ローマ8章6節の直訳は「肉の思いは死、霊の思いは命と平和」。ヘブライ人は人間由来の事柄を「肉」、神に由来する事柄を「霊」と呼び、あらゆる幸福を「命」あるいは「平和」と総称した。この節は「人間由来の願望は死で終わるが、神に由来する願望は人間をあらゆる幸福へと導く」という意味である。
【追記】
主イエスはルカ10章6節で、御自分の御教えを受け入れることになるであろう人を「平和の子」とお呼びになった。これは、イザヤ9章5(6)節が救い主イエスを「平和の君」と呼び預言していることを踏まえる。同様に、パウロは自分たちの神である主イエスを「平和の神」(フィリピ4章9節)と呼ぶ。
(注)別エントリー「試論:ルカ10章の『平和』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17745
古代のヘブライ人にとって「平和」はあらゆる幸福の総称であり、「あなたに平和」はヘブライ人の挨拶の決まり文句だった。ルカ10章5節「この家に平和があるように」は、より長い形の挨拶(サムエル上25章6節)である。ヘブライ人は「平和に属する者」を言い表したい時に「平和の子」と表現した。
(注)別エントリー「試論:『地には平和』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8769
(注)別エントリー「試論:『平和を実現する人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6272
ガラテヤ5章16節以下では「肉と霊」が対比されるが、ここで「肉」はヨハネ1章14節同様「人間」を指し、「霊」は「聖霊」「神の霊」を意味する。つまりこの章における「肉」と「霊」との対立とは、「人間に由来する諸悪」(マルコ7章20節以下参照)と「神に由来する諸徳」との対立を意味する。
古代のヘブライ人の世界観に従い、ガラテヤ5章は「人間(人間それ自体)」を「肉」、「神〔に由来するもの〕」を「霊」と呼ぶ。ヨハネ3章6節も同じ対比を用い、「霊から生まれた者は霊」とは同1章12節の「神の御言葉である主イエスは、御自分を受け入れる人に神の子となる資格を与えた」を指す。
古代のイスラエル人にとって「肉」という表現は「人間」を指す場合があった(ヨハネ1章14節等)。マルコ7章20節以下で主イエスが「人から出て来るものこそ人を汚す」と注意を促された諸悪と、ガラテヤ5章19節以下でパウロが「肉の業」と呼んで避けるように促した諸悪が同様なのは当然である。
古代のヘブライ人は「肉」を、「人間(人間それ自体。人間の肉体の部分だけではなく魂も含めた人間の全体。)」を表す言葉として用いていた。創世記6章12節「すべて肉なる者は堕落の道を歩んでいた」(新共同訳)。日本語訳の「肉なる者」に対応する語は、ヘブライ語本文ではただ単に「肉」である。
ガラテヤ5章は「肉」と「霊」の対立を記すが、ヨハネ1章同様、パウロは古代のヘブライの世界観に基づき、人間そのものを「肉」と表現して「霊」つ まり「神の霊」と対比する。近代人は「肉と霊」という表現から「〔人間の〕肉体と〔人間の〕霊魂の対立」をイメージしがちだが、パウロの意図は異なる。