ルカ1章35節以下では、マリアに聖霊が降臨され彼女が神の御独り子を身籠るという事柄が告知された。従って《聖霊の結ぶ実》(ガラテヤ5章22節以下)すなわち《愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制》がマリアの内面をあふれんばかりに満たしていることには、疑問の余地などない。
【追記】
新約聖書は聖霊の降臨と聖霊がもたらす色々の賜物について語る。しかし聖霊によって一人の女性が《人となられた神》を身籠ることは、空前絶後の出来事であった。本来は有限の存在であるはずの人間の女性が、無限の存在であるはずの神を宿された以上、神がその女性に授けられる賜物も、無限に違いない。
ルカ1章35節で聖霊がマリアに降臨することを表現するのと同じギリシア語で、使徒言行録1章8節は聖霊降臨を予告する。確かに五旬祭の日の聖霊降臨は「教会の誕生日」とも表現される偉大な出来事だった。しかしマリアへの聖霊降臨は神の御独り子を誕生させた。どちらが、より偉大な出来事だろうか?
(注)別エントリー「試論:『人となられても神は神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6877
(注)別エントリー「試論:『人の子』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6888
(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/5844
(注)別エントリー「試論:神であり人であるキリストを140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6725