主はマタイ12章32節で、御自分の人間としての側面(ガリラヤ人、大工など)に関して同時代の人々からとやかく言われてもそれは看過すると仰せになったが、神としての側面に関して難癖をつける(悪霊を追い出した神の霊つまり聖霊を、ベルゼブル呼ばわりするなど)なら看過されないと仰せになった。
(注)別エントリー「試論:『聖霊に対する冒涜』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6715
(注)別エントリー「試論:『神が人となる』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7836
(注)別エントリー「試論:『人となられても神は神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6877
(注)別エントリー「神の子らは人の娘たちを」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1105