【問】「わたしは決して信じない」とは「一ミリたりとも信じない」「絶対に信じない」「わたしの信仰はゼロ」などの意味ですか。
【答】もしそうならトマスは他の弟子たちに別れを告げていたはずです。「決して信じない」とは「わたしは他の弟子たちのような納得には、どうしたって到達できない」です。
ヨハネ20章25節は、指や手を釘跡や脇腹に入れてみなければ自分は決して信じないとトマスが言ったと記す。この場合「信じる」は《確信を持つ》の意味合いである。ヘブライ人にとって信仰とは《確信》であり、どっちつかずの心理状態や言行不一致の状態は「信じる」「信仰」のうちには入らなかった。
(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書の『信じる』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ福音書は「永遠の命」「信じる」を多用する。ただし「何をすれば永遠の命を得られるか」の具体例はマタイ25章「最後の審判」とルカ10章「善きサマリア人の話」の箇所にあり、ルカ10章27節で主イエスは、「信じる」こととは「心・精神・力・思いを尽くし愛する」ことだとお教えになった。
(注)別エントリー「善きサマリア人:律法の専門家が質問した動機とは」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:永遠の命を得るためには?を140文字以内で」も参照のこと。
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古代のヘブライ人は神と神の民との関係を「花婿と花嫁」に喩えた。信仰を夫婦間の愛情に喩えたわけである。夫婦間に「わたしはあなたに60%の愛情を捧げるけれど、別の人にも40%の愛情を捧げる」はあり得ない。従って聖書の中の《信仰》とは、「100%の愛情」つまり疑う余地のない確信である。
(注)別エントリー「試論:『主イエスこそ真の花婿』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「神に対する確信を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『わたしたちの確信』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「『からし種一粒ほどの信仰』???」も参照のこと。
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詩編12(11)編においてダビデは、隣人に嘘をついたり隣人を早口で欺いたり言行不一致状態だったりする人々ばかりの風潮を、「信仰のある人は消え去りました」(12編2節、新共同訳)と表す。ここで「信仰」と訳されるヘブライ語を、古代のギリシア語訳聖書はアレテイア(真理、まこと)と訳す。
(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ福音書は「信仰」を表現する際、他の福音書が用いるピスティスという語を用いず代わりにアレテイア(真理、まこと)という語を多用する。ヨハネにとって信仰とは、人の真心に対し真心で応じられる神なる主に向かって嘘偽りや裏表のない態度で接することに他ならず、これは当時の共通認識だった。
(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書のアレテイアを140文字以内で」も参照のこと。
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主イエスはヨハネ14章6節で「真理」を自称されたが、プロテスタントの「改訳 新約聖書』(1917年)は「まこと」と平仮名を振り、旧約聖書で「まこと」と訳される語との関連を示唆する。嘘偽りや裏表がないこと、上っ面だけでなく内実を伴うこと、真心には真心で返されること等を意味している。
(注)別エントリー「試論:まこと(真、実、信、誠)を140文字以内で」も参照のこと。
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プロテスタントの『改訳 新約聖書』(1917年)はヨハネ14章6節の「真理」に「まこと」と平仮名を振った。旧約聖書で「まこと」と日本語訳されるヘブライ語に対応するからだが、このヘブライ語は「真」「実」「信」「誠」のニュアンスを全て含むため通例、平仮名で「まこと」と日本語訳される。
(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
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【問】主イエスはマタイ9章(マルコ2章、ルカ5章)で手足が麻痺した人を治癒させられましたが、その目的は何?
【答】第一義的には、御自分が、イザヤ35章3節で預言された「手足が麻痺した人のいやし」を「しるし」とする救い主であることを、当時のユダヤ世界の人々に広く知らしめるためでした。
(注)別エントリー「試論:マタイ9章3節の『冒瀆』を140文字以内で」も参照のこと。
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【問】「イエスはその人たちの信仰を見て」の「信仰」って何?
【答】イエスこそ手足の麻痺した人をいやして下さるに違いないという「ただ信じて少しも疑おうとしないこと」「強い信頼」「固い確信」です。詩編12編の通り古代のヘブライの「信仰」とは嘘偽りや言行不一致や面従腹背と全く無縁でした。