主イエスはルカ17章7節以下で神から命じられている事柄を全て実行しているからといって人は思い上がってはいけないと仰せになった。忠実な僕(しもべ)が最後に神から報酬を受け取ることは12章35節以下で説かれるが、あくまで「天の国」のことであって、この世で他人を見下していいわけがない。
(注)別エントリー「試論:永遠の命(=天国の福楽)を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『戸をたたいている』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「ファリサイ派の人と徴税人」も参照のこと。
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【追記】
主はルカ12章37節で「主人が帰って来た時、目を覚ましているのを見られる僕(しもべ)たちは幸い」と仰せになり、38節も同様である。43節では「主人が帰って来た時、言われた通りにしているのを見られる僕は幸い」とあるので、主の仰せを怠らず行うことが「目を覚ましている」ことだと分かる。
(注)別エントリー「試論:聞くだけの人を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:砂の上の家を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『主よ、主よ』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:神から受けた掟を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスは福音書で何度も「目を覚ましていなさい」と仰せになった。これに続けるようにパウロは、一コリント16章13節で「信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい」と記した。ペトロも第一の手紙5章8節で、この仰せの前に「身を慎んで」と付け加え、悪魔に対する警戒を説く。
(注)別エントリー「試論:引き締めるべきものは何?を140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ12章36節以下「もし主人が夜中に帰って来て戸をたたいても戸をすぐ開けられるよう待つしもべの如く、主人を待ちなさい。そのしもべの食事を主人は給仕するであろう」黙示録3章20節「わたしは戸口で戸をたたいている。わたしの声を聞いて戸を開ける者と、わたしは食事を共にするであろう」。
(注)別エントリー「試論:『地上の星』を140文字以内で」も参照のこと。
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