「なぜダビデの子なのか」

主イエスはマルコ12章37節で「ダビデが〔詩編の中で〕メシアを主と呼んだのにメシアはなぜダビデの子(子孫)なのか」と問われた。大昔、ダビデの子孫から王権が離れることはないと預言された(サムエル下7章16節)ため、古代のユダヤ人は当然メシアもダビデの子孫の中から出るものと想定した。

(注)別エントリー「試論:『エリコのバルティマイ』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「聖書にはクリスマスの日付が載っていますか???」も参照のこと。
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当然イエスの敵たちも「ダビデがメシアを主と呼んだのにメシアはなぜダビデの子なのか」という問いの答えは知っていた。しかしここであえて口を挟むと、「では実際にメシアとは誰のことだと思うのか」が次の問いになった時、群衆を恐れていた彼らが答えに窮するのは明白だった。そこで彼らは沈黙した。

【問】マルコ11章32節で、主イエスの敵たちが群衆を恐れた理由は?
【答】ルカ20章6節の通り、軽々しくイエスを攻撃することで逆に民衆から冒涜者扱いされて石で殺される事態を誘発しかねないからです。ヨハネ11章17節以下「ラザロの復活に立ち会っていた群衆は、その証しをしていた。〜」。

【問】群衆を恐れていたイエスの敵たちは、目的を達成するためにどうしましたか?
【答】ローマ総督ピラトを巻き込みピラトとローマ人がイエスを裁くという形に持ち込みました。そして群衆が寝静まっている夜更けを狙いイエスを急襲して逮捕し、朝が来るとすぐイエスの身柄を、ピラトに引き渡しました。

《御父である神、主》と《御子である神、主イエス》とは、詩編110編1節では御父は「主」、御子は「わが主」でありマタイ22章44節も御父は「主」、御子はダビデの言う「わたしの主」である。ルカ1章43節でエリサベトは詩編110編1節を踏まえ、マリアを「わたしの主のお母さま」と呼んだ。

(注)別エントリー「試論:『神の母であること』を140文字以内で」も参照のこと。
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聖母は「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)となられた方ながら、「わたしは主のはしため」(38節)と自称されたが、ペトロとヤコブは「神はへりくだる人に恵みをお与えになる」と書いた。「神の御独り子の母」となられた女性のへりくだりと恵み(ルカ1章28節)とは、いかばかりだろうか?

(注)別エントリー「試論:初代教会と箴言を140文字以内で」も参照のこと。
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聖母マリアは「わたしの主のお母さま」(ルカ1章43節)となられた方でありながら、「わたしは主のはしため」(38節)と自称されるほど高慢心のかけらもない謙遜そのものの方であった。従って、高慢心との訣別こそが「聖母マリアへの真の信心」へと踏み出す最初の一歩であるのは、至極当然である。

(注)別エントリー「試論:『救い主の母であること』を140文字以内で」も参照のこと。
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