試論:主の弟子である「しるし」を140文字以内で

【問】主イエスのマルコ16章17節と18節の「しるし」に関する仰せの意味とは?
【答】一コリント12章から14章でパウロがその問いに答えており、「愛」こそ最高の道(12章21節)だと教えます。ヨハネ13章35節「互いに愛し合うならそれを見て皆はあなたたちがわたしの弟子だと認める」。

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを確実に識別できる基準」も参照のこと。
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【追記】

【問】パウロの答えがそうだとしても、でもやはり「しるし」を追求すべきではないでしょうか?
【答】使徒言行録8章で、使徒の中でも代表的な立場にあったペトロが、「しるし」ばかりを追求し続けた「魔術師シモン」を厳しく叱責しています。主イエスが実際に仰せになった御言葉を等閑にはできません。

(注)別エントリー「聖霊の働きか否かを識別する」も参照のこと。
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主イエスはマタイ7章21節以下で、信仰の目的とは、預言でも「悪霊を追い出すこと」でも奇跡でもなくただ「不法(悪)を行わないこと」であり、御自分が人々を評価するのは唯一そこであると断言された。預言や悪霊を追い出すことや奇跡にばかり目を奪われ過ぎるとイエス・キリストがわからなくなる。

(注)別エントリー「試論:『地上に火を投ずる』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『言(ことば)』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ1章は主を「言(ことば)」すなわち「神の御言葉」と表現した。これは「〔神の〕小羊」と同様に主イエスの特徴を表す称号で「御自分でお話しになる神」を意味する。神は御姿を人々にお見せにならず天使や預言者を介してお話しになると考えられていたが、主は直接人々に御言葉をお教えになった。

(注)別エントリー「試論:『福音書を読まないこと』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ1章1節を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:神であり人であるキリストを140文字以内で」も参照のこと。
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箴言8章13節は「主を畏れることは、悪を憎むこと」と記し「主を畏れる」を明確に定義した。同14章2節は「主を畏れる」を「主を侮る」と対置し、同章16節は「知恵ある人は主を畏れて悪を避けるが愚か者は高慢で自分を過信する」と記す。マタイ福音書で「愚かな」は聞いても実行しない人を指す。

(注)別エントリー「試論:聞くだけの人を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:砂の上の家を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『主よ、主よ』を140文字以内で」も参照のこと。
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