主イエスはヨハネ5章39節で「〔旧約〕聖書とは、わたしについて証しをするものだ」と仰せになった。旧約聖書の中でも、救い主が目の見えない人の視力を回復させる(イザヤ29章18等)という特徴的な事柄に顕著である通り、主イエスの生涯を最も詳細に「証しをする」のは、恐らくイザヤ書である。
(注)別エントリー「試論:『時代のしるし』を140文字以内で」も参照のこと。
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【追記】
主イエスはパンを増やし五千人の群衆に食べ物を与えるという奇跡を行われた。類似の奇跡は列王下4章42節以下で「神の人」預言者エリシャも行っていた。主イエスの神の御独り子たる本領は「生まれつき目が見えなかった人の視力を回復させた」(ヨハネ9章32節、イザヤ35章5節)時に発揮された。
(注)別エントリー「試論:『救い主の識別』を140文字以内で」も参照のこと。
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「主の奉献」の際、ルカ2章32節でシメオンは幼子イエスを「異邦人を照らす〔啓示の〕光」と呼んだ。これはイザヤ42章の「主の僕(しもべ)」預言の「諸国の光」(6節)に対応するが、到来の徴は「目の見えない人の視力の回復」(7節)であることを、イザヤは35章の「救い主」同様に預言した。
(注)別エントリー「救いの創始者(ヘブライ2章10節)」も参照のこと。
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主はルカ4章でイザヤの預言についてお話しされた。しかしルカ4章18節にある「視力の回復」は出典と考えられるイザヤ61章1節に存在しないのではないか(あるのは「束縛からの解放」)と、古くから度々問題視された。ただしイザヤ42章7節は「視力の回復」と「束縛からの解放」を同一に論じる。
(注)別エントリー「試論:『捕らわれ人に解放を』?を140文字以内で」も参照のこと。
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