ルカ2章11節は「あなたたちのために救い主がお生まれになった」マタイ1章21節は「この子は自分の民を罪から救う」と記す。イザヤ35節4節以下は「敵(サタン)を撃ち悪を罰する神が来られ、あなたたちを救われる」と預言し、目や耳や足や言葉の不自由な人々の回復が神の到来の徴になると続く。
(注)別エントリー「試論:『超自然的な御降誕』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「聖書にはクリスマスの日付が載っていますか???」も参照のこと。
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【追記】
ヨハネ1章は主イエス・キリストを「言(ことば)」「命」「人間を照らす光」等と象徴的に表現したが、その光は人々が心に秘めた悪意(レビ19章17節)を、容赦なく明るみに出す(マタイ9章4節、同12章25節)。神は罰するべき者は罰せられた(出エジプト記34章7節、民数記12章10節)。
(注)別エントリー「民数記12章3節:モーセの人となり」も参照のこと。
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(注)別エントリー「レビ記19章17節:理由のない悪意」も参照のこと。
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サムエル下5章8節の故事に従い、エルサレム神殿は目や足の不自由な人々が入ることを制限していた。しかし主イエスは「人間の言い伝え」(マルコ7章)に関係なく、神殿で目や足の不自由な人々に癒しの奇跡を行われた(マタイ21章14節)。これらの人々はルカ14章21節でも同様に招かれている。
(注)別エントリー「聖書における『いやし』をどう解釈するか」も参照のこと。
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マタイ21章14節には主が神殿の境内で目や足の不自由な人々をいやされたとあるが、サムエル下5章8節の故事により目や足の不自由な人々は神殿に入ることを禁じられていた。神殿の人々は目や足の不自由な人々に警告を発したはずだが、主による癒しが瞬時だったためか、神殿側もなすすべがなかった。
ダビデの故事(サムエル下5章8節)によりエルサレム神殿では目や足の不自由な人々の立ち入りが制限されていた。それに対して主は、あえて神殿に目や足の不自由な人々を招き入れて奇跡的な治癒を行われ(マタイ21章14節以下)それをもって「祈りの家」(同13節)のあるべき姿をお示しになった。