【問】主の養父ヨセフの妻マリアへの態度はどのようなものでしたか?
【答】自分に身に覚えのない妊娠を婚約者がしたことで苦悩している間でさえ、彼は彼女に当たり散らしたりは決してせず、彼女の妊娠している子が神の御独り子だと分かってからは、自分の存在が彼女の負担にならぬように心掛けました。
【追記】
マタイ1章20節の本文は、婚約者の妊娠を知ったヨセフの心情をエントゥメオマイと表現する。通常この語は熟考・熟慮を表し内面の怒りや憤慨を表す可能性も含むが、ヘロデの激昂を表す2章の語トゥモオーと違い、あくまでも本人の内面に留まるもので婚約者に感情を直接ぶつけた可能性は否定的である。
(注)別エントリー「婚約者の妊娠を知った時のヨセフの心情」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3092
詩編15編3節は、神なる主と同じ住まいで暮らす人の条件として、周囲に対して中傷をせず、害を及ぼさず、小馬鹿にした態度を取らないことを挙げ、また2節では完全(=無垢)で、義を行うことを挙げる。主イエスの同居家族として、ヨセフが幼子や幼子の母を困らせる行動に出た可能性は皆無と言える。
カトリックで聖母を指す表現「天の門」は、聖書では創世記28章17節にのみ登場し、同節は主がおられた場所を「なんと畏れ多い場所」「天の門」と呼ぶ。主を宿した「胎」(ルカ11章27節)であるマリアを、同様に《なんと畏れ多い女性》と感じるのは、古代のイスラエル人の感覚として当然である。
(注)別エントリー「試論:ルカ11章28節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5786
(注)別エントリー「試論:『神の都市』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6648
(注)別エントリー「試論:『偉大なこと』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7651
(注)別エントリー「ルカ福音書の聖母とサムエル記下の神の櫃」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1544
(注)別エントリー「試論:『受肉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7842
カトリックではナザレの聖家族は三人と教える。主の養父ヨセフは終生、息子と妻の望むことだけを行い、三人家族の三番目であるかのように振舞い後世の人々からもそう思われた。世の男性たちが子供たちや女性たちを平然と虐待する、毒々しい時代が来る時、ヨセフの存在は強力な解毒剤として働くだろう。