洗礼者は「悔い改めにふさわしい実を結べ」と説いたが、キリスト信者にとって、それは「聖霊の結ぶ実」(ガラテヤ5章22節)に他ならない。なお洗礼者はキリストの洗礼を「聖霊と火による洗礼」と表現したが、この場合の「火」とは<主の御言葉>の比喩である(エレミヤ5章14節、23章29節)。
(注)別エントリー「試論:聖母の内面にあふれるものを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:主の御言葉こそ『火』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『聖霊と火』の『火』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:マタイ3章の二つの『火』を140文字以内で」も参照のこと。
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