試論:「無原罪」とエフェソ1章を140文字以内で

【問】無原罪の聖母マリアの祭日にエフェソ1章が朗読される理由は?
【答】ルカ1章28節では非常に特別な恵みを表すギリシア語が用いられますが、エフェソ1章6節では信者全般に同じ語が用いられます。聖母の場合と異なり、あくまで洗礼時の一度限りですが全信者は非常に大きな恵みを受けています。

(注)別エントリー「試論:『聖寵充ち満てるマリア』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/8642

(注)別エントリー「試論:無原罪の御宿りを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4629

【追記】

受胎告知に際し聖母マリアは「恵まれた方」と挨拶されたが、二ペトロ1章は信仰における神からの恵み(2節)の内容を5節以下で記し、信仰に始まり徳・知識・自制・忍耐・信心・兄弟愛・愛に至るとして、恵みが加わるほど、「情欲に染まったこの世の退廃」(4節)や怠惰(8節)から遠くなると記す。

創世記3章15節で神は、サタンと決定的に対立する一人の女性が将来現れることを予告されたが、黙示録12章で、それは救い主の母となった女性のことだと啓示された。救い主は人々を罪や悪から救うために生まれるので、その母が存在の最初の瞬間から罪や悪とは完全に無縁であるべきなのは当然である。

(注)別エントリー「創世記3章15節:蛇の頭を踏み砕く者は誰か」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/1488

(注)別エントリー「『無原罪の御宿り』の意味するところとは」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/4382

【問】マリアは受胎告知の時から「無原罪」になったのだと考えてはいけませんか?
【答】「無原罪」とは【存在の初めから常に悪魔の感化つまり罪や悪の影響とは全く無縁である】(創世記3章15節、黙示録12章)という意味ですので、生涯のある時点から「無原罪」になるという発想は意味がないです。

(注)別エントリー「試論:無原罪の御宿りって何??を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/20779