試論:「完全になりなさい」??を140文字以内で

【問】二コリント13章11節は完全な者になれと説きます。自分は出来ることが限られる取るに足らぬ人間なのに、どうして完全になれますか?
【答】ギリシア語本文では漁師たちの召命の際の「網の手入れ」と同じ語を用いています。いざという時に最善を尽くせるよう心の準備をしなさいという意味です。

(注)別エントリー「『完全』とは??」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/17715

【追記】

マタイ5章48節で主は、天の御父が完全であられるように各自も完全な者となるよう勧められたが、憐れみ深さという点で「完全」を目指すべきことがルカ6章36節では説明されている。さらに同40節の後半で、福音の教えに従って自分自身を矯正し続ける者は「完全」まで到達できると主は確約された。

(注)別エントリー「試論:『わたしの荷は軽い』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6870

主イエスはルカ6章40節でどうすれば弟子は師のようになれるか教えられた。ギリシア語本文の動詞はマルコ1章19節「〔網の〕手入れをする」と同じで「破れがないか全体を確認し、あれば修繕し、付着物を念入りに除去し、十分に洗い、現場で使い物になる完全な状態まで仕上げる」という意味である。

主はルカ6章40節で「弟子は先生より優れた者でないにせよ、普段から十分に心の準備を整えていれば、その先生のようになれる」と仰せになった。この箇所は内容的には36節の「あなたたちの天の御父が憐れみ深い方であられるように、あなたたちもまた、憐れみ深い者になりなさい」に結び付いている。

(注)別エントリー「試論:『憐れみ深い人』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/10347

(注)別エントリー「試論:『憐れみ深い人、ヨセフ』を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/6057

主はマタイ18章3節で、心を入れ替えて幼子のようになるように強く弟子たちへお命じになり、他方5章48節では、天の御父と同様に、皆も「完全」となるように主はお勧めになった。古代のギリシア語創世記では「完全」というこのギリシア語が、6章9節においてヘブライ語の「無垢」に対応している。

(注)別エントリー「試論:マタイ5章8節を140文字以内で」も参照のこと。
http://josephology.me/app-def/S-102/wordpress/archives/7254