主イエス・キリストはマルコ7章の最初の部分でファリサイ派の最大の問題点を指摘された。それは彼らが「言い伝え」を過度に重視していることで、本来モーセの律法に対して副次的存在だった「言い伝え」がいつしか律法と同等以上にまで扱われ、しかも隣人を圧迫するための口実と化していた事実である。
(注)別エントリー「ファリサイ派の人と徴税人」も参照のこと。
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(注)別エントリー「バプテスマは身を沈める・身をひたすことなのか」も参照のこと。
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【追記】
主イエスは「ファリサイ派のパン種とヘロデ派のパン種には気を付けなさい」と教えられ(マルコ8章、マタイ16章参照)、一コリント5章は「古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いてはなりません」「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませる」「あなたがたはパン種の入っていない者」等と教えている。
(注)別エントリー「隣人愛の反対は理由なき悪意そして憎しみ」も参照のこと。
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マタイ12章で、麦畑から穂を摘んで直に麦を口にするほど弟子たちは空腹だった。ファリサイ派の人々に対し、主はサムエル上21章を引用された。パンではなく直に麦を口にするほどの空腹をしのぐことは、井戸に落ちた息子をすぐに引き上げる(ルカ14章5節)ことと同じく、安息日の掟にも優先する。
(注)別エントリー「試論:『空腹をしのぐ』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ22章で律法中の最も重要な掟の第一は神への愛、第二は隣人愛と仰せになった。申命記10章でモーセへの戒めの再授与の際、12節以下では神への愛が命じられ、19節では「遠くからやって来た者(寄留者、新参者、改宗者)」という表現で隣人愛(レビ19章18節、34節)が命じられた。
(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ22章36節以下の「律法の中で最も重要な掟はどれか」の答えと、ルカ10章25節以下の「永遠の命を得るために何をすればよいか」の答えは一致する。またマルコ12章32節は「神は唯一であり、他に神はない」という事柄をギリシア語本文でアレテイアすなわち真理と表現してこれを強調する。
(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
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マタイ9章32節以下のいやしのエピソード以降、ファリサイ派の人々は「彼は悪霊のかしらの力で悪霊を追い出している」と主イエスを中傷し続けた。主はマタイ12章32節で、聖霊によって悪霊を追い出した事実を「ベルゼブルによって追い出した」と咎めることは絶対に許容されない、と仰せになった。
主はマルコ3章28節以下で、御自身の人間(人の子)的側面(ガリラヤ人、大工等)を云々する人々には酌量の余地がまだ残されるが、御自身の神としての権威(聖霊によって悪霊を追い出した事実)を目の当りにしながらそれになお難癖をつける人については、最早決して酌量の余地はないと警告なさった。
(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はマタイ12章32節で、御自分のことを単に人間的な事柄で嘲る人の悪口(同11章19節「大食漢で大酒呑み、徴税人や罪人の仲間」)は許容範囲内だが、神の霊つまり聖霊によって悪霊を追い出した事実を「ベルゼブルによって悪霊を追い出した」と咎めることは絶対に許容されないと、仰せになった。
(注)別エントリー「試論:『人となられても神は神』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:神であり人であるキリストを140文字以内で」も参照のこと。
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マタイ23章で主は、偽りの信仰の特徴について説明されたが、「言うだけで、実行しない」「背負いきれないほどの重荷をまとめて、他人の肩に載せるが、自分はそれを動かすために、指一本貸そうとしない」「そのすることは、すべて人に見せるため」「やもめの家を食い物にする」などにより識別できる。
主イエスはマタイ23章で律法学者とファリサイ派の人々を厳しく批判し続けられたが、その理由の筆頭に上げられるものは「言うだけで、実行しない」(3節)であった。ここでは、手前勝手で御都合主義的な「信仰義認」を主が否定されていることが歴然としており、マタイ7章21節以下でも同様である。
(注)別エントリー「試論:ローマ3章『信仰と律法』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『信仰義認』なる幻影を140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはマタイ23章で律法学者やファリサイ派の人々を「偽善者」と呼び批判されたが、その理由の筆頭に「言うだけで実行しない」(3節)を挙げられた。聖書ギリシア語「偽善者」はもともと、「(ギリシア演劇の)演者」に由来し、「言うだけで実行しない」人を<信仰を演じる人>にたとえている。
古代のイスラエル人は、「困っている人に心を配る」(イザヤ58章10節)ことを表現する際には「霊魂を注ぐ」という言い回しを用いた。従ってルカ11章41節「器(=人間)の中にある物(=霊魂)を施せ」の意味は「揚げ足取りをいい加減に止めて、隣人に心を配ることだけを心掛けなさい」である。
(注)別エントリー「試論:『土の器』を140文字以内で」も参照のこと。
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ルカ11章41節「器の中にある物を施せ」の「器」とは「土の器」「陶器」の比喩と同様、人間を指す。「器の中にある物」は人間に吹き込まれた「命の息」(創世記2章7節)つまり「霊魂」を意味する。イザヤ58章10節のヘブライ語原文「霊魂を注ぐ」は、「心を配る」(新共同訳)ことを意味する。
(注)別エントリー「試論:『器の中にある物を施せ』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:詩編2編のメシアと鉄の杖を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/11450
箴言15章4節「赦しを与える言葉は命の木」にある通り旧約の民は、他者に幸福や安堵を与える事柄を「命」と表現し、主なる神から命の息を吹き込まれた人間は他者に幸福や安堵を与えることができる、という信念を持っていた。故に主はルカ11章41節で他者に幸福や安堵だけを与えるよう命じられた。
(注)別エントリー「試論:『主にとって赦しも癒し』を140文字以内で」も参照のこと。
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「道」とは全ての人が生きる上で辿るべき道筋(道理・規範)でイエスがその模範であること、「真理」とは人が信仰・礼拝すべき三位一体の唯一の神を指し御父・御子・聖霊の間に矛盾がないこと、「命」とは幸福・安堵・充足等の人を生かすものの全てで人間にそれを授ける源は唯一の神ということを指す。
一ヨハネ5章は20節で「神の御子が来られ、私たちに真理である方を知る力を与えられました。私たちは真理である方の内に、またその御子イエス・キリストの内にいるのです」と記し、「この方こそ真理である神、永遠の命」と続け、御父と御子と聖霊(6節)の御三方を「真理」と呼び、唯一の神とする。
(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『御子に全て委ねられた』を140文字以内で」も参照のこと。
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