主のヨハネ16章21節の仰せ「自分の時」は、12章27節「わたしはまさに、この時のために来た」同31節「今こそこの世の支配者(=悪魔)が追放され世が裁かれる時」を指す。ヘブライ2章14節「御自分の死によって悪魔を滅ぼし、」ローマ8章2節「罪と死との法則から世の人々を自由にした」。
主はヨハネ16章21節で、御自分の十字架上の苦しみを女性の産みの苦しみと重ねられた。出産により母が子の誕生をもたらすように、十字架上の苦しみと御自分の死そして御復活の結果として悪魔の罪と死による支配を終わらせ、人類に永遠の命と「復活の体(天上の体、霊の体)」を授与するからである。
主イエスはヨハネ16章21節で御自身の受難と復活の理由を女性の出産に喩えられ、イザヤ65章17節以下で預言された《新しい天・地・エルサレム》の創造のためだと、暗示された。同66章8節「誰がこのようなことを見聞きしただろうか。一つの国が一日で生まれ、一つの民が一度に生まれようか」。
(注)別エントリー「主の御復活とともに創造された事柄とは」も参照のこと。
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ヨハネ12章27節「わたしはまさにこの時(=御自身がゴルゴタにおいて十字架上に『上げられる<高い所に掲げられて顕示される>』御受難の時)のために来た」マタイ20章28節、マルコ10章45節「人の子は、多くの人々の身代金(=あがない)として、自分の命を献(ささ)げるために、来た」。
(注)別エントリー「試論:『上げられる』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ8章34節「罪を犯す者は、罪の奴隷」12章31節「今、この世の支配者が追放される」ヘブライ2章14節〜15節「御自分に委ねられた者たちが人間である以上イエスも同じく人間としての全てを担われたが、死を司る悪魔を御自分の死によって滅ぼし悪魔の罪と死の支配から人々を解放された」。
(注)別エントリー「試論:贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:真理と贖(あがな)いを140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『自分の命を憎む人』??を140文字以内で」も参照のこと。
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主はヨハネ12章24節で「一粒の麦もし死なずば」の一節の前に、ギリシア語本文では二度「アーメン」と口にされた。通常この箇所は「まことにまことに」「よくよく」「はっきり」等と訳されるが、主はこうなさることで、そこが御教えの核心部分だと示された(31節及びコロサイ1章20節等参照)。
主はヨハネ8章32節で「真理はあなたたちを自由にする(解放する)」と仰せになった。パウロはヨハネと同じギリシア語を用いて何からの解放か、その答えをローマ6章と同8章で説明した。「罪から解放」(6章18節、22節)、8章2節「罪と死の法則から解放」同21節「滅びへの隷属から解放」。
(注)別エントリー「試論:『まこと(=真理)の神』を140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ1章14節は「神の御言葉(=主イエス)は肉(=人)となられ、わたしたちの間に宿られた(=住まわれた)」と記す。マタイ20章28節では主御自身が「仕えられるためではなく仕えるため」「多くの人の身代金(=あがない)として自分の命を献(ささ)げるために来た」と仰せになられている。
(注)別エントリー「試論:『神の御言葉』を140文字以内で」も参照のこと。
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主はヨハネ14章27節で「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と仰せになった。ではどうやって主は御自分の平和をお与えになったのか、パウロがコロサイ1章20節で「その十字架の血によって」と答えを記した。
ローマ8章6節の直訳は「肉の思いは死、霊の思いは命と平和」。ヘブライ人は人間由来の事柄を「肉」、神に由来する事柄を「霊」と呼び、あらゆる幸福を「命」あるいは「平和」と総称した。この節は「人間由来の願望は死で終わるが、神に由来する願望は人間をあらゆる幸福へと導く」という意味である。
古代のヘブライ人にとって「平和」はあらゆる幸福の総称であり、「あなたに平和」はヘブライ人の挨拶の決まり文句だった。ルカ10章5節「この家に平和があるように」は、より長い形の挨拶(サムエル上25章6節)である。ヘブライ人は「平和に属する者」を言い表したい時に「平和の子」と表現した。
(注)別エントリー「神の子らは人の娘たちを【再投稿】」も参照のこと。
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主イエスはルカ10章で、御自分の教えを受け容れることになる人々を「平和の子」とお呼びになった。イザヤ9章5(6)節ではメシアの称号の一つを「平和の君」と啓示し、またパウロはフィリピ4章9節で自分たちの神を「平和の神」と呼ぶが、ヘブライ人にとって「平和」は全ての幸福の総称でもある。
パウロは主イエスを何度も「平和の神」と呼んだ(一コリント14章33節、フィリピ4章9節、一テサロニケ5章23節等)。これはイザヤ9章5(6)節が、人間の「みどりご」として世に来られた神の御独り子を「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼んで預言したことを踏まえている。
ルカ10章6節「平和の子がそこにいるなら、あなたたちの願う平和は、その人にとどまる」と、マタイ10章13節「家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる」を比べると、「平和の子」とは、「平和〔の神の御教え〕を受け入れるにふさわしい人」だと分かる。
マタイ5章9節「平和を実現する人」の「平和」とは、福音書の時代の人々にとっては単に戦争のない(終わった)状態を意味する以外に個々の健康や幸福・繁栄、人間関係の協調・一致や発展、社会や国家の安寧、暴動や反乱のない状態、心の(霊的な)安定など、物事が好転している状況の総称でもあった。
(注)別エントリー「試論:『柔和な人は幸いである』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:『心の清い人は神を見る』を140文字以内で」も参照のこと。
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