「からし種一粒ほどの信仰」???

主イエスはマタイ5章37節で「はい」なら「はい」、「いいえ」なら「いいえ」と言いなさい、と仰せになり、神に対する愛情つまり信仰心は「ある」と「ない」の二種類に分類され、その中間は基本的にあり得ないと示唆された。「100%の愛情」を持つ一人は、「80%の愛情」を持つ一万人にも勝る。

詩編12(11)編においてダビデは、隣人に嘘をついたり隣人を早口で欺いたり言行不一致状態だったりする人々ばかりの風潮を、「信仰のある人は消え去りました」(12編2節、新共同訳)と表す。ここで「信仰」と訳されるヘブライ語を、古代のギリシア語訳聖書はアレテイア(真理、まこと)と訳す。

(注)別エントリー「試論:『真理とは何か』への答えを140文字以内で」も参照のこと。
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ヨハネ福音書は「信仰」を表現する際、他の福音書が用いるピスティスという語を用いず代わりにアレテイア(真理、まこと)という語を多用する。ヨハネにとって信仰とは、人の真心に対し真心で応じられる神なる主に向かって嘘偽りや裏表のない態度で接することに他ならず、これは当時の共通認識だった。

(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書のアレテイアを140文字以内で」も参照のこと。
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申命記6章5節は「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛さなければならない」と命じる。「100%の愛情」というのは理想的な状態であり、現実にはなかなか難しいものだが、そこにできるだけ限りなく近付けるよう皆は日々弛まぬ努力をしなさいと、神は命じられた。

(注)別エントリー「試論:『アーメン』と『まこと』を140文字以内で」も参照のこと。
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旧新約聖書では神や救い主と信者の関係は「花婿と花嫁」「夫と妻」に喩えられた。つまり信仰心は夫婦間の愛情に喩えられたが、その理由は「100%の愛情」でなければならないからである。夫婦間で「自分はあなたに60%の愛情を捧げるけれど、別の誰かにも40%の愛情を捧げる」と言えるだろうか?

(注)別エントリー「試論;『信仰心と夫婦間の愛情』を140文字以内で」も参照のこと。
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古代のイスラエルでは、婚礼の時に上質の酒を提供するのは花婿の責任と考えられていた(ヨハネ2章9節以下)。一方、当時は「神」と「神の民」の関係を《花婿》と《花嫁》の関係にたとえていた(イザヤ62章5節)。カナでのぶどう酒の奇跡で、主は御自分こそが真の《花婿》であるとほのめかされた。

ローマ5章1節は「わたしたちは信仰によって義とされた」と記す。詩編12編でダビデは、隣人に嘘をついたり隣人を早口で欺いたり言行不一致状態 だったりする人々ばかりの風潮を、「信仰のある人は消え去りました」(2節。新共同訳)と表現し、悪を行う人の中に信仰の存在など断じて認めてはいない。

ヘブライ11章4節は「信仰によってアベルはカインより優れたいけにえを献げ、神が彼の献げ物を認められることによって彼は義人と証明された」と記す。ヘブライ人にとって信仰とは「まこと(真、実、信、誠)」に基づいたものであるべきで、この節の「信仰」とは、真心(まごころ)と同じ意味である。

(注)別エントリー「試論:詩編12編の『信仰』を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「『真理(まこと)の神』」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:まこと(真、実、信、誠)を140文字以内で」も参照のこと。
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(注)別エントリー「試論:ヨハネ福音書の『信じる』を140文字以内で」も参照のこと。
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