然である。

(注)別エントリー「『無原罪の御宿り』の意味するところとは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4382

黙示録12章の女は5節で、諸国民を鉄の杖で治める男の子を産んだ。かつてモーセは神の杖を槌として用い岩を打ち砕いた。エレミヤ23章29節は御言葉を、岩を打ち砕く鉄槌に喩える。故に黙示録の鉄の杖も御言葉の象徴的表現で、男の子は「神の御言葉」主イエス・キリスト、女はその母マリアを指す。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:「わたしの主のお母さま」を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10221

黙示録は古代のヘブライの世界観に従い人間を「土の器」(2章27節)と表現し、さらにそれを踏まえ「諸国の民の上に立つ権威」(同節)を「鉄の杖」(同節、12章5節)に喩える。12章で「鉄の杖」は神の御独り子たる主イエスの王権を象徴し、最後までイエスに忠実だった人々は主の王権にも与る。

(注)別エントリー「試論:『女』とサタンの対立を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10314

(注)別エントリー「試論:『女』と『残りの者たち』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10682

黙示録20章やローマ5章は「悪に悪を返さない」ことを徹底して罪や悪と決別した人々を「バシレウオ(〔キリストとともに〕王となる)」という動詞で表すが、これはあくまで《義化の完成》を象徴する表現であり政治体制的な意味を含まず、彼らは「第二の死」を免れ「永遠の命」を得ると記されている。

古代に遡ることができるある伝承は、十二使徒の中で、聖母に対する敬愛が特に強かった三人が、聖母の終生童貞に倣って終生童貞(独身)であったとする。それはヨハネと二人のヤコブで、ゼベダイの子らの母は聖母の「姉妹」(ヨハネ19章25節)であり、ヤコブの母も聖母の(義理の)「姉妹」だった。

(注)別エントリー「聖母と聖ヨセフが終生童貞である理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4464

(注)別エントリー「イエスの『兄弟』『姉妹』:同胞か親戚か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1451

ヨハネ1章18節は「ふところにいる」という位置関係で御父である神と御独り子であるイエス・キリストとの親密な関係を表現する。13章25節で主に「(裏切ろうとしている一人、)それは誰ですか」と質問した弟子はまさに同じ位置関係で、この弟子が主から特に目を掛けられた存在であると示唆する。

(注)別エントリー「試論:『ふところ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8816

主は御受難の際、ヨハネに母を託された。このことで聖母には主以外に子がないとわかるが、ルツ記のように「近くの他人より遠くの親戚」の聖書世界では愛弟子というだけで師の母親を引き取るのは不自然で、ヨハネの母が「母の姉妹」(ヨハネ19章25節)つまり聖母の親族である蓋然性は否定できない。

福音書は主イエスの「兄弟姉妹」の存在を記すが、主は御受難の際、母を弟子ヨハネに託された。古代イスラエルでは師の死後その母の面倒を見るのは本来、弟子でなく遺族の責務である。ヨハネは自分の母を「母の姉妹」(ヨハネ19章25節)と記す。古代イスラエルで「兄弟姉妹」は親族全般を意味した。

ヨハネは大祭司が自分の存在を認識していた(ヨハネ18章15節)と記す。大祭司がガリラヤの漁師の息子をなぜ、認識していたのか? 理由として可能性が大きいのは、ヨハネの母が聖母の母アンナやエリサベトと同様、祭司族出身の女性だったためと推定され、母方が祭司族という点で、皆が遠縁だった。

(注)別エントリー「試論:『清めの水』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13744

主にゼベダイの子らの母が息子たちを左右の座にと願った時、残りの十人の使徒は立腹した。これはしかし主が御受難を予告された直後であり、この「雷の子」である兄弟は決死の覚悟を主に伝えたい一心だった。ヨハネは御受難の折も主の傍らにあり、御受難の際に主から一時離れたヤコブも最後は殉教した。

福音書には主の職業はテクトーンとありホメロスの叙事詩ではテクトーンは船大工をも意味した。もしも主が腕の確かな職人として既に漁師の間で知られていたとすれば、故郷で生涯を終えることが多く同業者だけで集まりがちな漁師の中から、すぐ四人の信頼を得て弟子とすることができたのも、道理である。

聖母マリアの両親に関してカトリック教会の聖伝は、父がダビデ王家の末裔ヨヤキム、母はアロン族(祭司族)の娘アンナと教えてきた。古代のイスラエルでは、結婚相手は同じ部族または先祖が共通する同士が望ましいとされたが、大祭司アロンの妻はユダの族長ナフション(ダビデの先祖)の姉妹であった。

(注)別エントリー「試論:カナでの婚礼と聖母マリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9059

跡取りを産む前に夫に先立たれたルツは、申命記25章の規定に従って亡き夫マフロンの「兄弟」ボアズと再婚したが、このボアズはマフロンとは父も母も異なっていた。古代イスラエルにおける「兄弟」という概念が、父や母を同じくする同胞のみならず、広く親族全般を含んでいたことは、歴然としている。

ルツ記の主人公であるルツは、最初の夫マフロンとの間に跡取りを産む前に夫に先立たれ、のちに申命記25章の規定に従ってマフロンの「兄弟」ボアズと再婚したが、このボアズは亡夫マフロンとは父も母も異なっていた。マフロンの父はエリメレク、母はナオミで、ボアズの父はサルマ、母はラハブである。

(注)別エントリー「試論:もう一人の『エリヤ』??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10009

(注)別エントリー「試論:ルツ記とイエスの兄弟たちを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8585

(注)別エントリー「試論:四世紀の『イエスの兄弟』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13087

(注)別エントリー「試論:ヨセフが妻を畏敬する理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7888

(注)別エントリー「ルカ福音書の聖母とサムエル記下の神の櫃」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1544

試論:「御教えの根幹」を140文字以内で

【問】主イエスはマタイ7章12節で《キリストの律法》を授けられましたが、なぜですか?【答】「自分が他の人からしてもらいたいことならなんでもあなたから他の人にしなさい」という考え方が土台になければ、いくら言葉で「愛」とか「悔い改め」とか口にしたところで全て絵空事に過ぎないからです。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

(注)別エントリー「試論:『世に光を輝かせなさい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17193

【追記】

【問】なぜ世の人心は荒廃し「愛が冷える」(マタイ24章12節)のですか?【答】主イエスが「あなたが他の人からしてもらいたいこと全てをあなたから他の人にしなさい」(マタイ7章12節)と仰せになり、御自分の「律法」とまで呼ばれたのに、弟子を自称する人々でさえそれを等閑にするからです。

一ペトロ2章の冒頭では、霊的な成長とは悪意・偽り・偽善・ねたみ・悪口を全て捨て去ることとし、使徒言行録8章では、魔術師シモンが聖霊のしるしを金で買おうとしてペトロに非難された。主イエスもマタイ7章22節以下で預言や奇跡や悪霊を追い出すことより悪を行わないことが重要と仰せになった。

(注)別エントリー「試論:『幼子のように』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11080

(注)別エントリー「試論:『主よ、主よ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5380

聖パウロのガラテヤ書5章によれば、聖霊が働いている徴は愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・節制(22節〜23節)であり、聖霊が不在である徴は姦淫・わいせつ・好色・偶像礼拝・魔術・敵意・争い・そねみ・怒り・利己心・不和・仲間争い・ねたみ・泥酔・酒宴(19節〜21節)などである。

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを確実に識別できる基準」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4564

聖霊の七つの賜物という特別の恵みは、古代のギリシア語訳またラテン語訳のイザヤ書11章2節〜3節の記述に基づいており、

【1】知恵(上智)
【2】分別(識別)
【3】思慮(賢慮)
【4】剛毅(勇気)
【5】〔主に関する〕知識
【6】〔主に対する〕孝愛(信心)
【7】〔主に対する〕畏敬

などである。

(注)別エントリー「試論:聖霊降臨と聖母を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4990

一ヨハネ4章の通り偽預言者や偽教師は、主イエスが実際に仰せになった福音書の御言葉には絶対に触れようとせず、代わりに「世」すなわち俗世間や国際情勢の話で置き換える。主イエス御自身が、預言とは御自分についてあかしするものだと仰せにもかかわらず、国際情勢や「終末預言」に話をすり替える。

二ペトロ2章は「偽教師」への警戒を呼びかけ、「彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にする」(3節)「昼間から享楽に耽るのを楽しみにする」(13節)「強欲」(14節)等と表現した。一般の信者が真面目に働く時間帯に美食を貪り、旅行・観光・娯楽施設と遊興三昧なのが偽教師である。

(注)別エントリー「試論:偽預言者と貪欲を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7125

(注)別エントリー「試論:『終末預言?ありません』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13853

(注)別エントリー「試論:有人気球と『空中』の拡大を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10270

試論:「あらゆる努力で改める」を140文字以内で

主はマタイ13章45節以下で、「天の国」を全財産と引き換えにしてでも手に入れるべき真珠にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「天の国」は「永遠の命」と同義だが、「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

【追記】

フィリピ3章8節「わたしの主キリスト・イエスを知ったがゆえに、わたしは他の一切を失ってしまいましたが、それらはわたしにとって無価値です」マタイ13章44節「畑に宝が隠されているが見つけた人はそのまま隠しておき、喜びながら帰り、全財産をすっかり売り払ってでもその畑を買うであろう」。

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11494

ルカ10章25節の律法学者と18章18節の議員は同じ質問をした。ただ議員には「心・精神・力・思いを尽くして」の観点が欠けていた。主は議員に、「持ち物を全て売り払う」という表現で勧告なさったが、この表現はマタイ13章44節〜45節のたとえでは《あらゆる努力を尽くす》を象徴している。

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

試論:「偽教師を識別する」を140文字以内で

二ペトロ2章は「偽教師」への警戒を呼びかけ、「彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にする」(3節)「昼間から享楽に耽るのを楽しみにする」(13節)「強欲」(14節)等と表現した。一般の信者が真面目に働く時間帯に美食を貪り、旅行・観光・娯楽施設と遊興三昧なのが偽教師である。

(注)別エントリー「試論:偽預言者と貪欲を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7125

(注)別エントリー「試論:『終末預言?ありません』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13853

(注)別エントリー「試論:有人気球と『空中』の拡大を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10270

【追記】

一ヨハネ4章の通り偽預言者や偽教師は、主イエスが実際に仰せになった福音書の御言葉には絶対に触れようとせず、代わりに「世」すなわち俗世間や国際情勢の話で置き換える。主イエス御自身が、預言とは御自分についてあかしするものだと仰せにもかかわらず、国際情勢や「終末預言」に話をすり替える。

主イエスはヨハネ5章39節で「あなた方は〔旧約〕聖書中に永遠の命が存在すると考え〔旧約〕聖書を研究するが〔旧約〕聖書はわたしに関してあかししている」と仰せになり、御自分と無関係の目的で〔旧約〕聖書を研究したとしても本当に重要な真理には全く到達することができないと、お教えになった。

(注)別エントリー「聖書にはクリスマスの日付が載っていますか???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13267

ヨハネ5章39節で主が仰せの通り、旧約聖書全体を等しく重視するよりも主イエスとその福音に関連の強い事柄を優先して学ばねばならない。例えば「正義(=「神の義」)を衣としてまとう」(詩編132編9節)という旧約聖書の慣用句を知らなければ、マタイ22章の「礼服」のたとえは理解が難しい。

(注)別エントリー「試論:『神の義』と詩編を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6798

ルカ24章のエマオでの御出現において主は、旧約聖書とは御自分について証しするものであり、実際その詳細について《全体》の説明を始めると、何時間あっても語り尽くせないことをお示しになった(27節)。主は以前にもユダヤの人々に対して同じ事柄をお話しになられていた(ヨハネ5章39節等)。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ5章46節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7208

旧約聖書の預言は第一義的に主イエス・キリストの到来及びその前後までの歴史的出来事をあかしするためのものであり、キリスト到来から約二千年後に生きる現代人が国際情勢を読み解くためのものではなく、国際情勢分析など本来の意義とは無関係の完全な逸脱行為であり、真理には絶対にたどり着けない。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

マルコ12章における律法学者との対話において主は、旧約聖書の中の多くの掟について、重要性における順序があることを再確認された。またヨハネ5章39節で、旧約聖書とは御自分について証しするものだと主は御説明され、旧約聖書を調べる目的は御自分へと到達するためであるべきだと仰せになった。

(注)別エントリー「試論:キリスト教と旧約聖書を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6527

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4783

主はヨハネ5章39節で、聖書とは御自分についてあかしするものであり、御自分を目的としない聖書研究には意味がない旨を仰せになった。これに関連し一ヨハネ4章も、主イエスに関する事柄についてなるべく触れようとしない自称信者を「偽預言者」「反キリストの霊」「人を惑わす霊」などと表現する。

(注)別エントリー「試論:『預言を封印するメシア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8347

(注)別エントリー「試論:『真の預言者すらいない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8425

(注)別エントリー「試論:『預言と私的啓示の違い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8360

二ペトロ2章は「偽教師」への警戒を呼びかける。彼らは「滅びをもたらす異端を持ち込み、主を拒む」(1節)、「欲が深く虚言で人々を食い物にする」(3節)、「厚かましく、わがまま」(10節)「昼間から歓楽にふけるのを愉しみとする」(13節)「無意味な大言壮語」(18節)等の特徴を持つ。

試論:主が人々に求められる事柄を140文字以内で

ミカ6章8節「何が善であって、主が何をあなたたちに求めておられるかは、あなたたちには既に告げられている。それは神の義を行い、憐れみの業を愛し、へりくだり神と共に歩むこと」ホセア6章6節「わたしが求めるものは『いけにえ』ではなく憐れみであり、焼き尽くす献げ物ではなく神を知ること」。

(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6748

【追記】

ホセア6章6節は「わたしが求めるのは、憐れみであって『いけにえ』ではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」と記すが、これと関連して一ヨハネ2章3節は「知る」という表現の意味を《神の掟を守るという実体験を通して自分は神を知っているのだと自覚する》ことであると説明する。

(注)別エントリー「試論:『神を知ること』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5580

主はホセア6章6節「わたしが喜ぶのは憐れみであって『いけにえ』ではない」をマタイ福音書で二度(9章13節、12章7節)引用され、隣人への敬意を欠いた者による尊敬など、神には受け入れられぬと教えられた。22章で律法の最も重要な掟の第一を神への愛、第二を隣人愛とされたことと符合する。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

【問】一ペトロ2章9節「あなたたちは王の系統を引く祭司」の意味とは?【答】モーセの律法の祭司はいけにえや献げ物を神に献げますが、王であるキリストの弟子は一人一人がいけにえでなく憐れみの業(ホセア6章6節、ミカ6章8節)を神に献げる義務がある、という意味でキリストにおける祭司です。

(注)別エントリー「試論:『いけにえ』と憐れみを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8356

(注)別エントリー「試論:憐れみ深い人が幸いの理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14898

(注)別エントリー「試論:ホセア6章の『神を知る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15271

今、あなたの神、主があなたに求めておられることとは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてその全ての導きに従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸せになることではないか。(申命記10章12節〜13節)

試論:「具体的な愛とは?」を140文字以内で

【問】聖書は隣人愛を説きますが、具体的にはどういうことですか?【答】主イエス・キリストはマタイ7章12節で「自分が他の人からしてもらいたいことならなんでもあなたから他の人にしなさい」と仰せになり、これを御自分の「律法」とされ永遠の命つまり天の国の福楽に到達する条件となさいました。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

【追記】

【問】なぜ世の人心は荒廃し「愛が冷える」(マタイ24章12節)のですか?【答】主イエスが「あなたが他の人からしてもらいたいこと全てをあなたから他の人にしなさい」(マタイ7章12節)と仰せになり、御自分の「律法」とまで呼ばれたのに、弟子を自称する人々でさえそれを等閑にするからです。

(注)別エントリー「試論:『世に光を輝かせなさい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17193

試論:「王であること」を140文字以内で

マタイ23章11節「あなたたちの中で最も偉い者は、仕える者であり続けなさい」ルカ1章38節「わたしは主のはしためです」ローマ5章17節「神の恵みと義の賜物を豊かに受けている人は唯一の主であるイエス・キリストを通して永遠の命を得て、サタンの罪と死による支配から自由になり王となる」。

(注)別エントリー「試論:『しもべ』と『はしため』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9785

【追記】

【問】カトリックは聖母を「女王」扱いしますが福音書のマリアは控え目な女性ではないでしょうか?【答】黙示録5章10節は小羊に忠実な人々が王になると啓示します。「最も偉い者とは皆に仕える者」の御教えに忠実でサタンの罪と死による支配に打ち勝った者だからで、聖母は全信者の先駆的存在です。

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7514

(注)別エントリー「試論:世の罪を取り除く神の小羊を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6140

創世記3章15節で神は、サタンと決定的に対立する一人の女性が将来現れることを予告された。黙示録12章では、それは救い主の母となった女性のことだと啓示された。救い主は人々を罪や悪から救うために生まれるので、その母が存在の最初の瞬間から罪や悪とは完全に無縁であるべきなのは当然である。

(注)別エントリー「神のお告げ:受胎告知と無原罪の御宿り」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4835

(注)別エントリー「創世記3章15節:蛇の頭を踏み砕く者は誰か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1488

「救い主」が世を救われる方法に関しイザヤは、「小羊」(53章7節)つまり代価として御自分をささげ、「しもべ」(42章、49章以下等)として人々に仕えると預言し、主もマタイ20章28節でそれを宣言された。救い主の母となることを承諾した女性が「主のはしため」を称するのは象徴的である。

黙示録5章10節は、「小羊」主イエスに忠実な弟子たちが王となり地上を統治すると啓示する。その理由の一つは彼らが「最も偉い者は皆に仕える者」(マタイ23章11節)という主の仰せに忠実だからであり、一つはローマ5章12節以下の通り、サタンの罪と死による支配に打ち勝った者だからである。

一コリント4章8節でパウロはコリントの人々に、《あなた方は教会を意のままに差配して誇っているが、どうかキリスト教の本分「罪と死の支配からの自由」を心がけ永遠の命に至る努力を日々怠らぬように。それならわれわれも福音宣教が実を結んだと主に認められて永遠の命に至るのに》等と書き送った。

主はヨハネ8章32節で「真理はあなたたちを自由にする(解放する)」と仰せになった。パウロはヨハネと同じギリシア語を用いて何からの解放か、その答えをローマ6章と同8章で説明した。「罪から解放」(6章18節、22節)、8章2節「罪と死の法則から解放」同21節「滅びへの隷属から解放」。

エレミヤ10章10節は「主は真理の神」と記すがこの章では、自分では言葉を話せない偶像の神々と違い、イスラエルの神である主は御自ら、御言葉を発せられて真正な御教えを御自分の民にお話しになられる(申命記5章22節以下)という事柄を要約する表現として、「真理〔の神〕」が用いられている。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

エレミヤ10章10節は「主は真理の神、命の神、永遠を支配する王」と呼ぶ。ヨハネ福音書で主イエスが御自身に関連して「真理」「命」「永遠の命」等の表現を頻用されること自体、御自身の神性の表明である。イエスに敵意を抱く人々からすると神に対する冒瀆であり、石打ちの刑に相当する事柄だった。

イスラエルの神である主は御自分の民に対して御自ら御言葉を発せられて御教えをお話しになり(申命記5章22節以下)、それこそが自分で言葉を話せない偶像の神と最も異なるとして、主をエレミヤ10章10節は「真理の神」と呼ぶ。主イエスはピラトに御自分が何者か「真理」の表現で端的に示された。

黙示録20章やローマ5章は「悪に悪を返さない」ことを徹底して罪や悪と決別した人々を「バシレウオ(〔キリストとともに〕王となる)」という動詞で表すが、これはあくまで《義化の完成》を象徴する表現であり政治体制的な意味を含まず、彼らは「第二の死」を免れ「永遠の命」を得ると記されている。

主イエスはヨハネ18章36節で、「わたしのバシレイアは、この世には属していない」と仰せになった。原文のギリシア語バシレイアは、聖書では「王権」「〔神の〕王国」を意味し、「王国の一人一人」まで包含する。黙示録1章6節でヨハネは、自分たちは既にその一部を構成していると書き記している。

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。

【問】カトリックでは創世記3章15節および黙示録12章の「女」をマリアと解釈し、サタンと決定的に対立する存在だと教えますが、その対立点はどこですか?【答】マリアは人々へ神の言葉には全て従うよう勧めますが(ヨハネ2章5節)、サタンはエバへ神に従わぬ(創世記3章4節)よう唆しました。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

(注)別エントリー「試論:『女』とサタンの対立を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10314

(注)別エントリー「『鉄の杖』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16717

(注)別エントリー「試論:『女』と『竜』の対立を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12925

試論:「偽り者」の特徴を140文字以内で

ヨハネ14章の「わたしを愛する者は、わたしの言葉を守る」(23節)と「わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない」(24節)という主の御言葉に対応して一ヨハネ2章4節は「神を知っていると言いながら神の掟を守らない者」を「偽り者」と断定し、その者の内に真正なものはないとしている。

【追記】

ヨハネ14章15節で主は「わたしを愛しているのなら、わたしの掟を守りなさい」と仰せになり御自身が教えられた掟を守ることをもって御自身への愛を判断すると宣言された。従って、「私はあなたの掟を守れてはいませんが、主よ、あなたへの愛だけは誰にも負けません」という自己申告は、通用しない。

マタイ25章45節で主は「この小さな者の一人にしなかったことは、わたしにしなかったことである」と仰せになり、隣人愛の実行を神への愛の基準にすると宣言された。従って「私は周囲とはトラブルを起こしてばかりですが、主よ、あなたへの愛だけは誰にも負けません」という自己申告は、通用しない。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

誰しも「自分は神への愛が足りないのではないか?」とか「自分は本当に神から愛されているのか?」という疑問が心をよぎることがある。しかし主はそのような疑問に対して、ヨハネ14章で「わたしの掟(『互いに愛し合いなさい』)」という表現を用いて21節でごく簡潔にしかし的確にお答えになった。

(注)別エントリー「試論:『新しい契約』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5517

主イエス・キリストは「山上の説教」で「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」(マタイ7章26節)と仰せになり、また「聞いて行う者は岩の上に家を建てた賢い人に似ている」(24節)とも仰せになられ、行うことがない信仰生活のもろさを強調なさった。

(注)別エントリー「試論:マタイ25章の十人の乙女を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5994

マタイ7章21節〜27節で主は、「天の国」に入るための条件は「天の父の御心を行う」ことであり、たとえ預言や奇跡を行い悪霊も追い出すような人であっても不法を働くなら入れなくなると仰せになり、「わたしの言葉を聞くだけで行わない人は砂の上に家を建てた愚かな人のようだ」とも仰せになった。

(注)別エントリー「試論:『主よ、主よ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5380

試論:「信仰とカルトの境界線」を140文字以内で

一ペトロ2章の冒頭では、霊的な成長とは悪意・偽り・偽善・ねたみ・悪口を全て捨て去ることとし、使徒言行録8章では、魔術師シモンが聖霊のしるしを金で買おうとしてペトロに非難された。主イエスもマタイ7章22節以下で預言や奇跡や悪霊を追い出すことより悪を行わないことが重要と仰せになった。

(注)別エントリー「試論:『幼子のように』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11080

(注)別エントリー「試論:『主よ、主よ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5380

【追記】

聖パウロのガラテヤ書5章によれば、聖霊が働いている徴は愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・節制(22節〜23節)であり、聖霊が不在である徴は姦淫・わいせつ・好色・偶像礼拝・魔術・敵意・争い・そねみ・怒り・利己心・不和・仲間争い・ねたみ・泥酔・酒宴(19節〜21節)などである。

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを確実に識別できる基準」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4564

聖霊の七つの賜物という特別の恵みは、古代のギリシア語訳またラテン語訳のイザヤ書11章2節〜3節の記述に基づいており、

【1】知恵(上智)
【2】分別(識別)
【3】思慮(賢慮)
【4】剛毅(勇気)
【5】〔主に関する〕知識
【6】〔主に対する〕孝愛(信心)
【7】〔主に対する〕畏敬

などである。

(注)別エントリー「試論:聖霊降臨と聖母を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4990

一ヨハネ4章の通り偽預言者や偽教師は、主イエスが実際に仰せになった福音書の御言葉には絶対に触れようとせず、代わりに「世」すなわち俗世間や国際情勢の話で置き換える。主イエス御自身が、預言とは御自分についてあかしするものだと仰せにもかかわらず、国際情勢や「終末預言」に話をすり替える。

主イエスはヨハネ5章39節で「あなた方は〔旧約〕聖書中に永遠の命が存在すると考え〔旧約〕聖書を研究するが〔旧約〕聖書はわたしに関してあかししている」と仰せになり、御自分と無関係の目的で〔旧約〕聖書を研究したとしても本当に重要な真理には全く到達することができないと、お教えになった。

(注)別エントリー「聖書にはクリスマスの日付が載っていますか???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13267

ヨハネ5章39節で主が仰せの通り、旧約聖書全体を等しく重視するよりも主イエスとその福音に関連の強い事柄を優先して学ばねばならない。例えば「正義(=「神の義」)を衣としてまとう」(詩編132編9節)という旧約聖書の慣用句を知らなければ、マタイ22章の「礼服」のたとえは理解が難しい。

(注)別エントリー「試論:『神の義』と詩編を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6798

ルカ24章のエマオでの御出現において主は、旧約聖書とは御自分について証しするものであり、実際その詳細について《全体》の説明を始めると、何時間あっても語り尽くせないことをお示しになった(27節)。主は以前にもユダヤの人々に対して同じ事柄をお話しになられていた(ヨハネ5章39節等)。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ5章46節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7208

旧約聖書の預言は第一義的に主イエス・キリストの到来及びその前後までの歴史的出来事をあかしするためのものであり、キリスト到来から約二千年後に生きる現代人が国際情勢を読み解くためのものではなく、国際情勢分析など本来の意義とは無関係の完全な逸脱行為であり、真理には絶対にたどり着けない。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

マルコ12章における律法学者との対話において主は、旧約聖書の中の多くの掟について、重要性における順序があることを再確認された。またヨハネ5章39節で、旧約聖書とは御自分について証しするものだと主は御説明され、旧約聖書を調べる目的は御自分へと到達するためであるべきだと仰せになった。

(注)別エントリー「試論:キリスト教と旧約聖書を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6527

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4783

主はヨハネ5章39節で、聖書とは御自分についてあかしするものであり、御自分を目的としない聖書研究には意味がない旨を仰せになった。これに関連し一ヨハネ4章も、主イエスに関する事柄についてなるべく触れようとしない自称信者を「偽預言者」「反キリストの霊」「人を惑わす霊」などと表現する。

(注)別エントリー「試論:『預言を封印するメシア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8347

(注)別エントリー「試論:『真の預言者すらいない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8425

(注)別エントリー「試論:『預言と私的啓示の違い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8360

二ペトロ2章は「偽教師」への警戒を呼びかけ、「彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にする」(3節)「昼間から享楽に耽るのを楽しみにする」(13節)「強欲」(14節)等と表現する。一般の信者が真面目に働いている時間帯に、連日のように臆面もなく美食を貪る者こそが偽教師である。

(注)別エントリー「試論:偽預言者と貪欲を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7125

(注)別エントリー「試論:『終末預言?ありません』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13853

(注)別エントリー「試論:有人気球と『空中』の拡大を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10270

二ペトロ2章は「偽教師」への警戒を呼びかける。彼らは「滅びをもたらす異端を持ち込み、主を拒む」(1節)、「欲が深く虚言で人々を食い物にする」(3節)、「厚かましく、わがまま」(10節)「昼間から歓楽にふけるのを愉しみとする」(13節)「無意味な大言壮語」(18節)等の特徴を持つ。

試論:「わたしの来る時まで」?を140文字以内で

主イエスはヨハネ21章で「わたしの来る時まで彼(ヨハネ)が生きていることをわたしが望んだとしても、あなた(ペトロ)に何の関係があるか」と仰せになった。「主の日」つまり主の来臨としての都の滅亡が紀元七〇年が実現した際、ペトロも二人のヤコブも既に殉教していたがヨハネは生き残っていた。

(注)別エントリー「エルサレムの婦人たちへの伝言」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15741

【追記】

主はマタイ10章23節で「人の子は来る」と仰せになり、「人の子の日」(ルカ17章22節)に言及されたが、黙示録6章17節は「神と小羊の怒りの大いなる日」と表現し、これらの啓示は紀元七〇年のエルサレム滅亡で実現した。支配者たちはイザヤ2章と黙示録6章の通り、洞穴からの逃亡を企てた。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888

(注)別エントリー「主の御降誕と古代イスラエルにおける洞穴」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4351

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7514

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』=『主の僕』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8876

主はルカ17章30節で「人の子が現れる日」に言及された。これは黙示録6章17節「神と小羊の怒りの大いなる日」と同じで「神」は御父である神、「人の子」「小羊」は主イエス・キリストである。「はげ鷹」ローマ帝国は繁栄の都エルサレムと神殿を、神の介在を疑い得ないほどに跡形もなく滅ぼした。

主はマタイ10章7節で「天の国が近づいた」と告げるよう仰せになったが、これと別に23節で「人の子」が来る日をほのめかされた。これはルカ17章22節「人の子の日」や黙示録6章17節「神と小羊の怒りの大いなる日」を指し、マタイ24章33節の通り、人々は悲惨な諸事件から主の来臨を悟る。

出エジプト記24章にモーセの一行が「神を見た」とあるが、神の御姿を実際に見たわけではなくその「足台」(「サファイアの敷石のようなもの」)を見たことによって、その上に必ずおられるはずの神を「見た」わけである。また同様に、雲や火や煙、雷鳴や稲妻、角笛の音なども神の現存を象徴していた。

主はルカ21章20節以下で(紀元七〇年の)エルサレム滅亡及びその前後にユダヤを襲う「大いなる艱難」(23節)を予告された。また「異邦人の庭」(黙示録11章2節)を持つエルサレム神殿がまだ存在する時期に黙示録の内容を啓示され、エルサレム滅亡後も教会は存続すると希望をお与えになった。

主はルカ17章20節で「神の国は見える形では来ない」22節で「人の子の日を弟子たちが見ることはない」と仰せになったが、アモス5章18節では「主の日を待ち望む者は災いだ。主の日は闇であって光ではない」と預言しており、「神の国の到来」と「主の日」とを混同すべきではないと、理解できる。

主はルカ17章34節で「一人は連れて行かれ、もう一人は残される」21章24節で「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と仰せになった。紀元七〇年のエルサレム滅亡の際、ユダヤ人はローマ市民権の有無によって運命が大きく分かれ、奴隷にされた者たちはローマ帝国の各地へと売られて行った。

ルカ17章34節から35節で主は「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」と繰り返されたが、では一体どこに「連れて行かれ」るのかを、ルカ21章24節では「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と御説明された。これは大昔モーセがレビ記26章33節以下で預言していた話と同じである。

紀元七〇年のエルサレム滅亡時にローマ軍へ投降したユダヤ人のうち、使徒言行録22章のパウロのようにローマの市民権を持つ者はローマ法の保護下にあるため留め置かれたが、そうでない者は妻子とともに奴隷とされて売り飛ばされた。こうして、「一人は連れて行かれ、一人は残される」は現実となった。

プロテスタントの文語訳聖書『改訳 新約聖書』(1917年)はルカ21章23節を「地(ち)には大(おほひ)なる艱難(なやみ)ありて、御怒(みいかり)この民(たみ)に臨(のぞ)み」と訳し、ある人々がいわゆる「大艱難時代」と呼ぶ時期とは実は紀元七〇年の滅亡の前後に他ならないと示唆する。

主はルカ21章23節でエルサレム滅亡とその前後のユダヤの苦難を予告されたが、『改訳 新約聖書』(1917年)では「大なる艱難」と日本語訳する。一世紀後半のユダヤの歴史家ヨセフスの記述通り、紀元六六年の大反乱の勃発から七三年のマサダ陥落までの七年間に、ユダヤは惨劇の連続を経験した。

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の意義を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9840

ダニエル9章24節はメシアに関して預言の時代を封印する存在だと預言し、主イエスはルカ21章22節で旧約聖書の全預言が(紀元七〇年の)エルサレム滅亡で成就すると仰せになった。故に現代や近未来の国際情勢と旧約聖書の預言とは無関係で、関係ありとする解釈は主の仰せとは明確に相反している。

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

(注)別エントリー「イエス・キリストと天の雲」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/684

(注)別エントリー「試論:福音書と『西遊記』の違いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5760

申命記28章49節でモーセは、将来イスラエルの民を滅ぼす国民の象徴となる動物を預言した。ルカ17章37節のギリシア語本文も、古代のギリシア語訳申命記と同じ単語を用いている。それはローマの国章と同じ動物で、ヨハネ11章48節で「ローマ人」という表現が登場する、根拠の一つでもあった。

ダニエル9章24節はメシアに関して預言の時代を封印する存在だと預言し、主イエスはルカ21章22節で旧約聖書の全預言が(紀元七〇年の)エルサレム滅亡で成就すると仰せになった。故に現代や近未来の国際情勢と旧約聖書の預言は無関係で、関係ありとする強弁は、キリスト教の範疇を逸脱している。

ルカ21章20節以下で主は、「敵が都を包囲しようとする時は籠城すべきでなく都を離れよ」と警告された。約四十年後、ローマ軍が迫る都では「預言者」たちが、「神が都を救われるから都で待て」と説いたが、神の介入はなく都は滅亡した。この「預言者」たちの虚言を歴史家ヨセフスが書き残している。

(注)別エントリー「試論:黙示録18章を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5394

(注)別エントリー「試論:黙示録16章を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5086

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1699

試論:「偽預言者と偽教師」を140文字以内で

一ヨハネ4章の通り偽預言者や偽教師は、主イエスが実際に仰せになった福音書の御言葉には絶対に触れようとせず、代わりに「世」すなわち俗世間や国際情勢の話で置き換える。主イエス御自身が、預言とは御自分についてあかしするものだと仰せにもかかわらず、国際情勢や「終末預言」に話をすり替える。

【追記】

主イエスはヨハネ5章39節で「あなた方は〔旧約〕聖書中に永遠の命が存在すると考え〔旧約〕聖書を研究するが〔旧約〕聖書はわたしに関してあかししている」と仰せになり、御自分と無関係の目的で〔旧約〕聖書を研究したとしても本当に重要な真理には全く到達することができないと、お教えになった。

(注)別エントリー「聖書にはクリスマスの日付が載っていますか???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13267

ヨハネ5章39節で主が仰せの通り、旧約聖書全体を等しく重視するよりも主イエスとその福音に関連の強い事柄を優先して学ばねばならない。例えば「正義(=「神の義」)を衣としてまとう」(詩編132編9節)という旧約聖書の慣用句を知らなければ、マタイ22章の「礼服」のたとえは理解が難しい。

(注)別エントリー「試論:『神の義』と詩編を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6798

ルカ24章のエマオでの御出現において主は、旧約聖書とは御自分について証しするものであり、実際その詳細について《全体》の説明を始めると、何時間あっても語り尽くせないことをお示しになった(27節)。主は以前にもユダヤの人々に対して同じ事柄をお話しになられていた(ヨハネ5章39節等)。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ5章46節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7208

旧約聖書の預言は第一義的に主イエス・キリストの到来及びその前後までの歴史的出来事をあかしするためのものであり、キリスト到来から約二千年後に生きる現代人が国際情勢を読み解くためのものではなく、国際情勢分析など本来の意義とは無関係の完全な逸脱行為であり、真理には絶対にたどり着けない。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

マルコ12章における律法学者との対話において主は、旧約聖書の中の多くの掟について、重要性における順序があることを再確認された。またヨハネ5章39節で、旧約聖書とは御自分について証しするものだと主は御説明され、旧約聖書を調べる目的は御自分へと到達するためであるべきだと仰せになった。

(注)別エントリー「試論:キリスト教と旧約聖書を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6527

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4783

主はヨハネ5章39節で、聖書とは御自分についてあかしするものであり、御自分を目的としない聖書研究には意味がない旨を仰せになった。これに関連し一ヨハネ4章も、主イエスに関する事柄についてなるべく触れようとしない自称信者を「偽預言者」「反キリストの霊」「人を惑わす霊」などと表現する。

(注)別エントリー「試論:『預言を封印するメシア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8347

(注)別エントリー「試論:『真の預言者すらいない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8425

(注)別エントリー「試論:『預言と私的啓示の違い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8360

二ペトロ2章は「偽教師」への警戒を呼びかけ、「彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にする」(3節)「昼間から享楽に耽るのを楽しみにする」(13節)「強欲」(14節)等と表現する。一般の信者が真面目に働いている時間帯に、連日のように臆面もなく美食を貪る者こそが偽教師である。

(注)別エントリー「試論:偽預言者と貪欲を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7125

(注)別エントリー「試論:『終末預言?ありません』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13853

(注)別エントリー「試論:有人気球と『空中』の拡大を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10270

二ペトロ2章は「偽教師」への警戒を呼びかける。彼らは「滅びをもたらす異端を持ち込み、主を拒む」(1節)、「欲が深く虚言で人々を食い物にする」(3節)、「厚かましく、わがまま」(10節)「昼間から歓楽にふけるのを愉しみとする」(13節)「無意味な大言壮語」(18節)等の特徴を持つ。

試論:「やもめではない」?を140文字以内で

かつて哀歌1章1節はカルデア人に滅ぼされた都の惨状を「多くの民の女王だった都が、やもめになってしまったか」と嘆いた。その六百年以上後、悔い改めようとしない都の傲慢を黙示録18章7節は「わたしは女王でありやもめではない」と記した。主イエスはルカ19章41節以下で都のために泣かれた。

(注)別エントリー「試論:『大淫婦』の正体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15895

試論:「高慢な人々の末路」を140文字以内で

主イエスはマタイ7章26節で、御自分の御教え(御言葉)を聞くだけで行おうとしない人々を、砂上に家を建てる愚か者にたとえられた。箴言14章9節は〔主の御言葉を聞くだけで行わない〕愚かで高慢な人々は全てにおいて他人に責任転嫁するため、仲間割れして互いになじり合い共倒れに終わると説く。

試論:ヨハネ17章21節の意味を140文字以内で

ヨハネ17章21節「父よ、あなたがわたしの内におられわたしがあなたの内にいるように、全ての人を一つにしてわたしたちの〔愛の〕内にいるようにして下さるなら、世は、あなたがわたしを遣われたと信じます」同13章35節「互いを尊重し敬意を払うなら人々はあなたたちをわたしの弟子と認める」。

【追記】

ヨハネ17章11節「聖なる父よ、わたしに与えて下さった御名によって、彼らをお守り下さい。わたしたちのように、彼らもまた一つになるためです」同10章30節「わたしと父とは、一つ」使徒言行録4章32節「信じた人々の群れは心も思いも一つ」同章24節「これを聞いた人々は心を一つにして」。

ヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」の意味を使徒言行録4章32節は「心も思いも一つ」「持ち物を自分だけのものと主張せず共有している」と説明する。従って、御父の持ち物は御子の持ち物でもあり逆もまた然りである。ヨハネ10章38節「わたしは父の内にあり、父はわたしの内におられる」。

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

主はヨハネ10章30節で「わたしと父とは一つ」と仰せになった後、17章では弟子たちのために天を仰いで祈られたが、それは御父と御自分が「一つ」であるように、弟子たちもまた「一つ」となるためであった(11節、21節〜23節)。使徒言行録4章32節「信じた人々の群れは心も思いも一つ」。

ニケア・コンスタンチノープル信条「父と一体」はヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」と38節に拠り、御父と御子の間には矛盾・対立・齟齬の類は一切ないことを表す。ギリシア神話では最高神ゼウスと父クロノス、クロノスと父ウーラノスの父子相剋が存在するが、キリスト教には全く存在しない。

主はマタイ11章27節で、全てのことは御父から御自分に任せられていると仰せになった。これは、既にダニエル7章13節以下で啓示された事柄であり、マタイ28章18節やルカ10章22節やヨハネ3章35節や同13章3節等、福音書では事ある毎に強調される「真理(ヨハネ14章6節)」である。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

《御父である神、主》と《御子である神、主イエス》とは、詩編110編1節では御父は「主」、御子は「わが主」でありマタイ22章44節で御父は「主」、御子はダビデの言う「わたしの主」である。ヨハネ1章1節では御父は「神」、御子は「言(ことば)」であり、「言は神であった」と記されている。

(注)別エントリー「試論:「わたしの主」は誰?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7536

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは道」と仰せになり、「わたしを通らなければ、誰であれ御父には到達できない」と続けられた。パウロはエフェソ2章14節でユダヤ人と異邦人をこの点において隔てる壁はないと記し、ローマ10章12節でも「ユダヤ人とギリシア人の区別はない」と明言している。

主イエスの御前でユダヤ人と異邦人の「区別」が存在しないことはエフェソ2章14節以下、使徒言行録15章9節「わたしたちと彼らの間に何の差別もなさいません」、ローマ3章29節「神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもあります」、一コリント12章13節、ガラテヤ3章28節以下等。

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは道」と仰せになり、「わたしを通らなければ、誰であれ御父には到達できない」と続けられ、また御昇天前にマタイ28章19節で「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じられた。パウロもローマ10章12節で「ユダヤ人とギリシア人の区別はない」と説く。

(注)別エントリー「試論:『イエスは全人類の模範』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5948

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7818

主が「わたしは道」(ヨハネ14章6節)と仰せになる場合、自身が御父へ通じる唯一無二の存在であると示唆するだけではなく、日本語の「人としての道から外れる」と同様に、誰もがそこを通って進んで行くべき人間としての道筋つまり御父である神の御前における模範(同13章15節)の意味をも含む。

試論:「天地創造の前から」を140文字以内で

ヨハネ1章1節の「言(ことば)」、いわゆる「神の御言葉」とは、「御自分で御言葉をお話しになる神」すなわち御子である神、主イエス・キリストを意味する。「言(ことば)は神とともにあった」とは、天地創造以前の初めから、御子である神は御父である神とともに存在しておられたということである。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

試論:「反省しない人、カイン」を140文字以内で

カインは怒りに任せ弟アベルを殺害した後、主の問いに「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」と白(しら)を切った。その後「わたしの罪は重過ぎて負い切れません」と口にしたが、この言葉は、決して反省の弁ではなく、主からの庇護(創世記4章15節「しるし」)を引き出すための口実であった。

(注)別エントリー「試論:『自分勝手の塊、カイン』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17175

試論:マリアはなぜ「女王」??を140文字以内で

【問】カトリックは聖母を「女王」扱いしますが福音書のマリアは控え目な女性ではないでしょうか?【答】黙示録5章10節は小羊に忠実な人々が王になると啓示します。「最も偉い者とは皆に仕える者」の御教えに忠実でサタンの罪と死による支配に打ち勝った者だからで、聖母は全信者の先駆的存在です。

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7514

(注)別エントリー「試論:世の罪を取り除く神の小羊を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6140

【追記】

創世記3章15節で神は、サタンと決定的に対立する一人の女性が将来現れることを予告された。黙示録12章では、それは救い主の母となった女性のことだと啓示された。救い主は人々を罪や悪から救うために生まれるので、その母が存在の最初の瞬間から罪や悪とは完全に無縁であるべきなのは当然である。

(注)別エントリー「神のお告げ:受胎告知と無原罪の御宿り」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4835

(注)別エントリー「創世記3章15節:蛇の頭を踏み砕く者は誰か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1488

「救い主」が世を救われる方法に関しイザヤは、「小羊」(53章7節)つまり代価として御自分をささげ、「しもべ」(42章、49章以下等)として人々に仕えると預言し、主もマタイ20章28節でそれを宣言された。救い主の母となることを承諾した女性が「主のはしため」を称するのは象徴的である。

(注)別エントリー「試論:『しもべ』と『はしため』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9785

黙示録5章10節は、「小羊」主イエスに忠実な弟子たちが王となり地上を統治すると啓示する。その理由の一つは彼らが「最も偉い者は皆に仕える者」(マタイ23章11節)という主の仰せに忠実だからであり、一つはローマ5章12節以下の通り、サタンの罪と死による支配に打ち勝った者だからである。

一コリント4章8節でパウロはコリントの人々に、《あなた方は教会を意のままに差配して誇っているが、どうかキリスト教の本分「罪と死の支配からの自由」を心がけ永遠の命に至る努力を日々怠らぬように。それならわれわれも福音宣教が実を結んだと主に認められて永遠の命に至るのに》等と書き送った。

主はヨハネ8章32節で「真理はあなたたちを自由にする(解放する)」と仰せになった。パウロはヨハネと同じギリシア語を用いて何からの解放か、その答えをローマ6章と同8章で説明した。「罪から解放」(6章18節、22節)、8章2節「罪と死の法則から解放」同21節「滅びへの隷属から解放」。

エレミヤ10章10節は「主は真理の神」と記すがこの章では、自分では言葉を話せない偶像の神々と違い、イスラエルの神である主は御自ら、御言葉を発せられて真正な御教えを御自分の民にお話しになられる(申命記5章22節以下)という事柄を要約する表現として、「真理〔の神〕」が用いられている。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

エレミヤ10章10節は「主は真理の神、命の神、永遠を支配する王」と呼ぶ。ヨハネ福音書で主イエスが御自身に関連して「真理」「命」「永遠の命」等の表現を頻用されること自体、御自身の神性の表明である。イエスに敵意を抱く人々からすると神に対する冒瀆であり、石打ちの刑に相当する事柄だった。

イスラエルの神である主は御自分の民に対して御自ら御言葉を発せられて御教えをお話しになり(申命記5章22節以下)、それこそが自分で言葉を話せない偶像の神と最も異なるとして、主をエレミヤ10章10節は「真理の神」と呼ぶ。主イエスはピラトに御自分が何者か「真理」の表現で端的に示された。

黙示録20章やローマ5章は「悪に悪を返さない」ことを徹底して罪や悪と決別した人々を「バシレウオ(〔キリストとともに〕王となる)」という動詞で表すが、これはあくまで《義化の完成》を象徴する表現であり政治体制的な意味を含まず、彼らは「第二の死」を免れ「永遠の命」を得ると記されている。

主イエスはヨハネ18章36節で、「わたしのバシレイアは、この世には属していない」と仰せになった。原文のギリシア語バシレイアは、聖書では「王権」「〔神の〕王国」を意味し、「王国の一人一人」まで包含する。黙示録1章6節でヨハネは、自分たちは既にその一部を構成していると書き記している。

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。

【問】カトリックでは創世記3章15節および黙示録12章の「女」をマリアと解釈し、サタンと決定的に対立する存在だと教えますが、その対立点はどこですか?【答】マリアは人々へ神の言葉には全て従うよう勧めますが(ヨハネ2章5節)、サタンはエバへ神に従わぬ(創世記3章4節)よう唆しました。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

(注)別エントリー「試論:『女』とサタンの対立を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10314

(注)別エントリー「『鉄の杖』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16717

(注)別エントリー「試論:『女』と『竜』の対立を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12925

試論:「ゴグとポー」を140文字以内で

19世紀前半の作家エドガー・アラン・ポーは、紀元前二世紀のシリア王アンティオコス四世エピファネスを題材にした、「エピマネス(狂人)」という作品を書いたが、その冒頭には「アンティオコス・エピファネスは、一般的に預言者エゼキエルのいうところのゴグと見なされている」などと記されている。

(注)別エントリー「試論:エゼキエル戦争を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4921

【追記】

エゼキエル書38章には「マゴグのゴグ」預言があり、13節「タルシシュの商人」に関して古代のギリシア語聖書は「タルシシュ」を「カルタゴ」と解釈したが、商業国カルタゴは紀元前146年には既に滅亡しており、従って「マゴグのゴグ」預言はカルタゴ滅亡以前の時期に実現していなければならない。

(注)別エントリー「予備的考察:いわゆる『エゼキエル戦争』【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15520

バビロン捕囚からの帰還と主イエス・キリストの御降誕との間の約五百年で、アンティオコス四世エピファネスによる迫害ほどイスラエル人にとって苛酷な惨劇はなかった。エゼキエル書38章で預言されている危機的状況をマカバイ記の時代の惨劇とは全く無関係と捉えるのは、やはり解釈として無理がある。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

旧約聖書の「メシェク」はアッシリアでは「ムシュキ」と呼ばれ、アッシリアの記録に「ムシュキの王ミタ」とある人物は古代ギリシア側の「フリギアの王ミダス」に対応する。マカバイ記二5章22節ではフリギア出身の人物がアンティオコス・エピファネスに任命され、エルサレムで暴虐の限りを尽くした。

マカバイ記二5章24節以下には、同じくアンティオコス・エピファネスに任命された「ムシア人」が、大軍を率いてエルサレムに現われ大量虐殺を行なったことが、書かれている。このムシアは、ミュシア・ミシアとも表記されるアナトリア西部の地方で、かつては最盛期のムシュキの領土の西端に該当した。

試論:「人心の荒廃」を140文字以内で

【問】なぜ世の人心は荒廃し「愛が冷える」(マタイ24章12節)のですか?【答】主イエスが「あなたが他の人からしてもらいたいこと全てをあなたから他の人にしなさい」(マタイ7章12節)と仰せになり、御自分の「律法」とまで呼ばれたのに、弟子を自称する人々でさえそれを等閑にするからです。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

(注)別エントリー「試論:『世に光を輝かせなさい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17193

試論:「短慮は聖霊と矛盾する」を140文字以内で

【問】主イエスは御受難を前にして聖霊を「弁護者」「真理の霊」と呼ばれました。「聖霊」を口にする人々は少なくないですが、その真贋を識別する方法はありますか?【答】イザヤ11章2節は「神の霊」の賜物を「知恵」と呼び、箴言8章12節は「知恵は熟慮と慎重さを伴う」と記し、短慮を戒めます。

【追記】

主イエスはマタイ4章24節と同17章15節で、てんかん(けいれん、ひきつけ)の人々を治癒の対象とされた。急に体をブルブル(ガクンガクン)させて白目を剥いたり、呼び掛けに応じなくなったり、口から泡を吹いてひっくり返ったり等が見られれば、当然、聖霊の働きでなく救急医療の対象に当たる。

イザヤ11章2節以下とガラテヤ5章22節以下では聖霊による賜物について列挙されるが、そこにはいわゆる「異言(諸言語〔の賜物〕)」も「預言」も含まれていない。「預言」にも真の預言者と偽預言者が存在したように異国の言語らしきものを話し始めた人がいたとしても本物とは限らないからである。

いわゆる「異言」と呼ばれる《諸言語〔の賜物〕》に関して、パウロは一コリント12章から14章において、それを「解釈(通訳)する人」の存在と重要性を繰り返し強調している。14章28節では、その場に通訳(解釈)できる人が皆無なら、語る人は教会の中では沈黙しているようにと強く命じている。

一コリント14章26節以下でパウロは、いわゆる「異言」と呼ばれる《諸言語〔の賜物〕》に関し、「語る人」と「解釈(通訳)する人」がいて初めて成り立つと記す。従って、どの言語か全く分からない何事かが話されても、その場に通訳(解釈)できる人が皆無ならば、聖霊に由来するとは認められない。

パウロは一コリント14章33節で神は混乱(無秩序)の神ではないと記し、同30節で集会中に複数人が同時並行的に言葉を発することを禁じ37節で混乱は主の流儀ではないことを示唆した。ヨハネ17章11節等で主イエスが強く願われ使徒言行録4章32節で実現した、「一つ」に違反するからである。

主はヨハネ10章30節で「わたしと父とは一つ」と仰せになった後、17章では弟子たちのために天を仰いで祈られたが、それは御父と御自分が「一つ」であるように、弟子たちもまた「一つ」となるためであった(11節、21節〜23節)。使徒言行録4章32節「信じた人々の群れは心も思いも一つ」。

ニケア・コンスタンチノープル信条「父と一体」はヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」と38節に拠り、御父と御子の間には矛盾・対立・齟齬の類は一切ないことを表す。ギリシア神話では最高神ゼウスと父クロノス、クロノスと父ウーラノスの父子相剋が存在するが、キリスト教には全く存在しない。

一コリント12章以下でパウロは霊的な賜物に関し論じた。14章33節は「神は混乱(無秩序)の神ではなく協調(平和)の神」と説き、集会中の発言は順番(27節、40節)になされるべきで複数人が別々の事柄を同時並行で語ることを禁じ(30節)、それは「主の命令」(38節)であると厳命した。

聖パウロのガラテヤ書5章によれば、聖霊が働いている徴は愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・節制(22節〜23節)であり、聖霊が不在である徴は姦淫・わいせつ・好色・偶像礼拝・魔術・敵意・争い・そねみ・怒り・利己心・不和・仲間争い・ねたみ・泥酔・酒宴(19節〜21節)などである。

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを確実に識別できる基準」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4564

聖霊の七つの賜物という特別の恵みは、古代のギリシア語訳またラテン語訳のイザヤ書11章2節〜3節の記述に基づいており、

【1】知恵(上智)
【2】分別(識別)
【3】思慮(賢慮)
【4】剛毅(勇気)
【5】〔主に関する〕知識
【6】〔主に対する〕孝愛(信心)
【7】〔主に対する〕畏敬

などである。

(注)別エントリー「試論:聖霊降臨と聖母を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4990

ヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」の意味を使徒言行録4章32節は「心も思いも一つ」「持ち物を自分だけのものと主張せず共有している」と説明する。従って、御父の持ち物は御子の持ち物でもあり逆もまた然りである。ヨハネ10章38節「わたしは父の内にあり、父はわたしの内におられる」。

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

イザヤ11章では聖霊の賜物として知恵・識別・思慮を挙げ、またガラテヤ5章23節では節制を挙げる。従って例えば詐欺に引っ掛かったり、貴重品を紛失したり、交通事故を起こしたり警察に違反を指摘されたり、多くの飲食物への執着を断ち切れないならば、常識的に判断して聖霊の介在は否定的である。

ルカ1章35節以下では、マリアに聖霊が降臨され彼女が神の御独り子を身籠るという事柄が告知された。従って《聖霊の結ぶ実》(ガラテヤ5章22節以下)すなわち《愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制》がマリアの内面をあふれんばかりに満たしていることには、疑問の余地などない。

パウロは一コリント14章33節で神は無秩序の神ではないと説き、40節では全てを秩序正しく行うよう勧め、30節で複数人が同時に口を開くことを禁じる。従って「ある人々は互いに別々の事柄を語り始め、別の人々は歌い出し、また別の人々は踊り出す」ならそれは神の霊とは全く関係ない現象である。

主イエスはさまざまな病気に対し奇跡的な治癒を行われたが、病人に医者が必要であることは否定されない(ルカ5章31節等)。シラ書38章は、病気になった際に主に治癒を祈り求めることを勧める(9節)が、それと共に医者の手を借りることも勧め(12節)治癒に医者が必要な場合もあり得ると説く。

(注)別エントリー「試論:『善きサマリア人と宿屋』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13394

試論:小羊の弟子が王となる条件を140文字以内で

黙示録5章10節は、「小羊」主イエスに忠実な弟子たちが王となり地上を統治すると啓示する。その理由の一つは彼らが「最も偉い者は皆に仕える者」(マタイ23章11節)という主の仰せに忠実だからであり、一つはローマ5章12節以下の通り、サタンの罪と死による支配に打ち勝った者だからである。

【追記】

一コリント4章8節でパウロはコリントの人々に、《あなた方は教会を意のままに差配して誇っているが、どうかキリスト教の本分「罪と死の支配からの自由」を心がけ永遠の命に至る努力を日々怠らぬように。それならわれわれも福音宣教が実を結んだと主に認められて永遠の命に至るのに》等と書き送った。

主はヨハネ8章32節で「真理はあなたたちを自由にする(解放する)」と仰せになった。パウロはヨハネと同じギリシア語を用いて何からの解放か、その答えをローマ6章と同8章で説明した。「罪から解放」(6章18節、22節)、8章2節「罪と死の法則から解放」同21節「滅びへの隷属から解放」。

エレミヤ10章10節は「主は真理の神」と記すがこの章では、自分では言葉を話せない偶像の神々と違い、イスラエルの神である主は御自ら、御言葉を発せられて真正な御教えを御自分の民にお話しになられる(申命記5章22節以下)という事柄を要約する表現として、「真理〔の神〕」が用いられている。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

エレミヤ10章10節は「主は真理の神、命の神、永遠を支配する王」と呼ぶ。ヨハネ福音書で主イエスが御自身に関連して「真理」「命」「永遠の命」等の表現を頻用されること自体、御自身の神性の表明である。イエスに敵意を抱く人々からすると神に対する冒瀆であり、石打ちの刑に相当する事柄だった。

イスラエルの神である主は御自分の民に対して御自ら御言葉を発せられて御教えをお話しになり(申命記5章22節以下)、それこそが自分で言葉を話せない偶像の神と最も異なるとして、主をエレミヤ10章10節は「真理の神」と呼ぶ。主イエスはピラトに御自分が何者か「真理」の表現で端的に示された。

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7514

(注)別エントリー「試論:世の罪を取り除く神の小羊を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6140

黙示録20章やローマ5章は「悪に悪を返さない」ことを徹底して罪や悪と決別した人々を「バシレウオ(〔キリストとともに〕王となる)」という動詞で表すが、これはあくまで《義化の完成》を象徴する表現であり政治体制的な意味を含まず、彼らは「第二の死」を免れ「永遠の命」を得ると記されている。

主イエスはヨハネ18章36節で、「わたしのバシレイアは、この世には属していない」と仰せになった。原文のギリシア語バシレイアは、聖書では「王権」「〔神の〕王国」を意味し、「王国の一人一人」まで包含する。黙示録1章6節でヨハネは、自分たちは既にその一部を構成していると書き記している。

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。

試論:「聖書が実現するため」?を140文字以内で

【問】ヨハネ17章12節は「聖書が実現するため」と記しますが、一体何が実現したのですか?【答】エゼキエル37章27節「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」イザヤ66章8節「誰がこのようなことを見聞きしただろうか。一つの国が一日で生まれ、一つの民が一度に生まれようか」。

【追記】

イザヤ65章17節以下では「新しい天・新しい地・新しいエルサレムの創造」が預言されるが、同書では42章以降、「主の僕(しもべ)」つまり救い主である、神の御独り子イエス・キリストに関する預言が続き、「新しい天・地・エルサレム」は救い主御自身の「復活の体」の創造と共に完成の時を見た。

(注)別エントリー「試論:『新しい天と新しい地』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15361

主イエスは福音書で自身の御受難と御復活を随所で暗示されたが、御受難と御復活の間に御自分がどんな働きをなさるかについても、ヨハネ14章2節から3節で予告された。それはイザヤ65章17節以下の「新しい天・地・エルサレムの創造」預言の成就であり、御自身の復活の体の創造で完成の時を見た。

(注)別エントリー「主の御復活とともに創造された事柄とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15917

黙示録21章16節以下では新しいエルサレムの巨大性が啓示される。これは当然、ヨハネ14章2節以下「わたしの父の家には住む場所がたくさんある。もしなかったなら、あなたたちのための場所を準備しに行くとは言わない。あなたたちの場所を準備したらあなたたちの許に戻って来る」を反映している。

主イエスは御受難と御復活の間に「新しい天・地・エルサレムの創造」を準備され誕生させたが、イザヤ66章8節は「誰がこのようなことを見聞きしたであろうか。一つの国が一日で生まれ一つの民が一日で生まれることがあり得るだろうか」と預言する。「天の国は近づいた」の「天の国」とはこれだった。

古代のイスラエルでは「神」と「神の民」との関係がしばしば「花婿」と「花嫁」と表現された。しばしば「女王」にもたとえられる都が「花婿」キリストを歓呼と共に迎え入れながら、数日後に裏切り、夜中に急襲して捕らえ一日のうちに死に至らしめたその行状から、「大淫婦」と呼ばれるのは当然である。

(注)別エントリー「試論:『大淫婦』の正体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15895

黙示録18章7節「わたしはやもめではなく女王であり、決して悲しい目に遭わない」ルカ19章41節以下「イエスは都のために泣いて仰せになった、『もし今、お前が平和への道をわきまえていたならば。しかし今のお前は、それを理解していない。時が来て、敵がお前を包囲して四方から攻め寄せ〜』」。

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1699

主イエスの御降誕は「肉の体」つまり人間としての誕生だったが、この世に来られた究極の目的が「贖(あがな)い」である以上、「上げられ(十字架上で顕示され)た」後の死と御復活によって悪魔の罪と死の支配を終わらせ人類に永遠の命と「霊の体」を準備して目的を達成したことの方がより重要である。

(注)別エントリー「試論:真理と贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9081

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

二世紀初めにアンティオキアの聖イグナティウスが記したように初代の信者は、キリストの御復活すなわち「天上の体」(一コリント15章40節)の創造の記念に、週七日の中で祝うべき特別の日を土曜日(ユダヤ教の安息日)から、御復活があった「週の最初の日(安息日の翌日)」日曜日へと置き換えた。

(注)別エントリー「試論:『土曜と日曜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12677

(注)別エントリー「試論:『安息日と主日との違い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12017

試論:「一つ」何が??を140文字以内で

ヨハネ17章11節「聖なる父よ、わたしに与えて下さった御名によって、彼らをお守り下さい。わたしたちのように、彼らもまた一つになるためです」同10章30節「わたしと父とは、一つ」使徒言行録4章32節「信じた人々の群れは心も思いも一つ」同章24節「これを聞いた人々は心を一つにして」。

【追記】

ヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」の意味を使徒言行録4章32節は「心も思いも一つ」「持ち物を自分だけのものと主張せず共有している」と説明する。従って、御父の持ち物は御子の持ち物でもあり逆もまた然りである。ヨハネ10章38節「わたしは父の内にあり、父はわたしの内におられる」。

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

主はヨハネ10章30節で「わたしと父とは一つ」と仰せになった後、17章では弟子たちのために天を仰いで祈られたが、それは御父と御自分が「一つ」であるように、弟子たちもまた「一つ」となるためであった(11節、21節〜23節)。使徒言行録4章32節「信じた人々の群れは心も思いも一つ」。

ニケア・コンスタンチノープル信条「父と一体」はヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」と38節に拠り、御父と御子の間には矛盾・対立・齟齬の類は一切ないことを表す。ギリシア神話では最高神ゼウスと父クロノス、クロノスと父ウーラノスの父子相剋が存在するが、キリスト教には全く存在しない。

主はマタイ11章27節で、全てのことは御父から御自分に任せられていると仰せになった。これは、既にダニエル7章13節以下で啓示された事柄であり、マタイ28章18節やルカ10章22節やヨハネ3章35節や同13章3節等、福音書では事ある毎に強調される「真理(ヨハネ14章6節)」である。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

《御父である神、主》と《御子である神、主イエス》とは、詩編110編1節では御父は「主」、御子は「わが主」でありマタイ22章44節で御父は「主」、御子はダビデの言う「わたしの主」である。ヨハネ1章1節では御父は「神」、御子は「言(ことば)」であり、「言は神であった」と記されている。

(注)別エントリー「試論:「わたしの主」は誰?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7536

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは道」と仰せになり、「わたしを通らなければ、誰であれ御父には到達できない」と続けられた。パウロはエフェソ2章14節でユダヤ人と異邦人をこの点において隔てる壁はないと記し、ローマ10章12節でも「ユダヤ人とギリシア人の区別はない」と明言している。

主イエスの御前でユダヤ人と異邦人の「区別」が存在しないことはエフェソ2章14節以下、使徒言行録15章9節「わたしたちと彼らの間に何の差別もなさいません」、ローマ3章29節「神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもあります」、一コリント12章13節、ガラテヤ3章28節以下等。

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは道」と仰せになり、「わたしを通らなければ、誰であれ御父には到達できない」と続けられ、また御昇天前にマタイ28章19節で「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じられた。パウロもローマ10章12節で「ユダヤ人とギリシア人の区別はない」と説く。

(注)別エントリー「試論:『イエスは全人類の模範』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5948

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7818

主が「わたしは道」(ヨハネ14章6節)と仰せになる場合、自身が御父へ通じる唯一無二の存在であると示唆するだけではなく、日本語の「人としての道から外れる」と同様に、誰もがそこを通って進んで行くべき人間としての道筋つまり御父である神の御前における模範(同13章15節)の意味をも含む。

試論:「人を惑わす霊」特徴を140文字以内で

「人を惑わす霊」は一ヨハネ4章6節に登場し、3節の「反キリストの霊」「イエスのことを公に言い表さない霊」と同じだが、4節の「偽預言者たち」を指している。「わたしたちから去って行った」「世のことを話す」「世は彼らに耳を傾ける」「キリストの教えにとどまろうとしない」などの特徴を持つ。

【追記】

一ヨハネ4章2節とヨハネ1章14節を照合すると「惑わす霊」の特徴は、主イエスが公生活中に仰せになった「主の御言葉」の内容(掟や戒め)に頑として触れようとしない点で、キリスト不在のキリスト教と呼ぶべきものへと信仰を換骨奪胎し、信者を福音書の主の御言葉から遠ざけることこそ目的である。

主はルカ6章46節で「あなたたちはわたしのことを『主よ、主よ』と呼んでおきながらどうしてわたしの言うことを行わないのか」と仰せになった。さらに次節以下では「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞きながら聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている」とお教えになった。

主イエス・キリストはヨハネ1章において「言(ことば)」つまり「神の御言葉」と呼ばれる。《天使や預言者を介さず直に人々に語り掛けられる神》であるのと同時に、《人が御自分の御言葉を実行するか否かで、その人が本当に御自分を愛しているか否かを判断なさる神》(ヨハネ14章)だからでもある。

(注)別エントリー「試論:『選ばれた人は選んだ人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8034

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

黙示録12章9節は「竜」を「悪魔とかサタンとか呼ばれる、年を経た蛇、全人類を惑わす者」と呼び、創世記3章の「蛇」と同一と示唆する。その手口は「〔神から言い渡された事柄に従わなくとも〕あなたは死ぬことがない」であり、この「死」は申命記30章15節の通り「不幸の極み」の比喩でもある。

【問】カトリックでは創世記3章15節および黙示録12章の「女」をマリアと解釈し、サタンと決定的に対立する存在だと教えますが、その対立点はどこですか?【答】マリアは人々へ神の言葉には全て従うよう勧めますが(ヨハネ2章5節)、サタンはエバへ神に従わぬ(創世記3章4節)よう唆しました。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

主イエスはヨハネ14章6節で真理を自称され、1章1節は御子を「言(ことば)」つまり《人々の前に御姿を現され御自ら御教えをお話になる神》と記す。18章37節で主は「真理に属する者は皆、わたしの声を聞く」と仰せになった。福音書に収録された実際の主の仰せを軽視する人は主に属していない。

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

(注)別エントリー「試論:『まことの神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16491

(注)別エントリー「試論:まこと(真、実、信、誠)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16274

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書の『信じる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16417

イザヤ58章9節「もしもあなたが隣人を圧迫することをやめるなら、もしもあなたが隣人を侮ることをやめるなら、もしもあなたが隣人を言葉で傷つけることをやめるなら、あなたが主を呼ぶ時には必ず主は御答えになり、あなたが主に向かって叫ぶ時には必ず主は『わたしはここにいる』と御返事される」。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

試論:「永遠の命」とは??を140文字以内で

主イエスはヨハネ17章3節で「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ること」と仰せになった。一コリント13章12節では、天の国においては人間は神を「顔と顔とを合わせて見る〔ようにはっきり理解する〕ことになる」と説明している。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11494

(注)別エントリー「試論:バシレイア(=神の王国)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12654

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4544

【追記】

マタイ25章34節「御父に祝福された人々よ、天地創造の時からあなたたちのために準備されていた王国を受け継ぎなさい」黙示録21章7節「勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ」ヘブライ6章12節「怠け者とならず信仰と忍耐によって、約束されたものを受け継ぐ人々に倣う者となってほしい」。

(注)別エントリー「試論:『王国を受け継ぐ者たち』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13826

放蕩息子のたとえでは父親はしもべたちに、帰って来た息子の手に指輪をはめるよう指示するが、エステル記3章10節以下に王権の委任を象徴する印章として指輪が登場する。放蕩息子のたとえでは相続人の権利回復の象徴で、人が本当に悔い改めるならば、神は全面的にその人に対する信頼を取り戻される。

ホセア6章6節は「わたしが求めるのは、憐れみであって『いけにえ』ではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」と記すが、これと関連して一ヨハネ2章3節は「知る」という表現の意味を《神の掟を守るという実体験を通して自分は神を知っているのだと自覚する》ことであると説明する。

(注)別エントリー「試論:『いけにえ』と憐れみを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8356

(注)別エントリー「試論:『神を知ること』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5580

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

主はマタイ福音書で「わたしが求めるのはあわれみであって犠牲(いけにえ)ではない」(ホセア6章6節)と繰り返されたが同節は「神を知ることであって焼き尽くす献(ささ)げ物ではない」と続く。「神を知る」を一ヨハネ2章3節は「神の掟(愛の掟。ヨハネ15章12節等)を守る」ことと説明する。

今、あなたの神、主があなたに求めておられることとは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてその全ての導きに従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸せになることではないか。(申命記10章12節〜13節)

ミカ6章8節「何が善であって、主が何をあなたたちに求めておられるかは、あなたたちには既に告げられている。それは神の義を行い、憐れみの業を愛し、へりくだり神と共に歩むこと」ホセア6章6節「わたしが求めるものは『いけにえ』ではなく憐れみであり、焼き尽くす献げ物ではなく神を知ること」。

(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6748

箴言16章7節は、ある人が主に喜ばれる行いに努め続けるならその人はかつての敵とも主の仲介で和解に至るであろうと説く。ホセア6章6節は、主が喜ばれることとは隣人に憐れみの業を行うことであって「いけにえ」ではなく、そして神を知るように努めることであって焼き尽くす献げ物ではないと説く。

(注)別エントリー「試論:『神を知る』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10024

マタイ11章28節「重荷を負う者は、わたしの許へ来なさい」詩編38編5(4)節「わたしの罪悪は耐え難い重荷」マタイ9章13節「正しい人を招くためではなく罪人を招くために、わたしは来た」ホセア6章1節〜2節「わたしたちは主の許に帰ろう。主はわたしたちをいやされ、傷を包んで下さる」。

(注)別エントリー「試論:『いけにえ』と憐れみを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8356

マタイ9章13節「わたしが来た目的は、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」ホセア6章1節〜2節「さあ、わたしたちは主の御許に帰ろう。主はわたしたちの傷を覆ってくださり、いやしてくださる。主はわたしたちを立ち上がらせ命を与えてくださる。わたしたちは主の御前で生きる」。

主がマタイ9章13節で「わたしが求めるのは憐れみであり『いけにえ』ではない」とホセア6章6節に言及されてファリサイ派の人々に学ばせたかった「意味」という事柄の答えは、ホセア6章3節「主は曙の光のように必ず現われて、春に降り注ぎ大地を潤す雨のようにわたしたちを訪れて下さる」である。

試論:主イエスから逃げ回る人々を140文字以内で

主イエスをヨハネ1章1節は「言(ことば)」つまり《人々の前に御姿を現され御自ら御教えをお話しになる神》と呼ぶ。主イエスに従う人々にとって「神の御言葉」とは、まず何より主イエス御自身の仰せである。聖書やキリスト教に関して話題にしても肝心の主イエスの御教えを避ける人々は眉唾物である。

【追記】

一ヨハネ4章は、信者を自称しながら世間の事柄ばかり話題にして主イエスの福音の中身に関して頑に触れようとせず沈黙する人々を、「偽預言者」「反キリストの霊」などと呼ぶ。2章19節は「彼らはわたしたちから去って行った」「元々仲間ではなかった」「仲間ならとどまっていた」とその末路を記す。

(注)別エントリー「試論:『愛している者なら』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9220

(注)別エントリー「試論:『主の御言葉の権威』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9025

二ペトロ2章は「偽教師」への警戒を呼びかける。彼らは「滅びをもたらす異端を持ち込み、主を拒む」(1節)、「欲が深く虚言で人々を食い物にする」(3節)、「厚かましく、わがまま」(10節)「昼間から歓楽にふけるのを愉しみとする」(13節)「無意味な大言壮語」(18節)等の特徴を持つ。

(注)別エントリー「試論:主イエスと旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7462

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4783

(注)別エントリー「試論:神の国の到来と『主の日』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5578

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の意義を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9840

(注)別エントリー「試論:携挙がない理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4703

(注)別エントリー「試論:『携挙』の否定を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6277

(注)別エントリー「試論:有人気球と『空中』の拡大を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10279

一ヨハネ4章2節とヨハネ1章14節を照合すると「惑わす霊」の特徴は、主イエスが公生活中に仰せになった「主の御言葉」の内容(掟や戒め)に頑として触れようとしない点で、キリスト不在のキリスト教と呼ぶべきものへと信仰を換骨奪胎し、信者を福音書の主の御言葉から遠ざけることこそ目的である。

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)である神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8969

主はルカ6章46節で「あなたたちはわたしのことを『主よ、主よ』と呼んでおきながらどうしてわたしの言うことを行わないのか」と仰せになった。さらに次節以下では「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞きながら聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている」とお教えになった。

ダニエル9章24節はメシアに関して預言の時代を封印する存在だと預言し、ルカ21章22節で主イエスは旧約聖書の全預言が(紀元七〇年の)エルサレム滅亡で成就すると仰せになった。故に現代や近未来の国際情勢と旧約聖書の預言は無関係で、関係ありとする強弁は、キリスト教の範疇を逸脱している。

ルカ17章34節から35節で主は「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」と繰り返されたが、では一体どこに「連れて行かれ」るのかを、ルカ21章24節では「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と御説明された。これは大昔モーセがレビ記26章33節以下で預言していた話と同じである。

紀元七〇年のエルサレム滅亡時にローマ軍へ投降したユダヤ人のうち、使徒言行録22章のパウロのようにローマの市民権を持つ者はローマ法の保護下にあるため留め置かれたが、そうでない者は妻子と共に奴隷とされて売り飛ばされた。こうして「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」は現実となった。

プロテスタントの文語訳聖書『改訳 新約聖書』(1917年)はルカ21章23節を「地(ち)には大(おほひ)なる艱難(なやみ)ありて、御怒(みいかり)この民(たみ)に臨(のぞ)み」と訳し、ある人々がいわゆる「大艱難時代」と呼ぶ時期とは実は紀元七〇年の滅亡の前後に他ならないと示唆する。

主はルカ21章23節でエルサレム滅亡とその前後のユダヤの苦難を予告されたが、『改訳 新約聖書』(1917年)では「大なる艱難」と日本語訳する。一世紀後半のユダヤの歴史家ヨセフスの記述通り、紀元六六年の大反乱の勃発から七三年のマサダ陥落までの七年間に、ユダヤは惨劇の連続を経験した。

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

ダニエル9章24節はメシアに関して預言の時代を封印する存在だと預言し、主イエスはルカ21章22節で旧約聖書の全預言が(紀元七〇年の)エルサレム滅亡で成就すると仰せになった。故に現代や近未来の国際情勢と旧約聖書の預言とは無関係で、関係ありとする解釈は主の仰せとは明確に相反している。

(注)別エントリー「試論:神の国の到来と『主の日』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5578

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

試論:「世に光を輝かせなさい」を140文字以内で

主イエスはマタイ5章16節で「光を、人々の前に輝かせなさい。人々が立派な行いを見て、天の父をあがめるようになるため」と仰せになった。神からの光が人々に伴って輝くのはどんな時かがイザヤ58章9節〜10節に記されているが、憐れみの業を行うと共に自分の中の悪意を放棄しなければならない。

(注)別エントリー「試論:『人心荒廃は滅亡の前兆』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6291

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

【追記】

マタイ5章で主は、「あなたがたは世の光」(14節)、「あなたがたの光を、人々の前に輝かせなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(16節)と仰せになり、行いを伴わぬ信仰など役に立たない(ヤコブ2章14節)ことをお話しになった。

(注)別エントリー「試論:行いを欠く信仰を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5360

(注)別エントリー「試論:『地の塩』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5586

主はマタイ5章14節で「あなたがたは世の光」ヨハネ8章12節で「わたしは世の光」「わたしに従う者は暗闇の中を歩まず命の光を持つ」と仰せになった。同1章4節は「御言葉のうちに命があり、命は人間を照らす光」と記す。イザヤ58章6節以下では隣人に心を配り助けを惜しまない人々に光が伴う。

(注)別エントリー「試論:『世の光と一タラントン』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11353

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章4節『命の光』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7297

(注)別エントリー「試論:『霊魂を注ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13590

詩編119編105節に「〔主よ〕あなたのことばはわたしの道の光」とあるが、「ことば」は神の御教えを指すのと同時に、ヨハネ1章1節では人々に御姿をお見せになり御教えを直にお話しになる主イエスの称号でもあり、主は御自分を同14章6節で「道」、同8章12節で「世の光」だと表現なさった。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ14章6節の『道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9342

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

試論:「貪欲こそ偽教師の特徴」を140文字以内で

二ペトロ2章は「偽教師」への警戒を呼びかけ、「彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にする」(3節)「昼間から享楽に耽るのを楽しみにする」(13節)「強欲」(14節)等と表現する。一般の信者が真面目に働いている時間帯に、連日のように臆面もなく美食を貪る者こそが偽教師である。

(注)別エントリー「試論:偽預言者と貪欲を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7125

(注)別エントリー「試論:『終末預言?ありません』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13853

(注)別エントリー「試論:有人気球と『空中』の拡大を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10270

【追記】

二ペトロ2章は「偽教師」への警戒を呼びかける。彼らは「滅びをもたらす異端を持ち込み、主を拒む」(1節)、「欲が深く虚言で人々を食い物にする」(3節)、「厚かましく、わがまま」(10節)「昼間から歓楽にふけるのを愉しみとする」(13節)「無意味な大言壮語」(18節)等の特徴を持つ。

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

主はヨハネ5章39節で、聖書とは御自分についてあかしするものであり、御自分を目的としない聖書研究には意味がない旨を仰せになった。これに関連し一ヨハネ4章も、主イエスに関する事柄についてなるべく触れようとしない自称信者を「偽預言者」「反キリストの霊」「人を惑わす霊」などと表現する。

旧約時代においては旧約聖書の読者ばかりでなくそれぞれの書の著者たちですら、何か重大なものが自分たちには欠けており将来それを満たして下さる方が到来されるであろうと感じていた。今、キリストの信者を自認する現代人が、福音書よりも旧約聖書の方を熱心に読んでいるなら本末転倒もはなはだしい。

マルコ6章34節は大勢の群衆が「飼い主のいない羊」のようだったので主が憐れまれたと記す。ゼカリヤ10章2節は、無内容で大概な「啓示」の連続に神を求める人々が困惑して「人々は羊のようにさまよい羊飼いがいないので苦しむ」と預言し、3節「わたしの怒りは羊飼いたちに対して燃える」へ続く。

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4783

一ヨハネ4章2節とヨハネ1章14節を照合すると「惑わす霊」の特徴は、主イエスが公生活中に仰せになった「主の御言葉」の内容(掟や戒め)に頑として触れようとしない点で、キリスト不在のキリスト教と呼ぶべきものへと信仰を換骨奪胎し、信者を福音書の主の御言葉から遠ざけることこそ目的である。

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)である神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8969

主はルカ6章46節で「あなたたちはわたしのことを『主よ、主よ』と呼んでおきながらどうしてわたしの言うことを行わないのか」と仰せになった。さらに次節以下では「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞きながら聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている」とお教えになった。

マタイ7章21節の主の仰せ「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」の「主よ」という呼び掛けは、当然、25章44節「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、〜」という箇所とは内容的に直結しており、信仰義認の適不適を判断する良い基準である。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:マタイ25章の十人の乙女を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5994

試論:「みだらな行い」を140文字以内で

使徒言行録15章19節以下では神に立ち帰ろうとする異邦人に対して、偶像に供えて汚(けが)れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるように勧める。ヘブライ人は、唯一の主から離れて他の神々に心を奪われる背信をも、しばしば「みだらな行い」(姦淫、淫行)にたとえていた。

【追記】

列王記上11章は、ソロモン王が数多くの異邦出身の女性を愛し彼女らが自分の故郷の神々を崇拝することを容認したため、イスラエルに遺教礼拝が蔓延し長年イスラエルが混乱する元凶になったと記す。エゼキエル16章と同23章は、都エルサレムが唯一の主に背いて他の神々に走ったことを淫行に喩えた。

古代のイスラエルでは「神」と「神の民」との関係がしばしば「花婿」と「花嫁」と表現された。しばしば「女王」にもたとえられる都が「花婿」キリストを歓呼と共に迎え入れながら、数日後に裏切り、夜中に急襲して捕らえ一日のうちに死に至らしめたその行状から、「大淫婦」と呼ばれるのは当然である。

(注)別エントリー「試論:黙示録17章『十本の角』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9155

(注)別エントリー「試論:黙示録17章『第八の者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9038

黙示録18章7節「わたしはやもめではなく女王であり、決して悲しい目に遭わない」ルカ19章41節以下「イエスは都のために泣いて仰せになった、『もし今、お前が平和への道をわきまえていたならば。しかし今のお前は、それを理解していない。時が来て、敵がお前を包囲して四方から攻め寄せ〜』」。

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1699

古代のイスラエルは、神と神の民との関係をしばしば花婿と花嫁の関係にたとえた。洗礼者ヨハネは、イエスを「花婿」と呼んで自身は「花婿の介添人」と称した。主イエスを歓呼の裡に迎え入れながら数日で死に至らしめた都を、黙示録が「大淫婦」と呼んだ理由は、イエスこそ花婿に他ならないからである。

ヨハネの黙示録17章5節には「淫婦の母、地上のあらゆる憎むべきものの母である大バビロン」と書かれているが、ゼカリヤ書2章11節では、エルサレムの住民が「バビロンの娘」という表現で呼び掛けられている。当時のエルサレムの住民は、かつてバビロンに連行されて住み着いた人々の子孫であった。

イザヤ62章5節はシオンの救いに関する文脈で神と神の民との関係を花婿と花嫁の関係にたとえエレミヤ33章11節はエルサレムの復興を「花婿と花嫁の声が聞こえるようになる」と預言したが、ならば、黙示録18章23節が「花婿と花嫁の声は聞かれない」と啓示した都も、やはり同じ都のはずである。

イザヤ62章5節は「神と神の民」の関係を「花婿と花嫁」の関係にたとえたが、ヨハネ3章29節で洗礼者が「花婿の介添人」を自称する場合、「花婿」が主イエス・キリストであるのは、いうまでもない。洗礼者は、「花婿」と「花嫁」を引き合わせるまでが自分の役割と心得て、30節の言葉を口にした。

古代のイスラエルでは、婚礼の時に上質の酒を提供するのは花婿の責任と考えられていた(ヨハネ2章9節以下)。一方、当時は「神」と「神の民」の関係を《花婿》と《花嫁》の関係にたとえていた(イザヤ62章5節)。カナでのぶどう酒の奇跡で、主は御自分こそが真の《花婿》であるとほのめかされた。

試論:「都の滅亡と大飢饉」を140文字以内で

一世紀後半のエルサレムは長期の籠城にも数年堪えうると考えられたほど穀物が備蓄されていた。だがローマに対する大反乱の際、ローマの脅威が一旦去った期間に三派が割拠した武装勢力は互いの支配地域の穀物市場を焼き払い合った。ローマ軍が戻って来て都を兵糧攻めにし、都は大飢饉に陥って滅亡した。

(注)別エントリー「『荒廃をもたらす憎むべきもの』とは何か【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/24206

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

(注)別エントリー「試論:『実現の日』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9074

(注)別エントリー「試論:『大淫婦』の正体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15895

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

(注)別エントリー「試論:『天地が消え失せるまで』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11358

【追記】

主はマタイ5章18節で、全てのことが実現し天地が消え失せるまで律法の時代が続くことを仰せになった。ルカ21章22節では、エルサレム滅亡(20節)の日を「書かれていることが完全に実現する報復の日」と仰せになり、エルサレムと神殿の滅亡(紀元七〇年)で律法の時代が終わると宣言なさった。

黙示録21章1節は「最初の天と最初の地は過ぎ去った」と記す。詩編78編69節はエルサレム神殿の聖所を天地に喩えた。主イエスはマタイ5章18節で全てのことが実現し天地が消え失せるまで律法の時代は続くと仰せになり、ルカ21章22節でエルサレム滅亡で全てのことが実現するとも予告された。

「天地が消え去る」の「天」とは、神がお住まいになる場所と見なされたエルサレム神殿とりわけその聖所を指し、二ペトロ3章はその滅亡が近いことを説く。「地」はエゼキエル7章2節同様、イスラエルの地を指す。紀元七〇年にエルサレムと神殿は滅亡しユダヤ(イスラエル人の国家)も同じく消滅した。

二ペトロ3章10節は「主の日」において「天は激しい音を立てながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に熔解し尽くす」と予告した。数年後の紀元七〇年、神が住まわれると見なされて、「天」と同一視されていたエルサレムの神殿は、都の滅亡の際ローマ帝国軍によって火を放たれ、大音響と共に焼け滅びた。

ルカ17章34節から35節で主は「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」と繰り返されたが、では一体どこに「連れて行かれ」るのかを、ルカ21章24節では「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と御説明された。これは大昔モーセがレビ記26章33節以下で預言していた話と同じである。

紀元七〇年のエルサレム滅亡時にローマ軍へ投降したユダヤ人のうち、使徒言行録22章のパウロのようにローマの市民権を持つ者はローマ法の保護下にあるため留め置かれたが、そうでない者は妻子と共に奴隷とされて売り飛ばされた。こうして「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」は現実となった。

主はルカ21章22節で、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就することを仰せになり、それは紀元七〇年に現実となった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代の世界情勢を安易に旧約聖書の預言に関連付ける行為は不毛で誤りの元であり、主の仰せにも合致していない。

旧約聖書の預言は第一義的に主イエス・キリストの到来及びその前後までの歴史的出来事をあかしするためのものであり、キリスト到来から約二千年後に生きる現代人が国際情勢を読み解くためのものではなく、国際情勢分析など本来の意義とは無関係の完全な逸脱行為であり、真理には絶対にたどり着けない。

試論:「自分勝手の塊、カイン」を140文字以内で

創世記4章は、弟を殺しておきながら、「あなたが御顔を隠されたら」(14節)つまり神の庇護が失われれば自分は誰かに殺されてしまうと神に頼み込むカインの姿が描かれる。「わたしは弟の番人でしょうか」(9節)と憎まれ口を神に叩いておいてこの身勝手振りで、彼は自分自身にしか興味がなかった。

(注)別エントリー「試論:『悔い改め』とは無縁の人を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17099

(注)別エントリー「試論:『カインの高慢』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17085

【追記】

カインはアベルと違って献げ物となる作物を育てる際、手間暇をかけようとせず、ろくに手入れもせず、ただ自然に育ったがままの状態のものを献げた。それでいて神に目を留められなかったことで激怒し、そうなった理由を反省せず弟の意見を参考にしようとせず両親にも相談せず、神に質問すらしなかった。

試論:「平和を得るためである」を140文字以内で

主イエスはヨハネ16章33節で、お話しになった理由を「あなたたちがわたしによって、平和を得るため」と説明された。平和という表現で福音書の時代の人々は個々の健康や幸福・協調・一致や発展、社会や国家の安寧、暴動や反乱のない状態、心の(霊的な)安定など物事が好転している状況を総称した。

【追記】

主イエスは御復活の後、弟子たち(使徒たち)に初めて現われた際「あなたがたに平和があるように」と仰せになった。古代のヘブライ人にとって「平和」は全ての幸福の総称である。挨拶として長い形式ではサムエル上25章6節「あなたに平和、あなたの家に平和、あなたのもの全てに平和があるように」。

主イエスはヨハネ14章30節で「世の支配者」に言及されたが、その者はルカ4章6節で主に対し、自分なら全世界の権力と繁栄の一切を与えられると豪語した。ヨハネ16章33節における主の仰せ「わたしは既に世に勝っている」は、荒れ野で「世の支配者」からの誘惑を全部はねのけたことを示唆する。

(注)別エントリー「試論:『この世の支配者』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9436

試論:「喜び」の理由を140文字以内で

ルカ24章51節以下「イエスは彼らを祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、エルサレムに大喜びで帰った」ヨハネ14章28節「わたしを愛しているなら、わたしが父の許へ行くのを喜ぶはずだ」同章27節「わたしは平和を残し、わたしの平和をあなたたちに与える」。

【追記】

マタイ5章9節「平和を実現する人」の「平和」とは、福音書の時代の人々にとっては単に戦争のない(終わった)状態を意味する以外に個々の健康や幸福・繁栄、人間関係の協調・一致や発展、社会や国家の安寧、暴動や反乱のない状態、心の(霊的な)安定など、物事が好転している状況の総称でもあった。

主イエスは御復活の後、弟子たち(使徒たち)に初めて現われた際「あなたがたに平和があるように」と仰せになった。古代のヘブライ人にとって「平和」は全ての幸福の総称である。挨拶として長い形式ではサムエル上25章6節「あなたに平和、あなたの家に平和、あなたのもの全てに平和があるように」。

試論:ヘブライ人の「天」とは?を140文字以内で

古代のヘブライ人は当然、父である主(イザヤ63章)のお住まいを天と呼び、神殿の聖所(詩編78編69節)をも「天」に喩えた。そこを本物の天の「写し(模型)」(ヘブライ9章24節)と見なしたからである。二コリント12章2節では、イザヤ65章で預言された「新しい天」を、第三の天と呼ぶ。

(注)別エントリー「試論:二コリント12章『とげ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15342

【追記】

ヘブライ4章14節は主イエスを「もろもろの天を通過され」と記すが詩編78編69節の通り、ヘブライ人は聖所を天にたとえた。天地創造以前から「御言葉」はおられ、メルキゼデクの聖所にもシケムにもシロにもエルサレムにも、それらが天の「写し」(ヘブライ9章24節)に過ぎないにせよおられた。

(注)別エントリー「試論:『もろもろの天を通過』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13750

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

主イエスは福音書で自身の御受難と御復活を随所で暗示されたが、御受難と御復活の間に御自分がどんな働きをなさるかについても、ヨハネ14章2節から3節で予告された。それはイザヤ65章17節以下の「新しい天・地・エルサレムの創造」預言の成就であり、御自身の復活の体の創造で完成の時を見た。

(注)別エントリー「主の御復活とともに創造された事柄とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15917

黙示録21章16節以下では新しいエルサレムの巨大性が啓示される。これは当然、ヨハネ14章2節以下「わたしの父の家には住む場所がたくさんある。もしなかったなら、あなたたちのための場所を準備しに行くとは言わない。あなたたちの場所を準備したらあなたたちの許に戻って来る」を反映している。

(注)別エントリー「試論:『新しい天と新しい地』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15361

イザヤ65章17節以下は主が新しい「天、地、エルサレム」を、新しい「神の民」のために喜びをもって創造されると預言した。ヨハネ14章2節以下「わたしの御父の家には住む場所が豊富にある」「わたしは行って場所を用意し、戻って来てあなたたちを迎える」ガラテヤ4章26節「天のエルサレム」。

(注)別エントリー「試論:預言解釈の基本を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5092

ヨハネ14章2節〜3節「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたたちのために場所を用意して、あなたたちを迎える」二コリント5章1節「わたしたちは、神によって建物が備えられていることを知っています。人の手によるものではない、天に備えられている永遠の住みかです」。

一コリント15章でパウロは「地上の体」「天上の体」という表現を用いて、《人間が地上で生活していた際の、死によって朽ちていく肉体》と《その人の霊が神の許に帰還した後で、神によって天上で新しく与えられる、朽ちることのない体》について説明し、後者を「霊の体」(44節)等と表現している。

「主の変容」とは、一コリント15章でパウロが言及する

「天上の体」(40節)

を主イエスが実際に三人の使徒へお示しになった意義深い出来事で、パウロは「天上の体」を

「朽ちないもの」(42節)

「輝かしいもの」「力強いもの」(43節)

「霊の体」(44節)

「天に属する者」(47節)

等と呼ぶ。

(注)別エントリー「試論:『主の変容』『天上の体』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9237

主はヨハネ11章25節で御自身を復活と命だと称され、6章63節では命を与えるのは「〔神の〕霊」だと仰せになった。コヘレト12章7節は人間の死でその肉体は塵(土)に還るが、命を与えられたその霊は「与え主」である神の許へと還るとし、一コリント15章44節は「霊の体が復活する」と記す。

ヘブライ5章9節は「キリストが〔御受難を経験された後に〕完全な者になられた」と記す。神でもあり人間でもあるキリストは、神としては天地創造以前から既に当然だが完全な者である。人間としては御受難を経験された後「復活の体(=天上の体、霊の体)」すなわち人間としての完成形へと到達された。

(注)別エントリー「試論:人間の完成形(最終形態)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15868

(注)別エントリー「試論:神であり人であるキリストを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6725

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

試論:「預言と私的啓示は別物」を140文字以内で

旧約の律法では王や大祭司も預言者に従う定めがあったがダニエル9章24節は「預言を封印するメシア」を預言し、ルカ21章22節の主の御言葉と紀元七〇年のエルサレム滅亡で、その預言は成就した。その後も当然「私的啓示」は続くが、決してそれらを旧約時代の「預言」と同じ扱いにしてはならない。

(注)別エントリー「試論:『偽預言者』と『もみ殻』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7600

(注)別エントリー「試論:偽預言者の悪質性を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7549

(注)別エントリー「試論:『人を惑わす霊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5682

(注)別エントリー「試論:偽預言者と反キリストの霊を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6839

(注)別エントリー「試論:偽預言者と貪欲を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7125

(注)別エントリー「試論:偽預言者と滅亡を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5401

(注)別エントリー「試論:偽預言者の識別を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6118

【追記】

ダニエル9章24節はメシアについて預言の時代を封印する存在だと預言し、主はルカ21章22節で、(紀元七〇年の)エルサレム滅亡で旧約聖書の全預言が成就し預言の時代が終わると仰せになった。故に紀元七〇年以降の国際情勢と旧約聖書の預言は無関係で、関係ありとする強弁は主の御言葉に反する。

(注)別エントリー「試論:主イエスと旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7462

主はマタイ5章18節で、全てのことが実現して天地が消え失せるまではモーセの律法も消え失せないと仰せになり、ルカ21章22節ではエルサレム滅亡で預言が全て実現すると予告され、紀元七〇年にそれは成就した。詩編78編69節の通りヘブライ人はエルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。

(注)別エントリー「試論:ルカ19章41節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5814

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

ルカ21章22節には「書かれていること」という言い回しが用いられているが、これはヨシュア記1章8節と同様に、「預言された事柄」「神から啓示された内容」などを意味する表現である。古代においては「書く(書いて記録に残しておく)」という行為それ自体が、非常に重要な意味を持つものだった。

主はマタイ5章18節で、全てのことが実現し天地が消え失せるまで律法の時代が続くことを仰せになった。ルカ21章22節では、エルサレム滅亡(20節)の日を「書かれていることが完全に実現する報復の日」と仰せになり、エルサレムと神殿の滅亡(紀元七〇年)で律法の時代が終わると宣言なさった。

「天地が消え去る」の「天」とは、神がお住まいになる場所と見なされたエルサレム神殿とりわけその聖所を指し、二ペトロ3章はその滅亡が近いことを説く。「地」はエゼキエル7章2節同様、イスラエルの地を指す。紀元七〇年にエルサレムと神殿は滅亡しユダヤ(イスラエル人の国家)も同じく消滅した。

二ペトロ3章10節は「主の日」において「天は激しい音を立てながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に熔解し尽くす」と予告した。数年後の紀元七〇年、神が住まわれると見なされて、「天」と同一視されていたエルサレムの神殿は、都の滅亡の際ローマ帝国軍によって火を放たれ、大音響と共に焼け滅びた。

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

ルカ21章22節において、主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると明言されており、それは紀元七〇年に現実のこととなった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代や近未来の世界情勢に関して旧約聖書の預言から考える行為は、不毛である。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

ダニエル書9章では神殿とエルサレムの復興を強く願うダニエルの祈りに応えて、都と神殿の再建さらには救い主の到来までも約束されたが、救い主が不当に殺された後、モーセの律法を蹂躙する集団が神殿の聖所を占拠し、そして次に来る指導者の民が、都と神殿を無法集団もろとも、滅ぼし尽くして終わる。

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

主はルカ21章23節でエルサレム滅亡とその前後のユダヤの苦難を予告されたが、『改訳 新約聖書』(1917年)では「大なる艱難」と日本語訳する。一世紀後半のユダヤの歴史家ヨセフスの記述通り、紀元六六年の大反乱の勃発から七三年のマサダ陥落までの七年間に、ユダヤは惨劇の連続を経験した。

ルカ17章34節から35節で主は「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」と繰り返されたが、では一体どこに「連れて行かれ」るのかを、ルカ21章24節では「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と御説明された。これは大昔モーセがレビ記26章33節以下で預言していた話と同じである。

紀元七〇年のエルサレム滅亡時にローマ軍へ投降したユダヤ人のうち、使徒言行録22章のパウロのようにローマの市民権を持つ者はローマ法の保護下にあるため留め置かれたが、そうでない者は妻子と共に奴隷とされて売り飛ばされた。こうして「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」は現実となった。

(注)別エントリー「試論:『滅びを避けるには』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5749

試論:「似非キリスト教の識別」を140文字以内で

主イエスをヨハネ1章1節は「言(ことば)」つまり《人々の前に御姿を現され御自ら御教えをお話しになる神》と呼ぶ。主イエスに従う人々にとって「神の御言葉」とは、まず何より主イエス御自身の仰せである。聖書やキリスト教に関して話題にしても肝心の主イエスの御教えを避ける人々は眉唾物である。

【追記】

主イエスは旧約聖書の預言に関し第一義的に御自分と御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で全て成就すると教えられた(ルカ21章22節)。旧約聖書を現代の国際情勢と関連付ける解釈は本来キリスト教と無関係である。

試論:「主への忠実が母の願い」を140文字以内で

主イエスはヨハネ15章4節で「わたしにつながっていなさい」と仰せになり、5節で「わたしにつながっていなければ、あなたたちは、何の実を結ぶことも、できない」と続けられた。ヨハネ2章5節で聖母は、「この人の言いつけには万事、従ってください」と、世の人々に御子の御言葉に従うよう伝えた。

(注)別エントリー「試論:『主イエスを見失う人々』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17121

試論:「何もできない」を140文字以内で

主イエスはヨハネ15章4節で「わたしにつながっていなさい」と仰せになり、5節で「わたしにつながっていなければ、あなたたちは、何の実を結ぶことも、できない」、6節で「わたしにつながっていない人は枯れた状態で外に投げ捨てられ、集められて火に投げ入れられ焼かれてしまう」と、続けられた。

【追記】

主はヨハネ15章2節で「わたしにつながっていても実を結ばぬ枝は全て御父が取り除かれ、実を結ぶ枝は全て御父がさらに豊かに実るよう手入れをなさる」と仰せになった。ヤコブ3章でも17節と18節に「実」が登場し、知恵・純真・温和・優しさ・従順・憐れみ・義・平和が特徴であることを説明する。

(注)別エントリー「試論:『新たに生まれなければ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9816

主イエスはヨハネ15章2節で「わたしにつながっていても実を結ばぬ枝は全て御父が取り除かれるが、実を結ぶ枝は全て御父がさらに豊かに実るように手入れをなさる」と仰せになり、ガラテヤ5章22節以下でパウロは「実」の具体例を、愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・柔和・節制と列挙した。

神の霊つまり聖霊が人間に賜るものをガラテヤ5章は愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制と説く。主はマタイ6章33節で「神の義」を求めよと仰せになり、同22章でそれを「礼服」にたとえられる。コロサイ3章では、着るべきものとは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛と説く。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

御復活の主はルカ24章47節で「罪の赦しをもたらす悔い改めがあらゆる国で宣べ伝えられる」と仰せになったが、3章3節では洗礼者が罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えたと記し、のみならず同8節では悔い改めにふさわしい実を結べと命じており、10節以下は具体的な指示をも記す。

試論:「主イエスを見失う人々」を140文字以内で

二テモテ4章でパウロは、人々が「御言葉」(2節)つまり《主が人々の前に御姿をお見せになり直接人々にお話しになった御教え》には耳を傾けなくなり、「自分に都合の良い」(3節)「作り話」(4節)つまり真の御言葉ではない紛い物の方に引かれていくと警告したが、対策は福音書を読む以外にない。

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

【追記】

ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは《天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神》主イエスを表す称号であり主が直接人々にお話しになった御言葉を記したものが福音書である。福音書を顧みず他のものばかりに目を奪われ続けるならばイエス・キリストがわからなくなる。

(注)別エントリー「試論:『イエスは全人類の模範』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5948

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

旧約聖書の預言は第一義的に主イエス・キリストの到来及びその前後までの歴史的出来事をあかしするためのものであり、キリスト到来から約二千年後に生きる現代人が国際情勢を読み解くためのものではなく、国際情勢分析など本来の意義とは無関係の完全な逸脱行為であり、真理には絶対にたどり着けない。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

ルカ21章22節において、主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると明言されており、それは紀元七〇年に現実のこととなった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代や近未来の世界情勢に関して旧約聖書の預言から考える行為は、不毛である。

ルカ21章22節には「書かれていること」という言い回しが用いられているが、これはヨシュア記1章8節と同様に、「預言された事柄」「神から啓示された内容」などを意味する表現である。古代においては「書く(書いて記録に残しておく)」という行為それ自体が、非常に重要な意味を持つものだった。

試論:「罪の赦しをもたらす」?を140文字以内で

ルカ24章47節「罪の赦しをもたらす悔い改めが、その(メシアの)名によって、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」マタイ9章13節「わたしが来た目的は、正しい人を招くためではなく、罪人を〔悔い改めに〕招くため」「わたしが求めるものは、『いけにえ』ではなく、隣人に対する憐れみである」。

【追記】

ホセア6章6節は「わたしが求めるのは、憐れみであって『いけにえ』ではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」と記すが、これと関連して一ヨハネ2章3節は「知る」という表現の意味を《神の掟を守るという実体験を通して自分は神を知っているのだと自覚する》ことであると説明する。

(注)別エントリー「試論:『いけにえ』と憐れみを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8356

(注)別エントリー「試論:『神を知ること』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5580

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

主はマタイ福音書で「わたしが求めるのはあわれみであって犠牲(いけにえ)ではない」(ホセア6章6節)と繰り返されたが同節は「神を知ることであって焼き尽くす献(ささ)げ物ではない」と続く。「神を知る」を一ヨハネ2章3節は「神の掟(愛の掟。ヨハネ15章12節等)を守る」ことと説明する。

今、あなたの神、主があなたに求めておられることとは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてその全ての導きに従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸せになることではないか。(申命記10章12節〜13節)

ミカ6章8節「何が善であって、主が何をあなたたちに求めておられるかは、あなたたちには既に告げられている。それは神の義を行い、憐れみの業を愛し、へりくだり神と共に歩むこと」ホセア6章6節「わたしが求めるものは『いけにえ』ではなく憐れみであり、焼き尽くす献げ物ではなく神を知ること」。

(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6748

箴言16章7節は、ある人が主に喜ばれる行いに努め続けるならその人はかつての敵とも主の仲介で和解に至るであろうと説く。ホセア6章6節は、主が喜ばれることとは隣人に憐れみの業を行うことであって「いけにえ」ではなく、そして神を知るように努めることであって焼き尽くす献げ物ではないと説く。

(注)別エントリー「試論:『神を知る』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10024

マタイ11章28節「重荷を負う者は、わたしの許へ来なさい」詩編38編5(4)節「わたしの罪悪は耐え難い重荷」マタイ9章13節「正しい人を招くためではなく罪人を招くために、わたしは来た」ホセア6章1節〜2節「わたしたちは主の許に帰ろう。主はわたしたちをいやされ、傷を包んで下さる」。

(注)別エントリー「試論:『いけにえ』と憐れみを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8356

マタイ9章13節「わたしが来た目的は、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」ホセア6章1節〜2節「さあ、わたしたちは主の御許に帰ろう。主はわたしたちの傷を覆ってくださり、いやしてくださる。主はわたしたちを立ち上がらせ命を与えてくださる。わたしたちは主の御前で生きる」。

主がマタイ9章13節で「わたしが求めるのは憐れみであり『いけにえ』ではない」とホセア6章6節に言及されてファリサイ派の人々に学ばせたかった「意味」という事柄の答えは、ホセア6章3節「主は曙の光のように必ず現われて、春に降り注ぎ大地を潤す雨のようにわたしたちを訪れて下さる」である。

試論:「これこそ律法と預言者」を140文字以内で

主イエスはマタイ7章12節で「あなたが他の人からしてもらいたいことならなんでもあなたの方から他の人にしなさい。これこそが律法と預言者〔の教えである〕」と仰せになり、これが御自分の御教えの根幹であることを教えられた。「互いに愛し合いなさいって、どうすれはいいの?」と迷う必要はない。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

試論:「マリアの賛歌」その意義を140文字以内で

【問】「マリアの賛歌」の意義は?【答】「神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みをお与えになる」(箴言3章34節)まさにその神が、「最も上にある者は隣人に仕える者」(マタイ20章28節等)を御自ら実践なさるために、救い主として世に来られたことを、全ての時代の人々に伝えるためです。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

【追記】

ヨハネ13章34節「わたしがあなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合いなさい」の「わたしがあなたたちを愛したように」は、同章15節「模範を示した」を踏まえる。他人から尊重されたり敬意を払われたりした経験がない人には、他人に対する尊重と敬意がなぜ必要か理由を理解できない。

(注)別エントリー「試論:新しい掟と主イエスの模範を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17092

試論:「悔い改め」とは無縁な人を140文字以内で

旧約聖書第二正典の知恵の書は10章1節以下で、アダムは過ちを犯したが知恵に救われたとする一方、続く3節ではカインが滅び去ったと記す。一ヨハネ5章16節以下は死に至る罪(大罪)と死に至らない罪(小罪)との区別を説くが、カインは知恵と表裏一体である分別(箴言4章5節)とは無縁だった。

(注)別エントリー「試論:『カインの高慢』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17085

試論:「偉大なこと」何のこと?を140文字以内で

ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7514

(注)別エントリー「試論:世の罪を取り除く神の小羊を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6140

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

【追記】

主はヨハネ8章32節で「真理はあなたたちを自由にする(解放する)」と仰せになった。パウロはヨハネと同じギリシア語を用いて何からの解放か、その答えをローマ6章と同8章で説明した。「罪から解放」(6章18節、22節)、8章2節「罪と死の法則から解放」同21節「滅びへの隷属から解放」。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

(注)別エントリー「試論:『まことの神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16491

(注)別エントリー「試論:まこと(真、実、信、誠)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16274

主はマタイ11章27節で、全てのことは御父から御自分に任せられていると仰せになった。これは、既にダニエル7章13節以下で啓示された事柄であり、マタイ28章18節やルカ10章22節やヨハネ3章35節や同13章3節等、福音書では事ある毎に強調される「真理(ヨハネ14章6節)」である。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

(注)別エントリー「試論:『御父と御子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7544

試論:新しい掟と主イエスの模範を140文字以内で

ヨハネ13章34節「わたしがあなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合いなさい」の「わたしがあなたたちを愛したように」は、同章15節「模範を示した」を踏まえる。他人から尊重されたり敬意を払われたりした経験がない人には、他人に対する尊重と敬意がなぜ必要か理由を理解できない。

【追記】

主イエスは「自分が他人にしてもらいたいことを自分から他人にしなさい」と《キリストの律法》を教えられたが、ヨハネ13章1節では《御自分の時》が来たと自覚された主が、弟子たちを尊重され、どこまでも尊重されたことが記される。《キリストの律法》とは尊重と敬意であると、主は御自ら示された。

主イエスは「自分が隣人からしてもらいたいことを自分から隣人にしなさい」を御自分の《律法》すなわち御教えの根幹とされ、弟子たちの足を洗われ隣人への敬意と尊重の重要性を教えられた。しかし御自身は次の晩が来る前に、尊重や敬意とは無縁の暴力や虐待や侮辱の裡にぼろ布のようにされて殺された。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

弟子たちの足を洗うという行為を通じて、主イエスは隣人に敬意を払って尊重することこそ御自分の御教えの根幹であると教えられた。自分自身が他人から尊重され敬意を払われた経験がなければ敬意と尊重は理解できない。「互いを尊重するなら、それを見て皆はあなたたちがわたしの弟子であると認める」。

「わたしの主のお母さま」

《御父である神、主》と《御子である神、主イエス》とは、詩編110編1節では御父は「主」、御子は「わが主」でありマタイ22章44節も御父は「主」、御子はダビデの言う「わたしの主」である。ルカ1章43節でエリサベトは詩編110編1節を踏まえ、マリアを「わたしの主のお母さま」と呼んだ。

(注)別エントリー「マリアを『神の母』と呼ぶ聖書的根拠」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4492

ルカ1章には「マリアの賛歌」があるが、内容は「神は高慢な者を敵とし、へりくだる人に恵みをお与えになる」(箴言3章34節、ヤコブ4章6節、一ペトロ5章5節)と一致する。主の周囲でへりくだりがどれほど重視されていたかを、「主のはしため」(ルカ1章38節、48節)という言葉が象徴する。

(注)別エントリー「試論:『主のはしため』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5643

ルカ1章「マリアの賛歌」で、聖母は御自分を「身分の低い(タペイノス)」「はしため」と表現されたが、このギリシア語「タペイノス」は古代のギリシア語訳ヨブ記22章29節にも見られ、ヨブ記のヘブライ語本文では「目を伏せる」となるが、この所作はヘブライ人にとってへりくだりを象徴していた。

聖母は「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)となられた方ながら、「わたしは主のはしため」(38節)と自称されたが、ペトロとヤコブは「神はへりくだる人に恵みをお与えになる」と書いた。「神の御独り子の母」となられた女性のへりくだりと恵み(ルカ1章28節)とは、いかばかりだろうか?

(注)別エントリー「試論:初代教会と箴言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5756

聖母マリアは「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)となられた方でありながら、「わたしは主のはしため」(38節)と自称されるほど高慢心のかけらもない謙遜そのものの方であった。従って、高慢心との訣別こそが「聖母マリアへの真の信心」へと踏み出す最初の一歩であるのは、至極当然である。

(注)別エントリー「試論:『救い主の母であること』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7510

受胎告知の際マリアは「恵まれた方」(新共同訳)と呼ばれたが、「恵まれた」とは、

《〔神からの〕とめどもない好意を得た》

の意味で、古代ギリシア語訳箴言を参照すると比類のないこの《好意》は、彼女の「へりくだり」(箴言3章34節)と「善のみの追求」(同11章27節)に対する、恵みである。

(注)別エントリー「試論:『聖寵充ち満てるマリア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8642

(注)別エントリー「試論:無原罪の御宿りを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4629

(注)別エントリー「試論:聖母崇敬の理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5253

(注)別エントリー「試論:『聖母マリアは真の聖櫃』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5865

ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。

ヨハネ1章14節は神の御独り子が恵みと真理に満ちて人間となられたことを記すが、ヤコブ4章6節と一ペトロ5章5節はともに「神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みをお与えになる」と強調し、ルカ1章は「わたしは主のはしため」とへりくだった女性こそが御独り子の母となったことを特筆する。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7795

(注)別エントリー「試論:『イエスとマリアの関係』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7725

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

ルカ11章28節のギリシア語本文を読むと主は前節の「ある女」の発言を否定しておらず、逆に強く同意している。主は「もちろんそうだがさらに(母に関して)言えば、神の言葉を聞いてそれを守る人は幸いだ」とは仰せになったが、母は神の言葉を聞かないとか守らないなどとは一言も口にされていない。

御自分の母を称える女性の言葉に対し主はルカ11章で神の言葉を守る人こそ幸いと答えられた。ヨハネ14章で主は「わたしを愛する人はわたしの言葉を守る」と仰せになられたが、マリアが母として主を誰よりも愛しておられたことには疑う余地がなく、マリアが神の言葉を守らないことも当然ありえない。

(注)別エントリー「試論:主イエスへの愛を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5453

(注)別エントリー「試論:『新しい契約』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5517

御子が幼子の頃やカナでの婚礼の折を除けば、人々から御子が尊敬や賞賛を受けられている場所にいて御自分も同じく栄誉に与るということを、聖母は基本的に避けられていた。しかしゴルゴタで御子が人々から嘲りや罵りの的となられた際には十字架の傍らに立たれ、御子と最も苛酷な時間を共に過ごされた。

(注)別エントリー「試論:聖母マリアってどんな方?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5920

カトリックで聖母を指す表現「天の門」は、聖書では創世記28章17節にのみ登場し、同節は主がおられた場所を「なんと畏れ多い場所」「天の門」と呼ぶ。主を宿した「胎」(ルカ11章27節)であるマリアを、同様に《なんと畏れ多い女性》と感じるのは、古代のイスラエル人の感覚として当然である。

(注)別エントリー「試論:『神の都市』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6648

(注)別エントリー「試論:『偉大なこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7651

(注)別エントリー「ルカ福音書の聖母とサムエル記下の神の櫃」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1544

(注)別エントリー「試論:『受肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7842

ヨハネ2章5節は、まさに御子イエスの「時」が近づき自分の許からいよいよ世に御子を送り出すに当たっての、この世の人々に対する、母マリアの強い願いと最後の伝言を記す。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」。これを最後に新約聖書には、母が発した言葉は記録されてはいない。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

(注)別エントリー「試論:『主イエスこそ真の花婿』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7379

(注)別エントリー「試論:聖母の人となりを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7442

試論:「カインの高慢」を140文字以内で

カインはアベルと違って献げ物となる作物を育てる際、手間暇をかけようとせず、ろくに手入れもせず、ただ自然に育ったがままの状態のものを献げた。それでいて神に目を留められなかったことで激怒し、そうなった理由を反省せず弟の意見を参考にしようとせず両親にも相談せず、神に質問すらしなかった。

【追記】

「神は高慢な者を敵とする」と聖書は随所(箴言3章34節等)で教える。ただし高慢な人の破滅を準備するのは、実は高慢な人自身である。高慢な人は周囲を侮り、眼中にないかのように配慮もなく、高慢な人の態度を嫌った周囲の人々は高慢な人が窮地に陥っても援助や協力の手を差し延べようとはしない。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

箴言28章14節「主を畏れ続ける人は幸いであるが、心のかたくなな人は、好ましからざる状況に陥る」同8章13節「主を畏れることとは、悪を憎むことである。高慢、驕り、悪の道、暴言を吐く口を、わたし(知恵)は憎む」同12節「わたしは知恵。熟慮と共に住まい、知識と慎重さを兼ね備える」。

【問】弟を殺したカインには違う道はなかったのですか?【答】なぜ弟の献げ物には神は目を留められたのに自分の献げ物にはそうされなかったのか、まず彼は弟と話し合うべきでした。間違った自尊心のために彼はそうせず、神から語り掛けられた際に神へ理由を直接質問することさえも彼はしませんでした。

【問】神はえこひいきされましたか?【答】兄は適当な気持ちで自分の産物の中からありきたりのものを神に献げましたが、弟は真心を込めて選りすぐりのものを献げました。詩編18編の通り、神は無垢な者には無垢に向き合われ心の曲がった者には背を向けられますが、兄は弟だけではなく神も恨みました。

神からアベルの不在について質問を受けた際、最初カインは神に対し白(しら)を切った。カインはそれだけでなく「わたしは弟の番人でしょうか」と憎まれ口を続け、神に対する高慢や敵意すら隠さなかった。もし神を殺せるならそうしていたのではないかと思える毒々しさがカインの言葉には込もっている。

旧約聖書第二正典の知恵の書の10章では、人類の始祖アダムが一度は過ちを犯したが、そこから立ち直って救われ、嫉妬のためにカインは神から遠ざかり、弟を殺した後も不信仰のまま死に滅び去り、カインの不信仰が人類に蔓延した結果として洪水に至った世界から神に導かれノアが箱舟で救われたと記す。

(注)別エントリー「試論:神の子と人の娘の結婚??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14394

(注)別エントリー「神の子らは人の娘たちを【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8636

主の養父をマタイ1章19節はディカイオスと表現するが、古代ギリシア語訳ハバクク2章4節はディカイオスを高慢な者と対置する。主が「人の子は仕えるために来た」(マタイ20章28節)と仰せになり、聖母が「主のはしため」(ルカ1章48節)を自称する以上、ヨセフのへりくだりは必然と言える。

(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7479

使徒たちは箴言3章34節を引用し「神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みを与えられる」(一ペトロ5章5節、ヤコブ4章6節)と説いた。主イエスもマタイ23章12節で「高慢な者は誰でも低くされ、へりくだる者は誰もが高くされる」と、御自分の弟子たちも含めて、全ての人々に仰せになった。

(注)別エントリー「試論:『恵みとへりくだり』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8781

イザヤ10章12節の「主はアッシリア王の驕った心の結ぶ実と高ぶる目の輝きを罰せられる」が示す通りヘブライ人は、「人間の心の状態は眼差し・目付きなどに反映されるため目を見ればその人の内面とりわけ高慢心が明らかになる」と考えており、マタイ6章「体のともし火は目」はこれを踏まえている。

主は「体のともし火は目」(ルカ11章34節以下、マタイ6章22節以下)と仰せになったが、当然、「あなたの内面は、まなざし・目つきで明らかにされる」という意味でも上記の表現を用いられ、箴言21章4節は《高慢なまなざしは神に逆らう者の傲慢な心を明らかにするが、傲慢は罪である》と説く。

詩編1編1節は幸いな者として「神の逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず」と歌い、「神は高慢な者を敵とされ、へりくだる者に恵みをお与えになる」(箴言3章34節、ヤコブ4章6節、一ペトロ5章5節)と同様に、高慢心は信仰と相容れないことを説く。

試論:なぜ「主のはしため」??を140文字以内で

主イエスはマタイ20章28節で御自分が人間となられた目的を「仕えられるためではなく仕えるため」と仰せになった。その三十年以上前、ルカ1章38節で救い主の母となることを告知された女性は「わたしは主のはしため」と答え、彼女が「救い主の母」という立場を的確に認識していることが記される。

(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7479

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

【追記】

主イエスは神であり続けながら人間の肉体と魂を担い(ヨハネ1章14節)、割礼から神殿税まで人間の義務も全て担われた。両親に従う義務も当然担われた(ルカ2章51節、マタイ20章28節)。人へ模範を示されるため主は人となられたのだから、主が母親を軽視されたと考えることは道理に合わない。

旧約聖書には、神に奉仕するために選ばれた女性の存在が出エジプト記38章8節やサムエル記上2章22節や詩編68編25(26)節に記され、サムエル上2章によればそれらの女性が男性と「ともに寝る」ことは、人間が神から上質な献げ物を奪い取って神に残り物を献げることと同じく悪とされていた。

(注)別エントリー「試論:聖母と聖ヨセフの終生童貞を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6397

もし仮にそれが名もない女性だったとしても、人となられた神のために、ただただ手料理を三十年前後ものあいだ作り続けた女性がもしも実際に存在したとするなら、その一事のみをもって、その女性は全世界から崇敬を集めるに値する。まして彼女は、裁縫も洗濯も掃除もその他全ての神の家の家事を行った。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:聖母信心の端緒を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5323

(注)別エントリー「試論:ナザレの聖家族を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4892

(注)別エントリー「試論:ヤコブ原福音書を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5239

(注)別エントリー「イエスの『兄弟』『姉妹』:同胞か親戚か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1451

主は「いつでも戸を開けられるように目を覚ましていなさい」と仰せになり、普段から心の準備をすることが弟子としての心構えであると教えられた。主の母親となるべき女性がその少女期、当時最もしかるべき教育の場であった神殿の聖所で奉仕の日々を送ったという概念は、極めて蓋然性の高い話と言える。

(注)別エントリー「聖書の時代に神殿の処女は存在したのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1539

(注)別エントリー「福音書の聖ヨセフと外典書の高齢者ヨセフ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4759

黙示録3章20節は有名な「わたしは戸口に立って叩いている」という仰せを記す。ヤコブ5章9節は「裁く方が戸口に立っておられます。裁きを受けることのないように、互いに不平を言うのをやめましょう」と教え、ルカ12章36節は「いつでも戸を開けられるように準備をしなさい」と主の仰せを記す。

(注)別エントリー「試論:マタイ25章の十人の乙女を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5994

「救い主」が世を救われる方法に関しイザヤは、「小羊」(53章7節)つまり代価として御自分をささげ、「しもべ」(42章、49章以下等)として人々に仕えると預言し、主もマタイ20章28節でそれを宣言された。救い主の母となることを承諾した女性が「主のはしため」を称するのは象徴的である。

(注)別エントリー「試論:『しもべ』と『はしため』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9785

ヨハネ1章14節は「神の御言葉(=主イエス)は肉(=人)となられ、わたしたちの間に宿られた(=住まわれた)」と記す。マタイ20章28節では主御自身が「仕えられるためではなく仕えるため」「多くの人の身代金(=あがない)として自分の命を献(ささ)げるために来た」と仰せになられている。

詩編49(48)編8(7)節は、神に対して人間が贖いの業を行うことはできないと記す。とはいえ神の御独り子が自ら人間となられて自分の「からだ」を「身代金」として贖いの業を行われた時の「からだ」は、マリアから受けたものだった。マリアは極めて特別な形でイエスの贖いの業に「参加」をした。

試論:「キリストの律法」の意義を140文字以内で

主イエスはマタイ5章17節で「わたしが到来した目的は、律法や預言者の教えを廃止するためではなく完成するため」と仰せになった。ではどうやって完成されたのか、7章12節「あなたが他の人からしてもらいたいことを、あなたの方から他の人にしなさい。これこそ律法の教えであり、預言者の教え」。

【追記】

【問】主イエスは「自分が他人からしてもらいたいことはなんでも、あなたから他人にしなさい」を御自分の《律法》とされましたが、なぜですか?【答】主は「最後の晩餐」の折に《隣人愛》の掟を授けられましたが、弟子たちが「今更ですが、愛とは一体、何ですか」などと言い出さぬようにするためです。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

ローマ13章10節は「愛は隣人に悪を行わない」と記す。これに従えば「愛の反対」とは「隣人に悪を行うこと」である。マタイ7章21節以下「わたしを『主よ、主よ』と呼ぶ者が皆、天の国に入るわけではない」「不法を働く者どもよ、わたしから離れ去れ。わたしはお前たちのことなど全く知らない」。

マタイ7章23節では主なる神が「不法を働く者たちよ、おまえたちなど知らない」と仰せになると記す。全知全能の神が彼らを知らぬはずはないが、神は知らないとあえて仰せになる。この場合「知らない」は拒絶の意味だが、不法を働く者こそが御教えを「知らない(わからない)」と拒絶した結果である。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

マタイ22章14節「招かれる者は多く選ばれる者は少ない」7章21節「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心(=神の義)を行う者だけが入る」23節「不法を行う者ども、あなたたちのことなどわたしは全く知らない。わたしから離れ去れ」。

(注)別エントリー「試論:『神は誰を選ばれるのか』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8051

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8105

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

ローマ3章28節では「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」と記すが、30節では「神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とされ、割礼のない者をも信仰のゆえに義とされる」と説く。つまり「人が義とされるのは割礼〔の有無〕によるのではなく、信仰による」の意味合いである。

ローマ3章でパウロは、「信仰」「律法」という表現で実際は、

《イエス・キリストを信仰する人々にとっての新しい掟=愛の掟》と、

《イエスを認めぬ人々の古い掟=律法の掟》を比較した。

人間を「義」とするのは《律法の掟》の実行ではなく、信仰に基づく《愛の掟》の実践(ガラテヤ5章6節)による。

(注)別エントリー「試論:『新しい掟』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7016

(注)別エントリー「試論:『永遠の命を得るには?』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11171

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

マタイ22章14節「招かれる者は多く選ばれる者は少ない」の《選ばれない理由》をイザヤ65章12節は「呼んでも答えず、語りかけても聞かず、わたしの目に悪とされることを行い、わたしの喜ばないことを選んだからである」と記した。「笛を吹いたのに踊ってくれなかった」(マタイ11章17節)。

イザヤ59章2節「あなたたちの悪こそが、神とあなたたちの間を隔て、あなたたちの罪こそが、神の御顔を隠させ、神があなたたちに耳を傾けられるのを妨げている」ヨハネ14章24節「本当はわたしのことなど愛してはいない者は、決して御父とわたしの言葉や掟を受け入れはせず守ろうなどとしない」。

マタイ22章14節「招かれる者は多く選ばれる者は少ない」ルカ13章23節「救われる者は少ないのですか」27節「不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」マタイ6章33節「神の国と神の義を求めなさい」ヨハネ14章23節「わたしを愛する者はわたしの言葉を守り父とわたしはその人と住む」。

主はマタイ7章26節で「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は、砂の上に家を建てる人に似ている」と教えられた。22章14節「招かれる者は多いが選ばれる者は少ない」とは、《わたしの教えを耳にしたことのある者は多いが、それを真摯に受け止めて日々実践している者は少ない》という意味である。

主はマタイ13章45節以下で、「天の国」を全財産と引き換えにしてでも手に入れるべき真珠にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「天の国」は「永遠の命」と同義だが、「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「試論:『主の祈り』と最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7047

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

二テモテ3章でパウロは「終わりの時」の人々の姿を記した。自分本位で金銭を愛し、嘘をつき、神を畏れず嘲り、両親に従わず、恩知らずで、他人を侮り、情け容赦なく、強情で、中傷し、節度がなく、残酷で、善を行わず、裏切り、軽率かつ高慢、信仰を装いつつ実際は快楽を愛し、事実上は棄教している。

エフェソ4章の後半以降(17節以下)では、洗礼を受けた人が取るべき(また避けるべき)態度を教える。悪態をつき、無慈悲で、平然と悪口を言い、思う通りにならないと大声で喚き、怒鳴り散らし、相手が幼子や女性だと小馬鹿にして勝ち誇る人がいたとして、誰が彼のことを信者だなどと思うだろうか?

(注)別エントリー「試論:『ねたみや利己心のある』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12116

試論:「救い主」到来の理由を140文字以内で

マタイ1章21節は「自分の民を罪から救う」ルカ1章77節は「罪の赦しによる救い」と記す。主イエスはマタイ7章21節以下で、預言よりも奇跡よりも悪霊を追い出すことよりも、一人一人が不法を働かないことこそが天の父の御心であり、天の父の御心を行わない者は天の国に入れないと仰せになった。

「贖(あがな)い」と「母の役割」

マルコ福音書は主の御降誕には触れないものの、6章3節で主イエスには母親がいたことを記し、10章45節では主の到来の目的の一つが「多くの人の身代金として自分の命を献(ささ)げる」つまり贖(あがな)いのためと記す。パウロもガラテヤ4章で母親の存在(4節)と贖い(5節)とに触れている。

(注)別エントリー「『《マリアの子》なら私生児』説は誤り」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1478

詩編49章8(7)節は神に対し人間が贖(あがな)いの業を行うことはできないと説く。それができるのは「人〔となられた神〕の子」だけであり、そのために主イエスは来られた(マタイ20章28節)。神は劣化できないため、神のままで人間の全てを担う必要があり、そのためにマリアが不可欠だった。

(注)別エントリー「試論:『神には劣化がない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8697

ヨハネ19章は、ゴルゴタの主の十字架の傍らに聖母がおられたと記すが、聖母の内面がどのようであったかについては全く記述がない。しかしルカ2章35節はシメオンの預言として、「多くの人の心にある思い(34節の「逆らい」)があらわになるため、あなた自身も剣で心を刺しつらぬかれる」と記す。

(注)別エントリー「試論:『剣』と『言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7807

詩編49(48)編8(7)節は、神に対して人間が贖いの業を行うことはできないと記す。とはいえ神の御独り子が自ら人間となられて自分の「からだ」を「身代金」として贖いの業を行われた時の「からだ」は、マリアから受けたものだった。マリアは極めて特別な形でイエスの贖いの業に「参加」をした。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7795

(注)別エントリー「試論:『履物を脱ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8620

古代のヘブライ人は「肉」という言葉で、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけでなく、魂も含めた人間としての全体)」を表した。ヨハネ1章14節をこの観点で理解すれば、ニケア・コンスタンチノープル信条「おとめマリアよりからだを受け」の「からだ」は、人間としての全てを意味している。

主イエス・キリストは、人間たちに模範(ヨハネ13章34節)を示されるために、神であり続けながら(ヘブライ13章8節)人間の肉体と魂を担われた(ヨハネ1章14節)以上は、神として教えられた掟(申命記5章16節)を人間として自ら忠実に実践された(ルカ2章51節、マタイ20章28節)。

ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。

ヨハネ1章14節は「神の御言葉(=主イエス)は肉(=人)となられ、わたしたちの間に宿られた(=住まわれた)」と記す。マタイ20章28節では主御自身が「仕えられるためではなく仕えるため」「多くの人の身代金(=あがない)として自分の命を献(ささ)げるために来た」と仰せになられている。

主はヨハネ14章27節で「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と仰せになった。ではどうやって主は御自分の平和をお与えになったのか、パウロがコロサイ1章20節で「その十字架の血によって」と答えを記した。

「平和」とはヘブライ語で幸福の総称であり具体的には、主イエスが準備(用意)された《御父の家》(ヨハネ14章2節)にて御父や御子イエスと一緒に住むことを指す。一コリント2章9節は「誰も見聞きせず誰の心にも思い浮かばなかったことを神は御自分を愛する者たちに準備(用意)された」と記す。

主イエスはヨハネ14章27節で「わたしの平和」を残され与えられると仰せになり、与える方法をコロサイ1章20節は「十字架の血によって」と記す。ヘブライ語で平和とは幸福の総称だが、具体的には、新しく創造された天・地・エルサレムの中で復活の体で生きること──《永遠の命》とはそれである。

(注)別エントリー「試論:『わたしの平和』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15825

ヨハネ14章2節以下「わたしの父の家には住む場所がたくさんある。行ってあなたたちの場所を用意したら、あなたたちの許へ戻って来て、あなたたちを迎える」黙示録21章2節「聖なる都、新しいエルサレムが、花婿のために着飾った花嫁のように用意を整えて、天から下って来るのを、わたしは見た」。

イザヤ65章17節以下では「新しい天・新しい地・新しいエルサレムの創造」が預言されるが、同書では42章以降、「主の僕(しもべ)」つまり救い主である、神の御独り子イエス・キリストに関する預言が続き、「新しい天・地・エルサレム」は救い主御自身の「復活の体」の創造と共に完成の時を見た。

黙示録21章16節以下では新しいエルサレムの巨大性が啓示される。これは当然、ヨハネ14章2節以下「わたしの父の家には住む場所がたくさんある。もしなかったなら、あなたたちのための場所を準備しに行くとは言わない。あなたたちの場所を準備したらあなたたちの許に戻って来る」を反映している。

(注)別エントリー「試論:新都エルサレムの『用意』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16763

主イエスは御受難と御復活の間に「新しい天・地・エルサレムの創造」を準備され誕生させたが、イザヤ66章8節は「誰がこのようなことを見聞きしたであろうか。一つの国が一日で生まれ一つの民が一日で生まれることがあり得るだろうか」と預言する。「天の国は近づいた」の「天の国」とはこれだった。

(注)別エントリー「試論:『天の国は近づいた』意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16775

(注)別エントリー「試論:『一緒に住む』どこに??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16818

主イエスの御降誕は「肉の体」つまり人間としての誕生だったが、この世に来られた究極の目的が「贖(あがな)い」である以上、「上げられ(十字架上で顕示され)た」後の死と御復活によって悪魔の罪と死の支配を終わらせ人類に永遠の命と「霊の体」を準備して目的を達成したことの方がより重要である。

(注)別エントリー「試論:真理と贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9081

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

試論:ヨハネ16章21節の意味を140文字以内で

主イエスはヨハネ16章21節で御自身の受難と復活の理由を女性の出産に喩えられ、イザヤ65章17節以下で預言された《新しい天・地・エルサレム》の創造のためだと、暗示された。同66章8節「誰がこのようなことを見聞きしただろうか。一つの国が一日で生まれ、一つの民が一度に生まれようか」。

(注)別エントリー「主の御復活とともに創造された事柄とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15917

試論:箴言28章14節を140文字以内で

箴言28章14節「主を畏れ続ける人は幸いであるが、心のかたくなな人は、好ましからざる状況に陥る」同8章13節「主を畏れることとは、悪を憎むことである。高慢、驕り、悪の道、暴言を吐く口を、わたし(知恵)は憎む」同12節「わたしは知恵。熟慮と共に住まい、知識と慎重さを兼ね備える」。

試論:「洗礼者と彼の弟子たち」を140文字以内で

【問】マタイ11章で洗礼者が自分の弟子たちを主イエスの許に送った意図とは?【答】洗礼者は己の使命を「花婿」と「花嫁」を引き合わせることと心得ていましたが、彼の弟子の一部はイエスの活動をライバル視していたため、彼は弟子たちに「しるしを行う方こそ従うべきメシア」と教えようとしました。

【追記】

イザヤ62章5節は「神と神の民」の関係を「花婿と花嫁」の関係にたとえたが、ヨハネ3章29節で洗礼者が「花婿の介添人」を自称する場合、「花婿」が主イエス・キリストであるのは、いうまでもない。洗礼者は、「花婿」と「花嫁」を引き合わせるまでが自分の役割と心得て、30節の言葉を口にした。

イザヤ62章5節はシオンの救いに関する文脈で神と神の民との関係を花婿と花嫁の関係にたとえエレミヤ33章11節はエルサレムの復興を「花婿と花嫁の声が聞こえるようになる」と預言したが、ならば、黙示録18章23節が「花婿と花嫁の声は聞かれない」と啓示した都も、やはり同じ都のはずである。

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

主イエスは使徒をお選びになる際に、既存の教派に属したことのない者か、属したことがあってもその流儀や特色に固執せず頭を切り替えた者を選んだ。例えば、初めこそ洗礼者の弟子だったが、洗礼者の言葉に従って主の弟子となり主に従うことこそが洗礼者にも忠実であることと割り切ったアンデレである。

(注)別エントリー「試論:『履物のひもを解く』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13454

主イエスはマタイ11章14節で、洗礼者ヨハネが預言者マラキのいうエリヤだと教えられたが、ヨハネ1章21節で洗礼者は一度それを否定した。当時の人々は最初にしるしで判断しようとした(マタイ12章38節)が、洗礼者にはエリヤと同じしるしを行う意図はない(ヨハネ10章41節)からである。

(注)別エントリー「試論:『履物を脱ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8620

洗礼者は何のしるしも行わなかった(ヨハネ10章41節)が、主は彼がエリヤだと仰せになった(マタイ11章14節)。洗礼者自身はエリヤであることを否定した(ヨハネ1章21節)が、人々から「天からのしるし」(列王上18章38節、マタイ16章)を求める声が起こらないようにするためだった。

(注)別エントリー「試論:もう一人の『エリヤ』??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10009

マルコ8章11節でファリサイ派の人々は主イエスを試そうと「天からのしるし」を求めたのに対し、主は「なぜ『時代のしるし』を悟ることができないのか」とマタイ16章3節で答えられた。「時代のしるし」とは、預言されていた救い主による癒し(イザヤ35章5節以下)と、主によるその実践である。

主イエスはパンを増やし四千人の群衆に食べ物を与えるという奇跡を行われた。類似の奇跡は列王下4章42節以下で「神の人」預言者エリシャも行っていた。主イエスの神の御独り子たる本領は「生まれつき目が見えなかった人の視力を回復させた」(ヨハネ9章32節、イザヤ35章5節)時に発揮された。

(注)別エントリー「試論:『救い主の識別』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13316

ルカ2章11節は「あなたたちのために救い主がお生まれになった」マタイ1章21節は「この子は自分の民を罪から救う」と記す。イザヤ35節4節以下は「敵(サタン)を撃ち悪を罰する神が来られ、あなたたちを救われる」と預言し、目や耳や足や言葉の不自由な人々の回復が神の到来の徴になると続く。

四福音書は主イエス・キリストによる病人の奇跡的な癒しをさまざまに記すが、理由はイザヤ35章4節以下で救い主の到来が預言されている通り、見分ける徴は目や耳や手足や言葉の不自由な人の奇跡的な治癒(6節。またヨハネ9章32節参照)であることが、既に数百年前から預言されていたからである。

主イエスはヨハネ5章39節で「あなた方は〔旧約〕聖書中に永遠の命が存在すると考え〔旧約〕聖書を研究するが、〔旧約〕聖書はわたしに関してあかししている」と仰せになり、御自分とは無関係の目的で〔旧約〕聖書を研究しても、本当に重要な真理には全く到達することができないと、お教えになった。

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

(注)別エントリー「試論:聖書研究の目的を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8447

試論:御父と御子の「共有」を140文字以内で

ヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」の意味を使徒言行録4章32節は「心も思いも一つ」「持ち物を自分だけのものと主張せず共有している」と説明する。従って、御父の持ち物は御子の持ち物でもあり逆もまた然りである。ヨハネ10章38節「わたしは父の内にあり、父はわたしの内におられる」。

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

【追記】

主はヨハネ10章30節で「わたしと父とは一つ」と仰せになった後、17章では弟子たちのために天を仰いで祈られたが、それは御父と御自分が「一つ」であるように、弟子たちもまた「一つ」となるためであった(11節、21節〜23節)。使徒言行録4章32節「信じた人々の群れは心も思いも一つ」。

ニケア・コンスタンチノープル信条「父と一体」はヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」と38節に拠り、御父と御子の間には矛盾・対立・齟齬の類は一切ないことを表す。ギリシア神話では最高神ゼウスと父クロノス、クロノスと父ウーラノスの父子相剋が存在するが、キリスト教には全く存在しない。

主はマタイ11章27節で、全てのことは御父から御自分に任せられていると仰せになった。これは、既にダニエル7章13節以下で啓示された事柄であり、マタイ28章18節やルカ10章22節やヨハネ3章35節や同13章3節等、福音書では事ある毎に強調される「真理(ヨハネ14章6節)」である。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書のアレテイアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15430

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

《御父である神、主》と《御子である神、主イエス》とは、詩編110編1節では御父は「主」、御子は「わが主」でありマタイ22章44節で御父は「主」、御子はダビデの言う「わたしの主」である。ヨハネ1章1節では御父は「神」、御子は「言(ことば)」であり、「言は神であった」と記されている。

(注)別エントリー「試論:「わたしの主」は誰?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7536

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは道」と仰せになり、「わたしを通らなければ、誰であれ御父には到達できない」と続けられた。パウロはエフェソ2章14節でユダヤ人と異邦人をこの点において隔てる壁はないと記し、ローマ10章12節でも「ユダヤ人とギリシア人の区別はない」と明言している。

「道」とは全ての人が生きる上で辿るべき道筋(道理・規範)でイエスがその模範であること、「真理」とは人が信仰・礼拝すべき三位一体の唯一の神を指し御父・御子・聖霊の間に矛盾がないこと、「命」とは幸福・安堵・充足等の人を生かすものの全てで人間にそれを授ける源は唯一の神ということを指す。

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9949

主イエスの御前でユダヤ人と異邦人の「区別」が存在しないことはエフェソ2章14節以下、使徒言行録15章9節「わたしたちと彼らの間に何の差別もなさいません」、ローマ3章29節「神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもあります」、一コリント12章13節、ガラテヤ3章28節以下等。

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは道」と仰せになり、「わたしを通らなければ、誰であれ御父には到達できない」と続けられ、また御昇天前にマタイ28章19節で「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じられた。パウロもローマ10章12節で「ユダヤ人とギリシア人の区別はない」と説く。

(注)別エントリー「試論:『イエスは全人類の模範』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5948

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7818

主が「わたしは道」(ヨハネ14章6節)と仰せになる場合、自身が御父へ通じる唯一無二の存在であると示唆するだけではなく、日本語の「人としての道から外れる」と同様に、誰もがそこを通って進んで行くべき人間としての道筋つまり御父である神の御前における模範(同13章15節)の意味をも含む。

試論:捕囚の人々が実際住んだ地を140文字以内で

「バビロン」に連行されたユダヤ人の圧倒的多数は首都のバビロンではなく、バビロンの近郊の諸地域に住んだと考えられる。捕囚から解放されたものの帰還せずバビロン近郊に住み続けたユダヤ人の存在と、その住んでいた場所とを、使徒言行録2章9節は「メソポタミア」というギリシア語で暗示している。

【追記】

旧約聖書の「バビロン捕囚」は有名だがカルデア人の首都バビロンはカルデア人でさえ、ある程度の特権階級でないと居住できず、まして捕囚のユダヤ人でバビロンに住んだのは元の王やダニエル書に登場する四人の少年のように、上流階級の中から選抜されカルデア流の礼儀作法に習熟した者くらいであった。

実際の地名として一世紀ユダヤの歴史家ヨセフスやユダヤの伝承文学は、ネアルダもしくはネハルデアという都市を挙げ、エルサレム神殿滅亡前まで、この地域全体に住むユダヤ人から集められた神殿への献金や神殿税は、いったんこの町に集められた上で厳重な警護を付けられてエルサレムに輸送されていた。

ローマ帝国によってエルサレム神殿が破壊された後ユダヤ人が集めていた「神殿税」の行き先を、滅亡したエルサレム神殿の替わりにローマのユピテル神殿とするようローマはユダヤ人に命じた。これに納得できなかった当時のユダヤ人のうち、ある人々はローマ支配の及ばないメソポタミアへの逃避を選んだ。

試論:「求める者は受ける」??を140文字以内で

【問】主イエスはマタイ7章7節以下で、「求める者は受け、探す者は見つけ、門を叩く者は開かれる」と仰せになりましたが、どういうことですか?【答】あなたが真心(まごころ)をもって神を探すなら神は真心で答えられる(詩編18編27(26)節)という意味で、当然真面目な意図が求められます。

【追記】

エゼキエル18章「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は仰せになる。彼が悪から立ち帰って生きることを喜ばないだろうか。お前たちが犯した全ての背きを投げ捨てて新しい心と霊を造り出せ。どうしてお前たちは死んでよいだろうか。お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」。

イザヤ58章9節「もしもあなたが隣人を圧迫することをやめるなら、もしもあなたが隣人を侮ることをやめるなら、もしもあなたが隣人を言葉で傷つけることをやめるなら、あなたが主を呼ぶ時には必ず主は御答えになり、あなたが主に向かって叫ぶ時には必ず主は『わたしはここにいる』と御返事される」。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

試論:「イエスを見失った両親」を140文字以内で

【問】マリアとヨセフがイエスを神の子として心・精神・思い・力を尽くし愛していたなら、なぜ二人は十二歳のイエスを見失いましたか?【答】普段のイエスは、人として両親に従順(ルカ2章51節)で手のかからない子でしたが、十二歳時の神殿での行動は極めて例外的な神としての行動だったからです。

(注)別エントリー「試論:神であり人であるキリストを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6725

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

試論:「妻に従った夫たち」を140文字以内で

アダムは命名者(創世記2章19節、3章20節)として妻エバを保護監督する責任があったが、良からぬことを追求するために責任を放棄し妻に従った。ヨセフは「神の御独り子の母」となった妻マリアの保護監督を神から委託され、ベツレヘムそして遠くエジプトまで旅し「幼子とその母」を守護し続けた。

(注)別エントリー「試論:エバの創造とマリアの誕生を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11412

【追記】

ヘブライ語の「知る」とは、「実感(体感)する」「実体験を通して、より詳しく感じ取る(思い知る)」の意味合いである。故に創世記4章1節「アダムは妻エバを知った」のように男女関係の婉曲表現でもあった。アダムとエバは禁断の木の実を食べて楽園を追われ、喜びと悲しみの違いを思い知らされた。

(注)別エントリー「『マリアの処女懐胎は誤訳に基づく話』説は本当か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1524

(注)別エントリー「『処女懐胎は誤訳に基づく話』説は本当か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1551

創世記で「善」「悪」と日本語訳されるヘブライ語は、「好ましいもの」「好ましくないもの」の総称である。アダムとエバは楽園を追われて初めて自分たちが神からの完全な保護を当然のように享受していたことを実感した。二人はその後さまざまな苦難や悲しみに遭遇したが、楽園には二度と戻れなかった。

試論:「神の御前でも心配ない」を140文字以内で

一ヨハネ3章18節以下「言葉や口先だけでなく、わたしたちが行いをもって、誠実に相手を尊重し敬意を払うならば、それによって、わたしたちは真理である主イエス・キリストに属していると自覚でき、たとえ自分の良心に痛みを感じることがある身でも、神の御前にて安心して過ごすことが、できます」。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:真理(まこと)の反対は?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12668

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

【追記】

ヨハネ8章51節「わたしの言葉を守るならば、決して死ぬことがない」エゼキエル18章21節「悪人が全ての過ちから離れわたしの掟を全て守り正義と恵みの業を行うなら必ず生きて死ぬことはない」同31節以下「あなたたちは死んでもよいのか、わたしに立ち帰り生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」。

(注)別エントリー「試論:『決して死ぬことがない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15657

【問】ヨハネ8章51節「わたしの言葉を守れば決して死ぬことがない」の意味は?【答】マタイ7章12節のキリストの律法(あなたが他の人にしてもらいたいことを、あなたから他の人にしなさい)を忠実に実行するならマタイ25章の最後の審判で永遠の命にあずかり天国の福楽に達するという意味です。

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11494

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

試論:「掟への忠実こそが信仰」を140文字以内で

マルコ12章30節(申命記6章5節)「あなたたちは、心・精神・思い・力を尽くして、神なる主を愛さなければならない」。これを受けてヨハネは第一の手紙5章3節で「神を愛するとは神の掟に忠実であること」と記す。ヨハネの信仰とは「御子が御父の掟に忠実なように弟子も御子の掟に忠実」を指す。

試論:「聖霊と知恵」を140文字以内で

主イエスはヨハネ15章26節で聖霊を「弁護者」「真理の霊」と呼ばれ、前章の26節に続いて聖霊が弟子たちを助けてくれると教えられた。イザヤ11章2節は「主の霊」の賜物の筆頭を知恵と啓示する。箴言8章12節は「知恵は熟慮と共に住まい知識と慎重さを備える」と記し、熟慮と慎重さを勧める。

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを確実に識別できる基準」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4564

【追記】

イザヤ11章2節以下とガラテヤ5章22節以下では聖霊による賜物について列挙されるが、そこにはいわゆる「異言(諸言語〔の賜物〕)」も「預言」も含まれていない。「預言」にも真の預言者と偽預言者が存在したように異国の言語らしきものを話し始めた人がいたとしても本物とは限らないからである。

(注)別エントリー「試論:『神の霊と集会中の秩序』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11573

(注)別エントリー「試論:『聖霊による賜物の識別』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11684

(注)別エントリー「試論:偽預言者と滅亡を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5401

(注)別エントリー「試論:偽預言者の識別を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6118

(注)別エントリー「試論:『人を惑わす霊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5682

試論:「失敗から立ち直る」を140文字以内で

【問】モーセの兄アロンは「金の子牛」を造ったり姉妹ミリアムと共にモーセに難癖を付けたりしました。ペトロは師に間違った忠告をしてサタン呼ぼわりされたり鶏が鳴く前に三度主を知らないと言ったりしました。なぜ二人はそれでも高く評価されるのですか?【答】間違いを素直に認めて正したからです。

試論:創世記4章7節を140文字以内で

この節の最初の部分は「あなたの仕事振りが良いものならば、なぜ献げ物が目に留まらなかったのか?」とも解釈し得る。主は、カインがアベルのようには労苦しておらず手間暇もかけず、ろくに世話もせず、ただ自然に育ったがままのものを献げたと暗示されて、カインの「やっつけ仕事」を注意されている。

【追記】

【問】弟を殺したカインには違う道はなかったのですか?【答】なぜ弟の献げ物には神は目を留められたのに自分の献げ物にはそうされなかったのか、まず彼は弟と話し合うべきでした。間違った自尊心のために彼はそうせず、神から語り掛けられた際に神へ理由を直接質問することさえも彼はしませんでした。

【問】神はえこひいきされましたか?【答】兄は適当な気持ちで自分の産物の中からありきたりのものを神に献げましたが、弟は真心を込めて選りすぐりのものを献げました。詩編18編の通り、神は無垢な者には無垢に向き合われ心の曲がった者には背を向けられますが、兄は弟だけではなく神も恨みました。

(注)別エントリー「試論:カインとアベルを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16646

試論:「悔い改め」何ですか??を140文字以内で

ルカ3章8節で洗礼者が「悔い改めにふさわしい実を結べ」を呼び掛けた時、群衆は「わたしたちはどうすればよいですか」と答え、それに対し洗礼者は非常に短いが的確で、その日からでも本人の自覚次第で直ちに実行できる指示を与えた。実を結ぶには、与えられた指示の意味を理解できなければならない。

試論:「主を愛する」を140文字以内で

マルコ12章30節(申命記6章5節)「あなたたちは、心・精神・思い・力を尽くして、神なる主を愛さなければならない」ファティマの聖ヤシンタ「もしも人々が、永遠とはどのような意味かについて理解していたならば、人々は、あらゆる努力を尽くしてでも自分の生活を改めようとするでしょうに!」。

試論:ヨハネ14章27節の平和を140文字以内で

「平和」とはヘブライ語で幸福の総称であり具体的には、主イエスが準備(用意)された《御父の家》(ヨハネ14章2節)にて御父や御子イエスと一緒に住むことを指す。一コリント2章9節は「誰も見聞きせず誰の心にも思い浮かばなかったことを神は御自分を愛する者たちに準備(用意)された」と記す。

【追記】

主イエスはヨハネ14章27節で「わたしの平和」を残され与えられると仰せになり、与える方法をコロサイ1章20節は「十字架の血によって」と記す。ヘブライ語で平和とは幸福の総称だが、具体的には、新しく創造された天・地・エルサレムの中で復活の体で生きること──《永遠の命》とはそれである。

(注)別エントリー「試論:『わたしの平和』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15825

ヨハネ14章2節以下「わたしの父の家には住む場所がたくさんある。行ってあなたたちの場所を用意したら、あなたたちの許へ戻って来て、あなたたちを迎える」黙示録21章2節「聖なる都、新しいエルサレムが、花婿のために着飾った花嫁のように用意を整えて、天から下って来るのを、わたしは見た」。

イザヤ65章17節以下では「新しい天・新しい地・新しいエルサレムの創造」が預言されるが、同書では42章以降、「主の僕(しもべ)」つまり救い主である、神の御独り子イエス・キリストに関する預言が続き、「新しい天・地・エルサレム」は救い主御自身の「復活の体」の創造と共に完成の時を見た。

黙示録21章16節以下では新しいエルサレムの巨大性が啓示される。これは当然、ヨハネ14章2節以下「わたしの父の家には住む場所がたくさんある。もしなかったなら、あなたたちのための場所を準備しに行くとは言わない。あなたたちの場所を準備したらあなたたちの許に戻って来る」を反映している。

(注)別エントリー「試論:新都エルサレムの『用意』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16763

主イエスは御受難と御復活の間に「新しい天・地・エルサレムの創造」を準備され誕生させたが、イザヤ66章8節は「誰がこのようなことを見聞きしたであろうか。一つの国が一日で生まれ一つの民が一日で生まれることがあり得るだろうか」と預言する。「天の国は近づいた」の「天の国」とはこれだった。

(注)別エントリー「試論:『天の国は近づいた』意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16775

(注)別エントリー「試論:『一緒に住む』どこに??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16818

主イエスの御降誕は「肉の体」つまり人間としての誕生だったが、この世に来られた究極の目的が「贖(あがな)い」である以上、「上げられ(十字架上で顕示され)た」後の死と御復活によって悪魔の罪と死の支配を終わらせ人類に永遠の命と「霊の体」を準備して目的を達成したことの方がより重要である。

(注)別エントリー「試論:真理と贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9081

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

二世紀初めにアンティオキアの聖イグナティウスが記したように初代の信者は、キリストの御復活すなわち「天上の体」(一コリント15章40節)の創造の記念に、週七日の中で祝うべき特別の日を土曜日(ユダヤ教の安息日)から、御復活があった「週の最初の日(安息日の翌日)」日曜日へと置き換えた。

(注)別エントリー「試論:『土曜と日曜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12677

(注)別エントリー「試論:『安息日と主日との違い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12017

試論:カインに違う道はあったかを140文字以内で

【問】弟を殺したカインには違う道はなかったのですか?【答】なぜ弟の献げ物には神は目を留められたのに自分の献げ物にはそうされなかったのか、まず彼は弟と話し合うべきでした。間違った自尊心のために彼はそうせず、神から語り掛けられた際に神へ理由を直接質問することさえも彼はしませんでした。

試論:「愛してはいない者」を140文字以内で

主イエスはヨハネ14章24節で「わたしのことを本当は愛してなどいない者は、わたしの言葉に忠実ではない」と仰せになり、御自身の実際の《神の御言葉》に決して無関心であってはならないと強く念を押された。ヘブライ語の「信じる」は箴言25章13節では「忠実〔である〕」と日本語訳されている。

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

試論:「どうして怒るのか」を140文字以内で

主イエスはマタイ5章22節で「兄弟に対して腹を立てる者は皆、裁きを受ける」と教えられ、神なる主は創世記4章6節でカインに、「どうして怒るのか」と仰せになった。箴言14章29節は「短気な者は〔怒るより先に助言を求めるべき時にでも、聞く耳を持たないので〕いつまでも愚かなまま」と説く。

試論:「善悪の知識の木」?を140文字以内で

ヘブライ語の「知る」とは、「実感(体感)する」「実体験を通して、より詳しく感じ取る(思い知る)」の意味合いである。故に創世記4章1節「アダムは妻エバを知った」のように男女関係の婉曲表現でもあった。アダムとエバは禁断の木の実を食べて楽園を追われ、喜びと悲しみの違いを思い知らされた。

【追記】

創世記で「善」「悪」と日本語訳されるヘブライ語は、「好ましいもの」「好ましくないもの」の総称である。アダムとエバは楽園を追われて初めて自分たちが神からの完全な保護を当然のように享受していたことを実感した。二人はその後さまざまな苦難や悲しみに遭遇したが、楽園には二度と戻れなかった。

試論:「二人の息子」を140文字以内で

マタイ21章28節以下「ある者に息子が二人いた。父親は一人にぶどう園で働くように言った。この息子は一度は断ったが、後から思い直して出発した。父親は別の息子にも同じように言った。こちらは口では良い返事をしたが実際には言う通りにしなかった。二人の息子のうち父親に従ったのはどちらか」。

(注)別エントリー「試論:『主よ主よと呼びながら』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15669

【追記】

ルカ6章46節「あなたたちはわたしを『主よ、主よ』と呼んでおきながら、なぜわたしが言っていることを、行わないのか?」ヨハネ8章51節「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことはない」ガラテヤ5章6節「キリスト・イエスに結びついているのなら、愛の実践を伴う信仰こそ重要です」。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

試論:ヨハネ5章46節のモーセを140文字以内で

【問】主イエスはヨハネ5章46節で「モーセはわたしについて書いている」と仰せになりましたが例えば、どの箇所のことですか?【答】レビ26章11節〜12節「わたしはあなたたちのただ中に住まいを置き〜」(ヨハネ1章14節「神の御言葉は肉(=人)となられ、わたしたちの間に住まわれた」)。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節の『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7783

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7795

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

(注)別エントリー「試論:『人間を照らす光』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7227

【追記】

モーセの時代、臨在の幕屋を囲むようにイスラエルの民は陣営を形成した。福音書の時代には神殿が臨在の幕屋の後身である以上は、神殿を囲むエルサレムの都自体が自分たちの時代の「陣営」だと考えられた。だとすれば主イエス・キリストが都の中を歩まれるのは申命記23章15(14)節の通りである。

(注)別エントリー「『ヘブライ人への手紙』が書かれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/2286

レビ記は、「重い皮膚病」の人と性病の人は陣営の外に住まねばならぬとする。古代ユダヤの歴史家ヨセフスは、一世紀のエルサレム市内から、淋病の人と「重い皮膚病」の人は完全に排除されていた、と記した。当時のヘブライ人にとっては、エルサレムの都こそが自分たちの時代の「陣営」そのものだった。

モーセはレビ記26章で、イスラエル人が神に忠実であり続ける場合の幸福を説き、11節と12節では主が人々の間に住まわれ、人々の間を巡られると預言した。ヨハネ1章14節は、「神の御言葉」すなわち人々に直接語り掛けられる主イエス・キリストが、「肉」すなわち人間になられたことを説明する。

(注)別エントリー「試論:エゼキエル37章を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6437

試論:「割礼か信仰か」を140文字以内で

ローマ3章28節は「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく信仰によると、わたしたちは考える」と記すが、この箇所の「律法の行い」とは割礼(30節)を指す。ガラテヤ5章6節は「キリスト・イエスに結ばれていれば割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切」と説明している。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「試論:『掟を守る』『とどまる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16909

試論:「裁きに目覚めるため」?を140文字以内で

【問】箴言1章3節では人々に箴言が与えられる理由を「正義と裁きと公平に目覚めるため」としますが、この箇所の「裁き」はどんな意味ですか?【答】神の行われる裁きが善人と悪人を分けることで始まるように人間も善悪(是非、理非)を正しく判断(区別)する力を身に付けねばならぬという意味です。

試論:「毒麦を蒔いたのは悪魔」を140文字以内で

黙示録12章9節は「竜」を「悪魔とかサタンとか呼ばれる年を経た蛇、全人類を惑わす者」などと呼び、創世記3章の「蛇」と同定する。その手口は「〔神から言い渡された掟に従わなくとも〕あなたは死ぬことがない」であり、主イエスもマタイ13章39節で「毒麦を蒔いたのは悪魔」と警告されている。

(注)別エントリー「試論:『全人類を惑わす者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16790

試論:「結論を急がない人」を140文字以内で

箴言8章12節は「知恵は熟慮と共にあり知識と慎重さを備える」と説き、神を畏れる者は結論を急いではならないと教える。ヨセフが結論を急ぐ人だったら、自分の与り知らぬ妊娠をした婚約者を絶対に赦さなかったはずだし、短気な人には「他人を悪人と決めつけて裁くな」「赦しなさい」は実行できない。

試論:「掟を守る」「とどまる」を140文字以内で

ヨハネ15章10節「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたたちもまたわたしの掟を守るなら、それによって、わたしの愛にとどまっている」マタイ7章21節「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るのではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入る」。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

【追記】

マタイ7章12節「あなたたちが他の人からしてもらいたいと思うことはなんでも、あなたから他の人にしなさい。これこそが律法であり、預言者の教えである」ヨハネ13章35節「あなたたちが互いを尊重し敬意を払い合うならば、その姿を見て皆はあなたたちがわたしの弟子であることを認めるだろう」。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

(注)別エントリー「試論:『行った意味が分かるか』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15848

試論:「荒らす憎むべき者」を140文字以内で

ローマ帝国に対する大反乱が勃発した紀元六六年に親ローマのヘロデ王家の五人目の王がユダヤを捨てた後、元職大祭司の一人が民族の代表者となったが、武装勢力と軋轢を起こした。ガリラヤでローマ軍に敗れ都に逃げ込んだギスカラのヨハネは、大祭司を見捨てて独裁者となり、都で暴虐の限りを尽くした。

(注)別エントリー「試論:黙示録17章『第八の者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9038

(注)別エントリー「試論:『アンナス二世』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15414

(注)別エントリー「試論:黙示録17章『十本の角』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9155

【追記】

主の御降誕から第二神殿の滅亡までエルサレムに七人の「王」が君臨した。ヘロデ大王、アルケラオス、アンティパス、アグリッパ一世、アグリッパ二世がヘロデ王家の人で、ヘロデ王家のユダヤ退去後の独裁者ギスカラのヨハネが六人目に該当し、ローマ帝国に処刑されたシモン・バルギオラが七人目である。

(注)別エントリー「試論:黙示録の『第八の者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12097

申命記22章5節は男性の女装を禁じた。この掟を古代ユダヤの歴史家ヨセフスは、社会秩序崩壊を防ぐ掟とみなした。主の御受難から三十数年後、独裁者(ギスカラのヨハネ)の下でエルサレムを恐怖支配していた武装勢力の集団は、白昼堂々女装しながら、市民に対し虐殺や略奪や婦女暴行等を繰り拡げた。

(注)別エントリー「『世も末』の徴を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6940

(注)別エントリー「『荒廃をもたらす憎むべきもの』とは何か【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/24206

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

使徒言行録でパウロの尋問に同席したヘロデ・アグリッパ二世は主の御降誕から第二神殿滅亡までの間にエルサレムで君臨した七人の王の一人で、ローマへの反乱に与せず神殿滅亡後ユダヤで返り咲いたが、神殿が既に存在せずその監督権を行使できぬ以上、有名無実の存在で、彼の死でヘロデ王家は断絶した。

(注)別エントリー「試論:『実現の日』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9074

(注)別エントリー「試論:『大淫婦』の正体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15895

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

試論:黙示録と現代人を140文字以内で

【問】黙示録は現代人にとっての近未来を啓示する書ですか?【答】この啓示はエルサレム神殿の「異邦人の庭」(黙示録11章2節)が現存する時期つまり紀元七〇年の滅亡以前になされ、また1章1節は「すぐにも起こるはずのこと」と記しており、この啓示はエルサレムと神殿との滅亡に関するものです。

(注)別エントリー「試論:黙示録11章2節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16668

(注)別エントリー「試論:『大淫婦』の正体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15895

試論:「知恵とアレテイア」を140文字以内で

イエスをルカ2章40節は「知恵に満ち神の恵みに包まれていた」と記し、ヨハネ1章14節では「恵みとアレテイアに満ちていた」と記すがヨハネはアレテイアを「忠実(わたしが父の掟に忠実であるように皆もわたしの掟に忠実であれ)」の意味で使う。聖書の知恵とは主への忠実(箴言1章7節)である。

(注)別エントリー「試論:『主を畏れる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10751

(注)別エントリー「試論:『信仰とアレテイア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16847

【追記】

古代よりヨハネ福音書には「信仰」を意味するギリシア語が登場しないことが知られていた。その替わりヨハネ福音書は「真理」を意味する語アレテイア(まこと=真、実、信、誠)を多用する。ヨハネ7章28節「わたしを遣わされた方は『真理である方(=御父)』だが、あなたたちはその方を知らない」。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

主イエスはヨハネ14章6節で「真理」を自称されたが、プロテスタントの「改訳 新約聖書』(1917年)は「まこと」と平仮名を振り、旧約聖書で「まこと」と訳される語との関連を示唆する。嘘偽りや裏表がないこと、上っ面だけでなく内実を伴うこと、真心には真心で返されること等を意味している。

他の福音書とは違い、ヨハネ福音書には「信仰」を意味するギリシア語ピスティスが登場しない。その替わりヨハネは「真理(アレテイア)」を押し通す。この場合のアレテイアは《忠実》を意味し、「御子であるわたしが御父の掟に忠実だったように、皆もわたしの掟に忠実でありなさい」の意味合いである。

幼子イエスに関してルカ2章40節は「たくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた」と記し、ヨハネ1章14節は「その栄光は御父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた」と記す。他の福音書が「知恵」や「信仰」と表現する際もヨハネ福音書は「真理」という語を当てている。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:真理(まこと)の反対は?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12668

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

古代よりヨハネ福音書には「信仰」を意味するギリシア語が登場しないことが知られていた。その替わりヨハネ福音書は「真理」を意味するギリシア語アレテイアを多用する。主イエスはピラトの問いに対し御自分のことを王だとも神だともお答えにならず、ただ「真理」すなわち信頼すべき者だと宣言された。

試論:聖家族と「実」を140文字以内で

ガラテヤ5章では「聖霊の結ぶ実」として神の御独り子の母の内面に関連する《愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制》を説く。他方、コロサイ3章では「礼服」(マタイ22章)という比喩を踏まえ、「義人」ヨセフの「義」に関連する《憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛》を説く。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

(注)別エントリー「試論:マタイ22章『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6740

(注)別エントリー「予備的考察:聖母崇敬そして聖ヨセフ崇敬の起源とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1750

(注)別エントリー「聖家族はどのような雰囲気の中で暮らしていたのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5246

【追記】

【問】マリアとヨセフに関する記述は乏しくないですか?【答】マリアは「恵まれた方」(ルカ1章28節)「祝福された方」(同章42節)と呼ばれ、ヨセフは「正しい人(義人)」(マタイ1章19節)と呼ばれます。「恵み」「祝福」「〔神の〕義」の理解を深めれば二人に関する理解もより深まります。

主イエスの養父ヨセフはマタイ1章19節で「正しい人」と呼ばれるが、25章の「最後の審判」において「正しい人」は永遠の命が確約された人である。母マリアはルカ1章42節で「女の中で祝福された方」と呼ばれるが、マタイ25章34節では「祝福された人」は同じく永遠の命が確約された人である。

(注)別エントリー「試論:『神の母』聖書的根拠を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13155

(注)別エントリー「試論:『親しき仲にも礼儀あり』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13120

ダビデは神からの霊感を受け詩編15編で、《神の家》で《神の同居家族》となる人々について、「親しき仲にも礼儀あり」という観点で言葉と行いの両面において、(無垢という意味で)完全な神の御目にかなった人々であると表現した。マリアとヨセフはそれに該当しなかったなどと、誰が言えるだろうか?

受胎告知の際マリアは「恵まれた方」と呼ばれたが、テトス2章11節以下では「全ての人に救いをもたらす神の恵みは、不信心と現世的欲望を捨て思慮深く正しく信心深く生きるよう教え、また偉大な神であり救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むよう教えます」と神の恵みに関し説明する。

ヨハネ1章17節は「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」と記すが、二ペトロ1章は神からの恵み(2節)の内容を5節以下で、信仰に始まり徳・知識・自制・忍耐・信心・兄弟愛・愛に至るとして、恵みが加わるほど「情欲に染まったこの世の退廃」(4節)や怠惰(8節)から遠くなると記す。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:真理(まこと)の反対は?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12668

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

聖母は受胎告知の後も「主のはしため」(ルカ1章38節、48節)と自称するほど、へりくだりが第一の特徴であり、聖霊によって神の御独り子を宿される以上、《聖霊の結ぶ実》(ガラテヤ5章22節〜23節)である愛から節制に至る諸徳は、「おめでとう、恵まれた方」と呼ばれるまでに、備えていた。

神の霊つまり聖霊が人間に賜るものをガラテヤ5章は愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制と説く。主はマタイ6章33節で「神の義」を求めよと仰せになり、同22章でそれを「礼服」にたとえられる。コロサイ3章では、着るべきものとは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛と説く。

受胎告知の際、マリアは「恵まれた方」(新共同訳)と呼ばれたが、「恵まれた」とは《〔神からの〕とめどもない好意を得た》の意味で、古代ギリシア語訳箴言を参照すると、この比類のない《好意》は、彼女の「へりくだり」(箴言3章34節)と「善のみの追求」(同11章27節)に対する恵みである。

試論:具体的な「実」を140文字以内で

主はヨハネ15章2節で「わたしにつながっていても実を結ばぬ枝は全て御父が取り除かれ、実を結ぶ枝は全て御父がさらに豊かに実るよう手入れをなさる」と仰せになった。ヤコブ3章でも17節と18節に「実」が登場し、知恵・純真・温和・優しさ・従順・憐れみ・義・平和が特徴であることを説明する。

【追記】

主イエスはヨハネ15章2節で「わたしにつながっていても実を結ばぬ枝は全て御父が取り除かれるが、実を結ぶ枝は全て御父がさらに豊かに実るように手入れをなさる」と仰せになり、ガラテヤ5章22節以下でパウロは「実」の具体例を、愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・柔和・節制と列挙した。

神の霊つまり聖霊が人間に賜るものをガラテヤ5章は愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制と説く。主はマタイ6章33節で「神の義」を求めよと仰せになり、同22章でそれを「礼服」にたとえられる。コロサイ3章では、着るべきものとは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛と説く。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

御復活の主はルカ24章47節で「罪の赦しをもたらす悔い改めがあらゆる国で宣べ伝えられる」と仰せになったが、3章3節では洗礼者が罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えたと記し、のみならず同8節では悔い改めにふさわしい実を結べと命じており、10節以下は具体的な指示をも記す。

主はヨハネ3章3節で「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることができない」と仰せになられた。エフェソ4章31節以下では無慈悲・憤り・怒り・わめき・そしりなどの全てを一切の悪意と共に捨てるよう勧め、互いに親切にし合い、憐れみの心で接し合い、またキリストにならい赦し合うよう勧める。

試論:「今の時代はよこしま」?を140文字以内で

主イエスは「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしの他にはしるしは与えられない」と仰せになった。「ヨナのしるし」とは御自身の復活のことであり、その前にも人々はラザロの復活という「しるし」を目にすることになるが結果かえって有力者たちはイエスの殺害を決意した。

【追記】

民数記4章は「三十歳以上五十歳以下」と繰り返して、古代のイスラエルではこの年代を働き盛りと考えていたと示唆し、ヨハネ11章ではマルタ(21節)とマリア(32節)またユダヤ人たち(37節)まで口々にラザロの死を悔やみ、天寿を全うしたと言える年齢に彼が達していなかったことを暗示する。

(注)別エントリー「試論:『あなたがたのため』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9470

ダニエル9章26節はメシアの死の後に次の指導者となる国民がエルサレムを滅ぼすと預言する。大昔モーセは鷲にたとえられる国民がヘブライの民を滅ぼすと預言した(申命記28章49節)。イエスには死んでもらうと決めた人々は「その国民とはローマ人」だと認識していたとヨハネ11章48節が記す。

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

(注)別エントリー「試論:『実現の日』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9074

試論:「命の神」を140文字以内で

主イエスはヨハネ14章6節で命を自称された。申命記30章15節の通りヘブライ語の命は幸福の総称であり、旧約の民は自分たちの神を「命の神」(エレミヤ10章10節)と呼んだ。ただし主はヨハネ11章25節で命と共に復活を自称され、御自身の復活と共に実現するものの重大性に注意を促された。

(注)別エントリー「試論:わたしの平和を与える??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16825

(注)別エントリー「試論:新都エルサレムの『用意』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16763

(注)別エントリー「試論:『天の国は近づいた』意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16775

試論:「他人を悪く言う者」末路を140文字以内で

一コリント6章10節「他人を悪く言う者は決して神の国を受け継ぐことができない」エフェソ4章31節「無慈悲、憤り、怒り、喚き、誹り等の全てを、全ての悪意と共に捨てなさい」一ペトロ2章1節「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口を全て捨てなさい」レビ19章17節「心の中で憎んではならない」。

(注)別エントリー「レビ記19章17節:理由のない悪意」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4826

【追記】

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

レビ19章18節は「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」17節は「心の中で兄弟を憎んではならない」ゼカリヤ7章9節は「互いにいたわり合い憐れみ深くありなさい」10節は「互いに災いを心にたくらんではならない」と教える。「心の中で憎む」とは相手の不幸を心の中で望むことを意味する。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1982

「愛の反対は無関心」という言葉は、これを聞き「善きサマリア人の話」(ルカ10章)や「最後の審判」(マタイ25章)をすぐ連想できる人にとっては、キリスト教的な意味を持つ。しかし、これらの箇所に思い至らず、それどころか福音書のどんなエピソードも浮かばない人にとっては、混乱の元となる。

(注)別エントリー「試論:『善きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

試論:「つながっていなければ」を140文字以内で

ヨハネ15章4節「わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」10節「わたしが御父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたたちもわたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっている」8節「あなたたちがわたしの弟子として豊かに実を結ぶなら、御父は栄光をお受けになる」。

【追記】

主イエスはヨハネ13章31節で「神(=御父)は『人の子』(=御子)によって栄光をお受けになった」と仰せになった。どのような場合に御父は御子によって栄光をお受けになるのか、15章8節「あなたたちがわたしの弟子として豊かな実を結ぶならば、それによってわたしの父は栄光をお受けになる」。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888

試論:「信仰とアレテイア」を140文字以内で

他の福音書とは違い、ヨハネ福音書には「信仰」を意味するギリシア語ピスティスが登場しない。その替わりヨハネは「真理(アレテイア)」を押し通す。この場合のアレテイアは《忠実》を意味し、「御子であるわたしが御父の掟に忠実だったように、皆もわたしの掟に忠実でありなさい」の意味合いである。

【追記】

古代よりヨハネ福音書には「信仰」を意味するギリシア語が登場しないことが知られていた。その替わりヨハネ福音書は「真理」を意味する語アレテイア(まこと=真、実、信、誠)を多用する。ヨハネ7章28節「わたしを遣わされた方は『真理である方(=御父)』だが、あなたたちはその方を知らない」。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

主イエスはヨハネ14章6節で「真理」を自称されたが、プロテスタントの「改訳 新約聖書』(1917年)は「まこと」と平仮名を振り、旧約聖書で「まこと」と訳される語との関連を示唆する。嘘偽りや裏表がないこと、上っ面だけでなく内実を伴うこと、真心には真心で返されること等を意味している。

主イエスはヨハネ14章6節で「真理」を自称されたが、プロテスタントの『改訳 新約聖書』(1917年)は、そこに「まこと」と平仮名を振り旧約聖書で「まこと」と訳される語との関連を示す。真理というと哲学的で近寄り難い印象を受けるが、主に帰せられる実際の諸徳は「真、実、信、誠」である。

ヨハネ18章38節「真理(アレテイア)とは何か」の答えをマルコ12章32節は「神は唯一で他に神はない」と記す。一ヨハネ5章6節と20節は、「真理」の名に該当するのは御父と御子と聖霊であると説く。ヨハネ10章30節「一つ」の意味を使徒言行録4章32節は「心」「思い」等々と説明する。

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

一ヨハネ5章は20節で「神の御子が来られ、私たちに真理である方を知る力を与えられました。私たちは真理である方の内に、またその御子イエス・キリストの内にいるのです」と記し、「この方こそ真理である神、永遠の命」と続け、御父と御子と聖霊(6節)の御三方を「真理」と呼び、唯一の神とする。

(注)別エントリー「試論:『御子に全て委ねられた』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7629

幼子イエスに関してルカ2章40節は「たくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた」と記し、ヨハネ1章14節は「その栄光は御父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた」と記す。他の福音書が「知恵」や「信仰」と表現する際もヨハネ福音書は「真理」という語を当てている。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:真理(まこと)の反対は?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12668

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

古代よりヨハネ福音書には「信仰」を意味するギリシア語が登場しないことが知られていた。その替わりヨハネ福音書は「真理」を意味するギリシア語アレテイアを多用する。主イエスはピラトの問いに対し御自分のことを王だとも神だともお答えにならず、ただ「真理」すなわち信頼すべき者だと宣言された。

古代のギリシア語訳イザヤ書59章14節は「真理(まこと、アレテイア)は街頭(広場、巷)でよろめく」15節は「真理は失われ、それは主の御目に悪と映った」と記す。この預言は「わたしは真理」(ヨハネ14章6節)と自称される主イエスの、御受難とキレネのシモンのエピソードにおいて実現した。

(注)別エントリー「試論:『真理は街頭でよろめく』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12702

主イエスはヨハネ14章6節で「真理(アレテイア)」と自称されたが、ギリシア語訳のエレミヤ9章4節は「人は隣人を惑わし、『まこと(アレテイア)』を語らない」であり、エレミヤ9章で「まこと」に対置されているのは姦淫する者・裏切る者・偽り・悪・中傷・惑わし・悪事・欺き・殺し等々である。

詩編43編3節は「あなたの光とまこと(真理)を遣わしてください」と歌う。ヨハネ1章4節は「神の御言葉(=主イエス)の中に命があり、命は人間を照らす光」と記す。同14章6節で主は「わたしは道・真理・命」と仰せになり、まさに御自分こそが詩編の「光とまこと」に他ならないと、宣言された。

(注)別エントリー「試論:『わたしは世の光である』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9699

(注)別エントリー「試論:あなたがたは世の光って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6337

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

試論:「愛」は難しい事ですか?を140文字以内で

【問】キリスト教ではしばしば「愛」を説きますが、これは、十字架上の死に倣うような、人間にとってなかなか実行が難しい物事を要求するものですか?【答】キリスト御自身が要請された事柄は「あなた自身が他の人からしてもらいたいことをあなたの方から他の人にしなさい(マタイ7章12節)」です。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

【追記】

弟子たちの足を洗うという行為を通じて、主イエスは隣人に敬意を払って尊重することこそ御自分の御教えの根幹であると教えられた。自分自身が他人から尊重され敬意を払われた経験がなければ敬意と尊重は理解できない。「互いを尊重するなら、それを見て皆はあなたたちがわたしの弟子であると認める」。

試論:「全人類を惑わす者」を140文字以内で

黙示録12章9節は「竜」を「悪魔とかサタンとか呼ばれる、年を経た蛇、全人類を惑わす者」と呼び、創世記3章の「蛇」と同一と示唆する。その手口は「〔神から言い渡された事柄に従わなくとも〕あなたは死ぬことがない」であり、この「死」は申命記30章15節の通り「不幸の極み」の比喩でもある。

【追記】

【問】カトリックでは創世記3章15節および黙示録12章の「女」をマリアと解釈し、サタンと決定的に対立する存在だと教えますが、その対立点はどこですか?【答】マリアは人々へ神の言葉には全て従うよう勧めますが(ヨハネ2章5節)、サタンはエバへ神に従わぬ(創世記3章4節)よう唆しました。

(注)別エントリー「試論:『女』と『竜』との対立点を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16757

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

試論:一粒の麦もし死なずば??を140文字以内で

主イエスは「一粒の麦は死ねば多くの実を結ぶ」と仰せになり、自分の十字架の死の犠牲によって「新しい天・地・エルサレム」が創造され自分の復活つまり「天上の体」の創造(一コリント15章40節)で完成すると教えられた。ヘブライ人にとって家も体も共に自分の住まいであり両方が新しく誕生した。

(注)別エントリー「試論:『体も家も自身の住まい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9924

(注)別エントリー「試論:『一緒に住む』どこに??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16818

(注)別エントリー「試論:わたしの平和を与える??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16825

(注)別エントリー「試論:『わたしの平和』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15825

(注)別エントリー「試論:新都エルサレムの『用意』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16763

(注)別エントリー「試論:『天の国は近づいた』意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16775

試論:わたしの平和を与える??を140文字以内で

主イエスはヨハネ14章27節で「わたしの平和」を残され与えられると仰せになり、与える方法をコロサイ1章20節は「十字架の血によって」と記す。ヘブライ語で平和とは幸福の総称だが、具体的には、新しく創造された天・地・エルサレムの中で復活の体で生きること──《永遠の命》とはそれである。

(注)別エントリー「試論:『わたしの平和』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15825

(注)別エントリー「試論:新都エルサレムの『用意』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16763

(注)別エントリー「試論:『天の国は近づいた』意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16775

(注)別エントリー「試論:『一緒に住む』どこに??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16818

試論:「一緒に住む」どこに??を140文字以内で

ヨハネ14章23節「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしはその人のところへ行き一緒に住む」同章2節以下「わたしの父の家にはたくさん住む所がある。わたしは行ってあなたたちの場所を用意したら、わたしの許にあなたたちを迎えるために戻って来る」。

(注)別エントリー「試論:新都エルサレムの『用意』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16763

【追記】

ヨハネ14章2節以下「わたしの父の家には住む場所がたくさんある。行ってあなたたちの場所を用意したら、あなたたちの許へ戻って来て、あなたたちを迎える」黙示録21章2節「聖なる都、新しいエルサレムが、花婿のために着飾った花嫁のように用意を整えて、天から下って来るのを、わたしは見た」。

イザヤ書は42章以降で救い主の様々な御業を預言し、65章17節以下では、究極の目的である「天の国」つまり「新しい天・地・エルサレム」の創造を記す。ヨハネ14章2節以下で主イエスはそれを準備するために自分は出発すると予告された。この「天の国」は、「復活の体」の創造をもって完成した。

(注)別エントリー「試論:『天の国は近づいた』意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16775

主イエスは御受難と御復活の間に「新しい天・地・エルサレムの創造」を準備され誕生させたが、イザヤ66章8節は「誰がこのようなことを見聞きしたであろうか。一つの国が一日で生まれ一つの民が一日で生まれることがあり得るだろうか」と預言する。「天の国は近づいた」の「天の国」とはこれだった。

試論:「最初の天地が過ぎ去る」を140文字以内で

黙示録21章1節は「最初の天と最初の地は過ぎ去った」と記す。詩編78編69節はエルサレム神殿の聖所を天地に喩えた。主イエスはマタイ5章18節で全てのことが実現し天地が消え失せるまで律法の時代は続くと仰せになり、ルカ21章22節でエルサレム滅亡で全てのことが実現するとも予告された。

【追記】

古代のヘブライ人は詩編78編69節の通り、エルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。これを踏まえれば、主イエスのルカ21章33節の仰せ「やがて天地は滅びるであろうが、わたしの言葉は決して滅びない」の意味は、「エルサレムと神殿の滅亡後も、わたしの教えと信仰は生き続ける」である。

(注)別エントリー「試論:黙示録の『第八の者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12097

主はマタイ5章18節で、全てのことが実現して天地が消え失せるまではモーセの律法も消え失せないと仰せになり、ルカ21章22節ではエルサレム滅亡で預言が全て実現すると予告され、紀元七〇年にそれは成就した。詩編78編69節の通りヘブライ人はエルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。

(注)別エントリー「試論:ルカ19章41節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5814

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

ルカ21章22節には「書かれていること」という言い回しが用いられているが、これはヨシュア記1章8節と同様に、「預言された事柄」「神から啓示された内容」などを意味する表現である。古代においては「書く(書いて記録に残しておく)」という行為それ自体が、非常に重要な意味を持つものだった。

主はマタイ5章18節で、全てのことが実現し天地が消え失せるまで律法の時代が続くことを仰せになった。ルカ21章22節では、エルサレム滅亡(20節)の日を「書かれていることが完全に実現する報復の日」と仰せになり、エルサレムと神殿の滅亡(紀元七〇年)で律法の時代が終わると宣言なさった。

「天地が消え去る」の「天」とは、神がお住まいになる場所と見なされたエルサレム神殿とりわけその聖所を指し、二ペトロ3章はその滅亡が近いことを説く。「地」はエゼキエル7章2節同様、イスラエルの地を指す。紀元七〇年にエルサレムと神殿は滅亡しユダヤ(イスラエル人の国家)も同じく消滅した。

二ペトロ3章10節は「主の日」において「天は激しい音を立てながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に熔解し尽くす」と予告した。数年後の紀元七〇年、神が住まわれると見なされて、「天」と同一視されていたエルサレムの神殿は、都の滅亡の際ローマ帝国軍によって火を放たれ、大音響と共に焼け滅びた。

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

ルカ21章22節において、主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると明言されており、それは紀元七〇年に現実のこととなった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代や近未来の世界情勢に関して旧約聖書の預言から考える行為は、不毛である。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

ダニエル書9章では神殿とエルサレムの復興を強く願うダニエルの祈りに応えて、都と神殿の再建さらには救い主の到来までも約束されたが、救い主が不当に殺された後、モーセの律法を蹂躙する集団が神殿の聖所を占拠し、そして次に来る指導者の民が、都と神殿を無法集団もろとも、滅ぼし尽くして終わる。

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

ルカ17章34節から35節で主は「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」と繰り返されたが、では一体どこに「連れて行かれ」るのかを、ルカ21章24節では「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と御説明された。これは大昔モーセがレビ記26章33節以下で預言していた話と同じである。

紀元七〇年のエルサレム滅亡時にローマ軍へ投降したユダヤ人のうち、使徒言行録22章のパウロのようにローマの市民権を持つ者はローマ法の保護下にあるため留め置かれたが、そうでない者は妻子と共に奴隷とされて売り飛ばされた。こうして「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」は現実となった。

(注)別エントリー「試論:『滅びを避けるには』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5749

ルカ21章32節で主は「全てのことが起こるまではこの時代は決して滅びない」と仰せになったが、「時代」に当たる原文の単語ゲネアは古代のギリシア語詩編94(95)編10節の「世代」にも用いられ、詩編のこの節ではゲネアを四十年とする。実際この主の仰せからおおよそ四十年後に都は滅亡した。

(注)別エントリー「試論:『今の時代』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5596

(注)別エントリー「試論:『人心荒廃は滅亡の前兆』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6291

黙示録11章2節は「異邦人に与えられた、神殿の外の庭」に言及する。これは紀元七〇年に滅亡したエルサレム神殿に特有の領域であり、従って黙示録の啓示が与えられたのはエルサレム神殿がまだ存在していた紀元七〇年以前ということになる。1章1節は「すぐにも起こるはずのこと」と緊急を強調する。

(注)別エントリー「試論:『大淫婦』の正体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15895

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

黙示録22章12節は「わたしはすぐに来る」と記す。この「来る」とはどのような意味合いかを同6章17節は「神と小羊の怒りの大いなる日が来た」と説く。ルカ17章22節「人の子の日」やマタイ10章23節「人の子は来る」も同じで、同24章33節の通り人々は悲惨な諸事件から主の来臨を悟る。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888

主はマタイ10章7節で「天の国が近づいた」と告げるよう仰せになったが、それと別に23節で「人の子」が来る日をほのめかされた。これはルカ17章22節「人の子の日」や黙示録6章17節「神と小羊の怒りの大いなる日」を指し、マタイ24章33節の通り、人々は悲惨な諸事件から主の来臨を悟る。

主はルカ17章20節で「神の国は見える形では来ない」、22節で「人の子の日を弟子たちが見ることはない」と仰せになったが、アモス5章18節は「主の日を待ち望む者は災いだ。主の日は闇であって光ではない」と預言しており、「神の国の到来」と「主の日」とを混同すべきではないと、理解できる。

主はルカ17章30節で「人の子が現れる日」に言及された。これは黙示録6章17節「神と小羊の怒りの大いなる日」と同じで「神」は御父である神、「人の子」「小羊」は主イエス・キリストである。「はげ鷹」ローマ帝国は繁栄の都エルサレムと神殿を、神の介在を疑い得ないほどに跡形もなく滅ぼした。

主はルカ17章34節で「一人は連れて行かれ、もう一人は残される」21章24節で「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と仰せになった。紀元七〇年のエルサレム滅亡の際、ユダヤ人はローマ市民権の有無によって運命が大きく分かれ、奴隷にされた者たちはローマ帝国の各地へと売られて行った。

試論:ヨハネ14章「行く」を140文字以内で

主イエスはヨハネ14章3節で「わたしは行ってあなたたちのために場所を用意したら」と仰せになった。この「行く」はルカ22章22節「人の子は定められた通り去って行く」と同様「死ぬ」の婉曲表現であり、ヨハネ12章24節「一粒の麦は、死ぬのならば、多くの実を結ぶ」とも同じ意味合いである。

(注)別エントリー「主の御復活とともに創造された事柄とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15917

【追記】

ヨハネ14章2節以下「わたしの父の家には住む場所がたくさんある。行ってあなたたちの場所を用意したら、あなたたちの許へ戻って来て、あなたたちを迎える」黙示録21章2節「聖なる都、新しいエルサレムが、花婿のために着飾った花嫁のように用意を整えて、天から下って来るのを、わたしは見た」。

(注)別エントリー「試論:『天の国は近づいた』意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16775

主イエスは御受難と御復活の間に「新しい天・地・エルサレムの創造」を準備され誕生させたが、イザヤ66章8節は「誰がこのようなことを見聞きしたであろうか。一つの国が一日で生まれ一つの民が一日で生まれることがあり得るだろうか」と預言する。「天の国は近づいた」の「天の国」とはこれだった。

試論:「天の国は近づいた」意味を140文字以内で

イザヤ書は42章以降で救い主の様々な御業を預言し、65章17節以下では、究極の目的である「天の国」つまり「新しい天・地・エルサレム」の創造を記す。ヨハネ14章2節以下で主イエスはそれを準備するために自分は出発すると予告された。この「天の国」は、「復活の体」の創造をもって完成した。

【追記】

主イエスは御受難と御復活の間に「新しい天・地・エルサレムの創造」を準備され誕生させたが、イザヤ66章8節は「誰がこのようなことを見聞きしたであろうか。一つの国が一日で生まれ一つの民が一日で生まれることがあり得るだろうか」と預言する。「天の国は近づいた」の「天の国」とはこれだった。

主イエスは「一粒の麦は死ねば多くの実を結ぶ」と仰せになり、自分の十字架の死の犠牲によって「新しい天・地・エルサレム」が創造され自分の復活つまり「天上の体」(一コリント15章40節)で完成することを示唆された。ヘブライ人にとって家も体も共に自分の住まいであり両方とも新しく誕生した。

ヨハネ14章2節以下「わたしの父の家には住む場所がたくさんある。行ってあなたたちの場所を用意したら、あなたたちの許へ戻って来て、あなたたちを迎える」黙示録21章2節「聖なる都、新しいエルサレムが、花婿のために着飾った花嫁のように用意を整えて、天から下って来るのを、わたしは見た」。

イザヤ65章17節以下では「新しい天・新しい地・新しいエルサレムの創造」が預言されるが、同書では42節以降、「主の僕(しもべ)」つまり救い主である、神の御独り子イエス・キリストに関する預言が続き、「新しい天・地・エルサレム」は救い主御自身の「復活の体」の創造と共に完成の時を見た。

(注)別エントリー「試論:『新しい天と新しい地』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15361

主イエスは福音書で自身の御受難と御復活を随所で暗示されたが、御受難と御復活の間に御自分がどんな働きをなさるかについても、ヨハネ14章2節から3節で予告された。それはイザヤ65章17節以下の「新しい天・地・エルサレムの創造」預言の成就であり、御自身の復活の体の創造で完成の時を見た。

(注)別エントリー「主の御復活とともに創造された事柄とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15917

黙示録21章16節以下では新しいエルサレムの巨大性が啓示される。これは当然、ヨハネ14章2節以下「わたしの父の家には住む場所がたくさんある。もしなかったなら、あなたたちのための場所を準備しに行くとは言わない。あなたたちの場所を準備したらあなたたちの許に戻って来る」を反映している。

古代のイスラエルでは「神」と「神の民」との関係がしばしば「花婿」と「花嫁」と表現された。しばしば「女王」にもたとえられる都が「花婿」キリストを歓呼と共に迎え入れながら、数日後に裏切り、夜中に急襲して捕らえ一日のうちに死に至らしめたその行状から、「大淫婦」と呼ばれるのは当然である。

(注)別エントリー「試論:『大淫婦』の正体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15895

黙示録18章7節「わたしはやもめではなく女王であり、決して悲しい目に遭わない」ルカ19章41節以下「イエスは都のために泣いて仰せになった、『もし今、お前が平和への道をわきまえていたならば。しかし今のお前は、それを理解していない。時が来て、敵がお前を包囲して四方から攻め寄せ〜』」。

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1699

主イエスの御降誕は「肉の体」つまり人間としての誕生だったが、この世に来られた究極の目的が「贖(あがな)い」である以上、「上げられ(十字架上で顕示され)た」後の死と御復活によって悪魔の罪と死の支配を終わらせ人類に永遠の命と「霊の体」を準備して目的を達成したことの方がより重要である。

(注)別エントリー「試論:真理と贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9081

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

二世紀初めにアンティオキアの聖イグナティウスが記したように初代の信者は、キリストの御復活すなわち「天上の体」(一コリント15章40節)の創造の記念に、週七日の中で祝うべき特別の日を土曜日(ユダヤ教の安息日)から、御復活があった「週の最初の日(安息日の翌日)」日曜日へと置き換えた。

(注)別エントリー「試論:『土曜と日曜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12677

(注)別エントリー「試論:『安息日と主日との違い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12017

試論:「わたしの弟子と認める」を140文字以内で

マタイ7章12節「あなたたちが他の人からしてもらいたいと思うことはなんでも、あなたから他の人にしなさい。これこそが律法であり、預言者の教えである」ヨハネ13章35節「あなたたちが互いを尊重し敬意を払い合うならば、その姿を見て皆はあなたたちがわたしの弟子であることを認めるだろう」。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

(注)別エントリー「試論:『行った意味が分かるか』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15848

【追記】

主イエスは「自分が隣人からしてもらいたいことを自分から隣人にしなさい」を御自分の《律法》すなわち御教えの根幹とされ、弟子たちの足を洗われ隣人への敬意と尊重の重要性を教えられた。しかし御自身は次の晩が来る前に、尊重や敬意とは無縁の暴力や虐待や侮辱の裡にぼろ布のようにされて殺された。

弟子たちの足を洗うという行為を通じて、主イエスは隣人に敬意を払って尊重することこそ御自分の御教えの根幹であると教えられた。自分自身が他人から尊重され敬意を払われた経験がなければ敬意と尊重は理解できない。「互いを尊重するなら、それを見て皆はあなたたちがわたしの弟子であると認める」。

ヨハネ13章14節「主であり、師でもあるわたしが、あなたたちの足を洗ったのだから、あなたたちも、互いの足を洗い合わなければならない」マタイ23章11節「あなたたちの中で最も偉い者は、仕える者になりなさい」一ペトロ5章5節「神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みをお与えになる」。

試論:新都エルサレムの「用意」を140文字以内で

ヨハネ14章2節以下「わたしの父の家には住む場所がたくさんある。行ってあなたたちの場所を用意したら、あなたたちの許へ戻って来て、あなたたちを迎える」黙示録21章2節「聖なる都、新しいエルサレムが、花婿のために着飾った花嫁のように用意を整えて、天から下って来るのを、わたしは見た」。

【追記】

イザヤ65章17節以下では「新しい天・新しい地・新しいエルサレムの創造」が預言されるが、同書では42章以降、「主の僕(しもべ)」つまり救い主である、神の御独り子イエス・キリストに関する預言が続き、「新しい天・地・エルサレム」は救い主御自身の「復活の体」の創造と共に完成の時を見た。

(注)別エントリー「試論:『新しい天と新しい地』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15361

主イエスは福音書で自身の御受難と御復活を随所で暗示されたが、御受難と御復活の間に御自分がどんな働きをなさるかについても、ヨハネ14章2節から3節で予告された。それはイザヤ65章17節以下の「新しい天・地・エルサレムの創造」預言の成就であり、御自身の復活の体の創造で完成の時を見た。

(注)別エントリー「主の御復活とともに創造された事柄とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15917

黙示録21章16節以下では新しいエルサレムの巨大性が啓示される。これは当然、ヨハネ14章2節以下「わたしの父の家には住む場所がたくさんある。もしなかったなら、あなたたちのための場所を準備しに行くとは言わない。あなたたちの場所を準備したらあなたたちの許に戻って来る」を反映している。

主イエスは御受難と御復活の間に「新しい天・地・エルサレムの創造」を準備され誕生させたが、イザヤ66章8節は「誰がこのようなことを見聞きしたであろうか。一つの国が一日で生まれ一つの民が一日で生まれることがあり得るだろうか」と預言する。「天の国は近づいた」の「天の国」とはこれだった。

古代のイスラエルでは「神」と「神の民」との関係がしばしば「花婿」と「花嫁」と表現された。しばしば「女王」にもたとえられる都が「花婿」キリストを歓呼と共に迎え入れながら、数日後に裏切り、夜中に急襲して捕らえ一日のうちに死に至らしめたその行状から、「大淫婦」と呼ばれるのは当然である。

(注)別エントリー「試論:『大淫婦』の正体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15895

古代のイスラエルは、神と神の民との関係をしばしば花婿と花嫁の関係にたとえた。洗礼者ヨハネは、イエスを「花婿」と呼んで自身は「花婿の介添人」と称した。主イエスを歓呼の裡に迎え入れながら数日で死に至らしめた都を、黙示録が「大淫婦」と呼んだ理由は、イエスこそ花婿に他ならないからである。

ヨハネの黙示録17章5節には「淫婦の母、地上のあらゆる憎むべきものの母である大バビロン」と書かれているが、ゼカリヤ書2章11節では、エルサレムの住民が「バビロンの娘」という表現で呼び掛けられている。当時のエルサレムの住民は、かつてバビロンに連行されて住み着いた人々の子孫であった。

イザヤ62章5節はシオンの救いに関する文脈で神と神の民との関係を花婿と花嫁の関係にたとえエレミヤ33章11節はエルサレムの復興を「花婿と花嫁の声が聞こえるようになる」と預言したが、ならば、黙示録18章23節が「花婿と花嫁の声は聞かれない」と啓示した都も、やはり同じ都のはずである。

黙示録18章7節「わたしはやもめではなく女王であり、決して悲しい目に遭わない」ルカ19章41節以下「イエスは都のために泣いて仰せになった、『もし今、お前が平和への道をわきまえていたならば。しかし今のお前は、それを理解していない。時が来て、敵がお前を包囲して四方から攻め寄せ〜』」。

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1699

主イエスの御降誕は「肉の体」つまり人間としての誕生だったが、この世に来られた究極の目的が「贖(あがな)い」である以上、「上げられ(十字架上で顕示され)た」後の死と御復活によって悪魔の罪と死の支配を終わらせ人類に永遠の命と「霊の体」を準備して目的を達成したことの方がより重要である。

(注)別エントリー「試論:真理と贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9081

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

二世紀初めにアンティオキアの聖イグナティウスが記したように初代の信者は、キリストの御復活すなわち「天上の体」(一コリント15章40節)の創造の記念に、週七日の中で祝うべき特別の日を土曜日(ユダヤ教の安息日)から、御復活があった「週の最初の日(安息日の翌日)」日曜日へと置き換えた。

(注)別エントリー「試論:『土曜と日曜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12677

(注)別エントリー「試論:『安息日と主日との違い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12017

試論:「女」と「竜」との対立点を140文字以内で

【問】カトリックでは創世記3章15節および黙示録12章の「女」をマリアと解釈し、サタンと決定的に対立する存在だと教えますが、その対立点はどこですか?【答】マリアは人々へ神の言葉には全て従うよう勧めますが(ヨハネ2章5節)、サタンはエバへ神に従わぬ(創世記3章4節)よう唆しました。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

(注)別エントリー「試論:『女』とサタンの対立を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10314

(注)別エントリー「『鉄の杖』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16717

(注)別エントリー「試論:『女』と『竜』の対立を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12925

(注)別エントリー「神のお告げ:受胎告知と無原罪の御宿り」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4835

(注)別エントリー「創世記3章15節:蛇の頭を踏み砕く者は誰か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1488

【追記】

主イエスはヨハネ14章6節で真理を自称され、1章1節は御子を「言(ことば)」つまり《人々の前に御姿を現され御自ら御教えをお話になる神》と記す。18章37節で主は「真理に属する者は皆、わたしの声を聞く」と仰せになった。福音書に収録された実際の主の仰せを軽視する人は主に属していない。

試論:使徒言行録の中のユダヤ人を140文字以内で

バルナバとパウロは異邦人の宣教に旅立ったが、当時ローマ帝国の主要都市のほとんどにはユダヤ人の共同体と会堂が存在し、当然、彼らとも、遭遇した。使徒を迎えるユダヤ人の態度は三通りで【1】最初から好意で迎える【2】最初から敵意で迎える【3】好意と敵意との間を揺れ動く、というものだった。

【追記】

ペルシアによりバビロン捕囚から解放され帰還した人々は、都と神殿の再建を許されたが、自治を許された領域は広くなく「産めよ増やせよ」に従えばすぐ手狭となった。ユダヤを支配した国々が移民を奨励した結果、ローマ時代には「帝国の主要都市でユダヤ人のいない町はない」と言われるくらいであった。

マケドニアの大征服者アレクサンドロス大王の死後、武将たちによる領土の分割の結果、ユダヤはキレネやキプロス同様エジプトが本拠のプトレマイオス王朝に百数十年支配された。ダニエル書はこの王朝を「南の王」と呼んだ。この王朝はユダヤ人のエジプト(キレネやキプロスも含む)への移民を奨励した。

(注)別エントリー「試論:『ユダヤ人とキレネ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15734

(注)別エントリー「試論:エゼキエル戦争を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4921

(注)別エントリー「予備的考察:いわゆる『エゼキエル戦争』【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15520

ペルシア王によってユダヤ人は捕囚から解放され帰還したが、ユダヤ人の自治に委ねられた領土はエルサレムとその近辺のみで、かつての独立王国と比較にならない小ささで周辺異民族から容易に干渉を受けやすく、さらにユダヤ人は「産めよ増やせよ」で人口増加が著しいため、「南の王」は移民を奨励した。

バビロン捕囚から帰還したユダヤ人が、周辺異民族の妨害でエルサレム復興に苦心していた紀元前五世紀、総督ネヘミヤの調査により当時の「預言者」たちが周辺異民族に買収され偽の「預言」を発していた不祥事が判明した(ネヘミヤ6章)。以後、洗礼者の登場まで預言者が公然と活動することはなかった。

(注)別エントリー「試論:マラキから洗礼者までを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6696

ペトロは第一の手紙の冒頭で「離散して仮住まい」の人々に挨拶する。新約聖書で離散を意味するギリシア語は、ステファノ殉教後に信者たちがユダヤを追われて各地に追い散らされたことを意味する。主イエスのエルサレム滅亡の予告に従い信者の多くはユダヤへ戻らず各地で「からし種」の役割を果たした。

(注)別エントリー「試論:聖パウロの職業を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5146

(注)別エントリー「試論:テモテの割礼を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5097

一ペトロ1章1節は、「離散」つまりステファノ殉教後の大迫害で散って行った(使徒言行録8章1節)エルサレム教会の信者の避難先としてアジア州を挙げる。主の御降誕の約四十年前カエサルは、ユダヤ人が固有の慣習を保持しながら不利なく市民生活を送れる権利を、エフェソ等の諸都市で保障していた。

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

(注)別エントリー「試論:初代教会と箴言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5756

主の御降誕の四十数年前カエサルはエジプト遠征で政敵ポンペイウスの勢力を打倒したが、かつてポンペイウスが聖所に侵入したことを恨んでいたユダヤ人の多くはカエサルに協力した。カエサルはユダヤ人に、エフェソを含む諸都市で安息日等の慣習を堅持したまま不利なく市民生活を送れる権利を確約した。

ローマの将軍ポンペイウスは神殿で大祭司しか入れぬ場所(レビ16章)に入り、ユダヤに衝撃が走った。ポンペイウスをカエサルが打倒し彼はユダヤ人に気前よく諸権利を与えたが、エジプトの女王を愛人としたことも含めて同胞から王様気取りだと疑われ、暗殺された。彼の死をユダヤ人は非常に悲しんだ。

紀元前63年ユダヤの内乱に介入して勝利したローマの将軍ポンペイウスは、エルサレムの神殿で大祭司しか入れない場所にまで入り、当時の異邦人には謎だったユダヤの神殿の実態が初めて知れ渡った。聖所に神像や神体の類は存在せず、机・純金の器・燭台・香料などがあった(出エジプト記25章以下)。

試論:御父が栄光を受けられる時を140文字以内で

主イエスはヨハネ13章31節で「神(=御父)は『人の子』(=御子)によって栄光をお受けになった」と仰せになった。どのような場合に御父は御子によって栄光をお受けになるのか、15章8節「あなたたちがわたしの弟子として豊かな実を結ぶならば、それによってわたしの父は栄光をお受けになる」。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888

試論:新しい天・地・エルサレムを140文字以内で

イザヤ65章17節以下では「新しい天・新しい地・新しいエルサレムの創造」が預言されるが、同書では42章以降、「主の僕(しもべ)」つまり救い主である、神の御独り子イエス・キリストに関する預言が続き、「新しい天・地・エルサレム」は救い主御自身の「復活の体」の創造と共に完成の時を見た。

(注)別エントリー「試論:『新しい天と新しい地』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15361

【追記】

主イエスは福音書で自身の御受難と御復活を随所で暗示されたが、御受難と御復活の間に御自分がどんな働きをなさるかについても、ヨハネ14章2節から3節で予告された。それはイザヤ65章17節以下の「新しい天・地・エルサレムの創造」預言の成就であり、御自身の復活の体の創造で完成の時を見た。

(注)別エントリー「主の御復活とともに創造された事柄とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15917

黙示録21章16節以下では新しいエルサレムの巨大性が啓示される。これは当然、ヨハネ14章2節以下「わたしの父の家には住む場所がたくさんある。もしなかったなら、あなたたちのための場所を準備しに行くとは言わない。あなたたちの場所を準備したらあなたたちの許に戻って来る」を反映している。

主イエスは御受難と御復活の間に「新しい天・地・エルサレムの創造」を準備され誕生させたが、イザヤ66章8節は「誰がこのようなことを見聞きしたであろうか。一つの国が一日で生まれ一つの民が一日で生まれることがあり得るだろうか」と預言する。「天の国は近づいた」の「天の国」とはこれだった。

古代のイスラエルでは「神」と「神の民」との関係がしばしば「花婿」と「花嫁」と表現された。しばしば「女王」にもたとえられる都が「花婿」キリストを歓呼と共に迎え入れながら、数日後に裏切り、夜中に急襲して捕らえ一日のうちに死に至らしめたその行状から、「大淫婦」と呼ばれるのは当然である。

(注)別エントリー「試論:『大淫婦』の正体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15895

黙示録18章7節「わたしはやもめではなく女王であり、決して悲しい目に遭わない」ルカ19章41節以下「イエスは都のために泣いて仰せになった、『もし今、お前が平和への道をわきまえていたならば。しかし今のお前は、それを理解していない。時が来て、敵がお前を包囲して四方から攻め寄せ〜』」。

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1699

主イエスの御降誕は「肉の体」つまり人間としての誕生だったが、この世に来られた究極の目的が「贖(あがな)い」である以上、「上げられ(十字架上で顕示され)た」後の死と御復活によって悪魔の罪と死の支配を終わらせ人類に永遠の命と「霊の体」を準備して目的を達成したことの方がより重要である。

(注)別エントリー「試論:真理と贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9081

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

二世紀初めにアンティオキアの聖イグナティウスが記したように初代の信者は、キリストの御復活すなわち「天上の体」(一コリント15章40節)の創造の記念に、週七日の中で祝うべき特別の日を土曜日(ユダヤ教の安息日)から、御復活があった「週の最初の日(安息日の翌日)」日曜日へと置き換えた。

(注)別エントリー「試論:『土曜と日曜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12677

(注)別エントリー「試論:『安息日と主日との違い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12017

試論:ヨハネ14章の「道」を140文字以内で

主が「わたしは道」(ヨハネ14章6節)と仰せになる場合、自身が御父へ通じる唯一無二の存在であると示唆するだけではなく、日本語の「人としての道から外れる」と同様に、誰もがそこを通って進んで行くべき人間としての道筋つまり御父である神の御前における模範(同13章15節)の意味をも含む。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7818

【追記】

主はヨハネ13章34節で「互いに愛し合いなさい」と「愛の掟」をお授けになったが、「わたしがあなたがたを愛したように」と付け加えられることによって、御自身を模範(全人類のあるべき姿)としてお示しになった。「言(ことば)」である主が「肉」つまり人間となられた意義の一つがここにあった。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

キリスト教の信仰に関して使徒言行録は、度々これを「道」と表現し(9章2節、18章25節、同26節、19章9節、同23節、22章4節、24章14節、同22節)、ヨハネ14章6節で主イエス御自身も御自分を「道」と表現され、御自分を通らなければ天の御父のもとには行けないと仰せになった。

箴言10章29節は「主の道は義人が頼みとするところであり悪人を滅亡へと導く」と説く。この場合の「道」とは、《主が掟や御教えによってお示しになっている誰もがそこを通って進んで行くべき道筋》つまり「主の規範・指針」を意味し、悪人の「滅亡」とは「永遠の罰」(マタイ25章46節)を指す。

(注)別エントリー「試論:『命に通じる門』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10525

日本語でも「人としての道から外れる」などと表現するように、主イエスが「わたしは道」と仰せになる際の「道」とは、誰もがそこを通って進んで行くべき人間としての道筋、つまり御父である神の御前における、人間としてのあるべき姿(人間としてのあり方や生き方の規範・模範)という意味合いである。

(注)別エントリー「試論:『キリスト教の信仰は道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6332

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは道」と仰せになり、「わたしを通らなければ、誰であれ御父には到達できない」と続けられた。パウロはエフェソ2章14節でユダヤ人と異邦人をこの点において隔てる壁はないと記し、ローマ10章12節でも「ユダヤ人とギリシア人の区別はない」と明言している。

主イエスの御前でユダヤ人と異邦人の「区別」が存在しないことはエフェソ2章14節以下、使徒言行録15章9節「わたしたちと彼らの間に何の差別もなさいません」、ローマ3章29節「神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもあります」、一コリント12章13節、ガラテヤ3章28節以下等。

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは道」と仰せになり、「わたしを通らなければ、誰であれ御父には到達できない」と続けられ、また御昇天前にマタイ28章19節で「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じられた。パウロもローマ10章12節で「ユダヤ人とギリシア人の区別はない」と説く。

主はマタイ11章27節で、全てのことは御父から御自分に任せられていると仰せになった。これは、既にダニエル7章13節以下で啓示された事柄であり、マタイ28章18節やルカ10章22節やヨハネ3章35節や同13章3節等、福音書では事ある毎に強調される「真理(ヨハネ14章6節)」である。

ヨハネ14章8節のフィリポの言葉「主よ、わたしたちに御父をお示しください」に対しコロサイ1章15節では「御子は、見えない神の姿」と表現した。「見えない神」とは御父であり「姿」とは《生き写し》というニュアンスをも含んでいる。ヘブライ1章3節は「神の本性の完全な具現」などと表現した。

主イエスはヨハネ10章30節「わたしと御父とは一つ」38節「わたしは御父の内にあり御父はわたしの内におられる」と教えられ14章でも繰り返され(10節、11節、21節)16章15節「御父の持っているものは全てわたしの持っているもの」で、御父と御自分との間に差異はないと仰せになった。

主はヨハネ10章30節で「わたしと父とは一つ」と仰せになった後、17章では弟子たちのために天を仰いで祈られたが、それは御父と御自分が「一つ」であるように、弟子たちもまた「一つ」となるためであった(11節、21節〜23節)。使徒言行録4章32節「信じた人々の群れは心も思いも一つ」。

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

試論:「わたしの声を聞く」を140文字以内で

主イエスはヨハネ14章6節で真理を自称され、1章1節は御子を「言(ことば)」つまり《人々の前に御姿を現され御自ら御教えをお話になる神》と記す。18章37節で主は「真理に属する者は皆、わたしの声を聞く」と仰せになった。福音書に収録された実際の主の仰せを軽視する人は主に属していない。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『御父と御子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7544

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『真理を行う者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16184

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

試論:箴言19章23節を140文字以内で

主イエスは「わたしは命である」と仰せになったが、申命記30章の通り「命」はあらゆる幸福の総称である。箴言19章23節は主を畏れることが人間を幸福に導くと説く。同8章13節は「主を畏れることは悪を憎むこと」とし、主を畏れる人と無縁な事柄を「傲慢、驕り、悪の道、暴言を吐く口」とする。

(注)別エントリー「試論:願いがかなえられる人を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14882

「鉄の杖」

詩編2編7節以下「主はわたしに対して仰せになった。『あなたはわたしの子である。今日わたしはあなたを生んだ。あなたはわたしに対して求めなさい。わたしは国々をあなたの相続財産とし、地の果てまでも、あなたの領土とする。あなたは国々を鉄の杖で打ち、陶工が器を砕くように砕くことだろう』」。

黙示録12章の女は5節で、諸国民を鉄の杖で治める男の子を産んだ。かつてモーセは神の杖を槌として用い岩を打ち砕いた。エレミヤ23章29節は御言葉を、岩を打ち砕く鉄槌に喩える。故に黙示録の鉄の杖も御言葉の象徴的表現で、男の子は「神の御言葉」主イエス・キリスト、女はその母マリアを指す。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:「わたしの主のお母さま」を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10221

黙示録は古代のヘブライの世界観に従い人間を「土の器」(2章27節)と表現し、さらにそれを踏まえ「諸国の民の上に立つ権威」(同節)を「鉄の杖」(同節、12章5節)に喩える。12章で「鉄の杖」は神の御独り子たる主イエスの王権を象徴し、最後までイエスに忠実だった人々は主の王権にも与る。

(注)別エントリー「試論:『女』とサタンの対立を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10314

黙示録20章やローマ5章は「悪に悪を返さない」ことを徹底して罪や悪と決別した人々を「バシレウオ(〔キリストとともに〕王となる)」という動詞で表すが、これはあくまで《義化の完成》を象徴する表現であり政治体制的な意味を含まず、彼らは「第二の死」を免れ「永遠の命」を得ると記されている。

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

エレミヤ18章の有名な「陶工と粘土」の話にある通り、「土の器」(二コリント4章7節、黙示録2章27節、哀歌4章2節、イザヤ45章9節)とは、人間〔の特に脆さと弱さ〕を表す表現である。古代のヘブライ人の世界観(創世記3章19節参照)では人間の肉体は土から取られて土に返る定めにある。

詩編31編でダビデは、さまざまな意味で衰えてきた自分の肉体を「壊れた器」(13節)と表現した。また二コリント4章7節でパウロは、人間の「外側」つまり「肉」の部分を、「土の器」と表現した。古代のヘブライ人の世界観では人間の肉体は土から取られて土に返る(創世記3章19節)定めである。

主の御言葉はエレミヤ23章29節の啓示では「岩を打ち砕く〔鉄〕槌」にたとえられた。出エジプト記では神の杖(4章20節)もまた、「槌」として岩を打ち砕く(同17章5節以下)。故に黙示録の「〔土の器を打ち砕く〕鉄の杖」(2章27節、12章5節)は、主の御言葉を象徴的に表す比喩である。

ヨブ19章2節で、自分を尋ねて来た友人たちに対しヨブは、彼らの言葉が自分を打ち砕くと答えた。エレミヤ23章29節で主は「わたしの言葉は岩を打ち砕く鉄槌のようだ」と仰せになった。黙示録2章27節の「土の器(=人間)を打ち砕く鉄の杖」とは実は「神の御言葉」の比喩の一つであると分かる。

エレミヤ23章29節「わたしの言葉は火のようではないか」を踏まえれば、ルカ12章49節「わたしは地上に火を投ずる」の「火」は「神の御言葉」を指す。エレミヤ23章29節「わたしの言葉は岩を打ち砕く鉄槌のようではないか」を踏まえれば、黙示録2章27節「鉄の杖」も「神の御言葉」を指す。

(注)別エントリー「試論:『御言葉は心を燃やす火』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11034

創世記3章15節で神は、サタンと決定的に対立する一人の女性が将来現れることを予告された。黙示録12章では、それは救い主の母となった女性のことだと啓示された。救い主は人々を罪や悪から救うために生まれるので、その母が存在の最初の瞬間から罪や悪とは完全に無縁であるべきなのは当然である。

(注)別エントリー「神のお告げ:受胎告知と無原罪の御宿り」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4835

黙示録12章17節〜18節「竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者(神の掟を守り、イエスの証しを守り通している者)たちと戦おうとして出て行った。竜は海辺の砂の上に立った」ローマ9章27節「たとえ、イスラエルの子孫の数が、海辺の砂のようであったとしても、残りの者が救われる」。

(注)別エントリー「試論:『女』と『残りの者たち』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10682

詩編49章8(7)節は神に対し人間が贖(あがな)いの業を行うことはできないと説く。それができるのは「人〔となられた神〕の子」だけであり、そのために主イエスは来られた(マタイ20章28節)。神は劣化できないため、神のままで人間の全てを担う必要があり、そのためにマリアが不可欠だった。

(注)別エントリー「試論:『神には劣化がない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8697

詩編49(48)編8(7)節は、神に対して人間が贖いの業を行うことはできないと記す。とはいえ神の御独り子が自ら人間となられて自分の「からだ」を「身代金」として贖いの業を行われた時の「からだ」は、マリアから受けたものだった。マリアは極めて特別な形でイエスの贖いの業に「参加」をした。

(注)別エントリー「試論:『イエスとマリアの関係』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7725

ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。

(注)別エントリー「試論:『贖(あがな)いの小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9650

ヨハネ19章は、ゴルゴタの主の十字架の傍らに聖母がおられたと記すが、聖母の内面がどのようであったかについては全く記述がない。しかしルカ2章35節はシメオンの預言として、「多くの人の心にある思い(34節の「逆らい」)があらわになるため、あなた自身も剣で心を刺しつらぬかれる」と記す。

(注)別エントリー「試論:『剣』と『言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7807

マルコ福音書は主の御降誕には触れないものの、6章3節で主イエスには母親がいたことを記し、10章45節では主の到来の目的の一つが「多くの人の身代金として自分の命を献(ささ)げる」つまり贖(あがな)いのためと記す。パウロもガラテヤ4章で母親の存在(4節)と贖い(5節)とに触れている。

ヨハネ1章14節は神の御独り子が「肉」となられたと記す。「肉」は創世記6章で人間を指す語だが道徳的な脆さのニュアンスも含む表現であり、それゆえ悪魔が誘惑を試みた。誘惑の後、天使たちがイエスに仕えたが天使は本来単なる人間には仕えない。主イエスは神のままで人間としての全てを担われた。

古代のヘブライ人は「肉」という言葉で、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけでなく、魂も含めた人間としての全体)」を表した。ヨハネ1章14節をこの観点で理解すれば、ニケア・コンスタンチノープル信条「おとめマリアよりからだを受け」の「からだ」は、人間としての全てを意味している。

一コリント15章は《地上で生きる体》と《永遠の命を得て復活し天の国で生きる体》を、「地上の体」と「天上の体」、「地上の命の体」と「霊の体」などと表現する。ガラテヤ5章は人間的な事柄を「肉」、神的な事柄を「霊」と表現し、コロサイ1章22節「肉の体」とは「人間としての体」の意である。

上記を踏まえればヨハネ14章27節「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える」際の方法を、コロサイ1章は「十字架の血によって」(20節)「御子の肉の体の死によって」(22節)と説く。主には人間として母親しか存在せず、「御子の肉の体」はマリア一人に由来する。

救い主を預言する際ダビデとエリサベトは「わたしの主」と呼ぶ。救い主には人間として母親しか存在せず、マリアは救い主を「わたしの肉の肉」(創世記2章23節)と呼んで誇ることもできたが、しかし母から人々への伝言は、「万事この人の言う通りにしてください」(ヨハネ2章5節)まずこれである。

(注)別エントリー「試論:『わたしの主』と母マリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8575

(注)別エントリー「試論:『恵みとへりくだり』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8781

試論:「アーメンである方」を140文字以内で

ヨハネ3章33節は主イエスを「真実(=真理である方)」と呼び、黙示録3章14節は主イエスを「アーメンである方」「誠実」「真実」等と呼ぶ。黙示録では19章11節の「白馬の騎手」が「誠実」「真実」と呼ばれ、同章13節は「神の御言葉」16節は「王の王、主の主」と、「白馬の騎手」を呼ぶ。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

【追記】

ヨハネ3章33節は「天から来られた方のあかしを受け入れる者は、その方が真理である方だと、確認したことになる」と記す。主イエスは同14章6節で「真理」を自称され黙示録3章14節は主イエスを「アーメンである方」と呼ぶが、ヘブライ語で「アーメン」「真理」は共に「信じる」に由来している。

(注)別エントリー「試論:『真理を行う者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16184

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

主イエスは使徒たちに重要な事柄を伝達なさる際、アーメンを二度、口にされた。日本語訳では「まことにまことに」「よくよく」等と表現されるが、ヘブライ語ではアーメンも「まこと」も「信じる」の派生語で、ヘブライ人にとって「信じる」とは裏表(嘘偽り)のない態度で向き合うことを意味していた。

主はヨハネ12章24節で「一粒の麦もし死なずば」の一節の前に、ギリシア語本文では二度「アーメン」と口にされた。通常この箇所は「まことにまことに」「よくよく」「はっきり」等と訳されるが、主はこうなさることで、そこが御教えの核心部分だと示された(31節及びコロサイ1章20節等参照)。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

「真理(ギリシア語本文でアレテイア)とは何か」(ヨハネ18章38節)の答えをマルコ12章32節は「神は唯一で他に神はない」ことがアレテイアとし、主はこれを「適切な答え」とされた(34節)。ヨハネ14章6節「わたしこそが道、真理、命」10章30節「わたしと父とは唯一のものである」。

(注)別エントリー「試論:『御父と御子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7544

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

(注)別エントリー「試論:ヨハネ14章6節の『道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9342

プロテスタントの文語訳聖書『改訳 新約聖書』(1917年)では、ヨハネ14章6節で「真理(まこと)」と平仮名を振る。詩編145編18節「主は、まことをもって呼び求める人々すべての近くにおられる」に対応するためだが、詩編のこの節の「まこと」とは、《真心(まごころ)》を意味している。

エレミヤ10章10節は「主は真理の神」と記すがこの章では、自分では言葉を話せない偶像の神々と違い、イスラエルの神である主は御自ら、御言葉を発せられて真正な御教えを御自分の民にお話しになられる(申命記5章22節以下)という事柄を要約する表現として、「真理〔の神〕」が用いられている。

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

エレミヤ10章10節は「主は真理の神、命の神、永遠を支配する王」と呼ぶ。ヨハネ福音書で主イエスが御自身に関連して「真理」「命」「永遠の命」等の表現を頻用されること自体、御自身の神性の表明である。イエスに敵意を抱く人々からすると神に対する冒瀆であり、石打ちの刑に相当する事柄だった。

イスラエルの神である主は御自分の民に対して御自ら御言葉を発せられて御教えをお話しになり(申命記5章22節以下)、それこそが自分で言葉を話せない偶像の神と最も異なるとして、主をエレミヤ10章10節は「真理の神」と呼ぶ。主イエスはピラトに御自分が何者か「真理」の表現で端的に示された。

試論:「第三の天」を140文字以内で

古代のヘブライ人は当然、父である主(イザヤ63章)のお住まいを天と呼び、神殿の聖所(詩編78編69節)をも「天」に喩えた。そこを本物の天の「写し(模型)」(ヘブライ9章24節)と見なしたからである。二コリント12章2節では、イザヤ65章で預言された「新しい天」を、第三の天と呼ぶ。

(注)別エントリー「試論:『もろもろの天を通過』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13750

(注)別エントリー「試論:二コリント12章『とげ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15342

【追記】

主イエスは福音書で自身の御受難と御復活を随所で暗示されたが、御受難と御復活の間に御自分がどんな働きをなさるかについても、ヨハネ14章2節から3節で予告された。それはイザヤ65章17節以下の「新しい天・地・エルサレムの創造」預言の成就であり、御自身の復活の体の創造で完成の時を見た。

(注)別エントリー「主の御復活とともに創造された事柄とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15917

黙示録21章16節以下では新しいエルサレムの巨大性が啓示される。これは当然、ヨハネ14章2節以下「わたしの父の家には住む場所がたくさんある。もしなかったなら、あなたたちのための場所を準備しに行くとは言わない。あなたたちの場所を準備したらあなたたちの許に戻って来る」を反映している。

(注)別エントリー「試論:『新しい天と新しい地』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15361

イザヤ65章17節以下は主が新しい「天、地、エルサレム」を、新しい「神の民」のために喜びをもって創造されると預言した。ヨハネ14章2節以下「わたしの御父の家には住む場所が豊富にある」「わたしは行って場所を用意し、戻って来てあなたたちを迎える」ガラテヤ4章26節「天のエルサレム」。

(注)別エントリー「試論:預言解釈の基本を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5092

ヨハネ14章2節〜3節「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたたちのために場所を用意して、あなたたちを迎える」二コリント5章1節「わたしたちは、神によって建物が備えられていることを知っています。人の手によるものではない、天に備えられている永遠の住みかです」。

一コリント15章でパウロは「地上の体」「天上の体」という表現を用いて、《人間が地上で生活していた際の、死によって朽ちていく肉体》と《その人の霊が神の許に帰還した後で、神によって天上で新しく与えられる、朽ちることのない体》について説明し、後者を「霊の体」(44節)等と表現している。

「主の変容」とは、一コリント15章でパウロが言及する

「天上の体」(40節)

を主イエスが実際に三人の使徒へお示しになった意義深い出来事で、パウロは「天上の体」を

「朽ちないもの」(42節)

「輝かしいもの」「力強いもの」(43節)

「霊の体」(44節)

「天に属する者」(47節)

等と呼ぶ。

(注)別エントリー「試論:『主の変容』『天上の体』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9237

主はヨハネ11章25節で御自身を復活と命だと称され、6章63節では命を与えるのは「〔神の〕霊」だと仰せになった。コヘレト12章7節は人間の死でその肉体は塵(土)に還るが、命を与えられたその霊は「与え主」である神の許へと還るとし、一コリント15章44節は「霊の体が復活する」と記す。

ヘブライ5章9節は「キリストが〔御受難を経験された後に〕完全な者になられた」と記す。神でもあり人間でもあるキリストは、神としては天地創造以前から既に当然だが完全な者である。人間としては御受難を経験された後「復活の体(=天上の体、霊の体)」すなわち人間としての完成形へと到達された。

(注)別エントリー「試論:人間の完成形(最終形態)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15868

(注)別エントリー「試論:神であり人であるキリストを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6725

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

試論:カインとアベルを140文字以内で

【問】神はえこひいきされましたか?【答】兄は適当な気持ちで自分の産物の中からありきたりのものを神に献げましたが、弟は真心を込めて選りすぐりのものを献げました。詩編18編の通り、神は無垢な者には無垢に向き合われ心の曲がった者には背を向けられますが、兄は弟だけではなく神も恨みました。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

【追記】

神からアベルの不在について質問を受けた際、最初カインは神に対し白(しら)を切った。カインはそれだけでなく「わたしは弟の番人でしょうか」と憎まれ口を続け、神に対する高慢や敵意すら隠さなかった。もし神を殺せるならそうしていたのではないかと思える毒々しさがカインの言葉には込もっている。

旧約聖書第二正典の知恵の書の10章では、人類の始祖アダムが一度は過ちを犯したが、そこから立ち直って救われ、嫉妬のためにカインは神から遠ざかり、弟を殺した後も不信仰のまま死に滅び去り、カインの不信仰が人類に蔓延した結果として洪水に至った世界から神に導かれノアが箱舟で救われたと記す。

(注)別エントリー「試論:神の子と人の娘の結婚??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14394

(注)別エントリー「神の子らは人の娘たちを【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8636

マタイ1章19節は主の養父ヨセフをディカイオス(正しい人、義人)というギリシア語で呼び、主は同23章35節で創世記4章のアベルを同じ語で呼ばれた。古代ギリシア語訳創世記6章9節とシラ44章17節とはノアを同じ語で表現し、アベル・ノア・ヨセフの三人が同じカテゴリーに属すると物語る。

(注)別エントリー「試論:聖ヨセフの模範を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7243

(注)別エントリー「試論:ノアとヨセフを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7129

(注)別エントリー「聖ヨセフ:ディカイオスを旧約聖書で考察」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1613

試論:エゼキエル書18章24節を140文字以内で

もしもその人が、過去には咎められるべき点が全くないと神なる主から評価されるほどの者だったとしても、その人が過去に無垢だったことを神に評価されたのを笠に着て、悪人の道へ深入りしていくのならば、その人が過去に無垢であったことなど主によって全く思い出されることはなくその人は死ぬだろう。

【追記】

エゼキエル18章21節「もしもその者が悪人だったとしても、これまでに犯した全ての過ちから離れ、わたしの掟をことごとく守り正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない」同23節「わたしが悪人の死を喜ぶだろうか。むしろ彼が悪の道から立ち帰って、生きることを喜ばないだろうか」。

(注)別エントリー「試論:悪人であっても生きる??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16615

(注)別エントリー「試論:『立ち帰って生きよ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16595

ローマ6章4節は洗礼の意義を「キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるため」と記しており、12節以下では「あなたたちの死ぬべき体を罪に支配させ欲望に従属してはならず、また体を不義のための道具として罪に従属してはならない」と戒める。

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは命である」と仰せになった。古代のヘブライ人にとって「命」はあらゆる幸福の総称(申命記30章参照)だが、使徒言行録5章20節や一ヨハネ1章1節は主イエスの御言葉つまり福音を「命の言葉」と呼び、フィリピ2章16節も命の言葉を指針とするよう勧める。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

(注)別エントリー「試論:『永遠の命の言葉を持つ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11244

試論:新しいエルサレムの巨大性を140文字以内で

黙示録21章16節以下では新しいエルサレムの巨大性が啓示される。これは当然、ヨハネ14章2節以下「わたしの父の家には住む場所がたくさんある。もしなかったなら、あなたたちのための場所を準備しに行くとは言わない。あなたたちの場所を準備したらあなたたちの許に戻って来る」を反映している。

(注)別エントリー「試論:『新しい天と新しい地』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15361

【追記】

主イエスは福音書で自身の御受難と御復活を随所で暗示されたが、御受難と御復活の間に御自分がどんな働きをなさるかについても、ヨハネ14章2節から3節で予告された。それはイザヤ65章17節以下の「新しい天・地・エルサレムの創造」預言の成就であり、御自身の復活の体の創造で完成の時を見た。

(注)別エントリー「主の御復活とともに創造された事柄とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15917

試論:黙示録2章16節の「剣」を140文字以内で

古代のイスラエル人は《鋭く人間に迫り心に刺さる言葉〔の力〕》を「剣」にたとえた(詩編55編22(21)節等)。この比喩を踏まえ、主イエスも「剣をもたらすために来た」(マタイ10章34節)と仰せになり、ルカ2章35節でも母マリアにシメオンが、この比喩を用いて御受難について預言した。

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

【追記】

主はマタイ10章34節で自分は剣をもたらすために来たと仰せになったが、剣は詩編55編22(21)節では「鋭く人間に迫り心に突き刺さる言葉」の比喩である。57編5(4)節や59編8(7)節も同様の比喩を用い、エフェソ6章17節では神の御言葉それ自体を「〔聖〕霊の剣」にたとえている。

(注)別エントリー「試論:『御言葉は剣(つるぎ)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6245

主はマタイ10章34節で、自分は「剣(つるぎ)」を投ずるために来たと仰せになった。剣とは分断(ルカ12章51節)を行う象徴で、この「分断」の究極の意味はマタイ25章32節以下で説明されている。剣を用いた争い事を主が奨励されたわけではないことは同26章52節の御言葉から当然である。

古代のヘブライ人は《鋭く人間に迫り心に突き刺さる言葉》を「剣」にたとえた(ルカ2章35節等)。ならば当然、黙示録1章7節「彼を突き刺した者ども」は、実際には、「彼に激越な言葉を浴びせ情け容赦ない悪口で攻撃した者ども」を意味する。同節「地」はエゼキエル7章2節「地」とは同様である。

黙示録1章16節に「口から出る鋭い剣」という記述がある。一世紀後半のユダヤ人キリスト教徒は即座にイザヤ49章2節の類似の記述を連想し、「剣」が「言葉」(イザヤ50章4節)の比喩であると思い至ったはずである。安息日ごとに会堂で、必ずいずれかの預言書が朗読されることが定められていた。

(注)別エントリー「試論:イザヤの預言と主の御受難を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6322

イザヤ49章2節はイエス・キリストを彷彿とさせる「主の僕(しもべ)」の姿に関し、「わたしの口を鋭い剣として」と預言し、50章4節ではさらに、「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え言葉を呼び覚ましてくださる」と続け、この「主の僕」が語る言葉を「鋭い剣」にたとえて預言をしている。

主は「火」「剣」を人々にもたらすと仰せになったが、両者とも御言葉の比喩である。御言葉は心を燃やし(ルカ24章32節)心に刺さる(詩編55編22(21)節等参照。エフェソ6章17節)。黙示録も1章16節等で御言葉を剣に喩え11章5節では御言葉を火に喩えた(エレミヤ5章14節参照)。

ルカ2章32節でシメオンは幼子を「異邦人を照らす啓示の光」と呼び、この幼子こそイザヤ49章6節で預言された「主の僕(しもべ)」だと示唆した。さらに続けて「反対を受けるしるし」(ルカ2章34節)という表現で、この幼子がイザヤ50章6節の受難を経験することをも、母親のマリアに伝えた。

試論:黙示録11章2節を140文字以内で

黙示録11章2節は「異邦人に与えられた、神殿の外の庭」に言及する。これは紀元七〇年に滅亡したエルサレム神殿に特有の領域であり、従って黙示録の啓示が与えられたのはエルサレム神殿がまだ存在していた紀元七〇年以前ということになる。1章1節は「すぐにも起こるはずのこと」と緊急を強調する。

(注)別エントリー「試論:『大淫婦』の正体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15895

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

【追記】

黙示録22章12節は「わたしはすぐに来る」と記す。この「来る」とはどのような意味合いかを同6章17節は「神と小羊の怒りの大いなる日が来た」と説く。ルカ17章22節「人の子の日」やマタイ10章23節「人の子は来る」も同じで、同24章33節の通り人々は悲惨な諸事件から主の来臨を悟る。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888

主はマタイ10章7節で「天の国が近づいた」と告げるよう仰せになったが、それと別に23節で「人の子」が来る日をほのめかされた。これはルカ17章22節「人の子の日」や黙示録6章17節「神と小羊の怒りの大いなる日」を指し、マタイ24章33節の通り、人々は悲惨な諸事件から主の来臨を悟る。

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

主はルカ17章20節で「神の国は見える形では来ない」、22節で「人の子の日を弟子たちが見ることはない」と仰せになったが、アモス5章18節は「主の日を待ち望む者は災いだ。主の日は闇であって光ではない」と預言しており、「神の国の到来」と「主の日」とを混同すべきではないと、理解できる。

主はルカ17章30節で「人の子が現れる日」に言及された。これは黙示録6章17節「神と小羊の怒りの大いなる日」と同じで「神」は御父である神、「人の子」「小羊」は主イエス・キリストである。「はげ鷹」ローマ帝国は繁栄の都エルサレムと神殿を、神の介在を疑い得ないほどに跡形もなく滅ぼした。

主はルカ17章34節で「一人は連れて行かれ、もう一人は残される」21章24節で「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と仰せになった。紀元七〇年のエルサレム滅亡の際、ユダヤ人はローマ市民権の有無によって運命が大きく分かれ、奴隷にされた者たちはローマ帝国の各地へと売られて行った。

申命記28章49節でモーセは、将来イスラエルの民を滅ぼす国民の象徴となる動物を預言した。ルカ17章37節のギリシア語本文も、古代のギリシア語訳申命記と同じ単語を用いている。それはローマの国章と同じ動物で、ヨハネ11章48節で「ローマ人」という表現が登場する、根拠の一つでもあった。

主はマタイ5章18節で、全てのことが実現して天地が消え失せるまではモーセの律法も消え失せないと仰せになり、ルカ21章22節ではエルサレム滅亡で預言が全て実現すると予告され、紀元七〇年にそれは成就した。詩編78編69節の通りヘブライ人はエルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。

(注)別エントリー「試論:ルカ19章41節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5814

ルカ21章22節には「書かれていること」という言い回しが用いられているが、これはヨシュア記1章8節と同様に、「預言された事柄」「神から啓示された内容」などを意味する表現である。古代においては「書く(書いて記録に残しておく)」という行為それ自体が、非常に重要な意味を持つものだった。

主はマタイ5章18節で、全てのことが実現し天地が消え失せるまで律法の時代が続くことを仰せになった。ルカ21章22節では、エルサレム滅亡(20節)の日を「書かれていることが完全に実現する報復の日」と仰せになり、エルサレムと神殿の滅亡(紀元七〇年)で律法の時代が終わると宣言なさった。

「天地が消え去る」の「天」とは、神がお住まいになる場所と見なされたエルサレム神殿とりわけその聖所を指し、二ペトロ3章はその滅亡が近いことを説く。「地」はエゼキエル7章2節同様、イスラエルの地を指す。紀元七〇年にエルサレムと神殿は滅亡しユダヤ(イスラエル人の国家)も同じく消滅した。

二ペトロ3章10節は「主の日」において「天は激しい音を立てながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に熔解し尽くす」と予告した。数年後の紀元七〇年、神が住まわれると見なされて、「天」と同一視されていたエルサレムの神殿は、都の滅亡の際ローマ帝国軍によって火を放たれ、大音響と共に焼け滅びた。

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

ルカ21章22節において、主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると明言されており、それは紀元七〇年に現実のこととなった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代や近未来の世界情勢に関して旧約聖書の預言から考える行為は、不毛である。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

ダニエル書9章では神殿とエルサレムの復興を強く願うダニエルの祈りに応えて、都と神殿の再建さらには救い主の到来までも約束されたが、救い主が不当に殺された後、モーセの律法を蹂躙する集団が神殿の聖所を占拠し、そして次に来る指導者の民が、都と神殿を無法集団もろとも、滅ぼし尽くして終わる。

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

主はルカ21章23節でエルサレム滅亡とその前後のユダヤの苦難を予告されたが、『改訳 新約聖書』(1917年)では「大なる艱難」と日本語訳する。一世紀後半のユダヤの歴史家ヨセフスの記述通り、紀元六六年の大反乱の勃発から七三年のマサダ陥落までの七年間に、ユダヤは惨劇の連続を経験した。

ルカ17章34節から35節で主は「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」と繰り返されたが、では一体どこに「連れて行かれ」るのかを、ルカ21章24節では「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と御説明された。これは大昔モーセがレビ記26章33節以下で預言していた話と同じである。

紀元七〇年のエルサレム滅亡時にローマ軍へ投降したユダヤ人のうち、使徒言行録22章のパウロのようにローマの市民権を持つ者はローマ法の保護下にあるため留め置かれたが、そうでない者は妻子と共に奴隷とされて売り飛ばされた。こうして「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」は現実となった。

(注)別エントリー「試論:『滅びを避けるには』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5749

試論:ヨハネ13章16節の意味を140文字以内で

主イエスはヨハネ13章16節で「僕(しもべ)は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない」と仰せになった。主はこれによってルカ6章40節(弟子は師にまさるものではないが、漁師が網の手入れをするように日頃から入念な準備を怠らなければ師のようになれる)を思い起こさせた。

【追記】

主イエスはルカ6章40節でどうすれば弟子は師のようになれるか教えられた。ギリシア語本文の動詞はマルコ1章19節「〔網の〕手入れをする」と同じで「破れがないか全体を確認し、あれば修繕し、付着物を念入りに除去し、十分に洗い、現場で使い物になる完全な状態まで仕上げる」という意味である。

主はルカ6章40節で「弟子は先生より優れた者でないにせよ、普段から十分に心の準備を整えていれば、その先生のようになれる」と仰せになった。この箇所は内容的には36節の「あなたたちの天の御父が憐れみ深い方であられるように、あなたたちもまた、憐れみ深い者になりなさい」に結び付いている。

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

(注)別エントリー「試論:『いけにえ』と憐れみを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8356

マタイ5章9節「平和を実現する人は幸い。その人は神の子と呼ばれる」ルカ6章35節「敵であっても尊重し、善を行い、何も当てにせずに貸しなさい。そうすればいと高き方である天の御父から大きな報いがあり、あなたはその方の子となる。いと高き方は恩知らずや悪人にとっても善い方だからである」。

(注)別エントリー「試論:『憐れみ深い人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10347

(注)別エントリー「試論:『憐れみ深い人、ヨセフ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6057

試論:救い主と「履物」を140文字以内で

洗礼者は主イエスを「自分はその方の履物のひもを解く値打ちもない」と言い続けた(使徒言行録13章25節)が、「いかに美しいか、山々を行き巡り福音を伝える者の足は。彼は平和と恵みの福音と救いを告げ、あなたの神は王となられたとシオンに宣言する」(イザヤ52章7節)初めの方だからである。

【追記】

ルツ4章7節によれば、古代イスラエルでは親族たちの責務の代行や委譲に際して、自分の履物を脱ぐ慣習があった。主イエスは多くの人の贖(あがな)い、つまり身代金(代価)となるためこの世に来られた(マタイ20章28節)。洗礼者はこのことを、「履物」「神の小羊」「花婿」等の表現で示唆した。

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7479

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7514

(注)別エントリー「試論:世の罪を取り除く神の小羊を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6140

(注)別エントリー「試論:『花婿』って誰?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7265

(注)別エントリー「試論:『主イエスこそ真の花婿』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7379

ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。

ヨハネ1章14節は「神の御言葉(=主イエス)は肉(=人)となられ、わたしたちの間に宿られた(=住まわれた)」と記す。マタイ20章28節では主御自身が「仕えられるためではなく仕えるため」「多くの人の身代金(=あがない)として自分の命を献(ささ)げるために来た」と仰せになられている。

古代のヘブライ人は「肉」という言葉で、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけでなく、魂も含めた人間としての全体)」を表した。ヨハネ1章14節をこの観点で理解すれば、ニケア・コンスタンチノープル信条「おとめマリアよりからだを受け」の「からだ」は、人間としての全てを意味している。

ヨハネ19章は、ゴルゴタの主の十字架の傍らに聖母がおられたと記すが、聖母の内面がどのようであったかについては全く記述がない。しかしルカ2章35節はシメオンの預言として、「多くの人の心にある思い(34節の「逆らい」)があらわになるため、あなた自身も剣で心を刺しつらぬかれる」と記す。

(注)別エントリー「試論:『剣』と『言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7807

主はヨハネ14章27節で「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と仰せになった。ではどうやって主は御自分の平和をお与えになったのか、パウロがコロサイ1章20節で「その十字架の血によって」と答えを記した。

詩編49(48)編8(7)節は、神に対して人間が贖いの業を行うことはできないと記す。とはいえ神の御独り子が自ら人間となられて自分の「からだ」を「身代金」として贖いの業を行われた時の「からだ」は、マリアから受けたものだった。マリアは極めて特別な形でイエスの贖いの業に「参加」をした。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7795

試論:「白い小石」を140文字以内で

使徒言行録1章はマティアが使徒に選ばれる際に「くじ」が用いられたことを記すが、「くじ」と恐らく関係しているであろう事物が黙示録2章に登場する。17節「勝利を得る者には白い小石を与えよう」の白い小石は「神の御心に適って選ばれた」ことを象徴しており、マティアの選出とも無関係ではない。

【追記】

使徒言行録1章ではユダが欠けた後を補う使徒を選ぶ際、くじが用いられたと記される。モーセの律法ではレビ16章の贖罪日の雄山羊の箇所や民数記の「嗣業」関連で登場するなど、旧約聖書の随所に見られ実際の素材は小石や陶器片や木片が利用されたが、新約聖書ではマティアの選出以降は言及されない。

試論:「光あるうちに」を140文字以内で

イザヤ55章6節「主を見つけられる間に主を尋ね求め、主が近くにおられる間に主を呼び求めなさい」ヨハネ12章35節「暗闇に追いつかれぬよう光のある間に光の中を歩みなさい」。「もし永遠の意味を理解したなら人は自分を改めるためにどんな努力でもするでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「試論:悪人のままでもいいの??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16169

(注)別エントリー「試論:『光のある間に歩め』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15910

【追記】

ヨハネ3章19節「光(=救い主イエス・キリスト)が世に来たのに、人々は自分の行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだが、そのこと自体で既に裁かれている」マタイ7章21節「わたしに向かって『主よ、主よ』と呼ぶ者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入る」。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章4節『命の光』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7297

(注)別エントリー「試論:『わたしは世の光』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15561

(注)別エントリー「試論:『人間を照らす光』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7227

試論:聖書と「くじ」を140文字以内で

使徒言行録1章ではユダが欠けた後を補う使徒を選ぶ際、くじが用いられたと記される。モーセの律法ではレビ16章の贖罪日の雄山羊の箇所や民数記の「嗣業」関連で登場するなど、旧約聖書の随所に見られ実際の素材は小石や陶器片や木片が利用されたが、新約聖書ではマティアの選出以降は言及されない。

【追記】

使徒言行録1章はマティアが使徒に選ばれる際に「くじ」が用いられたことを記すが、「くじ」と恐らく関係しているであろう事物が黙示録2章に登場する。17節「勝利を得る者には白い小石を与えよう」の白い小石は「神の御心に適って選ばれた」ことを象徴しており、マティアの選出とも無関係ではない。

試論:「互いに赦し合いなさい」を140文字以内で

ヨハネ15章12節「これがわたしの掟である。わたしがあなたたちを尊重したように互いに尊重し合いなさい」コロサイ3章13節「互い〔の欠点〕を我慢し合い、もしも相手に非難すべきことがあっても赦し合いなさい。主があなたたちを既に赦して下さったように、あなたたちも同じように赦しなさい」。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

【追記】

主イエスは「自分が他人にしてもらいたいことを自分から他人にしなさい」と《キリストの律法》を教えられたが、ヨハネ13章1節では《御自分の時》が来たと自覚された主が、弟子たちを尊重され、どこまでも尊重されたことが記される。《キリストの律法》とは尊重と敬意であると、主は御自ら示された。

主イエスは「自分が隣人からしてもらいたいことを自分から隣人にしなさい」を御自分の《律法》すなわち御教えの根幹とされ、弟子たちの足を洗われ隣人への敬意と尊重の重要性を教えられた。しかし御自身は次の晩が来る前に、尊重や敬意とは無縁の暴力や虐待や侮辱の裡にぼろ布のようにされて殺された。

弟子たちの足を洗うという行為を通じて、主イエスは隣人に敬意を払って尊重することこそ御自分の御教えの根幹であると教えられた。自分自身が他人から尊重され敬意を払われた経験がなければ敬意と尊重は理解できない。「互いを尊重するなら、それを見て皆はあなたたちがわたしの弟子であると認める」。

ガラテヤ5章では「聖霊の結ぶ実」として神の御独り子の母の内面に関連する《愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制》を説く。他方、コロサイ3章では「礼服」(マタイ22章)という比喩を踏まえ、「義人」ヨセフの「義」に関連する《憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛》を説く。

マタイ22章の「礼服」に関連して、ローマ13章14節で「主イエス・キリストを着る」ことをパウロは勧め、コロサイ3章10節でも「主の姿に倣う新しい人を着る」ことを勧める。「倣う=着る」べきものとして憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容そして愛を「着る」ことをコロサイ3章は勧めている。

(注)別エントリー「試論:『神の義』と詩編を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6798

主はマタイ6章33節で「まず神の国と神の義を求めよ」と仰せになった。古代のヘブライ人は神の義(正義)を実行する人となることを「正義を衣としてまとう(=身に着ける)」と比喩で表現した(詩編132編9節、ヨブ29章14節)。従ってマタイ22章の「礼服」とは正義(神の義)の比喩である。

マタイ22章は神の御前に立つためには「礼服」が不可欠と教える。詩編132編は9節で「正義を衣としてまとう」16節で「救いを衣としてまとう」と表現して「救い」すなわち神と共にある条件を、「正義」すなわち「神の義」(マタイ6章33節)とし、その具体例をコロサイ3章12節以下が教える。

(注)別エントリー「試論:マタイ22章『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6740

マタイ22章「礼服」に関連して、パウロはコロサイ3章で、キリストに結ばれていたいと望む人々が「着る」つまり身に着けるべき事柄に関してとりわけ10節以下で論じ、5節から9節では脱ぎ捨てるべきものも説く。身に着けるべきは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、そして愛だとパウロは説いた。

主はマタイ6章33節で「神の国と神の義を求めよ」と仰せになり、また同22章では神の国で神の御前に立つために不可欠な「神の義」を、「礼服」にたとえられた。この「礼服」すなわち「神の義」とは何であるかについて、パウロはコロサイ3章で、キリストの弟子が身に着けるべきものとして説明した。

黙示録16章15節は「わたしは盗人のように来る」に「衣を身に着けている人は幸い」と続け、マタイ22章「礼服」の比喩を再現する。黙示録が啓示する時代でも、福音書の主の仰せが本質的に重要と分かる。身に着けるべき衣とは、詩編132編9節によれば正義(=神の義。マタイ6章33節)を指す。

(注)別エントリー「試論:『人の行いに応じた報い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5743

(注)別エントリー「試論:『神の義とディカイオス』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8685

試論:悪人であっても生きる??を140文字以内で

エゼキエル18章21節「もしもその者が悪人だったとしても、これまでに犯した全ての過ちから離れ、わたしの掟をことごとく守り正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない」同23節「わたしが悪人の死を喜ぶだろうか。むしろ彼が悪の道から立ち帰って、生きることを喜ばないだろうか」。

【追記】

ローマ6章4節は洗礼の意義を「キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるため」と記しており、12節以下では「あなたたちの死ぬべき体を罪に支配させ欲望に従属してはならず、また体を不義のための道具として罪に従属してはならない」と戒める。

主はマタイ4章4節で、「人はパンだけで生きる者ではなく、主の口から出る全ての言葉によって生きる者である」と申命記8章3節の言葉で、悪魔の誘惑に返された。ヨハネ1章1節は、御父の独り子である御子イエス・キリストを「神の御言葉」と呼ぶ。福音書の主の仰せを抜きにした信仰などありえない。

(注)別エントリー「試論:『わたしは命である』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11586

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは命である」と仰せになった。古代のヘブライ人にとって「命」はあらゆる幸福の総称(申命記30章参照)だが、使徒言行録5章20節や一ヨハネ1章1節は主イエスの御言葉つまり福音を「命の言葉」と呼び、フィリピ2章16節も命の言葉を指針とするよう勧める。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

(注)別エントリー「試論:『永遠の命の言葉を持つ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11244

申命記30章15節には「わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く」とある。この章で「命」は、「祝福」(1節)「幸い」(5節)「恵み」「実り」「繁栄」「喜び」(9節)等の総称で、20節は「あなたの神、主を愛し、御声を聞き、付き従いなさい。それこそあなたの命である」と説く。

(注)別エントリー「試論:『永遠の命』の『命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16171

試論:「隣人愛とは尊重と敬意」を140文字以内で

主イエスは「自分が他人にしてもらいたいことを自分から他人にしなさい」と《キリストの律法》を教えられたが、ヨハネ13章1節では《御自分の時》が来たと自覚された主が、弟子たちを尊重され、どこまでも尊重されたことが記される。《キリストの律法》とは尊重と敬意であると、主は御自ら示された。

【追記】

主イエスは「自分が隣人からしてもらいたいことを自分から隣人にしなさい」を御自分の《律法》すなわち御教えの根幹とされ、弟子たちの足を洗われ隣人への敬意と尊重の重要性を教えられた。しかし御自身は次の晩が来る前に、尊重や敬意とは無縁の暴力や虐待や侮辱の裡にぼろ布のようにされて殺された。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

弟子たちの足を洗うという行為を通じて、主イエスは隣人に敬意を払って尊重することこそ御自分の御教えの根幹であると教えられた。自分自身が他人から尊重され敬意を払われた経験がなければ敬意と尊重は理解できない。「互いを尊重するなら、それを見て皆はあなたたちがわたしの弟子であると認める」。

試論:「立ち帰って生きよ」を140文字以内で

エゼキエル18章「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は仰せになる。彼が悪から立ち帰って生きることを喜ばないだろうか。お前たちが犯した全ての背きを投げ捨てて新しい心と霊を造り出せ。どうしてお前たちは死んでよいだろうか。お前たちは立ち帰って生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」。

【追記】

黙示録に登場する「第二の死」は主イエス・キリストから次のような宣告を受けることに等しい。「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ」(マタイ7章23節)または「お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」(ルカ13章27節)。

黙示録20章には「この火の池が第二の死である」(14節)「その名が命の書にない者は火の池に投げ込まれた」(15節)などとあるが、マタイ25章には「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ」(41節)「永遠の罰」(46節)と書かれている。

黙示録20章12節以下には、マタイ25章31節以下と同様に、「最後の審判」に関する記述が登場するが、そこでは全ての死者たちが各自の行いに応じて裁かれることが書かれており、「行いを伴わないならば、信仰はそれだけでは死んだものです」というヤコブ2章17節の記述とは完全に一致している。

知恵の書5章8節は「われわれは当然のように自分を自慢して隣人たちを小馬鹿にし、富を誇り、物質的な価値観以外の事柄に対しては忌み嫌って、少しも意味など感じることはなかったが、そのような生き方や富は本当に自分の役に立ったのだろうか? 富と高慢は自分を最後にどこへ導いたのか?」と記す。

エフェソ4章の後半では、「神にかたどって造られた新しい人」として生きるために、「怒ることはあっても罪を犯してはならない」「日が暮れるまで怒ったままではいけない」「悪い言葉を一切口にしない」「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどの全てを、一切の悪意とともに捨てる」等を勧めている。

イザヤ58章9節「もしもあなたが隣人を圧迫することをやめるなら、もしもあなたが隣人を侮ることをやめるなら、もしもあなたが隣人を言葉で傷つけることをやめるなら、あなたが主を呼ぶ時には必ず主は御答えになり、あなたが主に向かって叫ぶ時には必ず主は『わたしはここにいる』と御返事される」。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

試論:「高慢な者を敵とされる」を140文字以内で

箴言3章34節「神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みをお与えになる」は、ヤコブ4章6節と一ペトロ5章5節にも引用されるほど初代教会で重視され、「わたしは主のはしため」とへりくだった女性は神の独り子の母となり「わたしが悲しい目に遭うことはない」と思い上がった都は完全に滅亡した。

(注)別エントリー「試論:『大淫婦』の正体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15895

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

【追記】

二テモテ3章でパウロは「終わりの時」の人々の姿を記した。自分本位で金銭を愛し、嘘をつき、神を畏れず嘲り、両親に従わず、恩知らずで、他人を侮り、情け容赦なく、強情で、中傷し、節度がなく、残酷で、善を行わず、裏切り、軽率かつ高慢、信仰を装いつつ実際は快楽を愛し、事実上は棄教している。

(注)別エントリー「試論:『終わりの時』の人々の姿を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10858

「神は高慢な者を敵とする」と聖書は随所(箴言3章34節等)で教える。ただし高慢な人の破滅を準備するのは、実は高慢な人自身である。高慢な人は周囲を侮り、眼中にないかのように配慮もなく、高慢な人の態度を嫌った周囲の人々は高慢な人が窮地に陥っても援助や協力の手を差し延べようとはしない。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

詩編1編1節は幸いな者として「神の逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず」と歌い、「神は高慢な者を敵とされ、へりくだる者に恵みをお与えになる」(箴言3章34節、ヤコブ4章6節、一ペトロ5章5節)と同様に、高慢心は信仰と相容れないことを説く。

(注)別エントリー「試論:『恵みとへりくだり』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8781

古代のヘブライ人は「肉」という言葉で、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけでなく、魂も含めた人間としての全体)」を表した。ヨハネ1章14節をこの観点で理解すれば、ニケア・コンスタンチノープル信条「おとめマリアよりからだを受け」の「からだ」は、人間としての全てを意味している。

主イエスは神であり続けながら人間の肉体と魂を担い(ヨハネ1章14節)、割礼から神殿税まで人間の義務も全て担われた。両親に従う義務も当然担われた(ルカ2章51節、マタイ20章28節)。人へ模範を示されるため主は人となられたのだから、主が母親を軽視されたと考えることは道理に合わない。

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9949

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「予備的考察:聖母崇敬そして聖ヨセフ崇敬の起源とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1750

(注)別エントリー「試論:『イエスは全人類の模範』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5948

(注)別エントリー「試論:聖書と『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7649

(注)別エントリー「試論:『わたしたちの確信』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7711

(注)別エントリー「試論:『主に従う人の願い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7717

主イエス・キリストは、人間たちに模範(ヨハネ13章34節)を示されるために、神であり続けながら(ヘブライ13章8節)人間の肉体と魂を担われた(ヨハネ1章14節)以上は、神として教えられた掟(申命記5章16節)を人間として自ら忠実に実践された(ルカ2章51節、マタイ20章28節)。

試論:御父と御子イエスとの関係を140文字以内で

主イエスはヨハネ10章30節で「わたしと父とは一つ」と仰せになった。この仰せの意味を、同5章30節では「わたしは、自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである」同章19節では「子は父のなさることを見なければ自分からは何事もできない」等と教えられた。

【追記】

ヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」の意味を使徒言行録4章32節は「心も思いも一つ」「持ち物を自分だけのものと主張せず共有している」と説明する。従って、御父の持ち物は御子の持ち物でもあり逆もまた然りである。ヨハネ10章38節「わたしは父の内にあり、父はわたしの内におられる」。

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

主はヨハネ10章30節で「わたしと父とは一つ」と仰せになった後、17章では弟子たちのために天を仰いで祈られたが、それは御父と御自分が「一つ」であるように、弟子たちもまた「一つ」となるためであった(11節、21節〜23節)。使徒言行録4章32節「信じた人々の群れは心も思いも一つ」。

ニケア・コンスタンチノープル信条「父と一体」はヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」と38節に拠り、御父と御子の間には矛盾・対立・齟齬の類は一切ないことを表す。ギリシア神話では最高神ゼウスと父クロノス、クロノスと父ウーラノスの父子相剋が存在するが、キリスト教には全く存在しない。

主はマタイ11章27節で、全てのことは御父から御自分に任せられていると仰せになった。これは、既にダニエル7章13節以下で啓示された事柄であり、マタイ28章18節やルカ10章22節やヨハネ3章35節や同13章3節等、福音書では事ある毎に強調される「真理(ヨハネ14章6節)」である。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

《御父である神、主》と《御子である神、主イエス》とは、詩編110編1節では御父は「主」、御子は「わが主」でありマタイ22章44節で御父は「主」、御子はダビデの言う「わたしの主」である。ヨハネ1章1節では御父は「神」、御子は「言(ことば)」であり、「言は神であった」と記されている。

(注)別エントリー「試論:「わたしの主」は誰?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7536

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは道」と仰せになり、「わたしを通らなければ、誰であれ御父には到達できない」と続けられた。パウロはエフェソ2章14節でユダヤ人と異邦人をこの点において隔てる壁はないと記し、ローマ10章12節でも「ユダヤ人とギリシア人の区別はない」と明言している。

主イエスの御前でユダヤ人と異邦人の「区別」が存在しないことはエフェソ2章14節以下、使徒言行録15章9節「わたしたちと彼らの間に何の差別もなさいません」、ローマ3章29節「神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもあります」、一コリント12章13節、ガラテヤ3章28節以下等。

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは道」と仰せになり、「わたしを通らなければ、誰であれ御父には到達できない」と続けられ、また御昇天前にマタイ28章19節で「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じられた。パウロもローマ10章12節で「ユダヤ人とギリシア人の区別はない」と説く。

(注)別エントリー「試論:『イエスは全人類の模範』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5948

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7818

主が「わたしは道」(ヨハネ14章6節)と仰せになる場合、自身が御父へ通じる唯一無二の存在であると示唆するだけではなく、日本語の「人としての道から外れる」と同様に、誰もがそこを通って進んで行くべき人間としての道筋つまり御父である神の御前における模範(同13章15節)の意味をも含む。

試論:「異邦人にも命を与えた」を140文字以内で

使徒言行録11章18節は、ユダヤ人のキリスト信者たちが「神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えて下さった」と神を賛美したことを記す。申命記30章15節「わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く」。この章において「命」とは、祝福・幸い・恵み・実り・繁栄・喜び等の総称である。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『永遠の命』の『命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16171

【追記】

一ペトロ3章10節以下は「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して悪を言わず〜」と詩編34編13(12)節以下を引用する。申命記30章15節「わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く」。この章において「命」とは、祝福・幸い・恵み・実り・繁栄・喜び等の総称である。

試論:「常に用意していなさい」を140文字以内で

主はルカ12章40節で「常に用意(準備)していなさい」と仰せになり、何の「用意(準備)」かをパウロはテトス3章で、「すべての善業を行うこと」と「すべての人に優しく接すること」と説明した。「もし永遠とは何かを知ったならば人はどんな努力でもするでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「試論:『永遠の意味を理解する』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7496

【追記】

黙示録3章20節は有名な「わたしは戸口に立って叩いている」という仰せを記す。ヤコブ5章9節は「裁く方が戸口に立っておられます。裁きを受けることのないように、互いに不平を言うのをやめましょう」と教え、ルカ12章36節は「いつでも戸を開けられるように準備をしなさい」と主の仰せを記す。

(注)別エントリー「試論:マタイ25章の十人の乙女を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5994

ヨブと議論を始められるに当たり、主は「腰に帯を締めよ」(ヨブ38章3節)と仰せになったが、これは「心の準備はできているか?」「さあ、用意はいいか?」という意味の古代イスラエルの慣用句であり、主イエスもこの言葉を、ルカ12章35節で「ともし火をともしていなさい」の前に仰せになった。

(注)別エントリー「試論:聞くだけの人を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5294

(注)別エントリー「試論:砂の上の家を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5563

(注)別エントリー「試論:『主よ、主よ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5380

(注)別エントリー「試論:神から受けた掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5418

試論:「キリストは門」を140文字以内で

マタイ7章13節以下「あなたたちは狭い門から入りなさい」「命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか」ヨハネ10章9節「わたしは門である。わたしを通って入る者は、救われる」同14章6節「わたしは道・真理・命である。わたしを通らなければ誰であろうと父の許に行くことが、できない」。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

【追記】

ヨハネ10章9節「わたしは門」の主の仰せは、詩編118編19節以下「義の門よ開け。わたしは入り主に感謝する。これは主の門だ。主に従う者はここを入る」またマタイ7章7節「求めよ」「探せ」「たたけ」などとも対応し、マタイ6章33節では「神の国と神の義」を探し求めよ、とも主は説かれた。

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7818

(注)別エントリー「試論:『隅の親石』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6544

マタイ7章は「門」という比喩で、「神の国」に入るための条件「神の義」(6章33節)を表現した。これは詩編118編19節以下「義の門よ開け。この門は主の門だ。主に従う者はここから入る」とともに、イザヤ26章2節「門よ開け。信仰を守って神の義に従う民が入れるように」とも関連している。

(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8105

主はマタイ7章26節で「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は、砂の上に家を建てる人に似ている」と教えられた。22章14節「招かれる者は多いが選ばれる者は少ない」とは、「わたしの教えを耳にしたことのある者は多いが、それを真摯に受け止めて日々実践している者は少ない」という意味である。

(注)別エントリー「試論:ローマ3章『信仰と律法』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8650

試論:「命を愛する」?を140文字以内で

一ペトロ3章10節以下は「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して悪を言わず〜」と詩編34編13(12)節以下を引用する。申命記30章15節「わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く」。この章において「命」とは、祝福・幸い・恵み・実り・繁栄・喜び等の総称である。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『永遠の命』の『命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16171

試論:「キリストの律法」の制定を140文字以内で

【問】主イエスは「自分が他人からしてもらいたいことはなんでも、あなたから他人にしなさい」を御自分の《律法》とされましたが、なぜですか?【答】主は「最後の晩餐」の折に《隣人愛》の掟を授けられましたが、弟子たちが「今更ですが、愛とは一体、何ですか」などと言い出さぬようにするためです。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

(注)別エントリー「試論:ローマ13章『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16049

試論:「白い衣」と「裁き」を140文字以内で

ルカ18章7節「神が昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わず、いつまでも彼らを放置されることが、ありえようか」黙示録6章10節以下「『真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者たちにわたしたちの血の報復をなさらないのですか』。彼らには白い衣が与えられた」。

(注)別エントリー「試論:やもめと裁判官を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12499

試論:ヨハネ10章「一つ」を140文字以内で

ヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」の意味を使徒言行録4章32節は「心も思いも一つ」「持ち物を自分だけのものと主張せず共有している」と説明する。従って、御父の持ち物は御子の持ち物でもあり逆もまた然りである。ヨハネ10章38節「わたしは父の内にあり、父はわたしの内におられる」。

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

【追記】

主はヨハネ10章30節で「わたしと父とは一つ」と仰せになった後、17章では弟子たちのために天を仰いで祈られたが、それは御父と御自分が「一つ」であるように、弟子たちもまた「一つ」となるためであった(11節、21節〜23節)。使徒言行録4章32節「信じた人々の群れは心も思いも一つ」。

ニケア・コンスタンチノープル信条「父と一体」はヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」と38節に拠り、御父と御子の間には矛盾・対立・齟齬の類は一切ないことを表す。ギリシア神話では最高神ゼウスと父クロノス、クロノスと父ウーラノスの父子相剋が存在するが、キリスト教には全く存在しない。

主はマタイ11章27節で、全てのことは御父から御自分に任せられていると仰せになった。これは、既にダニエル7章13節以下で啓示された事柄であり、マタイ28章18節やルカ10章22節やヨハネ3章35節や同13章3節等、福音書では事ある毎に強調される「真理(ヨハネ14章6節)」である。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

《御父である神、主》と《御子である神、主イエス》とは、詩編110編1節では御父は「主」、御子は「わが主」でありマタイ22章44節で御父は「主」、御子はダビデの言う「わたしの主」である。ヨハネ1章1節では御父は「神」、御子は「言(ことば)」であり、「言は神であった」と記されている。

(注)別エントリー「試論:「わたしの主」は誰?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7536

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは道」と仰せになり、「わたしを通らなければ、誰であれ御父には到達できない」と続けられた。パウロはエフェソ2章14節でユダヤ人と異邦人をこの点において隔てる壁はないと記し、ローマ10章12節でも「ユダヤ人とギリシア人の区別はない」と明言している。

主イエスの御前でユダヤ人と異邦人の「区別」が存在しないことはエフェソ2章14節以下、使徒言行録15章9節「わたしたちと彼らの間に何の差別もなさいません」、ローマ3章29節「神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもあります」、一コリント12章13節、ガラテヤ3章28節以下等。

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは道」と仰せになり、「わたしを通らなければ、誰であれ御父には到達できない」と続けられ、また御昇天前にマタイ28章19節で「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じられた。パウロもローマ10章12節で「ユダヤ人とギリシア人の区別はない」と説く。

(注)別エントリー「試論:『イエスは全人類の模範』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5948

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7818

主が「わたしは道」(ヨハネ14章6節)と仰せになる場合、自身が御父へ通じる唯一無二の存在であると示唆するだけではなく、日本語の「人としての道から外れる」と同様に、誰もがそこを通って進んで行くべき人間としての道筋つまり御父である神の御前における模範(同13章15節)の意味をも含む。

黙示録7章17節「命の水の泉」

マタイ13章「種を蒔く人」のたとえでは「根」が堅実や持続の象徴として登場するが、エレミヤ17章7節以下には「主に信頼する人は、水のほとりに植えられて根を張った葉が青々とした木」などと記され、同13節では「イスラエルの希望である主」を「生ける水の源」と呼ぶ(ヨハネ4章14節参照)。

(注)別エントリー「試論:『わたしは命である』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11586

(注)別エントリー「試論:『永遠の命の言葉を持つ』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『命の木』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章4節『命の光』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『自分の十字架』って何?を140文字以内で」も参照のこと。
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主はヨハネ4章で御自分を「生きた水」の源にたとえられたが、これはエレミヤ17章13節とも符合しており、同章では主に信頼する人を水に根を張った木にたとえる(7節以下)。ヨブ29章19節も、同様の比喩を主の御教えに根ざした信仰の堅固さや持続性を表す際に用い、マタイ13章にも対応する。

モーセの律法(レビ記14章など)では清めの儀式に用いる流水を「生きた水」と表現していた(新共同訳は「新鮮な水」)。勢いの良い流水は、澱んで濁った水と違い、清めの儀式に相応しい新鮮な清い水であるが、ヨハネ7章38節で主は、人間を清いものとする聖霊の賜物を「生きた水」にたとえられた。

(注)別エントリー「試論:聖霊の働きの徴を140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ11章41節「あなたたちはただ器の中にある物だけを施しなさい。そうすれば〜」ヨハネ7章38節「わたしを信じる者は、〔旧約〕聖書に書かれている通り(詩編116編13節「救いの杯」イザヤ12章3節「救いの泉から水を汲む」等)、その人の内から生きた水が川となって流れ出るであろう」。

古代のヘブライ人は良かれ悪しかれ定めを受け入れることを「杯」(ルカ11章39節)の比喩で表した(22章42節等)。主が11章41節で、「杯」の「内側」と「施し」すなわち憐れみの業を関連付けた比喩を用いられる時、古代のヘブライ人は詩編116編「救いの杯」(13節、5節)を連想した。

確かに御受難の前に主はルカ22章42節で、「杯」という比喩を苦しみの定めという意味で用いられたが、古代のヘブライ人にとって「杯」は必ずしも苦難だけを指すものではなく、幸福の定めを指していることさえあった。詩編116編13節「救いの杯」16編5節「主こそわたしが杯に受ける分け前」。

主はルカ11章で「外側」「内側」という表現を用いられたが、同じ事柄をパウロは二コリント4章16節で「外なる人」「内なる人」と表現し、ガラテヤ5章では「肉」「霊」と表現して両者の違いを詳しく記す。ガラテヤ5章22節「霊の結ぶ実」は、ルカ11章41節「器の中にある物」を説明している。

詩編31編でダビデは、さまざまな意味で衰えてきた自分の肉体を「壊れた器」(13節)と表現した。また二コリント4章7節でパウロは、人間の「外側」つまり「肉」の部分を、「土の器」と表現した。古代のヘブライ人の世界観では人間の肉体は土から取られて土に返る(創世記3章19節)定めである。

主はヨハネ4章14節で「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」と仰せになった。箴言18章4節「人間は心の奥底にある思いをつい口に出して喋ってしまうが、知恵の源から湧き出る御言葉は命の水が溢れる大河のようだ」。

イザヤ11章9節は、「水」で満たすように「大地は主を知る知識で満たされる」と記す。しかし2節によれば「知恵」「識別」「主を知ること」等は全て「主の霊」すなわち聖霊の賜物である。つまり「水」は聖霊の賜物を象徴的(比喩的)に表現しており、12章3節は神なる主を「救いの泉」と表現する。

(注)別エントリー「試論:『聖霊の働きの識別』を140文字以内で」も参照のこと。
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民数記20章11節「モーセが杖で岩を二度撃つと、水が迸り出たので皆で飲んだ」ヨハネ19章34節「兵士が槍でイエスの脇腹を刺すと血と水が迸り出た」一コリント10章4節「モーセ一行は皆、共におられた神に由来する超自然的な岩から、神の水を飲みましたが、この岩こそキリストだったのです」。

主は山上の説教で「神の義に飢え渇く人は幸い。その人は満たされる」と仰せになった。その理由はヨハネ6章35節で説明される。「わたしは命のパンである。わたしの許に来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」同7章37節「渇く人は、わたしの許で飲みなさい」。

試論:「異邦人の方に行く」を140文字以内で

使徒言行録13章46節でパウロとバルナバは、「わたしたちは異邦人の方に行く」と宣言した。その地のユダヤ人たちの反対が強かったためだが、その後も決してユダヤ人への宣教を諦めた訳ではなく、16章ではテモテをユダヤ人宣教の同行者にするために割礼を彼に授けユダヤ人の資格を与えさえもした。

(注)別エントリー「試論:『使徒言行録とユダヤ人』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

異邦人が信者になる際に割礼は不要とパウロは考えていたが、母がユダヤ人であるテモテは単なる異邦人ではなく割礼さえ受ければ彼はユダヤ人の資格を満たした。パウロは評判の良い彼を同行者にしたかったが当時ユダヤ教の会堂で宣教するには彼は割礼を受けたユダヤ人である必要があり、彼はそうなった。

試論:「住む所がたくさんある」を140文字以内で

黙示録7章15節「彼らは神の玉座の御前にいて昼も夜も、その神殿で神に仕える。玉座に座っておられる方がこの者たちの上に幕屋を張られる」ヨハネ14章2節以下「わたしの父の家には住む所がたくさんある。わたしはそこに行って、あなたたちを迎える場所を準備し、そしてあなたたちとともにいる」。

(注)別エントリー「主の御復活とともに創造された事柄とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15917

試論:「真理と嘘偽り」を140文字以内で

【問】主イエスは真理(ヨハネ14章6節)を自称され、旧約聖書は神なる主を「まこと」と関連付けますが、どんな意味ですか?
【答】アダムとエバ、カイン、サウル(サムエル上15章)、ダビデ(サムエル下12章)等の人は罪を犯した後、白(しら)を切りましたが、神には通用しないという意味です。

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

(注)別エントリー「試論:『まことの神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16491

(注)別エントリー「試論:まこと(真、実、信、誠)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16274

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書の『信じる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16417

【追記】

イザヤ58章9節「もしもあなたが隣人を圧迫することをやめるなら、もしもあなたが隣人を侮ることをやめるなら、もしもあなたが隣人を言葉で傷つけることをやめるなら、あなたが主を呼ぶ時には必ず主は御答えになり、あなたが主に向かって叫ぶ時には必ず主は『わたしはここにいる』と御返事される」。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

試論:「使徒言行録とユダヤ人」を140文字以内で

ペルシアによりバビロン捕囚から解放され帰還した人々は、都と神殿の再建を許されたが、自治を許された領域は広くなく「産めよ増やせよ」に従えばすぐ手狭となった。ユダヤを支配した国々が移民を奨励した結果、ローマ時代には「帝国の主要都市でユダヤ人のいない町はない」と言われるくらいであった。

【追記】

マケドニアの大征服者アレクサンドロス大王の死後、武将たちによる領土の分割の結果、ユダヤはキレネやキプロス同様エジプトが本拠のプトレマイオス王朝に百数十年支配された。ダニエル書はこの王朝を「南の王」と呼んだ。この王朝はユダヤ人のエジプト(キレネやキプロスも含む)への移民を奨励した。

(注)別エントリー「試論:『ユダヤ人とキレネ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15734

(注)別エントリー「試論:エゼキエル戦争を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4921

(注)別エントリー「予備的考察:いわゆる『エゼキエル戦争』【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15520

ペルシア王によってユダヤ人は捕囚から解放され帰還したが、ユダヤ人の自治に委ねられた領土はエルサレムとその近辺のみで、かつての独立王国と比較にならない小ささで周辺異民族から容易に干渉を受けやすく、さらにユダヤ人は「産めよ増やせよ」で人口増加が著しいため、「南の王」は移民を奨励した。

バビロン捕囚から帰還したユダヤ人が、周辺異民族の妨害でエルサレム復興に苦心していた紀元前五世紀、総督ネヘミヤの調査により当時の「預言者」たちが周辺異民族に買収され偽の「預言」を発していた不祥事が判明した(ネヘミヤ6章)。以後、洗礼者の登場まで預言者が公然と活動することはなかった。

(注)別エントリー「試論:マラキから洗礼者までを140文字以内で」も参照のこと。
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ペトロは第一の手紙の冒頭で「離散して仮住まい」の人々に挨拶する。新約聖書で離散を意味するギリシア語は、ステファノ殉教後に信者たちがユダヤを追われて各地に追い散らされたことを意味する。主イエスのエルサレム滅亡の予告に従い信者の多くはユダヤへ戻らず各地で「からし種」の役割を果たした。

(注)別エントリー「試論:聖パウロの職業を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5146

(注)別エントリー「試論:テモテの割礼を140文字以内で」も参照のこと。
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一ペトロ1章1節は、「離散」つまりステファノ殉教後の大迫害で散って行った(使徒言行録8章1節)エルサレム教会の信者の避難先としてアジア州を挙げる。主の御降誕の約四十年前カエサルは、ユダヤ人が固有の慣習を保持しながら不利なく市民生活を送れる権利を、エフェソ等の諸都市で保障していた。

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:初代教会と箴言を140文字以内で」も参照のこと。
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主の御降誕の四十数年前カエサルはエジプト遠征で政敵ポンペイウスの勢力を打倒したが、かつてポンペイウスが聖所に侵入したことを恨んでいたユダヤ人の多くはカエサルに協力した。カエサルはユダヤ人に、エフェソを含む諸都市で安息日等の慣習を堅持したまま不利なく市民生活を送れる権利を確約した。

ローマの将軍ポンペイウスは神殿で大祭司しか入れぬ場所(レビ16章)に入り、ユダヤに衝撃が走った。ポンペイウスをカエサルが打倒し彼はユダヤ人に気前よく諸権利を与えたが、エジプトの女王を愛人としたことも含めて同胞から王様気取りだと疑われ、暗殺された。彼の死をユダヤ人は非常に悲しんだ。

紀元前63年ユダヤの内乱に介入して勝利したローマの将軍ポンペイウスは、エルサレムの神殿で大祭司しか入れない場所にまで入り、当時の異邦人には謎だったユダヤの神殿の実態が初めて知れ渡った。聖所に神像や神体の類は存在せず、机・純金の器・燭台・香料などがあった(出エジプト記25章以下)。

試論:「あらゆる霊的な祝福で」を140文字以内で

「神はキリストにおいて、わたしたちをあらゆる霊的な祝福で満たして下さった」とエフェソ1章3節は記す。当然これは聖霊降臨の結果だが、その三十年以上前に、聖霊によって神の御独り子を身籠った(ルカ1章35節)女性だけは、早くも「祝福」(同42節)や「恵み」(同28節)に満たされていた。

(注)別エントリー「試論:『聖寵充ち満てるマリア』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:マリアの賛歌とへりくだりを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:へりくだりと恵みを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5777

【追記】

ガラテヤ5章では「聖霊の結ぶ実」として神の御独り子の母の内面に関連する《愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制》を説く。他方、コロサイ3章では「礼服」(マタイ22章)という比喩を踏まえ、「義人」ヨセフの「義」に関連する《憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛》を説く。

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:マタイ22章『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「予備的考察:聖母崇敬そして聖ヨセフ崇敬の起源とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1750

(注)別エントリー「聖家族はどのような雰囲気の中で暮らしていたのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5246

ダビデは神からの霊感を受け詩編15編で、《神の家》で《神の同居家族》となる人々について、「親しき仲にも礼儀あり」という観点で言葉と行いの両面において、(無垢という意味で)完全な神の御目にかなった人々であると表現した。マリアとヨセフはそれに該当しなかったなどと、誰が言えるだろうか?

受胎告知の際マリアは「恵まれた方」と呼ばれたが、テトス2章11節以下では「全ての人に救いをもたらす神の恵みは、不信心と現世的欲望を捨て思慮深く正しく信心深く生きるよう教え、また偉大な神であり救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むよう教えます」と神の恵みに関し説明する。

ヨハネ1章17節は「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」と記すが、二ペトロ1章は神からの恵み(2節)の内容を5節以下で、信仰に始まり徳・知識・自制・忍耐・信心・兄弟愛・愛に至るとして、恵みが加わるほど「情欲に染まったこの世の退廃」(4節)や怠惰(8節)から遠くなると記す。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:真理(まこと)の反対は?を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

聖母は受胎告知の後も「主のはしため」(ルカ1章38節、48節)と自称するほど、へりくだりが第一の特徴であり、聖霊によって神の御独り子を宿される以上、《聖霊の結ぶ実》(ガラテヤ5章22節〜23節)である愛から節制に至る諸徳は、「おめでとう、恵まれた方」と呼ばれるまでに、備えていた。

神の霊つまり聖霊が人間に賜るものをガラテヤ5章は愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制と説く。主はマタイ6章33節で「神の義」を求めよと仰せになり、同22章でそれを「礼服」にたとえられる。コロサイ3章では、着るべきものとは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛と説く。

受胎告知の際、マリアは「恵まれた方」(新共同訳)と呼ばれたが、「恵まれた」とは《〔神からの〕とめどもない好意を得た》の意味で、古代ギリシア語訳箴言を参照すると、この比類のない《好意》は、彼女の「へりくだり」(箴言3章34節)と「善のみの追求」(同11章27節)に対する恵みである。

試論:「声を聞き分ける」?を140文字以内で

ヨハネ10章27節以下「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らをよく知っており彼らもわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える」同14章23節「わたしを愛している者はわたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され御父とわたしはその人のところに行き一緒に住むであろう」。

(注)別エントリー「試論:『御言葉を聞く』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】

ローマ10章17節以下「信仰は聞くことで、しかもキリストの御言葉を聞くことで始まる」「彼らはもちろん、聞いてはいた」マルコ4章23節以下「聞く耳のある者は聞け」「何を聞いているかに注意せよ。あなたたちは自分が他者を量る秤で神なる主から量り与えられ、それに加えてさらに与えられる」。

(注)別エントリー「試論:『話を聞くべき方は誰』?を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『話を聞くべきでない者』を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはヨハネ3章16節で「御父が独り子を世に与えられた理由は、独り子を信じる者が一人も滅びることなく永遠の命を得るため」と教えられ、ルカ10章25以下では永遠の命を受け継ぐために何をすべきかを質問した一人の律法学者に対して、具体的に答えられた。善きサマリア人の話がそれである。

(注)別エントリー「試論:『善きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
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試論:「人の子が以前いた場所」を140文字以内で

ヨハネ6章62節「人の子が以前いた場所に上(のぼ)るのを見るならば」同3章13節「天から降(くだ)って来た者、すなわち、人の子」同6章53節〜54節「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得るだろう」。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ6章『人の子』誰?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16478

【追記】

主イエスがヨハネ6章54節で「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得る」と仰せになった時、60節の通り多くのユダヤ人の弟子は拒絶反応を示した。モーセの律法は人肉食を当然認めず(レビ11章)、血を飲むことを認めない(同17章10節)。主は「肉」「血」を別に準備された。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ6章63節を140文字以内で」も参照のこと。
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試論:黙示録19章の白馬の騎手を140文字以内で

黙示録19章の白馬の騎手は「真実」(11節。ヨハネ3章33節参照)と呼ばれ、剣で戦われるが、この剣は口から放たれる(黙示録19章15節、同1章16節)。相手に鋭く迫り心に刺さる言葉をヘブライ人は剣に喩えた(詩編55編、ルカ2章35節)。マタイ10章34節「わたしは剣をもたらす」。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ3章の『真実』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16193

【追記】

ヨハネ3章33節は主イエスを「真実(=真理である方)」と呼び、黙示録3章14節は主イエスを「アーメンである方」「誠実」「真実」等と呼ぶ。黙示録では19章11節の「白馬の騎手」が「誠実」「真実」と呼ばれ、同章13節は「神の御言葉」16節は「王の王、主の主」と、「白馬の騎手」を呼ぶ。

(注)別エントリー「試論:『アーメン』と『まこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16228

イザヤ49章2節はイエス・キリストを彷彿とさせる「主の僕(しもべ)」の姿に関し、「わたしの口を鋭い剣として」と預言し、50章4節ではさらに、「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え言葉を呼び覚ましてくださる」と続け、この「主の僕」が語る言葉を「鋭い剣」にたとえて預言をしている。

(注)別エントリー「試論:イザヤの預言と主の御受難を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6322

黙示録1章16節に「口から出る鋭い剣」という記述がある。一世紀後半のユダヤ人キリスト教徒は即座にイザヤ49章2節の類似の記述を連想し、「剣」が「言葉」(イザヤ50章4節)の比喩であると思い至ったはずである。安息日ごとに会堂で、必ずいずれかの預言書が朗読されることが定められていた。

古代のイスラエル人は《鋭く人間に迫り心に刺さる言葉〔の力〕》を「剣」にたとえた(詩編55編22(21)節等)。この比喩を踏まえ、主イエスも「剣をもたらすために来た」(マタイ10章34節)と仰せになり、ルカ2章35節でも母マリアにシメオンが、この比喩を用いて御受難について預言した。

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

主はマタイ10章34節で自分は剣をもたらすために来たと仰せになったが、剣は詩編55編22(21)節では「鋭く人間に迫り心に突き刺さる言葉」の比喩である。57編5(4)節や59編8(7)節も同様の比喩を用い、エフェソ6章17節では神の御言葉それ自体を「〔聖〕霊の剣」にたとえている。

(注)別エントリー「試論:『御言葉は剣(つるぎ)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6245

主はマタイ10章34節で、自分は「剣(つるぎ)」を投ずるために来たと仰せになった。剣とは分断(ルカ12章51節)を行う象徴で、この「分断」の究極の意味はマタイ25章32節以下で説明されている。剣を用いた争い事を主が奨励されたわけではないことは同26章52節の御言葉から当然である。

古代のヘブライ人は《鋭く人間に迫り心に突き刺さる言葉》を「剣」にたとえた(ルカ2章35節等)。ならば当然、黙示録1章7節「彼を突き刺した者ども」は、実際には、「彼に激越な言葉を浴びせ情け容赦ない悪口で攻撃した者ども」を意味する。同節「地」はエゼキエル7章2節「地」とは同様である。

主は「火」「剣」を人々にもたらすと仰せになったが、両者とも御言葉の比喩である。御言葉は心を燃やし(ルカ24章32節)心に刺さる(詩編55編22(21)節等参照。エフェソ6章17節)。黙示録も1章16節等で御言葉を剣に喩え11章5節では御言葉を火に喩えた(エレミヤ5章14節参照)。

試論:「まことの神」を140文字以内で

主イエスはヨハネ14章6節で「真理」を自称されたが、プロテスタントの「改訳 新約聖書』(1917年)は「まこと」と平仮名を振り、旧約聖書で「まこと」と訳される語との関連を示唆する。嘘偽りや裏表がないこと、上っ面だけでなく内実を伴うこと、真心には真心で返されること等を意味している。

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:まこと(真、実、信、誠)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16274

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書の『信じる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16417

試論:ヨハネ6章60節を140文字以内で

主イエスがヨハネ6章54節で「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得る」と仰せになった時、60節の通り多くのユダヤ人の弟子は拒絶反応を示した。モーセの律法は人肉食を当然認めず(レビ11章)、血を飲むことを認めない(同17章10節)。主は「肉」「血」を別に準備された。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ6章63節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9907

試論:ヨハネ6章「人の子」誰?を140文字以内で

エゼキエルやダニエルが「人の子よ」と呼びかけられる時「人の子」は「人間(人類の一員)」という一般的な意味である。《人となられた神》が自称される時だけ「人の子」は神の称号としての意味を持つ。マタイ12章では「人の子」は主の人間としての側面を指し、「聖霊《神の霊》」の比較対象である。

(注)別エントリー「試論:『人となられても神は神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6877

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:神であり人であるキリストを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6725

(注)別エントリー「神の子らは人の娘たちを【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8636

【追記】

主はマタイ12章32節で、御自分のことを単に人間的な事柄で嘲る人の悪口(同11章19節「大食漢で大酒呑み、徴税人や罪人の仲間」)は許容範囲内だが、神の霊つまり聖霊によって悪霊を追い出した事実を「ベルゼブルによって悪霊を追い出した」と咎めることは絶対に許容されないと、仰せになった。

試論:「何が求められているか」を140文字以内で

ミカ6章8節「何が善であって、主が何をあなたたちに求めておられるかは、あなたたちには既に告げられている。それは神の義を行い、憐れみの業を愛し、へりくだり神と共に歩むこと」ホセア6章6節「わたしが求めるものは『いけにえ』ではなく憐れみであり、焼き尽くす献げ物ではなく神を知ること」。

(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6748

【追記】

ホセア6章6節は「わたしが求めるのは、憐れみであって『いけにえ』ではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」と記すが、これと関連して一ヨハネ2章3節は「知る」という表現の意味を《神の掟を守るという実体験を通して自分は神を知っているのだと自覚する》ことであると説明する。

(注)別エントリー「試論:『神を知ること』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5580

主はホセア6章6節「わたしが喜ぶのは憐れみであって『いけにえ』ではない」をマタイ福音書で二度(9章13節、12章7節)引用され、隣人への敬意を欠いた者による尊敬など、神には受け入れられぬと教えられた。22章で律法の最も重要な掟の第一を神への愛、第二を隣人愛とされたことと符合する。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

【問】一ペトロ2章9節「あなたたちは王の系統を引く祭司」の意味とは?【答】モーセの律法の祭司はいけにえや献げ物を神に献げますが、王であるキリストの弟子は一人一人がいけにえでなく憐れみの業(ホセア6章6節、ミカ6章8節)を神に献げる義務がある、という意味でキリストにおける祭司です。

(注)別エントリー「試論:『いけにえ』と憐れみを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8356

(注)別エントリー「試論:憐れみ深い人が幸いの理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14898

(注)別エントリー「試論:ホセア6章の『神を知る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15271

試論:黙示録11章8節のソドムを140文字以内で

黙示録11章8節では、17章で「大淫婦」「大バビロン」と呼ばれることになる「大きな都」を「ソドム」と呼ぶが、その理由は既にエゼキエル16章とりわけ49節に書かれている。「彼女とその娘たちは、高慢で、食物に飽きて安閑と暮らしていながら、貧しい者や乏しい者を助けようとはしなかった」。

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

【追記】

知恵の書5章8節は「われわれは当然のように自分を自慢して隣人たちを小馬鹿にし、富を誇り、物質的な価値観以外の事柄に対しては忌み嫌って、少しも意味など感じることはなかったが、そのような生き方や富は本当に自分の役に立ったのだろうか? 富と高慢は自分を最後にどこへ導いたのか?」と記す。

イザヤ58章9節「もしもあなたが隣人を圧迫することをやめるなら、もしもあなたが隣人を侮ることをやめるなら、もしもあなたが隣人を言葉で傷つけることをやめるなら、あなたが主を呼ぶ時には必ず主は御答えになり、あなたが主に向かって叫ぶ時には必ず主は『わたしはここにいる』と御返事される」。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

黙示録18章7節「わたしはやもめではなく女王であり、決して悲しい目に遭わない」ルカ19章41節以下「イエスは都のために泣いて仰せになった、『もし今、お前が平和への道をわきまえていたならば。しかし今のお前は、それを理解していない。時が来て、敵がお前を包囲して四方から攻め寄せ〜』」。

(注)別エントリー「試論:『花婿と大淫婦』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13533

(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1699

古代のイスラエルでは「神」と「神の民」との関係がしばしば「花婿」と「花嫁」と表現された。しばしば「女王」にもたとえられる都が「花婿」キリストを歓呼と共に迎え入れながら、数日後に裏切り、夜中に急襲して捕らえ一日のうちに死に至らしめたその行状から、「大淫婦」と呼ばれるのは当然である。

(注)別エントリー「試論:黙示録17章『十本の角』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9155

(注)別エントリー「試論:黙示録17章『第八の者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9038

古代のイスラエルは、神と神の民との関係をしばしば花婿と花嫁の関係にたとえた。洗礼者ヨハネは、イエスを「花婿」と呼んで自身は「花婿の介添人」と称した。主イエスを歓呼の裡に迎え入れながら数日で死に至らしめた都を、黙示録が「大淫婦」と呼んだ理由は、イエスこそ花婿に他ならないからである。

ヨハネの黙示録17章5節には「淫婦の母、地上のあらゆる憎むべきものの母である大バビロン」と書かれているが、ゼカリヤ書2章11節では、エルサレムの住民が「バビロンの娘」という表現で呼び掛けられている。当時のエルサレムの住民は、かつてバビロンに連行されて住み着いた人々の子孫であった。

試論:「器」何の比喩?を140文字以内で

使徒言行録9章15節では、ダマスコに住む弟子アナニアに対し、幻の中で、主イエスがサウロ(後のパウロ)のことを「わたしが選んだ器」と呼ばれている。聖書で「土の器」(二コリント4章7節、黙示録2章27節、哀歌4章2節、イザヤ45章9節)とは、人間〔の特に脆さと弱さ〕を表す表現である。

(注)別エントリー「『土の器』(つちのうつは)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14324

【追記】

エレミヤ18章の有名な「陶工と粘土」の話にある通り、「土の器」(二コリント4章7節、黙示録2章27節、哀歌4章2節、イザヤ45章9節)とは、人間〔の特に脆さと弱さ〕を表す表現である。古代のヘブライ人の世界観(創世記3章19節参照)では人間の肉体は土から取られて土に返る定めにある。

パウロはローマ9章で、神がその御怒りを示されて滅びる定めになっていた者たちを「怒りの器」(22節)、神が御自分の豊かな栄光をお与えになろうと準備されていた者たちを「憐れみの器」(23節)と表現し、人間を「器」と表現する古代のヘブライの世界観に基づいて、異邦人の召し出しを説明する。

詩編31編でダビデは、さまざまな意味で衰えてきた自分の肉体を「壊れた器」(13節)と表現した。また二コリント4章7節でパウロは、人間の「外側」つまり「肉」の部分を、「土の器」と表現した。古代のヘブライ人の世界観では人間の肉体は土から取られて土に返る(創世記3章19節)定めである。

ルカ11章41節「器の中にある物を施せ」の「器」とは「土の器」「陶器」の比喩と同様、人間を指す。「器の中にある物」は人間に吹き込まれた「命の息」(創世記2章7節)つまり「霊魂」を意味する。イザヤ58章10節のヘブライ語表現「霊魂を注ぐ」は、「心を配る」(新共同訳)ことを意味する。

(注)別エントリー「試論:『器の中にある物を施す』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11264

古代のヘブライ人は「〔困っている人に〕心を配る」(イザヤ58章10節)ことを表現する際には「霊魂を注ぐ」という言い回しを用いた。従ってルカ11章41節「器(=人間)の中にある物(=霊魂)を施せ」の意味は「〔揚げ足取りをいい加減に止めて〕隣人に心を配ることだけ心掛けなさい」である。

箴言15章4節「赦しを与える言葉は命の木」にある通り旧約の民は、他者に幸福や安堵を与える事柄を「命」と表現し、主なる神から命の息を吹き込まれた人間は他者に幸福や安堵を与えることができる、という信念を持っていた。故に主はルカ11章41節で他者に幸福や安堵だけを与えるよう命じられた。

(注)別エントリー「試論:『主にとって赦しも癒し』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6013

黙示録12章の女は5節で、諸国民を鉄の杖で治める男の子を産んだ。かつてモーセは神の杖を槌として用い岩を打ち砕いた。エレミヤ23章29節は御言葉を、岩を打ち砕く鉄槌に喩える。故に黙示録の鉄の杖も御言葉の象徴的表現で、男の子は「神の御言葉」主イエス・キリスト、女はその母マリアを指す。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

詩編2編7節以下「主はわたしに対して仰せになった。『あなたはわたしの子である。今日わたしはあなたを生んだ。あなたはわたしに対して求めなさい。わたしは国々をあなたの相続財産とし、地の果てまでも、あなたの領土とする。あなたは国々を鉄の杖で打ち、陶工が器を砕くように砕くことだろう』」。

黙示録は古代のヘブライの世界観に従い人間を「土の器」(2章27節)と表現し、さらにそれを踏まえ「諸国の民の上に立つ権威」(同節)を「鉄の杖」(同節、12章5節)に喩える。12章で「鉄の杖」は神の御独り子たる主イエスの王権を象徴し、最後までイエスに忠実だった人々は主の王権にも与る。

(注)別エントリー「試論:『女』とサタンの対立を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10314

(注)別エントリー「試論:『女』と『残りの者たち』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10682

黙示録20章やローマ5章は「悪に悪を返さない」ことを徹底して罪や悪と決別した人々を「バシレウオ(〔キリストとともに〕王となる)」という動詞で表すが、これはあくまで《義化の完成》を象徴する表現であり政治体制的な意味を含まず、彼らは「第二の死」を免れ「永遠の命」を得ると記されている。

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

主の御言葉はエレミヤ23章29節の啓示では「岩を打ち砕く〔鉄〕槌」にたとえられた。出エジプト記では神の杖(4章20節)もまた、「槌」として岩を打ち砕く(同17章5節以下)。故に黙示録の「〔土の器を打ち砕く〕鉄の杖」(2章27節、12章5節)は、主の御言葉を象徴的に表す比喩である。

ヨブ19章2節で、自分を訪ねて来た友人たちに対しヨブは、彼らの言葉が自分を打ち砕くと答えた。エレミヤ23章29節で主は「わたしの言葉は岩を打ち砕く鉄槌のようだ」と仰せになった。黙示録2章27節の「土の器(=人間)を打ち砕く鉄の杖」とは実は「神の御言葉」の比喩の一つであると分かる。

エレミヤ23章29節「わたしの言葉は火のようではないか」を踏まえれば、ルカ12章49節「わたしは地上に火を投ずる」の「火」は「神の御言葉」を指す。エレミヤ23章29節「わたしの言葉は岩を打ち砕く鉄槌のようではないか」を踏まえれば、黙示録2章27節「鉄の杖」も「神の御言葉」を指す。

(注)別エントリー「試論:『御言葉は心を燃やす火』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11034

試論:「わたしの羊を」を140文字以内で

主の逮捕時に使徒たちが主を見捨てて逃げたことはエルサレムやユダヤの人々には知られていた。使徒以外の弟子たちの中には「ペトロ筆頭に使徒たちは一体どの面(つら)下げて我々の前に出て来れるのか」と快く思っていなかった者もいたはずだが、御復活の主御自身がペトロと使徒たちをお選びになった。

【追記】

ヨハネ21章の「大漁の奇跡」はルカ5章で漁師たちが弟子となった場面の再現だった。シモン・ペトロとゼベダイの子たちは自分たちが主に呼ばれた日をいやでも思い出したはずである。土壇場で自分を見捨てて逃げた者たちを再び選ぶことは、「人間の論理」では絶対にあり得ないが、神はそれを行われた。

試論:「エチオピアの高官」を140文字以内で

使徒言行録8章で助祭フィリポによって洗礼を受けたエチオピアの高官はイザヤ書を朗読していたが、当時はユダヤ人かユダヤ教に改宗していた異邦人でなければ旧約聖書の預言書を読むことなどあり得なかった。シェバの女王がソロモン王を訪問した後、古代のイスラエルの宗教もエチオピアに伝わっていた。

【追記】

イザヤ56章3節以下では異邦人や宦官もイスラエルの神の救いに与る日が来ると預言した。申命記23章は男性器に欠陥のある者が「主の会衆」に加わることはできないと定めたがイザヤは条件の緩和を預言し、それを受け使徒言行録の時代までにエチオピア人の宦官もエルサレムでの礼拝を認められていた。

主イエスはルカ11章29節以下で、ヨナの説教に悔い改めたニネベの人々と、ソロモンの知恵を聞くためにエルサレムを訪れたシェバの女王を引き合いに出されたが、この仰せには当然「あなたたち今の時代のイスラエル人は、ニネベの人々やシェバの女王にまさるものなのか」のニュアンスも含まれている。

試論:「イエスを発見した養父」を140文字以内で

主イエスが十二歳の年の過越祭の折、帰路イエスを見失ったと気づいたマリアとヨセフは、三日間捜し回った後とうとう神殿で学者たちと討論されている少年イエスを見つけた。成人後のイエスの公生活の際に自分はいない方がよいとヨセフは予感していたが、自分の人生に間違いはなかったとこの時、悟った。

(注)別エントリー「試論:『三人家族の三番目』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14869

(注)別エントリー「予備的考察:聖母崇敬そして聖ヨセフ崇敬の起源とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1750

(注)別エントリー「聖家族はどのような雰囲気の中で暮らしていたのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5246

試論:「主によって教えられる」を140文字以内で

ヨハネ6章45節「預言者の書に『彼らは神によって、皆が教えられる』と書いてある」エレミヤ31章33節〜34節「わたしの律法を彼らの胸に授け、彼らの心にそれを記す」「その時、人々は隣人同士兄弟同士が『主を知れ』と言って教えることはない。彼らは皆、小さい者も大きい者もわたしを知る」。

【追記】

主イエスはマタイ7章12節で、「自分が他人からしてもらいたいことを、あなたたちから他人にしなさい。これこそ律法であり、預言者の教え」と御教えを要約された。エレミヤ31章33節は「わたしの律法を、彼らの心に記す」と預言する。キリストの律法は、モーセの律法に比べると、単純だが奥深い。

(注)別エントリー「試論:『キリスト教と十戒』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12564

主イエスはマタイ7章12節で「あなたが他の人からしてもらいと思うことは何であっても他の人にあなたの方から行いなさい。これこそ律法と預言者〔の教え〕である」と仰せになり、御自分の御教えの核心とされた。パウロはこれを「キリストの律法」(一コリント9章21節、ガラテヤ6章2節)と呼ぶ。

A.他人からしてもらいたいことを他人に行う(マタイ7章12節)。

B.他人からしてもらいたいことを他人に行わない。

C.他人からしてもらいたくないことを他人に行う。

D.他人からしてもらいたくないことを他人に行わない(トビト4章15節)。

「愛」はAとDであり「愛の反対」はBとCである。

主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちは、自分が他の人からしてほしいことを、自分から他の人にしなさい」と《愛の掟》を教えられた。従って「愛の反対」は「他の人からしてほしくないことをあえて他の人に行うこと」そして「他の人からしてほしいことをあえて他の人には行わないこと」からなる。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

レビ19章18節は有名な隣人愛の掟を教えるが、その対極の行為として17節は兄弟を心の中で憎むことを禁じる。ゼカリヤ7章10節は互いに災いを心の中で企むこと、8章17節は互いに心の中で悪を企むことを禁じ、相手の困った顔・悲しむ顔・苦しむ顔を見たいという悪意を抱いてはならぬと戒める。

ローマ13章10節でパウロは「愛とは隣人に対して悪事を行わないことです」と断言している。これを踏まえるなら、隣人に対して悪事を行おうと企むことこそが愛の反対に該当する行為ということになる。同9節は「姦淫するな、殺すな、盗むな、貪るな(他人の物の横取りを企むな)」等を列挙している。

主イエスは隣人愛の掟を、最も重要な掟の第二と呼ばれた。レビ19章14節と申命記27章18節は、耳や目の不自由な人や道に迷って困っている人を笑い者にするなと教える。レビ19章17節は、以前に迷惑をかけられたわけでもない相手に対し、理由のない悪意を抱いた状態で接してはならぬと教える。

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9949

レビ記19章には18節に有名な隣人愛の掟があるが、それに先立つ箇所には隣人愛に反する様々な行為を禁じる掟が列挙される。14節では、耳の不自由な人がいる前でその人が聴こえないのをいいことに悪口を言う行為と、目の不自由な人が歩いて行く方向に障害物を置いて邪魔をする行為とが禁じられる。

試論:「神を信じる」を140文字以内で

主イエスはマルコ12章28節以下で一人の律法学者との対話を通して、古代イスラエルにおいて最優先の掟とは「心・精神:思い・力を尽くして、あなたの神である唯一の主を愛さなければならない」だと再確認され、生半可な態度で神と向き合うことは「信じる」のうちには入らないことをお示しになった。

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

(注)別エントリー「試論:まこと(真、実、信、誠)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16274

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書の『信じる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16417

試論:ヨハネ福音書の「信じる」を140文字以内で

ヨハネ福音書は「永遠の命」「信じる」を多用する。ただし「何をすれば永遠の命を得られるか」の具体例はマタイ25章「最後の審判」とルカ10章「善きサマリア人の話」の箇所にあり、ルカ10章27節で主イエスは、「信じる」こととは「心・精神・力・思いを尽くし愛する」ことだとお教えになった。

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4544

(注)別エントリー「試論:永遠の命を得るためには?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16373

【追記】

人類の歴史上マリアとヨセフの二人以外の全ての人間はただ神に自分の身を守っていただくばかりだったが、マリアとヨセフの二人だけはむしろ自分たち自身こそが、具体的な日々の行動をもって神そのものであられる「自分たちの子」主イエスをお守りすることに、何年も何十年も日々、身も心も砕き続けた。

(注)別エントリー「試論:聖母マリアってどんな方?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5920

(注)別エントリー「試論:最後の審判とイエスの両親を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15086

(注)別エントリー「試論:マリアとヨセフに倣う事柄を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7012

(注)別エントリー「試論:『マリアとヨセフと聖書』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16295

(注)別エントリー「予備的考察:聖母崇敬そして聖ヨセフ崇敬の起源とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1750

試論:ステファノ殉教と「離散」を140文字以内で

ペトロは第一の手紙の冒頭で「離散して仮住まい」の人々に挨拶する。新約聖書で離散を意味するギリシア語は、ステファノ殉教後に信者たちがユダヤを追われて各地に追い散らされたことを意味する。主イエスのエルサレム滅亡の予告に従い信者の多くはユダヤへ戻らず各地で「からし種」の役割を果たした。

(注)別エントリー「試論:聖パウロの職業を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5146

(注)別エントリー「試論:テモテの割礼を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5097

【追記】

一ペトロ1章1節は、「離散」つまりステファノ殉教後の大迫害で散って行った(使徒言行録8章1節)エルサレム教会の信者の避難先としてアジア州を挙げる。主の御降誕の約四十年前カエサルは、ユダヤ人が固有の慣習を保持しながら不利なく市民生活を送れる権利を、エフェソ等の諸都市で保障していた。

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

(注)別エントリー「試論:初代教会と箴言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5756

主の御降誕の四十数年前カエサルはエジプト遠征で政敵ポンペイウスの勢力を打倒したが、かつてポンペイウスが聖所に侵入したことを恨んでいたユダヤ人の多くはカエサルに協力した。カエサルはユダヤ人に、エフェソを含む諸都市で安息日等の慣習を堅持したまま不利なく市民生活を送れる権利を確約した。

ローマの将軍ポンペイウスは神殿で大祭司しか入れぬ場所(レビ16章)に入り、ユダヤに衝撃が走った。ポンペイウスをカエサルが打倒し彼はユダヤ人に気前よく諸権利を与えたが、エジプトの女王を愛人としたことも含めて同胞から王様気取りだと疑われ、暗殺された。彼の死をユダヤ人は非常に悲しんだ。

紀元前63年ユダヤの内乱に介入して勝利したローマの将軍ポンペイウスは、エルサレムの神殿で大祭司しか入れない場所にまで入り、当時の異邦人には謎だったユダヤの神殿の実態が初めて知れ渡った。聖所に神像や神体の類は存在せず、机・純金の器・燭台・香料などがあった(出エジプト記25章以下)。

試論:「英訳聖書と意味の変遷」を140文字以内で

一テサロニケ4章17節やエフェソ2章2節は、「空中」と日本語訳されるギリシア語アエールを用いているが、本来この古代の言葉は「地上界」を象徴する元素を指し、アエールの英訳語エアーが現代人のイメージする「空中」を指すようになったのは有人気球の飛行実験が成功した18世紀後半以降である。

(注)別エントリー「試論:有人気球と『空中』の拡大を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10279

(注)別エントリー「試論:『携挙』はなぜ誕生したかを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14420

(注)別エントリー「試論:携挙がない理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4703

(注)別エントリー「ヘブライ語聖書は『空中』とは表現しない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4223

(注)別エントリー「『携挙』:ギリシア語聖書本文で徹底検証【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7753

(注)別エントリー「試論:『携挙』の否定を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6277

(注)別エントリー「試論:『一人は連れて行かれ〜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5819

試論:永遠の命を得るためには?を140文字以内で

主イエスはヨハネ3章16節で「御父が独り子を世に与えられた理由は、独り子を信じる者が一人も滅びることなく永遠の命を得るため」と教えられ、ルカ10章25以下では永遠の命を受け継ぐために何をすべきかを質問した一人の律法学者に対して、具体的に答えられた。善きサマリア人の話がそれである。

(注)別エントリー「試論:『善きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

【追記】

ルカ10章25節以下では、主イエスと一人の律法学者との対話を記し、「永遠の命」を受け継ぐために実行すべき事柄として「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい」とあり、主は「正しい答え」と仰せになった。

マタイ19章16節で主に金持ちの青年が永遠の命を得るにはどうすればと尋ねた時、それを彼は比較的容易な事柄と考えていたが、主は同13章44節以下特に46節で、それを手に入れるためにはあらゆる努力を尽くす必要があることを、「宝」「真珠」「持ち物を全て売り払う」等の表現で御説明された。

(注)別エントリー「試論:『招かれる』『選ばれる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8012

(注)別エントリー「試論:『御言葉によって生きる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11157

主はマタイ13章45節以下で、「天の国」を全財産と引き換えにしてでも手に入れるべき真珠にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「天の国」は「永遠の命」と同義だが、「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

ルカ10章25節の律法学者と18章18節の議員は同じ質問をした。ただ議員には「心・精神・力・思いを尽くして」の観点が欠けていた。主は議員に、「持ち物を全て売り払う」という表現で勧告なさったが、この表現はマタイ13章44節〜45節のたとえでは《あらゆる努力を尽くす》を象徴している。

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

マタイ1章19節は、主の養父ヨセフをディカイオス(義人、正しい人)と呼ぶが、25章「最後の審判」の箇所では、ディカイオス(37節、46節)は「永遠の命にあずかる」(46節)人を意味している。つまり、「神の義」を身に着けることこそが、「永遠の命にあずかる」ことを約束するものである。

(注)別エントリー「試論:『神の義』と詩編を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6798

最後の晩餐の際に主は、御自分の《愛の掟》においては隣人愛の実践をもって御自分への愛の実践とみなすと宣言された(ヨハネ14章21節等)。最後の審判では各自の行いに応じて裁かれる(黙示録20章13節、マタイ25章45節)ため、神からの赦しを得るには隣人を赦す以外ない(同6章12節)。

マタイ7章21節で主イエス・キリストは、「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな、天の国に入るのではない。天におられるわたしの父のみ旨を行う者だけが入る」と仰せになられ、23節やルカ13章27節では入れなくなる理由とは「不法を働く」「不義を行う」ことであると明言されている。

(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8105

マタイ25章45節で主は「この小さな者の一人にしなかったことは、わたしにしなかったことである」と仰せになり、隣人愛の実行を神への愛の基準にすると宣言された。従って「私は周囲とはトラブルを起こしてばかりですが、主よ、あなたへの愛だけは誰にも負けません」という自己申告は、通用しない。

主の養父ヨセフは、マタイ1章19節で義人(正しい人)と呼ばれるが、25章の最後の審判では義人(正しい人)は永遠の命が確約されている人を指す(37節、46節)。故に聖書で永遠の命について言及する箇所を読む時、主の養父ヨセフに関連付けて読んでも誤りとは言えない(ヨハネ12章25節)。

ヨハネ12章25節は「この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命を得る」と主の仰せを記す。古代のヘブライ人は「〜を二の次にする」と言いたい時にも、「〜を憎む」という表現を用いた。主の養父ヨセフはヘロデが幼子の命を狙った時も、自分の命を二の次にして幼子と幼子の母を守り続けた。

(注)別エントリー「試論:御受難と『永遠の命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9460

マタイ1章19節は主の養父ヨセフを「正しい人(ディカイオス)」と表現する。25章の「最後の審判」におけるディカイオスは、隣人が何らかの助けを必要としている時に、必要とされている助けを提供して困り事を解決する人を指し、ヨセフはイエスとマリアが本当に必要としていることだけを実行した。

(注)別エントリー「試論:聖ヨセフの模範を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7243

(注)別エントリー「試論:聖母と聖ヨセフの終生童貞を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6397

(注)別エントリー「試論:『聖別』と聖母の終生童貞を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7939

試論:「神をも恐れぬ者の後悔」を140文字以内で

知恵の書5章8節は「われわれは当然のように自分を自慢して隣人たちを小馬鹿にし、富を誇り、物質的な価値観以外の事柄に対しては忌み嫌って、少しも意味など感じることはなかったが、そのような生き方や富は本当に自分の役に立ったのだろうか? 富と高慢は自分を最後にどこへ導いたのか?」と記す。

【追記】

イザヤ58章9節「もしもあなたが隣人を圧迫することをやめるなら、もしもあなたが隣人を侮ることをやめるなら、もしもあなたが隣人を言葉で傷つけることをやめるなら、あなたが主を呼ぶ時には必ず主は御答えになり、あなたが主に向かって叫ぶ時には必ず主は『わたしはここにいる』と御返事される」。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

試論:ローマ3章28節「信仰」を140文字以内で

【問】パウロは「人が義とされるのは、律法の行いによってではなく信仰によると、わたしたちは考える」と記しますが、どういう意味ですか?【答】「わたしが求めるのは憐れみでありいけにえではない」に従い、形式的な行為でなく、日々の具体的な憐れみの業(隣人愛)を神に献げなさいという意味です。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:ローマ3章『信仰と律法』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8650

(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

(注)別エントリー「試論:ローマ3章『律法の行い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12032

【追記】

主はホセア6章6節から、「わたしが求めるのは憐れみであって、『いけにえ』ではない」という箇所を二度もマタイ福音書において引用されており(9章13節、12章7節)、また23章23節では「律法の中で最も重要な正義、憐れみ、誠実」また「これこそ行うべきことである」と仰せになられている。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

(注)別エントリー「試論:ローマ13章『愛』の反対を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11428

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346

ローマ3章でパウロは、「信仰」「律法」という表現で実際は、

《イエス・キリストを信仰する人々にとっての新しい掟=愛の掟》と、

《イエスを認めぬ人々の古い掟=律法の掟》を比較した。

人間を「義」とするのは《律法の掟》の実行ではなく、信仰に基づく《愛の掟》の実践(ガラテヤ5章6節)による。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1982

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

(注)別エントリー「試論:新都エルサレムに住む条件を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11197

マタイ7章21節の主の仰せ「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」の「主よ」という呼び掛けは、当然、25章44節「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、〜」という箇所とは内容的に直結しており、信仰義認の適不適を判断する良い基準である。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:マタイ25章の十人の乙女を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5994

試論:ステファノの殉教を140文字以内で

使徒言行録7章57節はステファノの言葉に敵たちが自分の耳をふさいだと記す。詩編58編では「耳をふさぐ」(5(4)節)は、神に逆らう者(4(3)節)の象徴的仕草で、敵たちは、自分の良心がステファノこそ神の証人だと「見た(悟った)」(黙示録11章12節)にもかかわらずこれを拒絶した。

【追記】

マタイ13章で主はたとえで話す理由を御説明されたが、「目で見る」「耳で聞く」という表現も「御教え(御言葉)を悟る」「心で理解する」ことの比喩で、それは「悔い改め」に導く。忠実な弟子に主は特別な「耳」(理解力)を与えるとイザヤ50章4節は預言し、理解力と悔い改めとは表裏一体である。

(注)別エントリー「試論:聞くだけの人を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5294

(注)別エントリー「試論:聞いても実行しない人を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7347

旧約であれ新約であれ聖書で「見る」という表現が用いられる場合、単に「目で見る」ばかりではなく、「心で悟る」「理解する」等も含む。マタイ24章30節「地上の全ての民は人の子が天の雲に乗って来るのを見るであろう」は、黙示録6章17節「神と小羊の怒りの大いなる日が来た」に対応している。

(注)別エントリー「イエス・キリストと天の雲」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/684

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

マタイ5章44節「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」ルカ23章34節「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分たちが何をしているのか、分かっていないのです」使徒言行録7章60節「ステファノはひざまずいて、『主よ、この罪を、彼らに負わせないでください』と大声で叫んだ」。

エルサレムの監督ヤコブは古代の伝承では、普段からエリヤと同じ身なりだったが、干ばつに際しエリヤのしるしを行い(列王記上18章、ヤコブ5章、黙示録11章)、逮捕後に神殿の高所から突き落とされ足を負傷したが絶命せず、ステファノと同じ遺言を口にし、立ち上がろうとして棍棒で撲り殺された。

(注)別エントリー「試論:もう一人の『エリヤ』??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10009

使徒言行録1章に十二使徒の二人のヤコブが登場するが、12章でヨハネの兄弟ヤコブが殉教した後、特別の注釈もなくヤコブという人がエルサレムで重責を担い続けることが叙述される。消去法で考えれば彼はアルファイの子の方で、エルサレム教会の指導者だった主の兄弟ヤコブと同一人物とも見なしうる。

(注)別エントリー「試論:ルツ記とイエスの兄弟たちを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8585

(注)別エントリー「イエスの『兄弟』『姉妹』:同胞か親戚か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1451

試論:「パン」と「糧」を140文字以内で

主イエスはマタイ6章で「主の祈り」を教えられた。11節「わたしたちの日ごとの糧」の「糧」とヨハネ6章35節の「わたしは命のパン」の「パン」とは原文のギリシア語では同じで、古代のギリシア語訳イザヤ55章10節「糧」も同じだが同節で「糧」は「主の御言葉」(ヨハネ1章1節参照)を指す。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』到来の目的を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10216

【追記】

エレミヤ5章14節は主の御言葉を「火」に喩え、これを踏まえられ主イエスはルカ12章49節で「わたしは地上に火を投ずる」と仰せになった。他方イザヤ55章10節は主の御言葉を「糧」に喩えるが、ならばマタイ6章11節「わたしたちの日ごとの糧」の「糧」も、やはり主の御言葉を暗示している。

(注)別エントリー「試論:『イエスの御言葉こそ糧』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14841

主は山上の説教で「神の義に飢え渇く人は幸い。その人は満たされる」と仰せになった。その理由はヨハネ6章35節で説明される。「わたしは命のパンである。わたしの許に来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」同7章37節「渇く人は、わたしの許で飲みなさい」。

(注)別エントリー「試論:『わたしが与える水』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10708

ヨハネ6章27節「人の子は、あなたたちに永遠の命へと至る食べ物を与える」35節「わたしがその命のパンである」イザヤ55章2節〜3節「わたしに聞き従うならば、あなたたちは良いものを豊富に享受するだろう。あなたたちはわたしの許に来て、それに耳を傾けて聞き従い、魂に命を得させなさい」。

ヨハネ6章51節「わたしが与えるパンとは世を生かすための、わたしの肉のことである」同33節「神のパンは天から降(くだ)って来て世に命を与える」マルコ14章22節「これはわたしの体である」申命記8章3節「人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出る、全ての御言葉によって生きる」。

主はヨハネ6章27節で御自分の仰せになる《神の御言葉》を「永遠の命に至る食べ物」にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「永遠の命にあずかる」と「天の国を受け継ぐ」は同義だが、御言葉を日々味わうことによって人は天の国を受け継ぐにふさわしい存在へと少しずつ霊的に成長するからである。

(注)別エントリー「試論:『主の祈り』と最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7047

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

ヨハネ6章27節「あなたたちは、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」32節「わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる」33節「神からのパンは、天から下って来て人間世界に命を与える」35節「わたしこそが、その命のパンである。わたしの許に来る者は、飢えることが決してない」。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』到来の目的を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10216

ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは「御自分でお話しになる神」の意味で《天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神》主イエスを表す称号であり、直接お話しになった記録が福音書である。福音書を読まないことは主イエス・キリストを理解しようとしないことに等しい。

主は「神の義に飢え渇く人は幸いである。その人は満たされる」と仰せになったが、ルカ10章では自分を「義化」(29節)しようとして踏み込んだ質問をした律法学者に対して、憐れみの心(33節)と「神の義」と隣人愛(27節)と永遠の命(25節)は全て事実上重なっていることをお教えになった。

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4544

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346

(注)別エントリー「試論:隣人愛と『心の中で憎む』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10483

試論:ヨハネ6章27節「認証」を140文字以内で

ヨハネ6章27節は「永遠の命に至る食べ物こそ人の子が与える食べ物だが、御父である神が人の子を認証されたからである」と記す。御子イエスが御父の「お墨付き」を得ておられるという意味だが、注意すべきは、「認証される」という原文のギリシア語は、黙示録では「刻印を押される」と訳されている。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888

【追記】

黙示録13章16節「右手や額に刻印を」は、古代のヘブライ人には周知の表現で、出エジプト記13章9節と16節や申命記6章8節に同様の記述があり、申命記11章18節では従順また雅歌8章6節では愛情表現とも関連している。「第二の獣」が自身への従順や愛情さえも強要する所業のたとえである。

雅歌8章6節は男女の愛情の証として「腕に印章を刻む」という当時の慣用句を用いる。神と神の民の関係を古代のヘブライ人は花婿と花嫁の関係に喩えたが、これを踏まえて黙示録13章を再考すると、「第二の獣」が「小羊」つまりキリストを真似て人々に自分への愛と崇拝を強要する行為の比喩と分かる。

(注)別エントリー「試論:『花婿と花嫁』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5665

(注)別エントリー「試論:『主イエスこそ真の花婿』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7379

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7514

古代のイスラエルは、神と神の民との関係をしばしば花婿と花嫁の関係にたとえた。洗礼者ヨハネは、イエスを「花婿」と呼んで自身は「花婿の介添人」と称した。主イエスを歓呼の裡に迎え入れながら数日で死に至らしめた都を、黙示録が「大淫婦」と呼んだ理由は、イエスこそ花婿に他ならないからである。

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

イザヤ62章5節は「神と神の民」の関係を「花婿と花嫁」の関係にたとえたが、ヨハネ3章29節で洗礼者が「花婿の介添人」を自称する場合、「花婿」が主イエス・キリストであるのは、いうまでもない。洗礼者は、「花婿」と「花嫁」を引き合わせるまでが自分の役割と心得て、30節の言葉を口にした。

ヨハネの黙示録17章5節には「淫婦の母、地上のあらゆる憎むべきものの母である大バビロン」と書かれているが、ゼカリヤ書2章11節では、エルサレムの住民が「バビロンの娘」という表現で呼び掛けられている。当時のエルサレムの住民は、かつてバビロンに連行されて住み着いた人々の子孫であった。

(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1699

試論:「御言葉を聞く」を140文字以内で

ローマ10章17節以下「信仰は聞くことで、しかもキリストの御言葉を聞くことで始まる」「彼らはもちろん、聞いてはいた」マルコ4章23節以下「聞く耳のある者は聞け」「何を聞いているかに注意せよ。あなたたちは自分が他者を量る秤で神なる主から量り与えられ、それに加えてさらに与えられる」。

(注)別エントリー「試論:『話を聞くべき方は誰』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13716

(注)別エントリー「試論:『話を聞くべきでない者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13709

【追記】

主イエスはルカ8章18節で「どう聞くべきかに注意しなさい」と仰せになり、マルコ4章33節では「人々の聞く力に応じて多くのたとえで御言葉を語られた」。これらの場合「聞く」は「聞き分ける(心で理解する)」の意味である。マタイ13章15節では「聞く」と「心で理解する」とを併記している。

(注)別エントリー「試論:『どう聞くべきかに注意』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11664

主イエス・キリストは「山上の説教」で「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」(マタイ7章26節)と仰せになり、また「聞いて行う者は岩の上に家を建てた賢い人に似ている」(24節)とも仰せになられ、行うことがない信仰生活のもろさを強調なさった。

(注)別エントリー「試論:聞いても実行しない人を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7347

(注)別エントリー「試論:マタイ25章の十人の乙女を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5994

黙示録20章12節以下には、マタイ25章31節以下と同様に、「最後の審判」に関する記述が登場するが、そこでは全ての死者たちが各自の行いに応じて裁かれることが書かれており、「行いを伴わないならば、信仰はそれだけでは死んだものです」というヤコブ2章17節の記述とは完全に一致している。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:行いを欠く信仰を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5360

試論:使徒言行録6章13節を140文字以内で

キリストの教えを敵視する者たちは使徒言行録6章13節で「この男は、この聖なる場所と律法をけなす」と人々にステファノを告発させた。主イエスはマタイ5章18節で天地が消え失せる時にモーセの律法の時代も終わると示唆された。「天地」とはエルサレム神殿の聖所(詩編78編69節参照)を指す。

【追記】

古代のヘブライ人は詩編78編69節の通り、エルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。これを踏まえれば主イエスのマルコ13章31節の仰せ「やがて天地は滅びるであろうが、わたしの言葉は決して滅びない」の意味は、「エルサレムと神殿の滅亡後も、わたしの教えと信仰は生き続ける」である。

(注)別エントリー「試論:『主の日』エルサレム滅亡を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12476

主はマタイ5章18節で、全てのことが実現して天地が消え失せるまではモーセの律法も消え失せないと仰せになり、ルカ21章22節ではエルサレム滅亡で預言が全て実現すると予告され、紀元七〇年にそれは成就した。詩編78編69節の通りヘブライ人はエルサレム神殿の聖所を「天地」にたとえていた。

(注)別エントリー「戦争と飢餓:ある意味で実戦よりも残酷な」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4744

ルカ21章22節には「書かれていること」という言い回しが用いられているが、これはヨシュア記1章8節と同様に、「預言された事柄」「神から啓示された内容」などを意味する表現である。古代においては「書く(書いて記録に残しておく)」という行為それ自体が、非常に重要な意味を持つものだった。

主はマタイ5章18節で、全てのことが実現し天地が消え失せるまで律法の時代が続くことを仰せになった。ルカ21章22節では、エルサレム滅亡(20節)の日を「書かれていることが完全に実現する報復の日」と仰せになり、エルサレムと神殿の滅亡(紀元七〇年)で律法の時代が終わると宣言なさった。

「天地が消え去る」の「天」とは、神がお住まいになる場所と見なされたエルサレム神殿とりわけその聖所を指し、二ペトロ3章はその滅亡が近いことを説く。「地」はエゼキエル7章2節同様、イスラエルの地を指す。紀元七〇年にエルサレムと神殿は滅亡しユダヤ(イスラエル人の国家)も同じく消滅した。

二ペトロ3章10節は「主の日」において「天は激しい音を立てながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に熔解し尽くす」と予告した。数年後の紀元七〇年、神が住まわれると見なされて、「天」と同一視されていたエルサレムの神殿は、都の滅亡の際ローマ帝国軍によって火を放たれ、大音響と共に焼け滅びた。

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

ルカ21章22節において、主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると明言されており、それは紀元七〇年に現実のこととなった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代や近未来の世界情勢に関して旧約聖書の預言から考える行為は、不毛である。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

ダニエル書9章では神殿とエルサレムの復興を強く願うダニエルの祈りに応えて、都と神殿の再建さらには救い主の到来までも約束されたが、救い主が不当に殺された後、モーセの律法を蹂躙する集団が神殿の聖所を占拠し、そして次に来る指導者の民が、都と神殿を無法集団もろとも、滅ぼし尽くして終わる。

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

ルカ17章34節から35節で主は「一人は連れて行かれ、他の一人は残される」と繰り返されたが、では一体どこに「連れて行かれ」るのかを、ルカ21章24節では「捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる」と御説明された。これは大昔モーセがレビ記26章33節以下で預言していた話と同じである。

紀元七〇年のエルサレム滅亡時にローマ軍へ投降したユダヤ人のうち、使徒言行録22章のパウロのようにローマの市民権を持つ者はローマ法の保護下にあるため留め置かれたが、そうでない者は妻子とともに奴隷とされて売り飛ばされた。こうして、「一人は連れて行かれ、一人は残される」は現実となった。

(注)別エントリー「試論:『滅びを避けるには』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5749

ルカ21章32節で主は「全てのことが起こるまではこの時代は決して滅びない」と仰せになったが、「時代」に当たる原文の単語ゲネアは古代のギリシア語詩編94(95)編10節の「世代」にも用いられ、詩編のこの節ではゲネアを四十年とする。実際この主の仰せからおおよそ四十年後に都は滅亡した。

(注)別エントリー「試論:『今の時代』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5596

(注)別エントリー「試論:『人心荒廃は滅亡の前兆』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6291

ルカ19章で、主はエルサレムのために泣かれた。確かに主の予告の通り、約四十年後に都は滅亡した。だが同じ都は数日後に主御自身を殺す都でもあった。それでも主は、ヨナ書で神がニネベを惜しまれた以上に、エルサレムのために泣かれた。エルサレムが決して自分の非を認めようとはしないためである。

(注)別エントリー「試論:『滅びを避けるには』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5749

(注)別エントリー「試論:エゼキエル18章を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5726

試論:「永遠の命に至る食べ物」を140文字以内で

申命記30章が示す通り、古代のヘブライ人にとって「命」(15節)という言葉は「祝福」(1節)「幸い」(5節)「恵み」「実り」「繁栄」「喜び」(9節)等の意味を包含し総称するものだった。御自分とは無関係に天の御父に到達することなどあり得ないと、主イエスは多様な表現で強調されていた。

【追記】

主はルカ6章21節で「今飢えている人は幸い。あなたたちは満たされる」と仰せになった。これを聞き当時のユダヤ人は詩編33編18節〜19節「主は、御自分を畏れて御自分の慈しみを待ち望む人々に御目を注がれ、この人々の魂を飢えと死から救われ命を得させてくださる」をすぐ連想したはずである。

主は山上の説教で「神の義に飢え渇く人は幸い。その人は満たされる」と仰せになった。その理由はヨハネ6章35節で説明される。「わたしは命のパンである。わたしの許に来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」同7章37節「渇く人は、わたしの許で飲みなさい」。

(注)別エントリー「試論:『わたしが与える水』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10708

(注)別エントリー「試論:『パンと御言葉は不可分』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10226

主は「神の義に飢え渇く人は幸いである。その人は満たされる」と仰せになったが、ルカ10章では自分を「義化」(29節)しようとして踏み込んだ質問をした律法学者に対して、憐れみの心(33節)と「神の義」と隣人愛(27節)と永遠の命(25節)は全て事実上重なっていることをお教えになった。

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4544

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346

(注)別エントリー「試論:隣人愛と『心の中で憎む』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10483

(注)別エントリー「試論:『根』と『水』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10855

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1982

試論:ヨハネ21章「復縁」を140文字以内で

ヨハネ21章の「大漁の奇跡」はルカ5章で漁師たちが弟子となった場面の再現だった。シモン・ペトロとゼベダイの子たちは自分たちが主に呼ばれた日をいやでも思い出したはずである。土壇場で自分を見捨てて逃げた者たちを再び選ぶことは、「人間の論理」では絶対にあり得ないが、神はそれを行われた。

(注)別エントリー「試論:『一緒に食事をする』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16061

(注)別エントリー「試論:『婚宴帰りの主人』誰??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16265

(注)別エントリー「試論:『ヨハネの子シモン』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16288

試論:「聖母と三人の使徒」を140文字以内で

古代に遡ることができるある伝承は、十二使徒の中で、聖母に対する敬愛が特に強かった三人が、聖母の終生童貞に倣って終生童貞(独身)であったとする。それはヨハネと二人のヤコブで、ゼベダイの子らの母は聖母の「姉妹」(ヨハネ19章25節)であり、ヤコブの母も聖母の(義理の)「姉妹」だった。

(注)別エントリー「聖母と聖ヨセフが終生童貞である理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4464

(注)別エントリー「イエスの『兄弟』『姉妹』:同胞か親戚か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1451

(注)別エントリー「試論:『愛された弟子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13880

(注)別エントリー「試論:もう一人の『エリヤ』??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10009

(注)別エントリー「試論:ルツ記とイエスの兄弟たちを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8585

(注)別エントリー「試論:四世紀の『イエスの兄弟』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13087

(注)別エントリー「試論:ヨセフが妻を畏敬する理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7888

(注)別エントリー「ルカ福音書の聖母とサムエル記下の神の櫃」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1544

試論:「マリアとヨセフと聖書」を140文字以内で

【問】マリアとヨセフに関する記述は乏しくないですか?【答】マリアは「恵まれた方」(ルカ1章28節)「祝福された方」(同章42節)と呼ばれ、ヨセフは「正しい人(義人)」(マタイ1章19節)と呼ばれます。「恵み」「祝福」「〔神の〕義」の理解を深めれば二人に関する理解もより深まります。

(注)別エントリー「試論:最後の審判とイエスの両親を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15086

(注)別エントリー「試論:マリアとヨセフに倣う事柄を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7012

(注)別エントリー「試論:『親しき仲にも礼儀あり』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13120

(注)別エントリー「試論:『神が人となられた方法』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13297

(注)別エントリー「試論:ヨセフが妻を畏敬する理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7888

(注)別エントリー「聖家族はどのような雰囲気の中で暮らしていたのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5246

(注)別エントリー「予備的考察:聖母崇敬そして聖ヨセフ崇敬の起源とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1750

試論:「救い主の値段」を140文字以内で

主イエスはマタイ10章で十二人をお選びになり、「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いを癒す権能」を授けられた。マルコ3章14節は「十二人」選抜の目的を御自分の傍に置くためと記す。その一人は泥棒(ヨハネ12章6節)となり、銀貨三十枚(マタイ26章15節)で、自分の師を売り渡した。

(注)別エントリー「試論:『預言や奇跡よりも』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16157

(注)別エントリー「試論:『無償で与えなさい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16019

【追記】

主イエスはマタイ7章22節以下で、預言や奇跡や悪霊を追い出すことよりも、悪を行わないことこそが重要で御自分の弟子である証明だと教えられた。イスカリオテのユダは悪霊を追い出す権能と病気を癒す力を使徒の一人として与えられたが(ルカ9章)、献金を泥棒していたためサタンが彼の中に入った。

(注)別エントリー「試論:『献金泥棒』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11983

パウロは一コリント13章で愛こそ諸徳の中で最上のものと説くが、ローマ13章10節では愛は隣人に悪を行わないと説く。これは主イエスがマタイ7章22節以下で仰せになった内容(たとえ預言や奇跡や悪霊を追い出すこと等を行おうとも、悪を行わないことを疎かにするなら無意味)と完全に合致する。

主イエスはマタイ7章22節以下で、神が人々に求めておられるのは預言でも奇跡でも悪霊を追い出すことでもなく、ただ悪を行わないことだと示唆された。ヨセフは1章19節で義人と呼ばれるが、25章の最後の審判では義人は隣人の困り事に親身に対応する無私の人そして永遠の命を確約された人を指す。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

主イエスはマタイ7章22節以下で、預言や奇跡や悪霊を追い出すことよりも、悪を行わないことが重要であり唯一それが御自分の弟子としての証明であると仰せになった。これを踏まえてパウロはローマ13章10節で「愛とは悪を行わないこと」と明確に定義し、一コリント13章では愛の重要性を説いた。

試論:「ヨハネの子シモン」を140文字以内で

ヨハネ21章15節はシモン・ペトロを「ヨハネの子」と呼ぶ。マタイ16章17節「バルヨナ」は通常「ヨナの子」と訳されるが福音書時代のヘブライ語でヨナは鳩を意味した。ただしシモン・ペトロの元々の性格が、ヨナ書最終章の預言者の姿(不満や怒りを隠せない)と同じだった可能性も否定できない。

(注)別エントリー「試論:『ニネベの回心』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11018

(注)別エントリー「試論:ニネベの人々の信仰って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15989

【追記】

彼は家庭を持つ漁師で湖の対岸の異邦人とも交流がないほどだったが、大工の男に説得され、その弟子となり、師とともに湖上を歩き、師から一番弟子に指名された。一度は師を見捨てた彼を師は変わらず信頼し、師が去った後も教えを広めるために彼は世界を巡り、世界の都で一粒のからし種として殉教した。

(注)別エントリー「試論:『自分の十字架』とペトロを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12304

ヨハネ1章42節はシモン・ペトロをヨハネの子とするが、マタイ16章17節はバルヨナ(ヨナの子)と呼ぶ。ヨナは鳩すなわち神の霊を意味し、主イエスはペトロを鳩の子と呼ぶことで《今のあなたの言葉は神の霊があなたに言わせたことである》という事柄をシモン本人及びその場にいた皆に示唆された。

主はマルコ4章で弟子たちの前で突風を静められて創造主としての権威の片鱗を示されたが、後にペトロだけは最後に沈みかけたものの湖の上を歩く体験をして主の権威に対する確信を強め、このペトロの確信がマタイ16章16節「あなたは生ける神の子キリスト(メシア)です」の信仰宣言へとつながった。

主イエスが湖の上をお歩きになった際、弟子たちの中でペトロが最初に自分も歩くと申し出たが、怖くなって沈みかけ、主に助けを求めた。主はペトロをお叱りになったが、すぐに手を伸ばし助けられた。失敗も多かったが、御言葉に真っ先に反応して忠実を示し続けるペトロに、主は御自分の羊を委ねられた。

マタイ16章17節「バルヨナ」の「ヨナ」は、福音書時代のヘブライ語では「鳩」を意味した。シモン・ペトロを「鳩(=神の霊。マタイ3章16節)の子」と呼ぶことで、主イエスは「あなたの今の言葉は神の霊があなたに言わせたことである」という事柄をシモン本人そしてその場にいた皆に示唆された。

福音書には主の職業はテクトーンとあるが、ホメロスの叙事詩ではテクトーンは船大工をも意味し、もしも主が腕の確かな職人として既に漁師の間で知られていたとすれば、故郷で生涯を終えることが多く同業者だけで集まりがちな漁師の中からすぐ四人の信頼を得て弟子とすることができたのも、道理である。

(注)別エントリー「試論:天の国と『人間をとる漁』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8963

主がペトロに「あなたは鶏が鳴くまでに三度わたしを知らないと言うであろう」と予告されたことはあまりにも有名である。しかしその前に、主はさらに先のことを見通すかのように、「あなたが(自分の痛手から)立ち直ったならば今度はあなたが仲間たちを力づけなさい」ともペトロに仰せになられていた。

主イエスはマルコ8章34節で、弟子となる者は自分の十字架を背負い、従って来るべきだと仰せになった。初代教会時代、新しく信者になろうとする人々がペトロに「あなたにとっての『自分の十字架』とは何ですか?」と訊ねたなら、恐らく「鶏が鳴く前に三度主を知らないと言ったこと」と答えただろう。

主イエスはエレミヤ16章の預言通り、早い時期に四人の漁師を弟子に選ばれた。しかし彼らの中で、いつも口火を切るのはペトロである。ルカ5章では真っ先にイエスの足許にひれ伏し、後には間違った忠告をして主に「サタン(邪魔をする者)」と呼ばれたり、湖の上を歩きたいと申し出て溺れたりもした。

(注)別エントリー「試論:『聖書と漁師』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13896

主イエスはヨハネ14章12節で「わたしを信じる者は、わたしの行う業を行い、もっと大きな業を行うようになる」と仰せになった。使徒言行録5章ではペトロによる癒しを期待する人々が「彼が通りかかる時、せめて彼の影だけでも病人のだれかにかかるようにした」と、使徒たちの業の目覚ましさを記す。

(注)別エントリー「試論:『預言や奇跡よりも』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16157

二ペトロ3章15節以下では、パウロの著した手紙について言及しているが、16節でペトロは、自分がパウロの手紙の全てに目を通して内容に同意し、「聖書」を構成する一部として、それらを認めている旨を述べている。ガラテヤ2章の自身を批判している箇所も含めてペトロは手紙の内容を承認している。

二ペトロ3章10節は「主の日」において「天は激しい音を立てながら消え失せ、自然界の諸要素は熱に熔解し尽くす」と予告した。数年後の紀元七〇年、神が住まわれると見なされて、「天」と同一視されていたエルサレムの神殿は、都の滅亡の際ローマ帝国軍によって火を放たれ、大音響と共に焼け滅びた。

(注)別エントリー「試論:『たとえ天地が滅びても』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12142

ヘブライ4章14節は主イエスを「もろもろの天を通過され」と記すが詩編78編69節の通り、ヘブライ人は聖所を天にたとえた。天地創造以前から「御言葉」はおられ、メルキゼデクの聖所にもシケムにもシロにもエルサレムにも、それらが天の「写し」(ヘブライ9章24節)に過ぎないにせよおられた。

(注)別エントリー「試論:『もろもろの天を通過』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13750

(注)別エントリー「試論:『天使たちが神殿を去る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6363

試論:「悔い改め」に必要な事柄を140文字以内で

使徒言行録5章31節は「神がイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すため、この方(イエス)を導き手また救い主とされ御自分の右に上げられた」と記す。かつて洗礼者はルカ3章で悔い改めの洗礼を授けていたが、単に洗礼を授けるだけでなく人々に生き方を変えるための簡潔だが的確な指示をも与えた。

(注)別エントリー「試論:『悔い改め』具体的に何?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9228

【追記】

主イエスはルカ13章で、悔い改めといちじくの木の実について仰せになった。同3章8節で、既に洗礼者ヨハネが「悔い改めにふさわしい実を結べ」と群衆に命じていた。「ではどうすればいいですか」という群衆や徴税人や兵士の問いに、洗礼者はそれぞれ簡潔で実行しやすいが肝要な指示を与えて答えた。

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346

洗礼者ヨハネは人々に「悔い改めよ。天の国は近づいた」と訴えたが、ルカ1章17節では洗礼者が担うことになる重大な使命として、《主に逆らう者に「正しい人(最後の審判で永遠の命が確約されている人)」としての分別を持たせるための準備をする》ことが、天使によって父ザカリヤに予告されている。

マタイ13章で主はたとえで話す理由を御説明されたが、「目で見る」「耳で聞く」という表現も「御教え(御言葉)を悟る」「心で理解する」ことの比喩で、それは「悔い改め」に導く。忠実な弟子に主は特別な「耳」(理解力)を与えるとイザヤ50章4節は預言し、理解力と悔い改めとは表裏一体である。

主イエス・キリストは「山上の説教」で「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」(マタイ7章26節)と仰せになり、また「聞いて行う者は岩の上に家を建てた賢い人に似ている」(24節)とも仰せになられ、行うことがない信仰生活のもろさを強調なさった。

(注)別エントリー「試論:マタイ25章の十人の乙女を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5994

主はマタイ13章12節で御教えを聞いても実行しない人のことを、持っていない人は持っているものまでも取り上げられると仰せになった。これは25章29節でも繰り返され恵みである御教えを隠したと同然の人は、最終的に一度与えられた恵みまで取り上げられると、タラントンのたとえで御説明された。

(注)別エントリー「試論:マタイ25章のタラントンを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6174

(注)別エントリー「試論:『土台なしで家を建てる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8274

(注)別エントリー「試論:キリスト抜きのキリスト教を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6639

主イエスはマルコ4章24節で「何を聞いているのかに注意を払いなさい」と仰せになった。この仰せは、マタイ13章14節「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず〜」に対応するものである。箴言19章27節「教えに耳を傾けるのを怠ってはならず、神の御言葉に無知であり続けてはならない」。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節『言』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13546

(注)別エントリー「試論:『自分の秤』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13997

試論:黙示録の「屠られた小羊」を140文字以内で

黙示録5章11節は主イエスを「屠られた小羊」と呼ぶが、9節から10節は「小羊」が屠られた結果、人々が贖(あがな)われ、「小羊」に忠実な者たちを「王」「祭司」としたと記す。彼らは悪魔の罪と死の支配から自由にされて打ち勝った意味で「王」であり、憐れみの業を献げる意味で「祭司」である。

(注)別エントリー「試論:『贖(あがな)いの小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9650

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7479

【追記】

【問】一ペトロ2章9節「あなたたちは王の系統を引く祭司」の意味とは?【答】モーセの律法の祭司はいけにえや献げ物を神に献げますが、王であるキリストの弟子は一人一人がいけにえでなく憐れみの業(ホセア6章6節、ミカ6章8節)を神に献げる義務がある、という意味でキリストにおける祭司です。

(注)別エントリー「試論:『いけにえ』と憐れみを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8356

(注)別エントリー「試論:憐れみ深い人が幸いの理由を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14898

(注)別エントリー「試論:ホセア6章の『神を知る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15271

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346

主イエスは、御自分が「王」(マタイ25章34節)である理由を、ヨハネ17章2節で「あなた(=御父である神)は『子』(=主イエス御自身)に、全ての人々を支配する権能をお与えになりました。それゆえ『子』はあなたから委ねられた人々全てに永遠の命を与えることができます」とお話しになった。

(注)別エントリー「試論:『わたしは門である』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6515

(注)別エントリー「試論:『命に通じる狭い門』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7118

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『隅の親石』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6544

主イエスはヨハネ18章36節で、「わたしのバシレイアは、この世には属していない」と仰せになった。原文のギリシア語バシレイアは、聖書では「王権」「〔神の〕王国」を意味し、「王国の一人一人」まで包含する。黙示録1章6節でヨハネは、自分たちは既にその一部を構成していると書き記している。

黙示録20章やローマ5章は「悪に悪を返さない」ことを徹底して罪や悪と決別した人々を「バシレウオ(〔キリストとともに〕王となる)」という動詞で表すが、これはあくまで《義化の完成》を象徴する表現であり政治体制的な意味を含まず、彼らは「第二の死」を免れ「永遠の命」を得ると記されている。

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

マタイ25章34節「御父に祝福された人々よ、天地創造の時からあなたたちのために準備されていた王国を受け継ぎなさい」黙示録21章7節「勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ」ヘブライ6章12節「怠け者とならず信仰と忍耐によって、約束されたものを受け継ぐ人々に倣う者となってほしい」。

(注)別エントリー「試論:『永遠の命を受け継ぐ』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10200

(注)別エントリー「試論:『受け継ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13819

試論:まこと(真、実、信、誠)を140文字以内で

主イエスはヨハネ14章6節で「真理」を自称されたが、プロテスタントの『改訳 新約聖書』(1917年)は、そこに「まこと」と平仮名を振り旧約聖書で「まこと」と訳される語との関連を示す。真理というと哲学的で近寄り難い印象を受けるが、主に帰せられる実際の諸徳は「真、実、信、誠」である。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

【追記】

主イエスは使徒たちに重要な事柄を伝達なさる際、アーメンを二度、口にされた。日本語訳では「まことにまことに」「よくよく」等と表現されるが、ヘブライ語ではアーメンも「まこと」も「信じる」の派生語で、ヘブライ人にとって「信じる」とは裏表(嘘偽り)のない態度で向き合うことを意味していた。

(注)別エントリー「試論:『アーメン』と『まこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16228

(注)別エントリー「試論:『真理を行う者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16184

試論:「アンナス二世」を140文字以内で

主イエスの時代の大祭司カイアファの義兄弟でカイアファの義父アンナスの実子。父同様キリスト教迫害に暗躍し、エルサレム教会の指導者ヤコブ殺害の中心的役割を果たした。ローマへの大反乱の際にはユダヤを捨てたヘロデ王家に替わり民族の代表者と見なされたが、武装勢力の制御に失敗して殺害された。

【追記】

洗礼者は主からエリヤと呼ばれた(マタイ11章14節)ものの干ばつの際のしるし(列王上18章41節以下)は行わず(ヨハネ10章41節)、このしるしは主も行われなかった。古代に遡るある伝承は、エルサレムの監督ヤコブがエリヤのしるしを行ったとする。このしるしには圧倒的な説得力があった。

使徒言行録1章に十二使徒の二人のヤコブが登場するが、12章でヨハネの兄弟ヤコブが殉教した後、特別の注釈もなくヤコブという人がエルサレムで重責を担い続けることが叙述される。消去法で考えれば彼はアルファイの子の方で、エルサレム教会の指導者だった主の兄弟ヤコブと同一人物とも見なしうる。

(注)別エントリー「イエスの『兄弟』『姉妹』:同胞か親戚か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1451

(注)別エントリー「試論:ルツ記とイエスの兄弟たちを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8585

使徒言行録はパウロがエルサレムで逮捕後、一部のユダヤ人は彼に殺意を抱き続けたと記すが、ローマでパウロが監視付きながらも現地のユダヤ人に宣教していると聞き、敵たちの怒りの鉾先はエルサレム教会の監督ヤコブに向かった。彼が万単位のユダヤ人をキリスト者にしていた(21章20節)故である。

エルサレムの監督ヤコブは古代の伝承では、普段からエリヤと同じ身なりだったが、干ばつに際しエリヤのしるしを行い(列王記上18章、ヤコブ5章、黙示録11章)、逮捕後に神殿の高所から突き落とされ足を負傷したが絶命せず、ステファノと同じ遺言を口にし、立ち上がろうとして棍棒で撲り殺された。

(注)別エントリー「試論:聖書の『見る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11440

試論:「婚宴帰りの主人」誰??を140文字以内で

ルカ12章36節以下「婚宴帰りの主人が戸を叩く時、目を覚ましていて、すぐ開けようと待つ人は幸い。主人は帯を締め、この僕(しもべ)たちを食事の席に着かせ給仕してくれる」ヨハネ21章9節以下「陸に上がると、炭火が起こしてあって上に魚があり、パンもあった。『さあ来て食事をしなさい』」。

(注)別エントリー「試論:『一緒に食事をする』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16061

【追記】

古代のイスラエルは「神」と「神の民」の関係を「花婿」「花嫁」に喩えた。主イエスは御自身の御復活つまり「復活の体」(一コリント15章)創造に際し、イザヤ65章で預言された「新しい天・地・エルサレム」を創造されて、新しい「神の民」を迎える準備を完了された(ヨハネ14章2節以下参照)。

(注)別エントリー「主の御復活とともに創造された事柄とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15917

パウロは一コリント15章で「キリストの復活」こそ福音の核心であり、キリストの御復活つまり《天上の体(復活の体、霊の体)の創造》こそが信仰における全ての希望の源であると強調した。「天上の体」こそが、キリスト御自身のみならず、キリストを信じる全ての人々にとっての、目的地だからである。

(注)別エントリー「試論:『霊の帰還』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8381

(注)別エントリー「試論:『天国の福楽を相続する』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13891

試論:「もっと大きな業を」を140文字以内で

主イエスはヨハネ14章12節で「わたしを信じる者は、わたしの行う業を行い、もっと大きな業を行うようになる」と仰せになった。使徒言行録5章ではペトロによる癒しを期待する人々が「彼が通りかかる時、せめて彼の影だけでも病人のだれかにかかるようにした」と、使徒たちの業の目覚ましさを記す。

(注)別エントリー「試論:『預言や奇跡よりも』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16157

【追記】

洗礼者は主からエリヤと呼ばれた(マタイ11章14節)ものの干ばつの際のしるし(列王上18章41節以下)は行わず(ヨハネ10章41節)、このしるしは主も行われなかった。古代に遡るある伝承は、エルサレムの監督ヤコブがエリヤのしるしを行ったとする。このしるしには圧倒的な説得力があった。

使徒言行録1章に十二使徒の二人のヤコブが登場するが、12章でヨハネの兄弟ヤコブが殉教した後、特別の注釈もなくヤコブという人がエルサレムで重責を担い続けることが叙述される。消去法で考えれば彼はアルファイの子の方で、エルサレム教会の指導者だった主の兄弟ヤコブと同一人物とも見なしうる。

(注)別エントリー「イエスの『兄弟』『姉妹』:同胞か親戚か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1451

(注)別エントリー「試論:ルツ記とイエスの兄弟たちを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8585

使徒言行録はパウロがエルサレムで逮捕後、一部のユダヤ人は彼に殺意を抱き続けたと記すが、ローマでパウロが監視付きながらも現地のユダヤ人に宣教していると聞き、敵たちの怒りの鉾先はエルサレム教会の監督ヤコブに向かった。彼が万単位のユダヤ人をキリスト者にしていた(21章20節)故である。

エルサレムの監督ヤコブは古代の伝承では、普段からエリヤと同じ身なりだったが、干ばつに際しエリヤのしるしを行い(列王記上18章、ヤコブ5章、黙示録11章)、逮捕後に神殿の高所から突き落とされ足を負傷したが絶命せず、ステファノと同じ遺言を口にし、立ち上がろうとして棍棒で撲り殺された。

(注)別エントリー「試論:聖書の『見る』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11440

試論:ヨハネ14章7節を140文字以内で

主イエスはヨハネ14章7節で、人が御自分のことを理解しているならば、その人は既に〔御自分を通して〕御父を見ていると仰せになった。御子イエスは御父の生き写し(ヘブライ1章3節)であり、矛盾・対立・齟齬の類いが存在しないという意味で御父と御子とは「一つ」(ヨハネ10章30節)である。

(注)別エントリー「試論:三位一体の『一体』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16233

試論:「ガマリエル」を140文字以内で

使徒言行録5章で使徒たちを擁護したガマリエルは大ラビと呼ばれる存在だったが、キリスト信者になったとする伝承が存在する。ただし紀元七〇年の滅亡の後ガマリエルの子孫たちがユダヤ教の指導者となりユダヤ教の再興に尽力した。ユダヤ教側はガマリエルがキリストの信仰を受け入れた話を歓迎しない。

試論:古代ユダヤの政情不安を140文字以内で

新約聖書にはイエスに従う人々とは全く別に、暴動や反乱で社会を動かそうとする人々の姿が登場する。バラバ(マルコ15章7節)、テウダ(使徒言行録5章36節)、ガリラヤのユダ(同37節)、「あのエジプト人」(同21章38節)などがそれで、最終的にローマへの大反乱を起こしユダヤは滅んだ。

(注)別エントリー「試論:『人心荒廃は滅亡の前兆』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6291

【追記】

マルコ15章は暴動の際に殺人を行ったバラバの名を記すが、使徒言行録5章もテウダやガリラヤのユダの名前を挙げて暴動や反乱の存在を記し、当時のユダヤ世界における社会不安を示唆した。主も御受難前にオリーブ山で弟子たちに、第二神殿滅亡までの間に起こる諸事態と特に人心の荒廃とを予告された。

使徒言行録5章37節は「ガリラヤのユダ」が反乱の指導者となり滅びたと記す。ヘロデ大王死後の混乱に乗じて勢力を拡大した彼は、ローマの住民登録への反対を掲げ、登録した者を親ローマ派と見なして敵視した。彼の滅亡を確かめた上で(マタイ2章20節)、聖家族はエジプトから帰還したはずである。

マタイ2章は暴君ヘロデ大王の後継者としてアルケラオの名を記す。ヘロデを恐れて沈黙していたユダヤの人々は、その死後いっせいに不満の声を挙げアルケラオは為す術を知らなかった。ローマ帝国は彼を不適格者と判断してユダヤからガリラヤを切り離し(マタイ2章22節参照)、最終的に彼を追放した。

(注)別エントリー「試論:黙示録17章『第八の者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9038

聖家族がヘロデの追及を逃れてエジプトに避難した後、ヘロデ没後の混乱に乗じガリラヤのユダがローマの住民登録に対して大規模な反乱を起こした。ベツレヘムで住民登録に参加した聖家族は、ただそれだけで親ローマ派と見なされる危険があり、この反乱が鎮圧されるまでは故郷に戻ることができなかった。

(注)別エントリー「試論:ダビデ王家とガリラヤを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15011

(注)別エントリー「福音書の時代におけるガリラヤ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/2354

試論:三位一体の「一体」の意味を140文字以内で

ニケア・コンスタンチノープル信条「父と一体」はヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」と38節に拠り、御父と御子の間には矛盾・対立・齟齬の類は一切ないことを表す。ギリシア神話では最高神ゼウスと父クロノス、クロノスと父ウーラノスの父子相剋が存在するが、キリスト教には全く存在しない。

【追記】

一ヨハネ5章20節は神の御子が来られて真理である方(御父である神)を知る力を与えられたとして信者は御父と御子の内にいると記し、御父と御子イエスを真理である神また永遠の命と説く。同6節は聖霊をも真理と記し5章全体として御父と御子と聖霊の御三方を真理と呼んでおり、ただ一つの神とする。

主イエスはヨハネ10章30節「わたしと御父とは一つ」38節「わたしは御父の内にあり御父はわたしの内におられる」と教えられ14章でも繰り返され(10節、11節、21節)16章15節「御父の持っているものは全てわたしの持っているもの」で、御父と御自分との間に差異はないと仰せになった。

ヨハネ14章8節のフィリポの言葉「主よ、わたしたちに御父をお示しください」に対しコロサイ1章15節では「御子は、見えない神の姿」と表現した。「見えない神」とは御父であり「姿」とは《生き写し》というニュアンスをも含んでいる。ヘブライ1章3節は「神の本性の完全な具現」などと表現した。

主はヨハネ10章30節で「わたしと父とは一つ」と仰せになった後、17章では弟子たちのために天を仰いで祈られたが、それは御父と御自分が「一つ」であるように、弟子たちもまた「一つ」となるためであった(11節、21節〜23節)。使徒言行録4章32節「信じた人々の群れは心も思いも一つ」。

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

主はマタイ11章27節で、全てのことは御父から御自分に任せられていると仰せになった。これは、既にダニエル7章13節以下で啓示された事柄であり、マタイ28章18節やルカ10章22節やヨハネ3章35節や同13章3節等、福音書では事ある毎に強調される「真理(ヨハネ14章6節)」である。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

《御父である神、主》と《御子である神、主イエス》とは、詩編110編1節では御父は「主」、御子は「わが主」でありマタイ22章44節で御父は「主」、御子はダビデの言う「わたしの主」である。ヨハネ1章1節では御父は「神」、御子は「言(ことば)」であり、「言は神であった」と記されている。

(注)別エントリー「試論:「わたしの主」は誰?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7536

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは道」と仰せになり、「わたしを通らなければ、誰であれ御父には到達できない」と続けられた。パウロはエフェソ2章14節でユダヤ人と異邦人をこの点において隔てる壁はないと記し、ローマ10章12節でも「ユダヤ人とギリシア人の区別はない」と明言している。

主イエスの御前でユダヤ人と異邦人の「区別」が存在しないことはエフェソ2章14節以下、使徒言行録15章9節「わたしたちと彼らの間に何の差別もなさいません」、ローマ3章29節「神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもあります」、一コリント12章13節、ガラテヤ3章28節以下等。

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは道」と仰せになり、「わたしを通らなければ、誰であれ御父には到達できない」と続けられ、また御昇天前にマタイ28章19節で「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じられた。パウロもローマ10章12節で「ユダヤ人とギリシア人の区別はない」と説く。

(注)別エントリー「試論:『イエスは全人類の模範』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5948

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7818

主が「わたしは道」(ヨハネ14章6節)と仰せになる場合、自身が御父へ通じる唯一無二の存在であると示唆するだけではなく、日本語の「人としての道から外れる」と同様に、誰もがそこを通って進んで行くべき人間としての道筋つまり御父である神の御前における模範(同13章15節)の意味をも含む。

試論:「アーメン」と「まこと」を140文字以内で

主イエスは使徒たちに重要な事柄を伝達なさる際、アーメンを二度、口にされた。日本語訳では「まことにまことに」「よくよく」等と表現されるが、ヘブライ語ではアーメンも「まこと」も「信じる」の派生語で、ヘブライ人にとって「信じる」とは裏表(嘘偽り)のない態度で向き合うことを意味していた。

(注)別エントリー「試論:『真理を行う者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16184

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

【追記】

主はヨハネ12章24節で「一粒の麦もし死なずば」の一節の前に、ギリシア語本文では二度「アーメン」と口にされた。通常この箇所は「まことにまことに」「よくよく」「はっきり」等と訳されるが、主はこうなさることで、そこが御教えの核心部分だと示された(31節及びコロサイ1章20節等参照)。

ヨハネ3章33節は「天から来られた方のあかしを受け入れる者は、その方が真理である方だと、確認したことになる」と記す。主イエスは同14章6節で「真理」を自称され黙示録3章14節は主イエスを「アーメンである方」と呼ぶが、ヘブライ語で「アーメン」「真理」は共に「信じる」に由来している。

ヨハネ3章33節は主イエスを「真実(=真理である方)」と呼び、黙示録3章14節は主イエスを「アーメンである方」「誠実」「真実」等と呼ぶ。黙示録では19章11節の「白馬の騎手」が「誠実」「真実」と呼ばれ、同章13節は「神の御言葉」16節は「王の王、主の主」と、「白馬の騎手」を呼ぶ。

「真理(ギリシア語本文でアレテイア)とは何か」(ヨハネ18章38節)の答えをマルコ12章32節は「神は唯一で他に神はない」ことがアレテイアとし、主はこれを「適切な答え」とされた(34節)。ヨハネ14章6節「わたしこそが道、真理、命」10章30節「わたしと父とは唯一のものである」。

(注)別エントリー「試論:『御父と御子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7544

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

(注)別エントリー「試論:ヨハネ14章6節の『道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9342

プロテスタントの文語訳聖書『改訳 新約聖書』(1917年)では、ヨハネ14章6節で「真理(まこと)」と平仮名を振る。詩編145編18節「主は、まことをもって呼び求める人々すべての近くにおられる」に対応するためだが、詩編のこの節の「まこと」とは、《真心(まごころ)》を意味している。

エレミヤ10章10節は「主は真理の神」と記すがこの章では、自分では言葉を話せない偶像の神々と違い、イスラエルの神である主は御自ら、御言葉を発せられて真正な御教えを御自分の民にお話しになられる(申命記5章22節以下)という事柄を要約する表現として、「真理〔の神〕」が用いられている。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

エレミヤ10章10節は「主は真理の神、命の神、永遠を支配する王」と呼ぶ。ヨハネ福音書で主イエスが御自身に関連して「真理」「命」「永遠の命」等の表現を頻用されること自体、御自身の神性の表明である。イエスに敵意を抱く人々からすると神に対する冒瀆であり、石打ちの刑に相当する事柄だった。

イスラエルの神である主は御自分の民に対して御自ら御言葉を発せられて御教えをお話しになり(申命記5章22節以下)、それこそが自分で言葉を話せない偶像の神と最も異なるとして、主をエレミヤ10章10節は「真理の神」と呼ぶ。主イエスはピラトに御自分が何者か「真理」の表現で端的に示された。

試論:ヨハネ6章「パンの奇跡」を140文字以内で

主イエスはパンを増やし五千人の群衆に食べ物を与えるという奇跡を行われた。類似の奇跡は列王下4章42節以下で「神の人」預言者エリシャも行っていた。主イエスの神の御独り子たる本領は「生まれつき目が見えなかった人の視力を回復させた」(ヨハネ9章32節、イザヤ35章5節)時に発揮された。

(注)別エントリー「試論:『救い主の識別』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13316

【追記】

ルカ2章11節は「あなたたちのために救い主がお生まれになった」マタイ1章21節は「この子は自分の民を罪から救う」と記す。イザヤ35節4節以下は「敵(サタン)を撃ち悪を罰する神が来られ、あなたたちを救われる」と預言し、目や耳や足や言葉の不自由な人々の回復が神の到来の徴になると続く。

(注)別エントリー「試論:『超自然的な御降誕』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13255

主が集まった群衆のためにパンを増やす奇跡を行われたことは有名だが、その少し前に弟子たちが極度の空腹のため安息日に麦畑で穂を摘み直に麦を口にし、ファリサイ派の人々と論争になった。なぜ主は奇跡で弟子たちの空腹を満たそうとはされなかったのか? 「現世利益」目的では奇跡を主は行われない。

マタイ12章で、麦畑から穂を摘んで直に麦を口にするほど弟子たちは空腹だった。ファリサイ派の人々に対し、主はサムエル上21章を引用された。パンではなく直に麦を口にするほどの空腹をしのぐことは、井戸に落ちた息子をすぐに引き上げる(ルカ14章5節)ことと同じく、安息日の掟にも優先する。

ヨハネ6章51節「わたしは天から降(くだ)って来たパンであり、このパンを食べる者は永遠に生きる」ルカ4章4節「人はパンだけで生きる者ではない」申命記8章3節「人はパンだけで生きる者ではなく主の口から出る全ての言葉で生きる」ヨハネ6章68節「あなたこそ永遠の命の言葉を語る方です」。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは「御自分でお話しになる神」の意味で《天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神》主イエスを表す称号であり、直接お話しになった記録が福音書である。福音書を読まないことは主イエス・キリストを理解しようとしないことに等しい。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

ヨハネの第一の手紙の4章は「反キリストの霊」の特徴を説明している。神からの霊が主イエス・キリストの福音を解説するのに対し、人を惑わす霊は信仰を自称しつつ世界情勢(国際情勢・社会情勢)を好んで語る一方でキリストの福音の中身に関しては全く意を尽くすことなく沈黙する、という特徴を持つ。

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

(注)別エントリー「試論:預言解釈の基本を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5092

(注)別エントリー「試論:反キリストを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5487

二テモテ4章でパウロは、人々が「御言葉」(2節)つまり《主が人々の前に御姿をお見せになり直接人々にお話しになった御教え》には耳を傾けなくなり、「自分に都合の良い」(3節)「作り話」(4節)つまり真の御言葉ではない紛い物の方に引かれていくと警告したが、対策は福音書を読む以外にない。

ヨハネ1章はイエスを「言(ことば)」と呼んだ。これは「天使や預言者を介してではなく直接人々にお話しになる神」主イエスを表す称号であり主が直接人々にお話しになった御言葉を記したものが福音書である。福音書を顧みず他のものばかりに目を奪われ続けるならばイエス・キリストがわからなくなる。

(注)別エントリー「試論:『イエスは全人類の模範』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5948

試論:使徒言行録5章33節を140文字以内で

使徒言行録5章33節はユダヤの最高法院の人々が使徒たちに殺意を抱いたと記す。ユダヤの宗教指導者たちはそれまで、イエス一人だけが死ねば、彼の活動の成果は自然消滅すると考えていた。確かにイエスの十字架の左右で十字架につけられたのは使徒たちではなかったが聖霊が使徒たちを成長させていた。

(注)別エントリー「試論:『使徒たちを強めた聖霊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16002

【追記】

主はヨハネ18章36節で「わたしの王国はこの世に属していない」と繰り返された。敵たちは、イエス一人を殺しさえすれば目的は達成されると考え、弟子たちなど眼中になかった。使徒の一人は銀貨三十枚で裏切り、残りの使徒も一人を除いて逃げたが、使徒言行録2章40節「ペトロは力強く証しした」。

(注)別エントリー「試論:キリストの『バシレイア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15833

試論:ヨセフとマリアとの年齢差を140文字以内で

創世記で、イスラエルの十二部族の始祖となったヤコブの十二人の息子は四人の女性から産まれたため、必然的に古代のイスラエル人の共通の母はヤコブの母リベカになる。リベカは「若い娘」の時分に父の従兄弟イサクと結婚したがイサクは既に四十歳だった。この年齢差を旧約の民は不自然と感じなかった。

(注)別エントリー「福音書の聖ヨセフと外典書の高齢者ヨセフ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4759

(注)別エントリー「主の御降誕の時ヨセフは何歳だったのか【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11500

(注)別エントリー「試論:四世紀の『イエスの兄弟』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13087

(注)別エントリー「『マリアの処女懐胎は誤訳に基づく話』説は本当か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1524

(注)別エントリー「『処女懐胎は誤訳に基づく話』説は本当か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1551

(注)別エントリー「婚約者の妊娠を知った時のヨセフの心情」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3092

(注)別エントリー「聖母と聖ヨセフが終生童貞である理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4464

試論:「良いことだけを求める」を140文字以内で

主の養父ヨセフについて、マタイ1章19節はディカイオス(正しい人、義人)というギリシア語で表現するが、古代ギリシア語訳箴言11章23節は、ディカイオスは良いことだけを求めると記す。神の御独り子が人間の「みどりご」(イザヤ9章)となられて来られた際、善だけを求める人が養父になった。

(注)別エントリー「聖ヨセフ:ディカイオスを旧約聖書で考察」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1613

【追記】

マタイ1章19節のギリシア語本文は聖ヨセフを「ディカイオス」(新共同訳では「正しい人」)と表現するが、古代ギリシア語詩編111(112)編6節は、「ディカイオス(新共同訳では「主に従う人」)はとこしえに揺らぐことがなく彼はとこしえに記憶される」として最大級の賛辞で、表現している。

マタイ1章19節は主の養父ヨセフを「正しい人(ディカイオス)」と表現する。25章の「最後の審判」におけるディカイオスは、隣人が何らかの助けを必要としている時に、必要とされている助けを提供して困り事を解決する人を指し、ヨセフはイエスとマリアが本当に必要としていることだけを実行した。

マタイ福音書は後世への教訓に、最初の二つの章で主の養父ヨセフを模範として掲載した。ヨセフは忍耐強く、情け深く、自慢せず、高ぶらず、礼を失わず、自分の利益を求めず、恨みを抱かず、苛立たず、不義を喜ばず、真理を喜んだ。イエスとマリアのために、全てのことを忍び、確信し、待望し、耐えた。

(注)別エントリー「試論:マリアとヨセフに倣う事柄を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7012

レビ19章14節は隣人愛(同18節)に反する行為として、耳や目の不自由な人々に対していやがらせを行うことを禁じている。神なる主が日本語で意地悪と呼ばれる行為を忌み嫌っておられることは当然で、ヨセフが家長として、イエスやマリアに対して意地悪のたぐいを全く行わなかったのも当然である。

主イエスの御養育に当たり、ヨセフとマリアの二人がまず絶対に口にはしなかったであろう言葉がある。それは「あなたは神の子なのだから、わたしたちが助けなくともできるはずだ」の類いで、なぜならそれは荒れ野で誘惑したサタンや十字架の周りで嘲っていた敵たちに特有の悪意を含んでいるからである。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1982

マタイ4章で荒れ野におられる主の前に現れた悪魔は、「神の子なら、石がパンになるように命じたらどうだ」「神の子なら、飛び降りたらどうだ」「わたしを拝むなら、すべてを与えよう」などと主を誘惑したが、御受難の際に主を侮辱した多くの人々も、例外なく荒れ野の悪魔と同じような口振りであった。

(注)別エントリー「悪に巻き込まれないためにどうすべきか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4814

(注)別エントリー「レビ記19章17節:理由のない悪意」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4826

【問】カトリックはマリアとヨセフを特別扱いしますが、なぜですか?【答】二人が「みどりごとして来られた神」を心と魂と力を尽くし(申命記6章5節)真心を込めて御養育することで、何十年もの間、神に対してまっすぐに向き合い、その結果として永遠の命に到達し後世の人々の模範となったからです。

(注)別エントリー「聖家族はどのような雰囲気の中で暮らしていたのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5246

主イエスの養父ヨセフはマタイ1章19節で「正しい人」と呼ばれるが、25章の「最後の審判」において「正しい人」は永遠の命が確約された人である。母マリアはルカ1章42節で「女の中で祝福された方」と呼ばれるが、マタイ25章34節では「祝福された人」は同じく永遠の命が確約された人である。

(注)別エントリー「試論:『神の母』聖書的根拠を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13155

(注)別エントリー「試論:『親しき仲にも礼儀あり』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13120

試論:ヨハネ3章の「真実」を140文字以内位で

ヨハネ3章33節は「天から来られた方のあかしを受け入れる者は、その方が真理である方だと、確認したことになる」と記す。主イエスは同14章6節で「真理」を自称され黙示録3章14節は主イエスを「アーメンである方」と呼ぶが、ヘブライ語で「アーメン」「真理」は共に「信じる」に由来している。

(注)別エントリー「試論:『真理を行う者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16184

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

【追記】

ヨハネ3章33節は主イエスを「真実(=真理である方)」と呼び、黙示録3章14節は主イエスを「アーメンである方」「誠実」「真実」等と呼ぶ。黙示録では19章11節の「白馬の騎手」が「誠実」「真実」と呼ばれ、同章13節は「神の御言葉」16節は「王の王、主の主」と、「白馬の騎手」を呼ぶ。

「真理(ギリシア語本文でアレテイア)とは何か」(ヨハネ18章38節)の答えをマルコ12章32節は「神は唯一で他に神はない」ことがアレテイアとし、主はこれを「適切な答え」とされた(34節)。ヨハネ14章6節「わたしこそが道、真理、命」10章30節「わたしと父とは唯一のものである」。

(注)別エントリー「試論:『御父と御子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7544

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

(注)別エントリー「試論:ヨハネ14章6節の『道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9342

プロテスタントの文語訳聖書『改訳 新約聖書』(1917年)では、ヨハネ14章6節で「真理(まこと)」と平仮名を振る。詩編145編18節「主は、まことをもって呼び求める人々すべての近くにおられる」に対応するためだが、詩編のこの節の「まこと」とは、《真心(まごころ)》を意味している。

エレミヤ10章10節は「主は真理の神」と記すがこの章では、自分では言葉を話せない偶像の神々と違い、イスラエルの神である主は御自ら、御言葉を発せられて真正な御教えを御自分の民にお話しになられる(申命記5章22節以下)という事柄を要約する表現として、「真理〔の神〕」が用いられている。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

エレミヤ10章10節は「主は真理の神、命の神、永遠を支配する王」と呼ぶ。ヨハネ福音書で主イエスが御自身に関連して「真理」「命」「永遠の命」等の表現を頻用されること自体、御自身の神性の表明である。イエスに敵意を抱く人々からすると神に対する冒瀆であり、石打ちの刑に相当する事柄だった。

イスラエルの神である主は御自分の民に対して御自ら御言葉を発せられて御教えをお話しになり(申命記5章22節以下)、それこそが自分で言葉を話せない偶像の神と最も異なるとして、主をエレミヤ10章10節は「真理の神」と呼ぶ。主イエスはピラトに御自分が何者か「真理」の表現で端的に示された。

試論:「真理を行う者」を140文字以内で

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは真理である」と宣言された一方、3章21節では「真理を行う者は光の方に来る」と仰せになった。後者の「真理」は、《真理を自称される神の御独り子から、実際に教えられ、信じている事柄(内容)》を指す。ヘブライ語で「真理」は、「信じる」の派生語である。

(注)別エントリー「試論:悪人のままでもいいの??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16169

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書のアレテイアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15430

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

試論:「世を救われる御独り子」を140文字以内で

ルカ19章10節「人の子は、失われたものを捜して救うために来た」マタイ9章13節「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くため」ヨハネ3章17節「神が御子を世に遣わされたのは世を裁くためではなく、御子によって世を救うため」同16節「信じる者が永遠の命を得るため」。

(注)別エントリー「主の御降誕:救い主は何から人々を救うのだろうか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4445

【追記】

ヨハネ8章34節「罪を犯す者は、罪の奴隷」12章31節「今、この世の支配者が追放される」ヘブライ2章14節〜15節「御自分に委ねられた者たちが人間である以上イエスも同じく人間としての全てを担われたが、死を司る悪魔を御自分の死によって滅ぼし悪魔の罪と死の支配から人々を解放された」。

ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。

(注)別エントリー「試論:『キリスト教と十戒』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12564

ルカ2章21節でマリアの産んだ幼子はイエスと名付けられたが、その理由をマタイ1章21節では「その子は自分の民を罪から救うから」とヨセフの夢に現れた天使が語る。エレミヤ14章8節は救い主キリストの寄留者や旅人のような日々を預言し、ルカ9章58節は「人の子には枕する所もない」と記す。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888

ルカ2章11節は「あなたたちのために救い主がお生まれになった」マタイ1章21節は「この子は自分の民を罪から救う」と記す。イザヤ35節4節以下は「敵(サタン)を撃ち悪を罰する神が来られ、あなたたちを救われる」と預言し、目や耳や足や言葉の不自由な人々の回復が神の到来の徴になると続く。

マタイ1章でヨセフの夢に現れた主の天使は「マリアが産む子は民を罪から救う」と教えた。同じ事柄をペトロは使徒言行録3章26節で、「神は御自分の僕(しもべ、同13節参照)を立てられ遣わしてくださった。それは一人一人を悪から離れさせ、祝福(マタイ25章34節)に与らせるため」と説いた。

(注)別エントリー「試論:祝福された人と最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13187

マタイ1章21節は「自分の民を罪から救う」ルカ1章77節は「罪の赦しによる救い」と記し、主御自身もマタイ6章13節で「悪い者から救って下さい」と《主の祈り》を教えられ、ガラテヤ1章4節は「この悪の世からわたしたちを救い出そうとして御自身をわたしたちの罪のために献げられた」と記す。

ヨハネ1章29節「世の罪を取り除く神の小羊」の「取り除く」に当たるギリシア語は、一ヨハネ3章5節にも登場し、その前後では隣人愛の実践を奨励するが、同じ表現をエフェソ4章31節も用い、主に応えて信者が取り除くべき事柄を「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりを全ての悪意と共に」とする。

(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3277

主はヨハネ8章32節で「真理はあなたたちを自由にする(解放する)」と仰せになった。パウロはヨハネと同じギリシア語を用いて何からの解放か、その答えをローマ6章と同8章で説明した。「罪から解放」(6章18節、22節)、8章2節「罪と死の法則から解放」同21節「滅びへの隷属から解放」。

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

ヨハネ1章14節は「神の御言葉(=主イエス)は肉(=人)となられ、わたしたちの間に宿られた(=住まわれた)」と記す。マタイ20章28節では主御自身が「仕えられるためではなく仕えるため」「多くの人の身代金(=あがない)として自分の命を献(ささ)げるために来た」と仰せになられている。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

ヨハネ8章51節「わたしの言葉を守るならば、決して死ぬことがない」エゼキエル18章21節「悪人が全ての過ちから離れわたしの掟を全て守り正義と恵みの業を行うなら必ず生きて死ぬことはない」同31節以下「あなたたちは死んでもよいのか、わたしに立ち帰り生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」。

(注)別エントリー「試論:『決して死ぬことがない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15657

【問】ヨハネ8章51節「わたしの言葉を守れば決して死ぬことがない」の意味は?【答】マタイ7章12節のキリストの律法(あなたが他の人にしてもらいたいことを、あなたから他の人にしなさい)を忠実に実行するならマタイ25章の最後の審判で永遠の命にあずかり天国の福楽に達するという意味です。

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11494

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

マタイ7章21節「わたしに向かって『主よ、主よ』と呼ぶ者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入る」ルカ13章5節「あなたたちも悔い改めなければ皆、同じように滅びる」マタイ25章46節「この呪われた人々は永遠の罰を受け、義人たちは永遠の命にあずかる」。

(注)別エントリー「試論:『永遠の命の言葉を持つ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11244

(注)別エントリー「『永遠の命』と『新しい掟』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4905

(注)別エントリー「試論:『わたしは命である』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11586

(注)別エントリー「試論:『御言葉によって生きる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11157

試論:「命の言葉」を140文字以内で

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは命である」と仰せになった。古代のヘブライ人にとって「命」はあらゆる幸福の総称(申命記30章参照)だが。使徒言行録5章20節や一ヨハネ1章1節は主イエスの御言葉つまり福音を「命の言葉」と呼び、フィリピ2章16節も命の言葉を指針とするよう勧める。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『永遠の命の言葉を持つ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11244

【追記】

申命記30章15節には「わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く」とある。この章で「命」は、「祝福」(1節)「幸い」(5節)「恵み」「実り」「繁栄」「喜び」(9節)等の総称で、20節は「あなたの神、主を愛し、御声を聞き、付き従いなさい。それこそあなたの命である」と説く。

(注)別エントリー「試論:『永遠の命』の『命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16171

試論:光よりも闇の方を好む人々を140文字以内で

ヨハネ3章19節「光(=救い主イエス・キリスト)が世に来たのに、人々は自分の行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだが、そのこと自体で既に裁かれている」マタイ7章21節「わたしに向かって『主よ、主よ』と呼ぶ者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入る」。

(注)別エントリー「試論:悪人のままでもいいの??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16169

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章4節『命の光』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7297

(注)別エントリー「試論:『光のある間に歩め』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15910

(注)別エントリー「試論:『わたしは世の光』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15561

(注)別エントリー「試論:『人間を照らす光』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7227

試論:「永遠の命」の「命」を140文字以内で

申命記30章15節には「わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く」とある。この章で「命」は、「祝福」(1節)「幸い」(5節)「恵み」「実り」「繁栄」「喜び」(9節)等の総称で、20節は「あなたの神、主を愛し、御声を聞き、付き従いなさい。それこそあなたの命である」と説く。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

【追記】

有名な「命の木」という表現は創世記と黙示録に登場し、主なる神が人間のために準備された何物かを指す言葉だが、箴言3章18節では知恵に関連してこの表現を用いて、それが幸福の源であると示す。11章30節「神に従う人の結ぶ実」13章12節「叶えられた望み」15章4節「癒しを与える言葉」。

(注)別エントリー「試論:『主にとって赦しも癒し』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6013

ヨハネ1章4節は「言(ことば)の内に命があり、命は人間を照らす光」と記す。これはヨブ33章27節以下「わたしは罪を犯し正義を曲げたが、すべきでなかった。神はわたしの魂を滅びから救われ、命を得てわたしは光を仰ぐ」を踏まえており、主が御言葉で人間の魂を滅びから救われることを宣言する。

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

(注)別エントリー「試論:『人間を照らす光』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7227

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

箴言15章4節では赦しを与える言葉を命の木と記し、相手に安堵と幸福を与える言葉を「命」と表現した。創世記50章では父の死を機に復讐されるのではないかと恐れる兄たちに対し、ヨセフは赦しを再確認する言葉で安堵させた。ヨハネ6章68節は主イエスを「永遠の命の言葉を持つ」と表現している。

主はマタイ4章4節で、「人はパンだけで生きる者ではなく、主の口から出る全ての言葉によって生きる者である」と申命記8章3節の言葉で、悪魔の誘惑に返された。ヨハネ1章1節は、御父の独り子である御子イエス・キリストを「神の御言葉」と呼ぶ。福音書の主の仰せを抜きにした信仰などありえない。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

ローマ8章6節の直訳は「肉の思いは死、霊の思いは命と平和」。ヘブライ人は人間由来の事柄を「肉」、神に由来する事柄を「霊」と呼び、あらゆる幸福を「命」あるいは「平和」と総称した。この節は「人間由来の願望は死で終わるが、神に由来する願望は人間をあらゆる幸福へと導く」という意味である。

(注)別エントリー「試論:『肉と霊』の対比を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7740

(注)別エントリー「試論:ガラテヤ5章の『肉と霊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7657

(注)別エントリー「試論:聖書と『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7649

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

マタイ25章の最後の審判を踏まえれば天の国と永遠の命は同義であり、主は天の国を13章44節で持ち物を全て売り払ってでも自分のものとすべき宝と表現された。「もし永遠の意味するものを理解したならば、人々は全ての努力を払ってでも自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「試論:『永遠の意味を理解する』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7496

(注)別エントリー「試論:『招かれる』『選ばれる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8012

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

試論:悪人のままでもいいの??を140文字以内で

ヨハネ8章51節「わたしの言葉を守るならば、決して死ぬことがない」エゼキエル18章21節「悪人が全ての過ちから離れわたしの掟を全て守り正義と恵みの業を行うなら必ず生きて死ぬことはない」同31節以下「あなたたちは死んでもよいのか、わたしに立ち帰り生きよ。わたしは誰の死も喜ばない」。

(注)別エントリー「試論:『決して死ぬことがない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15657

【追記】

【問】ヨハネ8章51節「わたしの言葉を守れば決して死ぬことがない」の意味は?【答】マタイ7章12節のキリストの律法(あなたが他の人にしてもらいたいことを、あなたから他の人にしなさい)を忠実に実行するならマタイ25章の最後の審判で永遠の命にあずかり天国の福楽に達するという意味です。

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11494

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

マタイ7章21節「わたしに向かって『主よ、主よ』と呼ぶ者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入る」ルカ13章5節「あなたたちも悔い改めなければ皆、同じように滅びる」マタイ25章46節「この呪われた人々は永遠の罰を受け、義人たちは永遠の命にあずかる」。

(注)別エントリー「試論:『永遠の命の言葉を持つ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11244

(注)別エントリー「『永遠の命』と『新しい掟』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4905

(注)別エントリー「試論:『わたしは命である』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11586

(注)別エントリー「試論:『御言葉によって生きる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11157

【問】ヨナ3章5節には「ニネベの人々は神を信じた」とありますが、ニネベの人々はイスラエルの神なる主に対し、いったい何を信じたのですか?【答】神は悪から離れる者全てに対して憐れみ深く優しい方であることを信じ、善からぬことをいっさい捨てて心の底から悔い改めていることを神に示しました。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

(注)別エントリー「試論:『ガリラヤからの預言者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15449

(注)別エントリー「試論:エゼキエル18章のまとめを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14893

主イエスはルカ11章29節以下で、ヨナの説教に悔い改めたニネベの人々と、ソロモンの知恵を聞くためにエルサレムを訪れたシェバの女王を引き合いに出されたが、この仰せには当然「あなたたち今の時代のイスラエル人は、ニネベの人々やシェバの女王にまさるものなのか」のニュアンスも含まれている。

(注)別エントリー「試論:『ニネベの回心』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11018

主イエスはルカ11章29節で、しるしを欲しがる人々を「今の時代の者たちはよこしま」と仰せになった。同4章3節「神の子ならば、この石にパンになるように命じたらどうだ」同9節「神の子ならば、ここから飛び降りたらどうだ」同23章35節「もし選ばれた者ならば、まず自分自身を救ってみろ」。

(注)別エントリー「試論:『しるしを欲しがる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14861

試論:「ユダヤ人とキプロス島」を140文字以内で

マケドニアの大征服者アレクサンドロス大王の死後、武将たちによる領土の分割の結果、ユダヤはキレネやキプロス同様エジプトが本拠のプトレマイオス王朝に百数十年支配された。ダニエル書はこの王朝を「南の王」と呼んだ。この王朝はユダヤ人のエジプト(キレネやキプロスも含む)への移民を奨励した。

(注)別エントリー「試論:『ユダヤ人とキレネ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15734

(注)別エントリー「試論:エゼキエル戦争を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4921

(注)別エントリー「予備的考察:いわゆる『エゼキエル戦争』【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15520

【追記】

ペルシア王によってユダヤ人は捕囚から解放され帰還したが、ユダヤ人の自治に委ねられた領土はエルサレムとその近辺のみで、かつての独立王国と比較にならない小ささで周辺異民族から容易に干渉を受けやすく、さらにユダヤ人は「産めよ増やせよ」で人口増加が著しいため、「南の王」は移民を奨励した。

バビロン捕囚から帰還したユダヤ人が、周辺異民族の妨害でエルサレム復興に苦心していた紀元前五世紀、総督ネヘミヤの調査により当時の「預言者」たちが周辺異民族に買収され偽の「預言」を発していた不祥事が判明した(ネヘミヤ6章)。以後、洗礼者の登場まで預言者が公然と活動することはなかった。

(注)別エントリー「試論:マラキから洗礼者までを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6696

預言者イザヤの時代にサマリアが陥落後、アッシリアがガリラヤを占領し、住民は東方に連行され代わりに異邦人が住み着いた。六百年以上後(主の御降誕の約百年前)にユダ・マカバイの一族がガリラヤを征服した後、多数のユダヤ人がガリラヤに入植して異邦人の影響は一掃され主イエスの到来へと至った。

(注)別エントリー「福音書の時代におけるガリラヤ」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/2354

(注)別エントリー「主イエス・キリストがインマヌエルである理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1338

試論:「預言や奇跡よりも」を140文字以内で

主イエスはマタイ7章22節以下で、神が人々に求めておられるのは預言でも奇跡でも悪霊を追い出すことでもなく、ただ悪を行わないことだと示唆された。ヨセフは1章19節で義人と呼ばれるが、25章の最後の審判では義人は隣人の困り事に親身に対応する無私の人そして永遠の命を確約された人を指す。

(注)別エントリー「『永遠の命』と『新しい掟』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4905

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

【追記】

パウロは一コリント13章で愛こそ諸徳の中で最上のものと説くが、ローマ13章10節では愛は隣人に悪を行わないと説く。これは主イエスがマタイ7章22節以下で仰せになった内容(たとえ預言や奇跡や悪霊を追い出すこと等を行おうとも、悪を行わないことを疎かにするなら無意味)と完全に合致する。

(注)別エントリー「試論:『献金泥棒』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11983

主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちは、自分が他の人からしてほしいことを、自分から他の人にしなさい」と《愛の掟》を教えられた。従って「愛の反対」は「他の人からしてほしくないことをあえて他の人に行うこと」そして「他の人からしてほしいことをあえて他の人には行わないこと」からなる。

(注)別エントリー「試論:キリストの律法と愛の反対を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12004

主イエスはマタイ7章22節以下で、預言や奇跡や悪霊を追い出すことよりも、悪を行わないことこそが重要で御自分の弟子である証明だと教えられた。イスカリオテのユダは悪霊を追い出す権能と病気を癒す力を使徒の一人として与えられたが(ルカ9章)、献金を泥棒していたためサタンが彼の中に入った。

二ペトロ2章は「偽教師」への警戒を呼びかける。彼らは「滅びをもたらす異端を持ち込み、主を拒む」(1節)、「欲が深く虚言で人々を食い物にする」(3節)、「厚かましく、わがまま」(10節)「昼間から歓楽にふけるのを愉しみとする」(13節)「無意味な大言壮語」(18節)等の特徴を持つ。

(注)別エントリー「試論:二ペトロ2章の『偽教師』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10808

主イエスはマタイ7章22節以下で、預言や奇跡や悪霊を追い出すことよりも、悪を行わないことが重要であり唯一それが御自分の弟子としての証明であると仰せになった。これを踏まえてパウロはローマ13章10節で「愛とは悪を行わないこと」と明確に定義し、一コリント13章では愛の重要性を説いた。

「信じてさえいれば神の御言葉を実行しようとしまいと最終的には救われる」と考える人は、神の御言葉を「実行したい」と口では言うものの「暇があれば」「気が向けば」程度の大概さである。主イエスはマタイ23章で「言うだけで実行しない」(3節)人々を「偽善者」と呼び厳しい言葉で糾弾なさった。

(注)別エントリー「試論:『言うだけで実行しない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11912

(注)別エントリー「試論:信仰義認の欺瞞を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11920

(注)別エントリー「試論:ローマ3章『信仰と律法』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8650

マタイ7章21節「わたしに向かって『主よ、主よ』と呼ぶ者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入る」ルカ13章5節「あなたたちも悔い改めなければ皆、同じように滅びる」マタイ25章46節「この呪われた人々は永遠の罰を受け、義人たちは永遠の命にあずかる」。

(注)別エントリー「試論:『永遠の命の言葉を持つ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11244

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

試論:ヨハネ3章14節を140文字以内で

主はヨハネ3章14節で、モーセが荒れ野で「青銅の蛇」(民数記21章8節以下)を上げた(=高く掲げて顕示した)ことに言及された。御自身もやがて十字架上に上げられるが、それは旧約の民が「青銅の蛇」によって命を得たように、御自分の民が永遠の命を得るためである(コロサイ1章20節参照)。

(注)別エントリー「試論:真理と贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9081

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

【追記】

ヨハネ8章34節「罪を犯す者は、皆、罪の奴隷である」32節「真理はあなた方を自由にする」ヘブライ2章14節〜15節「御自分に委ねられた者たちが人間である以上イエスも同じく人間としての全てを担われたが、死を司る悪魔を御自分の死によって滅ぼし悪魔の罪と死の支配から人々を解放された」。

主はヨハネ8章32節で「真理はあなたたちを自由にする(解放する)」と仰せになった。パウロはヨハネと同じギリシア語を用いて何からの解放か、その答えをローマ6章と同8章で説明した。「罪から解放」(6章18節、22節)、8章2節「罪と死の法則から解放」同21節「滅びへの隷属から解放」。

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7514

(注)別エントリー「試論:世の罪を取り除く神の小羊を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6140

詩編49(48)編8(7)節は、神に対して人間が贖いの業を行うことはできないと記す。とはいえ神の御独り子が自ら人間となられて自分の「からだ」を「身代金」として贖いの業を行われた時の「からだ」は、マリアから受けたものだった。マリアは極めて特別な形でイエスの贖いの業に「参加」をした。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7795

(注)別エントリー「試論:『履物を脱ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8620

主はヨハネ12章23節で「人の子が栄光を受ける時が来た」と仰せになった。御受難(十字架上の死)によって多くの人々に永遠の命をもたらし(24節〜25節)「死を永久に滅ぼす」(31節、イザヤ25章8節、一コリント15章54節、ヘブライ2章14節以下、コロサイ1章20節等)ためである。

(注)別エントリー「試論:『自分の命を憎む人』??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9419

ヨハネ12章27節「わたしはまさにこの時(=御自身がゴルゴタにおいて十字架上に『上げられる<高い所に掲げられて顕示される>』御受難の時)のために来た」マタイ20章28節、マルコ10章45節「人の子は、多くの人々の身代金(=あがない)として、自分の命を献(ささ)げるために、来た」。

主はヨハネ12章24節で「一粒の麦もし死なずば」の一節の前に、ギリシア語本文では二度「アーメン」と口にされた。通常この箇所は「まことにまことに」「よくよく」「はっきり」等と訳されるが、主はこうなさることで、そこが御教えの核心部分だと示された(31節及びコロサイ1章20節等参照)。

ヨハネ1章14節は「神の御言葉(=主イエス)は肉(=人)となられ、わたしたちの間に宿られた(=住まわれた)」と記す。マタイ20章28節では主御自身が「仕えられるためではなく仕えるため」「多くの人の身代金(=あがない)として自分の命を献(ささ)げるために来た」と仰せになられている。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

主はヨハネ14章27節で「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と仰せになった。ではどうやって主は御自分の平和をお与えになったのか、パウロがコロサイ1章20節で「その十字架の血によって」と答えを記した。

主の御受難を預言したイザヤ53章7節では、出エジプトの代価となった「小羊」(出エジプト記12章3節等)を想起させる一方で、「屠(ほふ)り場に引かれる」と表現してイサクの犠牲の身代わりとなった羊(創世記22章13節)をも想起させ、主の御受難が人々の身代わりであることを再認識させる。

(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7479

エレミヤ11章19節「わたしは、飼い馴らされた小羊が屠(ほふ)り場に引かれて行くように、何も知らなかった。彼らはわたしに対して、悪巧みをしていた」ヨハネ5章39節「聖書はわたしについて、あかしをするものだ」ルカ24章44節「わたしについて預言者の書にある事柄は必ず全て実現する」。

(注)別エントリー「試論:主イエスと旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7462

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4783

試論:使徒言行録4章32節を140文字以内で

主はヨハネ10章30節で「わたしと父とは一つ」と仰せになった後、17章では弟子たちのために天を仰いで祈られたが、それは御父と御自分が「一つ」であるように、弟子たちもまた「一つ」となるためであった(11節、21節〜23節)。使徒言行録4章32節「信じた人々の群れは心も思いも一つ」。

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

【追記】

ヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」の意味を使徒言行録4章32節は「心も思いも一つ」「持ち物を自分だけのものと主張せず共有している」と説明する。従って、御父の持ち物は御子の持ち物でもあり逆もまた然りである。ヨハネ10章38節「わたしは父の内にあり、父はわたしの内におられる」。

ニケア・コンスタンチノープル信条「父と一体」はヨハネ10章30節「わたしと父とは一つ」と38節に拠り、御父と御子の間には矛盾・対立・齟齬の類は一切ないことを表す。ギリシア神話では最高神ゼウスと父クロノス、クロノスと父ウーラノスの父子相剋が存在するが、キリスト教には全く存在しない。

主はマタイ11章27節で、全てのことは御父から御自分に任せられていると仰せになった。これは、既にダニエル7章13節以下で啓示された事柄であり、マタイ28章18節やルカ10章22節やヨハネ3章35節や同13章3節等、福音書では事ある毎に強調される「真理(ヨハネ14章6節)」である。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書のアレテイアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15430

(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

《御父である神、主》と《御子である神、主イエス》とは、詩編110編1節では御父は「主」、御子は「わが主」でありマタイ22章44節で御父は「主」、御子はダビデの言う「わたしの主」である。ヨハネ1章1節では御父は「神」、御子は「言(ことば)」であり、「言は神であった」と記されている。

(注)別エントリー「試論:「わたしの主」は誰?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7536

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは道」と仰せになり、「わたしを通らなければ、誰であれ御父には到達できない」と続けられた。パウロはエフェソ2章14節でユダヤ人と異邦人をこの点において隔てる壁はないと記し、ローマ10章12節でも「ユダヤ人とギリシア人の区別はない」と明言している。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

主イエスの御前でユダヤ人と異邦人の「区別」が存在しないことはエフェソ2章14節以下、使徒言行録15章9節「わたしたちと彼らの間に何の差別もなさいません」、ローマ3章29節「神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもあります」、一コリント12章13節、ガラテヤ3章28節以下等。

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは道」と仰せになり、「わたしを通らなければ、誰であれ御父には到達できない」と続けられ、また御昇天前にマタイ28章19節で「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じられた。パウロもローマ10章12節で「ユダヤ人とギリシア人の区別はない」と説く。

(注)別エントリー「試論:『イエスは全人類の模範』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5948

(注)別エントリー「試論:『わたしは道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7818

主が「わたしは道」(ヨハネ14章6節)と仰せになる場合、自身が御父へ通じる唯一無二の存在であると示唆するだけではなく、日本語の「人としての道から外れる」と同様に、誰もがそこを通って進んで行くべき人間としての道筋つまり御父である神の御前における模範(同13章15節)の意味をも含む。

試論:「どこから」を140文字以内で

主イエスはヨハネ3章8節で、「風」「霊」等の表現を用いられ神に由来する存在(聖霊)に関し「それがどこから来てどこへ行くのか、あなたたちは知らない」と仰せになった。「どこから」という表現はカナのぶどう酒の奇跡の際(2章9節)やサマリアの女性との対話(4章11節)にも用いられている。

(注)別エントリー「試論:『どこから来たのか』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15880

(注)別エントリー「試論:『どこからどこへ行くか』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15556

試論:使徒言行録4章と詩編2編を140文字以内で

使徒言行録4章25節以下は詩編2編を引用し預言されたメシアつまりイエスに対する「逆らい」が、エルサレムで実際に行われたと記す。幼子イエスの神殿奉献の際シメオンは、「反対を受けるしるし」(ルカ2章34節)という言い回しを用いて母マリアにこのことを預言しマリアとヨセフを驚かせていた。

【追記】

詩編2編7節以下「主はわたしに対して仰せになった。『あなたはわたしの子である。今日わたしはあなたを生んだ。あなたはわたしに対して求めなさい。わたしは国々をあなたの相続財産とし、地の果てまでも、あなたの領土とする。あなたは国々を鉄の杖で打ち、陶工が器を砕くように砕くことだろう』」。

(注)別エントリー「試論:詩編2編のメシアと鉄の杖を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11450

試論:ヨハネ3章6節「霊から」を140文字以内で

古代のヘブライの世界観に従いガラテヤ5章は「人間(人間それ自体)」を「肉」、「神〔に由来するもの〕」を「霊」と呼ぶ。ヨハネ3章6節「霊から生まれた者は霊」も同様の文脈だが、その意味を同1章12節では「神の御言葉である主イエスは自分を受け入れる人に神の子となる資格を与えた」と記す。

(注)別エントリー「試論:ガラテヤ5章の『肉と霊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7657

(注)別エントリー「試論:聖書と『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7649

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

【追記】

主イエスはヨハネ3章5節で「誰でも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と仰せになった。これはエゼキエル36章25節以下「わたしがあなたたちの上に清い水を振りかける時、あなたたちは清められ、わたしはあなたたちの中に新しい霊を置く」と同様、洗礼を示唆している。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ3章5節『水と霊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16130

ガラテヤ5章は「肉」と「霊」の対立を記すが、ヨハネ1章同様、パウロは古代のヘブライの世界観に基づき、人間そのものを「肉」と表現して「霊」つまり「神の霊」と対比する。近代人は「肉と霊」という表現から「〔人間の〕肉体と〔人間の〕霊魂の対立」をイメージしがちだが、パウロの意図は異なる。

試論:ヨハネ3章5節「水と霊」を140文字以内で

主イエスはヨハネ3章5節で「誰でも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と仰せになった。これはエゼキエル36章25節以下「わたしがあなたたちの上に清い水を振りかける時、あなたたちは清められ、わたしはあなたたちの中に新しい霊を置く」と同様、洗礼を示唆している。

(注)別エントリー「試論:『わたしが与える水』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10708

【追記】

「わたしが清い水を振りかける時、あなたたちは清められる。わたしはあなたたちを、すべての汚(けが)れと偶像から清める」。古代のイスラエル人にとって「水を振りかけられて清められる」とは、民数記19節で命じられる「清めの式」の流儀で、この預言をカトリックでは洗礼に関する啓示と理解する。

(注)別エントリー「試論:出エジプト記14章と洗礼を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15912

(注)別エントリー「試論:『バプテスマ』と『洗い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15165

(注)別エントリー「バプテスマは身を沈める・身をひたすことか【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/20233

モーセの律法(レビ記14章など)では清めの儀式に用いる流水を「生きた水」と表現し(新共同訳は「新鮮な水」)、主イエスはヨハネ7章38節では人間を清い者とする聖霊の賜物を「生きた水」にたとえられ、同4章のサマリアの女との対話で御自分を「生きた水」(10節)を与える者だと表現された。

(注)別エントリー「試論:聖霊の働きの徴を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4984

エレミヤ17章13節以下は「イスラエルの希望である主」を「生ける水の源」と呼び、「主よ、あなたが癒してくださるならわたしは癒され、あなたが救ってくださるならわたしは救われます」と続く。イザヤ6章10節(マタイ13章15節、ヨハネ12章40節)では主による赦しは癒しと同一視される。

モーセの律法(レビ記14章など)では清めの儀式に用いる流水を「生きた水」と表現していた(新共同訳は「新鮮な水」)。勢いの良い流水は、澱んで濁った水と違い、清めの儀式に相応しい新鮮な清い水であるが、ヨハネ7章38節で主は、人間を清いものとする聖霊の賜物を「生きた水」にたとえられた。

試論:「命と平和」を140文字以内で

ローマ8章6節の直訳は「肉の思いは死、霊の思いは命と平和」。ヘブライ人は人間由来の事柄を「肉」、神に由来する事柄を「霊」と呼び、あらゆる幸福を「命」あるいは「平和」と総称した。この節は「人間由来の願望は死で終わるが、神に由来する願望は人間をあらゆる幸福へと導く」という意味である。

(注)別エントリー「試論:『わたしは命である』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11586

(注)別エントリー「試論:『平和があるように』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16112

(注)別エントリー「試論:『肉と霊』の対比を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7740

(注)別エントリー「試論:ガラテヤ5章の『肉と霊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7657

(注)別エントリー「試論:聖書と『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7649

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『永遠の命の言葉を持つ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11244

(注)別エントリー「『永遠の命』と『新しい掟』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4905

試論:「悔い改めないと滅びる」を140文字以内で

マタイ7章21節「わたしに向かって『主よ、主よ』と呼ぶ者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入る」ルカ13章5節「あなたたちも悔い改めなければ皆、同じように滅びる」マタイ25章46節「この呪われた人々は永遠の罰を受け、義人たちは永遠の命にあずかる」。

(注)別エントリー「試論:『永遠の命の言葉を持つ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11244

(注)別エントリー「『永遠の命』と『新しい掟』」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4905

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

(注)別エントリー「試論:『わたしは命である』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11586

(注)別エントリー「試論:『御言葉によって生きる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11157

試論:「神のいつくしみ」とは?を140文字以内で

マタイ6章26節以下「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしないが、天の父は鳥を養って下さる」「野の花がどのように育っているか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしなくとも、この花ほどは栄華を極めたソロモンも着飾らなかったが、神はこれほど装って下さる」。

試論:「平和があるように」を140文字以内で

主イエスは御復活の後、弟子たち(使徒たち)に初めて現われた際「あなたがたに平和があるように」と仰せになった。古代のヘブライ人にとって「平和」は全ての幸福の総称である。挨拶として長い形式ではサムエル上25章6節「あなたに平和、あなたの家に平和、あなたのもの全てに平和があるように」。

【追記】

マタイ5章9節「平和を実現する人」の「平和」とは、福音書の時代の人々にとっては単に戦争のない(終わった)状態を意味する以外に個々の健康や幸福・繁栄、人間関係の協調・一致や発展、社会や国家の安寧、暴動や反乱のない状態、心の(霊的な)安定など、物事が好転している状況の総称でもあった。

マタイ10章34節「わたしが来たのは平和をもたらすためだと思ってはならない」。この言葉の真意を三十数年前シメオンから聖母は預言されていた(ルカ2章34節)。「この子はイスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするしるしとして、また反対を受けるしるしとして、定められています」。

(注)別エントリー「試論:母マリアと『剣』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7974

ルカ2章14節「地には平和」の「平和」は、福音書の時代のヘブライ人にとって単に戦争のない(終わった)状態を意味する以外にも、個々の健康や幸福・繁栄、人間関係の協調・一致や発展、社会や国家の安寧、暴動や反乱のない状態、心の(霊的な)安定など、物事が好転している状況の総称でもあった。

主はヨハネ14章27節で「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と仰せになった。ではどうやって主は御自分の平和をお与えになったのか、パウロがコロサイ1章20節で「その十字架の血によって」と答えを記した。

(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7479

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

主イエスはルカ10章で、御自分の教えを受け容れることになる人々を「平和の子」とお呼びになった。イザヤ9章5(6)節ではメシアの称号の一つを「平和の君」と啓示し、またパウロはフィリピ4章9節で自分たちの神を「平和の神」と呼ぶが、ヘブライ人にとって「平和」は全ての幸福の総称でもある。

ガラテヤ5章22節は聖霊の賜物の一つに「平和」を挙げる。これは古代のヘブライ人にとっては戦争のない(終わった)状態を表す以外にも、人間関係の協調・一致・発展、個々の健康・幸福・繁栄、心の(霊的な)安定、暴動・反乱のない社会や国家の安寧など、物事が好転している状況の総称でもあった。

(注)別エントリー「試論:『心も思いも』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10376

主イエスはマルコ4章26節以下の「種」のたとえで信仰の成長をお教えになったが、ヨハネ3章では同様の事柄をニコデモに別の表現で御説明され、同章8節は聖霊を「風」と表現する。同章とマルコ4章を比較すると、種が芽を出して日々ゆっくり成長するように聖霊は静かに働き続けると示唆されている。

聖パウロのガラテヤ書5章によれば、聖霊が働いている徴は愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・節制(22節〜23節)であり、聖霊が不在である徴は姦淫・わいせつ・好色・偶像礼拝・魔術・敵意・争い・そねみ・怒り・利己心・不和・仲間争い・ねたみ・泥酔・酒宴(19節〜21節)などである。

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを確実に識別できる基準」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4564

試論:「神の義」って何??を140文字以内で

主はマタイ6章33節で「神の国と神の義を求めよ」と仰せになり、ルカ10章で自分を《義化》(29節)することを望んだ一人の律法学者に対し、《善きサマリア人》の話をして、神の義とは困っている隣人を思い遣ることであると教えられた。マタイ1章19節「ヨセフは思い遣り深い人だったので〜」。

(注)別エントリー「試論:『善きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4544

(注)別エントリー「試論:『神の義とディカイオス』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8685

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

試論:ヨハネ20章22節「息」を140文字以内で

復活された主イエスはヨハネ20章22節で「聖霊を受けなさい」と仰せになり、弟子たち(使徒たち)へ息を吹きかけられた。この仕草は新約聖書では唯一ここだけで見られ、聖霊降臨の予告として行われた。聖書には祝福や権威の行使の象徴として一般的な、手を置く仕草があるが、それとは意味が異なる。

(注)別エントリー「試論:聖霊の働きの徴を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4984

(注)別エントリー「試論:『使徒パウロ』の誕生を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9844

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを識別する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14194

【追記】

主イエスはヨハネ20章22節で「聖霊を受けなさい」と仰せになって、弟子たちに息を吹きかけられた(創世記2章7節参照)。《人は神の口から出る全ての事柄で生きる》を示されるために、主はあえて息を吹きかける仕草を行われた。新約聖書には、弟子が同じ仕草を行う場面は一度たりとも登場しない。

(注)別エントリー「試論:『命の息』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14285

ルカ11章41節「器の中にある物を施せ」の「器」とは「土の器」「陶器」の比喩と同様、人間を指す。「器の中にある物」は人間に吹き込まれた「命の息」(創世記2章7節)つまり「霊魂」を意味する。イザヤ58章10節のヘブライ語表現「霊魂を注ぐ」は、「心を配る」(新共同訳)ことを意味する。

(注)別エントリー「試論:『器の中にある物を施せ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11264

主イエスはマルコ7章と8章及びヨハネ9章で御自分の唾を用いた癒しを行われた。本来、侮辱を与える行為と強く関連する唾だが、《人は神の口から出る全ての事柄で生きる》を示されるため、主はあえて唾で癒しを行われた。従って預言者たちも使徒たちも主イエス以外の誰も唾を使う癒しを絶対行わない。

(注)別エントリー「試論:神であり人であるキリストを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6725

(注)別エントリー「試論:『神が人となるためには』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7830

(注)別エントリー「試論:『人となられても神は神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6877

主イエスは荒れ野で悪魔(サタン)から誘惑された際「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの御言葉で生きる」と答えられた。「神の御言葉」とはヨハネ1章1節の通り主イエス御自身の称号であり、人間を生かす者は「神の御言葉」及び「命」(同14章6節)を自称される方である。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

試論:使徒言行録5章12節を140文字以内で

使徒言行録5章12節「使徒たちの手によって多くのしるしと不思議な業が民衆の間で行われた」マタイ10章1節「イエスは十二人の弟子を呼び寄せられて、汚(けが)れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いを癒すための権能をお授けになった」同章8節「無償で与えられたのだから、無償で与えなさい」。

【追記】

主イエスはマタイ10章で十二人を派遣される際、汚れた霊に対する権能に関し「ただで受けたのだからただで与えなさい」と仰せになり、取引の材料にしてはいけないと念を押された。使徒言行録8章で、魔術師シモンがこの権能を金(かね)で買おうとした際、ペトロは主の仰せを踏まえてシモンを叱った。

(注)別エントリー「試論:『息を吹きかけられる主』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14447

一ペトロ2章の冒頭では、霊的な成長とは悪意・偽り・偽善・ねたみ・悪口を捨て去ることと示唆し、使徒言行録8章では、魔術師シモンが聖霊のしるしを金で買おうとしてペトロに非難された。主イエスもマタイ7章22節以下で預言や奇跡や悪霊を追い出すことより悪を行わないことが重要と仰せになった。

(注)別エントリー「試論:『幼子のように』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11080

(注)別エントリー「試論:『主よ、主よ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5380

(注)別エントリー「試論:『預言よりも重要なこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11828

主イエスはマルコ4章26節以下の「種」のたとえで信仰の成長をお教えになったが、ヨハネ3章では同様の事柄をニコデモに別の表現で御説明され、同章8節は聖霊を「風」と表現する。同章とマルコ4章を比較すると、種が芽を出して日々ゆっくり成長するように聖霊は静かに働き続けると示唆されている。

聖パウロのガラテヤ書5章によれば、聖霊が働いている徴は愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・節制(22節〜23節)であり、聖霊が不在である徴は姦淫・わいせつ・好色・偶像礼拝・魔術・敵意・争い・そねみ・怒り・利己心・不和・仲間争い・ねたみ・泥酔・酒宴(19節〜21節)などである。

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを確実に識別できる基準」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4564

聖霊の七つの賜物という特別の恵みは、古代のギリシア語訳またラテン語訳のイザヤ書11章2節〜3節の記述に基づいており、

【1】知恵(上智)
【2】分別(識別)
【3】思慮(賢慮)
【4】剛毅(勇気)
【5】〔主に関する〕知識
【6】〔主に対する〕孝愛(信心)
【7】〔主に対する〕畏敬

などである。

(注)別エントリー「試論:聖霊降臨と聖母を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4990

パウロは一コリント14章33節で神は混乱(無秩序)の神ではないと記し、同30節で集会中に複数人が同時並行的に言葉を発することを禁じ37節で混乱は主の流儀ではないことを示唆した。ヨハネ17章11節等で主イエスが強く願われ使徒言行録4章32節で実現した、「一つ」に違反するからである。

(注)別エントリー「試論:『心も思いも』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10376

(注)別エントリー「試論:『混乱の神ではない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10363

主はヨハネ6章27節で御自分の仰せになる《神の御言葉》を「永遠の命に至る食べ物」にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「永遠の命にあずかる」と「天の国を受け継ぐ」は同義だが、御言葉を日々味わうことによって人は天の国を受け継ぐにふさわしい存在へと少しずつ霊的に成長するからである。

(注)別エントリー「試論:『パンと御言葉は不可分』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10226

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『主の祈り』と最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7047

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

一ペトロ2章の冒頭は「霊的な乳飲み子」について語っているが、ここでペトロは「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去る」ことを要請しており、当然ペトロは、あまりにも有名な「人から出て来るものこそ、人を汚す」で始まる、マルコ7章20節から23節の主の御言葉を念頭に置いて説明する。

主はマタイ18章で、「心を入れ替えて子供のようにならなければ決して天の国に入ることはできない」と仰せになり、「心を入れ替える」(3節)と「自分を低くする」(4節)の二つが、子供のようになるために必要であると教えられた。弟子たちは詩編131編を歌うたび以前から学んでいたはずである。

主はマタイ18章10節で、人間と神との連絡を行う天使の存在に言及され、たとえ幼子が言語や思考や体力や行動の面でおぼつかない存在であっても、幼子の非力を侮り良からぬ行動に出る者については全てを天使が逐一、神の御前で報告し、神は全てを御存知であると仰せになった(マタイ6章6節参照)。

(注)別エントリー「試論:『他人の弱みに乗じない』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7371

主はマタイ18章3節で、心を入れ替えて幼子のようになるように強く弟子たちへお命じになり、他方5章48節では、天の御父と同様に、皆も「完全」となるように主はお勧めになった。古代のギリシア語創世記では「完全」というこのギリシア語が、6章9節においてヘブライ語の「無垢」に対応している。

(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3277

主はマタイ18章6節以下で、無垢な信仰を持つ子供をつまずかせる者は不幸であり厳罰は必至だと示唆された。詩編37編23節以下は主が御旨にかなう道を人間のために準備され、また人間の手をとらえ歩みを定めておられると記す。子供をつまずかせる(御旨から外れさせる)行為は絶対に容認されない。

レビ記19章には18節に有名な隣人愛の掟があるが、それに先立つ箇所には隣人愛に反する様々な行為を禁じる掟が列挙される。14節では、耳の不自由な人がいる前でその人が聴こえないのをいいことに悪口を言う行為と、目の不自由な人が歩いて行く方向に障害物を置いて邪魔をする行為とが禁じられる。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

(注)別エントリー「試論:『理由のない憎しみ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6468

(注)別エントリー「レビ記19章17節:理由のない悪意」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4826

試論:黙示録1章と「主の変容」を140文字以内で

「主の変容」の際、マタイ17章2節は「その顔は太陽のように輝き」と記すが、黙示録1章16節は天上におられるキリストを「顔は照り輝く太陽のようであった」と記し、まさに「主の変容」において三人の使徒は「天上の体」を目撃した。黙示録1章でヨハネは「主の変容」を思い出し主の足許に倒れた。

(注)別エントリー「試論:『火も剣も御言葉の比喩』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7812

【追記】

主イエスは、ルカ9章の「主の変容」で三人の使徒に、「天上の体」(一コリント15章40節)すなわち死者の復活後の人間の姿(同章35節以下)をお示しになったが、当時三人の使徒は全く理解できなかった。「人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は愛する者たちに準備された」(同2章9節)。

「主の変容」の後、主イエスは「人の子が死者の中から復活するまでは今見たことを誰にも話してはならない」と命じられた。使徒たちは「天上の体」(一コリント15章40節)を目撃したのだが、まず主の御復活前後の実体験を経た上で復活の意義を理解しなければ、「天上の体」の理解もないからである。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888

主は高い山の上でモーセやエリヤと語り合われたが、語り合っているのは誰かがペトロには察しがついた。モーセは「神の杖」を手に携えていて(出エジプト記4章20節、17章9節)エリヤは「毛衣を着て腰には革帯を締めている」(列王記下1章8節)という外見的特徴からペトロは判断したのであろう。

「主の変容」とは、一コリント15章でパウロが言及する

「天上の体」(40節)

を主イエスが実際に三人の使徒へお示しになった意義深い出来事で、パウロは「天上の体」を

「朽ちないもの」(42節)

「輝かしいもの」「力強いもの」(43節)

「霊の体」(44節)

「天に属する者」(47節)

等と呼ぶ。

コヘレト12章7節では人間の肉体を「塵」と表現し死によって大地(創世記2章7節、3章19節)へ帰ると記すが、洗礼により「神の子とする霊」(ローマ8章15節)を受けた者の「霊」は対照的に、罪に脆い肉体の重荷から解放され「霊」をくださった「与え主」神の許へ帰るべきだと定められている。

(注)別エントリー「試論:『盗賊さえ楽園に達した』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8383

一コリント15章でパウロは「地上の体」「天上の体」という表現を用いて、《人間が地上で生活していた際の、死によって朽ちていく肉体》と《その人の霊が神の許に帰還した後で、神によって天上で新しく与えられる、朽ちることのない体》について説明し、後者を「霊の体」(44節)等と表現している。

(注)別エントリー「試論:『イエスは復活と命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8389

古代のヘブライ人の世界観に従ってガラテヤ5章は「人間(人間それ自体)」を「肉」、「神〔に由来するもの〕」を「霊」と呼ぶ。ヨハネ3章6節も同様の対比を用い、「霊から生まれた者は霊」の意味を1章12節は「神の御言葉である主イエスは自分を受け入れる人に神の子となる資格を与えた」と記す。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:ガラテヤ5章の『肉と霊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7657

古代のイスラエル人にとって「肉」という表現は「人間」を指す場合があった(ヨハネ1章14節等)。マルコ7章20節以下で主イエスが「人から出て来るものこそ人を汚す」と注意を促された諸悪と、ガラテヤ5章19節以下でパウロが「肉の業」と呼んで避けるように促した諸悪が同様なのは当然である。

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346

ガラテヤ5章は「肉」と「霊」の対立を記すが、ヨハネ1章同様、パウロは古代のヘブライの世界観に基づき、人間そのものを「肉」と表現して「霊」つまり「神の霊」と対比する。近代人は「肉と霊」という表現から「〔人間の〕肉体と〔人間の〕霊魂の対立」をイメージしがちだが、パウロの意図は異なる。

古代のヘブライ人は「肉」を、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけではなく魂も含めた人間の全体。)」を表す言葉として用いていた。創世記6章12節「すべて肉なる者は堕落の道を歩んでいた」(新共同訳)。日本語訳の「肉なる者」に対応する語は、ヘブライ語本文ではただ単に「肉」である。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7795

二世紀初めにアンティオキアの聖イグナティウスが記したように初代の信者は、キリストの御復活すなわち「天上の体」(一コリント15章40節)の創造の記念に、週七日の中で祝うべき特別の日を土曜日(ユダヤ教の安息日)から、御復活があった「週の最初の日(安息日の翌日)」日曜日へと置き換えた。

(注)別エントリー「試論:『安息日と主日との違い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12017

試論:「御受難と脇腹」を140文字以内で

御復活の朝、主を目の前にしてマグダラのマリアは、まず十人の使徒たちやトマスのように、手の釘の痕や脇腹の槍の痕を確認しようとしたはずである。主の「わたしに触れてはならない」は、「手や脇腹を見なくとも、あなたは少しの疑いの余地もなくわたしを認識できているでしょう?」の裏返しでもある。

(注)別エントリー「試論:『わたしに触れるな』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16000

【追記】

民数記20章11節「モーセが杖で岩を二度撃つと、水が迸り出たので皆で飲んだ」ヨハネ19章34節「兵士が槍でイエスの脇腹を刺すと血と水が迸り出た」一コリント10章4節「モーセ一行は皆、共におられた神に由来する超自然的な岩から、神の水を飲みましたが、この岩こそキリストだったのです」。

(注)別エントリー「試論:『わたしが与える水』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10708

試論:大祭司アンナスを140文字以内で

ヘロデ大王は本来終身制の大祭司職を、自分に忠実な祭司を指名し意のままに解任する存在とし、彼の死後は子孫の王たちやローマ総督も同じことを行った。アンナスはいったん総督により大祭司職を退かされたが、その後も娘婿カイアファの背後にあって、エルサレム神殿を牛耳り、主イエスの尋問も行った。

【追記】

ヘロデ大王が自分の意向次第の大祭司職の「首のすげ替え」を始めてしまったがために、福音書や使徒言行録の時代、現職の大祭司以外に元職の大祭司経験者が〔しばしば複数〕存在し、「祭司長たち」などと訳される。主イエスの御受難の際の大祭司はカイアファだが、元職のアンナスが裏では牛耳っていた。

ヘロデ大王は王妃の弟に当たる大祭司を謀殺した後、自分に忠実な祭司たちに大祭司の権力と財産を与え籠絡した。福音書の時代にユダヤの有力者の間で物事を買収で解決する風潮が蔓延した端緒だった。ユダは銀貨三十枚で買収され、御復活の主と婦人たちと天使とを目撃した番兵たちも金銭で口止めされた。

(注)別エントリー「ダニエル書7章:地上に興る第四の王国」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4631

主イエスはヨハネ8章15節で「あなたたちは肉に従って裁く」と仰せになった。ヨハネ福音書は人間的な事柄を「肉」、神に由来する事柄を「霊」と呼び対比する。ヘロデ王家は自分たちに同調する祭司へ大祭司の権力と富を与え籠絡していた。福音書における神殿の有力者たちの堕落はそれが原因であった。

(注)別エントリー「試論:『肉と霊』の対比を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7740

(注)別エントリー「試論:ガラテヤ5章の『肉と霊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7657

(注)別エントリー「試論:聖書と『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7649

試論:「七つの悪霊」を140文字以内で

マルコ16章9節はマグダラのマリアをイエスに七つの悪霊を追い出していただいた女性と記す。「七つの悪霊」として最も蓋然性が高い事柄は箴言6章17節以下に記される七つの悪徳(高慢、虚言、殺意、悪巧み、無分別、詐欺、偽証)を指すと思われる。マグダラは風紀の乱れた地として悪名が高かった。

(注)別エントリー「試論:『わたしに触れるな』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16000

試論:使徒言行録4章11節を140文字以内で

福音書に救い主の誕生日の記述はないが、旧約聖書のハガイ2章には「神殿の礎」すなわち《神の家の隅の親石(=主イエス・キリスト)》が備えられる日として、古いヘブライの暦で「第九の月の二十四日」という冬の日付が何度も啓示される。この日はユダヤ教のハヌカ(神殿奉献記念祭)と同時期である。

(注)別エントリー「聖書にはクリスマスの日付が載っていますか???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13267

【追記】

主イエスはマタイ21章42節で、詩編118編22節を踏まえ御自身を「家」の《隅の親石》に喩えられた。他方ハガイ2章は《主の神殿(=神の「家」)の基》が置かれる日(18節)としてヘブライ人の暦で「第九の月の二十四日」と冬の日付を何度も強調する。これはユダヤ教のハヌカと同時期である。

ハガイ2章では「神殿の基」(18節)が備えられる日である、古いヘブライの暦で「第九の月の二十四日」という日付が何度も提示される。この日は季節としては冬であり主イエスは御自身〔の体〕を「神殿」(ヨハネ2章19節)あるいは「[神の家の〕隅の親石」(マタイ21章42節)等と表現された。

有名な「隅の親石」という表現をテーマにしてペトロの手紙一の2章では解説を行う。まず6節で「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することがない」とイザヤ28章16節を引用し、一ペトロ2章7節ではこれを主イエスの境遇と関連付けて説明する。

主はマルコ12章10節で、「家を建てる者の捨てた石が隅の親石となった」と詩編118編22節を引用されて、イザヤ28章16節の預言「わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の貴い隅の親石。信じる者は慌てることがない」の御自身における成就を御説明された。

試論:「一緒に食事をする」を140文字以内で

ルカ12章36節以下「婚宴帰りの主人が戸を叩く時、目を覚ましていて、すぐ開けようと待つ人は幸い。主人は帯を締め、この僕(しもべ)たちを食事の席に着かせ給仕してくれる」ヨハネ21章9節以下「陸に上がると、炭火が起こしてあって上に魚があり、パンもあった。『さあ来て食事をしなさい』」。

【追記】

御復活の後に主イエスはヨハネ21章で、暗い時間から漁に出た弟子たちのことを、陸で魚を焼きながら朝食の準備をしてお待ちになっていた。御自分が「仕えられるためではなく、仕えるために来た」(マルコ10章45節)という事柄を、主はこのような経験を通して、弟子たちの心に深く刻み付けられた。

ヨブと議論を始められるに当たり、主は「腰に帯を締めよ」(ヨブ38章3節)と仰せになったが、これは「心の準備はできているか?」「さあ、用意はいいか?」という意味の古代イスラエルの慣用句であり、主イエスもこの言葉を、ルカ12章35節で「ともし火をともしていなさい」の前に仰せになった。

(注)別エントリー「試論:聞くだけの人を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5294

(注)別エントリー「試論:砂の上の家を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5563

(注)別エントリー「試論:『主よ、主よ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5380

(注)別エントリー「試論:神から受けた掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5418

黙示録3章20節は有名な「わたしは戸口に立って叩いている」という仰せを記す。ヤコブ5章9節は「裁く方が戸口に立っておられます。裁きを受けることのないように、互いに不平を言うのをやめましょう」と教え、ルカ12章36節は「いつでも戸を開けられるように準備をしなさい」と主の仰せを記す。

(注)別エントリー「試論:マタイ25章の十人の乙女を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5994

黙示録3章20節「わたしは戸口に立ち、戸を叩く。わたしの声を聞き、戸を開ける者は、わたしと一緒に食事をする」ルカ12章36節以下「婚宴帰りの主人が戸を叩く時、目を覚ましていて、すぐに開けようと待つ人は幸い。主人は帯を締め、この僕(しもべ)たちを食事の席に着かせ給仕をしてくれる」。

マタイ22章は神の御前に立つためには「礼服」が不可欠と教える。詩編132編は9節で「正義を衣としてまとう」16節で「救いを衣としてまとう」と表現して「救い」すなわち神と共にある条件を、「正義」すなわち「神の義」(マタイ6章33節)とし、その具体例をコロサイ3章12節以下が教える。

(注)別エントリー「試論:マタイ22章『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6740

マタイ6章14節の主の御言葉「あなたが他人を容赦するなら、天の父もあなたの過ちを容赦される」を聞いた当時のヘブライ人はすぐ詩編18編の21節から27節を連想し、また「神は高慢な者を敵とし、へりくだる人に恵みをお与えになる」(箴言3章34節、一ペトロ5章5節)も連想したはずである。

(注)別エントリー「試論:主の祈りと赦しを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5305

(注)別エントリー「試論:他人を赦すことを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5300

(注)別エントリー「高慢(おごり・高ぶり)が人間にもたらすものとは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5265

(注)別エントリー「試論:『神の義とディカイオス』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8685

主はマタイ6章33節で「神の国と神の義を求めよ」と仰せになり、また同22章では神の国で神の御前に立つために不可欠な「神の義」を、「礼服」にたとえられた。この「礼服」すなわち「神の義」とは何であるかについて、パウロはコロサイ3章で、キリストの弟子が身に着けるべきものとして説明した。

マタイ22章「礼服」に関連して、パウロはコロサイ3章で、キリストに結ばれていたいと望む人々が「着る」つまり身に着けるべき事柄に関してとりわけ10節以下で論じ、5節から9節では脱ぎ捨てるべきものも説く。身に着けるべきは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、そして愛だとパウロは説いた。

試論:ローマ13章「愛の反対」を140文字以内で

ローマ13章10節は「愛は隣人に悪を行わない」と記す。これに従えば「愛の反対」とは「隣人に悪を行うこと」である。マタイ7章21節以下「わたしを『主よ、主よ』と呼ぶ者が皆、天の国に入るわけではない」「不法を働く者どもよ、わたしから離れ去れ。わたしはお前たちのことなど全く知らない」。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

【追記】

マタイ7章23節では主なる神が「不法を働く者たちよ、おまえたちなど知らない」と仰せになると記す。全知全能の神が彼らを知らぬはずはないが、神は知らないとあえて仰せになる。この場合「知らない」は拒絶の意味だが、不法を働く者こそが御教えを「知らない(わからない)」と拒絶した結果である。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

マタイ22章14節「招かれる者は多く選ばれる者は少ない」7章21節「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心(=神の義)を行う者だけが入る」23節「不法を行う者ども、あなたたちのことなどわたしは全く知らない。わたしから離れ去れ」。

(注)別エントリー「試論:『神は誰を選ばれるのか』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8051

(注)別エントリー「試論:『礼服』の意味を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8008

(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8105

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

ローマ3章28節では「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」と記すが、30節では「神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とされ、割礼のない者をも信仰のゆえに義とされる」と説く。つまり「人が義とされるのは割礼〔の有無〕によるのではなく、信仰による」の意味合いである。

ローマ3章でパウロは、「信仰」「律法」という表現で実際は、

《イエス・キリストを信仰する人々にとっての新しい掟=愛の掟》と、

《イエスを認めぬ人々の古い掟=律法の掟》を比較した。

人間を「義」とするのは《律法の掟》の実行ではなく、信仰に基づく《愛の掟》の実践(ガラテヤ5章6節)による。

(注)別エントリー「試論:『新しい掟』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7016

(注)別エントリー「試論:『永遠の命を得るには?』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11171

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『愛』と『愛の反対』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12199

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

マタイ22章14節「招かれる者は多く選ばれる者は少ない」の《選ばれない理由》をイザヤ65章12節は「呼んでも答えず、語りかけても聞かず、わたしの目に悪とされることを行い、わたしの喜ばないことを選んだからである」と記した。「笛を吹いたのに踊ってくれなかった」(マタイ11章17節)。

イザヤ59章2節「あなたたちの悪こそが、神とあなたたちの間を隔て、あなたたちの罪こそが、神の御顔を隠させ、神があなたたちに耳を傾けられるのを妨げている」ヨハネ14章24節「本当はわたしのことなど愛してはいない者は、決して御父とわたしの言葉や掟を受け入れはせず守ろうなどとしない」。

マタイ22章14節「招かれる者は多く選ばれる者は少ない」ルカ13章23節「救われる者は少ないのですか」27節「不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」マタイ6章33節「神の国と神の義を求めなさい」ヨハネ14章23節「わたしを愛する者はわたしの言葉を守り父とわたしはその人と住む」。

主はマタイ7章26節で「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は、砂の上に家を建てる人に似ている」と教えられた。22章14節「招かれる者は多いが選ばれる者は少ない」とは、《わたしの教えを耳にしたことのある者は多いが、それを真摯に受け止めて日々実践している者は少ない》という意味である。

主はマタイ13章45節以下で、「天の国」を全財産と引き換えにしてでも手に入れるべき真珠にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「天の国」は「永遠の命」と同義だが、「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「試論:『主の祈り』と最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7047

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

二テモテ3章でパウロは「終わりの時」の人々の姿を記した。自分本位で金銭を愛し、嘘をつき、神を畏れず嘲り、両親に従わず、恩知らずで、他人を侮り、情け容赦なく、強情で、中傷し、節度がなく、残酷で、善を行わず、裏切り、軽率かつ高慢、信仰を装いつつ実際は快楽を愛し、事実上は棄教している。

エフェソ4章の後半以降(17節以下)では、洗礼を受けた人が取るべき(また避けるべき)態度を教える。悪態をつき、無慈悲で、平然と悪口を言い、思う通りにならないと大声で喚き、怒鳴り散らし、相手が幼子や女性だと小馬鹿にして勝ち誇る人がいたとして、誰が彼のことを信者だなどと思うだろうか?

(注)別エントリー「試論:『ねたみや利己心のある』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12116

試論:「冷たい水一杯でも」を140文字以内で

もし仮にそれが名もない女性だったとしても、人となられた神のために、ただただ手料理を三十年前後もの間、作り続けた女性がもしも実際に存在したとするならば、その一事のみをもって、その女性は全世界から崇敬を集めるに値する。まして彼女は、裁縫も洗濯も掃除もその他全ての神の家の家事を行った。

(注)別エントリー「試論:聖母マリアってどんな方?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5920

【追記】

人類の歴史上マリアとヨセフの二人以外の全ての人間はただ神に自分の身を守っていただくばかりだったが、マリアとヨセフの二人だけはむしろ自分たち自身こそが、具体的な日々の行動をもって神そのものであられる「自分たちの子」主イエスをお守りすることに、何年も何十年も日々、身も心も砕き続けた。

(注)別エントリー「聖家族はどのような雰囲気の中で暮らしていたのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5246

試論:「わたしのような預言者」を140文字以内で

モーセは古代イスラエル最大の預言者と見なされた(申命記34章10節)。彼が「わたしのような預言者」(同18章15節)と呼んで預言したメシア(ダニエル9章24節。油注がれた最も聖なる者)を、ペトロはイエスのことだと使徒言行録3章で説教した。ダニエル書のメシアは預言の時代を封印する。

【追記】

ダニエル9章24節はメシアについて預言の時代を封印する存在だと預言し、主はルカ21章22節で、(紀元七〇年の)エルサレム滅亡で旧約聖書の全預言が成就し預言の時代が終わると仰せになった。故に紀元七〇年以降の国際情勢と旧約聖書の預言は無関係で、関係ありとする強弁は主の御言葉に反する。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

旧約時代においては旧約聖書の読者ばかりでなくそれぞれの書の著者たちですら、何か重大なものが自分たちには欠けており将来それを満たして下さる方が到来されるであろうと感じていた。今、キリストの信者を自認する現代人が、福音書よりも旧約聖書の方を熱心に読んでいるなら本末転倒もはなはだしい。

ゼカリヤ13章の6節までは、旧約の民から真の預言者が途絶え、残った偽預言者たちが神や人々から排斥される時代を預言した。7節からは、人々を清める教えをもたらすために来られる救い主に旧約の民の多くはついていけないが、残りの少数は救い主に最後まで従い新時代の神の民を形成すると預言した。

(注)別エントリー「試論:偽預言者の識別を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6118

(注)別エントリー「試論:ユダヤ教と預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5099

(注)別エントリー「試論:偽預言者と滅亡を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5401

ルカ21章22節において、主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると明言されており、それは紀元七〇年に現実のこととなった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代や近未来の世界情勢に関して旧約聖書の預言から考える行為は、不毛である。

(注)別エントリー「予備的考察:いわゆる『エゼキエル戦争』【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15520

ルカ21章22節には「書かれていること」という言い回しが用いられているが、これはヨシュア記1章8節と同様に、「預言された事柄」「神から啓示された内容」などを意味する表現である。古代においては「書く(書いて記録に残しておく)」という行為それ自体が、非常に重要な意味を持つものだった。

ダニエル書9章では神殿とエルサレムの復興を強く願うダニエルの祈りに応えて、都と神殿の再建さらには救い主の到来までも約束されたが、救い主が不当に殺された後、モーセの律法を蹂躙する集団が神殿の聖所を占拠し、そして次に来る指導者の民が、都と神殿を無法集団もろとも、滅ぼし尽くして終わる。

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」【再投稿】も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

試論:ルカ24章44節を140文字以内で

エレミヤ11章19節「わたしは、飼い馴らされた小羊が屠(ほふ)り場に引かれて行くように、何も知らなかった。彼らはわたしに対して、悪巧みをしていた」ヨハネ5章39節「聖書はわたしについて、あかしをするものだ」ルカ24章44節「わたしについて預言者の書にある事柄は必ず全て実現する」。

【追記】

主の御受難を預言したイザヤ53章7節では、出エジプトの代価となった「小羊」(出エジプト記12章3節等)を想起させる一方で、「屠(ほふ)り場に引かれる」と表現してイサクの犠牲の身代わりとなった羊(創世記22章13節)をも想起させ、主の御受難が人々の身代わりであることを再認識させる。

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7479

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

ダニエル9章24節はメシアについて預言の時代を封印する存在だと預言し、主はルカ21章22節で、(紀元七〇年の)エルサレム滅亡で旧約聖書の全預言が成就し預言の時代が終わると仰せになった。故に紀元七〇年以降の国際情勢と旧約聖書の預言は無関係で、関係ありとする強弁は主の御言葉に反する。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

旧約時代においては旧約聖書の読者ばかりでなくそれぞれの書の著者たちですら、何か重大なものが自分たちには欠けており将来それを満たして下さる方が到来されるであろうと感じていた。今、キリストの信者を自認する現代人が、福音書よりも旧約聖書の方を熱心に読んでいるなら本末転倒もはなはだしい。

ルカ21章22節において、主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると明言されており、それは紀元七〇年に現実のこととなった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代や近未来の世界情勢に関して旧約聖書の預言から考える行為は、不毛である。

(注)別エントリー「予備的考察:いわゆる『エゼキエル戦争』【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15520

ルカ21章22節には「書かれていること」という言い回しが用いられているが、これはヨシュア記1章8節と同様に、「預言された事柄」「神から啓示された内容」などを意味する表現である。古代においては「書く(書いて記録に残しておく)」という行為それ自体が、非常に重要な意味を持つものだった。

ダニエル書9章では神殿とエルサレムの復興を強く願うダニエルの祈りに応えて、都と神殿の再建さらには救い主の到来までも約束されたが、救い主が不当に殺された後、モーセの律法を蹂躙する集団が神殿の聖所を占拠し、そして次に来る指導者の民が、都と神殿を無法集団もろとも、滅ぼし尽くして終わる。

(注)別エントリー「ダニエル9章の『七十週』預言」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18148

試論:エゼキエル37章の「骨」を140文字以内で

ヘブライ人は時に人間それ自体を「骨」と呼んだ(箴言14章30節等)。エゼキエル37章も、神の民としてのあるべき姿から道徳的に程遠い有様に成り果てた人々を「枯れた骨」と呼んだ。「わたしの住まいは彼らと共にある」は、「神の御言葉は人となりわたしたちの内に住まわれた」と同じ意味である。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

【追記】

古代のヘブライ人は、人間(人間それ自体。人間の一部ではなく、人間全体)を

「塵(土)」(創世記2章7節、3章19節)

「肉」(6章3節、12節)

と表現した。同様に

「骨」(2章23節)

も人間それ自体を指す。箴言16章24節「親切な言葉は骨を癒す」の「骨」とは、

「人々」

を意味している。

創世記6章にある通り、古代のヘブライ人は人間それ自体を「肉」と表現したが、同様に「骨」も人間それ自体を指す場合があった。箴言14章30節「憐れみの心はその人自身にも周囲の人々にも『命(=幸福や安堵感や充足感)』をもたらすが、嫉妬心は骨の隅々に至るまでその人間全体を腐らせていく」。

(注)別エントリー「試論:『肉と霊』の対比を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7740

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節の『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7783

古代のヘブライ人には「家も体も自分にとっての住まい」と考え両者を同一視する観念があった。故にエゼキエル37章27節「わたしの住まいは彼らと共にある。わたしは彼らの神となり彼らはわたしの民となる」とヨハネ1章14節「神の御言葉は人となりわたしたちの間に住まわれた」は同じ事柄である。

(注)別エントリー「試論:インマヌエルを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5890

(注)別エントリー「主イエス・キリストがインマヌエルである理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1338

《体も家も自身にとっての住まい》(ヨブ4章19節参照)として「体」と「家」とを重ねるヘブライの世界観を踏まえ、主イエスは、《人となった神の子である自身の体》を《神の家=神殿》に重ねて「三日で建て直して見せる」と宣言されたが、イエスを冒瀆者として葬り去ろうとした人々に通じなかった。

(注)別エントリー「試論:『体も家も自身の住まい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9924

創世記2章23節は「わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」と記す。ヘブライ人は人間を「肉」(同6章)と呼び、また「骨」(箴言14章30節、エゼキエル37章)とも呼ぶが、「骨」と呼ぶ時は「骨の髄まで」の意味合いがあり、アダムはエバの姿を見て「この者は何から何まで自分と一緒だ!」と喜んだ。

創世記2章22節はエバの創造を記す際、祭壇や都市を築き上げた時と同じヘブライ語を用いて、エバは細心の注意を払いつつ達成された主なる神の《苦心の作》でありエバの創造に「手抜かり」はないと示唆し、「女は男より劣るように創造されたからエバは蛇にだまされた」等の男尊女卑の発想を否定する。

(注)別エントリー「試論:エバの創造とマリアの誕生を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11412

(注)別エントリー「試論:『幼子と女性を尊重する』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8823

(注)別エントリー「聖家族はどのような雰囲気の中で暮らしていたのか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5246

試論:「心を燃やす神の御言葉」を140文字以内で「

主は「火」「剣」を人々にもたらすと仰せになったが、両者とも御言葉の比喩である。御言葉は心を燃やし(ルカ24章32節)心に刺さる(詩編55編22(21)節等参照。エフェソ6章17節)。黙示録も1章16節等で御言葉を剣に喩え11章5節では御言葉を火に喩えた(エレミヤ5章14節参照)。

(注)別エントリー「試論:『地上に火を投ずる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7803

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

【追記】

ルカ12章49節「わたしは地上に火を投ずるために来た。既にその火が燃えていることをどんなに願っているか」同24章32節「主が道でお話しされた時や聖書を説明されていた時、われわれの心は燃えていたではないか」エレミヤ23章29節「わたしの言葉は火のようではないか、と主は仰せになる」。

(注)別エントリー「試論:『聖霊と火』の『火』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5770

試論:「憐れみを受け選ばれる」を140文字以内で

マタイ11章28節「重荷を負う者は、わたしの許へ来なさい」詩編38編5(4)節「わたしの罪悪は耐え難い重荷」マタイ9章13節「正しい人を招くためではなく罪人を招くために、わたしは来た」ホセア6章1節〜2節「わたしたちは主の許に帰ろう。主はわたしたちをいやされ、傷を包んで下さる」。

(注)別エントリー「試論:『いけにえ』と憐れみを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8356

【追記】

マタイ9章13節「わたしが来た目的は、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」ホセア6章1節〜2節「さあ、わたしたちは主の御許に帰ろう。主はわたしたちの傷を覆ってくださり、いやしてくださる。主はわたしたちを立ち上がらせ命を与えてくださる。わたしたちは主の御前で生きる」。

主がマタイ9章13節で「わたしが求めるのは憐れみであり『いけにえ』ではない」とホセア6章6節に言及されてファリサイ派の人々に学ばせたかった「意味」という事柄の答えは、ホセア6章3節「主は曙の光のように必ず現われて、春に降り注ぎ大地を潤す雨のようにわたしたちを訪れて下さる」である。

ホセア6章6節は「わたしが求めるのは、憐れみであって『いけにえ』ではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない」と記すが、これと関連して一ヨハネ2章3節は「知る」という表現の意味を《神の掟を守るという実体験を通して自分は神を知っているのだと自覚する》ことであると説明する。

(注)別エントリー「試論:『いけにえ』と憐れみを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8356

(注)別エントリー「試論:『神を知ること』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5580

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

主はマタイ福音書で「わたしが求めるのはあわれみであって犠牲(いけにえ)ではない」(ホセア6章6節)と繰り返されが、同節は「神を知ることであって焼き尽くす献(ささ)げ物ではない」と続く。「神を知る」を一ヨハネ2章3節は「神の掟(愛の掟。ヨハネ15章12節等)を守る」ことと説明する。

箴言16章7節は、ある人が主に喜ばれる行いに努め続けるならその人はかつての敵とも主の仲介で和解に至るであろうと説く。ホセア6章6節は、主が喜ばれることとは隣人に憐れみの業を行うことであって「いけにえ」ではなく、そして神を知るように努めることであって焼き尽くす献げ物ではないと説く。

(注)別エントリー「試論:『神を知る』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10024

今、あなたの神、主があなたに求めておられることとは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてその全ての導きに従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸せになることではないか。(申命記10章12節〜13節)

ミカ6章8節「何が善であって、主が何をあなたたちに求めておられるかは、あなたたちには既に告げられている。それは神の義を行い、憐れみの業を愛し、へりくだり神と共に歩むこと」ホセア6章6節「わたしが求めるものは『いけにえ』ではなく憐れみであり、焼き尽くす献げ物ではなく神を知ること」。

(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6748

試論:「無償で与えなさい」を140文字以内で

使徒言行録3章でペトロは足の不自由な男性に、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう」と言って男性を癒した。主イエスはマタイ10章1節で十二使徒にあらゆる病気や患いを癒す権能を与えられ、その上で「わたしから無償で授けられたのだから、無償で与えなさい」とお命じになった。

【追記】

主イエスはマタイ10章で十二人を派遣される際、汚れた霊に対する権能に関し「ただで受けたのだからただで与えなさい」と仰せになり、取引の材料にしてはいけないと念を押された。使徒言行録8章で、魔術師シモンがこの権能を金(かね)で買おうとした際、ペトロは主の仰せを踏まえてシモンを叱った。

主イエスはヨハネ20章22節で「聖霊を受けなさい」と仰せになって、弟子たちに息を吹きかけられた(創世記2章7節参照)。《人は神の口から出る全ての事柄で生きる》を示されるために、主はあえて息を吹きかける仕草を行われた。新約聖書には、弟子が同じ仕草を行う場面は一度たりとも登場しない。

(注)別エントリー「試論:『命の息』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14285

ルカ11章41節「器の中にある物を施せ」の「器」とは「土の器」「陶器」の比喩と同様、人間を指す。「器の中にある物」は人間に吹き込まれた「命の息」(創世記2章7節)つまり「霊魂」を意味する。イザヤ58章10節のヘブライ語表現「霊魂を注ぐ」は、「心を配る」(新共同訳)ことを意味する。

(注)別エントリー「試論:『器の中にある物を施せ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11264

主イエスはマルコ7章と8章及びヨハネ9章で御自分の唾を用いた癒しを行われた。本来、侮辱を与える行為と強く関連する唾だが、《人は神の口から出る全ての事柄で生きる》を示されるため、主はあえて唾で癒しを行われた。従って預言者たちも使徒たちも主イエス以外の誰も唾を使う癒しを絶対行わない。

(注)別エントリー「試論:神であり人であるキリストを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6725

(注)別エントリー「試論:『神が人となるためには』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7830

(注)別エントリー「試論:『人となられても神は神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6877

主イエスは荒れ野で悪魔(サタン)から誘惑された際「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの御言葉で生きる」と答えられた。「神の御言葉」とはヨハネ1章1節の通り主イエス御自身の称号であり、人間を生かす者は「神の御言葉」及び「命」(同14章6節)を自称される方である。

試論:選ばれる人々が少ない理由を140文字以内で

マタイ7章13節〜14節「滅びに通じる門と道は広く入る者も多い。命に通じる門と道は狭く見出す者も少ないが、そこから入りなさい。ヨハネ10章9節「わたしは門。わたしを通って入る者は救われる」同14章6節「わたしは道、命」詩編118編19編〜20編「主に従う者は神の義の門から入る」。

(注)別エントリー「試論:『門・道・真理・命』誰?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12045

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『神の義』『門』『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10465

(注)別エントリー「試論:『神の義とディカイオス』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8685

【追記】

ルカ13章23節は主イエスに救われる者は少ないかを尋ねた人がいたと記す。主は直接の回答をされなかったが、のちに最後の晩餐の夜、ヨハネ14章2節で「わたしの父の家には住む所がたくさんある」と仰せになった。それが答えである。合格者の定員は存在しない。従って、問題は合否の基準と言える。

(注)別エントリー「試論:救われる者は少ないか??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18576

(注)別エントリー「試論:『誰の死も喜ばれない神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18444

試論:ルカ24章27節を140文字以内で

主イエスは旧約聖書の預言に関して、第一義的に御自分及び御自分の到来前後の歴史的諸事件への言及であり(ルカ24章27節、同44節、ヨハネ5章39節)、エルサレム滅亡(紀元七〇年)で預言は全て成就すると仰せになった(ルカ21章22節)。旧約聖書は21世紀の国際情勢とは全く関係がない。

(注)別エントリー「聖書にはクリスマスの日付が載っていますか???」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13267

【追記】

モーセはレビ記26章で、イスラエル人が神に忠実であり続ける場合の幸福を説き、11節と12節では主が人々の間に住まわれ、人々の間を巡られると預言した。ヨハネ1章14節は、「神の御言葉」すなわち人々に直接語り掛けられる主イエス・キリストが、「肉」すなわち人間になられたことを説明する。

(注)別エントリー「試論:エゼキエル37章を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6437

(注)別エントリー「試論:連れて行かれるのはどこ?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6151

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節の『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7783

ルカ21章22節において、主イエス・キリストは、エルサレムの滅亡をもって旧約聖書の預言が全て成就すると明言されており、それは紀元七〇年に現実のこととなった。従って、既に旧約聖書の預言が全て成就している以上、現代や近未来の世界情勢に関して旧約聖書の預言から考える行為は無意味である。

(注)別エントリー「旧約聖書の預言書を研究する際の基本原則」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3859

主イエスはヨハネ5章39節で「あなた方は〔旧約〕聖書中に永遠の命が存在すると考え〔旧約〕聖書を研究するが〔旧約〕聖書はわたしに関してあかししている」と仰せになり、御自分と無関係の目的で〔旧約〕聖書を研究したとしても本当に重要な真理には全く到達することができないと、お教えになった。

イザヤ43章は、イスラエルの贖い主(=主イエス:キリスト)の到来と、その方が新しい事柄をもたらされる(19節)ことを預言するが、その芽生えは既に認められるとも語られ、「キリストの律法」が到来することと、「キリストの律法」の本質は既にモーセの律法の中に含まれていると啓示されている。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

ヘブライ8章10節はエレミヤ31章33節の預言を引用し、神なる主が御自分の律法を人々の心に記されると、再確認する。マタイ7章12節「他人からしてもらいたいことを自分の方から他人にしなさい。これぞ律法」。キリストの律法は子供でも覚えられ理解もできるので「心に記す」と預言されている。

(注)別エントリー「試論:『心に記す』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14805

試論:「使徒たちを強めた聖霊」を140文字以内で

主はヨハネ18章36節で「わたしの王国はこの世に属していない」と繰り返された。敵たちは、イエス一人を殺しさえすれば目的は達成されると考え、弟子たちなど眼中になかった。使徒の一人は銀貨三十枚で裏切り、残りの使徒も一人を除いて逃げたが、使徒言行録2章40節「ペトロは力強く証しした」。

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを識別する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14194

(注)別エントリー「試論:『聖霊とは無関係の徴候』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14543

(注)別エントリー「試論:キリストの『バシレイア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15833

(注)別エントリー「試論:ペトロの生涯を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10550

(注)別エントリー「試論:『自分の十字架』とペトロを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12304

【追記】

主イエスはマルコ9章37節で「わたしの名のために、このような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と仰せになり、十二使徒に対し「わたしがあなたたちを選んだ理由は、個々の能力や人間性が優れているためでは決してないので、そこを勘違いをしないように」と強く注意された。

主から王に選ばれたサウルは、「特別に選ばれた人間は人一倍、主に忠実でなければならない」という初心を忘れ「主に選ばれた自分は特別扱いされているから、多少の過ちは大目に見てもらえるはず」と勘違いして主の信頼を失ったが、自分を律する心構えがないと誰しも同様の勘違いに陥り易いものである。

(注)別エントリー「試論:『主に聞き従うこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5685

二ペトロ3章15節以下では、パウロの著した手紙について言及しているが、16節でペトロは、自分がパウロの手紙の全てに目を通して内容に同意し、《聖書》を構成する一部として、それらを認めている旨を述べている。ガラテヤ2章の自身を批判している箇所も含めてペトロは手紙の内容を承認している。

主イエスはヨハネ18章36節で、「わたしのバシレイアは、この世には属していない」と仰せになった。原文のギリシア語バシレイアは、聖書では「王権」「〔神の〕王国」を意味し、「王国の一人一人」まで包含する。黙示録1章6節でヨハネは、自分たちは既にその一部を構成していると書き記している。

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

試論:「わたしに触れるな」を140文字以内で

御復活の朝、主を目の前にしてマグダラのマリアは、十人の使徒たちやトマスのように、まず手の釘の痕や脇腹の槍の痕を確認しようとしたはずである。主の「わたしに触れてはならない」は、「手や脇腹を見なくとも、あなたは少しの疑いの余地もなくわたしを認識できているでしょう?」の裏返しでもある。

【追記】

主はヨハネ20章17節でマグダラのマリアに「触れてはならない」と仰せになった。この時、主が指先で、彼女の額に触れて制止された、という伝承がある。マルコ3章9節以下には、主に触れようとする群衆のあまりの勢いに小舟が用意される話があるが、彼女の勢いもまたそれに近かったのかも知れない。

マルコは、ベタニアで主の頭に高価な香油を注ぐ女性を記す。ヨハネも、ベタニアでラザロの姉妹マリアが主の足に高価な香油を塗ったと記す。主は彼女の行動を埋葬の準備と呼んだ。マルコ16章冒頭で主の御遺体に油を塗りに行く婦人たちの中に彼女もいたはずで、マグダラのマリアである蓋然性が大きい。

マルコ16章9節はマグダラのマリアを「以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人」と呼ぶ。箴言6章16節は「主の憎まれるものが六つ、主の心からいとわれるものが七つ」として17節以下で七つの悪徳について列挙する。「七つの悪霊」とは、マリアが克服した七つの悪徳を指すと思われる。

(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4884

一世紀にはギリシア語でタリケアと呼ばれていたガリラヤ湖畔の町をユダヤ人はヘブライ語でミグダル、アラム語でマグダラと呼んだと想定され、魚を保存用に加工する燻製工場で知られた。風紀の乱れた町としても悪名高く、歓楽地としての町全体または一部の歓楽街を呼ぶ際マグダラが悪名的に用いられた。

試論:「わたしが行った通りに」を140文字以内で

ヨハネ13章12節「わたしがあなたたちに行ったことの意味が分かるか」15節「あなたたちにわたしが行った通りにあなたたちも行うよう、模範を示した」34節以下「わたしがあなたたちを尊重したようにあなたたちも互いを尊重しなさい。それによって皆はあなたたちがわたしの弟子であると認める」。

【追記】

主イエスは「自分が他人にしてもらいたいことを自分から他人にしなさい」と《キリストの律法》を教えられたが、ヨハネ13章1節では《御自分の時》が来たと自覚された主が、弟子たちを尊重され、どこまでも尊重されたことが記される、《キリストの律法》とは尊重と敬意であると、主は御自ら示された。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

【問】パウロが言っている「キリストの律法」(一コリント9章21節、ガラテヤ6章2節)って何?【答】「あなたたちは、あなたが他の人からしてもらいたいことを、あなたの方から他の人にしなさい。これこそが律法であり預言者の教えである」(マタイ7章12節)を指し、キリスト教の愛の定義です。

試論:「憐れみの道」こそ「命」を140文字以内で

箴言12章28節「憐れみの道にこそ命がある。この道を行く人に死はない」ルカ6章35節以下「敵に親切にし、善を行い、何も当てにせず貸しなさい。そうすれば、あなたたちはいと高き方であられる天の御父の子となり、大きな報いを受ける。あなたたちも天の御父のように憐れみ深い者になりなさい」。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

【追記】

主はヨハネ14章6節で「わたしは命である」と仰せになり、これは生きていく上で最も重要かつ不可欠な事柄を「命」と呼ぶヘブライ人の観念(レビ17章14節「全ての生物の命は、その血」)に基づいてはいるが、同様の観念は現代の日本人の中にも当然ある(例:「ギタリストにとってギターは命」)。

「道」とは全ての人が生きる上で辿るべき道筋(道理・規範)でイエスがその模範であること、「真理」とは人が信仰・礼拝すべき三位一体の唯一の神を指し御父・御子・聖霊の間に矛盾がないこと、「命」とは幸福・安堵・充足等の人を生かすものの全てで人間にそれを授ける源は唯一の神ということを指す。

申命記30章15節には「わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く」とある。この章で「命」は、「祝福」(1節)「幸い」(5節)「恵み」「実り」「繁栄」「喜び」(9節)等の総称で、20節は「あなたの神、主を愛し、御声を聞き、付き従いなさい。それこそあなたの命である」と説く。

箴言15章4節では赦しを与える言葉を命の木と記し、相手に安堵と幸福を与える言葉を「命」と表現した。創世記50章では父の死を機に復讐されるのではないかと恐れる兄たちに対し、ヨセフは赦しを再確認する言葉で安堵させた。ヨハネ6章68節は主イエスを「永遠の命の言葉を持つ」と表現している。

(注)別エントリー「試論:『主にとって赦しも癒し』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6013

マタイ25章34節「御父に祝福された人々よ、天地創造の時からあなたたちのために準備されていた王国を受け継ぎなさい」黙示録21章7節「勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ」ヘブライ6章12節「怠け者とならず信仰と忍耐によって、約束されたものを受け継ぐ人々に倣う者となってほしい」。

マルコ10章17節で主に金持ちの男が永遠の命を受け継ぐにはどうすればと尋ねた時、彼はそれが比較的容易な問題と考えていた。主はマタイ13章44節以下特に46節で、それを手に入れるためにはあらゆる努力を尽くす必要があると、「宝」「真珠」「持ち物を全て売り払う」等の表現で御説明された。

ルカ10章25節以下では、主イエスと一人の律法学者との対話を記し、「永遠の命」を受け継ぐために実行すべき事柄として「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい」とあり、主は「正しい答え」と仰せになった。

(注)別エントリー「試論:『善きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6827

主イエスはマタイ7章12節で「あなたたちは、自分が他の人からしてほしいことを、自分から他の人にしなさい」と《愛の掟》を教えられた。従って「愛の反対」は「他の人からしてほしくないことをあえて他の人に行うこと」そして「他の人からしてほしいことをあえて他の人には行わないこと」からなる。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』って?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11541

試論:ニネベの人々の信仰って?を140文字以内で

【問】ヨナ3章5節には「ニネベの人々は神を信じた」とありますが、ニネベの人々はイスラエルの神なる主に対し、いったい何を信じたのですか?【答】神は悪から離れる者全てに対して憐れみ深く優しい方であることを信じ、善からぬことをいっさい捨てて心の底から悔い改めていることを神に示しました。

(注)別エントリー「試論:『主は優しい人に優しい』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8296

(注)別エントリー「試論:『ガリラヤからの預言者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15449

(注)別エントリー「試論:エゼキエル18章のまとめを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14893

【追記】

主イエスはルカ11章29節以下で、ヨナの説教に悔い改めたニネベの人々と、ソロモンの知恵を聞くためにエルサレムを訪れたシェバの女王を引き合いに出されたが、この仰せには当然「あなたたち今の時代のイスラエル人は、ニネベの人々やシェバの女王にまさるものなのか」のニュアンスも含まれている。

(注)別エントリー「試論:『ニネベの回心』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11018

主イエスはルカ11章29節で、しるしを欲しがる人々を「今の時代の者たちはよこしま」と仰せになった。同4章3節「神の子ならば、この石にパンになるように命じたらどうだ」同9節「神の子ならば、ここから飛び降りたらどうだ」同23章35節「もし選ばれた者ならば、まず自分自身を救ってみろ」。

(注)別エントリー「試論:『しるしを欲しがる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14861

試論:「命に至る道」を140文字以内で

使徒言行録2章28節は詩編16編11節を引用し「あなたは命に至る道を示して下さる」と説くが、主イエスはヨハネ14章6節で「道・真理・命」と称された。「道」とは人が生きる上で辿るべき道筋であること、「命」とは人を生かす事柄の全てで人にそれを授ける源は唯一の神であるということを指す。

(注)別エントリー「試論:『門・道・真理・命』誰?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12045

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『わたしは命である』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11586

(注)別エントリー「試論:なぜ『わたしは命』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11740

試論:「買収の蔓延」を140文字以内で

ヘロデ大王は王妃の弟に当たる大祭司を謀殺した後、自分に忠実な祭司たちに大祭司の権力と財産を与え籠絡した。福音書の時代にユダヤの有力者の間で物事を買収で解決する風潮が蔓延した端緒だった。ユダは銀貨三十枚で買収され、御復活の主と婦人たちと天使とを目撃した番兵たちも金銭で口止めされた。

(注)別エントリー「ダニエル書7章:地上に興る第四の王国」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4631

【追記】

主イエスはヨハネ8章15節で「あなたたちは肉に従って裁く」と仰せになった。ヨハネ福音書は人間的な事柄を「肉」、神に由来する事柄を「霊」と呼び対比する。ヘロデ王家は自分たちに同調する祭司へ大祭司の権力と富を与え籠絡していた。福音書における神殿の有力者たちの堕落はそれが原因であった。

(注)別エントリー「試論:『肉と霊』の対比を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7740

(注)別エントリー「試論:ガラテヤ5章の『肉と霊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7657

(注)別エントリー「試論:聖書と『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7649

試論:使徒言行録10章の預言者を140文字以内で

使徒言行録10章43節でペトロは、ナザレのイエスこそ預言された《罪の赦しを与えられる救い主》と説く。エレミヤ31章33節以下は「わたしの律法(《キリストの律法》)」を授けられる主が人々の悪を赦される(34節)と記すが、人々が悪にとどまることは容認されない(マタイ7章21節参照)。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

【追記】

ヘブライ8章10節はエレミヤ31章33節の預言を引用し、神なる主が御自分の律法を人々の心に記されると、再確認する。マタイ7章12節「他人からしてもらいたいことを自分の方から他人にしなさい。これぞ律法」。キリストの律法は子供でも覚えられ理解もできるので「心に記す」と預言されている。

(注)別エントリー「試論:『心に記す』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14805

ルカ6章46節「あなたたちはわたしを『主よ、主よ』と呼んでおきながら、なぜわたしが言っていることを、行わないのか?」ヨハネ8章51節「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことはない」ガラテヤ5章6節「キリスト・イエスに結びついているのなら、愛の実践を伴う信仰こそ重要です」。

(注)別エントリー「試論:『主よ主よと呼びながら』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15669

マタイ7章21節「わたしに向かって、『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るのではなく、わたしの天の父の御心を行う者だけ入る」ヨハネ13章34節「わたしがあなたがたを愛したように、愛し合いなさい」ガラテヤ5章6節「キリスト・イエスに結ばれているなら、愛の実践を伴う信仰こそ大切」。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:新都エルサレムに住む条件を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11197

試論:「上にあるもの」を140文字以内で

古代のヘブライ人はしばしば人間的な事柄を「肉」、神に由来する事柄を「霊」と呼んで対比し、この流儀をヨハネとパウロも用いた。コロサイ3章でパウロが「上にあるもの」と呼ぶ事柄はガラテヤ5章22節では「霊の結ぶ実」と呼ばれ、また「地上のもの」はガラテヤ5章19節の「肉の業」に相当する。

【追記】

ガラテヤ5章16節以下では「肉と霊」が対比されるが、ここで「肉」はヨハネ1章14節同様「人間」を指し、「霊」は「聖霊」「神の霊」を意味する。つまりこの章における「肉」と「霊」との対立とは、「人間に由来する諸悪」(マルコ7章20節以下参照)と「神に由来する諸徳」との対立を意味する。

古代のヘブライ人の世界観に従ってガラテヤ5章は「人間(人間それ自体)」を「肉」、「神〔に由来するもの〕」を「霊」と呼ぶ。ヨハネ3章6節も同様の対比を用い、「霊から生まれた者は霊」の意味を1章12節は「神の御言葉である主イエスは自分を受け入れる人に神の子となる資格を与えた」と記す。

古代のイスラエル人にとって「肉」という表現は「人間」を指す場合があった(ヨハネ1章14節等)。マルコ7章20節以下で主イエスが「人から出て来るものこそ人を汚す」と注意を促された諸悪と、ガラテヤ5章19節以下でパウロが「肉の業」と呼んで避けるように促した諸悪が同様なのは当然である。

(注)別エントリー「あなた方も憐れみ深い者となりなさい」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4346

ガラテヤ5章では「聖霊の結ぶ実」として神の御独り子の母の内面に関連する《愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制》を説く。他方、コロサイ3章では「礼服」(マタイ22章)という比喩を踏まえ、「義人」ヨセフの「義」に関連する《憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛》を説く。

マタイ22章の「礼服」に関連して、ローマ13章14節で「主イエス・キリストを着る」ことをパウロは勧め、コロサイ3章10節でも「主の姿に倣う新しい人を着る」ことを勧める。「倣う=着る」べきものとして憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容そして愛を「着る」ことをコロサイ3章は勧めている。

(注)別エントリー「試論:『神の義』と詩編を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6798

主はマタイ6章33節で「まず神の国と神の義を求めよ」と仰せになった。古代のヘブライ人は神の義(正義)を実行する人となることを「正義を衣としてまとう(=身に着ける)」と比喩で表現した(詩編132編9節、ヨブ29章14節)。従ってマタイ22章の「礼服」とは正義(神の義)の比喩である。

マタイ22章は神の御前に立つためには「礼服」が不可欠と教える。詩編132編は9節で「正義を衣としてまとう」16節で「救いを衣としてまとう」と表現して「救い」すなわち神と共にある条件を、「正義」すなわち「神の義」(マタイ6章33節)とし、その具体例をコロサイ3章12節以下が教える。

(注)別エントリー「試論:マタイ22章『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6740

マタイ22章「礼服」に関連して、パウロはコロサイ3章で、キリストに結ばれていたいと望む人々が「着る」つまり身に着けるべき事柄に関してとりわけ10節以下で論じ、5節から9節では脱ぎ捨てるべきものも説く。身に着けるべきは憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、そして愛だとパウロは説いた。

主はマタイ6章33節で「神の国と神の義を求めよ」と仰せになり、また同22章では神の国で神の御前に立つために不可欠な「神の義」を、「礼服」にたとえられた。この「礼服」すなわち「神の義」とは何であるかについて、パウロはコロサイ3章で、キリストの弟子が身に着けるべきものとして説明した。

黙示録16章15節は「わたしは盗人のように来る」に「衣を身に着けている人は幸い」と続け、マタイ22章「礼服」の比喩を再現する。黙示録が啓示する時代でも、福音書の主の仰せが本質的に重要と分かる。身に着けるべき衣とは、詩編132編9節によれば正義(=神の義。マタイ6章33節)を指す。

(注)別エントリー「試論:『人の行いに応じた報い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5743

(注)別エントリー「試論:『神の義とディカイオス』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8685

試論:ヨハネ20章9節「聖書」を140文字以内で

ヨハネ20章9節では、〔旧約〕聖書がイエスの復活を語っていると記す。

イザヤ25章は、

「この方こそ、わたしたちを救ってくださる、わたしたちが待ち望んでいた神」(9節)

と呼ばれる方が、

「この山」(7節)

と呼ばれる場所において、

「死を永久に滅ぼしてくださる」(8節)

ことを預言している。

【追記】

鉄道の「上り下り」の表現の通り、地方から都に近づくことを「上る」都から地方へ遠ざかることを「下る」と表す。まして古代のイスエラルで「都」は、天の御父のお住まいとみなされた神殿の所在地であり、神殿や都は、上って行くべき場所の象徴としても「山」と表現された(イザヤ2章2節以下参照)。

主イエスはヨハネ12章23節以下で御自分の十字架の死により悪魔の罪と死の支配を終わらせる(ヘブライ2章14節以下参照)と宣言された。それはイザヤ25章8節の預言の成就だがイザヤのその節の前後は、成就の地エルサレムを「この山」と呼ぶ。ダニエル書9章16節「聖なる山」とも同じである。

(注)別エントリー「試論:動かし難い物の比喩『山』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9551

(注)別エントリー「試論:御受難と『永遠の命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9460

主はマルコ11章23節で「誰でもこの山に向かって『立ち上がって海に飛び込め』と言い、〜」と仰せになったが、御受難の結果である永遠の命を預言したイザヤ25章7節以下では、御受難の地を「この山」と呼ぶ。既にイザヤ2章及びダニエル9章16節では、神殿の所在地でもある都を「山」と呼んだ。

ゼカリヤ4章7節の「大いなる山よ、お前は何者か。ゼルバベルの前では平らにされる」の預言にある通り古代のヘブライ人は頑強な抵抗や反対を「山」にたとえた。主のマタイ17章での悪霊を追い出せなかった弟子たちへの仰せ「からし種一粒の信仰があれば、この山に向かって」の「山」も、同じである。

主はマタイ17章20節で、御自分でなければ追い出すことができなかったほど頑強な悪霊の抵抗を、「この山」という比喩で表現された。悪霊を追い出す話は「高い山」(17章1節)から主と三人の弟子が他の弟子たちの所へ戻った後の話(マルコ9章14節)で、「この山」と「高い山」は直接関係ない。

イザヤ2章12節は、万軍の主の日においては全ての「誇る者」「傲慢な者」「高ぶる者」はことごとく低くされると預言して、14節は彼らを「高い山」「そびえ立つ峰」と表現する。主イエスも「自分を高くする者は神によって低くされ、自分を低くする者は神によって高くされる」と繰り返し教えられた。

(注)別エントリー「試論:『高慢と謙遜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9051

(注)別エントリー「試論:『恵みとへりくだり』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8781

ルカ3章5節はイザヤ40章4節を引用して、「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる」と記す。預言者イザヤが到来を預言した救い主イエスも「自分を高くする者は神によって低くされ自分を低くする者は神によって高くされる」と繰り返されて、イザヤ40章4節の意味するところを御説明された。

(注)別エントリー「試論:『高慢は破滅を準備する』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7485

試論:イザヤ54章11節「都」を140文字以内で

古代のイスラエルではしばしば神と神の民との関係を「花婿」と「花嫁」との関係に喩えた。ゆえに神の民による神への背信は「淫行(姦淫)」に喩えられた。神から心が離れるたびにエルサレムは外敵による蹂躙に見舞われたが、キリストの御受難と共に創造された新しいエルサレムは、不幸とは無縁である。

(注)別エントリー「主の御復活とともに創造された事柄とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15917

【追記】

主イエスは福音書で自身の御受難と御復活を随所で暗示されたが、御受難と御復活の間に御自分がどんな働きをなさるかについても、ヨハネ14章2節から3節で予告された。それはイザヤ65章17節以下の「新しい天・地・エルサレムの創造」預言の成就であり、御自身の復活の体の創造で完成の時を見た。

イザヤ65章17節以下では、「主によって『新しい天・地・エルサレム』が創造される」という驚くべき預言が啓示され、一コリント2章9節でパウロは「見聞きしても理解できず人間の心には思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」とイザヤ64章3節を引用し説明した。

古代のイスラエルでは「神」と「神の民」との関係がしばしば「花婿」と「花嫁」と表現された。しばしば「女王」にもたとえられる都が「花婿」キリストを歓呼と共に迎え入れながら、数日後に裏切り、夜中に急襲して捕らえ一日のうちに死に至らしめたその行状から、「大淫婦」と呼ばれるのは当然である。

(注)別エントリー「試論:黙示録17章『十本の角』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9155

(注)別エントリー「試論:黙示録17章『第八の者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9038

黙示録18章7節「わたしはやもめではなく女王であり、決して悲しい目に遭わない」ルカ19章41節以下「イエスは都のために泣いて仰せになった、『もし今、お前が平和への道をわきまえていたならば。しかし今のお前は、それを理解していない。時が来て、敵がお前を包囲して四方から攻め寄せ〜』」。

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1699

古代のイスラエルは、神と神の民との関係をしばしば花婿と花嫁の関係にたとえた。洗礼者ヨハネは、イエスを「花婿」と呼んで自身は「花婿の介添人」と称した。主イエスを歓呼の裡に迎え入れながら数日で死に至らしめた都を、黙示録が「大淫婦」と呼んだ理由は、イエスこそ花婿に他ならないからである。

ヨハネの黙示録17章5節には「淫婦の母、地上のあらゆる憎むべきものの母である大バビロン」と書かれているが、ゼカリヤ書2章11節では、エルサレムの住民が「バビロンの娘」という表現で呼び掛けられている。当時のエルサレムの住民は、かつてバビロンに連行されて住み着いた人々の子孫であった。

イザヤ62章5節はシオンの救いに関する文脈で神と神の民との関係を花婿と花嫁の関係にたとえエレミヤ33章11節はエルサレムの復興を「花婿と花嫁の声が聞こえるようになる」と預言したが、ならば、黙示録18章23節が「花婿と花嫁の声は聞かれない」と啓示した都も、やはり同じ都のはずである。

イザヤ62章5節は「神と神の民」の関係を「花婿と花嫁」の関係にたとえたが、ヨハネ3章29節で洗礼者が「花婿の介添人」を自称する場合、「花婿」が主イエス・キリストであるのは、いうまでもない。洗礼者は、「花婿」と「花嫁」を引き合わせるまでが自分の役割と心得て、30節の言葉を口にした。

古代のイスラエルでは、婚礼の時に上質の酒を提供するのは花婿の責任と考えられていた(ヨハネ2章9節以下)。一方、当時は「神」と「神の民」の関係を《花婿》と《花嫁》の関係にたとえていた(イザヤ62章5節)。カナでのぶどう酒の奇跡で、主は御自分こそが真の《花婿》であるとほのめかされた。

試論:創世記22章「身代わり」を140文字以内で

主の御受難を預言したイザヤ53章7節では、出エジプトの代価となった「小羊」(出エジプト記12章3節等)を想起させる一方で、「屠(ほふ)り場に引かれる」と表現してイサクの犠牲の身代わりとなった羊(創世記22章13節)をも想起させ、主の御受難が人々の身代わりであることを再認識させる。

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7479

【追記】

エレミヤ11章19節「わたしは、飼い馴らされた小羊が屠(ほふ)り場に引かれて行くように、何も知らなかった。彼らはわたしに対して、悪巧みをしていた」ヨハネ5章39節「聖書はわたしについて、あかしをするものだ」ルカ24章44節「わたしについて預言者の書にある事柄は必ず全て実現する」。

(注)別エントリー「試論:主イエスと旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7462

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4783

試論:エゼキエル書36章25節を140文字以内で

「わたしが清い水を振りかける時、あなたたちは清められる。わたしはあなたたちを、すべての汚(けが)れと偶像から清める」、古代のイスラエル人にとって「水を振りかけられて清められる」とは、民数記19節で命じられる「清めの式」の流儀で、この預言をカトリックでは洗礼に関する啓示と理解する。

(注)別エントリー「試論:出エジプト記14章と洗礼を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15912

(注)別エントリー「試論:『バプテスマ』と『洗い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15165

(注)別エントリー「バプテスマは身を沈める・身をひたすことか【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/20233

試論:「創世記1章の朗読」を140文字以内で

【問】「復活の聖なる徹夜祭」では創世記1章が朗読されますが、なぜですか?【答】キリストの御復活すなわち、「復活の体(天上の体、霊の体)」の創造とは、イザヤ65章17節以下に啓示されている、創世記1章の天地創造の継続を意味し、キリスト御自身の御復活によって預言が成就されたからです。

(注)別エントリー「試論:人間の完成形(最終形態)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15868

(注)別エントリー「主の御復活とともに創造された事柄とは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15917

【追記】

主イエスは福音書で自身の御受難と御復活を随所で暗示されたが、御受難と御復活の間に御自分がどんな働きをなさるかについても、ヨハネ14章2節から3節で予告された。それはイザヤ65章17節以下の「新しい天・地・エルサレムの創造」預言の成就であり、御自身の復活の体の創造で完成の時を見た。

主イエスは、ルカ9章の「主の変容」で三人の使徒に、「天上の体」(一コリント15章40節)すなわち死者の復活後の人間の姿(同章35節以下)をお示しになったが、当時三人の使徒は全く理解できなかった。「人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は愛する者たちに準備された」(同2章9節)。

(注)別エントリー「試論:ルカ9章『主の変容』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14938

イザヤ65章17節以下は主が新しい「天、地、エルサレム」を、新しい「神の民」のために喜びをもって創造されると預言した。ヨハネ14章2節以下「わたしの御父の家には住む場所が豊富にある」「わたしは行って場所を用意し、戻って来てあなたたちを迎える」ガラテヤ4章26節「天のエルサレム」。

(注)別エントリー「試論:『もろもろの天を通過』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13750

(注)別エントリー「試論:預言解釈の基本を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5092

二世紀初めにアンティオキアの聖イグナティウスが記したように初代の信者は、キリストの御復活すなわち「天上の体」(一コリント15章40節)の創造の記念に、週七日の中で祝うべき特別の日を土曜日(ユダヤ教の安息日)から、御復活があった「週の最初の日(安息日の翌日)」日曜日へと置き換えた。

(注)別エントリー「試論:『土曜と日曜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12677

「主の変容」の後、主イエスは「人の子が死者の中から復活するまでは今見たことを誰にも話してはならない」と命じられた。使徒たちは「天上の体」(一コリント15章40節)を目撃したのだが、まず主の御復活前後の実体験を経た上で復活の意義を理解しなければ、「天上の体」の理解もないからである。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888

主イエスの御降誕は「肉の体」つまり人間としての誕生だったが、この世に来られた究極の目的が「贖(あがな)い」である以上、「上げられ(十字架上で顕示され)た」後の死と御復活によって悪魔の罪と死の支配を終わらせ人類に永遠の命と「霊の体」を準備して目的を達成したことの方がより重要である。

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11494

(注)別エントリー「試論:真理と贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9081

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

試論:「三日目に復活する」を140文字以内で

マタイ16章21節「イエスは、御自分がエルサレムに行き多くの苦しみを受けて殺され三日目に復活するであろうと弟子たちに打ち明け始められた」22節「そんなことがあってたまリますか」ルカ24章7節「人の子は必ず罪人たちの手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活する、と言われていた」。

【追記】

マタイ16章21節「イエスは、御自分がエルサレムに行き多くの苦しみを受けて殺され三日目に復活するであろうと弟子たちに打ち明け始められた」22節「そんなことがあってたまリますか」26章34節「あなたは、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言うであろう」75節「ペトロは大声で泣いた」。

(注)別エントリー「試論:『自分の十字架』とペトロを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12304

(注)別エントリー「試論:ペトロの生涯を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10550

試論:「新しい命に生きるため」を140文字以内で

ローマ6章4節は洗礼の意義を「キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるため」と記しており、12節以下では「あなたたちの死ぬべき体を罪に支配させ欲望に従属してはならず、また体を不義のための道具として罪に従属してはならない」と戒める。

主の御復活とともに創造された事柄とは

主イエスは福音書で自身の御受難と御復活を随所で暗示されたが、御受難と御復活の間に御自分がどんな働きをなさるかについても、ヨハネ14章2節から3節で予告された。それはイザヤ65章17節以下の「新しい天・地・エルサレムの創造」預言の成就であり、御自身の復活の体の創造で完成の時を見た。

イザヤ65章17節以下では、「主によって『新しい天・地・エルサレム』が創造される」という驚くべき預言が啓示され、一コリント2章9節でパウロは「見聞きしても理解できず人間の心には思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」とイザヤ64章3節を引用し説明した。

ヘブライ5章9節は「キリストが〔御受難を経験された後に〕完全な者になられた」と記す。神でもあり人間でもあるキリストは、神としては天地創造以前から既に当然だが完全な者である。人間としては御受難を経験された後「復活の体(=天上の体、霊の体)」すなわち人間としての完成形へと到達された。

(注)別エントリー「試論:神であり人であるキリストを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6725

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

主イエスは、ルカ9章の「主の変容」で三人の使徒に、「天上の体」(一コリント15章40節)すなわち死者の復活後の人間の姿(同章35節以下)をお示しになったが、当時三人の使徒は全く理解できなかった。「人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は愛する者たちに準備された」(同2章9節)。

(注)別エントリー「試論:ルカ9章『主の変容』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14938

主イエスの御降誕は「肉の体」つまり人間としての誕生だったが、この世に来られた究極の目的が「贖(あがな)い」である以上、「上げられ(十字架上で顕示され)た」後の死と御復活によって悪魔の罪と死の支配を終わらせ人類に永遠の命と「霊の体」を準備して目的を達成したことの方がより重要である。

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11494

(注)別エントリー「試論:真理と贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9081

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

一コリント15章は、

《地上で生きる体》と《永遠の命を得て復活し天の国で生きる体》

とを、

「地上の体」と「天上の体」

「地上の命の体」と「霊の体」

等と表現する。

ガラテヤ5章は人間的な事柄を「肉」、神的な事柄を「霊」と表現し、

コロサイ1章22節「肉の体」とは「人間としての体」の意である。

(注)別エントリー「試論:『肉と霊』の対比を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7740

(注)別エントリー「試論:ガラテヤ5章の『肉と霊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7657

(注)別エントリー「試論:聖書と『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7649

一コリント15章でパウロは「地上の体」「天上の体」という表現を用いて、《人間が地上で生活していた際の、死によって朽ちていく肉体》と《その人の霊が神の許に帰還した後で、神によって天上で新しく与えられる、朽ちることのない体》について説明し、後者を「霊の体」(44節)等と表現している。

主はヨハネ11章25節で御自身を復活と命だと称され、6章63節では命を与えるのは「〔神の〕霊」だと仰せになった。コヘレト12章7節は人間の死でその肉体は塵(土)に還るが、命を与えられたその霊は「与え主」である神の許へと還るとし、一コリント15章44節は「霊の体が復活する」と記す。

主イエスは「わたしは世の光」(ヨハネ8章12節)と仰せになられ、1章4節は「御言葉(人々に語り掛ける神=御子イエス・キリスト)の内に命があり、命は人間を照らす光」と記し、5節では主を「光」と表現する。3章19節で主は「光」と自称され、10章25節では「復活」「命」とも自称された。

(注)別エントリー「試論:『世の光』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5388

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『神よあなたのことばは』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6358

創世記の2章と3章では、人間は「土(塵)」に由来し「土(塵)」に還る存在とする。創世記の記述に基づきヨブ記4章19節は「人は塵の中に基を置く土の家に住む者」と記す。ここでは人間の体を「土の家」と表現し、古代のヘブライ人が「(人間の)体」と「家」とを重ねて考えていたことを示唆する。

(注)別エントリー「試論:『土』と『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9629

上述の通り「『体』と『家』はともに自身にとっての住まい」という古代のヘブライ人の世界観を踏まえ主イエスは、「人となられた神の子である御自身の体」を「神の家=神殿」に重ねて「三日で建て直して見せる」と仰せになった。だがイエスを冒瀆者として葬り去ろうとした当時の人々には通じなかった。

「家と体はともに自身にとっての住まい」として両者を重ねる古代のヘブライ人の世界観を踏まえれば、主がヨハネ14章2節以下で仰せになった「あなたたちのために準備する住む場所」とは、「天から与えられる住みか」(二コリント5章1節)すなわち、「天上の体」(一コリント15章40節)を指す。

(注)別エントリー「試論:『霊の帰還』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8381

ヨハネ14章2節〜3節「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたたちのために場所を用意して、あなたたちを迎える」二コリント5章1節「わたしたちは、神によって建物が備えられていることを知っています。人の手によるものではない、天に備えられている永遠の住みかです」。

イザヤ65章17節以下は主が新しい「天、地、エルサレム」を、新しい「神の民」のために喜びをもって創造されると預言した。ヨハネ14章2節以下「わたしの御父の家には住む場所が豊富にある」「わたしは行って場所を用意し、戻って来てあなたたちを迎える」ガラテヤ4章26節「天のエルサレム」。

(注)別エントリー「試論:『もろもろの天を通過』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13750

(注)別エントリー「試論:預言解釈の基本を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5092

二世紀初めにアンティオキアの聖イグナティウスが記したように初代の信者は、キリストの御復活すなわち「天上の体」(一コリント15章40節)の創造の記念に、週七日の中で祝うべき特別の日を土曜日(ユダヤ教の安息日)から、御復活があった「週の最初の日(安息日の翌日)」日曜日へと置き換えた。

(注)別エントリー「試論:『土曜と日曜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12677

「主の変容」の後、主イエスは「人の子が死者の中から復活するまでは今見たことを誰にも話してはならない」と命じられた。使徒たちは「天上の体」(一コリント15章40節)を目撃したのだが、まず主の御復活前後の実体験を経た上で復活の意義を理解しなければ、「天上の体」の理解もないからである。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888

試論:出エジプト記14章と洗礼を140文字以内で

パウロは一コリント10章2節で、モーセの一行は出エジプトの際にバプテスマすなわち、洗礼を受けたと記す。出エジプト14章21節「モーセは手を海に向けて延ばし、主が夜通し激しい東風で海を押し止められたので、水が分かれ、海は乾いた地になった」。強風によりモーセの一行は水しぶきを浴びた。

(注)別エントリー「試論:『バプテスマ』と『洗い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15165

(注)別エントリー「バプテスマは身を沈める・身をひたすことか【再投稿】」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/20233

試論:「光のある間に歩め」を140文字以内で

イザヤ55章6節〜7節「まだ主を見つけられる間に、主を尋ね求めなさい。まだ主を近くに感じている間に、呼び求めなさい。神に逆らう者は不従順の道から離れなさい。善からぬことを行う者は悪巧みを捨てなさい。わたしたちの神である主に立ち帰るなら主は憐れんで下さり、どこまでも赦して下さる」。

(注)別エントリー「試論:イザヤ58章『真の断食』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14709

(注)別エントリー「試論:イザヤ58章の『世の光』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14802

【追記】

プロテスタントの文語訳聖書『改訳 新約聖書』(1917年)では、ヨハネ14章6節で「真理(まこと)」と平仮名を振る。詩編145編18節「主は、まことをもって呼び求める人々すべての近くにおられる」に対応するためだが、詩編のこの節の「まこと」とは、《真心(まごころ)》を意味している。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:聖書の『まこと』って何?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14292

詩編145(144)編19節には「主は御自分を畏れる人々の望みをかなえられ、彼らの救いを求める叫びを聞けば願いを聞き入れてくださる」とある。主イエスは水の上から沈みかけたペトロにすぐ手を延ばしてつかまえられ、悪霊に苦しめられ続ける娘を持つカナンの女性の叫びに願いを聞き入れられた。

フィリピ4章でパウロは、「喜びなさい」(4節)「主はすぐ近くにおられる」(5節)と説く。神の義に適うことを行い続ける限り(8節〜9節、マタイ6章33節)、主イエスから「お前たちなど知らない。わたしから離れ去れ」(ルカ13章27節、マタイ7章23節)と拒まれる心配がないからである。

(注)別エントリー「試論:『滅びに通じる門は広い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8105

(注)別エントリー「試論:『砂の上に家を建てる人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12856

いつも喜んでいるようにと一テサロニケ5章16節は勧める。ローマ12章15節は喜んでいる人がいれば一緒に喜び、悲しんでいる人がいれば一緒に悲しむことを勧める。フィリピ2章18節でもパウロは喜ぶことを勧めるが、その前段階として14節では何事にも不平や理屈を言わないようにとまず勧める。

(注)別エントリー「試論:憐れみは誰のところへ??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8901

マタイ7章は「門」という比喩で、「神の国」に入るための条件「神の義」(6章33節)を表現した。これは詩編118編19節以下「義の門よ開け。この門は主の門だ。主に従う者はここから入る」とともに、イザヤ26章2節「門よ開け。信仰を守って神の義に従う民が入れるように」とも関連している。

(注)別エントリー「試論:『神の義』と詩編を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6798

試論:「真理」と相容れない事柄を140文字以内で

主イエスはヨハネ14章6節で「わたしは真理」と仰せになりピラトの尋問の際も「真理」という語を使われたが、この語は、旧約聖書で「まこと」と日本語訳されるヘブライ語に対応し、意味も漢字の「真、実、信、誠」に対応する。従って「嘘も方便」や「面従腹背」(マタイ7章21節)は認められない。

(注)別エントリー「真理(まこと)の神」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

【追記】

ルカ6章46節「あなたたちはわたしを『主よ、主よ』と呼んでおきながら、なぜわたしが言っていることを、行わないのか?」ヨハネ8章51節「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことはない」ガラテヤ5章6節「キリスト・イエスに結びついているのなら、愛の実践を伴う信仰こそ重要です」。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

(注)別エントリー「試論:『主よ主よと呼びながら』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15669

マタイ7章21節「わたしに向かって、『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るのではなく、わたしの天の父の御心を行う者だけ入る」ヨハネ13章34節「わたしがあなたがたを愛したように、愛し合いなさい」ガラテヤ5章6節「キリスト・イエスに結ばれているなら、愛の実践を伴う信仰こそ大切」。

(注)別エントリー「試論:『キリストの律法』愛の掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11291

(注)別エントリー「試論:新都エルサレムに住む条件を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11197

マタイ25章45節で主は「この小さな者の一人にしなかったことは、わたしにしなかったことである」と仰せになり、隣人愛の実行を神への愛の基準にすると宣言された。従って「私は周囲とはトラブルを起こしてばかりですが、主よ、あなたへの愛だけは誰にも負けません」という自己申告は、通用しない。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

ヨハネ14章15節で主は「わたしを愛しているのなら、わたしの掟を守りなさい」と仰せになり御自身が教えられた掟を守ることをもって御自身への愛を判断すると宣言された。従って、「私はあなたの掟を守れてはいませんが、主よ、あなたへの愛だけは誰にも負けません」という自己申告は、通用しない。

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

マタイ25章45節「この小さな者の一人にしなかったことは、わたしにしなかったことである」は、一ヨハネ4章20節で「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」と繰り返され、21節は神から受けた掟として「神を愛する人は兄弟をも愛すべきです」と断言している。

試論:「自分たちが突き刺した」を140文字以内で

ヨハネ19章37節はゼカリヤ12章10節を引用し「彼らは、自分たちが突き刺した者を見る」と記す。詩編55編22(21)節では剣とは「鋭く人間に迫り心に突き刺さる言葉」の比喩で、57編5(4)節や59編8(7)節も同様の比喩を用い、心ない言葉を相手に浴びせて傷付ける行為を表現する。

【追記】

主はマタイ10章34節で自分は剣をもたらすために来たと仰せになったが、剣は詩編55編22(21)節では「鋭く人間に迫り心に突き刺さる言葉」の比喩である。57編5(4)節や59編8(7)節も同様の比喩を用い、エフェソ6章17節では神の御言葉それ自体を「〔聖〕霊の剣」にたとえている。

(注)別エントリー「試論:『御言葉は剣(つるぎ)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6245

(注)別エントリー「試論:『わたしは地上に剣を〜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6064

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7250

試論:「大淫婦」の正体を140文字以内で

古代のイスラエルでは「神」と「神の民」との関係がしばしば「花婿」と「花嫁」と表現された。しばしば「女王」にもたとえられる都が「花婿」キリストを歓呼と共に迎え入れながら、数日後に裏切り、夜中に急襲して捕らえ一日のうちに死に至らしめたその行状から、「大淫婦」と呼ばれるのは当然である。

(注)別エントリー「試論:黙示録17章『十本の角』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9155

(注)別エントリー「試論:黙示録17章『第八の者』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9038

【追記】

黙示録18章7節「わたしはやもめではなく女王であり、決して悲しい目に遭わない」ルカ19章41節以下「イエスは都のために泣いて仰せになった、『もし今、お前が平和への道をわきまえていたならば。しかし今のお前は、それを理解していない。時が来て、敵がお前を包囲して四方から攻め寄せ〜』」。

(注)別エントリー「エルサレムがバビロンと呼ばれた理由」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1962

(注)別エントリー「あなた方は神と富に仕えることはできない」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1699

古代のイスラエルは、神と神の民との関係をしばしば花婿と花嫁の関係にたとえた。洗礼者ヨハネは、イエスを「花婿」と呼んで自身は「花婿の介添人」と称した。主イエスを歓呼の裡に迎え入れながら数日で死に至らしめた都を、黙示録が「大淫婦」と呼んだ理由は、イエスこそ花婿に他ならないからである。

ヨハネの黙示録17章5節には「淫婦の母、地上のあらゆる憎むべきものの母である大バビロン」と書かれているが、ゼカリヤ書2章11節では、エルサレムの住民が「バビロンの娘」という表現で呼び掛けられている。当時のエルサレムの住民は、かつてバビロンに連行されて住み着いた人々の子孫であった。

イザヤ62章5節はシオンの救いに関する文脈で神と神の民との関係を花婿と花嫁の関係にたとえエレミヤ33章11節はエルサレムの復興を「花婿と花嫁の声が聞こえるようになる」と預言したが、ならば、黙示録18章23節が「花婿と花嫁の声は聞かれない」と啓示した都も、やはり同じ都のはずである。

イザヤ62章5節は「神と神の民」の関係を「花婿と花嫁」の関係にたとえたが、ヨハネ3章29節で洗礼者が「花婿の介添人」を自称する場合、「花婿」が主イエス・キリストであるのは、いうまでもない。洗礼者は、「花婿」と「花嫁」を引き合わせるまでが自分の役割と心得て、30節の言葉を口にした。

古代のイスラエルでは、婚礼の時に上質の酒を提供するのは花婿の責任と考えられていた(ヨハネ2章9節以下)。一方、当時は「神」と「神の民」の関係を《花婿》と《花嫁》の関係にたとえていた(イザヤ62章5節)。カナでのぶどう酒の奇跡で、主は御自分こそが真の《花婿》であるとほのめかされた。

試論:「尊重と敬意」を140文字以内で

主イエスは「自分が隣人からしてもらいたいことを自分から隣人にしなさい」を御自分の《律法》すなわち御教えの根幹とされ、弟子たちの足を洗われ隣人への敬意と尊重の重要性を教えられた。しかし御自身は次の晩が来る前に、尊重や敬意とは無縁の暴力や虐待や侮辱の裡にぼろ布のようにされて殺された。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

【追記】

弟子たちの足を洗うという行為を通じて、主イエスは隣人に敬意を払って尊重することこそ御自分の御教えの根幹であると教えられた。自分自身が他人から尊重され敬意を払われた経験がなければ敬意と尊重は理解できない。「互いを尊重するなら、それを見て皆はあなたたちがわたしの弟子であると認める」。

試論:「どこから来たのか」を140文字以内で

主イエスはヨハネ19章9節でローマ総督ピラトから「お前はどこから来たのか」と問われた。7節でユダヤ人たちが、自分たちの律法によれば神の子を自称したこの男は死刑に該当する、と告発したからだが、主は無言だった。18章37節「わたしは真理についてあかしするために生まれ、この世に来た」。

(注)別エントリー「試論:『どこからどこへ行くか』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15556

【追記】

主イエスはヨハネ8章14節で「あなたたちはわたしがどこから来てどこへ行くのか知らない」と仰せになった。天の御父の独り子として人の世に来られ一度は御受難により世を去られるが新しい「天・地・エルサレム」の御創造(イザヤ65章17節以下、ヨハネ14章2節以下)と共に自らも御復活される。

イザヤ65章17節以下は主が新しい「天、地、エルサレム」を、新しい「神の民」のために喜びをもって創造されると預言した。ヨハネ14章2節以下「わたしの御父の家には住む場所が豊富にある」「わたしは行って場所を用意し、戻って来てあなたたちを迎える」ガラテヤ4章26節「天のエルサレム」。

(注)別エントリー「試論:『もろもろの天を通過』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13750

(注)別エントリー「試論:預言解釈の基本を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5092

主イエスはピラトとの対話で、「真理(ギリシア語でアレテイア)」という表現を用いられたが、ヘブライ人にとって「真理」とは「真理(=まこと)の神」(エレミヤ10章10節参照)つまり自分たちの神である主を指す表現である。しかしローマ人であるピラトにはこのニュアンスは全く通用しなかった。

(注)別エントリー「真理(まこと)の神」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

試論:主イエスとピラトとの対話を140文字以内で

主イエスはピラトとの対話で、「真理(ギリシア語でアレテイア)」という表現を用いられたが、ヘブライ人にとって「真理」とは「真理(=まこと)の神」(エレミヤ10章10節参照)つまり自分たちの神である主を指す表現である。しかしローマ人であるピラトにはこのニュアンスは全く通用しなかった。

(注)別エントリー「真理(まこと)の神」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15246

【追記】

福音書の時代ユダヤはローマの強い影響下にあったが大半のユダヤ人はラテン語に馴染みがなく、ヘブライ語やアラム語やギリシア語を用いていた。ピラトのようなローマの上流階級はギリシア語も嗜み、他方イエスは幼年期をエジプトで過ごされたがエジプトのユダヤ人は、ギリシア語を話すユダヤ人だった。

「真理(ギリシア語本文でアレテイア)とは何か」(ヨハネ18章38節)の答えをマルコ12章32節は「神は唯一で他に神はない」ことがアレテイアとし、主はこれを「適切な答え」とされた(34節)。ヨハネ14章6節「わたしこそが道、真理、命」10章30節「わたしと父とは唯一のものである」。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

(注)別エントリー「試論:『御父と御子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7544

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

モーセに比肩する預言者とみなされたエリヤでさえ、王妃イゼベルに殺されそうになった(列王記上19章)際は、恐れをなして荒れ野に逃げ、自分の任務を放棄しようとしたが、主の養父ヨセフはヘロデ王が幼子を殺そうとした際も、自分の任務を放棄することなく、エジプトへ幼子とその母を連れて逃れた。

(注)別エントリー「試論:『マリアとヨセフは別格』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5928

(注)別エントリー「試論:モーセとエリヤを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5656

「神の小羊」(ヨハネ1章)

主の御受難を預言したイザヤ53章7節では、出エジプトの代価となった「小羊」(出エジプト記12章3節等)を想起させる一方で、「屠(ほふ)り場に引かれる」と表現してイサクの犠牲の身代わりとなった羊(創世記22章13節)をも想起させ、主の御受難が人々の身代わりであることを再認識させる。

ヨハネ1章で洗礼者は主イエスを「神の小羊」(29節、36節)と呼んで周囲に注意喚起したが、ペトロは第一の手紙1章19節で「きずや汚(けが)れのない小羊のようなキリスト」と呼び2章22節ではさらに「罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」とイザヤ53章9節を引用し説明する。

エレミヤ11章19節「わたしは、飼い馴らされた小羊が屠(ほふ)り場に引かれて行くように、何も知らなかった。彼らはわたしに対して、悪巧みをしていた」ヨハネ5章39節「聖書はわたしについて、あかしをするものだ」ルカ24章44節「わたしについて預言者の書にある事柄は必ず全て実現する」。

(注)別エントリー「試論:主イエスと旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7462

(注)別エントリー「試論:旧約聖書の預言を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4783

出エジプト記12章では、イスラエルの人々がファラオの支配から解放される代価となった小羊の存在に言及する。ヨハネ1章29節では、十字架において世の人々が罪の支配から解放される代価となるはずの主イエス・キリストの存在について、洗礼者ヨハネが「神の小羊」と呼んで、注意を喚起したと記す。

(注)別エントリー「試論:世の罪を取り除く神の小羊を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6140

詩編49編8(7)節は神に対し人間は贖いの業を行うことができないと記す。マタイ20章28節で主イエスは、「人の子(人となった神の独り子)」が世に来た目的とは、御自身が担っている「人間としての全て」を「身代金(詩編49編8節と同表現)」として贖いの業を行うためであると、宣言された。

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

(注)別エントリー「試論:『メシア到来の目的』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7479

黙示録7章16節はイザヤ49章10節を踏襲することで洗礼者が言及した(ヨハネ1章)

「〔神の〕小羊」

とイザヤ書の

「主の僕(しもべ)」

が同一人物であると再確認させ、

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために来た」
(マタイ20章28節、マルコ10章45節)

という事柄をも再確認させる。

ヨハネ1章29節「世の罪を取り除く神の小羊」の「取り除く」に当たるギリシア語は、一ヨハネ3章5節にも登場し、その前後では隣人愛の実践を奨励するが、同じ表現をエフェソ4章31節も用い、主に応えて信者が取り除くべき事柄を「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりを全ての悪意と共に」とする。

(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3277

エフェソ4章の後半では「神にかたどって造られた新しい人」として生きるためとして「怒ることはあっても罪を犯してはならない」「日が暮れるまで怒ったままではいけない」「悪い言葉を一切口にしない」「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどの全てを、一切の悪意とともに捨てる」等を勧めている。

ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。

ヨハネ1章14節は「神の御言葉(=主イエス)は肉(=人)となられ、わたしたちの間に宿られた(=住まわれた)」と記す。マタイ20章28節では主御自身が「仕えられるためではなく仕えるため」「多くの人の身代金(=あがない)として自分の命を献(ささ)げるために来た」と仰せになられている。

主はヨハネ14章27節で「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と仰せになった。ではどうやって主は御自分の平和をお与えになったのか、パウロがコロサイ1章20節で「その十字架の血によって」と答えを記した。

主はヨハネ12章27節で「今わたしは心騒ぐ」と仰せになり御自分の内面は穏やかでないと告白された。多くの侮辱を伴う凄惨なリンチの末に、十字架を背負わされ、「御自分の民」から罵声を浴びながら体力を消耗し尽くし、ぼろ布のような状態で大きな苦しみの内に息絶える日がそこまで来たからである。

主はヨハネ12章23節で「人の子が栄光を受ける時が来た」と仰せになった。御受難(十字架上の死)によって多くの人々に永遠の命をもたらし(24節〜25節)「死を永久に滅ぼす」(31節、イザヤ25章8節、一コリント15章54節、ヘブライ2章14節以下、コロサイ1章20節等)ためである。

ヨハネ8章34節「罪を犯す者は、罪の奴隷」12章31節「今、この世の支配者が追放される」ヘブライ2章14節〜15節「御自分に委ねられた者たちが人間である以上イエスも同じく人間としての全てを担われたが、死を司る悪魔を御自分の死によって滅ぼし悪魔の罪と死の支配から人々を解放された」。

主はヨハネ12章24節で「一粒の麦もし死なずば」の一節の前に、ギリシア語本文では二度「アーメン」と口にされた。通常この箇所は「まことにまことに」「よくよく」「はっきり」等と訳されるが、主はこうなさることで、そこが御教えの核心部分だと示された(31節及びコロサイ1章20節等参照)。

主はヨハネ8章32節で「真理はあなたたちを自由にする(解放する)」と仰せになった。パウロはヨハネと同じギリシア語を用いて何からの解放か、その答えをローマ6章と同8章で説明した。「罪から解放」(6章18節、22節)、8章2節「罪と死の法則から解放」同21節「滅びへの隷属から解放」。

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

ヨハネ1章14節は「神の御言葉(=主イエス)は肉(=人)となられ、わたしたちの間に宿られた(=住まわれた)」と記す。マタイ20章28節では主御自身が「仕えられるためではなく仕えるため」「多くの人の身代金(=あがない)として自分の命を献(ささ)げるために来た」と仰せになられている。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

ルカ2章21節でマリアの産んだ幼子はイエスと名付けられたが、その理由をマタイ1章21節では「その子は自分の民を罪から救うから」とヨセフの夢に現れた天使が語る。エレミヤ14章8節は救い主キリストの寄留者や旅人のような日々を預言し、ルカ9章58節は「人の子には枕する所もない」と記す。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888

ルカ2章11節は「あなたたちのために救い主がお生まれになった」マタイ1章21節は「この子は自分の民を罪から救う」と記す。イザヤ35節4節以下は「敵(サタン)を撃ち悪を罰する神が来られ、あなたたちを救われる」と預言し、目や耳や足や言葉の不自由な人々の回復が神の到来の徴になると続く。

マタイ1章でヨセフの夢に現れた主の天使は「マリアが産む子は民を罪から救う」と教えた。同じ事柄をペトロは使徒言行録3章26節で、「神は御自分の僕(しもべ、同13節参照)を立てられ遣わしてくださった。それは一人一人を悪から離れさせ、祝福(マタイ25章34節)に与らせるため」と説いた。

(注)別エントリー「試論:祝福された人と最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13187

マタイ1章21節は「自分の民を罪から救う」ルカ1章77節は「罪の赦しによる救い」と記し、主御自身もマタイ6章13節で「悪い者から救って下さい」と《主の祈り》を教えられ、ガラテヤ1章4節は「この悪の世からわたしたちを救い出そうとして御自身をわたしたちの罪のために献げられた」と記す。

(注)別エントリー「主の御降誕:救い主は何から人々を救うのだろうか」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4445

主イエスは黙示録22章13節で「わたしはアルファでありオメガ」「最初の者であり最後の者」「初めであり終わり」と自称された。これはイザヤ44章6節に対応し、同節は「わたしをおいて神はない」と続く。ヘブライ2章10節以下は「万物の源であり目標」「救いの創始者」「一つの源」と主を呼ぶ。

試論:人間の完成形(最終形態)を140文字以内で

ヘブライ5章9節は「キリストが〔御受難を経験された後に〕完全な者になられた」と記す。神でもあり人間でもあるキリストは、神としては天地創造以前から既に当然だが完全な者である。人間としては御受難を経験された後「復活の体(=天上の体、霊の体)」すなわち人間としての完成形へと到達された。

(注)別エントリー「試論:神であり人であるキリストを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6725

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

【追記】

主イエスは、ルカ9章の「主の変容」で三人の使徒に、「天上の体」(一コリント15章40節)すなわち死者の復活後の人間の姿(同章35節以下)をお示しになったが、当時三人の使徒は全く理解できなかった。「人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は愛する者たちに準備された」(同2章9節)。

(注)別エントリー「試論:ルカ9章『主の変容』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14938

主イエスは福音書で自身の御受難と御復活を随所で暗示されたが、御受難と御復活の間に御自分がどんな働きをなさるかについても、ヨハネ14章2節から3節で予告された。それはイザヤ65章17節以下の「新しい天・地・エルサレムの創造」預言の成就であり、御自身の復活の体の創造で完成の時を見た。

主イエスの御降誕は「肉の体」つまり人間としての誕生だったが、この世に来られた究極の目的が「贖(あがな)い」である以上、「上げられ(十字架上で顕示され)た」後の死と御復活によって悪魔の罪と死の支配を終わらせ人類に永遠の命と「霊の体」を準備して目的を達成したことの方がより重要である。

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11494

(注)別エントリー「試論:真理と贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9081

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

一コリント15章は、

《地上で生きる体》と《永遠の命を得て復活し天の国で生きる体》

とを、

「地上の体」と「天上の体」

「地上の命の体」と「霊の体」

等と表現する。

ガラテヤ5章は人間的な事柄を「肉」、神的な事柄を「霊」と表現し、

コロサイ1章22節「肉の体」とは「人間としての体」の意である。

(注)別エントリー「試論:『肉と霊』の対比を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7740

(注)別エントリー「試論:ガラテヤ5章の『肉と霊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7657

(注)別エントリー「試論:聖書と『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7649

一コリント15章でパウロは「地上の体」「天上の体」という表現を用いて、《人間が地上で生活していた際の、死によって朽ちていく肉体》と《その人の霊が神の許に帰還した後で、神によって天上で新しく与えられる、朽ちることのない体》について説明し、後者を「霊の体」(44節)等と表現している。

主はヨハネ11章25節で御自身を復活と命だと称され、6章63節では命を与えるのは「〔神の〕霊」だと仰せになった。コヘレト12章7節は人間の死でその肉体は塵(土)に還るが、命を与えられたその霊は「与え主」である神の許へと還るとし、一コリント15章44節は「霊の体が復活する」と記す。

主イエスは「わたしは世の光」(ヨハネ8章12節)と仰せになられ、1章4節は「御言葉(人々に語り掛ける神=御子イエス・キリスト)の内に命があり、命は人間を照らす光」と記し、5節では主を「光」と表現する。3章19節で主は「光」と自称され、10章25節では「復活」「命」とも自称された。

(注)別エントリー「試論:『世の光』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5388

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『神よあなたのことばは』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6358

創世記の2章と3章では、人間は「土(塵)」に由来し「土(塵)」に還る存在とする。創世記の記述に基づきヨブ記4章19節は「人は塵の中に基を置く土の家に住む者」と記す。ここでは人間の体を「土の家」と表現し、古代のヘブライ人が「(人間の)体」と「家」とを重ねて考えていたことを示唆する。

(注)別エントリー「試論:『土』と『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9629

上述の通り「『体』と『家』はともに自身にとっての住まい」という古代のヘブライ人の世界観を踏まえ主イエスは、「人となられた神の子である御自身の体」を「神の家=神殿」に重ねて「三日で建て直して見せる」と仰せになった。だがイエスを冒瀆者として葬り去ろうとした当時の人々には通じなかった。

「家と体はともに自身にとっての住まい」として両者を重ねる古代のヘブライ人の世界観を踏まえれば、主がヨハネ14章2節以下で仰せになった「あなたたちのために準備する住む場所」とは、「天から与えられる住みか」(二コリント5章1節)すなわち、「天上の体」(一コリント15章40節)を指す。

(注)別エントリー「試論:『霊の帰還』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8381

ヨハネ14章2節〜3節「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたたちのために場所を用意して、あなたたちを迎える」二コリント5章1節「わたしたちは、神によって建物が備えられていることを知っています。人の手によるものではない、天に備えられている永遠の住みかです」。

イザヤ65章17節以下は主が新しい「天、地、エルサレム」を、新しい「神の民」のために喜びをもって創造されると預言した。ヨハネ14章2節以下「わたしの御父の家には住む場所が豊富にある」「わたしは行って場所を用意し、戻って来てあなたたちを迎える」ガラテヤ4章26節「天のエルサレム」。

(注)別エントリー「試論:『もろもろの天を通過』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13750

(注)別エントリー「試論:預言解釈の基本を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5092

二世紀初めにアンティオキアの聖イグナティウスが記したように初代の信者は、キリストの御復活すなわち「天上の体」(一コリント15章40節)の創造の記念に、週七日の中で祝うべき特別の日を土曜日(ユダヤ教の安息日)から、御復活があった「週の最初の日(安息日の翌日)」日曜日へと置き換えた。

(注)別エントリー「試論:『土曜と日曜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12677

「主の変容」の後、主イエスは「人の子が死者の中から復活するまでは今見たことを誰にも話してはならない」と命じられた。使徒たちは「天上の体」(一コリント15章40節)を目撃したのだが、まず主の御復活前後の実体験を経た上で復活の意義を理解しなければ、「天上の体」の理解もないからである。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888

試論:「皆が清いわけではない」を140文字以内で

ヨハネ13章10節「あなたたち皆が清いわけではない」27節「しようとしていることを今すぐしなさい」(出て行きなさいとは命じられていない)30節「ユダはすぐ出て行った」15章3節以下「あなたたちはわたしの言葉によって既に清くなっているが、わたしにつながっていなければ実を結べない」。

(注)別エントリー「試論:『悔い改め』と『実』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15100

試論:「仕える者になりなさい」を140文字以内で

ヨハネ13章14節「主であり、師でもあるわたしが、あなたたちの足を洗ったのだから、あなたたちも、互いの足を洗い合わなければならない」マタイ23章11節「あなたたちの中で最も偉い者は、仕える者になりなさい」一ペトロ5章5節「神は高慢な者を敵とし、へりくだる者に恵みをお与えになる」。

(注)別エントリー「試論:『行った意味が分かるか』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15848

(注)別エントリー「試論:『後で分かるようになる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15854

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

試論:「後で分かるようになる」を140文字以内で

ヨハネ13章7節「今、わたしが行っていることは、今のあなたには理解できないだろうが、後で分かるようになる」14章26節「御父がわたしの名によって遣わされる弁護者すなわち聖霊が、あなたたちに全てのことを教え、わたしがこれまでに話してきたことをことごとく思い起こさせて下さるだろう」。

(注)別エントリー「試論:『行った意味が分かるか』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15848

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを識別する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/14194

試論:「行った意味が分かるか」を140文字以内で

ヨハネ13章12節「わたしがあなたたちに行ったことの意味が分かるか」15節「あなたたちにわたしが行った通りにあなたたちも行うよう、模範を示した」34節以下「わたしがあなたたちを尊重したようにあなたたちも互いを尊重しなさい。それによって皆はあなたたちがわたしの弟子であると認める」。

【追記】

主イエスは「自分が他人にしてもらいたいことを自分から他人にしなさい」と《キリストの律法》を教えられたが、ヨハネ13章1節では《御自分の時》が来たと自覚された主が、弟子たちを尊重され、どこまでも尊重されたことが記される、《キリストの律法》とは尊重と敬意であると、主は御自ら示された。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

試論:「人間の大言壮語は儚い」を140文字以内で

マタイ16章21節「イエスは、御自分がエルサレムに行き多くの苦しみを受けて殺され三日目に復活するであろうと弟子たちに打ち明け始められた」22節「そんなことがあってたまリますか」26章34節「あなたは、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言うであろう」75節「ペトロは大声で泣いた」。

(注)別エントリー「試論:『自分の十字架』とペトロを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12304

(注)別エントリー「試論:ペトロの生涯を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10550

試論:「人間の足を洗われる神」を140文字以内で

主イエスは「自分が他人にしてもらいたいことを自分から他人にしなさい」と《キリストの律法》を教えられたが、ヨハネ13章1節では《御自分の時》が来たと自覚された主が、弟子たちを尊重され、どこまでも尊重されたことが記される、《キリストの律法》とは尊重と敬意であると、主は御自ら示された。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

試論:キリストの「バシレイア」を140文字以内で

主イエスはヨハネ18章36節で、「わたしのバシレイアは、この世には属していない」と仰せになった。原文のギリシア語バシレイアは、聖書では「王権」「〔神の〕王国」を意味し、「王国の一人一人」まで包含する。黙示録1章6節でヨハネは、自分たちは既にその一部を構成していると書き記している。

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

(注)別エントリー「試論:新しい天・地・エルサレムを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/16733

【追記】

黙示録20章やローマ5章は「悪に悪を返さない」ことを徹底して罪や悪と決別した人々を「バシレウオ(〔キリストとともに〕王となる)」という動詞で表すが、これはあくまで《義化の完成》を象徴する表現であり政治体制的な意味を含まず、彼らは「第二の死」を免れ「永遠の命」を得ると記されている。

主イエスはヨハネ14章27節で「わたしの平和」を残され与えられると仰せになり、どうやって与えるのかパウロはコロサイ1章20節で「十字架の血によって」と答えを記した。平和とは古代のヘブライ人にとって幸福の総称であり、具体的には新しい天・地・エルサレムと復活の体そして永遠の命である。

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11494

(注)別エントリー「試論:『わたしの平和』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/15825

黙示録に登場する「第二の死」は主イエス・キリストから次のような宣告を受けることに等しい。「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ」(マタイ7章23節)または「お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」(ルカ13章27節)。

(注)別エントリー「試論:黙示録の火の池を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5376

マタイ25章31節以下には、主イエス・キリストによる最後の審判について書かれており、その裁きの結果、正しい人たちは「永遠の命」にあずかって「天地創造の時から用意されている国」を受け継ぎ、そうでない人たちは「悪魔とその手下のために用意してある永遠の火」に入って「永遠の罰」を受ける。

(注)別エントリー「試論:神から受けた掟を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5418

(注)別エントリー「試論:神への愛を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5413

黙示録20章12節以下には、マタイ25章31節以下と同様に、「最後の審判」に関する記述が登場するが、そこでは全ての死者たちが各自の行いに応じて裁かれることが書かれており、「行いを伴わないならば、信仰はそれだけでは死んだものです」というヤコブ2章17節の記述とは完全に一致している。

(注)別エントリー「試論:行いを欠く信仰を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5360

一コリント4章8節でパウロはコリントの人々に、《あなた方は教会を意のままに差配して誇っているが、どうかキリスト教の本分「罪と死の支配からの自由」を心がけ永遠の命に至る努力を日々怠らぬように。それならわれわれも福音宣教が実を結んだと主に認められて永遠の命に至るのに》等と書き送った。

主はヨハネ8章32節で「真理はあなたたちを自由にする(解放する)」と仰せになった。パウロはヨハネと同じギリシア語を用いて何からの解放か、その答えをローマ6章と同8章で説明した。「罪から解放」(6章18節、22節)、8章2節「罪と死の法則から解放」同21節「滅びへの隷属から解放」。

(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8706

(注)別エントリー「試論:『神の小羊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7514

(注)別エントリー「試論:世の罪を取り除く神の小羊を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6140

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

詩編49(48)編8(7)節は、神に対して人間が贖いの業を行うことはできないと記す。とはいえ神の御独り子が自ら人間となられて自分の「からだ」を「身代金」として贖いの業を行われた時の「からだ」は、マリアから受けたものだった。マリアは極めて特別な形でイエスの贖いの業に「参加」をした。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7795

(注)別エントリー「試論:『履物を脱ぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8620

ヘブライ2章13節以下は、御父が御自分に委ねられた者たちが人間である以上、御子も神のままで神であられながら人間の肉体と魂を担われたが、それは悪魔の罪と死の支配から人々を解放するためと記す。マリアの賛歌は神が人間の肉体と魂を担われた事実を「偉大なこと」(ルカ1章49節)と表現した。

試論:イザヤ61章1節を140文字以内で

エフェソ4章8節は詩編68編19(18)節を踏まえ神は捕らわれ人たちを天に導くため賜物を授けると説く。主はイザヤ61章1節を踏まえ罪悪に捕らわれた人を救う神が来るがそれは御自分だとルカ4章21節で示唆され、マルコ3章29節で聖霊の賜物を悪霊と呼ぶ冒涜は絶対に赦されないと説かれた。

【追記】

主はルカ4章でイザヤの預言についてお話しされた。しかしルカ4章18節にある「視力の回復」は出典と考えられるイザヤ61章1節に存在しないのではないか(あるのは「束縛からの解放」)と、古くから度々問題視された。ただしイザヤ42章7節は「視力の回復」と「束縛からの解放」を同一に論じる。

ルカ4章18節「主がわたしを遣わされたのは捕らわれ人に解放を告げるため」イザヤ58章6節「悪による束縛」ヨハネ8章32節「真理はあなたたちを自由にする(解放する)」同14章6節「わたしは真理である」ローマ6章18節「あなたたちは、罪の奴隷状態から解放され義に仕えるようになった」。

(注)別エントリー「試論:『義を行う人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13485

エレミヤ10章10節は「主は真理の神」と記すがこの章では、自分では言葉を話せない偶像の神々と違い、イスラエルの神である主は御自ら、御言葉を発せられて真正な御教えを御自分の民にお話しになられる(申命記5章22節以下)という事柄を要約する表現として、「真理〔の神〕」が用いられている。

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5846

イスラエルの神である主は御自分の民に対して御自ら御言葉を発せられて御教えをお話しになり(申命記5章22節以下)、それこそが自分で言葉を話せない偶像の神と最も異なるとして、主をエレミヤ10章10節は「真理の神」と呼ぶ。主イエスはピラトに御自分が何者か「真理」の表現で端的に示された。

主はヨハネ8章32節で「真理はあなたたちを自由にする(解放する)」と仰せになり、14章6節では真理とは御自分のことだと明言された。それが何からの解放かを、8章34節は「罪の奴隷〔状態〕」と記す。既にマタイ1章21節のヨセフの夢でも「この子は自分の民を罪から救う」と説明されている。

(注)別エントリー「試論:『真理』あるいは三位一体を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7662

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7570

「道」とは全ての人が生きる上で辿るべき道筋(道理・規範)でイエスがその模範であること、「真理」とは人が信仰・礼拝すべき三位一体の唯一の神を指し御父・御子・聖霊の間に矛盾がないこと、「命」とは幸福・安堵・充足等の人を生かすものの全てで人間にそれを授ける源は唯一の神ということを指す。

(注)別エントリー「試論:『道・真理・命』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11332

主なる神がシナイ山でモーセに多くの戒めや掟をお授けになっている間、民は金の子牛の像を造りこれを自分たちの新しい神とし、勝手なふるまいをしたが、モーセは怒って掟の板を投げつけた。人々は神からの恩恵だけ望んで戒めや掟には目もくれないが、実は主からの戒めや掟こそが恩恵だとは気付かない。

「真理(ギリシア語本文でアレテイア)とは何か」(ヨハネ18章38節)の答えをマルコ12章32節は「神は唯一で他に神はない」ことがアレテイアとし、主はこれを「適切な答え」とされた(34節)。ヨハネ14章6節「わたしこそが道、真理、命」10章30節「わたしと父とは唯一のものである」。

(注)別エントリー「試論:『御父と御子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7544

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5851

(注)別エントリー「試論:ヨハネ14章6節の『道』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9342

一ヨハネ5章は20節で「神の御子が来られ、私たちに真理である方を知る力を与えられました。私たちは真理である方の内に、またその御子イエス・キリストの内にいるのです」と記し、「この方こそ真理である神、永遠の命」と続け、御父と御子と聖霊(6節)の御三方を「真理」と呼び、唯一の神とする。

(注)別エントリー「試論:『御子に全て委ねられた』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7629

試論:「わたしの平和」を140文字以内で

主イエスはヨハネ14章27節で「わたしの平和」を残され与えられると仰せになり、どうやって与えるのかパウロはコロサイ1章20節で「十字架の血によって」と答えを記した。平和とは古代のヘブライ人にとって幸福の総称であり、具体的には新しい天・地・エルサレムと復活の体そして永遠の命である。

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11494

(注)別エントリー「試論:『地には平和』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8769

(注)別エントリー「試論:『平和を実現する人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6272

(注)別エントリー「試論:古代のヘブライの挨拶を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9775

【追記】

主イエスは福音書で自身の御受難と御復活を随所で暗示されたが、御受難と御復活の間に御自分がどんな働きをなさるかについても、ヨハネ14章2節から3節で予告された。それはイザヤ65章17節以下の「新しい天・地・エルサレムの創造」預言の成就であり、御自身の復活の体の創造で完成の時を見た。

主イエスの御降誕は「肉の体」つまり人間としての誕生だったが、この世に来られた究極の目的が「贖(あがな)い」である以上、「上げられ(十字架上で顕示され)た」後の死と御復活によって悪魔の罪と死の支配を終わらせ人類に永遠の命と「霊の体」を準備して目的を達成したことの方がより重要である。

(注)別エントリー「試論:真理と贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9081

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7823

一コリント15章は、

《地上で生きる体》と《永遠の命を得て復活し天の国で生きる体》

とを、

「地上の体」と「天上の体」

「地上の命の体」と「霊の体」

等と表現する。

ガラテヤ5章は人間的な事柄を「肉」、神的な事柄を「霊」と表現し、

コロサイ1章22節「肉の体」とは「人間としての体」の意である。

(注)別エントリー「試論:『肉と霊』の対比を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7740

(注)別エントリー「試論:ガラテヤ5章の『肉と霊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7657

(注)別エントリー「試論:聖書と『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7649

一コリント15章でパウロは「地上の体」「天上の体」という表現を用いて、《人間が地上で生活していた際の、死によって朽ちていく肉体》と《その人の霊が神の許に帰還した後で、神によって天上で新しく与えられる、朽ちることのない体》について説明し、後者を「霊の体」(44節)等と表現している。

主はヨハネ11章25節で御自身を復活と命だと称され、6章63節では命を与えるのは「〔神の〕霊」だと仰せになった。コヘレト12章7節は人間の死でその肉体は塵(土)に還るが、命を与えられたその霊は「与え主」である神の許へと還るとし、一コリント15章44節は「霊の体が復活する」と記す。

主イエスは「わたしは世の光」(ヨハネ8章12節)と仰せになられ、1章4節は「御言葉(人々に語り掛ける神=御子イエス・キリスト)の内に命があり、命は人間を照らす光」と記し、5節では主を「光」と表現する。3章19節で主は「光」と自称され、10章25節では「復活」「命」とも自称された。

(注)別エントリー「試論:『世の光』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5388

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『神よあなたのことばは』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6358

創世記の2章と3章では、人間は「土(塵)」に由来し「土(塵)」に還る存在とする。創世記の記述に基づきヨブ記4章19節は「人は塵の中に基を置く土の家に住む者」と記す。ここでは人間の体を「土の家」と表現し、古代のヘブライ人が「(人間の)体」と「家」とを重ねて考えていたことを示唆する。

(注)別エントリー「試論:『土』と『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9629

上述の通り「『体』と『家』はともに自身にとっての住まい」という古代のヘブライ人の世界観を踏まえ主イエスは、「人となられた神の子である御自身の体」を「神の家=神殿」に重ねて「三日で建て直して見せる」と仰せになった。だがイエスを冒瀆者として葬り去ろうとした当時の人々には通じなかった。

「家と体はともに自身にとっての住まい」として両者を重ねる古代のヘブライ人の世界観を踏まえれば、主がヨハネ14章2節以下で仰せになった「あなたたちのために準備する住む場所」とは、「天から与えられる住みか」(二コリント5章1節)すなわち、「天上の体」(一コリント15章40節)を指す。

(注)別エントリー「試論:『霊の帰還』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8381

ヨハネ14章2節〜3節「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたたちのために場所を用意して、あなたたちを迎える」二コリント5章1節「わたしたちは、神によって建物が備えられていることを知っています。人の手によるものではない、天に備えられている永遠の住みかです」。

イザヤ65章17節以下は主が新しい「天、地、エルサレム」を、新しい「神の民」のために喜びをもって創造されると預言した。ヨハネ14章2節以下「わたしの御父の家には住む場所が豊富にある」「わたしは行って場所を用意し、戻って来てあなたたちを迎える」ガラテヤ4章26節「天のエルサレム」。

(注)別エントリー「試論:『もろもろの天を通過』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13750

(注)別エントリー「試論:預言解釈の基本を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5092

二世紀初めにアンティオキアの聖イグナティウスが記したように初代の信者は、キリストの御復活すなわち「天上の体」(一コリント15章40節)の創造の記念に、週七日の中で祝うべき特別の日を土曜日(ユダヤ教の安息日)から、御復活があった「週の最初の日(安息日の翌日)」日曜日へと置き換えた。

(注)別エントリー「試論:『土曜と日曜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12677

「主の変容」の後、主イエスは「人の子が死者の中から復活するまでは今見たことを誰にも話してはならない」と命じられた。使徒たちは「天上の体」(一コリント15章40節)を目撃したのだが、まず主の御復活前後の実体験を経た上で復活の意義を理解しなければ、「天上の体」の理解もないからである。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888

フィリピ3章8節「わたしの主キリスト・イエスを知ったがゆえに、わたしは他の一切を失ってしまいましたが、それらはわたしにとって無価値です」マタイ13章44節「畑に宝が隠されているが見つけた人はそのまま隠しておき、喜びながら帰り、全財産をすっかり売り払ってでもその畑を買うであろう」。

主はマタイ13章45節以下で、「天の国」を全財産と引き換えにしてでも手に入れるべき真珠にたとえられた。最後の審判を踏まえるなら「天の国」は「永遠の命」と同義だが、「もし『永遠』とは何かを理解したならば、人々はあらゆる努力で自分の生活を改めるでしょうに」(ファティマの聖ヤシンタ)。

(注)別エントリー「試論:『最後の審判』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5427

(注)別エントリー「試論:黙示録20章の最後の審判を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5433

(注)別エントリー「試論:『第二の死』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5334

ルカ10章25節の律法学者と18章18節の議員は同じ質問をした。ただ議員には「心・精神・力・思いを尽くして」の観点が欠けていた。主は議員に、「持ち物を全て売り払う」という表現で勧告なさったが、この表現はマタイ13章44節〜45節のたとえでは《あらゆる努力を尽くす》を象徴している。

(注)別エントリー「予備的考察:『千年王国』か永遠の生命か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3297

試論:「わたしの時が近づいた」を140文字以内で

マタイ26章18節「わたしの時が近づいた」ヨハネ2章4節「婦人よ、わたしの時はまだ来ていません」13章1節「イエスは御自分の時が来たと悟られた」17章1節「父よ、時が来ました」19章30節「イエスはぶどう酒を口に受けられ『成し遂げられた』と仰せになり、頭を垂れ息を引き取られた」。

(注)別エントリー「救いの創始者(ヘブライ2章10節)」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13705

【追記】

ヨハネ2章3節「ぶどう酒がなくなりました」4節「婦人よ、わたしの時は、まだ来ていません」17章1節「父よ、時が来ました」19章26節「婦人よ、ごらんなさい。あなたの子です」30節「イエスは、このぶどう酒を口に受けられ、『成し遂げられた』と仰せになり、頭を垂れて息を引き取られた」。

(注)別エントリー「試論:『マリアの確信』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13783

(注)別エントリー「試論:『わたしの主』と母マリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8575

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章14節とマリアを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7795

(注)別エントリー「試論:『イエスとマリアの関係』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7725

試論:殺伐とした時世が続く理由を140文字以内で

キリスト信者を自称する人々は世界に億単位で存在するが、主イエスとは《神の御言葉》すなわち《人々の前に御姿を現されて御教えを仰せになった神》であることを忘れ、人々はキリストの律法(他人からしてもらいたいことをあなたから他人にしなさい)を実行せず口にもせず思い浮かべることさえしない。

(注)別エントリー「試論:『愛』(キリストの律法)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13665

(注)別エントリー「試論:『わたしは世の光である』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9699

(注)別エントリー「試論:あなたがたは世の光って?を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
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試論:「理解力と悔い改め」を140文字以内で

マタイ13章で主はたとえで話す理由を御説明されたが、「目で見る」「耳で聞く」という表現も「御教え(御言葉)を悟る」「心で理解する」ことの比喩で、それは「悔い改め」に導く。忠実な弟子に主は特別な「耳」(理解力)を与えるとイザヤ50章4節は預言し、理解力と悔い改めとは表裏一体である。

【追記】

主イエス・キリストは「山上の説教」で「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」(マタイ7章26節)と仰せになり、また「聞いて行う者は岩の上に家を建てた賢い人に似ている」(24節)とも仰せになられ、行うことがない信仰生活のもろさを強調なさった。

(注)別エントリー「試論:マタイ25章の十人の乙女を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ13章12節で御教えを聞いても実行しない人のことを、持っていない人は持っているものまでも取り上げられると仰せになった。これは25章29節でも繰り返され恵みである御教えを隠したと同然の人は、最終的に一度与えられた恵みまで取り上げられると、タラントンのたとえで御説明された。

(注)別エントリー「試論:マタイ25章のタラントンを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『土台なしで家を建てる』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:キリスト抜きのキリスト教を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはマルコ4章24節で「何を聞いているのかに注意を払いなさい」と仰せになった。この仰せは、マタイ13章14節「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず〜」に対応するものである。箴言19章27節「教えに耳を傾けるのを怠ってはならず、神の御言葉に無知であり続けてはならない」。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節『言』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『自分の秤』を140文字以内で」も参照のこと。
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試論:「御受難と御復活との間」を140文字以内で

主イエスは福音書で自身の御受難と御復活を随所で暗示されたが、御受難と御復活の間に御自分がどんな働きをなさるかについても、ヨハネ14章2節から3節で予告された。それはイザヤ65章17節以下の「新しい天・地・エルサレムの創造」預言の成就であり、御自身の復活の体の創造で完成の時を見た。

【追記】

主イエスの御降誕は「肉の体」つまり人間としての誕生だったが、この世に来られた究極の目的が「贖(あがな)い」である以上、「上げられ(十字架上で顕示され)た」後の死と御復活によって悪魔の罪と死の支配を終わらせ人類に永遠の命と「霊の体」を準備して目的を達成したことの方がより重要である。

(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11494

(注)別エントリー「試論:真理と贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9081

(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
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一コリント15章は、

《地上で生きる体》と《永遠の命を得て復活し天の国で生きる体》

とを、

「地上の体」と「天上の体」

「地上の命の体」と「霊の体」

等と表現する。

ガラテヤ5章は人間的な事柄を「肉」、神的な事柄を「霊」と表現し、

コロサイ1章22節「肉の体」とは「人間としての体」の意である。

(注)別エントリー「試論:『肉と霊』の対比を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7740

(注)別エントリー「試論:ガラテヤ5章の『肉と霊』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7657

(注)別エントリー「試論:聖書と『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7649

一コリント15章でパウロは「地上の体」「天上の体」という表現を用いて、《人間が地上で生活していた際の、死によって朽ちていく肉体》と《その人の霊が神の許に帰還した後で、神によって天上で新しく与えられる、朽ちることのない体》について説明し、後者を「霊の体」(44節)等と表現している。

主はヨハネ11章25節で御自身を復活と命だと称され、6章63節では命を与えるのは「〔神の〕霊」だと仰せになった。コヘレト12章7節は人間の死でその肉体は塵(土)に還るが、命を与えられたその霊は「与え主」である神の許へと還るとし、一コリント15章44節は「霊の体が復活する」と記す。

主イエスは「わたしは世の光」(ヨハネ8章12節)と仰せになられ、1章4節は「御言葉(人々に語り掛ける神=御子イエス・キリスト)の内に命があり、命は人間を照らす光」と記し、5節では主を「光」と表現する。3章19節で主は「光」と自称され、10章25節では「復活」「命」とも自称された。

(注)別エントリー「試論:『世の光』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5388

(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844

(注)別エントリー「試論:『神よあなたのことばは』を140文字以内で」も参照のこと。
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創世記の2章と3章では、人間は「土(塵)」に由来し「土(塵)」に還る存在とする。創世記の記述に基づきヨブ記4章19節は「人は塵の中に基を置く土の家に住む者」と記す。ここでは人間の体を「土の家」と表現し、古代のヘブライ人が「(人間の)体」と「家」とを重ねて考えていたことを示唆する。

(注)別エントリー「試論:『土』と『肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/9629

上述の通り「『体』と『家』はともに自身にとっての住まい」という古代のヘブライ人の世界観を踏まえ主イエスは、「人となられた神の子である御自身の体」を「神の家=神殿」に重ねて「三日で建て直して見せる」と仰せになった。だがイエスを冒瀆者として葬り去ろうとした当時の人々には通じなかった。

「家と体はともに自身にとっての住まい」として両者を重ねる古代のヘブライ人の世界観を踏まえれば、主がヨハネ14章2節以下で仰せになった「あなたたちのために準備する住む場所」とは、「天から与えられる住みか」(二コリント5章1節)すなわち、「天上の体」(一コリント15章40節)を指す。

(注)別エントリー「試論:『霊の帰還』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8381

ヨハネ14章2節〜3節「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたたちのために場所を用意して、あなたたちを迎える」二コリント5章1節「わたしたちは、神によって建物が備えられていることを知っています。人の手によるものではない、天に備えられている永遠の住みかです」。

イザヤ65章17節以下は主が新しい「天、地、エルサレム」を、新しい「神の民」のために喜びをもって創造されると預言した。ヨハネ14章2節以下「わたしの御父の家には住む場所が豊富にある」「わたしは行って場所を用意し、戻って来てあなたたちを迎える」ガラテヤ4章26節「天のエルサレム」。

(注)別エントリー「試論:『もろもろの天を通過』?を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/13750

(注)別エントリー「試論:預言解釈の基本を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5092

二世紀初めにアンティオキアの聖イグナティウスが記したように初代の信者は、キリストの御復活すなわち「天上の体」(一コリント15章40節)の創造の記念に、週七日の中で祝うべき特別の日を土曜日(ユダヤ教の安息日)から、御復活があった「週の最初の日(安息日の翌日)」日曜日へと置き換えた。

(注)別エントリー「試論:『土曜と日曜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/12677

「主の変容」の後、主イエスは「人の子が死者の中から復活するまでは今見たことを誰にも話してはならない」と命じられた。使徒たちは「天上の体」(一コリント15章40節)を目撃したのだが、まず主の御復活前後の実体験を経た上で復活の意義を理解しなければ、「天上の体」の理解もないからである。

(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888