この節で生まれつき目が見えなかった人は「神は罪人の言うことはお聞きにならないとわたしたちは承知している」と言った。罪人が良からぬ企みを実行する前に成功を神に願い求めても神が聞き入れるわけがない。ただし、罪人が罪人であることを止めて回心したいと神に願う時、神は喜んで聞き入れられる。
(注)別エントリー「キリストの福音は悪意の放棄を要請する」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/3277
【追記】
主イエスはルカ15章7節で「悔い改める必要のない九十九人の義人よりも、悔い改めている一人の罪人のことを天は大いに喜ぶ」と仰せになり、マタイ18章14節ではエゼキエル18章32節「わたしは誰の死も喜ばない」と同様に、天の御父は悪人の滅亡よりも悪人の回心を喜ばれることを再確認された。
(注)別エントリー「試論:『誰の死も喜ばれない神』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/18444