「信仰さえあれば、日頃の行いはともかく最終的には救われる」という類いの御都合主義的な信仰義認論を、主イエスはただの一度たりとも教えられたことがない。マタイ7章21節「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではなく、わたしの天の御父の御心を行う者だけが入る」。
(注)別エントリー「試論:『十分の一献金』なる虚構を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
主はマタイ福音書で「わたしが求めるのはあわれみであって犠牲(いけにえ)ではない」(ホセア6章6節)と繰り返されが、同節は「神を知ることであって焼き尽くす献(ささ)げ物ではない」と続く。「神を知る」を一ヨハネ2章3節は「神の掟(愛の掟。ヨハネ15章12節等)を守る」ことと説明する。
(注)別エントリー「試論:『神の御前で安心できる』を140文字以内で」も参照のこと。
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今、あなたの神、主があなたに求めておられることとは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてその全ての導きに従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸せになることではないか。(申命記10章12節〜13節)
ミカ6章8節「何が善であって、主が何をあなたたちに求めておられるかは、あなたたちには既に告げられている。それは神の義を行い、憐れみの業を愛し、へりくだり神と共に歩むこと」ホセア6章6節「わたしが求めるものは『いけにえ』ではなく憐れみであり、焼き尽くす献げ物ではなく神を知ること」。
マタイ22章14節の「選ばれる人」とは、神からの招きに忠実に応じて「神の掟を守り通す人」(黙示録12章17節)である。隣人に対して憐れみ深い人は自分も神の憐れみを受ける(マタイ5章7節)。一人一人が隣人に対して取るのと同じ態度を、神も一人一人に対して返される(ルカ6章38節等)。
主はマタイ7章26節で「わたしの言葉を聞くだけで行わない者は、砂の上に家を建てる人に似ている」と教えられた。22章14節「招かれる者は多いが選ばれる者は少ない」とは、「わたしの教えを耳にしたことのある者は多いが、それを真摯に受け止めて日々実践している者は少ない」という意味である。
黙示録7章9節は、「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆」が御父と御子を称える光景を記す。イザヤ56章1節は、正義を守り恵みの業を行う人々、すなわち、主が望まれることを選んだ(4節)人々に、救いと恵みの業が訪れることを預言する。
(注)別エントリー「試論:『合格者数と合否の基準』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『良きサマリア人』の教訓を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「悪意の放棄なしに永遠の命を得る道はない」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『着る』べき『礼服』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ17章3節で主は「永遠の命とは、唯一の真の神であるあなた(=天の御父)とあなたのお遣わしになったイエス・キリストとを知ること」と天を仰いで話されたが、関連して一ヨハネ2章3節では「知る」とは《神の掟を守るという経験を通して自分は神を知っているのだと自覚する》ことと説明する。
(注)別エントリー「試論:主イエスへの愛を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:神への愛を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神への愛と神からの愛』を140文字以内で」も参照のこと。
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